扉のない中庭
サラサフロラ 作
書肆彼方 編
I will give my love an apple without e'er a core,
I will give my love a house without e'er a door,
I will give my love a palace wherein she may be,
And she may unlock it without any key.
My head is the apple without e'er a core,
My mind is the house without e'er a door.
My heart is the palace wherein she may be,
And she may unlock it without any key.
——英国の古い歌
干しわらになった王子さま
Ⅰ はじまり
むかしむかし、水鳥たちだけの知る美しい湖のそばに、ひっそりとそびえるお城がありました。
まわりの国からも知られず、兵士や従者のいない深い山あいにある名もなき小国は、いつも手をつないで歩く、仲むつまじい王さまと王妃さまが治め、それはそれは優しく、民から父母のようにしたわれて、みんな楽しく暮らしていました。
王さまと王妃さまには小麦色の髪に青い瞳の元気な子がひとりおりまして、王子さまはまいにちお城をぬけては町の子どもたちと一緒に山をかけまわったり、湖でおよいだりして遊ぶのでした。
Ⅱ 王さまのなぞかけ
晴れたある日の朝。王子さまはヒヨドリのさえずりでぱっちり目をさますと、寝床からとび起きて顔を洗い、パンをほおばりスープをかきこみます。イスをひいて食堂を飛びだそうとするやいなや、父から執務室にくるよう呼びとめられてしまいました。
「ちぇっ」王子さまは舌打ちをして、「父上の用事をさっさとすませて川で葉っぱ流しをしよう。きのうはヘレムの葉っぱがいちばんだったけど、夜にとっておきの舟を思いついたんだ。きょうこそ勝ってやる」と、はやる気持ちをおさえ、いそぎ足でむかいました。
湖を一望できる回廊をぬけ、黒ぬりの大きな扉で立ち止まると、かるくせきばらいをしてからコンコンたたき、「王よ、まいりました」。このときだけは父ではなく王だとわきまえていますので、背すじをピンとのばし、すこしばかり落ちついた声です。
「はいりなさい」
王さまの呼びかけに応じて王子さまは肩をそびやかし、部屋に入りました。
しけた紙のにおいのする執務室は、いかにもむずかしそうな本が本棚にずらりとならべられ、レリーフのほどこされた大きなつくえの上に山とつまれた本は今にもくずれ落ちそうなほどです。
王子さまはすきまからあちらをのぞくと、王さまは考え深げなようすで手紙をしたためています。——ほかの国と交流はなく、国にあるたったひとつの門をくぐるものすらほとんどいないのに、いったいどこのだれにあてているのだろう——王子さまはふしぎに思いました。
「おまえを呼んだのは」と、王さまは手をとめ、羽根ペンをつくえにおき、王子さまのほうに顔をゆっくりあげます。「息子よ。おまえに探してきてほしいものがある」
勇猛で威厳あるライオンのような低い声に、先を見通すワシのようにするどいまなざし。王子さまはそんな父が大好きでした。なにより父のような王になりたいと願っていたのです。
「王よ、わたくしになにを探せというのでしょうか」
「うむ。それは、『芯のないりんご』『扉のない家』『鍵のいらない宮殿』を」
王子さまはすこし考えてから、いぶかしげにたずねました。
「わたくしをためすなぞなぞですか?」
「そのようにとってかまわぬ。おまえが山あいの国の王としてほんとうにふさわしいのか」
王さまの言葉に王子さまの心はふるえます。
——父はわたしを将来の王として見てくださっていたのか。わたしはもう子どもではなく、父の目にふさわしいおとなとなるのだ。そのためにも父のきたいにこたえ、民の希望とならねば。
「わが王よ。あなたの目にかなうものをかならずやお見せいたしましょう!」
「よくいってくれた。ではさっそく明日の朝、出発するように」
「おおせのままに!」
王子さまは瞳をかがやかせ、自信たっぷりにそうこたえると、部屋からでていきました。
いまやもう友だちと遊ぶことなどすっかりわすれて、父からあたえられた試練をのりこえるため、すぐに出立の準備をはじめます。そんな王子さまの背中をながめる王さまと王妃さまは後悔したような、さびしい顔をするのでした。
つぎの朝。雲ひとつない空のもと、王子さまはたくさんの食りょうと水をつめた大きな布袋を荷鞍にのせて白馬にまたがると正門をくぐり、国の外へと旅立ちました。母からはなにかあった時のためにと、赤い宝石つきの金の指輪を首かざりに、父からはひとふりの青い剣を腰に。
「希望をもって国をあとにし、栄光をもってむかえられよう」
威勢のよい声とともに、王さまのなぞかけにこたえるための長い旅が、こうしてはじまったのです。
Ⅲ 王子さまの旅路
山あいの国をたち、田舎の村からはじまり、街にでてやがて大都市へ。
国の外を知らない王子さまにとって、目にうつるすべてのものは新しく、たくさんのことを知りました。世界は広く、故郷はちっぽけなこと。歓待される時もあれば、うとまれる時だってある。美しい景色に目頭を熱くし、みにくい光景に顔をそむける。どしゃぶりの雨に打たれ、ふきつけるつめたい風に体をガタガタふるわせ、なにより、ひとりがどれだけつらいかも。洞穴に身を横たえ、広がる紫紺の地平線をながめ、ちらばる星くずの夜空に祖国への思いを馳せました。
「わたしを知るのは旅をともにする白馬だけしかいない」
長い旅の果て、もの知りが住むという話を聞き、荒野を通りました。そこは陽の光でまっ赤に染まることから血の荒野と呼ばれ、何百年もまえに興亡し、人々から忘れられた都市の廃墟がありました。
遠くに立ちのぼる、ひとすじの白煙を見つけた王子さまは馬をおりてちかづき、「はじめまして」と、たき火のまえで腰をおろす、ボロをまとった老人に話しかけます。
「わたしは遠くの地からやってきた旅人です。あなたの深い智恵についてうわさで聞いております」
まるで石こう像のようにうつむく老人は少年など目もくれず、パチパチと鳴る火に木ぎれをくべます。
「あなたにうかがいたいのです。それは……」
「ここからさらに東……」と、老人は王子さまの言葉をさえぎります。「金色の小麦畑にある白い壁、黒い屋根の風車に知りたいものはあるだろう」
「なぜ、わたしが話すまえにすべてわかるのですか」
「風はどこからふくのか、だれが知りえよう。ただ行くべき先にのみ目をむけよ」
王子さまは老人に感謝をつげ、残りの金と食べ物や水をわたし、こう言いました。
「旅の成功に、どうかあなたの秘密について教えていただきたい」
「さて、おまえにできるかな」老人はニヤリと笑いました。
東にむかって馬を駆り、しばらくして見わたすかぎり金色の小麦畑に、ぽつりとたつ風車が見えました。老人の言葉のとおり、白い壁に黒い屋根です。まちがいありません、ついに目的地にたどりつき、試練の旅はむくわれたのです。
王子さまの胸は高鳴りました。そう、たしかにこの時までは。
Ⅳ 東の風車
ゆっくりとまわる風車の大きな羽根のなんともぶきみな姿におののきながらも、王子さまは馬を止めて優しくなで、中に入りました。
ゴオンゴオン……ギギギギー。部屋中、きしむ音やたたく音はやかましく聞こえますが、あたりに人や、だれか仕事をしている様子はありません。
「老人はこの風車について語ったのだろうか」
いくぶん心配を口にする王子さまは室内をあちこち探し、やがて地下につづく階段を見つけます。階段をおりて閉じられた木の扉につきあたり、はずれかけのくすんだ金の把手に手をかけました。蝶番はこすれたにぶい音を鳴らして開き、うす暗い部屋の中へゆっくりと慎重に進みます。
「ここはなんだろう。麦を備蓄する納屋、あるいは倉庫か……」
ほこりのまうカビくさい部屋を見まわしていると、ばたん! 背後のたたきつけるような音に、なにごとかと思わずふり返ります。
はたといそぎもどりノブに手をかけ、ぐいぐい押したり引いたりしますが、扉はビクともしません。
「だれかむこうから鍵をかけたのか? いや、風でしまり錠はひとりでに……そんなはずは」
ただならぬ空気を肌で感じた直後、背に強烈な気配。自然と右手は腰にさがる剣にふれ、すばやく見返ります。
「だれだ? いるのはわかっている」
しんとした部屋に、ひゅうとかわいた風の音。うっすら灯火はあらわれ、王子さまは呼吸をととのえてから、そろりそろりと進みました。すると灯火は奥にむかって、順に灯ります。
——いったい何者が?——そう疑問に思うやいなや灯火はふえ、ついに部屋全体をぱっとあかるく照らしました。風車の地下納屋は一転して、てんじょうは高く、石づくりのりっぱな座を中央にかまえる壮麗な王の間にかわっているではありませんか!
立ちつくす王子さまはおどろきと不安を感じながらも、けっして表にだしません。どんな時でも静かな威厳をたもつよう父からおしえられていたからです。
「わたしは遠い地から王の命によりつかわされたものである。あなたに聞きたい!」
はりあげた王子さまの声は部屋中にこだまします。
「……なにもわかっていない……」
ひやりとつめたい風のような男の声。王子さまは形なき姿をとらえようと、するどい眼光で周囲を見ます。
「主よ! どこにいる?」
「おまえはなにもわかっていない。西の国のちいさな王子」
さっきよりもはっきりとした声はあたりにひびきます。
「なぜ、わたしがわかっていないというのだ」
だれもいない部屋の中央にある座はスポットライトのようにパッと照らされ、王子さまは目をおおいます。
「おまえの父は……」
王座にはいつのまにか、金のかんむりをかぶる人のかたちをした黒い影のようなものが、ふてぶてしく腕をくみ、胡坐をかいて王子さまを見おろしていました。
「おまえが邪魔で、早く国から追いだしたかった。できるだけ遠くにな」
王子さまはいらだち、おうへいな黒い影をにらみつけます。しかし影はそんな王子さまを知ってか、あざ笑うように話しつづけました。
「おまえは今ごろ国中の笑い者だ。なにも知らず放浪している、わらのように中身のないスカスカな王子だと」
「嘘をつくな。父と民はわたしを愛している。わたしをおとしめようというのか」
影は下品な高笑いをして、こう言います。
「ああ、疑いを知らない、なんとあわれでおろかな干しわらの王子! おまえをおとしめてなんになる? むしろ真実をあたえようというのに」
——こんな影になにがわかるのだ——憤然とした王子さまはだまってしまいます。
「いいかよく聞け、干しわらの王子。この世はなによりもまず猜疑であり、史実は下卑でこうかつな支配のくり返しだ」
風の流れを読みとる船乗りのように、王子さまの微妙な感情のゆらぎをあくまで冷静につかむ影は、ここぞとばかりに王子さまの耳をなで、その軽妙な疑心は王子さまにまとわりついて離れません。感じたことのない悪寒、聞こえてくる人々からのクスクスという笑い声——王はわたしをほんとうに認めてくださっていたのだろうか。もしやあいつの言うとおり……そんなまさか。
「おまえは故郷を出た時、だれからも見送られぬことをおかしいと思わなかったのか?」
「それは……」王子さまは視線をそらします。
「ふん。では国の外はおまえにとって理想であったか」
「良いものも、悪いものもあった」
「否。人はつねに悪を善で覆う。羊の皮をかぶるおおかみのようにな。権力を渇望するおまえの父も、うかれさわぐ愚鈍な民も、良識ある王の皮をかぶり、善良な民の皮をかぶる。しかしまことの顔はだれにもあかさん」
王子さまはスラリと剣をぬき、きっ先を影につきつけます。
「決闘をもうしこむ! おまえはわが王を、祖国を侮辱した」
怒気をふくむ王子さまのするどい声。
「笑止! くだらぬ忠義心。だからおまえの頭は干しわらなのだ。剣は名誉でなく恥辱のためにふるうものよ」
「ふざけるな!」
「そして我は」と、影はゆっくり王子をゆびさし、「すでにおまえにもたらした」。
王子さまは身体中に寒気がひしひしとせまるのを感じます。ひたいにつめたい汗がにじみ、歯はガチガチ鳴り、のばした右手と剣も小きざみにふるえます。
「さあおしえてやろう、真実を」と、影はひじかけにどっしりもたれ、ほおづえをつきます。「むかし、おまえの国は我とひとつの契約を結んだ。それは国の安寧と引きかえに王の子ひとり国から追いだすこと。しかし追放する子になにもつたえてはならない。また子は自発的に国をでなければならない。干しわらの王子、おまえのことだ」
王子さまは顔をゆがめ、青い剣をゆっくり鞘におさめます。
「父上……わたしに力を……」
「人はいつも悪を善で覆う。おまえとの約束など、なんの価値がある」
「……わたしの旅は……ああ、こごえてしまうほどに寒い……」
「我のいるこの座を見ろ。血で汚れた白い大理石の玉座を。遠いむかし、領域を統べる強大な王は君臨し、民に裏切られ、滅びた」
王子さまの体はみるみる乾き、干されきったわら束にかわってゆきます。
「干しわらの王子、絶望のうちに座するがよい。眠れぬ王のように」
王子さまは考えるのをやめてしまいました。祖国、父と母、友人、山からふく森のにおいのするここちよい風、つめたくさわやかな川、小鳥のさえずり、きらきらした朝と星いっぱいの夜。王子さまにとって明日はもう楽しみではなくなったのです。すべてのものがつまらなく思えたのですから。
「どうか……どうか、わたしを助けてほしい」
心までカラカラになった王子さまはそうつぶやくと、吸いよせられるように王座の前に立ちつくし、ついには力なくすわってしまいました。干からびた手をだらりとさげ、王の間を見おろしますが、そこにはただ闇しかありません。
「幕は……おりてゆく」
影はいつのまにか消えさっていました。風車はかわらずゴオンゴオンと音を立ててまわっています。ただひとり、干しわらになった王子さまをのこして。
見つからない本と中庭
鏡よ鏡。このおはなしのおしまいはなあに?
女の子の菖蒲は窓のむこうで顔をよせるアヤメにそう問いかけました。
大きなビルの五階にある、こじんまりとした図書館は、お気にいりの居場所です。
赤いくつをぬぎ、いつもの丸いベンチソファにすわり、書棚と書棚にはさまれて、本を読んでいました。
小学校が休みのある日、高学年の菖蒲は濃紺のそでなしワンピースと白いパフスリーブのブラウスを着て、お姉さんといっしょにやってきます。
きょうはどうしても見つけたい本がありました。それは、あかね色の表紙に金の題字で『干しわらになった王子さま』という本です。
「わらにされた王子さまはだれにも助けられず、いきなりおしまいって、なんてへんてこなのかしら。ぬけてるページもあるし、のこりもぜんぶ白紙。それに、王子さまとの約束って……」
菖蒲はそうつぶやいて、つまらなさそうに本を書架にもどしました。
けれど王子さまの本がどうにも頭から離れません。それでまったくおかしな物語について宿題の読書感想文でまとめようと考えました。ところが、いくら探しても見つからず、検さくしても受付に聞いても、そんな本はないと言われます。たしかに棚から選び、ひらいて読んだはずなのに……
じつはもうひとつ、ふしぎな秘密がありました。といっても、それは図書館ではないのかもしれません。でも菖蒲だけは秘密に気づいてしまったのです。それで、こんどは見つからない本を探すより、新しく見つけた秘密のほうが気になってしかたありません。
丸いベンチソファにひざをつき、窓わくに手をかけ、外をじっと見つめる菖蒲に、お姉さんはずんずんちかづきます。
「アヤメ!」お姉さんはおこって言います。「あなたが本を借りたいってきたのに、窓ばっかりながめて。みんなでお昼ごはん食べる約束でしょ。もう帰るわよ!」
「ねえねえお姉ちゃん、窓をのぞいてみて。あのお庭、扉がどこにもないの」黒い瞳をキラキラかがやかせ、菖蒲はビルの一階にある中庭に目をやります。「なのに、ねえほら! あそこの木のそばに白いぼうしをかぶった人がいるわ。庭のお手入れをしてるのかしら?」
うす暗く青みがかった長方形の中庭は壁にかこまれ、たしかに出入りするための扉はありません。ビルのこちらとあちらの壁にそって赤い実をつけたリンゴの木がそれぞれ三本ずつ、それに庭一面にびっしりとはられた芝生のまん中には白い井戸がありました。庭師がひとりで管理しているのでしょうか、リンゴの木にそれぞれ手をふれます。
「あっ! こっち見た!」
菖蒲は身をのりだし、目を丸くします。はじめて見る人なのに、どこかであったような、なんだかなつかしい気もちがこみあげました。
「どうやって扉のない中庭に入ったのかしら」
しかし、なにも返事はありません。
「お姉ちゃん?」
ふりむくと、うしろにいたお姉さんはこつぜんと姿を消していました。
「もう! ちょっと見てただけじゃない。だまって帰らなくたっていいのに」
長い黒髪をかきあげ、むすっとしながら図書館を出てエレベーターの前に立ちます。ところが、下にむかうボタンをいくらおしてもかごはやってきません。上のボタンも同じです。エレベーター乗り場ドアの上部にならぶ表示灯も消えています。メンテナンス中なのでしょうか。
「まったく。きょうはついてないことばかりね!」
菖蒲は深いため息をつき、しかたなく内階段にむかいました。
アリ隊列
「おい1051バン! レツをミダすな!」
エレベータ横のおどり場のどこからか、ひそひそばなしが聞こえてきます。
「1049バンがススまないからさ」
「オレはマエにならっている、1050バン」
菖蒲は耳をそばだて、あたりを見まわします。
ザッドドザッドド、ザッドドザ。ザッドドザッドド、ザッドドザ。こびとのような声はリズムあふれる歌へとかわりました。
イッソげ! イッソげ! ジョオウのモトに
スッスめ! スッスめ! ジョオウへレツを
ハタラけ! ハタラけ! ジョオウのために
ハッコべ! ハッコべ! ジョオウにチエを
くり返される歌は菖蒲の足もとから黒えんぴつの点線のように、図書館のほうから内階段の下へとつづいています。
かがんで顔をちかづけてみると、なんとアリの隊列ではありませんか。足なみそろえ、あっちに行ったりこっちに来たり。こんなところでなにをしているのだろうと、菖蒲はだまって観察してみました。すると、おもしろいことがわかりました。アリたちはちいさな紙片をせっせと運んでいたのです。
ハキリアリは葉っぱを切って巣に持ち帰るという話は本で読みましたが、紙を集めるなんて聞いたことはありません。そんなものを運び、いったいなにをするつもりなのでしょう。菖蒲の好奇心の水がめはあふれるほどで、思わず目のまえにいるアリたちに声をかけてしまいます。
「こんにちは、アリさん。わたしはアヤメ。アリさんたちはなぜ紙きれを運んでいるのかしら。巣にもち帰ってなにするの?」
しかしアリたちは菖蒲の言葉など知らんぷりです。それでよけい、アリたちについて知りたくなりました。こんな懸命なのですから、働きアリはよほどの理由があるにちがいありません。
菖蒲は、なにももっていないアリ隊列の先頭を追ってみることにしました。
アリたちのとなりをはって図書館へもどり、貸出カウンターをぬけ、児童書のならぶ書棚にむかって進みます。
「ああああっ!」
菖蒲の目はぱっちりひらき、図書館にいるのをすっかり忘れて口からサイレンがもれますが、すぐに手をあてます。でも図書館には人がだれもおらず、注意されたり、ひややかな視線を感じたり、せきばらいされる心配もありません。
菖蒲が声をもらすほどおどろいたのは、そんな規則にがんじがらめのオトナたちにではなく、アリたちの運んでいた紙片がなにかわかったからでした。
なんとアリたちは『干しわらになった王子さま』の本にむらがり、ページをかじってはこまかくしていたのです。菖蒲の眉間にしわがよってきました。ずっと探していた本なのですから、とうぜんでしょう。
「あなたたち、本をこんなにしてダメじゃない!」
菖蒲の怒号もなんのその、工事現場の横をするりとぬけるようにアリの隊列は見むきもしません。それで菖蒲式大型クレーンはガバッと本を取りあげ、こびりついた黒い土砂をぶっきらぼうにふるい落とします。
「おい、ナニをするのだ! ワレワレのシゴトをウバうつもりか」アリは菖蒲の周囲にわらわらと集まり、いっせいに抗議します。「そうだそうだ!」
「ちがうわ。あなたたちはだいじな本をこわそうとしているのよ」
アリたちはそんなの知るか、といわんばかりに自信たっぷりにこうこたえました。
「これはジョオウのメイレイである。ジョオウはカシコくなるため、ホンのカミでマクラをヨウイするようメイじられた。ワレワレのジョオウにサカらうつもりか」
「ええ、そうよ。だれがなんていおうと、まちがえているに決まってる」と、菖蒲はかんかんです。
「本はちぎったり、まくらにするためのものではないもの。それにね、本をまくらにしても賢くならないんですからね」
「ははあ、ワかっていないのはキミのほうだ」と、監督アリは偉そうに言います。
「ワレワレにとって、これがなんであるかがモンダイではなく、ハコぶことがジュウヨウである。それとも、キミはワレワレにメイレイできるケンゲンをモっているのかね?」
「そうだそうだ!」と、ちょっぴり偉そうな作業アリはうしろでさわぎます。
「まあ!」菖蒲はほとほとあきれます。「わかったわ。じゃあ、あなたたちの女王さまにすぐつたえてちょうだい。この本はわたしが借りたかったの。あなたがまくらにしようと考える前からってね」
「だから、ワレワレには『ジョオウにツタえる』というシゴトはナいのだ」きっぱりと言う監督アリ。
「それはワレワレではなくデンタツアリのシゴトだな」と、作業アリ。
「ワレワレワレワレうるさい!」菖蒲はこぶしをワナワナふるわせ、どなりつけます「どうでもいいからさっさと女王につたえてきなさい!」
菖蒲の口からいきおいよく噴出する熱風にアリたちは飛ばされないようはいつくばり、ブルブルふるえ、かたまってしまいますが、ハッとなり、たがいに見つめ、顔をあわせながらひそひそ話しあいます。
「おいおい、なんてこった」
「あのでっかいのはジョオウよりコワいぞ」
「いやいや、ジョオウはあんなカイブツよりずっとヤサしいおカタさ」
「あんなキショウのアラいブシツケカイブツ、ワレワレのアゴだってカナわない」
「はあ?」青筋を立てたカイブツはアリたちを見おろします。
「ショ、ショウチした」
さきほどまでの強気な態度はどこへやら、アリたちは軽くせきばらいをしてから言います。
「ではトクベツにジョオウにツタえよう。しかし、なにが……」
「なぁ、にぃ、がぁ?」菖蒲はゆっくりと力をこめて言います。
「ゼ、ゼ、ゼンイン、イマスグタタタタイキャーク!」
アリたちは怖くてたまらなくなり、紙片を投げ捨て、雲の子をちらすように逃げさりました。
一匹みだれると、ほかのアリもなにごとかと、整然としていたアリ隊列はめちゃくちゃになり、のこされたのはひとすじの紙片だけになりました。
菖蒲は落ちている王子さまの本をわきにかかえると、腰をまげ、ちぎられた紙片を一枚一枚ていねいにつまんでは本におさめ、図書館をでて、おどり場までもどります。紙片はそこでぷつりととぎれていました。
「よかった」と、菖蒲は首をかしげながらも、ほっとして言いました。「かがんで歩かなくていいのね。でもいつか女王アリに会ったら注意しなきゃ。本をこんなにしてはいけないって」
そんなアリたちとやがて再会するのも知らず、菖蒲は腰をトントン手でたたき、ぐっとのばしてから階段をおりていきました。
下に上がる階段
すみからすみまで探したはずでした。
学校がおわるとまっ先に図書館の新刊コーナーにむかい、新しい本をかかさず見ていましたし、書架のどこにどんな本があるかもすべておぼえていたほどです。司書のお姉さんに、わたしより知っているとほめられたのはちょっとした自慢でした。
「それなのになんで、見つからなかったのかしら」
菖蒲はボロボロにされた本についてあれやこれや考えていると、ふとおかしな変化に気づきます。
灰色のつめたいコンクリートだった内階段が、いまはまるで古い洋館のような、あたかみのある電球色に照らされ、ざらざらとした乳白色の壁、なめらかな曲線をえがいた木製手すりがついた階段になっているのです。
もしかすると改装したのかもしれませんし、いつもはエレベーターを使っていたので、気にしていなかっただけなのかもしれません。でも、しばらくおりているとこんどは、カサカサ、ノッソリ、ノッソリ、カサカサ、ノッソリ、ノッソリ。
菖蒲が目を下にやるとカメがゆっくりとふみづらを歩いています。カメの足の長さで階段などおりられるのでしょうか。そもそも、なぜこんなところに? 菖蒲はカメをじっくりながめていましたが、地面にへばりつき階段をせっせと進む姿があまりにおかしくて、すわって話しかけることにしました。
「こんにちはカメさん、わたしはアヤメ。あなたはなぜここにいるのかしら?」
カメはピタリと止まり(もっとも、うごいているようにも見えませんけど)首をにゅうっとだして、ねむたそうな目をこちらにむけます。
菖蒲はカメがのんびりやさんであるのをよく知っていましたので、こたえを待ちました。
するとカメの口はゆっくりひらき、とてもちいさな声で話しはじめます。
「かのじょは……いたずらずきなのだ……わたしは……いたずらに……つきあっている」
菖蒲はあたりを見まわし、首をかしげます。
「あの、ここにはだれもいませんよ」
するとカメはふたたび階段のほうに頭をゆっくりともどします。かのじょのいたずら、とはなにか、とても気になりますが、のんびりなカメと話していたら明日になってしまうでしょう。
「さようなら、カメさん。わたしかえらないと」
菖蒲はあふれる好奇心を胸にしまい、立ちあがってカメに手をふり、わかれました。
「きっとどこかで待っているお友だちがいるのね。ふふっ、いつになったら会えるのかしら!」
くすりと笑い、しばらくいくと、カサカサ、ノッソリノッソリ。またカメです。
しかもさきほどのカメとそっくりで、やはり階段をおりようと歩いているではありませんか。さきほど歩いていたカメの彼女かもしれない、と菖蒲は思います。
「こんにちは、カメさん。上であなたを探しているカメさんがいましたよ」
するとカメは菖蒲にむかってのんびりと頭をのばし、じいっと見つめ、ゆっくり話しはじめます。
「かのじょは……いたずらずきなのだ……わたしは……いたずらに……つきあっている」
「あなた、もしかしてさっきのカメさん?」
カメはそっぽむいて、なにもこたえてくれません。
菖蒲はまたわかれをつげて階段をおりましたが、おなじカメはいて、トコトコぐるぐる、トコトコぐるぐる、いくら階段を下へ下へと進んでも、カメと出会います。まるでいつまでもカメに追いつけないアキレスのように、菖蒲がどれだけがんばってもカメより先に階段をおりられないのです。
それでこんどは階段をのぼってみましたが、やはりカメのいるおどり場についてしまいます。
階段を上がったり下がったり、下がったり上がったり。菖蒲は目がまわり、ヘトヘトになって、ついにカメのそばにドスンとすわりこんでしまいました。
ここは何階で、階段を下がっているか、はたまた上がっているのか、カメに聞きますが、あのこたえしか返ってきません。しかたがなく菖蒲はほおづえをついて、しばらく考えてみました。
まず彼女とはいったいだれなのでしょう。
「かのじょのいたずらにつきあっている、ということはカメさんはいま、そのいたずらをされているわけよね」
菖蒲はあたりを見まわします。
「でも、わたしにはかのじょが見えないわ。じゃあカメさんがされているいたずらとはなにかしら」
こちょこちょ、ぺんぺん、なでなで、ぐりぐり……思いあたるいたずらを考えてみますが、カメはなにもされていません。いたずらさえわかればきっと彼女が何者なのかわかるはずなのに。菖蒲はカメと一緒にのんびりと考えます。なにかヒントはあるでしょうか。
「そっか!」
菖蒲の大きな声が階段中にこだまします。
「かのじょはわたしにもいたずらをしていたのよ。だっていくら階段を下がっても上がっても、カメさんのいる階にもどってしまうんですもの。だから、かのじょは階段そのもののことね!」
そう、菖蒲はカメと彼女のいたずら、つまり下に上がり、上に下がる階段につきあわされていたのです。いたずら好きの彼女は、やってくる人をそうしてこまらせていたのです。もちろん、だれも喜ばないので、階段にちかづく人はだれもいなくなってしまいました——カメをのぞいて。カメにはいくらでも時間がありましたし、このいたずらには相性ピッタリだったのです。のんびり屋のカメは、いたずら好きの階段にアリアドネという女の子の名前をつけてあげました。それでカメは彼女と言ったのです。アリアドネは名前をつけられて、とても喜びました。そのかわりにひとつだけ、カメと約束しました。もういたずらをしない、と。
「アリアドネは約束をやぶって、わたしにいたずらをしたの?」
するとカメは首を横にふり、菖蒲が手にしているあかね色の本をポンポンたたきました。
「これ? なぜこの本が関係あるのかしら」
こんどはゆっくりとカメは階段の下をさしました。
階下のおどり場の壁には、さきほどまでなかったカカオたっぷり板チョコのような扉があります。アリアドネは菖蒲に進まなければならない、道しるべの赤い糸をたらしてあげたのです。
「もしかして、わたしが行くの?」
カメは、はっきりそうだとうなずきましたので、菖蒲は立ちあがり、扉にむかいます。
「うんわかった。ありがとう、とても楽しかったわ」
菖蒲はカメとアリアドネに手をふり、はがれかかった金メッキのノブをまわし、扉をそおっと開けます。さきは暗くてなにも見えません。おそるおそる部屋に足をふみいれると、菖蒲の体はあっというまに闇の中へすいこまれてしまいました。なんと床がすっぽりぬけていたのです。ダークチョコレートの扉が菖蒲をぱくりと飲みこんで喉を鳴らし、閉じてなくなります。
そんなようすをじいっとながめているのかいないのか、カメはカサカサ、ノッソリノッソリ歩きだしました。彼女のいたずらにつきあうために。
底なし部屋
もし、ここがあかるい部屋だったなら菖蒲はどんなにかこわい思いをしたでしょう。でも室内はまっ暗、いつまでたっても着地しないので、まるでういているように思えました。
「これなら空からおっこちるのも、海底にしずむのだっておなじね」
あっけらかんとしていますが、ひとつ悲しいことに、せっかく見つけた王子さまの本をすべり落としてしまいました。働きアリのやぶった紙片はひらひらと舞いちり、のこったページもするするほどけ、底なし部屋のずっと下で星のようにちかちかとかがやきます。
「まあ、なんてきれいなのかしら。宇宙旅行をしているみたい」
菖蒲はうれしくなって『ちいさな星の歌』を口ずさみました。
ティンクル ティンクル、ちいさな星よ
あなたはだあれ?
世界よりずっと、ずうっと遠く
夜空にちらばるダイアモンドみたい
ピカピカ太陽はさってゆき
あかりがみんな眠るとき
ちいさなあなたはキラキラと
一晩中わたしをてらしてる
ティンクル ティンクル、ちいさな瞳よ
あなたはなんてステキなの
歌いながら手足をばたばたさせたり、すいすい泳いでみたり。そんな姿があまりにおかしくて、おなかをかかえ、笑います。すると魚のむれは菖蒲にちかづいてきて、まわりをぐるぐるかこみ、こうたずねました。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 魚さんたち」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」魚たちは尾びれをぶんぶんふります。「でもぼくたちが泳げるってことは、ぜったいに海だね」
「なるほど。でも下を見て。星がかがやいているの。海に星はあるのかしら?」
「なんと!」魚たちは菖蒲のさすほうをいっせいにのぞくと、たいへんおどろきます。「これは知らなかった。もしかして深海に住むものたちだろうか。なあみんな、たしかめにいこうじゃないか」
そう言うと竜巻のようにぐるぐるまわる魚たちは、光る底にいきおいよくむかい、菖蒲は魚たちに、ばいばいと手をふりました。
だれもいなくなると、つぎに翼をぐんとのばしたわたり鳥のむれがV字編隊で菖蒲にちかづきます。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 鳥さんたち」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」わたり鳥たちは翼をパタパタはばたかせます。「でもぼくたちが飛べるってことは、ぜったいに空だね」
「なるほど。でも下を見て。星がかがやいているの。地上に星はあるのかしら?」
「あれは街のあかりさ」鳥たちは口ばしをゆらして笑います。「夜間飛行でよく見かけるもの」
「じゃあ、あちらを見て」と、菖蒲はあおむけになって上をさします。「ほら、なんにもないわ。もしここが夜空なら満天の星がちらばっているはずよ」
「なんと!」わたり鳥たちはたいへんおどろきます。「これは知らなかった。ひょっとするとあつい雲で見えないのかもしれない。よおしみんな、たしかめにいこう」
先頭の鳥が翼を広げてふわりと上昇し、つづいて前から順にわたり鳥たちは上方の闇へと消え、菖蒲は鳥たちに、ばいばいと手をふりました。
だれもいなくなると、こんどは流れ星が光のつぶをパラパラまきながら菖蒲のところにやってきて、こうたずねます。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 流れ星さん」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」流れ星はくるくる光の尾を引きます。「でもぼくが飛んでいるってことは、ぜったいに宇宙だね」
「なるほど。でも下に星がかがやいているのに上はまっ暗なの。宇宙はどちらにも星があるはずよ」
「いいやアヤメ、宇宙には星もかがやけない、常闇があるんだ」
菖蒲はそうかそうかとうなずいて、「流れ星さんの言うとおり、ここが宇宙なら、わたしは止まっているはずよね。わたしはなぜ下に落ちているのかしら?」
「なんと!」流れ星はたいへんおどろきます。
「それは知らなかった。アヤメがどこに落ちているのか、ぼくが見てみよう!」
菖蒲はかがやく底へ消えてゆく流れ星に、ばいばいと手をふりました。
ついに魚たちも、わたり鳥たちも、流れ星もみんないなくなって、菖蒲はぽつんとひとり、底なし部屋についてじっくり考えてみることにしました。
りんごはなぜ木から地面に落ちるのでしょう。雨はどうして雲から地上にふってくるのでしょう。そして、この部屋で本を手ばなしたとき、なんで菖蒲と本は落ちたのでしょうか。
「そもそも落ちているのかしら?」
菖蒲はずっと、暗い部屋でリンゴや雨のように落下しているとばかり思っていました。もちろん、本は下に落ちましたし、菖蒲もそれを見たのです。でも魚や、わたり鳥のむれも、流れ星ですら自分たちが落ちていると、言いませんでした。
「ここは空や海や宇宙であって、そうではない部屋ってことかな」
つまり、海にしずんでいるのでも、空から落ちているのでも、宇宙をただよっているのでもありませんが、魚が泳ぎ、鳥は飛び、星も流れるというわけです。
「そっか、引かれているのね!」
ついにひらめきました。菖蒲は見えない力に強くひっぱられていたのです。でも、いったいなにからでしょう? その答えはすぐにわかりました。『干しわらになった王子さま』の本です。底なし部屋で本をほおったとき、ちらばってきらめく星となり、菖蒲を招待していたのです。ぜひこっちにきてほしい、と。それがなぜかはもうすこしあとで知ることになります。
底なし部屋のからくりを知った菖蒲は、ためらわず星にむかって両手をさしのべ、本の招待を喜んで受けました。星にひかれるまま、白い光は菖蒲をつつみこみ、あまりのまぶしさに目を閉じてしまいました。
——————
ガサガサかわいた音を立て、やわらかいものにしずむと体がチクチクして麦わらぼうしのにおいがします。ほそくて黄色いストローをかきわけ、ひょっこり顔をだすと、わら束がたくさんつんでありました。
「ここは、どこ?」
菖蒲はなにがおきたのかわからず、しばらくぼーっとしますが、遠くのほうでゴトンゴトンという音が聞こえましたので、上方についた半開きの窓から外をながめます。
青空の下には金色の麦畑が一面に広がり、遠くでは建物についた大きな羽根が風をうけてまわっていました。
「風車だ!」
菖蒲は干しわらの王子さまの世界にやってきたのだとすぐにわかりました。胸はドキドキと高鳴ります。ここが本の世界だから、だけではありません。
なんと、干しわらの王子さまをおしりでふんづけていたのです。
キジ三毛のネコ
たくさんあるふくろからアタリを一回で引けるでしょうか。たとえば、いろんな味のキャンディーにひとつだけキャラメルがまざっていて、どれもまったくおなじつつみだとしたなら、どのように探しあてますか。もちろん、ひとつずつ開けてみるしかありません。
でも、菖蒲は山とつまれたおなじわら束から王子さまを一目で気づき当てたのです。なんでだろうと思うかもしれません。きっと菖蒲にもこたえられないでしょう。ただ胸がドキドキして、これは王子さまだとおしえているようでした。
ひとつ疑問がわきます。わら束にかえられた王子さまは、風車の地下室にある王座にすわっていたはずなのに、なぜ菖蒲のそばにいるのでしょうか?
「それは農夫がひろい、ここに投げていったからさ」
「だれ?」
菖蒲はどこからか聞こえる声に返事をします。
「こっちだよこっち」
広い納屋をあちこち見ると、正面の大きな両扉のそば、くま手を背にキジ三毛のネコがちょこんとすわっていました。
菖蒲はネコのそばにちかづこうと、つまれたわら山からおりようとしますが、なかなかうまく足をかけられず、きゃあと声をあげ、ずるずる落ちてしまいます。
「なあ、お嬢ちゃん。もうすこし静かにしてくれにゃいと。あいつが物音に気づいてやってきたらどうするんだ」
「ごめんなさい。わらの上を歩くのがこんなにむずかしいだなんて思わなかったの」
やれやれとキジ三毛ネコはため息をつきます。
「まあいい。それよりあのわらについてだ。お嬢ちゃん、あれがにゃにかわかるのか?」
「もしかして、あなたも王子さまだって知っているの?」
「あの小僧は王子だったのか」キジ三毛ネコはニヤリと口を広げます。「オレが風車でネズミを追いかけていたとき……」
キジ三毛ネコは白馬にのった王子さまが風車に入るのを見かけましたが、けっきょく、もどってくることはありませんでした。
「しばらくして黒い大蛇は風車から飛びだし、いきおいよく西にむかって消えたんだ」
おそらく王子さまと対峙した影だろうと菖蒲は考えます。
「ここの畑の農夫は風車の地下で青い剣と赤い宝石の首かざりをかけたわら束を見つけ、大喜びしていた。ごうつくばりにゃ農夫め。白馬もすべて自分のものにし、町で売りさばいて金にするつもりだぜ」
それを聞いた菖蒲はひとつ思いつきました。王子さまの帰りを待つ白馬に話しを聞けば、干しわらの王子さまについて、もっと知ることができるでしょう。
しかしキジ三毛ネコの言うとおりなら、いそがなければなりません。
「白馬さんはどこにいるのかしら。助けてあげないと」
「まあおちつけ。すぐに売ろうってわけじゃあにゃい」あわてる菖蒲にキジ三毛ネコは言います。
「馬は風車のちょうど裏手、農夫の家のすぐそばにある馬小屋につながれてる。にゃわで固くしばられてるからかんたんにはほどけにゃいぜ。青色の剣を使うといい。切れ味がいいからハサミがわりにちょうどいい、と農夫は喜んでた。剣は寝室にあるはずさ」
「わかったわ」キジ三毛ネコの話を聞いて、菖蒲はほっと胸をなでおろします。「でも、なんでわたしにいろいろとおしえてくれるの? あなたは農夫さんの飼いネコなんでしょ?」
「にゃにおバカな! オレはあんなやつに飼われちゃいにゃいぜ」キジ三毛ネコは不機嫌そうに目を横にそらします。「ただ白馬にかりがあるだけさ。大蛇はオレを……いや、まわりにあるものすべてのみつくそうとした。必死に逃げたが追いつかれ、もうおしまいかとあきらめかけた時、白馬はオレを口にくわえ、助けてくれたのさ」
「そうだったのね」と、菖蒲はキジ三毛ネコの黒い首輪にふれます。
キジ三毛ネコは首をぶるぶるふるわせ、すっくと立ちあがり、菖蒲のまわりを歩きだしました。
「そもそもあいつと契約したのがまちがいだった……」
キジ三毛ネコによると、農夫と仕事の契約を結んだのがはじまりでした。この土地にいるネズミを一〇〇〇匹退治するまでの条件で宿と食事を提供する、という内容です。しかし『退治するまで』という文言にまんまとだまされました。つまりネズミをすべて退治しなければ、農夫のもとから離れられないというわけです。なんと農夫はキジ三毛ネコと契約を結んですぐ、ネズミ捕りをそこらじゅうに置きはじめます。これではいつまでたっても退治できません。
「旅ネコのオレは気ままな自由が好きにゃんだ。おなじにゃわばりをまいにちウロウロするようにゃやつらとはちがう」
キジ三毛ネコは立ち止まり、うらめしそうにつづけます。
「ここもすぐ出るつもりだった。にゃのにあのいじわる農夫はだましやがった! はじめっからここでずっと働かせるためのわにゃだったんだ」
「にゃんてひどい人にゃのかしら!」と、菖蒲はネコみたいにまゆをしかめます。
「それでお嬢ちゃんにひとつたのみがある」キジ三毛ネコはじっとりした目つきで菖蒲をのぞきこみます。「あいつは寝室のどっかに、オレとかわした契約書をかくしたはずにゃんだ。それをもってきてほしい。あいつの目をぬすみ、にゃんどか探したが、どうにも見つからにゃかった。あの契約書さえ捨ててしまえば自由ににゃれるんだが」
「うん。さがしてみる」菖蒲は頭をたてに大きくふりました。
ちょうどその時、キジ三毛ネコの両耳はピクピクうごきます。
「まずい、あいつだ。かくれろ!」
ぎゅっぎゅと砂利をふみしめる足音が納屋の外からこちらにちかづき、やがてピタリとやみ、大きな両扉がゆっくり開きます。
菖蒲はおどろきあわてて、飛びこむようにつんであるわら束の影にかくれ、口に手をおしあてます。
「おいキジ三毛!」荒々しい男の声がします。「昼飯の時間だ。とっととこい!」
鼻からもれる息ですら聞こえてしまいそうな重苦しい沈黙。
「にゃ、にゃあ」
キジ三毛ネコのへたな鳴き声に笑いをこらえながら、菖蒲は農夫を見ようと、正面をそっとのぞきます。こちらにのびる人影を頭からたどり、扉の前にはウェスタンブーツにデニムのオーバーオールと白シャツ、麦わら帽子をかぶった、いかにもたくましい口ひげの男がどっしりかまえています。
菖蒲は口に手をあて肩をすくめます。
「おくれたらめしはないと思え!」と、大男は扉を乱暴にたたきつけて出ていきました。
「さぁて家にもどるとするか!」キジ三毛ネコは大きな声で言います。「あいつは昼飯がすんだらオレをつれて小麦を売りに馬車で街へ出かけるだろう。そうすれば家にはだれもいにゃくなる。玄関はカギがかかっているが、二階の窓はいつでもあけっぱにゃしでたすかるぜ。しかし泥棒がそばの木をのぼってこにゃいかしんぱいだよ。まあ夕方、暗くなるまえにもどるからいいか!」
それからキジ三毛ネコは農夫のあとを追い、扉のすきまから走りさりました。
納屋にひとりのこされた菖蒲は王子さまのそばにもどると、計画をアヤメと話します。菖蒲ひとり会議のはじまりです。
「まず王子さまをここからださなきゃ。だって、ほかのわら束と一緒にもっていかれたらたいへんよ」
「いい考え。でも、どこにかくせばいいのかしら」
そこらへんにほっぽって、だれかに盗まれたらいけませんし、動物にでもバラバラにされたらたいへんです。話し合いの結果、風車の地下にしました。きっとあそこに王子さまをもとの姿にもどすための手がかりがあると思ったからです。
「つぎに農夫さんの家のそばにある木をのぼって、二階の窓から寝室へ」
「青色の剣とキジ三毛さんの契約書を探す」
菖蒲はのぼり棒が得意でしたので、木のぼりだって問題ありません。
「それから馬小屋で、つかまった白馬さんをたすける」
「うん、これでよし!」
こうして菖蒲のひとり会議は万事うまくいきました。もちろん、頭の中ではいつだって順調に進むものです。菖蒲はまんぞくそうにひじをついて寝そべり、足をバタバタさせて窓の外をながめ、かんぺきな計画を実行する時を待ちつづけました。
菖蒲の計画
昼さがり、キジ三毛ネコの言うとおり、風車のむこうから荷馬車はでていきました。
菖蒲は見のがすまいと目で追いますが、まだ行動は起こしません。忘れ物を思いだして引き返した農夫とかち合いでもしたら計画は水のあわです。もちろん失敗などゆるされませんので、できるだけ慎重に行動します。
馬車がだんだんちいさく、地平線のかなたに消えたのを見て、あせらずゆっくり、「いち、にぃ、さん……」六十までかぞえてから、それ今だと納屋の扉をおしあけました。
どこまでも広がる新しい世界。ここちよい風はささっとふき、菖蒲の長い髪をゆらします。目をつむり、空気をいっぱいにすいこめば、どこか知らない異国のかおりを体いっぱいに感じます。
人生をかえてしまう物語がはじまる前兆。おさえきれない高揚を胸に目を大きくひらき、回転する大きな羽根にむかって、王子さまをかかえ、小麦畑の中へ走りだしました。
小麦畑をぬけると大きな黒い風車がどんとかまえています。羽根の音はまるでうなり声、さっき見た農夫がうでをくみ、計画をじゃまするため、立ちはだかっているように見えて菖蒲はたじろぎます。しかし、のんびりできる時間はすこしもありません。王子さまのため、ちいさなドン・キホーテは勇敢に風車へ突進しました。
風車の中は時計のように木製の歯車が複雑にからみあい、こすれるにぶい音、テンポよい打音でさわぎたっています。
「たしか本には地下につづく階段を探したとあったわ」
しかし、いくら見まわしても階段など、どこにもありません。
「探しまわった、ということは王子さまはすぐに見つけられなかった……つまり、かくし階段だったのよ!」
菖蒲はよつんばいになって木のゆかを一まいずつ指でなぞります。すると一か所だけ、ゆか板に金色の回転把手がうめこまれています。しめた、と金ぞくのつめをひっくり返し、四角く切りぬかれた板を持ちあげると、うす暗い地下へとつづく階段を見つけます。おりた先にはゆるく閉じた木製の古い扉からヒューヒューとすきま風がふきぬけていました。
「本に書かれたとおりね」
扉のむこうは風車の地下室とは思えない、オレンジ色のともしびがいくつもゆらゆらゆれる壮麗な王の間でした。今はなき強国の歴史の針はポッキリおれ、つもるほこりが長い時を知らせます。部屋の両わきにはいくつもの巨大な支柱がならび、中央ひなだんの頂点にすえられた玉座は天じょうからふりそそぐ光をあび、空位のまま、こちらをむいていました。
「まっていて。すぐにもどるから」と、菖蒲は王子さまを玉座にのこします。
最初の任務をぶじに終え、外でふうっと一息つき、すぐつぎの計画にうつります。風車の裏手にまわると、よく手入れされた庭のさきにわらぶき屋根の家、となりには馬小屋が見えました。
菖蒲は門をくぐり、色とりどりの花がさきこぼれる庭を足早にぬけて、家によりそうブナの木で立ち止まります。それからくつとくつ下をぬいで木の根もとにかくしてから、うねる木にしがみつき、ぐいぐいのぼります。屋根裏の窓にせり出た太い木の枝を毛虫のようにくねくねとつたって進み、窓に手をかけようとした時、思わず地面を見てしまい、あまりの高さにめまいがします。
「やすんでるひまはないのよ、アヤメ」
菖蒲は下をのぞかないよう顔をあげて呼吸をととのえ、ゆっくり腕をのばすと、なんとか窓はこちらにひらきます。
「だいじょうぶ、わたしは飛べる。だいじょうぶ、わたしはあっちに飛べる……」
そう言い聞かせ、太い枝に手をあててふるえる腰をあげ、こずえに足をつけます。
「鳥のように飛べる、チョウチョのようにまうのよ……!」
ケムシはサナギに、そしてチョウとなってはばたくように菖蒲はいきおいよく窓に飛びうつります。
木の枝はたわんでバサバサ葉をちらし、ヒバリもなにごとかと空へ逃げていきました。
そして、どすんと重いものがぶつかるにぶい音。
「いったぁぁい!」
屋根裏部屋からほこりがもくもくとけむりのようにあがり、斜光でかがやきます。
「アヤメチョウ……ちゃくりく……しっぱい」
菖蒲は赤くなったおでこを手でおさえ、ふらふらと天じょうの低い屋根裏をおります。
かまどや壁にぶら下がる鍋におたま、きれいに整とんされた食器棚のある台所にでると勝手口、居間そしてべつの部屋につながるろうかにわかれています。菖蒲はまよわずろうかを通り、サニタリールームをすぎて扉につきあたります。
扉の把手に手をかけると菖蒲の胸はうずきます。人の家にだまって入るのはわるいことですし、部屋となればなおさらです。もしも知らない人に寝室をいじられたら、と考えはじめると、よけいに心は痛みます。でもここで引き返せば王子さまを助けられませんし、キジ三毛ネコもあのままです。
小声で「ごめんなさい」と言い、把手をまわしました。
広い部屋には大きなベッドにつくえと棚、刺しゅうの入ったレースのカーテンから陽の光がうっすら差しこみ、よくみがかれたマホガニー製のつくえのそばに両刃の青い剣が立てかけられていました。
「なんてきれいなのかしら……」
剣を手にすると片手で持ちあげられるほどに軽く、美しい透明な深青のガラスはあざやかな青緑に色をかえます。ふしぎなことに剣から手を離すと剣はもとの青色にもどります。
菖蒲は計画を思いだし、キジ三毛ネコの交わした契約書を探そうと部屋を見まわします。
ところで計画というものはたいてい思いどおりにいかないもので、その時どきでなんとかしたり、あきらめたりするものです。菖蒲もできるだけうまくいくよう努力しますが、どうにもできない、やっかいな問題にあたってしまいます。
契約書のありか
王子さまの剣はすぐにわかりましたが、キジ三毛ネコの契約書はどのようなものか知りません。紙に書いたのか、それともほかのなにかでしょうか。
「キジ三毛さんにちゃんと聞いておくべきだったわ」
菖蒲はうらめしく思いながら、つくえの引き出しに手をかけた時、卓上にかざられたポストカード立てが目にとまります。真ちゅうの額の中では白いキャペリンハットをかぶった金髪の女が笑みをうかべています。
「この人どこかで……」
引き出しを開けても何通かの手紙だけで契約書らしい紙はなく、奥までのぞいてもからっぽですし棚にもありません。もしやキジ三毛ネコのかんちがいなのか、まさか探す部屋をまちがえたのか。時間だけは過ぎ、みるみる陽はかたむいてゆきます。
「どこにあるのかしら。アヤメ、おちついて探すの。きっとあるはず。どこかにふと置き忘れてしまった自転車のカギとおなじよ」
たった一枚の契約書を探すだけなのに、計画が進まないもどかしさを感じながら、そわそわと部屋中を行ったり来たり、引き出しを開けたり閉めたりをくりかえします。
するととつぜん、外から車輪のこすれる音が聞こえました。窓をのぞくと農夫が乗る荷馬車が見えます。
「ええっ! もう帰ってきたの?」
なんて最悪のタイミングでしょう! 部屋から出れば農夫と鉢あわせになります。菖蒲はあわてて隠れる場所を探します。棚は小さすぎて入れませんし、つくえの下ではおしり丸見えです。ベッドの中もふとんをめくられたらおしまいでしょう。
農夫の足音はずんずんと寝室にちかづいてきます。
「あぁぁぁ、まってまってまって!」あちこちに首をふりながら、あわてふためく菖蒲。
ガチャガチャガチャ。把手は小きざみにふるえ、ついに扉が開きます。大きな足はゆか板をきしませ一歩また一歩と窓ぎわへ、真ちゅうの額があるつくえの前で止まり、「ただいま」と、農夫のさびしそうな声が聞こえ、すぐに出ていきました。
静まり返った部屋で菖蒲はゆかに頭をつけ、大きなため息をもらします。
でもいったいどこに隠れたのしょう?
