扉のない中庭

扉のない中庭

サラサフロラ 作

I will give my love an apple without e'er a core,
I will give my love a house without e'er a door,
I will give my love a palace wherein she may be,
And she may unlock it without any key.

My head is the apple without e'er a core,
My mind is the house without e'er a door.
My heart is the palace wherein she may be,
And she may unlock it without any key.

——英国の古い歌

干しわらになった王子さま

干しわらになった王子さま

Ⅰ はじまり

 むかしむかし、水鳥たちだけの知る美しい湖のそばに、ひっそりとそびえるお城がありました。
 まわりの国からも知られず、兵士や従者(じゅうしゃ)のいない深い山あいにある名もなき小国は、いつも手をつないで歩く、(なか)むつまじい王さまと王妃(王妃)さまが(おさ)め、それはそれは優しく、民から父母のようにしたわれて、みんな楽しく暮らしていました。
 王さまと王妃さまには小麦色の(かみ)に青い瞳の元気な子がひとりおりまして、王子さまはまいにちお城をぬけては町の子どもたちと一緒(いっしょ)に山をかけまわったり、湖でおよいだりして遊ぶのでした。

Ⅱ 王さまのなぞかけ

 晴れたある日の朝。王子さまはヒヨドリのさえずりでぱっちり目をさますと、寝床(ねどこ)からとび起きて顔を洗い、パンをほおばりスープをかきこみます。イスをひいて食堂を飛びだそうとするやいなや、父から執務室(しつむしつ)にくるよう呼びとめられてしまいました。
「ちぇっ」王子さまは舌打ちをして、「父上の用事(ようじ)をさっさとすませて川で葉っぱ流しをしよう。きのうはヘレムの葉っぱがいちばんだったけど、夜にとっておきの舟を思いついたんだ。きょうこそ勝ってやる」と、はやる気持ちをおさえ、いそぎ足でむかいました。
 湖を一望(いちぼう)できる回廊(かいろう)をぬけ、黒ぬりの大きな扉で立ち止まると、かるくせきばらいをしてからコンコンたたき、「王よ、まいりました」。このときだけは父ではなく王だとわきまえていますので、背すじをピンとのばし、すこしばかり落ちついた声です。
「はいりなさい」
 王さまの呼びかけに応じて王子さまは肩をそびやかし、部屋に入りました。
 しけた紙のにおいのする執務室は、いかにもむずかしそうな本が本棚(ほんだな)にずらりとならべられ、レリーフのほどこされた大きなつくえの上に山とつまれた本は今にもくずれ落ちそうなほどです。
 王子さまはすきまからあちらをのぞくと、王さまは考え深げなようすで手紙をしたためています。——ほかの国と交流はなく、国にあるたったひとつの門をくぐるものすらほとんどいないのに、いったいどこのだれにあてているのだろう——王子さまはふしぎに思いました。
「おまえを呼んだのは」と、王さまは手をとめ、羽根ペンをつくえにおき、王子さまのほうに顔をゆっくりあげます。「息子よ。おまえに探してきてほしいものがある」
 勇猛(ゆうもう)威厳(いげん)あるライオンのような低い声に、先を見通すワシのようにするどいまなざし。王子さまはそんな父が大好きでした。なにより父のような王になりたいと願っていたのです。
「王よ、わたくしになにを探せというのでしょうか」
「うむ。それは、『(しん)のないりんご』『扉のない家』『(かぎ)のいらない宮殿(きゅうでん)』を」
 王子さまはすこし考えてから、いぶかしげにたずねました。
「わたくしをためすなぞなぞですか?」
「そのようにとってかまわぬ。おまえが山あいの国の王としてほんとうにふさわしいのか」
 王さまの言葉に王子さまの心はふるえます。
——父はわたしを将来の王として見てくださっていたのか。わたしはもう子どもではなく、父の目にふさわしいおとなとなるのだ。そのためにも父のきたいにこたえ、民の希望とならねば。
「わが王よ。あなたの目にかなうものをかならずやお見せいたしましょう!」
「よくいってくれた。ではさっそく明日の朝、出発するように」
「おおせのままに!」
 王子さまは(ひとみ)をかがやかせ、自信たっぷりにそうこたえると、部屋からでていきました。
 いまやもう友だちと遊ぶことなどすっかりわすれて、父からあたえられた試練(しれん)をのりこえるため、すぐに出立(しゅったつ)準備(じゅんび)をはじめます。そんな王子さまの背中をながめる王さまと王妃さまは後悔(こうかい)したような、さびしい顔をするのでした。
 つぎの朝。雲ひとつない空のもと、王子さまはたくさんの食りょうと水をつめた大きな布袋を荷鞍(にぐら)にのせて白馬にまたがると正門をくぐり、国の外へと旅立ちました。母からはなにかあった時のためにと、赤い宝石つきの金の指輪を首かざりに、父からはひとふりの青い剣を(こし)に。
「希望をもって国をあとにし、栄光をもってむかえられよう」
 威勢(いせい)のよい声とともに、王さまのなぞかけにこたえるための長い旅が、こうしてはじまったのです。

Ⅲ 王子さまの旅路(たびじ)

 山あいの国をたち、田舎の村からはじまり、街にでてやがて大都市へ。
国の外を知らない王子さまにとって、目にうつるすべてのものは新しく、たくさんのことを知りました。世界は広く、故郷(こきょう)はちっぽけなこと。歓待(かんたい)される時もあれば、うとまれる時だってある。美しい景色(けしき)目頭(めがしら)を熱くし、みにくい光景(こうけい)に顔をそむける。どしゃぶりの雨に打たれ、ふきつけるつめたい風に体をガタガタふるわせ、なにより、ひとりがどれだけつらいかも。洞穴(どうけつ)に身を横たえ、広がる紫紺(しこん)の地平線をながめ、ちらばる星くずの夜空に祖国(そこく)への思いを()せました。
「わたしを知るのは旅をともにする白馬だけしかいない」
 長い旅の果て、もの知りが住むという話を聞き、荒野を通りました。そこは()の光でまっ()()まることから血の荒野(こうや)()ばれ、何百年もまえに興亡(こうぼう)し、人々から忘れられた都市の廃墟(はいきょ)がありました。
 遠くに立ちのぼる、ひとすじの白煙(はくえん)を見つけた王子さまは馬をおりてちかづき、「はじめまして」と、たき火のまえで腰をおろす、ボロをまとった老人に話しかけます。
「わたしは遠くの地からやってきた旅人です。あなたの深い智恵(ちえ)についてうわさで聞いております」
 まるで(せっ)こう(ぞう)のようにうつむく老人は少年など目もくれず、パチパチと()る火に木ぎれをくべます。
「あなたにうかがいたいのです。それは……」
「ここからさらに東……」と、老人は王子さまの言葉をさえぎります。「金色の小麦畑にある白い壁、黒い屋根の風車(ふうしゃ)に知りたいものはあるだろう」
「なぜ、わたしが話すまえにすべてわかるのですか」
「風はどこからふくのか、だれが知りえよう。ただ行くべき先にのみ目をむけよ」
 王子さまは老人に感謝をつげ、残りの金と食べ物や水をわたし、こう言いました。
「旅の成功に、どうかあなたの秘密について教えていただきたい」
「さて、おまえにできるかな」老人はニヤリと笑いました。
 東にむかって馬を()り、しばらくして見わたすかぎり金色の小麦畑に、ぽつりとたつ風車(ふうしゃ)が見えました。老人の言葉のとおり、白い壁に黒い屋根です。まちがいありません、ついに目的地にたどりつき、試練の旅はむくわれたのです。
 王子さまの胸は高鳴りました。そう、たしかにこの時までは。

Ⅳ 東の風車(ふうしゃ)

 ゆっくりとまわる風車(ふうしゃ)の大きな羽根のなんともぶきみな姿におののきながらも、王子さまは馬を止めて優しくなで、中に入りました。
ゴオンゴオン……ギギギギー。部屋中、きしむ音やたたく音はやかましく聞こえますが、あたりに人や、だれか仕事をしている様子はありません。
「老人はこの風車(ふうしゃ)について(かた)ったのだろうか」
 いくぶん心配を口にする王子さまは室内をあちこち探し、やがて地下につづく階段を見つけます。階段をおりて閉じられた木の(とびら)につきあたり、はずれかけのくすんだ金の把手(とって)に手をかけました。蝶番(ちょうばん)はこすれたにぶい音を()らして開き、うす暗い部屋の中へゆっくりと慎重(しんちょう)に進みます。
「ここはなんだろう。(むぎ)備蓄(びちく)する納屋(なや)、あるいは倉庫か……」
 ほこりのまうカビくさい部屋を見まわしていると、ばたん! 背後(はいご)のたたきつけるような音に、なにごとかと思わずふり返ります。
 はたといそぎもどりノブに手をかけ、ぐいぐい押したり引いたりしますが、扉はビクともしません。
「だれかむこうから(かぎ)をかけたのか? いや、風でしまり(じょう)はひとりでに……そんなはずは」
 ただならぬ空気を(はだ)で感じた直後(ちょくご)()強烈(きょうれつ)気配(けはい)。自然と右手は腰にさがる剣にふれ、すばやく見返ります。
「だれだ? いるのはわかっている」
 しんとした部屋に、ひゅうとかわいた風の音。うっすら灯火(ともしび)はあらわれ、王子さまは呼吸をととのえてから、そろりそろりと進みました。すると灯火は奥にむかって、(じゅん)(とも)ります。
——いったい何者が?——そう疑問(ぎもん)に思うやいなや灯火はふえ、ついに部屋全体をぱっとあかるく照らしました。風車の地下納屋は一転して、てんじょうは高く、石づくりのりっぱな座を中央にかまえる壮麗(そうれい)な王の()にかわっているではありませんか!
 立ちつくす王子さまはおどろきと不安を感じながらも、けっして(おもて)にだしません。どんな時でも静かな威厳(いげん)をたもつよう父からおしえられていたからです。
「わたしは遠い地から王の(めい)によりつかわされたものである。あなたに聞きたい!」
 はりあげた王子さまの声は部屋中にこだまします。
「……なにもわかっていない……」
 ひやりとつめたい風のような男の声。王子さまは形なき姿をとらえようと、するどい眼光(がんこう)周囲(しゅうい)を見ます。
「主よ! どこにいる?」
「おまえはなにもわかっていない。西の国のちいさな王子」
 さっきよりもはっきりとした声はあたりにひびきます。
「なぜ、わたしがわかっていないというのだ」
 だれもいない部屋の中央にある()はスポットライトのようにパッと照らされ、王子さまは目をおおいます。
「おまえの父は……」
 王座にはいつのまにか、金のかんむりをかぶる人のかたちをした黒い(かげ)のようなものが、ふてぶてしく(うで)をくみ、胡坐(こざ)をかいて王子さまを見おろしていました。
「おまえが邪魔(じゃま)で、早く国から追いだしたかった。できるだけ遠くにな」
 王子さまはいらだち、おうへいな黒い影をにらみつけます。しかし影はそんな王子さまを知ってか、あざ笑うように話しつづけました。
「おまえは今ごろ国中の笑い者だ。なにも知らず放浪(ほうろう)している、わらのように中身のないスカスカな王子だと」
(うそ)をつくな。父と民はわたしを愛している。わたしをおとしめようというのか」
 影は下品な高笑いをして、こう言います。
「ああ、(うたが)いを知らない、なんとあわれでおろかな()しわらの王子! おまえをおとしめてなんになる? むしろ真実をあたえようというのに」
——こんな影になにがわかるのだ——憤然(ふんぜん)とした王子さまはだまってしまいます。
「いいかよく聞け、干しわらの王子。この世はなによりもまず猜疑(さいぎ)であり、史実(しじつ)下卑(げび)でこうかつな支配のくり返しだ」
 風の流れを読みとる船乗りのように、王子さまの微妙(びみょう)な感情のゆらぎをあくまで冷静(れいせい)につかむ影は、ここぞとばかりに王子さまの耳をなで、その軽妙(けいみょう)疑心(ぎしん)は王子さまにまとわりついて(はな)れません。感じたことのない悪寒(おかん)、聞こえてくる人々からのクスクスという笑い声——王はわたしをほんとうに(みと)めてくださっていたのだろうか。もしやあいつの言うとおり……そんなまさか。
「おまえは故郷(こきょう)を出た時、だれからも見送られぬことをおかしいと思わなかったのか?」
「それは……」王子さまは視線(しせん)をそらします。
「ふん。では国の外はおまえにとって理想(りそう)であったか」
「良いものも、悪いものもあった」
(いな)。人はつねに悪を善で(おお)う。羊の皮をかぶるおおかみのようにな。権力(けんりょく)渇望(かつぼう)するおまえの父も、うかれさわぐ愚鈍(ぐどん)な民も、良識(りょうしき)ある王の皮をかぶり、善良(ぜんりょう)な民の皮をかぶる。しかしまことの顔はだれにもあかさん」
 王子さまはスラリと剣をぬき、きっ先を影につきつけます。
決闘(けっとう)をもうしこむ! おまえはわが王を、祖国(そこく)侮辱(ぶじょく)した」
 怒気(どき)をふくむ王子さまのするどい声。
笑止(しょうし)! くだらぬ忠義心(ちゅうぎしん)。だからおまえの頭は()しわらなのだ。剣は名誉(めいよ)でなく恥辱(ちじょく)のためにふるうものよ」
「ふざけるな!」
「そして(ワレ)は」と、影はゆっくり王子をゆびさし、「すでにおまえにもたらした」。
 王子さまは身体中(からだじゅう)寒気(さむけ)がひしひしとせまるのを感じます。ひたいにつめたい(あせ)がにじみ、歯はガチガチ()り、のばした右手と剣も()きざみにふるえます。
「さあおしえてやろう、真実を」と、影はひじかけにどっしりもたれ、ほおづえをつきます。「むかし、おまえの国は(ワレ)とひとつの契約(けいやく)を結んだ。それは国の安寧(あんねい)と引きかえに王の子ひとり国から()いだすこと。しかし追放(ついほう)する子になにもつたえてはならない。また子は自発的に国をでなければならない。()しわらの王子、おまえのことだ」





 王子さまは顔をゆがめ、青い剣をゆっくり(さや)におさめます。
「父上……わたしに力を……」
「人はいつも悪を善で(おお)う。おまえとの約束など、なんの価値(かち)がある」
「……わたしの旅は……ああ、こごえてしまうほどに寒い……」
(ワレ)のいるこの()を見ろ。血で(よご)れた白い大理石(だいりせき)玉座(ぎょくざ)を。遠いむかし、領域(せかい)()べる強大な王は君臨(くんりん)し、民に裏切(うらぎ)られ、(ほろ)びた」
 王子さまの体はみるみる(かわ)き、()されきったわら(・・)(たば)にかわってゆきます。
「干しわらの王子、絶望(ぜつぼう)のうちに()するがよい。眠れぬ王のように」
 王子さまは考えるのをやめてしまいました。祖国(そこく)、父と母、友人、山からふく森のにおいのするここちよい風、つめたくさわやかな川、小鳥のさえずり、きらきらした朝と星いっぱいの夜。王子さまにとって明日はもう楽しみではなくなったのです。すべてのものがつまらなく思えたのですから。
「どうか……どうか、わたしを助けてほしい」
 心までカラカラになった王子さまはそうつぶやくと、吸いよせられるように王座の前に立ちつくし、ついには力なくすわってしまいました。()からびた手をだらりとさげ、王の()を見おろしますが、そこにはただ(やみ)しかありません。
(まく)は……おりてゆく」
 影はいつのまにか消えさっていました。風車(ふうしゃ)はかわらずゴオンゴオンと音を立ててまわっています。ただひとり、()しわらになった王子さまをのこして。

