扉のない中庭

扉のない中庭

サラサフロラ 作

I will give my love an apple without e'er a core,
I will give my love a house without e'er a door,
I will give my love a palace wherein she may be,
And she may unlock it without any key.

My head is the apple without e'er a core,
My mind is the house without e'er a door.
My heart is the palace wherein she may be,
And she may unlock it without any key.

——英国の古い歌

干しわらになった王子さま

干しわらになった王子さま

一 はじまり

 むかしむかし、深い山あいの水鳥たちだけが知る美しい(みずうみ)のそばに、ひっそりとそびえるお城がありました。まわりの国から知られず、兵士や従者(じゅうしゃ)もいない名もなき小国は、いつも手をつないで歩く、(なか)むつまじい王さまと王妃(おうひ)さまがおさめ、それはそれは(やさ)しく、民から父母のように(した)われ、みんな楽しく()らしていました。
 王さまと王妃さまには小麦色の(かみ)に青い(ひとみ)の元気な男の子がひとりおりまして、王子さまはまいにち、町の子どもたちと一緒(いっしょ)に山をかけまわったり、湖でおよいだりして遊ぶのでした。

二 王さまのなぞかけ

 ()れたある日の朝。王子さまはヒヨドリのさえずりでぱっちり目をさますと、寝床(ねどこ)からとび起きて顔を洗い、パンをほおばりスープをかきこみます。イスをひいて食堂(しょくどう)を飛びだそうとするやいなや、父から執務室(しつむしつ)にくるよう呼びとめられてしまいました。
「ちぇっ」王子さまは舌打(したう)ちをして、「父上のようじをさっさとすませて川で葉っぱ流しをしよう。きのうはヘレムの葉っぱがいちばんだったけど、夜にとっておきの舟を思いついたんだ。きょうこそ勝ってやる」と、はやる気もちをおさえ、いそぎ足でむかいました。
 湖を一望(いちぼう)できる回廊(かいろう)をぬけ、黒ぬりの大きな扉で立ち止まると、かるくせきばらいをしてからコンコンたたき、「王よ、まいりました」。このときだけは父ではなく王だとわきまえておりますので、背すじをピンとのばし、すこしばかり落ちついた声です。
「はいりなさい」
 王さまの呼びかけに応じて王子さまは肩をそびやかし、部屋に入りました。
 しけた紙のにおいのする執務室は、いかにもむずかしそうな本が本棚(ほんだな)にずらりとならべられ、レリーフのほどこされた大きなつくえの上に山とつまれた本は今にもくずれ落ちそうなほどです。
 王子さまはすきまからあちらをのぞくと、王さまは考え(ぶか)げなようすで手紙をしたためています。
——ほかの国と交流(こうりゅう)はなく、国にあるたったひとつの門をくぐるものすらほとんどいないのに、いったいどこのだれにあてているのだろう——王子さまはふしぎに思いました。
「おまえを呼んだのは」と、王さまは()ペンをつくえにおきます。「息子よ。おまえに探してきてほしいものがある」
 勇猛(ゆうもう)威厳(いげん)あるライオンのような低い声、先を見通すワシのようにするどいまなざし。王子さまはそんな父が大好きでした。なにより父のような王になりたいと願っていたのです。
「王よ、わたくしになにを探せというのでしょうか」
「うむ。それは、『(しん)のないりんご』『扉のない家』『(かぎ)のいらない宮殿(きゅうでん)』を」
 王子さまはすこし考えてから、いぶかしげにたずねました。
「わたくしをためすなぞなぞですか?」
「そのようにとってかまわぬ。おまえが山あいの国王としてほんとうにふさわしいのか」
 王さまの言葉に王子さまの心はふるえます。
——父はわたしを将来(しょうらい)の王として見てくださっていたのか。子どもではなく、りっぱなおとなとして父のきたいにこたえ、民の希望とならねば。
「わが王よ。あなたの目にかなうものをかならずやお見せいたしましょう!」
「おお、よくいってくれた。ではさっそく明日の朝、出発するように」
「おおせのままに!」
 王子さまは目をかがやかせ、自信たっぷりにそうこたえると、部屋からでていきました。
 いまやもう友だちと遊ぶことなどすっかりわすれて、父からあたえられた試練(しれん)をのりこえるため、すぐに出立(しゅったつ)準備(じゅんび)をはじめます。そんな王子さまの背中をながめる王さまと王妃さまは後悔(こうかい)したような、さびしい顔をするのでした。
 つぎの朝。雲ひとつない空のもと、王子さまはたくさんの食りょうと水をつめた大きな布袋を荷鞍(にぐら)にのせて白馬にまたがると正門をくぐり、国の外へと旅立ちました。母からはなにかあった時のためにと、赤い宝石つきの金の指輪を首かざりに、父からはひとふりの青い剣を(こし)に。
「希望をもって国をあとにし、栄光をもってむかえられよう」
威勢(いせい)のよい声をあげ、王子さまの長い旅がはじまりました。

三 王子さまの旅路(たびじ)

 山あいの国をたち、田舎(いなか)の村からはじまり、街にでてやがて大都市へ。国の外を知らない王子さまにとって、目にうつるすべてのものは新しく、たくさんのことを知りました。世界は広く、故郷(こきょう)はちっぽけなこと。歓待(かんたい)される時もあれば、うとまれる時だってある。美しい景色(けしき)目頭(めがしら)を熱くし、みにくい光景(こうけい)に顔をそむける。どしゃぶりの雨に打たれ、ふきつけるつめたい風に体をガタガタふるわせ、なにより、ひとりがどれだけつらいか。洞穴(どうけつ)に身を横たえ、広がる紫紺(しこん)の地平線をながめ、ちらばる星くずの夜空に祖国(そこく)への思いを()せました。
「わたしを知るのは旅をともにする白馬(はくば)だけ」
 長い旅の()て、もの知りが住むという話を聞き、荒野(こうや)にむかいました。そこは()の光でまっ()()まることから血の荒野(こうや)()ばれ、何百年もまえに興亡(こうぼう)し、人々からわすれられた都市の廃墟(はいきょ)がありました。
 遠くに立ちのぼる、ひとすじの白煙(はくえん)を見つけた王子さまは馬をおりてちかづきます。「はじめまして」と、たき火のまえで腰をおろす、ボロをまとった老人(ろうじん)に話しかけました。
「わたしは遠くの地からやってきた旅人です。あなたの深い智恵(ちえ)についてうわさを聞いております」
 老人はうつむいたまま少年など目もくれず、パチパチとはぜる火に木ぎれをくべます。
「あなたにうかがいたいのです。それは……」
「ここからさらに東……」と、老人は王子さまの言葉をさえぎります。「金色の小麦畑にある白い壁、黒い屋根(やね)風車(ふうしゃ)に知りたいものはあるだろう」
「なぜ、わたしが話すまえにすべてわかるのですか」
「風はどこからふくのか、だれが知りえよう。ただ行くべき先にのみ目をむけよ」
 王子さまは老人に感謝(かんしゃ)をつげ、残りの金と食べ物や水をわたし、こう言いました。
「旅の成功に、どうかあなたの秘密(ひみつ)についておしえていただきたい」
「さて、おまえにできるかな」老人はニヤリと笑いました。
 東にむかって馬を()り、しばらくして見わたすかぎり金色の小麦畑に、ぽつりとたつ風車(ふうしゃ)が見えました。老人の言葉のとおり、白い壁に黒い屋根です。まちがいありません、ついに目的地にたどりつき、試練(しれん)の旅はむくわれたのです。
 王子さまの(むね)高鳴(たかな)りました。そう、たしかにこの時までは。

四 東の風車(ふうしゃ)

 ゆっくりとまわる大きな羽根(はね)のぶきみな姿におののきながら、王子さまは馬をおき、風車(ふうしゃ)の中へ入りました。
ゴオンゴオン……ギギギギー。部屋中、きしむ音やたたく音はやかましく聞こえますが、人の姿はありません。
「老人はこの風車(ふうしゃ)について(かた)ったのだろうか」
 王子さまはしんぱいそうに室内をあちこち探し、やがて地下につづく階段を見つけます。階段をおりて閉じられた木(とびら)につきあたり、はずれかけのくすんだ金の把手(とって)に手をかけました。蝶番(ちょうばん)はこすれたにぶい音を()らして開き、うす暗い部屋へゆっくりと慎重(しんちょう)に進みます。
「ここはなんだろう。(むぎ)備蓄(びちく)する納屋(なや)、あるいは倉庫か……」
 ほこりのまうカビくさい部屋を見まわしていると、ばたん! 背後(はいご)のたたきつけるような音に、なにごとかと思わずふり返ります。
 はたといそぎもどりノブに手をかけ、ぐいぐい押したり引いたりしますが、扉はビクともしません。
「だれかむこうから(かぎ)をかけたのか? いや、風でしまり(じょう)はひとりでに……そんなはずは」
 ただならぬ空気を(はだ)で感じた直後(ちょくご)()強烈(きょうれつ)気配(けはい)自然(しぜん)と右手は(こし)にさがる剣にふれ、すばやく見返ります。
「だれだ? いるのはわかっている」
 しんとした部屋に、ひゅうとかわいた風の音。うっすら灯火(ともしび)はあらわれ、王子さまは呼吸をととのえてから、そろりそろりと進みました。すると灯火(ともしび)は奥にむかって、(じゅん)(とも)ります。
——いったい何者が?——そう疑問(ぎもん)に思うやいなや部屋全体はぱっとあかるく()らされます。風車(ふうしゃ)の地下納屋は一転して、てんじょうは高く、中央に石づくりのりっぱな()をかまえる壮麗(そうれい)な王の()にかわっているではありませんか!
 立ちつくす王子さまはおどろきと不安を感じながらも、けっしておもてにだしません。どんな時でも静かな威厳(いげん)をたもつよう父からおしえられていたからです。
「わたしは遠い地から王の(めい)によりつかわされたものである。あなたに聞きたい!」
 はりあげた王子さまの声は部屋中にこだまします。
「……なにも……わかっていない……」
 ひやりとつめたい風のような男の声。王子さまは形なき姿をとらえようと、するどい眼光(がんこう)周囲(しゅうい)を見ます。
「どこにいるのか!」
「おまえはなにも見えていない。西の国のちいさな王子」
 さっきよりもはっきりとした声はあたりにひびきます。
「なぜ、わたしが見えていないというのか?」
 だれもいない部屋の中央にある()はスポットライトのようにパッと照らされ、王子さまは目をおおいます。
「なぜならおまえの父は……」
 王座にはいつのまにか、金のかんむりをかぶる人のかたちをした黒い(かげ)のようなものが、ふてぶてしく(うで)をくみ、胡坐(こざ)をかいて王子さまを見おろしていました。
「おまえが邪魔(じゃま)で、早く国から追いだしたかったからだ。できるだけ遠くにな」
 王子さまはいらだち、おうへいな黒い影をにらみつけます。そんな王子さまを知ってか、影はあざ笑うように話しをつづけました。
「おまえは今ごろ国中の笑い者だ。なにも知らず放浪(ほうろう)している、わらのように中身のないスカスカな王子だと」
(うそ)をつくな。父と民はわたしを愛している。わたしをおとしめようというのか」
 影は下品な高笑いをして、こう言います。
「ああ、(うたが)いを知らない、なんとあわれでおろかな()しわらの王子! おまえをおとしめてなんになる? むしろ真実をあたえようというのに」
——こんな影になにがわかるのだ——憤然(ふんぜん)とした王子さまはだまってしまいます。
「いいかよく聞け、()しわらの王子。この世はなによりもまず猜疑(さいぎ)であり、史実(しじつ)下卑(げび)でこうかつな支配のくり返しだ」
 風の流れをよみとる船乗りのように、感情のゆらぎを冷静(れいせい)につかむ影は、ここぞとばかりに王子さまの耳をなで、軽妙(けいみょう)疑心(ぎしん)で王子さまを攻撃(こうげき)します。感じたことのない悪寒(おかん)、聞こえてくる人々からのクスクスという笑い声——王はわたしをほんとうに(みと)めてくださっていたのだろうか。もしやあいつの言うとおり……そんなまさか。
「おまえは故郷(くに)をでたとき、だれからも見送られぬことをおかしいと思わなかったのか?」
「それは……」王子さまは視線(しせん)をそらします。
「ふん。では国の外はおまえにとって理想(りそう)であったか」
「良いものも、悪いものもあった」
(いな)。人はつねに悪を善で(おお)う。羊の皮をかぶるおおかみのようにな。権力(けんりょく)渇望(かつぼう)するおまえの父も、うかれさわぐ愚鈍(ぐどん)な民も、良識(りょうしき)ある王の皮をかぶり、善良(ぜんりょう)な民の皮をかぶる。しかしまことの顔はだれにもあかさん」
 王子さまはスラリと剣をぬき、きっ先を影につきつけます。
決闘(けっとう)をもうしこむ! おまえはわが王を、祖国(そこく)侮辱(ぶじょく)した」怒気(どき)をふくむ王子さまのするどい声。
笑止(しょうし)! くだらぬ忠義心(ちゅうぎしん)。だからおまえの頭は()しわらなのだ。剣は名誉(めいよ)でなく恥辱(ちじょく)のためにふるうものよ」
「ふざけるな!」
「そして(ワレ)は」と、影はゆっくり王子をゆびさし、「すでにおまえにもたらした」。
 王子さまは身体中(からだじゅう)寒気(さむけ)がひしひしとせまるのを感じます。ひたいにつめたい(あせ)がにじみ、歯はガチガチ()り、のばした右手と剣も()きざみにふるえます。
「さあおしえてやろう、真実を」と、影はひじかけにどっしりもたれ、ほおづえをつきます。「むかし、おまえの国は(ワレ)とひとつの契約(けいやく)を結んだ。それは国の安寧(あんねい)と引きかえに王の子ひとり国から()いだすこと。しかし追放(ついほう)する子になにもつたえてはならない。また子は自発的に国をでなければならない。()しわらの王子、おまえのことだ」





 王子さまは顔をゆがめ、青い剣をゆっくり(さや)におさめます。
「父上……わたしに力を……」
「人はいつも悪を善で(おお)う。おまえとの約束など、なんの価値(かち)がある」
「……わたしの旅は……ああ、こごえてしまうほどに寒い……」
(ワレ)のいるこの()を見ろ。血で(よご)れた白い大理石(だいりせき)玉座(ぎょくざ)を。遠いむかし、領域(せかい)()べる強大な王は君臨(くんりん)し、民に裏切(うらぎ)られ、(ほろ)びた」
 王子さまの体はみるみるかわき、()されきったわら(・・)(たば)にかわってゆきます。
()しわらの王子、絶望(ぜつぼう)のうちに()するがよい。眠れぬ王のように」
 王子さまは考えるのをやめてしまいました。祖国(そこく)、父と母、友人、山からふく森のにおいのするここちよい風、つめたくさわやかな川、小鳥のさえずり、きらきらした朝と星いっぱいの夜。王子さまにとって明日はもう楽しみではなくなったのです。すべてのものがつまらなく思えたのですから。
「どうか……どうか、わたしを助けてほしい」
 心までカラカラになった王子さまはそうつぶやくと、吸いよせられるように王座の前に立ちつくし、ついには力なくすわってしまいました。()からびた手をだらりとさげ、王の()を見おろしますが、そこにはただ(やみ)しかありません。
(まく)は……おりてゆく」
 影はいつのまにか消えさっていました。風車(ふうしゃ)はかわらずゴオンゴオンと音を立ててまわっています。ただひとり、()しわらになった王子さまをのこして。

見つからない本と中庭

見つからない本と中庭

 (かがみ)(かがみ)。このおはなしのおしまい(・・・・)はなあに?
女の子の菖蒲(あやめ)は窓のむこうで顔をよせるアヤメにそう問いかけました。
 大きなビルの五階にある、こじんまりとした図書館は、お気にいりの居場所です。
 赤いくつをぬぎ、いつもの丸いベンチソファにすわり、書棚(しょだな)書棚(しょだな)にはさまれて、本を読んでいました。
 小学校が休みのある日、高学年の菖蒲は濃紺(のうこん)のそでなしワンピースと白いパフスリーブのブラウスを着て、お姉さんといっしょにやってきます。
 きょうはどうしても見つけたい本がありました。それは、あかね色の表紙に金の題字で『()しわらになった王子さま』という本です。
「わらにされた王子さまはだれにも助けられず、いきなりおしまいって、なんてへんてこなのかしら。ぬけてるページもあるし、のこりもぜんぶ白紙。それに、王子さまとの約束って……」
 菖蒲はそうつぶやいて、つまらなさそうに本を書架(しょか)にもどしました。けれど、王子さまの本が気になってしかたがありません。それでまったくおかしな物語について宿題の読書感想文でまとめようと考えました。ところが、いくら探しても見つからず、(けん)さくしても受付に聞いても、そんな本はないと言われます。たしかに(たな)から選んだはずなのに……
 じつはもうひとつ、ふしぎな秘密がありました。といっても、それは図書館ではないのかもしれません。でも菖蒲だけは秘密に気づいてしまったのです。それで、こんどは見つからない本を探すより、新しく見つけた秘密のほうが気になってしかたありません。
 丸いベンチソファにひざをつき、窓わくに手をかけ、外をじっと見つめる菖蒲に、お姉さんはずんずんちかづきます。
「アヤメ!」お姉さんはおこって言います。「あなたが本を借りたいってきたのに、窓ばっかりながめて。みんなでお昼ごはん食べる約束でしょ。もう帰るわよ!」
「ねえねえお姉ちゃん、窓をのぞいてみて。あのお庭、扉がどこにもないの」黒い(ひとみ)をキラキラかがやかせ、菖蒲はビルの一階にある中庭に目をやります。「なのに、ねえほら! あそこの木のそばに白いぼうしをかぶった人がいるわ。庭のお手いれをしてるのかしら?」
 うす暗く青みがかった長方形の中庭は壁にかこまれ、たしかに出入りするための扉はありません。ビルのこちらとあちらの壁にそって赤い実をつけたリンゴの木がそれぞれ三本ずつ、それに庭一面にびっしりとはられた芝生(しばふ)のまん中には白い井戸がありました。庭師がひとりで管理しているのでしょうか、リンゴの木にそれぞれ手をふれます。   
「あっ! こっち見た!」
 菖蒲は身をのりだし、目を丸くします。はじめて見る人なのに、どこかであったような、なんだかなつかしい気もちがこみあげました。
「どうやって扉のない中庭に入ったのかしら」
 しかし、なにも返事はありません。
「お姉ちゃん?」
 ふりむくと、うしろにいたお姉さんはこつぜんと姿を消していました。
「もう! ちょっと見てただけじゃない。だまって帰らなくたっていいのに」
 長い黒髪をかきあげ、むすっとしながら図書館をでてエレベーターの前に立ちます。ところが、下にむかうボタンをいくらおしてもかごはやってきません。上のボタンもおなじです。エレベーター乗り場ドアの上部にならぶ表示灯(ひょうじとう)も消えています。メンテナンス中なのでしょうか。
「まったく。きょうはついてないことばかりね!」
 菖蒲は深いため息をつき、しかたなく内階段にむかいました。

アリ隊列

アリ隊列

「おい1051(ヒトマルゴヒト)バン! レツをミダすな!」
 エレベータ横のおどり場のどこからか、ひそひそばなしが聞こえてきます。
1049(ヒトマルヨンキュウ)バンがススまないからさ」
「オレはマエにならっている、1050(ヒトマルゴマル)バン」
 菖蒲は耳をそばだて、あたりを見まわします。
 ザッドドザッドド、ザッドドザ。ザッドドザッドド、ザッドドザ。こびとのような声はリズムあふれる歌へとかわりました。

  イッソげ! イッソげ! ジョオウのモトに
  スッスめ! スッスめ! ジョオウへレツを
  ハタラけ! ハタラけ! ジョオウのために
  ハッコべ! ハッコべ! ジョオウにチエを

 くり返される歌は菖蒲の足もとから黒えんぴつの点線のように、図書館のほうから内階段の下へとつづいています。
 かがんで顔をちかづけてみると、なんとアリの隊列ではありませんか。足なみそろえ、あっちに行ったりこっちに来たり。こんなところでなにをしているのだろうと、菖蒲はだまって観察してみました。すると、おもしろいことがわかりました。アリたちはちいさな紙片(しへん)をせっせと運んでいたのです。
 ハキリアリは葉っぱを切って巣に持ち帰るという話は本で読みましたが、紙を集めるなんて聞いたことはありません。そんなものを運び、いったいなにをするつもりなのでしょう。菖蒲の好奇心(こうきしん)の水がめはあふれるほどで、思わず目のまえにいるアリたちに声をかけてしまいます。
「こんにちは、アリさん。わたしはアヤメ。アリさんたちはなぜ紙きれを運んでいるのかしら。巣にもち帰ってなにするの?」
 しかしアリたちは菖蒲の言葉など知らんぷりです。それでよけい、アリたちについて知りたくなりました。こんな懸命(けんめい)なのですから、働きアリはよほどの理由があるにちがいありません。
 菖蒲は、なにももっていないアリ隊列の先頭を追ってみることにしました。
 アリたちのとなりをはって図書館へもどり、貸出カウンターをぬけ、児童書のならぶ書棚にむかって進みます。
「ああああっ!」
 菖蒲の目はぱっちり開き、図書館にいるのをすっかりわすれて口からサイレンがもれますが、すぐに手をあてます。でも図書館には人がだれもおらず、注意されたり、ひややかな視線(しせん)を感じたり、せきばらいされるしんぱいもありません。
 菖蒲が声をもらすほどおどろいたのは、そんな規則(きそく)にがんじがらめのオトナたちにではなく、アリたちの運んでいた紙片がなにかわかったからでした。
 なんとアリたちは『()しわらになった王子さま』の本にむらがり、ページをかじってはこまかくしていたのです。菖蒲の眉間(みけん)にしわがよってきました。ずっと探していた本なのですから、とうぜんでしょう。
「あなたたち、本をこんなにしてダメじゃない!」
 菖蒲の怒号(どごう)もなんのその、工事現場の横をするりとぬけるようにアリの隊列は見むきもしません。それで菖蒲式大型クレーンはガバッと本を取りあげ、こびりついた黒い土砂(どしゃ)をぶっきらぼうにふるい落とします。
「おい、ナニをするのだ! ワレワレのシゴトをウバうつもりか」アリは菖蒲の周囲にわらわらと集まり、いっせいに抗議(こうぎ)します。「そうだそうだ!」
「ちがうわ。あなたたちはだいじな本をこわそうとしているのよ」
 アリたちはそんなの知るか、といわんばかりに自信たっぷりにこうこたえました。
「これはジョオウのメイレイである。ジョオウはカシコくなるため、ホンのカミでマクラをヨウイするようメイじられた。ワレワレのジョオウにサカらうつもりか」
「ええ、そうよ。だれがなんていおうと、まちがえているに決まってる」と、菖蒲はかんかんです。
「本はちぎったり、まくらにするためのものではないもの。それにね、本をまくらにしても(かしこ)くならないんですからね」
「ははあ、ワかっていないのはキミのほうだ」と、監督(かんとく)アリは(えら)そうに言います。
「ワレワレにとって、これがなんであるかがモンダイではなく、ハコぶことがジュウヨウである。それとも、キミはワレワレにメイレイできるケンゲンをモっているのかね?」
「そうだそうだ!」と、ちょっぴり偉そうな作業アリはうしろでさわぎます。
「まあ!」菖蒲はほとほとあきれます。「わかったわ。じゃあ、あなたたちの女王さまにすぐつたえてちょうだい。この本はわたしが借りたかったの。あなたがまくらにしようと考える前からってね」
「だから、ワレワレには『ジョオウにツタえる』というシゴトはナいのだ」きっぱりと言う監督アリ。
「それはワレワレではなくデンタツアリのシゴトだな」と、作業アリ。
「ワレワレワレワレうるさい!」菖蒲はこぶしをワナワナふるわせ、どなりつけます「どうでもいいからさっさと女王につたえてきなさい!」
 菖蒲の口からいきおいよく噴出(ふんしゅつ)する熱風(ねっぷう)にアリたちは飛ばされないようはいつくばり、ブルブルふるえ、かたまってしまいますが、ハッとなり、たがいに見つめ、顔をあわせながらひそひそ話しあいます。
「おいおい、なんてこった」
「あのでっかいのはジョオウよりコワいぞ」
「いやいや、ジョオウはあんなカイブツよりずっとヤサしいおカタさ」
「あんなキショウのアラいブシツケカイブツ、ワレワレのアゴだってカナわない」
「はあ?」青筋(あおすじ)を立てたカイブツはアリたちを見おろします。
「ショ、ショウチした」
 さきほどまでの強気(つよき)態度(たいど)はどこへやら、アリたちは軽くせきばらいをしてから言います。
「ではトクベツにジョオウにツタえよう。しかし、なにが……」
「なぁ、にぃ、がぁ?」菖蒲はゆっくりと力をこめて言います。
「ゼ、ゼ、ゼンイン、イマスグタタタタイキャーク!」
 アリたちは怖くてたまらなくなり、紙片を投げすて、雲の子をちらすように逃げさりました。
 一匹みだれると、ほかのアリもなにごとかと、整然(せいぜん)としていたアリ隊列はめちゃくちゃになり、のこされたのはひとすじの紙片だけになりました。
 菖蒲は落ちている王子さまの本をわきにかかえると、(こし)をまげ、ちぎられた紙片を一枚一枚ていねいにつまんでは本におさめ、図書館をでて、おどり場までもどります。紙片はそこでぷつりととぎれていました。
「よかった」と、菖蒲は首をかしげながらも、ほっとして言いました。「かがんで歩かなくていいのね。でもいつか女王アリに会ったら注意しなきゃ。本をこんなにしてはいけないって」
 そんなアリたちとやがて再会するのも知らず、菖蒲は腰をトントン手でたたき、ぐっとのばしてから階段をおりていきました。

下に上がる階段

下に上がる階段

 すみからすみまで探したはずでした。図書館の新刊(しんかん)コーナーで新しい本をかかさず見ていましたし、書架(しょか)のどこにどんな本があるかもすべておぼえていたほどです。司書(ししょ)のお姉さんに、わたしより知っているとほめられたのはちょっとした自慢でした。
「それなのになんで、見つからなかったのかしら」
 菖蒲はボロボロにされた本についてあれやこれや考えていると、ふとおかしな変化に気づきます。
 灰色のつめたいコンクリートだった内階段が、いまはまるで古い洋館のような、あたかみのある電球色に照らされ、ざらざらとした乳白色の壁、なめらかな曲線をえがいた木製手すりがついた階段になっているのです。
 もしかすると改装(かいそう)したのかもしれませんし、いつもはエレベーターを使っていたので、気にしていなかっただけなのかもしれません。でも、しばらくおりているとこんどは、カサカサ、ノッソリ、ノッソリ、カサカサ、ノッソリ、ノッソリ。
 菖蒲が目を下にやるとカメがゆっくりとふみづら(・・・・)を歩いています。カメの足の長さで階段などおりられるのでしょうか。そもそも、なぜこんなところに? 菖蒲はカメをじっくりながめていましたが、地面にへばりつき階段をせっせと進む姿があまりにおかしくて、すわって話しかけることにしました。
「こんにちはカメさん、わたしはアヤメ。あなたはなぜここにいるのかしら?」
 カメはピタリと止まり(もっとも、うごいているようにも見えませんけど)首をにゅうっとだして、ねむたそうな目をこちらにむけます。
 菖蒲はカメがのんびりやさんであるのをよく知っていましたので、こたえを待ちました。
 するとカメの口はゆっくりひらき、とてもちいさな声で話しはじめます。
「かのじょは……いたずらずきなのだ……わたしは……いたずらに……つきあっている」
 菖蒲はあたりを見まわし、首をかしげます。
「あの、ここにはだれもいませんよ」
 するとカメはふたたび階段のほうに頭をゆっくりともどします。『かのじょのいたずら』とはなにか、とても気になりますが、のんびりなカメと話していたら明日になってしまうでしょう。
「さようなら、カメさん。わたしかえらないと」
 菖蒲はあふれる好奇心(こうきしん)を胸にしまい、立ちあがってカメに手をふり、わかれました。
「きっとどこかで待っているお友だちがいるのね。ふふっ、いつになったら会えるのかしら!」
 くすりと笑い、しばらくいくと、カサカサ、ノッソリノッソリ。またカメです。
 しかもさきほどのカメとそっくりで、やはり階段をおりようと歩いているではありませんか。さきほど歩いていたカメの彼女(かのじょ)かもしれない、と菖蒲は思います。
「こんにちは、カメさん。上であなたを探しているカメさんがいましたよ」
 するとカメは菖蒲にむかってのんびりと頭をのばし、じいっと見つめ、ゆっくり話しはじめます。
「かのじょは……いたずらずきなのだ……わたしは……いたずらに……つきあっている」
「あなた、もしかしてさっきのカメさん?」
 カメはそっぽむいて、なにもこたえてくれません。
 菖蒲はまたわかれをつげて階段をおりましたが、おなじカメはいて、トコトコぐるぐる、トコトコぐるぐる、いくら階段を下へ下へと進んでも、カメと出会います。まるでいつまでもカメに追いつけないアキレスのように、菖蒲がどれだけがんばってもカメより先に階段をおりられないのです。
 それでこんどは階段をのぼってみましたが、やはりカメのいるおどり場についてしまいます。
 階段を上がったり下がったり、下がったり上がったり。菖蒲は目がまわり、ヘトヘトになって、ついにカメのそばにドスンとすわりこんでしまいました。
 ここは何階で、階段を下がっているか、はたまた上がっているのか、カメに聞きますが、あのこたえしか返ってきません。しかたがなく菖蒲はほおづえをついて、しばらく考えてみました。
 まず彼女とはいったいだれなのでしょう。
「かのじょのいたずらにつきあっている、ということはカメさんはいま、そのいたずらをされているわけよね」
 菖蒲はあたりを見まわします。
「でも、わたしにはかのじょが見えないわ。じゃあカメさんがされているいたずらとはなにかしら」
 こちょこちょ、ぺんぺん、なでなで、ぐりぐり……思いあたるいたずらを考えてみますが、カメはなにもされていません。いたずらさえわかればきっと彼女が何者なのかわかるはずなのに。菖蒲はカメと一緒にのんびりと考えます。なにかヒントはあるでしょうか。
「そっか!」
 菖蒲の大きな声が階段中にこだまします。
「かのじょはわたしにも(・・・・・)いたずらをしていたのよ。だっていくら階段を下がっても上がっても、カメさんのいる階にもどってしまうんですもの。だから、かのじょは階段そのもの(・・・・・・)のことね!」
 そう、菖蒲はカメと彼女のいたずら、つまり下に上がり、上に下がる階段につきあわされていたのです。いたずら好きの彼女(かいだん)は、やってくる人をそうしてこまらせていたのです。もちろん、だれも喜ばないので、階段にちかづく人はだれもいなくなってしまいました——カメをのぞいて。カメにはいくらでも時間がありましたし、このいたずらには相性(あいしょう)ピッタリだったのです。のんびり屋のカメは、いたずら好きの階段にアリアドネという女の子の名前をつけてあげました。それでカメは彼女と言ったのです。アリアドネは名前をつけられて、とても喜びました。そのかわりにひとつだけ、カメと約束しました。もういたずらをしない、と。
「アリアドネは約束をやぶって、わたしにいたずらをしたの?」
 するとカメは首を横にふり、菖蒲が手にしているあかね色の本をポンポンたたきました。
「これ? なぜこの本が関係あるのかしら」
 こんどはゆっくりとカメは階段の下をさしました。
 階下のおどり場の壁には、さきほどまでなかったカカオたっぷり板チョコのような扉があります。アリアドネは菖蒲に進まなければならない、道しるべの赤い糸をたらしてあげたのです。
「もしかして、わたしが行くの?」
 カメは、はっきりそうだとうなずきましたので、菖蒲は立ちあがり、扉にむかいます。
「うんわかった。ありがとう、とても楽しかったわ」
 菖蒲はカメとアリアドネに手をふり、はがれかかった金メッキのノブをまわし、扉をそおっと開けます。さきは暗くてなにも見えません。おそるおそる部屋に足をふみいれると、菖蒲の体はあっというまに闇の中へすいこまれてしまいました。なんと床がすっぽりぬけていたのです。ダークチョコレートの扉が菖蒲をぱくりと飲みこんで(のど)を鳴らし、閉じてなくなります。
 そんなようすをじいっとながめているのかいないのか、カメはカサカサ、ノッソリノッソリ歩きだしました。彼女のいたずらにつきあうために。

底なし部屋

底なし部屋

 もし、ここがあかるい部屋だったなら菖蒲はどんなにかこわい思いをしたでしょう。でも室内はまっ(くら)、いつまでたっても着地しないので、まるでういているように思えました。
「これなら空からおっこちるのも、海底にしずむのだっておなじね」
 あっけらかんとしていますが、ひとつ悲しいことに、せっかく見つけた王子さまの本をすべり落としてしまいました。働きアリのやぶった紙片はひらひらと舞いちり、のこったページもするするほどけ、底なし部屋のずっと下で星のようにちかちかとかがやきます。
「まあ、なんてきれいなのかしら。宇宙旅行をしているみたい」
 菖蒲はうれしくなって『ちいさな星の歌(※1)を口ずさみました。


  ティンクル ティンクル、ちいさな星よ
  あなたはだあれ?
  世界よりずっと、ずうっと遠く
  夜空にちらばるダイアモンドみたい

  ピカピカ太陽はさってゆき
  あかりがみんな眠るとき
  ちいさなあなたはキラキラと
  一晩中わたしをてらしてる

  ティンクル ティンクル、ちいさな(ひとみ)
  あなたはなんてステキなの


 歌いながら手足をばたばたさせたり、すいすいおよいでみたり。そんな姿があまりにおかしくて、おなかをかかえ、笑います。すると魚のむれは菖蒲にちかづいてきて、まわりをぐるぐるかこみ、こうたずねました。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 魚さんたち」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」魚たちは()びれをぶんぶんふります。「でもぼくたちがおよげるってことは、ぜったいに海だね」
「なるほど。でも下を見て。星がかがやいているの。海に星はあるのかしら?」
「なんと!」魚たちは菖蒲のさすほうをいっせいにのぞくと、たいへんおどろきます。「これは知らなかった。もしかして深海に住むものたちだろうか。なあみんな、たしかめにいこうじゃないか」
 そう言うと竜巻(たつまき)のようにぐるぐるまわる魚たちは、光る底にいきおいよくむかい、菖蒲は魚たちに、ばいばいと手をふりました。
 だれもいなくなると、つぎに翼をぐんとのばしたわたり鳥のむれがV字編隊(へんたい)で菖蒲にちかづきます。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 鳥さんたち」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」わたり鳥たちは翼をパタパタはばたかせます。「でもぼくたちが飛べるってことは、ぜったいに空だね」
「なるほど。でも下を見て。星がかがやいているの。地上に星はあるのかしら?」
「あれは街のあかりさ」鳥たちは口ばしをゆらして笑います。「夜間飛行でよく見かけるもの」
「じゃあ、あちらを見て」と、菖蒲はあおむけになって上をさします。「ほら、なんにもないわ。もしここが夜空なら満天の星がちらばっているはずよ」
「なんと!」わたり鳥たちはたいへんおどろきます。「これは知らなかった。ひょっとするとあつい雲で見えないのかもしれない。よおしみんな、たしかめにいこう」
 先頭の鳥が翼を広げてふわりと上昇(じょうしょう)し、つづいて前から順にわたり鳥たちは上方の闇へと消え、菖蒲は鳥たちに、ばいばいと手をふりました。
 だれもいなくなると、こんどは流れ星が光のつぶをパラパラまきながら菖蒲のところにやってきて、こうたずねます。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 流れ星さん」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」流れ星はくるくる光の()を引きます。「でもぼくが飛んでいるってことは、ぜったいに宇宙だね」
「なるほど。でも下に星がかがやいているのに上はまっ暗なの。宇宙はどちらにも星があるはずよ」
「いいやアヤメ、宇宙には星もかがやけない、常闇(とこやみ)があるんだ」
 菖蒲はそうかそうかとうなずいて、「流れ星さんの言うとおり、ここが宇宙なら、わたしは止まっているはずよね。わたしはなぜ下に落ちているのかしら?」
「なんと!」流れ星はたいへんおどろきます。
「それは知らなかった。アヤメがどこに落ちているのか、ぼくが見てみよう!」
 菖蒲はかがやく底へ消えてゆく流れ星に、ばいばいと手をふりました。
 ついに魚たちも、わたり鳥たちも、流れ星もみんないなくなって、菖蒲はぽつんとひとり、底なし部屋についてじっくり考えてみることにしました。
 りんごはなぜ木から地面に落ちるのでしょう。雨はどうして雲から地上にふってくるのでしょう。そして、この部屋で本を手ばなしたとき、なんで菖蒲と本は落ちたのでしょうか。
「そもそも落ちているのかしら?」
 菖蒲はずっと、暗い部屋でリンゴや雨のように落下しているとばかり思っていました。もちろん、本は下に落ちましたし、菖蒲もそれを見たのです。でも魚や、わたり鳥のむれも、流れ星ですら自分たちが落ちていると、言いませんでした。
「ここは空や海や宇宙であって、そうではない部屋ってことかな」
 つまり、海にしずんでいるのでも、空から落ちているのでも、宇宙をただよっているのでもありませんが、魚がおよぎ、鳥は飛び、星も流れるというわけです。
「そっか、引かれているのね!」
 ついにひらめきました。菖蒲は見えない力に強くひっぱられていたのです。でも、いったいなにからでしょう? その答えはすぐにわかりました。『干しわらになった王子さま』の本です。底なし部屋でほうり投げたとき、ちらばってきらめく星となり、菖蒲を招待(しょうたい)していたのです。ぜひこっちにきてほしい、と。それがなぜかはもうすこしあとで知ることになります。
 底なし部屋のからくりを知った菖蒲は、ためらわず星にむかって両手をさしのべ、本の招待を喜んで受けました。星にひかれるまま、白い光は菖蒲をつつみこみ、あまりのまぶしさに目を閉じてしまいました。
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 ガサガサかわいた音を立て、やわらかいものにしずむと体がチクチクして麦わらぼうしのにおいがします。ほそくて黄色いストローをかきわけ、ひょっこり顔をだすと、わら束がたくさんつんでありました。
「ここは、どこ?」
 菖蒲はなにがおきたのかわからず、しばらくぼーっとしますが、遠くのほうでゴトンゴトンという音が聞こえましたので、上方についた半開きの窓から外をながめます。
 青空の下には金色の麦畑が一面に広がり、遠くでは建物についた大きな羽根(はね)が風をうけてまわっていました。
「風車だ!」
 菖蒲は()しわらの王子さまの世界にやってきたのだとすぐにわかりました。胸はドキドキと高鳴ります。ここが本の世界だから、だけではありません。
 なんと、干しわらの王子さまをおしりでふんづけていたのです。

キジ三毛のネコ

キジ三毛のネコ

 たくさんあるふくろからアタリを一回で引けるでしょうか。たとえば、いろんな味のキャンディーにひとつだけキャラメルがまざっていて、どれもまったくおなじつつみだとしたなら、どのように探しあてますか。もちろん、ひとつずつ開けてみるしかありません。
 でも、菖蒲は山とつまれたおなじわら束から王子さまを一目で気づき当てたのです。なんでだろうと思うかもしれません。きっと菖蒲にもこたえられないでしょう。ただ胸がドキドキして、これは王子さまだとおしえているようでした。
 ひとつ疑問(ぎもん)がわきます。わら(たば)に変えられた王子さまは、風車(ふうしゃ)の地下室にある王座にすわっていたはずなのに、なぜ菖蒲のそばにいるのでしょうか?
「それは農夫(のうふ)がひろい、ここに投げていったからさ」
「だれ?」
 菖蒲はどこからか聞こえる声に返事をします。
「こっちだよこっち」
 広い納屋(なや)をあちこち見ると、正面の大きな両扉のそば、くま手を背にキジ三毛のネコがちょこんとすわっていました。
 菖蒲はネコのそばにちかづこうと、つまれたわら山からおりようとしますが、なかなかうまく足をかけられず、きゃあと声をあげ、ずるずる落ちてしまいます。
「なあ、お嬢ちゃん。もうすこし静かにしてくれにゃいと。あいつが物音に気づいてやってきたらどうするんだ」
「ごめんなさい。わらの上を歩くのがこんなにむずかしいだなんて思わなかったの」
 やれやれとキジ三毛ネコはため息をつきます。
「まあいい。それよりあのわらについてだ。お(じょう)ちゃん、あれがにゃにかわかるのか?」
「もしかして、あなたも王子さまだって知っているの?」
「あの小僧(こぞう)は王子だったのか」キジ三毛ネコはニヤリと口を広げます。「オレが風車でネズミを追いかけていたとき……」
 キジ三毛ネコは白馬にのった王子さまが風車(ふうしゃ)に入るのを見かけましたが、けっきょく、もどってくることはありませんでした。
「しばらくして黒い大蛇(だいじゃ)風車(ふうしゃ)から飛びだし、いきおいよく西にむかって消えたんだ」
 おそらく王子さまと対峙(たいじ)した(かげ)だろうと菖蒲は考えます。
「ここの畑の農夫(のうふ)風車(ふうしゃ)の地下で青い剣と赤い宝石の首かざりをかけたわら束を見つけ、大喜びしていた。ごうつくばりにゃ農夫め。白馬もすべて自分のものにし、町で売りさばいて(かね)にするつもりだぜ」
 それを聞いた菖蒲はひとつ思いつきました。王子さまの帰りを待つ白馬に話しを聞けば、()しわらの王子さまについて、もっと知ることができるでしょう。
 しかしキジ三毛ネコの言うとおりなら、いそがなければなりません。
「白馬さんはどこにいるのかしら。助けてあげないと」
「まあおちつけ。すぐに売ろうってわけじゃあにゃい」あわてる菖蒲にキジ三毛ネコは言います。
「馬は風車(ふうしゃ)のちょうど裏手、農夫の家のすぐそばにある馬小屋につながれてる。にゃわで固くしばられてるからかんたんにはほどけにゃいぜ。青色の剣を使うといい。切れ味がいいからハサミがわりにちょうどいい、と農夫は喜んでた。剣は寝室(しんしつ)にあるはずさ」
「わかったわ」キジ三毛ネコの話を聞いて、菖蒲はほっと胸をなでおろします。「でも、なんでわたしにいろいろとおしえてくれるの? あなたは農夫さんの()いネコなんでしょ?」
「にゃにおバカな! オレはあんなやつに飼われちゃいにゃいぜ」キジ三毛ネコは不機嫌(ふきげん)そうに目を横にそらします。「ただ白馬にかりがあるだけさ。大蛇はオレを……いや、まわりにあるものすべてのみつくそうとした。必死(ひっし)に逃げたが追いつかれ、もうおしまいかとあきらめかけた時、白馬はオレを口にくわえ、助けてくれたのさ」
「そうだったのね」と、菖蒲はキジ三毛ネコの黒い首輪にふれます。
 キジ三毛ネコは首をぶるぶるふるわせ、すっくと立ちあがり、菖蒲のまわりを歩きだしました。
「そもそもあいつと契約したのがまちがいだった……」
 キジ三毛ネコによると、農夫と仕事の契約(けいやく)を結んだのがはじまりでした。この土地にいるネズミを一〇〇〇匹退治するまでの条件で宿と食事を提供(ていきょう)する、という内容(ないよう)です。しかし『退治(たいじ)するまで』という文言にまんまとだまされました。つまりネズミをすべて退治しなければ、農夫から自由にはなれない、というわけです。なんと農夫(のうふ)はキジ三毛ネコと契約を(むす)んですぐ、ネズミ()りをそこらじゅうに置きはじめます。これではいつまでたっても退治できません。
「旅ネコのオレは気ままに生きるのが好きにゃんだ。おなじにゃわばりをまいにちウロウロするようにゃやつらとはちがう」
 キジ三毛ネコは立ち止まり、うらめしそうにつづけます。
「ここもすぐでるつもりだった。にゃのにあのいじわる農夫(のうふ)はだましやがった! はじめっからここでずっと働かせるためのわにゃだったんだ」
「にゃんてひどい人にゃのかしら!」と、菖蒲はネコみたいにまゆをしかめます。
「それでお(じょう)ちゃんにひとつたのみがある」キジ三毛ネコはじっとりした目つきで菖蒲をのぞきこみます。「あいつは寝室のどっかに、オレとかわした契約書をかくしたはずにゃんだ。それをもってきてほしい。あいつの目をぬすみ、にゃんどか探したが、どうにも見つからにゃかった。あの契約書さえ捨ててしまえば自由ににゃれるんだが」
「うん。さがしてみる」菖蒲は頭をたてに大きくふりました。
 ちょうどその時、キジ三毛ネコの両耳はピクピクうごきます。
「まずい、あいつだ。かくれろ!」
 ぎゅっぎゅと砂利(じゃり)をふみしめる足音が納屋(なや)の外からこちらにちかづき、やがてピタリとやみ、大きな両扉がゆっくり開きます。
 菖蒲はおどろきあわてて、飛びこむようにつんであるわら束の影にかくれ、口に手をおしあてます。
「おいキジ三毛!」荒々しい男の声がします。「昼飯(ひるめし)の時間だ。とっととこい!」
 鼻からもれる息ですら聞こえてしまいそうな重苦しい沈黙(ちんもく)
「にゃ、にゃあ」
 キジ三毛ネコのへたな()き声に笑いをこらえながら、菖蒲は農夫(のうふ)を見ようと、正面をそっとのぞきます。こちらにのびる人影を頭からたどり、扉の前にはウェスタンブーツにデニムのオーバーオールと白シャツ、(むぎ)わら帽子(ぼうし)をかぶった、いかにもたくましい口ひげの男がどっしりかまえています。
 菖蒲は口に手をあて(かた)をすくめます。
「おくれたらめしはないと思え!」と、大男は扉を乱暴(らんぼう)にたたきつけ、でていきました。
「さぁて家にもどるとするか!」キジ三毛ネコは大きな声で言います。「あいつは昼飯がすんだらオレをつれて小麦を売りに馬車で街へでかけるだろう。そうすれば家にはだれもいにゃくなる。玄関はカギがかかっているが、二階の窓はいつでもあけっぱにゃしでたすかるぜ。しかし泥棒がそばの木をのぼってこにゃいかしんぱいだよ。まあ夕方、暗くなるまえにもどるからいいか!」
 それからキジ三毛ネコは農夫(のうふ)のあとを追い、扉のすきまから走りさりました。
 納屋にひとりのこされた菖蒲は王子さまのそばにもどると、計画をアヤメと話します。菖蒲ひとり会議のはじまりです。
「まず王子さまをここからださなきゃ。だって、ほかのわら束と一緒にもっていかれたらたいへんよ」
「いい考え。でも、どこにかくせばいいのかしら」
 そこらへんにほっぽって、だれかに盗まれたらいけませんし、動物にでもバラバラにされたらたいへんです。話し合いの結果、風車(ふうしゃ)の地下にしました。きっとあそこに王子さまをもとの姿にもどすための手がかりがあると思ったからです。
「つぎに農夫(のうふ)さんの家のそばにある木をのぼって、二階の窓から寝室へ」
「青色の剣とキジ三毛さんの契約書を探す」
 菖蒲はのぼり(ぼう)得意(とくい)でしたので、木のぼりだって問題ありません。
「それから馬小屋で、つかまった白馬さんをたすける」
「うん、これでよし!」
 菖蒲のひとり会議は万事(ばんじ)うまくいきました。もちろん、頭の中ではいつだって順調(じゅんちょう)に進むものです。菖蒲はまんぞくそうにひじをついて寝そべり、足をバタバタさせて窓の外をながめ、かんぺきな計画を実行する時を待ちつづけました。

菖蒲の計画

菖蒲の計画

 昼さがり、キジ三毛ネコの言うとおり、風車(ふうしゃ)のむこうから荷馬車はでていきました。
 菖蒲は見のがすまいと目で追いますが、まだ行動は起こしません。わすれものを思いだして引き返した農夫(のうふ)かち(・・)合いでもしたら計画は水のあわです。もちろん失敗などゆるされませんので、できるだけ慎重(しんちょう)に行動します。
 馬車がだんだんちいさく、地平線のかなたに消えたのを見て、あせらずゆっくり、「いち、にぃ、さん……」六十までかぞえてから、それ今だと納屋(なや)の扉をおしあけました。
 どこまでも広がる新しい世界。ここちよい風はささっとふき、菖蒲の長い(かみ)をゆらします。目をつむり、空気をいっぱいにすいこめば、どこか知らない異国(いこく)のかおりを体いっぱいに感じます。
 人生をかえてしまう物語がはじまる前兆(ぜんちょう)。おさえきれない高揚(こうよう)(むね)に目を大きくひらき、回転する大きな羽根(はね)にむかって、王子さまをかかえ、小麦畑の中へ走りだしました。
 小麦畑をぬけると大きな黒い風車(ふうしゃ)がどんとかまえています。羽根の音はまるでうなり声、さっき見た農夫(のうふ)がうでをくみ、計画をじゃまするため、立ちはだかっているように見えて菖蒲はたじろぎます。しかし、のんびりできる時間はすこしもありません。王子さまのため、ちいさなドン・キホーテは勇敢(ゆうかん)風車(ふうしゃ)突進(とっしん)しました。
 風車(ふうしゃ)の中は時計のように木製の歯車(はぐるま)複雑(ふくざつ)にからみあい、こすれるにぶい音、テンポよい打音でさわぎたっています。
「たしか本には地下につづく階段を探したとあったわ」
 しかし、いくら見まわしても階段など、どこにもありません。
「探しまわった、ということは王子さまはすぐに見つけられなかった……つまり、かくし階段だったのよ!」
 菖蒲はよつんばいになって木のゆかを一まいずつ指でなぞります。すると一か所だけ、ゆか板に金色の回転(かいてん)把手(とって)がうめこまれています。しめた、と金ぞくのつめをひっくり返し、四角く切りぬかれた板を持ちあげると、うす暗い地下へとつづく階段を見つけます。おりた先にはゆるく閉じた木製の古い扉からヒューヒューとすきま風がふきぬけていました。
「本に書かれたとおりね」
 扉のむこうは風車の地下室とは思えない、オレンジ色のともしびがいくつもゆらゆらゆれる壮麗(そうれい)な王の()でした。いまはなき強国の歴史の針はポッキリおれ、つもるほこりが長い時を知らせます。部屋の両わきにはいくつもの巨大な支柱(しちゅう)がならび、中央ひなだんの頂点(ちょうてん)にすえられた玉座(ぎょくざ)は天じょうからふりそそぐ光をあび、空位(くうい)のまま、こちらをむいていました。
「まっていて。すぐにもどるから」と、菖蒲は王子さまを玉座(ぎょくざ)にのこします。
 さいしょの任務(にんむ)をぶじに終え、外でふうっと一息つき、すぐつぎの計画にうつります。風車(ふうしゃ)裏手(うらて)にまわると、よく手入れされた庭のさきにわらぶき屋根(やね)の家、となりには馬小屋が見えました。
 菖蒲は門をくぐり、色とりどりの花がさきこぼれる庭を足早にぬけて、家によりそうブナの木で立ち止まります。それからくつとくつ下をぬいで木の根もとにかくしてから、うねる木にしがみつき、ぐいぐいのぼります。屋根裏の窓にせりでた太い木の枝を毛虫のようにくねくねとつたって進み、窓に手をかけようとしたとき、思わず地面を見てしまい、あまりの高さにめまいがします。
「やすんでるひまはないのよ、アヤメ」
 菖蒲は下をのぞかないよう顔をあげて呼吸(こきゅう)をととのえ、ゆっくり腕をのばすと、なんとか窓はこちらに開きます。
「だいじょうぶ、わたしは飛べる。だいじょうぶ、わたしはあっちに飛べる……」
 そう言い聞かせ、太い枝に手をあててふるえる(こし)をあげ、こずえに足をつけます。
「鳥のように飛べる、チョウチョのようにまうのよ……!」
 ケムシはサナギに、そしてチョウとなってはばたくように菖蒲はいきおいよく窓に飛びうつります。
 木の枝はたわんでバサバサ葉をちらし、ヒバリもなにごとかと空へ逃げていきました。
 そして、どすんと重いものがぶつかるにぶい音。
「いったぁぁい!」
 屋根裏部屋からほこりがもくもくとけむりのようにあがり、斜光(しゃこう)でかがやきます。
「アヤメチョウ……ちゃくりく……しっぱい」
 菖蒲は赤くなったおでこを手でおさえ、ふらふらと天じょうの低い屋根裏をおります。
 かまどや壁にぶら下がる鍋におたま、きれいに整とんされた食器棚のある台所にでると勝手口、居間そしてべつの部屋につながるろうかにわかれています。菖蒲はまよわずろうかをとおり、サニタリールームをすぎて扉につきあたります。
 扉の把手(とって)に手をかけると菖蒲の胸はうずきます。人の家にだまって入るのはわるいことですし、部屋となればなおさらです。もしも知らない人に寝室をいじられたら、と考えはじめると、よけいに心は痛みます。でもここで引き返せば王子さまを助けられませんし、キジ三毛ネコもあのままです。
 小声で「ごめんなさい」と言い、把手(とって)をまわしました。
 広い部屋には大きなベッドにつくえと(たな)()しゅうの入ったレースのカーテンから()の光がうっすら差しこみ、よくみがかれたマホガニー製のつくえのそばに両刃の青い剣が立てかけられていました。
「なんてきれいなのかしら……」 
 剣を手にすると片手で持ちあげられるほどに軽く、美しい透明(とうめい)な深青のガラスはあざやかな青緑に色をかえます。ふしぎなことに剣から手をはなすと剣はもとの青色にもどります。
 菖蒲は計画を思いだし、キジ三毛ネコの()わした契約書を探そうと部屋を見まわします。
 ところで計画というものはたいてい思いどおりにいかないもので、その時どきでなんとかしたり、あきらめたりするものです。菖蒲もできるだけうまくいくよう努力しますが、どうにもできない、やっかいな問題にあたってしまいます。

契約書のありか

契約書のありか

 王子さまの剣はすぐにわかりましたが、キジ三毛ネコの契約書はどのようなものか知りません。紙に書いたのか、それともほかのなにかでしょうか。
「キジ三毛さんにちゃんと聞いておくべきだったわ」
 菖蒲はうらめしく思いながら、つくえの引きだしに手をかけた時、卓上(たくじょう)にかざられたポストカード立てが目にとまります。(しん)ちゅうの(がく)の中では白いキャペリンハットをかぶった金髪(きんぱつ)の女が()みをうかべています。
「この人どこかで……」
 引きだしを()けても何通かの手紙だけで契約書らしい紙はなく、奥までのぞいてもからっぽですし(たな)にもありません。もしやキジ三毛ネコのかんちがいなのか、まさか探す部屋をまちがえたのか。時間だけは()ぎ、みるみる()はかたむいてゆきます。
「どこにあるのかしら。アヤメ、おちついて探すの。きっとあるはず。どこかにおきわすれてしまった自転車のカギとおなじよ」
 たった一枚の契約書を探すだけなのに、計画が進まないもどかしさを感じながら、そわそわと部屋中を行ったり来たり、引きだしを()けたり閉めたりをくりかえします。
 するととつぜん、外から車輪のこすれる音が聞こえました。窓をのぞくと農夫(のうふ)が乗る荷馬車が見えます。
「ええっ! もう帰ってきたの?」
 なんて最悪のタイミングでしょう! 部屋からでれば農夫(のうふ)(はち)あわせになります。菖蒲はあわてて隠れる場所を探します。棚は小さすぎて入れませんし、つくえの下ではおしり丸見えです。ベッドの中もふとんをめくられたらおしまいでしょう。
 農夫(のうふ)の足音はずんずんと寝室にちかづいてきます。
「あぁぁぁ、まってまってまって!」あちこちに首をふりながら、あわてふためく菖蒲。
 ガチャガチャガチャ。把手(とって)()きざみにふるえ、ついに扉が開きます。大きな足はゆか板をきしませ一歩また一歩と窓ぎわへ、真ちゅうの額があるつくえの前で止まり、「ただいま」と、農夫(のうふ)のさびしそうな声が聞こえ、すぐにでていきました。
 静まり返った部屋で菖蒲はゆかに頭をつけ、大きなため息をもらします。
 でもいったいどこに隠れたのしょう?
 それはベッドの下です!
 農夫(のうふ)が部屋に入る、もうすんでのところで、すべりこむようにもぐりこんだのです。
 しかし菖蒲の計画はまたたくまにくずれさりました。ベッドの下から身動きが取れなくなってしまったからです。契約書をあきらめ、青い剣だけを持ちだそうにも、いつここから脱出(だっしゅつ)すればよいのでしょう。農夫(のうふ)が家の外か屋根裏、それとも勝手口や居間にいる時に? そもそもいまどこにいるのかわかりません。もし窓の外からのぞいていたら……いくら計画をねり直しても、菖蒲の計算機は最悪な結果をはじきだします。
 あれこれなやんでいるうちに寝室は暗くなり、出口の見えない不安はどんどん高まります。いっそ農夫(のうふ)の前に姿をあらわし、わけを話そうかとも考えましたが、強欲(ごうよく)な農夫に(くさり)でつながれ、どこかに売りとばされるのではと考え、身がすくみます。菖蒲はうつぶしたまま、なにもできず、ついに夜をむかえてしまいました。
 好機(こうき)深夜(しんや)におとずれます。農夫(のうふ)はランプを手に、ふたたび寝室へやってきて、部屋全体をうっすら照らします。菖蒲は耳を立て、つくえにむかう足を目で追います。
「おやすみ、リリィ」農夫(のうふ)は真ちゅうの額にあいさつをして(あか)りをふき消します。
 ベッドのきしむ音を聞いた菖蒲は大胆(だいたん)な計画をひらめきました。農夫(のうふ)がベッドで寝ている時、青い剣をこっそり持ちだそうと考えたのです!
 菖蒲は農夫(のうふ)がぐっすり眠るのを待ちます。またたくまに過ぎた時間がこんどはゆっくりと、じれったく感じました。
 農夫(のうふ)はベッドの上で、その下で菖蒲がウツボのように横たわるおかしな夜はさらに深まり、いまか、まだか、そわそわしていると、やがて大きな寝息が聞こえます。
 さあ計画の再開です。菖蒲は音を立てないようベッドの下からもぞもぞはいでて息をころし、そおっと顔をあげます。ふとんにしずみ、ぐっすり寝ている農夫(のうふ)を見た菖蒲はひざをつき、そろそろと青い剣にちかよります。カーテンからもれる月の光をあびた剣は、まるで宇宙をかためた深い紺色のようで、つかむとあざやかな青緑にかがやきます。
「んっんん」と、顔に手をあて、うめく農夫(のうふ)
 菖蒲は剣から手をはなし、さっとゆかにふせます。農夫は寝がえりをうちますが、起きてはいません。
 ところが立てかけた剣はバランスをくずし、すべるように倒れます。菖蒲は目をむいて、とっさに手をのばし———!