それはベッドの下です!
農夫が部屋に入る、もうすんでのところで、すべりこむようにもぐりこんだのです。
しかし菖蒲の計画はまたたくまにくずれさりました。ベッドの下から身動きが取れなくなってしまったからです。契約書をあきらめ、青い剣だけを持ちだそうにも、いつここから出ればよいのでしょう。農夫が家の外か屋根裏、それとも勝手口や居間にいる時に? そもそもいまどこにいるのかわかりません。もし窓の外からのぞいていたら……いくら計画をねり直しても、菖蒲の計算機は最悪な結果をはじきだします。
あれこれなやんでいるうちに寝室は暗くなり、出口の見えない不安はどんどん高まります。いっそ農夫の前に姿をあらわし、わけを話そうかとも考えましたが、強欲な農夫に鎖でつながれ、どこかに売りとばされるのではと考え、身がすくみます。菖蒲はうつぶしたまま、なにもできず、ついに夜をむかえてしまいました。
好機は深夜におとずれます。農夫はランプを手に、ふたたび寝室へやってきて、部屋全体をうっすら照らします。菖蒲は耳を立て、つくえにむかう足を目で追います。
「おやすみ、リリィ」農夫は真ちゅうの額にあいさつをして灯りをふき消します。
ベッドのきしむ音を聞いた菖蒲は大胆な計画をひらめきました。農夫がベッドで寝ている時、青い剣をこっそり持ちだそうと考えたのです!
菖蒲は農夫がぐっすり眠るのを待ちます。またたくまに過ぎた時間がこんどはゆっくりと、じれったく感じました。
農夫はベッドの上で、その下で菖蒲がウツボのように横たわるおかしな夜はさらに深まり、いまか、まだか、そわそわしていると、やがて大きな寝息が聞こえます。
さあ計画の再開です。菖蒲は音を立てないようベッドの下からもぞもぞはい出て息をころし、そおっと顔をあげます。ふとんにしずみ、ぐっすり寝ている農夫を見た菖蒲はひざをつき、そろそろと青い剣にちかよります。カーテンからもれる月の光をあびた剣は、まるで宇宙をかためた深い紺色のようで、つかむとあざやかな青緑に輝きます。
「んっんん」と、顔に手をあて、うめく農夫。
菖蒲は剣から手を離し、さっとゆかにふせます。農夫は寝がえりをうちますが、起きてはいません。
ところが立てかけた剣はバランスをくずし、すべるように倒れます。菖蒲は目をむいて、とっさに手をのばし———!
夜風は麦をこすり、窓ガラスにあたってカタカタ鳴らします。
ぎゅっと目をつぶり、息を止め、くちびるをかみ、ふるえる腕をのばして剣を支える菖蒲。
部屋中に聞こえそうなほど鼓動は脈打ち、片目ずつ開き、そおっと立ちあがり、ベッドをのぞくと農夫は……寝ています。
菖蒲は肩をなでおろし、ふたたび剣を手に、すり足で扉にちかづきます。
(お願い、どうか起きないで!)
頭の中で何度そう唱えたでしょう。かくれんぼや鬼ごっこ、学習発表会に合唱コンクール。できるかぎり思いうかべても、これほど緊張したことはありません。
菖蒲は息のつまる思いで寝室をぬけだしました。
しんとした戸外は丸い月が空にぷかりとうかび、小麦畑をやさしくてらしています。菖蒲は木の根もとに隠しておいたくつとくつ下を取り、いそいで馬小屋へむかいます。
干し草のにおいでみたされた馬小屋の奥には美しい白金の毛なみの馬が菖蒲を見つめていました。
「はじめまして、お嬢さま」白馬の高く澄んだ声。
そばにはギロリと目を光らせたキジ三毛ネコもいました。
「ごめんなさい、キジ三毛ネコさん。あなたのほしがっていた契約書は見つからなかったの」
キジ三毛ネコはぷいっと顔をそむけ、菖蒲はきまりわるそうに白馬にちかづきます。
「はじめまして、白馬さん。あなたに聞きたいことがあります」
「わたくしも、お嬢さまにお話ししなければなりません」
「オレもまぜてもらおうか」背後から男の低い声。
菖蒲の顔からみるみる血の気が引いていきます。おそるおそるふりむくと、寝ているはずの農夫が目の前に立っているではありませんか! 菖蒲は言葉をうしない、青い剣を両腕で強く抱きしめたまま、かたまってしまいます。
こうして菖蒲の計画はすべて失敗におわりました。
農夫たちの秘密
しょうじきに話し、あやまらなければ。
おびえる菖蒲は剣をわたそうと農夫によろよろちかづきます。
「けっして剣を手から離してはなりません!」
白馬は菖蒲を制止します。
「で、でもわたし、剣をぬすんだから……」
「いいや、あの白い馬の言うとおりに」
農夫はおだやかに言います。
「わたしはきみが家にいるのを知っていたんだ」
「ど、どういうことですか?」とまどう菖蒲。
農夫はにこりと笑い、「そこにいるネコがきみをだましたんだよ」。
「だましたにゃんてネコ聞きのわるい!」
「そんな、ひどいわ」菖蒲はまゆをしかめます。
「ごめんよ、お嬢ちゃん」キジ三毛ネコは悲しそうに言います。
ひとつだけわかりました。ここにいるみんなはすべて知っていましたが、菖蒲はおどらされていたのです。納屋でじっと待ち、木の上から家にしのびこんで契約書を探し、きゅうくつなベッドの下で恐怖にふるえ、やっとここまで来たのに。計画をめちゃくちゃにされてばかばかしくなり、菖蒲は腹がたってきました。
「なんなのよ、もう!」
「お嬢さま、どうかおゆるしください」白馬は菖蒲をなぐさめるように言います。「すべては闇に気づかれないためなのです。闇はあらゆるものを監視しています」
闇とは干しわらになった王子さまと対峙した黒い影だと白馬は説明します。自由自在にその姿を変えるため、つかみどころがなく、霧のように世界にたちこめているのです。
「青い剣はお嬢さまの手にある時だけ、とくべつな力で闇から守ります。その証拠に剣をごらんなさい」
菖蒲の手にある王子さまの剣は青緑に輝いています。
「わたくしの主人である王子は言いました。「おまえのもとにかならず娘がやってくるだろう。その子に剣をわたしておくれ」と。それがお嬢さま、あなたなのです」
「それなら、はじめから言ってくれればいいのに」菖蒲はほおをふくらませます。
「できればそうしたかった」と、農夫は言います。「でも王子のいう女の子はどこからやって来るのか、どんな顔なのか、まったくわからなかった。それに、わたしたちの味方になるかどうかも知る必要がある。しかも闇に気づかれないようにね。だからいじわるしようとたくらんだわけではないんだ」
「だ、か、らぁ、オレはごうよくにゃ農夫にだまされた、あわれにゃネコってわけ!」キジ三毛ネコは鼻息をあらくして言います。「それに肉球印の契約書はちゃあんと寝室にあったんだぜ。ポストカード立ての裏に、ね」
「ええっ」菖蒲はあきれたように言いました。
「きみが約束と秘密を守るかどうか試してみたら、わたしたちが思っていたよりもずっとすてきな女の子だったんだ」と、農夫は言います。「それにしても寝室に入った時、だれもいなくてあわてたよ。まさか夜中にベッドの下から出てくるなんて」
「ほんとうに、どうしていいかわからなかったんですもの!」
菖蒲の顔はまっ赤にそまり、みんなくすくす笑います。
すこしだけ、ほっとした菖蒲は図書館からやってきたこと、本に招待されて納屋に落ちてきたことをかくさず話しました。
「なるほど。わたしたちの領域のものではないのか」農夫は口ひげに手をあてます。
「お嬢さまには理解しがたいかもしれませんけれど」と、白馬は言います。「わたくしたちの領域で約束は力をもっています。重い約束ほど力は強く、約束を守らなければ大きな代償がともないます。王子の剣の力も約束によるもの」
「そうだったのね。でも、だれの約束なのかしら」
「ちょっと待った」農夫は用心深げにあたりを見まわします。「夜ふけに長居は危険だ。つづきはまた明日にしよう」
農夫は手まねきをし、みんなちいさく輪になって集まります。
「いいか、よく聞くんだ。これから闇に気づかれないよう、ひと芝居うつ。女の子は白馬を助けようとするが農夫に見つかり家につれこまれ、おどしつけ、ここで働く契約を結ばせる、という台本だ。剣をこちらにわたしたらすぐ開演する」
みんなこくりとうなずきます。
菖蒲が農夫に青い剣をさしだそうとした時、みんなは菖蒲の前にならびます。
「わたくしの名はアルビレオ。王子につかえる馬です」と、白馬のアルビレオはおじぎします。
「おれのにゃはモルト。山あいの国の王につかえる伝達役のネコさ」と、キジ三毛ネコのモルトはおじぎします。
「わたしの名はグレエン。山あいの国の王につかえる風車の監視役です」と、農夫のグレエンはおじぎします。
みんなの名前を知ると菖蒲の胸はふわっとあたたかくなり、勇気もわいてきました。
菖蒲は目をかがやかせ、仲間たちにこう言いました。
「わたしは王子さまに招待されたアヤメです」
観客のいない芝居
お芝居はじつにみごとなものでした。もし観客がいたなら立ちあがり、万雷の拍手をおくったにちがいありません。
「どうかおゆるしくださいませ!」
泣きじゃくる少女役のアヤメ。
「げっへっへ。こーんにゃところにいやしたぜ、だんにゃ」
うらぎり役のモルト。
「この契約書にサインしろ。さもなきゃ町で売りとばしちまうからな!」
強欲な農夫役のグレエンはアヤメのうでをつかみ、居間に引っぱります。
「なんでもいたします、どうかおたすけください、ご主人さまぁ!」
「にゃんでもするとは、いい度胸してやがるぜぇ!」
迫真の演技にテーブルで顔をあわせると、みんなうつむき、肩をふるわせます。闇が監視しているといっても気配はなく、まるで観客のいない劇場で本番さながら歌いおどるプリマドンナのようだったからです。こんな真夜中に、みんなでいったいなにをしているのでしょう。あまりにもおかしくて笑いをこらえきれません。
契約書を結ぶ場面までひととおり演じ、農夫はウツボの住むらしい、うわさの寝室で寝るようアヤメに命令しました。
「いいか! もし逃げたりなんかしたら、ただではすまさんぞ。モルト、こいつを見はってろ!」
グレエンは寝室から出ていき、菖蒲はしょんぼりベッドにもぐります。毛布とふんわりしたまくらからはモクレンのいいにおいがします。
「ねえモルト、ここはグレエンのベッドでしょ……」
「アヤメ、あいつのことは気にすんにゃ。あしたからはいそがしくにゃる。早く寝ろ」
そばでぐるりとまるまったモルトは目をつぶります。
「うん……ありがとう」
探していた本を女王に運ぶアリや下に上がる階段のアリアドネとカメ、底なし部屋に落ちれば魚やわたり鳥に流れ星。干しわらの王子さまのもとにやってきて、お芝居までしています。おどろくような物語に興奮しっぱなしの菖蒲は、まだまだ起きていたかったのですが、目を閉じると深い眠りに落ちていきました。
つぎの朝。やわらかな太陽の光は早く起きてと菖蒲の顔をなでます。大きなあくびをしてからカーテンを引き、窓の戸をいっぱいに開くと、さわやかな風がすうっとふきぬけ、菖蒲の髪はさらさらなびきます。
「やっぱり夢じゃないんだ……なんてセリフ、ぜったいに言わないわ。だって、夢でもそうでなくっとも、すてきなお話しはいつまでも見ていたいもの」
菖蒲は体を思いきりのばし、青空を雲といっしょに丸ごとすいこみました。
「アヤメ、あいつからの伝言だ。「風呂をわかしておいた。そこに新しい服も置いてある。着がえたら庭にこい」」
モルトはそう言ってあいさつもせず、外へ走り去ってしまいました。
「そっか、おしば……」菖蒲はすぐ口に手をあてます。
ラベンダーの香るサニタリールームは花がらのトルコタイルでいろどられ、真ちゅう蛇口のついた洗面台と奥のバスルームには白くてなめらかな卵型のバスタブが見えます。
「まあ、なんてすてきなのかしら」菖蒲は声をあげ、すぐに服をぬぎ、色とりどりの花をうかべた湯につかります。「ああ、ジャスミンのいいにおい。人生最高のお風呂ね」
おりかさなるふわふわのタオルを広げ、ぬれた体をふいて服を着がえ、軽やかな足どりで庭にむかいました。
庭の四つ辻のちょうどまんなかに立つガゼボでグレエンとモルトは待っていました。ダマスク織りのテーブルリネンがしかれた丸テーブルには焼きたてのパンと野菜スープ、プレートにはオムレツとサラダ、ピンクのティーポットまでならべてあります。
つばの広い白いぼうしをかぶり、レースのワンピースの菖蒲はくるりとまわり、グレエンはやさしい農夫の顔になります。
「服ぴったりでよかった。ぼうしはすこし大きいかな」
モルトは大きなせきばらいをします。
グレエンはすっと立ちあがり、菖蒲のイスを引きます。
「ありがと……」
グレエンは大きなせきばらいをします。
モルトは笑いながら、「ふたりともダメだにゃあ。芝居をわすれ……」
菖蒲とグレエンは大きなせきばらいをしました。
「アヤメにはこの庭の手入れをしてもらう」
おいしい朝食とお茶をしかめっつらで楽しんでいると、グレエンは言いました。
「わたしにできるかしら」
「もちろんできるさ。リリィのだいじにしていた庭だからね」
そう言ってグレエンは庭の草花について話し、菖蒲は図書館で草花の図鑑やガーデニングの本を思いだしながら聞いていました。
「ご主人さま、むこうの畑はなにもしないのですか?」
菖蒲は遠く納屋のまわりに広がる小麦畑を見て言います。
「ああ、あそこは……うん、気にしなくていい」
「そうですか」
すぐにも収穫できそうな、たわわにみのる小麦を気にしなくていいだなんて。菖蒲はすこしふしぎに思いました。
「それよりアヤメ! はやくメシ食べて庭いじりしよう! チョウチョ追いかけて穴ほりするんだ」
「ねえお仕事なのよ、モルト」
「そうさ、ネコの仕事はいつものんびりいそがしいもんなんだ」モルトは自信たっぷりに言いました。
夕食後、農夫は白馬が脱走していないか、馬小屋の見まわりをするよう菖蒲に命令します。農具にまぎれた青い剣をさりげなく手に持つとみんな集まり、馬小屋会議の始まりです。
「むかし、ひとつの大きな国がありました」と、アルビレオは語ります。「それは領域を統べるほど強大な王国で、王の支配により雲にまでとどくほど高い建物が林立し、たくさんの人を速く運ぶ乗り物、どこでも話せるべんりな機械など、生活を豊かにする技術はまたたくまに進歩をとげました。ただ不信という種もまきました。ちいさな疑いは根を広げ、やがてゆがんだ芽をだします。それぞれ正しいと思う話に花が咲き、たくさんの正義の実を生みました。すると都市には城壁が、家には何重ものカギがかけられるようになりました」
「そのような時、わたしたちの祖先はある秘密を知り、だれも知らない山あいにうつり住むようになりました」と、グレエンは言います。
「ある秘密とはなんですか?」
「王国の繁栄には裏がありました。領域を統べる王は闇、つまり影と手をくんでいたのです。しかし長くはつづかなかった」
「たったひとつの嘘から平和はうしなわれ、領域全土に荒廃をもたらす大きな戦争がおきました。この領域の栄枯盛衰の歴史です」と、アルビレオは言います。
「オレの国もその戦争でなくなったんだ」モルトは悲しげに言いました。「約束が力をもったのはそれからさ」
菖蒲はモルトを抱えあげてほおをよせ、『干しわらになった王子さま』の話しをみんなに聞かせました。
「なるほど、そんなことが……」グレエンはすこし考え、言います。「わたしが風車の地下に行った時は、倉庫に赤い指輪をかけたわら束と青い剣しかなかった」
「でも王子さまを置いてきたのは、たしかにお城の王座よ」と、菖蒲は言います。
「おそらく」グレエンはあごに手をあてます。「王子がわらになったのはアヤメさま、あなたと関係あるのかもしれません」
「会ったことも、話したこともないのに?」菖蒲はおどろきます。
「きのう、約束の力について話しましたね」と、アルビレオは言います。「青い剣はアヤメさまが手にするととくべつな力を発揮しました。つまり、王子はアヤメさまをまじえた大きな約束をだれかとしたのではないでしょうか。それでわらとなった」
「そっか」と、モルトはあいづちを打ちます。「だからアヤメさまだけオレたちの行けない王の間に行ける、というわけか」
「わたし、王子さまをもどす方法なんて知らないわ」菖蒲はうつむきます。「それに王子さまはなぜわたしを知っていたのかしら」
「知らないといえば、ひとつ気になるんだ」グレエンはモルトを見て言います。「王子の友人でヘレムなんて名の子ども、山あいの国にいたか?」
興廃の丘
最初の馬小屋会議から数ヶ月が過ぎた朝。
ひだつきのエプロンドレス姿の菖蒲は、ブリキじょうろを手につるバラのアーチをくぐり、庭のアガパンサスにあいさつをします。
ひとつひとつ名前をつけたパンジーに水をやり、ガゼボのそばでさわやかに香るお気にいりのギンバイカとおどり、ペパーミントをつんでハーブティーにします。食事の準備に家のおそうじ、服の洗たくまで大いそがしです。
観客のいない芝居は好評上演中で、菖蒲はものわかりのよい召使いとして主人からとても信頼され、モルトやアルビレオと仲よしになります。
馬小屋会議は週に一度、日曜日の夜に開かれました。しかし王子さまをもどす方法がわからず、闇を打ちやぶるための作戦を立てられないため会議は平行線のままです。
あれから菖蒲は風車にいきませんでした。闇に気づかれるかもしれませんし、グレエンのそばがいちばん安全だと考えたからです。いっぽう風車は大きな時計がチックタクと時をきざむように、風のない日も仕事を休まずまわりつづけていました。
家事を終えた菖蒲はアフタヌーン・ティーにみんなを呼ぶため、畑へむかいます。
「ご主人さま、お茶の時間です」
グレエンとモルトは城塞で見張りをする戦士のようにするどい顔で目をこらし、空に流れる雲を見つめていました。
「お天気、かわりそうですか?」菖蒲も額に手をあて空をあおぎます。
「よし!」グレエンはパチンパチンと大きく手をたたき、「いつもよくはたらくアヤメへのごほうびに、日曜日はとっておきのピクニックにでかけよう」。
「まあ、とっておき! なんてすてきな言葉なの!」菖蒲はうれしそうにはしゃぎます。
闇に襲われるかもしれないと菖蒲は家のまわりしか自由に歩けませんでした。でもほんとうは小麦畑のむこうがどうなっているのか、知りたいと思っていました。
ピクニック前日の夜。あまりのわくわくに菖蒲の目はぱっちり開いて、まっ暗な天じょうをいつまでもうつしていました。
「ねえ知ってる? たのしみはたのしみにしている時がいちばんたのしいのよ、アヤメ」
もうひとりのアヤメは寝てしまったのでしょうか、部屋は静まり、そばで丸まっているモルトのかすかな寝息まで聞こえそうです。青白い月明かりはレースのカーテンをぬけてゆかに窓の陰影をぼんやりえがき、ときおりゆらゆらとすきま風にゆられ、光と影がワルツをおどっているようでした。
菖蒲は頭を起こして過ぎてしまった今日を思いめぐらしていると、コツンコツン。だれか窓をたたいたのか、それとも小石でもあたったのでしょうか。菖蒲はモルトを起こさないようにそっとベッドから離れ、そばにかけたカーディガンをはおり、戸を開けて外をのぞきます。夜空をくりぬく、まん丸の月に照らされた庭はすやすや眠っていました。
「気のせい、だったのかしら」
菖蒲が家にもどろうとすると、ガゼボのむこうから影絵がひょっこりあらわれます。
「こんばんは、わたしはアヤメ。あなたはだれ?」
目の前に立っていたのは、こいむらさき色の長い髪、左右の瞳に一点の星が輝く美しい顔立ちの少年のかたちをした影でした。
少年の影は菖蒲など気にせず、地面の土にえがいた丸をぴょんぴょん飛んでいました。
「けーんけーん、ぱっ」菖蒲は声をだして少年のあとにつづきます。
「ねえ、これだけじゃかんたんすぎよ。わたしがもっとむずかしくしてあげる」そう言うと棒きれで丸をいくつかかきたします。
少年は菖蒲の作った丸を器用にこなし、こんどは少年が丸をふやします。黙ってけんけんぱを交互にくり返し、ついにバランスをくずした菖蒲はつまずいてしまいます。
「あーあ、わたしの負け。あなたと遊べて楽しかった。おやすみなさい」
そう言って菖蒲は少年に手をふります。
「わたしの名はイシュ。父を待っている」
悲しみをまとう、はかなく澄んだ声に菖蒲は思わずふり返ると、そこにはだれもいませんでした。
とっておきの日は青空で風もおだやかです。花がらチュニックにカプリパンツ姿で庭の仕事をいつもより早めにすませます。そでなしの白いワンピースに着がえてから大きなバスケットを持ち、菖蒲とグレエンとモルト、それにアルビレオも連れてピクニックに出発です。
小麦畑のあいだにのびる小径を進むと風車は遠くに消え、整然とならぶ黄緑色のポプラ並木が見えてきました。並木道にそってしばらく歩き、てらてら輝く小川にぶつかり、グレエンは対岸の雑木林をさしたので、菖蒲はくつをぬぎ、足を水につけます。目のさめるほどひんやり冷たく、「ひゃっ」と声をあげ、あわてて対岸へわたります。美しいシラカンバ林の木もれ日はモザイクのようにしめった土をてらし、うっすら蒸気をあげていました。
プチプチプチ、ポキポキポキ、パリパリパリ。地面に落ちる木の実や枝や葉を足でふみつける音は、ここちよいリズムで、すっかり気分のよくなった菖蒲は歌を歌いはじめました。
きまま きまま ネコはいつもきまま
きまま きまま カゼはいつもきまま
きまま きまま ソラはいつもきまま
きまま きまま クサはいつもきまま
「なんだその歌?」グレエンは首をかしげます。
「おれのつくった歌さ。気ままにゃものをにゃんでも歌うんだ」
モルトは偉大な作曲家のように言います。
「庭で水やりをしていると、モルトはいっつも歌うから、おぼえちゃったのよ」
「つまらない歌詞だなぁ」と、グレエンはあきれます。
「だからいいのさ、グレエン。かこくにゃ労働には、にゃんでもない歌を歌えば気がまぎれる」
「モルト、おまえは菖蒲のそばにいるだけじゃないか」
「それはちがうぞグレエン。オレはアヤメが逃げないよう目をひからせているのさ」
「ずいぶんのんきなもんだ。アヤメは逃げないだろうし、明日からオレのそばで仕事するかい、モルトくん?」
「ご主人さま、それはそれはなんてすばらしい案なのでしょう! そうしていただければ、わたくしはモルトのへんな歌になやまされずにすみますわ」菖蒲はいたずらっぽく言います。
「きまま きまま ネコはきまま!」
モルトは歌いながら先頭に走り、わざとらしくしっぽをふります。
「まあ! 知らんぷりして!」と、菖蒲は大笑います。
こんなに楽しそうにして、闇の監視を忘れたのでしょうか。いいえ、じつはこれも芝居で、農家の休日というひとつの場面を演じていたのです。
シラカンバの林をぬけた先には、おだやかな風のふく、青々とした草原がどこまでも広がっていました。
「ここがとっておきの場所、興廃の丘だ」
「なぜ興廃なんですか?」菖蒲はグレエンに聞きます。
「ここはむかし、高い城壁にかこまれた都市だったが、大きな戦争によりほろびた。いまはアリ一匹住めないほどけがれた土だけがのこっている」
「こんな美しい丘で争いなんて信じられない……」
菖蒲はまゆをよせ、なびく髪に手をあてます。
「妻のリリィはここで闇にのみこまれた」グレエンは言いました。「あの日、こうしてふたりで丘をながめていたんだ。とつぜん、空から黒い大蛇に襲われ、リリィの手をつかみ逃げようとしたが、彼女はわたしの手をふりほどき、大蛇に立ちむかっていった。きっとリリィは覚悟していたのだろう」
——リリィ。菖蒲はすぐにわかりました。寝室のポストカード立ての女です。
「すべての秘密を今晩、最後の馬小屋会議でつたえよう」
グレエンからの終幕の予告に、菖蒲はなにもこたえられませんでした。
「おーい、おふたりさん!」遠くでモルトが呼びかけます。「ぼけっとしてにゃいで、はやくランチにしよう!」
グレエンはうつむく菖蒲の顔をのぞき、にっこり笑い、軽々と肩にのせて走ります。
みんなでピクニックシートを広げ、バスケットからグラスとお皿を取りだせばランチタイムのはじまりです。グレエンは野菜のサンドイッチをおいしそうにいくつも食べました。
菖蒲謹製サンドイッチは食パンから手作りです。粉やイーストをまぜあわせてぬるま湯をいれ、まとまったならバターをもみこみ生地をこねます。発酵させて生地をくるくる丸め、四角い型でもう一度寝かせ、石窯で焼きます。なんどやってもうまくふくらまず、カチカチの石っころパンも、ふっくらと焼きあげられるようになりました。庭でとれたきゅうりやトマト、ふわふわスクランブルエッグをパンにはさみます。もちろんバターにマヨネーズソース、マスタードも忘れずに。
グレエンやモルト、アルビレオだって菖蒲の料理をいつもほめますし、失敗したならみんなで大笑いしました。菖蒲はうれしくて、もっともっとおいしい食事を作ります。
ジャガイモのグラタンにデザートのフルーツまでおなかいっぱい食べたあとは乗馬です。アルビレオに乗れるのは主人である王子さまだけですが、とくべつにゆるしてくれました。
グレエンは菖蒲をアルビレオの背にのせます。まるでソファのようにふかふかな乗りごこちで、かけだすとまわりの景色はひゅっとうしろに流れ、あっというまにグレエンは遠くにいます。
「アルビレオには見えない翼があるのね。だってふんわりういているみたいなんですもの」
「わたくしの祖先は天をかけていたと聞きます」と、アルビレオは言います。「でもほかの馬でおなじようにしてはなりませんよ。かならず痛い思いをしますから」
シロツメクサのかんむりをグレエンの頭にのせて王さまごっこもしました。お城のくらしにたいくつなアヤメ姫を白馬アルビレオにまたがる騎士グレエンが大冒険につれだすお話しです。
「ちょっとまて!」モルトは不機嫌そうに言います。「にゃんでオレは従者役にゃんだよ!」
「にゃんにゃんって。従者のモルトはネコみたい」
「オレはずっとネコだ!」
みんなピクニックがいつまでもずっとずっと続けばいいのに、と思いました。でも、わかれはむかえるのではなく、やってくるものだと、その夜に知ることになりました。
王子さまの約束
菖蒲はこの領域でふたつの悲しい夢を見ました。ひとつめは、興廃の丘へピクニックにでかけた日の夜です。
一本のリンゴの木がみるみるうちにしおれ、菖蒲は枯れないよう懸命に水をやりますが、うまくいきません。リンゴの木にお願いしても、抱いてやっても、なでてもうまくいかず、苦しむリンゴの木をただながめるしかできませんでした。
ついにリンゴの木は倒れて塵となり、天から低い声が聞こえてきます。
「娘よ。どんなに請うても、おまえは一本のリンゴの木ですら、救うことはできない」
菖蒲は目をさまし、ぼんやり天じょうを見つめます。
「わたしのもとに来て」
————王子さまがわたしを呼んでいる。
菖蒲はベッドからすべりおり、着がえて家を飛びだします。
「ここは……どこなの?」
闇におおわれた空には赤黒くそまる巨大な蛇がうねり、そこかしこに聞こえる断末魔のさけびや慟哭、ときの声は菖蒲の耳奥をかきまぜます。まるでおぞましい戦争の渦中にほうりだされたように土ぼこりをまいあげ、地面をゆらす軍隊の足音に火薬と鉄、じっとりした血の臭気は鼻にまとわりつき、菖蒲は体を折り、吐きけをもよおして口をおさえます。
ギロリとにらみつけられるような強い視線を感じた瞬間、思わず顔をあげると眼前には大蛇が今にもおそいかかろうと口をいっぱいに広げています。あまりの恐怖に逃げなければと気はあせるも、両足はガタガタふるえ、体もまったくいうことを聞きません。
するどいきばの先たんから鮮血をしたたらせ、口の奥から青白い手のようにわかれた舌がのびて菖蒲の首をしめあげ、ずんずんせまります。
もだえる菖蒲は全身を緊張させ、目をギュッとつむったその時、小麦畑の方角から青い閃光が一直線に大蛇の赤い眼をさし通し、菖蒲をつつみます。
「走れ! 走れ!」身をよじる大蛇のむこうに立つ戦士はさけびます。
「グレエン!」
大蛇にふり落とされた菖蒲は、グレエンの持つ青く光る剣がさす風車目がけ、夜陰を切って一心不乱に走ります。
命からがら風車に飛びこみ扉を閉めると背にしてよりかかります。息をあげ、ひたいから流れるつめたい汗をぬぐい、悪夢から遠ざかるようによろよろと奥の階段へちかづきます。
「アヤメさま」
菖蒲はおどろいて肩をびくりとさせ、声のするほうに体をひねります。
「モルト!」菖蒲は涙をポロポロこぼし、「グレエンが……グレエンが! どうしよう!」
「アヤメさま、どうかおちついて。グレエンには王子の剣があります。それよりこれを」
モルトはガーネットのような赤い指輪のついた金の首かざりをくわえていました。
「王子さまの指輪……なぜわたしに?」菖蒲は目をぬぐい、たずねました。
「時はつきました。闇は山あいの国を、いいえ、この領域を、そしてアヤメさまを消そうとしています」
「でも、わたしたち気づかれないよう芝居を!」
モルトは首を横にふります。
「あれは時間かせぎほどのまやかし。すでに闇はアヤメさまに気づいています。ここにいればめちゃくちゃにされるでしょう。あの闇は冷酷無比です」
「そんな……」
「よくお聞きください。オレたちはアヤメさまにすべてをたくします。お願いです、王子をどうか、どうかもとの姿にもどしてください。そうすれば闇を打ちやぶることができるはず。これはグレエンからの伝言です。「赤い指輪はきっとアヤメさまの役に立つでしょう。ただしお気をつけください。指輪の力と引きかえに、たいせつな思い出を忘れさせる【忘失の約束】を守らなければなりません」」
菖蒲は首かざりを身につけてモルトをかかえあげます。
「オレはこれから王にすべてをつたえるため、山あいの国にもどります。でも生きて帰れるかどうか」
モルトの毛は逆立ち、わなわなふるえています。
「わたしの大好きなキジ三毛ネコのモルト、あなたと約束する。王子さまをもとの姿にもどして帰ってくると。それまでぶじでありますように」
菖蒲はモルトとひたいを合わせ、目を閉じ、ふっと息をふきかけます。するとこわばる体はゆるみ、いつものおだやかなモルトにもどりました。
「アヤメさま、感謝します。オレたちは闇をおそれ不安でした。でもアヤメさまとのきらきら輝く生活は、すべて忘れるほど楽しい日々でした。アヤメさまはオレたちのきらめく星、雲のあいだからふりそそぐ太陽です。オレも約束します。アヤメさまを信じて待つ、と」
モルトは菖蒲の手からするりとぬけて、外の闇に走りさりました。モルトを見送った菖蒲はいそいで地下にある王の間にむかいます。
「大きな蛇がわたしを食べようとした時、グレエンの手にある青い剣はアヤメ、あなたを守ったわ」
「そうよ」と、菖蒲はアヤメに言います。「だからやっぱり王子さまの約束にわたしが関係している」
王の間は王子さまをもどしたあの日からピタリと時間が止まっているようでした。菖蒲は王座につづく石階段をのぼり、灯りに照らされる王子さまを抱きしめます。
「わたしの名はアヤメ。あなたとあなたの友だちをたすけたいの。あの約束をおしえて」
菖蒲の首にある赤い宝石の指輪は輝きはじめ、強い光にみたされます。燭台の炎はゆらゆらゆれ、王座にすわる黒く燃える影と、青い剣をかまえた小麦色の髪の少年が見えました。
——————
「むかし、おまえの国は我とひとつの契約を結んだ。それは国の安寧と引きかえに王の子ひとり国から
追いだすこと。しかし追放する子になにもつたえてはならない。また子は自発的に国をでなければならない。干しわらの王子、おまえのことだ」
「そう、そのためわたしはここにきた」燃える影に王子さまは不敵な笑みをうかべて言います。「きさまを打ちやぶるために。真実をつたえられずとも大義はなせる。忘れたか、世を統べる王よ」
「なんだと」
「よく聞け! わたしはおまえとひとつの約束をする。わらとなり、かわききったわたしのくちびるを、この領域のものではない少女が扉のない中庭にある井戸の水によってうるおす。その時、青き剣はきさまを打ちやぶる力をえる」
「はっはっはっは!」燃える影は身をのりだし、「ついに気がふれたな。その女はどうして干しわらのおまえがヒトだと、まして王子とわかるのだ。かりに知ったとて、なぜおまえのためにありもしない庭の井戸とやらの水をあたえるというのだ」。
「不可能だからこそ、この約束には大きな力がある」王子さまは王座のそばに立つ菖蒲をじっと見て、目をほそめます。「どうした、疑いにのまれ、信じるのをやめた臆病な王よ、おびえたか?」
「なんたる侮蔑。追放されたガキめが!」影は黒い炎をゴオゴオ燃やし、王子さまを食いつくさんばかりです。「よかろう! 挑発にのった。しかし約束が果たされぬその刹那、その女もろともこの領域すべて滅ぼしたやしてくれるわ。さあ今すぐわらとなれ!」
——————
王の間はふたたび眠りについたようにうす暗く、指輪はもとの赤色にもどっていました。
「あなたの物語にわたしが、わたしがいたわ!」
おどろく菖蒲の背後で扉はきしんだ音を立てて開きます。
おりてきた階段がこんどは下へとつづく階段になっているではありませんか!