見つからない本と中庭

見つからない本と中庭

 (かがみ)(かがみ)。このおはなしのおしまい(・・・・)はなあに?
女の子の菖蒲(あやめ)は窓のむこうで顔をよせるアヤメにそう問いかけました。
 大きなビルの五階にある、こじんまりとした図書館は、お気にいりの居場所です。
 赤いくつをぬぎ、いつもの丸いベンチソファにすわり、書棚(しょだな)書棚(しょだな)にはさまれて、本を読んでいました。
 小学校が休みのある日、高学年の菖蒲は濃紺(のうこん)のそでなしワンピースと白いパフスリーブのブラウスを着て、お姉さんといっしょにやってきます。
 きょうはどうしても見つけたい本がありました。それは、あかね色の表紙に金の題字で『()しわらになった王子さま』という本です。
「わらにされた王子さまはだれにも助けられず、いきなりおしまいって、なんてへんてこなのかしら。ぬけてるページもあるし、のこりもぜんぶ白紙。それに、王子さまとの約束って……」
 菖蒲はそうつぶやいて、つまらなさそうに本を書架(しょか)にもどしました。
 けれど王子さまの本がどうにも頭から離れません。それでまったくおかしな物語について宿題の読書感想文でまとめようと考えました。ところが、いくら探しても見つからず、検さくしても受付に聞いても、そんな本はないと言われます。たしかに棚から選び、ひらいて読んだはずなのに……
 じつはもうひとつ、ふしぎな秘密がありました。といっても、それは図書館ではないのかもしれません。でも菖蒲だけは秘密に気づいてしまったのです。それで、こんどは見つからない本を探すより、新しく見つけた秘密のほうが気になってしかたありません。
 丸いベンチソファにひざをつき、窓わくに手をかけ、外をじっと見つめる菖蒲に、お姉さんはずんずんちかづきます。
「アヤメ!」お姉さんはおこって言います。「あなたが本を借りたいってきたのに、窓ばっかりながめて。みんなでお昼ごはん食べる約束でしょ。もう帰るわよ!」
「ねえねえお姉ちゃん、窓をのぞいてみて。あのお庭、扉がどこにもないの」黒い(ひとみ)をキラキラかがやかせ、菖蒲はビルの一階にある中庭に目をやります。「なのに、ねえほら! あそこの木のそばに白いぼうしをかぶった人がいるわ。庭のお手入れをしてるのかしら?」
 うす暗く青みがかった長方形の中庭は壁にかこまれ、たしかに出入りするための扉はありません。ビルのこちらとあちらの壁にそって赤い実をつけたリンゴの木がそれぞれ三本ずつ、それに庭一面にびっしりとはられた芝生(しばふ)のまん中には白い井戸がありました。庭師がひとりで管理しているのでしょうか、リンゴの木にそれぞれ手をふれます。   
「あっ! こっち見た!」
 菖蒲は身をのりだし、目を丸くします。はじめて見る人なのに、どこかであったような、なんだかなつかしい気もちがこみあげました。
「どうやって扉のない中庭に入ったのかしら」
 しかし、なにも返事はありません。
「お姉ちゃん?」
 ふりむくと、うしろにいたお姉さんはこつぜんと姿を消していました。
「もう! ちょっと見てただけじゃない。だまって帰らなくたっていいのに」
 長い黒髪をかきあげ、むすっとしながら図書館を出てエレベーターの前に立ちます。ところが、下にむかうボタンをいくらおしてもかごはやってきません。上のボタンも同じです。エレベーター乗り場ドアの上部にならぶ表示灯(ひょうじとう)も消えています。メンテナンス中なのでしょうか。
「まったく。きょうはついてないことばかりね!」
 菖蒲は深いため息をつき、しかたなく内階段にむかいました。

アリ隊列

アリ隊列

「おい1051(ヒトマルゴヒト)バン! レツをミダすな!」
 エレベータ横のおどり場のどこからか、ひそひそばなしが聞こえてきます。
1049(ヒトマルヨンキュウ)バンがススまないからさ」
「オレはマエにならっている、1050(ヒトマルゴマル)バン」
 菖蒲は耳をそばだて、あたりを見まわします。
 ザッドドザッドド、ザッドドザ。ザッドドザッドド、ザッドドザ。こびとのような声はリズムあふれる歌へとかわりました。

  イッソげ! イッソげ! ジョオウのモトに
  スッスめ! スッスめ! ジョオウへレツを
  ハタラけ! ハタラけ! ジョオウのために
  ハッコべ! ハッコべ! ジョオウにチエを

 くり返される歌は菖蒲の足もとから黒えんぴつの点線のように、図書館のほうから内階段の下へとつづいています。
 かがんで顔をちかづけてみると、なんとアリの隊列ではありませんか。足なみそろえ、あっちに行ったりこっちに来たり。こんなところでなにをしているのだろうと、菖蒲はだまって観察してみました。すると、おもしろいことがわかりました。アリたちはちいさな紙片(しへん)をせっせと運んでいたのです。
 ハキリアリは葉っぱを切って巣に持ち帰るという話は本で読みましたが、紙を集めるなんて聞いたことはありません。そんなものを運び、いったいなにをするつもりなのでしょう。菖蒲の好奇心(こうきしん)の水がめはあふれるほどで、思わず目のまえにいるアリたちに声をかけてしまいます。
「こんにちは、アリさん。わたしはアヤメ。アリさんたちはなぜ紙きれを運んでいるのかしら。巣にもち帰ってなにするの?」
 しかしアリたちは菖蒲の言葉など知らんぷりです。それでよけい、アリたちについて知りたくなりました。こんな懸命なのですから、働きアリはよほどの理由があるにちがいありません。
 菖蒲は、なにももっていないアリ隊列の先頭を追ってみることにしました。
 アリたちのとなりをはって図書館へもどり、貸出カウンターをぬけ、児童書のならぶ書棚にむかって進みます。
「ああああっ!」
 菖蒲の目はぱっちりひらき、図書館にいるのをすっかり忘れて口からサイレンがもれますが、すぐに手をあてます。でも図書館には人がだれもおらず、注意されたり、ひややかな視線を感じたり、せきばらいされる心配もありません。
 菖蒲が声をもらすほどおどろいたのは、そんな規則にがんじがらめのオトナたちにではなく、アリたちの運んでいた紙片がなにかわかったからでした。
 なんとアリたちは『干しわらになった王子さま』の本にむらがり、ページをかじってはこまかくしていたのです。菖蒲の眉間(みけん)にしわがよってきました。ずっと探していた本なのですから、とうぜんでしょう。
「あなたたち、本をこんなにしてダメじゃない!」
 菖蒲の怒号(どごう)もなんのその、工事現場の横をするりとぬけるようにアリの隊列は見むきもしません。それで菖蒲式大型クレーンはガバッと本を取りあげ、こびりついた黒い土砂(どしゃ)をぶっきらぼうにふるい落とします。
「おい、ナニをするのだ! ワレワレのシゴトをウバうつもりか」アリは菖蒲の周囲にわらわらと集まり、いっせいに抗議(こうぎ)します。「そうだそうだ!」
「ちがうわ。あなたたちはだいじな本をこわそうとしているのよ」
 アリたちはそんなの知るか、といわんばかりに自信たっぷりにこうこたえました。
「これはジョオウのメイレイである。ジョオウはカシコくなるため、ホンのカミでマクラをヨウイするようメイじられた。ワレワレのジョオウにサカらうつもりか」
「ええ、そうよ。だれがなんていおうと、まちがえているに決まってる」と、菖蒲はかんかんです。
「本はちぎったり、まくらにするためのものではないもの。それにね、本をまくらにしても(かしこ)くならないんですからね」
「ははあ、ワかっていないのはキミのほうだ」と、監督(かんとく)アリは(えら)そうに言います。
「ワレワレにとって、これがなんであるかがモンダイではなく、ハコぶことがジュウヨウである。それとも、キミはワレワレにメイレイできるケンゲンをモっているのかね?」
「そうだそうだ!」と、ちょっぴり偉そうな作業アリはうしろでさわぎます。
「まあ!」菖蒲はほとほとあきれます。「わかったわ。じゃあ、あなたたちの女王さまにすぐつたえてちょうだい。この本はわたしが借りたかったの。あなたがまくらにしようと考える前からってね」
「だから、ワレワレには『ジョオウにツタえる』というシゴトはナいのだ」きっぱりと言う監督アリ。
「それはワレワレではなくデンタツアリのシゴトだな」と、作業アリ。
「ワレワレワレワレうるさい!」菖蒲はこぶしをワナワナふるわせ、どなりつけます「どうでもいいからさっさと女王につたえてきなさい!」
 菖蒲の口からいきおいよく噴出(ふんしゅつ)する熱風(ねっぷう)にアリたちは飛ばされないようはいつくばり、ブルブルふるえ、かたまってしまいますが、ハッとなり、たがいに見つめ、顔をあわせながらひそひそ話しあいます。
「おいおい、なんてこった」
「あのでっかいのはジョオウよりコワいぞ」
「いやいや、ジョオウはあんなカイブツよりずっとヤサしいおカタさ」
「あんなキショウのアラいブシツケカイブツ、ワレワレのアゴだってカナわない」
「はあ?」青筋(あおすじ)を立てたカイブツはアリたちを見おろします。
「ショ、ショウチした」
 さきほどまでの強気(つよき)態度(たいど)はどこへやら、アリたちは軽くせきばらいをしてから言います。
「ではトクベツにジョオウにツタえよう。しかし、なにが……」
「なぁ、にぃ、がぁ?」菖蒲はゆっくりと力をこめて言います。
「ゼ、ゼ、ゼンイン、イマスグタタタタイキャーク!」
 アリたちは怖くてたまらなくなり、紙片を投げ捨て、雲の子をちらすように逃げさりました。
 一匹みだれると、ほかのアリもなにごとかと、整然(せいぜん)としていたアリ隊列はめちゃくちゃになり、のこされたのはひとすじの紙片だけになりました。
 菖蒲は落ちている王子さまの本をわきにかかえると、(こし)をまげ、ちぎられた紙片を一枚一枚ていねいにつまんでは本におさめ、図書館をでて、おどり場までもどります。紙片はそこでぷつりととぎれていました。
「よかった」と、菖蒲は首をかしげながらも、ほっとして言いました。「かがんで歩かなくていいのね。でもいつか女王アリに会ったら注意しなきゃ。本をこんなにしてはいけないって」
 そんなアリたちとやがて再会するのも知らず、菖蒲は腰をトントン手でたたき、ぐっとのばしてから階段をおりていきました。

下に上がる階段

下に上がる階段

 すみからすみまで探したはずでした。
 学校がおわるとまっ先に図書館の新刊(しんかん)コーナーにむかい、新しい本をかかさず見ていましたし、書架(しょか)のどこにどんな本があるかもすべておぼえていたほどです。司書(ししょ)のお姉さんに、わたしより知っているとほめられたのはちょっとした自慢でした。
「それなのになんで、見つからなかったのかしら」
 菖蒲はボロボロにされた本についてあれやこれや考えていると、ふとおかしな変化に気づきます。
 灰色のつめたいコンクリートだった内階段が、いまはまるで古い洋館のような、あたかみのある電球色に照らされ、ざらざらとした乳白色の壁、なめらかな曲線をえがいた木製手すりがついた階段になっているのです。
 もしかすると改装したのかもしれませんし、いつもはエレベーターを使っていたので、気にしていなかっただけなのかもしれません。でも、しばらくおりているとこんどは、カサカサ、ノッソリ、ノッソリ、カサカサ、ノッソリ、ノッソリ。
 菖蒲が目を下にやるとカメがゆっくりとふみづら(・・・・)を歩いています。カメの足の長さで階段などおりられるのでしょうか。そもそも、なぜこんなところに? 菖蒲はカメをじっくりながめていましたが、地面にへばりつき階段をせっせと進む姿があまりにおかしくて、すわって話しかけることにしました。
「こんにちはカメさん、わたしはアヤメ。あなたはなぜここにいるのかしら?」
 カメはピタリと止まり(もっとも、うごいているようにも見えませんけど)首をにゅうっとだして、ねむたそうな目をこちらにむけます。
 菖蒲はカメがのんびりやさんであるのをよく知っていましたので、こたえを待ちました。
 するとカメの口はゆっくりひらき、とてもちいさな声で話しはじめます。
「かのじょは……いたずらずきなのだ……わたしは……いたずらに……つきあっている」
 菖蒲はあたりを見まわし、首をかしげます。
「あの、ここにはだれもいませんよ」
 するとカメはふたたび階段のほうに頭をゆっくりともどします。かのじょのいたずら、とはなにか、とても気になりますが、のんびりなカメと話していたら明日になってしまうでしょう。
「さようなら、カメさん。わたしかえらないと」
 菖蒲はあふれる好奇心を胸にしまい、立ちあがってカメに手をふり、わかれました。
「きっとどこかで待っているお友だちがいるのね。ふふっ、いつになったら会えるのかしら!」
 くすりと笑い、しばらくいくと、カサカサ、ノッソリノッソリ。またカメです。
 しかもさきほどのカメとそっくりで、やはり階段をおりようと歩いているではありませんか。さきほど歩いていたカメの彼女かもしれない、と菖蒲は思います。
「こんにちは、カメさん。上であなたを探しているカメさんがいましたよ」
 するとカメは菖蒲にむかってのんびりと頭をのばし、じいっと見つめ、ゆっくり話しはじめます。
「かのじょは……いたずらずきなのだ……わたしは……いたずらに……つきあっている」
「あなた、もしかしてさっきのカメさん?」
 カメはそっぽむいて、なにもこたえてくれません。
 菖蒲はまたわかれをつげて階段をおりましたが、おなじカメはいて、トコトコぐるぐる、トコトコぐるぐる、いくら階段を下へ下へと進んでも、カメと出会います。まるでいつまでもカメに追いつけないアキレスのように、菖蒲がどれだけがんばってもカメより先に階段をおりられないのです。
 それでこんどは階段をのぼってみましたが、やはりカメのいるおどり場についてしまいます。
 階段を上がったり下がったり、下がったり上がったり。菖蒲は目がまわり、ヘトヘトになって、ついにカメのそばにドスンとすわりこんでしまいました。
 ここは何階で、階段を下がっているか、はたまた上がっているのか、カメに聞きますが、あのこたえしか返ってきません。しかたがなく菖蒲はほおづえをついて、しばらく考えてみました。
 まず彼女とはいったいだれなのでしょう。
「かのじょのいたずらにつきあっている、ということはカメさんはいま、そのいたずらをされているわけよね」
 菖蒲はあたりを見まわします。
「でも、わたしにはかのじょが見えないわ。じゃあカメさんがされているいたずらとはなにかしら」
 こちょこちょ、ぺんぺん、なでなで、ぐりぐり……思いあたるいたずらを考えてみますが、カメはなにもされていません。いたずらさえわかればきっと彼女が何者なのかわかるはずなのに。菖蒲はカメと一緒にのんびりと考えます。なにかヒントはあるでしょうか。
「そっか!」
 菖蒲の大きな声が階段中にこだまします。
「かのじょはわたしにも(・・・・・)いたずらをしていたのよ。だっていくら階段を下がっても上がっても、カメさんのいる階にもどってしまうんですもの。だから、かのじょは階段そのもの(・・・・・・)のことね!」
 そう、菖蒲はカメと彼女のいたずら、つまり下に上がり、上に下がる階段につきあわされていたのです。いたずら好きの彼女(かいだん)は、やってくる人をそうしてこまらせていたのです。もちろん、だれも喜ばないので、階段にちかづく人はだれもいなくなってしまいました——カメをのぞいて。カメにはいくらでも時間がありましたし、このいたずらには相性(あいしょう)ピッタリだったのです。のんびり屋のカメは、いたずら好きの階段にアリアドネという女の子の名前をつけてあげました。それでカメは彼女と言ったのです。アリアドネは名前をつけられて、とても喜びました。そのかわりにひとつだけ、カメと約束しました。もういたずらをしない、と。
「アリアドネは約束をやぶって、わたしにいたずらをしたの?」
 するとカメは首を横にふり、菖蒲が手にしているあかね色の本をポンポンたたきました。
「これ? なぜこの本が関係あるのかしら」
 こんどはゆっくりとカメは階段の下をさしました。
 階下のおどり場の壁には、さきほどまでなかったカカオたっぷり板チョコのような扉があります。アリアドネは菖蒲に進まなければならない、道しるべの赤い糸をたらしてあげたのです。
「もしかして、わたしが行くの?」
 カメは、はっきりそうだとうなずきましたので、菖蒲は立ちあがり、扉にむかいます。
「うんわかった。ありがとう、とても楽しかったわ」
 菖蒲はカメとアリアドネに手をふり、はがれかかった金メッキのノブをまわし、扉をそおっと開けます。さきは暗くてなにも見えません。おそるおそる部屋に足をふみいれると、菖蒲の体はあっというまに闇の中へすいこまれてしまいました。なんと床がすっぽりぬけていたのです。ダークチョコレートの扉が菖蒲をぱくりと飲みこんで喉を鳴らし、閉じてなくなります。
 そんなようすをじいっとながめているのかいないのか、カメはカサカサ、ノッソリノッソリ歩きだしました。彼女のいたずらにつきあうために。

底なし部屋

底なし部屋

 もし、ここがあかるい部屋だったなら菖蒲はどんなにかこわい思いをしたでしょう。でも室内はまっ(くら)、いつまでたっても着地しないので、まるでういているように思えました。
「これなら空からおっこちるのも、海底にしずむのだっておなじね」
 あっけらかんとしていますが、ひとつ悲しいことに、せっかく見つけた王子さまの本をすべり落としてしまいました。働きアリのやぶった紙片はひらひらと舞いちり、のこったページもするするほどけ、底なし部屋のずっと下で星のようにちかちかとかがやきます。
「まあ、なんてきれいなのかしら。宇宙旅行をしているみたい」
 菖蒲はうれしくなって『ちいさな星の歌(※1)を口ずさみました。