 夜風は麦をこすり、窓ガラスにあたってカタカタ鳴らします。
 ぎゅっと目をつぶり、息を止め、くちびるをかみ、ふるえる(うで)をのばして剣を支える菖蒲。
 部屋中に聞こえそうなほど鼓動(こどう)(みゃく)打ち、片目ずつ(ひら)き、そおっと立ちあがり、ベッドをのぞくと農夫(のうふ)は……寝ています。
 菖蒲は肩をなでおろし、ふたたび剣を手に、すり足で扉にちかづきます。
(お願い、どうか起きないで!)
 頭の中で何度そう(とな)えたでしょう。かくれんぼや鬼ごっこ、学習発表会に合唱コンクール。できるかぎり思いうかべても、これほど緊張(きんちょう)したことはありません。
 菖蒲は息のつまる思いで寝室をぬけだしました。

 しんとした戸外は丸い月が空にぷかりとうかび、小麦畑をやさしくてらしています。菖蒲は木の根もとに隠しておいたくつ(・・)くつ下(・・・)を取り、いそいで馬小屋へむかいます。
 干し草のにおいでみたされた馬小屋の奥には美しい白金の毛なみの馬が菖蒲を見つめていました。
「はじめまして、お(じょう)さま」白馬の高く澄んだ声。
 そばにはギロリと目を光らせたキジ三毛ネコもいました。
「ごめんなさい、キジ三毛ネコさん。あなたのほしがっていた契約書は見つからなかったの」
 キジ三毛ネコはぷいっと顔をそむけ、菖蒲はきまりわるそうに白馬にちかづきます。
「はじめまして、白馬さん。あなたに聞きたいことがあります」
「わたくしも、お嬢さまにお話ししなければなりません」
「オレもまぜてもらおうか」背後(はいご)から男の低い声。
 菖蒲の顔からみるみる血の()が引いていきます。おそるおそるふりむくと、寝ているはずの農夫(のうふ)が目の前に立っているではありませんか! 菖蒲は言葉をうしない、青い剣を両腕で強く抱きしめたまま、かたまってしまいます。
 菖蒲の計画はすべて失敗におわりました。

農夫たちの秘密

農夫たちの秘密

 しょうじきに話し、あやまらなければ。
 おびえる菖蒲は剣をわたそうと農夫(のうふ)によろよろちかづきます。
「けっして剣を手からはなしてはなりません!」
 白馬は菖蒲を制止(せいし)します。
「で、でもわたし、剣をぬすんだから……」
「いいや、あの白い馬の言うとおりに」
 農夫(のうふ)はおだやかに言います。
「わたしはきみが家にいるのを知っていたんだ」
「ど、どういうことですか?」とまどう菖蒲。
 農夫(のうふ)はにこりと笑い、「そこにいるネコがきみをだましたんだよ」。
「だましたにゃんてネコ聞きのわるい!」
「そんな、ひどいわ」菖蒲はまゆをしかめます。
「ごめんよ、お嬢ちゃん」キジ三毛ネコは悲しそうに言います。
 ひとつだけわかりました。ここにいるみんなはすべて知っていましたが、菖蒲はおどらされていたのです。納屋(なや)でじっと待ち、木の上から家にしのびこんで契約書を探し、きゅうくつなベッドの下で恐怖(きょうふ)にふるえ、やっとここまで来たのに。計画をめちゃくちゃにされてばかばかしくなり、菖蒲は(はら)がたってきました。
「なんなのよ、もう!」
「お嬢さま、どうかおゆるしください」白馬は菖蒲をなぐさめるように言います。「すべては闇に気づかれないためなのです。闇はあらゆるものを監視(かんし)しています」
 闇とは()しわらになった王子さまと対峙(たいじ)した黒い影だと白馬は説明します。自由自在にその姿(すがた)を変えるため、つかみどころがなく、(きり)のように世界にたちこめているのです。
「青い剣はお嬢さまの手にある時だけ、とくべつな力で闇から守ります。その証拠(しょうこ)に剣をごらんなさい」
 菖蒲の手にある王子さまの剣は青緑にかがやいています。
「わたくしの主人である王子は言いました。「おまえのもとにかならず娘がやってくるだろう。その子に剣をわたしておくれ」と。それがお嬢さま、あなたなのです」
「それなら、はじめから言ってくれればいいのに」菖蒲はほおをふくらませます。
「できればそうしたかった」と、農夫(のうふ)は言います。「でも王子のいう女の子はどこからやって来るのか、どんな顔なのか、まったくわからなかった。それに、わたしたちの味方になるかどうかも(ため)すひつようがある。しかも闇に気づかれないようにね。だからいじわるしようとたくらんだわけではないんだ」
「だ、か、らぁ、オレはごうよくにゃ農夫(のうふ)にだまされた、あわれにゃネコってわけ!」キジ三毛ネコは鼻息(はないき)をあらくして言います。「それに肉球(にくきゅう)(いん)の契約書はちゃあんと寝室にあったんだぜ。ポストカード立ての裏に、ね」
「ええっ」菖蒲はあきれたように言いました。
「きみが約束と秘密を守るかどうか試してみたら、わたしたちが思っていたよりもずっとすてきな女の子だったんだ」と、農夫(のうふ)は言います。「それにしても寝室に入ったら、だれもいなくてあわてたよ。まさか夜中にベッドの下からでてくるなんて」
「ほんとうに、どうしていいかわからなかったんですもの!」
 菖蒲の顔はまっ()にそまり、みんなくすくす笑います。
 すこしだけ、ほっとした菖蒲は図書館からやってきたこと、本に招待(しょうたい)されて納屋(なや)に落ちてきたことをかくさず話しました。
「なるほど。わたしたちの領域(せかい)のものではないのか」農夫(のうふ)は口ひげに手をあてます。
「お嬢さまには理解しがたいかもしれません」と、白馬は言います。「わたくしたちの領域(せかい)で約束は力をもっています。重い約束ほど力は強く、約束を守らなければ大きな代償(だいしょう)がともないます。王子の剣の力も約束によるもの」
「そうだったのね。でも、だれの約束なのかしら」
「ちょっと待った」農夫(のうふ)は用心深げにあたりを見まわします。「夜ふけに長居(ながい)危険(きけん)だ。つづきはまた明日にしよう」
 農夫(のうふ)は手まねきをし、みんなちいさく輪になって集まります。
「いいか、よく聞くんだ。これから闇に気づかれないよう、ひと芝居(しばい)うつ。女の子は白馬を助けようとするが農夫(のうふ)に見つかり家につれこまれ、おどしつけ、ここで働く契約を結ばせる、という台本だ。剣をこちらにわたしたらすぐ開演する」
 みんなこくりとうなずきます。
 菖蒲が農夫(のうふ)に青い剣をさしだそうとした時、みんなは菖蒲の前にならびます。
「わたくしの名はアルビレオ。王子につかえる馬です」と、白馬のアルビレオはおじぎします。
「おれのにゃはモルト。山あいの国の王につかえる伝達役(でんたつやく)のネコさ」と、キジ三毛ネコのモルトはおじぎします。
「わたしの名はグレエン。山あいの国の王につかえる風車(ふうしゃ)監視役(かんしやく)です」と、農夫のグレエンはおじぎします。
 みんなの名前を知ると菖蒲の胸はふわっとあたたかくなり、勇気(ゆうき)もわいてきました。
 菖蒲は目をかがやかせ、仲間たちにこう言いました。
「わたしは王子さまに招待(しょうたい)されたアヤメです」

観客のいない芝居

観客のいない芝居

 お芝居(しばい)はじつにみごとなものでした。もし観客(かんきゃく)がいたなら立ちあがり、万雷(ばんらい)拍手(はくしゅ)をおくったにちがいありません。
「どうかおゆるしくださいませ!」
 泣きじゃくる少女役のアヤメ。
「げっへっへ。こーんにゃところにいやしたぜ、だんにゃ」
 うらぎり役のモルト。
「この契約書にサインしろ。さもなきゃ町で売りとばしちまうからな!」
 強欲(ごうよく)農夫(のうふ)役のグレエンはアヤメのうでをつかみ、居間(いま)に引っぱります。
「なんでもいたします、どうかおたすけください、ご主人さまぁ!」
「にゃんでもするとは、いい度胸(どきょう)してやがるぜぇ!」
 迫真(はくしん)演技(えんぎ)にテーブルで顔をあわせると、みんなうつむき、(かた)をふるわせます。闇が監視(かんし)しているといっても気配(けはい)はなく、まるで観客(かんきゃく)のいない劇場(げきじょう)で本番さながら歌いおどるプリマドンナのようだったからです。こんな真夜中に、みんなでいったいなにをしているのでしょう。あまりにもおかしくて笑いをこらえきれません。
 契約書を結ぶ場面までひととおり演じ、農夫(のうふ)はウツボの住むらしい、うわさの寝室(しんしつ)で寝るようアヤメに命令しました。
「いいか! もし逃げたりなんかしたら、ただではすまさんぞ。モルト、こいつを見はってろ!」
 グレエンは寝室からでていき、菖蒲はしょんぼりベッドにもぐります。毛布(もうふ)とふんわりしたまくらからはモクレンのいいにおいがします。
「ねえモルト、ここはグレエンのベッドでしょ……」
「アヤメ、あいつのことは気にすんにゃ。あしたからはいそがしくにゃる。早く寝ろ」
 そばでぐるりとまるまったモルトは目をつぶります。
「うん……ありがとう」
 探していた本を女王に運ぶアリや下に上がる階段のアリアドネとカメ、底なし部屋に落ちれば魚やわたり鳥に流れ星。()しわらの王子さまのもとにやってきて、お芝居(しばい)までしています。おどろくような物語に興奮(こうふん)しっぱなしの菖蒲は、まだまだ起きていたかったのですが、目を閉じると深い眠りに落ちていきました。

 つぎの朝。やわらかな太陽の光は早く起きてと菖蒲の顔をなでます。大きなあくびをしてからカーテンを引き、窓の()をいっぱいに(ひら)くと、さわやかな風がすうっとふきぬけ、菖蒲の髪はさらさらなびきます。
「やっぱり夢じゃないんだ……なんてセリフ、ぜったいに言わないわ。だって、夢でもそうでなくっとも、すてきなお話しはいつまでも見ていたいもの」
 菖蒲は体を思いきりのばし、青空を雲といっしょに丸ごとすいこみました。
「アヤメ、あいつからの伝言だ。「風呂(ふろ)をわかしておいた。そこに新しい服も置いてある。()がえたら庭にこい」」
 モルトはそう言ってあいさつもせず、外へ走り()ってしまいました。
「そっか、おしば……」菖蒲はすぐ口に手をあてます。
 ラベンダーの(かお)るサニタリールームは花がらのトルコタイルでいろどられ、(しん)ちゅう蛇口(じゃぐち)のついた洗面台(せんめんだい)と奥のバスルームには白くてなめらかな卵型(たまごがた)のバスタブが見えます。
「まあ、なんてすてきなのかしら」菖蒲は声をあげ、すぐに服をぬぎ、色とりどりの花をうかべた湯につかります。「ああ、ジャスミンのいいにおい。人生最高のお風呂(ふろ)ね」
 おりかさなるふわふわのタオルを広げ、ぬれた体をふいて服を着がえ、軽やかな足どりで庭にむかいました。
 庭の()(つじ)のちょうどまんなかに立つガゼボでグレエンとモルトは待っていました。ダマスク()りのテーブルリネンがしかれた丸テーブルには焼きたてのパンと野菜スープ、プレートにはオムレツとサラダ、ピンクのティーポットまでならべてあります。
 つばの広い白いぼうしをかぶり、レースのワンピースの菖蒲はくるりとまわり、グレエンはやさしい農夫(のうふ)の顔になります。
「服ぴったりでよかった。ぼうしはすこし大きいかな」
 モルトは大きなせきばらいをします。
 グレエンはすっと立ちあがり、菖蒲のイスを引きます。
「ありがと……」
 グレエンは大きなせきばらいをします。
 モルトは笑いながら、「ふたりともダメだにゃあ。芝居(しばい)をわすれ……」
 菖蒲とグレエンは大きなせきばらいをしました。
「アヤメにはこの庭の手入れをしてもらう」
 おいしい朝食とお茶をしかめっつらで楽しんでいると、グレエンは言いました。
「わたしにできるかしら」
「もちろんできるさ。リリィのだいじにしていた庭だからね」
 そう言ってグレエンは庭の草花について話し、菖蒲は図書館で草花の図鑑(ずかん)やガーデニングの本を思いだしながら聞いていました。
「ご主人さま、むこうの畑はなにもしないのですか?」
 菖蒲は遠く納屋(なや)のまわりに広がる小麦畑を見て言います。
「ああ、あそこは……うん、気にしなくていい」
「そうですか」
 すぐにも収穫(しゅうかく)できそうな、たわわにみのる小麦を気にしなくていいだなんて。菖蒲はすこしふしぎに思いました。
「それよりアヤメ! はやくメシ食べて庭いじりしよう! チョウチョ追いかけて穴ほりするんだ」
「ねえお仕事なのよ、モルト」
「そうさ、ネコの仕事はいつものんびりいそがしいもんなんだ」モルトは自信たっぷりに言いました。
 夕食後、農夫(のうふ)は白馬が脱走(だっそう)していないか、馬小屋の見まわりをするよう菖蒲に命令します。農具(のうぐ)にまぎれた青い剣をさりげなく手に持つとみんな集まり、馬小屋会議の始まりです。
「むかし、ひとつの大きな国がありました」と、アルビレオは語ります。「それは領域(せかい)()べるほど強大な王国で、王の支配により雲にまでとどくほど高い建物が林立(りんりつ)し、たくさんの人を速く運ぶ乗り物、どこでも話せるべんりな機械など、生活を豊かにする技術はまたたくまに進歩をとげました。ただ不信という種もまきました。ちいさな疑いは根を広げ、やがてゆがんだ芽をだします。それぞれ正しいと思う話に花が咲き、たくさんの正義の実を生みました。すると都市には城壁が、家には何重ものカギがかけられるようになりました」
「そのような時、わたしたちの祖先(そせん)はある秘密を知り、だれも知らない山あいにうつり住むようになりました」と、グレエンは言います。
「ある秘密とはなんですか?」
「王国の繁栄(はんえい)には裏がありました。領域(せかい)()べる王は闇、つまり影と手をくんでいたのです。しかし長くはつづかなかった」
「たったひとつの(うそ)から平和はうしなわれ、領域(せかい)全土(ぜんど)荒廃(こうはい)をもたらす大きな戦争がおきました。この領域(せかい)栄枯盛衰(えいこせいすい)の歴史です」と、アルビレオは言います。
「オレの国もその戦争でなくなったんだ」モルトは悲しげに言いました。「約束が力をもったのはそれからさ」
 菖蒲はモルトを(かか)えあげてほおをよせ、『()しわらになった王子さま』の話しをみんなに聞かせました。
「なるほど、そんなことが……」グレエンはすこし考え、言います。「わたしが風車(ふうしゃ)の地下に行った時は、倉庫に赤い指輪(ゆびわ)をかけたわら(たば)と青い剣しかなかった」
「でも王子さまを置いてきたのは、たしかにお城の王座よ」と、菖蒲は言います。
「おそらく」グレエンはあごに手をあてます。「王子がわらになったのはアヤメさま、あなたと関係あるのかもしれません」
「会ったことも、話したこともないのに?」菖蒲はおどろきます。
「きのう、約束の力について話しましたね」と、アルビレオは言います。「青い剣はアヤメさまが手にするととくべつな力を発揮(はっき)しました。つまり、王子はアヤメさまをまじえた大きな約束をだれかとしたのではないでしょうか。それでわらとなった」
「そっか」と、モルトはあいづちを打ちます。「だからアヤメさまだけオレたちの行けない王の()に行ける、というわけか」
「わたし、王子さまをもどす方法なんて知らないわ」菖蒲はうつむきます。「それに王子さまはなぜわたしを知っていたのかしら」
「知らないといえば、ひとつ気になるんだ」グレエンはモルトを見て言います。「王子の友人でヘレム(・・・)なんて名の子ども、山あいの国にいたか?」

興廃の丘

興廃の丘

 さいしょの馬小屋会議から数ヶ月が過ぎた朝。
 ひだつきのエプロンドレス姿の菖蒲は、ブリキじょうろを手につるバラのアーチをくぐり、庭のアガパンサスにあいさつをします。
 ひとつひとつ名前をつけたパンジーに水をやり、ガゼボのそばでさわやかに香るお気にいりのギンバイカとおどり、ペパーミントをつんでハーブティーにします。食事の準備に家のおそうじ、服の洗たくまで大いそがしです。
 観客のいない芝居(しばい)好評(こうひょう)上演中で、菖蒲はものわかりのよい(めし)使いとして主人からとても信頼(しんらい)され、モルトやアルビレオと仲よしになります。
 馬小屋会議は週に一度、日曜日の夜に(ひら)かれました。しかし王子さまをもどす方法がわからず、闇を打ちやぶるための作戦を立てられないため会議は平行線のままです。
 あれから菖蒲は風車(ふうしゃ)にいきませんでした。闇に気づかれるかもしれませんし、グレエンのそばがいちばん安全だと考えたからです。いっぽう風車(ふうしゃ)は大きな時計がチックタクと時をきざむように、風のない日も仕事を休まずまわりつづけていました。
 家事(かじ)()えた菖蒲はアフタヌーン・ティーにみんなを()ぶため、畑へむかいます。
「ご主人さま、お茶の時間です」
 グレエンとモルトは城塞(じょうさい)見張(みは)りをする戦士のようにするどい顔で目をこらし、空に流れる雲を見つめていました。
「お天気、かわりそうですか?」菖蒲も(ひたい)に手をあて空をあおぎます。
「よし!」グレエンはパチンパチンと大きく手をたたき、「いつもよくはたらくアヤメへのごほうびに、日曜日はとっておきのピクニックにでかけよう」。
「まあ、とっておき! なんてすてきな言葉なの!」菖蒲はうれしそうにはしゃぎます。
 闇に(おそ)われるかもしれないと菖蒲は家のまわりしか自由に歩けませんでした。でもほんとうは小麦畑のむこうがどうなっているのか、知りたいと思っていました。

 ピクニック前日の夜。あまりのわくわくに菖蒲の目はぱっちり(ひら)いて、まっ暗な天じょうをいつまでもうつしていました。
「ねえ知ってる? たのしみはたのしみにしている時がいちばんたのしいのよ、アヤメ」
 もうひとりのアヤメは寝てしまったのでしょうか、部屋は静まり、そばで丸まっているモルトのかすかな寝息(ねいき)まで聞こえそうです。青白い月明かりはレースのカーテンをぬけてゆかに窓の陰影(いんえい)をぼんやりえがき、ときおりゆらゆらとすきま風にゆられ、光と影がワルツをおどっているようでした。
 菖蒲は頭を起こして過ぎてしまった今日を思いめぐらしていると、コツンコツン。だれか窓をたたいたのか、それとも小石でもあたったのでしょうか。菖蒲はモルトを起こさないようにそっとベッドからはなれ、そばにかけたカーディガンをはおり、()()けて外をのぞきます。夜空をくりぬく、まん丸の月に()らされた庭はすやすや眠っていました。
「気のせい、だったのかしら」
 菖蒲が家にもどろうとすると、ガゼボのむこうから影絵(かげえ)がひょっこりあらわれます。
「こんばんは、わたしはアヤメ。あなたはだれ?」
 目の前に立っていたのは、こいむらさき色の長い(かみ)、左右の(ひとみ)に一点の星がかがやく美しい顔立ちの少年のかたちをした影でした。
 少年の影は菖蒲など気にせず、地面の土にえがいた丸をぴょんぴょん飛んでいました。
「けーんけーん、ぱっ」菖蒲は声をだして少年のあとにつづきます。
「ねえ、これだけじゃかんたんすぎよ。わたしがもっとむずかしくしてあげる」そう言うと(ぼう)きれで丸をいくつかかきたします。
 少年は菖蒲の作った丸を器用(きよう)にこなし、こんどは少年が丸をふやします。(だま)ってけんけんぱを交互(こうご)にくり返し、ついにバランスをくずした菖蒲はつまずいてしまいます。
「あーあ、わたしの負け。あなたと遊べて楽しかった。おやすみなさい」
 そう言って菖蒲は少年に手をふります。
「わたしの名はイシュ。父を待っている」
 悲しみをまとう、はかなく()んだ声に菖蒲は思わずふり返ると、そこにはだれもいませんでした。

 とっておきの日は青空で風もおだやかです。花がらチュニックにカプリパンツ姿で庭の仕事をいつもより早めにすませます。そでなしの白いワンピースに()がえてから大きなバスケットを持ち、菖蒲とグレエンとモルト、それにアルビレオも連れてピクニックに出発です。
 小麦畑のあいだにのびる小径(しょうけい)を進むと風車(ふうしゃ)は遠くに消え、整然(せいぜん)とならぶ黄緑色のポプラ並木(なみき)が見えてきました。並木道にそってしばらく歩き、てらてらかがやく小川にぶつかり、グレエンは対岸(たいがん)雑木林(ぞうきばやし)をさしたので、菖蒲はくつをぬぎ、足を水につけます。目のさめるほどひんやりつめたく、「ひゃっ」と声をあげ、あわてて対岸へわたります。美しいシラカンバ林の()もれ()はモザイクのようにしめった土をてらし、うっすら蒸気(じょうき)をあげていました。
 プチプチプチ、ポキポキポキ、パリパリパリ。地面に落ちる木の実や枝や葉を足でふみつける音は、ここちよいリズムで、すっかり気分のよくなった菖蒲は歌を歌いはじめました。

  きまま きまま ネコはいつもきまま
  きまま きまま カゼはいつもきまま
  きまま きまま ソラはいつもきまま
  きまま きまま クサはいつもきまま

「なんだその歌?」グレエンは首をかしげます。
「おれのつくった歌さ。気ままにゃものをにゃんでも歌うんだ」
 モルトは偉大(いだい)な作曲家のように言います。
「庭で水やりをしていると、モルトはいっつも歌うから、おぼえちゃったのよ」
「つまらない歌詞だなぁ」と、グレエンはあきれます。
「だからいいのさ、グレエン。かこくにゃ労働(ろうどう)には、にゃんでもない歌を歌えば気がまぎれる」
「モルト、おまえは菖蒲のそばにいるだけじゃないか」
「それはちがうぞグレエン。オレはアヤメが逃げないよう目をひからせているのさ」
「ずいぶんのんきなもんだ。アヤメは逃げないだろうし、明日からオレのそばで仕事するかい、モルトくん?」
「ご主人さま、それはそれはなんてすばらしい案なのでしょう! そうしていただければ、わたくしはモルトのへんな歌になやまされずにすみますわ」菖蒲はいたずらっぽく言います。
「きまま きまま ネコはきまま!」
 モルトは歌いながら先頭(せんとう)に走り、わざとらしくしっぽをふります。
「まあ! 知らんぷりして!」と、菖蒲は大笑います。
 こんなに楽しそうにして、闇の監視(かんし)をわすれたのでしょうか。いいえ、じつはこれも芝居(しばい)で、農家の休日というひとつの場面を演じていたのです。
 シラカンバの林をぬけた先には、おだやかな風のふく、青々とした草原がどこまでも広がっていました。
「ここがとっておきの場所、興廃(こうはい)の丘だ」
「なぜ興廃(こうはい)なんですか?」菖蒲はグレエンに聞きます。
「ここはむかし、高い城壁(じょうへき)にかこまれた都市だったが、大きな戦争によりほろびた。いまはアリ一匹住めないほどけがれた土だけがのこっている」
「こんな美しい丘で争いなんて信じられない……」
 菖蒲はまゆをよせ、なびく(かみ)に手をあてます。
(つま)のリリィはここで闇にのみこまれた」グレエンは言いました。「あの日、ふたりで丘をながめていた。とつぜん、空から黒い大蛇(だいじゃ)(おそ)ってきて、リリィの手をつかみ逃げようとしたが、彼女(かのじょ)はわたしの手をふりほどき、大蛇(だいじゃ)に立ちむかっていった。きっとリリィは覚悟(かくご)していたのだろう」
——リリィ。菖蒲はすぐにわかりました。寝室(しんしつ)のポストカード立ての女です。
「すべての秘密を今晩(こんばん)、最後の馬小屋会議でつたえよう」
 グレエンからの終幕(しゅうまく)の予告に、菖蒲はなにもこたえられませんでした。
「おーい、おふたりさん!」遠くでモルトが呼びかけます。「ぼけっとしてにゃいで、はやくランチにしよう!」 
 グレエンはうつむく菖蒲の顔をのぞき、にっこり笑い、軽々と(かた)にのせて走ります。
 みんなでピクニックシートを広げ、バスケットからグラスとお皿を取りだせばランチタイムのはじまりです。グレエンは野菜のサンドイッチをおいしそうにいくつも食べました。
 菖蒲謹製(きんせい)サンドイッチは食パンから手作りです。粉やイーストをまぜあわせてぬるま湯をいれ、まとまったならバターをもみこみ生地をこねます。発酵(はっこう)させて生地をくるくる丸め、四角(しかく)(かた)でもう一度寝かせ、石窯(いしがま)で焼きます。なんどやってもうまくふくらまず、カチカチの石っころパンも、ふっくらと焼きあげられるようになりました。庭でとれたきゅうりやトマト、ふわふわスクランブルエッグをパンにはさみます。もちろんバターにマヨネーズソース、マスタードもかかさずに。
 グレエンやモルト、アルビレオだって菖蒲の料理をいつもほめますし、失敗したならみんなで大笑いしました。菖蒲はうれしくて、もっともっとおいしい食事を作ります。
 ジャガイモのグラタンにデザートのフルーツまでおなかいっぱい食べたあとは乗馬です。アルビレオに乗れるのは主人である王子さまだけですが、とくべつにゆるしてくれました。
グレエンは菖蒲をアルビレオの()にのせます。まるでソファのようにふかふかな乗りごこちで、かけだすとまわりの景色はひゅっとうしろに流れ、あっというまにグレエンは遠くにいます。
「アルビレオには見えない翼があるのね。だってふんわりういているみたいなんですもの」
「わたくしの祖先(そせん)は天をかけていたと聞きます」と、アルビレオは言います。「でもほかの馬でおなじようにしてはなりませんよ。かならず痛い思いをしますから」
 シロツメクサのかんむりをグレエンの頭にのせて王さまごっこもしました。お城のくらしにたいくつなアヤメ姫を白馬アルビレオにまたがる騎士(きし)グレエンが大冒険につれだすお話しです。
「ちょっとまて!」モルトは不機嫌(ふきげん)そうに言います。「にゃんでオレは従者(じゅうしゃ)役にゃんだよ!」
「にゃんにゃんって。従者のモルトはネコみたい」
「オレはずっとネコだ!」
 みんなピクニックがいつまでもずっとずっと続けばいいのに、と思いました。でも、わかれはむかえるのではなく、やってくるものだと、その夜に知ることになりました。

王子さまの約束

王子さまの約束

 菖蒲はこの領域(せかい)でふたつの悲しい夢を見ました。ひとつめは、興廃(こうはい)の丘へピクニックにでかけた日の夜です。
 一本のリンゴの木がみるみるうちにしおれ、菖蒲は()れないよう懸命(けんめい)に水をやりますが、うまくいきません。リンゴの木にお願いしても、()いてやっても、なでてもうまくいかず、苦しむリンゴの木をただながめるしかできませんでした。
 ついにリンゴの木は倒れて(ちり)となり、天から低い声が聞こえてきます。
(むすめ)よ。どんなに()うても、おまえは一本のリンゴの木ですら、救うことはできない」
 菖蒲は目をさまし、ぼんやり天じょうを見つめます。
「わたしのもとに来て」
————王子さまがわたしを呼んでいる。
 菖蒲はベッドからすべりおり、()がえて家を飛びだします。
「ここは……どこなの?」
 闇におおわれた空には赤黒くそまる巨大な(へび)がうねり、そこかしこに聞こえる断末魔(だんまつま)のさけびや慟哭(どうこく)、ときの声は菖蒲の耳奥をかきまぜます。まるでおぞましい戦争の渦中(かちゅう)にほうりだされたように土ぼこりをまいあげ、地面をゆらす軍隊(ぐんたい)の足音に火薬と鉄、じっとりした血の臭気(しゅうき)は鼻にまとわりつき、菖蒲は体を()り、()きけをもよおして口をおさえます。
 ギロリとにらみつけられるような強い視線を感じた瞬間(しゅんかん)、思わず顔をあげると眼前(がんぜん)には大蛇(だいじゃ)がいまにもおそいかかろうと口をいっぱいに広げています。あまりの恐怖(きょうふ)に逃げなければと気はあせるも、両足はガタガタふるえ、体もまったくいうことを聞きません。
 するどいきばの先たんから鮮血(せんけつ)をしたたらせ、口の奥から青白い手のようにわかれた舌がのびて菖蒲の首をしめあげ、ずんずんせまります。
 もだえる菖蒲は全身を緊張(きんちょう)させ、目をギュッとつむったその時、小麦畑の方角(ほうがく)から青い閃光(せんこう)が一直線に大蛇の赤い眼をさし通し、菖蒲をつつみます。
「走れ! 走れ!」身をよじる大蛇のむこうに立つ戦士はさけびます。
「グレエン!」
 大蛇にふり落とされた菖蒲は、グレエンの持つ青く光る剣がさす風車(ふうしゃ)目がけ、夜陰(やいん)()って一心不乱に走ります。
 命からがら風車(ふうしゃ)に飛びこみ扉を閉めると()にしてよりかかります。息をあげ、ひたいから流れるつめたい(あせ)をぬぐい、悪夢から遠ざかるようによろよろと奥の階段へちかづきます。
「アヤメさま」
 菖蒲はおどろいて(かた)をびくりとさせ、声のするほうに体をひねります。
「モルト!」菖蒲は涙をポロポロこぼし、「グレエンが……グレエンが! どうしよう!」
「アヤメさま、どうかおちついて。グレエンには王子の剣があります。それよりこれを」
 モルトはガーネットのような赤い指輪(ゆびわ)のついた金の首かざりをくわえていました。
「王子さまの指輪……なぜわたしに?」菖蒲は目をぬぐい、たずねました。
「時はつきました。闇は山あいの国を、いいえ、この領域(せかい)を、そしてアヤメさまを消そうとしています」
「でも、わたしたち気づかれないよう芝居(しばい)を!」
 モルトは首を横にふります。
「あれは時間かせぎほどのまやかし。すでに闇はアヤメさまに気づいています。ここにいればめちゃくちゃにされるでしょう。あの闇は冷酷無比(れいこくむひ)です」
「そんな……」
「よくお聞きください。オレたちはアヤメさまにすべてをたくします。お願いです、王子をどうか、どうかもとの姿にもどしてください。そうすれば闇を打ちやぶることができるはず。これはグレエンからの伝言です。「赤い指輪はきっとアヤメさまの役に立つでしょう。ただしお気をつけください。指輪の力と引きかえに、たいせつな思い出をわすれさせる【忘失(ぼうしつ)の約束】を守らなければなりません」」
 菖蒲は首かざりを身につけてモルトをかかえあげます。
「オレはこれから王にすべてをつたえるため、山あいの国にもどります。でも生きて帰れるかどうか」
 モルトの毛は(さか)立ち、わなわなふるえています。
「わたしの大好きなキジ三毛ネコのモルト、あなたと約束する。王子さまをもとの姿にもどして帰ってくると。それまでぶじでありますように」
 菖蒲はモルトとひたいを合わせ、目を閉じ、ふっと息をふきかけます。するとこわばる体はゆるみ、いつものおだやかなモルトにもどりました。
「アヤメさま、感謝します。オレたちは闇をおそれ不安でした。でもアヤメさまとのきらきらかがやく生活は、すべてわすれるほど楽しい日々でした。アヤメさまはオレたちのきらめく星、雲のあいだからふりそそぐ太陽です。オレも約束します。アヤメさまを信じて待つ、と」
 モルトは菖蒲の手からするりとぬけて、外の闇に走りさりました。モルトを見送った菖蒲はいそいで地下にある王の()にむかいます。
「大きな蛇がわたしを食べようとした時、グレエンの手にある青い剣はアヤメ、あなたを守ったわ」
「そうよ」と、菖蒲はアヤメに言います。「だからやっぱり王子さまの約束にわたしが関係している」
 王の間は王子さまをもどしたあの日からピタリと時間が止まっているようでした。菖蒲は王座につづく石階段をのぼり、灯りに照らされる王子さまを抱きしめます。
「わたしの名はアヤメ。あなたとあなたの友だちをたすけたいの。あの約束をおしえて」
 菖蒲の首にある赤い宝石の指輪はかがやきはじめ、強い光にみたされます。燭台(しょくだい)の炎はゆらゆらゆれ、王座にすわる黒く燃える影と、青い剣をかまえた小麦色の髪の少年が見えました。
——————
「むかし、おまえの国は(ワレ)とひとつの契約(けいやく)を結んだ。それは国の安寧(あんねい)と引きかえに王の子ひとり国から追いだすこと。しかし追放(ついほう)する子になにもつたえてはならない。また子は自発的に国をでなければならない。干しわらの王子、おまえのことだ」
「そう、そのためわたしはここにきた」燃える影に王子さまは不敵(ふてき)()みをうかべて言います。「きさまを打ちやぶるために。真実をつたえられずとも大義(たいぎ)はなせる。わすれたか、世を()べる王よ」
「なんだと」
「よく聞け! わたしはおまえとひとつの約束をする。わらとなり、かわききったわたしのくちびるを、この領域(せかい)のものではない少女が扉のない中庭にある井戸の水によってうるおす。その時、青き剣はきさまを打ちやぶる力をえる」
「はっはっはっは!」燃える影は身をのりだし、「ついに気がふれたな。その女はどうして干しわらのおまえがヒトだと、まして王子とわかるのだ。かりに知ったとて、なぜおまえのためにありもしない庭の井戸とやらの水をあたえるというのだ」。
「不可能だからこそ、この約束には大きな力がある」王子さまは王座のそばに立つ菖蒲をじっと見て、目をほそめます。「どうした、(うたが)いにのまれ、信じるのをやめた臆病(おくびょう)な王よ、おびえたか?」
「なんたる侮蔑(ぶべつ)追放(ついほう)されたガキめが!」影は黒い炎をゴオゴオ燃やし、王子さまを食いつくさんばかりです。「よかろう! 挑発(ちょうはつ)にのった。しかし約束が()たされぬその刹那(せつな)、その女もろともこの領域(せかい)すべて()ぼしたやしてくれるわ。さあ、いますぐわらとなれ!」
——————
 王の()はふたたび眠りについたようにうす暗く、指輪はもとの赤色にもどっていました。
「あなたの物語にわたしが、わたしがいたわ!」
 おどろく菖蒲の背後(はいご)で扉はきしんだ音を立てて開きます。
 おりてきた階段がこんどは下へとつづく階段になっているではありませんか!
 不自然な本の空白、図書館の窓から見えた扉のない中庭、そして王子さまの約束。それぞれパズルのピースはつながりました。
 菖蒲は王の()をあとに階段をおりていきます。
 こうして、()しわらになった王子さまを助けるための長い長い旅は始まりました。

通路の消失点

通路の消失点

 まっ白な壁の通路は、あまりの長さに先が見えません。まるで(ちゅう)()いているような白い窓が等間隔(とうかんかく)にならび、ガラスはなく、のぞいても外に広がるのは白でした。
 しばらく歩いていると、おりてきた階段はだんだん遠くなり、やがて周囲(しゅうい)の白とまじりあい、消えてしまいます。
「どこまでつづくのかしら」
 ()わりのない通路の消失点は黒いつぶのようでこちらにむかっていつまでも大きくなることはありません。菖蒲は目をこらし消失点を見つめていると気分(きぶん)がわるくなり顔を右にそむけます。
 すると窓の下にちいさな文字が書かれていましたので、かがんで読みました。

 ミエルモノガサキデワナイ
   ケレドモミエナクバサキニワユケナイ

 菖蒲は目をゴシゴシこすり、右目だけで消失点を見ると左側に点があります。こんどは左目だけを見ると右側に点があるのです。両目で見れば点は左右にひとつずつ、ゆっくりまん中によってかさなりました。それから通路の消失点を手でふさぎます。
「見えるものが先ではない。けれども見えなくば先にはゆけぬぞ、アヤメ」
 菖蒲は物知(ものし)り老人のつもりでふらふら歩きます。
 ゴチン! 通路にひびくにぶい音。
「いったああい。もう!」頭のまわりに星がチカチカまたたきます。
 ずきずきするおでこをおさえ、うらめしそうに顔をあげると木製(もくせい)の扉がありました。
「『前方注意(ぜんぽうちゅうい)』をそえてほしいわね。まったく!」
 菖蒲は通路にもんくを言い、扉を()けて(はい)りました。

雨にぬれる教室

雨にぬれる教室

 窓の外は雨でした。
 コンクリートのしめったにおいがする通路にはいくつかの部屋とそれぞれ上方に数字のない室名札がつきでています。
 まるでどこか知らない小学校に迷いこんだようで、ちょっぴりドキドキした菖蒲はてきとうに(ひら)いたクリーム色の引き戸から部屋をそっとのぞきます。
「だれもいないわねアヤメ。おやすみかそれとも廃校(はいこう)だったりして」
 菖蒲はぶるぶるっと肩をふるわせ、となりまたとなりと順番に教室をのぞき、水たまりのある部屋で足を止めました。
 スチール丸パイプのフレームに木製の座面(ざめん)、背もたれ、天板(てんばん)のついたつくえとイスは六列五段に整然(せいぜん)とならび、制服(せいふく)()た男子や女子の大きなビスク・ドール生徒たちがカサを広げてすわっていました。教室の天じょうはぬけ落ちたようにまるでなく、部屋全体が雨にぬれ、ジメジメした(いん)うつなようすに菖蒲の気分(きぶん)も暗くなります。
 すると、ヒタヒタろうかを歩く足音がこちらにちかづきます。
「お、おばけ!」あとずさりする菖蒲。
「ほっほう、おばけとはしっけいな。きみは転校生かね?」
 グレーチェックのスリーピースに濃紫色のネクタイをつけたフクロウは、黒いこうもりカサを手に(かた)をそびやかし菖蒲のまえにあらわれました。
「こんにちは」菖蒲はホッとして言います。「わたしは転校生ではありません、フクロウさん」
「ほっほう、きみ、わたしのことはセンセイと呼びたまえ。それに転校生でなければ、なぜここにいるのかね。さては新しい学校がいやでウソをついているのではあるまい」
「あの、わたしは……」
「ほっほう、すぐに教室に(はい)りたまえ」
 フクロウ先生はうろたえる菖蒲を雨の教室につれていきます。
「ほっほう、ところできみ、カサはあるのかね?」
「いいえ、先生。教室でカサはさしませんもの」
「ホッホー! 横着(おうちゃく)な生徒め。社会にムダはない。つねに備えをせよ!」
 フクロウ先生は半分閉じた目で持っていたカサを菖蒲に()し、おりたたみカサを広げました。
「ありがとうございます」
「ほっほう、時間はない。いそいで黒板のまえに」
 バケツの水をこぼしたような(ゆか)はつるつるすべり、菖蒲は手足をじたばた、(こし)をふりふり、なんとか教だんにたどりつきます。
「ほっほう、生徒諸君(せいとしょくん)。このクラスに転校してきた生徒である」
 フクロウ先生は(たん)々と早口でビスク・ドール生徒に言います。
「きみ、いそいで自己紹介(じこしょうかい)を」
「こんにちは。わたしはアヤメです。よろしくおねがいします」
 もちろん教室内のビスク・ドール生徒はビスク・ドールなので、だれも返事をしません。
「ほっほう。いそいで席は窓ぎわ、前から三番目へ」と、フクロウ先生は席をさします。「ほかのつくえにけっしてふれぬように! 席のずれは社会のみだれ!」
 菖蒲はじたばたと席にむかい、びしょぬれのイスに(こし)かけます。
「ああ、これまでの学校生活で最低な日がたったいま、更新(こうしん)されたわ」
「ほっほう、さて生徒諸君、()に人生はふりやまぬ雨のようである。そのため教養(きょうよう)をもってたちむかいまた……」
 ザーザー、パチンパチン。フクロウ先生のたいくつな授業(じゅぎょう)は、たえまなくふる雨音でほとんど聞こえず、服もしめり、菖蒲のがまんはついに限界(げんかい)をこえます。
「フクロウセンセイ!」菖蒲は手をあげ起立(きりつ)します。「なんにも聞こえません。となりの教室に移動できませんか?」
 フクロウ先生は菖蒲をにらみつけて言いました。
「ほっほう。わたしはきみに意見をもとめていないし、立つよう指示(しじ)もしていないのだが」
「でも!」
「ほっほう、わたしは『でも』という言いわけがましい逆説(ぎゃくせつ)接続詞(せつぞくし)がもっともきらいな言葉なのだ。わかるかね?」
「で……先生の声が聞こえなければ、だれも授業(じゅぎょう)についていけません」
「ほっほう。生徒諸君はどう思うかね?」
 ビスク・ドール生徒たちはなにも言わず、まるで雨音がヒソヒソばなしをしているようです。
「ほっほう、みな異論(いろん)はないようだ」
「そんなのむちゃくちゃよ。だってしゃべれないもの」
「ほっほう。アヤメくんは、はなはだ社会ルールをわかっていないようだ」フクロウ先生はあざけるような目で菖蒲を見ます。「まぎれもない事実(じじつ)として、雨のふる教室ではみながカサをもち、授業を受ける。先生はわたしで、きみは生徒だ。わたしはきみに発言するようにも、立つよう指示してもいない。さらにきみのほか、どの生徒も不満はない。ゆえにこれは社会通念(しゃかいつうねん)である。それにもかかわらず、わたしの授業をぼうがいし、風紀(ふうき)をみだす。この不良生徒め!」
「まあ! しつれいね!」菖蒲は声をあらげます。
「ホッホー、聞いたかね生徒諸君!」フクロウ先生は生徒たちにむけ、いかにも大げさに身ぶり手ぶりをしながら熱をこめ、大声でまくしたてます。「ホッホー、こういう無作法(ぶさほう)な不良生徒が社会において法と秩序(ちつじょ)をおびやかし善悪(ぜんあく)他者(たしゃ)強制(きょうせい)しかつ大通りを占拠(せんきょ)して示威(じい)行為(こうい)をし燃えさかる火にまきをくべるがごとく主観的(しゅかんてき)批判(ひはん)大仰(おおぎょう)にくりかえすホッホーらもこのようなホッホーにはじゅうぶん気をつけたまえホッホッホッホー!」
 菖蒲はまゆをしかめ、ほおをふくらませてイスにすわろうとします。
「ホッホー、これからは指示(しじ)にそむかぬように! わかったのなら返事だけをしてすわりたまえ、不良生徒のア、ヤ、メ、くん」
「……はい」
「ほっほう、よろしい。この機会(きかい)に社会通念がいかに至要(しよう)たるものか、諸君(しょくん)らにおしえたいと思う。それをつぎのホッホーで話そう。では休けいとする」
 フクロウ先生は勝ちほこったように教室をでていきました。
 ベーっと(した)をだした菖蒲はとなりのビスク・ドール女子に耳打ちします。
「ねえ、ひどいと思わない? なんにも聞かないでホッホーホッホーって」
 チュンチュン、コツコツ。
 ビスク・ドール女子から鳴き声とつつく音がします。雨があたっているのでしょうか。そうではないようです。ビスク・ドール女子に耳をあてると中からわずかに音が聞こえるからです。
 菖蒲はカサをさすビスク・ドール女子をゆすります。チュンチュン、コツコツ、チュンチュン、コツコツ。重たいビスク・ドール女子をぐいぐい動かし、さぐっていると……ガシャリン! こなごなにくだけちったビスク・ドール女子の悲鳴(ひめい)が教室中にひびきます。
「きゃあ! フウロウセンセイに見つかったらどうしよう!」
 菖蒲はあわててバラバラのビスク・ドール女子にちかづきます。
「ちゅんちゅん」小鳥がひょっこりあらわれて言いました。「たすけてくれてありがちゅん」
「あなたは、スズメさん?」
雨宿(あまやど)りのつもりが、とつぜん閉じこめられてしまってね。暗いし、遠くでぶきみなさえずりは聞こえるし、ほんとこわかっちゅん」と、スズメは言います。
「はじめまして、わたしはアヤメよ。もしかしてほかにもスズメさんはいるのかしら」
 それでこんどは前のビスク・ドール男子をこわしてみます。
「ちゅんちゅん、たすけてくれてありがちゅん。雨宿りのつもりが……」
 菖蒲は1羽目のスズメと目をあわせ、うなずきます。うしろのビスク・ドール女子も、そのまたうしろも、われたビスク・ドールからスズメが一羽あらわれました。それでカサをほうり投げ、教室中のビスク・ドール生徒をこわします。いやみったらしいフクロウ先生の顔を思いうかべ、投げたりけったりふんづけたり。ぜんぶで二十九羽のスズメたちは教だんに集まりました。
「さて、これからどうしよう」菖蒲はスズメたちにたずねます。
「ちゅんちゅん、雨がふっているからぼくたちは飛べないちゅん。どこか晴れている空はないかな」
 このままではフクロウ先生がスズメたちを閉じこめてしまうでしょう。なにかよい方法はないものか、菖蒲は教だんを探してみると引きだしに新品の十二色チョークの入った木箱を見つけました。
「これだわ!」
 菖蒲は王子さまの首かざりから指輪をはずして右手の中指にはめると赤い宝石は炎のように燃えてかがやきます。
「きまま、きまま、ネコはいっつもきまま」
 モルトの歌を口ずさみ、新品のチョークで黒板に緑色の草やシロツメクサに青い空、白い雲、遠くには雑木林を描きました。みんなでピクニックにでかけた興廃(こうはい)の丘の絵です。
「これはわたしのたいせつな思い出の場所なの。あなたたちにぴったりな青空があるわ」
 菖蒲は先生のようにスズメたちに興廃(こうはい)の丘についておしえてあげます。
「……そういうわけで、あなたたちがのぞむなら、黒板にむかって羽ばたいてみましょう」
 アヤメ先生のすてきな授業にスズメ生徒たちはすっかり感心して拍手(はくしゅ)喝采(かっさい)です。
「ちゅんちゅん、あそこなら自由に飛んだり、あの林に家をつくったりできちゅんね」
「そうだちゅん」
「よし、きめちゅん」
「アヤメセンセイ、おしえてくれてありがちゅん!」
「うれしいわ。あなたたちにお願いがあるの。おなじように空を飛びたい鳥たちを見かけたら仲間にむかえてほしい。それとキジ三毛のネコと白い馬と大男の農夫(のうふ)にアヤメは元気だとつたえてもらえる?」
「もちろん。約束しまちゅん!」
 スズメたちは声をそろえてこたえ、黒板の絵にむかって元気よく飛びだします。アヤメ先生は手をふり、生徒たちの卒業を見とどけてから指輪をはずし、首かざりにもどします。そして学校と友だちをわすれてしまいました。
「ホッホー!」顔をまっ()にしたフクロウ先生は、くちばしをふるわせて言います。「なんてことをしてくれたのだ!」
「フクロウセンセイ。生徒はみんな巣立っていきました」菖蒲は笑顔で言います。
「ホッホー、きみはわたしをバカにしとるのかね」
「いいえ、かわいいスズメたちがぶじに大空へ飛び立ててよかった」
「ホッホー。無責任な自由のどこがよいのか。もし捕食者にでもねらわれたらどうするのかね! もし他者を傷つけでもしたらどう責任(せきにん)をとるつもりなのだ。きみは仮定もせず結論をみちびくつもりか!」
「生徒たちを信じればいいのよ、フクロウセンセイ。スズメたちは青空をもとめ、(つばさ)をもっています。わたしにはないすてきな個性だから、それをいかせる場所をおしえてあげただけ」
「ホッホー、詭弁(きべん)だな」フクロウ先生は()()てるように言います。
「あら、そうかしら。フクロウセンセイもほんとうはそうしたいんでしょ?」
「ホッホー、なにをバカな」首をくるくるまわすフクロウ先生。
「だって番号のない教室とか新品の十二色チョークとかスーツとか、どこかで聞いた理屈(りくつ)をこねこね。フクロウセンセイはなれないものにムリしてなろうとするから」
「ホッホー、無礼者(ぶれいもの)!」フクロウ先生は羽を大きく広げ、ツバを飛ばしてどなりつけます。
「フクロウセンセイも(のぞ)むなら、あの空で自由に飛べるのよ」
「ホッホー、きみのような不良生徒はいらん。退学(たいがく)だ。すぐにでていきたまえ!」
「さようなら、フクロウセンセイ」菖蒲は手をふってわかれます。
 教室にのこされたフクロウ先生は顔をあげ、黒板の絵をさびしそうにながめました。
「ほっほう。わたしに希望はまだのこっているだろうか」
 ぽつりとそう言ったフクロウ先生はスーツをぬぎ、黒板にむかって飛んでいき、絵は雨水に流され、消えてなくなります。
 やがて雨はやみ、だれもいない教室ではビスク・ドールのかけらが陽にあたってキラキラとかがやき、水たまりに青空をうつしていました。