不自然な本の空白、図書館の窓から見えた扉のない中庭、そして王子さまの約束。それぞれパズルのピースはつながりました。
菖蒲は王の間をあとに階段をおりていきます。
こうして、干しわらになった王子さまを助けるための長い長い旅は始まりました。
通路の消失点
まっ白な壁の通路は、あまりの長さに先が見えません。まるで宙に浮いているような白い窓が等間隔にならび、ガラスはなく、のぞいても外に広がるのは白でした。
しばらく歩いていると、おりてきた階段はだんだん遠くなり、やがて周囲の白とまじりあい、消えてしまいます。
「どこまでつづくのかしら」
終わりのない通路の消失点は黒いつぶのようでこちらにむかっていつまでも大きくなることはありません。菖蒲は目をこらし消失点を見つめていると気分がわるくなり顔を右にそむけます。
すると窓の下にちいさな文字が書かれていましたので、かがんで読みました。
ミエルモノガサキデワナイ
ケレドモミエナクバサキニワユケナイ
菖蒲は目をゴシゴシこすり、右目だけで消失点を見ると左側に点があります。こんどは左目だけを見ると右側に点があるのです。両目で見れば点は左右にひとつずつ、ゆっくりまん中によってかさなりました。それから通路の消失点を手でふさぎます。
「見えるものが先ではない。けれども見えなくば先にはゆけぬぞ、アヤメ」
菖蒲は物知り老人のつもりでふらふら歩きます。
ゴチン! 通路にひびくにぶい音。
「いったああい。もう!」頭のまわりに星がチカチカまたたきます。
ずきずきするおでこをおさえ、うらめしそうに顔をあげると木製の扉がありました。
「『前方注意』をそえてほしいわね。まったく!」
菖蒲は通路にもんくを言い、扉を開けて入りました。
雨にぬれる教室
窓の外は雨でした。
コンクリートのしめったにおいがする通路にはいくつかの部屋とそれぞれ上方に数字のない室名札がつき出ています。
まるでどこか知らない小学校に迷いこんだようで、ちょっぴりドキドキした菖蒲はてきとうに開いたクリーム色の引き戸からそっと顔をだして部屋をのぞきます。
「だれもいないわねアヤメ。おやすみかそれとも廃校だったりして」
菖蒲はぶるぶるっと肩をふるわせ、となりまたとなりと順番に教室をのぞき、水たまりのある部屋で足を止めました。
スチール丸パイプのフレームに木製の座面、背もたれ、天板のついたつくえとイスは六列五段に整然とならび、制服を着た男子や女子の大きなビスク・ドール生徒たちがカサを広げてすわっていました。教室の天じょうはぬけ落ちたようにまるでなく、部屋全体が雨にぬれ、ジメジメした陰うつなようすに菖蒲の気分も暗くなります。
すると、ヒタヒタろうかを歩く足音がこちらにちかづきます。
「お、おばけ!」あとずさりする菖蒲。
「ほっほう、おばけとはしっけいな。きみは転校生かね?」
グレーチェックのスリーピースに濃紫色のネクタイをつけたフクロウは、黒いこうもりカサを手に肩をそびやかし菖蒲のまえにあらわれました。
「こんにちは」菖蒲はホッとして言います。「わたしは転校生ではありません、フクロウさん」
「ほっほう、きみ、わたしのことはセンセイと呼びたまえ。それに転校生でなければ、なぜここにいるのかね。さては新しい学校がいやでウソをついているのではあるまい」
「あの、わたしは……」
「ほっほう、すぐに教室に入りたまえ」
フクロウ先生はうろたえる菖蒲を雨の教室につれていきます。
「ほっほう、ところできみ、カサはあるのかね?」
「いいえ、先生。教室にカサは必要ありませんもの」
「ホッホー! 横着な生徒め。社会にムダはない。つねに備えをせよ!」
フクロウ先生は半分閉じた目で持っていたカサを菖蒲に貸し、おりたたみカサを広げました。
「ありがとうございます」
「ほっほう、時間はない。いそいで黒板のまえに」
バケツの水をこぼしたような床はつるつるすべり、菖蒲は手足をじたばた、腰をふりふり、なんとか教だんにたどりつきます。
「ほっほう、生徒諸君。このクラスに転校してきた生徒である」
フクロウ先生は淡々と早口でビスク・ドール生徒に言います。
「きみ、いそいで自己紹介を」
「こんにちは。わたしはアヤメです。よろしくおねがいします」
もちろん教室内のビスク・ドール生徒はビスク・ドールなので、だれも返事をしません。
「ほっほう。いそいで席は窓ぎわ、前から三番目へ」と、フクロウ先生は席をさします。「ほかのつくえにけっしてふれぬように! 席のずれは社会のみだれ!」
菖蒲はじたばたと席にむかい、びしょぬれのイスに腰かけます。
「ああ、これまでの学校生活で最低な日がたった今、更新されたわ」
「ほっほう、さて生徒諸君、実に人生はふりやまぬ雨のようである。そのため教養をもってたちむかいまた……」
ザーザー、パチンパチン。フクロウ先生のたいくつな授業は、たえまなくふる雨音でほとんど聞こえず、服もしめり、菖蒲のがまんはついに限界をこえます。
「フクロウセンセイ!」菖蒲は手をあげ起立します。「なんにも聞こえません。となりの教室に移動できませんか?」
フクロウ先生は菖蒲をにらみつけて言いました。
「ほっほう。わたしはきみに意見をもとめていないし、立つよう指示もしていないのだが」
「でも!」
「ほっほう、わたしは『でも』という言いわけがましい逆説の接続詞がもっともきらいな言葉なのだ。わかるかね?」
「で……先生の声が聞こえなければ、だれも授業についていけません」
「ほっほう。生徒諸君はどう思うかね?」
ビスク・ドール生徒たちはなにも言わず、まるで雨音がヒソヒソばなしをしているようです。
「ほっほう、みな異論はないようだ」
「そんなのむちゃくちゃよ。だってしゃべれないもの」
「ほっほう。アヤメくんは、はなはだ社会ルールをわかっていないようだ」フクロウ先生はあざけるような目で菖蒲を見ます。「まぎれもない事実として、雨のふる教室ではみながカサをもち、授業を受ける。先生はわたしで、きみは生徒だ。わたしはきみに発言するようにも、立つよう指示してもいない。さらにきみのほか、どの生徒も不満はない。ゆえにこれは社会通念である。それにもかかわらず、わたしの授業をぼうがいし、風紀をみだす。この不良生徒め!」
「まあ! しつれいね!」菖蒲は声をあらげます。
「ホッホー、聞いたかね生徒諸君!」フクロウ先生は生徒たちにむけ、いかにも大げさに身ぶり手ぶりをしながら熱をこめ、大声でまくしたてます。「ホッホー、こういう無作法な不良生徒が社会において法と秩序をおびやかし善悪を他者に強制しかつ大通りを占拠して示威行為をし燃えさかる火にまきをくべるがごとく主観的批判を大仰にくりかえすホッホーらもこのようなホッホーにはじゅうぶん気をつけたまえホッホッホッホー!」
菖蒲はまゆをしかめ、ほおをふくらませてイスにすわろうとします。
「ホッホー、これからは指示にそむかぬように! わかったのなら返事だけをしてすわりたまえ、不良生徒のア、ヤ、メ、くん」
「……はい」
「ほっほう、よろしい。この機会に社会通念がいかに至要たるものか、諸君らにおしえたいと思う。それをつぎのホッホーで話そう。では休けいとする」
フクロウ先生は勝ちほこったように教室を出ていきました。
ベーっと舌をだした菖蒲はとなりのビスク・ドール女子に耳打ちします。
「ねえ、ひどいと思わない? なんにも聞かないでホッホーホッホーって」
チュンチュン、コツコツ。
ビスク・ドール女子から鳴き声とつつく音がします。雨があたっているのでしょうか。そうではないようです。ビスク・ドール女子に耳をあてると中からわずかに音が聞こえるからです。
菖蒲はカサをさすビスク・ドール女子をゆすります。チュンチュン、コツコツ、チュンチュン、コツコツ。重たいビスク・ドール女子をぐいぐい動かし、さぐっていると……ガシャリン! こなごなにくだけちったビスク・ドール女子の悲鳴が教室中にひびきます。
「きゃあ! フウロウセンセイに見つかったらどうしよう!」
菖蒲はあわててバラバラのビスク・ドール女子にちかづきます。
「ちゅんちゅん」小鳥がひょっこり出てきて言いました。「たすけてくれてありがちゅん」
「あなたは、スズメさん?」
「雨宿りのつもりが、とつぜん閉じこめられてしまってね。暗いし、遠くでぶきみなさえずりは聞こえるし、ほんとこわかっちゅん」と、スズメは言います。
「はじめまして、わたしはアヤメよ。もしかしてほかにもスズメさんはいるのかしら」
それでこんどは前のビスク・ドール男子をこわしてみます。
「ちゅんちゅん、たすけてくれてありがちゅん。雨宿りのつもりが……」
菖蒲は最初のスズメと目をあわせ、うなずきます。うしろのビスク・ドール女子も、そのまたうしろも、ビスク・ドールをわるとスズメが一羽ずつ出てきました。それでカサをほおり投げ、教室中のビスク・ドール生徒をこわします。いやみったらしいフクロウ先生の顔を思いうかべ、投げたりけったりふんづけたり。ぜんぶで二十九羽のスズメたちは教だんに集まりました。
「さて、これからどうしよう」菖蒲はスズメたちにたずねます。
「ちゅんちゅん、雨がふっているからぼくたちは飛べないちゅん。どこか晴れている空はないかな」
このままではフクロウ先生がスズメたちを閉じこめてしまうでしょう。なにかよい方法はないものか、菖蒲は教だんを探してみると引きだしに新品の十二色チョークの入った木箱を見つけました。
「これだわ!」
菖蒲は王子さまの首かざりから指輪をはずして右手の中指にはめると赤い宝石は炎のように燃えてかがやきます。
「きまま、きまま、ネコはいっつもきまま」
モルトの歌を口ずさみ、新品のチョークで黒板に緑色の草やシロツメクサに青い空、白い雲、遠くには雑木林を描きました。みんなでピクニックにでかけた興廃の丘の絵です。
「これはわたしのたいせつな思い出の場所なの。あなたたちにぴったりな青空があるわ」
菖蒲は先生のようにスズメたちに興廃の丘についておしえてあげます。
「……そういうわけで、あなたたちがのぞむなら、黒板にむかって羽ばたいてみましょう」
アヤメ先生のすてきな授業にスズメ生徒たちはすっかり感心して拍手喝采です。
「ちゅんちゅん、あそこなら自由に飛んだり、あの林に家をつくったりできちゅんね」
「そうだちゅん」
「よし、きめちゅん」
「アヤメセンセイ、おしえてくれてありがちゅん!」
「うれしいわ。あなたたちにお願いがあるの。おなじように空を飛びたい鳥たちを見かけたら仲間にむかえてほしい。それとキジ三毛のネコと白い馬と大男の農夫にアヤメは元気だとつたえてもらえる?」
「もちろん。約束しまちゅん!」
スズメたちは声をそろえてこたえ、黒板の絵にむかって元気よく飛びだします。アヤメ先生は手をふり、生徒たちの卒業を見とどけてから指輪をはずし、首かざりにもどします。そして学校と友だちを忘れてしまいました。
「ホッホー!」顔をまっ赤にしたフクロウ先生は、くちばしをふるわせて言います。「なんてことをしてくれたのだ!」
「フクロウセンセイ。生徒はみんな巣立っていきました」菖蒲は笑顔で言います。
「ホッホー、きみはわたしをバカにしとるのかね」
「いいえ、かわいいスズメたちがぶじに大空へ飛び立ててよかった」
「ホッホー。無責任な自由のどこがよいのか。もし捕食者にでもねらわれたらどうするのかね! もし他者を傷つけでもしたらどう責任をとるつもりなのだ。きみは仮定もせず結論をみちびくつもりか!」
「生徒たちを信じればいいのよ、フクロウセンセイ。スズメたちは青空をもとめ、翼をもっています。わたしにはないすてきな個性だから、それをいかせる場所をおしえてあげただけ」
「ホッホー、詭弁だな」フクロウ先生は吐き捨てるように言います。
「あら、そうかしら。フクロウセンセイもほんとうはそうしたいんでしょ?」
「ホッホー、なにをバカな」首をくるくるまわすフクロウ先生。
「だって番号のない教室とか新品の十二色チョークとかスーツとか、どこかで聞いた理屈をこねこね。フクロウセンセイはなれないものにムリしてなろうとするから」
「ホッホー、無礼者!」フクロウ先生は羽を大きく広げ、ツバを飛ばしてどなりつけます。
「フクロウセンセイも望むなら、あの空で自由に飛べるのよ」
「ホッホー、きみのような不良生徒はいらん。退学だ。すぐに出ていきたまえ!」
「さようなら、フクロウセンセイ」菖蒲は手をふって退室します。
教室にのこされたフクロウ先生は顔をあげ、黒板の絵をさびしそうにながめました。
「ほっほう。わたしに希望はまだのこっているだろうか」
ぽつりとそう言ったフクロウ先生はスーツをぬぎ、黒板にむかって飛んでいき、絵は雨水に流され、消えてなくなります。
やがて雨はやみ、だれもいない教室ではビスク・ドールのかけらが陽にあたってキラキラと輝き、水たまりに青空をうつしていました。
騒々しい法廷
「セイシュクに! セイシュクに!」
アリの巣裁判所の裁判長はさわがしい法廷を静めようと声をあげます。しかし、なかなか話し声はやみません。
裁判所のうしろでは働きアリたちが女王アリのためにせわしなく食料や部屋をととのえていました。
菖蒲は砂をかためた傍聴席にすわって裁判のゆくえをぽかんとながめています。なにがおきているのかわかりませんし、みんな黒いアリで見わけもつきません。
「サイバンチョウ。ワタシはジョオウのためにハタラきツヅけてきましたし、これからもそうするつもりでした。それをショクムホウキのヒトコトでカタヅけてヨいでしょうか!」
原告らしい集団のうち一匹のアリは裁判長アリに主張します。
「そうだそうだ!」ほかの原告アリたちは同調します。
「ワタシタチハタラきアリのジョウキョウをまるでリカイせず、いきなりカイコはフトウではないかといっているのです」
「そうだそうだ!」
「ではなぜ、まずデンタツアリにツタえなかったのだ」と、被告アリは反論しました。「シレイアリのメイレイをまってからコウドウするのがルールではないのか。それをおマエたちハタラキアリはレツをミダし、ハタラキアリゼンタイのイノチをキケンにサラした!」
働きアリ側の弁護アリは異議をとなえます。
「コウセンテキなテキにレツをミダさずにマつのはジメツしろとイっているようなもので、クロアリケンポウダイジュウサンジョウ、コジンのイノチのソンチョウにハンしている。また、ハタラキアリとシレイアリとのタイグウがチガうのはモンダイである。イノチをカけてゼンセンにタつ、ハラタキアリとブルジョアリーのサベツは、クロアリケンポウダイジュウヨンジョウにイハンしている」
「そうだそうだ!」。
「シッケイな」被告アリは鼻息あらくして言います。「ワレワレもジョオウのためにこのミをササげている」
「しかし、ハタラキアリのリスクとイノチはケイイではないか。まさかキミタチはジョオウのおキにイりだからと、ふんぞりカエっているのではあるまい」
「そうだそうだ!」
「ブジョクザイである!」被告アリは前足をだして訴えます。
「ブジョクといったらキミタチだろう!」働きアリ側の弁護アリは言います。
「そうだそうだ!」
「いいや、キミたちだ!」
法廷内はいちだんと騒々しくなります。
「セイシュクに! セイシュクに! ホウテイですぞ。ヒンイをカくことナきように!」
裁判長アリは木づちをトントンとたたいて静聴をうながすものの、さわぎはおさまりません。
菖蒲はとなりで傍聴しているアリに、なぜこんなにさわがしいのかをたずねます。
「クビになったハタラキアリが、シュウダンソショウをオこしたのですよ」と、アリは言いました。
「どうして仕事をクビに?」
「ヒエアリキーというやつです。ジョオウのメイレイからニげたのがゲンインのようで」
「女王の命令、ですか?」
「ええ、コロニーのジョオウはアタラしいマクラに、ホンをショモウされたのです。なんでもチエがつくとか。それでハタラキアリはトショーカンのモリにハケンされたそうですが、ホえたけるキョダイカイブツにオソわれ、イノチからがら、ニげてきたらしいのです」
「まさか」菖蒲は図書館のことを思いだします。「王子さまの本をやぶいたアリたちかしら」
「ジョオウはオカンムリでハタラキアリゼンインカイコし、ベツのアリをヤトうとコロニーはオオサワぎ。ワレワレアリはコロニーでシゴトをウシナえばルンペンプロレタアリとなってサイシュウショクはムズカしいのです。それにジョオウにジキソはできないので、こうしてサイバンショにうったえているというわけです」
「そんなのおかしいわ。ちょっとうまくいかないからって、なにも解雇しなくても」
「いえいえ、ここはまだヨいほうですよ。ソショウをおこせるサイバンショすらないコロニーはざらですし、モンドウムヨウでシケイなんてジダイオクれもハナハダしいコロニーもケッコウありますから」
「そ、そんな!」菖蒲は目を大きくしておどろきます。「アリの領域ってそんなにきびしいの?」
「はい。アリオロギーにシバられているんですよ」傍聴アリは足をくみ、言います。「ここもムカシはそうだったのですが、プロレタアリによってカイゼンされたのです。サイキンはジョウホウカのナガれで、キュウタイイゼンとした、タンジュンなシュジュウカンケイはフルクサいとカンガえるワカいアリもフえました。ワタシのようなジャーナアリもペンでタタカっています」
傍聴アリはとくいげにペンをクルクルまわします。
「なんだかよくわからないけど、女王におしえてやらなきゃ」
菖蒲は傍聴席をすっくと立ち、裁判長アリにむかって言いました。
「あの、みなさーん。お話しのところすみません」
いくら声をかけても、みんな自分の発言に夢中で、菖蒲など見むきもしません。
「みなさん! ちょっといいですか!」
菖蒲が大声で叫ぶと法廷内は水を打ったように静まります。
「この裁判、わたしも関係していると思うんですけど」
一匹の原告アリが菖蒲をじいっと見て、「あぁぁっ! こいつです、サイバンチョウ! ワレワレのシゴトをボウガイしたハンニンアリは!」
「ちょっと、わたしはアリじゃないわよ!」
「ハンニンミズカらシュッテイしてくるとは、なんてふてぶてしいカイブツだ!」
「カイブツってのはずいぶんしつれいね」菖蒲はむっとして言います。「そもそも女王がわるいのよ」
「ワレワレのジョオウをワルモノあつかいするとは!」
「ブジョクザイだ!」と、被告アリ。
「そうだそうだ!」と、原告アリ
「よろしい!」裁判長アリは強い口調で菖蒲に命じます。「コエデカフテブテシカイブツアリよ、ショウゲンダイへ!」
「わたしはふてぶてしくも、アリでも、カイブツでもないわよ! ちょっと声は大きいけど」
菖蒲は土の上をずかずかと歩き、砂でかためた証言台にどっしり立ちます。
「こりゃあオモシロいコトになったぞ」興奮して身をのりだすジャーナアリ。
「わたしはあなたたちの女王に言いたいことがあるの。まくらにするために本をやぶっていけないし、知恵をつけたければ本は読まなきゃダメよ。わかった?」
さわがしかった法廷内はしんと静まり、アリたちはひややかな目で菖蒲を見ます。
「なによ、なんでみんなだまるわけ?」
裁判長アリは二、三回せきばらいをします。
「それだけかね?」
「そうよ。そもそも女王の命令がまちがえてるんだから」
「ハンケツ!」裁判長アリはトントンと木づちを強く打ちならします。「ヒコクアリはムザイ、ハタラキアリのカイコはセイトウである!」
「まってまってまって! 働きアリさんへの命令がまちがっているの! なんでおかしな判決になるのよ」
裁判長アリはあきれたように言います。
「ホンサイバンはジョオウのメイレイイハンをシンギしている。キミのショウゲンでイハンがカクショウされたのだ。ジョオウメイレイはゼッタイである。ムホウアリをソソノカすモノはコロニーをサらねばならない」
「そんな、わたしはただ……」
「キミのカンガえはキミのコロニーではユルされるのかもしれんが、ワレワレのコロニーでミガッテなセイギをフりかざすのをヤめてもらいたい。ジダイのチョウリュウだとかにキョウミはないが、チシキアリのメンドウなシュギシュチョウのおかげでワレワレのコロニーもフンキュウしてメンドウなのだ。こんなムダなサイバンよりコロニーカクダイのためにハタラいたほうがどれだけケンセツテキか」
「でもこんなのおかしい!」
「もういいさ」働きアリたちはぬけがらのような顔で力なく深いため息をつきます。
「これにてヘイテイ!」
ルンペンプロレタアリと菖蒲をのこし、みんな裁判所から出ていきました。
「アリさんたち、ごめんなさい。ぜんぶわたしのせいね」
「あやまってもしょうがない。ジョオウのメイレイをヤブり、ニげたのはワレワレのセキニンだからね」
「これからどうするの?」
「ショクとイエをウシナったルンペンプロレタアリがどれほどミジめか、キきたいのかい?」
「じゃあ今からわたしがあなたたちの女王になる」
とぼとぼ去ろうとするルンペンプロレタアリたちに菖蒲は言います。
「キミが? コロニーもないくせに」
ルンペンプロレタアリたちは見合わせ、あきれたように笑います。
「ジョオウとなってワレワレになにをしろと? バカバカしい」
「そうかしら。これから新しいコロニーを作るのよ。あなたたちがね」
「ワレワレが? イッタイどこに?」
「それはね」と、菖蒲は言います。「わたしの知っている興廃の丘はとても汚れているの。そこをきれいにしてコロニーを広げる。報酬は丘ぜんぶよ。だってだれも住めないんだもの」
「そんなツゴウのいいバショなどホントウにあるのかい?」ルンペンプロレタアリたちは言います。
「もちろん約束する。でもわたしは前の女王とちがい、命令も要求もしない。あなたたちで考えて仕事をしなければならないから、とってもたいへん。あなたたちが望むなら、すぐにその場所を紹介してあげる。どうかしら?」
ルンペンプロレタアリたちはわらわら集まって話しあいます。
「キまりました」代表アリが言います。「ワレワレはあなたをジョオウとミトメます」
「よかった。交渉成立ね」
菖蒲は王子さまの指輪を右手の人差し指にはめて、宝石は炎のように燃えて輝きます。それから指を地面の土につきいれるとすぐに深い穴ができました。
「この穴は興廃の丘につながってるわ」
ハタラキアリたちはわあっと歓声をあげます。
「あなたたちにお願いがあるの。おなじように仕事をなくした者たちを見かけたら仲間にむかえてほしい。それとキジ三毛のネコと白い馬と大男の農夫にアヤメは元気だとつたえてもらえる?」
「アヤメジョオウのおコトバ、タマワりました」
アリたちは菖蒲女王の前に整然とならび、頭を深く下げてから一列でとっとこ穴に入っていきます。
菖蒲女王は手をふり、アリたちの出発を見とどけてから穴を閉じます。指輪をはずして首かざりにもどすと住んでいた街をすっかり忘れてしまいました。
だれもいない法廷のうしろでは働きアリたちがせわしなく女王アリのために食料や部屋をととのえていました。
通路の消失点Ⅱ
まっ白な壁の通路は、あまりの長さに先が見えません。まるで宙に浮いているような白い窓が等間隔にならび、ガラスはなく、のぞいても外に広がるのは白でした。
しばらく歩いていると、おりてきた階段はだんだん遠くなり、やがて周囲の白とまじり合い、消えてしまいます。
「ここはもしかして……」
菖蒲は右をむくと白い壁にちいさな文字が書いてありましたので、かがんで読みます。
ミエルモノガサキデワナイ
ケレドモミエナクバサキニワユケナイ
ゼンポウチユウイ
菖蒲はふっと鼻先で笑い、「そんなのわかってるわよ」と、通路の消失点を手でふさぎ、前方の扉にぶつからないよう注意しながら歩きました。
ガサガサ、ドサリ! 通路にひびくにぶい音。
菖蒲はなにかにけつまずき、思いきり地面にたおれます。
「いったああい。もう!」
通路の消失点はなく、こんどはゆかに扉がありました。
「『足元注意』もそえてください!」
菖蒲は通路にもんくを言い、把手を引いて鉄のはしごをおりました。
待合所ときどき夏休み
下へとつづく鉄のはしごは、おだやかな海にぽつりとうかぶ、ちいさな駅につづいていました。
菖蒲はプラットホームに足をつけ、ぐるり見まわすと赤いかわら屋根の待合所に照明柱、石のベンチとさびた駅名標がありました。
まちぼうけ
←風のむくまま 気のむくまま→
到着 着けば
出発 発てば
「ずいぶん気まぐれな駅ね」
菖蒲は駅名標を前に首をかしげます。それから待合所にむかい、潮風にゆれる藍色の麻のれんをくぐり、引戸をカラカラ開けて入りました。
「こんにちは。どなたかいますか?」
手前にカウンター席が三つと窓ぎわにテーブル席ひとつ、奥の台所ではずんどうなべからふつふつとゆげがのぼっていました。
「いらっしゃい」
白い割烹着に三角巾をつけたおばあさんはカウンターごしにひょっこり顔をだし、菖蒲をまじまじと見つめます。
「へえ、女の子かい。めずらしいね。さあさ、そこの席にすわってくださいな」
菖蒲はカウンター前のイスにこしかけます。
「おばさま、はじめまして。わたしはアヤメといいます。あの、ここはどこですか?」
「おばぁでいいよ」と、おばぁは菖蒲におしぼりをわたして言います。「見てのとおり駅の待合所さ。食堂みたいだけど」
「まあ!」菖蒲はおどろきます。「もしかして電車がくるのですか?」
おばぁはすこし考え、「電車というかバスというか船というか生き物というか、まあきてみればわかるさ」。
「はあ」
「それよりアヤメちゃん、おなかすいてないかい?」
菖蒲のおなかはぐうっと大きく鳴ります。
「そうだと思った!」おばぁは笑顔で言いました。「うちはすばしかないよ」
「ありがとうございます。でも、お金もっていないんです」菖蒲は顔を赤らめます。
おばぁはポカンとした顔でながめ、「おかね? おかねってなんだい、おしんこか?」
「いいえ、ものを買ったり売ったり、こうかんするために使うものです。知りませんか?」
「アヤメちゃんのいるとこはめんどくさいもんがあるんだ。おかねはいらんからすば食べてきな」
そう言っておばぁはてぎわよく麺をばんじゅうから取りだし、てぼざるに入れ、ふっとうしたずんどうなべにほおりこみ、まな板でコネギを切りはじめます。
「おばぁはずっと食堂をされているのですか?」
「ああそうさ。ときどき、アヤメちゃんみたいな客がふらっとやってくる。あとはほとんどイルカやカモメとかさ」
菖蒲はクスッと笑います。
「アヤメちゃんはどうしてここにきたの?」
「探しものがあるんです。それをいそいでとどけなければいけないのですが、まだ見つかりません」
「そうかい、見つかるといいね。まあ、探しもんはだいたい、ふとしたときに見つかるもんさ」
おばぁはどんぶりを菖蒲の前におきます。
「さあできたよ」
透明なスープにちぢれた平打ち麺、白くてふわふわした雲に小ネギがぱらりとふりかけてあります。
「とってもいいにおい! こんぶですね」
「そのとおり! アヤメちゃんよく知ってるね。白いのはゆし豆腐さ、だからこれはゆし豆腐すばね。おこのみで卓上のコーレーグスをすこしかけるといいさ」
「いただきます」
まずはスープをひとくち。こぶダシのやさしい風味に、ほんのり塩味のゆし豆腐がふんわり口いっぱいに広がります。赤と黄色の箸を手にして麺をふうふうふいて一口すすればスープを飲みほすまで箸は止まりません。
「ごちそうさまでした」菖蒲はまんぞくそうに顔をあげます。「とってもおいしかったです。おなかぽかぽか」
「それはよかった。お茶をいれようね」
「わたし、てつだいます」
菖蒲はどんぶりと箸を台所で洗い、おばぁはゲンコツ形のあげたてドーナツと気泡入りのガラスコップを菖蒲にわたしました。
「おやつのサーターアンダーギーとさんぴん茶ね」と、おばぁは言います。「それとアヤメちゃん、そっちのテーブル席はとっておきだよ」
おばぁがおしえてくれた席の窓にはコバルトブルーの空と海がどこまでも広がっていました。
「外からながめれば景色で、窓をのぞけば絵みたいね」菖蒲はぽつりと言います。
「アヤメちゃんは詩人だねぇ」むかいにすわるおばぁは目を大きくします。「そんなふうに見たことなかったよ」
菖蒲は照れをかくすようにサーターアンダーギーを口にします。
「カリカリであまくておいしい」
ジャスミン香るお茶にすっかり落ちついた菖蒲はおばぁと窓の絵をぼんやりながめました。
こんなちっぽけな駅でひとり、さびしくなったりあきてしまうことはないのだろうか。菖蒲はおばぁに聞いてみようとすこし顔をゆらします。
きらきら輝くヘーゼル色の目、知恵深くおりかさなる目じり、口びるのそばに山をえがく経験ゆたかなほうれい線、やってくる日々はまるで客人のような、時を楽しむ端正な横顔。菖蒲にはおばぁが悠久の人に見えました。
「いつも考えるんだよ」遠くを望むおばぁはゆっくり口を開きます。「空と海はおなじ青なのに、なぜまじらないのか」
菖蒲はあこがれのまなざしをおばぁにむけます。
ときおり、海風は戸をゆらし、陽光は波をてらてらなでます。空は青からあかね、オレンジがにじむように染まり、いつまでも海とまじりあいませんでした。
まったくふしぎな駅の待合所です。なにも到着も出発もせず、ただ始発から終発まで時間は遠くにうかぶ雲のようにゆったり流れていたのですから。
「アヤメちゃん、とまってくかい?」おばぁは窓に聞きました。
「うん」菖蒲は窓にこたえます。
「外にかけてあるのれん、おろしてもらおうかな」
「うん」
菖蒲は夏休み、おばあちゃんの家に遊びにきているような、そんな気のない返事をしました。
おつかい
つぎの朝、鉄のはしごは消えていました。
「まあいっか。そのうちなにかやってくるはずよ、アヤメ」
空を見あげる菖蒲は、小さな寝床でおばぁと夜おそくまで話したのを思いだしていました。
「おばぁ、わたしね、みんなの家に住んでいて、お姉ちゃんと部屋がいっしょで、友だちみたいに仲よしで……」
ふたりは横になり、おばぁがうんうんとあいづちをうつたび、菖蒲の体はすっかり軽くなります。
「おばぁの耳は大きなポッケね。わたしのお話しがいくらでもはいるんだもの」
「いやぁ」と、おばぁは菖蒲の胸にふれ、「アヤメちゃんのはここにあるのさ」。
あけがた、おばぁといっしょに豆腐作りをしました。
ひと晩水につけておいた大豆をすりつぶし、布でしぼり豆乳を中火で煮ます。火をとめてからニガリを入れ、木のしゃもじでさっと切るようにまぜ、しばらく待つとかたまります。それをまん中にやさしくよせれば完成です。
「わたしの作ったお豆腐とおばぁの作ったお豆腐、すこし味がちがうと思わない?」
「それがいいのさ」と、おばぁはゆし豆腐を味見してうなずきます。
「いいかいアヤメちゃん。どんなもんでも、おんなじだからおんなじだと、決めつけてはいけないよ」
おばぁに借りた大きな水中メガネをかけた菖蒲は、プラットホームのふちに腰かけ、海に足をちゃぷんとつけてのぞきます。色とりどりの熱帯魚は菖蒲の前をすーっと通りぬけ、うれしくなり手をふるとわんぱく魚たちは、顔を見あわせ、菖蒲の足めがけていっせいにつつきはじめます。
「きゃっ」菖蒲はたまらず足をひっこめます。「やったわね!」
いそいで服をぬぎ、ざぶんと海にもぐりますが、いくらおよいでも魚たちのほうがずっと速いので、まるでおいつきません。魚たちは菖蒲をくすぐりにやってきて、菖蒲の口からゴボゴボと泡はどんどんこぼれます。もがいて息つぎしてから水中をおよいでいると、海底には美しいサンゴ礁の街なみが見えました。ショッピングを楽しむコバルトスズメ、ホテルで優雅に寝ているカサゴやフラダンスしているチンアナゴ。遠くにはひらひら飛ぶマンタやジンベイザメまでとてもにぎやかです。
「アヤメちゃーん!」
海面に顔をだすとおばぁの声が遠くに聞こえ、じゃぶじゃぶおよいで駅までもどります。
「アヤメちゃん、ちょうどいいや。わるいんだけど、おじぃのいるレウケ島に豆腐もってってくれるかい?」
「あばぁ、わたし島までおよいでなんかいけないよ」
「バンちゃんがつれてってくれるからへいきさ」
「バンちゃん?」
首をかしげる菖蒲のそばに、ハンドウイルカがすいすいちかづいてきました。
「やあ、はじめまして。ぼくはバンドウ。ぼくにつかまれば、島まであっというまさ」
イルカのバンドウは菖蒲のまわりをぐるりとまわります。
「はじめまして、わたしはアヤメよ」
「豆腐はふろしきにつつんであるからさ。島についたら広げてパレオにすればいいさ」
ふろしきをかついだ菖蒲はバンドウの背びれにつかまり、しぶきをあげ海をきって進んでいきます。
「ねえバンドウ。もしかしてあなたが海の駅にやってくる乗り物なの?」
「ああ、それはね……だよ」バンドウはバッシャバッシャおよいで言います。
「ぜんっぜん聞こえないわ。もう一度言ってちょうだい!」
「ほら、島についたよ! アヤメちゃん!」
「ちがうの! そうじゃないの!」
レウケ島はさらさらの白い砂浜にヤシの木がずらりと立ちならび、おいしげった森のむこうには切り立つ岩山が見えます。菖蒲は豆腐をつつんでいた大きな花がらの布ふろしきを広げて両端を胸もとで結び、ワンピースにしてから、まんぞくそうに足を前にだしますが、すぐぴたりと立ち止まりました。
「おじいさまのおうち、どこか聞いてなかったわ」
こまっていると森の中からしば犬がひょっこり出てきて、しっぽをふりふりこちらにやってきます。
「こんにちは、アヤメちゃんだね。ボクはシバ。先生の家まで案内するからついてきて」
しば犬のシバはささっと森に消えます。
「シバ、ちょっと待って!」
菖蒲は見うしなわないよう、早足でついてゆきました。
「ねえシバ。わたしの名前をどうして知っているの?」
「郵便カモメのジョナさんが砂浜にアヤメちゃんという女の子がくるっておしえてくれたんだ」
「まあ、おもしろい!」菖蒲はくすりと笑います。「おじいさまはなぜこの島でくらしているのかしら」
「先生は冒険家だったんだ。でも、おばぁのゆし豆腐を食べたらここに住むと言いだして助手のボクもびっくりさ」
シダの森をしばらく歩くと、開けた原におしゃれな石づくりの家が見えてきました。
「あれがおじぃの家だよ」
まるでロビンソンクルーソーの世界に迷いこんだようで、菖蒲は「おじゃまします」と言ってドキドキしながら木の扉を引き、家に入ります。
香辛料の香りにみたされた薄暗い部屋は、ふりこ時計がカッチコッチ時をきざみ、ぎっしり本が並ぶ大きな本棚にかこまれていました。中央には金羊毛のじゅうたんと輝くソファ、ポリネシア風の像やアンティーク調のランプシェード、縄文土器のような装飾のつぼ、奥のつくえには使いこまれた地球儀やコンパスにボトルシップ、まるで博物館のようです。
「先生! 先生!」シバはつくえにむかう男のそばによります。「アヤメちゃんをつれてきました」
「ありがとう、シバ」
シバの頭をなでる男は白いえりつき半そでシャツと深藍の半ズボン姿で、銀色の髪と豊かにたくわえた上品なひげは、かさねた経験のほどをうかがわせます。
「はじめまして、アヤメと言います」菖蒲はすこし緊張した声で言います。「おばぁのお豆腐をお持ちしました」
男は菖蒲に右手をさしだし、あく手とチークキスをします。
「よく来たね。きみがアヤメちゃんか。とてもかしこそうな娘だ」
「おじいさまは……」
「おじぃでいいよ。アヤメちゃん」おじぃはやさしく目をほそめます。
「おじぃはここでなにをなさっているのですか?」
「ふむ、わしもよくわからんな。いろいろ見たもんを書きのこしてるのかな。それともアヤメちゃんは、わしをロビンソンクルーソーかなにかときたいしていたのかね?」
「すこしだけ」菖蒲は恥ずかしそうにこくりとうなずきます。
「わしはレミュエル・ガリヴァーの冒険がこのみだな」
「どちらもかわり者です」
「そんな家におとずれるアヤメちゃんはもっと、かな?」
「おほめいただき、たいへん光栄ですわ」
菖蒲はすそをつまんで会釈し、おじぃと目を合わせて大笑いします。
「さあさ、こちらのソファにすわりなさい。まずは茶にしよう」
「なんてごうかなソファなのかしら」菖蒲は金色に輝くソファを見て言います。
「むかしサアサン朝アルペシでもらった品だよ。王がねむれんというから毎晩旅の話しを聞かせたら、たいそう喜んでな。礼にと宇宙ラクダにのせて運ばれてきた」
おじぃは花がらにうわ絵つけされた白磁のティーセットを背の低いテーブルにおき、紅茶をカップにそそぎます。
「とってもいいにおい」あまくてはなやかな香りにうっとりして菖蒲は言います。
「わしはコーヒーなんだが、たまにくる行商のウサギがぜひにとくれたんだよ」
銀製の皿にもられたペカンナッツやマカダミア、カシューにアーモンド、ブルーベリー、イチジク、パイナップル、それにチョコレートをつまみながら、しばらくおじぃと旅の話を楽しみました。
「……ところでアヤメちゃん」おじぃはコーヒーカップを置きます。「扉のない中庭についてだが」
「なぜそれを?」菖蒲はおどろいたように言います。
おじぃは軽くせきばらいをしてから、「ふむ、おばぁから聞いた」。
「もしかしてジョナさんですか?」
「そう。で、わしは若いころ中庭に行ったことがある」
「ほんとうですか!」菖蒲は目を大きく開き、身をのりだします。
「まあ落ちつきなさい」おじぃは両手を上下にゆらします。
「中庭に行ったというと語弊があるか……正しく言えば中庭のちかくまでかな」
「どういうことですか?」
「まず中庭に入ることはできない。そもそも出入りするための扉がないからな」
「でもわたしは中庭を見ました」
「ほう、中庭を見たと。知覚できないはずだが。いや、あるいはだれかなんらかの方法で現象させたのか」おじぃは菖蒲から目をそらし、あごひげに手をあてます。
「おじぃ、わたしにはわかりません。でも扉のない中庭にある井戸の水をくんでこないといけないんです。そうしないと王子さまはもとの姿に……」
「わかっとるよ、アヤメちゃん。そんな悲しい顔しなさんな。すこしずつ考えていこう」
「はい……」
うつむく菖蒲に、おじぃはうなずきます。
「むつかしい表現をすれば扉のない中庭は形而上の場所、形であらわせない空間なのだよ。つまり扉のない中庭は『在るが無い庭』といえるかもしれん。アヤメちゃん、心はどこにあると思うかね?」
「それは」菖蒲はすこし考えます。「わたしの中にあって、胸のあたりでしょうか。でも考えるのは頭にあるような」
「とてもいい答えだ。内側にあるのはおそらく正しい。頭つまりアヤメちゃんの脳は心を認識し、胸に影響をあたえたりもする。だが実際どちらにあるかといわれてもわからない。そもそもアヤメちゃんの体の中にあるかどうかすら知らん。精神や生命も脳か心臓か、はたまたほかのどこにあるのかわからないのとおなじなわけだ。アヤメちゃんの行きたい場所はそういう神秘の領域なのだよ」
おじぃはコーヒーで口をぬらします。
「そこでだ。わしは中庭に入るため記憶からたどってみた。扉のない中庭を心の空間、周囲の壁は時間軸内における記憶と仮定する。まったく記憶を捨て、無垢の状態から壁をぬけて心にアプローチできるか試そうとした。結果は庭の手前というわけさ」
「だから中庭のちかくまで、とおっしゃったのですね」
「そう」
菖蒲は目をつぶり、王子さまの約束を思い返します。
干しわらになった王子さまのくちびるをこの領域のものではない少女が扉のない中庭にある井戸の水によってうるおす時、青き剣は闇を打ちやぶる力をえます。闇の王は笑いましたが、王子さまは信じていました。なぜでしょうか、わかりません。ただひとつ、菖蒲にしかできないことがあります。
「おじぃ。わたしは中庭のちかくでも行きたいんです。そこに行けばなにかわかるかもしれない。もしあきらめてしまえば約束は果たせなくなる。それにわたし、王子さまの信頼にこたえたいの」
おじぃはするどい顔を菖蒲にむけて言います。
「先はかなりつらいぞ。アヤメちゃんのだいじなものをうしなうかもしれん」
「それでも行きます。わたしの願うおしまいでなくっとも。だってわたし、わたし……」
菖蒲はひざの上でこぶしをにぎりしめます。
「ためしてわるかった。アヤメちゃんはやさしい娘だ」
おじぃはやわらかな手で菖蒲の頭をなでました。
「シバ。ジョナとバンドウにアヤメちゃんの帰りがおそくなるとつたえておくれ。それから島々のあるじにもよろしくな。わしらはこれから岩山のてっぺんにゆく」
耳をひくりとさせたシバは起きあがり、ささっと外へかけだします。
「さてアヤメちゃん。これから天体観測にでかけよう」
「天体観測、ですか?」
出発のあいずを知らせるように、部屋のふりこ時計がボーンボーンとお昼の時間をならしました。
天体観測
まわりを気にせず昼夜輝く蝶のジコチョウ、歌のへたなノドガラガラガエル、いつまでもぶつぶつもんくを鳴くコゴトツブヤキオウム、勤労意欲があるのかわからないハタラクナマケモノ、食べるといつまでも生きられるような気がするキノコのフロウフシモドキ……おじぃはガイドツアーのように山を登りながらレウケ島に住む、ふしぎな動植物たちについて菖蒲におしえました。
山頂はたいへん見晴らしがよく、見わたすかぎりのオーシャングリーンにサンゴ礁がじゅうたんのように広がっていました。やがて空はだんだん赤く染まり、凪とともに夜のとばりがおりると月はくっきり海をてらします。
菖蒲とおじぃは、がけっぷちに立ち、遠くさびしそうに光るまちぼうけ駅をながめていました
「あそこは未練のこすものたちが待つ駅なんだよ」
おじぃは言いました。
「おばぁもだれかを待っているのですか?」
「ああ。息子の帰りをずっとね。おばぁはこの島をいつも見て泣いている」
「わたしも父と母を待っているのかもしれません。だって、あの駅にいるとおちつくんですもの」
菖蒲はまちぼうけ駅にむかって大きく手をふりました。
「さあいこうか、アヤメちゃん」
ふたりは天体観測所と呼ばれるドーム型の小屋にむかいます。オレンジ色の電球が灯り、部屋の壁にたくさん貼られた奇妙な数式や図形、ちいさなつくえに散らかる万年筆や黒いインク入れ、本やノートを照らします。部屋の中央にはとても大きな天体望遠鏡が一段あがった円形の台の上にどんとかまえ、屋根の外につきでていました。
おじぃは望遠鏡をのぞき、ハンドルをぐるぐるまわして止め、手まねきします。
「アヤメちゃん、ここをのぞいてごらん」
菖蒲は望遠鏡の接眼レンズをのぞきこみます。
「うわぁ、これはなんですか?」
赤に青に黄色、紫や緑と、まるで宝石をちりばめたカレイドスコープのような幾何学模様が見えます。
「アヤメちゃんの領域では月というのかな。まあこの衛星はいわゆる月としての役割はないのだが」
「ふしぎな星……ああっ、おじぃ、だれかいる!」
月に小さな黒い豆つぶひとつ、ゆっくりうごいています。
「よく見えたね。あれは記憶集めをしている」
菖蒲は望遠鏡のレンズから目を離します。
「記憶集めとはなんですか?」
「散らばった記憶のかけらを拾う仕事さ」
ふたたび菖蒲は望遠鏡をのぞきます。
「あっ! 月になにかぶつかった」
「月にはたくさんの流れ星が落ちるからね」
「とってもきれい……」
「アヤメちゃんはまず、あそこへゆかねばならない」
「月にですか? でもロケットでないと宇宙にはいけません」
「いや、あの月は宙にはない。シロクジラで行くのだ」
「シロクジラ、ですか?」
「うむ。シロクジラはおばぁの駅にやってくる」
「そうだったんですね! でもシロクジラさんは空を飛べるのでしょうか?」
「はっはっはっ。もちろんクジラは空を飛べないし、月はわしらの上にあるとはかぎらんよ」
「どういうことですか?」菖蒲は首をかしげます。
「まあ乗ってみればわかる。ともかくアヤメちゃんはこれから月で王子の記憶を探し、それを結晶化してもらいビンに加工する。それで井戸の水をくむ」
「ただのビンではいけないのでしょうか?」
「うむ、おそらく」おじぃはつくえに置いてあるガラスの一輪挿しを指ではじきます。
「物質を非存在の中庭にもっていけんだろうからな」
おじぃは菖蒲のそばにある大きなハンドルをすこしまわすと、すわっていた円形の台がゴリゴリ音をたててうごきだします。
「もういちど、のぞいてごらん」
「ブラックホールみたいなぽっかりあいた黒い穴が見えます」
「そこは『闇の門』で最初の難所。扉のない中庭にちかづくためには門をくぐってから常闇の地を歩いて薄暗い階段を探す」
「暗くてなにも見えません」
「光とどかぬ闇の支配する領域だからの。薄暗い階段をおりたところに最大の難所、中庭にもっともちかい場所がある。そのさきはわしもわからん」
「どうして行かなかったですか?」
「恐怖で行けなかった、というのが正しいのかもしれん」おじぃは肩をちぢめ、身ぶるいします。
「無垢な記憶とは自己喪失を意味する。己をうしない、中庭をおかしたとて存在理由もわからないのであればなんの意義があるか。生まれたての赤んぼうは自己そして外界を親はじめ、他者により段階的に知覚してゆく。しかしうしなった自意識と記憶を中庭で瞬時に回復し、かつ脱出するか、まったく解決できなんだ。失敗すれば体は空となり、心は虚無にとらわれるだろう。わしは好奇心と無謀は結びつかん性格なのだよ」
「それでつらいとおっしゃったのですか?」
「うむ。なんらかの強大な力で自分を捨て、扉のない中庭に侵入し、王子の記憶でつくったビンで井戸の水をくむ。それから自我を回復させ脱出する。これらをアヤメちゃんひとりでできるかね?」
菖蒲は決意にみちた力強い目で遠くを見ます。
「これくらいにしよう」おじいはため息まじりに菖蒲の肩をたたきました。
観測所の灯りは消え、外に出てからおじぃは空の月を指さして海にゆれる月までなぞります。
「海面にくっきり丸い月のうつりこんだ時、シロクジラは海の駅にくる。日が落ちる前に駅で待っていなさい」
「わかりました」
「先生!」シバがやってきて言います。「準備できました。みんな浜で待ってますよ」
「ありがとう、シバ」おじぃはシバの頭をなでます。「さてアヤメちゃん、もどろうか」
「はい」
おじぃは角灯を手に、菖蒲と岩山をおりていきました。
真夜中の砂浜は、打ちよせる波の子守唄で眠りにつく時間ですが、今夜ばかりはそうもいかないようです。なぜならたくさんのウミガメたちがとても大きなウミガメを中心にして集まっていたからです。
「アヤメちゃん。こちらは島々のあるじ、オオウミガメのスルフファー氏だよ。アヤメちゃんを海の駅までおくりたいそうだ」
「はじめましてスルフファーさん。わたしはアヤメです」菖蒲は大きなウミガメに頭をさげます。
(テティスニスベテキイテイル。ニジノムスメヨ)
スルフファーは水泡の言葉で菖蒲に話しかけると波はやみ、ウミガメたちは涙を流しました。
「先生、産卵でもないのにこれは……」シバはおどろいたように言います。
「島々のあるじ祝福する時、海に新たな島、誕生せん。みな帰る場所がふえて喜んでいるんだよ、シバ」
「おじぃ、ありがとうございました」
菖蒲はおじぃと抱きあいます。
「気をつけてな」
「またね、アヤメちゃん」シバはしっぽをふります。
「ありがとう、シバ」
スルフファーの化石のようなこうらに足をかけ、てっぺんまでのぼります。すべてのウミガメ、ヤドカリやカニは道をあけ、オオウミガメのスルフファーは海までドシンドシンと地面をゆらし歩いて着水します。それはまるで船の進水式のようでした。
菖蒲はみんなに手をふり、ぷっくりと丸い島のようなこうらはレウケ島から離れていきました。
みじかい航海のあいだ、菖蒲のひとり会議が開かれます。
「駅でシロクジラさんを待つのよ、アヤメ」と、菖蒲は言います。
「それから月で王子さまの記憶を手にいれる」と、菖蒲は答えます。
「でも、どうやって?」
「そんなの行ってみなければわからないわ」
「たしかにそうね。やってみなければわからないことだらけよ、人生なんて」
やがて、駅の外灯と待合所の灯りが見えてきました。
「ただいま」
まちぼうけ駅についた菖蒲はベンチで待っているおばぁの胸に飛びこみます。
「アヤメちゃん」おばぁは力強い腕で菖蒲を受け止め、耳もとで言います。「山の上からこっちに手をふってくれただろう」
「おばぁはなんでも知ってるのね」
「あぁ、わかってる、わかってるさ。アヤメちゃん」
食堂でゆし豆腐すばをすすり、まくらに頭をのせたら、その晩はぐっすり眠りました。
シロクジラ
天体観測からひと月後。
菖蒲はいつものように豆腐作りをして、朝ご飯のゆし豆腐すばをすすります。それからイルカのバンドウと海中探検をしました。足をくすぐったわんぱく魚たちはサンゴ街の三丁目、アオサンゴアパートメントに住んでいて、家をのぞくとあわててちりじりになります。バンドウからイルカ式遊泳法をおそわった菖蒲はまるで人魚のように大きなシャコガイケイムショまでおいつめます。ここは悪さをした魚を閉じこめておくためのろうやなので、みんな恐れていました。
「くすぐったりしてごめんよ。きみと友だちになりたかったんだ」わんぱく魚たちは言います。
「わかったわ。そのかわり、あなたたちの街を案内してちょうだい」
こうして菖蒲はわんぱく魚たちとすっかり仲よしになりました。
服をきて食堂にもどると、さんぴん茶をいれたグラスを片手に、とっておきの席で窓にうつる、いつまでもまじらない空と海の絵をおばぁとながめます。
夕方、プラットホームの街灯がチンチロ点滅し、パッと灯ります。
ふたりはベンチにこしかけ、空にうかぶバニラアイスクリームのような月を見ていました。
「ずっとアヤメちゃんを待っていたさ」おばぁはゆっくり口をひらきます。「だから、つぎはみんなでおいで」
「つぎなんて、ないかもしれない」菖蒲はぼそりとこたえます。
大好きな友だちと遊んだ夏休み最後の帰り道、楽しかった思い出はシャボン玉となり「またね」と、夕空ではじけてしまいそうな、どうしようもないさびしさに胸がしめつけられます。
「ここにいてもいい」菖蒲はあまえるように、おばぁの肩に頭をあずけます。「やっとわたしだけの家に帰れたんだもの」
「王子さまとの約束、果たさんとね」
「わたしにできるかな」
「果たせるから約束なんだよ」
「どうやって果たすのかわからないのに?」
「そう、結婚もそうさ。愛しあうふたりがどうして誓いを果たそうか、考えるかい? ただ信じるんだよ。ほんとうの愛はまったく信じて疑わない。果たすつもりのない約束はでまかせっていうのさ」
「そっか」
「アヤメちゃんは王子さまのこと好きなんだろう?」
——スキ。王子さまのコトがスキ?
菖蒲は目の前がぐらぐらゆれて胸はどきどき鳴り、おなかはきゅうっとします。顔はぽっぽと蒸気船のように頭のてっぺんから蒸気がふきださんばかりです。
「おばぁ、そんなのわかんない。だってだって会ってもないし、話してもないし、それにそれに、男子なんてよくわかんない!」菖蒲はおばぁの肩に顔をぐいぐいうずめます。
「たしかにそうだ、なんせわらだからねぇ」
おばぁの大きな笑い声は静かな海をゆらします。
「……おばぁのばか。やっぱりでてくもん」
その時、海のむこうから白く光る大きなマッコウクジラがやってきて駅に停車しました。
「そろそろおわかれだね」
おばぁはそう言って菖蒲を抱きしめ、せなかをポンポンとたたいてからやさしく、なんどもなんどもさすり、耳もとでこう歌いました。
つきぬかいしゃ とぅかみーか
みやらびかいしゃ とぅーななつ
ほーいちょーが
あがりからあがりょる うふつきぬゆ
あやめんあやめん てぃらしょうり
ほーいちょーが
「おばぁ、ありがとう。あっというまだったけど、ずっと前からここにいたような気がするの」
「そうさアヤメちゃん」おばぁは菖蒲のほっぺをなでます。「たいせつな一瞬をすくいよせれば、人生は思ったより長く、ややこしい時間すら、いとおしく感じるものさ」
「わたし、おばぁのようになれるかな」
「もちろん。いい大豆と水とにがりさえあれば」
「うん……」
おばぁは菖蒲の手の甲に丸いスタンプを押すと、くじらの模様に光りました。
「これはどこでも乗り降り自由の乗車証さ。それとここに帰ってくるための道しるべだよ。宙は海とおなじくらい広いからね」
「おーい、まってー!」
シバを乗せたスルフファー氏がシロクジラと反対のプラットホームに停車します。
「あれあれ、なんだかにぎやかだね」おばぁは感心して言います。
いつのまにか、まちぼうけ駅にはスルフファー氏を追うたくさんのウミガメ、イルカのバンドウやサンゴ街のわんぱく魚たち、アザラシ、ペンギン、ジンベイザメやマンタ、クラゲとホタルイカのイルミネーションと、お祭りさわぎです。
「シバ! どうしたの?」菖蒲はおどろいたように言います。
「まにあってよかった。アヤメちゃんの手伝いをするよう先生から言われたんだ。だからボクも月にいくよ」
「まあ! それは心強いわ」菖蒲はシバのほおにキスをしました。
シロクジラ発車の時間。菖蒲はみんなに手をふります。すこしずつ駅が遠くに、やがて街灯はオレンジ色の星となって水平線に消えてなくなります。
「ところでシバ、どうやって空にうかぶ月へいくのか、知ってる?」
「なにを言っているんだいアヤメちゃん」と、シバは首をかしげます。「ボクたちがこれからいくのは、あの夜空にうつる月ではなくて、海にうかぶ月さ」
「おじぃも言ってた。どういうこと?」
「水面の月が空にうつっている。つまり宇宙と海はおなじなのだよ」シバはおじぃの声まねします。
「ほんじつぅはぁ」運転手兼車掌マッコウクジラの低い声が聞こえます。
「シロクジラ観光のキタールにごじょうしゃありがとうございやぁす。つぎはぁきぉくのほし、きぉくのほしでございやぁす。これよりぃスピぃドをあげやすのぉで、ふりをとされないよぅどぅぞぉおつかまりくださぃ……とぉもうしましてもぉ、つかまるところなどありゃぁございやせんがぁ」
自嘲気味な車内アナウンスをおえたキタールは、ぐんぐん速さをあげて海面の月にむかい、潜水艦のようにしずんでいきます。
「ちょ、ちょっとまって。まさかもぐるわけ?」
菖蒲はあわててヒトデのような姿勢でツルツルのシロクジラにへばりつきます。水しぶきをうけながら息をいっぱいにすいこみ、ほおをふくらませて目を閉……じた……ら…………
「くるし……くない?」
「おぼれてないからだいじょうぶだよ、アヤメちゃん」
菖蒲はおそるおそる顔をあげると、チョウチンをぶら下げたアンコウが目の前を通りすぎます。青くひかるプランクトンはまるで深海にちらばった星くずのようで、遠くに幾何学模様の丸い大きな月がうかんでいました。
「これでわかったかな?」シバは菖蒲をのぞき、にこりと笑います。
おきあがった菖蒲は腕をくみ、周囲をぼうぜんと見つめて首を横にふりました。
「いいえシバ。なんべん説明されたって、わたしにはまったくわからないわ」
記憶採取
世界中で語られたおとぎ話しは人々の記憶にきざまれ、夢をえがきます。やがて、忘れられた物語は流れ星となって長いあいだ宇宙をさまよい、忘却の彼方である月に引きよせられます。それらふりそそぐ記憶の断片は無数にちらばり、月はステンドグラスのようにいろどり輝いていました。
菖蒲はつぎの停車地にむかうシロクジラのキタールに手をふり、記憶の星におり立ちます。地面は薄氷の割れた音をたて、七色に発光しました。
「プリオシン海岸にいるみたい」菖蒲はぽつりと言います。
まるで河原で百二十万年前のクルミのような実をにぎりしめた少年たちが改札口にかけこみ、乗りこんだ汽車の窓にうつるおもかげはだんだん消えいるように見えました。
「ふしぎね、シバ」菖蒲は鈴の音を鳴らし落ちる星をつかみます。
「さわってる感じもしない」
「あたってもぜんぜん痛くないや」と、シバは言いました。
「ねえシバ、遠くで割れた音が聞こえない?」菖蒲はうつぶして頭を横にします。「パリパリ、パリパリって、だれか歩いてる」
シバは耳をピクピクさせ、「こっちだ!」と、かけだします。
「まってよ、シバ!」菖蒲は息をきらして言います。「あなたに置いてかれたらわたし、迷子になっちゃう」
「ごめん。うれしくってつい」
目の前に藍色の作務衣を纏うバクが腰かごをぶらさげ、立っていました。すこしおどろいた顔で「やあ」と右手をあげます。
「ここにやってくる旅行者はひさしぶりだ。ぼくはメレ」
「はじめまして。わたしはアヤメ。こちらはシバよ。メレさん、もしかして記憶集めをされているのですか?」
「いかにも。よく知っているね」
「わたし、ある人の記憶がほしくてこの星にきました」
「だれかの記憶がほしいだって!」メレはますますおどろいてから笑い、腕を広げます。「はじめにひとつだけ忠告しておこう。だれかの記憶を選び取るなどぜったいできない。流れ星に名が書いてあるわけではないし、記憶をのぞくこともできないのだから。それにまわりをごらん。記憶の断片がどれほどあると思うんだい。しかもああして流れ星は絶えずふってくる。落下した記憶のかけらを採取するのもむずかしい。ためしにさわってごらん」
メレにすすめられるまま、菖蒲は落ちていた黄色のガラス片にふれてみます。するとガラスはすぐにはじけとび、消えてなくなりました。
「どうしてすぐになくなってしまうのですか?」
「干渉するからさ。記憶はこの星に落ちるまでのあいだ、どんどん儚くなってゆく。落下した古い記憶はアヤメの新しい記憶とふれあい、儚いほうが粉砕される」
「ではどうやって記憶を拾うのですか?」
「これさ」と、メレは手にしている乳白色の長尺棒を菖蒲に見せます。片方の先端は四角い小型スコップに、もう片方は熊手のようにわかれていました。
「初代星の化石からけずりだしたこの棒を使い記憶の断片をかきわけ、こわさないようそっとすくう。それでもあまりいじると消えてしまうから、拾ったらすぐに工房で結晶化させる」
メレはいくつか断片をすくいあげると記憶は消えず、にじ色の火花をパチパチちらしながらスコップの上でおどります。
「このごろの記憶は無色や灰色が多い。良質な記憶を採取するのはむずかしくなっているんだ」
「なぜですか?」
「おそらくむかしの人は夢より現実を、おとぎ話しよりパンについて語っていたのだろう」
「夢、ですか?」
「そう。夢やおとぎ話しは記憶に色をあたえるんだよ」
「王子さまの記憶の色は何色かしら」菖蒲は無数に散らばる断片をながめます。「どんな夢を見ていたのかな」
「さてどうだろう。ここにはあらゆる色の記憶が落ちてくるから」
「探している王子のにおいがわかれば、ボクがおいかけるんだけどね」と、シバは言います。
「それよシバ!」菖蒲はぱっとひらめきます。
「王子さまの記憶をふらせればいいのよ。シバは落ちた星をおいかけ、わたしが拾う」
「へえ、干しの王子さま作戦ってわけかい?」シバはにやりと笑います。
「そんなのむりさ」メレはあきれたように言います。「だれかの記憶を流れ星にしてふらせるなんてつごうのいい話し、聞いたことない」
「どうかしら。これをつかえば」と、菖蒲は金の首かざりから赤い宝石の指輪をはずします。
「うわあ、その赤い宝石!」メレは目を大きくして言います。「ぼくの工房で加工した奇跡の結晶だ!」
「ええっ! どういうことですか」菖蒲もおどろきます。
「その赤い指輪は青い剣と対で加工されたんだ。とってもふしぎな時間だった。そう、あの時もアヤメみたいにとつぜん、ふたりはシロクジラでやってきて……」
太陰潮
夫婦は秘めたる思いで月にやってきました。いつものように記憶採取をしていたメレは、そんな若く美しい男女の姿を目にしたのです。
「自分たちの記憶を探すだって!」メレはふたりの話しを聞いて笑います。「はじめにひとつだけ忠告しておこう。だれかの記憶を選び取るなどぜったいできない。流れ星に名が書いてあるわけではないし、記憶をのぞくこともできないのだから」
それでもふたりは指輪とひとふりの剣を作りたいとメレになんどもたのみます。理由を聞いても、妻の出産前に完成させたいというだけです。
ためしてみればわかるだろうと考えたメレはしぶしぶ記憶採取をおしえることにしました。
しかしふたりはおどろくほどの速さで熟達します。どこからか希少な記憶の断片を採取しては工房に持ち帰り結晶化させ、それはみごとに加工しました。
「あなたたちの作品は芸術だ」メレは感嘆の声をあげます。
夫婦が記憶の星にきてからしばらく経ち、妻の出産はいよいよちかづきます。メレは故郷にもどるよう言いますが、ふたりはもうすこしと、聞きいれません。
「つぎシロクジラがくるまでに記憶を採取できなければ帰りなさい。そうでなければ工房はかさない」
それからふたりはまいにち月をめぐりますが、記憶の断片は見つかりません。すこしもあきらめない姿に感動したメレは深いため息をつき、悲しげに工房へもどりました。
するといつもは聞こえる流星の音がぴたりと止み、なにごとかとメレは工房をとびだします。
なんと遠くに赤と青の美しい尾を引く星ふたつ、からみあったり、離れたりしながら、まるで宇宙を舞台に優雅で気品あふれるバレリーナのように舞いおどっているではありませんか!