  ティンクル ティンクル、ちいさな星よ
  あなたはだあれ?
  世界よりずっと、ずうっと遠く
  夜空にちらばるダイアモンドみたい

  ピカピカ太陽はさってゆき
  あかりがみんな眠るとき
  ちいさなあなたはキラキラと
  一晩中わたしをてらしてる

  ティンクル ティンクル、ちいさな(ひとみ)
  あなたはなんてステキなの


 歌いながら手足をばたばたさせたり、すいすい泳いでみたり。そんな姿があまりにおかしくて、おなかをかかえ、笑います。すると魚のむれは菖蒲にちかづいてきて、まわりをぐるぐるかこみ、こうたずねました。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 魚さんたち」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」魚たちは()びれをぶんぶんふります。「でもぼくたちが泳げるってことは、ぜったいに海だね」
「なるほど。でも下を見て。星がかがやいているの。海に星はあるのかしら?」
「なんと!」魚たちは菖蒲のさすほうをいっせいにのぞくと、たいへんおどろきます。「これは知らなかった。もしかして深海に住むものたちだろうか。なあみんな、たしかめにいこうじゃないか」
 そう言うと竜巻(たつまき)のようにぐるぐるまわる魚たちは、光る底にいきおいよくむかい、菖蒲は魚たちに、ばいばいと手をふりました。
 だれもいなくなると、つぎに翼をぐんとのばしたわたり鳥のむれがV字編隊(へんたい)で菖蒲にちかづきます。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 鳥さんたち」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」わたり鳥たちは翼をパタパタはばたかせます。「でもぼくたちが飛べるってことは、ぜったいに空だね」
「なるほど。でも下を見て。星がかがやいているの。地上に星はあるのかしら?」
「あれは街のあかりさ」鳥たちは口ばしをゆらして笑います。「夜間飛行でよく見かけるもの」
「じゃあ、あちらを見て」と、菖蒲はあおむけになって上をさします。「ほら、なんにもないわ。もしここが夜空なら満天の星がちらばっているはずよ」
「なんと!」わたり鳥たちはたいへんおどろきます。「これは知らなかった。ひょっとするとあつい雲で見えないのかもしれない。よおしみんな、たしかめにいこう」
 先頭の鳥が翼を広げてふわりと上昇(じょうしょう)し、つづいて前から順にわたり鳥たちは上方の闇へと消え、菖蒲は鳥たちに、ばいばいと手をふりました。
 だれもいなくなると、こんどは流れ星が光のつぶをパラパラまきながら菖蒲のところにやってきて、こうたずねます。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 流れ星さん」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」流れ星はくるくる光の()を引きます。「でもぼくが飛んでいるってことは、ぜったいに宇宙だね」
「なるほど。でも下に星がかがやいているのに上はまっ暗なの。宇宙はどちらにも星があるはずよ」
「いいやアヤメ、宇宙には星もかがやけない、常闇(とこやみ)があるんだ」
 菖蒲はそうかそうかとうなずいて、「流れ星さんの言うとおり、ここが宇宙なら、わたしは止まっているはずよね。わたしはなぜ下に落ちているのかしら?」
「なんと!」流れ星はたいへんおどろきます。
「それは知らなかった。アヤメがどこに落ちているのか、ぼくが見てみよう!」
 菖蒲はかがやく底へ消えてゆく流れ星に、ばいばいと手をふりました。
 ついに魚たちも、わたり鳥たちも、流れ星もみんないなくなって、菖蒲はぽつんとひとり、底なし部屋についてじっくり考えてみることにしました。
 りんごはなぜ木から地面に落ちるのでしょう。雨はどうして雲から地上にふってくるのでしょう。そして、この部屋で本を手ばなしたとき、なんで菖蒲と本は落ちたのでしょうか。
「そもそも落ちているのかしら?」
 菖蒲はずっと、暗い部屋でリンゴや雨のように落下しているとばかり思っていました。もちろん、本は下に落ちましたし、菖蒲もそれを見たのです。でも魚や、わたり鳥のむれも、流れ星ですら自分たちが落ちていると、言いませんでした。
「ここは空や海や宇宙であって、そうではない部屋ってことかな」
 つまり、海にしずんでいるのでも、空から落ちているのでも、宇宙をただよっているのでもありませんが、魚が泳ぎ、鳥は飛び、星も流れるというわけです。
「そっか、引かれているのね!」
 ついにひらめきました。菖蒲は見えない力に強くひっぱられていたのです。でも、いったいなにからでしょう? その答えはすぐにわかりました。『干しわらになった王子さま』の本です。底なし部屋で本をほおったとき、ちらばってきらめく星となり、菖蒲を招待(しょうたい)していたのです。ぜひこっちにきてほしい、と。それがなぜかはもうすこしあとで知ることになります。
 底なし部屋のからくりを知った菖蒲は、ためらわず星にむかって両手をさしのべ、本の招待を喜んで受けました。星にひかれるまま、白い光は菖蒲をつつみこみ、あまりのまぶしさに目を閉じてしまいました。
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 ガサガサかわいた音を立て、やわらかいものにしずむと体がチクチクして麦わらぼうしのにおいがします。ほそくて黄色いストローをかきわけ、ひょっこり顔をだすと、わら束がたくさんつんでありました。
「ここは、どこ?」
 菖蒲はなにがおきたのかわからず、しばらくぼーっとしますが、遠くのほうでゴトンゴトンという音が聞こえましたので、上方についた半開きの窓から外をながめます。
 青空の下には金色の麦畑が一面に広がり、遠くでは建物についた大きな羽根(はね)が風をうけてまわっていました。
「風車だ!」
 菖蒲は()しわらの王子さまの世界にやってきたのだとすぐにわかりました。胸はドキドキと高鳴ります。ここが本の世界だから、だけではありません。
 なんと、干しわらの王子さまをおしりでふんづけていたのです。

キジ三毛のネコ

キジ三毛のネコ

 たくさんあるふくろからアタリを一回で引けるでしょうか。たとえば、いろんな味のキャンディーにひとつだけキャラメルがまざっていて、どれもまったくおなじつつみだとしたなら、どのように探しあてますか。もちろん、ひとつずつ開けてみるしかありません。
 でも、菖蒲は山とつまれたおなじわら束から王子さまを一目で気づき当てたのです。なんでだろうと思うかもしれません。きっと菖蒲にもこたえられないでしょう。ただ胸がドキドキして、これは王子さまだとおしえているようでした。
 ひとつ疑問がわきます。わら束にかえられた王子さまは、風車(ふうしゃ)の地下室にある王座にすわっていたはずなのに、なぜ菖蒲のそばにいるのでしょうか?
「それは農夫がひろい、ここに投げていったからさ」
「だれ?」
 菖蒲はどこからか聞こえる声に返事をします。
「こっちだよこっち」
 広い納屋(なや)をあちこち見ると、正面の大きな両扉のそば、くま手を背にキジ三毛のネコがちょこんとすわっていました。
 菖蒲はネコのそばにちかづこうと、つまれたわら山からおりようとしますが、なかなかうまく足をかけられず、きゃあと声をあげ、ずるずる落ちてしまいます。
「なあ、お嬢ちゃん。もうすこし静かにしてくれにゃいと。あいつが物音に気づいてやってきたらどうするんだ」
「ごめんなさい。わらの上を歩くのがこんなにむずかしいだなんて思わなかったの」
 やれやれとキジ三毛ネコはため息をつきます。
「まあいい。それよりあのわらについてだ。お(じょう)ちゃん、あれがにゃにかわかるのか?」
「もしかして、あなたも王子さまだって知っているの?」
「あの小僧(こぞう)は王子だったのか」キジ三毛ネコはニヤリと口を広げます。「オレが風車でネズミを追いかけていたとき……」
 キジ三毛ネコは白馬にのった王子さまが風車(ふうしゃ)に入るのを見かけましたが、けっきょく、もどってくることはありませんでした。
「しばらくして黒い大蛇(だいじゃ)風車(ふうしゃ)から飛びだし、いきおいよく西にむかって消えたんだ」
 おそらく王子さまと対峙(たいじ)した(かげ)だろうと菖蒲は考えます。
「ここの畑の農夫(のうふ)風車(ふうしゃ)の地下で青い剣と赤い宝石の首かざりをかけたわら束を見つけ、大喜びしていた。ごうつくばりにゃ農夫め。白馬もすべて自分のものにし、町で売りさばいて(かね)にするつもりだぜ」
 それを聞いた菖蒲はひとつ思いつきました。王子さまの帰りを待つ白馬に話しを聞けば、()しわらの王子さまについて、もっと知ることができるでしょう。
 しかしキジ三毛ネコの言うとおりなら、いそがなければなりません。
「白馬さんはどこにいるのかしら。助けてあげないと」
「まあおちつけ。すぐに売ろうってわけじゃあにゃい」あわてる菖蒲にキジ三毛ネコは言います。
「馬は風車(ふうしゃ)のちょうど裏手、農夫の家のすぐそばにある馬小屋につながれてる。にゃわで固くしばられてるからかんたんにはほどけにゃいぜ。青色の剣を使うといい。切れ味がいいからハサミがわりにちょうどいい、と農夫は喜んでた。剣は寝室(しんしつ)にあるはずさ」
「わかったわ」キジ三毛ネコの話を聞いて、菖蒲はほっと胸をなでおろします。「でも、なんでわたしにいろいろとおしえてくれるの? あなたは農夫さんの()いネコなんでしょ?」
「にゃにおバカな! オレはあんなやつに飼われちゃいにゃいぜ」キジ三毛ネコは不機嫌(ふきげん)そうに目を横にそらします。「ただ白馬にかりがあるだけさ。大蛇はオレを……いや、まわりにあるものすべてのみつくそうとした。必死(ひっし)に逃げたが追いつかれ、もうおしまいかとあきらめかけた時、白馬はオレを口にくわえ、助けてくれたのさ」
「そうだったのね」と、菖蒲はキジ三毛ネコの黒い首輪にふれます。
 キジ三毛ネコは首をぶるぶるふるわせ、すっくと立ちあがり、菖蒲のまわりを歩きだしました。
「そもそもあいつと契約したのがまちがいだった……」
 キジ三毛ネコによると、農夫と仕事の契約(けいやく)を結んだのがはじまりでした。この土地にいるネズミを一〇〇〇匹退治するまでの条件で宿と食事を提供(ていきょう)する、という内容(ないよう)です。しかし『退治(たいじ)するまで』という文言にまんまとだまされました。つまりネズミをすべて退治しなければ、農夫のもとから(はな)れられないというわけです。なんと農夫(のうふ)はキジ三毛ネコと契約を(むす)んですぐ、ネズミ()りをそこらじゅうに置きはじめます。これではいつまでたっても退治できません。
「旅ネコのオレは気ままな自由が好きにゃんだ。おなじにゃわばりをまいにちウロウロするようにゃやつらとはちがう」
 キジ三毛ネコは立ち止まり、うらめしそうにつづけます。
「ここもすぐ出るつもりだった。にゃのにあのいじわる農夫(のうふ)はだましやがった! はじめっからここでずっと働かせるためのわにゃだったんだ」
「にゃんてひどい人にゃのかしら!」と、菖蒲はネコみたいにまゆをしかめます。
「それでお(じょう)ちゃんにひとつたのみがある」キジ三毛ネコはじっとりした目つきで菖蒲をのぞきこみます。「あいつは寝室のどっかに、オレとかわした契約書をかくしたはずにゃんだ。それをもってきてほしい。あいつの目をぬすみ、にゃんどか探したが、どうにも見つからにゃかった。あの契約書さえ捨ててしまえば自由ににゃれるんだが」
「うん。さがしてみる」菖蒲は頭をたてに大きくふりました。
 ちょうどその時、キジ三毛ネコの両耳はピクピクうごきます。
「まずい、あいつだ。かくれろ!」
 ぎゅっぎゅと砂利(じゃり)をふみしめる足音が納屋(なや)の外からこちらにちかづき、やがてピタリとやみ、大きな両扉がゆっくり開きます。
 菖蒲はおどろきあわてて、飛びこむようにつんであるわら束の影にかくれ、口に手をおしあてます。
「おいキジ三毛!」荒々しい男の声がします。「昼飯(ひるめし)の時間だ。とっととこい!」
 鼻からもれる息ですら聞こえてしまいそうな重苦しい沈黙(ちんもく)
「にゃ、にゃあ」
 キジ三毛ネコのへたな()き声に笑いをこらえながら、菖蒲は農夫(のうふ)を見ようと、正面をそっとのぞきます。こちらにのびる人影を頭からたどり、扉の前にはウェスタンブーツにデニムのオーバーオールと白シャツ、(むぎ)わら帽子(ぼうし)をかぶった、いかにもたくましい口ひげの男がどっしりかまえています。
 菖蒲は口に手をあて(かた)をすくめます。
「おくれたらめしはないと思え!」と、大男は扉を乱暴(らんぼう)にたたきつけて出ていきました。
「さぁて家にもどるとするか!」キジ三毛ネコは大きな声で言います。「あいつは昼飯がすんだらオレをつれて小麦を売りに馬車で街へ出かけるだろう。そうすれば家にはだれもいにゃくなる。玄関はカギがかかっているが、二階の窓はいつでもあけっぱにゃしでたすかるぜ。しかし泥棒がそばの木をのぼってこにゃいかしんぱいだよ。まあ夕方、暗くなるまえにもどるからいいか!」
 それからキジ三毛ネコは農夫(のうふ)のあとを追い、扉のすきまから走りさりました。
 納屋にひとりのこされた菖蒲は王子さまのそばにもどると、計画をアヤメと話します。菖蒲ひとり会議のはじまりです。
「まず王子さまをここからださなきゃ。だって、ほかのわら束と一緒にもっていかれたらたいへんよ」
「いい考え。でも、どこにかくせばいいのかしら」
 そこらへんにほっぽって、だれかに盗まれたらいけませんし、動物にでもバラバラにされたらたいへんです。話し合いの結果、風車(ふうしゃ)の地下にしました。きっとあそこに王子さまをもとの姿にもどすための手がかりがあると思ったからです。
「つぎに農夫(のうふ)さんの家のそばにある木をのぼって、二階の窓から寝室へ」
「青色の剣とキジ三毛さんの契約書を探す」
 菖蒲はのぼり(ぼう)得意(とくい)でしたので、木のぼりだって問題ありません。
「それから馬小屋で、つかまった白馬さんをたすける」
「うん、これでよし!」
 こうして菖蒲のひとり会議は万事(ばんじ)うまくいきました。もちろん、頭の中ではいつだって順調(じゅんちょう)に進むものです。菖蒲はまんぞくそうにひじをついて寝そべり、足をバタバタさせて窓の外をながめ、かんぺきな計画を実行する時を待ちつづけました。