騒々しい法廷

騒々しい法廷

「セイシュクに! セイシュクに!」
 アリの()裁判所(さいばんしょ)裁判長(さいばんちょう)はさわがしい法廷(ほうてい)を静めようと声をあげます。しかし、なかなか話し声はやみません。
 裁判所(さいばんしょ)のうしろでは働きアリたちが女王アリのためにせわしなく食料や部屋をととのえていました。
 菖蒲は砂をかためた傍聴(ぼうちょう)席にすわって裁判(さいばん)のゆくえをぽかんとながめています。なにがおきているのかわかりませんし、みんな黒いアリで見わけもつきません。
「サイバンチョウ。ワタシはジョオウのためにハタラきツヅけてきましたし、これからもそうするつもりでした。それをショクムホウキのヒトコトでカタヅけてヨいでしょうか!」
 原告(げんこく)らしい集団(しゅうだん)のうち一匹のアリは裁判長(さいばんちょう)アリに主張(しゅちょう)します。
「そうだそうだ!」ほかの原告(げんこく)アリたちは同調(どうちょう)します。
「ワタシタチハタラきアリのジョウキョウをまるでリカイせず、いきなりカイコはフトウではないかといっているのです」
「そうだそうだ!」
「ではなぜ、まずデンタツアリにツタえなかったのだ」と、被告(ひこく)アリは反論(はんろん)しました。「シレイアリのメイレイをまってからコウドウするのがルールではないのか。それをおマエたちハタラキアリはレツをミダし、ハタラキアリゼンタイのイノチをキケンにサラした!」
 働きアリ側の弁護(べんご)アリは異議(いぎ)をとなえます。
「コウセンテキなテキにレツをミダさずにマつのはジメツしろとイっているようなもので、クロアリケンポウダイジュウサンジョウ、コジンのイノチのソンチョウにハンしている。また、ハタラキアリとシレイアリとのタイグウがチガうのはモンダイである。イノチをカけてゼンセンにタつ、ハラタキアリとブルジョアリーのサベツは、クロアリケンポウダイジュウヨンジョウにイハンしている」
「そうだそうだ!」。
「シッケイな」被告(ひこく)アリは鼻息(はないき)あらくして言います。「ワレワレもジョオウのためにこのミをササげている」
「しかし、ハタラキアリのリスクとイノチはケイイではないか。まさかキミタチはジョオウのおキにイりだからと、ふんぞりカエっているのではあるまい」
「そうだそうだ!」
「ブジョクザイである!」被告(ひこく)アリは前足をだして(うった)えます。
「ブジョクといったらキミタチだろう!」働きアリ側の弁護(べんご)アリは言います。
「そうだそうだ!」
「いいや、キミたちだ!」
 法廷内(ほうていない)はいちだんと騒々(そうぞう)しくなります。
「セイシュクに! セイシュクに! ホウテイですぞ。ヒンイをカくことナきように!」
 裁判長(さいばんちょう)アリは木づちをトントンとたたいて静聴(せいちょう)をうながすものの、さわぎはおさまりません。
 菖蒲はとなりで傍聴(ぼうちょう)しているアリに、なぜこんなにさわがしいのかをたずねます。
「クビになったハタラキアリが、シュウダンソショウをオこしたのですよ」と、アリは言いました。
「どうして仕事をクビに?」
「ヒエアリキーというやつです。ジョオウのメイレイからニげたのがゲンインのようで」
「女王の命令(めいれい)、ですか?」
「ええ、コロニーのジョオウはアタラしいマクラに、ホンをショモウされたのです。なんでもチエがつくとか。それでハタラキアリはトショーカンのモリにハケンされたそうですが、ホえたけるキョダイカイブツにオソわれ、イノチからがら、ニげてきたらしいのです」
「まさか」菖蒲は図書館のことを思いだします。「王子さまの本をやぶいたアリたちかしら」
「ジョオウはオカンムリでハタラキアリゼンインカイコし、ベツのアリをヤトうとコロニーはオオサワぎ。ワレワレアリはコロニーでシゴトをウシナえばルンペンプロレタアリとなってサイシュウショクはムズカしいのです。それにジョオウにジキソはできないので、こうしてサイバンショにうったえているというわけです」
「そんなのおかしいわ。ちょっとうまくいかないからって、なにも解雇(かいこ)しなくても」
「いえいえ、ここはまだヨいほうですよ。ソショウをおこせるサイバンショすらないコロニーはざらですし、モンドウムヨウでシケイなんてジダイオクれもハナハダしいコロニーもケッコウありますから」
「そ、そんな!」菖蒲は目を大きくしておどろきます。「アリの領域(せかい)ってそんなにきびしいの?」
「はい。アリオロギーにシバられているんですよ」傍聴(ぼうちょう)アリは足をくみ、言います。「ここもムカシはそうだったのですが、プロレタアリによってカイゼンされたのです。サイキンはジョウホウカのナガれで、キュウタイイゼンとした、タンジュンなシュジュウカンケイはフルクサいとカンガえるワカいアリもフえました。ワタシのようなジャーナアリもペンでタタカっています」
 傍聴(ぼうちょう)アリはとくいげにペンをクルクルまわします。
「なんだかよくわからないけど、女王におしえてやらなきゃ」
 菖蒲は傍聴席(ぼうちょうせき)をすっくと立ち、裁判長(さいばんちょう)アリにむかって言いました。
「あの、みなさーん。お話しのところすみません」
 いくら声をかけても、みんな自分の発言(はつげん)夢中(むちゅう)で、菖蒲など見むきもしません。
「みなさん! ちょっといいですか!」
 菖蒲が大声で(さけ)ぶと法廷内(ほうていない)は水を打ったように静まります。
「この裁判、わたしも関係していると思うんですけど」
 一匹の原告アリが菖蒲をじいっと見て、「あぁぁっ! こいつです、サイバンチョウ! ワレワレのシゴトをボウガイしたハンニンアリは!」
「ちょっと、わたしはアリじゃないわよ!」
「ハンニンミズカらシュッテイしてくるとは、なんてふてぶてしいカイブツだ!」
「カイブツってのはずいぶんしつれいね」菖蒲はむっとして言います。「そもそも女王がわるいのよ」
「ワレワレのジョオウをワルモノあつかいするとは!」
「ブジョクザイだ!」と、被告(ひこく)アリ。
「そうだそうだ!」と、原告(げんこく)アリ
「よろしい!」裁判長(さいばんちょう)アリは強い口調(くちょう)で菖蒲に(めい)じます。「コエデカフテブテシカイブツアリよ、ショウゲンダイへ!」
「わたしはふてぶてしくも、アリでも、カイブツでもないわよ! ちょっと声は大きいけど」
 菖蒲は土の上をずかずかと歩き、砂でかためた証言台(しょうげんだい)にどっしり立ちます。
「こりゃあオモシロいコトになったぞ」興奮(こうふん)して身をのりだすジャーナアリ。
「わたしはあなたたちの女王に言いたいことがあるの。まくらにするために本をやぶっていけないし、知恵をつけたければ本は読まなきゃダメよ。わかった?」
 さわがしかった法廷内(ほうていない)はしんと静まり、アリたちはひややかな目で菖蒲を見ます。
「なによ、なんでみんなだまるわけ?」
 裁判長(さいばんちょう)アリは二、三回せきばらいをします。
「それだけかね?」
「そうよ。そもそも女王の命令がまちがえてるんだから」
「ハンケツ!」裁判長(さいばんちょう)アリはトントンと木づちを強く打ちならします。「ヒコクアリはムザイ、ハタラキアリのカイコはセイトウである!」
「まってまってまって! 働きアリさんへの命令がまちがっているの! なんでおかしな判決(はんけつ)になるのよ」
 裁判長(さいばんちょう)アリはあきれたように言います。
「ホンサイバンはジョオウのメイレイイハンをシンギしている。キミのショウゲンでイハンがカクショウされたのだ。ジョオウメイレイはゼッタイである。ムホウアリをソソノカすモノはコロニーをサらねばならない」
「そんな、わたしはただ……」
「キミのカンガえはキミのコロニーではユルされるのかもしれんが、ワレワレのコロニーでミガッテなセイギをフりかざすのをヤめてもらいたい。ジダイのチョウリュウだとかにキョウミはないが、チシキアリのメンドウなシュギシュチョウのおかげでワレワレのコロニーもフンキュウしてメンドウなのだ。こんなムダなサイバンよりコロニーカクダイのためにハタラいたほうがどれだけケンセツテキか」
「でもこんなのおかしい!」
「もういいさ」働きアリたちはぬけがらのような顔で力なく深いため息をつきます。
「これにてヘイテイ!」
 ルンペンプロレタアリと菖蒲をのこし、みんな裁判所(さいばんしょ)からでていきました。
「アリさんたち、ごめんなさい。ぜんぶわたしのせいね」
「あやまってもしょうがない。ジョオウのメイレイをヤブり、ニげたのはワレワレのセキニンだからね」
「これからどうするの?」
「ショクとイエをウシナったルンペンプロレタアリがどれほどミジめか、キきたいのかい?」
「じゃあ、わたしがあなたたちの女王になる」
 とぼとぼ去ろうとするルンペンプロレタアリたちに菖蒲は言います。
「キミが? コロニーもないくせに」
 ルンペンプロレタアリたちは見合わせ、あきれたように笑います。
「ジョオウとなってワレワレになにをしろと? バカバカしい」
「そうかしら。これから新しいコロニーを作るのよ。あなたたちがね」
「ワレワレが? イッタイどこに?」
「それはね」と、菖蒲は言います。「わたしの知っている興廃(こうはい)の丘はとても(よご)れているの。そこをきれいにしてコロニーを広げる。報酬(ほうしゅう)は丘ぜんぶよ。だってだれも住めないんだもの」
「そんなツゴウのいいバショなどホントウにあるのかい?」ルンペンプロレタアリたちは言います。
「もちろん約束する。でもわたしは前の女王とちがい、命令も要求もしない。あなたたちで考えて仕事をしなければならないから、とってもたいへん。あなたたちが望むなら、すぐにその場所を紹介(しょうかい)してあげる。どうかしら?」
 ルンペンプロレタアリたちはわらわら集まって話しあいます。
「キまりました」代表(だいひょう)アリが言います。「ワレワレはあなたをジョオウとミトメます」
「よかった。交渉成立(こうしょうせいりつ)ね」
 菖蒲は王子さまの指輪を右手の人差し指にはめて、宝石は炎のように燃えてかがやきます。それから指を地面の土につきいれるとすぐに深い穴ができました。
「この穴は興廃(こうはい)の丘につながってるわ」
 ハタラキアリたちはわあっと歓声(かんせい)をあげます。
「あなたたちにお願いがあるの。おなじように仕事をなくした者たちを見かけたら仲間にむかえてほしい。それとキジ三毛のネコと白い馬と大男の農夫(のうふ)にアヤメは元気だとつたえてもらえる?」
「アヤメジョオウのおコトバ、タマワりました」
 アリたちは菖蒲女王の前に整然(せいぜん)とならび、頭を深く下げてから一列でとっとこ穴に入っていきます。
 菖蒲女王は手をふり、アリたちの出発を見とどけてから穴を閉じます。指輪をはずして首かざりにもどすと住んでいた街をすっかりわすれてしまいました。
 だれもいない法廷(ほうてい)のうしろでは働きアリたちがせわしなく女王アリのために食料や部屋をととのえていました。

通路の消失点Ⅱ

通路の消失点Ⅱ

 まっ白な壁の通路は、あまりの長さに先が見えません。まるで宙に浮いているような白い窓が等間隔(とうかんかく)にならび、ガラスはなく、のぞいても外に広がるのは白でした。
 しばらく歩いていると、おりてきた階段はだんだん遠くなり、やがて周囲の白とまじり合い、消えてしまいます。
「ここはもしかして……」
 菖蒲は右をむくと白い壁にちいさな文字が書いてありましたので、かがんで読みます。

  ミエルモノガサキデワナイ
    ケレドモミエナクバサキニワユケナイ
     ゼンポウチユウイ

 菖蒲はふっと鼻先(はなさき)で笑い、「そんなのわかってるわよ」と、通路の消失点を手でふさぎ、前方の扉にぶつからないよう注意しながら歩きました。
 ガサガサ、ドサリ! 通路にひびくにぶい音。
 菖蒲はなにかにけつまずき、思いきり地面にたおれます。
「いったああい。もう!」
 通路の消失点はなく、こんどはゆかに扉がありました。
「『足元注意』もそえてください!」
 菖蒲は通路にもんくを言い、把手(とって)を引いて鉄のはしごをおりました。

待合所ときどき夏休み

待合所ときどき夏休み

 下へとつづく鉄のはしごは、おだやかな海にぽつりとうかぶ、ちいさな駅につづいていました。
 菖蒲はプラットホームに足をつけ、ぐるり見まわすと赤いかわら屋根(やね)待合所(まちあいじょ)照明柱(しょうめいばしら)、石のベンチとさびた駅名標(えきめいひょう)がありました。

         まちぼうけ
    ←風のむくまま 気のむくまま→
         到着 着けば
         出発 発てば

「ずいぶん気まぐれな駅ね」
 菖蒲は駅名標を前に首をかしげます。それから待合所にむかい、潮風(しおかぜ)にゆれる藍色(あいいろ)(あさ)のれんをくぐり、引戸(ひきど)をカラカラ()けて(はい)りました。
「こんにちは。どなたかいますか?」
 手前にカウンター席が三つと窓ぎわにテーブル席ひとつ、奥の台所(だいどころ)では、ずんどうなべからふつふつとゆげがのぼっていました。
「いらっしゃい」
 白い割烹着(かっぽうぎ)三角巾(さんかくきん)をつけたおばあさんはカウンターごしにひょっこり顔をだし、菖蒲をまじまじと見つめます。
「へえ、女の子かい。めずらしいね。さあさ、そこの席にすわってくださいな」
 菖蒲はカウンター前のイスにこしかけます。
「おばさま、はじめまして。わたしはアヤメといいます。あの、ここはどこですか?」
「おばぁでいいよ」と、おばぁは菖蒲におしぼりをわたして言います。「見てのとおり駅の待合所さ。食堂(しょくどう)みたいだけど」
「まあ!」菖蒲はおどろきます。「もしかして電車がくるのですか?」
 おばぁはすこし考え、「電車というかバスというか船というか生き物というか、まあきてみればわかるさ」。
「はあ」
「それよりアヤメちゃん、おなかすいてないかい?」
 菖蒲のおなかはぐうっと大きく鳴ります。
「そうだと思った!」おばぁは笑顔で言いました。「うちはすば(・・)しかないよ」
「ありがとうございます。でも、お金もっていないんです」菖蒲は顔を赤らめます。
 おばぁはポカンとした顔でながめ、「おかね? おかねってなんだい、おしんこか?」
「いいえ、ものを買ったり売ったり、こうかんするために使うものです。知りませんか?」
「アヤメちゃんのいるとこはめんどくさいもんがあるんだ。おかねはいらんからすば食べてきな」
 そう言っておばぁはてぎわよく麺をばんじゅうから取りだし、てぼざるに()れ、ふっとうしたずんどうなべにほうり、まな板でコネギを切りはじめます。
「おばぁはずっと食堂をされているのですか?」
「ああそうさ。ときどき、アヤメちゃんみたいな客がふらっとやってくる。あとはほとんどイルカやカモメとかさ」
 菖蒲はクスッと笑います。
「アヤメちゃんはどうしてここにきたの?」
「探しものがあるんです。それをいそいでとどけなければいけないのですが、まだ見つかりません」
「そうかい、見つかるといいね。まあ、探しもんはだいたい、ふとしたときに見つかるもんさ」
 おばぁはどんぶりを菖蒲の前におきます。
「さあできたよ」
 透明(とうめい)なスープにちぢれた平打(ひらう)(めん)、白くてふわふわした雲に()ネギがぱらりとふりかけてあります。
「とってもいいにおい! こんぶですね」
「そのとおり! アヤメちゃんよく知ってるね。白いのはゆし豆腐(どうふ)さ、だからこれはゆし豆腐すば(・・・・・・)ね。おこのみで卓上(たくじょう)のコーレーグスをすこしかけるといいさ」
「いただきます」
 まずはスープをひとくち。こぶダシのやさしい風味(ふうみ)に、ほんのり塩味のゆし豆腐がふんわり口いっぱいに広がります。赤と黄色の(はし)を手にして(めん)をふうふうふいて一口すすればスープを飲みほすまで(はし)は止まりません。
「ごちそうさまでした」菖蒲はまんぞくそうに顔をあげます。「とってもおいしかったです。おなかぽかぽか」
「それはよかった。お茶をいれようね」
「わたし、てつだいます」
 菖蒲はどんぶりと(はし)を台所で洗い、おばぁはゲンコツ形のあげたてドーナツと気泡入りのガラスコップを菖蒲にわたしました。
「おやつのサーターアンダーギーとさんぴん茶ね」と、おばぁは言います。「それとアヤメちゃん、そっちのテーブル席はとっておきだよ」
 おばぁがおしえてくれた席の窓にはコバルトブルーの空と海がどこまでも広がっていました。
「外からながめれば景色(けしき)で、窓をのぞけば絵みたいね」菖蒲はぽつりと言います。
「アヤメちゃんは詩人だねぇ」むかいにすわるおばぁは目を大きくします。「そんなふうに見たことなかったよ」
 菖蒲は()れをかくすようにサーターアンダーギーを口にします。
「カリカリであまくておいしい」
 ジャスミン香るお茶にすっかり落ちついた菖蒲はおばぁと窓の絵をぼんやりながめました。
 こんなちっぽけな駅でひとり、さびしくなったりあきてしまうことはないのだろうか。菖蒲はおばぁに聞いてみようとすこし顔をゆらします。
 きらきらかがやくヘーゼル色の目、知恵深くおりかさなる目じり、口びるのそばに山をえがく経験(けいけん)ゆたかなほうれい線、やってくる日々はまるで客人(きゃくじん)のような、時を楽しむ端正(たんせい)横顔(よこがお)。菖蒲にはおばぁが悠久(ゆうきゅう)の人に見えました。
「いつも考えるんだよ」遠くを(のぞ)むおばぁはゆっくり口を(ひら)きます。「空と海はおなじ青なのに、なぜまじらないのか」
 菖蒲はあこがれのまなざしをおばぁにむけます。
 ときおり、海風(うみかぜ)()をゆらし、陽光(ようこう)は波をてらてらなでます。空は青からあかね、オレンジがにじむように染まり、いつまでも海とまじりあいませんでした。
 まったくふしぎな駅の待合所です。なにも到着も出発もせず、ただ始発(はじまり)から終発(おしまい)まで時間は遠くにうかぶ雲のようにゆったり流れていたのですから。
「アヤメちゃん、とまってくかい?」おばぁは窓に聞きました。
「うん」菖蒲は窓にこたえます。
「外にかけてあるのれん(・・・)、おろしてもらおうかな」
「うん」
 菖蒲は夏休み、おばあちゃんの家に遊びにきているような、そんな気のない返事をしました。

おつかい

おつかい

 つぎの朝、鉄のはしごは消えていました。
「まあいっか。そのうちなにかやってくるはずよ、アヤメ」
 空を見あげる菖蒲は、小さな寝床(ねどこ)でおばぁと夜おそくまで話したのを思いだしていました。
「おばぁ、わたしね、みんなの家に住んでいて、お姉ちゃんと部屋がいっしょで、友だちみたいに仲よしで……」
 ふたりは横になり、おばぁがうんうんとあいづちをうつたび、菖蒲の体はすっかり軽くなります。
「おばぁの耳は大きなポッケね。わたしのお話しがいくらでもはいるんだもの」
「いやぁ」と、おばぁは菖蒲の胸にふれ、「アヤメちゃんのはここにあるのさ」。
 あけがた、おばぁといっしょに豆腐(とうふ)作りをしました。
 ひと晩水につけておいた大豆をすりつぶし、(ぬの)でしぼり豆乳(とうにゅう)を中火で煮ます。火をとめてからニガリを入れ、木のしゃもじでさっと切るようにまぜ、しばらく待つとかたまります。それをまん中にやさしくよせれば完成です。
「わたしの作ったお豆腐とおばぁの作ったお豆腐、すこし味がちがうと思わない?」
「それがいいのさ」と、おばぁはゆし豆腐(どうふ)を味見してうなずきます。
「いいかいアヤメちゃん。どんなもんでも、おんなじだからおんなじだ(・・・・・・・・・・・・)と、決めつけてはいけないよ」
 おばぁに借りた大きな水中メガネをかけた菖蒲は、プラットホームのふちに腰かけ、海に足をちゃぷんとつけてのぞきます。色とりどりの熱帯魚(ねったいぎょ)は菖蒲の前をすーっと通りぬけ、うれしくなり手をふるとわんぱく魚たちは、顔を見あわせ、菖蒲の足めがけていっせいにつつきはじめます。
「きゃっ」菖蒲はたまらず足をひっこめます。「やったわね!」
 いそいで服をぬぎ、ざぶんと海にもぐりますが、いくらおよいでも魚たちのほうがずっと速いので、まるでおいつきません。魚たちは菖蒲をくすぐりにやってきて、菖蒲の口からゴボゴボと(あわ)はどんどんこぼれます。もがいて息つぎしてから水中をおよいでいると、海底(かいてい)には美しいサンゴ(しょう)の街なみが見えました。ショッピングを楽しむコバルトスズメ、ホテルで優雅(ゆうが)()ているカサゴやフラダンスしているチンアナゴ。遠くにはひらひら飛ぶマンタやジンベイザメまでとてもにぎやかです。
「アヤメちゃーん!」
 海面に顔をだすとおばぁの声が遠くに聞こえ、じゃぶじゃぶおよいで駅までもどります。
「アヤメちゃん、ちょうどいいや。わるいんだけど、おじぃのいるレウケ島に豆腐もってってくれるかい?」
「あばぁ、わたし島までおよいでなんかいけないよ」
「バンちゃんがつれてってくれるからへいきさ」
「バンちゃん?」
 首をかしげる菖蒲のそばに、ハンドウイルカがすいすいちかづいてきました。
「やあ、はじめまして。ぼくはバンドウ。ぼくにつかまれば、島まであっというまさ」
 イルカのバンドウは菖蒲のまわりをぐるりとまわります。
「はじめまして、わたしはアヤメよ」
「豆腐はふろしきにつつんであるからさ。島についたら広げてパレオにすればいいさ」
 ふろしきをかついだ菖蒲はバンドウの()びれにつかまり、しぶきをあげ海をきって進んでいきます。
「ねえバンドウ。もしかしてあなたが海の駅にやってくるのりものなの?」
「ああ、それはね……だよ」バンドウはバッシャバッシャおよいで言います。
「ぜんっぜん聞こえないわ。もう一度言ってちょうだい!」
「ほら、島についたよ! アヤメちゃん!」
「ちがうの! そうじゃないの!」
 レウケ島はさらさらの白い砂浜(すなはま)にヤシの木がずらりと立ちならび、おいしげった森のむこうには切り立つ岩山が見えます。菖蒲は豆腐をつつんでいた大きな花がらの布ふろしきを広げて両端(りょうたん)を胸もとで結び、ワンピースにしてから、まんぞくそうに足を前にだしますが、すぐぴたりと立ち止まりました。
「おじいさまのおうち、どこか聞いてなかったわ」
 こまっていると森の中からしば犬がひょっこりでてきて、しっぽをふりふりこちらにやってきます。
「こんにちは、アヤメちゃんだね。ボクはシバ。先生の家まで案内するからついてきて」
 しば犬のシバはささっと森に消えます。
「シバ、ちょっと待って!」
 菖蒲は見うしなわないよう、早足でついてゆきました。
「ねえシバ。わたしの名前をどうして知っているの?」
郵便(ゆうびん)カモメのジョナさんが砂浜にアヤメちゃんという女の子がくるっておしえてくれたんだ」
「まあ、おもしろい!」菖蒲はくすりと笑います。「おじいさまはなぜこの島でくらしているのかしら」
「先生は冒険家(ぼうけんか)だったんだ。でも、おばぁのゆし豆腐を食べたらここに住むと言いだして助手のボクもびっくりさ」
 シダの森をしばらく歩くと、(ひら)けた(はら)におしゃれな石づくりの家が見えてきました。
「あれがおじぃの家だよ」
 まるでロビンソンクルーソーの世界に迷いこんだようで、菖蒲は「おじゃまします」と言ってドキドキしながら木の扉を引き、家に入ります。
 香辛料の香りにみたされた薄暗い部屋は、ふりこ時計がカッチコッチ時をきざみ、ぎっしり本がならぶ大きな本棚(ほんだな)にかこまれていました。中央には金羊毛のじゅうたんと、ピカピカのソファ、ポリネシア風の(ぞう)やアンティーク調(ちょう)のランプシェード、縄文(じょうもん)土器(どき)のような装飾(そうしょく)のつぼ、奥のつくえには使いこまれた地球儀(ちきゅうぎ)やコンパスにボトルシップ、まるで博物館(はくぶつかん)のようです。
「先生! 先生!」シバはつくえにむかう男のそばによります。「アヤメちゃんをつれてきました」
「ありがとう、シバ」
 シバの頭をなでる男は白いえりつき半そでシャツと深藍の半ズボン姿で、銀色の(かみ)と豊かにたくわえた上品なひげは、かさねた経験(けいけん)のほどをうかがわせます。
「はじめまして、アヤメと言います」菖蒲はすこし緊張(きんちょう)した声で言います。「おばぁのお豆腐をとどけにきました」
 男は菖蒲に右手をさしだし、あく手とチークキスをします。
「よく来たね。きみがアヤメちゃんか。とてもかしこそうな娘だ」
「おじいさまは……」
「おじぃでいいよ。アヤメちゃん」おじぃはやさしく目をほそめます。
「おじぃはここでなにをなさっているのですか?」
「ふむ、わしもよくわからんな。いろいろ見たもんを書きのこしてるのかな。それともアヤメちゃんは、わしをロビンソンクルーソーかなにかときたいしていたのかね?」
「すこしだけ」菖蒲は恥ずかしそうにこくりとうなずきます。
「わしはレミュエル・ガリヴァーの冒険がこのみだな」
「どちらもかわり者です」
「そんな家におとずれるアヤメちゃんはもっと、かな?」
「おほめいただき、たいへん光栄(こうえい)ですわ」
 菖蒲はすそをつまんで会釈(えしゃく)し、おじぃと目を合わせて大笑いします。
「さあさ、こちらのソファにすわりなさい。まずは茶にしよう」
「なんてごうかなソファなのかしら」菖蒲は金のソファを見て言います。
「むかしサアサン(ちょう)アルペシでもらった(しな)だよ。王がねむれんというから毎晩(まいばん)旅の話しを聞かせたら、たいそう喜んでな。(れい)にと宇宙ラクダにのせて運ばれてきた」
 おじぃは花がらにうわ絵つけされた白磁(はくじ)のティーセットを()の低いテーブルにおき、紅茶(こうちゃ)をカップにそそぎます。
「とってもいいにおい」あまくてはなやかな香りにうっとりして菖蒲は言います。
「わしはコーヒーなんだが、たまにくる行商(ぎょうしょう)のウサギがぜひにとくれたんだよ」
 銀製(ぎんせい)(さら)にもられたペカンナッツやマカダミア、カシューにアーモンド、ブルーベリー、イチジク、パイナップル、それにチョコレートをつまみながら、しばらくおじぃと旅の話を楽しみました。
「……ところでアヤメちゃん」おじぃはコーヒーカップを置きます。「扉のない中庭についてだが」
「なぜそれを?」菖蒲はおどろいたように言います。
 おじぃは軽くせきばらいをしてから、「ふむ、おばぁから聞いた」。
「もしかしてジョナさんですか?」
「そう。で、わしは若いころ中庭に行ったことがある」
「ほんとうですか!」菖蒲は目を大きく(ひら)き、身をのりだします。
「まあ落ちつきなさい」おじぃは両手を上下にゆらします。
「中庭に行ったというと語弊(ごへい)があるか……正しく言えば中庭のちかくまでかな」
「どういうことですか?」
「まず中庭に入ることはできない。そもそも出入りするための扉がないからな」
「でもわたしは中庭を見ました」
「ほう、中庭を見たと。知覚(ちかく)できないはずだが。いや、あるいはだれかなんらかの方法で現象(げんしょう)させたのか」おじぃは菖蒲から目をそらし、あごひげに手をあてます。
「おじぃ、わたしにはわかりません。でも扉のない中庭にある井戸の水をくんでこないといけないんです。そうしないと王子さまはもとの姿に……」
「わかっとるよ、アヤメちゃん。そんな悲しい顔しなさんな。すこしずつ考えていこう」
「はい……」
 うつむく菖蒲に、おじぃはうなずきます。
「むつかしい表現(ひょうげん)をすれば扉のない中庭は形而上(けいじじょう)の場所、形であらわせない空間なのだよ。つまり扉のない中庭は『()るが()い庭』といえるかもしれん。アヤメちゃん、心はどこにあると思うかね?」
「それは」菖蒲はすこし考えます。「わたしの中にあって、(むね)のあたりでしょうか。でも考えるのは頭にあるような」
「とてもいい答えだ。内側(うちがわ)にあるのはおそらく正しい。頭つまりアヤメちゃんの(のう)は心を認識(にんしき)し、(むね)影響(えいきょう)をあたえたりもする。だが実際(じっさい)どちらにあるかといわれてもわからない。そもそもアヤメちゃんの体の中にあるかどうかすら知らん。精神(せいしん)生命(いのち)(のう)心臓(しんぞう)か、はたまたほかのどこにあるのかわからないのとおなじなわけだ。アヤメちゃんの行きたい場所はそういう神秘(しんぴ)領域(せかい)なのだよ」
 おじぃはコーヒーで口をぬらします。
「そこでだ。わしは中庭に入るため記憶(きおく)からたどってみた。扉のない中庭を心の空間、周囲(しゅうい)(かべ)時間軸(じかんじく)(ない)における記憶と仮定(かてい)する。まったく記憶を()て、無垢(むく)状態(じょうたい)から壁をぬけて心にアプローチできるか(ため)そうとした。結果(けっか)は庭の手前(てまえ)というわけさ」
「だから中庭のちかくまで、とおっしゃったのですね」
「そう」
 菖蒲は目をつぶり、王子さまの約束を思い返します。
 干しわらになった王子さまのくちびるをこの領域(せかい)のものではない少女が扉のない中庭にある井戸の水によってうるおす時、青き剣は闇を打ちやぶる力をえます。闇の王は笑いましたが、王子さまは信じていました。なぜでしょうか、わかりません。ただひとつ、菖蒲にしかできないことがあります。
「おじぃ。わたしは中庭のちかくでも行きたいんです。そこに行けばなにかわかるかもしれない。もしあきらめてしまえば約束は果たせなくなる。それにわたし、王子さまの信頼(しんらい)にこたえたいの」
 おじぃはするどい顔を菖蒲にむけて言います。
「先はかなりつらいぞ。アヤメちゃんのだいじなものをうしなうかもしれん」
「それでも行きます。わたしの願うおしまいでなくっとも。だってわたし、わたし……」
 菖蒲はひざの上でこぶしをにぎりしめます。
「ためしてわるかった。アヤメちゃんはやさしい()だ」
 おじぃはやわらかな手で菖蒲の頭をなでました。
「シバ。ジョナとバンドウにアヤメちゃんの帰りがおそくなるとつたえておくれ。それから島々のあるじにもよろしくな。わしらはこれから岩山のてっぺんにゆく」
 耳をひくりとさせたシバは起きあがり、ささっと外へかけだします。
「さてアヤメちゃん。これから天体観測(てんたいかんそく)にでかけよう」
「天体観測、ですか?」
 出発のあいずを知らせるように、部屋のふりこ時計がボーンボーンとお昼の時間をならしました。

天体観測

天体観測

 まわりを気にせず昼夜かがやく(ちょう)のジコチョウ、歌のへたなノドガラガラガエル、いつまでもぶつぶつもんくを鳴くコゴトツブヤキオウム、勤労(きんろう)意欲(いよく)があるのかわからないハタラクナマケモノ、食べるといつまでも生きられるような気がするキノコのフロウフシモドキ……おじぃはガイドツアーのように山を(のぼ)りながらレウケ島に住む、ふしぎな動植物たちについて菖蒲におしえました。
 山頂(さんちょう)はたいへん見晴(みはら)らしがよく、見わたすかぎりのオーシャングリーンにサンゴ(しょう)がじゅうたんのように広がっていました。やがて空はだんだん赤く()まり、(なぎ)とともに夜のとばりがおりると月はくっきり海をてらします。
 菖蒲とおじぃは、がけっぷちに立ち、遠くさびしそうに(ひか)るまちぼうけ駅をながめていました
「あそこは未練(みれん)のこすものたちが待つ駅なんだよ」
 おじぃは言いました。
「おばぁもだれかを待っているのですか?」
「ああ。息子の帰りをずっとね。おばぁはこの島をいつも見て泣いている」
「わたしも父と母を待っているのかもしれません。だって、あの駅にいるとおちつくんですもの」
 菖蒲はまちぼうけ駅にむかって大きく手をふりました。
「さあいこうか、アヤメちゃん」
 ふたりは天体(てんたい)観測(かんそく)(じょ)()ばれるドーム型の小屋にむかいます。オレンジ色の電球が(とも)り、部屋の壁にたくさん貼られた奇妙(きみょう)な数式や図形、ちいさなつくえに()らかる万年筆(まんねんひつ)や黒いインク()れ、本やノートを()らします。部屋の中央にはとても大きな天体(てんたい)望遠鏡(ぼうえんきょう)が一段あがった円形の台の上にどんとかまえ、屋根(やね)の外につきでていました。
 おじぃは望遠鏡をのぞき、ハンドルをぐるぐるまわして止め、手まねきします。
「アヤメちゃん、ここをのぞいてごらん」
 菖蒲は望遠鏡の接眼(せつがん)レンズをのぞきこみます。
「うわぁ、これはなんですか?」
 赤に青に黄色、(むらさき)(みどり)と、まるで宝石をちりばめたカレイドスコープのような幾何学(きかがく)模様(もよう)が見えます。
「アヤメちゃんの領域(せかい)では月というのかな。まあこの衛星(えいせい)はいわゆる月としての役割(やくわり)はないのだが」
「ふしぎな星……ああっ、おじぃ、だれかいる!」
 月に小さな黒い豆つぶひとつ、ゆっくりうごいています。
「よく見えたね。あれは記憶(きおく)(あつ)めをしている」
 菖蒲は望遠鏡のレンズから目をはなします。
「記憶集めとはなんですか?」
「散らばった記憶のかけらをひろう仕事さ」
 ふたたび菖蒲は望遠鏡をのぞきます。
「あっ! 月になにかぶつかった」
「月にはたくさんの流れ星が落ちるからね」
「とってもきれい……」
「アヤメちゃんはまず、あそこへゆかねばならない」
「月にですか? でもロケットでないと宇宙にはいけません」
「いや、あの月は宙にはない。シロクジラで行くのだ」
「シロクジラ、ですか?」
「うむ。シロクジラはおばぁの駅にやってくる」
「そうだったんですね! でもシロクジラさんは空を飛べるのでしょうか?」
「はっはっはっ。もちろんクジラは空を飛べないし、月はわしらの上にあるとはかぎらんよ」
「どういうことですか?」菖蒲は首をかしげます。
「まあ乗ってみればわかる。ともかくアヤメちゃんはこれから月で王子の記憶を探し、それを結晶化(けっしょうか)してもらいビンに加工(かこう)する。それで井戸の水をくむ」
「ただのビンではいけないのでしょうか?」
「うむ、おそらく」おじぃはつくえに()いてあるガラスの一輪(いちりん)()しを(ゆび)ではじきます。
物質(ぶっしつ)非存在(ひそんざい)の中庭にもっていけんだろうからな」
 おじぃは菖蒲のそばにある大きなハンドルをすこしまわすと、すわっていた円形の台がゴリゴリ音をたててうごきだします。
「もういちど、のぞいてごらん」
「ブラックホールみたいなぽっかりあいた黒い穴が見えます」
「そこは『闇の門』でさいしょの難所(なんしょ)。扉のない中庭にちかづくためには門をくぐってから常闇(とこやみ)の地を歩いて薄暗(うすぐら)階段(かいだん)を探す」
(くら)くてなにも見えません」
「光とどかぬ闇の支配する領域(せかい)だからの。薄暗い階段をおりたところに最大の難所(なんしょ)、中庭にもっともちかい場所がある。そのさきはわしもわからん」
「どうして行かなかったですか?」
恐怖(きょうふ)で行けなかった、というのが正しいのかもしれん」おじぃは(かた)をちぢめ、身ぶるいします。
無垢(むく)記憶(きおく)とは自己喪失(じこそうしつ)意味(いみ)する。(おのれ)をうしない、中庭をおかしたとて存在(そんざい)理由(りゆう)もわからないのであればなんの意義(いぎ)があるか。生まれたての赤んぼうは自己(じこ)そして外界(がいかい)を親はじめ、他者(たしゃ)により段階的(だんかいてき)知覚(ちかく)してゆく。しかしうしなった自意識(じいしき)と記憶を中庭で瞬時(しゅんじ)回復(かいふく)し、かつ脱出(だっしゅつ)するか、まったく解決(かいけつ)できなんだ。失敗(しっぱい)すれば(からだ)(うつ)となり、心は虚無(きょむ)にとらわれるだろう。わしは好奇心(こうきしん)無謀(むぼう)(むす)びつかん性格(せいかく)なのだよ」
「それでつらいとおっしゃったのですか?」
「うむ。なんらかの強大な力で自分を捨て、扉のない中庭に侵入(しんにゅう)し、王子の記憶でつくったビンで井戸(いど)の水をくむ。それから自我(じが)回復(かいふく)させ脱出(だっしゅつ)する。これらをアヤメちゃんひとりでできるかね?」
 菖蒲は決意(けつい)にみちた力強い目で遠くを見ます。
「これくらいにしよう」おじいはため(いき)まじりに菖蒲の(かた)をたたきました。
 観測所(かんそくじょ)(あか)りを消し、外にでたおじぃは空の月を(ゆび)さして海にゆれる月までなぞります。
海面(かいめん)にくっきり丸い月のうつりこんだ時、シロクジラは海の駅にくる。日が落ちる前に駅で待っていなさい」
「わかりました」
「先生!」シバがやってきて言います。「準備(じゅんび)できました。みんな浜で待ってますよ」
「ありがとう、シバ」おじぃはシバの頭をなでます。「さてアヤメちゃん、もどろうか」
「はい」
 おじぃは角灯(ランプ)を手に、菖蒲と岩山をおりていきました。

 真夜中の砂浜(すなはま)は、打ちよせる波の子守唄(こもりうた)(ねむ)りにつく時間ですが、今夜(こんや)ばかりはそうもいかないようです。なぜならたくさんのウミガメたちがとても大きなウミガメを中心にして集まっていたからです。
「アヤメちゃん。こちらは島々のあるじ、オオウミガメのスルフファー氏だよ。アヤメちゃんを海の駅までおくりたいそうだ」
「はじめましてスルフファーさん。わたしはアヤメです」菖蒲は大きなウミガメに頭をさげます。
(テティスニスベテキイテイル。ニジノムスメヨ)
 スルフファーは水泡(みなわ)の言葉で菖蒲に話しかけると波はやみ、ウミガメたちは涙を流しました。
「先生、産卵(さんらん)でもないのにこれは……」シバはおどろいたように言います。
「島々のあるじ祝福(しゅくふく)する時、海に(あら)たな島、誕生(たんじょう)せん。みな帰る場所がふえて喜んでいるんだよ、シバ」
「おじぃ、ありがとうございました」
 菖蒲はおじぃと()きあいます。
「気をつけてな」
「またね、アヤメちゃん」シバはしっぽをふります。
「ありがとう、シバ」
 スルフファーの化石(かせき)のようなこうらに足をかけ、てっぺんまでのぼります。すべてのウミガメ、ヤドカリやカニは道をあけ、オオウミガメのスルフファーは海までドシンドシンと地面をゆらし歩いて着水します。それはまるで船の進水式(しんすいしき)のようでした。
 菖蒲はみんなに手をふり、ぷっくりと丸い島のようなこうらはレウケ島からはなれていきました。
 みじかい航海(こうかい)のあいだ、菖蒲のひとり会議(かいぎ)(ひら)かれます。
「駅でシロクジラさんを待つのよ、アヤメ」と、菖蒲は言います。
「それから月で王子さまの記憶を手にいれる」と、菖蒲は答えます。
「でも、どうやって?」
「そんなの行ってみなければわからないわ」
「たしかにそうね。やってみなければわからないことだらけよ、人生なんて」
 やがて、駅の外灯(がいとう)と待合所の(あか)りが見えてきました。
「ただいま」
 まちぼうけ駅についた菖蒲はベンチで待っているおばぁの(むね)に飛びこみます。
「アヤメちゃん」おばぁは力強い(うで)で菖蒲を受け止め、耳もとで言います。「山の上からこっちに手をふってくれただろう」
「おばぁはなんでも知ってるのね」
「あぁ、わかってる、わかってるさ。アヤメちゃん」
 食堂でゆし豆腐すばをすすり、まくらに頭をのせたら、その(ばん)はぐっすり眠りました。

シロクジラ

シロクジラ

 天体観測からひと月後。
 菖蒲はいつものように豆腐(とうふ)作りをして、朝ご飯のゆし豆腐(どうふ)すばをすすります。それからイルカのバンドウと海中(かいちゅう)探検(たんけん)をしました。足をくすぐったわんぱく魚たちはサンゴ街の三丁目、アオサンゴアパートメントに住んでいて、家をのぞくとあわててちりじりになります。バンドウからイルカ式遊泳法をおそわった菖蒲はまるで人魚(にんぎょ)のように大きなシャコガイケイムショまでおいつめます。ここは(わる)さをした魚を()じこめておくためのろうやなので、みんな(おそ)れていました。
「くすぐったりしてごめんよ。きみと友だちになりたかったんだ」わんぱく魚たちは言います。
「わかったわ。そのかわり、あなたたちの街を案内してちょうだい」
 菖蒲は、わんぱく魚たちとすっかり仲よしになりました。
 服をきて食堂にもどると、さんぴん茶をいれたグラスを片手(かたて)に、とっておきの席で窓にうつる、いつまでもまじらない空と海の絵をおばぁとながめます。
 夕方、プラットホームの街灯(がいとう)がチンチロ点滅(てんめつ)し、パッと(とも)ります。
 ふたりはベンチにこしかけ、空にうかぶバニラアイスクリームのような月を見ていました。
「ずっとアヤメちゃんを待っていたさ」おばぁはゆっくり口をひらきます。「だから、つぎはみんなでおいで」
「つぎなんて、ないかもしれない」菖蒲はぼそりとこたえます。
 大好きな友だちと遊んだ夏休み最後の帰り道、楽しかった思い出はシャボン玉となり「またね」と、夕空ではじけてしまいそうな、どうしようもないさびしさに胸がしめつけられます。
「ここにいてもいい」菖蒲はあまえるように、おばぁの(かた)に頭をあずけます。「やっとわたしだけの(うち)に帰れたんだもの」
「王子さまとの約束、()たさんとね」
「わたしにできるかな」
()たせるから約束なんだよ」
「どうやって()たすのかわからないのに?」
「そう、結婚もそうさ。愛しあうふたりがどうして(ちか)いを()たそうか、考えるかい? ただ信じるんだよ。ほんとうの愛はまったく信じて(うたが)わない。()たすつもりのない約束はでまかせっていうのさ」
「そっか」
「アヤメちゃんは王子さまのこと好きなんだろう?」
——スキ。王子さまのコトがスキ?
 菖蒲は目の前がぐらぐらゆれて胸はどきどき()り、おなかはきゅうっとします。顔はぽっぽと蒸気船(じょうきせん)のように頭のてっぺんから蒸気(じょうき)がふきださんばかりです。
「おばぁ、そんなのわかんない。だってだって会ってもないし、(はな)してもないし、それにそれに、男子なんてよくわかんない!」菖蒲はおばぁの(かた)に顔をぐいぐいうずめます。
「たしかにそうだ、なんせわらだからねぇ」
 おばぁの大きな笑い声は(しず)かな海をゆらします。
「……おばぁのばか。やっぱりでてくもん」
 その時、海のむこうから白く(ひか)る大きなマッコウクジラがやってきて駅に停車(ていしゃ)しました。
「そろそろおわかれだね」
 おばぁはそう言って菖蒲を()きしめ、せなかをポンポンとたたいてからやさしく、なんどもなんどもさすり、耳もとでこう歌いました。

  つきぬかいしゃ とぅかみーか
  みやらびかいしゃ とぅーななつ
  ほーいちょーが
  あがりからあがりょる うふつきぬゆ
  あやめんあやめん てぃらしょうり
  ほーいちょーが

「おばぁ、ありがとう。あっというまだったけど、ずっと前からここにいたような気がするの」
「そうさアヤメちゃん」おばぁは菖蒲のほっぺをなでます。「たいせつな一瞬(いっしゅん)をすくいよせれば、人生は思ったより長く、ややこしい時間すら、いとおしく感じるものさ」
「わたし、おばぁのようになれるかな」
「もちろん。いい大豆(だいず)と水とにがり(・・・)さえあれば」
「うん……」
 おばぁは菖蒲の手の(こう)に丸いスタンプを()すと、くじらの模様(もよう)(ひか)りました。
「これはどこでも()()り自由の乗車証(じょうしゃしょう)さ。それとここに帰ってくるための道しるべだよ。(そら)は海とおなじくらい広いからね」
「おーい、まってー!」
 シバを乗せたスルフファー氏がシロクジラと反対のプラットホームに停車(ていしゃ)します。
「あれあれ、なんだかにぎやかだね」おばぁは感心して言います。
 いつのまにか、まちぼうけ駅にはスルフファー氏を追うたくさんのウミガメ、イルカのバンドウやサンゴ街のわんぱく魚たち、アザラシ、ペンギン、ジンベイザメやマンタ、クラゲとホタルイカのイルミネーションと、お祭りさわぎです。
「シバ! どうしたの?」菖蒲はおどろいたように言います。
「まにあってよかった。アヤメちゃんの手伝いをするよう先生から言われたんだ。だからボクも月にいくよ」
「まあ! それは心強いわ」菖蒲はシバのほおにキスをしました。
 シロクジラ発車(はっしゃ)の時間。菖蒲はみんなに手をふります。すこしずつ駅が遠くに、やがて街灯(がいとう)はオレンジ色の星となって水平線に消えてなくなります。
「ところでシバ、どうやって空にうかぶ月へいくのか、知ってる?」
「なにを言っているんだいアヤメちゃん」と、シバは首をかしげます。「ボクたちがこれからいくのは、あの夜空にうつる月ではなくて、海にうかぶ月さ」
「おじぃも言ってた。どういうこと?」
「水面の月が空にうつっている。つまり宇宙と海はおなじなのだよ」シバはおじぃの声まねします。
「ほんじつぅはぁ」運転手(うんてんしゅ)(けん)車掌(しゃしょう)マッコウクジラの低い声が聞こえます。
「シロクジラ観光(かんこう)のキタールにごじょうしゃありがとうございやぁす。つぎはぁきぉくのほし、きぉくのほしでございやぁす。これよりぃスピぃドをあげやすのぉで、ふりをとされないよぅどぅぞぉおつかまりくださぃ……とぉもうしましてもぉ、つかまるところなどありゃぁございやせんがぁ」
 自嘲(じちょう)気味(ぎみ)車内(しゃない)アナウンスをおえたキタールは、ぐんぐん速さをあげて海面(かいめん)の月にむかい、潜水艦(せんすいかん)のようにしずんでいきます。
「ちょ、ちょっとまって。まさかもぐるわけ?」
 菖蒲はあわててヒトデのような姿勢(しせい)でツルツルのシロクジラにへばりつきます。水しぶきをうけながら(いき)をいっぱいにすいこみ、ほおをふくらませて目を()……じた……ら…………

「くるし……くない?」
「おぼれてないからだいじょうぶだよ、アヤメちゃん」
 菖蒲はおそるおそる顔をあげると、チョウチンをぶら()げたアンコウが目の前を(とお)りすぎます。青くひかるプランクトンはまるで深海(しんかい)にちらばった星くずのようで、遠くに幾何学(きかがく)模様(もよう)の丸い大きな月がうかんでいました。
「これでわかったかな?」シバは菖蒲をのぞき、にこりと笑います。
 おきあがった菖蒲は(うで)をくみ、周囲をぼうぜんと見つめて首を横にふりました。
「いいえシバ。なんべん説明(せつめい)されたって、わたしにはまったくわからないわ」