流れ星たちはエトワールのパドドゥのために軌道をゆずり、祝福とすこしばかりの羨望をそえてコール・ドのように月の外縁でまたたきます。ダンスを終えたつがいの星は、手をつないであおぎ見る夫婦の手もとにそれぞれ引きつけられたのです。
ふたりは赤と青の星をメレの工房でふたつ同時に結晶化させます。交じりあう記憶の断片は一体となり紫色に、やがてふたたびわかれ、夫はゆらめく紺碧の剣を、妻はこうこうと燃える赤い宝石つきの指輪を像づくりました。
そのようすをメレはおどろきの眼でながめ、かつてメレに記憶の結晶法を伝授した師の言葉を思いだします。
「まこと美しい結晶は、結ばれる愛の序幕だ」そして師はこうつけくわえます。「もっとも、これほど貴重な記憶を手ばなす、おろか者はいないだろう」
完璧に仕事を成しとげた夫婦はメレに感謝し、シロクジラで帰っていきました。
わかれぎわ、メレはふたりにたずねました。
「もしやあなたたちは、はじめから星の引きあう力を知っていたのですか?」
ふたりは見つめあい、小国の王と王妃であること、また【手つなぎの約束】をメレにおしえます。夫はまいにち妻の手をとり、妻は夫の手を離してはならない、という約束を。
それからふたりは高貴な笑みをたたえ、こう言いました。
「わたしたちは永遠につながる手を通して約束を信じ、星の惹かれあう日をただ待っていたのです」
金色あられ
首かざりから指輪をはずした菖蒲は右手の小指にはめると、宝石は炎のように燃えてかがやきます。
流れ星はぴたりとやみ、あたりはぶきみなほどの静けさにつつまれます。
メレとシバは好奇心と恐怖のいりまじった顔で夜空を見上げていると、遠くのほうからたくさんの星がチカチカまたたきました。
「なにかくる!」
シバの言うが早いか、金色の流れ星はあられのようにどっとふりそそぎ、パチパチ火花をちらして消えます。なんと古今東西いろんな王子さまの記憶が菖蒲のもとに引きよせられてしまったのです。
「なんということだ!」メレはたじろぎます。
「アヤメちゃん、ちいさすぎるよ!」と、シバは飛びはねます。
「うん、わかってる」菖蒲は手をくんで目をつぶります。「わたしの王子さま。あなたの夢を、あなたのおとぎ話しを、もっともっとおしえて」
金色あられは菖蒲の願いにこたえるように数を増し、あまりのまぶしさにメレとシバは顔をそむけます。
光にのまれた菖蒲はゆっくり目をひらき——————
「ヘレム! ヘレム!」王子さまの声。
深い森、草をかきわけ、山の斜面をかけおりる。
巨大な老樹のコケむす木の根もとに、どうどうと立つ、せいかんな顔つきの大男。
「ヘレム、きょうはなにをしよう。どんな遊びをおしえてくれるの?」
「あなたの手をわたしの手にのせなさい」
ヘレムと呼ばれる男は手をさしだし、王子さまと手をかさねる。
「山あいの国の王子よ、今から話すことは時がくるまで口外しないように」
「ぼくは【口止めの約束】を守り、あなたについてだれにも、父上や母上にだって話してやいないさ」
男は笑顔でうなずく。
「そうだ。ちいさな約束を守ることは大きな力となる。いつかおまえは大きな力を必要とする時がくるだろう。ゆえに将来の約束をつたえる」
男は両手で少年の手をがっしとつかむ。
「わらとなり、かわききったおまえのくちびるを、この領域のものではない少女が扉のない中庭にある井戸からくんだ水によってうるおす。その時、青き剣は影にとりつく邪悪な王をうちやぶる力となる。
その少女とは」
「その少女は?」
男は顔をよせ、親しみをこめた優しいまなざしで、こちらをのぞきこむ。
王子さまの? ううん、わたしの目を、わたしの……そう、わたしの眼を!
「そうだ、アヤメ」
景色はぐんぐんうしろに流れ、深い森からせせらぐ川、夕日の映える湖畔、石造りのちいさな町をぬけてゆく。山あいにそびえる城壁をなめるように上昇し、バルコニーで手をつなぐ王さまと王妃さまがほほえみかけて言う。
「わたしたちはあなたも信じています」
言葉とともに大地をこえ宇宙へ。王子さまの記憶からほおりだされ、くるんとさかさまに、月の手がぐいと引っぱり、遠くにシバとメレとアヤメ、わたしがいる——————
「シバ! 記憶が流れる。おいかけて!」
菖蒲の指さす方角に、大きな流れ星はすさまじい速さで弧をえがいて落ちます。
シバは地面をけりあげて流星めがけ、全速力でかけだし、メレもついてゆきます。菖蒲は指輪を指からはずし、首かざりにしてもどすと、金色あられはやみ、住んでいたみんなの家を忘れました。
「アヤメちゃん! ここだよここ!」シバは金光のまわりをぐるぐるまわっています。
「でかしたわ、シバ」菖蒲はかがみ、記憶の断片に両手をそえます。
「だめだアヤメ! さわったらこわれてしまう」メレはうしろでさけびました。
「そうね」と、菖蒲はためらわずに星を拾いあげ、「もし、わたしの王子さまでなければ」。
金色の星は菖蒲の手の中でこうこうと輝きます。
「メレさん、王子さまの記憶を結晶化できますか?」
あっけに取られたメレは、ただうなずくしかできませんでした。
物見やぐらと細長いえんとつを目じるしにメレの工房はあります。ほら穴の入り口に『キオクザイクコウボウメレ』ときざまれた木製扉をくぐり、モザイクタイルの階段をおりると、記憶の細片が縞模様の地層となってきらめく壁、丸いガラス天窓、大小さまざまなオブジェの置かれた円形広間に出ました。
「なんてすてきなのかしら」菖蒲は中央にかざられた美しいらでん細工の花びんを見て言います。
「ああ」と、バクは花びんにふれます。「さきほど話した夫婦がはじめて採取から加工まで仕事をした作品だ。ほかのは行商にゆずったけど、桃色に金彩をちりばめられたものはすごくめずらしいから記念にのこしておいたんだ。まあ結晶化した記憶の断片は役割を終えると自然に割れてしまうのだけど」
「いつ壊れるかわからないのに売れるんですか?」
「そこに価値がある。美しい記憶のおしまいを見ようと所有者は結晶を手もとに置くのさ」
円形広間を中心に各部屋は放射状にいくつかわかれ、台所、居間、寝室、資料室、加工部屋、そして記憶を結晶化させるための作業部屋がありました。
「これらは作品となる前の記憶の結晶だよ」
メレは長い板に並んだ色とりどりのガラス玉をさします。それから作業部屋のすみにある口をななめにむけた白いるつぼの前に立ちます。
「星の光を集めたこのるつぼに記憶を入れるんだ」
菖蒲は強い光を放つるつぼに王子さまの記憶をほおります。すると記憶の断片は火花をちらし、くずれて砂のようにサラサラになります。メレは茶色い紙袋からあまいにおいのする金平糖をスプーンで小さじ一ぱいほどすくい、るつぼにいれました。
「お菓子みたいですね」
「この星の核をけずったものだよ。結晶を安定させるためにつかう」
「ぜんぶこの星で取れた材料と光が必要だから工房があるわけですね」
「そのとおり」と、メレは壁にたてかけられたかくはん棒をるつぼにつっこみ、かきまぜます。「こうして結晶化するまで記憶、星の核、光。すべてひとつになるよう手を止めずにゆっくりまぜつづける」
「メレさん、わたしがまぜてもいいですか」
「もちろん。でもこの棒、アヤメにはすこし重いかも」
メレはかくはん棒を菖蒲にわたします。
「かくはん作業は、まぜ手の思いによって結晶の仕上がりも決まる繊細な工程なんだ」
るつぼの中で砂金と金平糖はころがり、キュンキュン、キュンキュンと工房中に砂の鳴き声が聞こえます。
「つかれたらぼくを呼んで。いつでもかわるから」
「はい、わかりました」
メレは菖蒲をのこして部屋をあとにします。そのようすをシバは中央広間でうずくまり、見守っていました。
つぎの日。
「ふつう結晶化するまで半日、どんなに長くても一日かからない」メレはけげんそうに言います。
「でもアヤメちゃん、きのうからあのままずうっとかきまぜているよ」と、シバは言います。
「奇跡の記憶だからなにがあってもおかしくないけど」
「だいじょうぶかな」
「かわろうかって言っても聞かないんだ」
菖蒲はたくさんの思い出や夢、おとぎ話しのこもった王子さまの記憶をだれにもさわらせたくありませんでした。もちろん記憶は菖蒲に語りかけはしませんが、星の鳴く音にできるだけ耳をかたむけ、王子さまに信頼してもらおうとゆっくり待っていたのです。三日間ひたすらかきまぜつづけ、菖蒲の想いと王子さまの記憶が理解しあった時、砂の音はなくなりました。
「かくはん棒をひきあげてごらん」メレは言います。
菖蒲はかくはん棒をるつぼからあげると、先端にふわふわとしたわたあめがからまっています。
「こちらの台に棒をむけて」
メレは平皿を作業台におきます。かくはん棒についたわたあめは白くにごり、皿にてろりとたれて、おまんじゅうのような丸い形にかたまります。
「水晶玉みたいだね」シバは結晶にうつるメレを見て言います。
「おかしい」と、メレは腕をくみ、首をかしげます。「あれだけ良質な金の記憶が、どうして透明な結晶になるのだろう」
「アヤメちゃんはどう思う?」
シバが顔を横にむけると、菖蒲はかくはん棒によりかかるように、すうすう眠っていました。
願いの像
うっすら目をあけるとモザイクの天じょうが見えました。ズキズキ痛む両手にほうたいがまかれ、ベッドで寝ているのに気づきます。
ころがるようにベッドからおりて広間を通り、だれもいない作業部屋にむかい、作業台に置いてある水晶をながめます。
「アヤメちゃん、起きたんだね」背後からシバの声が聞こえます。「ずうっと寝ていたから、しんぱいしたよ」
「わたし、そんなに休んでたの?」
「うん。アヤメちゃん、三日間も手がぼろぼろになるまで記憶をかきまぜて倒れたんだよ。眠ってるあいだにメレが特製なんこうをぬって手あてしたんだ」
「そうだ、メレさんは?」
「記憶採取に出かけている。メレはアヤメちゃんの結晶についてなやんでるみたい」
「どういうこと?」
「金色だった記憶が無色透明の結晶になったんだ」
「わたし、なにかまちがえたのかな」
「いや、そうではない」
工房に帰ってきたメレは言いました。
「なぜ色がないのかしら?」不安そうにたずねる菖蒲。
「ぼくにもわからない」熊手を立てかけたメレは作業台のそばにあるイスにすわり、ひと息つきます。「資料室にある師匠がのこした作業日誌をしらべてみたけど、色つきの記憶から無色の結晶になったという記録はなかった。無色の記憶に色をつけるという技法はあるのだけど」
「採取した王子さまの記憶はもともと無色だったのかしら」
「いやいやどうだろう。あの時見たのはたしかに金色の星だったし、透明な記憶は夢ぬけといってガラスとかわらない」
「そんな……」
みんな答えを探そうと王子さまの結晶を見つめ、低い声でうなります。
「わたしは王子さまの記憶だと信じる」と、菖蒲はきっぱり言います。「たとえガラスとおなじでも、だれに見わけられなくっとも」
そうです。菖蒲にとって透明な結晶は、道で拾った石ころに名前をつけてみがき、クッキー缶にしまうような、たくさん思いのこもった宇宙でたったひとつの宝物だったのです。
「わかった」と、メレはうなずき、イスから立ちあがります。「アヤメが言うなら加工の工程にすすもう。仕事には敬意を、達成には賞賛を。ぼくの師のおしえだ」
「なんせアヤメちゃんの王子の結晶だからね」シバは片目をパチリとさせました。
「まずはその手をなおしてから」と、メレは菖蒲の手を見て言います。
「ほら」菖蒲はほうたいをほどき、ふるえる手のひらをゆっくり開いたり閉じたりします。「ちゃんとうごくわ。今からすぐに加工しましょう」
「しかしそんなにボロボロでは……」
「メレさん、お願い」
「わかった」とだけ、メレはそれ以上なにも言わず、となりの部屋に菖蒲をつれていきます。
加工部屋はせまく、板ばりの小上がりで中央に穴があり、ろくろがすえられていました。
「アヤメ、ろくろの前にすわって」
菖蒲はくつをぬぎ、スカートのすそをまくりあげてこしかけます。メレは王子さまの結晶をろくろ台の上に落とすと、まるでおもちのようにぺちっと台にひっつき、ふるふるゆれます。
「足もとにある円ばんをけってごらん」
メレの言われたとおりにすると、ろくろは反時計まわりにくるくる回転をはじめ、結晶がふわりと宙にうきました。
「加工にとくべつな技術はいらない。結晶にふれて思いうかべるだけでいい。結晶はアヤメの願う像になる。ただし手を離したら二度と像をかえたり、もとにはもどせないから気をつけて」
そう言ってメレは部屋を出ました。
結晶の加工は思いをみだされるとうまくいきません。どんな像にもできるのはワクワクしますが、な
かなか思いどおりにはいかない作業なのです。
メレはろくろとむきあう菖蒲に、加工法の師からはじめて加工をゆるされた自分の姿をかさねます。
茶わんを象るよう師にいわれた弟子のメレは、緊張した手つきで結晶にふれます。丸いうつわを想像し、茶わんの像がくっきりうかび、もうすこしよくしようと、おごそかな茶わん、さらにだれも考えつかないような変わったうつわをつぎつぎに思いつき、まるで博物館を旅しているような気分です。
うっとりしたメレは、長い鼻をヒクヒク。どこからかお米としょう油のにおいがします。おにぎりにじんわり染みこんだしょう油は炭火でじっくりあぶられ、パリパリの表面をわれば、ふっくらとしたお米のあまい湯気につつまれます——味噌汁とぬか漬けもほしいな。きょうの昼ご飯はなんだろう——
おすし、チャーハン、カレーライスと大好物におぼれる姿はまるでヘンゼルとグレーテル。メレのおなかはぐぅっとなり、思わずあっと声をだし、結晶から手を離してしまいます。メレはじめての作品は三角の像をした焼きおにぎりでした。
「焼き目がじつにすばらしい!」と、師はメレをなぐさめるように言います。「なあメレ、自然な願いこそ最高の像なのだよ」
ベテラン職人はなんでも自由に結晶を象ることができます。描かれた絵や詩、音楽など、加工師はめいめい思いをくむ技法を知っていました。
ゆたかな色をもつ流れ星が落ちていた時代は分業制で、記憶採取、結晶、加工と、職人がそれぞれいて、なかでも加工の工程は花形でした。いつからか透明のもろい断片ばかり落ちるようになり、職人たちは仕事をやめてほかの星へ、工房もひとつまたひとつと消え、メレだけになりました。
「できた」加工部屋から菖蒲の声が聞こえます。
「ずいぶんと早くおわったみたい」と、シバ。
「はじめはじっくり時間をかけるものだけど」メレはふしぎそうに加工部屋にむかいます。
ろくろ台の上には素朴なフタつきの小ビンがポツンとひとつ、もしほかのガラスビンが並んでいたなら、まったく見わけがつかなかったでしょう。
「おどろいたね」メレはたまらず笑ってしまいます。「これはなんとも」
「願いの像はきめていたの」と、菖蒲は小ビンをまんぞくそうに手にします。「だって、井戸の水を入れるだけですもの」
「それはしつれいした」メレは軽くせきばらいをします。「目的にかなった作品というわけだ」
コツコツと玄関扉のたたく音を聞いたシバは、菖蒲とメレのもとに飛んできます。
「だれかお客さんがきたみたい」
「そうだ!」と、メレは思いだしたように手を打ちます。「行商の日だった」
「なにか売りにくるのですか?」菖蒲はメレにたずねます。
「いいや、行商に加工した記憶をゆずるのさ。かわりに食べものや日用品とか、たまに珍品をもらったりする。アヤメの手にぬった即効性ナンデモキクリームもそのひとつさ」
「わたしの手、だいじょうぶかしら」
菖蒲がいぶかしげに両手を見ていると、玄関扉がばっといきおいよく開きます。
「やあ、ひさしぶりだね、メレ!」
階段をおりてきたのは、青いふろしきをかついだ、スーツ姿のシロウサギでした。
行商シロウサギ
「ねえねえ、アヤメちゃん」
シバは小ビンをじいっとながめ、広間でメレがあぶったしょう油味の焼きおにぎりをほおばる菖蒲に話しかけました。
「なあに、シバ」
「この小ビンなんだけどさ、もしかして……」
「おばぁの家にあるガラスのしょう油さしよ」
「やっぱり。たいせつな作品だから、へんなこと言ってはよくないと思ってさ」
「なんで?」と、菖蒲はお茶をすすります。
「ろくろの前にすわっていたら、なんだかおなかすいてきたの。これはいけないって王子さまを思いうかべ納豆ご飯から……」
「まさか、わらからわら納豆からしょう油からのおばぁってこと?」
菖蒲は目を丸くするシバの耳もとに手をそえ、ひそひそと小声で、「そのまさかよ、シバ」。
ふたりはしばらく遠くに目をうつし、ぷっとふきだしてくすくす笑います。
作業部屋で商談をおえたメレとシロウサギは広間にもどって来ると、楽しそうに肩をゆらす菖蒲とシバを見つけます。
「なにかおもしろいことでもあったのかい?」
「いいえ、なんでもないわよね、シバ」菖蒲は口もとに人差し指をあてます。
「う、うん。なんでもないよ。ね、アヤメちゃん」と、シバは頭をこきざみにふります。
でも考えれば考えるほどおかしくて、菖蒲はおなかをおさえ、シバはへんてこりんな顔をします。
「まあいいや」と、メレはけげんそうに言います。「それよりアヤメ、こちらは行商シロウサギのアルネヴ。加工した結晶の取引をまかせている友だ」
シロウサギはグレンチェックスーツのえりをクイクイひっぱり、ちょうネクタイをキュキュッとつまみ、背筋をのばしてからすらりと長い足をくっつけ、つややかなくつのかかとを鳴らして菖蒲の前に立ちます。
「はじめまして。わたしは星間行商のアルネヴです。宇宙の塵から恒星まで、お客さまの所望する品をなんでもおとどけいたします」と、いかにも自信ありげな表情で会釈しました。
「はじめまして、わたしはアヤメです。アルネヴさん、金色の記憶を結晶化させたら透明になったんです。見ていただけますか?」
「もちろんですとも。金色の結晶など、なかなか目にすることのできない博物館級の品ですから、たいへん興味があります」
菖蒲は加工した透明の小ビンをわたします。
アルネヴはまじまじと見つめ、「ううむ。これはなんともむずかしい品だ。ガラスの小ビンにしか見えない。しかし材質はまちがいなく記憶の結晶。金色の断片と言われなければ色ぬけ品でしょう」。
「そうなんだ」と、メレはうなずきます。「でも金色の記憶をこの目ではっきり見た。それに、結晶化まで立ち会っているからほかの断片がまじるはずない。もっとも、ほかの記憶と混合したら干渉により結晶化されないけど」
「なるほど」と、するどい目つきのアルネヴはあごに手をあてます。「ますますむずかしい」
「そのしょうゆさ……」と、シバは思わず言いかけます。
「シバ!」顔をしかめる菖蒲。
「ごめんごめん。金の結晶について、もっとくわしい人はいないかな。ボクの先生に聞いてみるとか」
「まあ、それはいい考えね!」
「なるほど」アルネヴはふたりの話に割って入ります。「それでしたらどんなものでも見定める超一級の鑑定士がいますよ。その鑑定士にみてもらえば、あるいはなにかわかるかもしれない」
「アルネヴさん、よろしければ鑑定士さんを紹介していただけませんか?」
「もちろんですとも」アルネヴは喜んで応じます。「わたしも小ビンの秘密について、ぜひとも知りたいのでね。ただ……」
「問題ありますか?」
「ええ、ひとつだけ。宇宙を旅するためには旅券が必要なのですよ、ミス・アヤメ」
「そんな」菖蒲はこまったように胸に手をあてます。「わたし、持っていません」
「すばらしい!」アルネヴは菖蒲の手を見て、おどろいたように言います。「持っているではありませんか」
「どこですか?」菖蒲は自分の体にしっぽでもついているのかと見まわします。
「あなたの手に光るのは海の領域を統べる女王テティスの認印ですよ、ミス・アヤメ」
なんと、くじら模様のスタンプは宇宙の果てまで旅できる、とくべつな旅券だったのです。
「まちぼうけ駅のおばぁが押してくれたんです」
「なるほど。わたしもちかくのレウケ島に住む大冒険家イアソン氏と取引でよくいきます」
「レウケ島のイアソン氏っておじぃのこと?」
「そうさ」と、シバは言います。「イアソン先生はアルゴー船でレウケ島に来たんだ」
「そういえばわたし、おばぁとおじぃの名前を知らなかった」と、おどろく菖蒲。
「よかったね、アヤメちゃん。これでボクの役目も果たせたよ。早く先生の家に帰って報告しなきゃ」
「ありがとう」菖蒲はシバを抱きしめ、頭をなでます。「あなたがいなければ王子さまの記憶を見つけられなかったわ」
「干しの王子さま作戦、大成功だったね。それにボクたちだけの秘密もできたし」
「メレさんも、ありがとうございました」菖蒲はメレとあく手します。
「こちらこそ」と、メレは照れながら言います。「アヤメを見て記憶採取は奥深い仕事だと学んだ」
「よし、ではさっそく鑑定士のいる夜明けぬバザールへむかうとしよう。銀河をわたる長旅になりますよ。ミス・アヤメ、わたしについてきて。家と仲間を紹介します」
そう言ってアルネヴは菖蒲を工房の外につれだします。外にはとても大きな白いザトウクジラが停車中で、その背に船のブリッジのような家が見えました。
「こちらはわたしの旧知の仲にして商売の相棒、シロザトウクジラのサトウです」アルネヴが呼ぶと、シロクジラはこちらにやってきます。「サトウ、夜明けぬバザールまで旅をするミス・アヤメだ」
「はじめまして、アヤメです。サトウさん、おせわになります」
サトウは菖蒲を見て、大きな口をゆっくり開き、「はじめましてぇ、サトウでいいよぉ。とってもかわいいむすめさんだねぇ。よろしくぅ」と、あいさつしました。
アルネヴはサトウの背中から垂れ下がる太いロープに足をかけ、「どうそ、こちらへ」と、菖蒲を抱きよせロープを引っぱると、サトウの背にある大きな滑車がくるくるまわり、エレベーターのように家までいっきにもちあがります。
「わたしの家にようこそ」
部屋の床は豪華なペルシャじゅうたんがしかれ、黒ぬりの木製ダイニングテーブルとイス、周囲の壁はいくつもの大きなつづらで仕切られ、天じょうはなく、ハンモックがぶらさがっていました。
「長距離旅行はここで寝とまりするのです。なれれば居心地もよくなるでしょう」
「アルネヴさんの家は秘密基地みたいですね」
ふたりが話していると部屋全体はぐらぐらゆれます。「出発のあいずだ」アルネヴはよろめく菖蒲の手を取り、サトウの頭上にある甲板にむかいました。
菖蒲はぐるり一望してシバとメレを見つけ、手をふります。地平線はみるみる球体に、幾何学模様となった月にはいくつもの流れ星がぶつかり、花火のようにはじけ散ります。
「ねえアヤメ」小ビンをにぎる菖蒲は言いました。「大砲じゃなくってクジラで月にいくのをヴェルヌが聞いたら、きっと腰ぬかすわよ」
月は遠く、まわりの星とおなじほどちいさなつぶとなりました。
「ミス・アヤメ。歓迎をかねた、ささやかなティータイムにあなたをお誘いしたいのですが、招待をうけていただけますか?」
紳士のアルネヴは腕を差しだしました。
「もちろん、よろこんで!」
「いやはや二度も奇跡を見るとは」メレは遠ざかるシロクジラをながめ、ぼんやり言いました。
「でもね」と、シバはこたえます。「ボクの先生がよく言うんだ。二度あることは三度あるぞって」
メレは大笑いしてから肩をすくめ、工房に消えていきました。
夜明けぬバザール
夜明けぬバザールには朝がやってきません。それでガス灯やお店の照明、ネオンサインは絶えずきらめいていました。
バザールのショーウィンドウには服飾や陶器、貴金属に宝石から隕石まで飾られ、ふしぎな色と形の野菜やくだものも並びます。工房や食堂、喫茶店に遊園地やデパートなど街全体は活気にあふれていました。
「朝や昼といった時間のサイクルで活動しない街なんだ」
バザールを歩くアルネヴは菖蒲に説明します。
「日がのぼると起きて、落ちれば寝るのがふつうだけど、ここではずっと夜だから眠くなったら眠り、おなかがすいたら食事をする、というぐあいに、時間にしばられずくらしている」
「どうやって待ちあわせするの?」と、菖蒲は聞きます。
「しない」アルネヴはキッパリ答えます。「会いたいと思ったら会いに行くし、いなかったらまたいつかって」
「時計は? 電話とか」
「まさか」と、アルネヴは顔をしかめ、「きゅうくつでどうかしてしまうよ。時計を手にした、遅刻にいらだつシロウサギなど考えられないだろう?」
バザールでは多くの動物たちがそれぞれ買い物を楽しんでいました。妻ライオンにつきあわされた夫ライオンが大きな箱と手さげ袋を両手にバランスをとりながら歩いています。おめかししたメンドリは子どもたちをうしろに連れ、楽しみにしていたフルーツパーラーへパルフェを食べにいきます。中おれ帽にステッキを手にしたハシビロコウは、ぼーっとブティック前で立ちつくし、オーナーのヒョウ夫人がこまりはてています。秘伝スパイスで有名なカレーショップ『ピッグ』のにおいにさそわれたウシは行列を、通りをへだてたむかいのカレー屋『カウ』ではブタが行列をつくります。
「わたしはおすすめしないよ」と、アルネヴは言います。「味はわるくないが、どちらも鳴き声がうるさくてね」
とりわけにぎやかな広場の中央ではスパンコールドレスにカールさせたまつ毛のホッキョクオオカミが、アコーディオンを奏でるヤマネコの伴奏で『ポラーノの広場のうた』を歌い、みな足を止め、うっとり聞きいっていました。
つめくさ灯ともす 夜のひろば
むかしのラルゴを うたいかわし
雲をもどよもし 夜風にわすれて
とりいれまぢかに 年ようれぬ
まさしきねがいに いさかうとも
銀河のかなたに ともにわらい
なべてのなやみを たきぎともしつつ
はえある世界を ともにつくらん
「アルネヴ!」歌い終えたホッキョクオオカミは、観衆の中にかつての恋人を見つけ、抱擁します。
「いつ帰ってきたの?」
「やあミセス・レイラ、急用でね。常夜の歌姫と呼ばれるきみの声を聞けるぼくは幸せ者だ」
「あなたのためならいつでも」
「ひさしぶりじゃないか、アルネヴ!」
「ザラーファにワヒドカルン!」旧友のキリンやサイもやってきてアルネヴをわっとかこみます。
ひとりのこされた菖蒲は、ベンチにこしかけ、たくさんの動物たちにまじる男や女、子どもからおとなの人影が行き交う様子に目をやり、夜明けぬバザールにつくまでに起きた出来事を思い返しました。
記憶の星を出発したシロザトウクジラ・サトウ号の乗組員となった菖蒲は、アルネヴの秘書をしていました。買い集めた珍品をてきぱきと整理してはカタログにまとめ、取引に持っていきます。
「ミス・アヤメのおかげで商談がスムーズに成立する」と、アルネヴはまんぞくそうに言いました。
ティータイムには新商品の説明を聞き、質問したりして楽しみました。
「このお茶、とてもいい香り。今までにない味でおいしい」と、菖蒲は言います。
「さすがミス・アヤメだね。これはとくべつな花茶なんだ」と、アルネヴは自慢げに言います。
「希少な長寿星カノープスの竜骨をどうしてもほしいという客がいた。どうしようか迷ったけれど、三千年に一度しか咲かない幻の花ウドンゲをブレンドした茶葉を提示されてしまってはね」
「そっか、香りの正体はめずらしい花というわけね」
「ああ、しかし秘密はそれだけじゃあない」と、アルネヴはもったいをつけて玉虫色のつつをだします。
「ある村の伝統的な保存法で、この茶づつで熟成させるんだ。はじめは酸味がたつが、だんだんミルクのようなまろやかさに変化する。ほんのりハニーの甘みがあるけど、くどくはならない」
「うーんアルネヴ、わたしはミルクよりチョコレートだと思う」
「なるほど、いわれてみればそうかも」と、あごをなでるアルネヴ。
「わたしのテイスティングはこうよ。口にふくむと上品なローズの香り、レーズンのような深みのある酸味と甘み。なめらかなカカオのコク、後口はさわやかなカルダモンね」
菖蒲は身ぶり手ぶりで、いきいきとお茶について説明します。
「すばらしい!」アルネヴは思わず拍手します「ミス・アヤメ、お茶の商売もはじめよう。きっとわくわくするような出会いがあるにちがいない」
アルネヴは行商の仕事を選んだのも出会いだと話します。
「つまりね、わたしはせっかちということさ」
オリオン座の南にあるアルネヴの故郷で家族と昼食をとっていた時、菖蒲に言いました。
「友の手紙を待つナマケモノにもいつか出会いはとどくだろう。ポストの前でそわそわするキツネもいるし、待てずに郵便局まで走る好奇心たっぷりなコッカースパニエルもいるかもしれない。わたしについていえば……」
「家までおしかけるせっかちシロウサギね!」秘書のするどい指摘にアルネヴの十人兄弟は笑います。
そんなせっかちシロウサギと菖蒲はいろんな星に出会いました。オペラハウス『かに座』で上演されたカルキノスがふみつぶされる劇は涙なしでは観れませんでしたし、こと座シェリアクでの舞踏会は海の女王テティスのお姫さまとかんちがいした星の王子さまたちからワルツをさそわれました。おひつじ座にある羊星では秘薬ケムクジャラシを飲んだアルネヴが全身まき毛モフモフにふくれあがり、羊飼いに毛刈りバサミで刈られてツルツルに。菖蒲はおなかを抱えて笑いました。
大きなハンモックにゆられたふたりは星々をつなぎ、長旅のあいだにすっかり意気投合し、深い友情で結ばれました。もし王子さまとの約束がなければ、菖蒲はアルネヴと行商の仕事を楽しんでいたかもしれません。
「ミス・アヤメ、待たせてすまない」アルネヴは言います。
「いいのよ。お友達との再会はたいせつにしないとね」
「ありがとう。さあ、きみとの約束を果たそう」
大通りから入り組む迷路のような路地に入り、奇妙なハーブやスパイスを売る店、バー、地下へとつづくあやしげなラウンジを横目に、さらに進みます。道のつきあたりにジジジ、ジジジと音をたて、ついたり消えたりする赤むらさきの『室定鑑レェシア』と、書かれたネオンサインがありました
「ここがわたしの修行先、アシェレ鑑定室だ。店主は高名な工学博士で考古学にもくわしい。星間ガスを利用したエネルギーシステムで夜明けぬバザールを大きな街にしたのはアシェレ博士なんだよ」
木の扉を開けた先は古びた飾り棚にくすんだアクセサリーやヒビの入った食器がたくさんつみかさなり、ほこりだらけの棺桶からのぞくミイラや倒れかかった甲冑などがひしめきあっていました。
商品を倒さないようせまい通路を横むきに、もぐるように奥へ奥へ進むと、赤いセータにフィンチ型メガネをかけた老ヒツジが薄灯りの下で金のアクセサリーを凝視していました。
「博士、おひさしぶりです」
「字がつぶれておるのぉ」老ヒツジはアルネヴに気づかない様子で、毛むくじゃらの頭をかきながらブツブツひとりごとを言います。
「その象嵌技術は、おそらく百万年前に噴火で消えた星、ペイポンでつくられたペンダントではありませんか?」と、アルネヴはのぞきこんで言います。
「わしもそう思うんじゃが、裏の刻印がな。あとで打ったのか、それとも偽物か……」
老ヒツジはそう言ってゆっくり顔をあげ、アルネヴを見つめ、目を大きくします。
「やあやあ、アルネヴか。ひさしぶりじゃなぁ」
「博士、お元気そうで」
アルネヴは手をのばし、老ヒツジとあく手をします。
「しばらくここに顔を見せないということは商売上々かな。サトウは元気かい?」
「はい。博士によろしく、と。ここまで連れてこれませんので」
「イッヒッヒッヒ。わかっとる、わかっとる」
「博士に紹介したい人がいます」
「はじめまして、わたしはアヤメといいます」菖蒲はおじぎをします。
「ほう、これはかわいい実体の子か。わしはアシェレじゃ」
老ヒツジのアシェレ博士は菖蒲とあく手をかわします。
「さっそくですが、博士に鑑定していただきたい品があります」
「わしにとな」アシェレ博士はおどろいたように言います。「おぬしのほうが目も肥えておるじゃろうて」
「博士にはまだまだ遠くおよびません。鑑定していただきたいのは記憶の結晶です。ミス・アヤメ、見せてもらえる?」
「わかったわ」
菖蒲は小ビンをポケットから取りだし、アシェレ博士にわたします。
アシェレ博士はかがみこむようにして鑑定をはじめます。フタを開けて底をのぞき、アルコールランプのゆれる光にあててコンコンとやさしくたたき、なでてからつくえに置きました。
「で、アルネヴ。おぬしの見立ては?」
「はい。よくある透明な記憶の結晶だと思います。ただ……」
「ただ?」
「金色の記憶から結晶化したと聞いていますので、透明であるにはなにか理由があるのかと」
「ふむ。ではすこし質問を変えようか」と、アシェレ博士は見透かすように目をほそめます。
「もしなにも知らず、これを見たら、サトウの背中に乗っとるおぬしの全財産と交換するかな?」
かたい表情のアルネヴ。ぴんとはりつめた空気が流れます。
「いいえ、しません」
「理由は?」
「損失が高く、利益は見こめません」
「つまり、色ぬけした、そこらにころがる小ビンであると?」
アルネヴは思わず目をそらします。
ヒゲにかくされたアシェレ博士の口角は上がり、メガネをはずします。沈黙を楽しむように数回まばたきをしてから大きなため息をつき、「残念だよアルネヴ。おぬしは一粒の真珠のためにすべてを売った偉大な商人にはまだまだ遠い」。
「どういうことですか!」
「おぬしが星間行商をはじめたいと言った時、わしの話しをおぼえておるかね?」
「はい。よくおぼえていますとも。常識を捨てよ。近似値で評価すべからず。本質を見よ。わたしはいつも心にとめてきました」
「ふむ。個とは似て非なるもの。全は微妙な差異にあり。真は客観に拠る事実よ」アシェレ博士は菖蒲に目をうつし、「この小ビン、アヤメくんはなんだと思うかね?」
「王子さまの記憶で結晶化と加工をした金色の小ビンです」菖蒲は迷わずに答えます。
アシェレ博士は笑顔でウンウンとうなずき、小ビンをアルネヴにわたします。
「もう一度よく観なさい」
言われたとおり、しばらく鑑定しているとアルネヴの顔は紅潮します。
「まさか、まさか、これはもしかして、いや、そんな!」
「そういうことじゃよ、アルネヴ」
「これがあのすきとおった純金……しかし、あれは古い本の!」
「いいかいアルネヴ。まったく未知なるものを前にする時、それまでの知識や経験はいたずらする。おぬしは透明な記憶は色ぬけして価値をもたない、という常識にとらわれ、すきとおった純金の小ビンをガラスの近似値で錯覚した。しかもこの品のむつかしいところは質朴とした外見。だがここで重要なのは本質ではないかね」それからアシェレはこうつけくわえました。「まあわしもこの目で見るまで表現のひとつと思っておったがの。これじゃから鑑定はやめられんわい。イッヒッヒッヒ」
「あの、すきとおった純金とはなんですか?」と、菖蒲は聞きます。
「古い預言書にでてくる鉱物で、『ガラスのような純金』ともいわれている。不純物をうけつけない精錬しつくした金……領域に存在しない伝説の鉱物なんだ」
「ふつう」と、アシェレ博士は言います。「記憶を結晶化させる際、思念が混じる。つまり、もとの色にまぜ手の思いが色をくわえ、そのにごりは結晶に価値をうむわけじゃが、この小ビンは金色の記憶がアヤメくんの思いによって鍛えられ、純度をきわめた、と考えられる」
「金色の結晶でも、その希少性は後世語りつがれるのに、すきとおった純金はいったいどれほどの値打ちなのだろう……」アルネヴは声をふるわせます。
菖蒲はふと顔をうしろをむけ、薄暗い店内を見ました。
「ミス・アヤメ、どうしたの?」
「扉の開く音がしたような」
アルネヴはせまい店の通路をのぞき、「だれもいないよ」。
「気のせい、かしら……」
「なあ、アヤメくん」と、アシェレ博士は言います。「よほど深いわけがあるんじゃろう」
菖蒲は深くうなずき、扉のない中庭について話しました。
「なるほど。言いつたえでは在りえない領域と聞いたが」と、アシェレ博士。
「旅のうわさで耳にしたことがあります」と、アルネヴは言います。「特定の|《ばしょ》ではないはず」
「わたしは中庭を見ました。それにおじぃは闇の門をくぐり、中庭のちかくにまで行ったのよ、アルネヴ」
「レウケ島のイアソン氏か。彼ほどの大冒険家であれば信ぴょう性は高いね」
「闇の門は考えになかったの」アシェレ博士は感心します。「あそこは光うけつけぬ、生命と正反対の領域。足をふみいれれば二度とはもどれまい」
「はい。それでもわたしは闇の領域にむかいます」
「ほうほう」アシェレ博士は菖蒲の覚悟の目を見定め、笑みをうかべて言います。「その思いが奇跡の小ビンをうんだ、というわけじゃな」
「おしえてください。闇の門はどのようにいけばよいのでしょうか?」
「なにを言ってるんだい、ミス・アヤメ。このバザールのすぐそばにあるよ」
「ええっ!」菖蒲は思わず声をあげます。
なんと、知らないうちに目的地まできていたのです。
家出した影
雨がしとしとふってきました。ガス灯やネオンは、ぬれた地面のモザイクガラスに反射して、虹色の水玉をキラキラうつします。
アシェレ鑑定室をあとにした菖蒲とアルネヴは頭をおさえ、路地を走っていました。
「大きな屋根があるのに、なぜ雨はふるのかしら?」と、菖蒲は聞きます。
「街の湿度と温度を安定させるために水滴が落ちるしくみになってるんだ」
ふたりが大通りにぬけようとした時、菖蒲はなにかとぶつかり、「きゃっ」と、声をあげて水たまりにしりもちをつきます。
「だいじょうぶかい?」と、アルネヴはすぐに手を差しだします。
「うん、ありがとう」菖蒲は痛そうに腰をさすり、「だれかとびだしてきたみたい」。
「あやまりもせず立ちさるなんて!」
「わたしも前をよく見ていなかったから」
菖蒲は腹を立てるアルネヴをなだめ、サトウの待つ市外の公園にいそいで帰りました。
「きゃあああ!」
サニタリールームで顔をふいていたアルネヴは菖蒲の悲鳴にびくりと肩をふるわせました。
「小ビンがないの!」
「アシェレ博士の店に忘れたんじゃないのかい?」と、アルネヴは菖蒲にタオルをわたします。
「ポケットにちゃんといれたわ」
「では帰る道すがら落としたのかもしれない」
「さっきころんだときかな」
「往来のはげしいバザールで落としたらたいへんだ。はやく探そう!」
家を飛び出し、ふりしきる雨もそっちのけ、ふたりはあわてて事故現場の交差点にもどります。
「ああどうしよう、どうしよう!」
顔色をうしなう菖蒲はあっちふらふら、こっちふらふら、気もそぞろです。
「王子さまがもどせなくなったらどうしよう!」
見かねたアルネヴは菖蒲の背にそっとふれます。
「おちついて。いいかい、わたしは博士の店までたどる。きみはこのあたりを探して」
「うん、わかった」
雨ガッパ姿の動物でごったがえすバザールではいつくばるように探しまわりますが小ビンはどこにも見つかりません。キラキラ光るガラスの細片がタイルの目地に落ちていると、まさか割れてしまったのではないかヒヤヒヤします。
「見つかってお願い。見つかってお願い」と、菖蒲はぶつぶつ念じ、フラフラ歩きます。
ふりやんだ雨や周囲の様子など気にもせず、地面をひたすら追いかけ、にぎやかなバザールからどんどん遠ざかります。黒い灯火のゆれる石畳の両わきに白暖簾のちいさな屋台が立ち並ぶ通り道を進み、周囲は霧のような闇につつまれました。
「サキにススんではイケナイ。サキにススんではイケナイ」屋台から聞こえるヒソヒソ声。
つめたい風にぶるりと肩をふるわせた菖蒲は、やっと頭をあげました。
目の前に、高さ二十メートルはある鳥居のような巨大アーチ門から人影のようなゆらぎが現れては消え、バザールのほうへ行ったり来たり往来しています。
あまりのぶきみな光景に、菖蒲はこわくなってあとずさりします。すると、門のほうから夜の海をてらす灯台のように、チカチカと光がまたたき、菖蒲は目をうたがいます。なぜなら月で見た金色の流れ星と同じだったからです。自然と足は光にむきますが、近づけば近づくほど深い闇のほうへすいよせられます。
暗黒からもがきのばされた影のかたまりは乾いた風によって人形となり、男女は交わり、子を産み、すぐに朽ちてうつろいます。菖蒲は嵐にもまれ、重い足どりでわずかな光へ進んでいると、若い男女の影がそばによってきます。甘美なぬくもりにまどろみ、菖蒲と影は親子のように仲良く手をつなぎ、深い闇の領域へと連れ去られていきます。
「おかえり、おかえり、わが子よ」と、耳に聞こえる男女の混声。
「お父さん、お母さん。ただいま……」暗闇にすいこまれていく菖蒲。
「サキにいってはだめ」と、男女の混声を打ち消す、笛のように澄んだ女の声。
菖蒲は手首をぐいとつかまれ、門柱の土台石にひっぱられます。
「あなたは……」
菖蒲が夢うつつに見たのは小ビンを手にした少女でした。菖蒲と同じくらいの年恰好で髪はみじかくカールして、ひとつだけ大きなちがいは人影の像だったことです。
「わたしを助けてくれたの?」
そう聞いても影の少女はうつむいたまま、なにも答えません。
「はじめまして、わたしはアヤメ」と、菖蒲は気にせず笑みをむけます。「よければ家でお茶でもいかが?」
すると影の少女はこくりとうなずきました。
「……わたしはねサトウ、聖人だとはいわないさ。だけどこんどばかりはミス・アヤメをまったく、すこっしも理解できない」甲板で腕と足をどっしりとくみ、寝そべるアルネヴは、ふてくされたように言いました。「貴重な小ビンを盗まれて憤慨もせず、帰るやいなや、ふたりだけで話しをしたいという。雨のなか、懸命に探したのにわけもいわず、わたしの家なのに入ってくるな、だなんてひどいと思わないか」
