まよなかのわたし
まよなかのわたしが、揺り起こしたもの。目にはみえない、とうめいで、けれど、りんかくのあるもの。迷い、というのはとつぜん、ふいに、心のなかに刺し込んできて、中身を傷つけないように、神の手を持つ外科医のように、ていねいに、そっと、違和感などあたえず、気づかないうちに侵入して、確固たる部分をやわらかくしてゆく。やわやわと、脆くなったそこは、とても些細な切っ先が触れただけでも、あふれてしまう。確かに固まっていたもの。笑っちゃうほどに、あっけなく、液体となって、こぼれる。指のすきまからも。
きのう観たテレビ、わたしはあのとき、一瞬だけ、この世界から爪弾きにされた気分だった。
みんな知っていてあたりまえ、みたいな表情で、投げかけてくる話題が、わたしにはみえない魔球だった。まったく捕れないし、打てない。
でも、べつに、どうでもよくって、ああ、世の中ってそういうもので、そこについていけないわたしがいるだけなのだと、いままで生きてきたなかでも感じていた、ちいさなズレを思い起こして、ひとり吹っ切れたようにテレビを消した。わたしは、じぶん、を偽ってまで、流行りに乗っかるつもりはないし、以前も書いたけれど、まるで興味がないことには見向きもしない、好きなものだけを追いかけていたいひとだ。
それでいい。それでいいのに、感情とは、ときにわたしのあずかり知らぬところで、勝手に、迷い、などというものに侵され、はげしく波打つ。一直線、フラット、穏やかに、凪ぐことを、ゆるさない。にんげんだから、泣いたり、笑ったり、怒ったり、泣いたり、喜んだり、苦しんだり、悩んだり、迷ったりして、いいのに。わたしは、たまに、その、にんげんらしさ、ってやつを、わずらわしい、などと思ってしまう。わたし以外のにんげんは、いいのに、むしろ、わたし以外のにんげんの、にんげんらしさは、愛しく感じることもあるのに、じぶんのこととなると、どうにも、こうにも。
昨年からの、長い、長い、じぶんさがし、みたいな行為。
ただ、こういうのってあんがい、あっさりと答えを見いだせたりするもので、それも、ひどく単純な方法で。きょう、いつもどおりに仕事をして、ごはんをたべて、本を読んで、だれかと話して、を、しているあいだに、なんだかこう、ずっとおなかのそこにへばりついていたものが、すっといなくなった気がしたのだ。ふしぎと。どうしたってはがせなかったシールが、いともかんたんにぺりぺりとはがせてしまったときのような、心持ちで、わたしは、いま、この文章を打っている。そして、けれども、またいつか、迷いはわたしのなかに、嵐を巻き起こしちゃったりするのだろうと、予感しながら。
どうにかそのときまでに、揺れない船をつくろうと思う。
まよなかのわたし