記憶採取

記憶採取

 世界中で語られたおとぎ話は人々の記憶にきざまれ、夢をえがきます。やがて、わすれられた物語は流れ星となって長いあいだ宇宙をさまよい、忘却(ぼうきゃく)彼方(かなた)である月に引きよせられます。それらふりそそぐ記憶の断片(だんぺん)無数(むすう)にちらばり、月はステンドグラスのようにいろどりかがやいていました。
 菖蒲はつぎの停車地(ていしゃち)にむかうシロクジラのキタールに手をふり、記憶の星におり立ちます。地面は薄氷(はくひょう)()れた音をたて、七色に発光(はっこう)しました。
「プリオシン海岸(かいがん)にいるみたい」菖蒲はぽつりと言います。
 まるで河原で百二十万年前のクルミのような()をにぎりしめた少年たちが改札口(かいさつぐち)にかけこみ、乗りこんだ汽車(きしゃ)の窓にうつるおもかげはだんだん消えいるように見えました。
「ふしぎね、シバ」菖蒲は(すず)()()らし落ちる星をつかみます。
「さわってる感じもしない」
「あたってもぜんぜん(いた)くないや」と、シバは言いました。
「ねえシバ、遠くで()れた音が聞こえない?」菖蒲はうつぶして頭を横にします。「パリパリ、パリパリって、だれか歩いてる」
 シバは耳をピクピクさせ、「こっちだ!」と、かけだします。
「まってよ、シバ!」菖蒲は(いき)をきらして言います。「あなたに置いてかれたらわたし、迷子(まいご)になっちゃう」
「ごめん。うれしくってつい」
 目の前に藍色(あいいろ)作務衣(さむえ)(まと)うバクが(こし)かごをぶらさげ、立っていました。すこしおどろいた顔で「やあ」と右手をあげます。
「ここにやってくる旅行者はひさしぶりだ。ぼくはメレ」
「はじめまして。わたしはアヤメ。こちらはシバよ。メレさん、もしかして記憶集めをされているのですか?」
「いかにも。よく知っているね」
「わたし、ある人の記憶がほしくてこの星にきました」
「だれかの記憶がほしいだって!」メレはますますおどろいてから笑い、(うで)を広げます。「はじめにひとつだけ忠告しておこう。だれかの記憶を選び取るなどぜったいできない。流れ星に名が書いてあるわけではないし、記憶をのぞくこともできないのだから。それにまわりをごらん。記憶の断片がどれほどあると思うんだい。しかもああして流れ星は()えずふってくる。落下した記憶のかけらを採取するのもむずかしい。ためしにさわってごらん」
 メレにすすめられるまま、菖蒲は落ちていた黄色のガラス(へん)にふれてみます。するとガラスはすぐにはじけとび、消えてなくなりました。
「どうしてすぐになくなってしまうのですか?」
干渉(かんしょう)するからさ。記憶はこの星に落ちるまでのあいだ、どんどん(はかな)くなってゆく。落下(らっか)した古い記憶はアヤメの新しい記憶とふれあい、(はかな)いほうが粉砕(ふんさい)される」
「ではどうやって記憶を(ひろ)うのですか?」
「これさ」と、メレは手にしている乳白色(にゅうはくしょく)長尺棒(ちょうじゃくぼう)を菖蒲に見せます。片方(かたほう)先端(せんたん)四角(しかく)小型(こがた)スコップに、もう片方(かたほう)熊手(くまで)のようにわかれていました。
初代星(しょだいせい)化石(かせき)からけずりだしたこの(ぼう)を使い記憶の断片(だんぺん)をかきわけ、こわさないようそっとすくう。それでもあまりいじると消えてしまうから、(ひろ)ったらすぐに工房(こうぼう)結晶化(けっしょうか)させる」
 メレはいくつか断片をすくいあげると記憶は消えず、にじ色の火花をパチパチちらしながらスコップの上でおどります。
「このごろの記憶は無色(むしょく)灰色(はいいろ)が多い。良質(りょうしつ)な記憶を採取(さいしゅ)するのはむずかしくなっているんだ」
「なぜですか?」
「おそらくむかしの人は夢より現実を、おとぎ話よりパンについて語っていたのだろう」
「夢、ですか?」
「そう。夢やおとぎ話は記憶に色をあたえるんだよ」
「王子さまの記憶の色は何色かしら」菖蒲は無数(むすう)()らばる断片をながめます。「どんな夢を見ていたのかな」
「さてどうだろう。ここにはあらゆる色の記憶が落ちてくるから」
「探している王子のにおい(・・・)がわかれば、ボクがおいかけるんだけどね」と、シバは言います。
「それよシバ!」菖蒲はぱっとひらめきます。
「王子さまの記憶をふらせればいいのよ。シバは落ちた星をおいかけ、わたしが拾う」
「へえ、()しの王子さま作戦ってわけかい?」シバはにやりと笑います。
「そんなのむりさ」メレはあきれたように言います。「だれかの記憶を流れ星にしてふらせるなんてつごうのいい話し、聞いたことない」
「どうかしら。これをつかえば」と、菖蒲は金の首かざりから赤い宝石の指輪(ゆびわ)をはずします。
「うわあ、その赤い宝石!」メレは目を大きくして言います。「ぼくの工房(こうぼう)加工(かこう)した奇跡(きせき)結晶(けっしょう)だ!」
「ええっ! どういうことですか」菖蒲もおどろきます。
「その赤い指輪は青い剣と(つい)で加工されたんだ。とってもふしぎな時間だった。そう、あの時もアヤメみたいにとつぜん、ふたりはシロクジラでやってきて……」

太陰潮

太陰潮

 夫婦(ふうふ)()めたる思いで月にやってきました。いつものように記憶(きおく)採取(さいしゅ)をしていたメレは、そんな若く美しい男女の姿を目にしたのです。
「自分たちの記憶を探すだって!」メレはふたりの話しを聞いて笑います。「はじめにひとつだけ忠告(ちゅうこく)しておこう。だれかの記憶を選び取るなどぜったいできない。流れ星に名が書いてあるわけではないし、記憶をのぞくこともできないのだから」
 それでもふたりは指輪とひとふりの剣を作りたいとメレになんどもたのみます。理由(わけ)を聞いても、妻の出産前に完成させたいというだけです。
 ためしてみればわかるだろうと考えたメレはしぶしぶ記憶採取をおしえることにしました。
 しかしふたりはおどろくほどの速さで熟達(じゅくたつ)します。どこからか希少(きしょう)な記憶の断片を採取しては工房に持ち帰り結晶化させ、それはみごとに加工しました。
「あなたたちの作品は芸術(げいじゅつ)だ」メレは感嘆(かんたん)の声をあげます。
 夫婦が記憶の星にきてからしばらく()ち、妻の出産はいよいよちかづきます。メレは故郷(こきょう)にもどるよう言いますが、ふたりはもうすこしと、聞きいれません。
「つぎシロクジラがくるまでに記憶を採取(さいしゅ)できなければ帰りなさい。そうでなければ工房はかさない」
 それからふたりはまいにち月をめぐりますが、記憶の断片は見つかりません。すこしもあきらめない姿に感動したメレは深いため息をつき、悲しげに工房へもどりました。
 するといつもは聞こえる流星の音がぴたりと止み、なにごとかとメレは工房をとびだします。
 なんと遠くに赤と青の美しい()を引く星ふたつ、からみあったり、はなれたりしながら、まるで宇宙を舞台(ぶたい)優雅(ゆうが)気品(きひん)あふれるバレリーナのように()いおどっているではありませんか!
 流れ星たちはエトワールのパドドゥのために軌道(きどう)をゆずり、祝福(しゅくふく)とすこしばかりの羨望(せんぼう)をそえてコール・ドのように月の外縁(がいえん)でまたたきます。ダンスを()えたつがいの星は、手をつないであおぎ見る夫婦の手もとにそれぞれ引きつけられたのです。
 ふたりは赤と青の星をメレの工房でふたつ同時(どうじ)に結晶化させます。まじりあう記憶の断片は一体(いったい)となり紫色(むらさきいろ)に、やがてふたたびわかれ、夫はゆらめく紺碧(こんぺき)の剣を、妻はこうこうと燃える赤い宝石つきの指輪を(かたち)づくりました。
 そのようすをメレはおどろきの(まなこ)でながめ、かつてメレに記憶の結晶法(けっしょうほう)伝授(でんじゅ)した()の言葉を思いだします。
「まこと美しい結晶は、(むす)ばれる愛の序幕(じょまく)だ」そして()はこうつけくわえます。「もっとも、これほど貴重(きちょう)な記憶を手ばなす、おろか者はいないだろう」
 完璧(かんぺき)に仕事を()しとげた夫婦はメレに感謝(かんしゃ)し、シロクジラで帰っていきました。
 わかれぎわ、メレはふたりにたずねました。
「もしやあなたたちは、はじめから星の引きあう力を知っていたのですか?」
 ふたりは見つめあい、小国の王と王妃(おうひ)であること、また【手つなぎの約束】をメレにおしえます。夫はまいにち妻の手をとり、妻は夫の手をはなしてはならない、という約束を。
 それからふたりは高貴(こうき)()みをたたえ、こう言いました。
「わたしたちは永遠につながる手を通して約束を信じ、星の()かれあう日をただ待っていたのです」

金色あられ

金色あられ

 首かざりから指輪をはずした菖蒲は右手の小指にはめると、宝石は炎のように燃えてかがやきます。
 流れ星はぴたりとやみ、あたりはぶきみなほどの静けさにつつまれます。
 メレとシバは好奇心(こうきしん)恐怖(きょうふ)のいりまじった顔で夜空を見上げていると、遠くのほうからたくさんの星がチカチカまたたきました。
「なにかくる!」
 シバの言うが早いか、金色の流れ星はあられのようにどっとふりそそぎ、パチパチ火花をちらして消えます。なんと古今東西いろんな王子さまの記憶が菖蒲のもとに引きよせられてしまったのです。
「なんということだ!」メレはたじろぎます。
「アヤメちゃん、ちいさすぎるよ!」と、シバは飛びはねます。
「うん、わかってる」菖蒲は手をくんで目をつぶります。「わたしの王子さま。あなたの夢を、あなたのおとぎ話を、もっともっとおしえて」
 金色あられは菖蒲の願いにこたえるように数を()し、あまりのまぶしさにメレとシバは顔をそむけます。
 光にのまれた菖蒲はゆっくり目をひらき——————


「ヘレム! ヘレム!」王子さまの声。
 深い森、草をかきわけ、山の斜面(しゃめん)をかけおりる。
 巨大な老樹(ろうじゅ)のコケむす木の根もとに、どうどうと立つ、せいかんな顔つきの大男。
「ヘレム、きょうはなにをしよう。どんな遊びをおしえてくれるの?」
「あなたの手をわたしの手にのせなさい」
 ヘレムと呼ばれる男は手をさしだし、王子さまと手をかさねる。
「山あいの国の王子よ、いまから話すことは時がくるまで口外(こうがい)しないように」
「ぼくは【口止めの約束】を守り、あなたについてだれにも、父上や母上にだって話してやいないさ」
 男は笑顔でうなずく。
「そうだ。ちいさな約束を守ることは大きな力となる。いつかおまえは大きな力をひつようとする時がくるだろう。ゆえに将来(しょうらい)の約束をつたえる」
 男は両手で少年の手をがっしとつかむ。
「わらとなり、かわききったおまえのくちびるを、この領域(せかい)のものではない少女が扉のない中庭にある井戸からくんだ水によってうるおす。その時、青き剣は影にとりつく邪悪(じゃあく)な王をうちやぶる力となる。
 その少女とは」
「その少女は?」
 男は顔をよせ、親しみをこめた優しいまなざしで、こちらをのぞきこむ。
 王子さまの? ううん、わたしの目を、わたしの……そう、わたしの()を!
「そうだ、アヤメ」
 景色はぐんぐんうしろに流れ、深い森からせせらぐ川、夕日の()える湖畔(こはん)、石造りのちいさな町をぬけてゆく。山あいにそびえる城壁(じょうへき)をなめるように上昇(じょうしょう)し、バルコニーで手をつなぐ王さまと王妃さまがほほえみかけて言う。
「わたしたちはあなたも信じています」
 言葉とともに大地をこえ宇宙へ。王子さまの記憶からほうりだされ、くるんとさかさまに、月の手がぐいとひっぱり、遠くにシバとメレとアヤメ、わたしがいる——————


「シバ! 記憶が流れる。おいかけて!」
 菖蒲の(ゆび)さす方角(ほうがく)に、大きな流れ星はすさまじい速さで()をえがいて落ちます。
 シバは地面をけりあげて流星(りゅうせい)めがけ、全速力でかけだし、メレもついてゆきます。菖蒲は指輪を指からはずし、首かざりにしてもどすと、金色あられはやみ、住んでいたみんなの家をわすれました。
「アヤメちゃん! ここだよここ!」シバは金光(きんこう)のまわりをぐるぐるまわっています。
「でかしたわ、シバ」菖蒲はかがみ、記憶(きおく)断片(だんぺん)に両手をそえます。
「だめだアヤメ! さわったらこわれてしまう」メレはうしろでさけびました。
「そうね」と、菖蒲はためらわずに星をひろいあげ、「もし、わたしの王子さまでなければ」。
 金色の星は菖蒲の手の中でこうこうとかがやきます。
「メレさん、王子さまの記憶を結晶化(けっしょうか)できますか?」
 あっけに取られたメレは、ただうなずくしかできませんでした。

 物見(ものみ)やぐらと細長(ほそなが)いえんとつを目じるしにメレの工房(こうぼう)はあります。ほら穴の入り口に『キオクザイクコウボウメレ』ときざまれた木製扉をくぐり、モザイクタイルの階段をおりると、記憶の細片(さいへん)縞模様(しまもよう)地層(ちそう)となってきらめく壁、丸いガラス天窓(てんまど)、大小さまざまなオブジェの置かれた円形広間にでました。
「なんてすてきなのかしら」菖蒲は中央にかざられた美しいらでん細工(ざいく)()びんを見て言います。
「ああ」と、バクは花びんにふれます。「さきほど話した夫婦がはじめて採取(さいしゅ)から加工まで仕事をした作品だ。ほかのは行商(ぎょうしょう)にゆずったけど、桃色(ももいろ)金彩(きんさい)をちりばめられたものはすごくめずらしいから記念にのこしておいたんだ。まあ結晶化した記憶の断片は役割(やくわり)を終えると自然に割れてしまうのだけど」
「いつ(こわ)れるかわからないのに売れるんですか?」
「そこに価値(かち)がある。美しい記憶のおしまい(・・・・)を見ようと所有者(しょゆうしゃ)は結晶を手もとに置くのさ」
 円形広間を中心に各部屋は放射状(ほうしゃじょう)にいくつかわかれ、台所、居間、寝室、資料室、加工部屋、そして記憶を結晶化させるための作業部屋がありました。
「これらは作品となる前の記憶の結晶だよ」
 メレは長い板にならんだ色とりどりのガラス玉をさします。それから作業部屋のすみにある口をななめにむけた白いるつぼ(・・・)の前に立ちます。
「星の光を集めたこのるつぼ(・・・)に記憶を入れるんだ」
 菖蒲は強い光を(はな)るつぼ(・・・)に王子さまの記憶をほうり投げます。すると記憶の断片は火花をちらし、くずれて砂のようにサラサラになります。メレは茶色い紙袋からあまいにおいのする金平糖(こんぺいとう)をスプーンで()さじ一ぱいほどすくい、るつぼ(・・・)にいれました。
「お菓子(かし)みたいですね」
「月の(かく)をけずったものだよ。結晶を安定(あんてい)させるためにつかう」
「ぜんぶこの星で取れた材料と光がでなければいけないから、工房(こうぼう)もここにあるわけですね」
「そのとおり」と、メレは壁にたてかけられたかくはん棒(・・・・・)るつぼ(・・・)につっこみ、かきまぜます。「こうやって結晶化するまで記憶、星の(かく)、光。すべてひとつになるよう手を止めずにゆっくりまぜつづける」
「メレさん、わたしがまぜてもいいですか」
「もちろん。でもこの棒、アヤメにはすこし重いかも」
 メレはかくはん棒を菖蒲にわたします。
「かくはん作業は、まぜ手の思いによって結晶の仕上がりも決まる繊細(せんさい)工程(こうてい)なんだ」
 るつぼ(・・・)の中で砂金(さきん)金平糖(こんぺいとう)はころがり、キュンキュン、キュンキュンと工房中に砂の鳴き声が聞こえます。
「つかれたらぼくを()んで。いつでもかわるから」
「はい、わかりました」
 メレは菖蒲をのこして部屋をあとにします。そのようすをシバは中央広間でうずくまり、見守っていました。
 つぎの日。
「ふつう結晶化するまで半日、どんなに長くても一日かからない」メレはけげんそうに言います。
「でもアヤメちゃん、きのうからあのままずうっとかきまぜているよ」と、シバは言います。
奇跡(きせき)の記憶だからなにがあってもおかしくないけど」
「だいじょうぶかな」
「かわろうかって言っても聞かないんだ」
 菖蒲はたくさんの思い出や夢、おとぎ話のこもった王子さまの記憶をだれにもさわらせたくありませんでした。もちろん記憶は菖蒲に語りかけはしませんが、星の鳴く音にできるだけ耳をかたむけ、王子さまに信頼してもらおうとゆっくり待っていたのです。三日間ひたすらかきまぜつづけ、菖蒲の想いと王子さまの記憶が理解しあった時、砂の音はなくなりました。
「かくはん棒をひきあげてごらん」メレは言います。
 菖蒲はかくはん棒をるつぼ(・・・)からあげると、先端(せんたん)にふわふわとしたわたあめがからまっています。
「こちらの台に棒をむけて」
 メレは平皿を作業台におきます。かくはん棒についたわたあめは白くにごり、皿にてろりとたれて、おまんじゅうのような丸い形にかたまります。
水晶玉(すいしょうだま)みたいだね」シバは結晶にうつるメレを見て言います。
「おかしい」と、メレは(うで)をくみ、首をかしげます。「あれだけ良質(りょうしつ)な金の記憶が、どうして透明(とうめい)な結晶になるのだろう」
「アヤメちゃんはどう思う?」
 シバが顔を横にむけると、菖蒲はかくはん棒によりかかるように、すうすう(ねむ)っていました。

願いの像

願いの像

 うっすら目をあけるとモザイクの天じょうが見えました。ズキズキ痛む両手にほうたいがまかれ、ベッドで()ているのに気づきます。
 ころがるようにベッドからおりて広間を通り、だれもいない作業部屋にむかい、作業台に置いてある水晶(すいしょう)をながめます。
「アヤメちゃん、()きたんだね」背後(はいご)からシバの声が聞こえます。「ずうっと寝ていたから、しんぱいしたよ」
「わたし、そんなに休んでたの?」
「うん。アヤメちゃん、三日間も手がぼろぼろになるまで記憶をかきまぜて(たお)れたんだよ。(ねむ)ってるあいだにメレが特製(とくせい)なんこう(・・・・)をぬって手あてしたんだ」
「そうだ、メレさんは?」
「記憶採取にでかけている。メレはアヤメちゃんの結晶についてなやんでるみたい」
「どういうこと?」
「金色だった記憶が無色透明の結晶になったんだ」
「わたし、なにかまちがえたのかな」
「いや、そうではない」
 工房に帰ってきたメレは言いました。
「なぜ色がないのかしら?」不安そうにたずねる菖蒲。
「ぼくにもわからない」熊手(くまで)を立てかけたメレは作業台のそばにあるイスにすわり、ひと息つきます。「資料室(しりょうしつ)にある師匠(ししょう)がのこした作業日誌(さぎょうにっし)をしらべてみたけど、色つきの記憶から無色の結晶になったという記録(きろく)はなかった。無色の記憶に色をつけるという技法(ぎほう)はあるのだけど」
採取(さいしゅ)した王子さまの記憶はもともと無色だったのかしら」
「いやいやどうだろう。あの時見たのはたしかに金色の星だったし、透明な記憶は夢ぬけといってガラスとかわらない」
「そんな……」
 みんな答えを探そうと王子さまの結晶を見つめ、低い声でうなります。
「わたしは王子さまの記憶だと信じる」と、菖蒲はきっぱり言います。「たとえガラスとおなじでも、だれに見わけられなくっとも」
 そうです。菖蒲にとって透明な結晶は、道で拾った石ころに名前をつけてみがき、クッキー缶にしまうような、たくさん思いのこもった宇宙でたったひとつの宝物だったのです。
「わかった」と、メレはうなずき、イスから立ちあがります。「アヤメが言うなら加工の工程にすすもう。仕事には敬意(けいい)を、達成(たっせい)には賞賛(しょうさん)を。ぼくの()のおしえだ」
「なんせアヤメちゃんの王子の結晶だからね」シバは片目(かため)をパチリとさせました。
「まずはその手をなおしてから」と、メレは菖蒲の手を見て言います。
「ほら」菖蒲はほうたいをほどき、ふるえる手のひらをゆっくり(ひら)いたり閉じたりします。「ちゃんとうごくわ。いますぐに加工しましょう」
「しかしそんなにボロボロでは……」
「メレさん、お願い」
「わかった」とだけ、メレはそれ以上なにも言わず、となりの部屋に菖蒲をつれていきます。
 加工部屋はせまく、板ばりの小上がりで中央に穴があり、ろくろがすえられていました。
「アヤメ、ろくろの前にすわって」
 菖蒲はくつをぬぎ、スカートのすそをまくりあげてこしかけます。メレは王子さまの結晶をろくろ台の上に落とすと、まるでおもちのようにぺちっと台にひっつき、ふるふるゆれます。
「足もとにある円ばんをけってごらん」
 メレの言われたとおりにすると、ろくろは反時計まわりにくるくる回転をはじめ、結晶がふわりと(ちゅう)にうきました。
「加工にとくべつな技術(ぎじゅつ)はいらない。結晶にふれて思いうかべるだけでいい。結晶はアヤメの(ねが)(かたち)になる。ただし手をはなしたら二度と(かたち)をかえたり、もとにはもどせないから気をつけて」
 そう言ってメレは部屋をあとにしました。
 結晶の加工は思いをみだされるとうまくいきません。どんな(かたち)にもできるのはワクワクしますが、な
かなか思いどおりにはいかない作業なのです。
 メレはろくろとむきあう菖蒲に、加工法(かこうほう)()からはじめて加工をゆるされた自分の姿(すがた)をかさねます。
 茶わんを(かたど)るよう()にいわれた弟子(でし)のメレは、緊張(きんちょう)した手つきで結晶にふれます。丸いうつわを想像(そうぞう)し、茶わんの(かたち)がくっきりうかび、もうすこしよくしようと、おごそかな茶わん、さらにだれも考えつかないような変わったうつわをつぎつぎに思いつき、まるで博物館(はくぶつかん)を旅しているような気分(きぶん)です。
 うっとりしたメレは、長い(はな)をヒクヒク。どこからかお米としょう()のにおいがします。おにぎりにじんわり()みこんだしょう()炭火(すみび)でじっくりあぶられ、パリパリの表面(ひょうめん)をわれば、ふっくらとしたお米のあまい湯気(ゆげ)につつまれます——味噌汁(みそしる)とぬか()けもほしいな。きょうの昼ご(はん)はなんだろう——
 おすし、チャーハン、カレーライスと大好物(だいこうぶつ)におぼれる姿はまるでヘンゼルとグレーテル。メレのおなかはぐぅっとなり、思わずあっと声をだし、結晶から手をはなしてしまいます。メレはじめての作品は三角(さんかく)(かたち)をした焼きおにぎりでした。
「焼き目がじつにすばらしい!」と、()はメレをなぐさめるように言います。「なあメレ、自然な願いこそ最高の(かたち)なのだよ」
 ベテラン職人(しょくにん)はなんでも自由に結晶を(かたど)ることができます。()かれた絵や詩、音楽など、加工師はめいめい思いをくむ技法(ぎほう)を知っていました。
 ゆたかな色をもつ流れ星が落ちていた時代は分業制(ぶんぎょうせい)で、記憶採取、結晶、加工と、職人がそれぞれいて、なかでも加工の工程(こうてい)花形(はながた)でした。いつからか透明のもろい断片(だんぺい)ばかり落ちるようになり、職人(しょくにん)たちは仕事をやめてほかの星へ、工房(こうぼう)もひとつまたひとつと消え、メレだけになりました。
「できた」加工部屋から菖蒲の声が聞こえます。
「ずいぶんと早くおわったみたい」と、シバ。
「はじめはじっくり時間をかけるものだけど」メレはふしぎそうに加工部屋にむかいます。
 ろくろ台の上には素朴(そぼく)なフタつきの()ビンがポツンとひとつ、もしほかのガラスビンがならんでいたなら、まったく見わけがつかなかったでしょう。
「おどろいたね」メレはたまらず笑ってしまいます。「これはなんとも」
(ねが)いの(かたち)はきめていたの」と、菖蒲は()ビンをまんぞくそうに手にします。「だって、井戸の水を()れるだけですもの」
「それはしつれいした」メレは軽くせきばらいをします。「目的にかなった作品というわけだ」
 コツコツと玄関扉(げんかんとびら)のたたく音を聞いたシバは、菖蒲とメレのもとに飛んできます。
「だれかお客さんがきたみたい」
「そうだ!」と、メレは思いだしたように手を打ちます。「行商(ぎょうしょう)の日だった」
「なにか売りにくるのですか?」菖蒲はメレにたずねます。
「いいや、行商に加工した記憶をゆずるのさ。かわりに食べものや日用品(にちようひん)とか、たまに珍品(ちんぴん)をもらったりする。アヤメの手にぬった即効性(そっこうせい)ナンデモキクリームもそのひとつさ」
「わたしの手、だいじょうぶかしら」
 菖蒲がいぶかしげに両手を見ていると、玄関扉がばっといきおいよく(ひら)きます。
「やあ、ひさしぶりだね、メレ!」
 階段をおりてきたのは、青いふろしきをかついだ、スーツ姿のシロウサギでした。

行商シロウサギ

行商シロウサギ

「ねえねえ、アヤメちゃん」
シバは()ビンをじいっとながめ、広間でメレがあぶったしょう()(あじ)の焼きおにぎりをほおばる菖蒲に話しかけました。
「なあに、シバ」
「この()ビンなんだけどさ、もしかして……」
「おばぁの家にあるガラスのしょう()さしよ」
「やっぱり。たいせつな作品だから、へんなこと言ってはよくないと思ってさ」
「なんで?」と、菖蒲はお茶をすすります。
「ろくろの前にすわっていたら、なんだかおなかすいてきたの。これはいけないって王子さまを思いうかべ納豆(なっとう)(はん)から……」
「まさか、わら(・・)からわら納豆(・・・・)からしょう()からのおばぁってこと?」
 菖蒲は目を丸くするシバの耳もとに手をそえ、ひそひそと小声で、「そのまさかよ、シバ」。
 ふたりはしばらく遠くに目をうつし、ぷっとふきだしてくすくす笑います。
 作業部屋(さぎょうべや)商談(しょうだん)をおえたメレとシロウサギは広間にもどって来ると、楽しそうに(かた)をゆらす菖蒲とシバを見つけます。
「なにかおもしろいことでもあったのかい?」
「いいえ、なんでもないわよね、シバ」菖蒲は口もとに人差し指をあてます。
「う、うん。なんでもないよ。ね、アヤメちゃん」と、シバは頭をこきざみにふります。
 でも考えれば考えるほどおかしくて、菖蒲はおなかをおさえ、シバはへんてこりんな顔をします。
「まあいいや」と、メレはけげんそうに言います。「それよりアヤメ、こちらは行商シロウサギのアルネヴ。加工(かこう)した結晶の取引(とりひき)をまかせている友だ」
 シロウサギはグレンチェックスーツのえりをクイクイひっぱり、ちょうネクタイをキュキュッとつまみ、背筋(せすじ)をのばしてからすらりと長い足をくっつけ、つややかなくつ(・・)かかと(・・・)()らして菖蒲の前に立ちます。
「はじめまして。わたしは星間行商(せいかんぎょうしょう)のアルネヴです。宇宙の(ちり)から恒星(こうせい)まで、お客さまの所望(しょもう)する(しな)をなんでもおとどけいたします」と、いかにも自信(じしん)ありげな表情(ひょうじょう)会釈(えしゃく)しました。
「はじめまして、わたしはアヤメです。アルネヴさん、金色の記憶を結晶化させたら透明(とうめい)になったんです。見ていただけますか?」
「もちろんですとも。金色の結晶など、なかなか目にすることのできない博物館級(はくぶつかんきゅう)(しな)ですから、たいへん興味(きょうみ)があります」
 菖蒲は加工した透明(とうめい)()ビンをわたします。
 アルネヴはまじまじと見つめ、「ううむ。これはなんともむずかしい(しな)だ。ガラスの()ビンにしか見えない。しかし材質(ざいしつ)はまちがいなく記憶の結晶。金色の断片と言われなければ色ぬけ(ひん)でしょう」。
「そうなんだ」と、メレはうなずきます。「でも金色の記憶をこの目ではっきり見た。それに、結晶化まで立ち会っているからほかの断片がまじるはずない。もっとも、ほかの記憶と混合(こんごう)したら干渉(かんしょう)により結晶化されないけど」
「なるほど」と、するどい目つきのアルネヴはあごに手をあてます。「ますますむずかしい」
「そのしょうゆさ……」と、シバは思わず言いかけます。
「シバ!」顔をしかめる菖蒲。
「ごめんごめん。金の結晶について、もっとくわしい人はいないかな。ボクの先生に聞いてみるとか」
「まあ、それはいい考えね!」
「なるほど」アルネヴはふたりの話に()って(はい)ります。「それでしたらどんなものでも見定(みさだ)める超一級(ちょういっきゅう)鑑定士(かんていし)がいますよ。その鑑定士にみてもらえば、あるいはなにかわかるかもしれない」
「アルネヴさん、よろしければ鑑定士さんを紹介(しょうかい)していただけませんか?」
「もちろんですとも」アルネヴは喜んで(おう)じます。「わたしも()ビンの秘密について、ぜひとも知りたいのでね。ただ……」
「問題ありますか?」
「ええ、ひとつだけ。宇宙を旅するためには旅券(パスポート)がひつようなのですよ、ミス・アヤメ」
「そんな」菖蒲はこまったように胸に手をあてます。「わたし、持っていません」
「すばらしい!」アルネヴは菖蒲の手を見て、おどろいたように言います。「持っているではありませんか」
「どこですか?」菖蒲は自分の体にしっぽでもついているのかと見まわします。
「あなたの手に(ひか)るのは海の領域(せかい)()べる女王テティスの認印(にんいん)ですよ、ミス・アヤメ」
 なんと、くじら模様(もよう)のスタンプは宇宙の()てまで旅できる、とくべつな旅券(パスポート)だったのです。
「まちぼうけ駅のおばぁが()してくれたんです」
「なるほど。わたしもちかくのレウケ島に住む大冒険家(だいぼうけんか)イアソン氏と取引(とりひき)でよくいきます」
「レウケ島のイアソン氏っておじぃのこと?」
「そうさ」と、シバは言います。「イアソン先生はアルゴー船でレウケ島に来たんだ」
「そういえばわたし、おばぁとおじぃの名前を知らなかった」と、おどろく菖蒲。
「よかったね、アヤメちゃん。これでボクの役目(やくめ)()たせたよ。早く先生の家に帰って報告(ほうこく)しなきゃ」
「ありがとう」菖蒲はシバを()きしめ、頭をなでます。「あなたがいなければ王子さまの記憶を見つけられなかったわ」
()しの王子さま作戦、大成功(だいせいこう)だったね。それにボクたちだけの秘密(ひみつ)もできたし」
「メレさんも、ありがとうございました」菖蒲はメレとあく(しゅ)します。
「こちらこそ」と、メレは()れながら言います。「アヤメを見て記憶採取(きおくさいしゅ)奥深(おくぶか)い仕事だと学んだ」
「よし、ではさっそく鑑定士のいる夜明(よあ)けぬバザールへむかうとしよう。銀河(ぎんが)をわたる長旅(ながたび)になりますよ。ミス・アヤメ、わたしについてきて。家と仲間を紹介(しょうかい)します」
 そう言ってアルネヴは菖蒲を工房(こうぼう)の外につれだします。外にはとても大きな白いザトウクジラが停車中(ていしゃちゅう)で、その()に船のブリッジのような家が見えました。
「こちらはわたしの旧知(きゅうち)(なか)にして商売(しょうばい)相棒(あいぼう)、シロザトウクジラのサトウです」アルネヴが()ぶと、シロクジラはこちらにやってきます。「サトウ、夜明(よあ)けぬバザールまで旅をするミス・アヤメだ」
「はじめまして、アヤメです。サトウさん、おせわになります」
 サトウは菖蒲を見て、大きな口をゆっくり(ひら)き、「はじめましてぇ、サトウでいいよぉ。とってもかわいいむすめさんだねぇ。よろしくぅ」と、あいさつしました。
 アルネヴはサトウの背中から()()がる太いロープに足をかけ、「どうそ、こちらへ」と、菖蒲を()きよせロープをひっぱると、サトウの()にある大きな滑車(かっしゃ)がくるくるまわり、エレベーターのように家までいっきにもちあがります。
「わたしの家にようこそ」
 部屋の(ゆか)豪華(ごうか)なペルシャじゅうたんがしかれ、黒ぬりの木製(もくせい)ダイニングテーブルとイス、周囲(しゅうい)(かべ)はいくつもの大きなつづらで仕切(しき)られ、天じょうはなく、ハンモックがぶらさがっていました。
長距離(ちょうきょり)旅行(りょこう)はここで()とまりするのです。なれれば居心地(いごこち)もよくなるでしょう」
「アルネヴさんの家は秘密基地(ひみつきち)みたいですね」
 ふたりが話していると部屋全体はぐらぐらゆれます。「出発(しゅっぱつ)のあいずだ」アルネヴはよろめく菖蒲の手を取り、サトウの頭上(ずじょう)にある甲板(デッキ)にむかいました。
 菖蒲はぐるり一望(いちぼう)してシバとメレを見つけ、手をふります。地平線(ちへいせん)はみるみる球体(きゅうたい)に、幾何学模様(きかがくもよう)となった月にはいくつもの流れ星がぶつかり、花火のようにはじけ()ります。
「ねえアヤメ」()ビンをにぎる菖蒲は言いました。「大砲(たいほう)じゃなくってクジラで月にいくのをヴェルヌが聞いたら、きっと(こし)ぬかすわよ」
 月は遠く、まわりの星とおなじほどちいさなつぶとなりました。
「ミス・アヤメ。歓迎(かんげい)をかねた、ささやかなティータイムにあなたをお(さそい)いしたいのですが、招待(しょうたい)をうけていただけますか?」
 紳士(しんし)のアルネヴは(うで)()しだしました。
「もちろん、よろこんで!」

「いやはや二度も奇跡(きせき)を見るとは」メレは遠ざかるシロクジラをながめ、ぼんやり言いました。
「でもね」と、シバはこたえます。「ボクの先生がよく言うんだ。二度あることは三度あるぞって」
 メレは大笑いしてから(かた)をすくめ、工房に消えていきました。

夜明けぬバザール

夜明けぬバザール

 夜明(よあ)けぬバザールには朝がやってきません。それでガス(とう)やお店の照明(しょうめい)、ネオンサインは()えずきらめいていました。
 バザールのショーウィンドウには服飾(ふくしょく)陶器(とうき)貴金属(ききんぞく)宝石(ほうせき)から隕石(いんせき)まで(かざ)られ、ふしぎな色と形の野菜やくだものもならびます。工房(こうぼう)食堂(しょくどう)喫茶店(きっさてん)遊園地(ゆうえんち)やデパートなど街全体は活気(かっき)にあふれていました。
「朝や昼といった時間のサイクルで活動(かつどう)しない街なんだ」
 バザールを歩くアルネヴは菖蒲に説明します。
「日がのぼると起きて、落ちれば()るのがふつうだけど、ここではずっと夜だから(ねむ)くなったら眠り、おなかがすいたら食事(しょくじ)をする、というぐあいに、時間にしばられずくらしている」
「どうやって待ちあわせするの?」と、菖蒲は聞きます。
「しない」アルネヴはキッパリ答えます。「会いたいと思ったら会いに行くし、いなかったらまたいつかって」
「時計は? 電話とか」
「まさか」と、アルネヴは顔をしかめ、「きゅうくつでどうかしてしまうよ。時計を手にした、遅刻(ちこく)にいらだつシロウサギなど考えられないだろう?」
 バザールでは多くの動物たちがそれぞれ買い物を楽しんでいました。(つま)ライオンにつきあわされた(おっと)ライオンが大きな箱と手さげ(ぶくろ)を両手にバランスをとりながら歩いています。おめかししたメンドリは子どもたちをうしろに連れ、楽しみにしていたフルーツパーラーへパルフェを食べにいきます。中おれ(ぼう)にステッキを手にしたハシビロコウは、ぼーっとブティック前で立ちつくし、オーナーのヒョウ夫人(ふじん)がこまりはてています。秘伝(ひでん)スパイスで有名なカレーショップ『ピッグ』のにおいにさそわれたウシは行列(ぎょうれつ)を、通りをへだてたむかいのカレー屋『カウ』ではブタが行列をつくります。
「わたしはおすすめしないよ」と、アルネヴは言います。「味はわるくないが、どちらも()(ごえ)がうるさくてね」
 とりわけにぎやかな広場の中央ではスパンコールドレスにカールさせたまつ毛のホッキョクオオカミが、アコーディオンを(かな)でるヤマネコの伴奏(ばんそう)で『ポラーノの広場のうた()を歌い、みな足を止め、うっとり聞きいっていました。

  つめくさ灯ともす 夜のひろば
  むかしのラルゴを うたいかわし
  雲をもどよもし  夜風にわすれて
  とりいれまぢかに 年ようれぬ
  まさしきねがいに いさかうとも
  銀河のかなたに  ともにわらい
  なべてのなやみを たきぎともしつつ
  はえある世界を  ともにつくらん

「アルネヴ!」歌い()えたホッキョクオオカミは、観衆(かんしゅう)の中にかつての恋人を見つけ、抱擁(ほうよう)します。
「いつ帰ってきたの?」
「やあミセス・レイラ、急用(きゅうよう)でね。常夜(とこよ)歌姫(うたひめ)と呼ばれるきみの声を聞けるぼくは幸せ者だ」
「あなたのためならいつでも」
「ひさしぶりじゃないか、アルネヴ!」
「ザラーファにワヒドカルン!」旧友(きゅうゆう)のキリンやサイもやってきてアルネヴをわっとかこみます。
 ひとりのこされた菖蒲は、ベンチにこしかけ、たくさんの動物たちにまじる男や女、子どもからおとなの人影(ひとかげ)()()様子(ようす)に目をやり、夜明けぬバザールにつくまでに起きた出来事(できごと)を思い返しました。

 記憶の星を出発したシロザトウクジラ・サトウ号の乗組員(クルー)となった菖蒲は、アルネヴの秘書(ひしょ)をしていました。買い集めた珍品(ちんぴん)をてきぱきと整理(せいり)してはカタログにまとめ、取引(とりひき)に持っていきます。
「ミス・アヤメのおかげで商談(しょうだん)がスムーズに成立(せいりつ)する」と、アルネヴはまんぞくそうに言いました。
 ティータイムには新商品の説明を聞き、質問したりして楽しみました。
「このお茶、とてもいい(かお)り。いままでにない味でおいしい」と、菖蒲は言います。
「さすがミス・アヤメだね。これはとくべつな花茶(はなちゃ)なんだ」と、アルネヴは自慢(じまん)げに言います。
希少(きしょう)長寿星(ちょうじゅぼし)カノープスの竜骨(りゅうこつ)をどうしてもほしいという客がいた。どうしようか(まよ)ったけれど、三千年に一度しか咲かない幻の花ウドンゲをブレンドした茶葉(ちゃば)提示(ていじ)されてしまってはね」
「そっか、(かお)りの正体(しょうたい)はめずらしい花というわけね」
「ああ、しかし秘密(ひみつ)はそれだけじゃあない」と、アルネヴはもったいをつけて玉虫色のつつ(・・)をだします。
「ある村の伝統的(でんとうてき)保存法(ほぞんほう)で、この茶づつで熟成(じゅくせい)させるんだ。はじめは酸味(さんみ)がたつが、だんだんミルクのようなまろやかさに変化する。ほんのりハニーの(あま)みがあるけど、くどくはならない」
「うーんアルネヴ、わたしはミルクよりチョコレートだと思う」
「なるほど、いわれてみればそうかも」と、あごをなでるアルネヴ。
「わたしのテイスティングはこうよ。口にふくむと上品(じょうひん)なローズの(かお)り、レーズンのような深みのある酸味(さんみ)(あま)み。なめらかなカカオのコク、後口(あとくち)はさわやかなカルダモンね」
 菖蒲は身ぶり手ぶりで、いきいきとお茶について説明します。
「すばらしい!」アルネヴは思わず拍手(はくしゅ)します「ミス・アヤメ、お茶の商売もはじめよう。きっとわくわくするような出会いがあるにちがいない」
 アルネヴは行商(ぎょうしょう)の仕事を(えら)んだのも出会いだと話します。
「つまりね、わたしはせっかち(・・・・)ということさ」
 オリオン座の南にあるアルネヴの故郷(こきょう)で家族と昼食(ランチ)をとっていた時、菖蒲に言いました。
「友の手紙を待つナマケモノにもいつか出会いはとどくだろう。ポストの前でそわそわするキツネもいるし、()てずに郵便局(ゆうびんきょく)まで走る好奇心(こうきしん)たっぷりなコッカースパニエルもいるかもしれない。わたしについていえば……」
「家までおしかけるせっかちシロウサギ(・・・・・・・・・)ね!」秘書(ひしょ)のするどい指摘(してき)にアルネヴの十人兄弟は笑います。
 そんなせっかちシロウサギと菖蒲はいろんな星に出会いました。オペラハウス『かに()』で上演(じょうえん)されたカルキノスがふみつぶされる(げき)(なみだ)なしでは()れませんでしたし、こと()シェリアクでの舞踏会(ぶとうかい)は海の女王テティスのお(ひめ)さまとかんちがいした星の王子さまたちからワルツをさそわれました。おひつじ()にある羊星(ひつじぼし)では秘薬(ひやく)ケムクジャラシを飲んだアルネヴが全身(ぜんしん)まき()モフモフにふくれあがり、羊飼(ひつじかい)いに毛刈(けが)りバサミで()られてツルツルに。菖蒲はおなかを(かか)えて笑いました。
 大きなハンモックにゆられたふたりは星々をつなぎ、長旅のあいだにすっかり意気投合(いきとうごう)し、深い友情(ゆうじょう)(むす)ばれました。もし王子さまとの約束がなければ、菖蒲はアルネヴと行商(ぎょうしょう)の仕事を楽しんでいたかもしれません。

「ミス・アヤメ、待たせてすまない」アルネヴは言います。
「いいのよ。お友達との再会はたいせつにしないとね」
「ありがとう。さあ、きみとの約束を()たそう」
 大通りから()()迷路(めいろ)のような路地(ろじ)(はい)り、奇妙(きみょう)なハーブやスパイスを売る店、バー、地下へとつづくあやしげなラウンジを横目(よこめ)に、さらに進みます。道のつきあたりにジジジ、ジジジと音をたて、ついたり消えたりする赤むらさきの『室定鑑(しつていかん)レェシア』と、書かれたネオンサインがありました
「ここがわたしの修行先(しゅぎょうさき)、アシェレ鑑定室(かんていしつ)だ。店主(てんしゅ)高名(こうめい)工学博士(こうがくはかせ)考古学(こうこがく)にもくわしい。星間(せいかん)ガスを利用(りよう)したエネルギーシステムで夜明けぬバザールを大きな街にしたのはアシェレ博士(はかせ)なんだよ」
 木の(とびら)()けた先は古びた(かざ)(たな)にくすんだアクセサリーやヒビの(はい)った食器(しょっき)がたくさんつみかさなり、ほこりだらけの棺桶(かんおけ)からのぞくミイラや(たお)れかかった甲冑(かっちゅう)などがひしめきあっていました。
 商品を倒さないようせまい通路を横むきに、もぐるように奥へ奥へ進むと、赤いセータにフィンチ(がた)メガネをかけた(ろう)ヒツジが薄灯(うすあか)りの下で金のアクセサリーを凝視(ぎょうし)していました。
博士(はかせ)、おひさしぶりです」
「字がつぶれておるのぉ」(ろう)ヒツジはアルネヴに気づかない様子(ようす)で、毛むくじゃらの頭をかきながらブツブツひとりごとを言います。
「その象嵌(ぞうがん)技術(ぎじゅつ)は、おそらく百万年前に噴火(ふんか)で消えた星、ペイポンでつくられたペンダントではありませんか?」と、アルネヴはのぞきこんで言います。
「わしもそう思うんじゃが、(うら)刻印(こくいん)がな。あとで打ったのか、それとも偽物(にせもの)か……」
 (ろう)ヒツジはそう言ってゆっくり顔をあげ、アルネヴを見つめ、目を大きくします。
「やあやあ、アルネヴか。ひさしぶりじゃなぁ」
博士(はかせ)、お元気そうで」
 アルネヴは手をのばし、(ろう)ヒツジとあく(しゅ)をします。
「しばらくここに顔を見せないということは商売上々(しょうばいじょうじょう)かな。サトウは元気かい?」
「はい。博士(はかせ)によろしく、と。ここまで()れてこれませんので」
「イッヒッヒッヒ。わかっとる、わかっとる」
博士(はかせ)紹介(しょうかい)したい人がいます」
「はじめまして、わたしはアヤメといいます」菖蒲はおじぎをします。
「ほう、これはかわいい実体(じったい)の子か。わしはアシェレじゃ」
 老ヒツジのアシェレ博士(はかせ)は菖蒲とあく(しゅ)をかわします。
「さっそくですが、博士(はかせ)鑑定(かんてい)していただきたい品があります」
「わしにとな」アシェレ博士(はかせ)はおどろいたように言います。「おぬしのほうが目も()えておるじゃろうて」
博士(はかせ)にはまだまだ遠くおよびません。鑑定(かんてい)していただきたいのは記憶(きおく)結晶(けっしょう)です。ミス・アヤメ、見せてもらえる?」
「わかったわ」
 菖蒲は()ビンをポケットから取りだし、アシェレ博士(はかせ)にわたします。
 アシェレ博士(はかせ)はかがみこむようにして鑑定(かんてい)をはじめます。フタを()けて底をのぞき、アルコールランプのゆれる光にあててコンコンとやさしくたたき、なでてからつくえに()きました。
「で、アルネヴ。おぬしの見立ては?」
「はい。よくある透明(とうめい)な記憶の結晶だと思います。ただ……」
「ただ?」
「金色の記憶から結晶化したと聞いていますので、透明であるにはなにか理由(りゆう)があるのかと」
「ふむ。ではすこし質問(しつもん)()えようか」と、アシェレ博士(はかせ)見透(みす)かすように目をほそめます。
「もしなにも知らず、これを見たら、サトウの背中(せなか)()っとるおぬしの全財産(ぜんざいさん)交換(こうかん)するかな?」
 かたい表情(ひょうじょう)のアルネヴ。ぴんとはりつめた空気が流れます。
「いいえ、しません」
「理由は?」
損失(そんしつ)が高く、利益(りえき)は見こめません」
「つまり、色ぬけした、そこらにころがる()ビンであると?」
 アルネヴは思わず目をそらします。
 ヒゲにかくされたアシェレ博士(はかせ)口角(こうかく)()がり、メガネをはずします。沈黙(ちんもく)を楽しむように数回まばたきをしてから大きなため息をつき、「残念(ざんねん)だよアルネヴ。おぬしは一粒(ひとつぶ)真珠(しんじゅ)のためにすべてを売った偉大(いだい)商人(しょうにん)にはまだまだ遠い」。
「どういうことですか!」
「おぬしが星間行商(ぎょうしょう)をはじめたいと言った時、わしの話しをおぼえておるかね?」
「はい。よくおぼえていますとも。常識(じょうしき)()てよ。近似値(きんじち)評価(ひょうか)すべからず。本質(ほんしつ)を見よ。わたしはいつも心にとめてきました」
「ふむ。()とは()()なるもの。(ぜん)微妙(びみょう)差異(さい)にあり。(しん)客観(きゃっかん)()事実(じじつ)よ」アシェレ博士(はかせ)は菖蒲に目をうつし、「この()ビン、アヤメくんはなんだと思うかね?」
「王子さまの記憶で結晶化と加工をした金色の()ビンです」菖蒲は(まよ)わずに答えます。
 アシェレ博士(はかせ)笑顔(えがお)でウンウンとうなずき、()ビンをアルネヴにわたします。
「もう一度よく()なさい」
 言われたとおり、しばらく鑑定(かんてい)しているとアルネヴの顔は紅潮(こうちょう)します。
「まさか、まさか、これはもしかして、いや、そんな!」
「そういうことじゃよ、アルネヴ」
「これがあのすきとおった純金(じゅんきん)……しかし、あれは古い本の!」
「いいかいアルネヴ。まったく未知(みち)なるものを前にする時、それまでの知識(ちしき)経験(けいけん)はいたずらする。おぬしは透明な記憶は色ぬけして価値をもたない、という常識(じょうしき)にとらわれ、すきとおった純金(じゅんきん)()ビンをガラスの近似値(きんじち)錯覚(さっかく)した。しかもこの(しな)のむつかしいところは質朴(しつぼく)とした外見(がいけん)。だがここで重要(じゅうよう)なのは本質(ほんしつ)ではないかね」それからアシェレはこうつけくわえました。「まあわしもこの目で見るまで表現(ひょうげん)のひとつと思っておったがの。これじゃから鑑定(かんてい)はやめられんわい。イッヒッヒッヒ」
「あの、すきとおった純金(じゅんきん)とはなんですか?」と、菖蒲は聞きます。
「古い預言書(よげんしょ)にでてくる鉱物(こうぶつ)で、『ガラスのような純金(じゅんきん)』ともいわれている。不純物(ふじゅんぶつ)をうけつけない精錬(せいれん)しつくした金……領域(せかい)存在(そんざい)しない伝説(でんせつ)鉱物(こうぶつ)なんだ」
「ふつう」と、アシェレ博士(はかせ)は言います。「記憶を結晶化させる(さい)思念(しねん)()じる。つまり、もとの色にまぜ手の思いが色をくわえ、そのにごりは結晶に価値(かち)をうむわけじゃが、この()ビンは金色の記憶がアヤメくんの思いによって(きた)えられ、純度(じゅんど)をきわめた、と考えられる」
「金色の結晶でも、その希少性(きしょうせい)後世(こうせい)(かた)りつがれるのに、すきとおった純金(じゅんきん)はいったいどれほどの値打(ねう)ちなのだろう……」アルネヴは声をふるわせます。
 菖蒲はふと顔をうしろをむけ、薄暗(うすぐら)店内(てんない)を見ました。
「ミス・アヤメ、どうしたの?」
「扉の(ひら)く音がしたような」
 アルネヴはせまい店の通路をのぞき、「だれもいないよ」。
「気のせい、かしら……」
「なあ、アヤメくん」と、アシェレ博士(はかせ)は言います。「よほど深いわけがあるんじゃろう」
 菖蒲は深くうなずき、扉のない中庭について話しました。
「なるほど。言いつたえでは()りえない領域(せかい)と聞いたが」と、アシェレ博士(はかせ)
「旅のうわさで耳にしたことがあります」と、アルネヴは言います。「特定(とくてい)の|《ばしょ》ではないはず」
「わたしは中庭を見ました。それにおじぃは闇の門をくぐり、中庭のちかくにまで行ったのよ、アルネヴ」
「レウケ島のイアソン氏か。(かれ)ほどの大冒険家(だいぼうけんか)であれば(しん)ぴょう(せい)は高いね」
「闇の門は考えになかったの」アシェレ博士(はかせ)感心(かんしん)します。「あそこは光うけつけぬ、生命(いのち)正反対(せいはんたい)領域(せかい)。足をふみいれれば二度とはもどれまい」
「はい。それでもわたしは闇の領域(せかい)にむかいます」
「ほうほう」アシェレ博士(はかせ)は菖蒲の覚悟(かくご)の目を見定(みさだ)め、()みをうかべて言います。「その思いが奇跡(きせき)()ビンをうんだ、というわけじゃな」
「おしえてください。闇の門はどのようにいけばよいのでしょうか?」
「なにを言ってるんだい、ミス・アヤメ。このバザールのすぐそばにあるよ」
「ええっ!」菖蒲は思わず声をあげます。
 なんと、知らないうちに目的地(もくてきち)まできていたのです。