サトウは、なぐさめるように鼻息をフシューっと吐きました。
いっぽう、そんな哀れなシロウサギの家で、菖蒲はむかいにすわる影の少女に言います。
「ね、おいしいでしょ。めずらしい花をブレンドしたお茶なのよ。さっきのシロウサギさんは行商のアルネヴ。わたしたち、こうしてよくティータイムを楽しむの」
影の少女はティーカップを置き「わかんない」と、つまらなさそうに言います。
「味もにおいもなにもかも。影にはいらないから」
「そんなひどいこと、だれが言ったの?」と、菖蒲は聞きます。
「門の外に出てはいけないってパパに言われた。だから家出した」
「あの大きな門のむこうに住んでいるのね?」
少女はかるくうなずきます。
「影はみんな影、影はだれも影」
「ほかの影は門の外にいたわ。なぜ外に出てはいけないのかしら」
「パパが己をもつ影はいけないって」
「そっか」と、菖蒲は言います。「ねえ、もしいやでなければ、あなたの名前をおしえて」
やっと顔をあげた影の少女は首をかしげ、こう言いました。
「ナマエってなに?」
名もナイ
名はなぜあるのでしょう。区別するため、意味や価値を付すため、あるいは理解するためでしょうか。
だれでも名をもち、好き嫌いにかかわらず名によって呼ばれます。だれかを最初に知ろうとする時、知ってもらおうとする時、名をたずねて自己紹介をします。菖蒲もあたりまえのように少女の名をたずねました。
人影は自分や他人がなにであるかを知る必要がありませんし、そもそも影を意識して生活する人はいません。
夜明けぬバザールにうつろう影は実体の投影で、住民は空気のように見ていましたし、菖蒲も影の少女とこうして出会い、話さなければ、影について気にしなかったでしょう。
しかし名について問われた名もなき影の少女は、今やその意味について知る必要がありました。
わたしはなにをもってわたしなのかを。
「あた……あたし」
影の少女は居心地わるそうに目をきょろきょろさせ、小声で言います。
「ナマエは知らない。でも」
「でも?」
「あんたの心がほしい。それで家出したのよ。兄みたいに」
「お兄さんがいるの?」
「兄は兄妹といってた。兄はナマエをもらったと言い残して出ていった。二度と帰ってこなかったわ」
「お兄さんはなんで家出したのかしら」
「ほしいものがあるんだって。あたしもいつかそれをほしくなるって」
菖蒲はすこし考えてから、少女にこうたずねます。
「どうしてわたしの心がほしいの?」
少女はひくっと肩をゆらし、「あたしも知りたい。オチャ……それにナマエ。だから……」
「だから?」
少女は小ビンをにぎりしめたまま、かたまってしまいます。
うなだれる少女をじっと見つめる菖蒲は、黙って答えを待ちます。
「だから、だから……」と、少女の目から影の涙がポロポロこぼれ、しぼりだすような声で言います。
「だから……あた……し……あたしは、あんたの小ビン……とったのよ」
少女のつたない告白に菖蒲の胸は強くしめつけられ、まゆをよせ、口びるをかみました。
「あんたが小ビンのこと話してるの聞いたわ」と、少女の顔はあかるくなります。
「これがあれば、あんたになれるんでしょ。だから使いかたをおしえてちょうだい」
少女のすんだひとみにうつるひとつ星を見た菖蒲は強い愛を感じ、なぐさめるようにこう言います。
「なれないのよ。その小ビンでわたしにはなれないの」
「うそつき」少女は首を横にふり、乱暴に言います。「記憶と思いがあるって聞いてたんだ」
「そう。たしかにその小ビンは、わたしのだいじな人の記憶やわたしの思いがたくさんつまっているけど、それを手にしたからといって、わたしになれないわ」
「うそつき!」机をたたき、どなりつける少女。
「どうか、聞いて」と、菖蒲はおだやかに言います。「あなたはあなたで、わたしはわたし。あなたがどれだけ望んでも、心はあなたの空腹を満たしてはくれない。それに、たとえわたしになっても、ほかのだれかに変われたとしても、自分ではないと気づいたら、あなたはもっと傷つくだけよ」
「うそつき!」少女はちがうとばかりに首をなん度も横にふります。「そうやってあんたはぜんぶ自分だけのものにしてる! あたしはあんたになりたいの。あたしにはなんにもないんだから!」
「わたしは捨てられ、家族も生まれた場所や誕生日も知らないのよ。菖蒲という名前ですら五月に拾われたからってだけ。それでも、あなたはほんとうにわたしになりたいと願うの?」
「大うそつきのあんたなんかにわかんないのよ! あんたには心がある。あたしにだってもらえなきゃおかしい!」
「じゃあ交換しましょう」と、菖蒲はぱっと立ちあがり、興奮する少女の両肩にふれます。「わたしはわたしの想う人のため、小ビンがどうしても必要よ。だから、わたしの心の半分をあげる。そのかわり小ビンを返して」
「ええいいわ」少女はにこりと笑顔で首をたてにふります。「どうやってあんたの心をくれるわけ?」
菖蒲は王子さまのつけていた首かざりから指輪をはずして右手の薬指にはめると、赤い宝石は炎のようにまっ赤に燃えます。
「ひとつだけ約束して」と、菖蒲は少女に言います。「いつか、わたしの心を必要としなくなったなら、わたしに返してほしいの」
「わかった。約束する」
菖蒲が少女の首に腕をまわした、その時————
「アヤメはうそつきなんかじゃない! きみがわがままなだけなんだ!」
ひどくとりみだしたアルネヴは、声をあげてふたりの前に飛びだします。
「アヤメ、アヤメ。ぜったい、ぜったいにあげてはいけない! きみの心が分たれるなら、どれほど苦しむだろう。欠けた心はたがいを探しもとめ、どんなにかつらい思いをするだろう。そんなのわたしは見ていられない! こんなのおかしい、まちがってる、まちがってるよ!」
菖蒲は少女のむこうに立つアルネヴにほほ笑みかけます。でも、アルネヴは見ました。菖蒲の右目から涙が一つぶこぼれるのを。菖蒲はやさしくキスをし、おでこを影の少女のおでこにあてました。すると赤い宝石から鮮血がほとばしり、天は産声をあげ、稲妻がふたりに落ちました。菖蒲はアヤメが引き裂かれる強烈な痛みを内奥に感じます。顔をゆがませ、歯を食いしばり、じっと耐え、すべて受け入れます。魂が抜け出るような息をはき、指輪をはずしてから首かざりにもどし、仲のよい義姉を忘れました。
「アヤメ!」アルネヴはくずおれる菖蒲にかけよります。「ああ、きみはなんてことを!」
「ねえ」と、菖蒲はまゆをひそめ、「わたしはふたりで話したいって言ったでしょ」。
「そんな、わたしはきみがしんぱいで、いてもたってもいられなくて」
「外で待っていて」
紳士のシロウサギはしょんぼりと部屋を出ていきました。
「ありがとう、アルネヴ」と、菖蒲は小声で言います。「ごめんなさい」
影の少女はとまどいながら盗んだものを返し、どうしてよいかわからず、小ビンをだいじそうになでまわす菖蒲を見つめます。
「あなたの名前、わたしがつけてあげる」菖蒲は少女にはっきりと言いました。「あなたの名はミモザ。ミモザよ」
名もなき影の少女は、この時はじめて名の意味を知りました。影である自分はミモザで、相手は菖蒲であると。
「聞きなさい、ミモザ。あなたはわたしが歓ぶとき喜び、わたしが悲しむとき哀しむの。わたしの痛みはあなたのとげとなり、わたしの辛苦はあなたにとってかせとなる」
そう言い残し、菖蒲はアルネヴを追いました。
ひとりになったミモザは両手を胸にあて、目を閉じます。
美しい景色、こころよい音楽、すてきな香り、ほっぺが落ちるような料理、ふれあい満たされる充足感……ゆたかな感性やあふれる感情はすべて心さえあれば自由に叶えられるだろう。兄がほしくなるといったものはこれだったんだ。影の少女はそのために家出し、小ビンをうばいました。
でも、心の半分を手に入れてミモザが最初に感じたこと、それは空虚でした。
闇の門口
ミモザはそっと隠れて菖蒲とアルネヴを遠くからのぞきました。
しんぱいするアルネヴ、うれしそうに小ビンを見せるアヤメ、ふきげんなシロウサギが頭上でうるさかったとあきれるサトウ。みんなミモザが小ビンを盗んだとは言いません。
でも、なぜだかミモザの胸はうずきます。
「それはね」と、菖蒲の分つ心はミモザの耳もとでささやきます。「友情は守らなければ、かんたんに壊れてしまうからよ」
ミモザは答えるように菖蒲にかけより、言いました。
「アヤメ、あの、その……アヤメのだいじなものをとってしまってごめんなさい。それに、うそつきって」
「もちろんゆるすわ、ミモザ」と、菖蒲はためらわずに言います。「だってわたしたち友だちでしょ」
すると、ミモザの感じていた胸のうずきは消えていきます。
「もし」と、ミモザは痛みにむかって語りかけました。「あたしがだれかを傷つけたり、うそをついて悲しませたのなら、またもどってきてほしい。まちがいに気づくために」
ミモザをティータイムに誘い、みんなでテーブルを囲みます。金ぶちの白磁カップとソーサー、銀製のティースタンドには下からキューカンバーサンド、スコーン、一口サイズのケーキやマカロンがのっていました。
「うん、これもまたいいね」と、アルネヴは温めなおした花茶をテイスティングして言います。「もっとまろやかになっている」
「だめよアルネヴ」菖蒲はむすっとします。「しぶみがでてる。ゲストにこんなお茶を出したらティータイムはだいなしよ。新しいのと交換してちょうだい」
「ええっ」アルネヴはおどろいたように言います。「このお茶、高価なのに……」
「レディをもてなしていますのよ、紳士のアルネヴさん」菖蒲はすんとした顔で言い返します。
「それとも、うしろの棚の上から二段目、右奥に隠してある、もっとすばらしい茶葉をわたしが知らないとでも?」
アルネヴはあきれてなにもいえず、しぶしぶ新しいお茶にいれなおしました。
ミモザはくすくす笑っていると、ふんわり立ちのぼる花の香りに目を大きくします。
「なんていいにおいなの!」
「でしょ。ミモザ、飲んでみて」菖蒲はうれしそうにミモザにすすめます。
お茶を口にしたミモザはまゆをよせたりあげたり、菖蒲とアルネヴは固唾をのんで見守ります。
ふーっと、鼻から息をぬくミモザ。
「ミモザ、どう?」
「おいしい……お茶ってこんなにおいしいんだ」
うっとりしたミモザの体は、なぜだかここちよさでみたされます。
「それはね」と、菖蒲の分つ心はミモザの耳もとでささやきます。「みんなに歓迎されているからよ」
ミモザは答えるように、笑顔で言いました。
「アルネヴ、アヤメ、あたしのためにありがとう」
「どういたしまして」アルネヴは照れながら言います。
「アルネヴはキュートなレディに弱いんだから」と、からかう菖蒲。
「まさかミス・アヤメ、彼女にやきもちやいているのかい?」と、言い返すアルネヴ。
菖蒲は顔をまっ赤にして、「そんなことないもん!」
サトウまで大笑いすると部屋は大きくゆれ、ミモザはもっとうれしくなります。そして、この時がいつまでも続けばいいのに、と思いました。
「もし」と、ミモザは幸せにむかって語りかけました。「あなたをあたりまえのように思い、ありがとうってつたえるのを忘れたら、どうかあたしから離れてほしい。感謝を思いだすために」
ティータイムを楽しんだ後、みんなでバザールにでかけました。
「ねえねえ見て見て、ミモザ。あそこで行列しているカレー屋さんは鳴き声がうるさいのよ。でもそういわれると食べてみたくなるのよね。あっちも……」
そう言って菖蒲はミモザの腕を引き、お店に走ります。
どこまでものびるスパゲッティ化現象アイスクリーム店、プカプカとうかぶ星の卵を売る店ではだれよりも先に星の名前を決めることができます。ただし、みんなに自慢できるのは何十億年もあとの話ですけど。宇宙乗りものショップでは高速ロケットのほかにも、おしりからもれるあの空気を利用した、クリーンヘネルギー新型バイクがショーウィンドウにかざられています。でも、においの完全除去については今後の課題のようです。そのとなりが焼きいもの店であるのは偶然でしょうか。古着屋さんのマネキンには裸の王さまが着ていたというバカには見えない服、雑貨屋さんのおすすめはジャックがうえた天までとどく豆と金のたてごとで、いまなら金のたまごもセットで買えるようです。
ミモザに刺しゅう入りのボタニカルブラウスをあてがい、菖蒲の首にきらきらのネックレスをかけます。ふたりはなんでも手にとり、においをかぎ、口にし、たくさん笑いました。スゴロクでマスを進めたりもどったり、ときには一回休みになるように、この店に入ったかと思えばまたあの店と、ゴールになかなかたどりつきません。アルネヴには、そんな手をつないであちこち歩くふたりの少女のうしろ姿が姉妹のように見えました。
それからついに「サキにススんではイケナイ」と、ヒソヒソ声の聞こえる屋台までやってきます。
「きみたちにプレゼントしたいものがある」と、アルネヴは菖蒲に金、ミモザには銀の腕輪を贈ります。
「これは超新星爆発でわかれた星のかけらをアルケミストの手により金と銀に変えたとされている。ふたつはひとつになろうとする腕輪なんだ。きみたちの友情にぴったりだと思って」
菖蒲とミモザは口をそろえて感謝を伝え、菖蒲は腕輪を右手首に、ミモザは左手首につけました。
「行商はこれより先に進むのをゆるされていない。市のあるところまでだ。だからお別れだね」アルネヴは名残惜しそうに言います。
「アルネヴ!」菖蒲は愛するシロウサギをぎゅっと強く抱きしめます。「あなたに会えてほんとうによかった。あなたはわたしの、とても、とってもたいせつな家族よ。またティータイムに招待してもらえるかしら」
「もちろんさ、アヤメ」と、アルネヴは親しみをこめて言います。「わたしたちは多くのすばらしい宝に出会えたね。そしてこれからも」
「うん」
「おぼえておいて。わたしはきみのためならどこでもすぐ助けにゆく。約束だ」
「ありがとう、アルネヴ。大好き」菖蒲はアルネブのほおにキスをします。
ミモザはそんなふたりの惜別をながめ、強い悲しみに襲われ、こう思います。
——そうか、アヤメとアルネヴはこの時をふたりだけで過ごしたかったけれど、なにも言わず、だいじな時間をあたしにゆずってくれたんだ。大切な人と離ればなれになるのは、こんなに不安で苦しくてつらい時を耐え忍ばなければいけない。それなのに、あたしはアヤメの心を引き裂き、アヤメはずっと菖蒲を探している。
ねえアヤメ、なぜあたしを責めないの? 小ビンを盗む、姑息な影だとしかりつけ、ののしればいいのに。ねえアヤメ、どうしてあたしはあなたの友人なの? 心を奪った悪い影だと憎み嫌い、避けてくれればいいのに。
「それはね」と、菖蒲の分つ心はミモザの耳もとでささやきます。「ただ分けあいたかったから。どうしようもなく、言葉にならない寂しさを、ただ知ってほしかった。わたしが独り泣く時に、あなたのような妹がそばにいてくれたら、どんなによかっただろうって」
ミモザは遠くまで広がる孤独にむかってさけびます。
「ああ、あたしのうちにまかれた、たくさんの悲しみよ! おまえたちは喜びの花となれ。カタクリの花がいくどもいくども厳冬を越し、早春の野山をひっそりとかざるように。いつか、そのちいさな花を独り待つ姉にとどけよう」
ふたりはアルネヴに手をふります。
「アヤメ、あたしの手を離さないで。あなたの行きたい場所を知っているから」
ミモザは左手で菖蒲をつかみます。
「あたしを信じてくれる?」
「もちろん」と、菖蒲はミモザの手をにぎり返します。「いつも、いつも。ずっと、ずっと」
こうして、ふたりは闇の門をくぐりぬけていくのでした。
人と影による交唱
道しるべは右手に感じるミモザのぬくもりだけでした。
歩くたびにコツンコツンと石をたたくような固い足音が反響しますが、神殿なのかお堂なのか、まっ暗でなにもわかりません。
撚り糸をほどくようにミモザの手を離したなら、闇の中でひとり残され迷子となって、だれも助けてはくれないでしょう。
「ミモザはどこにいるかわかるの?」
菖蒲は不安げにそうたずねると、ミモザの声が返ってきます。
「ええ。でも前よりわからなくなってきてる」
「なぜ?」
「光を見るようになったから。かすむけどだいじょうぶよ、アヤメのいきたい階段は、兄になんどかつれていってもらったの」
「お兄さんと?」
「うん。兄は闇の領域にやってきた男の人を階段に案内したわ。帰りを待っていたけど、もどってこなかった。そのあと、兄は闇の門から出ていった」
「ミモザはここにどれくらい住んでいたの?」
「闇の領域は時間がないからわからない。でもアヤメの生まれるずっと前から存在してたと思う。己をもつ兄とあたしは変化しない人影で、実体や意志のない影はいろいろな形相に変化する」
「闇の門やバザールで見た影のように?」
「そう。あれらはアヤメから視えた象。アルネヴから視える影はちがうのよ」
「ミモザも?」
「ううん。あたしは影を作りだすことはできない。それぞれ投影された姿から、思いや考えをすこしのぞける。兄は影をとどめ、あやつれるのよ」
「ねえミモザ、なにか聞こえない?」
「アヤメ、それは幻聴よ」ミモザは菖蒲の右手をくいっと引きます。「闇はいろんなものを見せるから気にしちゃだめよ」
「た……すけ……て……」
「女の人がどこかで泣いてる」
「たすけ……て」
「どこ? どこにいるの?」と、菖蒲は左手を闇にのばします。「見えないの。なにも、なんにも」
「たすけて」
「アヤメ、無き者に関心をむけてはだめ」遠くになっていくミモザの声。「あたしだけを信じて」
「ミモザ、どこ? どこにいるの?」左手をおよがせる菖蒲。
「ここよ、助けてアヤメ」
「わたし?」
「そう、ここよアヤメ」
「待っていて。すぐに行くから」と、菖蒲はからませた右手をふりほどこうとします。
「アヤメ!」と、ミモザは左手をぎゅっと強くにぎり、「あたしの手を離さないで!」
「ミモザ、わたし……」菖蒲の呼吸はみだれ、心臓はバクバクと強く鼓動します。
「しーっ、静かに。闇のあるじがあたしたちを引き離そうとしてる。そうよね、パパ!」
ミモザがどこかに呼びかけた瞬間、菖蒲はおしつぶされるほど強い力と視線を感じ、あまりの寒さにぶるぶるふるえます。
「我は」と、地面をゆらすほどの低いうなり声は反響してあちこち聞こえ、混だくした言語は集合し、理解できる音声にかわります。「おまえの父ではない」
菖蒲は恐怖のあまりミモザの腕にしがみつきます。
「あなたがあたしたちの父であると兄から聞きました」と、ミモザは言います。
「影に兄弟などない」闇のあるじは答えます。「どちらも配列の誤差と補正のガラクタにすぎん」
「ガラクタ?」と、つぶやく菖蒲。
「それでも、あなたはパパです。あたしは友人を連れてゆきます」
「領域の調和をみだす者は報いをうけるさだめ。己をもつ影よ、わきまえていよう」
「はい。もちろん、ここで罰はうけます」
「愚かなガラクタめ。名は己をあざむく言葉。もうひとつのクズがそうであったように」
「クズ?」と、つぶやく菖蒲。
「そうだ、娘よ」と、闇のあるじは菖蒲にむけて言います。「さだめられた領域を侵すにあきたらず、本質を異にする影に情を寄せ、つけこむとは。その傲慢が領域に破滅をもたらした事実を忘れたか」
「ちがう!」菖蒲は力強く反論します。「どんなものもおなじであると決めつけてはいけない。わたしは海の女王からそうおしえられた。世界にひとつとしておなじものはない。影もまた」
「虹の娘よ。捨てられてなお、口にあまく、腹には苦い言葉をはくか」
「アヤメ、無き者を気にしなくていいのよ。もういきましょ」
ミモザはそう言うと闇のあるじを無視して菖蒲の手を引き、ずんずん歩きます。
すると濃い影があらわれ、菖蒲とミモザを大勢で囲み、闇のあるじと交唱をはじめました。
黄色い花の下劣な詩は
我らに浅く
黄色い花の醜悪な体は
我らにおぞましく
黄色い花の低俗な舞は
我らにつたなく
黄色い花の卑猥な口は
我らに耐えがたく
黄色い花の…… 黄色い花の……
我らに…… 我らに……
反復するあざけりの歌は菖蒲の耳にまとわりつき、くすぶる怒りに火を、憎しみのマグマをふつふつとわきあがらせます。容赦ない非難そして同調により、感情や自尊心をぐしゃぐしゃに破壊してやろうと歌っているのです。しかし黄色い花とはだれなのでしょう。
——わたしのミモザよ! ぜったいゆるせない!
菖蒲は右手に力をこめます。
「あたしのためにおこらないで」と、ミモザは言います。「そんなアヤメを見たくないの」
「だってミモザ、あなたを壊そうとしているのよ! 闇に隠れ攻撃する卑怯で最低な者たち!」
「パパも影も隠れてなんかない。知らないだけ。ねえアヤメ、あたしもそうだったでしょ?」
「あなたは、あなたはちがう!」
「ううん。あたしも知らなかったのよ、アヤメ。言葉は火傷させたり、凍える手を温めもできる。あなたにそうおしえてもらえた」
「でも、あいつらはそんなあなた独りを知ろうともしない!」
「あたしはアヤメだけに知ってもらえればかまわない。アヤメだけでいいの」
見えない闇から投げつけられる罵詈雑言を払いのけるように、ふたりは前へ前へひたすら歩き、ついに目的の場所につきました。下へと続く、うす暗い階段に。しかし、燃え広がる憎しみは菖蒲の目をくもらせ、すぐ前にある階段がまったく見えません。
闇のあるじは、つたない撚り糸を無情に断ち切ろうと誘惑しました。
「浅薄なアヤメよ。おまえが名づけた黄色い花のゴミクズミモザは影ゆえ存在も廃棄できず、情に苦悩しながら闇をさまよい続ける。約束の力で破壊しろ。キエロゴミクズミモザ、コワシテシマエ」
「ええ、こわしてやるわよ。あんたたち! みんなぜんぶ!」
激高した菖蒲はミモザの手を力づくでふり切ろうとします。
「アヤメ、手を離してはだめ。やっとここまできたのに」
「キエロゴミクズミモザ、コワシテシマエ」
「ミモザ手をはなして! みんなこわしてやる! みんなみんなこわしてやるんだから!」
「心を闇にしずませないで、アヤメ」
「はなせ! ミモザ! はなせミモザ!」どなりつける菖蒲。
「キエロゴミクズミモザ、コワシテシマエ、キエロゴミクズミモザコワシテシマエキエロゴミクズミモザコワシテシマエキエロ……」
「あんなやつら、いなくなればいいんだ! あんなやつら、消えてなくなればいいんだ!」
灼熱の憎悪が両手を焼きこがしても、ミモザはけっして力をゆるめませんでした。菖蒲の手をとり、闇の領域をみちびき、役に立てたのが、とてもうれしくて、なにより幸せだったからです。
——だから、これはあたしの大好きなアヤメなんかじゃない。
「アヤメ、アヤメ」ミモザは声を荒らげる友に呼びかけます。そう、なんども、なんども。
「あたし、あなたとの約束ずっとおぼえてる。おぼえているわ。だってあたしは宇宙でいちばん美しいアヤメの心をもっているんだもの。あたし、アヤメのためになんだってしたい。今はすべてをあげてもいいとさえ思える。もう、あたしのぶんはなんにもいらない」
「でも、あいつらは! むりよ! あいつらだけはゆるせない!」
「ううん。それでも、よ」と、ミモザは焼けただれた左手をアヤメの右手にからませます。「さよならの時は大好きな友に笑顔でいてほしい。また会おうって、あしたまた遊ぼうねって」
「でも、あなたをこんな腐りきった墓場においてけない!」
「ううん。それでも、よ」と、ミモザは右手を怒りでこわばる菖蒲の顔にのばし、やさしくなでます。自然とふたりは語りかけるように、やがてそれは交わす歌となり、闇の領域に広がりました。
あなたは聞くでしょう
吹きすさむ非情な声を
それでもあたしは越えよう
あなたは清らかな琴の音
あなたは歩くでしょう
光とどかぬ闇の淵を
それでもあたしは望もう
あなたは夜にまたたくアメジスト
あなたは泣くでしょう
凍てつく孤独の時を
それでもあたしは耐えよう
あなたは穏やかな暖炉の炎
あなたは抱くでしょう
みにくいわたしの本心を
それでもあたしは愛そう
あなたのあたえてくれた分つ心
「よかった。いつものアヤメね」
「わたしのミモザ! また会いましょう。一緒にお買いものをして、一緒にお茶をのんで、一緒に旅するの。あなたと見たいものや知りたいことがたくさんあるから。いっぱい、いっぱいよ……」
あふれる想いをつたえた時、笑顔でいられたのか、それとも悲しい顔なのか、菖蒲にはわかりませんでした。でも、ミモザだけは知っています。ミモザが最後に暗闇で見たのは、大好きな菖蒲の顔だったのですから。
菖蒲は手をふりうす暗い階段へ、ミモザはあざけりの歌が聞こえる深い闇にとけてゆきました。
通路の消失点Ⅲ
まっ白な壁の通路は、あまりの長さに先が見えません。まるで宙に浮いているような白い窓が等間隔にならび、ガラスはなく、のぞいても外に広がるのは白でした。
しばらく歩いていると、おりてきた階段はだんだん遠くなり、やがて周囲の白とまじりあい、消えてしまいます。
旅のはじまりにおりてきた変わらない通路になつかしさをおぼえ、菖蒲は足を止めます。
干しわらの王子さまを玉座にのこしてから、どれくらい過ぎたのでしょう。
遠くの消失点にむかって歩き続け、いろんな仲間と出会い、わかれ、まっ白な通路へ帰ってきたのです。まるで時計の針が一周したように。
「だったら0時に出発したことにして、今は12時かな。そうするとつぎは……24時にしよう。まだ一周できるわね」
菖蒲はくすりと笑い、思いだしたように右下、足もとあたりに目をやると文字が書いてありました。
ミエルモノガサキデワナイ
ケレドモミエナクバサキニワユケナイ
ゼンポウチュウイ
アシモトチュウイ
菖蒲はかがんで壁面文字の謎についてじっくり考えました。
まず、『ミエルモノ』とはなんでしょうか。
「それは通路とその先に見える点よ」
しかし文字の続きは『サキデワナイ』と、否定しています。菖蒲は見える消失点を見えないようにして『サキ』へ進むのが謎の答えであると解釈し、『サキ』を手でかくし、見えないようにしたのです。一度目は木の扉にぶつかり、二度目は地面の扉に足を引っかけましたが。
「二段目の文字はフクロウ先生の大きらいな言いわけがましい逆説の接続詞、『ケレドモ』ね。『ミエナクバサキニワユケナイ』って一段目と矛盾してるのよね」
菖蒲はレウケ島のイアソン氏から聞いた話しを思いだします。
「おじぃは、うす暗い階段をおりたところが中庭に近い場所とおしえてくれた。だから『ミエナクバサキニワユケナイ』ところが中庭にもっとも近い場所ってことになる」
どうやって『サキ』を見ることができるのでしょうか。菖蒲はポケットの小ビンに手をやりました。
「アシェレ博士は常識を捨てて本質を見るようアルネヴに言ってた。小ビンの本質である金は変わらず、色ぬけガラスだというアルネブの見かたが変わったのよ。それなら通路の本質はなにかしら」
菖蒲は『ゼンポウチュウイ アシモトチュウイ』と刻まれた段を指でなぞります。
「これは通路を通るたびに話したわたしの声がのこされたんだわ」
では、最初の文字はいったいだれがのこした言葉なのでしょうか。
「わたしのほかに薄暗い階段をおりたのはおじぃだけのはず。だから最初の文字はおじぃの声ね。でもおじぃはわたしに階段をおりた先はわからないと通路について言わなかった。ううん、言わなかったんじゃなくて通路だと思わなかったのよ。ということは、これらの文字は通路でなく中庭について書いてあるのか。だから矛盾している」
菖蒲はぱっと立ちあがり、通路を見回します。窓は消失点に続き、壁面文字はかならず右にありました。消失点に向かって歩きますが、もちろんいつまでも『サキ』はつきません。ふしぎなことに天井をあおいでも目を落としても正面となって窓は消失点へ続いているのです。
「ずっとこの通路の『サキ』が扉のない中庭だとばかり思いこんでいたから窓と文字の位置が変わらないことに気づかなかったんだ。自分で作りだした錯覚の通路を歩き、『サキ』である近似値の扉を開けていた。でも本質はもっとシンプルで、この場所そのものだったのね」
ついに壁面文字の謎を解き明かした菖蒲は、さっきまで12時をさしていたあたりまえの時計の針がとつぜん、ぐるぐるぐるぐる回り始め、あまりの速さに煙をあげて爆発するような衝撃をうけ、新しい時間の波にくらくらめまいすらしました。
「つまり、わたしのいるここが中庭にもっとも近い場所よ!」
そうです。菖蒲は旅のはじまりに目的地のもっとも近くにいたわけで、通過点をそのように認識するだけでよかったのです。しかしいったいだれが、壁面文字はイアソン氏の言葉だと、中庭にもっとも近い場所だとわかるでしょう。
では、菖蒲は無駄なまわり道をしていたのですか?
そうさアヤメちゃん。たいせつな一瞬をすくいよせれば、
人生は思ったより長く、ややこしい時間すら、いとおしく感じるものさ
「おばぁ」と、菖蒲は顔をゆるめます。「たしかにそう思えるようになりました。きっとこれからも」
ここまで歩いた菖蒲の旅路は、どれもいとおしい思い出になっていました。
もっとも近い
チン、チリン、チン……
ガラスの器を指ではじいたようなかたい音が不規則なリズムで聞こえ、意味を失った壁面文字と窓わくは風化してボロボロくずれ、ちりとなります。
無色の空と、さらさらの白い砂に、石英のような透きとおった石がころがる荒漠とした地平のあいだに、ぽつねんと立つ菖蒲だけ色をもっていました。
ぐるり見渡すと、地面には双方に向かう足あとが遠くまで描かれていました。まるで新大陸に到達した航海者が残した記念のように。
「これはきっとおじぃの歩いた足あとだわ」
菖蒲はそう言って足跡をたどりました。すると大きなリュックサックを背に、カタンコトンとケトルやマグカップをうちならす好奇心にあふれた青年の幻影が見えます。ふと青年はこちらをふりむき目をきょろつかせ、口もとをうごかします。
「見えるものが先ではない。けれども見えなくば先にはゆけない……」
菖蒲は幻影をひたすら追います。
「暗い夜道をミモザに手をひかれ歩いた時も、こうやっておじぃの足跡もなければ、なんにもわからなかったはず。わたしはみちびかれているのかな。それともわたしが選んでいるだけなのかしら。そのどちらもなの? だれかおしえて。自由とはなに? わたしとは? わたしはいったいどこにいるの?
——人生の雑踏。人はゆきめぐり風のようにあらわれては消えてゆく。わたしはいつもひとりぼっち。そんなわたしを時間は急かし、文字盤の上で前に進めという。ねえ悔いはない?
うん、そうだ。わたしは王子さまのためにここまできたのよ。これはわたしが選んだわたしだけの物語なんだから、おしまいまでやりとげないと。これからも、わたしは菖蒲を演じよう——
新しい気持ちで胸いっぱいの菖蒲は、いつもより高く、もうどこへでも飛んでいけそうなほど軽やかな足どりで歩き、到着点の足跡をふみしめ、ついにその先をながめました。
……ぷっつりとぎれ、なにもありません。まったくなにも。
領域の涯ては、すみずみまで威光にあふれ、誰も立ち入らせない白亜のようでもありました。闇の領域で感じた不安や恐怖ではなく、自然とわきおこる畏れが、すこしでも触れたり、進まないよう後ずさりさせます。こちらに向かう足跡があったのは、イアソン氏も同じように感じたからでした。夜はなく灯りや陽の光ではない、白く清らかな領域への畏敬を。
「やっぱり、中庭に扉なんてなかったのね」菖蒲はきびすを返し、ため息をつきます。
さきほどまでの高揚は気まぐれの羽をつけてあっというまに飛び去り、通路のあった地点までとぼとぼもどると、力なくあおむけに寝っ転がり、赤い宝石の指輪を首かざりからはずしていじります。
菖蒲に力をあたえた指輪は、使用した者の記憶を失くす【忘失の約束】がかけてあります。もし、すべての記憶がからになってしまえば力は使えなくなるので、菖蒲は右手に過去の記憶を、左手には未来の記憶をふりわける、という条件をつけました。過去とは菖蒲の住んでいた領域の記憶で、未来とは王子さまの領域での記憶です。スズメのための中指は学校と友人、ハタラキアリのための人差し指は街、干しの王子さま作戦の小指は家、ミモザのための薬指はお姉さんの記憶でした。では、親指の記憶はなんでしょう。
「それは、わたしよ」
菖蒲は体を起こし、ひざまずいて息をととのえ、指輪とむきあいます。なんども親指に通そうとしますが、右手はいやがるようにふるえ、どうしてもできません。
無垢な記憶とは自己喪失を意味する。
己をうしない、中庭をおかしたとて存在理由もわからないのであればなんの意義があるか。
「おじぃ、あなたの言葉は正しかった。なにも知らないバカな子どもだと笑ってください」
中庭へ踏みこむために約束の力で現在の菖蒲を犠牲にし、過去の菖蒲を忘失させるのは恐ろしい手段でした。もし菖蒲そのものがなくなれば、王子さまを助ける記憶もなくなり、干しわらとなった王子さまのくちびるを、この領域のものではない少女が扉のない中庭にある井戸の水によってうるおすという【干しわらの約束】を果たせないかもしれません。それに、底なしの穴、空や海、宇宙……今まで旅した未知の領域はどれも菖蒲が選べました。どうしようもない問題をなんとかしたり、失敗をうまくやり直したり、まちがいを正せるのはすべて意志があるからです。もし指輪の力に身をゆだねてしまえば、そうした自由意志を捨てることになります。そしてなによりも、王子さまがわからなくなるくらいなら、イアソン氏のように引き返したほうが正解なのではないかと決意はゆらぎます。なぜなら、わたしの王子さまではなくなるのですから。
しばらくのあいだ、菖蒲は葛藤しました。望めば通路の消失点はすぐにふたたびあらわれ、本質から目を背けた近似値の扉を開き、くりかえし意識の階段をおりて、新たな領野への冒険をいつまでも続けることができるでしょう。しかし目的地は扉のない中庭なのです。
自分を捨て中庭に侵入するか、あくまで菖蒲としてほかの道を探すか。指輪の力はあと一回だけ……
「さよなら、菖蒲」
覚悟を決め、指輪が右手親指の関節をくぐり、根もとにぴたりとくっついた時、赤い宝石は火花をちらし、こうこうと燃えます。
うすれゆく意識の中、菖蒲の目には白妙に一輪、大きなヒガンバナがゆっくりほころぶ様子がうつりました。
「ああ、なんてきれいなのかしら……ミモ……ザ」
チン、チリン、チン……
ガラスの器を指ではじいたようなかたい音が不規則なリズムで聞こえ、意味を失った少女は風化してボロボロくずれ、ちりとなりました。
扉のない中庭
そこは扉のない中庭でした。
まるで高くつみあげられた積み木の上に建つように、微細な空気の振動ですら崩壊へかたむこうとする緊張感と、荘厳さが静謐をまとって空間全体にただよっています。
中庭においてあらゆる形は均等にわけあい、長さと太さのそろった青草が一面に生え、縦横比約一対一・六一八の長方形の地面と相似である無機質な窓は、四方をかこむ磁器のようになめらかな乳白の壁に等間隔でならんで上方までずっと続き、天井はなく、やわらかい光の粒がぽつぽつと中庭の井戸にむかって、ふりそそいでいました。
長い黒髪の少女は生まれたままの姿で、いつからまぶたを開けたわけでもなく、ただ茫然自失とあおむけになっていました。
光の粒が目にとけこみ、まぶしくなって右手をひたいにあてます。親指にはゆらゆら赤く燃える宝石つきの金の環がはめてありますが、少女は気にすることなく、しばらくそのまま静止していました。やがて、右腕が重たくなり、ゆっくり上体をおこし、周囲を観察しはじめます。
オリバナムとミルラがほのかに薫る中庭の中心には空気のような大理石の白い井戸がうず巻き、ふきぬけからそそぐ光の粒とまじりあい、ピカピカ輝いています。そのまわりを大きくかこむように四隅に四本とそのあいだに二本、まったく同じ像をしたリンゴの木が合計六本、整然とならんでいました。
なぜここにいるのでしょう。少女にとってはまったく関心のないことでした。実際、少女は自分がだれであるかすらわかりません。そうした記憶はすべてないからです。そもそも〝わたし〟とはいったいなんでしょうか。なにをもって〝わたし〟といえるのでしょう。
少女はどうにも親指にからまる異物を取ってしまいたくなりました。この気持ち悪い指輪のせいでしめつけられ、息苦しく感じるからです。ハーネスをはずした馬のように自由になろうと——それにしても〝自由〟とは?
不快な輪に左手をかけようとした時、少女の肩になにかそえられ、顔を横にむけると、なめらかな手が、そこから伝わるふんわりとした心地よさで全身は満たされます。
少女は体をひねり、手から腕へ視線をうつして、うすい絹をまとい、つばの大きな白く透けた帽子をかぶった美しい女の園丁と顔を合わせました。
目を大きくして口もとがゆるみ、今にもキャッキャと笑おうとする少女のぷっくりとやわらかなくちびるに園丁の女はそっと指をあて、右手の親指をにぎり、少女の目をのぞきこみ、首を横にふります。あたかも「それをしてはいけない」と話しているかのように——でも、なぜ?
園丁の女は少女から離れてリンゴの木へ少しも音を立てず、空気のようにすうっと近づくと、みきを優しくさすり、となりの木も同じく、そのとなりの木も、といった具合に六本の木を一本ずつ、ていねいに同じところを同じ回数なだめていたのです。
どれくらい時間が経過したのでしょう。と、いっても中庭は時間に支配されてはおらず、物体に制約された、たんなる空間でもありません。あれから園丁は少女を気にもとめず、延々りんごの木を愛撫していました。もはや少女は指輪への興味をなくし、笑みを浮かべながら丸い目がじいっと園丁を追いかけました。まるでくり返される音楽に合わせ動く機械人形のように。
きっかけはなんでもないしぐさでした。少女が左手で右手首にふれ、金の輪っかが引っかかります。ふしぎそうに手首を曲げてきらりとひかる輪っかを見つめると、少女の顔をうつし、こちらの目とむこうの目が合いました。そのときはじめて、これはなんだろう、なぜ見ているのだろうと考えはじめます。
——あなたはだれ?
すると突然、いろんな感情は四方八方から少女を襲い、喜びがくすぐったかと思ったら、哀しみが引っぱります。怒りで熱くなったり、楽しくてうきうきしたり、むなしくなって沈んだり、恐れたり、安心したり……もうへんな気分です。
——どうしよう、わからない。なんだろう。わめけば、そうよ、叫べば!
しかし、くちびるに残った園丁の指のぬくもりで少女の口はぴったりとくっつき、どうしても開いてくれません。少女はおなかをかかえ、眉間にしわをよせてむせび、少女の周囲にある青草たちがにわかにさわぎたちます。しぼりでるように雫がひとつこぼれると、夕立ちのようにボロボロ止めどもなく目からたくさん水は流れはじめ、ほおをつたって落ちていきます。でも悲しいのかうれしいのか、なぜこれほど水があふれ出るのかわかりません。
少女は滝をせき止めようと必死に手でぬぐいますが、いくらやっても止まらないのです。どうしようもなくなり、金の輪っかにひたいをあてて力をこめながら、目を閉じてしまいます。
——まっ暗な居場所。ああ、ここならだれも責めはしないなのね。でもここはどこかしら。
ほっと安心する少女に、感情はよけいからかって囲み、少女をくすぐったり、おしたり引いたりします。
——やめて、やめてっ。
闇の中で少女が苦しんでいると、ささやきが遠くから、やがてこちらに近づいてきて、はっきりと聞こえるようになります。
「あなたのたいせつな人のために水を」
——あなた?
「あなたの慕う人の乾いたくちびるに井戸の水を」
——人は?
「あなたの想う人のために水を」
——水は? わたしとはわたし?
「あなたの愛する人の乾いたくちびるにあの井戸の水を」
——わたしは……わたしは……
少女はおそるおそるまぶたを開き、金の腕輪にうつる、ゆがんだもうひとりの少女をじっくり見つめます。それから顔をあげて、自然と体は動き、そろりと立ちあがると、涙でかすむ中庭の井戸へ、重い足どりで歩き出しました。
園丁は手を止め、少女の様子を心配そうに、はじめて立ち、ふらふらとこちらへむかってくる赤子を見守る母親のような面持ちでながめていました。それでも、感情を表に出さず、あくまで中庭の園丁として少女の歩みを注視していたのです。
言葉にならない言語が飛びだしてきてはぐるぐるとまわり、少女をさらに悩ませます。なにかを果たそうとする強い意志と、それをさせまいとする抑止力は少女の気持ちなど無視して絶えずせめぎ合いました。
ふみしめた青草はしなびて枯れ、そこに多量の汗と涙がまじり、ぽたぽた落ちると、汚された地面は足から全身にナイフで切り裂かれるような痛みを少女にあたえます。少女はなんどもなんどもくずおれてはうずくまり、おきあがっては井戸に近づこうとします。なにもない少女にとって今やまったく意味をもたない行為ですが、そこにむかって歩き、倒れるのです。
苦しみを理解してもらおうと叫びたいのに、また思いきり吐きだしてしまいたいのに、両手を口にあて、ぐっとこらえます。小さな音の振動によって中庭の精緻な均衡をできるだけくずしてしまわないよう、ただそれだけの理由で静かに、ゆっくりと慎重に歩かねばなりませんでした。
——でも、なんで? なんで?