菖蒲の計画

菖蒲の計画

 昼さがり、キジ三毛ネコの言うとおり、風車(ふうしゃ)のむこうから荷馬車はでていきました。
 菖蒲は見のがすまいと目で追いますが、まだ行動は起こしません。忘れ物を思いだして引き返した農夫(のうふ)かち(・・)合いでもしたら計画は水のあわです。もちろん失敗などゆるされませんので、できるだけ慎重(しんちょう)に行動します。
 馬車がだんだんちいさく、地平線のかなたに消えたのを見て、あせらずゆっくり、「いち、にぃ、さん……」六十までかぞえてから、それ今だと納屋(なや)の扉をおしあけました。
 どこまでも広がる新しい世界。ここちよい風はささっとふき、菖蒲の長い(かみ)をゆらします。目をつむり、空気をいっぱいにすいこめば、どこか知らない異国(いこく)のかおりを体いっぱいに感じます。
 人生をかえてしまう物語がはじまる前兆(ぜんちょう)。おさえきれない高揚(こうよう)(むね)に目を大きくひらき、回転する大きな羽根(はね)にむかって、王子さまをかかえ、小麦畑の中へ走りだしました。
 小麦畑をぬけると大きな黒い風車(ふうしゃ)がどんとかまえています。羽根の音はまるでうなり声、さっき見た農夫(のうふ)がうでをくみ、計画をじゃまするため、立ちはだかっているように見えて菖蒲はたじろぎます。しかし、のんびりできる時間はすこしもありません。王子さまのため、ちいさなドン・キホーテは勇敢(ゆうかん)風車(ふうしゃ)突進(とっしん)しました。
 風車(ふうしゃ)の中は時計のように木製の歯車(はぐるま)複雑(ふくざつ)にからみあい、こすれるにぶい音、テンポよい打音でさわぎたっています。
「たしか本には地下につづく階段を探したとあったわ」
 しかし、いくら見まわしても階段など、どこにもありません。
「探しまわった、ということは王子さまはすぐに見つけられなかった……つまり、かくし階段だったのよ!」
 菖蒲はよつんばいになって木のゆかを一まいずつ指でなぞります。すると一か所だけ、ゆか板に金色の回転(かいてん)把手(とって)がうめこまれています。しめた、と金ぞくのつめをひっくり返し、四角く切りぬかれた板を持ちあげると、うす暗い地下へとつづく階段を見つけます。おりた先にはゆるく閉じた木製の古い扉からヒューヒューとすきま風がふきぬけていました。
「本に書かれたとおりね」
 扉のむこうは風車の地下室とは思えない、オレンジ色のともしびがいくつもゆらゆらゆれる壮麗(そうれい)な王の()でした。今はなき強国の歴史の針はポッキリおれ、つもるほこりが長い時を知らせます。部屋の両わきにはいくつもの巨大な支柱(しちゅう)がならび、中央ひなだんの頂点(ちょうてん)にすえられた玉座(ぎょくざ)は天じょうからふりそそぐ光をあび、空位(くうい)のまま、こちらをむいていました。
「まっていて。すぐにもどるから」と、菖蒲は王子さまを玉座(ぎょくざ)にのこします。
 最初(さいしょ)任務(にんむ)をぶじに終え、外でふうっと一息つき、すぐつぎの計画にうつります。風車(ふうしゃ)裏手(うらて)にまわると、よく手入れされた庭のさきにわらぶき屋根(やね)の家、となりには馬小屋が見えました。
 菖蒲は門をくぐり、色とりどりの花がさきこぼれる庭を足早にぬけて、家によりそうブナの木で立ち止まります。それからくつとくつ下をぬいで木の根もとにかくしてから、うねる木にしがみつき、ぐいぐいのぼります。屋根裏の窓にせり出た太い木の枝を毛虫のようにくねくねとつたって進み、窓に手をかけようとした時、思わず地面を見てしまい、あまりの高さにめまいがします。
「やすんでるひまはないのよ、アヤメ」
 菖蒲は下をのぞかないよう顔をあげて呼吸(こきゅう)をととのえ、ゆっくり腕をのばすと、なんとか窓はこちらにひらきます。
「だいじょうぶ、わたしは飛べる。だいじょうぶ、わたしはあっちに飛べる……」
 そう言い聞かせ、太い枝に手をあててふるえる(こし)をあげ、こずえに足をつけます。
「鳥のように飛べる、チョウチョのようにまうのよ……!」
 ケムシはサナギに、そしてチョウとなってはばたくように菖蒲はいきおいよく窓に飛びうつります。
 木の枝はたわんでバサバサ葉をちらし、ヒバリもなにごとかと空へ逃げていきました。
 そして、どすんと重いものがぶつかるにぶい音。
「いったぁぁい!」
 屋根裏部屋からほこりがもくもくとけむりのようにあがり、斜光(しゃこう)でかがやきます。
「アヤメチョウ……ちゃくりく……しっぱい」
 菖蒲は赤くなったおでこを手でおさえ、ふらふらと天じょうの低い屋根裏をおります。
 かまどや壁にぶら下がる鍋におたま、きれいに整とんされた食器棚のある台所にでると勝手口、居間そしてべつの部屋につながるろうかにわかれています。菖蒲はまよわずろうかを通り、サニタリールームをすぎて扉につきあたります。
 扉の把手(とって)に手をかけると菖蒲の胸はうずきます。人の家にだまって入るのはわるいことですし、部屋となればなおさらです。もしも知らない人に寝室をいじられたら、と考えはじめると、よけいに心は痛みます。でもここで引き返せば王子さまを助けられませんし、キジ三毛ネコもあのままです。
 小声で「ごめんなさい」と言い、把手(とって)をまわしました。
 広い部屋には大きなベッドにつくえと(たな)()しゅうの入ったレースのカーテンから()の光がうっすら差しこみ、よくみがかれたマホガニー製のつくえのそばに両刃の青い剣が立てかけられていました。
「なんてきれいなのかしら……」 
 剣を手にすると片手で持ちあげられるほどに軽く、美しい透明(とうめい)な深青のガラスはあざやかな青緑に色をかえます。ふしぎなことに剣から手を(はな)すと剣はもとの青色にもどります。
 菖蒲は計画を思いだし、キジ三毛ネコの()わした契約書を探そうと部屋を見まわします。
 ところで計画というものはたいてい思いどおりにいかないもので、その時どきでなんとかしたり、あきらめたりするものです。菖蒲もできるだけうまくいくよう努力しますが、どうにもできない、やっかいな問題にあたってしまいます。

契約書のありか

契約書のありか

 王子さまの剣はすぐにわかりましたが、キジ三毛ネコの契約書はどのようなものか知りません。紙に書いたのか、それともほかのなにかでしょうか。
「キジ三毛さんにちゃんと聞いておくべきだったわ」
 菖蒲はうらめしく思いながら、つくえの引き出しに手をかけた時、卓上(たくじょう)にかざられたポストカード立てが目にとまります。(しん)ちゅうの(がく)の中では白いキャペリンハットをかぶった金髪(きんぱつ)の女が()みをうかべています。
「この人どこかで……」
 引き出しを開けても何通かの手紙だけで契約書らしい紙はなく、奥までのぞいてもからっぽですし(たな)にもありません。もしやキジ三毛ネコのかんちがいなのか、まさか探す部屋をまちがえたのか。時間だけは()ぎ、みるみる()はかたむいてゆきます。
「どこにあるのかしら。アヤメ、おちついて探すの。きっとあるはず。どこかにふと置き忘れてしまった自転車のカギとおなじよ」
 たった一枚の契約書を探すだけなのに、計画が進まないもどかしさを感じながら、そわそわと部屋中を行ったり来たり、引き出しを()けたり閉めたりをくりかえします。
 するととつぜん、外から車輪のこすれる音が聞こえました。窓をのぞくと農夫(のうふ)が乗る荷馬車が見えます。
「ええっ! もう帰ってきたの?」
 なんて最悪のタイミングでしょう! 部屋から出れば農夫(のうふ)(はち)あわせになります。菖蒲はあわてて隠れる場所を探します。棚は小さすぎて入れませんし、つくえの下ではおしり丸見えです。ベッドの中もふとんをめくられたらおしまいでしょう。
 農夫(のうふ)の足音はずんずんと寝室にちかづいてきます。
「あぁぁぁ、まってまってまって!」あちこちに首をふりながら、あわてふためく菖蒲。
 ガチャガチャガチャ。把手(とって)()きざみにふるえ、ついに扉が開きます。大きな足はゆか板をきしませ一歩また一歩と窓ぎわへ、真ちゅうの額があるつくえの前で止まり、「ただいま」と、農夫(のうふ)のさびしそうな声が聞こえ、すぐに出ていきました。
 静まり返った部屋で菖蒲はゆかに頭をつけ、大きなため息をもらします。
 でもいったいどこに隠れたのしょう?
 それはベッドの下です!
 農夫(のうふ)が部屋に入る、もうすんでのところで、すべりこむようにもぐりこんだのです。
 しかし菖蒲の計画はまたたくまにくずれさりました。ベッドの下から身動きが取れなくなってしまったからです。契約書をあきらめ、青い剣だけを持ちだそうにも、いつここから出ればよいのでしょう。農夫(のうふ)が家の外か屋根裏、それとも勝手口や居間にいる時に? そもそもいまどこにいるのかわかりません。もし窓の外からのぞいていたら……いくら計画をねり直しても、菖蒲の計算機は最悪な結果をはじきだします。
 あれこれなやんでいるうちに寝室は暗くなり、出口の見えない不安はどんどん高まります。いっそ農夫(のうふ)の前に姿をあらわし、わけを話そうかとも考えましたが、強欲(ごうよく)な農夫に(くさり)でつながれ、どこかに売りとばされるのではと考え、身がすくみます。菖蒲はうつぶしたまま、なにもできず、ついに夜をむかえてしまいました。
 好機(こうき)深夜(しんや)におとずれます。農夫(のうふ)はランプを手に、ふたたび寝室へやってきて、部屋全体をうっすら照らします。菖蒲は耳を立て、つくえにむかう足を目で追います。
「おやすみ、リリィ」農夫(のうふ)は真ちゅうの額にあいさつをして(あか)りをふき消します。
 ベッドのきしむ音を聞いた菖蒲は大胆(だいたん)な計画をひらめきました。農夫(のうふ)がベッドで寝ている時、青い剣をこっそり持ちだそうと考えたのです!
 菖蒲は農夫(のうふ)がぐっすり眠るのを待ちます。またたくまに過ぎた時間がこんどはゆっくりと、じれったく感じました。
 農夫(のうふ)はベッドの上で、その下で菖蒲がウツボのように横たわるおかしな夜はさらに深まり、いまか、まだか、そわそわしていると、やがて大きな寝息が聞こえます。
 さあ計画の再開です。菖蒲は音を立てないようベッドの下からもぞもぞはい出て息をころし、そおっと顔をあげます。ふとんにしずみ、ぐっすり寝ている農夫(のうふ)を見た菖蒲はひざをつき、そろそろと青い剣にちかよります。カーテンからもれる月の光をあびた剣は、まるで宇宙をかためた深い紺色のようで、つかむとあざやかな青緑に輝きます。
「んっんん」と、顔に手をあて、うめく農夫(のうふ)
 菖蒲は剣から手を(はな)し、さっとゆかにふせます。農夫は寝がえりをうちますが、起きてはいません。
 ところが立てかけた剣はバランスをくずし、すべるように倒れます。菖蒲は目をむいて、とっさに手をのばし———!

 夜風は麦をこすり、窓ガラスにあたってカタカタ鳴らします。
 ぎゅっと目をつぶり、息を止め、くちびるをかみ、ふるえる(うで)をのばして剣を支える菖蒲。
 部屋中に聞こえそうなほど鼓動(こどう)(みゃく)打ち、片目ずつ(ひら)き、そおっと立ちあがり、ベッドをのぞくと農夫(のうふ)は……寝ています。
 菖蒲は肩をなでおろし、ふたたび剣を手に、すり足で扉にちかづきます。
(お願い、どうか起きないで!)
 頭の中で何度そう(とな)えたでしょう。かくれんぼや鬼ごっこ、学習発表会に合唱コンクール。できるかぎり思いうかべても、これほど緊張(きんちょう)したことはありません。
 菖蒲は息のつまる思いで寝室をぬけだしました。

 しんとした戸外は丸い月が空にぷかりとうかび、小麦畑をやさしくてらしています。菖蒲は木の根もとに隠しておいたくつ(・・)くつ下(・・・)を取り、いそいで馬小屋へむかいます。
 干し草のにおいでみたされた馬小屋の奥には美しい白金の毛なみの馬が菖蒲を見つめていました。
「はじめまして、お(じょう)さま」白馬の高く澄んだ声。
 そばにはギロリと目を光らせたキジ三毛ネコもいました。
「ごめんなさい、キジ三毛ネコさん。あなたのほしがっていた契約書は見つからなかったの」
 キジ三毛ネコはぷいっと顔をそむけ、菖蒲はきまりわるそうに白馬にちかづきます。
「はじめまして、白馬さん。あなたに聞きたいことがあります」
「わたくしも、お嬢さまにお話ししなければなりません」
「オレもまぜてもらおうか」背後(はいご)から男の低い声。
 菖蒲の顔からみるみる血の()が引いていきます。おそるおそるふりむくと、寝ているはずの農夫(のうふ)が目の前に立っているではありませんか! 菖蒲は言葉をうしない、青い剣を両腕で強く抱きしめたまま、かたまってしまいます。
 こうして菖蒲の計画はすべて失敗におわりました。

農夫たちの秘密

農夫たちの秘密

 しょうじきに話し、あやまらなければ。
 おびえる菖蒲は剣をわたそうと農夫(のうふ)によろよろちかづきます。
「けっして剣を手から(はな)してはなりません!」
 白馬は菖蒲を制止(せいし)します。
「で、でもわたし、剣をぬすんだから……」
「いいや、あの白い馬の言うとおりに」
 農夫(のうふ)はおだやかに言います。
「わたしはきみが家にいるのを知っていたんだ」
「ど、どういうことですか?」とまどう菖蒲。
 農夫(のうふ)はにこりと笑い、「そこにいるネコがきみをだましたんだよ」。
「だましたにゃんてネコ聞きのわるい!」
「そんな、ひどいわ」菖蒲はまゆをしかめます。
「ごめんよ、お嬢ちゃん」キジ三毛ネコは悲しそうに言います。
 ひとつだけわかりました。ここにいるみんなはすべて知っていましたが、菖蒲はおどらされていたのです。納屋(なや)でじっと待ち、木の上から家にしのびこんで契約書を探し、きゅうくつなベッドの下で恐怖(きょうふ)にふるえ、やっとここまで来たのに。計画をめちゃくちゃにされてばかばかしくなり、菖蒲は(はら)がたってきました。
「なんなのよ、もう!」
「お嬢さま、どうかおゆるしください」白馬は菖蒲をなぐさめるように言います。「すべては闇に気づかれないためなのです。闇はあらゆるものを監視(かんし)しています」
 闇とは()しわらになった王子さまと対峙(たいじ)した黒い影だと白馬は説明します。自由自在にその姿(すがた)を変えるため、つかみどころがなく、(きり)のように世界にたちこめているのです。
「青い剣はお嬢さまの手にある時だけ、とくべつな力で闇から守ります。その証拠(しょうこ)に剣をごらんなさい」
 菖蒲の手にある王子さまの剣は青緑に(かがや)いています。
「わたくしの主人である王子は言いました。「おまえのもとにかならず娘がやってくるだろう。その子に剣をわたしておくれ」と。それがお嬢さま、あなたなのです」
「それなら、はじめから言ってくれればいいのに」菖蒲はほおをふくらませます。
「できればそうしたかった」と、農夫(のうふ)は言います。「でも王子のいう女の子はどこからやって来るのか、どんな顔なのか、まったくわからなかった。それに、わたしたちの味方になるかどうかも知る必要がある。しかも闇に気づかれないようにね。だからいじわるしようとたくらんだわけではないんだ」
「だ、か、らぁ、オレはごうよくにゃ農夫(のうふ)にだまされた、あわれにゃネコってわけ!」キジ三毛ネコは鼻息(はないき)をあらくして言います。「それに肉球(にくきゅう)(いん)の契約書はちゃあんと寝室にあったんだぜ。ポストカード立ての裏に、ね」
「ええっ」菖蒲はあきれたように言いました。
「きみが約束と秘密を守るかどうか試してみたら、わたしたちが思っていたよりもずっとすてきな女の子だったんだ」と、農夫(のうふ)は言います。「それにしても寝室に入った時、だれもいなくてあわてたよ。まさか夜中にベッドの下から出てくるなんて」
「ほんとうに、どうしていいかわからなかったんですもの!」
 菖蒲の顔はまっ()にそまり、みんなくすくす笑います。
 すこしだけ、ほっとした菖蒲は図書館からやってきたこと、本に招待(しょうたい)されて納屋(なや)に落ちてきたことをかくさず話しました。
「なるほど。わたしたちの領域(せかい)のものではないのか」農夫(のうふ)は口ひげに手をあてます。
「お嬢さまには理解しがたいかもしれませんけれど」と、白馬は言います。「わたくしたちの領域(せかい)で約束は力をもっています。重い約束ほど力は強く、約束を守らなければ大きな代償(だいしょう)がともないます。王子の剣の力も約束によるもの」
「そうだったのね。でも、だれの約束なのかしら」
「ちょっと待った」農夫(のうふ)は用心深げにあたりを見まわします。「夜ふけに長居(ながい)危険(きけん)だ。つづきはまた明日にしよう」
 農夫(のうふ)は手まねきをし、みんなちいさく輪になって集まります。
「いいか、よく聞くんだ。これから闇に気づかれないよう、ひと芝居(しばい)うつ。女の子は白馬を助けようとするが農夫(のうふ)に見つかり家につれこまれ、おどしつけ、ここで働く契約を結ばせる、という台本だ。剣をこちらにわたしたらすぐ開演する」
 みんなこくりとうなずきます。
 菖蒲が農夫(のうふ)に青い剣をさしだそうとした時、みんなは菖蒲の前にならびます。
「わたくしの名はアルビレオ。王子につかえる馬です」と、白馬のアルビレオはおじぎします。
「おれのにゃはモルト。山あいの国の王につかえる伝達役(でんたつやく)のネコさ」と、キジ三毛ネコのモルトはおじぎします。
「わたしの名はグレエン。山あいの国の王につかえる風車(ふうしゃ)監視役(かんしやく)です」と、農夫のグレエンはおじぎします。
 みんなの名前を知ると菖蒲の胸はふわっとあたたかくなり、勇気(ゆうき)もわいてきました。
 菖蒲は目をかがやかせ、仲間たちにこう言いました。
「わたしは王子さまに招待(しょうたい)されたアヤメです」