家出した影

家出した影

 雨がしとしとふってきました。ガス(とう)やネオンは、ぬれた地面のモザイクガラスに反射(はんしゃ)して、虹色(にじいろ)の水玉をキラキラうつします。
 アシェレ鑑定室(かんていしつ)をあとにした菖蒲とアルネヴは頭をおさえ、路地(ろじ)を走っていました。
「大きな屋根(やね)があるのに、なぜ雨はふるのかしら?」と、菖蒲は聞きます。
「街の湿度(しつど)温度(おんど)を安定させるために水滴(すいてき)が落ちるしくみになってるんだ」
 ふたりが大通りにぬけようとした時、菖蒲はなにかとぶつかり、「きゃっ」と、声をあげて水たまりにしりもちをつきます。
「だいじょうぶかい?」と、アルネヴはすぐに手を差しだします。
「うん、ありがとう」菖蒲は(いた)そうに(こし)をさすり、「だれかとびだしてきたみたい」。
「あやまりもせず立ちさるなんて!」
「わたしも前をよく見ていなかったから」
 菖蒲は(はら)を立てるアルネヴをなだめ、サトウの()市外(しがい)の公園にいそいで帰りました。
「きゃあああ!」
 サニタリールームで顔をふいていたアルネヴは菖蒲の悲鳴(ひめい)にびくりと(かた)をふるわせました。
()ビンがないの!」
「アシェレ博士(はかせ)の店におきわすれたんじゃないのかい?」と、アルネヴは菖蒲にタオルをわたします。
「ポケットにちゃんといれたわ」
「では帰る道すがら落としたのかもしれない」
「さっきころんだときかな」
「往来のはげしいバザールで落としたらたいへんだ。はやく探そう!」
 家を飛びだし、ふりしきる雨もそっちのけ、ふたりはあわてて事故現場(じこげんば)交差点(こうさてん)にもどります。
「ああどうしよう、どうしよう!」
 顔色(がんしょく)をうしなう菖蒲はあっちふらふら、こっちふらふら、気もそぞろです。
「王子さまがもどせなくなったらどうしよう!」
 見かねたアルネヴは菖蒲の()にそっとふれます。
「おちついて。いいかい、わたしは博士(はかせ)の店までたどる。きみはこのあたりを探して」
「うん、わかった」
 (あま)ガッパ姿(すがた)動物(どうぶつ)でごったがえすバザールではいつくばるように探しまわりますが()ビンはどこにも見つかりません。キラキラ光るガラスの細片(さいへん)がタイルの目地(めじ)に落ちていると、まさか()れてしまったのではないかヒヤヒヤします。
「見つかってお(ねが)い。見つかってお願い」と、菖蒲はぶつぶつ(ねん)じ、フラフラ歩きます。
 ふりやんだ雨や周囲(しゅうい)様子(ようす)など気にもせず、地面(じめん)をひたすら()いかけ、にぎやかなバザールからどんどん遠ざかります。黒い灯火(ともしび)のゆれる石畳(いしだたみ)の両わきに白暖簾(しろのれん)のちいさな屋台(やたい)が立ち(なら)ぶ通り道を進み、(きり)のような闇につつまれました。
「サキにススんではイケナイ。サキにススんではイケナイ」屋台(やたい)から聞こえるヒソヒソ声。
 つめたい風にぶるりと(かた)をふるわせた菖蒲は、やっと頭をあげました。
 目の前に、高さ二十メートルはある鳥居(とりい)のような巨大アーチ門から人影(ひとかげ)のようなゆらぎがあらわれては消え、バザールのほうへ行ったり来たりしています。
 あまりのぶきみな光景(こうけい)に、菖蒲はこわくなってあとずさりします。すると、門のほうから夜の海をてらす灯台(とうだい)のように、チカチカと光がまたたき、菖蒲は目をうたがいます。なぜなら月で見た金色の流れ星とおなじだったからです。自然と足は光にむきますが、ちかづけばちかづくほど深い闇のほうへすいよせられます。
 暗黒(あんこく)からもがきのばされた(かげ)のかたまりは、かわいた風によって人形(ひとがた)となり、男女はまじわり、子を()み、すぐに()ちてうつろいます。菖蒲は(あらし)にもまれ、重い足どりでわずかな光へ進んでいると、若い男女の(かげ)がそばによってきます。甘美(かんび)なぬくもりにまどろみ、菖蒲と影は親子のように仲良(なかよ)く手をつなぎ、深い闇の領域(せかい)へと()()られていきます。
「おかえり、おかえり、わが子よ」と、耳に聞こえる男女の混声(こんせい)
「お父さん、お母さん。ただいま……」暗闇(くらやみ)にすいこまれていく菖蒲。
「サキにいってはだめ」と、男女の混声(こんせい)を打ち消す、(ふえ)のように()んだ女の声。
 菖蒲は手首をぐいとつかまれ、門柱(もんちゅう)土台石(どだいいし)に引っぱられます。

「あなたは……」
 菖蒲が夢うつつに見たのは()ビンを手にした少女でした。菖蒲とおなじくらいの年恰好(としかっこう)(かみ)はみじかくカールして、ひとつだけ大きなちがいは人影(ひとかげ)(かたち)だったことです。
「わたしを助けてくれたの?」
 そう聞いても影の少女はうつむいたまま、なにも答えません。
「はじめまして、わたしはアヤメ」と、菖蒲は気にせず()みをむけます。「よければ(うち)でお茶でもいかが?」
 すると影の少女はこくりとうなずきました。

「……わたしはねサトウ、聖人(せいじん)だとはいわないさ。だけどこんどばかりはミス・アヤメをまったく、すこっしも理解できない」甲板(デッキ)(うで)と足をどっしりとくみ、()そべるアルネヴは、ふてくされたように言いました。「貴重(きちょう)()ビンを(ぬす)まれて憤慨(ふんがい)もせず、帰るやいなや、ふたりだけで話しをしたいという。雨のなか、懸命(けんめい)に探したのにわけもいわず、わたしの家なのに(はい)ってくるな、だなんてひどいと思わないか」
 サトウは、なぐさめるように鼻息(はないき)をフシューっと()きました。 
 いっぽう、そんな(あわ)れなシロウサギの家で、菖蒲はむかいにすわる影の少女に言います。
「ね、おいしいでしょ。めずらしい花をブレンドしたお茶なのよ。さっきのシロウサギさんは行商(ぎょうしょう)のアルネヴ。わたしたち、よくティータイムを楽しむの」
 影の少女はティーカップを()き「わかんない」と、つまらなさそうに言います。
「味もにおいもなにもかも。影にはいらないから」
「そんなひどいこと、だれが言ったの?」と、菖蒲は聞きます。
「門の外にでてはいけないってパパに言われた。だから家出(いえで)した」
「あの大きな門のむこうに住んでいるのね?」
 少女はかるくうなずきます。
「影はみんな影、影はだれも影」
「ほかの影は門の外にいたわ。なぜ外にでてはいけないのかしら」
「パパが(おのれ)をもつ影はいけないって」
「そっか」と、菖蒲は言います。「ねえ、もしいやでなければ、あなたの名前をおしえて」
 やっと顔をあげた影の少女は首をかしげ、こう言いました。
「ナマエってなに?」

名もなき

名もなき

 名はなぜあるのでしょう。区別(くべつ)するため、意味(いみ)価値(かち)()すため、あるいは理解(りかい)するためでしょうか。
 だれでも名をもち、好き(きら)いにかかわらず名によって()ばれます。だれかを知ろうとする時、知ってもらおうとする時、まず名をたずね、自己紹介(じこしょうかい)をします。菖蒲もあたりまえのように少女の名をたずねました。
 人影(ひとかげ)は自分や他人(たにん)がなにであるかを知るひつようがありませんし、そもそも影を意識(いしき)して生活する人はいません。
 夜明けぬバザールにうつろう影は実体(じったい)投影(とうえい)で、住民(じゅうみん)は空気のように見ていましたし、菖蒲も影の少女と出会(であ)い、話さなければ、影について気にしなかったでしょう。
 しかし名について()われた名もなき影の少女は、いまやその意味について知るひつようがありました。
 わたしはなにをもってわたしなのかを。
「あた……あたし」
 影の少女は居心地(いごこち)わるそうに目をきょろきょろさせ、小声(こごえ)で言います。
「ナマエは知らない。でも」
「でも?」
「あんたの心がほしい。それで家出(いえで)したのよ。(あに)みたいに」
「お(にい)さんがいるの?」
「兄は兄妹(きょうだい)といってた。兄はナマエをもらったと言い(のこ)してでていった。二度と帰ってこなかったわ」
「お兄さんはなんで家出(いえで)したのかしら」
「ほしいものがあるんだって。あたしもいつかそれをほしくなるって」
 菖蒲はすこし考えてから、少女にこうたずねます。
「どうしてわたしの心がほしいの?」
 少女はひくっと(かた)をゆらし、「あたしも知りたい。オチャ……それにナマエ。だから……」
「だから?」
 少女は()ビンをにぎりしめたまま、かたまってしまいます。
 うなだれる少女をじっと見つめる菖蒲は、(だま)って答えを待ちます。
「だから、だから……」と、少女の目から影の(なみだ)がポロポロこぼれ、しぼりだすような声で言います。
「だから……あた……し……あたしは、あんたの()ビン……とったのよ」
 少女のつたない告白に菖蒲の(むね)は強くしめつけられ、まゆをよせ、口びるをかみました。
「あんたが()ビンのこと話してるの聞いたわ」と、少女の顔はあかるくなります。
「これがあれば、あんたになれるんでしょ。だから使いかたをおしえてちょうだい」
 少女のすんだひとみにうつるひとつ(ぼし)を見た菖蒲は強い愛を感じ、なぐさめるようにこう言います。
「なれないのよ。その()ビンでわたしにはなれないの」
「うそつき」少女は首を横にふり、乱暴(らんぼう)に言います。「記憶と思いがあるって聞いてたんだ」
「そう。たしかにその()ビンは、わたしのだいじな人の記憶やわたしの思いがたくさんつまっているけど、それを手にしたからといって、わたしになれないわ」
「うそつき!」(つくえ)をたたき、どなりつける少女。
「どうか、聞いて」と、菖蒲はおだやかに言います。「あなたはあなたで、わたしはわたし。あなたがどれだけ(のぞ)んでも、心はあなたの空腹(くうふく)()たしてはくれない。それに、たとえわたしになっても、ほかのだれかに()われたとしても、自分ではないと気づいたら、あなたはもっと(きず)つくだけよ」
「うそつき!」少女はちがうとばかりに首をなん度も横にふります。「そうやってあんたはぜんぶ自分だけのものにしてる! あたしはあんたになりたいの。あたしにはなんにもないんだから!」
「わたしは()てられ、家族も()まれた場所(ばしょ)誕生日(たんじょうび)も知らないのよ。菖蒲(あやめ)という名前ですら五月に(ひろ)われたからってだけ。それでも、あなたはほんとうにわたしになりたいと願うの?」
「大うそつきのあんたなんかにわかんないのよ! あんたには心がある。あたしにだってもらえなきゃおかしい!」
「じゃあ交換(こうかん)しましょう」と、菖蒲はぱっと立ちあがり、興奮(こうふん)する少女の両肩(りょうかた)にふれます。「わたしはわたしの(おも)う人のため、()ビンがどうしてもいるの。だから、わたしの心の半分をあげる。そのかわり()ビンを返して」
「ええいいわ」少女はにこりと笑顔(えがお)で首をたてにふります。「どうやってあんたの心をくれるわけ?」
 菖蒲は王子さまのつけていた首かざりから指輪(ゆびわ)をはずして右手の薬指(くすりゆび)にはめると、赤い宝石は炎のようにまっ()()えます。
「ひとつだけ約束して」と、菖蒲は少女に言います。「いつか、わたしの心をひつようとしなくなったなら、わたしに返してほしいの」
「わかった。約束する」
 菖蒲が少女の首に(うで)をまわした、その時————
「アヤメはうそつきなんかじゃない! きみがわがままなだけなんだ!」
 ひどくとりみだしたアルネヴは、声をあげてふたりの前に飛びだします。
「アヤメ、アヤメ。ぜったい、ぜったいにあげてはいけない! きみの心が(わか)たれるなら、どれほど苦しむだろう。()けた心はたがいを探しもとめ、どんなにかつらい思いをするだろう。そんなのわたしは見ていられない! こんなのおかしい、まちがってる、まちがってるよ!」
 菖蒲は少女のむこうに立つアルネヴにほほ()みかけます。でも、アルネヴは見ました。菖蒲の右目から(なみだ)が一つぶこぼれるのを。菖蒲はやさしくキスをし、おでこを影の少女のおでこにあてました。すると赤い宝石から鮮血(せんけつ)がほとばしり、天は産声(うぶごえ)をあげ、稲妻(いなづま)がふたりに落ちました。菖蒲はアヤメが引き()かれる強烈(きょうれつ)(いた)みを内奥(ないおう)に感じます。顔をゆがませ、()()いしばり、じっと()え、すべて()()れます。(たましい)がぬけでるような(いき)をはき、指輪(ゆびわ)をはずしてから首かざりにもどし、(なか)のよい義姉(ぎし)を忘れました。
「アヤメ!」アルネヴはくずおれる菖蒲にかけよります。「ああ、きみはなんてことを!」
「ねえ」と、菖蒲はまゆをひそめ、「わたしはふたりで話したいって言ったでしょ」。
「そんな、わたしはきみがしんぱいで、いてもたってもいられなくて」
「外で待っていて」
 紳士(しんし)のシロウサギはしょんぼりと部屋をでていきました。
「ありがとう、アルネヴ」と、菖蒲は小声で言います。「ごめんなさい」
 影の少女はとまどいながら(ぬす)んだものを返し、どうしてよいかわからず、()ビンをだいじそうになでまわす菖蒲を見つめます。
「あなたの名前、わたしがつけてあげる」菖蒲は少女にはっきりと言いました。「あなたの名はミモザ。ミモザよ」
 名もなき影の少女は、この時はじめて名の意味を知りました。影である自分はミモザで、相手は菖蒲であると。
「聞きなさい、ミモザ。あなたはわたしが(よろこ)ぶとき喜び、わたしが悲しむとき(かな)しむの。わたしの(いた)みはあなたのとげ(・・)となり、わたしの辛苦(しんく)はあなたにとってかせ(・・)となる」
 そう言い残し、菖蒲はアルネヴを()いました。
 ひとりになったミモザは両手を(むね)にあて、目を()じます。
 美しい景色(けしき)、こころよい音楽、すてきな(かお)り、ほっぺが落ちるような料理(りょうり)、ふれあい()たされる充足感(じゅうそくかん)……ゆたかな感性(かんせい)やあふれる感情(かんじょう)はすべて心さえあれば自由に(かな)えられるだろう。(あに)がほしくなるといったものはこれだったんだ。影の少女はそのために家出(いえで)し、()ビンをうばいました。
 でも、心の半分を手に()れてミモザがさいしょに感じたこと、それは空虚(むなしさ)でした。

闇の門口

闇の門口

 ミモザはそっと(かく)れて菖蒲とアルネヴを遠くからのぞきました。
しんぱいするアルネヴ、うれしそうに()ビンを見せるアヤメ、ふきげんなシロウサギが頭上(ずじょう)でうるさかったとあきれるサトウ。みんなミモザが()ビンを(ぬす)んだとは言いません。
 でも、なぜだかミモザの胸はうずきます。
「それはね」と、菖蒲の(わか)つ心はミモザの耳もとでささやきます。「友情は守らなければ、かんたんに(こわ)れてしまうからよ」
 ミモザは(こた)えるように菖蒲にかけより、言いました。
「アヤメ、あの、その……アヤメのだいじなものをとってしまってごめんなさい。それに、うそつきって」
「もちろんゆるすわ、ミモザ」と、菖蒲はためらわずに言います。「だってわたしたち友だちでしょ」
 すると、ミモザの感じていた胸のうずきは消えていきます。
「もし」と、ミモザは痛みにむかって(かた)りかけました。「あたしがだれかを(きず)つけたり、うそをついて(かな)しませたのなら、またもどってきてほしい。まちがいに気づくために」
 ミモザをティータイムに誘い、みんなでテーブルをかこみます。(きん)ぶちの白磁(はくじ)カップとソーサー、銀製(ぎんせい)のティースタンドには下からキューカンバーサンド、スコーン、一口サイズのケーキやマカロンがのっていました。
「うん、これもまたいいね」と、アルネヴは(あたた)めなおした花茶(はなちゃ)をテイスティングして言います。「もっとまろやかになっている」
「だめよアルネヴ」菖蒲はむすっとします。「しぶみがでてる。ゲストにこんなお茶をだしたらわたしたちのティータイムはだいなしよ。新しいのと交換(こうかん)してちょうだい」
「ええっ」アルネヴはおどろいたように言います。「このお茶、高価(こうか)なのに……」
「レディをもてなしていますのよ、紳士(しんし)のアルネヴさん」菖蒲はすんとした顔で言い返します。
「それとも、うしろの(たな)の上から二段目、右奥(みぎおく)(かく)してある、もっとすばらしい茶葉(ちゃば)をわたしが知らないとでも?」
 アルネヴはあきれてなにもいえず、しぶしぶ(・・・・)新しいお茶にいれなおしました。
 ミモザはくすくす笑っていると、ふんわり立ちのぼる花の(かお)りに目を大きくします。
「なんていいにおいなの!」
「でしょ。ミモザ、飲んでみて」菖蒲はうれしそうにミモザにすすめます。
 お茶を口にしたミモザはまゆをよせたりあげたり、菖蒲とアルネヴは固唾(かたず)をのんで見守ります。
 ふーっと、(はな)から(いき)をぬくミモザ。
「ミモザ、どう?」
「おいしい……お茶ってこんなにおいしいんだ」
 うっとりしたミモザの体は、なぜだかここちよさでみたされます。
「それはね」と、菖蒲の(わか)つ心はミモザの耳もとでささやきます。「みんなに歓迎(かんげい)されているからよ」
 ミモザは答えるように、笑顔(えがお)で言いました。
「アルネヴ、アヤメ、あたしのためにありがとう」
「どういたしまして」アルネヴは()れながら言います。
「アルネヴはキュートなレディに弱いんだから」と、からかう菖蒲。
「まさかミス・アヤメ、彼女にやきもちやいているのかい?」と、言い返すアルネヴ。
 菖蒲は顔をまっ()にして、「そんなことないもん!」
 サトウまで大笑いすると部屋は大きくゆれ、ミモザはもっとうれしくなります。そして、この時がいつまでも続けばいいのに、と思いました。
「もし」と、ミモザは(しあわ)せにむかって(かた)りかけました。「あなたをあたりまえのように思い、ありがとうってつたえるのをわすれたら、どうかあたしからはなれてほしい。感謝(かんしゃ)を思いだすために」
 ティータイムを楽しんだ後、みんなでバザールにでかけました。
「ねえねえ見て見て、ミモザ。あそこで行列(ぎょうれつ)しているカレー屋さんは()(ごえ)がうるさいのよ。でもそういわれると食べてみたくなるのよね。あっちも……」
 そう言って菖蒲はミモザの腕を引き、お店に走ります。
 どこまでものびるスパゲッティ()現象(げんしょう)アイスクリーム(てん)、プカプカとうかぶ星の(たまご)を売る(みせ)ではだれよりも先に星の名前を決めることができます。ただし、みんなに自慢(じまん)できるのは何十億年もあとの話ですけど。宇宙乗りものショップでは高速(こうそく)ロケットのほかにも、おしりからもれるあの空気(・・・・)利用(りよう)した、クリーンヘネルギー新型(しんがた)バイクがショーウィンドウにかざられています。でも、においの完全(かんぜん)除去(じょきょ)については今後(こんご)課題(かだい)のようです。そのとなりが()きいもの(みせ)であるのは偶然(ぐうぜん)でしょうか。古着屋(ふるぎや)さんのマネキンには(はだか)の王さまが()ていたというバカには見えない(ふく)雑貨屋(ざっかや)さんのおすすめはジャックがうえた天までとどく(まめ)(きん)のたてごとで、いまなら金のたまごもセットで買えるようです。
 ミモザに()しゅう()りのボタニカルブラウスをあてがい、菖蒲の首にきらきらのネックレスをかけます。ふたりはなんでも手にとり、においをかぎ、口にし、たくさん笑いました。スゴロクでマスを進めたりもどったり、ときには一回休みになるように、この店に(はい)ったかと思えばまたあの店と、ゴールになかなかたどりつきません。アルネヴには、そんな手をつないであちこち歩くふたりの少女のうしろ姿(すがた)姉妹(しまい)のように見えました。
 それからついに「サキにススんではイケナイ」と、ヒソヒソ声の聞こえる屋台(やたい)までやってきます。
「きみたちにプレゼントしたいものがある」と、アルネヴは菖蒲に金、ミモザには銀の腕輪(バングル)(おく)ります。
「これは超新星爆発(ちょうしんせいばくはつ)でわかれた星のかけらをアルケミストの手により金と銀に変えたとされている。ふたつはひとつになろうとする腕輪(バングル)なんだ。きみたちの友情(ゆうじょう)にぴったりだと思って」
 菖蒲とミモザは口をそろえて感謝(かんしゃ)(つた)え、菖蒲は腕輪(バングル)を右手首に、ミモザは左手首につけました。
「行商はこれより先に進むのをゆるされていない。(いち)のあるところまでだ。だからお(わか)れだね」アルネヴは名残(なごり)()しそうに言います。
「アルネヴ!」菖蒲は愛するシロウサギをぎゅっと強く()きしめます。「あなたに会えてほんとうによかった。あなたはわたしの、とても、とってもたいせつな家族よ。またティータイムに招待(しょうたい)してもらえるかしら」
「もちろんさ、アヤメ」と、アルネヴは(した)しみをこめて言います。「わたしたちは多くのすばらしい宝に出会えたね。そしてこれからも」
「うん」
「おぼえておいて。わたしはきみのためならどこでもすぐ助けにゆく。約束だ」
「ありがとう、アルネヴ。大好き」菖蒲はアルネブのほおにキスをします。
 ミモザはそんなふたりの惜別(せきべつ)をながめ、強い悲しみに(おそ)われ、こう思います。
——そうか、アヤメとアルネヴはこの時をふたりだけで()ごしたかったけれど、なにも言わず、だいじな時間をあたしにゆずってくれたんだ。大切(たいせつ)な人とはなればなれになるのは、こんなに不安で苦しくてつらい時を()(しの)ばなければいけない。それなのに、あたしはアヤメの心を引き()き、アヤメはずっと菖蒲を探している。
 ねえアヤメ、なぜあたしを()めないの? ()ビンを(ぬす)む、姑息(こそく)な影だとしかりつけ、ののしればいいのに。ねえアヤメ、どうしてあたしはあなたの友人なの? 心を(うば)った(わる)い影だと(にく)(きら)い、()けてくれればいいのに。
「それはね」と、菖蒲の(わか)つ心はミモザの耳もとでささやきます。「ただ()けあいたかったから。どうしようもなく、言葉にならない(さび)しさを、ただ知ってほしかった。わたしが(ひと)()く時に、あなたのような(いもうと)がそばにいてくれたら、どんなによかっただろうって」
 ミモザは遠くまで広がる孤独(こどく)にむかってさけびます。
「ああ、あたしのうちにまかれた、たくさんの悲しみよ! おまえたちは喜びの花となれ。カタクリの花がいくどもいくども厳冬(げんとう)()し、早春(そうしゅん)野山(のやま)をひっそりとかざるように。いつか、そのちいさな花を(ひと)()(あね)にとどけよう」
 ふたりはアルネヴに手をふります。
「アヤメ、あたしの手をはなさないで。あなたの行きたい場所を知っているから」
 ミモザは左手で菖蒲をつかみます。
「あたしを(しん)じてくれる?」
「もちろん」と、菖蒲はミモザの手をにぎり返します。「いつも、いつも。ずっと、ずっと」
 ふたりは手をつなぎ、闇の門をくぐりぬけていきました。

人と影による交唱

人と影による交唱

 道しるべは右手に感じるミモザのぬくもりだけでした。
 歩くたびにコツンコツンと石をたたくような(かた)足音(あしおと)反響(はんきょう)しますが、神殿(しんでん)なのかお(どう)なのか、まっ(くら)でなにもわかりません。
 ()り糸をほどくようにミモザの手をはなしたなら、闇の中でひとり(のこ)され迷子(まいご)となって、だれも助けてはくれないでしょう。
「ミモザはどこにいるかわかるの?」
 菖蒲は不安げにそうたずねると、ミモザの声が返ってきます。
「ええ。でも前よりわからなくなってきてる」
「なぜ?」
「光を見るようになったから。かすむけどだいじょうぶよ、アヤメのいきたい階段は、兄になんどかつれていってもらったの」
「お兄さんと?」
「うん。兄は闇の領域(せかい)にやってきた男の人を階段に案内したわ。帰りを待っていたけど、もどってこなかった。そのあと、兄は闇の門から出ていった」
「ミモザはここにどれくらい住んでいたの?」
「闇の領域(せかい)は時間がないからわからない。でもアヤメの()まれるずっと前から存在(そんざい)してたと思う。(おのれ)をもつ兄とあたしは変化しない人影で、実体(じったい)意志(いし)のない影はいろいろな形相(ぎょうそう)変化(へんか)する」
「闇の門やバザールで見た影のように?」
「そう。あれらはアヤメから()えた(かたち)。アルネヴから()える影はちがうのよ」
「ミモザも?」
「ううん。あたしは影を作りだすことはできない。それぞれ投影(とうえい)された姿(すがた)から、思いや考えをすこしのぞける。兄は影をとどめ、あやつれるのよ」
「ねえミモザ、なにか聞こえない?」
「アヤメ、それは幻聴(げんちょう)よ」ミモザは菖蒲の右手をくいっと引きます。「闇はいろんなものを見せるから気にしちゃだめよ」
「た……すけ……て……」
「女の人がどこかで泣いてる」
「たすけ……て」
「どこ? どこにいるの?」と、菖蒲は左手を闇にのばします。「見えないの。なにも、なんにも」
「たすけて」
「アヤメ、()き者に関心(かんしん)をむけてはだめ」遠くになっていくミモザの声。「あたしだけを信じて」
「ミモザ、どこ? どこにいるの?」左手をおよがせる菖蒲。
「ここよ、助けてアヤメ」
「わたし?」
「そう、ここよアヤメ」
「待っていて。すぐに行くから」と、菖蒲はからませた右手をふりほどこうとします。
「アヤメ!」と、ミモザは左手をぎゅっと強くにぎり、「あたしの手をはなさないで!」
「ミモザ、わたし……」菖蒲の呼吸(こきゅう)はみだれ、心臓(しんぞう)はバクバクと強く鼓動(こどう)します。
「しーっ、(しず)かに。闇のあるじ(・・・・・)があたしたちを引きはなそうとしてる。そうよね、パパ!」
 ミモザがどこかに呼びかけた瞬間(しゅんかん)、菖蒲はおしつぶされるほど強い力と視線(しせん)を感じ、あまりの寒さにぶるぶるふるえます。
(ワレ)は」と、地面をゆらすほどの低いうなり声は反響(はんきょう)してあちこち聞こえ、(こん)だくした言語(げんご)集合(しゅうごう)し、理解(りかい)できる音声(おんせい)にかわります。「おまえの父ではない」
 菖蒲は恐怖(きょうふ)のあまりミモザの(うで)にしがみつきます。
「あなたがあたしたちの父であると兄から聞きました」と、ミモザは言います。
「影に兄弟などない」闇のあるじ(・・・・・)は答えます。「どちらも配列(はいれつ)誤差(ごさ)補正(ほせい)のガラクタにすぎん」
「ガラクタ?」と、つぶやく菖蒲。
「それでも、あなたはパパです。あたしは友人を()れてゆきます」
領域(せかい)調和(ちょうわ)をみだす者は(むく)いをうけるさだめ。(おのれ)をもつ影よ、わきまえていよう」
「はい。もちろん、ここで(ばつ)はうけます」
(おろ)かなガラクタめ。名は(おのれ)をあざむく言葉。もうひとつのクズがそうであったように」
「クズ?」と、つぶやく菖蒲。
「そうだ、娘よ」と、闇のあるじ(・・・・・)は菖蒲にむけて言います。「さだめられた領域(せかい)(おか)すにあきたらず、本質(ほんしつ)(こと)にする影に(じょう)をよせ、つけこむとは。その傲慢(ごうまん)領域(せかい)破滅(はめつ)をもたらした事実(じじつ)をわすれたか」
「ちがう!」菖蒲は力強く反論(はんろん)します。「どんなものもおなじであると決めつけてはいけない。わたしは海の女王からそうおしえられた。世界にひとつとしておなじものはない。影もまた」
(にじ)(むすめ)よ。()てられてなお、口にあまく、(はら)には(にが)い言葉をはくか」
「アヤメ、()き者を気にしなくていいのよ。もういきましょ」
 ミモザはそう言うと闇のあるじを無視(むし)して菖蒲の手を引き、ずんずん歩きます。
 すると()い影があらわれ、菖蒲とミモザを大勢(おおぜい)でかこみ、闇のあるじ(・・・・・)交唱(こうしょう)をはじめました。

  黄色(きいろ)い花の下劣(げれつ)(うた)
   (ワレ)らに(あさ)

  黄色(きいろ)い花の醜悪(しゅうあく)な体は
   (ワレ)らにおぞましく

  黄色(きいろ)い花の低俗(ていぞく)(まい)
   (ワレ)らにつたなく
  黄色(きいろ)い花の卑猥(ひわい)な口は
   (ワレ)らに()えがたく

  黄色(きいろ)い花の…… 黄色(きいろ)い花の……
   (ワレ)らに……  (ワレ)らに……

 反復(はんぷく)するあざけりの歌は菖蒲の耳にまとわりつき、くすぶる(いか)りに火を、(にく)しみのマグマをふつふつとわきあがらせます。容赦(ようしゃ)ない非難(ひなん)そして同調(どうちょう)により、感情(かんじょう)自尊心(じそんしん)をぐしゃぐしゃに破壊(はかい)してやろうと歌っているのです。しかし黄色(きいろ)い花とはだれなのでしょう。
——わたしのミモザよ! ぜったいゆるせない!
 菖蒲は右手に力をこめます。
「あたしのためにおこらないで」と、ミモザは言います。「そんなアヤメを見たくないの」
「だってミモザ、あなたを(こわ)そうとしているのよ! 闇に(かく)攻撃(こうげき)する卑怯(ひきょう)最低(さいてい)な者たち!」
「パパも影も(かく)れてなんかない。知らないだけ。ねえアヤメ、あたしもそうだったでしょ?」
「あなたは、あなたはちがう!」
「ううん。あたしも知らなかったのよ、アヤメ。言葉は火傷(やけど)させたり、(こご)える手を(あった)めもできる。あなたにそうおしえてもらえた」
「でも、あいつらはそんなあなた(ひと)りを知ろうともしない!」
「あたしはアヤメだけに知ってもらえればかまわない。アヤメだけでいいの」
 見えない闇から()げつけられる罵詈雑言(ばりぞうごん)(はら)いのけるように、ふたりは前へ前へひたすら歩き、ついに目的の場所につきました。下へとつづく、うす(ぐら)い階段に。しかし、()え広がる(にく)しみは菖蒲の目をくもらせ、すぐ前にある階段がまったく見えません。
 闇のあるじは、つたない()り糸を無情(むじょう)()()ろうと誘惑(ゆうわく)しました。
浅薄(せんぱく)なアヤメよ。おまえが名づけた黄色(きいろ)い花のゴミクズミモザは影ゆえ存在(そんざい)廃棄(はいき)できず、(じょう)苦悩(くのう)しながら闇をさまよい続ける。約束の力で破壊(はかい)しろ。キエロゴミクズミモザ、コワシテシマエ」
「ええ、こわしてやるわよ。あんたたち! みんなぜんぶ!」
 激高(げっこう)した菖蒲はミモザの手を力づくでふり切ろうとします。
「アヤメ、手をはなしてはだめ。やっとここまできたのに」
「キエロゴミクズミモザ、コワシテシマエ」
「ミモザ手をはなして! みんなこわしてやる! みんなみんなこわしてやるんだから!」
「心を闇にしずませないで、アヤメ」
「はなせ! ミモザ! はなせミモザ!」どなりつける菖蒲。
「キエロゴミクズミモザ、コワシテシマエ、キエロゴミクズミモザコワシテシマエキエロゴミクズミモザコワシテシマエキエロ……」
「あんなやつら、いなくなればいいんだ! あんなやつら、消えてなくなればいいんだ!」
 灼熱(しゃくねつ)憎悪(ぞうお)が両手を()きこがしても、ミモザはけっして力をゆるめませんでした。菖蒲の手をとり、闇の領域(せかい)をみちびき、(やく)に立てたのが、とてもうれしくて、なにより(しあわ)せだったからです。
——だから、これはあたしの大好きなアヤメなんかじゃない。
「アヤメ、アヤメ」ミモザは声を(あら)らげる友に()びかけます。そう、なんども、なんども。
「あたし、あなたとの約束ずっとおぼえてる。おぼえているわ。だってあたしは宇宙でいちばん美しいアヤメの心をもっているんだもの。あたし、アヤメのためになんだってしたい。すべてをあげてもいいとさえ思える。もう、あたしのぶんはなんにもいらない」
「でも、あいつらは! むりよ! あいつらだけはゆるせない!」
「ううん。それでも、よ」と、ミモザは()けただれた左手をアヤメの右手にからませます。「さよならの時は大好きな友に笑顔(えがお)でいてほしい。また()おうって、あしたまた遊ぼうねって」
「でも、あなたをこんな(くさ)りきった墓場(はかば)においてけない!」
「ううん。それでも、よ」と、ミモザは右手を(いか)りでこわばる菖蒲の顔にのばし、やさしくなでます。自然(しぜん)とふたりは(かた)りかけるように、やがてそれは()わす歌となり、闇の領域(せかい)に広がりました。

  あなたは聞くでしょう
  ()きすさむ非情(ひじょう)な声を
   それでもあたしは()えよう
   あなたは(きよ)らかな(こと)(おと)

  あなたは歩くでしょう
  光とどかぬ闇の(ふち)
   それでもあたしは(のぞ)もう
   あなたは夜にまたたくアメジスト

  あなたは泣くでしょう
  ()てつく孤独(こどく)の時を
   それでもあたしは()えよう
   あなたは(おだ)やかな暖炉(だんろ)(ほのお)
  
  あなたは(いだ)くでしょう
  みにくいわたしの本心(ほんしん)
   それでもあたしは愛そう
   あなたのあたえてくれた(わか)つ心

「よかった。いつものアヤメね」
「わたしのミモザ! また会いましょう。一緒(いっしょ)にお買いものをして、一緒(いっしょ)にお茶をのんで、一緒(いっしょ)に旅するの。あなたと見たいものや知りたいことがたくさんあるから。いっぱい、いっぱいよ……」
 あふれる想いをつたえた時、笑顔(えがお)でいられたのか、それとも悲しい顔なのか、菖蒲にはわかりませんでした。でも、ミモザだけは知っています。ミモザが最後に暗闇(くらやみ)で見たのは、大好きな菖蒲の顔だったのですから。
 菖蒲は手をふりうす(ぐら)い階段へ、ミモザはあざけりの歌が聞こえる深い闇にとけてゆきました。

通路の消失点Ⅲ

通路の消失点Ⅲ

 まっ白な壁の通路は、あまりの長さに先が見えません。まるで宙に浮いているような白い窓が等間隔(とうかんかく)にならび、ガラスはなく、のぞいても外に広がるのは白でした。
 しばらく歩いていると、おりてきた階段はだんだん遠くなり、やがて周囲(しゅうい)の白とまじりあい、消えてしまいます。
 旅のはじまりにおりてきた変わらない通路になつかしさをおぼえ、菖蒲は足を止めます。
 ()しわらの王子さまを玉座(ぎょくざ)にのこしてから、どれくらい過ぎたのでしょう。
 遠くの消失点にむかって歩き続け、いろんな仲間と出会い、わかれ、まっ白な通路へ帰ってきたのです。まるで時計の(はり)が一周したように。
「だったら0時に出発したことにして、いまは12時かな。そうするとつぎは……24時にしよう。まだ一周できるわね」
 菖蒲はくすりと笑い、思いだしたように右下、足もとあたりに目をやると文字が書いてありました。

  ミエルモノガサキデワナイ
   ケレドモミエナクバサキニワユケナイ
    ゼンポウチュウイ 
     アシモトチュウイ

 菖蒲はかがんで壁面文字(ペトログリフ)(なぞ)についてじっくり考えました。
 まず、『ミエルモノ』とはなんでしょうか。
「それは通路とその先に見える点よ」
 しかし文字の続きは『サキデワナイ』と、否定(ひてい)しています。菖蒲は見える消失点を見えないようにして『サキ』へ進むのが(なぞ)の答えであると解釈(かいしゃく)し、『サキ』を手でかくし、見えないようにしたのです。一度目は木の扉にぶつかり、二度目は地面の扉に足を引っかけましたが。
「二段目の文字はフクロウ先生の大きらいな言いわけがましい逆説(ぎゃくせつ)接続詞(せつぞくし)、『ケレドモ』ね。『ミエナクバサキニワユケナイ』って一段目と矛盾(むじゅん)してるのよね」
 菖蒲はレウケ島のイアソン氏から聞いた話しを思いだします。
「おじぃは、うす暗い階段をおりたところが中庭にちかい場所とおしえてくれた。だから『ミエナクバサキニワユケナイ』ところが中庭にもっともちかい場所ってことになる」
 どうやって『サキ』を見ることができるのでしょうか。菖蒲はポケットの()ビンに手をやりました。
「アシェレ博士(はかせ)常識(じょうしき)()てて本質(ほんしつ)を見るようアルネヴに言ってた。()ビンの本質(ほんしつ)である(きん)は変わらず、色ぬけガラスだというアルネブの見かたが変わったのよ。それなら通路の本質(ほんしつ)はなにかしら」
 菖蒲は『ゼンポウチュウイ アシモトチュウイ』と(きざ)まれた(だん)(ゆび)でなぞります。
「これは通路を通るたびに話したわたしの声がのこされたんだわ」
 では、さいしょの文字はいったいだれがのこした言葉なのでしょうか。
「わたしのほかに薄暗(うすぐら)い階段をおりたのはおじぃだけのはず。だからはじめの文字はおじぃの声ね。でもおじぃはわたしに階段をおりた先はわからない(・・・・・・・・・・・・・)と通路について言わなかった。ううん、言わなかったんじゃなくて通路だと思わなかったのよ。ということは、これらの文字は通路でなく中庭について書いてあるのか。だから矛盾(むじゅん)している」
 菖蒲はぱっと立ちあがり、通路を見回します。窓は消失点に続き、壁面文字(ペトログリフ)はかならず右にありました。消失点にむかって歩きますが、もちろんいつまでも『サキ』はつきません。ふしぎなことに天井(てんじょう)をあおいでも目を落としても正面(しょうめん)となって窓は消失点へ続いているのです。
「ずっとこの通路の『サキ』が扉のない中庭だとばかり思いこんでいたから窓と文字の位置(いち)が変わらないことに気づかなかったんだ。自分で作りだした錯覚(さっかく)の通路を歩き、『サキ』である近似値(きんじち)の扉を()けていた。でも本質(ほんしつ)はもっとシンプルで、この場所そのもの(・・・・・・・・)だったのね」
 ついに壁面文字(ペトログリフ)(なぞ)()()かした菖蒲は、さっきまで12時をさしていたあたりまえの時計の針がとつぜん、ぐるぐるぐるぐる回りはじめ、あまりの速さに(けむり)をあげて爆発(ばくはつ)するような衝撃(しょうげき)をうけ、新しい時間の波にくらくらめまいすらしました。
「つまり、わたしのいるここ(・・)が中庭にもっともちかい場所よ!」
 そうです。菖蒲は旅のはじまりに目的地のもっともちかくにいたわけで、通過点(つうかてん)をそのように認識(にんしき)するだけでよかったのです。しかしいったいだれが、壁面文字(ペトログリフ)はイアソン氏の言葉だと、中庭にもっともちかい場所だとわかるでしょう。
 では、菖蒲は無駄(むだ)なまわり道をしていたのですか?

  そうさアヤメちゃん。たいせつな一瞬(いっしゅん)をすくいよせれば、
  人生は思ったより長く、ややこしい時間すら、いとおしく感じるものさ

「おばぁ」と、菖蒲は顔をゆるめます。「たしかにそう思えるようになりました。きっとこれからも」
 ここまで歩いた菖蒲の旅路(たびじ)は、どれもいとおしい思い出になっていました。

もっともちかい

もっともちかい

……チン……チリン……チン……
 ガラスの(うつわ)(ゆび)ではじいたようなかたい音が不規則(ふきそく)なリズムで聞こえ、意味(いみ)(うしな)った壁面文字(ペトログリフ)(まど)わくは風化(ふうか)してボロボロくずれ、ちりとなります。
 無色(むしょく)の空と、さらさらの白い砂に、石英(せきえい)のような()きとおった石がころがる荒漠(こうばく)とした地平(ちへい)のあいだに、ぽつねんと立つ菖蒲だけ色をもっていました。
 ぐるり見渡(みわた)すと、地面には双方(そうほう)にむかう足あとが遠くまで(えが)かれていました。まるで新大陸(しんたいりく)到達(とうたつ)した航海者(こうかいしゃ)が残した記念のように。
「これはきっとおじぃの歩いた足あとだわ」
 菖蒲はそう言って足跡(そくせき)をたどりました。すると大きなリュックサックを()に、カタンコトンとケトルやマグカップをうちならす好奇心にあふれた青年(せいねん)幻影(げんえい)が見えます。ふと青年はこちらをふりむき目をきょろつかせ、口もとをうごかします。
「見えるものが先ではない。けれども見えなくば先にはゆけない……」
 菖蒲は幻影(げんえい)をひたすら()います。
「暗い夜道(よみち)をミモザに手をひかれ歩いた時も、こうやっておじぃの足跡(あしあと)もなければ、なんにもわからなかったはず。わたしはみちびかれているのかな。それともわたしが選んでいるだけなのかしら。そのどちらもなの? だれかおしえて。自由とはなに? わたしとは? わたしはいったいどこにいるの?
——人生の雑踏(ざっとう)。人はゆきめぐり風のようにあらわれては消えてゆく。わたしはいつもひとりぼっち。そんなわたしを時間は()かし、文字盤(ダイヤル)の上で前に進めという。ねえ()いはない?
 うん、そうだ。わたしは王子さまのためにここまできたのよ。これはわたしが選んだわたしだけの物語(ものがたり)なんだから、おしまいまでやりとげないと。これからも、わたしは菖蒲(わたし)(えん)じよう——
 新しい気もちで胸いっぱいの菖蒲は、いつもより高く、もうどこへでも飛んでいけそうなほど(かろ)やかな足どりで歩き、到着点(とうちゃくてん)足跡(あしあと)をふみしめ、ついにその先をながめました。

……ぷっつりとぎれ、なにもありません。まったくなにも。
 領域(せかい)()ては、すみずみまで威光(いこう)にあふれ、(だれ)も立ち()らせない白亜(はくあ)のようでもありました。闇の領域(やみ)で感じた不安や恐怖(きょうふ)ではなく、自然(しぜん)とわきおこる(おそ)れが、すこしでも()れたり、進まないよう(あと)ずさりさせます。こちらにむかう足跡(あしあと)があったのは、イアソン氏もおなじように感じたからでした。夜はなく(あか)りや()の光ではない、白く(きよ)らかな領域(せかい)への畏敬(いけい)を。
「やっぱり、中庭に扉なんてなかったのね」菖蒲はきびすを返し、ため息をつきます。
 さきほどまでの高揚(こうよう)は気まぐれの(はね)をつけてあっというまに()()り、通路のあった地点までとぼとぼもどると、力なくあおむけに()(ころ)がり、赤い宝石の指輪を首かざりからはずしていじります。
 菖蒲に力をあたえた指輪は、使用(しよう)した者の記憶を()くす【忘失(ぼうしつ)の約束】がかけてあります。もし、すべての記憶がから(・・)になってしまえば力は使えなくなるので、菖蒲は右手に過去の記憶を、左手には未来の記憶をふりわける、という条件をつけました。過去とは菖蒲の住んでいた領域(せかい)の記憶で、未来とは王子さまの領域(せかい)での記憶です。スズメのための中指は学校と友人、ハタラキアリのための人差し指は街、()しの王子さま作戦の小指は家、ミモザのための薬指はお姉さんの記憶でした。では、親指の記憶はなんでしょう。
「それは、わたしよ」
 菖蒲は体を起こし、ひざまずいて息をととのえ、指輪とむきあいます。なんども親指に通そうとしますが、右手はいやがるようにふるえ、どうしてもできません。

  無垢(むく)な記憶とは自己喪失(じこそうしつ)を意味する。
  (おのれ)をうしない、中庭をおかしたとて存在(そんざい)理由(りゆう)もわからないのであればなんの意義(いぎ)があるか。
  
「おじぃ、あなたの言葉は正しかった。なにも知らないバカな子どもだと笑ってください」
 中庭へふみこむために約束の力で現在(げんざい)の菖蒲を犠牲(ぎせい)にし、過去の菖蒲を忘失(ぼうしつ)させるのは(おそ)ろしい手段(しゅだん)でした。もし菖蒲そのものがなくなれば、王子さまを助ける記憶もなくなり、()しわらとなった王子さまのくちびるを、この領域(せかい)のものではない少女が扉のない中庭にある井戸の水によってうるおすという【干しわらの約束】を()たせないかもしれません。それに、底なしの穴、空や海、宇宙……これまで旅した未知(みち)領域(せかい)はどれも菖蒲が(えら)べました。どうしようもない問題をなんとかしたり、失敗(しっぱい)をうまくやり直したり、まちがいを正せるのはすべて意志(いし)があるからです。もし指輪の力に身をゆだねてしまえば、そうした自由意志(じゆういし)()てることになります。そしてなによりも、王子さまがわからなくなるくらいなら、イアソン氏のように引き返したほうが正解(せいかい)なのではないかと決意(けつい)はゆらぎます。なぜなら、わたしの王子さま(・・・・・・・・)ではなくなるのですから。
 しばらくのあいだ、菖蒲は葛藤(かっとう)しました。(のぞ)めば通路の消失点はすぐにふたたびあらわれ、本質(ほんしつ)から目を(そむ)けた近似値(きんじち)の扉を(ひら)き、くりかえし意識(いしき)階段(かいだん)をおりて、(あら)たな領野(りょうや)への冒険(ぼうけん)をいつまでも続けることができるでしょう。しかし目的地(もくてきち)は扉のない中庭なのです。
 自分を()て中庭に侵入(しんにゅう)するか、あくまで菖蒲としてほかの道を探すか。指輪の力はあと一回だけ……
「さよなら、菖蒲(わたし)
 覚悟(かくご)を決め、指輪が右手親指の関節(かんせつ)をくぐり、()もとにぴたりとくっついた時、赤い宝石は火花(ひばな)をちらし、こうこうと()えます。
 うすれゆく意識(いしき)の中、菖蒲の目には白妙(しろたえ)一輪(いちりん)、大きなヒガンバナがゆっくりほころぶ様子(ようす)がうつりました。
「ああ、なんてきれいなのかしら……ミモ……ザ」
……チン……チリン……チン……
 ガラスの(うつわ)(ゆび)ではじいたようなかたい音が不規則(ふきそく)なリズムで聞こえ、意味(いみ)(うしな)った少女は風化(ふうか)してボロボロくずれ、ちりとなりました。

扉のない中庭

扉のない中庭

 そこは扉のない中庭でした。
 まるで高くつみあげたつみ木の上にたつように、微細(びさい)な空気の振動(しんどう)ですら崩壊(ほうかい)へかたむこうとする緊張感(きんちょうかん)と、神秘的(しんぴてき)荘厳(そうごん)さが静謐(せいひつ)をまとい、中庭全体に厳粛(げんしゅく)雰囲気(ふんいき)をただよわせていました。
 オリバナムとミルラの(かお)る中庭では、あらゆる形は均等(きんとう)にわけあい、(はば)十メートル、奥行(おくゆ)き二十メートルほどの長方形の地面に大きさのまったくそろった青草(あおくさ)一面(いちめん)にしかれていました。中庭の広さと相似(そうじ)である無機質(むきしつ)(まど)は、磁器(じき)のようになめらかな乳白(にゅうはく)の壁に等間隔(とうかんかく)四方(しほう)にならび、上方(じょうほう)へずっと続き、天からやわらかな光の粒子(りゅうし)が中庭中央に鎮座(ちんざ)する渦巻(うずま)く空気のような白い井戸にふりそそいでいます。そのまわりをかこむように、まったくおなじかたちをしたリンゴの木が六本、整然(せいぜん)とのびていました。
 長い黒髪(くろかみ)の少女は()まれたばかりの赤子(あかご)のような姿(すがた)でぼんやりとあおむけに(たお)れていました。光の(つぶ)が目にとけこみ、まぶしくなって右手をひたいにあてると(うで)に金の()が、親指(おやゆび)にはゆらゆら()える赤い宝石(ほうせき)指輪(ゆびわ)がはめてありました。やがて右腕(みぎうで)(おも)たくなり、ゆっくり上体(じょうたい)をおこし、見回します。
 少女はどうしてここにいるのか知らず、関心(かんしん)もありません。自分がだれであるか、まったくわからないからです——わたしとはいったいなにか。なにをもってわたしといえるのかも。
 とにかく、右手にからまる()っかをとってしまいたくなりました。しめつけられ、(しば)られているように感じたからです。異物(いぶつ)をはずそうと左手をかけた時、(かた)になにかそえられ、ふんわりとしたここちよさで全身は()たされます。顔を横にむけると、なめらかな白い手がありました。
 少女は体をひねり、手から(うで)(かた)視線(しせん)をうつし、ドレープのきいた薄絹(うすぎぬ)のドレスをまとい、つばの大きな白いぼうしを深くかぶる女の園丁(えんてい)の顔をのぞきました。
 園丁(えんてい)の女は、口もとがゆるみ、声をあげ(わら)おうとする少女のぷっくりとやわらかなくちびるに指をそっとあてて右手の親指をふれ、黒い(ひとみ)をのぞきこみ、首を横にふります。あたかも「それをしてはいけない」と、止めているかのように。それからすこしも音をたてず、空気のようにリンゴの木にちかより、(みき)をやさしくさすり、となりの木も、そのまたとなりの木も、といったぐあいに、六本の木を一本ずつ、ていねいにおなじところをおなじ回数、公平(こうへい)になだめました。
 どれくらいそうしていたのかわかりません。指輪(ゆびわ)興味(きょうみ)をなくした少女は()みをうかべ、一本ずつりんごの木をなでる園丁(えんてい)をいつまでも目でおいかけました。まるで、ベッドメリーをながめる赤子(あかご)のように。
 ふと、少女は左手で右手首の腕輪(うでわ)にふれます。首をかしげ、ふしぎそうに手首をまげて、きらりと(ひか)腕輪(うでわ)を見つめると、腕輪(うでわ)は少女の顔をうつし、こちらの目とむこうの目があいました。

  あなたは?
   わたしとは?
  わたしは?
   あなたとは?

 とつぜん、(よろこ)びでくすぐられ、(いか)りで(あつ)くなり、(かな)しみでふるえ、楽しくてうきうきし、(むな)しくてしずみ、(おそ)れおののき、安心したり、()じたり……さまざまな感情(かんじょう)がいっせいにおそいかかり、困惑(こんわく)して手をあちこちとさまよわせます。

  わからない、こたえられないの
  わめけば! さけびさえすれば!

 園丁のぬくもりで少女のくちびるはぴたりとくっつき、どうにも(ひら)きません。少女は鼻息(はないき)(あら)くし、たまらずおなかをおさえ、みけんにしわをよせてむせび(・・・)ます。目からしずくがひとつこぼれると、(たき)のようにどっと流れだし、手でぬぐいますが、どうしようもなくなり、腕輪(うでわ)をひたいに強くあて、むきだしの感情たちから(のが)れるようにまぶたを()じました。

  まっ(くら)。ここなら()めてこない

 感情(かんじょう)たちはすぐ()ってきて、うずくまる少女をかこみ、頭にたくさんの重たい石をぶつけます。

  やめて! やめて!
  わからない! たすけて!

 遠くから感じる、(ふえ)のように()んだ女の思念(しねん)——それは(おび)えた少女を慰撫(いぶ)するように……

  あなたの(おも)う人のために水を
  
  あなたの(した)う人のために水を

  あなたの(うれ)う人のために水を
  
  あなたの()う人のために水を

 (おそ)(おそ)る目を()けた少女は腕輪(うでわ)(とお)し、ほころぶ黄色の花を見ます。それから顔をあげ、なんの意図(いと)もなく立ちあがり、ひたひたに水の()られた白い井戸へ、歩きだします。
 こんどは疑問(ぎもん)衝動(しょうどう)理由(りゆう)(もと)め、井戸に行かせまいと少女の全身を抑圧(よくあつ)します。

  なぜ? なぜ? なぜ? なぜ?
  わからない、こたえられないの

 園丁(えんてい)はよろめき歩く赤子(あかご)を見守る母親のように少女をながめます。
 一歩また一歩。少女が中庭の青草(あおくさ)をふみしめるとしなびて()れ、(けが)された地面(じめん)は少女を(のろ)い、足にするどいナイフで切りさくような激痛(げきつう)をあたえます。ひと足歩くたび、(はり)()()される(いた)みを我慢(がまん)し、(たお)れては()きあがり、ゆっくり井戸へとむかいます。

  なぜ? なぜ? なぜ? あなたの……
  わからない、こたえられないの。あなたとはわたし?