情け容赦ない疑問は針で少女の体をつき刺し、また石で打ち、ついに少女は井戸の手前、すんでのところでもだえ、動かなくなります。
それでも止むことなく、なんで? なんで? なんで? なんで、と。
「答えられないからつらいの。でも、あの声をたしかに知っている」
「おまえはなにも知らない赤子のくせに」
「たしかに無力な赤子。でも、あの声は知っている」
「おまえに嘘をついているのだ」
「だまされているのなら、それでもいい」
「なにがいい、その嘘でおまえはこんなにも苦しんでいるのに」
「どうなったっていい。でも、あの声は知っている」
「なんとおろかな。嘘を信じて苦悶するとは」
「それでいい、それでいいの。あの声を知っているのだから」
「そうやって自分を納得させ、なぐさめたいだけなのだ。身勝手な女め」
「そう、奔放な女よ。だからりんごの木は一本なくなった」
「ぜんぶ、ぜんぶおまえのせいだ。たったひとつの過ちでなくなった」
「だから井戸を、あなたにだれかをうるおす水を湧きあがらせたかった」
「ではそうするがよい。しかしおまえのことをけっして忘れはしないだろう。こうしておまえにいつも呵責をあたえるのだ」
「ああ、それでもわたしは願う。いつか、あなたにりんごの木を。こんどは豊かに実を結ぶように。そうしたら、どうか許してほしい。それまで、さあ強く湧きあがれ!」
中庭は雪が舞いあがるように分解していきます。
少女は残ったすべての力をふりしぼり、白い井戸のふちに左手をからませ、起きあがると、王子さまの記憶と少女の想いでかたどった金の小ビンを右手に持ち、ふたを開けて息を止め、ふるえるその手をふちいっぱい、ひたひたに張られた透明な井戸の水のなかへ、そしてできるかぎり水紋を立てないようにそっと汲みました。温かくも冷たくもない空気のような水はみずから、ちょうど必要な量だけ小ビンにむかっていきます。
水が入った小ビンのふたを完全に閉めると、井戸もついにはらはらとくずれさり、少女もろとも取り去ろうとしました。
その時、少女はうしろからだれかに優しく抱きとめられます。
冷たくなった少女の魂を守るように慈愛が、すべての息を吐いて肩を落とし、緊張はほどけ、力なく目をすっと閉じます。
「ねえ、なぜ泣いているの?」
「それはね、わたしがあまりにも無力だったからよ」
「そんなことないわ。あなたはわたしを助けてくれた。わたし、知っているもの」
「あなたが井戸の水を汲むまで、わたしはすこしも手を貸すことを許されなかった。これだけ近くにいるのに、あなたはなにもかも捨てたのに、たくさんの痛みのこれっぽっちも負ってあげられなかった」
「わたしは泡になってもいいとさえ思った。でも、あなたがわたしの肩に手をのせた時、わたしのくちびるにそっと指をあてた時、わたしの右手にふれてくれた時、わたしが井戸にむかって歩いている時さえも、優しく励ましてくれたから、だからわたしはここにいる」
「ごめんなさい、アヤメ」
「ありがとう、リリィ」。
たりないもの
数日、数十日……ベッドで横たわる菖蒲は高熱にうなされていました。
そばに寄りそうリリィは、菖蒲のひたいに氷をあてて汗をタオルでぬぐい、水や重湯を口にふくませ、ふるえる体を抱いて頭をなでます。
来る日も来る日も懸命に世話を続けていたある日のこと。はあはあと息をあげながら菖蒲は目をぱっと開け、もうろうとした意識でリリィを見て言いました。
「はじめまして……わたしはアヤメ。干しわらになってしまった王子さまをもどすためにここへきたのよ」
「はじめまして」と、リリィは赤くほてる菖蒲のほっぺたにそっとふれます。「わたしはリリーフロラよ。リリィって呼んでね、アヤメ」
「……リリィ、わたしね……わたし、知りたいこともあるし、教えたいこともたくさんあるの。だから……ねえ、聞いてくれる?」
「もちろんよアヤメ。でも今はダメ。あなたはたくさん傷ついたから、ゆっくり休まないと」
「ありがとう。わたし、うまくやれたかしら? 王子さまもどるかなぁ……よくなるといいな」
かすれる声を吐きだした菖蒲は自然と目を閉じ、再び眠りに落ちます。
リリィは愕然として言いました。
「あなたはなぜ、ここまであたえ続けるの?」
その答えを探すように、リリィは衰弱してゆく菖蒲を献身的に看病し、慰め、たっぷりの愛情をそそぎました。しかし、穴だらけのふくろに水をたくさん入れても、水はダラダラもれてしまうのと同じで、愛を受け入れる能力を失った菖蒲にどれほど愛をそそいでも回復はしません。それでも、この方法しかなかったのです。
菖蒲を治す薬は世界中どこを探してもありません。なぜなら菖蒲のたりないものはみんな持っていますが、目には見えず、たったひとつしかない、とても貴重なものだからです。菖蒲は指輪の大きな力でそれを分けあたえ、強引に足をふみ入れました。すると決壊した障壁に意識や思い、感情など、ありとあらゆるものがどっと流れ、みるみるうちに菖蒲そのものを壊してしまいました。誰も近づいてはいけない繊細な場所、開けたり閉めたりする扉のない中庭の井戸はもはや枯れ、菖蒲を満たす水は失われてしまったのです。
「わたしはどうなってもいい、なんでもします。だからお願い、この子だけは、この子だけは助けてください。毎日、毎日、苦しみ弱り果てる姿を見ていられない」
焦せるリリィは恐怖で胸がつまります。それもそのはずです。菖蒲の命はもうすぐ尽きようとしていたのですから。
「いっそわたしを拒否してくれたら、憎んでくれたらいいのに」と、リリィは自分の無力さを呪うように言います。「そうすれば良くなるかもしれない。でも、なにも求めないのはどうしてなの?」
すると、菖蒲は不安げにリリィを見て、こう答えました。
「だって、嘘つくことになるから……わたし約束したのよ、リリィ……わたしはわたしにもう嘘はつかないと。だから、井戸は手おけほどの水を汲むことを許してくれた。王子さまを助けると決めた時からすべて受け入れたの。だから……お願いリリィ、そんなわたしのためにわたしのこと、嫌いにならないで」
「わたしは好き、アヤメのこと大好きよ」声をつまらせ、リリィは首を横にふると、たまらず目から涙が、ぽろぽろと菖蒲にこぼれ落ちていきます。「わたし、中庭からあなたをずっと見ていたの。あなたも気づいていたでしょう? あなたがとってもステキな女の子で、どんなおどろくことも成しとげる強い子だって、わたし、信じて待ってたわ。だからはやく元気になって、一緒に王子さまのところに帰りましょう、ね?」
「うん」菖蒲はうれしそうにうなずきます。それから目を閉じて耳をすませ、「きょうは、どしゃぶりね……あす……は……」
そうしてふーっと息をおだやかに吐いて、菖蒲は呼吸をやめました。
リリィはわっと声をあげます。家の外まで聞こえるほど強く、大きな声で。
——泣いてこの子を返してくれるのなら! もし、幾万の涙がアヤメの慈雨となるならば、わたしはいつまでもふり続けよう。
しばらくして、鍵のかかった家に、見知らぬ訪問者がやってきます。走って急いで寝室へ、菖蒲にすがるリリィのうしろで息をきらし、立ち止まりました。
「リリィ!」胸に両手をおしつけ、強くこぶしをにぎりしめます。「あたしはアヤメのためにやってきました」
リリィは涙で腫らした顔でふり返ると、そこにいたのは菖蒲と同じくらいの女の子です。
「あなたは」
ふりしぼるようなリリィの声に、少女はこくりとうなずきます。
「あたしの名はミモザ。ミモザと言います。助けを求めるアヤメの叫びが闇でさまようあたしにまで聞こえました」
ミモザは菖蒲に近づくと菖蒲の右手に左手を重ね、ふたりのバングルは再開を喜び、チリンと音を鳴らします。
「ねえ知ってる? アヤメ。中庭であなたにささやいていたのはあたしよ」菖蒲の耳もとでひそひそとミモザは話しました。「今からアヤメとした約束を果たすわ。こんどはアヤメからもらったものを返して、あたしのをあげる番。いいよね、ゆるしてくれるでしょう? もしいつか、天高くのびてりっぱにそびえ立つクスノキのように、アヤメが元気になったなら、その時、あたしはアヤメの木に宿る黄色い小鳥になる。絶対、約束よ」
ミモザは菖蒲に優しくキスをし、おでこをアヤメのおでこにあてました。
「あたしにミモザをくれてありがとう。ほんとうにうれしかった。だから名前だけはあたしのものよ、返さないからね、お姉さん」
ミモザは菖蒲の両手をしっかりと強くにぎりしめ、たりないものを菖蒲に返し、自分のすべてを、なにもかも菖蒲にあたえました。こうして、陽のさす影は満足そうに消えていったのです。
すると、菖蒲の右手の親指にはめていた燃える赤い宝石のついた金色の指輪は火花を散らしてくだけさり、つむる左目から一しずく、キラキラとかがやく真珠のような涙がこぼれ落ちます。
ふたたび息をはじめた菖蒲はその時から熱がひいて、もうすっかりとよくなっていきました。
むかしむかし
「おとぎ話しに登場するお姫さまは王子さまといつまでも幸せだったってほんとかしら。リリィはどう思う?」
ベッドで身を起こし、アイボリーカラーの厚いミルクガラスのマグカップを手にした菖蒲はリリィに質問します。
「そうねぇ」リリィはベッドそばのイスで菖蒲のブラウスに刺しゅうをしながら答えます。「いつまでも幸せであることと、いつも幸せであることはちょっと違うのかな」
「おもしろい考えね、つづけて」
「物語の余白ではいざこざもあったんじゃないかしら。たとえば食事の時、サラダとスープどちらから手をつけるか、タマゴが先かニワトリが先かって論争みたいなものよ。わたしはグレエンと洗たくもののことでよく言い合いになるし」
「なにそれ」菖蒲は甘いホットココアを口にして、「どっちでもいいんじゃない」。
「それがね、夫婦のいざこざなんてまったくつまらないものなのよ、アヤメ。服と下着はべつにして洗ってほしいとか。ああ見えてグレエンはめんどくさい人なんだから。まあでも、わたしが〝そんなに大事なパンツなら自分で洗いなさい〟って言うと、彼はしょんぼりしながらひとりでゴシゴシ洗うけど」
「ふーん、グレエンの意外な一面を知ったわ。わたしと一緒の時はそんなわがまま一言も言わなかったもの」
「もちろんよ。だってアヤメはグレエンのお姫さまではないから」
「そっか……ねえ、じゃあ、どうしてリリィはグレエンと結婚したの?」
「うーん」リリィはしばらく考えます。「たぶんおとぎ話のお姫さまと同じ気持ちか、語り手の願いなのかな。もしくはそうあってほしいだけなのかもね」
「ちょっと、なにそれ」菖蒲は目をほそめながら、「わたしが子どもだからってごまかしてるでしょう?」
「ふふっ。だって、アヤメも好きな人とおとぎ話のような恋であってほしいもの」
「リリィずるい。いじわる!」
ふたりは大笑いします。
菖蒲はリリィの介護もあって、ベッドの上で楽しく話せるようになりました。リリィはよく、山あいの国のお話しを菖蒲にしました。グレエンや干しわらになった王子さまが幼いころ、どれほど手を焼く男の子だったか、それにキジ三毛のモルトは由緒ある王族ネコだったという話も。
「モルトは落ち着くのが性に合わないって、さすらいネコとして山あいの国に来たのよ」
「旅ネコの話は嘘じゃなかったのね」と、菖蒲はモルトのひょうきんな顔を思いだしてくすりと笑い、「それに王さまごっこをした時、従者役をいやがる理由もね」。
菖蒲とリリィの会話は、むかしむかしになくしてしまった誰もが持つ宝物を探しに出かける旅と似ていました。ぶらぶら過去の森を散策しながら夢の広い草原に出て、見守るニレの木陰で休み、カサカサふく風とこすれる葉のおしゃべりに耳をかたむけます。菖蒲は寝っころがって草まみれのままリリィに抱きつき、手をつないで前に走ったり、ぴたり止まってぎゅうっと腕をひっぱり、家へ帰るまでリリィのかたわらではしゃいでいました。
もちろん、アヤメは中庭でのことや、ミモザのあたえてくれたものを知っていましたし、リリィがそうしたことを口にしないよう気をつけていることだってわかっていました。それで、いつかその時がくるまで、胸の引きだしのすこし奥に閉まっておこうと思ったのです。
リリィとの宝探しの旅も順調に、自分を取りもどした菖蒲はもっと良くなり、身のまわりのことがひとりでできるようになった日。ベッドで考えごとをしていると菖蒲のもとにリリィは近づき、そばに腰かけます。
「どうしたの、リリィ。おやすみを言いにきたの?」
「そうね」と、菖蒲の頭をなでて、「菖蒲がよくなってわたしはとてもうれしいわ。だから今、わたしたちのおとぎ話を聞いてほしいなって」
「リリィの?」
「そう。でもアヤメが知りたいなら、だけど」
菖蒲はリリィをじっと見つめてから笑顔で「もちろんよ。大好きなリリィ」。
リリィはほっとしたように菖蒲を胸に抱きよせ、ゆっくり話しはじめます。
「まずはそうね……いきなりびっくりするかもしれないけど、わたしたちはアヤメと同じ領域に住む女の子だったのよ……」
むかしむかし、菖蒲が生まれる前のお話しです。
ふたごの姉妹はお父さんもお母さんも知らず、施設で暮らしていました。ある晩、姉妹は招待されて知らない領域にやってくることになります。少女たちを招待したのは干しわらの王子さまのお父さん、つまり山あいの国の王さまで、もうひとりは農夫のグレエンでした。
「ふたりは兄弟なのよ。王さまが兄でグレエンが弟。それにわたしはふたごの姉妹の妹よ」
菖蒲はたいそうおどろき、「でも、グレエンはわたしに〝王につかえる風車の監視役〟とだけ紹介していたわ」。
「もうひとつの役割を言っていたのね。おそらく【口止めの約束】の力を得るためアヤメにすべてを伝えなかったんだと思う」
「思い返せばモルトやアルビレオも、わたしに話すことを選んでいるみたいだった」
「興廃の丘のお話はグレエンから聞いたかしら?」
「うん、高い城壁に囲まれた王国が滅びたのよね」
「東の風車のあたりにとても大きなお城があって、もともと山あいの国の人々は戦乱から逃れた一部の王家と臣下だった」
領域を巻きこむ大戦がはじまる前夜、争いを避けるように祖国をあとにした人々がいました。ですが当然、燃える影は見過ごすはずありません。
「臆病な反逆者どもめ。おまえらがコソコソと逃げ隠れるのを我が黙って見ているとでも思ったか。もしおまえらがただでこの城壁の大門をくぐろうものならどうなるかわかっているだろう!」
門に立ちはだかる燃える影から家族を守るため、彼らはしかたなく契約を結ばされました。
国を逃れ、燃える影が干渉しないかわりに、領域を統べる王国のため、何も知らない子供をひとり捧げるというもので、【安寧の契約】と呼ばれ、燃える影は代々王家の長子を求めました。
「でも深い山あいに移り住んで最初の王子さまを送り出そうとしたとき、ひとつ大きな問題が起きた」
「王国が滅びたのね!」
「そう、そして世界を統べる王も側近の手にかかり……」
戦争は領域に大きな荒廃をもたらしつつ終わりました。山あいの国の民は大きな災厄をまぬがれたようにみえましたが、おとぎ話しのように幸せな結末にはなりませんでした。なぜなら燃える影は生きていて【安寧の契約】の履行を求めたからです。
「目的は王国の再興か、裏切り者への復讐なのかわからない。とにかく【安寧の契約】は山あいの国の民にとって、のみこんだトゲのように苦しめ続けた」
「ひどい! もともと領域を滅ぼしたのは山あいに逃げた人々ではなかったのに」
「ええ」リリィは興奮する菖蒲の背中をなでます。「でも、影は人間の弱さをよく知っていた」
懐疑、絶望、憎悪。燃える影は飢えた月夜のおおかみのように人間のおちいる闇をむさぼり、領域を統べる王の意志を完璧に投影しました。なにも知らず国を追放されたと王子さまがすべてを知った時、甘い言葉で誘惑し、たくみにあやつろうと、しくんでいたのです。
ところが燃える影のあてはむなしくはずれ、いく世代も平穏に過ぎ、ついに山あいの国の民は王に進言しました。
「王よ、あなたはわたしたち民のために犠牲となってくださいました。大事な子どもを影に差しだしてきたのですから。もう苦しむのはじゅうぶんです。父祖たちがここにやってきたのは、むなしい権威の束縛から解かれるためではありませんか。それにもかかわらず、朝、焼きたてのパンを食べても、夜にみなで音楽を奏で、ベッドに横になるときも、あなたの家の子が今、どこで、なにをしているのか、わたしたちをうらみ、失望しつつ孤独にさまよっているのではないかと思うと、なにも楽しめません。あなたの子はわたしたちの家族、あなたの痛みはわたしたちの苦しみなのです」
山あいの国の民はゆがんだ連鎖を今こそ断ち切り、自由になりたいと思うようになりました。
「自由だと? 愚民め。束縛こそおまえらを律してきたのが事実」燃える影は山あいの国のオトナたちの声を聞きつけ、すぐにやってきます。
「枷なき支配がどうして社会秩序をもたらすか。法と則にしばられた檻のなかであれほどさわぎ、踊りくるっていたではないか。おまえらが残した歴史は争い絶えぬ嘘ばかりの変化もない回転草。幾年もの安寧を子一人で保証しているほうがずっと優しいとは思わんのか」
王は民にたずねます。
「たしかに、私たちは謳歌した自由の責務から目をそむけてきたのかもしれない。しかし、果たしてこのままで良いだろうか」
民は力強くこたえます。
「わたしたちにとって自由は権利の追求ではなく、みなで分け合い、みなで担い果たす責任です。なにより王よ、宙を見上げ、胸が高鳴るようなあの自由について子どもたちに喜んで語り伝えられる親となりたいのです」
「ああ、わたしの兄弟たち! 今日この場に立てることを誇りに思う。ではみなで【庇護の約束】をしようではないか」
つぎの朝、湖畔のガゼボで王はふたりの子どもにすべての真実を教えました。長かった【安寧の契約】をついに破棄した夜、燃える影は激怒し、山あいの国の大人だけをすべて呑みつくしていったのです。
「ガキども覚えておけ! これがおまえらのバカな親が望んだ、くだらん自由とやらへの報いだ!」
【庇護の約束】によって生き残った子どもたちをおどしつけ、燃える影は空の彼方へ消えていきました。しかし子どもたちは恐れません。生きるためにどうすればよいか、親からしっかりと聞いて学んでいたからです。そして、むかしからひそかにねられた影を打ち破る計画についても。
ずるがしこく強力な燃える影と戦うためには約束の力と外の領域の仲間がどうしても必要です。さっそくふたりの王子さまは行動にうつしました。
いっぽう、深夜の孤児院でのこと。おとぎ話しが大好きなふたごの姉妹は、みんなが寝静まったのを見て、ボロボロの人形とためておいたビスケットを数枚、お気に入りのカバンにつめ、施設をぬけだそうとこっそり玄関に向かいました。
きしむゆか板をそろりと歩いていたらとつぜん、リリリン! リリリン!
線のはずれた使われていない古い電話機のベルがけたたましく鳴りだします。このままではオトナに気づかれて、なにをされるか! 姉妹はあわてて重たい受話器を持ちあげると、むこうから男の子の大きな声が聞こえます。
「どうかそのままで! あなたたち、ふたごの姉妹の助けが必要なのです」
姉妹はびっくりして顔を見合わせます。なぜこちらにふたりいて、しかもふたごの姉妹だと知っているのか、どうして助けが必要なのでしょうか。
「電話からリリィとお姉さんは招待を受けて王子さまの領域にきたのね」
「そう。あと、これは秘密だけど」リリィは菖蒲の耳元で、「おとぎ話しをつなぐ交換手はシロゾウよ」。
「ほんとうに? リリィ、わたし今度会いに行きたい!」
「わたしたちはもうワクワクしたし、なによりうれしかった。姉さんとどうやって遠く広い世界へ旅に出るか、いつも本を読んでたくらんでた。あの日も、わたしたちは本気だったのよ」
姉妹の願いはぴったりとかないました。山あいの国の子供たちにむかえ入れられ、夢のような生活が始まったからです。
「山あいの国子どもたちはとっても明るくて、すぐにみんなと仲良しになったわ。わたしたちはすこしだけ年上だったから食事を作ったり、お掃除に針仕事をして、大忙しの毎日!」
菖蒲は目を輝かせリリィを見つめます。
「リリーフロラ、あなたはピーター・パンにでてくるウェンディね。わたしもあなたのような強い女の子になりたい」
「そう言ってくれてうれしい。アヤメ、あなたとはいい友達になれそうね」
約束の力
燃える影は山あいの国の子どもたちに【安寧の契約】がまだ有効であると嘘をつきました。大人が一方的に破棄しただけだ、というわけです。しかし子どもたちは、ほころんだ契約を逆に利用することにしました。
「闇は子どもたちの計画に気づかなかったのかしら」と、菖蒲はたずねます。
「彼らは【口止めの約束】より重い、【沈黙の約束】を結んだのよ」と、リリィは答えます。
「そっか、約束の力で燃える影に知られないようにしたのね」
「そう、闇を打ちやぶるまで真実を秘める約束。闇は人の内なる言葉を読むことまではできない。子供たちは親をうしなった悲しみをふくめ、すべて記憶にとどめ、かわりに希望を取りだしたの。わずかでも真実がかすまないように」
それでふたごの姉妹は山あいの国にやってきましたが、何をすればよいのかまったくわかりませんでした。でも姉妹は子どもしかいない様子を見て、また彼らと知り合い、打ちとけるうちにだんだんと理解していったのです。
「へんな話よね。せっかくわたしたちは招待を受けたのに、なんで助けてほしいのか彼らに聞いても口をつぐんでしまうんですもの。でもね、わたしと姉はアヤメも持っているすばらしい力を使ったのよ」
「約束の力ではなく、わたしも持っている力?」
リリィは両手で菖蒲の前髪をかきわけ、目をのぞきこみます。
「それはね、言葉にならない声を聴く力。きっとアヤメは自然に使っているから気づいていないけれど、とても美しい能力よ。もちろん、どんな力でも正しく使わなければいけないわ」
「リリィわたし、ちゃんとできているかしら」
「だからわたしたちはこうして会えたんじゃない」
菖蒲は恥ずかしそうにリリィの胸もとに顔をうずめます。
「どんな境遇も人にいろんな力をあたえる。わたしたちはおとなになって結婚し、山あいの国の民となった日、聞かなければならない話をそれぞれ夫から伝えられた。約束の力についても」
「ねえリリィ、あなたたちは利用されたって思わなかった?」
「ぜんぜん」リリィは首を横にふります。「むしろ心がわき立った。これからおもしろいことが起きようとしている、きっと大変だけど絶対に手ばなしたくない物語になるって。アヤメも、あの異国の風をかいだでしょ?」
菖蒲は納屋を飛びだしたあの日の興奮を思いだし、大きくうなずきます。
「でも愛はべつ。なにからも強要されたわけではないわ。時間を一緒に過ごして自然と、せせらぐ川のような恋をした。話しているうちに大きな川となって、どこまで続くのだろう、もっともっとグレエンの広さを知りたいから結婚したの」
「すてきなお話しね」
「ありがとう、アヤメ」
燃える影を打ちやぶるチャンスは一度。国を旅立つ王子さまが燃える影と相対する時です。ですから兄弟のうち、どちらが王となるかはとても重要な問題でした。ふさわしいのは兄か弟か、ふたりの王子は悩みましたが、ついに決心します。兄が王となることを。
「どうやって選んだのかグレエンに聞いたけど、彼はぜったい教えてくれなかった。姉さんも同じことを言ってたわ。ただ【王位の約束】とだけ」
山あいの国に新しい王が即位し、闇を打ちやぶるための準備ははじまりました。王さまと王妃さまは急いで記憶の星に旅立ち、【手つなぎの約束】で自分たちの記憶を採取し、青い剣とそれに力を加えるため、赤い宝石の指輪も加工しました。記憶の結晶には『役割を果たすまで決して壊れない』という性質があり、燃える影と戦うにはうってつけの道具です。
「記憶の星から帰ってすぐ、わたしたち姉妹は前の領域へ二度と帰らない、という【不帰の約束】の力を剣と指輪に加えた。そのあと王子も誕生し、あとは旅立ちを待つだけ」
「ちょっと待って、リリィ。何も知らない干しわらの王子さまはどうして剣と指輪で燃える影を打ちやぶろうと思うのかしら」
「そう、それが一番難しい問題ね。本当は【口止めの約束】で王子に伝えようとしたの。ただし【沈黙の約束】をおかす危険もあった。それに、約束の力も弱まってしまう」
「どういうこと?」
「アヤメは約束の力がどういうものか知っているかしら」
「うん、馬小屋会議でアルビレオが話してくれた。〝重い約束ほど力は強く発揮され、逆に約束を守らなければ大きな代償がともなう〟でしょ」
ではなぜ約束に力があるのでしょうか。それは誰も約束を守る人がいなくなり、なにが『本当のこと』か、わからなくなってしまったからです。人間の軽易な口約によって『本当のこと』を壊さないため、力をもつようになりました。
「グレエンが言うには、この領域でない人の約束がより大きな力になるみたい。むかし、みんなの嘘で領域を破滅させ、約束の価値をさげたからその代償に信頼を失ったから、と」
「それでわたしやリリィの助けが必要だったわけね」
「約束は信じればそれだけ強化されるし、疑うと弱くなっていく。王と姉さんは王子が旅を通して真実を理解し、行動するのを信じようと決めた。もっとも王子は国を発つ前から多くのことを知っていたみたいだけど」
——ヘレムのことだわ——。はっとする菖蒲に、リリィは黙ってうなずきます。
燃える影はいったいどこに身をひそめているのか、これも問題のひとつでした。転機となったのは【安寧の契約】を破棄した日の夜です。おとなをみんな呑みこんだあと、モルトが命がけで影の跡をつけていきました。なんて勇敢なキジ三毛ネコでしょう!
灯台下暗し、影はずっと昔から住処を変えていませんでした。王子が旅立つ少し前、リリィとグレエンはモルトの案内で東の風車へ向かいます。
小麦畑の農夫として監視を始めてからしばらくたってからのこと、ついに王子さまがアルビレオに乗って風車にやってきました。
王子さまは青い剣に【干しわらの約束】を、赤い指輪に【忘失の約束】を加えてアルビレオにたくします。風車からでてきた燃える影は大蛇の姿で興廃の丘にいるグレエンとリリィを襲いました。
「わたしは山あいの国を出る前に秘密の約束をしていた。それは燃える影に恐れず立ち向かう【覚悟の約束】。結果はどうなったかわかっているでしょう?」リリィはにやりと自信たっぷりに笑みをうかべます。「わたしたちの勝ちね、アヤメ」
みずから大蛇に呑まれたリリィは王子さまが燃える影と交わした【干しわらの約束】について知ります。
「心の水を汲むために女の子はすべてをうしなう。わたしはせめて中庭から出るための助けとなりたい。そう願ったら、おどろいたことに園丁として待つことを許された。おそらくこれは約束よりももっと強い力、わたしがあなたを見あげたときに感じたのは……でも、わたしは中庭であなたを」
リリィは言葉につまります。まるで深い穴の底にしずむような目で、菖蒲はリリィをはるか遠くに感じ、寂しさで胸が苦しくなりました。——だめ! いなくなってしまう——孤独に足をつかまれる菖蒲は闇へと消えるリリィに手をのばそうとします。
「刺しゅうの入ったカーテンも、モクレンのかおりがするフカフカのおふとんも、わたしにぴったりなレースのワンピースやちょっぴり大きめのぼうしも、ドライフラワーやハーブ入りのお風呂も、かわいい食器もすてきな庭も、みんな、みんな、なにもかもリリィ、あなたがわたしのために用意してくれたのよね?」
「それはね、それは……わたし、子を宿す力が」
「お願いよリリィ、アヤメのためと言って!」菖蒲はリリィの言葉を強く否定するようにさえぎります。「どんな境遇も力をあたえるのでしょ? わたし、リリィを窓ごしに見たとき、ほほ笑みかけてくれた時、どうしても会いたくなった。なによりも今、わたしはたしかに満たされてる。知らないところでさえたくさん。だからこんなに落ちついていられるのよ」
うつむくリリィの長い髪はだらりとたれ、ふたりをへだてる金色の幕は顔をおおいます。
「わたしはもうずっと、ずうっとリリィ、あなたの気持ちに気づいているわ。そして宇宙で一番温かな力がわたしたちを引き寄せたことにも」アヤメはリリィの手をぎゅっとにぎりしめ、「だからもうわたしを離さないで、お母さん」。
「ええそう、あなたのため、全部あなたのためよ!」
リリィはたまらず力いっぱい菖蒲を、そのすべてを包みます。
「愛しいわたしの娘、アヤメのために!」
なぞかけ歌
リリィとのむかし話は霧がかった木立のあいだから差しこむ陽のように菖蒲の思いをさわやかに照らし、前よりずっといきいきと、新たな活力や意志をあたえました。いろんな人の考えや願い、複雑にからむ約束は、これからしなければならないことを菖蒲にはっきりと告げていたのです。そう、井戸の水で王子さまをもとのすがたにもどし、あの燃える影を打ちやぶることを!
そんなある日、「リリィのすてきなところは」と、菖蒲は食卓のイスにすわって砂時計がさらさら下に落ちるのを見ながら指折り数えていました。「早くしなさいって急かさないとこ、あれこれしなさいって押しつけないところ、おかしいって顔をしかめないところでしょ。それに……」
全部の指を折りたたんでにこにこしていると、リリィはパウンドケーキを持ってやってきました。
「リリィはいっつもいそがしそうね」足をバタバタさせ、ほおづえをついた菖蒲は言います。
「あら、そうかしら」と、リリィは答えます。
「わたしの見るかぎり、三十人のリリィが前を往復していたわ」
「ああ、それは」と、リリィは四角いパウンドケーキを切り分けてから皿を菖蒲に渡します。「きっと、この家に住む小人よ」
「七人じゃなくて? ちょっと多すぎじゃない?」
「あら、うちのお姫さまにはたりないくらいよ」
「なんて世話の焼けるお姫さまなのかしら!」
やがて時間の砂はふりやみ、菖蒲はティーポットをかたむけると紅茶を最後の一滴までふたつのカップにそそぎます。
「ねえリリィ、どうしても気になることがあるの。聞いてもいい?」
リリィは立ちのぼる紅茶の香りにうっとりしながら、「教えてあげられることならなんでもどうぞ」
「『干しわらになった王子さま』の本にある、王さまのなぞなぞについて、どうしてもわからないの。〝芯のないりんご、扉のない家、鍵のいらない宮殿〟の答えってなんだったのかしら?」
リリィは少し考えてから思いだしたように笑い、「たぶん王はなぞかけ歌を王子に伝えたんじゃないかしら」
「なぞかけ歌?」
するとリリィは『愛する彼に苹果を』という歌を歌いはじめました。
愛する彼に芯のない苹果をささげよう
愛する彼に扉のない家をささげよう
愛する彼の過ごす宮殿をささげよう
彼が開けるのに鍵はいらない
わたしの想いは芯のない苹果
わたしの気持ちは扉のない家
わたしの心は彼の過ごす宮殿
彼が開けるのに鍵はいらない
「リリィは歌じょうずね、はじめて知った」
菖蒲はリリィの歌声を〝すてきなところ〟のひとつに加えました。
「わたしは一番のなぞかけを歌って、姉さんは二番の答えを歌うの」と、リリィは言います。「それから王とグレエンに姉と妹を当てさせる遊びをしていたわ。時には姉さんが一番、わたしが二番を歌い、さてどちらでしょうって。わたしたち双子だから姉妹逆転させて、彼らにいろんなイタズラをしたものよ」
「おもしろい遊びね」
「みんなおとなに成長して、秋の収穫も過ぎ、冬支度を始めようとしたある日の朝、湖のほとりにあるガゼボで、王は姉さんに、グレエンはわたしにこう言ったの。
——もし姉妹のイタズラを見やぶることができたなら、どうかリンゴをわたしにください。
そこでわたしたちは最高の悪だくみを思いついた。わたしはサイドヘアにして姉さんのブラウスと花の刺しゅう入りエプロンを身につけ、姉さんはツインテールにわたしの藍色のチュニックを着る。約束の日の夕方、ガゼボに集まったわたしたちはそれぞれ赤いリンゴをひとつ手に、あの歌を歌ってみたのよ。それからリンゴをふたりの王子のまえに差し出し、あなたのほしいリンゴはどちらって」
菖蒲の胸はなんだかほわほわと熱くなり、顔はリンゴのように、目を大きくして身を乗りだすように言います。
「それから、それからどうだったの? リリィ」
「アヤメもわかってるでしょ。わたしたちのつまらないイタズラなんて最初からお見通し。彼らは容姿でわたしたちを見分けてたんじゃなくて、声を聞き分けていたの。ずるいわよね、ふたりともずっと知っていたのにわざとだまされたふりをしてたんだもの。まちがえたら姉さんとふたりで大笑いしようねって、ひそひそ話していたのに。まじめな男の子はつまんないわよ、ねぇ」
「……」
「お人形さんみたいにかたまって。どうしちゃったの、アヤメ?」リリィは不満げな菖蒲のほっぺをきゅっとつまみます。
「いや! そんなおしまいはいやよ。どうなったかちゃんと聞きたいの!」
「どうなったかって、それはそれは幸せに暮らしましたとさ……」
「その前のお話よ、ほら、あの言葉があるでしょ」
ああ、と思いだしたようにリリィは目をそらし、ティーカップを口につけます。でもなんだか菖蒲みたいに顔はまっ赤です。
「アヤメのいれる紅茶は最高ね。どこで覚えたのかしら」
「ごまかさないで」
鼻息荒く熱心にこちらを見つめる菖蒲。追いつめられたリリィはついに観念してカップを置き、浅いため息をつきます。
「……今まで聞いたことのないくらいとっても甘くてとろけるような愛の約束をささやかれたわ。これ以上は秘密! ぜぇったい教えない、もうおしまい」
「リリィのけち」
「ふぅん」と、リリィは目をほそめ、「アヤメも大好きな男の子から聞くのよ。そうしたらわたしも同じこと聞くけど、それでもいいの?」
思わぬ逆襲を受けた菖蒲のお城は火矢でみごと撃ちぬかれ、心臓は飛びでそうなくらい、どっくんどっくん鳴ります。考えれば考えるほど燃えあがる恋の炎を消火しようと、そばにあった水をゴクゴク飲みます。そんな様子がおかしくて、ふたりは目を合わせ、大笑いしました。
王さまのなぞなぞは解決し、愛の約束もうまくはぐらかされたところで楽しいティータイムはおしまいとなり、食器をかたづけて居間にむかいます。
「リリィ」菖蒲は落ち着いた、でも力のこもった声で言います。「やるべきことをはじめましょう」
リリィはうなずき、くすんだ金色の鍵をつくえの上にことりと置きます。
「このカギは裏口の扉を開けるための鍵よ。裏口扉の錠前は内側についていて、扉のむこうはどこへでも行ける階段があるわ。ただし、使えるのはわたしとアヤメの一回ずつ。なぜなら鍵穴にさしてまわしたら、外側から閉じてふたたび錠をおろすまで鍵はぬけないから。それに、外側はドアノブがないから開けられない」
「なるほど、これで王子さまのいる王の間に帰れるってわけね」
「そう、そしてアヤメ、わたしたちが今どこにいるか、もうわかっているわね?」
「もちろん」と、菖蒲はすぐにこたえ、ぶあついカーテンを思い切り開いてみせました。
窓の外はどす黒い血のような液体のたれるおぞましい夜空に、ポコポコと音を立ててヘドロわく汚れた沼地、遠くで紫色の雷は切り立つ黒い山をぶきみに照らしています。
もちろん、ここは干しわらになった王子さまのいる領域ではありません。菖蒲を狙っていた、あの恐ろしい大蛇の体内だったのです。
「大蛇に呑まれたわたしは倒れているところを影の男の子に助けられ、ここへ連れてこられたの。影の子はときどき家にやってきては中庭や【干しわらの約束】について教えてくれたわ。それに、父親を待っているとも」
「もしかしてイシュが」
菖蒲は月明かりに照らされたあの夜、影の少年の深く憂いた声を思い、胸はうずきます。グレエンの伝えたようとした羽根のまわり続ける風車、いつも穂をたらす小麦畑、納屋と古い農家の秘密とは、すべてイシュと〝父親〟の過ごした心象風景で、リリィと住むこの家も東の風車にある農家とまったく同じつくりだったのです。
「ねえリリィ、わたしたちへんよね。こんな最悪な景色のそばでぐっすり寝たり、おいしい食事をしたり、さっきまでお茶を飲んで笑っていたんですもの」
「わたしたちだれよりも強い女よ。断言できるわ、アヤメ」
リリィは窓の前で腰に手をあて、どっしりかまえます。
「〝ピッピロッタ・タベルシナジナ・カーテンアケタ・ヤマノハッカ・エフライムノムスメ・ナガクツシタ〟みたいに?」
「長い名前!」
「馬を持ちあげるくらいとっても強い女の子なのよ。わたしピッピのこと大好き」
「今のアヤメならアルビレオを持ちあげちゃいそうね」
「リリィ、わたしのお願い、聞いてもらえる?」
「わたしのしてあげられることならなんでもいいわ」
「裏口の鍵、わたしたち一回ずつ使えるのよね? リリィは先にもどってほしいの」
「そんなのだめ」と、リリィは顔を横にむけると、そばに立つ菖蒲と、もうひとり重なるように女の子が固い決意を秘めた目で窓の外のそびえる黒い山をじっと見つめています。
「わかったわ」リリィはしばらく考えてから言います。「ではわたしの右手にアヤメの手を重ねて」
菖蒲は言われたとおりにのせると、リリィは左手をそえます。
「これから【母娘の約束】をしましょう。わたし、母であるリリィは【覚悟の約束】で得た力をあなた、娘のアヤメにわけます。かわりにわたしのもとへ必ず帰ってきなさい。それと、中庭の時のように無理はしないで」
「わたし、娘のアヤメはあなた、母であるリリィの約束を聞きました。わたしは【母娘の約束】を守り、かならず母のもとに帰ります。中庭の時のような無理もしません」
「もしグレエンに会ったら、あなたの家で待っています、と伝えてもらえるかしら」
菖蒲は笑顔でうなずきました。
光と影による交渉
くすんだ金の棒鍵錠に鍵を差しこんでひねり、木製の扉をおし開けると、石階段が上へどこまでものびています。ヒューヒューとふきぬける風は、まるで階段を通る者の目ざす出口を知りたがっているようでした。
不安げな表情をしたリリィは菖蒲のほおを優しくなで、できるだけ早く帰ってくるよう言いのこし、風とともに消えていきます。
扉が閉まると錠はひとりでにかかり、真ちゅうの鍵はくるんとまわってぬけ落ち、菖蒲はひろってポケットにしまいます。それからだれもいない居間を通って玄関の壁にぶらさがる丸い姿見の前で長い黒髪をまとめました。
「お願い、わたしのミモザ」鏡にうつるアヤメは右手首についた金銀のバングルに語りかけます。「ふたたび立ちあがる勇気を」
そう言って、まがまがしい雰囲気のもれでる玄関扉をいきおいよく開き、外へ飛びだしました。
生ぬるくべっとりした重みのある空気、ぬかるむ地面は底なし沼のように、一度でも足をすくわれれば、体ごとのまれる危険をひしひしと感じます。もう二度と芽をだすことはゆるされない灰色の枯木はいたる所につっ立ち、絶望と、ひたいにきざまれた骸はいくつも山とつみあげられ、時おり、ころがり落ちてしずみます。
菖蒲は沼からわく腐臭にたえながら、大きな獣がずるずる引きずられたような跡をずんずん歩きます。あちこちに隠れる面子をつぶされた欲深き四つ足の人影は、悪意にみちた表情で少女をうかがい、飛びかかってむさぼろうと一瞬の失敗をねらっています。しかし不思議なことに誰も手をだすものはいません。まるで短夜にまうホタルのように、ぽおっと白い光が衣となって菖蒲を守っていたからです。うしろめたい闇はまっすぐな光をおそれてもいました。
はき捨てられた偽りの騒然がたえず耳についてもけっしてうろたえることなく、タールのような黒い雨でよごれても、まったく気にとめず、菖蒲はただ一点を目ざし、前へ前へと進みつづけました。
やがて沼地を背にし、雷鳴とどろく黒い孤峰のふもとまで近づきます。口をあんぐりあけた鍾乳洞はするどいきばをむいて待ちかまえ、嫉妬の風をはきだしていました。もし【覚悟の約束】の力がなければ菖蒲など紙切れのようにやすやすと遠くへふき飛ばしていたでしょう。
山の中心に近づくほど、熱風は菖蒲をおそい、ひたいから汗が流れ落ちます。それでも奥に進み続けると、やがてついに広い空間に抜けました。
オニキスをけずりだした漆黒の座が中央にどうどうとかまえ、燃える影は胡坐をかき、ひじかけにどっしりとよりかかり、ふてぶてしくこちらを見おろしています。
「さて、賢良な人間だと評し、単刀直入に言おう」
菖蒲は王子さまと対峙した、ぞっとするほど冷淡で低い声を思いだします。
「井戸の水を我に。【安寧の契約】を破棄し、未来永劫あの国には手をださん」
燃える影は腹話術のように菖蒲の耳もとでこうささやきます。
——おまえの手中に大勢のゆらめく灯火がある。望みどおりにあつかうがよい。支配するも、ふき消すもおまえしだい。ただ水をこちらに渡しさえすれば。
燃える黒い影は気づかれないほど小さく、にやりと口角をあげます。
「我は辟易していた」と、影はこまり果てたように弱々しく語ります。「自由と権利をふりかざし、飽くことなく〝正義〟をひたすらさえずる愚民にな。だだばかりのなんとまあ、わずらわしい人形か」
菖蒲のこぶしがすこし緊張するのを影は見すごしません。間髪をいれずに言います。
「いいか、人形はな、真実であるほどよく疑い、嘘であるほど熱心に信じる。紳士淑女よろしく常識のドレスをまとわせ、舞台で演じるが相応。さきの大戦もひとつの誤解で人形は壊れるまで踊りくるった。約束の力などとあいつらはぬかすが、そもそも約束を守らず、恥ずかしげもなく公然と嘘を見苦しい言いわけと共にはく。
なるほど宇宙に偽りなどない。たんにあざむかれ、背いたのだ。汚した体をイチジクの葉でおおい、せいぜい恥を隠そうとしたあのはじまりから。そもそも己の価値を低めたのは人形自身ではないか?」
——しかし我は小ビンにこめられた水の価値を知っている。手にするため、さぞ苦心したであろう。人形ごときにたれ流すのはなんともったいない。かってに干しわらとなったバカなど忘れ、我とともに歩め。
「我が水の力を使えば、新たな文化の黎明を拝し、高尚な秩序をもたらす瞬間にも立ちあえよう」
じっと静かに見つめる菖蒲に、影は大きくため息をつきます。
「金か、称賛か、それとも凡庸な人生か? そんなものにたかるはせいぜいハエぞ。まあ欲しくばなんでもよいが」
洞穴をぬける風はむなしく口笛をふきます。燃える影の交渉はいつまでも合意に達することなく、菖蒲のくちびるは微動だにしません。
「つまらん、つまらん、ああつまらん!」しびれを切らした影はごおごおと憤怒を燃やし、ひじかけをたたき壊します。
「オレはな、沈黙がもっともきらいだ。なにもかも知っているようなうす汚い目をむけやがって!
いいか、よく聞け。おまえらがあの時のようにオレの背を狙おうと、こそこそ動きまわっているのに気づいていないとでも思っていたか、ひきょう者どもめ。
なにが井戸の水だ! なにが約束の力だ! そんなもの、世を統べるオレの偉大な力で今すぐうばいとってやる!」
あびせる怒声は威嚇するライオンのように、影はいきおいよく立ちあがり、菖蒲にむかって左右に手を大きくふりながらつめよります。
「なにかこたえろ! さあこたえろ!」
——わたしはくり返しあなたの名を呼んだ。
「おまえをいますぐ!」
——なんども、なんども。
「この場で!」
——愛する友のたったひとりの家族だから。
「消しさってもいいんだぞ!」
——あなたを取りもどそうと。
「わかってるのか!」
——でも、届かない。
「いいや、そんなもんではすまさん! 泣きわめき、命ごいするまで痛ぶり続けてやる! なまいきな小娘め!」
燃える影は菖蒲のほほを打ち、菖蒲はうしろに倒れます。
——なぜあなたには見えないの? なぜあなたには聞こえないの? なぜあなたには感じられないの?
むくりと身を起こした菖蒲は燃える影から決して目を離しません。すると、どう猛な野獣は少女からあとずさりし、それはまるで鼻息荒い動物をしつける調教師にも見えるのです。
菖蒲は息を目一杯すい、「いいかげんになさい!」
ビリビリふるえる叱咤は洞くつ中にひびきます。
「わたしはあなたと交渉するために来たのではない!
聞け! 影に隠れ、己を見まごう哀れな人間の王よ。あなたのうぬぼれた野心により、剛毅朴訥とみずからの役割をまっとうせんとする多くの高潔がどれほど深くきずつけられたか、知りなさい!
ゆがめられ、にごされた軽薄な言葉は、貴重な約束の数々を血や涙とともに逆巻く河へ流し、たどりついた激動の海で真実と公正を絶えず天にむかってさけんでいる。そうしてふりそそぐ美しくも悲しい歴史はあなたの玩具でないことを学びなさい!
そして闇の子よ、あなたを兄と慕う妹の愛を思いだしなさい」
「ガキがオレに、我につまらん説教をたれるか」燃える影はギリギリと食いしばり、菖蒲を指差し、金切り声をあげます。「ゆるさん、ぜったいにおまえをゆるさん! すべておまえが悪い、おまえが妹を利用し、苦しめたくせに! おまえなんかいなくなれ! 消えうせてしまえ!」
「それでも」と、菖蒲は深い闇の先をしっかり見すえ、右手で友の手をにぎりながら「わたしにはミモザがいる。たとえすべてわたしが悪くても、わたしが許されなくとも」。
絶句した影は、走りさるふたりのうしろ姿をただながめるしかできず、くだかれた王座に力なく腰を落とします。
「ああ、わたしにだって見えていた。わたしにだって聞こえていた。わたしにだって感じられていたのだ。しかし、もどれなかった」
そう言ったのは燃えつきた影の少年であり、みじめな自分にかわいた笑いを、うなだれると黒い水が目から流れ、「お父さん、助けて」。
意思を放棄した影は四方八方に破裂し、ねぐらの山をもくずすほどの力と怒りのなすがままに、おたけびをあげて暴走します。憎悪のかたまりはあらゆるものを、ここが自分の体内であるなどもう関係ない、といわんばかりに、なにもかも壊しはじめました。
おそろしい光景に気づいた菖蒲はできるだけ急いで家に帰りますが、もはや制御不能な闇は、菖蒲を見るやいなや、荒れくるう波にのまれる小さな木造船のように、あっというまに家ごとひねりつぶしました。
かろうじて難をのがれた菖蒲は裏口扉の鍵を開けて、すぐさま閉めると鍵がかかります。しかし闇は力ずくで扉を抜けようと、ぐいぐい押しよせてきます。ミモザは菖蒲の手を離し、いまにもやぶれんばかりのたわむ扉を背でおさえつけます。
「ミモザ!」菖蒲は思わずふり返ります。
「はやく行って!」と、声をあげるミモザ。
「でも」
「信じて。あたしはいつもアヤメと一緒」
「うん」
菖蒲はうなずき、階段をかけあがると、すぐに闇は扉をぶちやぶり、どっとなだれこんできます。
もう絶対に止まることはできません。背後にはどす黒い蛇が菖蒲をやつ裂きにしてやろうと、これ以上ないほどの怒りをこめ、猛追していたからです。
干しわらの王子さま
ぶきみなほど静まり返った直線の石階段。遠くに聞こえる小さな蒸気機関車のブラスト音はこちらに近づき、どおっと通りすぎていきます。
「おいおい、どこまでつづくんだ」重厚な鉄車輪は運転手にくり返し問いかけます。「こっちはもうへろへろさ!」そばで左右にふられる主連棒も文句ばかりです。いつまでたっても終わりの見えないトンネル、前からうしろへ流れる単調な黒い景色を横目に、息せき切らす運転手の菖蒲は、がたつく機関車をなんとか説得して進んでいました。後方からせまりくる恐ろしいさけび声を聴きながら。
ミモザの時間かせぎや、怒りをたくわえすぎた闇が多少緩慢になったとはいえ、何十段もの階段を女の子が全力でかけているわけですから、差をつめられるのはとうぜんでしょう。
でも、どんなことにも終わりはあります。読めないとわかりつつ、背のびして借りてしまった、単語びっしりのぶ厚い本にも、苦手な科目のテスト時間も、大きめのニンジンやピーマンのごっそりはいったスープをだされた最低な夕食にも。
菖蒲は終わりが好きでした。本を閉じたあと、どん帳のむこうにいる役者たちの暮らしを、いつまでも想像できるからです。食べ終えたおやつのケーキにだって物語はありますし、ほろ苦い終わりにはたっぷりのミルクと砂糖をまぜてしまえば、カフェオレにできるでしょう。たとえ暗くて長いトンネルのようなまいにちだとしても、菖蒲の王国では、おしまいがはじまりと仲よく腕をくみ、『誰のためのものでもない物語』をいきいきと語り続けていました。
「だからあきらめないで、アヤメ!」
すると前方に四角い明かりがやってきて、菖蒲はつかむようにまっ白いカーテンのなかへ体を投げだします。
ついに王子さまの待つ部屋に帰ってきたのです。でも感慨にふけってなんかいられません。暴走した闇は菖蒲を、いいえ、この領域すべてを壊そうと、すぐそこまで追っているのです。
菖蒲は息つくひまもなく部屋の中央、王子さまのいる王座へまっすぐ走ってゆきました。胸はバクバク、ひたいは汗でぐっしょり、息もきれそうですが、重たい鉄の足をとにかく回転させ、前へ前へ。
やぶれた水道管から噴出する水のように飛びだした闇は、周囲をいきおいよく呑みこみながら、菖蒲目がけて、すさまじい速さでおそってきます。なんて執念深いのでしょう! 彼らは怒るのに飽きたりず、憎しむことだって疲れを知りません。
すぐ王子さまに水をそそぐため、菖蒲は小ビンをポケットからとりだし、フタを投げ捨てます。しかしなんとつぎの瞬間、信じられないことが。
小ビンに気をとられ、よろけて石だたみのでっぱりにつまずいてしまったのです!
汗ですべった小ビンは手からすっぽ抜け……
「あっ」
目の前でゆっくり、ゆっくりと宙にういて遠ざかります。
菖蒲はありったけ手をのばし、ほんのちょっとだけ、指先をかすります。
たたき割れたガラスの音が部屋中ひびいて火花をちらし、小ビンはたちどころに消えてしまいました。
——————
時間はピタリと止まります。
——まさか! なぜ? 目的を果たすまで割れないはずの記憶の結晶が! やっとここまでたどり着いたのに。なにもかもむだだったの?——闇はほんのりただよう挫折の甘い空気を感じとり、喜びいさんで菖蒲の頭をかすめ、まとめていた髪ははらりとほどけます。
地に軽く手をついた菖蒲は小ビンのそばまでかけよると、ひざをつき、こぼれた残りの水を口にふくんで王座へまっしぐら! 闇はするどい槍先となり、菖蒲の心臓一点にねらいをさだめます。
菖蒲は王座の階段を一段飛ばしで、干しわらになった王子さまに両手でふれると、その口に優しく口づけしてからこう言いました。
「愛する王子さま、どうかもとの姿にもどりますように」
それからぎゅうっと抱きしめ、目をつぶります。
菖蒲にできることはもうありません。だから、あとは干しわらになった王子さまにたくします。それは扉のない中庭にいくため戦わねばならなかった孤独や失意、無力感などではありませんでした。これまでにないほどおだやかな気持ちで、安心してなにもかも、そう、すっかりとぜんぶ、愛している人を信じたのです。
闇はみにくく下品な勝どきをあげ、ふたりをまるごと呑みこんでいきます。
こうして光は闇のものとなり、世界は暗転しました。
でも、それは二行分ほど。
「……やみ……はなれ……よ」
ぽつりぽつりと声がどこからか、聞こえてきます。
「わたしは……おまえとの約束を……果たした」
少しずつ明りょうになる声。
「干しわらとなったわたしに井戸の水を……そう望んだが、あたえられた水は、はるかにまさっていた」
闇の切れ間にはなつ光芒はあたりを照らし、「それにしても」と、王座からの声はつづきます。「おまえはこの水の価値をほんとうに知っているのだろうか」
闇はひるみます。いちばん聞きたくない声だったからです。しかし声はやみません。
「父祖たちよ。わたしたちの勝利です」
ボロぞうきんのようにさかれる闇の中で燦然とかがやく少年は菖蒲をしっかり守っていました。
菖蒲はゆっくり顔をあげると、ふんわりなびく小麦色の髪にサファイアの瞳をもつ少年がこちらを見つめています。
「もとの姿にもどれたのね。よかった」
おだやかな笑顔の干しわらの王子さまは軽くうなずき、こう言いました。
「ありがとうアヤメ。あなたがわたしのくちびるにそえた水は、どんな花よりも芳しく、極上の蜜よりなお甘かった」
二重星
菖蒲はなんだか恥ずかしくなってきます。それもとうぜんでしょう、なにせ王子さまのたくましい胸にしがみついているのですから。——しかもわらたばとはいえキスまで——いてもたってもいられず、離れようと体を引くと、うしろによろけて階段をふみはずします。
「どうしたの、アヤメ?」王子さまはころげ落ちそうになる菖蒲の手首をさっとつかみます。
にぎられる手のぬくもりは電流のように全身をかけめぐり、菖蒲はかーっと熱くなって目をそらします。
「あの、その、だから、うん、ごめんなさい」
きょとんとする王子さま。菖蒲はよけいに意識してしまい、手をふりほどき、背をむけます——わたしなにやってるんだろう。納屋からここまで運んでも平気だったのに。あぁもう、おばぁがへんなこと言うから!