観客のいない芝居

観客のいない芝居

 お芝居(しばい)はじつにみごとなものでした。もし観客(かんきゃく)がいたなら立ちあがり、万雷(ばんらい)拍手(はくしゅ)をおくったにちがいありません。
「どうかおゆるしくださいませ!」
 泣きじゃくる少女役のアヤメ。
「げっへっへ。こーんにゃところにいやしたぜ、だんにゃ」
 うらぎり役のモルト。
「この契約書にサインしろ。さもなきゃ町で売りとばしちまうからな!」
 強欲(ごうよく)農夫(のうふ)役のグレエンはアヤメのうでをつかみ、居間(いま)に引っぱります。
「なんでもいたします、どうかおたすけください、ご主人さまぁ!」
「にゃんでもするとは、いい度胸(どきょう)してやがるぜぇ!」
 迫真(はくしん)演技(えんぎ)にテーブルで顔をあわせると、みんなうつむき、(かた)をふるわせます。闇が監視(かんし)しているといっても気配(けはい)はなく、まるで観客(かんきゃく)のいない劇場(げきじょう)で本番さながら歌いおどるプリマドンナのようだったからです。こんな真夜中に、みんなでいったいなにをしているのでしょう。あまりにもおかしくて笑いをこらえきれません。
 契約書を結ぶ場面までひととおり演じ、農夫(のうふ)はウツボの住むらしい、うわさの寝室(しんしつ)で寝るようアヤメに命令しました。
「いいか! もし逃げたりなんかしたら、ただではすまさんぞ。モルト、こいつを見はってろ!」
 グレエンは寝室から出ていき、菖蒲はしょんぼりベッドにもぐります。毛布(もうふ)とふんわりしたまくらからはモクレンのいいにおいがします。
「ねえモルト、ここはグレエンのベッドでしょ……」
「アヤメ、あいつのことは気にすんにゃ。あしたからはいそがしくにゃる。早く寝ろ」
 そばでぐるりとまるまったモルトは目をつぶります。
「うん……ありがとう」
 探していた本を女王に運ぶアリや下に上がる階段のアリアドネとカメ、底なし部屋に落ちれば魚やわたり鳥に流れ星。()しわらの王子さまのもとにやってきて、お芝居(しばい)までしています。おどろくような物語に興奮(こうふん)しっぱなしの菖蒲は、まだまだ起きていたかったのですが、目を閉じると深い眠りに落ちていきました。

 つぎの朝。やわらかな太陽の光は早く起きてと菖蒲の顔をなでます。大きなあくびをしてからカーテンを引き、窓の()をいっぱいに(ひら)くと、さわやかな風がすうっとふきぬけ、菖蒲の髪はさらさらなびきます。
「やっぱり夢じゃないんだ……なんてセリフ、ぜったいに言わないわ。だって、夢でもそうでなくっとも、すてきなお話しはいつまでも見ていたいもの」
 菖蒲は体を思いきりのばし、青空を雲といっしょに丸ごとすいこみました。
「アヤメ、あいつからの伝言だ。「風呂(ふろ)をわかしておいた。そこに新しい服も置いてある。()がえたら庭にこい」」
 モルトはそう言ってあいさつもせず、外へ走り()ってしまいました。
「そっか、おしば……」菖蒲はすぐ口に手をあてます。
 ラベンダーの(かお)るサニタリールームは花がらのトルコタイルでいろどられ、(しん)ちゅう蛇口(じゃぐち)のついた洗面台(せんめんだい)と奥のバスルームには白くてなめらかな卵型(たまごがた)のバスタブが見えます。
「まあ、なんてすてきなのかしら」菖蒲は声をあげ、すぐに服をぬぎ、色とりどりの花をうかべた湯につかります。「ああ、ジャスミンのいいにおい。人生最高のお風呂(ふろ)ね」
 おりかさなるふわふわのタオルを広げ、ぬれた体をふいて服を着がえ、軽やかな足どりで庭にむかいました。
 庭の()(つじ)のちょうどまんなかに立つガゼボでグレエンとモルトは待っていました。ダマスク()りのテーブルリネンがしかれた丸テーブルには焼きたてのパンと野菜スープ、プレートにはオムレツとサラダ、ピンクのティーポットまでならべてあります。
 つばの広い白いぼうしをかぶり、レースのワンピースの菖蒲はくるりとまわり、グレエンはやさしい農夫(のうふ)の顔になります。
「服ぴったりでよかった。ぼうしはすこし大きいかな」
 モルトは大きなせきばらいをします。
 グレエンはすっと立ちあがり、菖蒲のイスを引きます。
「ありがと……」
 グレエンは大きなせきばらいをします。
 モルトは笑いながら、「ふたりともダメだにゃあ。芝居(しばい)をわすれ……」
 菖蒲とグレエンは大きなせきばらいをしました。
「アヤメにはこの庭の手入れをしてもらう」
 おいしい朝食とお茶をしかめっつらで楽しんでいると、グレエンは言いました。
「わたしにできるかしら」
「もちろんできるさ。リリィのだいじにしていた庭だからね」
 そう言ってグレエンは庭の草花について話し、菖蒲は図書館で草花の図鑑(ずかん)やガーデニングの本を思いだしながら聞いていました。
「ご主人さま、むこうの畑はなにもしないのですか?」
 菖蒲は遠く納屋(なや)のまわりに広がる小麦畑を見て言います。
「ああ、あそこは……うん、気にしなくていい」
「そうですか」
 すぐにも収穫(しゅうかく)できそうな、たわわにみのる小麦を気にしなくていいだなんて。菖蒲はすこしふしぎに思いました。
「それよりアヤメ! はやくメシ食べて庭いじりしよう! チョウチョ追いかけて穴ほりするんだ」
「ねえお仕事なのよ、モルト」
「そうさ、ネコの仕事はいつものんびりいそがしいもんなんだ」モルトは自信たっぷりに言いました。
 夕食後、農夫(のうふ)は白馬が脱走(だっそう)していないか、馬小屋の見まわりをするよう菖蒲に命令します。農具(のうぐ)にまぎれた青い剣をさりげなく手に持つとみんな集まり、馬小屋会議の始まりです。
「むかし、ひとつの大きな国がありました」と、アルビレオは語ります。「それは領域(せかい)()べるほど強大な王国で、王の支配により雲にまでとどくほど高い建物が林立(りんりつ)し、たくさんの人を速く運ぶ乗り物、どこでも話せるべんりな機械など、生活を豊かにする技術はまたたくまに進歩をとげました。ただ不信という種もまきました。ちいさな疑いは根を広げ、やがてゆがんだ芽をだします。それぞれ正しいと思う話に花が咲き、たくさんの正義の実を生みました。すると都市には城壁が、家には何重ものカギがかけられるようになりました」
「そのような時、わたしたちの祖先(そせん)はある秘密を知り、だれも知らない山あいにうつり住むようになりました」と、グレエンは言います。
「ある秘密とはなんですか?」
「王国の繁栄(はんえい)には裏がありました。領域(せかい)()べる王は闇、つまり影と手をくんでいたのです。しかし長くはつづかなかった」
「たったひとつの(うそ)から平和はうしなわれ、領域(せかい)全土(ぜんど)荒廃(こうはい)をもたらす大きな戦争がおきました。この領域(せかい)栄枯盛衰(えいこせいすい)の歴史です」と、アルビレオは言います。
「オレの国もその戦争でなくなったんだ」モルトは悲しげに言いました。「約束が力をもったのはそれからさ」
 菖蒲はモルトを(かか)えあげてほおをよせ、『()しわらになった王子さま』の話しをみんなに聞かせました。
「なるほど、そんなことが……」グレエンはすこし考え、言います。「わたしが風車(ふうしゃ)の地下に行った時は、倉庫に赤い指輪(ゆびわ)をかけたわら(たば)と青い剣しかなかった」
「でも王子さまを置いてきたのは、たしかにお城の王座よ」と、菖蒲は言います。
「おそらく」グレエンはあごに手をあてます。「王子がわらになったのはアヤメさま、あなたと関係あるのかもしれません」
「会ったことも、話したこともないのに?」菖蒲はおどろきます。
「きのう、約束の力について話しましたね」と、アルビレオは言います。「青い剣はアヤメさまが手にするととくべつな力を発揮(はっき)しました。つまり、王子はアヤメさまをまじえた大きな約束をだれかとしたのではないでしょうか。それでわらとなった」
「そっか」と、モルトはあいづちを打ちます。「だからアヤメさまだけオレたちの行けない王の()に行ける、というわけか」
「わたし、王子さまをもどす方法なんて知らないわ」菖蒲はうつむきます。「それに王子さまはなぜわたしを知っていたのかしら」
「知らないといえば、ひとつ気になるんだ」グレエンはモルトを見て言います。「王子の友人でヘレム(・・・)なんて名の子ども、山あいの国にいたか?」

興廃の丘

興廃の丘

 最初の馬小屋会議から数ヶ月が過ぎた朝。
 ひだつきのエプロンドレス姿の菖蒲は、ブリキじょうろを手につるバラのアーチをくぐり、庭のアガパンサスにあいさつをします。
 ひとつひとつ名前をつけたパンジーに水をやり、ガゼボのそばでさわやかに香るお気にいりのギンバイカとおどり、ペパーミントをつんでハーブティーにします。食事の準備に家のおそうじ、服の洗たくまで大いそがしです。
 観客のいない芝居(しばい)好評(こうひょう)上演中で、菖蒲はものわかりのよい(めし)使いとして主人からとても信頼(しんらい)され、モルトやアルビレオと仲よしになります。
 馬小屋会議は週に一度、日曜日の夜に(ひら)かれました。しかし王子さまをもどす方法がわからず、闇を打ちやぶるための作戦を立てられないため会議は平行線のままです。
 あれから菖蒲は風車(ふうしゃ)にいきませんでした。闇に気づかれるかもしれませんし、グレエンのそばがいちばん安全だと考えたからです。いっぽう風車(ふうしゃ)は大きな時計がチックタクと時をきざむように、風のない日も仕事を休まずまわりつづけていました。
 家事(かじ)()えた菖蒲はアフタヌーン・ティーにみんなを()ぶため、畑へむかいます。
「ご主人さま、お茶の時間です」
 グレエンとモルトは城塞(じょうさい)見張(みは)りをする戦士のようにするどい顔で目をこらし、空に流れる雲を見つめていました。
「お天気、かわりそうですか?」菖蒲も(ひたい)に手をあて空をあおぎます。
「よし!」グレエンはパチンパチンと大きく手をたたき、「いつもよくはたらくアヤメへのごほうびに、日曜日はとっておきのピクニックにでかけよう」。
「まあ、とっておき! なんてすてきな言葉なの!」菖蒲はうれしそうにはしゃぎます。
 闇に(おそ)われるかもしれないと菖蒲は家のまわりしか自由に歩けませんでした。でもほんとうは小麦畑のむこうがどうなっているのか、知りたいと思っていました。

 ピクニック前日の夜。あまりのわくわくに菖蒲の目はぱっちり(ひら)いて、まっ暗な天じょうをいつまでもうつしていました。
「ねえ知ってる? たのしみはたのしみにしている時がいちばんたのしいのよ、アヤメ」
 もうひとりのアヤメは寝てしまったのでしょうか、部屋は静まり、そばで丸まっているモルトのかすかな寝息(ねいき)まで聞こえそうです。青白い月明かりはレースのカーテンをぬけてゆかに窓の陰影(いんえい)をぼんやりえがき、ときおりゆらゆらとすきま風にゆられ、光と影がワルツをおどっているようでした。
 菖蒲は頭を起こして過ぎてしまった今日を思いめぐらしていると、コツンコツン。だれか窓をたたいたのか、それとも小石でもあたったのでしょうか。菖蒲はモルトを起こさないようにそっとベッドから(はな)れ、そばにかけたカーディガンをはおり、()()けて外をのぞきます。夜空をくりぬく、まん丸の月に()らされた庭はすやすや眠っていました。
「気のせい、だったのかしら」
 菖蒲が家にもどろうとすると、ガゼボのむこうから影絵(かげえ)がひょっこりあらわれます。
「こんばんは、わたしはアヤメ。あなたはだれ?」
 目の前に立っていたのは、こいむらさき色の長い(かみ)、左右の(ひとみ)に一点の星が(かがや)く美しい顔立ちの少年のかたちをした影でした。
 少年の影は菖蒲など気にせず、地面の土にえがいた丸をぴょんぴょん飛んでいました。
「けーんけーん、ぱっ」菖蒲は声をだして少年のあとにつづきます。
「ねえ、これだけじゃかんたんすぎよ。わたしがもっとむずかしくしてあげる」そう言うと(ぼう)きれで丸をいくつかかきたします。
 少年は菖蒲の作った丸を器用(きよう)にこなし、こんどは少年が丸をふやします。(だま)ってけんけんぱを交互(こうご)にくり返し、ついにバランスをくずした菖蒲はつまずいてしまいます。
「あーあ、わたしの負け。あなたと遊べて楽しかった。おやすみなさい」
 そう言って菖蒲は少年に手をふります。
「わたしの名はイシュ。父を待っている」
 悲しみをまとう、はかなく()んだ声に菖蒲は思わずふり返ると、そこにはだれもいませんでした。

 とっておきの日は青空で風もおだやかです。花がらチュニックにカプリパンツ姿で庭の仕事をいつもより早めにすませます。そでなしの白いワンピースに()がえてから大きなバスケットを持ち、菖蒲とグレエンとモルト、それにアルビレオも連れてピクニックに出発です。
 小麦畑のあいだにのびる小径(しょうけい)を進むと風車(ふうしゃ)は遠くに消え、整然(せいぜん)とならぶ黄緑色のポプラ並木(なみき)が見えてきました。並木道にそってしばらく歩き、てらてら(かがや)く小川にぶつかり、グレエンは対岸(たいがん)雑木林(ぞうきばやし)をさしたので、菖蒲はくつをぬぎ、足を水につけます。目のさめるほどひんやり冷たく、「ひゃっ」と声をあげ、あわてて対岸へわたります。美しいシラカンバ林の()もれ()はモザイクのようにしめった土をてらし、うっすら蒸気(じょうき)をあげていました。
 プチプチプチ、ポキポキポキ、パリパリパリ。地面に落ちる木の実や枝や葉を足でふみつける音は、ここちよいリズムで、すっかり気分のよくなった菖蒲は歌を歌いはじめました。

  きまま きまま ネコはいつもきまま
  きまま きまま カゼはいつもきまま
  きまま きまま ソラはいつもきまま
  きまま きまま クサはいつもきまま

「なんだその歌?」グレエンは首をかしげます。
「おれのつくった歌さ。気ままにゃものをにゃんでも歌うんだ」
 モルトは偉大(いだい)な作曲家のように言います。
「庭で水やりをしていると、モルトはいっつも歌うから、おぼえちゃったのよ」
「つまらない歌詞だなぁ」と、グレエンはあきれます。
「だからいいのさ、グレエン。かこくにゃ労働(ろうどう)には、にゃんでもない歌を歌えば気がまぎれる」
「モルト、おまえは菖蒲のそばにいるだけじゃないか」
「それはちがうぞグレエン。オレはアヤメが逃げないよう目をひからせているのさ」
「ずいぶんのんきなもんだ。アヤメは逃げないだろうし、明日からオレのそばで仕事するかい、モルトくん?」
「ご主人さま、それはそれはなんてすばらしい案なのでしょう! そうしていただければ、わたくしはモルトのへんな歌になやまされずにすみますわ」菖蒲はいたずらっぽく言います。
「きまま きまま ネコはきまま!」
 モルトは歌いながら先頭(せんとう)に走り、わざとらしくしっぽをふります。
「まあ! 知らんぷりして!」と、菖蒲は大笑います。
 こんなに楽しそうにして、闇の監視(かんし)を忘れたのでしょうか。いいえ、じつはこれも芝居(しばい)で、農家の休日というひとつの場面を演じていたのです。
 シラカンバの林をぬけた先には、おだやかな風のふく、青々とした草原がどこまでも広がっていました。
「ここがとっておきの場所、興廃(こうはい)の丘だ」
「なぜ興廃(こうはい)なんですか?」菖蒲はグレエンに聞きます。
「ここはむかし、高い城壁(じょうへき)にかこまれた都市だったが、大きな戦争によりほろびた。いまはアリ一匹住めないほどけがれた土だけがのこっている」
「こんな美しい丘で争いなんて信じられない……」
 菖蒲はまゆをよせ、なびく(かみ)に手をあてます。
(つま)のリリィはここで闇にのみこまれた」グレエンは言いました。「あの日、こうしてふたりで丘をながめていたんだ。とつぜん、空から黒い大蛇(だいじゃ)(おそ)われ、リリィの手をつかみ逃げようとしたが、彼女(かのじょ)はわたしの手をふりほどき、大蛇(だいじゃ)に立ちむかっていった。きっとリリィは覚悟(かくご)していたのだろう」
——リリィ。菖蒲はすぐにわかりました。寝室(しんしつ)のポストカード立ての女です。
「すべての秘密を今晩(こんばん)、最後の馬小屋会議でつたえよう」
 グレエンからの終幕(しゅうまく)の予告に、菖蒲はなにもこたえられませんでした。
「おーい、おふたりさん!」遠くでモルトが呼びかけます。「ぼけっとしてにゃいで、はやくランチにしよう!」 
 グレエンはうつむく菖蒲の顔をのぞき、にっこり笑い、軽々と(かた)にのせて走ります。
 みんなでピクニックシートを広げ、バスケットからグラスとお皿を取りだせばランチタイムのはじまりです。グレエンは野菜のサンドイッチをおいしそうにいくつも食べました。
 菖蒲謹製(きんせい)サンドイッチは食パンから手作りです。粉やイーストをまぜあわせてぬるま湯をいれ、まとまったならバターをもみこみ生地をこねます。発酵(はっこう)させて生地をくるくる丸め、四角(しかく)(かた)でもう一度寝かせ、石窯(いしがま)で焼きます。なんどやってもうまくふくらまず、カチカチの石っころパンも、ふっくらと焼きあげられるようになりました。庭でとれたきゅうりやトマト、ふわふわスクランブルエッグをパンにはさみます。もちろんバターにマヨネーズソース、マスタードも忘れずに。
 グレエンやモルト、アルビレオだって菖蒲の料理をいつもほめますし、失敗したならみんなで大笑いしました。菖蒲はうれしくて、もっともっとおいしい食事を作ります。
 ジャガイモのグラタンにデザートのフルーツまでおなかいっぱい食べたあとは乗馬です。アルビレオに乗れるのは主人である王子さまだけですが、とくべつにゆるしてくれました。
グレエンは菖蒲をアルビレオの()にのせます。まるでソファのようにふかふかな乗りごこちで、かけだすとまわりの景色はひゅっとうしろに流れ、あっというまにグレエンは遠くにいます。
「アルビレオには見えない翼があるのね。だってふんわりういているみたいなんですもの」
「わたくしの祖先(そせん)は天をかけていたと聞きます」と、アルビレオは言います。「でもほかの馬でおなじようにしてはなりませんよ。かならず痛い思いをしますから」
 シロツメクサのかんむりをグレエンの頭にのせて王さまごっこもしました。お城のくらしにたいくつなアヤメ姫を白馬アルビレオにまたがる騎士(きし)グレエンが大冒険につれだすお話しです。
「ちょっとまて!」モルトは不機嫌(ふきげん)そうに言います。「にゃんでオレは従者(じゅうしゃ)役にゃんだよ!」
「にゃんにゃんって。従者のモルトはネコみたい」
「オレはずっとネコだ!」
 みんなピクニックがいつまでもずっとずっと続けばいいのに、と思いました。でも、わかれはむかえるのではなく、やってくるものだと、その夜に知ることになりました。