 少女は(いた)みを声にもらさないよう、くちびるを強くかみ、両手を口におしつけ、ひたすら井戸へ。

  なぜ? あなたの…… なぜ? あなたの……
  そう、あなたはわたし、わたしの! わたしの!

 愛する者へ、(いの)るように口を数回おどらせた少女は、井戸の前でくずおれ、身悶(みもだ)えます。

 おまえは——天から低い声
 けれど——こたえる少女

   おまえは無知(むち)(おぼ)
  けれどあの声を知っている
   おまえは(うそ)(まど)
  けれどあの声を知っている
   おまえは()(さそ)われ
  けれどあの声を知っている
   おまえは(しん)(なや)
  けれどあの声を知っている
   奔放(ほんぽう)な女よ
  だからりんごの木はなくなった
   おまえの(つみ)ゆえに
  だから(うるお)す水をわきあがらせたかった
   おまえの(あやま)ちゆえに
  だからゆたかに()をむすぶようにと
   おまえに呵責(かしゃく)をあたえよう
  だから(ねが)う さあ強くわきあがれ!

 少女は井戸のふちにふるえる左手をからませ、(いき)を止め、右手で金の()ビンを水で()たしました。
 中庭全体は強い光に()らされ、まいあがる(ゆき)のように崩壊(ほうかい)しはじめます。壁も、青草も、りんごの木も、井戸も、少女も、なにもかも取りさろうとしました。
 (いき)()きつくして(かた)をおとし、力なく目を()じた時、慈愛(じあい)が、少女のつめたい体を(つつ)みます。
「なぜ()いているの?」と、少女は()いかけます。
「あまりに無力(むりょく)だったから」と、園丁(えんてい)はこたえます。
「あなたはたすけてくれたのよ」
「なにもしてあげられなかった。すべて、すべて失ったのに。たくさん、たくさん苦しんだのに」
(あわ)になって()けてもいいとさえ思った。でもあなたが(かた)に手をのせたから、口に(ゆび)をあてたから、手をふれてくれたから、見守ってくれたから、こうして()きかかえてくれたから、だから、わたしはここに()る」
「ごめんなさい、アヤメ」
「ありがとう、リリィ」

たりないもの

たりないもの

 ベッドに(よこ)たわる菖蒲は、いく(にち)(ねつ)悪夢(あくむ)にうなされていました。リリィはそばによりそい、にじむあせをタオルでぬぐい、かわいた口に水をふくませました。
 ある日、菖蒲はとつぜん目をさまし、(いき)をあげて言いました。
「はじ……めまして、わたしアヤメ。おう……じさまをもどすために……きたの」
 リリィは菖蒲のほてるほっぺをなでます。
「わたしはリリーフロラよ。リリィって()んでね」
「リリィ、わたしね、わたし……知りたいことあるし、おしえたいことたくさんあるの。だから、聞いてくれる?」
「もちろん。でもいまはダメ。アヤメはたくさん(きず)ついたから、ゆっくり休まないと」
「……ねえリリィ。わたし、うまくやれたかしら? 王子さま、もどるかな。王子さま、よくなるかな……」
 菖蒲は意識(いしき)もうろうと(ねむ)りにおちます。
「あなたはなぜ、あたえつづけるの?」
 こたえを(さが)すようにリリィは、ひたすら王子さまを(おも)う少女を懸命(けんめい)看病(かんびょう)し、(やさ)しく世話(せわ)します。しかし、穴のあいた(おけ)に水をそそぐように、どれほどの愛情(あいじょう)も菖蒲は受けとめず、()たされませんでした。それでもこの方法(ほうほう)しかなかったのです。なぜなら、(なお)す薬はどこにもないのですから。
「わたしはどうなってもいい。どうか、どうか、アヤメだけは(すく)ってください!」
 リリィは、目の前で消えそうな灯火(ともしび)をながめるしかできず、もどかしさ、(あせ)り、(くる)しみ、そしてなによりたいせつな子をうしなう恐怖(きょうふ)でいっぱいになり、たまらず懇願(こんがん)します。できるなら、すぐにでも()わってあげたいとせつに(ねが)ったのです。
 菖蒲のたりないものはだれもがもっていますが、ひとつしかなく、かけがえのないものです。それを大きな力で引き()き、むりやり足をふみ()れたので、菖蒲の(うち)にあるわたし(・・・)(こわ)れてしまいました。
 リリィが扉のない中庭から()れだしたとはいえ、いまや菖蒲の生気(せいき)は右手の親指(おやゆび)()える指輪(ゆびわ)の力でかろうじてたもたれているだけでした。人の内奥(ないおう)にある中庭は、それほど繊細(せんさい)場所(ばしょ)ゆえにだれも()けたり()めたりする(とびら)がないのです。
「もうなんでもかまわない」と、悲嘆(ひたん)にくれたリリィはわらにもすがる思いで言います。「いっそわたしを(にく)んでくれてもいい。わたしを(うら)めば、よくなるかもしれない」
「ミモザがね」と、菖蒲はリリィの手を弱々(よわよわ)しくつかみ、不安(ふあん)そうにこたえました。「ミモザが、(おこ)ったわたしはわたしじゃないって。笑顔(えがお)でいてほしいって。それにね……わたしね、約束したの。もう自分にうそはつかないと。だから井戸は水をくむのをゆるしてくれた。お願いよ、リリィ……わたしのためにわたしをきらいにならないで」
「好きよ、アヤメが大好き」リリィは声をふるわせます。「中庭からアヤメを見ていたもの。すてきな女の子がくるって。どんなおどろくこともなしとげる強い女の子がくるんだって待っていたもの。だから、はやくよくなって王子のもとに帰りましょう。ね、アヤメ?」
「うん」菖蒲はうれしそうにうなずき、目をつむり、「ああ、はやくおうじさまが……もどると……いい……な……はやくおうじさま……よくなると」
 ふーっとおだやかに息をついた菖蒲は、呼吸(こきゅう)をやめました。
 リリィは強く(さけ)びます——もし、わたしのこぼすしずくでアヤメを返してくれるなら、もし、わたしの流す雨がアヤメをいやすのなら、いつまでもやまぬ五月雨(さみだれ)になろうと。
「リリィ!」
 背後(はいご)から名を()ばれたリリィはふりむくと、目の前に菖蒲とおなじくらいの少女が息を切らして立っていました。
「あなたは……」
 リリィのかすれた声に、少女はこくりとうなずきます。
「あたしは妹のミモザです。アヤメの(いた)みが(やみ)でさまようあたしに聞こえ、走ってきました」
 ミモザはすぐベッドへ、菖蒲の右手に(ぎん)腕輪(うでわ)(とお)し、左手をからめました。
「ねえ、アヤメ」と、耳もとでミモザはささやきます。「いまから、あの約束を()たすね。こんどはあなたにたりないものをあたしがあげるばん。(ゆる)してくれるよね? いつか、アヤメが天高くのびるクスノキみたいに元気になったら、あたし、その木にやどる黄色(きいろ)い小鳥になる。ふたりの新しい約束よ」
 やさしくキスをしたミモザは、おでこを菖蒲のおでこにつけました。
「ミモザをくれてありがとう。とってもうれしかった。だからね、ミモザだけはあたしのものよ、アヤメお(ねえ)ちゃん」
 ミモザは満足(まんぞく)そうに両手をしっかりと強くにぎりしめ、たりないものを(かえ)し、自分のすべてをなにもかもあたえ、花びらのように()っていきました。
 親指にある赤い宝石の指輪は(くだ)け、菖蒲の左目からキラキラとかがやく(なみだ)一粒(ひとつぶ)こぼれ落ちます。
 それから、息をふきかえした菖蒲は、もうすっかりよくなりました。

むかしむかし

むかしむかし

「おとぎ話のお姫さまは、ほんとうに王子さまといつまでも幸せに()らしたのかしら?」
 ベッドで身を起こし、アイボリー色のミルクガラスのマグカップを手にした菖蒲は質問しました。
「そうね」と、リリィは()しゅうをしながら答えます。
「いつまでも幸せであるのと、いつでも幸せであるのは少しちがうかもしれないわ」
「おもしろい考えよ。つづけて」
「物語の余白(よはく)ではケンカもあったんじゃないかしら。たとえば食事(しょくじ)の時、サラダとスープのどちらから手をつけるか、タマゴが先かニワトリが先かみたいな話しね。わたしはグレエンと(せん)たくものでいいあいになるし」
 菖蒲はマグを口につけてから言います。
「そんなことで?」
夫婦(ふうふ)のいざこざの因果(ジレンマ)なんてつまらないものよ、アヤメ。服と下着はわけて洗ってほしいとか。ああ見えてグレエンはめんどくさい人なんだから。だいじなパンツは自分で洗いなさいっていうと、彼はしかたなしに洗うけど」
「わたしと住んでた時は、そんなわがままいわなかったわ」
「グレエンはアヤメの王子さまではないもの。かっこつけてるだけよ」
「そっか。じゃあ、どうしてリリィはグレエンと結婚したの?」
 ()しゅう糸を引き、だまって考えるリリィ。
「おとぎ話のお姫さまだったのか、夢みる少女だったか」
「ちょっと、なにそれ」菖蒲は目をほそめます。「わたしが子どもだからってごまかしてるでしょ?」
「だって」と、リリィはほほ()みます。「アヤメにもおとぎ話のような(こい)をしてほしいから」
「ねえ、そんなのずるい。リリィのいじわる!」
 それから、リリィは菖蒲に山あいの国のお話しを聞かせました。グレエンや干しわらの王子さまがどんな男の子だったか、それに、キジ三毛のモルトの話も。
「モルトはね、いろんな国をさすらい、山あいの国にきたのよ」と、リリィは言います。
「旅ネコの話はうそ(lie)じゃなかったのね」と、菖蒲は思いだすように言います。
「いえいえ、それどころかネコ()由緒(ゆいしょ)ある王族ネコだったのよ」
「なるほど。だから興廃(こうはい)の丘でモルトは従者役(じゅうしゃやく)をいやがったんだ」
「彼、プライド高いから、きっと騎士役(きしやく)もことわるでしょうね」
「わたしのベッドで毎晩(まいばん)()ていた彼が?」
「ベッドで寝そべる(lie down)ネコにプライドなんかないわよ、アヤメ」
 ふたりは声をあげて笑います。
 菖蒲とリリィの会話は、こぼれ落ちた菖蒲のかけらをひろう散策(さんさく)のようでした。深い孤独(こどく)の森から()のさす原っぱにぬけ、大きなニレの木陰(こかげ)で休み、さわやかな風とこすれる葉のおしゃべりに耳をかたむけます。ごろんと寝っころがり草まみれのままリリィに抱きつき、手をつないで走ったと思うと、ぴたり止まって腕を引き、きゃっきゃとはしゃぎます。菖蒲はアヤメだけではなく、リリィをまじえて道すじのない会話を楽しみ、時間をかけてわたし(・・・)を取りもどそうとしました。
 そんな自分探しも順調(じゅんちょう)に進んでいたある日のこと。リリィはベッドにいる菖蒲のそばに(こし)かけます。
「おやすみをいいにきたの?」と、菖蒲はたずねます。
「アヤメがよくなってくれて、とてもうれしい」リリィは菖蒲の頭をなでます。「だから、わたしたちのおとぎ話を聞いてほしいなって」
「リリィたちの?」
「ええ、そうよ。でもアヤメが知りたいなら、だけど」
 菖蒲はリリィを探るようにじっと見つめ、「もちろん」と、うなずきます。
「まずはそうね」リリィは菖蒲を胸に()きよせ、ゆっくり話しはじめます。「おどろくかもしれないけど、わたしたちはアヤメとおなじ領域(せかい)にいたの……」
 むかし、西の島国に、親のいないふたごの姉妹が施設(しせつ)でくらしていました。
 ある(ばん)のこと、姉妹は知らない領域(せかい)招待(しょうたい)されました。姉妹を(まね)いたのは、()しわらの王子さまのお父さん、つまり山あいの国の王さまと、農夫(のうふ)のグレエンです。
「ふたりは兄弟なの」と、リリィは言います。「王が兄でグレエンが弟。ふたごの姉妹は姉が王妃(おうひ)で、わたしが妹よ」
「グレエンは王につかえる風車(ふうしゃ)監視役(かんしやく)って自己紹介したわ」と、菖蒲は言います。
「それは【口止めの約束】のため、すべてを伝えられなかったんだと思う」
「そっか。モルトやアルビレオも山あいの国の話しをしなかったわ」
「アヤメは興廃(こうはい)の丘の歴史を聞いたかしら?」
「うん。高い城壁にかこまれた領域(せかい)()べる王国が(ほろ)びたのよね」
「ちょうど東の風車(ふうしゃ)本城(ほんじょう)があって、山あいの国の人々はそこから移住(いじゅう)した王家(おうけ)貴族(きぞく)末裔(まつえい)なの」
 それらの人々は領域(せかい)をまきこむ大戦前夜、争いを()けるように祖国(そこく)をあとにしました。しかし燃える影が見過ごすはずがありません。
臆病(おくびょう)反逆者(はんぎゃくしゃ)どもめ」と、城門(じょうもん)に立ちはだかる燃える影は彼らをおどしつけます。「おまえらがコソコソと逃げるのを黙認(もくにん)するとでも思ったか!」
「逃げるのではない」と、王の一族は答えます。「民を守るため、避難(ひなん)させるのだ」
「くだらぬいいわけを」燃える影はニヤリと()みをうかべます。「よしわかった。逃げないというのであれば、門を通る前にひとつ、条件(じょうけん)がある」
 王の一族は燃える影と契約(けいやく)を結ばされました。それは、王家の長子をひとり捧げる、というもので、安寧(あんねい)契約(けいやく)と呼ばれました。
 深い山あいにうつり、しばらくしてさいしょの王子さまを送りだそうとした時、領域(せかい)()べる王は側近(そっきん)の手にかかり、国は(ほろ)び、戦争は領域(せかい)荒廃(こうはい)をもたらして終わりました。
 山あいの国は災厄(さいやく)をまぬがれましたが、おとぎ話のような幸せな結末にはなりませんでした。なぜなら、不滅(ふめつ)である影は安寧(あんねい)契約(けいやく)履行(りこう)をもとめ、やってきたからです。
「王国の再興(さいこう)か、裏切り者への復讐(ふくしゅう)なのかわからない」と、リリィは言います。「いずれにせよ、安寧(あんねい)契約(けいやく)は山あいの民を苦しめた」
「ひどい!」菖蒲は(おこ)って言います。「山あいの国がわるいんじゃないのに!」
「そうね」と、リリィは菖蒲の()をなでます。「でも、影は人の弱さをよく知っていた」
 懐疑(かいぎ)絶望(ぜつぼう)憎悪(ぞうお)……燃える影は()えたオオカミのように人間の欲望(よくぼう)をむさぼり、領域(せかい)()べる王の意志(いし)完璧(かんぺき)投影(とうえい)しました。
 いく世代(せだい)()ぎ、戦争の記憶もうすらいだころ、山あいの民は王に進言(しんげん)しました。
「王よ。わたしたちのために、あなたの子を犠牲(ぎせい)にしてきました。朝に焼きたてのパンを食べても、夜に音楽をかなで、ベッドに横になる時も、知らない地をひとりさまようあなたの子を思い、わたしたちの胸は痛みます。王よ、どうか思いだしてください。父祖たちがこの山あいの地にやってきたのは、みなが公平な自由を楽しむ黄金時代への懐古(かいこ)ではありませんでしたか」
 山あいの民は、ゆがんだ連鎖(れんさ)()ちたいと思いました。
「自由だと? 愚民(ぐみん)どもめ。束縛(そくばく)こそおまえらにふさわしいのだ」と、燃える影は口をはさみます。
(ほう)(のり)(おり)をもとめたのはおまえら人間だろう。(あらそ)()えぬ(うそ)ばかりの社会に平和と秩序(ちつじょ)をもたらすため、子一人など些細(ささい)犠牲(ぎせい)だとは思わんのか」
 王は民にこうたずねます。
「自由と束縛(そくばく)、わたしたちはどちらを(のぞ)むだろうか」
「いうまでもなく自由です」と、民は力強く答えます。「わたしたちは自由と責任(せきにん)(にな)い、美しいこの山あいの地をみなでわけあえるよう子たちに語り伝える親でもあります」
「兄弟たち! 今日(きょう)、この()に立てることを(ほこ)りに思う。ついに庇護(ひご)約束(やくそく)をする時がきた!」
 つぎの朝、山あいの国王は犠牲(ぎせい)となるはずの子に真実(しんじつ)をおしえました。安寧(あんねい)契約(けいやく)を破棄した夜、燃える影は激怒(げきど)し、大蛇(だいじゃ)となって山あいの国王をふくめ、オトナをみんなのみつくしました。
「おぼえておけ! これがお前らの親が(のぞ)んだ自由への(むく)いだ!」
 燃える影は山あいの国の子どもたちをおどしつけ、空へ消えていきました。
庇護(ひご)約束(やくそく)】は、山あいの親の犠牲(ぎせい)により、子が燃える影から守られる力です。ただし国外にでると効力(こうりょく)は失われてしまいます。親からすべてを聞き、学んでいた子どもたちは、ひそかにねられた影を打ちやぶる計画を実行しました。まずは、ずるがしこく強力な燃える影と戦うため、ほかの領域(せかい)の仲間を集めなければなりません。それで、ふたりの王子さまは少女を招待(しょうたい)しました。
 いっぽう、深夜(しんや)孤児院(こじいん)で、おとぎ話が大好きなふたごの姉妹は、みんな寝静まったのを横目に、ボロボロの人形とビスケットを数枚、お気にいりのカバンにつめ、こっそりぬけだそうと玄関にむかいました。
 きしむゆか板をそろりと歩いていると突然(とつぜん)、リリリリン! 使われていないはずの古い電話機のベルがけたたましく鳴りだします。姉妹はあわてふためき、(おど)る受話器を持ちあげました。
「どうかそのままで! あなたたち、ふたごの姉妹の助けがどうしてもひつようなのです!」
 受話器から聞こえる男の子の声に、姉妹は思わず顔を見あわせます。なぜこちらがふたごの姉妹(・・・・・・)だと知っているのでしょうか。
「そうやってリリィとお姉さんはこの領域(せかい)にきたのね」と、菖蒲は言います。
「ふたりの王子さまはわたしたちを(だい)(きら)いな場所からつれだしてくれた。あとこれは秘密だけど」
 リリィは菖蒲の耳もとで言います。「あちらとおとぎ話をつなぐ交換手(こうかんしゅ)はシロゾウなのよ」
「ほんとうに? 会ってみたい!」
「わたしたちはもうワクワクしたし、なによりうれしかった。姉さんとどうやって遠く広い世界へ旅するか、たくらんでいたの。あの日だってわたしたちはすこしも疑わなかった」
 ふたごの姉妹は山あいの国の子たちにむかえられ、夢のような生活がはじまりました。
「山あいの子たちとすぐに仲よしになったわ。わたしたちは年上だったから食事をつくってあげたり、お掃除(そうじ)に針仕事にとってもいそがしいまいにちだった」
 菖蒲はリリィがもっと大きく見えて、あこがれるように言います。
「リリーフロラ。あなたはウェンディ・モイラ・アンジェラ・ダーリングね。わたし、あなたみたいに強い人になりたい」
「うれしいわ、アヤメ」と、リリィは微笑(びしょう)をうかべます。「わたしたち、いい友だちになれそうね」

約束の力

約束の力

 燃える影は、山あいの国の子たちに安寧(あんねい)契約(けいやく)がまだ有効(ゆうこう)であるとだましました。オトナたちがかってに破棄(はき)したにすぎない、というのです。それで子どもたちは、ほころんだ契約(けいやく)利用(りよう)しました。
「燃える影は子どもたちの計画に気づかなかったのかしら」と、菖蒲はたずねます。
「山あいの子たちは【口止めの約束】より重い、【沈黙(ちんもく)の約束】で燃える影に知られないようにしたのよ」と、リリィは説明(せつめい)しました。
「みんな燃える影を打ちやぶるまで真実を他言(たごん)しない約束をした。親をなくした悲しみをふくめ、だれにも知られないよう記憶(きおく)にとどめた。おかしな話しだけれど、わたしたちがこの領域(せかい)にやってきた時、彼らがなにを助けてほしいのか、いくら聞いても口をつぐむのよ。でもね、わたしと姉さんはアヤメも持っているステキな力を使ったの」
「約束の力ではなく?」と、菖蒲は聞きます。
「どんな境遇(きょうぐう)も人に力をあたえる」リリィは目を閉じ、耳を澄まします。「彼らの言葉にならない声を()いたのよ。わたしたちは彼らと生活してうちとけ、なにを思い、どんなことを(のぞ)んでいるのか、わかるようになった。きっとアヤメは自然に使っているから気づいていないけれど、とても美しい能力(のうりょく)ね。もちろん、どんな力でも正しく使わなければいけないわ」
「わたし、ちゃんとできているかしら」菖蒲は不安そうにリリィを見ます。
「もちろん」と、リリィは目をほそめます。「できているからこそ、わたしたちは会えたのよ」
 菖蒲は()ずかしそうにリリィの(むな)もとに顔をうずめました。
「大きくなって結婚(けっこん)した時、わたしたちは山あいの国のひとりとして夫から計画のすべてを聞いた。約束の力についても」
「リリィは利用されたって思わなかった?」
「ぜんぜん」リリィは首を横にふります。「むしろうれしかった。これからもっとわくわくするような冒険(ぼうけん)がはじまろうとしている、たいへんだろうけどわすれられない物語になるんだって。アヤメも見知らぬ異国(いこく)の風を感じたでしょう?」
 菖蒲は()しわらになった王子さまを(かか)えて納屋(なや)を飛びだしたあの日を思いだし、大きくうなずきます。
「それに愛はべつ。強要(きょうよう)されたわけではないわ。いっしょに時をすごし、せせらぐ小川のような恋から始まり、とうとうと流れる川となって、どこにつながっているんだろう、グレエンをもっと知りたいと思ったから結婚(けっこん)したのよ。もちろん、姉さんも」
「すてきなお話しね」
「ありがとう」と、リリィは菖蒲の頭をなでます。
「燃える影を打ち(たお)すチャンスは一度だけ。【安寧(あんねい)契約(けいやく)】で国を旅立つ王子さまが燃える影と相対(あいたい)する瞬間(しゅんかん)しかない。姉さんはみごもってすぐ、兄と記憶の星へ旅立ち、【手つなぎの約束】で自分たちの記憶を手にいれ、影を切り()くための青い剣と、それをさらに強める赤い宝石の指輪(ゆびわ)加工(かこう)した」
「記憶の結晶は役割(やくわり)()たすまでけっして(こわ)れないからよね」と、菖蒲は言います。
「そう。それに実体(じったい)のない影にはうってつけの道具だったのよ。ふたりが記憶の星から帰ってから、わたしたち姉妹はあちらの領域(せかい)へ二度と帰らない【不帰(ふき)の約束】を剣と指輪にくわえた。王子も誕生(たんじょう)し、あとは旅立ちを待つだけ」
「でもリリィ。なにも知らない王子さまはどうやって剣と指輪で燃える影を打ちやぶろうと考えたのかしら?」
「ええ、それがいちばんむずかしい問題ね。ほんとうは【口止めの約束】で王子に伝えようとしたの。ただし【沈黙(ちんもく)の約束】をおかす危険(きけん)もあった。それに、約束の力も弱まってしまう」
「どういうこと?」
「アヤメは約束の力について知っているかしら?」
「うん。馬小屋会議でアルビレオがおしえてくれた。重い約束ほど力は強く、守らなければ大きな代償(だいしょう)をもとめられる」
 なぜ約束に力があるのでしょうか。それは約束を守る人がいなくなり、なにがほんとうか、わからなくなったからです。軽易(けいい)口約(こうやく)領域(せかい)から真実(しんじつ)がなくならないよう力をもつようになりました。
「約束そのものではなく、約束を果たそうとする意志(いし)に力が宿(やど)るのだと思う。グレエンがいうには、むかし、(うそ)領域(せかい)破滅(はめつ)させ、約束の価値(かち)をさげた代償(だいしょう)信頼(しんらい)(うしな)ったからと。だから、この領域(せかい)でない人の約束はより大きな力になるみたい」と、リリィは言います。
「それでわたしたちに助けをもとめたわけね」と、菖蒲は言います。
「約束は信じれば強化(きょうか)されるし、(うたが)うと弱くなる。わたしたちは王子が真実を理解(りかい)し、みずから行動(こうどう)するのを信じようと決めた。もっとも、王子は旅立つ前から多くを知っていたみたいだけど」
——ヘレムのことね——ハッとする菖蒲に、リリィは(だま)ってうなずきます。
 燃える影はどこに身をひそめているのか。これも問題(もんだい)のひとつでした。転機(てんき)となったのは【安寧(あんねい)契約(けいやく)】を破棄(はき)した日の夜です。山あいの国でオトナを(おそ)い、空へと消えた影のあとをモルトが命がけでつけていきました。なんと勇敢(ゆうかん)なキジ三毛ネコでしょう!
 灯台(とうだい)もと(くら)し、燃える影は根城(ねじろ)を変えていませんでした。王子が国を立つすこし前、リリィとグレエンはモルトの案内(あんない)で東の風車(ふうしゃ)へむかいます。小麦畑の農夫(のうふ)として監視(かんし)をはじめてからしばらくたち、ついに王子さまがアルビレオと風車(ふうしゃ)にやってきました。
 王子さまは、燃える影を確実(かくじつ)に打ち(やぶ)るため【()しわらの約束】を、扉のない中庭から菖蒲が水をくめるように【忘失(ぼうしつ)の約束】をくわえ、アルビレオにたくします。()しわらになった王子さまを(のこ)して燃える影は大蛇(だいじゃ)姿(すがた)となり、興廃(こうはい)(おか)にいたグレエンとリリィを(おそ)います。
「わたしは山あいの国をでる前、影を(おそ)れない【覚悟(かくご)の約束】をしていた」と、リリィは言います。
「影の化身(けしん)である大蛇(だいじゃ)に立ちむかい、約束の力で生きのびた。それから【()しわらの約束】について知り、扉のない中庭を見守る園丁(えんてい)として()つのを(ゆる)されたわ。でも……」
 まるで深い穴の底へとしずむようにうなだれるリリィ。重たい沈黙(ちんもく)が部屋を支配します。
「あなたはわたしを助けてくれたのよリリィ、助けてくれたの」菖蒲は言葉にならない声に答えます。
 リリィはそのまま(しず)かに首を横にふります。
「なぜ、とてもだいじな約束をわたしに(かく)すの?」と、菖蒲は()いかけます。「小麦畑の家にあったすてきなカーテンも、モクレンのかおるベッドも、わたしにぴったりなワンピースも、ちょっと大きめのぼうしも、ドライフラワーやハーブのお風呂(ふろ)も、かわいい食器(しょっき)もすてきな庭も、みんな、なにもかも、わたしのために用意(ようい)していたのよね?」
「それは……」と、リリィは自分のおなかにふれ、「わたしには子をやどす力がないから、せめてだれかの……」
 打ち沈むリリィの長い金色の(かみ)(まく)のようにふたりを遠くにへだてます。すると、いっしょに歩いた草原(そうげん)にもつめたい風と暗雲(あんうん)がたれこめ、地面にはぽっかりと空虚(くうきょ)な穴が広がり、アヤメをのみこみます。
「ちがう」菖蒲はもがくようにきっぱりと否定(ひてい)します。「リリィが園丁(えんてい)として扉のない中庭に(はい)れたのは、ひとつの約束をしていたからよ。わたしが妹のミモザを(のぞ)んだように、あなたは子であるアヤメを(のぞ)み、わたしたちのかすかな希望(きぼう)交差(こうさ)した」
「わたしに命を(かか)えるわずかな力でもあれば、あの時、ミモザのようにすべてをあたえられたのに!」
「どんな境遇も力をあたえるのでしょ? リリィ、あなたには(むか)(いだ)く力がある」
「わたしにはなんにもないのよ……からっぽでなにもない女なの。ごめんなさい、アヤメ」
「なくなんかない! だって、(まど)ごしに見つめあったあの時からわたし、どうしても会いたかった。だれも入れないわたしの中庭にいたのはあなただけだった。なによりいま、わたしはこんなにみたされてるの。知らないところまでもたくさん。リリィがいるからこんなにおだやかでいられる」
「わたしは薄情(はくじょう)よ! 強がってるくせに中庭で苦しむアヤメひとり守れず、(こわ)れてゆくのをそばで見るしかできない役立(やくた)たずなの!」
「リリーフロラ、お(ねが)いだからアヤメのためといって! お願いだからわたしを(おそ)れないで。お願いだからわたしを(ひと)りにしないで。お願いだから、どうか、あなたの約束をわたしと()たしてほしい。わたしはずっとずうっとリリィ、あなたの(おも)いに気づいてたから。宇宙でいちばん温かな力がわたしたちを引きよせた奇跡(きせき)も知っていたから。だから、わたしたち母娘(おやこ)の約束を信じて」
 それからアヤメはリリィの両手を強くにぎりしめ、「もうわたしをはなさないで、お母さん」。
 感情あふれた母は、たまらず力いっぱい子を、そのすべてを守るように(おお)います。
「そうよ、あなたのため、ぜんぶあなたのためよ。わたしの愛する娘、アヤメのために!」

なぞかけ歌

なぞかけ歌

「リリィのすてきなところは」
 ダイニングテーブルでほおづえをついた菖蒲は、サラサラと下に落ちる砂時計をながめながら、お母さんのすてきなところをかぞえていました。
「あれこれせかさない、むりに()しつけない、おかしいって顔をしかめないところでしょ、それに……」テーブルと台所を行ったり来たりするリリィをちらりと見て、「メアリー・ポピンズみたいに(あらわ)れては消え、いつもいそがしそうね」と、菖蒲は足をバタバタさせてリリィに言います。
「あら、そうかしら」リリィはわざとらしく(はな)()らして答えました。
「わたしの見るかぎり、きょうだけでも三十人のリリィがうごきまわっていたわ」
「それは」と、キャロットケーキを手にしたリリィが言います。「この家に住むこびとね」
「七人じゃなく? ちょっと多すぎじゃない?」
「あら、うちのお姫さまにはたりないくらいよ」
 リリィはキャロットケーキを切りわけた皿を菖蒲にわたします。
「ああ、なんて世話(せわ)のやけるお姫さまなの!」
 お姫さまはそう言って深いため息をつき、ティーコゼーを取り、ティーポットをかたむけて紅茶をふたつのカップにそそぎます。
「女王さま、どうぞ。わたくしめがいれました紅茶でございます」
 菖蒲はむかいにすわるリリィにうやうやしくティーカップを差しだしました。
(くる)しゅうない。ところで白雪姫よ、紅茶はだれに(なら)ったのじゃ?」と、大きな顔をするリリィ。
「ウサギでござい……」
「まさか!」と、リリィは目を大きくして言います。「帽子屋(ぼうしや)と庭でおかしな茶会をしているあのウサギか」
「はい、三月のでございます。わたくしがふりかえりますとウサギと帽子屋(ぼうしや)は、(ねむ)るネズミをティーポットにつっこんでおりました。これが世にもめずらしき、くるったお茶でございます」
「ぶれいな!」リリィは立ちあがって手をふり、「この子の首をおはね!」
「ねえ、リリィがハートの女王になっちゃった」と、菖蒲はくすくす笑います。「もうめちゃくちゃ」
「たしかに。このお芝居(しばい)失敗(しっぱい)ね」と、リリィはキャロットケーキを口にしました。「でも、ケーキはうまくできたからよしとしましょ」
「お母さん、山あいの国のお話しでどうしても気になることがあるのだけど、聞いてもいい?」
「なんでもどうぞ」
「干しわらの王子さまにだした王さまのなぞなぞ、『(しん)のないりんご、扉のない家、(かぎ)のいらない宮殿(きゅうでん)』とはなんだったのかしら」
「たぶん、なぞかけ歌じゃないかしら」
 そう言って、リリィは歌を歌いました。

  愛する彼にリンゴを

   愛する彼に(しん)のないリンゴをささげよう
   愛する彼に扉のない家をささげよう
   愛する彼のすごす宮殿(きゅうでん)をささげよう
    彼が(ひら)くのにカギはいらない

   わたしの想いは(しん)のないリンゴ
   わたしの気もちは扉のない家
   わたしの心は彼のすごす宮殿(きゅうでん)
    彼が(ひら)くのにカギはいらない

「リリィは歌がうまいのね」
 菖蒲はリリィの歌声をすてきなところのひとつに加えました。
「一番になぞなぞ、二番に答えがあるのよ」と、リリィは説明します。「この歌でわたしたちはよく遊びをしていたわ」
「どんな遊び?」
「兄さんとグレエンに姉と妹を()てさせるの。わたしたちふたごで顔と声がそっくり似ているから一番と二番をそれぞれ歌い、どちらが姉で、どちらが妹でしょうって。彼らをまどわすいたずらを楽しんでいた」
「ルイーゼとロッテみたいね」
「みんなおとなになって、秋の収穫(しゅうかく)もすぎ、冬じたくをはじめようとしたある日の朝、(みずうみ)のほとりにあるガゼボで、兄さんとグレエンはそれぞれわたしたちにこう言ったの。

  もし、あなたたち姉妹(しまい)を|見わけることができたなら、どうかあなたのリンゴをください。

 それからまいにち、わたしたちはいれかわるように生活した。(かみ)や服やクセもごちゃまぜにして、わたしたちですらどちらかわからなくなるほどね。冬がおわり春になろうとするころだったかしら、ガゼボに集まり、この歌を歌ってから、あなたのほしいリンゴはどちらって」
「それから、それからどうだったの? ねえリリィ」菖蒲は目をかがやかせ、身をのりだして興奮(こうふん)気味(ぎみ)に聞きます。
結末(けつまつ)はアヤメも知っているでしょ。ふたりの王子さまに子どもだましの遊びはまったく通用(つうよう)しなかった。知っていたのにわざとだまされたふりをしてたんだもの。約束の力を使ったのか聞いたら、そんなことしなくてもわかるって。まちがえたら姉さんとふたりで大笑いしようと思っていたのに。まじめな男の子はつまんないわよ、ねぇ」
「……」
「お人形さんみたいにかたまって。どうしちゃったの、アヤメ?」
 リリィはふくらむ菖蒲のほっぺをきゅっとつまみます。
「いや! そんなおしまいはいやよ。ちゃんと聞きたいの!」
「お姫さまはしあわせにくらしましたとさ、よ」
「そうじゃなくて」と、菖蒲は言います。「アーデンの森でオーランドがロザリンドに告白したみたいに、あの言葉を()わしたんでしょ」
「エイリーナの紅茶はほんっと最高だよ」低い声のリリィ。
「ごまかさないで、ギャニミード」熱心(ねっしん)に見つめる菖蒲。
 おいつめられたリリィはなにかを思いうかべ、顔をあからめます。
「……いままで聞いたことないくらい、とてもあまくてとろけるような愛の約束を耳もとでささやかれたわ。あとは秘密(ひみつ)! ぜったいおしえない、もうおしまい」
「リリィのけち」
「へえ、母にけち(・・)なんて言うんだ」と、リリィは目をほそめ、「アヤメも王子さまにささやかれるのよ。そうしたらわたしも聞くけど、それでもいいの?」
 思わぬ仕返しをうけた菖蒲の城は火矢でみごと()たれ、心臓|《》がとびでそうなくらい、どっくんどっくんなります。考えれば考えるほど燃えあがる炎を消火しようと、水をゴクゴク飲みます。ふたりは目をあわせ、大笑いして楽しいティータイムはおひらきになりました。
 山あいの国の歴史、いろんな人の考えや願い、複雑(ふくざつ)にからむ約束、そしてなぞかけ歌の秘密を知った菖蒲は、(きり)()れて遠く稜線(りょうせん)がくっきりとうかぶように、これからやらなければならないことを()ししめしたのです。
「さあリリィ」と、菖蒲はおちついた、でも力のこもった声で言います。「はじめましょう」
 リリィはうなずき、くすんだ金色の(かぎ)をつくえの上に置きます。
「このカギは家の裏口をあけるための(かぎ)よ。扉の錠前(じょうまえ)内側(うちがわ)についていて、むこう(がわ)はどこへでも行ける階段がある。ただし、使えるのはわたしとアヤメの一回ずつ。なぜなら鍵穴(かぎあな)にさしてまわしたら、外側から閉じて(じょう)をおろすまで(かぎ)はぬけないから。それに、外側(そとがわ)把手(とって)がないからあけられない」
「これで王子さまのいるところに帰れるってわけね」
「そう、そしてアヤメ、わたしたちがいま、どこにいるか、もうわかっているわね?」
「もちろん」と、菖蒲はカーテンを思いきり引きます。
 窓の外はどす(ぐろ)い血のような雨のふる沼地(ぬまち)が広がり、遠くには切り立つ黒い山が雷光(らいこう)にてらされていました。
 もちろん、ここは地上ではありません。あのおそろしい大蛇(だいじゃ)体内(たいない)だったのです。
「わたしをここまで案内(あんない)してくれたのは男の子の影よ」と、リリィは言います。「ときどきやってきては()しわらの約束や父と()ぶ人についておしえてくれたの」
「その子はミモザのお兄さんのイシュね」と、菖蒲は言います。「影をとどめ、あやつれる」
「小麦畑の家とこの家がおなじなのは、イシュがとどめている思い出だった」と、リリィは言います。
 興廃(こうはい)(おか)でグレエンの(つた)えたようとしたすべての秘密(ひみつ)羽根(はね)のまわりつづける風車(ふうしゃ)、いつも()をたらす小麦畑、納屋(なや)農夫(のうふ)の家すべては、影の子イシュと父親のすごした心象風景(しんしょうふうけい)だったのです。
「リリィ、わたしたちへんよね。外は最悪(さいあく)なのに、ぐっすり()たり、おいしい食事をしたり、さっきまでティータイムまで楽しんでいたんだもの」
「わたしたちだれよりも強いわね。断言(だんげん)できる」と、リリィは(こし)に手をあて、どっしりかまえます。
「ピッピロッタ・タベルシナジナ・カーテンアケタ・ヤマノハッカ・エフライムノムスメ・ナガクツシタみたいに?」
「ながい名前!」
「馬をもちあげるくらいとっても強い女の子なのよ。わたしピッピ大好き」
「アヤメならアルビレオだってもちあげてしまいそうね」
「リリィ、わたしのお願い、聞いてもらえる?」
「わたしのしてあげられることならなんでも」
裏口(うらぐち)(かぎ)、わたしたち一回ずつ、つかえるのよね? リリィは先にもどってほしい。わたし、イシュに言わなきゃいけないことがある」
 一瞬(いっしゅん)、リリィは止めようと顔を横にむけます。すると菖蒲ともうひとり、(かさ)なるようにミモザが(かた)決意(けつい)で外の黒い山を見つめていました。
 リリィは少し考えてから、「わかった。では【帰還(きかん)の約束】をしましょう」と、言います。
「きかんのやくそく?」
「そう。遊びにでかける子どもに親が時間までには帰ってきなさいっていうでしょ。あれは【門限(もんげん)の約束】で、時間を守るために力を使う。【帰還(きかん)の約束】は、親のもとに帰るまで、その距離(きょり)が遠いほど力が働くのよ。わたしの右手にアヤメの手をのせ、わたしの言葉を復唱(ふくしょう)して」
 菖蒲は手をのせ、リリィはさらに左手をそえます。
「わたし、母リリーフロラは、(むすめ)アヤメと、かならず母のもとへ帰る【帰還(きかん)の約束】を()わします」
「わたし、娘アヤメは、母リリーフロラと、かならず母のもとへ帰る【帰還(きかん)の約束】を守ります」
無理(むり)絶対(ぜったい)だめよ。それと、グレエンに会ったら、家で待っていますと、伝えてもらえるかしら」
 菖蒲は静かにうなずきました。

光と影による交渉

光と影による交渉

 金色の棒鍵錠(ぼうかぎじょう)(かぎ)を差しこんでひねり、木製の扉を()()けると、石階段が上にのびていました。見えない先にふきぬける風は、まるで階段を通る者の目ざす出口を知りたがっているようです。
 リリィは菖蒲にできるだけ早く帰ってくるよう言いのこし、階段の奥に消えていきます。風で扉が()まると(じょう)はひとりでにかかり、(かぎ)はくるんとまわってぬけ落ちました。
 菖蒲は鍵をひろってポケットにしまい、居間(いま)を通り玄関(げんかん)の壁にぶらさがる丸い姿見(すがたみ)の前に立ちます。
「わたしのミモザ」菖蒲は右手首についた金と銀の腕輪(うでわ)にふれ、「立ちあがる勇気(ゆうき)を」。それから扉をいきおいよく開き、家の外へ飛びだしました。
 なまぬるくべっとりした空気、ただよう腐臭(ふしゅう)、一度足を止めたなら体ごとのまれそうな底なし(ぬま)、灰色の枯木(こぼく)はいたるところに()()ち、絶望(ぜつぼう)ときざまれた(むくろ)が山とつまれ、時おり、ころがり落ちて(ぬま)にしずみました。
 菖蒲は、死体がずるずる引きずられたあとをずんずん歩きます。あちこちにかくれる面子(めんつ)をつぶされた欲深(よくふか)()(あし)の影は、悪意(あくい)にみちた表情(ひょうじょう)で菖蒲をうかがい、むさぼり()おうとわずかな失敗(しっぱい)をねらっていました。しかし、短夜(たんや)()うホタルのように、ぽおっと黄色い光をまとう菖蒲に手をだすものはいません。うしろめたい影はまっすぐな光を(おそ)れていました。
 闇の領域(せかい)で聞こえたような罵詈雑言(ばりぞうごん)も、空からたれ落ちるタールのような黒い雨も、菖蒲は気にとめず、前へ前へと進み、沼地(ぬまち)()に、雷鳴(らいめい)とどろく黒い孤峰(こほう)のふもとまでやってきました。するどいきばをむく鍾乳洞(しょうにゅうどう)の口から()きだす熱風(ねっぷう)にさからい、山の中心部にむかってひたすら奥へ、やがて広間に出て、ぴたりと立ち止まりました。
 中央にはオニキスをけずりだした漆黒(しっこく)()がすえられ、金のかんむりを頭にのせた髑髏(どくろ)の顔をした燃える影が胡坐(こざ)をかき、ひじかけにどっしりとよりかかり、ふてぶてしくこちらを見おろしていました。
「さて、賢良(けんりょう)な人間だと(ひょう)し、ひとつ提案(ていあん)しよう」と、燃える影は冷淡(れいたん)に言います。「井戸の水を(ワレ)に。そうすれば安寧(あんねい)契約(けいやく)破棄(はき)する。命はおまえの手中(しゅちゅう)にある。()しわらか、(つみ)なき子たちか、(えら)べ」
 菖蒲のこぶしが緊張(きんちょう)するのを影は見すごしません。
(ワレ)辟易(へきえき)していた」と、影はため(いき)まじりに話します。「自由と権利(けんり)をふりかざし、道徳(どうとく)をさえずる愚民(ぐみん)に。あいつらは真実であるほど(うたが)い、(いつわ)りを熱心(ねっしん)に信じる口やかましい人形(デク)だ。紳士淑女(しんししゅくじょ)よろしく常識(じょうしき)のボロをまとわせ、まやかしの舞台(ぶたい)でおどらせるのがふさわしい。(うそ)混乱(こんらん)し、おのおの正義(せいぎ)(あらそ)い、平和のために領域(せかい)破壊(はかい)しつくすまで。人形(デク)は約束を守らずいいわけばかり。なるほど世界に(いつわ)りはない。そむいたのは人形(デク)だ。(つみ)にまみれた体をイチジクの葉で(おお)い、(はじ)(かく)そうとしたはじまりから。約束の価値(かち)を低めたのはあいつらではないか? だが(にじ)(むすめ)よ、おまえはちがう。おまえの母イリスが冥府(めいふ)の水をくんだように、苦心(くしん)し、神秘(しんぴ)の井戸から水をえた。それを人形(デク)ごときに流すのはなんともったいない! ()しわらの阿保(あほ)など()て、(ワレ)とともにあゆめ。(ワレ)が水をつかえば、(あら)たな文化の黎明(れいめい)(はい)し、高尚(こうしょう)秩序(ちつじょ)をもたらす瞬間(しゅんかん)にも立ちあえよう」
 じっと(しず)かに見つめる菖蒲。
 影はあきれたようにため息をつき、「金か、称賛(しょうさん)か、それとも凡庸(ぼんよう)な人生か?」
 洞穴(どうけつ)を横切る風だけがヒューヒューと口笛(くちぶえ)をふきます。
「つまらん、なにかこたえろ!」
 ごおごおと憤怒(ふんぬ)()やした影は、ひじかけをたたきわります。
「うす(ぎたな)い目をむけやがって! あの時のように謀略(ぼうりゃく)をめぐらし、(ワレ)()(ねら)っているのに気づかないとでも思っていたか女狐(めぎつね)め! なにが水だ! なにが約束の力だ! そんなもの()()べる(ワレ)強大(きょうだい)な力の前でねじふせてやる!」
 影は(にく)しみをあらわに、獰猛(どうもう)な顔つきで菖蒲にせまります。
「なにかこたえろ!」
——わたしはあなたを呼んだ。
「おまえを!」
——くりかえし、なんども。
「この場で!」
——あなたを取りもどそうと。
「苦しめ、痛めつけ!」
——わたしの兄さんだから。
「泣きわめき、命ごいさせ!」
——でも、とどかなかった。
「消しさってやる!」
——なぜあなたには見えないの? なぜあなたには聞こえないの? なぜあなたには感じられないの?
「うるさい! だまれ! だまれ!」
 燃える影は菖蒲のほおを打ちたたきます。
 うしろに倒れた菖蒲は身を起こし、顔をあげて前方を(のぞ)み、息を大きく()いこむと、「いいかげんになさい!」
 洞窟(どうくつ)全体はびりびりふるえます。
「影にかくれる人間の王よ、聞け! あなたのうぬぼれた野心(やしん)により、剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)とみずからの役割(やくわり)をまっとうせんとする大勢(おおぜい)高潔(こうけつ)がどれほど深く(きず)つけられたか知りなさい。ゆがめられ、にごされた貴重(きちょう)な約束の数々は血涙(けつるい)とともにさかまく大河(たいが)を流れ、たどりついた激動(げきどう)の海で天にむかい公正をさけびつづけている。そうしてふりそそぐ美しくも悲しい歴史(れきし)の雨はあなたの玩具(おもちゃ)ではない! なにより闇の子よ、あなたを兄としたう妹の愛を思いだしなさい」
「ゆるさん、ぜったいゆるさん!」燃える影はギリギリと食いしばり、菖蒲を(ゆび)さし、わめきます。
「おまえこそ男のために妹をだまして利用(りよう)し、殺したくせに! すべてアヤメがわるいんだ! アヤメなんかいなくなれ! アヤメなんか消えてしまえ!」
「だったら左のほおもぶてばいい」と、菖蒲は右手を強くにぎります。「それでもミモザはわたしのそばにいる。たとえわたしがすべて悪くても、(ゆる)されなくっとも」
 影は手をつなぎ、走りさるふたりのうしろ姿をながめるしかできず、よろけ歩き、くだけた王座に力なく(こし)を落としました。
「ああ、わたしにも見えていた。わたしにも聞こえていた。わたしにも感じられていた。だが、もどれなかった」
 燃えつきた影の少年はかわいた笑いを、うなだれると顔を(おお)い、目から黒い水が流れます。
「父よ、父よ。あなたはいったいどこにいるのですか? どうかわたくしを助けてください」
 影は四方八方(しほうはっぽう)破裂(はれつ)し、大蛇(だいじゃ)となって力と(いか)りのなすがまま、おたけびをあげ、山をくずしはじめました。憎悪(ぞうお)のかたまりはあらゆるものを、ここが自分の体内であるなど関係(かんけい)ないといわんばかりに、なにもかもぶち(こわ)し、家にもどろうといそぐ菖蒲を見るやいなや、あれくるう波にのまれる小さな木造船のようにひねりつぶしました。
 かろうじて(なん)をのがれた菖蒲は裏口(うらぐち)を通り、すぐに扉を()めようとしますが、大蛇(だいじゃ)は反対側から力ずくでぐいぐい()します。ミモザはみしみし音を立て、たわむ扉を(うし)ろ手に()でおさえつけました。
「ミモザ!」
「はやく! 王子さまのもとへ」
「でも」 
(まよ)わず信じて。あたしはいつもアヤメといっしょ」
「うん」
 ちいさくうなずいた菖蒲は階段をかけあがります。
 すぐに大蛇(だいじゃ)は扉をぶちやぶり、階段にどっとなだれこんできました。
 もうぜったいに止まることはできません。背後(はいご)には黒い大蛇(だいじゃ)が菖蒲を()()きにしてやろうと、これまでにないほどの強い(いか)りで猛追(もうつい)していたからです。

干しわらの王子さま

干しわらの王子さま

 せまくて暗い直線の石階段からわずかに聞こえる蒸気(じょうき)機関車(きかんしゃ)のブラスト(おん)はだんだんちかづき、どおっと通り過ぎます。
「おい、出口はまだか。いったいどこまでトンネルはつづくんだ?」
 重厚(じゅうこう)鉄車輪(てつしゃりん)と左右にふられる主連棒(しゅれんぼう)はもんくたらたらです。機関車(きかんしゃ)は口をへの字に(けむり)をあげて(いき)せき切らし、懸命(けんめい)に階段の先を見ていました。後方(こうほう)から聞こえる大蛇(だいじゃ)咆吼(ほうこう)()い立てられながら。
 どんなことにもおしまいはあります。読めないとわかりつつ()のびして借りてしまった、文字びっしりのぶ(あつ)い本、おしえかたがヘタな先生のたいくつな授業(じゅぎょう)苦手(にがて)科目(かもく)のテスト時間、夕食にだされた(きら)いな野菜ばかりのスープにも。
 菖蒲はおしまいが大好きでした。本を()じたあと、どん(ちょう)のむこうにいる役者(やくしゃ)たちのくらしを想像(そうぞう)できたからです。しあわせにくらしたお(ひめ)さまの日々、食べ()えたおやつのケーキにだって物語はありますし、ほろ苦い結末のお話には、たっぷりのミルクと砂糖(さとう)をまぜてしまえばカフェオレにできます。たとえ暗くて長いトンネルのような日々だとしても、菖蒲の王国では、おしまいがはじまりと(なか)よく(うで)をくみ、いつまでも終わらない物語をいきいきと(かた)っていました。
「だから、ねえほら見て、機関車やえもん(・・・・・・・)。このトンネルにもおしまいとはじまりがあったでしょ(※6)
 菖蒲はそう言い、こちらにやってくる四角(しかく)(あか)りに体を()げだします。
 さあついに王子さまのいる部屋に帰ってきました。しかし、感慨(かんがい)にふけってなどいられません。暴走(ぼうそう)した影の大蛇は菖蒲を、いえ、この領域(せかい)破滅(はめつ)させようと、すぐそこまで(せま)っていたからです。
 (むね)はバクバク、ひたいは(あせ)でぐっしょり、(いき)もてたえだえに菖蒲は重たい鉄の足をとにかく回転させ、(うで)をふり、部屋の中央、()しわらの(すわ)る王座へまっすぐ走ります。
 やぶれた水道管(すいどうかん)から噴出(ふんしゅつ)する水のように飛びだした大蛇は、周囲(しゅうい)をのみつくしながら、すさまじい速さで(おそ)いかかります。なんて執念(しゅうねん)(ぶか)いのでしょう!
 干しわらに水を(そそ)ごうと菖蒲は()ビンをポケットから取りだし、フタを捨てたつぎの瞬間(しゅんかん)……!
「あっ」
 小ビンに気を取られ、石だたみのでっぱりに()つまずきます。(あせ)ですべった()ビンは手からすっぽぬけ、目の前でゆっくり、ゆっくりと(ちゅう)にういて遠ざかりました。
 ありったけ手をのばし、(ゆび)をおよがせる菖蒲。
 無情(むじょう)にも()ビンは地面に落ち、たたきわれたガラスの音が部屋中に(ひび)いて火花をちらし、たちどころに消えてしまいました。
——(こわ)れないはずの記憶の結晶(けっしょう)がなぜ?
 ぴたりと止まる時間。
— ほんのりただよう挫折(ざせつ)(かお)りに()いしれた大蛇は、喜び(いさ)み、とまどう菖蒲の頭上(ずじょう)をかすめます。
 地にかるく手をついた菖蒲は()ビンのそばまでかけよると、ひざをつき、こぼれた残りの水を口にふくんで王座へまっしぐら!
 闇はするどい矢となり、菖蒲にとどめを()そうと心臓(しんぞう)一点にねらいをさだめ、いきおいよくはなちます。
 無我夢中(むがむちゅう)の菖蒲は王座につづく階段を一段飛ばしでかけのぼる、のぼる!
 王座に飛びこみ、()しわらの口に口づけして、こう言いました。