もちろん、菖蒲は納屋で選んだわらたばが王子さまだとまったく信じていました。だからこそもとの姿にもどすため、これまで必死に旅してきたのです。しかし、ひとつだけの大きなかん違いは、干しわらでも人間でも同じだろうと思いこんでいたことでした。
——想像したよりもずっと強くて、おだやかで優しそう。どんなこと考えているのかな。ねえ、わたしのことはどう思っているの?——菖蒲の頭で『とりとめない楽団』による演奏会は開演し、満員の観客を前に指揮者はタクトをふります。ティンパニーのロールで最前列席の恋心は目ざめ、シンバル奏者が調子を合わせて打ち鳴らそうと両手を広げれば……
「アヤメ!」王子さまはぼーっとしている菖蒲に言います。「はやく闇と決着をつけなければ!」
そう、戦いはまだ終わっていませんでした。闇は完全に消えておらず、すぐにでもふたりを始末しようとふたたび活動し始めたのです。いっこくの猶予もありません! それにもかかわらず菖蒲はとんでもないことを口にします。
「わたしはいいから先に行って!」
王子さまは菖蒲を見ると腫れたほおに全身はススけてぼろぼろ、足は生まれたてのめ鹿のようにブルブルふるえています。
これまでずっと走りつづけ、階段をのぼりきった菖蒲の足はとうに限界を超えていました。この場でへたりこみたいほど、体力は少しも残っていなかったのです。王子さまのためにここまで来て、すべて願いはかない、ほっとしてすっかり力がぬけてしまいました。
そんなことなどおかまいなしに、ぬるぬると寄り集まった黒い水はだんだんいきおいを取りもどし、こちらにやってきます。
王子さまは菖蒲を優しく横にしてふわりと抱きあげ、両側からせまってきた闇を切るように正面の扉へ走ります。
「このままでは追いつかれてしまう。わたしなんか置いて早く!」
「聞いてアヤメ」王子さまは腕の中でもがく菖蒲をなだめるように言います。「わたしは傷をおった羊をこうして家に連れ帰るんだ。山三つ越えたこともある。それにかけっこでだれにも負けたことがない」
王子さまはそう言って木扉をけやぶり、かるがると階段をかけあがります。負けじと闇はまっすぐ、狩りをするヒョウのようにしつこく追跡してきました。
地下扉を抜け、風車を出ようとしたまさにその時、大きな地ひびきを立てて噴出する黒いマグマは風車をこっぱみじんに、がれきは飛散して宙を舞い、あっというまにのまれていきます。木切れは矢のようにバラバラと落ちて地面につき刺さり、爆発を逃れた王子さまは菖蒲をかばいながら穂をたらす小麦畑の中を走ります。暴れくるう大蛇と化した闇はグレエンたちと過ごした家も馬小屋も納屋も、たがやした畑も、毎日水をまき、手入れした美しい庭も、いいにおいのギンバイカもすべて、なにもかもめちゃくちゃにします。確かに放縦な力はどんなものでもたやすく壊せるでしょう。でももとどおりにすることはできません。菖蒲は失われゆく景色に深く傷つき、それと同じくらい闇の領域で憤怒をしずめてくれたミモザに感謝しました。
「アルビレオッ! アルビレオォ!」
白馬アルビレオを何度も呼ぶ王子さまの声は、そこらじゅうであがる阿鼻叫喚や怒号によってかき消されます。大蛇は赤黒い月を目に、堕ちた星たちを軍兵へと変え、王子さまにさしむけます。足を打ち鳴らしつつ背後にせまる闇の大軍、上空ではうねる大蛇がふたりをつぶそうと血眼になって探しています。
形勢は一気に逆転し、がけっぷちの王子さまでしたが、あきらめずにアルビレオの名をひたすら呼び続けます。そんな逆境のなか、ただ菖蒲だけは王子さまの胸に鼻をよせ、ゆりかごでゆられるように目をとじると、今までの歩いてきた旅を一つずつ思い返しました。
——本に誘われいつのまにか納屋に、モルトやグレエン、アルビレオとの毎日はわたしに力をくれた。フクロウ先生や生徒のスズメたち、働きアリさんはみんな元気かしら。おばぁとまた会いたい。わたしの話をたくさん聞いてほしいな。おじぃとシバはきっと新しい旅に出かけたのでしょうね。もしかすると天体観測所でわたしたちをのぞいているかも。メレさんは今日も記憶採取してるにちがいないわ。アルネヴ! あなたのお茶は最高だった。わたしたちは古い友人のよう。なによりミモザ。あなたはわたし。わたしもあなたといつも一緒よ。リリーフロラ、わたしのお母さん。ぶたれたほっぺは怒られるかな。いつだってわたしは前に進むことができたもの。だからこれからも——
「来たわ」菖蒲はまるで知っていたかのように王子さまの顔を見て言います。
憎しみあふれた暗闇のむこうからチカチカ星はまたたき、希望がこちらにやってきたのです。そう、白い馬です!
「アルビレオ!」王子さまはおどろきと喜びのまじった声をあげます。
「わが主人、わが王よ! 深い闇の中でわたしを呼ぶ声が聞こえました。ああ、どれほど待っていたか!」
「おそくなってすまない、アルビレオ。大いに喜べ! わたしたちの勝利だ。さあわたしを青い剣のもとに案内しておくれ」
王子さまは菖蒲をアルビレオの背にのせ、うしろにまたがると、主人の帰ってきた白馬は土塊をけり飛ばし、いつにもまして早く駆けだします。
「グレエンは青い剣を持ち、興廃の丘にむかっています。モルトはアヤメさまが地下におりたすこしあと、王に顛末を報告するため国へもどりました」
「よし、よくやった。すべて計画どおりだ」
追ってくる闇の軍隊をぐんとひき離し、広い小麦畑は遠くに、ポプラは前から後ろへ流れ、興廃の丘手前、シラカンバの林が見えたところで輝く戦士はいました。
「グレエン!」
王子さまの声にふり返るグレエンは、待っていたとばかりに青い剣を思いきり天高くほうり投げ、ふわりと浮かぶ剣はするどい閃光とともに、またたくまに消えさります。遠くかなたの王子さまが青い剣を高くふりあげる姿を見るや、グレエンは血湧き肉踊り、たまらずこう叫びます。
「ああ父祖たちよ、わたしはもう満足です! 切望した解放の時、一片でもかかわることができたのですから!」
それから腰にぶらさがる剣を右手でゆっくり鞘からひきぬきます。完璧に研がれた長剣アトロポスは、後方で行進する十万の兵を鏡のようにうつし、常世の運命を断ち切るため、かん高い声を鳴らしました。
「背信と虚言の亡者どもよ」獲物をとらえたワシの眼をして、ライオンが威嚇するときの重々しい王者のうなりは大地をふるわせます。「わたしがだれの子であるかおぼえているか。底知れぬ憎悪の応報、どのようなものか教えてやろう」
そう言って、グレエンただひとり闇の大軍に突進していきました。
いっぽう王子さまは、みるみるうちにシラカンバ林を越え、風を切って興廃の丘に出ます。広い平原のまんなかには暗雲をつきやぶり、天までとどくほどの巨大などす黒い血のかたまりが毒々しくうねり、激しい鼓動で空気はひずみ、その重圧によって何者も近づくのを許しません。
アルビレオは丘の上、見晴らしのきくところでくるりと一回りして止まります。まきあがる火の粉と熱風は菖蒲や王子さまの髪、アルビレオのたてがみもゆらし、恨みをぶちまける大蛇とついに対峙しました。
「アルビレオ!」王子さまは青い剣のきっ先をすらりと闇にむけ、こうたずねます。「あれを見ておそれるか。狼狽するだろうか」
「わが主人、わたくしはいちどたりともふるえたり、おびえたりしたでしょうか。たとえ深い谷であろうと、切り立つ山であっても、あなたがひとこと命じれば喜んで駆けるでしょう!」
「よく言った! アルビレオよ、永遠に続く友情のしるしにわたしが強大な闇を打ちやぶる様をおまえに見せよう。そして、それはかならず夜空にかがやく二重星となり、人々が凝らしながめる時、わたしとおまえとのあいだで交わした約束を思いだすこととなる。さあゆこう、強くあれ!」
王子さまの高らかな宣言に、アルビレオは武者ぶるいし、ひづめを地面に打ちつけ、雄壮ないななきでこたえます。
「アヤメ、こわくない?」王子さまは言います。
「ううん、ぜんっぜん。だってあれの正体を知っているんですもの。それにわたし、しかってやったのよ」
王子さまとアルビレオは大笑いします。
「きみはなんて気丈な女性なのだろう」
アルビレオは王子さまに同意してから、こうつけくわえます。
「王妃やリリーフロラさまのもたれる気品にも、たいへんよく似ておられます」
「たしかに」と、王子さまはうなずきます。「アヤメ、どうかわたしの願いを聞いてほしい」
「わたしのしてあげられることならなんでも!」
「青い剣を共に持ってほしい。【干しわらの約束】にアヤメの信じる心をくわえたい」
菖蒲はさしだされた剣をためらわずにぎります。菖蒲のゆるがぬ信念は青い剣をみごとなターコイズブルーに変え、重ねた王子さまの手はターコイズブルーをまばゆいばかりの透明な金へと高めます。
アルビレオは勢いよくまっすぐに丘を駆けくだり、闇は対抗せんと全力で強襲します。光をまとう天馬は放たれた矢のごとく誰にも止めらない速さでつき進み、闇をまっぷたつにしました。
「先生、あれはなんでしょう」と、島の山頂でシバは言いました。「ボクはあんなに美しく、力強い流れ星を今まで見たことがありません」
「むかし、闇の門を旅したとき」悲しげに夜空を見あげるおじぃはゆっくり口を開きます。「自分を持つ影に名をふし、彼はわしの目となってくれた。彼の望むものはあまりに大きく、わしはあたえてやれんかった。だが、わしにとって今なお、おまえは心の美しい友人なのだよ、イシュ」
黒煙の中でいよいよ明るく、紫色の星は砂金をちらして突き進み、宇宙の暗黒へ渾然一体となってぶつかると方々にさけ、白い輪っかはいっぱいに広がります。それはすぐ一点に収縮してからぐるっとうず巻き、多様な色の光があちこち芽吹いたのです。
「なんてすばらしい」宇宙に咲きこぼれる花をアルネヴはサトウの展望台でながめていました。「まるで銀河の終焉と誕生がひとときで起きているようだ。ミス・アヤメ、きみはついにやりとげたんだね」
争いの終わりは静かなものです。雲ひとつない夜の丘に陽がさすと、こぼれる露は草の上でテラテラと輝きおどり、いつもの朝のおとずれを告げます。消え入る灯火を昨日に残しながら。
帰路
菖蒲と王子さまの前には、ひざまずいた影と、両者をへだてるようにつめたい風が通りすぎました。
「明ければわたしは無くなるだろう」迷いのない表情をした少年の影は王子さまに言います。「王の子よ、右手に持つ剣でわたしを討ち、すべての約束を果たそう」
「イシュ」と、菖蒲は口を開きます。「あなたはなぜ門をでたの? なぜミモザを妹と?」
「わたしはただ父がほしかった。自分を知り、いちばんはじめに考えたこと、それは父だった。ずっと考え、今も思う。きっとこれからも」
「こんなに痛み苦しむ必要はなかった。あなたやミモザだって」
「その言葉を父から聞きたかった。わたしはわがままで、とても弱い」
「そんなことない! あの夜、あなたはわたしを手にかけることもできたはず。それにリリィはあなたに感謝してた」
イシュは目をほそめ、菖蒲に答えてみじかいおとぎ話を伝えます。
むかしむかし、優しい農夫は地をさまよう少年の影をわが子のように受け入れ、親子なかよく暮らしていました。まわりの人々は知らない影を恐れ、遠ざけましたが、農夫は少年と手をつなぎ黄金の空、風車のまわる小麦畑を歩きながらたくさんの夢を語り、愛について教えたのです。ある時、少年は父を喜ばせようと少しばかりの力を見せます。それが人をくるわせるには十分なほどであることなど考えもせずに。農夫は〝少しばかりの力〟で世界を統べる王となり、風車に小麦畑、愛や夢、少年まで忘れてしまいました。楽しかった昔をいつまでも続けたい少年にはまったく理解できません。答えを知るため少年は父の影となり、やがて父そのものになろうとしたのです。
「……やはりわたしも多くの影と同じというわけだ。闇から出で闇へと還るうつろな影法師」
「アヤメ」王子さまはきっぱりと言いました。「しばらくこっちをむいてほしい」
ふりむく菖蒲の顔は異なる少女の哀願とかさなり、王子さまはまゆを寄らせ、目をそらします。
——強くありなさい、息子よ。交わした約束は果たすように。半端な斟酌で誰も苦しめてはならない——そう心に語りかける父の言葉に、王子さまはかたい表情をくずさず、ただ菖蒲を胸に抱きます。
「けーんけーんっぱ。けーんけーん、ぱっ」イシュの澄んだ瞳に映えるひとつ星は彼を遠い過去へ、楽しかった昔に連れていってしまいます。「ああ、また父さんの負けだね、父さんの……」
王子さまは右手の青い剣をふりかざし、陽光は刃先を天へとつたい、力をこめて————!
さわやかな朝に感じる重たい空気。気まぐれな風ですら意気消沈し、草花も目をそむけるように頭をたれました。
「アヤメ、おわったよ」
王子さまは胸もとを湿らす菖蒲のふるえる肩に手をそえました。そして青い剣を地面に思いきりたたきつけようとした時、「お願い、やめて!」菖蒲は王子さまの腕にすがりつきます。「赤い宝石の指輪は約束を果たした時に役目を終えたの。だからきっと青い剣も同じように、だから、だから……」
すると、青い剣はガラスの割れたような音を鳴らし、七色の火花となって散ります。
「わたしにはこうするしかできなかった」と、王子さまは悲しげに広げた両手を見ました。
菖蒲は王子さまの手にふれ、首を横にゆらしました。
「アルビレオ!」
遠くでのんびり草を食む白馬に菖蒲は手をふります。
「さあ家に帰ろう」王子さまはアルビレオの頭を優しくなでてから背すじをぐっとのばします。「はやくやわらかいベッドにもぐりたい。もうあんなかっちかちのイスはこりごりだよ」
「干しわらになってもイスの固さは感じられるのね」と、菖蒲は不思議そうに言います。
「まさか」と、王子さまは腕を広げ笑いました。
「おーい!」漆黒の馬にのったグレエンはシラカンバ林から手をふり、近づいてきます。「みんな、ぶじでよかった」
王子さまはグレエンとあく手をして抱きあいます。
「あなたの助けに感謝します、グレエン」
「いえ王子、みなの協力あってこそ」
「王子はやめてください。グレエンに言われるとなんだか恥ずかしいや」
グレエンは高笑いしてから菖蒲の前で深々とおじぎをします。
「アヤメさま、ありがとうございました。わたしやモルト、アルビレオもあなたと過ごしたひとときが大きな力となったのです」
「優しいご主人さま、わたしもすてきな毎日が前にふみだす勇気となりました」それから菖蒲は思い出したように、「リリィからの伝言。〝あなたの家で待っています〟と。わたしも帰りますね、お父さん」。
グレエンの顔はぱあっと明るくなり、目もうるんでいるようですが、みんなのするどい視線を感じてすぐに頭をふり、ごまかすようにせきばらいをします。
「わるいが急用だ。わたしはさきに国へ帰らせてもらう。では!」
グレエンは誰の返事も待たず、馬に飛び乗り、さっそうと駆けていきました。
「ねえ、グレエンってあんな人だったかしら?」ぽかんとする菖蒲。
王子さまとアルビレオは声をあわせて「うん、ああいう人!」
「おーい、アヤメちゃーん!」
遠くから聞こえるたくさんの呼び声に菖蒲はあたりを見まわします。「こっちだよ、こっち!」
なんと、青空で羽ばたく鳥の群れでした。
「まあ! あなたたちは雨の教室にいたスズメさんたちね。それにフクロウ先生も。なつかしいこと」
スズメたちは菖蒲のまわりをくるくると、一緒に楽しく踊ります。
菖蒲のそばにきたフクロウ先生は恥ずかしそうに言いました。
「教室でどなりちらしてほんとうにすまなかった。どうかわたしをゆるしてほしい」
もちろん、と菖蒲はおちゃめなフクロウを許しました。
「アヤメちゃんの教えてくれた居場所は自由に飛びまわれるすばらしい大空だよ。ぼくたちだけではもったいないから、いろんな鳥をさそったんだ。きっとにぎやかになるね。近いうち、アヤメちゃんの家にも遊びに行くよ」
「すてきね。楽しみに待っているわ。こんどはあなたたちの旅のお話、わたしに教えて」
スズメたちは菖蒲を祝福してから遠くへ飛びさり、手を大きくふって見送ります。
すると、こんどは地面から声が聞こえてきました。
「ワレらがジョオウ!」
菖蒲はかがんでのぞくと、働きアリがたくさんならんでいました。
「あなたたちはコロニーを追われたアリさんたち」
「ジョオウのショウカイしてくださったこのコウダイなトチは、やりがいのあるドジョウです。でもワレワレだけでニンムはカンスイできません。ですからみんなでコロニーをツくることをケイカクしました。ミミズやモグラ、ネズミなどにもコエをかけ、キョウリョクしてシゴトをします。あなたのヤクソクをいつまでもワスれません」
「とてもよいアイディアね。きっとまえより美しい丘になるわ」
「すべてジョオウのおかげです。テイエンがカンセイしましたら、ショウタイジョウをオクりますので、ぜひピクニックにいらしてください」
「まあ! ぜったい行く。そうしたら、あなたたちがどうやってここを美しい庭園にしたのか、わたしに教えて」
「アリ、アリ、サー!」
アリたちは菖蒲を祝福して、穴のなかへせっせと入ってゆき、手をふって見送ります。
「干しわらになっていたあいだ、アヤメはすてきな出会いがたくさんあったんだね。うらやましいよ」王子さまは、ほほえんで言います。
「ええ、わくわくするような日々だったわ」
長い旅をおしむように、菖蒲はみどりさざめく丘全体をしばらくながめていました。それはいつか、この地方で誰もが耳にするむかしむかしのおとぎ話となるでしょう。父と母は子どもたちの耳をくすぐり、かたりべたちはおのおの塩をくわえながら、やがてどこの国でも知られたお話に生まれ変わり、誰かのもとへ届くのです。
「さて、わたしたちも帰ろうか。アヤメにわたしの国を見せたいんだ。一緒に来てくれる?」
「もちろん。わたし、リリィに帰るって約束したから」
「そういえばアルビレオ」と、王子さまは思いだしたように言います。「アヤメがお前の背に乗ってもいやがらないね。小鳥一匹とまるだけでも大あばれしたのに」
「さてそうでしたっけ、ねえアヤメさま?」とぼけたように耳を動かすアルビレオ。
「どうだったかしら、ねえアルビレオ?」菖蒲は空を見あげ、肩をふるわせます。
王子さまひとりだけは首をかしげ、いぶかしげにアルビレオを走らせました。
丘陵地から西へ、山々をのぞむ大草原にぷかりと綿雲はうかび、ゆるやかにまがりくねった川や水車場を過ぎて、ふみかためられた一本道をひたすら進みます。お昼ごろ、遊牧民の親切なもてなしを受け、天幕でパンとスープそれに甘いミルクティーまでごちそうになっていると、王子さまは菖蒲に「少しだけ寄りたいところがあるのだけど、いいかな?」と、たずねます。できるだけ早く山あいの国に帰ることを約束して道を北にはずれ、血の荒野へとむかいました。
衰退を終え、赤い砂の毛布をかぶった眠れる都市の廃墟は基礎だけ顔をだし、大きな宮殿にむかって足をのばしていました。王子さまは大階段の前でアルビレオと菖蒲を残し、かけあがります。くずれ落ちて屋根のないドーリア式の柱廊を歩き、散乱する大きな石灰岩の石積みにからむつたや雑草に足を取られないよう飛びうつってさらに進みます。中央の広場にはボロボロの巨像、その足もとに粗布をまとった老人がつえを持ってこしかけていました。
王子さまは老人のまえでひざまずきます。
「あなたの導きにより今日、闇を打ちやぶることができました。助言に感謝いたします」
「わしはなんもしとらん」
「あなたはただのもの知りではなく、山あいの国の安寧のため追放された王子です、ヘレム」
「……もう、むかしのことさ」
「国を出て広い世界に旅立った時、わたしはおどろきました。各地であなたたちの評判はおとぎ話として伝わり、数珠のようにつぎの土地へとつながっていたのです。ある時は街全体に、ときには人知れず口伝えで遠い国の王子に助けられた、と。
わたしは善行の軌跡をめぐりながらここまでやってきました。あなたたちがどのような思いで国をでて、どのようなこころざしで歩み、旅の意味を問うてきたのか、わたしにあたえられた試練とは、それらの答えを示すことだと」
老人は満足そうにうなずき、ゆっくり立ちあがると王子さまの肩に手をのせます。
「お前はよくやった。それにグレエンの勇姿もたたえよう」
「あなたの教えてくださった女の子に救われました」
「よし、約束どおり秘密を語ろう。顔をあげなさい」
王子さまは目を丸くします。なんとそこに立っていたのは老人ではなく、白銀の髪に琥珀色の瞳をもつ屈強な男だったからです。
「ヘレム、あなたはいったい」
「おどろいたな、王の子よ。おまえは身なりで人を判別したか」と、腰に手をあて不敵な笑みをうかべ、ヘレムは続けます。「むかし、燃える影の誘惑をしりぞけ、命からがら廃墟の宮殿にたどりついたわたしは、倒れて深い眠りについた。目を覚ますと都は栄光ある本来の姿をあらわし、美しい虹はわたしに水をあたえてくれたのだ。わたしは虹の女王を愛し、彼女は将来を告げた。それは【口止めの約束】でお前に教えたとおりだ」
「では闇が打ち破られることをあなたは初めから?」
「いや、わたしの好奇心がそれを許さなかった。おしまいを知った旅など、なにがおもしろい? なるほどたしかに追い出された王の子たちにとって一年のはじまりは冬であり、一日のはじまりも夜。しかし、一度あの自由を手にした子どもがどうなるか、お前もわかっているだろう」
「広大な世界をもっとのぞきたくなる。良いものも、悪いものも」
ふたりは顔を見合わせ、思い出すように笑います。
「ああ、だからどうかわたしをいじわるな幼子だと思わないでほしい。人は先を知らぬともかならず探求し理解する。そうでなければ信じる心とはいったいなにか。
覚えておきなさい。この世界は言葉によってできていることを。そして、宇宙をゆきめぐる力と法則は約束にもとづいているのだ。おまえに結ばれた星々のきずなを解くことはできるか」
「なんと! わたしの手にあまる問題です、偉大なる王よ。なにせ語り継がれた物語のひとりにすぎないのですから」
「よい心がけだ。今の話はあの娘のため、胸に秘めておくように」
王子さまは静かにうなずきます。
「さて、最後にわたしたちを代表し、国のみなに言伝をたくす」
「ヘレム、あなたは帰らないのですか?」
「わたしたちは立ち止まっていられない。これから不当に失われし仲間たちを探しにゆく。ひじょうに困難な旅となろう。忘れるな兄弟、わたしたちはいつもおまえと共にいる」
ヘレムは王子さまと抱きあい、わかれを告げて、つえを地面に二回打ちつけると七色の風がヘレムを彼方へ運び去っていきました。一礼した王子さまは菖蒲と急いで故郷にむかいます。こののち、ヘレムと廃墟の宮殿を二度と再び見ることはありませんでした。
静かな凱旋
みどりにおおわれた渓谷奥深く、山沿いの道をくだってゆけば、やがて眼下には明かりのともるちいさな町と、斜面にかわいらしいお城が見えてきます。駿馬アルビレオの足でも山あいの国についた時はすっかり真夜中になっていました。
王子さまはなつかしい故郷の変わらぬ情景を感慨深げにながめ、「あそこがわたしの国だよ、アヤメ」と、遠くを指さしますが、返事はありません。菖蒲の顔をのぞくと長旅でつかれたのでしょう、ぐっすり眠っていました。それで落ちてしまわないよう菖蒲の体をそっと腕にもたせかけます。
石づくりのアーチ橋を渡ってすぐ、低い石門の上部には大きなつがいの白鳥と白鳥座を中心にギンバイカの葉でまわりをかこみ、頂点にはその花のあしらわれた逆ハート型のレリーフが彫られています。パチパチと燃えるたいまつのそばには『ようこそ、名もなき小さな国へ』という立て札と、子どもたちの編んだ花かんむりでかざられていました。
門をくぐると、町で一番大きな講堂はどっしりかまえ、その前には噴水広場もあります。人々は朝からつどい、芸術や思想、数学、建築まで自由に語り合いました。お昼には手をつないだ王さまと王妃さまがやってきて、ふたりをかこみ、歴史やおとぎ話やことわざに耳をかたむけ、夕方になると楽しい宴は始まります。そんな広場も今はひっそりとして、にぎやかな明日を夢みているようです。
そんな思い出に心おどらせながらリリィの家にむかおうとした時、王子さまは目を見開きます。グレエンを先頭にして山あいの国の民は皆、ゆらめくろうそくの灯火を手に、ならんでいたのです。王子さまは立ち止まり、馬上からひとりひとりの名を呼ぶようにじっくり見まわします。山あいの国のおとなは誰も夜に外へ出たがりませんでした。こわかったからです。なにせおそろしい闇の大蛇に親をうばわれたのは深い夜だったのですから。
王子さまは帰りを待つ勇気ある民にこたえるように黙って何度かうなずき、真っすぐ背筋をのばし、遠くにそびえるお城に顔をむけます。それからゆっくり歩きだすと、アルビレオの馬蹄は石だたみを打つ音を広場に鳴りひびかせ、敬意の思いで見つめる民の道を威厳ある姿勢で堂々と過ぎていきました。
町の少しはずれ、闇夜を照らす蛍の舞う森にグレエンとリリィの家はあります。白しっくいの壁にわらぶき屋根で、カーテンを閉じた木窓から灯はもれて、白鳥の置物の影をぼんやりうつしだしていました。
バラの門を抜けて玄関まで近づくと、王子さまにかかえられた〝眠れる森の少女〟は家で待つリリィにまかされます。お姫さまを見送ってから山の中腹にある城門までアルビレオと走り、一日の労をねぎらってわかれました。
がんじょうな観音開きの門扉は最後に開けた者の閉め忘れか、それとも〝めんどうくさがり屋〟が仕事をしたのか、無防備にも開けたままです。横着者のためにひとつ言いわけをするとしたら、今まで深い山あいの辺ぴな小国にわざわざ攻めようなどと考えるひまな国はひとつもなかった、ということでしょう。
王子さまはお城のアーチ扉の上方にある小さなのぞき穴を見て「よおし」と、手のひらにつばをぺっぺとはきます。石壁のでっぱりに足をかけて軽々とのぼっていき、子どもひとり入れるくらいのせまい壁穴にもぐりこんでぐいぐい進み、城内に侵入しました。これは『通りぬけの儀』と呼ばれる山あいの国で代々行われてきた儀式です。子どもたちはお城にある壁穴をどれか見つけて通りぬけたらひとつ〝おとな〟になるのですが、みんなあまりにくぐりすぎて親よりも年上になってしまい(ある女の子はなんと数日で一〇〇さいをむかえたのです)、年に一回だけとなりました。
ほかにも、お城で隠れて王さまと王妃さまに見つからないようにする『かくれんぼの儀』、地図を持って宝石を探す『宝探しの儀』、正門から屋上まで競争する『かけっこの儀』、お城に一泊する『お泊まりの儀』、みんなで作る『おやつの儀』など、それはもうたくさんの儀式があって子供たちはいそがしい毎日なのです。
王子さまは大きな赤いペルシャじゅうたんのしかれたエントランスに飛びおりると、壁につるしてある王妃さまの大好きなドライラベンダーの香りに、ますます郷愁をかきたてられます。
旅先ではいろんな場所に寝泊まりしました。大木の上、風のビュービューふくほら穴、時にはりっぱな宮殿やお屋敷にも。しかしどんないごこちのよいベッドだって、ここにはまったくかないません。山あいの国では、大人は雑用でしかお城に入れない、という決まりがありました。ですから王子さまをはなばなしくでむかえる侍臣に兵、へつらう高官、なんでもしてくれる家令や侍女などいなかったのです。それでも王さまをふくめ、好きな仕事や休息をみんなそれぞれもち、必要ならば助け合う、という簡単な約束を大切に守りつづけたので、温かい家族のような王国となりました。
王子さまはなんだかうれしくなって内階段をいっきにかけのぼり、王の部屋の前に立ちます。
「希望をもって国をあとにし、栄光をもってむかえられよう、だなんて故郷を離れたのは誰かな。将来の王としてふさわしく、父の目にかなった立派な大人になろうと背のびした子どもはいったいどこにいるのか」
父の声色をまねて王子さまはくっくと笑います。でもほんの一瞬、大志を抱き頭陀袋を手にした男の子が走り抜けたような。ちょっぴりうらやましく思いながらも、ひと呼吸して黒ぬりの扉をコンコンと手でたたき部屋に入りました。
一歩ずつ王のもとへ、王子さまは片ひざを地につけ、頭を下げます。
「王よ、命令どおり、すべて約束を果たしてまいりました」
大きな窓を背に、王さまと角灯を持つ王妃さまはこちらを見つめて立っています。
「よくやった」王さまは、けわしい表情で王子さまをじっと見て、低い声でゆっくりと口を開きました。「山あいの国王として父祖たち、および民に変わり、心から感謝する。おまえはわたしたちの誇りだ。困難な旅であっただろう。契約とはいえ、なにも言えず苦労させたこと、心苦しく思う」
「ありがたきお言葉。わたくしは真実と徳、なにより無償の愛について偉大なる父上と母上から教えていただいたゆえ、言葉なくとも歩むべき正道を知りました」
「うむ……わが子よ、それは残念だ、わたしたちにとってとても残念なことなのだ」
顔に影さす王さまは深いため息をつきます。
なにごとかと王子さまの体はピクリとゆれ、緊張した空気は部屋を満たします。
「おまえはわたしたちの考えているよりずっとりっぱな青年になってしまった。こんなに早く母の胸を離れ、父の腕から飛び立ってしまうとは。しかし、今夜だけはわたしたちの勝手をゆるしてくれ」
そう言って王さまと王妃さまは手を広げ、王子さまを力いっぱいだきしめました。
「おかえり、わたしたちの愛する息子よ。この時をどれほど……どれほど待っていたか!」
「ただいま、父さん、母さん!」
これが【安寧の契約】によって国を追われ、家に帰ってきた王子さまの最初で最後の記念すべき静かな凱旋のお話です。
湖畔のガゼボ
山あいの国は式の準備で大いそがしです。町の噴水広場では長つくえに白いクロスをかける母親とドレスを着た子どもたちはつんできた野花で飾りつけのお手伝いをしています。力もちの大工は木製の大きな演だんを鼻歌まじりにトントン組み立てたり、赤いカーペットや古いタペストリーを講堂から持ちだして広げます。近所の家からパンやケーキの焼ける甘い香り、じっくりコトコト煮こまれたシチューのこってりとしたにおいに、みんな思わずおなかを鳴らします。
今日は王子さまが闇を打ちやぶった記念セレモニーの日でした。式までまだ少し時間もあるようなので、にぎやかな街の声を遠くに聞きながら、凱旋の次の日についてお話しをしましょう。
晴れた朝、王子さまはボサボサの髪のまま食事もせず、階段の手すりをすべりおりて正面扉をバンッと開けます。菖蒲に早く会おうと飛びだしますが、すぐがんじょうな壁にぶつかります。見あげると目の前には王妃さまが立ちはだかっていました。王子さまをむんずと捕まえ、問答無用で王の間に連行しました。
それからはまいにち部屋にこもって秘書官のお仕事です。闇を打ち破るまでの歴史、王子さまの旅程や諸都市で聞いた歴代の王子さまのおとぎ話をすべて記録しなければなりませんでした。朝から晩まで紙とにらめっこする王子さまのもとには時々、こっそりとモルトがやってきて、菖蒲の様子を教えました。セレモニーの終わるまで、さわがしい子どもたちの〝儀式〟はリリィの家でおこなわれ、菖蒲はお姉さんのように世話していることやグレエンはかわいいひとり娘をピクニックに連れまわし、とうとうリリィに怒られて外出禁止になった話などです。
王子さまはペンを置き、しけった部屋の換気に窓を開けると、さわやかな風はヒラヒラと紙をおどらせます。土と葉のまじった、さわやかな山の空気を吸い、ぐうっと腕をのばします。町に目を落としてリリィの家の方をあこがれるようにながめました。
けっきょく王子さまの願いかなわず、セレモニーまで菖蒲に会うことはできませんでした。それでせめてあいさつだけでもしようと、式の当日、黒い燕尾服に着がえた王子さまは広場を通らず、できるだけまっすぐグレエンの家にむかいます。しかし道中、町の人々は王子さまを見つけて次から次へと声をかけ、友人まで集まって質問ぜめにあいます。グレエンの家どころか近くの森にすらたどりつかず、時間切れとなってしまいました。
しかたなくあきらめ、町の広場にとぼとぼむかうと、そこには正装をした王さまと王妃さまが待っていました。
「なんて姿勢ですか、王の子らしく背筋をのばしてしゃんと立ちなさい」と、王妃さまは強い口調で王子さまをしかります。
「まあいいじゃないか」と、王さまは妻をなだめるように言います。「みんな知り合いだし、セレモニーという名の宴会みたいなものさ」それから王子さまに目くばせしました。
「いつもそうやってあまやかすから、わたしが言っても聞かなくなるのですよ!」あきれたように王妃さまは言います。「だいたい、あなた昨日も本をちらかしたまま寝て……」
王妃さまの怒りのほこ先は王さまへとむき、強い母と、たじろぐ父の背中に王子さまはほほ笑みます。
こうして変わらない日常は闇との戦いを過去にし、やがては夢物語にでもするのでしょうか。そんな幸せにひたっているとセレモニーははじまります。国中、といってもそれほど大きいものではありませんが、おとなから子どもまで噴水広場は華やかなドレスを着た人でごった返し、王子さまを祝福しようとわき立っていました。
ブルブルふるえながらトランペットを持つ、顔をまっ赤にしたちいさな男の子は、空気のまじる間のぬけたファンファーレを会場に鳴りひびかせます。あたたかな拍手とともに王さまと王妃さま、王子さまにグレエンは登壇し、みんなの視線はいっせいにそそがれます。王さまは民の前で両手をあげ、いつものように国の歴史をすらすらと語りはじめました。
むかしむかし、領域を統べる王には三人の息子がいました。なかでも末子は文武の才にめぐまれ、人望あつく、優秀な家臣を大勢もつようになりました。数多くの戦績をあげ、国の発展にも寄与すると、自国はもちろんのこと、周辺諸国にまでその名は知られ、王の特別な寵愛を受けるようになりました。しかし兄弟たちからねたまれます。
ある時、かしこい末子は隠れていた影の存在に気づきます。強大な影の力によって王の考えはますますゆがみ、やがて無益な戦争をおこし、領域全体の大きな災厄につながることを案じ、影と手を切るよう王に提言をしますが、聞き入れられないどころか、大きな怒りをかいます。ねたみにつけいられ、影の傀儡となった兄弟の陰謀、果ては流言飛語により反逆者と国民から迫害された末子は忠実な臣下とその家族を守るため、いっこくも早く故国から逃げなければなりませんでした。そして滅びの前夜、復讐に燃える影と【安寧の契約】を結ばされることになります。
「祖先は臆病でも反逆者でもなかった」と、王さまは言います。「国を、父を、人々を愛し守ろうとしたのだ。その証拠に祖先の持ちだしたものはなにか、みなも知っているだろう。それは命と知恵だ。あの講堂の書架にならぶ、ぼう大な文書はわたしたちの祖先が衣服やパンを犠牲にし、荷車に乗せてここまで運んできたものだ。暴力と破壊によりこの領域から消失した歴史や科学、さらには賢者の夢見たおとぎ話まですべて。わたしたちは今日、父母から読み書きを教えられ、だれでも自由に本から学び、考察し、おだやかに語りあえる幸せな国である。
なるほど心は人の苦しみを知っており、喜びすら他のものとまったくわかりあうことはない。まくらをぬらした長夜、安眠はまばたきほどであるのを知っているのは誰であろう。それでも理解し、なぐさめ、笑いたいと願うのは人のもつ本来の美しさではないか——これらもまた深い知恵があってこそ。
兄弟たち、力で闇に勝利し、自由を勝ち取ったなどと思いあがりたくはない。この物語から学ぼう。なにより感謝しよう、美しい山あいの地を残してくれたわたしたち祖先に、身を賭して真実をつたえてくれた父と母に、国を旅立った王の子たちに、わたしたちのため、外の領域から助けにきてくれた勇敢な女性たちに!」
王の演説に賛同のはく手がおきます。
「王子、みんなにひとことを」
グレエンにうながされ、王子さまは民の前に出て広場全体を見わたしました。すると噴水のむこうにはリリィと、はにかんで控えめに立つ少女を見つけます。複雑な刺しゅうのほどこされた上質な絹のドレスにルビーやエメラルドのネックレスとイヤリング、白鳥の羽が幾重にもかさなる銀細工のティアラにはダイアモンドをちりばめて、なめらかな黒髪をみごとにかざっています。ときおり、陽にあたると宝石やビーズやスパンコールはキラキラとかがやいていました。
そんなあまりの美しい姿に王子さまは目をうばわれ、固まってしまいます。
「ここにくるようお願いしたんだけど、どうしてもいやだって」と、グレエンは耳打ちします。
王子さまはかるくうなずき、民のまえに立つと口を開きます。
「兄弟たち、わたしひとりでは成しとげられない、ひじょうにきびしい戦いであった。みなの信頼こそが闇を打ち破る力となったのだ。わたしからひとつだけ伝えたい。それは旅立った歴代の王子たちからの言伝である!」
あまりの堂々とした声に、会場は水をうったように静まり、王さまやグレエンですらも、なにごとかと緊張が走ります。
「みなさんを心から愛しています。どうかわたしたちのことで苦しまないでください。いつまでも、いつまでも山あいの国に平和があるように」
おだやかな王子さまのまな差しによって、民の目からは自然と涙がほおをつたい、心にささっていたトゲを流すいやしの川となりました。王さまは自慢の息子に抱擁をあたえ、民衆にこう言います。
「わたしは思いだす。親を失い、みなで涙しながら卓をかこみ、自由を夢見て約束した朝を。われらは自由に集まり、自由に話し、自由に歌おう。朝に野山かけまわり、昼は美しき湖へ、夜は感謝し床につく。まちがえたのならあやまり許せ。われらは深い山あいに住むちいさな家族なのだから。名もなき国はわれらの名、山の彼方に虚栄の重荷捨て。山の彼方に虚飾の重荷捨て。
わたしはここに宣言する。今日をもち、わたしは王ではなく〝お城のピートおじさん〟と呼ばれる。これは城に来る子どもたちが親しみをこめて呼ぶわたしの名だ。そして、こんなたいくつな式典はとっととやめて、早くさわぎたい! みなも好きなだけ食べて飲み、音楽に身をゆだねたいとは思わないか?」
王さまは金の王冠を投げてから呆然とする民衆にうやうやしく一礼して、にっこり笑います。民は歓声をあげ、しんみりした空気はどこへやら、となりの王妃さまはあきれて顔をおさえます。でも王妃さまだけは知っていました。王子さまが旅にでてから王さまは食事と笑いをひかえ、まいにち、城の屋上から風車の方角をむき、町の正門に出かけては息子の帰りを待ち続けていたことを。
舞台は楽団の演奏に場面転換し、テンポの良い音楽とつくえいっぱいにならんだごちそうで大盛りあがりです。
王子さまはおどったり談笑する人々のあいだをぬうように菖蒲のもとに駆けぬけます。
「ねえリリィ! アヤメは?」
すると、リリィはにこりと自分の家を指さしました。
ひっそり静まりかえったリリィの家の庭で菖蒲はひとり、ハーブに水をやっています。
「とてもりっぱなスピーチだったわ、王子さま」と、菖蒲は背後で息をあげる王子さまに言います。
「ありがとう、主役はアヤメだったのに」
「ごめんなさい。わたし、どうしてもうまくできなくて」
「ううん」王子さまは思いだしたように顔をあげ、「そうだ、見せたいものがあるんだ、きて!」と、菖蒲の手をとって走りだします。
「どうしたの? そんなにいそがなくても」ドレスのすそを持ちあげる菖蒲は言います。
「もう時間がない」
うす暗い森のこけむした敷石道を進み、小川にかかる木橋の先、なだらかな斜面に咲くスミレの群生を通ります。ナラの木立を抜け、道は石づくりのガゼボで切れていました。
「ここだよ、アヤメに見せたかった場所」
ガゼボのむこうは広い湖でした。いちめん、燃えるようなあかねにそまり、水鳥たちは優雅に飛び立ち、水面に紫の陰影がゆれます。王子さまはガゼボのこしかけに落ちた葉っぱを手ではらい「どうぞ、お姫さま」と、菖蒲をエスコートします。
「なんて美しいのかしら」
「今がとっておきなんだ。朝もいいんだけどね。この国ではみんな特別な時間と場所をもってる」
「すてき……わたしのために王子さまの〝特別〟を教えてくれてありがとう」
湖の夕景を一望できるガゼボはだれもいない自然の美術館のようです。刻々とうつりかわる湖畔はみごとな印象派絵画で、ふたりは光にとけこみます。
ふと王子さまを見ると、ひたむきな顔は情熱に照らされ、黄金の湖水にむけられた瞳はどこか憂いを感じさせます。やがて、そのくちびるはここちよく止まった空気をにごさないよう注意深く動きました。
「良い解決はないか、ずっと考えていたんだ」
すると、そよ風は邪魔するように王子さまの耳をなで、菖蒲はむっとします。でも彼女のほうが菖蒲より王子さまとのつきあいは長く、大事な人を取られてしまうのではないかと心配していたのです。夕空はそんなふたりの少女をなだめるようにだんだんと深く、とろんと山のまぶたすら閉ざして眠りつかせました。
「イシュは父を、ミモザはきみをもとめていた。アヤメは赤い宝石でミモザに望むものをあたえたのに、わたしにはなにができたのだろう。青い剣でなにをしてあげられたのか。どんなに勇んでも、無力なことを知る」
菖蒲は王子さまの思いが濃藍の湖にしずんでしまうのが苦しくて、星月夜に目をそらして言います。
「わたしたちはすべてをあたえられはしないのよ、どれだけ望んでも。だから悩むの。いつだって、できないことはたくさんあるって。でも、こぼれ落ちてしまうほど小さな赤子のような手の中で、せいいっぱいしてあげようって。なによりあなたを愛してる、と」
「アヤメは優しくて強いね、安心した」
「ねえ、そうだ!」と、菖蒲は恥ずかしそうに目をおよがせます。「あなたの名前をまだ聞いていなかったわ。それとも、王子さまってお呼びしたほうがよろしいかしら?」
「アサゼル」と、王子さまはすぐに答えます。「わたしの名はアサゼル」
「みじかいのね」菖蒲はクスッと笑みをこぼし、「もっとおごそかな名かと思った」。
「しつれいな! じゃあ王子でいいよ、もう」
「えぇ……そんなんでいじけるの? 子どもねぇ」
「まったく、アヤメがそんな人だったなんて」
「女の子に〝そんな〟とか言うのはしつれいなのよ」
「……ごめんなさい」
「すぐあやまるし」
ふたりは目を合わせてぷっとふきだし、笑いました。それからアサゼルは菖蒲に顔を近づけ、目を輝かせてこう言います。
「アヤメのこと、もっと知りたいんだ。どんなものを見て、どういう出会いがあったのか」
「いいわよ。じゃあ王……アサゼル、あなたの旅も教えてくれる?」
「もちろん!」
「そのまえに」と、菖蒲は大声で言います。「モルト! いるんでしょ、出てきなさい!」
ザザッとしげみはゆれて、にゃあっと聞きおぼえのある、へたなネコなで声がどこからか聞こえてきます。
「とぼけてもむだよ、モルト。足音でわかるんだから」
モルトはチッと舌打ちしてふたりの前に姿をあらわし、じとっとした目で菖蒲のひざの上にうずくまり、鼻息をふんっと吐きます。
「なんだモルト、いたなら声をかけてくれればよかったのに」と、アサゼルは言います。
「……かけるわけにゃいだろ、こんにゃおもしろいのに」と、モルトはつぶやきます。
「リリィ!」菖蒲は続けて言います。「それにグレエンも!」
すると、ザザッとしげみはゆれてリリィとグレエンも気まずそうに頭をかいて登場しました。
「ええ、ふたりもいたのかい!」アサゼルは目を大きくします。「ぜんぜん気づかなかった」
「あなたそれでよく闇と戦えたわね」菖蒲はあきれ顔です。
「わたしたちは親として娘をあたたかく見守っていただけさ。なあみんな!」
グレエンの言いわけに、モルトとリリィはうんうんあいづちを打ちます。
「なあみんな、じゃないわよ。娘を心配して楽しそうにこそこそのぞく親とネコなんてどこにいるの。ゆだんもすきもないんだから」
「おーい」こんどは森のほうから、のんきな顔した〝お城のピートおじさん〟は大きめのピクニックバスケットを手に王妃さまとやってきました。
「アルビレオに聞いたらここじゃないかってさ」お城のピートおじさんはバスケットからろうそくをいくつか取り出して角灯の火をうつしていきます。「おなかすいただろう。食べ物をもらってきたんだ」
「おいおい、町は主催者もいないパーティーかい? 兄さん」いぶかしげにグレエンは言います。
「気にするな戦士グレエン」笑顔のピートは気にするでもなく、グレエンの肩をたたきます。「わたしたちはずっと好き勝手してきたんだ。それに、そろそろこうれいのパイ投げもはじまってるだろうさ。だから、やられる前に逃げてきた。前回の仕返しが怖いからね」
みんな思いだしたように苦笑しますが、菖蒲だけはきょとんとしています。
「やっと会えたわね、アヤメちゃん!」王妃さまは菖蒲のほっぺに優しくキスをしてから手をにぎります。「はじめまして。わたしの名前はユリーフロラ。ユリィって呼んでね」
ユリィはリリィそっくりの凛とした美しい顔と声で、バラの香水を香らせ、リリィより明るく太陽のような王妃さまです。——それならきっとお母さんは物静かな月のようね——菖蒲はリリィをちらりと見てそう思います。
「アヤメちゃんのドレスかわいい」太陽は菖蒲のドレスをうらやましそうに見つめて言います。「もしかしてリリィが仕立てたのかしら」
「はい」
「いいなぁ……リリィ! わたしにも作って。ねえお願い、ねえねえ」と、太陽は月にベタベタすりよります。
「いやよ」月の冷たい返答。「わたしはこれからアヤメに服をたくさん作ってあげないといけないの。それに、姉さんは衣装箱にお義母さまの服がいっぱいあるでしょ」
「リリィのけち。あなたが留守の時、庭のお手入れまいにちしてあげたのに」
「そのことだけどね、姉さん」リリィはまゆをひそめて言います。「帰ってきてびっくりしたわ。庭が荒らされていたんだもの」
「いやいや、めんぼくない」ピートはもうしわけなさそうに言います。「言われたとおり、必死に世話したんだ。植栽やガーデニング、植物学の本までなんでも読んださ。しかし、やればやるほど、なぜか弱っていくのだ。わらとなったアサゼルの報告をモルトから聞いた時、謝罪の手紙でもしたためようかと思ったが……まさかリリィまで闇に」
「ちょ、ちょっと待ってください」アサゼルはあわてて言います、「父さんはわたしが必死に旅をしていたあいだ、リリィの庭に頭を悩ませていたのですか!」
「うむむアサゼル、落ちついて聞いてくれ。人間などより草花の期待にこたえるほうがよっぽど難しいのだぞ」と、しみじみ語る王さま。
「ねえねえそんなことよりあなた」あっけらかんとしてユリィは言います。「お義母さまの別邸だったリリィのおうちはいいわよね。お城にいるより楽だもの。わたしたちもそろそろ夢だった湖畔のおうち、ふたりで建てましょうよ。あのお城、冬はさっむいし、じめじめするし、カビくさいし、階段多くて移動も大変だし」
「おお、それはいい考えだユリィ。さっき王も辞めたし、明日から新居探しを始めようじゃあないか」
「いいわね、あなた!」
「よおし、またひとつ楽しみができたね、ユリィ!」
「だいじょうぶかな、この国」両手をかさね、見つめあう父と母に、アサゼルは肩をすくめました。
「山あいの国の王さまと王妃さまってこのようだったかしら?」と、菖蒲はたずねます。
リリィとグレエン、それにモルトは声をあわせて迷わずこう答えました。
「うん、ずっとこう!」
その日は灯火ゆれる湖畔のガゼボで、おいしい食事やダンスを楽しみ、時間を忘れるほどすばらしい夕べとなりました。
ふたつめの夢
「楽しい日は退屈がいたずらして時計の針を早める」と、山あいの国の親は子供たちにお話しします。「だから楽しい日に休息をつくってごらん。すると時計はもとどおり時をきざむ。そうすれば気づくだろう。あなたがどれほど大きくなっているかを」