王子さまの約束

王子さまの約束

 菖蒲はこの領域(せかい)でふたつの悲しい夢を見ました。ひとつめは、興廃(こうはい)の丘へピクニックにでかけた日の夜です。
 一本のリンゴの木がみるみるうちにしおれ、菖蒲は()れないよう懸命(けんめい)に水をやりますが、うまくいきません。リンゴの木にお願いしても、()いてやっても、なでてもうまくいかず、苦しむリンゴの木をただながめるしかできませんでした。
 ついにリンゴの木は倒れて(ちり)となり、天から低い声が聞こえてきます。
(むすめ)よ。どんなに()うても、おまえは一本のリンゴの木ですら、救うことはできない」
 菖蒲は目をさまし、ぼんやり天じょうを見つめます。
「わたしのもとに来て」
————王子さまがわたしを呼んでいる。
 菖蒲はベッドからすべりおり、()がえて家を飛びだします。
「ここは……どこなの?」
 闇におおわれた空には赤黒くそまる巨大な(へび)がうねり、そこかしこに聞こえる断末魔(だんまつま)のさけびや慟哭(どうこく)、ときの声は菖蒲の耳奥をかきまぜます。まるでおぞましい戦争の渦中(かちゅう)にほうりだされたように土ぼこりをまいあげ、地面をゆらす軍隊(ぐんたい)の足音に火薬と鉄、じっとりした血の臭気(しゅうき)は鼻にまとわりつき、菖蒲は体を()り、()きけをもよおして口をおさえます。
 ギロリとにらみつけられるような強い視線を感じた瞬間(しゅんかん)、思わず顔をあげると眼前(がんぜん)には大蛇(だいじゃ)が今にもおそいかかろうと口をいっぱいに広げています。あまりの恐怖(きょうふ)に逃げなければと気はあせるも、両足はガタガタふるえ、体もまったくいうことを聞きません。
 するどいきばの先たんから鮮血(せんけつ)をしたたらせ、口の奥から青白い手のようにわかれた舌がのびて菖蒲の首をしめあげ、ずんずんせまります。
 もだえる菖蒲は全身を緊張(きんちょう)させ、目をギュッとつむったその時、小麦畑の方角(ほうがく)から青い閃光(せんこう)が一直線に大蛇の赤い眼をさし通し、菖蒲をつつみます。
「走れ! 走れ!」身をよじる大蛇のむこうに立つ戦士はさけびます。
「グレエン!」
 大蛇にふり落とされた菖蒲は、グレエンの持つ青く光る剣がさす風車(ふうしゃ)目がけ、夜陰(やいん)()って一心不乱に走ります。
 命からがら風車(ふうしゃ)に飛びこみ扉を閉めると()にしてよりかかります。息をあげ、ひたいから流れるつめたい(あせ)をぬぐい、悪夢から遠ざかるようによろよろと奥の階段へちかづきます。
「アヤメさま」
 菖蒲はおどろいて(かた)をびくりとさせ、声のするほうに体をひねります。
「モルト!」菖蒲は涙をポロポロこぼし、「グレエンが……グレエンが! どうしよう!」
「アヤメさま、どうかおちついて。グレエンには王子の剣があります。それよりこれを」
 モルトはガーネットのような赤い指輪(ゆびわ)のついた金の首かざりをくわえていました。
「王子さまの指輪……なぜわたしに?」菖蒲は目をぬぐい、たずねました。
「時はつきました。闇は山あいの国を、いいえ、この領域(せかい)を、そしてアヤメさまを消そうとしています」
「でも、わたしたち気づかれないよう芝居(しばい)を!」
 モルトは首を横にふります。
「あれは時間かせぎほどのまやかし。すでに闇はアヤメさまに気づいています。ここにいればめちゃくちゃにされるでしょう。あの闇は冷酷無比(れいこくむひ)です」
「そんな……」
「よくお聞きください。オレたちはアヤメさまにすべてをたくします。お願いです、王子をどうか、どうかもとの姿にもどしてください。そうすれば闇を打ちやぶることができるはず。これはグレエンからの伝言です。「赤い指輪はきっとアヤメさまの役に立つでしょう。ただしお気をつけください。指輪の力と引きかえに、たいせつな思い出を忘れさせる【忘失(ぼうしつ)の約束】を守らなければなりません」」
 菖蒲は首かざりを身につけてモルトをかかえあげます。
「オレはこれから王にすべてをつたえるため、山あいの国にもどります。でも生きて帰れるかどうか」
 モルトの毛は(さか)立ち、わなわなふるえています。
「わたしの大好きなキジ三毛ネコのモルト、あなたと約束する。王子さまをもとの姿にもどして帰ってくると。それまでぶじでありますように」
 菖蒲はモルトとひたいを合わせ、目を閉じ、ふっと息をふきかけます。するとこわばる体はゆるみ、いつものおだやかなモルトにもどりました。
「アヤメさま、感謝します。オレたちは闇をおそれ不安でした。でもアヤメさまとのきらきら輝く生活は、すべて忘れるほど楽しい日々でした。アヤメさまはオレたちのきらめく星、雲のあいだからふりそそぐ太陽です。オレも約束します。アヤメさまを信じて待つ、と」
 モルトは菖蒲の手からするりとぬけて、外の闇に走りさりました。モルトを見送った菖蒲はいそいで地下にある王の()にむかいます。
「大きな蛇がわたしを食べようとした時、グレエンの手にある青い剣はアヤメ、あなたを守ったわ」
「そうよ」と、菖蒲はアヤメに言います。「だからやっぱり王子さまの約束にわたしが関係している」
 王の間は王子さまをもどしたあの日からピタリと時間が止まっているようでした。菖蒲は王座につづく石階段をのぼり、灯りに照らされる王子さまを抱きしめます。
「わたしの名はアヤメ。あなたとあなたの友だちをたすけたいの。あの約束をおしえて」
 菖蒲の首にある赤い宝石の指輪は輝きはじめ、強い光にみたされます。燭台(しょくだい)の炎はゆらゆらゆれ、王座にすわる黒く燃える影と、青い剣をかまえた小麦色の髪の少年が見えました。
——————
「むかし、おまえの国は(ワレ)とひとつの契約(けいやく)を結んだ。それは国の安寧(あんねい)と引きかえに王の子ひとり国から
追いだすこと。しかし追放(ついほう)する子になにもつたえてはならない。また子は自発的に国をでなければならない。干しわらの王子、おまえのことだ」
「そう、そのためわたしはここにきた」燃える影に王子さまは不敵(ふてき)()みをうかべて言います。「きさまを打ちやぶるために。真実をつたえられずとも大義(たいぎ)はなせる。忘れたか、世を()べる王よ」
「なんだと」
「よく聞け! わたしはおまえとひとつの約束をする。わらとなり、かわききったわたしのくちびるを、この領域(せかい)のものではない少女が扉のない中庭にある井戸の水によってうるおす。その時、青き剣はきさまを打ちやぶる力をえる」
「はっはっはっは!」燃える影は身をのりだし、「ついに気がふれたな。その女はどうして干しわらのおまえがヒトだと、まして王子とわかるのだ。かりに知ったとて、なぜおまえのためにありもしない庭の井戸とやらの水をあたえるというのだ」。
「不可能だからこそ、この約束には大きな力がある」王子さまは王座のそばに立つ菖蒲をじっと見て、目をほそめます。「どうした、(うたが)いにのまれ、信じるのをやめた臆病(おくびょう)な王よ、おびえたか?」
「なんたる侮蔑(ぶべつ)追放(ついほう)されたガキめが!」影は黒い炎をゴオゴオ燃やし、王子さまを食いつくさんばかりです。「よかろう! 挑発(ちょうはつ)にのった。しかし約束が()たされぬその刹那(せつな)、その女もろともこの領域(せかい)すべて()ぼしたやしてくれるわ。さあ今すぐわらとなれ!」
——————
 王の()はふたたび眠りについたようにうす暗く、指輪はもとの赤色にもどっていました。
「あなたの物語にわたしが、わたしがいたわ!」
 おどろく菖蒲の背後(はいご)で扉はきしんだ音を立てて開きます。
 おりてきた階段がこんどは下へとつづく階段になっているではありませんか!
 不自然な本の空白、図書館の窓から見えた扉のない中庭、そして王子さまの約束。それぞれパズルのピースはつながりました。
 菖蒲は王の()をあとに階段をおりていきます。
 こうして、()しわらになった王子さまを助けるための長い長い旅は始まりました。

通路の消失点

通路の消失点

 まっ白な壁の通路は、あまりの長さに先が見えません。まるで(ちゅう)()いているような白い窓が等間隔(とうかんかく)にならび、ガラスはなく、のぞいても外に広がるのは白でした。
 しばらく歩いていると、おりてきた階段はだんだん遠くなり、やがて周囲(しゅうい)の白とまじりあい、消えてしまいます。
「どこまでつづくのかしら」
 ()わりのない通路の消失点は黒いつぶのようでこちらにむかっていつまでも大きくなることはありません。菖蒲は目をこらし消失点を見つめていると気分(きぶん)がわるくなり顔を右にそむけます。
 すると窓の下にちいさな文字が書かれていましたので、かがんで読みました。

 ミエルモノガサキデワナイ
   ケレドモミエナクバサキニワユケナイ

 菖蒲は目をゴシゴシこすり、右目だけで消失点を見ると左側に点があります。こんどは左目だけを見ると右側に点があるのです。両目で見れば点は左右にひとつずつ、ゆっくりまん中によってかさなりました。それから通路の消失点を手でふさぎます。
「見えるものが先ではない。けれども見えなくば先にはゆけぬぞ、アヤメ」
 菖蒲は物知(ものし)り老人のつもりでふらふら歩きます。
 ゴチン! 通路にひびくにぶい音。
「いったああい。もう!」頭のまわりに星がチカチカまたたきます。
 ずきずきするおでこをおさえ、うらめしそうに顔をあげると木製(もくせい)の扉がありました。
「『前方注意(ぜんぽうちゅうい)』をそえてほしいわね。まったく!」
 菖蒲は通路にもんくを言い、扉を()けて(はい)りました。