「わたしの王子さま
 どうか、どうか、もとの姿にもどりますように」

 それから干しわらをぎゅうっと()きしめ、目をつむります。
 菖蒲にできることはもうなんにもありません。
 ただし、扉のない中庭にいくため戦わねばならなかった孤独(こどく)失意(しつい)無力感(むりょくかん)を感じはしませんでした。安心してなにもかも、すっかり全部、()しわらの王子さまにゆだねたのです。
 いっぽう闇は、みにくいかちどきをあげ、ふたりをまるごとのみこんでいきます。
 こうして光は闇のものとなり、暗転(あんてん)しました。
 ————————
——でも、それはほんの一行(いちぎょう)だけ。
「……はな………れ………よ……」
 ぽつりぽつりと聞こえる男の声。
「おまえと……の約束を……はたした」
 少しずつ、声は明瞭(めいりょう)になります。
「……わたしの勝ちだ、影よ」
 王の帰還(きかん)した王座から光あふれ、闇を切り()き、燦然(さんぜん)とかがやく少年の姿(すがた)をはっきりあきらかにしました。
「燃える影よ。おまえはほんとうに約束の価値(かち)を知っていたのか」
 菖蒲は顔をあげ、ふんわりなびく小麦色の(かみ)にサファイアの(ひとみ)をもつ少年と目を()わせます。
「もとの姿にもどれたのね。よかった」
「ありがとう、アヤメ」王子さまは、太陽のような()みを菖蒲にむけ、ゆっくりうなずきます。
「きみがわたしのくちびるにそえた水は、どんな花よりも(かんば)しく、極上(ごくじょう)(みつ)よりずっと(あま)かった」

二重星

二重星

 なんだか()ずかしくなってきました。なにせ王子さまにしがみついていたのですから。しかも()しわらとはいえキスまで……
 菖蒲は王子さまからはなれようと、あわてて体をひき、うしろによろけます。王子さまは高い壇上(だんじょう)からころげ落ちそうな菖蒲の手をとっさにつかみました。
「どうしたの、アヤメ?」きょとんとする王子さま。
 手から伝わる王子さまのぬくもりが電流のように全身をびりびり(めぐ)り、菖蒲はかーっと熱くなって顔をそむけました。
「あの、その、だから……うん、ごめんなさい」
 わけもわからず目をきょろきょろさせ、手をふりほどきます。
——あぁもう、おばぁがへんなこというから!
 もちろん、菖蒲は納屋(なや)で選んだ()しわらが王子さまだとまったく信じていました。だからこそ、もとの姿にもどすため、必死に行動してきたのです。ただひとつ、干しわらでも人間でもおなじだろうという大きな誤算(ごさん)がありました。眼前(がんぜん)に立つ想像(そうぞう)していたよりもずっと強くてやさしそうな王子さま——なにを考えているのだろう、わたしのことはどう思っているのかな。
 菖蒲の頭で『とりとめなき楽団(がくだん)』による演奏会(えんそうかい)開演(かいえん)し、満員(まんいん)観客(かんきゃく)を前に指揮者(しきしゃ)はタクトをふります。ティンパニーのロールで最前列の(こい)は目ざめ、シンバル奏者(そうしゃ)情熱(じょうねつ)を打ち()らそうと両手を広げ愛のファンファーレが……
「アヤメ!」王子さまは、ぼんやりしている菖蒲に言います。「影と決着(けっちゃく)を!」
 そう、戦いはまだ()わっていませんでした。ばらばらの黒い水が集まり、王座にぬらりとちかづいて、ふたりをかこみます。いっこくの猶予(ゆうよ)もありません。
 それにもかかわらず、菖蒲はとんでもないことを口にします。
「わたしをおいて先にいって!」
 王子さまが菖蒲を見ると、()れたほおに全身はススけてぼろぼろ、生まれたばかりの雌鹿(めじか)のように足をブルブルふるわせています。王子さまのためにひたすら走った菖蒲は、すっかり力を使い()たし、もう限界(げんかい)でした。
 (りゅう)の形に姿を変えた影はいきおいよく飛びかかってきます。王子さまは菖蒲を横にしてふわりと抱きあげ、口を大きく(ひら)いた竜を切るように正面の扉にむかって()()ります。
「だめ! このままでは()いつかれてしまう。わたしをおいて早く!」菖蒲はじたばたともがきます。
「聞いて、アヤメ。わたしは(きず)をおった羊を背負(せお)い、山を三つ()えたことがある。それにかけっこではだれにも負けない」
 王子さまはそう言って木扉を蹴破(けやぶ)り、軽々と階段をのぼります。ふたりが風車(ふうしゃ)をでようとしたその時、大きな()ひびきを立て、噴火(ふんか)する黒いマグマは風車(ふうしゃ)をこっぱみじんにし、がれきが飛散(ひさん)します。木ぎれは矢のようにふりそそいで地面に()()さり、間一髪(かんいっぱつ)爆発(ばくはつ)から(のが)れた王子さまは菖蒲をかばいながら()をたらす小麦畑をひた走ります。(あば)(くる)う巨大な竜はグレエンたちと過ごした家も馬小屋も納屋(なや)も、たがやした畑も、まいにち水をまき、手入れした庭も、いいにおいのギンバイカもすべて、なにもかもめちゃくちゃに破壊(はかい)し、のみつくしました。菖蒲はなくなった思い出の景色(けしき)(きず)つき、闇の領域(せかい)(いか)りをしずめてくれたミモザに感謝(かんしゃ)しました。
「アルビレオッ! アルビレオォ!」王子さまは戦友(せんゆう)の名をくり返し()びます。
 上空でうねる竜は、赤い目玉で王子さまをにらみつけ、地上に(きば)をまき、背後(はいご)から足を打ち()らす幾万(いくまん)もの影でとどめられた兵士(スパルトイ)を差しむけます。
 形勢(けいせい)逆転(ぎゃくてん)し、がけっぷちの王子さまでしたが、あきらめずにアルビレオを()びます。
 王子さまの力強いうなじに手をそえ、(あつ)(むね)(はな)をよせ、リズムよく()らす鼓動(こどう)(あら)呼吸(こきゅう)に耳を()かした菖蒲はすっかり安堵(あんど)して、ゆりかごでゆられるように目を閉じ、旅を思い返していました。
——モルトやグレエンにアルビレオ、わたしのステキな仲間たち。フクロウ先生や生徒スズメ、働きアリさんは元気かしら。まちぼうけ駅でおばぁと話しをしたいな。おじぃとシバは新しい冒険(ぼうけん)にでかけたのでしょうね。もしかすると天体観測所(てんたいかんそくじょ)でわたしたちをのぞいているかも。メレさんは記憶採取(さいしゅ)してるにちがいないわ。アルネヴとのティータイムはいつにしよう。なによりミモザ、あなたはわたし。リリーフロラお母さん、ぶたれたほっぺを見たら(おこ)られるわね。わたしは闇を進んできたんだもの。だからこれからも光はやってくるはず。
「きたわ」菖蒲は顔をあげて言います。
 闇のむこうから、チカチカ星はまたたき、希望(きぼう)がこちらにやってきました。
「アルビレオ!」王子さまはおどろきと喜びのまじった声をあげます。
「わが主人、わが王よ! あなたをどれほど待っていたか!」
「おそくなってすまない、アルビレオ。喜べ、わたしたちの勝利(しょうり)だ! さあわたしを青い剣のもとに()れていっておくれ」
 王子さまは菖蒲を白馬の()に乗せ、うしろにまたがると、アルビレオが土くれをけり飛ばし、せまりくる軍隊(ぐんたい)をいっきに引きはなします。
「青い剣はグレエンの手に、興廃(こうはい)の丘へ、モルトは王に顛末(てんまつ)報告(ほうこく)するため国へもどりました」
「よし、アルビレオよくやった。すべて計画どおりだ」
 小麦畑は遠くに、ポプラ並木(なみき)は前からうしろへとぐんぐん流れ、興廃(こうはい)の丘手前、シラカンバ林の入り口でひかりかがやく戦士(せんし)が待っていました。
「グレエン!」王子さまはさけびます。
 戦士グレエンは、待っていたとばかりに青い剣をほうり()げると剣はするどい閃光(せんこう)とともに森に消えます。戦場(せんじょう)疾駆(しっく)する王子さまが青い剣を高くふりあげるうしろ姿を見るや、グレエンは血湧(ちわ)肉躍(にくおど)り、大声で言いました。
「ああ、いまは(ねむ)りし父祖(ふそ)たちよ。まんぞくです! 切望(せつぼう)した解放(かいほう)の時を見ることができたのですから」
 それから(こし)にぶらさがる剣を右手でゆっくり引きぬきます。()ぎすまされた長剣アトロポスは、後方(こうほう)行進(こうしん)するおびただしい数の兵士(スパルトイ)(かがみ)のようにうつし、常世(とこよ)運命(うんめい)瞬時(しゅんじ)()ち切ろうと、かん(だか)い女の泣き声を()らしました。
背信(はいしん)虚言(きょげん)亡者(もうじゃ)どもよ!」グレエンは獲物(えもの)()らえたワシの()をして、(たけ)り立つ獅子(しし)のように、「(おれ)がだれの子であるかおぼえているか。底知れぬ憎悪(ぞうお)悪事(あくじ)応報(おうほう)貴様(きさま)らにおしえてやろう!」
 そうして孤高(ここう)の戦士は兵士(スパルトイ)突進(とっしん)していきました。
 いっぽう王子さまは、風を切ってシラカンバ林を()え、興廃(こうはい)の丘に出て、見晴(みは)らしのきくところでくるりと一回りして止まります。
 広い平原には黒雲(こくうん)をつきやぶる赤黒い巨大な竜がうねり、いくつもわかれた()で地面を打ちつけるたび地面は振動(しんどう)し、咆哮(ほうこう)は空気を()がす熱風(ねっぷう)となって菖蒲や王子さまの(かみ)、アルビレオのたてがみをゆらしました。
「アルビレオ!」王子さまは青い剣のきっ先を遠く対峙(たいじ)する竜のひたいに()きつけます。「おまえはあれを(おそ)れるか、狼狽(ろうばい)するだろうか」
「わが主人!」と、アルビレオはすぐに答えます。「たとえ深い谷であろうと、切り立つ山であっても、あなたが一言命じれば、わたしはどこへでもかけぬけてみせましょう」
「よくいった!」王子さまは高らかに宣言(せんげん)します「永遠(えいえん)につづく友情(ゆうじょう)のしるしに、わたしが闇を打ち(やぶ)(さま)をおまえに見せよう。そしてそれは夜空にきざむ二重星となり、人々が(あお)()らす時、今日の戦いを思いだし、いつまでも(かた)りつぐ。さあゆけ、強くあれ!」
 アルビレオは武者(むしゃ)ぶるいし、ひづめを地面にうちつけ、雄壮(ゆうそう)にいななきます。
「アヤメ、こわくない?」と、王子さまは耳もとでたずねます。
「ううん、ぜんっぜん。だってわたし、あの影にしかってやったのよ」
「なんて気丈(きじょう)(ひめ)だろう!」王子さまは口を大きく()け、豪快(ごうかい)に笑います。
気高(けだか)きお姿(すがた)、リリーフロラさまにたいへんよく()ておられます」と、アルビレオはつけくわえました。
「たしかに」王子さまはうなずきます。「アヤメ、どうかわたしの願いを聞いてほしい」
「わたしのしてあげられることならなんでも!」
「青い剣を共につかんでほしい。わたしの約束にきみの信じる力を」
 菖蒲のゆるがぬ信念(しんねん)は青い剣をターコイズブルーに、王子さまが手を(かさ)ねると、まばゆいばかりの白金(プラチナ)になりました。アルビレオは丘を一直線に()けくだり、竜は全力で対抗(たいこう)しようと強襲(きょうしゅう)します。天馬(てんば)は光の速さで突進(とっしん)し、竜を頭からまっぷたつに切り()いていきました。
「先生、あれはなんでしょう」と、レウケ島の山頂(さんちょう)で夜空をながめるシバは聞きました。「ボクはあんな美しく、暗闇(くらやみ)をわける力強い流れ星を見たことがありません」
「むかし」と、おじぃは悲しげに言います。「扉のない中庭にむかう道すがら、闇の領域(せかい)で少年と親しくなり、わしは名を()し、少年はわしを階段まで導いてくれた。彼はより大きな存在を渇望(かつぼう)する心の(まず)しい影だった。なあイシュ、おまえはいまも心の純粋(じゅんすい)なわしの友人だよ」
 流星は暗黒(あんこく)にぶつかると、白い輪が宇宙いっぱいに広がります。光は一点に収縮(しゅうしゅく)してからぐるっと(うず)()き、七色の光が花火のようにあちこち芽ぶいたのです。
「すばらしい!」宇宙にさきこぼれる花をアルネヴはサトウの展望台(てんぼうだい)で見ていました。「まるで銀河(ぎんが)終焉(おしまい)誕生(はじまり)がひとときで()きているようだ。ミス・アヤメ、きみはついにやりとげたんだ」
 どんな争いも、おしまいは静かなものです。雲ひとつない夜の丘に()がさすと、こぼれるつゆは草の上でテラテラとかがやき(おど)り、朝のおとずれを()げます。消える灯火(いのち)昨日(かこ)に残しながら。

帰路

帰路

 かすみたなびき、興廃(こうはい)の丘にうっすらあらわれた王子さまとひざまずいた影のあいだをつめたい風が横切りました。
「もうすぐ、わたしはなくなる」と、少年の影は言います。「その前に王の子よ、剣でわたしを打ち、約束を果たそうではないか」
「イシュ!」王子さまのそばに立つ菖蒲は声をあげます。「なぜ門をでたの? なぜミモザを妹と?」
「わたしが自分をあたえられ、いちばんはじめに考えたこと、それは父だった。もとめ、探し、たたいてきた。いまも、これからも」
「こんな痛み苦しむことはなかった。イシュ、あなたやミモザだって」
「その言葉を父から聞きたかった。わたしは身勝手で、とても弱い」
「そんなことない! はじめて会ったあの(ばん)、あなたはわたしを手にかけることもできたはず。リリィもあなたに助けられたと感謝していたわ」
「リリーフロラはアヤメだけを思い、母を胸に秘めていたね」と、イシュはおだやかに目をほそめ、みじかいおとぎ話を語りました。
 むかしむかし、心優しい農夫(のうふ)は、地をさまよう美しい少年の影をわが子のように受け()れ、親子のようにくらしていました。まわりの人々は影を(さげす)み、遠ざけましたが、農夫(のうふ)はひとつ星を(ひとみ)にもつ少年の影と手をつなぎ、風車(ふうしゃ)のまわる黄金(おうごん)の小麦畑を歩いて夢を語り、愛についておしえたのです。ある日、少年は父を喜ばせようと、すこしばかりの力を見せます。それが人を(くる)わせるにはじゅうぶんな力であるなど考えもせずに。『すこしばかりの力』を手にした農夫(のうふ)一夜(ひとや)領域(せかい)()べる王となり、結婚(けっこん)して人の子をもつと小麦畑、風車(ふうしゃ)、愛や夢、影の少年との思い()をすっかりわすれてしまいました。少年は父を自分だけのものにしようと父の面影(おもかげ)をとどめ、あやつりはじめたのです。
「わたしは父と畑を歩くだけでよかった。だが父は、(あらそ)いをやめない(おろ)かな子どもたちに愛をそそぎ、信頼(しんらい)し、裏切(うらぎ)られ(ころ)された。そんな人間が(ゆる)せなかった。家族を()て山あいに()げた、卑怯(ひきょう)息子(むすこ)も。わたしは知りたい。影とはなにか、なぜわたしは影なのか、影が命をもつのはどうしてなのか」
「アヤメ」と、王子さまは言いました。「しばらく、こちらを」
 王子さまに顔をむける菖蒲は、まるでミモザが斟酌(しんしゃく)(うった)えているようでした。肩越(かたご)しにイシュが(だま)って首を横にふるのを見た王子さまは、かたい表情(ひょうじょう)をくずさず、菖蒲を胸に()きよせます。
「けーんけーんぱ、けーんけーんぱ」イシュは遠い過去(かこ)()がれるように、空にむかってつぶやきます。
「父よ。ああ、やっとあなたのもとへ……」
 王子さまは右手の青い剣をふりかざし、陽光(ようこう)刃先(はさき)を天へとつたい、力をこめていきおいよく!
—————
 さわやかな朝に流れる重たい空気。
 王子さまは(むな)もとがしめるのを感じます。
「アヤメ、おわったよ」
 しぼりだすようにそう言い、青い剣を地面に思いきりたたきつけようとしました。
「お願い、やめて!」菖蒲は王子さまにすがりつきます。「赤い宝石の指輪は約束を果たした時に壊れた。だから青い剣も……」
 こたえるように剣はガラスの()れたような音を()らし、火花となって消えます。
「わたしにはこうするしかできなかった」沈痛(ちんつう)面持(おもも)ちの王子さまは、広げた両手をのぞきます。
 菖蒲はなぐさめるように、頭を横にゆらしました。

「アルビレオ!」
 草をはむ白馬に菖蒲は手をふります。
「さあ、うちに帰ろう」と、王子さまは()すじをぐっとのばします。「はやくやわらかいベッドにもぐりたい。もうあんなカチカチのイスはこりごりだよ」
「干しわらだったのに?」菖蒲は目を大きくして言います。
「まさか」王子さまは(うで)を広げました。
 ふたりが話していると、「おーい!」漆黒(しっこく)の馬にまたがるグレエンがちかづいてきました。「みんな、ぶじでよかった」
 王子さまはグレエンとあく(しゅ)をして、()きあいます。
「助けてくれてありがとう、グレエン」
「いえ王子、みなの協力(きょうりょく)あってこそ」
「王子はやめてください。グレエンおじさんに言われるとなんだかはずかしいや」
 グレエンは高笑いしてから菖蒲の前で深々とおじぎをします。
「アヤメさま、感謝いたします。あなたと過ごした日々はわたしたちの力となりました」
「わたしもです、ご主人さま」と、菖蒲はうやうやしく会釈(えしゃく)します。「リリィお母さんがあなたの家で待っていますって。わたしも帰りますね、グレエンお父さん」
 あまりにたくさんのうれしい知らせがかさなったグレエンは目をうるませ、ぱっとあかるい顔になりますが、みんなの視線(しせん)を感じてすぐに頭をふり、わざとらしくせきばらいをします。
「きみたち、わるいが急用(きゅうよう)だ。先に国へ帰る。では!」グレエンはだれの返事(へんじ)もまたず、馬に飛び乗ると、あっというまに消え去りました。
「グレエンってあんな人だったかしら?」しんぱいそうに見つめる菖蒲。
 王子さまとアルビレオは声をあわせ、「うん、あんな人!」
「おーい、アヤメセンセーイ!」
 今度は空からさわがしいさえずりが聞こえてきます。
「こっちだよ、こっち!」
 菖蒲は顔をあげると、たくさんのスズメが集まってきました。
「まあ、あなたたちはセイトスズメね。それにフクロウセンセイも。なつかしいわ」
 セイトスズメは菖蒲のまわりをくるくると、楽しそうにおどります。
 フクロウセンセイは菖蒲のそばにきて言いました。
「教室でどなって、すまなかった。どうかわたしをゆるしてほしい」
「もちろんです」菖蒲はフクロウを(ゆる)しました。
「アヤメセンセイのおしえてくれたこの空は自由に飛びまわれるすばらしい青空だよ。センセイとの約束どおり、いろんな鳥を(さそ)ったんだ。きっとこの丘はにぎやかになるね」
「きっとここは鳥たちの楽園(らくえん)になるわね。みんなの旅のお話し、わたしにもおしえてちょうだい」
 セイトスズメは菖蒲を祝福(しゅくふく)してから遠くへ飛びさり、手を大きくふって見送ります。
「ワレらのジョオウ!」
 今度は地面からにぎやかな声が聞こえてきました。
 菖蒲はかがんでのぞくと、働きアリがたくさんならんでいました。
「あなたたちはコロニーをおわれたアリさんたちね!」
「ジョオウのショウカイしてくださったこのコウダイなトチは、やりがいのあるドジョウです。ワレワレだけでニンムはカンスイできないのでアヤメジョオウとのヤクソクドオり、ミミズやモグラ、ネズミなどなど、ドウブツにホウボウコエをカけ、キョウリョクしてシゴトをします」
「とてもよいアイディアね。もっと美しい丘になるわ」
「ジョオウのおかげです。ジョオウのヤシキとテイエンがカンセイしましたら、おいでください」
「ぜったいに行くわ。どうやってお屋敷(やしき)庭園(ていえん)を作ったのか、わたしにおしえてちょうだい」
「アリ、アリ、サー!」
 働きアリたちは菖蒲を祝福(しゅくふく)して、穴にもぐり、手をふって見おくりました。
「アヤメはよい出会いがたくさんあったんだね。うらやましいよ」と、王子さまは言いました。
「ええ、わくわくするような冒険(ぼうけん)だったわ。とっても、とっても……」
 長旅をおしむように、菖蒲はみどりさざめく丘をながめて言いました。
「さて、わたしたちもいこうか。アヤメにわたしの国を見せたいんだ。いっしょにきてくれる?」
「もちろん」と、菖蒲はうなずき、思いだしたようにたずねます。「ねえ、わたしをアヤメと呼ぶけど、あなたの名前をまだ聞いていなかったわ。それとも、王子さまとお呼びしたほうがよろしいかしら?」
「アサゼル」と、王子さまはすぐに答えます。「わたしの名はアサゼルだ」
「みじかいのね。もっとおごそかな名前かと思った」菖蒲はくすりと()みをこぼします。
「しつれいな。じゃあ王子でいいよ、もう」
「いじけたの? アサゼルは子どもねえ」
「まったく、アヤメがそんな人なんて」
「レディにそんな人とか言うのはしつれいよ、王子さま」
「……ごめんなさい」
「わたしたち、あやまってばかり!」
 ふたりは顔をあわせ、ぷっとふいて笑いました。
「そういえばアルビレオ」と、アサゼルはたずねます。「アヤメをいやがらないね。モルトが乗るだけでも大あばれするのに」
「さてそうでしたっけ、ねえアヤメさま?」とぼけたように耳をヒクヒクゆらすアルビレオ。
「どうだったかしらねえ、アルビレオ」菖蒲は知らん顔です。
 アサゼルは首をかしげ、「まあいいや」と、アルビレオを走らせました。

 丘陵地(きゅうりょうち)から西へ、山々をのぞむ大草原を通り、ゆるやかにまがりくねった川と水車場(すいしゃば)()ぎて石だたみの街道(かいどう)にでます。昼に遊牧民(ゆうぼくみん)から天幕(テント)でパンとミルクティーのもてなしを受けていた時、アサゼルは菖蒲に「より道したいのだけど、いいかな」と、たずねます。できるだけ早く山あいの国へ帰るのを約束し、道を北にはずれ、血の荒野(こうや)へと馬を走らせました。
 赤い砂の毛布(もうふ)をかぶった眠れる都市の廃墟(はいきょ)基礎(きそ)だけが顔をむきだし、宮殿跡(きゅうでんあと)にむかって道路をのばしていました。アサゼルは宮殿(きゅうでん)へのびる長い階段の前でアルビレオと菖蒲を残し、散乱(さんらん)する大きな石灰岩(せっかいがん)の石づみに飛びうつり、ドリス式の列柱廊(れっちゅうろう)を進みます。天井のぬけ落ちた宮殿(きゅうでん)の中央広間にでると斜光(しゃこう)をあびる頭部(とうぶ)のかけた巨像(きょぞう)の足もとに粗布(あらぬの)をまとった老人(ろうじん)がつえを手にして(こし)かけていました。
 アサゼルは老人の前でひざまずきました。
「あなたの(みちび)きにより、闇を打ち(やぶ)ることができました」
「わしはなにもしておらん」老人はそっけなく答えます。
「あなたはただのもの知りではなく、山あいの国の安寧(あんねい)のため追放(ついほう)された王子です」と、アサゼルは言います。「広い世界を旅した時、各地(かくち)で名もなき国の王子アサゼルに(すく)われた話を聞き、おどろきました。数珠(じゅず)のように土地から土地へとつながる善行(ぜんこう)軌跡(きせき)をたどり、ここまでやってこれたのです。あなたたちアサゼルがどのような思いで祖国(そこく)をあとにし、どのようなこころざしで歩み、なにを(のこ)そうとしてきたのか。わたしにあたえられた試練(しれん)とは、アサゼルという名の目的地を(しめ)す旅であると」
「山あいの国では代々、物語を愛する王妃(おうひ)招待(しょうたい)し、ふたりの王子が誕生(たんじょう)する」と、老人は言います。
「一方は王として国にとどまり、他方(たほう)安寧(あんねい)契約(けいやく)のために国を去る。旅立つ王子にアサゼルと名づけ、新しい王子が旅立つと古いアサゼルは追放(ついほう)を意味するヘレムと名を変えてきた」
「そして、あなた方ヘレムは(おさな)いアサゼルを旅に(そな)えさせ、山あいの国をずっと見守ってきました」
「ことの()わりは(はじ)めよりもよい。()(しの)ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる」
 老人はぼそりと言ってからうなずくと立ちあがり、アサゼルの(かた)に手をのせます。
「おまえはよくやった。それにグレエンの勇姿(ゆうし)もたたえよう」
勇敢(ゆうかん)な姫に(すく)われました」
「うむ。では約束どおり秘密(ひみつ)をおしえよう。顔をあげなさい」
「ヘレム、あなたは!」アサゼルは目をまるくします。なんとそこに立っていたのは老人ではなく、白銀(はくぎん)(かみ)琥珀色(こはくいろ)のひとみをもつ屈強(くっきょう)な男だったからです。
「おどろいたな、アサゼルよ。おまえは身なりで人を判別(はんべつ)したか」と、ヘレムは(こし)に手をあて、不敵(ふてき)()みをうかべます。「むかし、燃える影の誘惑(ゆうわく)と戦い、精魂(せいこん)つき果てこの廃墟(はいきょ)宮殿(きゅうでん)にたどりついたわたしは(たお)れ、深い(ねむ)りについた。目覚(めざ)めると(みやこ)栄光(えいこう)ある本来(ほんらい)姿(すがた)をあらわし、(にじ)の女王イリスがわたしに不死(ふし)の水をあたえ、将来(しょうらい)()げた。わたしたちは愛しあい、(にじ)一輪(いちりん)の花を()み、光と闇にふれられぬよう天地のあいだに(かく)したのだ」
「では影が()()かされるのをはじめから?」
「いや、好奇心(こうきしん)がそれを許さなかった。おしまいを知った旅など、なにがおもしろい? なるほど、たしかに国を去る王子のはじまりは夜であり冬。しかし、いちどあの自由を手にした子ヤギがどうなるかおまえもわかっているだろう」
「けわしい壁をもっと()けまわりたくなる。良いものも、(わる)いものも」アサゼルは得意(とくい)そうに答えます。
 大いなる巡礼(じゅんれい)を思いだしたふたりは目くばせして、微笑(びしょう)をかわしました。
「ああ、だからどうかわたしをいじわるな幼子だと思わないでほしい。人は先を知らぬとも自由を探求(たんきゅう)し、まだ見ぬ知識(ちしき)理解(りかい)をえる。そうでなければ信じる心とはいったいなにか。おぼえておきなさい。この世界は言葉(ロゴス)によってできている。宇宙(うちゅう)をゆきめぐる力と法則(ほうそく)は約束にもとづいているのだ。アサゼル王子、おまえに星々のきずなを()くことができるか」
「なんと! わたしの手にあまる問題(もんだい)です、王よ。なにせ語りつがれた物語(ミュトス)のひとつにすぎないのですから」
「よい心がけだ。これらは時がくるまで()しておくように。それと国のみなに言伝(ことづて)(たく)したい」
「ヘレム、あなたは帰らないのですか?」
「これから失った仲間たちを探しにゆく。困難(こんなん)な旅となろう。わすれるな兄弟、わたしたちはいつもおまえと共にいる」
 ヘレムはアサゼルと抱き合い、言伝(ことづて)()げてからつえを地面に三回打ちつけると、(にじ)がヘレムをかなたへ運び去ります。一礼(いちれい)したアサゼルは菖蒲と山あいの故郷(こきょう)に帰りました。
 この後、ヘレムと廃墟(はいきょ)宮殿(きゅうでん)を二度とふたたび見ることはありませんでした。

静かな凱旋

静かな凱旋

 (みどり)(おお)われた渓谷(けいこく)の奥深く、山ぞいの道をくだってゆけば、やがて眼下(がんか)()かりの(とも)る、ちいさな町と、斜面(しゃめん)にかわいらしい城が見えてきます。駿馬(しゅんめ)アルビレオでも山あいの国についた時はすっかり真夜中(まよなか)になっていました。
「アヤメ、あそこがわたしの国だよ」
 王子さまは(なつ)かしそうに言いますが、返事(へんじ)はありません。菖蒲の顔をのぞくと長旅でつかれたのでしょう、ぐっすり眠っていました。それで菖蒲の体をそっと、(うで)にもたせかけました。
 石のアーチ橋を渡ってすぐ、低い石門の上部中央には(はた)がつるされ、つがいの白鳥と白鳥座を中心に、まわりを葉でかこみ、頂点(ちょうてん)にギンバイカと二匹のヤギがあしらわれた(ぎゃく)ハート型の紋章(もんしょう)(えが)いていました。
 パチパチ燃えるたいまつのそばには『ようこそ、名もなき国へ』という立てふだと、()まれた花かんむりがかけてありました。
 門をくぐると大理石(だいりせき)のふん(すい)広場を中心に、大きな(はしら)のそびえる円形劇場(えんけいげきじょう)や、どっしりかまえる図書館は見えてきます。人々は朝から広場に(つど)い、芸術(げいじゅつ)思想(しそう)数学(すうがく)建築(けんちく)まで自由に(かた)りあいました。昼には手をつないだ王さまと王妃(おうひ)さまはやってきて、みんな歴史(れきし)やおとぎ(ばなし)に耳をかたむけ、夕方になるとにぎやかな(うたげ)がはじまり、夜はつなげた星を夢見て眠りにつきます。
 いつもは静まりかえった暗闇(くらやみ)の広場で王子さまはアルビレオを停止(ていし)させました。なんと、そこにはグレエンを先頭(せんとう)に山あいの国の騎士(きし)たちが灯火(とうか)を手に、整列(せいれつ)して主君(しゅくん)の帰りを()っているではありませんか。
 王子さまは馬上(ばじょう)からひとりひとり名を呼ぶようにじっくり見まわし、何度かうなずきます。それからまっすぐ()すじをのばし、遠くそびえる城に頭をあげ、ゆっくり歩きだすと、アルビレオの馬蹄(ばてい)はおごそかに()(ひび)き、敬意(けいい)の思いで見つめる民の道を威風堂々(いふうどうどう)通りすぎていきました。
 町はずれのほたるの舞う森にグレエンとリリィの家はあります。バラアーチの美しい庭にかこまれ、わらぶき屋根(やね)に白しっくいの壁で、オーク材の木窓から白鳥の置物(おきもの)の影をぼんやりうつしていました。
 王子さまは玄関(げんかん)で待っていたリリィに眠れる森のお姫さまをまかせ、山の中腹(ちゅうふく)にある城門へ、そこでアルビレオの(ろう)をねぎらい、旅の仲間と解散(かいさん)しました。
 重厚(じゅうこう)観音開(かんのんびら)きの門扉(もんぴ)は最後に開けた者の閉めわすれか、それとも不精者(ぶしょうもの)が仕事をしたのか、無防備(むぼうび)にも()けはなたれたままです。ひとつ言いわけをするならば、今日まで深い山あいの(へん)ぴな小国をわざわざ()めようなどと考える、ひまな国はひとつもなかったのでしょう。
 王子さまは城のアーチ扉の上方にある小さなのぞき穴を見て「よおし」と、手のひらにつばをぺっぺとはきます。石壁のでっぱりに足をかけてよじのぼり、子どもひとり入れるくらいのせまい壁穴にもぐりこんでぐいぐいすすみ、城内に侵入(しんにゅう)しました。これは『通りぬけの()』と、呼ばれる山あいの国で代々おこなわれてきた儀式です。子どもたちは城にある壁穴をどれか見つけて通りぬけたならひとつオトナになるのですが、みんなあまりにくぐりすぎて親よりも年上になってしまい(ある女の子はなんと数日で一〇〇さいをむかえたのです)年に一回だけとなりました。
 ほかにも、城に(かく)れて王さまと王妃さまに見つからないようにする『かくれんぼの()』、地図を手に宝石を探す『宝さがしの()』、正門から城の屋上まで競争(きょうそう)する『かけっこの()』、子どもたちだけで城に宿泊する『おとまりの()』、三時の『おやつの()』など、それはもうたくさんの儀式(ぎしき)があって山あいの国の子どもたちはおとなよりいそがしいまいにちなのです。
 王子さまは大きな赤いじゅうたんに飛びおりると、エントランスの壁につるされた王妃さま手製のドライラベンダーの(かお)りに、ますます郷愁(きょうしゅう)をかきたてられます。
 旅先ではいろんな場所に寝泊まりしました。草原、大木のこずえ、ビュービュー風のふくほら穴、ときにはりっぱな宮殿(きゅうでん)やお屋敷(やしき)にも。ただどんなここちよいベッドも、自分の家にはかないません。山あいの国では、はなばなしく出迎(でむか)える侍臣(じしん)や兵士、なんでもしてくれる家令(かれい)侍女(じじょ)はいませんでしたが、みんな助けあい、それぞれが仕事をするという約束を果たしたので、(なか)のよい王国となりました。
 王子さまは内階段を(かろ)やかにのぼり、執務室(しつむしつ)の前に立ちます。
「希望をもって国をあとにし、栄光をもってむかえられよう、だなんて息巻(いきま)いたのはだれかな。将来(しょうらい)の王にふさわしく、りっぱなおとなになろうと血気(けっき)(さか)んな子どもはいったいどこにいる?」王子さまはくっくと笑います。でもほんの一瞬(いっしゅん)大志(たいし)(いだ)く男の子が自由な風のように颯爽(さっそう)と走りぬけたような。山あいの城をちょっぴり(せま)く感じつつ、ひと呼吸(こきゅう)して黒ぬりの扉をコンコンと手でたたき部屋に(はい)りました。
 大きな窓を()に、王さまと角灯(ランタン)を手にした王妃(おうひ)さまは立っていました。
「王よ、ご命令どおり、すべて約束を果たしてまいりました」と、王子さまは言います。
「よくやった」王さまは、けわしい表情(ひょうじょう)で王子さまをじっと見て、低い声でこたえました。
「アサゼル、おまえはわたしたちの(ほこ)りだ。さぞつらい旅であっただろう。安寧(あんねい)契約(けいやく)のためとはいえなにも(つた)えられず、苦労(くろう)させてしまった。すまない」
「わたくしは真実(しんじつ)(とく)、なにより無償(むしょう)の愛について父上と母上からおしえていただきました。それゆえ言葉なくとも山あいの国の子としてなんら()ずべきことなく正道(せいどう)をふめたのです」
「うむ……わが子よ、ざんねんだ、非常(ひじょう)にざんねんなのだ」と、王さまは深いため(いき)をつきます。「おまえはわたしたちの考えているよりずっと、りっぱな青年になってしまった。もう母の(むね)をはなれ、父の(うで)から飛び立つとは。だが、今夜(こんや)だけはわたしたち親の勝手(かって)(ゆる)してほしい」
「おかえりなさい、アサゼル」王妃(おうひ)さまは手を大きく広げ、王子さまを力いっぱい()きしめました。
「ただいま、父さん、母さん!」
 これが安寧(あんねい)契約(けいやく)によって国を()われ、帰ってきた王子さまのさいしょで最後(さいご)の記念すべき静かな凱旋(がいせん)のお話です。

湖畔のガゼボ

湖畔のガゼボ

 朝から町はにぎやかでした。広場では長づくえに白いクロスをかける母親とドレス姿の子どもたちがつんできた野花でかざりつけをしています。劇場(げきじょう)では大工(だいく)木製(もくせい)演壇(えんだん)鼻歌(はなうた)まじりにトントン組み立て、赤いカーペットや古いタペストリーを広げます。町じゅうにただようパンやケーキの焼けるあまいかおり、シチューのこってりとしたにおいに、みんなおなかを()らしました。
 今日は王子さまが帰還(きかん)したセレモニーの日です。
 黒い燕尾服(えんびふく)に着がえたアサゼルはボサボサの(かみ)のまま食事もせず、階段の手すりをすべりおりて正面扉を思い切り開けます。あわただしい広場は通らず、裏口からこっそりグレエンの家にむかうため坂をくだりますが、友人たちに見つかって森にすら行けません。 
 それまでも何度か菖蒲に会おうと城の脱出(だっしゅつ)(はか)りましたが、立ちはだかる王妃さまがアサゼルをむんずとつかまえ、問答無用(もんどうむよう)執務室(しつむしつ)連行(れんこう)しました。アサゼルは凱旋(がいせん)翌日(よくじつ)から大法官(だいほうかん)として自身の旅程(りょてい)諸都市(しょとし)でつたえ聞いた歴代(れきだい)のアサゼル王子のおとぎ話をすべて記録(きろく)するというぼうだいな仕事を王さまに(めい)じられたのです。
 朝から(ばん)まで紙とにらめっこする王子さまのもとに時々モルトはやってきて、菖蒲のようすを話してくれました。グレエンとモルトがまいにちのように菖蒲を遊びに(さそ)うので、リリィにおこられ、グレエンは外出禁止になったこと、リリィと庭の手入れをしていることなど、そばで聞くアサゼルは()ペンを置き、窓を開けると、しけった部屋にさわやかな風が通りぬけ、ヒラヒラと紙をおどらせます。土と緑のまじる山の息吹(いぶき)をすいこみ、ぐうっと腕をのばし、リリィの家の方角(ほうがく)をちらりと見おろしました。
 菖蒲に会えず、がっかりしたアサゼルは、とぼとぼ町の広場に歩くと、正装(せいそう)をした王さまと王妃さまが待っていました。
「なんて姿勢(しせい)ですか」と、王妃さまは強い口調(くちょう)で王子さまをしかります。「王の子らしく()すじをのばしてしゃんと立ちなさい」
「まあいいじゃないか」と、王さまはなだめるように言います。「セレモニーという名の宴会(えんかい)みたいなものさ」それから王子さまに目くばせしました。
「すぐそうやってあまやかす!」と、王妃さまはきっぱり言います。「あなた、きのうも本をちらかしたまま寝てかたづけない、食べたあとの食器(しょっき)は洗わない、服もたたまない……」
 王妃さまの(いか)りはなぜか王さまに。強い母と、たじろぐ父の背中にアサゼルは、ほほ()みます。
 緊張(きんちょう)した男の子がトランペットを上げ、空気のまじる、まのぬけたファンファーレを会場になりひびかせます。さあセレモニーのはじまりです。国じゅう、といってもそれほど大きいものではありませんが、劇場(げきじょう)にはおとなから子どもまで、(はな)やかなドレスを()て、王子さまを祝福しようとわき立っていました。大きなはく手とともに王が登壇(とうだん)し、聴衆(ちょうしゅう)視線(しせん)をあびます。王さまは民の前で両手を上げ、国の歴史を(かた)りはじめました。
 むかし、領域(せかい)()べる王には三人の息子(むすこ)がいました。なかでも末子(ばっし)文武(ぶんぶ)(さい)にめぐまれ、人望(じんぼう)あつく、優秀(ゆうしゅう)家臣(かしん)大勢(おおぜい)もつようになりました。数多(かずおお)くの功績(こうせき)をあげると自国(じこく)はもちろん、周辺諸国(しゅうへんしょこく)にまでその名は知られ、王の寵愛(ちょうあい)を受けるようになりました。
 ある時、末子(ばっし)は影の力により王の考えがますますゆがみ、大きな災厄(さいやく)につながる戦争を(あん)じ、影の子と手を切るよう王に提言(ていげん)をしますが、むしろ(いか)りをかいます。さらに(ねた)みにかられた兄弟の陰謀(いんぼう)反逆者(はんぎゃくしゃ)との流言飛語(りゅうげんひご)で命を(ねら)われた末子(ばっし)臣下(しんか)と家族を守るため、深い山あいにある秘密(ひみつ)別荘地(べっそうち)(のが)れなければなりませんでした。
祖先(そせん)はおくびょうでも反逆者(はんぎゃくしゃ)でもなかった」と、王さまは言います。「王を、国を、民を守ろうとした。そして知識の数々も。横に見える図書館におさめられた(かぞ)えきれない書物(しょもつ)は、わたしたちの祖先(そせん)が命がけで荷車(にぐるま)にのせ、ここまで(はこ)んできたのだ。歴史や科学、賢者(けんじゃ)の夢見たおとぎ話すべて。わたしたちはみな、父母から読み書きを学び、だれでも自由に本を楽しみ、考察(こうさつ)し、(かた)りあえる幸せな国である。
 なるほど心は人の苦しみを知っており、喜びすら他のものとまったくわかりあうことはない。まくらをぬらした長夜(ながよ)安息(あんそく)はまばたきほどであるのを知っているのはだれであろう。それでも理解(りかい)し、なぐさめ、莞爾(かんじ)として笑おうと願うのは人のもつ美しさではないか。これらも深い知恵(ちえ)あってこそ。兄弟たち、独力(どくりょく)で闇に勝利(しょうり)し、自由を勝ちとったなどと思いあがりたくはない。この物語から学ぼう。そして感謝しよう。美しい山あいの地を残した祖先(そせん)に。身を()して真実(しんじつ)をあきらかにした父と母に。国を旅立った王子たちに。わたしたちのため、外の領域(せかい)から助けにきてくれた勇敢(ゆうかん)な女たちに!」
 民は大きなはく(しゅ)でこたえます。
 つぎにグレエンとアサゼルが登壇(とうだん)します。劇場全体(げきじょうぜんたい)を見まわし、入り口にリリィとアヤメを見つけました。美しい()しゅうのほどこされた(きぬ)のドレスにルビーやエメラルドのネックレスとイヤリング、ダイアモンドをちりばめた白鳥の羽がいくえにもかさなる銀細工(ぎんざいく)のティアラは、なめらかな黒髪をかざり、()にあたってキラキラかがやきました。
 王子さまは、お姫さまに目をうばわれます。
「こちらにくるように言ったのだけど、どうしてもいやだって」と、グレエンは耳打ちします。
 アサゼルは軽くうなずき、話しをしはじめます。
「兄弟たち、わたしひとりでは成しとげられない、きびしく困難(こんなん)な戦いであった。みなの信頼(しんらい)こそ闇を打ち(やぶ)る力となったのだ。わたしからひとつだけ(つた)えたい。それは旅立った歴代の王子たちからの言伝(ことづて)である!」
 アサゼルの堂々(どうどう)たる姿に、会場は水をうったように(しず)まり、王さまやグレエンですらも、なにごとかと緊張(きんちょう)が走ります。
安寧(あんねい)契約(けいやく)のため、わたしたちアサゼル王子にしたことで苦しまないように。そして愛する山あいの国にいつまでも平和があるように」
 アサゼルのおだやかな眼差(まなざ)しに、民は自然(しぜん)(なみだ)を流しました。
「わたしは思いだす」と、王さまは民に言います。「親をなくしたあの夜を。解放(かいほう)の夢見てみなで約束を()わしたあの朝を。自由に野山をかけまわり、自由に湖をおよぎ、自由に歌おう。まちがえたのならあやまり(ゆる)せ。深い山あいに住むちいさな兄弟(きょうだい)たちよ。名もなき国はわれらの名、山むこうに虚栄(きょえい)()て、山むこうに虚飾(きょしょく)()て。
 わたしは王を()めることを宣言(せんげん)する! 今日から城にくる子どもたちが(した)しみをこめて()ぶピートおじさんとなるのだ。そして、そろそろたいくつなセレモニーはおしまいにして(うたげ)を楽しもう。好きなだけ食べて飲み、音楽に身をゆだねよう!」
 王さまは民衆(みんしゅう)にうやうやしく一礼(いちれい)して、にっこり笑います。民はわっと歓声(かんせい)をあげ、しんみりした空気はどこへやら、そばに立つ王妃さまはあきれて顔をおさえます。でも王妃さまは知っていました。王さまはだれよりも息子をしんぱいして食事をひかえ、帰りを待ち続けていたことを。
 舞台(ぶたい)楽団(がくだん)演奏(えんそう)場面転換(ばめんてんかん)し、テンポのよい音楽とごちそうでお(まつ)りさわぎです。
 王子さまは人々のあいだをぬうようにしてリリィにちかづきました。
「アヤメは?」
 リリィはにっこりして森の家をさしました。

 アサゼルは急いで庭にむかうと、真紅(しんく)のバラ、アルティシモの前にお姫さまが見えました。
「王子さま、見事(みごと)なスピーチだったわ」菖蒲は背後(はいご)(いき)をあげるアサゼルに言います。
主役(しゅやく)はアヤメだったのに」
「ごめんなさい。わたし、どうしてもうまくできないから」
「ううん、いいんだ。それより見せたいものがあるから来て!」
 アサゼルはそう言って菖蒲の手をとり、走ります。
「ちょ、ちょっと、そんなにいそがなくっても」あわててドレスのすそを持つ菖蒲。
「いや、はやくしないとおわってしまうんだ」
 ふたりはこけむした敷石道(しきいしみち)を進み、小川にかかる木橋(きばし)の先、森の斜面(しゃめん)()くスミレの群生(ぐんせい)を横切ります。ナラの木立をぬけ、大理石(だいりせき)のガゼボにでました。
「アヤメに見せたかった場所はここだよ」
 ガゼボの前は(あかね)()まる湖が広がっていました。水鳥たちは優雅(ゆうが)に飛び立ち、水面(みなも)(むらさき)陰影(いんえい)流線(りゅうせん)(えが)きます。
「どうぞこちらへ、お姫さま」と、王子さまは菖蒲を湖畔(こはん)のガゼボにエスコートします。
「なんて美しい湖なのかしら」菖蒲はうっとり言います。
「朝も好きだけど、夕方がとっておきなんだ」
「すてきね……」
 菖蒲はそばに(すわ)るアサゼルに目を注ぎます。夕日に焼かれた情熱的(じょうねつてき)横顔(よこがお)黄金(おうごん)湖水(こすい)にむけられた(ひとみ)はどこか(うれ)いを()めています。菖蒲の手は自然と胸にそえられ、心に(ひび)(かれ)の声に耳を(かたむ)けました。
「よい解決(かいけつ)はないか、旅をしながらずっと考えていた。アヤメはミモザの(のぞ)みをかなえたのに、わたしはイシュになにもできなかった。どれほど(いさ)(つるぎ)をぬいても、運命(うんめい)翻弄(ほんろう)され無力(むりょく)だと知る」
 そよ風が()むらをゆらしアサゼルの耳をなでます。沈黙(ちんもく)夕闇(ゆうやみ)とともに濃藍(こあい)の湖に(しず)み、寂寥(せきりょう)があたりの森をつつんで、やがて月が男女の輪郭(りんかく)をそっと()らしました。
「いくら(のぞ)んでも、すべてをあたえられはしないのよ」と、菖蒲は言います。「だから、こぼれ落ちてしまうほどちいさな赤子(あかご)のような手の中で、せいいっぱいしてあげようと」
「強く優しい森の姫君(ひめぎみ)」と、アサゼルは立ちあがり、お辞儀(じぎ)をし、「わたしと一曲いかがでしょう?」
 菖蒲は右手を()しだしてから左手を(こし)に、ひざを軽く()げ、ワルツのステップをなめらかにふみだしました。
「王子さま、ダンスがおじょうずね」
「南の女王に(さそ)われて。姫君(ひめぎみ)こそ」
「こと()シェリアクの舞踏会(ぶとうかい)毎夜(まいよ)、星の王子さまたちと」
(ねむ)()しわらを横目に?」
「そうよ、わたしの王子さま」
 菖蒲はくるりと回ってアサゼルの(うで)から()げるよう欄干(らんかん)によりかかり、はにかみます。
「アヤメをもっと知りたいんだ。どんなものを見て、どういう出会いがあったのか」
「いいわ。そのかわりアサゼル、みんな知らない、あなたの旅をわたしだけにおしえて」
「もちろん」
「そのまえに……」菖蒲は外にむかって大きな声で言います。「いるんでしょ、でてきなさい!」
 するとザザッと()むらはダンスして、へたなネコなで声が聞こえてきます。
「とぼけてもむだよ、キジ三毛ネコのモルト」
 チッと舌うちしてふたりの前に姿をあらわしたモルトは、じとっとした目で菖蒲のひざの上で丸まり、鼻息(はないき)をふんっと()らします。
「なんだモルト、こちらにくればよかったのに」と、アサゼルは言います。
「こんにゃおもしろいのに、くるわけにゃいだろ」と、モルトはつぶやきます。
「リリィ! それにグレエンも!」
 すると、また()むらはザザッとダンスして、リリィとグレエンがガゼボに登場(とうじょう)しました。
「ふたりもいたの!」アサゼルは目を大きくします。「ぜんぜん気づかなかった」
「あなたそれでよく影と戦えたわね」と、菖蒲はあきれ顔です。
「おれたちは(むすめ)をあたたかく見守っていただけさ。なあみんな!」
 グレエンの言いわけに、モルトとリリィはうんうんあいづちを打ちます。
「あのね、(むすめ)をしんぱいして楽しそうにこっそりのぞく親とネコなんてどこにいるの。ゆだんもすきもないんだから」
「おーい」と、森のほうから、のんきな顔したピートおじさんは大きめのピクニックバスケットを手に王妃さまとやってきました。
「アルビレオに聞いたらここじゃないかって」ピートおじさんはバスケットからろうそくをいくつか取りだして角灯(ランタン)の火をうつしていきます。「おなかすいただろう。食べ物をもらってきたんだ」
「お兄さん、町は主催者(しゅさいしゃ)もいないパーティーかい?」グレエンは言います。
「気にするな」と、笑顔(えがお)のピートはグレエンの肩をたたきます。「あれがはじまってしまったのだよ。だから、やられるまえに()げてきた。前回(ぜんかい)仕返(しかえ)しがこわいからね」
「あれって?」菖蒲が聞きます。
「それはそれはおそろしいパイ()(まつ)りだよ」と、グレエンは苦笑(くしょう)します。
「やっと会えたわね、アヤメちゃん!」王妃(おうひ)さまは菖蒲の手をにぎります。「わたしの名前はユリーフロラ。ユリィって()んでね」
 バラの香水(こうすい)(かお)らせるユリーフロラは(りん)とした美しい顔立(かおだ)ちで、リリィが物静(ものしず)かな月なら、ユリィはあかるい太陽のような王妃(おうひ)さまでした。
「アヤメちゃんのかわいいドレス、リリィが仕立(した)てたのかしら」
「はい」と、菖蒲はうなずきます。
「ねえねえリリィ。わたしもほしい、お願い、ねえねえ」と、太陽は月にベタベタすりよります。
「いやよ。まだまだアヤメの服を作ってあげないといけないんだから。ユリィお姉ちゃんは衣装棚(チェスト)にお義母(かあ)さまの服がいっぱいあるでしょ」
「リリィのけち。あなたが留守(るす)の時、庭のお手いれしてあげたのに」
「それだけどね、お姉ちゃん」リリィはまゆをひそめて言います。「帰ってきてびっくりしたわ。庭がめちゃくちゃなんだもの」
「めんぼくない」と、ピートはもうしわけなさそうに言います。「がんばって世話(せわ)したんだ。あらゆる本を読み勉強したが、やればやるほど植物が弱っていく。わらとなった息子(むすこ)報告(ほうこく)をモルトから聞いた時、あやまろうと手紙を書いたが、リリィが影にのまれたと聞いて……」
「父上、どういうことですか!」アサゼルは聞き捨てならないと強い口調(くちょう)で言います。「わたしが国のために旅をしているあいだ、庭で頭を(なや)ませていたのですか」
「王子が旅立つ時もお(ねえ)ちゃんがスフレの焼きかたを知りたいって手紙で来たわね」と、わざとらしくリリィは言います。
「まさかあの時、執務室(しつむしつ)で書いていた手紙は料理のレシピだったのですか!」
「まあおちつけアサゼル。リリィがいないと国がうまくまわらないのだ」と、しみじみ(かた)る王さま。
「そんなことよりあなた」と、ユリィはごまかすように言います。
「母上、そんなこととはなんですか!」悲しそうに声をあげるアサゼル。
「リリィのおうち、とっても快適(かいてき)だったわね」と、ユリィは気にせずピートに話します。「王さま、ずっと夢だった湖畔(こはん)の家を建てましょうよ。お城は冬になると寒いし、じめじめするし、カビくさいし、階段多くてたいへんですもの」
「おお! それはよい考えだ(きさき)よ。さっそく明日(あす)から新居(しんきょ)探しをはじめようじゃないか」
「まあうれしい!」上品(じょうひん)に手をぱちんとたたくユリィ。
「よおし、またひとつ楽しみができたぞ!」
「それでは王よ」と、グレエンがうやうやしく言います。「わたしは(むすめ)のアヤメとモルト伯爵(はくしゃく)最良(さいりょう)の土地を探しにまいりま……」
「ダメです。アヤメとの外出(がいしゅつ)はしばらくゆるしません」きっぱりとリリィ。
「だいじょうぶかな、この国」アサゼルはあきれたように(うで)()み、(かた)をすくめました。
「山あいの国ってこんなだったかしら?」菖蒲はふしぎそうにたずねます。
 みんな声を合わせ、まよわず答えました。
「ずっとそう!」
 それから夜おそくまで、みんな晩餐会(ばんさんかい)を楽しみました。