菖蒲も楽しい日がつぎからつぎへとやってきては過ぎ、退屈は時計の針をぐるぐるまわしたので、大きくなっていることなどすっかり忘れていました。
友だちと山にのぼったり、湖で泳いだり、木の実を集めたり。グレエンと畑仕事のお手伝いをして、みんなでお茶を楽しみ、モルトを連れ、アルビレオに乗って遠くの町まで冒険へでかけるのも楽しい日でした。もちろん、大好きな王子さまに会える日も。
リリィはお母さんとして、いいえ、もっと菖蒲を愛しました。娘のためにすてきな服をぬい、おいしい食事だってかかしません。庭のお手入れを始める朝から夜寝るまで、親子はたくさん話しをしたのです。そのようにして、菖蒲との時間を宝物のように大事にしました。菖蒲が楽しい日の休息をわすれてしまったのも、きっとわかるでしょう。
充実した日々は続き、約束が力をうしない始めたころ、菖蒲はふたつめの悲しい夢を見ました。
オリバナムとミルラのまじりあう香りで目醒めるように、扉のない中庭では六本のリンゴの木は満開の花をさかせ、真ん中にひざたけほどのおさないリンゴの木が一本、ふりそそぐ光をあびてまっすぐのびています。うれしくなった菖蒲はそばに近づいてかがみ、リンゴの木を優しくなでるとリンゴの木は菖蒲のためにちいさな実をひとつ結びます。菖蒲の目からこぼれたひとつぶの真珠は小さな実に落ちてはじけ、天から声はひびきます。
「おまえをけっしてわすれはしない。こうしておまえにいつも呵責をあたえる」
菖蒲はすっと立ちあがり、周囲をへだてる白い壁と上方へ等間隔にどこまでもならぶ窓を下から順に見ます。すると五階の一室の窓だけ、明かりはぽおっと黄色に灯っているのに気づきました。窓に手をそえる黒髪の少女は悲痛な顔をしてこちらをのぞいているではありませんか。助けて、助けて、と、くり返しわたしにうったえているかのように——でも、わたしとはだれなの?——
あたりを見まわしても扉はなく助けにいけません。少女のためになにかしてあげたいのに、なにもできないのです。菖蒲は「ごめんね、ごめんね」消えかかる窓の灯りに何度もそう言葉を投げかけると中庭はくずれてなくなり、いちめん黄金にそまる小麦畑を歩いていました。
大きな白鳥はすいこまれるほど深い瑠璃色の空へ飛び、遠くに燃えるような赤い風車はそびえ立っています。星を中心に白い翼はぐるぐるまわり、羽の音は消える少女のさけび声のようで、たまらず耳をふさぎ、うずくまります。
そう、二つめの夢は菖蒲に答えを求めました——このまま楽しい日をつづけるのか、おやすみを作るのか。——菖蒲は答えを知っていました。それがどれだけ悲しい結末になるかも。
ある日の夜、リリィはいつものように化粧台のまえにすわる菖蒲の長い髪をとかしていました。
「ねえリリィ。あなたはわたしの大好きなお母さんよ」菖蒲は鏡にうつるリリィに言います。「それにまいにち幸せ」
「まあ、なんてうれしい言葉なのかしら」と、リリィは顔をほころばせます。
「でももし、もしもだけど、わたしがここを出ていくとしたら、どう思う?」
リリィは手を止め、じっと考えます。菖蒲は言わなければよかったと後悔します。
「おぼえているかしら」と、母親は娘の頭をなで、言いました。「何年も前に教えたわたしの秘密の約束」
「もちろん。【覚悟の約束】、それに【園丁の約束】も」
「そうよ。わたしは約束をかたときもわすれなかったし、できるかぎり誠実でいた。あれからいつもアヤメだけを考えてる。もちろん約束だから愛していたわけじゃないのよ。そばにいればいるほどアヤメを好きになって、アヤメのためにもっともっとしてあげたいと思う。いまもこれからも。でもね……」
「でも?」
「あなたをどんなに愛しても、いつかは家をでていく時がくるでしょう。成長したヒナが巣立ってゆくように。だからわたしはつつみこむ愛から、むかえいれる愛に変わらなければならないと思うのよ。娘がいつでも安心して家に帰れるよう、わたしも成長しなければって」
「お母さん、とても怖いの。わたし帰ってこれるかな? またひとりになったらどうしよう」
「恐れないで、アヤメ」リリィはおだやかに、でも力強く言いました。「わたしはあなたから自信をもらえた。あなたはほこり高き戦士グレエンとリリーフロラのひとり娘よ。窓をいっぱいに開け、いつでもあなたの帰りを待っているのを信じなさい」
「うん。リリィがわたしのお母さんでほんとうによかった。大好き」
「ただ、グレエンに話してはだめよ。あの人、あなたがいなくなるなんて言ったらすっごくめんどうなんだから」
そう言ってリリィは笑顔の菖蒲にほおをよせました。
明け方、菖蒲は白鳥の金糸の入った白いワンピースに着がえ、野鳥のさえずるほの暗い森を惜しむようにゆっくり歩いてお城へむかいました。城門で草を食むアルビレオとあいさつをし、湖まで乗せてもらいます。
霧につつまれるガゼボでは紫根色の長い上着をはおるアサゼルが湖を見つめていました。
菖蒲はどんぐりをひろい、音を立てないよう背後にそおっと近づき、アサゼルめがけてなげるとすぐ、しげみにかくれます。どんぐりはアサゼルの頭にぼそりとあたりますが、頭をかいて気づかない様子なので、どんぐりを持ってさらに近づきます。
「アヤメだ」アサゼルは特別な親しみをこめ、呼びかけるように言います。
「なんだ、気づいてたのね。つまんないの」菖蒲ははぐらかすように、少し顔を横にそむけ、アサゼルのとなりにすわります。
「だって」と、アサゼルはさりげなく言います。「マグノリアの香り……したから」
湖は白い吐息を湖面にただよわせ、薄明の森をうつします。青の濃淡に支配され、ひんやりとした空気に朝露と草、甘い花の香りをまとい、まどろんだ感覚を少しずつさまそうとふたりの思いをゆすりました。
「夕やけもいいけど早朝の湖もすてきね」菖蒲はぼんやりと言いました。「ぴんとはった緊張感、これからすばらしい舞台がはじまりそうな、前兆の静けさ」
「セレモニーの日に教えたよ。どっちもいいって」
「もうおぼえていないわ、そんな何年もむかしのこと」
「うそだね」
「なんでよ」
「〝おぼえてない〟って言葉、アヤメの口から聞いたことない」
「そんなのわからないわ。わたしだって忘れることくらいあるもの」
「いいや、わたしは知っている。アヤメは大切なことすべておぼえているけど隠してるんだ。みんなのために」
「なによそれ。アサゼルがわたしのなにを知ってるのよ」
「うん、知らないかもしれない。だからきみを深く知りたい」
「……へんなの」
「考えていたんだ」
「なにを?」
「アヤメに伝えたい言葉」
「…………」
「わたしたちはおとなになった。だからアヤメが許してくれるなら、今ここで伝えようと思う」
「わかったわ」菖蒲の目は湖のしずんだ青に吸いこまれるように、「そのかわり、小麦畑の風車にわたしを連れていって」。
ぽちゃんと魚が飛びはね、波紋は湖水に、そしてアサゼルまで広がります。
「もう風車はないはず」アサゼルは菖蒲の横顔を見て言います。
「いいから、わたしをつれてって」
アサゼルはアルビレオを呼び、菖蒲の言うとおり、白馬を走らせます——家の窓からさびしそうにながめるリリィのことなど知らず。
彼方から太陽は顔をだそうと地平線に力いっぱいの陽をさします。広い渓谷を駆けぬけるあいだじゅうずっと、菖蒲はアサゼルの背中をぎゅうっと抱きしめ、ほおをぴったりつけていました。
「ねえアサゼル聞いて。わたし、夢を見たの」
「どんな?」
「扉のない中庭の夢。ひとつだけ明かりのついた窓があって、そこから苦しむ少女はわたしに助けをもとめてた。もしアサゼルだったら、その子を助けにいく?」
アサゼルはなにも答えません。
「わたしなら迷わず行く」と、菖蒲は続けます。「だって助けをもとめているんですもの。たとえすべて失うとしても」
アサゼルは右手を菖蒲の手に重ねます。
「ねえ、アサゼルの手、やっぱりあったかい」
そう言って、菖蒲は静かに目をつむりました。
たわわに実る小麦畑を遠くに、アサゼルはおどろきます。あの風車です! 闇が破壊してからだれも直していないはずなのに、どうして。
アザゼルは困惑しながらも、風車のまえでアルビレオからおります。逆光で影のようにうつる黒い風車は羽が左にまわり、ゴオンゴオンという、いかにもぶきみな音を鳴らしています。周囲で小麦はサラサラこすれあい、あおられる黒髪を手でおさえ、菖蒲は言いました。
「ありがとうアサゼル。ここでじゅうぶんよ。先に帰っていて」
そっけなく風車にむかう菖蒲に、アサゼルはあわてて近づこうとします。
「来ないで!」
「でも、きみに伝えたいことがあるって」
しかし菖蒲は足を止めません。ふり返りもしないのです。——こんな忌々しい風車、今すぐなくなってしまえばいいのに。——と、アサゼルはもどかしく感じます。
「ひとつだけ聞いてほしい!」
遠ざかる距離を少しでもちぢめようと、両手を広げながら必死に呼びかけるアサゼルを無視するように、菖蒲は閉じられた風車の戸口へずんずん歩いてゆき、うつむきかげんで扉の把手に手をかけました。
「いやよ」
「お願い」
「いや」
「なぜ?」
「いやだからよ。いやなものはいや!」
「どうか、こちらをむいてほしい」
「いやなの! だって……だって、ふりむいたら扉を開けられなくなるもの!」
「アヤメ、アヤメ。ほんのすこしでもいいから、わたしを見て」
ついに覚悟の手をゆるめ、ふりむいてしまう菖蒲。アサゼルの胸ははりさけんばかりです。山のようによせる眉、唇は小きざみにふるえ、あふれるほどの涙を瞳にためていたのですから。
「わたし、あなたの言葉を聞いたら帰れなくなる」ふりしぼるような声で菖蒲は言います。「だって、ぜったい忘れたくないから。とっても楽しみにしてた、たいせつな約束。ずっとこの日、この瞬間を待っていたのに。わたしは迷わず〝はい〟って、答えたいのに」
「だったらそれでいいじゃないか。すべて終わったんだ。リリィや母さんもここで幸せにくらしてる。だからアヤメも」
「むかしの約束はまだ残ってる! それを果たさなければいけないの。あの子は苦しんでいる。あの子はわたしなのよ! わたしなの……」
「そんなの」アサゼルは顔を落とし、吐き捨てるように言います。「だれもおぼえてないさ」
菖蒲は首を横になんどもなんどもふります。そう、なんどもなんども。それから天をあおぎ、ゆっくりと一息してから母親のような笑みをうかべ、教え諭すように言いました。
「ねえアサゼル、約束は一度口にしたら、たとえ誰もおぼえていなくとも果たさなければならないのよ。嘘をつけば、せっかく打ち勝った闇の糧になる。約束の力はわたしたちのついた、たくさんの嘘の代償よ。わたしはミモザやイシュのような子が苦しむのを見たくはないの。あなただってそうでしょう?」
「でも」と、アサゼルはこぶしをかたくにぎりしめます。「アヤメがそばにいない日々など耐えられない。そんなの考えるのもいやだ」
「わたしも同じよ、アサゼル。だけど、そうだとしても、たったひとつのちいさな約束を守ることは、わたしたちの乗り越えなければならない大きな悲しみよりずっと大切なこと。お願いだから、これ以上わたしを苦しめないで」
菖蒲へのほとばしる想いはのどを焦がし、理性は胸をいよいよ締めつけます。ここまでわかれのあいさつを嫌悪した日はありません。アサゼルはいろんな解決をめぐらせますが、どれもふたりに心痛をあたえ、言葉を失ってしまいます。
菖蒲は風車の扉を開けると、ゴオゴオとすいこまれるような風に引きよせられます。王子さまはなすすべなく風車にうばわれるお姫さまをただ傍観するしかできません。見かねた白馬は思わず口をだそうとしたその時——
「わたしはこの約束を信じて疑わない」アサゼルはあらんかぎりの声で言います。「アヤメがわたしを助けてくれたように、こんどはわたしがアヤメをむかえにゆく。ちいさな約束を果たしたその日、その瞬間に!」
菖蒲は、ふり返りませんでした。
「愛している、アヤメ」
アサゼルのささやかな告白は西風にいともたやすくふき飛ばされ、流れゆく雲とともにどこかへ消えます。風車の扉は無情にも音を立てて閉じ、軽薄な男だとあざ笑うかのように菖蒲を連れ去ってしまいました。
夜半〇時のらせん階段
「シンデレラだってくりぬいたカボチャの馬車でおうちに帰ったのに、なんでわたしは歩きなのよ。しかもけっこう長いし」
ぶつぶつともんくを言いながら菖蒲は木製のらせん階段をぐるぐる上へのぼっていました。
中央のふきぬけには水晶の原石がいくつも宙にういて固まり、金のひもにつるされた丸いおもりはフーコーのふり子のように、いろいろな方向にゆれ、どこからかカッチコッチと一定のリズムで時をきざんでいます。
「それに」と、菖蒲はため息まじりに言います。「おとぎ話のお姫さまはいつまでも幸せにくらすのに、こんなさびしいおしまいもあるのね。まあでもアヤメ、ふつうはこんなものよ、なにかを期待してはいけないわ。金の馬車だとか、りっぱな身なりの従者だとか、まして、ガラスのくつだって落としてきたわけでもないし。盛大にむかえられず、送られもしない、ひっそり階段をのぼっておうちへ帰りましたとさ、おしまい、なんてのもアヤメらしくていいのかな」
階段を一周めぐるたび、菖蒲の時間は逆行して助けをもとめていた少女の姿に変え、体だけではなく記憶もだんたん遠くに、いきいきとした昨日までのできごとはまるで他人のめぐった旅行のような感覚にさえなりました。ただひとつをのぞいて。
周囲はいつのまにか石づくりに、乳白色の壁には木の手すりがついています。電球色のあたたかな明かりに、なんともいえないなつかしさがこみあげて、菖蒲はあたりを見まわすとカサカサ、ノッソリノッソリ。やはりカメです! あいかわらずカメはのっそのっそと階段をおりつづけていたのです。ここはのんびりカメといたずら好きのアリアドネのいる『下に上がる階段』でした。
「ひさしぶりね、カメさん!」菖蒲はうれしくなり、カメの横に腰をおろします。「元気そうでなによりだわ。アリアドネとはうまくいってるのかしら?」
「も・ち・ろ・ん」カメはゆっくり首をたてにふりました。
「安心した」菖蒲はほおづえをついて言います。「ねえねえカメさん、あなたとわかれたチョコレート色の扉のむこうはとんでもない部屋だったのよ。わたしのお話し、聞いてくれる?」
「も・ち・ろ・ん」カメはゆっくり首をたてにふりました。
「じゃあ、まずはね」と、菖蒲は身ぶり手ぶりをまじえて、いきいきと語りはじめます。
「扉を開けたらほんとびっくりしたの。だって床がないんですもの。まっさかさまに落ちたらお魚さんや鳥さんや、ながれ星さんまでわたしに話しかけてもうてんやわんや。ね、おもしろいでしょ。でも、じつは落っこちていたんじゃなくて……」
どれくらい経ったのでしょう。今まで見てきたものや聞いたこと、しゃべったこと、かいだにおい、食べたものや飲んだもの、菖蒲の楽しい日々をただひとつをのぞいて、ありったけカメにつたえました。おやすみまえ、たいせつな宝石を宝石箱にひとつひとつしまうように。そんな菖蒲の話をカメはおしまいまで静かに聞いていました。なにせカメほど聞き上手な生き物はいないのですから。
「……それでね、風車にある、らせん階段からここにたどりついた、というわけ。どう、すごい物語でしょう?」
カメはゆっくり首をうんうんと、何度かふってから、こうこたえます。
「……ここまで、よくやった……うむ……うまく、やった、よ……」
カメの返答に、さっきまで楽しそうな菖蒲はうつむいてしまいます。
「わたし、カメさんの言うように、よくやれたのかな。ほんとうにうまくできたのか自信ないの。だってわたし、好きな人を傷つけてしまったし、自分の気持ちにも正直になれなかったから」
「い・い・や」と、カメは首を横にふります。「それでも……じゅうぶん、よくやった、さ……たくさん、がまんも……した……ね」
菖蒲は想いの水平線から大波がやってくるのを感じました。いつもみたいに「うん、ありがとう」と、笑顔を作りたくとも、どうにもうまくいかないからです。
「カメさん、わかってくれてとってもうれしい。わたしね……わたし、わたし、おうちに帰ったら、きっと今のお話しぜんぶ、なにもかもわからなくなってしまうから、カメさんとの思い出もすべて。もう夜中の〇時になっちゃうから、だから、だからすこしだけ、時計の針がすべて上をむくまで、ほんのちょっとだけ、泣いてもいい?」
カメはみじかい手をのばして菖蒲の太ももをぽんぽんと優しくたたき、体をそむけました。すると菖蒲の目から自然と涙がポロポロこぼれます。せきを切ったように、とめどなく。
後悔していたわけではありません。そのように選ばなければならなかったことが悔しいのでもなく、ただアヤメとアサゼルのために泣いてあげたかったのです。それが菖蒲にできる最後のせいいっぱいだったから。たくさんの涙の片方は彼女のため、もう片方は彼のため。水は両方の目からそれぞれ同じ数ほど流れ、ほおをつたわり、あごでまじわると、やがて一緒に地面に落ちます——そっか、こうすれば大好きな人のそばにいられるんだ。
たしかに菖蒲は自分のために泣くことはしませんでしたし、どうしてわたしがとか、なんでわたしだけ、などと考えないようにしていたのです。いじけてしまえばきっと前に進むのを恐れたり、なにもかもいやになってさじを投げ、せっかくのすてきな物語は台無しになってしまいます。でも、この時ばかりはあふれる気持ちをおさえたくありませんでした。
だから、言わないと決めていたはずの〝ただひとつ〟も口にしてしまいました。
「わたしも愛しているわ、アサゼル! あなたをはじめから深く、とっても深く……むりよ、こんなおしまい耐えられない、考えたくもない。だってわたしの心は、わたしの魂は、あなたをこんなにも強く慕いもとめているんですもの。でも、こうするしかなかったの、こうするしか……
ああ、せめてどこかちいさな村のおとぎ話しにでもなればいいのに。むかしむかしあるところにって。そうすれば見知らぬ誰かに憶えてもらえるのに!」
ついにおとずれた約束の時間。ゴーンゴーンと大きな鐘の音は鳴ります。一回、二回……
「行かなきゃ」菖蒲は赤く腫れた目に残る最後の涙をそっと指でぬぐい、立ちあがります。「アリアドネ、わたしの行かなければならない道を教えてちょうだい」
しかし、階段はなにも変わりません。まさかアリアドネは約束をやぶっていたずらを始めたのでしょうか。いいえ、菖蒲はくりかえしアリアドネの名を呼びかけても、聞こえないふりをしていたのです。鐘の音は五回、六回……カメは口を開こうとしたとき、菖蒲は言いました。
「なんて優しいアリアドネ。わたしはまちがっていたわ。だってあなたが覚えてくれているんですもの、わたしたちのおとぎ話。だから、もう満足よ」
すると上階はふわりと光り、青白く無機質でつまらない階段へと変わってゆきます。カメとアリアドネにさよならと手をふり、階段を一歩一歩、ふんでいくと、はるかむかしのように思える、あの小さな図書館がポツリと見えます。
菖蒲は目をつむり胸に手をあてました。
とくんとくん。——ねえアヤメ、とろけるほど甘い夢からどうか覚めないで——鼓動は鐘の音とリズムをずらし、物語のおしまいを止めているようです。
「そうよ。でもねアヤメ、あなたの選んだ結末は、菖蒲が選んだ結末」
十二回目の鐘の音が鳴り止む時、少女は深呼吸して足をふみだすと、ただ前だけを望み、力強い笑顔で図書館へ立ちむかっていきました。
————
「アヤメ、あなたが本借りたいってきたのに窓ばかりながめて。お昼はみんなで食べる約束でしょ、わたしもう帰るわよ」
図書館の窓をじっとながめる菖蒲に、本をかかえたお姉さんは顔をしかめて言いました。
「でもお姉ちゃん、ここのたなにある本、もう読みおわってしまったの。だからどうしようかなって」
「あなたね、もうすこしむずかしい本読みなさいよ」
「ええ、ねむくなる。わたし、お姉ちゃんみたいにおかたい子どもじゃないし」
「なに言ってんの。ほんとはぜんぶ読んでるくせに」
菖蒲はベーっと舌をかるくだすと、お姉さんも口をいーっとしてふたりは笑いますが、せきばらいが聞こえ、口に手をあてて目を合わせ、わきをつつきあい、ふざけます。
新刊とおすすめの本を何冊か借りてから司書さんにバイバイと手をふり、姉妹仲よく手をつないで図書館をあとにしました。
こうして、アヤメのすてきなおとぎ話の数々は雨となってすべてながれ落ち、干しわらになった王子さまをもどす物語は、静かに幕をとじたのでした。
おはなしのおしまい
昼すぎ、菖蒲はとなり町で用事をおえ、夜ごはんの献立を考えながら家にむかっていました。お気にいりの和菓子屋さんを横目に、かき氷を食べようか、それともあんみつソフトに水ようかん、わらびもち、ところてん……夜の献立を押しのけて三時のおやつは頭の中でくるくるまわります。
時計はいつも通り、ちくたくと時をきざみ、菖蒲をおとなにしました。お姉さんと取りとめもないおしゃべりはかかさず、本を読むのは好きだけど学校の勉強はまあまあ、友だちとわいわい遊ぶのも嫌いじゃない、といったぐあいに、笑ったり、おこられたり、泣いてしまったり、いやなこともありました。でも、なにかが欠けているとか、ものたりないなどとはすこしも思わなかったのです。
菖蒲はアヤメを助けるためにおとぎ話をすっかり手ばなしたので、すてきな夢だったのに、どうにも思いだせないモヤモヤする夢のように、ああでもないこうでもないとなやむことはありませんでした。もちろん、あのちいさな図書館には何度も足を運び、窓だってのぞきましたけど、扉のあるふつうの中庭などに関心は持たず、読書のあいまにちらりと見るくらいです。ひとつだけ変わったとしたなら、菖蒲はアヤメに話しかける、あのへんなくせがなくなったぐらいでしょうか。
もみくちゃのまいにちは菖蒲にごくありふれた夢をあたえ、それなりの生活と満足も保証しました。気になる男の子がいたかどうかはわかりません。なぜなら菖蒲に聞いても遠い目をして「そういうのよくわかんない」が口ぐせでしたから。
青空に固まるは雲の峰、えんえんとくりかえすセミのフェイズ、アスファルトに逃げ水はゆらゆらゆれて、藍色のリボンつきストローハットを頭にのせた菖蒲は肩にかけたクリーム色の帆布トートバックからハンカチを取りだし、ひたいにながれる汗をぬぐいました。両わきにケヤキなみ木そびえる大通りの中央には、熱気をおびた女のブロンズ像が強くしなやかに立ち、菖蒲はあこがれ抱いて「おつかれさま」と、あいさつをします。
足早にゆきかうオフィスワーカー、重そうなリュックを背おう外国人のバックパッカー、ベビーカーを押す母親はとなりではしゃぐ長男に「ちゃんと歩きなさい」と、注意しています。建物の影でぐったりするキジ三毛ネコの泣き声があんまりヘタで、二度見した菖蒲は立ち止まり、近づいてなでようとしたら、かすかに流れてくるのはさわやかな甘い花の香り。
それは駅近くのビル前に植えられたタイサンボクでした。ふと図書館の看板が目に入り、読みたい本を思いだします。最近はもっぱら大きな図書館で本を借りていたので、わざわざよらなくともよかったのです。それでも、腕時計を気にしながら、ほてった体を冷まそうと本をながめて帰ることにしました。
型の古い自動ドアはガタゴト左右に開き、ひとけのないビルのエントランスをぬけます。壁にうめられた三角形のボタンを押すと二基あるエレベーターの左が先に到着し、くぼんだ丸い5を選択するとゴトンと音を立てエレベーターはゆっくり持ちあがりました。
何年ぶりかの図書館への帰還です。まるで大好きなお姉さんと手をつないで、そわそわする少女がすぐそこにいるような不思議な緊張感——子どもの時はあんなに喜んででかけていたのに。
エレベーターの扉が開くとすぐ横に新聞や雑誌の閲覧席、開きっぱなしの扉のさきにてんじょうの低いこじんまりとした図書館はあります。それは子どもにはちょうどよい広さで、おとなにはちょっぴりせまい本屋さんのようなフロアです。
「うわあ、なんにもかわってない」菖蒲は感慨深げに煮つめたような濃い紙のにおいをくんくんかぎました。
平日のかしきり図書館はなんともぜいたくで、うかれた菖蒲は雑誌を読むことなどわすれ、自然と児童書のある書棚へいそぎます。入り口すぐ左には歴史の本はならんで、その奥には植物や動物の図かんに芸術の本です。少し進んで右に受付と前には紙しばいや絵本、児童小説がずらっとならんでいます。こし丈ほどの低い棚、色あせたカラフルなフカフカの丸いこしかけ、よくながめていた青い中庭の見える大きな窓——書棚と書棚のあいだにはさまって、いつも本を読んでたっけ。なんだかあのときから時間が止まっているみたい。
菖蒲はバッグとストローハットをそこらに置いて、紙しばいをめくったり絵本を開いたりします。棚にならぶ本の背に一冊ずつ人差し指をのせ、「この本好きだった」と、クスクス笑い、「最後は王子さまとお姫さまがいつまでも、しあわせにくらしましたとさ、だったかしら。これは冒険活劇、これは漂流記ね。この本は……海賊がでてきてちょっとこわいの」
本にふれさえすれば、つぎからつぎへと物語は菖蒲の中で動きだします。〝おやすみ〟していた空想や夢は、やかましくおどる目ざまし時計でベッドからいっせいに飛びおき、さあさあ早くと寝巻き姿のアヤメの腕をとり、カーテンを思い切り開くと、わだかまりで破裂すんぜんの風船星からせかすように連れだします。言葉は少女の自由な想像でいろんな物語に変わり、それは領域をどこまでも広げ、時には結んだりもします。空に浮かびながら海で泳ぐことも、宇宙ではイワシの大群が空飛ぶ金色のおひつじをかこんで帆船アルゴー号の冒険について話すことも、夏野菜と冬野菜はオーロラスープを食べながら北極と南極は赤道を牛車で行き来するらしいと、うわさしていることも、雲をつきぬける巨人は砂粒ほどの小人と仲良く肩をならべることも。おしまいとはじまりが手を組む菖蒲の王国ではなんでもできるのです。そう、信じていればなんでも!
ただ、一冊の本で指は止まりました。
「これはなんだったかしら」菖蒲はふしぎな本を手にとります。「もしかして新刊かな?」
ラベルもなく、表紙はあかね色でタイトルが金色、作者不明の本の名前は『干しわらになった王子さま』です。
菖蒲は子どものようにいそいで靴をぬぎすて、書棚と書棚の特等席にぎゅうぎゅう体をつめてすわると表紙をめくり、ページを開いて読みます。
深い山あいの国の王子さまは燃えるような影と戦うため、約束によって干しわらになるところから物語は始まり、勇敢で優しいひとりの少女が王子さまを助ける旅のお話しでした。
主人公の少女は干しわらになった王子さまを助けようと長い旅のすえ、ついに扉のない中庭で井戸の水を汲みます。たくさんの傷を負いますが、弱り果てた少女を助けたのは親友の影の女の子でした。ふたたび力を得た少女は影のあやつる、怒りくるった邪悪な王さまをしかりつけます。ところがなんと、王子さまに水をそそごうとした時、小ビンをわってしまいます。あきらめない少女は残りの水を口にふくんで王子さまにキスをすると、もとの姿になったのです。王子さまは少女の力を借りて闇を完全に打ちやぶりました。
「とても強い女の子ね! 読んでいるだけでわかるもの。わたしだったらぜったいできなかったわ」
興奮する菖蒲の目はならんだ文字をどんどん追います。
闇を打ちやぶったふたりは王子さまの国に帰ると、みんなしあわせにくらしました。しかし、いつまでもではありません。なぜならとつぜん、おしまいがやってきたからです。大きくなった少女は残してきた約束を守るため、おうちに帰らなければなりません。ふたりいつまでも一緒にいたいのに、どうにもよい方法は見つかりません。
ついに時はつき、少女の言うがまま白馬で小麦畑に着くと、こわれたはずの風車はひとりでにたっているではありませんか。王子さまの約束に少女はふりむきもせず、風車へと消えてしまうのでした。物語はそこでおわっています。
「女の子が誰にも助けられず、いきなりおしまいって、なんてへんてこなのかしら。残りだって全部白紙になっているわ。それに王子さまの約束って……」
——鏡よ鏡、このおはなしのおしまいはなあに?——窓のむこうの少女アヤメは菖蒲の耳もとにそうささやきました。菖蒲が思わず顔をあげた時、いたずら好きのだれかさんはフーッと息をふいて、そよ風はエレベーター横の階段から図書館の入り口へ、そして白紙ページをぺらぺらとめくっていきます。
「へんな本、あとがきかしら?」
菖蒲は空白のつづきを読み始めます。
「少女とわかれたあと……
————————
少女とわかれたあと、とつぜん、どしゃぶりの雨がふりました。
それはまるで領域をぬらす少女の涙のような、地面に打ちつける雨音は悲痛なさけびで、つめたい水でした。王子さまはなまりのように重たい雨に目をそむけ、ただ立ちつくします。
「笑ってくれ、アルビレオ。わたしは彼女がそばにいてくれると信じてうかれおどるバカな道化師だった」
「……」
「大言を吐いて。きっと愛想つかしただろうな」
王子さまはうなだれたままふり返り、とぼとぼ歩きます。
「わたしは」と、アルビレオはそんな王子さまを強く見つめ、「あなたの命じるところならどこへでも駆けますし、なんでもするでしょう。それがわたしにあたえられた役割だからです。でも、どこへゆき、なにをすべきかは王子、あなたが決めねばなりません。そして、彼女があなたに望んだのは、去りゆく背中を見送ってもらうためではなく、あなたの助けを信じていたのではありませんか。だからあなたにだけは手をふらなかった」
「そんなのわかってる、わかってるさ!」
「わかっているのであればなぜ! なぜ、あなたはいつまでもぬれそぼり、しめった地に顔を落としているのですか?
彼女はあなたをいやすためにこの領域へやってきて、前進し、辛苦のとげをのみ、侮辱と嘲笑を受け止め、失望してもけっしてあきらめず、ついには自分を犠牲に、苦しみもだえ、中庭で井戸の水を汲んだのではありませんでしたか。ただあなたのためだけに、愛するあなただけを思って! あなたのくちびるをうるおしたあの水は、貴重な、たったひとすくいの水は、心うるわしい女の涙なのです。
王子! いまは道なき道を、いばらやアザミにその身を投げ入れねばならぬとも、彼女のため顔をあげ、足を前にだすべき時ではありませんか」
(そうだ、王の子よ。宇宙をゆきめぐる力と法則は約束にもとづいているのだ。おまえに結ばれた星々のきずなを解くことができるか)
(こぼれ落ちてしまうほど小さな赤子のような手の中で精いっぱいしてあげようって。なによりあなたを愛してる、と)
「それでもわたしは」と、王子さまは両手を見つめ、「彼女をこぼしてしまうほど、ちっぽけな手なのだろうか、望むものをあたえられないほど、みじかい腕だったか」
大きな雨音。しばしの沈黙のあと、「いいや、ゆかねば」。
遠くで白鳥がわたしの名を呼び
わたしは彼女の声を知っている
天地の間に白くほころぶ苹果の花
過ぎさる星々 明けの群青
わたしは彼方をさすらい
ついに彼女を見いだす
湖水におどる美しきその姿
はためく春雪の羽つかみ
なめらかなうなじに鼻を寄せ
温もる吐息を胸に
うす桃色のくちびるは甘い約束の言葉
さあ、いつまでも いつまでも
ともに摘もう
銀の苹果と黄金の苹果
王子さまはアルビレオの首を抱き、「おまえが友でほんとうによかった」。
それから白馬に飛び乗って、いちもくさんに故郷へもどり、王さまに近づくと、その前でひざまずきます。
「わが王よ。ふたたび国を旅立つこと、どうかお許しください!」
王さまと王妃さまは、ずぶぬれの王子さまの突然な懇願に当惑しながらも、おだやかにたずねました。
「なにゆえか」
「はい。約束のため、わたくしにすべてをささげてくれた深く愛する人のためにです、王よ。いつ帰れるのかわかりません。いえ、もどることはないかもしれません。しかし、それでもやはり」
「息子よ」王さまは言いました。「むかし、国を旅立つまえに話した、あのなぞかけをおぼえているか」
「もちろんです。芯のないりんご、扉のない家、鍵のいらない宮殿。これらはおさない時、毎夜ベッドで寝るわたくしの耳もとで母上の歌ってくれた子守歌です。わたくしはゆだねる愛と、まったくの信頼こそがなにより強い約束であることを学び、闇を打ちやぶるための示唆をえました」
「そうだわが子よ」と、王さまは満足そうに笑顔でうなずき、王子さまの肩にふれて顔をのぞきます。「では王として、なにより父としておまえに命じる。いそいで出かけなさい。おまえの約束がすこしも遅れることのないように。そして愛する人から安心してゆだねられるにふさわしい大木となり、信じ待つ彼女をしっかりつかみ、けっして離してはいけない」
王さまの赦しをえた王子さまはいきおいよく城をでて、翼を広げた天馬アルビレオと共に地平線の果て、宵と明け、日の出と日没をこえて駆けていきます。王子さまのむかった先は記憶の落ちる月でした。
王子さまは記憶の断片を採取をしているバクに会うと、こう言います。
「わたしに記憶集めの方法を教えてください! なんでもしますから」
「教えるのはまったくかまわないが」と、バクは訪問者におどろきを隠せず、「いったいどうしたというんだい?」
「心に思う人のおとぎ話が欲しいのです。彼女から離れてしまったすべてを」
「なんと!」バクはますます目を大きくしてこたえました。「はじめにひとつだけ忠告しておこう。だれかの記憶を選び取ることなどぜったいできない。流れ星に個々の名前が書いてあるわけではないだから。それにまわりを見てごらん、無数に落ちている断片からその人のおとぎ話であるとだれがわかるだろう」
その日からまいにち、王子さまは無色透明のガラスのような長い棒を手に、朝から晩まですこしも休むことなく記憶採取を続けました。川辺に落ちる、いく万もの小石の中からたったひとつのちいさな宝石を見つけるように探しまわり、落ちてくる流れ星にむかっていそいで走ります。しかしどれもちがいます。彼女のおとぎ話ではないのです。
ひとり熱心に断片をひろう王子さまの姿にバクは心を打たれます。まいにち、まいにち、なん年もなん年も、少女のおとぎ話はどこかにある、と信じて疑わず、王子さまの手はけっして止まりませんでした。そうです、かならずあるのです。王子さまにとって、おとぎ話を探すためについやした多くの年月は、まるで一日しかたっていないようでした。
それに、みんな少女の帰りをいまかいまかと待っていました。少女の父と母はいつも窓を開け、山あいの国の人々は星に願いを、スズメやフクロウは空を、イルカのバンドウやウミガメのスルフファーは海を探します。たくさんの働きアリはほうぼう聞きまわり、おばぁにおじぃにしば犬のシバにウサギのアルネヴ、ザトウクジラのサトウだって百億の星をめぐりました。
そしてついにむかえた、その日、その瞬間、王子さまはいつものように断片探しをしていると、絶えず落ちてくるはずの流れ星はピタリと止みました。
王子さまは立ちあがり、静かになった宙をぐるりとあおぎました。すると、遠くにはひとすじの星が黄色い小鳥にみちびかれ、弧をえがきます。まるで広い宇宙で永い永いわたりをおえ、湖にもどってきた白鳥のように、王子さまのもとへやってきました。
「あれは」と、近くにいたバクはあまりの美しい光景に目を大きくしてうちふるえ、「まさか彼女はこの時を知っていて……しかしそんなこと」もはや言葉を失ってしまいます。
王子さまには深く愛する少女のおとぎ話であるのがすぐにわかりました。そう、たしかにわかったのです。
宙をおりなす星々はふたりの再会を祝福するため王子さまにむかって光の帯となり、美しい七色のカーテンも宇宙をかざります。ときめいた月はかつての色を取りもどし、記憶の断片すべてに呼びかけると、いっせいに輝きはじめます。すみきった光の大合唱はいままで聞いたことのないハーモニーとなってどこまでも遠くに鳴りひびきました。彼らもこの日、この瞬間を待っていたのです!
「わたしは」と、王子さまは確信をこめて言いました。「しっかりとつかんで、もう離さない」
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……色とりどりにかがやくじゅうたんの上で、王子さまは長い棒をほおって手を大きく広げ、天の川を白鳥のようにまい、胸に飛びこんできた菖蒲色の星を全身でつつみこんだのです。
王子さまはありったけの想いをかさねて結晶化させ加工するとバクに礼をいい、白馬にのって馳せむかうのでした。早く少女のもとへ」
軽やかなひずめの音はあまりに懐かしく
山あいにふきぬけるさわやかな朝のにおいは
信じ待つ、わたしをついに休ませるでしょう
ああ! こちらにやってくるわたしの王子さま
色あざやかな思い出は春のうたげ
高鳴る胸はむかえにきてくれたあなたへの想いを
いっぱい いっぱいこみあげて
わたしはあなたを愛そう
どこまでも、どこまでも
「わたしはけっして離さない、アヤメ。だから、アヤメの飲みこんだとげを、ほんのすこしでもわたしにわけてほしい。お願いだからどうか、ひとりで行ってしまわないで」
「どうしよう、あなたの本びしょぬれね」
「ううん、もういいんだよ」
「アサゼルわたしね、やっとわかったの、あなたの気持ち。あなたがどんな思いで干しわらとなっていたか。信頼して待ち続けるのはこんなにも勇気のいるなんて。言葉にできない痛みをわたしは知った。
そっか、干しわらだったのはわたしよ。どうしてもっとはやく気づかなかったのかな。そうすればあの時、わたしは素直にあなたと」
「ちがうよアヤメ。わたしはそんなアヤメが好きなんだ。そんなアヤメをずっとずっと知りたい。だからわたしたちの物語のはじまりは」
アサゼルは菖蒲の両手を優しく取り、ふわりと立ちあがった少女の耳もとで【いつまでもおしまいのない愛の約束】をささやきます。それからたがいに見つめあい、きらめく星を瞳にたたえた菖蒲はおだやかな笑みをうかべ、もう迷わずこう言いました。
「はい。」
アサゼルはキラキラ輝く宇宙でたったひとつのアメジストの指輪をお姫さまの左手薬指に、アヤメは王子さまの強くあたたかな胸にその身をゆだねるのでした。
少し長めの追伸
秋も深まる湖で紅葉はいよいよ美しく、水鳥たちもちょっぴりあわただしいような。雲は高く、ときおりふく風は冬にむかうひんやりした山のにおいを運んできます。湖畔にやってくる親子はあざやかな赤やオレンジ、黄色の落ち葉や大きな木の実を拾ってはポッケに入れたり、こちらに気づいた女の子はかけよって収穫をわけてくれたりするのです。
夜眠る前、まくらに頭をうずめ、ぬいぐるみを抱き、横になる、おさないわたしの耳もとで、たくさんのおとぎ話や詩を話してくれた母との時間を思いだします。とりわけ『扉のない中庭』は週末の夜だけのお楽しみで、母の知っている果てしないおとぎ話の中でも一番の輝きをもつ物語でした。わたしはうれしくて目をきらつかせ多くの親をこまらせてきた、あの迷言、「ねえなんで、井戸の水を汲むのに王子さまの記憶の結晶が必要だったの?」とか、「ねえなんで、干しわらになった王子さまはアヤメのキスでもどったの?」など、身を乗りだすように〝ねえなんで〟を連呼していると母はわたしのおでこをなでて、こう言いました。
「サラサはどう思う? あなたの考えを聞かせて」
そうやっていつのまにか、わたしの夢の王国へ母を連れて旅したのです。
もう少し大きくなると母は恋の話やほろ苦い話もつけくわえ、ドキドキしたりほおを赤らめたり涙したり、ふんわり温かい気持ちになったものです。きっとそうやって空想を離乳食のようにあたえてくれていたのでしょう。
大人になったわたしは母のおとぎ話を本にしたいと考えるようになり、出演者に取材をしました。せっかくなので彼らの様子をみなさんに紹介しましょう。
まず、闇との戦いについて〝由緒ある王族ネコ〟のモルトです。彼は自分の武勇伝を本当なのか、はたまた大げさなのか、たくさん話してくれました。今、モルトは山あいの国にとどまらず、気ままの歌を歌いながら、ふらふら旅をしています。アヤメとは気の合うようで、たまに帰ってくると母のベッドで一緒に寝ています。
十万の影の兵をなぎ倒す戦士グレエンは農夫のお仕事がすっかり気にいり、畑仕事を楽しんでいますし、みんなの家や家具の修理をするなんでも屋さんとして、みんなからしたわれています。アヤメがいなくなった時はものすごい落ちこみようで、リリィはそれはそれはものすごぉく、めんどくさかったって! そんなリリーフロラは温かくて優しいグランマです。リリィは今でも菖蒲の服をすべて仕立てているの。わたしは母のかわいい服をおさがりで着ています。
ユリーフロラも大好き。さらにふたごの男の子を育て、彼らはわたしと幼なじみ。山あいの国で手をつないで歩くカップルを見たなら王さまと王妃さまだ、というほど有名よ。お城のピートおじさんと湖畔の別邸探しをしていますが、なかなか良い場所は見つからないと喜びながら嘆いていました。いつかすてきな新居に引っ越せますように。
働きアリさんのいる興廃の丘は美しい『ジョオウのテイエン』に変わりました。スズメさんやフクロウさんに聞いたら、もっと魅力的なお庭にするのが目標なんですって。いったいどんな庭園になるのでしょうか。
おばぁとおじぃの家には家族で夏休みに出かけます。わたしは父とおじぃの島でキャンプを楽しむけれど、母だけは喜んでおばぁのせまい待合所に泊まるの。わたしはあんまり窮屈なのでむり! なにやらアヤメはせまい場所にはさまるのが好きなようね。あ、よだんですが、おばぁには姉妹が何人かいるらしくて、いろんな場所でそば屋さんを開いているらしいわ。もしかするとあなたの街にいるかもしれません。おじぃとシバは冒険に出かける予定で、じつはわたしも誘われています。意識の穴をくぐって宇宙の始まりの領域にある不可知の色を見にいくのだそう。とっても楽しみ!
メレは記憶採取を続けています。輝きを取りもどした断片を加工するのはわくわくすると言っていました。シバに言われた「二度あることは——」を思いだして、「記憶に名前がないから見つからない——」の文言はやめたそうです。ぜひみなさんも月に立ち寄りの際は好きな人の記憶を加工してみるのはいかがでしょうか。
アルネヴはサトウといろんな星で新しい〝出会い〟を見つけています。菖蒲をビジネスパートナーにする夢を砕かれ、がっかりしているみたいなので、どなたか紳士のシロウサギと行商したい人はいないでしょうか。ティータイムを断らない女の子ならいつでも大歓迎だそうです。いつかミセス・レイラとのあわい恋物語も書けるといいな。
干しわらの王子さまについて。アサゼルになんで〝わら〟じゃなくって〝干しわら〟なのって聞いたら、びっくりするほどパッサパサだったから、ですって。それを聞いておなかを抱えて笑ってしまったわ。アサゼルはいつも本気なのか冗談なのかわからないくらいユーモアのある父です。この物語の題名を『干しわらになった王子さま』にしようか父に相談したら、アサゼルはウィンドウシートで本を読むアヤメを愛おしそうに見て、一言だけこう言いました。
「その本はもうなくなってしまったんだよ」
みんなのお話しはこれくらいです。もっといろんな話を聞いたり旅して見たすてきな物語を書きたかったのですが、いつまでも終わらないので、またいつか。山あいの国の歴史、王子さまの旅の話とかおじぃとシバとの出会い、どうやっておじぃは扉のない中庭の近くまで行けたか、それに菖蒲とアルネヴが闇の門のそばのバザールに行くまでのお話し。とっても面白いの。『正直でいたってまじめなうそつき像』を手に入れたアルネヴとアヤメはクノッソスの迷宮から出られなくなった話とか、何度も挑戦した『流れ星の渋茶』を口にふくんだまま、上を向いて三回願いを唱えるとなんでも叶う話とか……。
最後に二つだけ。一つはミモザのこと。
母はミモザのことをあんまり話したがりません。金と銀のバングルについてくわしく知ったのも最近で、父に一度だけ聞きましたが、結婚式で見たくらいだそうです。今、父と母はアルビレオを連れて遠くにいます。アヤメによるとそれは『クスノキに宿る黄色の小鳥を探す旅』とのこと。先日、アルネヴの届けてくれた母からの手紙に、もうすぐ帰れると書いてあったの。だからもしかすると、みなさんがこの本を読んでいる時にはミモザと会っているかもしれません。すっごく楽しみ。優しいママ! ミモザのこと書いてごめんなさい、どうか怒らないで。
もう一つはそんな大好きな母のこと。
母は講堂に収められたたくさんの本の分類や修復、筆写のお仕事をしています。「宝ものが見つかったの」と、ほこりかぶった書物を家に持ち帰ってはうれしそうに読んでいたり、忘れられた人々のおとぎ話を想像しながら、アサゼルのそばでいきいきと話しています。そんな時、わたしには母が新しく広げた領域を冒険する少女のようにも見えるのです。
そして、絶対に教えてくれない【いつまでもおしまいのない愛の約束】のこと。
「ねえママ、アヤメは干しわらになった王子さまから耳もとでどんなことをささやかれたの?」
母にくり返し聞いても、答えはいつも同じです。
「それはねサラサ、今まで聞いたことないくらいとっても甘くてとろけるような言葉よ。これ以上は秘密! 絶対教えない」それから目を細めて、「あなたも大好きな男の子から聞くのよ。そうしたらわたしも同じこと聞くけど、それでもいいの?」
晩秋のある日、湖畔のガゼボにて
父アサゼルと母アヤメへ
たくさんの愛と感謝をこめて
あなたの娘サラサフロラより
登場人物のこと一
扉のない中庭〜設定①〜
登場人物のこと二
扉のない中庭の〜設定②〜
登場人物のこと三
扉のない中庭〜設定③〜
ゆびわのこと
扉のない中庭〜設定④〜
つるぎのこと
扉のない中庭〜設定⑤〜
たびじのこと
扉のない中庭〜設定⑥〜
やくそくのこと
扉のない中庭〜設定⑦〜
扉のない中庭
主人公の菖蒲は実在する養女がモデルです。
本や音楽を愛し、力強く、聡明な、そしていつも前向きで、リリィの言葉を借りるなら、境遇が力を与えたような、尊敬する美しい人です。
彼女と話す時間はいつも新しい領域の扉を開けるように、たくさんの知識や知恵、アイディアをもらえます。
かつて、ひとりのちいさな女の子と夢の国のプリンセスについて話していたとき、日本にはプリンセスがまだいない! ということに気づき、もし東の最果てにあるちいさな島国の女の子が選ばれたら、を出発点に心と約束を題材としたお話を書きはじめました。できるだけつじつま合わせをしないよう注意しながら。
一途な少女菖蒲はアルビレオのいうとおり、はじめから王子さまだけを想い、彼だけのために人生の選択をしていきます。闇との戦い、ミモザとの関係、扉のない中庭での水くみ、彼とわかれるあの決定すら。
何年もの大人を経て、「どうしてもっとはやく気づかなかったのかな。そうすればあの時、わたしは素直にあなたと」
王子さまを想うあまり、あなたの気持ちを考えることができなかった、と菖蒲はいいます。
しかしアサゼルは「そんなアヤメが好きなんだ。そんなアヤメをずっとずっと知りたい。」と答えます。
この時代にはもう語られない、古い男女の愛の物語であり、失われた価値観であるゆえにファンタジーなのです。
母に、この物語をささげます
心からの敬意と感謝をともに
※1『Twinkle, twinkle, little star』Jane Taylor
※2『月ぬ美しゃ』八重山民謡《一部改変》
※3『ポラーノの広場』レオーノ・キュースト・訳述 宮沢賢治
※4『I Will Give my Love an Apple』英国民謡
※5『長くつ下のピッピ』アストリッド・リンドグレーン・大塚勇三訳 岩波書店