雨にぬれる教室

雨にぬれる教室

 窓の外は雨でした。
 コンクリートのしめったにおいがする通路にはいくつかの部屋とそれぞれ上方に数字のない室名札がつき出ています。
 まるでどこか知らない小学校に迷いこんだようで、ちょっぴりドキドキした菖蒲はてきとうに(ひら)いたクリーム色の引き戸からそっと顔をだして部屋をのぞきます。
「だれもいないわねアヤメ。おやすみかそれとも廃校(はいこう)だったりして」
 菖蒲はぶるぶるっと肩をふるわせ、となりまたとなりと順番に教室をのぞき、水たまりのある部屋で足を止めました。
 スチール丸パイプのフレームに木製の座面(ざめん)、背もたれ、天板(てんばん)のついたつくえとイスは六列五段に整然(せいぜん)とならび、制服(せいふく)()た男子や女子の大きなビスク・ドール生徒たちがカサを広げてすわっていました。教室の天じょうはぬけ落ちたようにまるでなく、部屋全体が雨にぬれ、ジメジメした(いん)うつなようすに菖蒲の気分(きぶん)も暗くなります。
 すると、ヒタヒタろうかを歩く足音がこちらにちかづきます。
「お、おばけ!」あとずさりする菖蒲。
「ほっほう、おばけとはしっけいな。きみは転校生かね?」
 グレーチェックのスリーピースに濃紫色のネクタイをつけたフクロウは、黒いこうもりカサを手に(かた)をそびやかし菖蒲のまえにあらわれました。
「こんにちは」菖蒲はホッとして言います。「わたしは転校生ではありません、フクロウさん」
「ほっほう、きみ、わたしのことはセンセイと呼びたまえ。それに転校生でなければ、なぜここにいるのかね。さては新しい学校がいやでウソをついているのではあるまい」
「あの、わたしは……」
「ほっほう、すぐに教室に(はい)りたまえ」
 フクロウ先生はうろたえる菖蒲を雨の教室につれていきます。
「ほっほう、ところできみ、カサはあるのかね?」
「いいえ、先生。教室にカサは必要ありませんもの」
「ホッホー! 横着(おうちゃく)な生徒め。社会にムダはない。つねに備えをせよ!」
 フクロウ先生は半分閉じた目で持っていたカサを菖蒲に()し、おりたたみカサを広げました。
「ありがとうございます」
「ほっほう、時間はない。いそいで黒板のまえに」
 バケツの水をこぼしたような(ゆか)はつるつるすべり、菖蒲は手足をじたばた、(こし)をふりふり、なんとか教だんにたどりつきます。
「ほっほう、生徒諸君(せいとしょくん)。このクラスに転校してきた生徒である」
 フクロウ先生は(たん)々と早口でビスク・ドール生徒に言います。
「きみ、いそいで自己紹介(じこしょうかい)を」
「こんにちは。わたしはアヤメです。よろしくおねがいします」
 もちろん教室内のビスク・ドール生徒はビスク・ドールなので、だれも返事をしません。
「ほっほう。いそいで席は窓ぎわ、前から三番目へ」と、フクロウ先生は席をさします。「ほかのつくえにけっしてふれぬように! 席のずれは社会のみだれ!」
 菖蒲はじたばたと席にむかい、びしょぬれのイスに(こし)かけます。
「ああ、これまでの学校生活で最低な日がたった今、更新(こうしん)されたわ」
「ほっほう、さて生徒諸君、()に人生はふりやまぬ雨のようである。そのため教養(きょうよう)をもってたちむかいまた……」
 ザーザー、パチンパチン。フクロウ先生のたいくつな授業(じゅぎょう)は、たえまなくふる雨音でほとんど聞こえず、服もしめり、菖蒲のがまんはついに限界(げんかい)をこえます。
「フクロウセンセイ!」菖蒲は手をあげ起立(きりつ)します。「なんにも聞こえません。となりの教室に移動できませんか?」
 フクロウ先生は菖蒲をにらみつけて言いました。
「ほっほう。わたしはきみに意見をもとめていないし、立つよう指示(しじ)もしていないのだが」
「でも!」
「ほっほう、わたしは『でも』という言いわけがましい逆説(ぎゃくせつ)接続詞(せつぞくし)がもっともきらいな言葉なのだ。わかるかね?」
「で……先生の声が聞こえなければ、だれも授業(じゅぎょう)についていけません」
「ほっほう。生徒諸君はどう思うかね?」
 ビスク・ドール生徒たちはなにも言わず、まるで雨音がヒソヒソばなしをしているようです。
「ほっほう、みな異論(いろん)はないようだ」
「そんなのむちゃくちゃよ。だってしゃべれないもの」
「ほっほう。アヤメくんは、はなはだ社会ルールをわかっていないようだ」フクロウ先生はあざけるような目で菖蒲を見ます。「まぎれもない事実(じじつ)として、雨のふる教室ではみながカサをもち、授業を受ける。先生はわたしで、きみは生徒だ。わたしはきみに発言するようにも、立つよう指示してもいない。さらにきみのほか、どの生徒も不満はない。ゆえにこれは社会通念(しゃかいつうねん)である。それにもかかわらず、わたしの授業をぼうがいし、風紀(ふうき)をみだす。この不良生徒め!」
「まあ! しつれいね!」菖蒲は声をあらげます。
「ホッホー、聞いたかね生徒諸君!」フクロウ先生は生徒たちにむけ、いかにも大げさに身ぶり手ぶりをしながら熱をこめ、大声でまくしたてます。「ホッホー、こういう無作法(ぶさほう)な不良生徒が社会において法と秩序(ちつじょ)をおびやかし善悪(ぜんあく)他者(たしゃ)強制(きょうせい)しかつ大通りを占拠(せんきょ)して示威(じい)行為(こうい)をし燃えさかる火にまきをくべるがごとく主観的(しゅかんてき)批判(ひはん)大仰(おおぎょう)にくりかえすホッホーらもこのようなホッホーにはじゅうぶん気をつけたまえホッホッホッホー!」
 菖蒲はまゆをしかめ、ほおをふくらませてイスにすわろうとします。
「ホッホー、これからは指示(しじ)にそむかぬように! わかったのなら返事だけをしてすわりたまえ、不良生徒のア、ヤ、メ、くん」
「……はい」
「ほっほう、よろしい。この機会(きかい)に社会通念がいかに至要(しよう)たるものか、諸君(しょくん)らにおしえたいと思う。それをつぎのホッホーで話そう。では休けいとする」
 フクロウ先生は勝ちほこったように教室を出ていきました。
 ベーっと(した)をだした菖蒲はとなりのビスク・ドール女子に耳打ちします。
「ねえ、ひどいと思わない? なんにも聞かないでホッホーホッホーって」
 チュンチュン、コツコツ。
 ビスク・ドール女子から鳴き声とつつく音がします。雨があたっているのでしょうか。そうではないようです。ビスク・ドール女子に耳をあてると中からわずかに音が聞こえるからです。
 菖蒲はカサをさすビスク・ドール女子をゆすります。チュンチュン、コツコツ、チュンチュン、コツコツ。重たいビスク・ドール女子をぐいぐい動かし、さぐっていると……ガシャリン! こなごなにくだけちったビスク・ドール女子の悲鳴(ひめい)が教室中にひびきます。
「きゃあ! フウロウセンセイに見つかったらどうしよう!」
 菖蒲はあわててバラバラのビスク・ドール女子にちかづきます。
「ちゅんちゅん」小鳥がひょっこり出てきて言いました。「たすけてくれてありがちゅん」
「あなたは、スズメさん?」
雨宿(あまやど)りのつもりが、とつぜん閉じこめられてしまってね。暗いし、遠くでぶきみなさえずりは聞こえるし、ほんとこわかっちゅん」と、スズメは言います。
「はじめまして、わたしはアヤメよ。もしかしてほかにもスズメさんはいるのかしら」
 それでこんどは前のビスク・ドール男子をこわしてみます。
「ちゅんちゅん、たすけてくれてありがちゅん。雨宿りのつもりが……」
 菖蒲は最初のスズメと目をあわせ、うなずきます。うしろのビスク・ドール女子も、そのまたうしろも、ビスク・ドールをわるとスズメが一羽ずつ出てきました。それでカサをほおり投げ、教室中のビスク・ドール生徒をこわします。いやみったらしいフクロウ先生の顔を思いうかべ、投げたりけったりふんづけたり。ぜんぶで二十九羽のスズメたちは教だんに集まりました。
「さて、これからどうしよう」菖蒲はスズメたちにたずねます。
「ちゅんちゅん、雨がふっているからぼくたちは飛べないちゅん。どこか晴れている空はないかな」
 このままではフクロウ先生がスズメたちを閉じこめてしまうでしょう。なにかよい方法はないものか、菖蒲は教だんを探してみると引きだしに新品の十二色チョークの入った木箱を見つけました。
「これだわ!」
 菖蒲は王子さまの首かざりから指輪をはずして右手の中指にはめると赤い宝石は炎のように燃えてかがやきます。
「きまま、きまま、ネコはいっつもきまま」
 モルトの歌を口ずさみ、新品のチョークで黒板に緑色の草やシロツメクサに青い空、白い雲、遠くには雑木林を描きました。みんなでピクニックにでかけた興廃(こうはい)の丘の絵です。
「これはわたしのたいせつな思い出の場所なの。あなたたちにぴったりな青空があるわ」
 菖蒲は先生のようにスズメたちに興廃(こうはい)の丘についておしえてあげます。
「……そういうわけで、あなたたちがのぞむなら、黒板にむかって羽ばたいてみましょう」
 アヤメ先生のすてきな授業にスズメ生徒たちはすっかり感心して拍手(はくしゅ)喝采(かっさい)です。
「ちゅんちゅん、あそこなら自由に飛んだり、あの林に家をつくったりできちゅんね」
「そうだちゅん」
「よし、きめちゅん」
「アヤメセンセイ、おしえてくれてありがちゅん!」
「うれしいわ。あなたたちにお願いがあるの。おなじように空を飛びたい鳥たちを見かけたら仲間にむかえてほしい。それとキジ三毛のネコと白い馬と大男の農夫(のうふ)にアヤメは元気だとつたえてもらえる?」
「もちろん。約束しまちゅん!」
 スズメたちは声をそろえてこたえ、黒板の絵にむかって元気よく飛びだします。アヤメ先生は手をふり、生徒たちの卒業を見とどけてから指輪をはずし、首かざりにもどします。そして学校と友だちを忘れてしまいました。
「ホッホー!」顔をまっ()にしたフクロウ先生は、くちばしをふるわせて言います。「なんてことをしてくれたのだ!」
「フクロウセンセイ。生徒はみんな巣立っていきました」菖蒲は笑顔で言います。
「ホッホー、きみはわたしをバカにしとるのかね」
「いいえ、かわいいスズメたちがぶじに大空へ飛び立ててよかった」
「ホッホー。無責任な自由のどこがよいのか。もし捕食者にでもねらわれたらどうするのかね! もし他者を傷つけでもしたらどう責任(せきにん)をとるつもりなのだ。きみは仮定もせず結論をみちびくつもりか!」
「生徒たちを信じればいいのよ、フクロウセンセイ。スズメたちは青空をもとめ、(つばさ)をもっています。わたしにはないすてきな個性だから、それをいかせる場所をおしえてあげただけ」
「ホッホー、詭弁(きべん)だな」フクロウ先生は()()てるように言います。
「あら、そうかしら。フクロウセンセイもほんとうはそうしたいんでしょ?」
「ホッホー、なにをバカな」首をくるくるまわすフクロウ先生。
「だって番号のない教室とか新品の十二色チョークとかスーツとか、どこかで聞いた理屈(りくつ)をこねこね。フクロウセンセイはなれないものにムリしてなろうとするから」
「ホッホー、無礼者(ぶれいもの)!」フクロウ先生は羽を大きく広げ、ツバを飛ばしてどなりつけます。
「フクロウセンセイも(のぞ)むなら、あの空で自由に飛べるのよ」
「ホッホー、きみのような不良生徒はいらん。退学(たいがく)だ。すぐに出ていきたまえ!」
「さようなら、フクロウセンセイ」菖蒲は手をふって退室(たいしつ)します。
 教室にのこされたフクロウ先生は顔をあげ、黒板の絵をさびしそうにながめました。
「ほっほう。わたしに希望はまだのこっているだろうか」
 ぽつりとそう言ったフクロウ先生はスーツをぬぎ、黒板にむかって飛んでいき、絵は雨水に流され、消えてなくなります。
 やがて雨はやみ、だれもいない教室ではビスク・ドールのかけらが陽にあたってキラキラと輝き、水たまりに青空をうつしていました。

騒々しい法廷

騒々しい法廷

「セイシュクに! セイシュクに!」
 アリの()裁判所(さいばんしょ)裁判長(さいばんちょう)はさわがしい法廷(ほうてい)を静めようと声をあげます。しかし、なかなか話し声はやみません。
 裁判所(さいばんしょ)のうしろでは働きアリたちが女王アリのためにせわしなく食料や部屋をととのえていました。
 菖蒲は砂をかためた傍聴(ぼうちょう)席にすわって裁判(さいばん)のゆくえをぽかんとながめています。なにがおきているのかわかりませんし、みんな黒いアリで見わけもつきません。
「サイバンチョウ。ワタシはジョオウのためにハタラきツヅけてきましたし、これからもそうするつもりでした。それをショクムホウキのヒトコトでカタヅけてヨいでしょうか!」
 原告(げんこく)らしい集団(しゅうだん)のうち一匹のアリは裁判長(さいばんちょう)アリに主張(しゅちょう)します。
「そうだそうだ!」ほかの原告(げんこく)アリたちは同調(どうちょう)します。
「ワタシタチハタラきアリのジョウキョウをまるでリカイせず、いきなりカイコはフトウではないかといっているのです」
「そうだそうだ!」
「ではなぜ、まずデンタツアリにツタえなかったのだ」と、被告(ひこく)アリは反論(はんろん)しました。「シレイアリのメイレイをまってからコウドウするのがルールではないのか。それをおマエたちハタラキアリはレツをミダし、ハタラキアリゼンタイのイノチをキケンにサラした!」
 働きアリ側の弁護(べんご)アリは異議(いぎ)をとなえます。
「コウセンテキなテキにレツをミダさずにマつのはジメツしろとイっているようなもので、クロアリケンポウダイジュウサンジョウ、コジンのイノチのソンチョウにハンしている。また、ハタラキアリとシレイアリとのタイグウがチガうのはモンダイである。イノチをカけてゼンセンにタつ、ハラタキアリとブルジョアリーのサベツは、クロアリケンポウダイジュウヨンジョウにイハンしている」
「そうだそうだ!」。
「シッケイな」被告(ひこく)アリは鼻息(はないき)あらくして言います。「ワレワレもジョオウのためにこのミをササげている」
「しかし、ハタラキアリのリスクとイノチはケイイではないか。まさかキミタチはジョオウのおキにイりだからと、ふんぞりカエっているのではあるまい」
「そうだそうだ!」
「ブジョクザイである!」被告(ひこく)アリは前足をだして(うった)えます。
「ブジョクといったらキミタチだろう!」働きアリ側の弁護(べんご)アリは言います。
「そうだそうだ!」
「いいや、キミたちだ!」
 法廷内(ほうていない)はいちだんと騒々(そうぞう)しくなります。
「セイシュクに! セイシュクに! ホウテイですぞ。ヒンイをカくことナきように!」
 裁判長(さいばんちょう)アリは木づちをトントンとたたいて静聴(せいちょう)をうながすものの、さわぎはおさまりません。
 菖蒲はとなりで傍聴(ぼうちょう)しているアリに、なぜこんなにさわがしいのかをたずねます。
「クビになったハタラキアリが、シュウダンソショウをオこしたのですよ」と、アリは言いました。
「どうして仕事をクビに?」
「ヒエアリキーというやつです。ジョオウのメイレイからニげたのがゲンインのようで」
「女王の命令(めいれい)、ですか?」
「ええ、コロニーのジョオウはアタラしいマクラに、ホンをショモウされたのです。なんでもチエがつくとか。それでハタラキアリはトショーカンのモリにハケンされたそうですが、ホえたけるキョダイカイブツにオソわれ、イノチからがら、ニげてきたらしいのです」
「まさか」菖蒲は図書館のことを思いだします。「王子さまの本をやぶいたアリたちかしら」
「ジョオウはオカンムリでハタラキアリゼンインカイコし、ベツのアリをヤトうとコロニーはオオサワぎ。ワレワレアリはコロニーでシゴトをウシナえばルンペンプロレタアリとなってサイシュウショクはムズカしいのです。それにジョオウにジキソはできないので、こうしてサイバンショにうったえているというわけです」
「そんなのおかしいわ。ちょっとうまくいかないからって、なにも解雇(かいこ)しなくても」
「いえいえ、ここはまだヨいほうですよ。ソショウをおこせるサイバンショすらないコロニーはざらですし、モンドウムヨウでシケイなんてジダイオクれもハナハダしいコロニーもケッコウありますから」
「そ、そんな!」菖蒲は目を大きくしておどろきます。「アリの領域(せかい)ってそんなにきびしいの?」
「はい。アリオロギーにシバられているんですよ」傍聴(ぼうちょう)アリは足をくみ、言います。「ここもムカシはそうだったのですが、プロレタアリによってカイゼンされたのです。サイキンはジョウホウカのナガれで、キュウタイイゼンとした、タンジュンなシュジュウカンケイはフルクサいとカンガえるワカいアリもフえました。ワタシのようなジャーナアリもペンでタタカっています」
 傍聴(ぼうちょう)アリはとくいげにペンをクルクルまわします。
「なんだかよくわからないけど、女王におしえてやらなきゃ」
 菖蒲は傍聴席(ぼうちょうせき)をすっくと立ち、裁判長(さいばんちょう)アリにむかって言いました。
「あの、みなさーん。お話しのところすみません」
 いくら声をかけても、みんな自分の発言(はつげん)夢中(むちゅう)で、菖蒲など見むきもしません。
「みなさん! ちょっといいですか!」
 菖蒲が大声で(さけ)ぶと法廷内(ほうていない)は水を打ったように静まります。
「この裁判、わたしも関係していると思うんですけど」
 一匹の原告アリが菖蒲をじいっと見て、「あぁぁっ! こいつです、サイバンチョウ! ワレワレのシゴトをボウガイしたハンニンアリは!」
「ちょっと、わたしはアリじゃないわよ!」
「ハンニンミズカらシュッテイしてくるとは、なんてふてぶてしいカイブツだ!」
「カイブツってのはずいぶんしつれいね」菖蒲はむっとして言います。「そもそも女王がわるいのよ」
「ワレワレのジョオウをワルモノあつかいするとは!」
「ブジョクザイだ!」と、被告(ひこく)アリ。
「そうだそうだ!」と、原告(げんこく)アリ
「よろしい!」裁判長(さいばんちょう)アリは強い口調(くちょう)で菖蒲に(めい)じます。「コエデカフテブテシカイブツアリよ、ショウゲンダイへ!」
「わたしはふてぶてしくも、アリでも、カイブツでもないわよ! ちょっと声は大きいけど」
 菖蒲は土の上をずかずかと歩き、砂でかためた証言台(しょうげんだい)にどっしり立ちます。
「こりゃあオモシロいコトになったぞ」興奮(こうふん)して身をのりだすジャーナアリ。
「わたしはあなたたちの女王に言いたいことがあるの。まくらにするために本をやぶっていけないし、知恵をつけたければ本は読まなきゃダメよ。わかった?」
 さわがしかった法廷内(ほうていない)はしんと静まり、アリたちはひややかな目で菖蒲を見ます。
「なによ、なんでみんなだまるわけ?」
 裁判長(さいばんちょう)アリは二、三回せきばらいをします。
「それだけかね?」
「そうよ。そもそも女王の命令がまちがえてるんだから」
「ハンケツ!」裁判長(さいばんちょう)アリはトントンと木づちを強く打ちならします。「ヒコクアリはムザイ、ハタラキアリのカイコはセイトウである!」
「まってまってまって! 働きアリさんへの命令がまちがっているの! なんでおかしな判決(はんけつ)になるのよ」
 裁判長(さいばんちょう)アリはあきれたように言います。
「ホンサイバンはジョオウのメイレイイハンをシンギしている。キミのショウゲンでイハンがカクショウされたのだ。ジョオウメイレイはゼッタイである。ムホウアリをソソノカすモノはコロニーをサらねばならない」
「そんな、わたしはただ……」
「キミのカンガえはキミのコロニーではユルされるのかもしれんが、ワレワレのコロニーでミガッテなセイギをフりかざすのをヤめてもらいたい。ジダイのチョウリュウだとかにキョウミはないが、チシキアリのメンドウなシュギシュチョウのおかげでワレワレのコロニーもフンキュウしてメンドウなのだ。こんなムダなサイバンよりコロニーカクダイのためにハタラいたほうがどれだけケンセツテキか」
「でもこんなのおかしい!」
「もういいさ」働きアリたちはぬけがらのような顔で力なく深いため息をつきます。
「これにてヘイテイ!」
 ルンペンプロレタアリと菖蒲をのこし、みんな裁判所(さいばんしょ)から出ていきました。
「アリさんたち、ごめんなさい。ぜんぶわたしのせいね」
「あやまってもしょうがない。ジョオウのメイレイをヤブり、ニげたのはワレワレのセキニンだからね」
「これからどうするの?」
「ショクとイエをウシナったルンペンプロレタアリがどれほどミジめか、キきたいのかい?」
「じゃあ今からわたしがあなたたちの女王になる」
 とぼとぼ去ろうとするルンペンプロレタアリたちに菖蒲は言います。
「キミが? コロニーもないくせに」
 ルンペンプロレタアリたちは見合わせ、あきれたように笑います。
「ジョオウとなってワレワレになにをしろと? バカバカしい」
「そうかしら。これから新しいコロニーを作るのよ。あなたたちがね」
「ワレワレが? イッタイどこに?」
「それはね」と、菖蒲は言います。「わたしの知っている興廃(こうはい)の丘はとても(よご)れているの。そこをきれいにしてコロニーを広げる。報酬(ほうしゅう)は丘ぜんぶよ。だってだれも住めないんだもの」
「そんなツゴウのいいバショなどホントウにあるのかい?」ルンペンプロレタアリたちは言います。
「もちろん約束する。でもわたしは前の女王とちがい、命令も要求もしない。あなたたちで考えて仕事をしなければならないから、とってもたいへん。あなたたちが望むなら、すぐにその場所を紹介(しょうかい)してあげる。どうかしら?」
 ルンペンプロレタアリたちはわらわら集まって話しあいます。
「キまりました」代表(だいひょう)アリが言います。「ワレワレはあなたをジョオウとミトメます」
「よかった。交渉成立(こうしょうせいりつ)ね」
 菖蒲は王子さまの指輪を右手の人差し指にはめて、宝石は炎のように燃えて輝きます。それから指を地面の土につきいれるとすぐに深い穴ができました。
「この穴は興廃(こうはい)の丘につながってるわ」
 ハタラキアリたちはわあっと歓声(かんせい)をあげます。
「あなたたちにお願いがあるの。おなじように仕事をなくした者たちを見かけたら仲間にむかえてほしい。それとキジ三毛のネコと白い馬と大男の農夫(のうふ)にアヤメは元気だとつたえてもらえる?」
「アヤメジョオウのおコトバ、タマワりました」
 アリたちは菖蒲女王の前に整然(せいぜん)とならび、頭を深く下げてから一列でとっとこ穴に入っていきます。
 菖蒲女王は手をふり、アリたちの出発を見とどけてから穴を閉じます。指輪をはずして首かざりにもどすと住んでいた街をすっかり忘れてしまいました。
 だれもいない法廷(ほうてい)のうしろでは働きアリたちがせわしなく女王アリのために食料や部屋をととのえていました。