ふたつめの夢

ふたつめの夢

 幸せな日は、たいくつがいたずらをして時の針を早めると、山あいの国の親はベッドで子どもたちに話します。
「夜はおやすみに時をゆずり、朝まで目を閉じてごらん。たいくつはあなたをすこしだけ大きくするだろう」
 たいくつは菖蒲の時の針も、ぐるぐる回しました。山あいの友人たちと山登りに水遊びや、大好きな庭いじり、それにアサゼル王子と白馬アルビレオで遠出(とおで)をしたり。グレエンやリリィは娘の時間を宝物のようにたいせつにしました。たくさんのすてきな服、おいしい食事、いつも笑い声が聞こえる森の家は、山あいの住民からもよく知られるほどした。
 幸せな日は続き、約束も力を失いはじめたころ。おとなになった菖蒲はふたつめの悲しい夢を見ました。
 薄絹(うすきぬ)のドレスに、つばの大きな白いぼうし姿で、中庭の木をひとつずつなでていました。満開(まんかい)()いた六本のリンゴの木の真ん中に、ひざ(たけ)ほどの若木がのびているのに気づき、うれしくなり、かがんでなでます。木は苦しみながら真っ赤なリンゴを結び、手に落ち、すぐとけてなくなります。
 赤く()まった両手を天からふりそそぐ光にかざすと、低い声が中庭に聞こえました。
「時は()わる……3600、3599……」
 声は残りの時間を刻みはじめ、時の(かね)()(ひび)きます。いそいで立ちあがり、周囲(しゅうい)をへだてる白い壁と等間隔(とうかんかく)にどこまでも上にならぶ(まど)をぐるり見回しました。すると、五階にあるひとつの窓だけ黄色(きいろ)い光が灯り、黒髪の少女が悲痛(ひつう)な顔で「助けて、助けて」と、こちらにむかって(うった)えていました。出口をいくら探しても扉はどこにもなく、「ごめんなさい、ごめんなさい」と、さけぶしかできません。強い風でぼうしは(ちゅう)()い、リンゴの花をすべて()らして雪のようにつもり、(くず)れた扉のない中庭はのみこまれてなくなりました。
「……3400……3399……3398……」
 時の音から逃げるように、波立(なみた)黄金(おうごん)の小麦畑を走っていました。はるか遠くに一番星を(じく)にして回転するイリスの翼がついた巨大な宇宙(うちゅう)風車(ふうしゃ)はたっていました。深い瑠璃色(るりいろ)の空は雲のようにわかれて、純白(じゅんぱく)の天が(ひら)かれます。
 天界(てんかい)へのびる(にじ)階段(かいだん)があらわれ、(おど)るように足をかけ、地上からはなれます。しばらくのぼると眼下(がんか)に、いなくなった花を探し、小麦畑をさまよう王子さまを見ました。引き返そうとしますが、天から少女の「助けて」という声が聞こえます。宇宙(うちゅう)風車(ふうしゃ)から流れるたくさんの星は(にじ)にぶつかりくだけていきます。天に帰るか、地にもどるか(なや)み、ついに身を()げて白鳥となり、空へ飛んで消え、目覚(めざ)めました。

 ある夜、菖蒲は居間(いま)で針仕事をするリリィのそばで聞きました。
「リリィ、あなたはわたしの大好きなお(かあ)さんよ。グレエンお父さんも優しいから、まいにち幸せ」
「まあ、うれしい」と、リリィは顔をほころばせます。
「もしも、だけど、わたしが家をでるとしたら、お母さんはどう思う?」
 手を止めたリリィは、すこし考え、(むすめ)心配事(しんぱいごと)(さっ)して答えました。
「アヤメと母娘の約束をしてからもう十年になるかしら」
「へんなこと聞いて、ごめんなさい」菖蒲は後悔(こうかい)したように言います。
「ううん、いいのよ」リリィは菖蒲の頭をやさしくなで、ゆっくり話します。「それはとてもだいじな質問(しつもん)ね。だって菖蒲がおとなになった証拠(しょうこ)だから」
「いつのまにか、たいくつがわたしを大きくしたのかしら」
 リリィはくすりと笑い、「そうかも」。
「もう少しだけ、なにも考えずにお母さんのちいさな子どもでいたかった」
「そうね。あの日、菖蒲と母娘の約束をしてから、わたしはいつもアヤメだけを考えてる。思い返すとよくわかるの。ただ約束だからあなたを愛したのではなかったんだって。そばにいればいるほどアヤメをちかくに感じて、もっとアヤメのためにしてあげたい、アヤメに生活を楽しんでもらおいたいって、日々力が()くるのよ。でもね……」
「でも?」
「どんなに愛しても、成長したヒナは巣立つでしょう。きっと親もつつむような愛から、むかえいれる愛に成長しているんだと思う。あなたがいつでも安心して家に帰ってこれるように」
「お母さん、とてもこわいの」菖蒲は弱々しく言います。「わたし帰ってこれるかな? またひとりになったらどうしよう」
「おそれないで、アヤメ」と、リリィは菖蒲の手を強くにぎります。「あなたは(ほこ)り高き戦士グレエンと、大蛇にひとり立ちむかったリリーフロラ自慢(じまん)(むすめ)よ。窓をいっぱいに()け、いつもあなたの帰りを待つ母を信じなさい」
「リリィがわたしのお母さんでよかった。ありがとう」
「グレエンに話してはだめよ。あの人、あなたがいなくなるなんて聞いたらめんどくさいんだから」
 そう言ってリリィは菖蒲を()きよせました。

 明け方。菖蒲は白いワンピースに着がえ、家をでました。ガゼボで湖をながめるアサゼルを見つけ、どんぐりをそっとひろい、背後(はいご)からぶつけて、すぐ()むらに(かく)れます。頭をかくアサゼルに見つからないよう、またどんぐりを()げようとすると……
「アヤメだ」とくべつな親愛(しんあい)をこめ、アサゼルは彼女(かのじょ)の名を()びます。
「気づいてたの」菖蒲は彼のとなりに(こし)をおろし、(かた)にもたれかかります。「つまんない」
「だって」と、アサゼルは微笑(びしょう)をうかべます。「アヤメの好きなマグノリアのにおいがしたから」
 湖は白い吐息(といき)薄墨(うすずみ)色の湖面(こめん)にただよわせ、ときおり、まどろむ森を(かがみ)のようにうつします。朝露(あさつゆ)(こけ)、ほんのり土と石のまじるさわやかな空気にみち、舞台(ぶたい)幕開(まくあ)けを鳥たちが知らせました。
「朝もすてきね」菖蒲はぼんやり言いました。
「セレモニーの日にどっちもいいっておしえたよ」と、アサゼル。
「そんなむかしのこと、もうおぼえてない」
「うそだ」
「なんで?」
「アヤメはぜんぶおぼえている」
「わたしだってわすれたいこといっぱいあるわ」
「みんなを(きず)つけないよう(かく)してるだけさ」
「それでわたしを知ってるつもり?」
「知らないのかもしれない。だから知りたい」
「……へんなの」
「考えていたんだ」
「なにを?」
「わたしたちのこれからを」
「わたしたちの?」
「うん。だからいま、アヤメにつたえようと思う」
「わかったわ。その前に、小麦畑の風車(ふうしゃ)へつれていって」
 湖水(こすい)でハヤはぴちょんとはね、波紋(はもん)が広がります。
風車(ふうしゃ)はないはず」困惑(こんわく)したアサゼルは菖蒲を見つめます。
 湖の底に(しず)んでいくような目で、菖蒲はこたえました。
「ほんとうに、わたしを知りたいのなら」
 アサゼルはアルビレオを()び、菖蒲をうしろにのせて白馬を()ります。
 渓谷(けいこく)()え、大草原を走るあいだずっと、菖蒲は(かれ)()に、ほおをぴったりつけていました。
「アサゼル。わたし、夢を見たの」
「どんな?」
「扉のない中庭にひとつだけ、あかりのついた窓があって、そこで少女が助けをもとめてた」
「たいくつのいたずらさ。目ざめれば幸せはつづき、いつかわすれる」
「そうね。人は夢をわすれてしまう。それは流れ星となって長いわたりの()てに、月の断片(だんぺん)としてだれかにひろわれるまで(ねむ)るの」
 (かれ)はなにも言わず、右手で彼女(かのじょ)の手をつつみます。
「アサゼルの手、やっぱりあったかい」
 菖蒲は(しず)かに目をつむりました。
 やがて、小麦畑の中に()えるような赤い風車(ふうしゃ)が見えました。影の(りゅう)破壊(はかい)され、微塵(みじん)となったはずの、あの風車(ふうしゃ)を。
 ぶきみな音を()らす風車(ふうしゃ)は羽根が逆回転していました。アサゼルは忌々(いまいま)しげにこの大きな怪物(かいぶつ)をにらみつけます。
「ありがとうアサゼル。ここでじゅうぶんよ。先に帰って」
 アルビレオからおりた菖蒲はそっけなく言い、風車(ふうしゃ)にむかいました。
「つたえたいことがあるんだ」
 アサゼルの()びかけに菖蒲は足を止めず、ふり返りもしません。
「ひとつだけ聞いてほしい」と、アサゼルはあとを()います。
 菖蒲は風車(ふうしゃ)戸口(とぐち)へずんずん歩き、うつむきかげんで把手(とって)に手をかけました。
「アヤメ、どうかこちらをむいて」
「いやよ」
「少しでもいい」
「いや」
「なぜ?」
「いやなの! だって……だって、扉を()けられなくなるもの」
「アヤメ、アヤメ、どうかこちらを」
 ついに菖蒲は手をゆるめ、ふりむいてしまいました。まゆをよせ、目に涙をためたその顔に、アサゼルの胸はしめつけられます。
「聞いたら、もどれなくなってしまう」菖蒲はふるえる声で言います。「けっしてわすれたくない、あなたとの約束を。ずっとこの日、この瞬間(しゅんかん)を待っていたのに。わたしはまよわず「はい」と、こたえたいのに」
「そう、すべて解決(かいけつ)したんだ。母やリリィも、山あいの国に招待(しょうたい)された(ひめ)はずっとここで幸せにくらしてきた。だからアヤメもわたしたちと!」
「のこしてきた約束がまだある! あの子は苦しんでいた。あの子はわたしなのよ。わたしなの……」
「そんなむかしの約束なんか」アサゼルはうつむきます。「だれもおぼえてないさ」
 うつろにのびる影を見た菖蒲は首を横になんどもなんどもふります。そう、なんどもなんども。それから思いきり空をあおぎ、ゆっくり(いき)()き、アサゼルに人形(にんぎょう)のような()みをむけます。
「ねえ王子さま。約束は一度口にしたら、たとえだれもおぼえていなくとも、()たさなければならないのよ。(うそ)は闇の(かて)になる。約束の力はたくさんついた(うそ)代償(だいしょう)。わたしはミモザやイシュのような子たちが苦しむのを見たくないの」
「だけど」アサゼルはこぶしをかたくにぎりしめます。「そのためにアヤメがいなくなるなど()えられない。そんなの考えるのもいやだ」
「わたしもよ。だけど小さな約束を守ることは、わたしたちがのりこえなければならない大きな悲しみよりずっとだいじなこと。お(ねが)いだから、これいじょうわたしを苦しめないで」そう言って扉を()けた菖蒲は、ゴオゴオとすいこまれるような風にのまれます。
 彼女(かのじょ)(きず)つけまいとする愛情(あいじょう)と、ほとばしる(こい)葛藤(かっとう)で身を()がし、アサゼルはくちびるを強くかみしめました。かきみだされた主人を見るに見かねてアルビレオが口をだそうとしたとき————
「この約束を信じてうたがわない!」アサゼルはあらんかぎりの声でさけびます。「わたしはかならずアヤメをむかえにゆく。約束を果たした、その日、その瞬間(しゅんかん)に!」
 宣言むなしく風車(ふうしゃ)の扉はばたんと()じ、(つばさ)をつけ、風とともに消え()ります。
 のこされたみじめな王子さまは、朝焼(あさや)けをわたる白鳥に、こうささやきました。
「いつまでも愛している、アヤメ」

夜半〇時のらせん階段

夜半〇時のらせん階段

 シンデレラはくりぬいたカボチャの馬車(ばしゃ)で家に帰ったのに、なんでわたしは歩きなのよ。しかもけっこう長いし……」
 菖蒲はぶつぶつともんくを言いながら、きしむ木製のらせん階段をぐるぐるのぼっていました。
 中央のふきぬけには、水晶(すいしょう)の時計の(はり)(ちゅう)にういて止まり、天井(てんじょう)からのびる金のひもにつるされた大きな丸いはおもりは()()のように、いろいろな方向にゆれていました。ゆかに(えが)かれた七つ星の上にはルビー、トパーズ、エメラルド、ガーネット、サファイア、碧玉(へきぎょく)、オパール、めのう、アメシスト、アクアマリン、ラピスラズリ、オニキスといった宝石のピンが円形にならび、時おり、()()の針がふれて(たお)れます。
「こんなさびしいおしまいもあるのね」と、菖蒲はため(いき)まじりに言います。「ガラスのくつくらい落としてくればよかったかしら。だけど金の馬車(ばしゃ)とか、りっぱな身なりの従者(じゅうしゃ)とか、山あいの国はなかったし、盛大(せいだい)にむかえられず、見送られもしない、ひっそりおうちへかえりましたとさ、おしまい、なんてのもアヤメ、あなたらしくていいのかな」
 階段を一周(めぐ)るたび、時間は菖蒲をおとなから少女の姿(すがた)にもどし、アヤメはだんだん遠くへ、昨日(きのう)までのできごとは、まるでどこかで聞いたおとぎ話のように思えました。でも菖蒲の中ではっきりと(のこ)っている、どうしても手ばなせない物語もありました。それを(かか)えながら上へ上へ。
 いつのまにか、周囲(しゅうい)はまるで古い洋館(ようかん)のような、あたたかみのある電球色(でんきゅうしょく)()らされ、ざらざらとした乳白(にゅうはく)(かべ)、なめらかな曲線(きょくせん)の手すりがついた階段になっていました。しばらくのぼっているとこんどは、カサカサ、ノッソリ、ノッソリ、カサカサ、ノッソリ、ノッソリ。
「ひさしぶりね、カメさん!」菖蒲はうれしそうにカメの横に(こし)かけます。「アリアドネとはうまくいってる?」
「も、ち、ろ、ん」カメはゆっくりこたえました。
「よ、か、っ、た」と、菖蒲は、ほおづえをつきます。「ねえねえカメさん。あのドアのむこうはとんでもない部屋(へや)だったのよ。わたしのお話、聞いてくれる?」
「も、ち、ろ、ん」
「じゃあまずはね、ドアを()けてすぐの場面(ばめん)からね」と、菖蒲は身ぶり手ぶりをまじえて、楽しそうに語りはじめます。「まっ(くら)(ゆか)がなくて、まっさかさまに()ちたら、魚や鳥や流れ星までわたしに話しかけてもうてんやわんや。でも、じつは()っこちたんじゃなくて……」
 たいせつな宝物(たからもの)を箱にひとつひとつしまうように、菖蒲はアヤメの物語をありったけカメにつたえました——ただひとつをのぞいて。
「……それからここにもどってきたというわけ。どう、おもしろいでしょ」
「よくやった……うまくやった……」カメはうんうんうなずきます。
「ねえ、ねえカメさん。わたしよくやれたかな。わたしうまくできたかな」菖蒲はうつむきます。「だって好きな人に(うそ)笑顔(えがお)をしたから。だいじな人を(きず)つけてしまったから。自分に正直(しょうじき)でなかったから」
「じゅうぶん」と、カメはこたえます。「よくやったさ」
「ねえ……ねえ、カメさん」菖蒲の目からぽろりと涙がこぼれます。「すこしだけ、()いてもいい?」
 カメはみじかい手で菖蒲の(ふと)ももをぽんぽんたたき、甲羅(こうら)にこもります。
 菖蒲はあふれるしずくをぬぐいませんでした。アヤメとアサゼル、ふたりのために。はなればなれだった水滴(すいてき)は、ほおをつたい、あごでまじわると、ひざをぬらすまでのあいだ、一緒(いっしょ)になれたからです。ひとつ、またひとつ、菖蒲の中から王子さまが遠くなるほど(こい)しく、(あわ)(うす)れるほどにますます(した)い、ミモザに()けた心とはまったくちがう、くだかれる心の(いた)みを全身に感じ、情愛(じょうあい)(せま)り、うなり苦しみます。悲しみは波のように岸壁(がんぺき)にくりかえし打ちよせ、(あわ)となり、好きな人への言葉を鉛色(なまりいろ)の冬海に()らしました。
「わたしも愛してる、アサゼル! あなたを深く……とっても深く。むりよ、あなたのいない日なんて考えられない。あなたをわすれるなんてできない。わたしの(おも)いも、わたしの気もちも、わたしの心もすべて、あなたのもの。なぜうまくいかないの? なぜこんなおしまいなの? なぜわたしだけ? ああせめてどこか知らない村のおとぎ話にでもなればいいのに。そうすればいつまでもあなたのそばに……でも、こうするしかなかった。でもこうするしか」
 おとずれた約束の時間。()()はすべての宝石を(たお)し、ゴーンゴーンと、大きな(かね)の音は()りはじめます。
「いかなきゃ」残らず涙を流した菖蒲はすっくと立ちあがります。「アリアドネ、帰り道を」
 くりかえしアリアドネの名を()びかけても、階段はなにも変わりません。まさかアリアドネはカメとの約束をやぶり、菖蒲を帰さないためにいたずらをしたのでしょうか。カメもなにごとかと甲羅(こうら)から顔をだします。(かね)は五回……六回……
「なんてやさしいアリアドネ!」(なぞ)()いた菖蒲は顔をあかるくして言いました。「わたし、まちがってた。あなたがわたしたちのおとぎ話をおぼえてくれるというのね」
 上階は(ひか)り、コンクリートの階段に変わってゆきます。カメとアリアドネにさよならと手をふり、階段を一歩また一歩と進み、あかりの(とも)る小さな図書館が見えてきました。
 菖蒲は胸に手をあてます。鼓動(こどう)(かね)の音とリズムをずらし、物語のおしまいをすこしでものばそうとしているようでした。
「わかってる。だけどアヤメ、あなたの(えら)んだおしまい(・・・・)は、菖蒲(わたし)(えら)んだはじまり(・・・・)よ」
 夜半〇時。菖蒲は深呼吸(しんこきゅう)して足をふみだすと、新しい冒険(ぼうけん)にずんずん立ちむかっていきました。

「菖蒲!」お(ねえ)さんはおこって言います。「あなたが本を借りたいってきたのに、窓ばっかりながめて。みんなでお昼ごはん食べる約束でしょ。もう帰るわよ!」
「ちがう、お(ねえ)ちゃん。わたし、ダルゲと西空のちぢれ羊を観察(かんさつ)していたの」
「ここは四階よ、菖蒲。それにあなた、まえは金色の羊を探しにアルゴー船で宇宙イワシの大群(たいぐん)とおどったとか、その前は牛車(ぎっしゃ)北極熊(ほっきょくぐま)南極熊(なんきょくぐま)を見にいったとか、下の庭でジャックに巨人と(おに)ごっこを(さそ)われたとか、わけわからないことばかり。もうちょっとちゃんとした本読みなさい」
「ねむくなる本? わたし、お(ねえ)ちゃんみたいにおかたい子どもじゃないし」
「ほんとは読んでるくせに」
 菖蒲はベーっと(した)をかるくだすと、お(ねえ)さんも口をいーっとしてふたりは笑いますが、せきばらいが聞こえ、口に手をあてて目をあわせ、わきをつつきあい、ふざけます。何冊か本を借りて、受付のおばさんにバイバイと手をふり、(なか)よく手をつないで図書館をあとにします。
 こうして、()しわらになった王子さまを助けるアヤメの長い旅はひっそり(まく)(おろ)ろしました。

おはなしのおしまい

おはなしのおしまい

 ビルのすきまにわきあがる雲の(みね)、アスファルトにゆれる逃げ水、大きなケヤキ並木(なみき)のそびえる大通りでは、セミたちがジージーやかましくさわいでいました。ベビーカーをおす母親と、楽しそうにはしゃぐ男の子、写真を()る外国の旅行客、足早にゆきかうオフィスワーカーの中に(むぎ)わらぼうしを頭にのせた長い黒髪の女の人が立ち止まり、(かた)にかけたトートバックからハンカチを取りだして、(つか)れた顔にたれる(あせ)をぬぐい、「あー(よる)ごはん、なんにしよ……」ひとりごとをため(いき)まじりに、歩きだしました。
 おとなになった菖蒲は、()しわらになった王子さまをすっかりわすれ、どうにも思いだせない夢のように、もやもや(なや)むことはありませんでした。そのかわり、もみくちゃのまいにちは無色透明(むしょくとうめい)の夢を、たいくつに支配された生活は、ありふれたまんぞくをあたえました。
 学校の勉強はまあまあ、お(ねえ)さんとのおしゃべりやときどき学校の友だちと遊んだり、気むずかしい教師(きょうし)をうまくかわしながら学校を卒業(そつぎょう)して、新しい職場(しょくば)仲間(なかま)と知りあいました。あの図書館にはなんどか足を運び、窓ものぞきましたが、なんでもない中庭でした。ひとつ変わったのは、アヤメに話しかけるクセをやめたくらいでしょうか。
「あら、菖蒲ちゃん。ひさしぶりねぇ」古い木造(もくぞう)甘味処(かんみどころ)からでてきた老婦人は菖蒲(あやめ)を見つけ、やわらかな笑顔(えがお)で手をふります。
「たまにはうちでおやつ食べてきな」
「おばぁ、ありがとう。こんどお(ねえ)ちゃんさそってラーメンとあんみつ食べにいく!」
 菖蒲はおばぁに手をふりました。
「図書館の帰りにお(ねえ)ちゃんと、どら焼きを半分(はんぶん)っこしたっけ」
 大通り中央の緑道(りょくどう)には()()びたブロンズ(ぞう)が子どもを見守る母親のような強くしなやかに立っていました。菖蒲はあこがれをいだいてながめ、「またあした!」と、あいさつをします。
 すると、ブロンズ像は「おかえりなさい」と、こたえます。
 骨董品屋(こっとうひんや)のひさしの下でぐったりしているシバ犬を見つけ、ひざをかがめて頭をなでます。
「ねえシバ、元気にやってる?」
「にゃあ」あまりにヘタなネコの()(ごえ)が聞こえ、菖蒲は思わず顔をあげると、街路樹(がいろじゅ)からさわやかなあまい花のかおりがします。花の()いていないタイサンボクの下にキジ三毛(みけ)ネコを見つけました。
「あたりまえよ。だって夏のおわりだもの」と、菖蒲は言います。
「あたりまえ? わすれちまったのかお(じょう)ちゃん。にゃつ(・・・)のつぎは春だぜ」と、キジ三毛ネコは菖蒲のわきをわざとらしく体をこすりつけて走りぬけ、図書館のあるビルに消えました。
 菖蒲は()いかけるようにビルへ、左右にガタゴト(ひら)く古い自動ドアを通ります。
「ひさしぶりだね、菖蒲ちゃん! お(ねえ)ちゃんは元気かい?」
 声をかけたのは、ビルの監視室(かんししつ)から顔をだす、大きな体の警備員(けいびいん)でした。
「こんにちは、ビルのおじさん!」菖蒲はあいさつをします。「(あね)隣町(となりまち)の病院で働いています」
「そうかい。しばらく見ないから()()したのかと思ったよ」
「いえ、大きな図書館にいくようになったので」
「まあ、ここはせまいからね。なんかようじでもあるの?」
「たまにはビルのおじさんに通行証(つうこうしょう)をもらおうかなって」
「あはは。じゃあ菖蒲ちゃんのひろったガラスと交換(こうかん)だね」ビルのおじさんは、りんご味の(あめ)をひとつ菖蒲にわたしました。
「せっかくきたので、ちょっと図書館によっていきます」菖蒲はビルのおじさんに手をふり、エレベーターの丸ボタンを()してすぐ「左!」と、指差(ゆびさ)します。
 左右二基(にき)あるエレベーターのうち、先に到着(とうちゃく)したのは左でした。「きょうはラッキーな日決定ね」
 かごに入ると五階のボタンがパッとひかり、ゴトンと音を立てて、もちあがりました。
「これ、まだあったのね……」菖蒲はかごの中に()られた図書館のカレンダーや白ウサギのイラストを見ていると、なんだかまるで大好きなお(ねえ)さんと手をつなぎ、そわそわする少女がすぐそこにいるような、ふしぎな気分(きぶん)になります。
「出会いはいつだってふしぎなものさ、ミス・アヤメ」と、シロウサギは言います。「そして、再会(さいかい)はおどろきなんだ」
 エレベーターのドアが(ひら)くとすぐ横に新聞(しんぶん)雑誌(ざっし)閲覧席(えつらんせき)、その先につるつるとした緑色(みどりいろ)のゆかに天じょうの低い部屋はありました。だれもいない貸切(かしきり)の本屋さんみたいな図書館です。
「うわあ、なんにもかわってない」
 菖蒲は()つめたような()い紙のにおいをくんくんかぎ、児童書(じどうしょ)コーナーへと足をむけます。入り口すぐ左には歴史、そのとなりの書棚(しょだな)地理(ちり)社会(しゃかい)植物(しょくぶつ)動物(どうぶつ)図鑑(ずかん)、むかいに芸術(げいじゅつ)書棚(しょだな)があります。右手には事務室(じむしつ)受付(うけつけ)カウンター、その前には大きなスツールソファーと紙しばいや絵本の書棚(しょだな)(おく)児童(じどう)小説(しょうせつ)窓際(まどぎわ)の低い書棚(しょだな)に絵本のコーナーです。バッグと(むぎ)わらぼうしをソファーに()き、紙しばいをめくったり絵本を(ひら)いたりします。本の()人差(ひとさ)(ゆび)をのせ、「この本好きだった」とか「これは王子さまとお姫さまの話ね」とか「これはいまいちな冒険(ぼうけん)活劇(かつげき)」とか「何回も読んだ漂流記(ひょうりゅうき)ね」とか「これは海賊(かいぞく)がでてきてちょっとこわい話」と、本にふれさえすれば、つぎからつぎへと菖蒲の中で物語がうごきだします。おやすみしていた空想(くうそう)や夢たちは、やかましく()りおどる目ざまし時計でベッドから飛び起き、さあ早くとパジャマ姿のアヤメの(うで)をつかみ、カーテンを思いきりひいて、たいくつ(ぼし)からつれだしました。たくさんのおとぎ話や物語はアヤメの自由な発想(はっそう)で新しい領域(せかい)にうまれかわって、それはどこまでも広がり、星座(せいざ)のように(むす)ばれもします。
 空にうかびながら海でおよぐ潜水(せんすい)宇宙服(うちゅうふく)のお話も、金色羊を探すため帆船(はんせん)アルゴー号にのってイワシの大群(たいぐん)とダンスするお話も、夏野菜と冬野菜がオーロラスープを食べるお話も、赤道(せきどう)牛車(ぎっしゃ)()()する仲良(なかよ)しの北極熊(ほっきょくぐま)南極熊(なんきょくぐま)のお話も、巨人(きょじん)小人(こびと)が中庭でかくれんぼをしていた雲の上にまでとどく(まめ)を見つけて旅するお話も、菖蒲の王国ではなんでもできるのです。そう、信じていればなんでも!
 ただ、菖蒲の(ゆび)は一冊の本で止まりました。
()しわらになった王子さま? そんな本、あったかしら……」
 菖蒲はくつをぬぎすて、書棚(しょだな)書棚(しょだな)特等席(とくとうせき)にぎゅうぎゅう体をつめてすわると表紙(ひょうし)(ひら)き、ページを()りました。
 山あいの国の王子さまは邪悪(じゃあく)な影と戦うため、わら(たば)に変えられてしまう章からはじまります。もとの姿にもどるためには、べつの世界に住む少女が扉のない中庭の井戸でくんだ水を王子さまのくちびるにそそがなければなりません。それを知ったひとりの勇敢(ゆうかん)な少女は、王子さまを助ける冒険(ぼうけん)にでかけ、やっとのことで井戸の水をくみました。邪悪(じゃあく)な影は少女を(おそ)い、井戸の水がはいった()ビンはわれてしまいます。少女はのこった水を口にふくんで王子さまにキスをすると、もとの姿にもどり、ふたりは力をあわせ邪悪(じゃあく)な影をたおしました。
「とても強い女の子ね!」
 菖蒲の目は夢中(むちゅう)文字(もじ)()います。
 闇を打ちやぶったふたりは山あいの国へ帰り、みんな幸せにくらしました。ただし、いつまでもではありませんでした。なぜなら大きくなった少女はのこした約束を守るため、もとの世界にもどらなければならなかったからです。大好きな王子さまといつまでもいたいのに、帰りの時間はやってきて、小麦畑の風車(ふうしゃ)は少女を()()り、物語はそこでぷっつりとぎれていました。
「女の子がだれにも助けられず、いきなりおしまいって、なんてへんてこなのかしら。のこりもぜんぶ白紙。それに女の子の約束って……」
(かがみ)(かがみ)。このおはなしのおしまいはなあに?」
 窓のむこうでアヤメが菖蒲にそう問いかけた時、いたずら()きのだれかさんは息をフッとふき、そよ風は内階段から図書館の入り口へ、菖蒲の手にある本の白紙ページは紙ふぶきとなって(ちゅう)()います。(かく)された物語を見つけた菖蒲はつづきを読みました。

 お姫さまが連れ去られたあと、とつぜんふってきたどしゃぶりの雨は大地をぬらし、王子さまは(なまり)のような雨つぶに打たれたまま、じっと立ちつくしていました。
(わら)え、アルビレオ」自嘲(じちょう)するように王子さまは口を(ひら)きます。「彼女(かのじょ)愛想(あいそ)つかしただろうな」
姫君(ひめぎみ)は王子の助けを待っているのではありませんか」と、アルビレオは言います。「だから、けっしてあなたにだけは手をふらなかった」
「そんなのわかっている!」
「わかっているのであればなぜ! なぜ、いつまでもぬれそぼり、うなだれているのですか! 姫君(ひめぎみ)は苦しみを()え、中庭で井戸の水をくんだのではありませんでしたか。あなたのために、あなただけのために! 死せる王子のくちびるをいやしたあの水は、うるわしい女の(なみだ)なのです。王子、あなたがすべきは姫君(ひめぎみ)のため、道なき道を、いばらやアザミに身を()げいれねばならぬとも、顔をあげ、前に進むことではありませんか」

——いくら(のぞ)んでも、すべてをあたえられはしないのよ。だから、こぼれ落ちてしまうほどちいさな赤子(あかご)のような手の中で、せいいっぱいしてあげようと。

「わたしは」と、王子さまは両手を見つめ、「彼女(かのじょ)をこぼしてしまうほど、ちっぽけな手なのだろうか、愛する人に(のぞ)むものをあたえられぬほど、みじかい(うで)だったか」
 大きな雨音。しばし沈黙(ちんもく)のあと、顔をあげ、「いいや、ゆかねば」。

  遠くで白鳥がわたしを呼び
  わたしはその声を知っている
  天地(あまつち)(はざま)(かく)された
  白くほころぶ苹果(りんご)の花
  ()ぎさる星々 ()けゆく群青(ぐんじょう)の空
  わたしは彼方(かなた)をさすらい
  ついに見いだす
  湖水(こすい)におどる美しきその姿
  はためく春雪(しゅんせつ)(はね)つかみ
  なめらかなうなじに(はな)をよせ
  ぬくもる吐息(といき)は耳をとかし
  うす桃色(ももいろ)のくちびるからほとばしる
  甘い約束の言葉を(うち)()
  いつまでも いつまでも
  ともに()もう
  (ぎん)苹果(りんご)黄金(きん)苹果(りんご)

「アルビレオ、おまえが友でよかった」
 王子さまは(いそ)いで城にもどり、王さまの前でひざまずきます。
「王よ。ふたたび国を旅立つこと、どうかおゆるしください!」
 王さまと王妃(おうひ)さまは、ずぶぬれの王子さまにおどろきながら、こうたずねました。
「なにゆえか」
(にじ)の姫を取りもどすためです。王よ、いつ帰れるのかわかりません。いえ、帰ることはないかもしれません」
息子(むすこ)よ。安寧(あんねい)契約(けいやく)ゆえ国をはなれる前に話したなぞかけをおぼえているか」
「はい。(しん)のないりんご、扉のない家、(かぎ)のいらない宮殿(きゅうでん)。これらはおさないわたしの耳もとで毎夜(まいよ)、母上の歌う子守歌です。わたくしは愛と信頼(しんらい)こそがなにより強い約束であると学び、影をうちやぶる示唆(しさ)をえました」
 王さまはまんぞくそうにうなずき、王子さまに七色の指輪(ゆびわ)をわたします。
「むかし、ヘレムはグレエンに運命(うんめい)()ち切る長剣アトロポスを、わたしにこれを(たく)した。この指輪はあらゆる領域(せかい)をまたぐ(にじ)の女王の認印(にんいん)指輪(ゆびわ)だ。王として、父としておまえに(めい)じる。これを持ちすぐにゆきなさい。すこしも(おく)れないように。たがうことのないように。そしてなによりも信じ待つ(にじ)の姫をしっかりつかみ、その愛にこたえるように」
 王子さまは天馬アルビレオにのって月にむかいました。記憶の断片を採取(さいしゅ)をしているメレに会うと、こう言います。
「どうか、わたしに記憶集めをおしえてください! なんでもしますから」
「おしえるのはかまわない。だがいったいどうしたというんだい?」メレは聞きます。
「姫のなくした記憶がほしいのです。手ばなしたすべてのおとぎ話を」
「だれかの記憶がほしいだって!」メレは目を大きくしてこたえました。「はじめにひとつだけ忠告(ちゅうこく)しておこう。だれかの記憶を選び取るなどぜったいできない。流れ星に名が書いてあるわけではないし、記憶をのぞくこともできないのだから。それにまわりをごらん。記憶の断片はどれほどあると思うんだい。しかもああして流れ星は()えずふってくる。落下(らっか)した記憶のかけらを採取(さいしゅ)するのもむずかしい。ためしにさわってみるといい……」
 それから何年も王子さまは休まず記憶を探しました。無数(むすう)の断片から、たったひとつの宝石を見つけるために広大な月をすみずみまで歩きまわり、落ちる流れ星を見つけては走ります。しかしどれもちがいます。お姫さまの記憶ではないのです。王子さまはあきらめませんでした。お姫さまを愛していたので()()った年月はただ数日のように思えました。そんな王子さまの姿にバクは心をうたれました。
 みんな、お姫さまの帰りを待っていました。セイトスズメ、フクロウセンセイ、ハタラキアリ、海の女王テティス、ジョナ、わんぱく魚、イアソン、シバ、バンドウ、スルフファー、キタール、メレ、アルネヴ、サトウ、アシェレ博士、モルト、アルビレオ、山あいの王さまに王妃(おうひ)さまと国民、そして父と母のリリィとグレエンも。
 そしてついに、その日、その瞬間(しゅんかん)はやってきました。
 月に落ちる流れ星はピタリとやみ、王子さまは静寂(せいじゃく)(そら)をあおぎます。しばらくして星がふたつ、()をえがきます。遠くから聞こえる(つばさ)のはためきは、だんだんとちかづき、虹色(にじいろ)()をひく白鳥が黄色の小鳥にみちびかれ、こちらにやってきたのです!
 (なが)(なが)いわたりを()えた白鳥と王子さまの再会(さいかい)祝福(しゅくふく)するため、真珠(しんじゅ)のような星々は光の(おび)となり、宇宙はオーロラを全体にかざります。月は記憶の断片に呼びかけると色彩(しきさい)を思いだしていっせいに発光(はっこう)し、パイプオルガンの音色(ねいろ)を遠くまで(ひび)かせました。
 メレはあまりの荘厳(そうごん)光景(こうけい)に、言葉をうしないます。
 王子さまは(むね)に飛びこんできたかがやく白鳥をうけとめ、「時がこないように」と、(ねが)いをこめます。すると白鳥は王子さまの手の上でイリスの認印(にんいん)指輪(ゆびわ)とまじりあい、金の指輪に昇華(しょうか)します。
 王子さまはメレに(れい)をいい、お姫さまのもとへ()せむかいました。

  (かろ)やかに打つひづめの律動(リズム)
  白馬のいななきは(たましい)(いや)すしらべ
  あなたの知らせは春のうたげのよう
  山あいにふくさわやかな(みどり)の風は
  色あざやかな思い出とあなたの(かお)りを(はこ)
  かわいた心でほおを()らすわたしをついに休ませる
  ああ わたしの王子さま!
  わすれていた ときめく想いを(むね)
  待ち()がれた冬のおしまいに
  あなたを愛そう
  どこまでも……どこまでも……

「アヤメがのみこんだ(とげ)をわたしにもわけてほしい。お願いだからどうか、ひとりで行ってしまわないで」
「ねえどうしよう、王子さま。あなたの本が雨でびしょぬれ」
「もう、いいんだよ」
「わたしね、やっとわかったの、アサゼルの気もち。あなたがどんな思いで干しわらとなっていたか。信頼(しんらい)して待つのはこんなに勇気(ゆうき)がいるなんて。そう、()しわらだったのはわたしよ。あの時、気づいていれば、素直(すなお)にあなたと」
「ううん。わたしはそんなアヤメが好きなんだ。そんなアヤメをいつまでも知りたい。だから、わたしたちの物語のはじまりは」
 アサゼルは菖蒲の両手を取り、優雅(ゆうが)に立ちあがる彼女(かのじょ)の耳もとで、いつまでもおしまいのない愛の約束を()げます。ふたりは見つめあい、きらめく星を(ひとみ)にたたえた菖蒲は、おだやかな()みをうかべ、すこしもまよわず、こうこたえました。
「はい。」
 王子さまは金の指輪をお姫さまの左手薬指に、お姫さまは強くあたたかな王子さまの(むね)にその身をゆだねるのでした。

少し長めの追伸

少し長めの追伸

 秋も深まり、だんだんと雲は高く、山から流れるひんやりした空気は森を(あかね)やオレンジ、黄色に()め、やわらかな()のさす(みずうみ)では水鳥たちが旅立ちの準備(じゅんび)であわただしくなりました。はらはらと葉の落ちる色鮮(いろあざ)やかな木の下で、親子はピクニックブランケットを()いてランチを楽しみ、子どもたちはひろった木の実をポケットにつめ、こちらにかけよって収穫(しゅうかく)をすこしばかりわけてくれるのです。
 そんな時、母と()ごしたとくべつな時間を思いだします。
 夜()る前、ぬいぐるみを()いて横になるおさないわたしのそばで、数々のおとぎを話してくれました。なかでも干しわらになった王子さまのお話は週はじめのお楽しみで、いちばんのかがやきをはなつ物語でした。わたしは目をキラキラさせ、多くの親をこまらせてきた、あの問いかけ、「ねえなんで、井戸の水をくむのに王子さまの記憶の結晶がひつようだったの?」とか「ねえなんで、王子さまはアヤメのキスでもどったの?」など、身をのりだすように、「ねえなんで?」をくりかえしていると母はわたしの頭をなで、こう言いました。
「サラサはどう思う? あなたの物語を聞かせて」
 そうしていつのまにか、わたしの夢の王国へ母を招待(しょうたい)していたのです。
 もう少し大きくなると母は(こい)の話やほろ(にが)い話もまじえ、ドキドキしたりほおを赤らめたり、涙したり、あたたかな気もちになったものです。きっと、生きてゆくためのむずかしい知恵(ちえ)道徳(どうとく)離乳食(りにゅうしょく)のようにあたえてくれたのでしょう。
 おとなになったわたしは大好きな母のおとぎ話をまとめて文字に()こし、本にしようと考えました。それが『扉のない中庭』です。これからあとがきに変えて、物語のおしまいのちょっぴり先をみなさんにおつたえしたいと思います。
 まず、ネコ()由緒(ゆいしょ)ある王族モルトについて。(かれ)は山あいの国にはとどまらず、気ままな旅を楽しみながら自分の武勇伝(ぶゆうでん)各地(かくち)のネコに大げさに語り歩いているようです。ときどき、うちへ帰ってきては母のベッドで()ています。
 スパルトイ軍団(ぐんだん)(たお)した英雄(えいゆう)グレエンは畑仕事や家や家具(かぐ)修理(しゅうり)をするなんでも屋(・・・・・)さんとして、みんなからしたわれています。アヤメがいなくなった時はものすごい落ちこみようで、リリィはそれはそれはものすごーくめんどくさかったって! そんなリリーフロラはやさしいグランマです。リリィは今もひとり(むすめ)の服をすべて準備(じゅんび)する一流の仕立て屋さんで、わたしは母の服をおさがりでもらうほどよ。
 山あいの国で手をつないで歩くカップルを見たなら王さまと王妃(おうひ)さまだ、というほど有名な二人について。王妃(おうひ)ユリーフロラは、ふたごの男の子をさずかり、わたしの(おさな)なじみです。王さまをやめたお城のピートおじさんは湖畔(こはん)新居(しんきょ)を探していますが、子育てにいそがしく、なかなかよい場所は見つからないと、なげきながら喜んでいます。いつかすてきなお(うち)()()せますように。
 ハタラキアリたちのいる興廃(こうはい)の丘は菖蒲女王の美しい庭園に変わりました。丘の上に建つ邸宅(ていたく)には執事(しつじ)となったフクロウセンセイやセイトスズメたちがせっせと働いています。アルネヴやおじぃやアシェレ博士(はかせ)からたくさん(おく)られた骨董品(こっとうひん)管理(かんり)はたいへんだってフクロウセンセイはぼやいていたわ。(かれ)らは女王のためにもっと魅力的(みりょくてき)庭園(ていえん)を広げるのが目標(もくひょう)なんですって。いったいどんな庭になるのでしょうか。
 おばぁとおじぃの家には家族で夏休みにでかけます。わたしは父とおじぃの島でキャンプを楽しむけれど、母はおばぁのとってもせまい待合所(まちあいじょ)にわざわざ()まるの。どうやら彼女(かのじょ)はせまい空間にはさまると落ちつくみたい。おばぁには姉妹(しまい)が何人かいるらしくて、いろんな領域(せかい)でパスタ、クスクス、シュペッツレ、ペリメニ、ラーメン、ビーフン……いろんな(めん)のお店を(いとな)んでいるらしいわ。もしかするとあなたの街におばぁはいるかもしれませんね。おじぃとシバはアルゴー船で新しい冒険(ぼうけん)をする予定で、わたしも(さそ)われています。時空(じくう)の穴をくぐり、宇宙(うちゅう)創世(そうせい)領域(せかい)にある不可知(ふかち)の色を探索(たんさく)しにいくのだそう。
 メレは月で記憶採取を続けています。きらめきを取りもどした断片を加工するのはわくわくするとはりきっていました。「二度あることは三度ある」というシバの金言(きんげん)をたいせつに、記憶には名前がないから見つけられないとは言いません。それなので、ぜひみなさんも月に好きな人の記憶を探してみるのはいかがでしょうか。
 アルネヴはサトウといろんな星で星間行商(せいかんぎょうしょう)をしています。アヤメをビジネスパートナーにする夢はついえたので、新しい出会いをもとめているの。ティータイムをことわらない女の子ならいつでも大歓迎(だいかんげい)だそう。いつか、ミセス・レイラとの恋物語(こいものがたり)も書けるといいな。
 ()しわらの王子さまについて。父に「なぜわら(・・)じゃなくって干しわら(・・・・)なの」って聞いたら「びっくりするほどパッサパサだったから」ですって。わたし、おなかを(かか)えて笑ってしまったわ。そんな父アサゼルはいつもユーモアのある王子さまです。この物語を『()しわらになった王子さま』にしようか相談(そうだん)したら、父は出窓(でまど)のソファにはさまり本を読む母をいとおしそうな目で見て、「その本はもうなくなってしまったんだよ」と、小声で言っていました。
 みんなのお話しはこれくらいです。もちろん、もっといろんな話を聞いたり旅して見たすてきな物語を書きたかったのですが、それではいつまでも終わらないので、またいつか。山あいの国の歴史、王子さまの旅、おじぃとシバの出会い、扉のない中庭のちかくまで行った大冒険家(だいぼうけんか)イアソンの行程(こうてい)、菖蒲とアルネヴがバザールに行くまでの星旅行。とってもおもしろいのよ。『正直(しょうじき)でいたってまじめなうそつき(ぞう)』を手にいれたアルネヴとアヤメはクノッソスの迷宮(ラビリンス)からでられなくなった話とか、宇宙一(しぶ)流星(りゅうせい)渋茶(しぶちゃ)を飲んでから、上をむいて三回願いをとなえるとなんでもかなう話とか……
 最後に二つ。ひとつはミモザのこと。
 母はミモザについてあまり話したがりません。金と銀のバングルを知ったのもさいきんだし、父もウエディングでつけたのを見たくらいだそうです。父と母はアルビレオをつれて遠くにいます。母によると『クスノキに宿(やど)る黄色い小鳥を探す旅』であると。先日とどいた母からの手紙に、もうすぐ帰れると書いてあったの。もしかすると、みなさんがこの本を読んでいる時にはわたしもミモザと会っているかもしれません。すごく楽しみ。やさしいママ! ミモザのことを書いてごめんなさい。どうかおこらないで。
 もうひとつはそんな大好きな母のこと。
 母は山あいの国の図書館に収蔵(しゅうぞう)された本の分類(ぶんるい)古文書(こもんじょ)巻物(まきもの)修復(しゅうふく)筆写(ひっしゃ)の仕事をしています。
「お宝を見つけたの!」と、ほこりかぶった書物をうれしそうに家に持ち帰っては読みふけり、忘れられた人々のおとぎ話を想像(そうぞう)しながら、アサゼルのそばでいきいきと話しています。そんなふたりを見ていると、新しく広げた領域(せかい)を旅する永遠のお姫さまと、()いかける王子さまのように見えるのです。
 最後の最後に。ぜったいおしえてくれない『いつまでもおしまいのない愛の約束』について。
「ねえママ、アヤメは()しわらになった王子さまから耳もとでなにを告白(こくはく)されたの?」
 母にくり返し聞いても、答えはいつもおなじです。
「いままで聞いたことないくらい、とても甘くとろけるような愛の約束を耳もとでささやかれたわ。あとは秘密! ぜったいおしえない、もうおしまい」それから目をほそめて、「サラサも王子さまにささやかれるのよ。そうしたらわたしも聞くけど、それでもいいの?」


  晩秋(ばんしゅう)のある日、湖畔(こはん)のガゼボにて
  父アサゼルと母アヤメへ      
  たくさんの愛と感謝をこめて
  あなたの娘サラサフロラより

扉のない中庭 設定

扉のない中庭 設定

扉のない中庭 設定

登場人物のこと一

登場人物のこと一

扉のない中庭〜設定①〜

登場人物のこと二

登場人物のこと二

扉のない中庭の〜設定②〜

登場人物のこと三

登場人物のこと三

扉のない中庭〜設定③〜

ゆびわのこと

ゆびわのこと

扉のない中庭〜設定④〜

つるぎのこと

つるぎのこと

扉のない中庭〜設定⑤〜

たびじのこと

たびじのこと

扉のない中庭〜設定⑥〜

やくそくのこと

やくそくのこと

扉のない中庭〜設定⑦〜

イメージ画のこと①

イメージ画のこと①

イメージ画のこと①

イメージ画のこと②

イメージ画のこと②

イメージ画のこと②

イメージ画のこと③

イメージ画のこと③

イメージ画のこと③

扉のない中庭

主人公の菖蒲は実在する養女がモデルです。
本や芸術を愛し、聡明な、いつも前向きで、母親としても強く、リリィの言葉を借りるなら境遇が力を与えたような、尊敬する美しい女性です。
彼女との会話はいつも新しい領域を開くように、たくさんの知識や知恵、アイディアをもらえます。

かつて、ひとりのちいさな女の子と夢の国のプリンセスについて話していたとき、日本には西洋的なプリンセスがまだいないことに気づき、もし東の最果てにあるちいさな島国の女の子が選ばれたら、を出発点に心と約束を題材としたお話を書きはじめました。できるだけつじつま合わせをしないよう注意しつつ……

一途な少女菖蒲はアルビレオのいうとおり、はじめから王子さまだけを想い、彼だけのために人生の選択をしていきます。闇との戦い、ミモザとの関係、扉のない中庭での水くみ、彼とわかれる決定すらも。
「干しわらだったのはわたしよ。あの時、気づいていれば、素直にあなたと」
 何年も大人を経験し、理想の王子さまを想うあまり、あなたの気持ちを考える余裕がなかった、と菖蒲は気づきます。
それに対しアサゼルは、「そんなアヤメが好きなんだ。そんなアヤメをいつまでも知りたい」と答えます。
信頼や待望といった、この時代には語られない、古い男女の愛の物語であり、男女の境界の揺らぐ危機的な時代がゆえにファンタジーなのです。

母に、この物語をささげます
心からの敬意と感謝をともに

2018ー2024
※1『Twinkle, twinkle, little star』Jane Taylor
※2『月ぬ美しゃ』八重山民謡《一部改変》
※3『ポラーノの広場』レオーノ・キュースト・訳述 宮沢賢治
※4『I Will Give my Love an Apple』英国民謡
※5『長くつ下のピッピ』アストリッド・リンドグレーン・大塚勇三訳 岩波書店
※6『きかんしゃ やえもん』阿川弘之 岩波書店

扉のない中庭

心へ旅する少女のお話

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-02-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 干しわらになった王子さま
  2. 見つからない本と中庭
  3. アリ隊列
  4. 下に上がる階段
  5. 底なし部屋
  6. キジ三毛のネコ
  7. 菖蒲の計画
  8. 契約書のありか
  9. 農夫たちの秘密
  10. 観客のいない芝居
  11. 興廃の丘
  12. 王子さまの約束
  13. 通路の消失点
  14. 雨にぬれる教室
  15. 騒々しい法廷
  16. 通路の消失点Ⅱ
  17. 待合所ときどき夏休み
  18. おつかい
  19. 天体観測
  20. シロクジラ
  21. 記憶採取
  22. 太陰潮
  23. 金色あられ
  24. 願いの像
  25. 行商シロウサギ
  26. 夜明けぬバザール
  27. 家出した影
  28. 名もなき
  29. 闇の門口
  30. 人と影による交唱
  31. 通路の消失点Ⅲ
  32. もっともちかい
  33. 扉のない中庭
  34. たりないもの
  35. むかしむかし
  36. 約束の力
  37. なぞかけ歌
  38. 光と影による交渉
  39. 干しわらの王子さま
  40. 二重星
  41. 帰路
  42. 静かな凱旋
  43. 湖畔のガゼボ
  44. ふたつめの夢
  45. 夜半〇時のらせん階段
  46. おはなしのおしまい
  47. 少し長めの追伸
  48. 扉のない中庭 設定
  49. 登場人物のこと一
  50. 登場人物のこと二
  51. 登場人物のこと三
  52. ゆびわのこと
  53. つるぎのこと
  54. たびじのこと
  55. やくそくのこと
  56. イメージ画のこと①
  57. イメージ画のこと②
  58. イメージ画のこと③