通路の消失点Ⅱ

通路の消失点Ⅱ

 まっ白な壁の通路は、あまりの長さに先が見えません。まるで宙に浮いているような白い窓が等間隔(とうかんかく)にならび、ガラスはなく、のぞいても外に広がるのは白でした。
 しばらく歩いていると、おりてきた階段はだんだん遠くなり、やがて周囲の白とまじり合い、消えてしまいます。
「ここはもしかして……」
 菖蒲は右をむくと白い壁にちいさな文字が書いてありましたので、かがんで読みます。

  ミエルモノガサキデワナイ
    ケレドモミエナクバサキニワユケナイ
     ゼンポウチユウイ

 菖蒲はふっと鼻先(はなさき)で笑い、「そんなのわかってるわよ」と、通路の消失点を手でふさぎ、前方の扉にぶつからないよう注意しながら歩きました。
 ガサガサ、ドサリ! 通路にひびくにぶい音。
 菖蒲はなにかにけつまずき、思いきり地面にたおれます。
「いったああい。もう!」
 通路の消失点はなく、こんどはゆかに扉がありました。
「『足元注意』もそえてください!」
 菖蒲は通路にもんくを言い、把手(とって)を引いて鉄のはしごをおりました。

待合所ときどき夏休み

待合所ときどき夏休み

 下へとつづく鉄のはしごは、おだやかな海にぽつりとうかぶ、ちいさな駅につづいていました。
 菖蒲はプラットホームに足をつけ、ぐるり見まわすと赤いかわら屋根(やね)待合所(まちあいじょ)照明柱(しょうめいばしら)、石のベンチとさびた駅名標(えきめいひょう)がありました。

         まちぼうけ
    ←風のむくまま 気のむくまま→
         到着 着けば
         出発 発てば

「ずいぶん気まぐれな駅ね」
 菖蒲は駅名標を前に首をかしげます。それから待合所にむかい、潮風(しおかぜ)にゆれる藍色(あいいろ)(あさ)のれんをくぐり、引戸(ひきど)をカラカラ()けて(はい)りました。
「こんにちは。どなたかいますか?」
 手前にカウンター席が三つと窓ぎわにテーブル席ひとつ、奥の台所(だいどころ)ではずんどうなべからふつふつとゆげがのぼっていました。
「いらっしゃい」
 白い割烹着(かっぽうぎ)三角巾(さんかくきん)をつけたおばあさんはカウンターごしにひょっこり顔をだし、菖蒲をまじまじと見つめます。
「へえ、女の子かい。めずらしいね。さあさ、そこの席にすわってくださいな」
 菖蒲はカウンター前のイスにこしかけます。
「おばさま、はじめまして。わたしはアヤメといいます。あの、ここはどこですか?」
「おばぁでいいよ」と、おばぁは菖蒲におしぼりをわたして言います。「見てのとおり駅の待合所さ。食堂(しょくどう)みたいだけど」
「まあ!」菖蒲はおどろきます。「もしかして電車がくるのですか?」
 おばぁはすこし考え、「電車というかバスというか船というか生き物というか、まあきてみればわかるさ」。
「はあ」
「それよりアヤメちゃん、おなかすいてないかい?」
 菖蒲のおなかはぐうっと大きく鳴ります。
「そうだと思った!」おばぁは笑顔で言いました。「うちはすば(・・)しかないよ」
「ありがとうございます。でも、お金もっていないんです」菖蒲は顔を赤らめます。
 おばぁはポカンとした顔でながめ、「おかね? おかねってなんだい、おしんこか?」
「いいえ、ものを買ったり売ったり、こうかんするために使うものです。知りませんか?」
「アヤメちゃんのいるとこはめんどくさいもんがあるんだ。おかねはいらんからすば食べてきな」
 そう言っておばぁはてぎわよく麺をばんじゅうから取りだし、てぼざるに()れ、ふっとうしたずんどうなべにほおりこみ、まな板でコネギを切りはじめます。
「おばぁはずっと食堂をされているのですか?」
「ああそうさ。ときどき、アヤメちゃんみたいな客がふらっとやってくる。あとはほとんどイルカやカモメとかさ」
 菖蒲はクスッと笑います。
「アヤメちゃんはどうしてここにきたの?」
「探しものがあるんです。それをいそいでとどけなければいけないのですが、まだ見つかりません」
「そうかい、見つかるといいね。まあ、探しもんはだいたい、ふとしたときに見つかるもんさ」
 おばぁはどんぶりを菖蒲の前におきます。
「さあできたよ」
 透明(とうめい)なスープにちぢれた平打(ひらう)(めん)、白くてふわふわした雲に()ネギがぱらりとふりかけてあります。
「とってもいいにおい! こんぶですね」
「そのとおり! アヤメちゃんよく知ってるね。白いのはゆし豆腐(どうふ)さ、だからこれはゆし豆腐すば(・・・・・・)ね。おこのみで卓上(たくじょう)のコーレーグスをすこしかけるといいさ」
「いただきます」
 まずはスープをひとくち。こぶダシのやさしい風味(ふうみ)に、ほんのり塩味のゆし豆腐がふんわり口いっぱいに広がります。赤と黄色の(はし)を手にして(めん)をふうふうふいて一口すすればスープを飲みほすまで(はし)は止まりません。
「ごちそうさまでした」菖蒲はまんぞくそうに顔をあげます。「とってもおいしかったです。おなかぽかぽか」
「それはよかった。お茶をいれようね」
「わたし、てつだいます」
 菖蒲はどんぶりと(はし)を台所で洗い、おばぁはゲンコツ形のあげたてドーナツと気泡入りのガラスコップを菖蒲にわたしました。
「おやつのサーターアンダーギーとさんぴん茶ね」と、おばぁは言います。「それとアヤメちゃん、そっちのテーブル席はとっておきだよ」
 おばぁがおしえてくれた席の窓にはコバルトブルーの空と海がどこまでも広がっていました。
「外からながめれば景色(けしき)で、窓をのぞけば絵みたいね」菖蒲はぽつりと言います。
「アヤメちゃんは詩人だねぇ」むかいにすわるおばぁは目を大きくします。「そんなふうに見たことなかったよ」
 菖蒲は()れをかくすようにサーターアンダーギーを口にします。
「カリカリであまくておいしい」
 ジャスミン香るお茶にすっかり落ちついた菖蒲はおばぁと窓の絵をぼんやりながめました。
 こんなちっぽけな駅でひとり、さびしくなったりあきてしまうことはないのだろうか。菖蒲はおばぁに聞いてみようとすこし顔をゆらします。
 きらきら輝くヘーゼル色の目、知恵深くおりかさなる目じり、口びるのそばに山をえがく経験(けいけん)ゆたかなほうれい線、やってくる日々はまるで客人(きゃくじん)のような、時を楽しむ端正(たんせい)横顔(よこがお)。菖蒲にはおばぁが悠久(ゆうきゅう)の人に見えました。
「いつも考えるんだよ」遠くを(のぞ)むおばぁはゆっくり口を(ひら)きます。「空と海はおなじ青なのに、なぜまじらないのか」
 菖蒲はあこがれのまなざしをおばぁにむけます。
 ときおり、海風(うみかぜ)()をゆらし、陽光(ようこう)は波をてらてらなでます。空は青からあかね、オレンジがにじむように染まり、いつまでも海とまじりあいませんでした。
 まったくふしぎな駅の待合所です。なにも到着も出発もせず、ただ始発(はじまり)から終発(おしまい)まで時間は遠くにうかぶ雲のようにゆったり流れていたのですから。
「アヤメちゃん、とまってくかい?」おばぁは窓に聞きました。
「うん」菖蒲は窓にこたえます。
「外にかけてあるのれん(・・・)、おろしてもらおうかな」
「うん」
 菖蒲は夏休み、おばあちゃんの家に遊びにきているような、そんな気のない返事をしました。

おつかい

おつかい

 つぎの朝、鉄のはしごは消えていました。
「まあいっか。そのうちなにかやってくるはずよ、アヤメ」
 空を見あげる菖蒲は、小さな寝床(ねどこ)でおばぁと夜おそくまで話したのを思いだしていました。
「おばぁ、わたしね、みんなの家に住んでいて、お姉ちゃんと部屋がいっしょで、友だちみたいに仲よしで……」
 ふたりは横になり、おばぁがうんうんとあいづちをうつたび、菖蒲の体はすっかり軽くなります。
「おばぁの耳は大きなポッケね。わたしのお話しがいくらでもはいるんだもの」
「いやぁ」と、おばぁは菖蒲の胸にふれ、「アヤメちゃんのはここにあるのさ」。
 あけがた、おばぁといっしょに豆腐(とうふ)作りをしました。
 ひと晩水につけておいた大豆をすりつぶし、(ぬの)でしぼり豆乳(とうにゅう)を中火で煮ます。火をとめてからニガリを入れ、木のしゃもじでさっと切るようにまぜ、しばらく待つとかたまります。それをまん中にやさしくよせれば完成です。
「わたしの作ったお豆腐とおばぁの作ったお豆腐、すこし味がちがうと思わない?」
「それがいいのさ」と、おばぁはゆし豆腐(どうふ)を味見してうなずきます。
「いいかいアヤメちゃん。どんなもんでも、おんなじだからおんなじだ(・・・・・・・・・・・・)と、決めつけてはいけないよ」
 おばぁに借りた大きな水中メガネをかけた菖蒲は、プラットホームのふちに腰かけ、海に足をちゃぷんとつけてのぞきます。色とりどりの熱帯魚(ねったいぎょ)は菖蒲の前をすーっと通りぬけ、うれしくなり手をふるとわんぱく魚たちは、顔を見あわせ、菖蒲の足めがけていっせいにつつきはじめます。
「きゃっ」菖蒲はたまらず足をひっこめます。「やったわね!」
 いそいで服をぬぎ、ざぶんと海にもぐりますが、いくらおよいでも魚たちのほうがずっと速いので、まるでおいつきません。魚たちは菖蒲をくすぐりにやってきて、菖蒲の口からゴボゴボと(あわ)はどんどんこぼれます。もがいて息つぎしてから水中をおよいでいると、海底(かいてい)には美しいサンゴ(しょう)の街なみが見えました。ショッピングを楽しむコバルトスズメ、ホテルで優雅(ゆうが)()ているカサゴやフラダンスしているチンアナゴ。遠くにはひらひら飛ぶマンタやジンベイザメまでとてもにぎやかです。
「アヤメちゃーん!」
 海面に顔をだすとおばぁの声が遠くに聞こえ、じゃぶじゃぶおよいで駅までもどります。
「アヤメちゃん、ちょうどいいや。わるいんだけど、おじぃのいるレウケ島に豆腐もってってくれるかい?」
「あばぁ、わたし島までおよいでなんかいけないよ」
「バンちゃんがつれてってくれるからへいきさ」
「バンちゃん?」
 首をかしげる菖蒲のそばに、ハンドウイルカがすいすいちかづいてきました。
「やあ、はじめまして。ぼくはバンドウ。ぼくにつかまれば、島まであっというまさ」
 イルカのバンドウは菖蒲のまわりをぐるりとまわります。
「はじめまして、わたしはアヤメよ」
「豆腐はふろしきにつつんであるからさ。島についたら広げてパレオにすればいいさ」
 ふろしきをかついだ菖蒲はバンドウの()びれにつかまり、しぶきをあげ海をきって進んでいきます。
「ねえバンドウ。もしかしてあなたが海の駅にやってくる乗り物なの?」
「ああ、それはね……だよ」バンドウはバッシャバッシャおよいで言います。
「ぜんっぜん聞こえないわ。もう一度言ってちょうだい!」
「ほら、島についたよ! アヤメちゃん!」
「ちがうの! そうじゃないの!」
 レウケ島はさらさらの白い砂浜(すなはま)にヤシの木がずらりと立ちならび、おいしげった森のむこうには切り立つ岩山が見えます。菖蒲は豆腐をつつんでいた大きな花がらの布ふろしきを広げて両端(りょうたん)を胸もとで結び、ワンピースにしてから、まんぞくそうに足を前にだしますが、すぐぴたりと立ち止まりました。
「おじいさまのおうち、どこか聞いてなかったわ」
 こまっていると森の中からしば犬がひょっこり出てきて、しっぽをふりふりこちらにやってきます。
「こんにちは、アヤメちゃんだね。ボクはシバ。先生の家まで案内するからついてきて」
 しば犬のシバはささっと森に消えます。
「シバ、ちょっと待って!」
 菖蒲は見うしなわないよう、早足でついてゆきました。
「ねえシバ。わたしの名前をどうして知っているの?」
郵便(ゆうびん)カモメのジョナさんが砂浜にアヤメちゃんという女の子がくるっておしえてくれたんだ」
「まあ、おもしろい!」菖蒲はくすりと笑います。「おじいさまはなぜこの島でくらしているのかしら」
「先生は冒険家(ぼうけんか)だったんだ。でも、おばぁのゆし豆腐を食べたらここに住むと言いだして助手のボクもびっくりさ」
 シダの森をしばらく歩くと、(ひら)けた(はら)におしゃれな石づくりの家が見えてきました。
「あれがおじぃの家だよ」
 まるでロビンソンクルーソーの世界に迷いこんだようで、菖蒲は「おじゃまします」と言ってドキドキしながら木の扉を引き、家に入ります。
 香辛料の香りにみたされた薄暗い部屋は、ふりこ時計がカッチコッチ時をきざみ、ぎっしり本が(なら)ぶ大きな本棚(ほんだな)にかこまれていました。中央には金羊毛のじゅうたんと輝くソファ、ポリネシア風の(ぞう)やアンティーク調(ちょう)のランプシェード、縄文(じょうもん)土器(どき)のような装飾(そうしょく)のつぼ、奥のつくえには使いこまれた地球儀(ちきゅうぎ)やコンパスにボトルシップ、まるで博物館(はくぶつかん)のようです。
「先生! 先生!」シバはつくえにむかう男のそばによります。「アヤメちゃんをつれてきました」
「ありがとう、シバ」
 シバの頭をなでる男は白いえりつき半そでシャツと深藍の半ズボン姿で、銀色の(かみ)と豊かにたくわえた上品なひげは、かさねた経験(けいけん)のほどをうかがわせます。
「はじめまして、アヤメと言います」菖蒲はすこし緊張(きんちょう)した声で言います。「おばぁのお豆腐をお持ちしました」
 男は菖蒲に右手をさしだし、あく手とチークキスをします。
「よく来たね。きみがアヤメちゃんか。とてもかしこそうな娘だ」
「おじいさまは……」
「おじぃでいいよ。アヤメちゃん」おじぃはやさしく目をほそめます。
「おじぃはここでなにをなさっているのですか?」
「ふむ、わしもよくわからんな。いろいろ見たもんを書きのこしてるのかな。それともアヤメちゃんは、わしをロビンソンクルーソーかなにかときたいしていたのかね?」
「すこしだけ」菖蒲は恥ずかしそうにこくりとうなずきます。
「わしはレミュエル・ガリヴァーの冒険がこのみだな」
「どちらもかわり者です」
「そんな家におとずれるアヤメちゃんはもっと、かな?」
「おほめいただき、たいへん光栄(こうえい)ですわ」
 菖蒲はすそをつまんで会釈(えしゃく)し、おじぃと目を合わせて大笑いします。
「さあさ、こちらのソファにすわりなさい。まずは茶にしよう」
「なんてごうかなソファなのかしら」菖蒲は金色に(かがや)くソファを見て言います。
「むかしサアサン(ちょう)アルペシでもらった(しな)だよ。王がねむれんというから毎晩(まいばん)旅の話しを聞かせたら、たいそう喜んでな。(れい)にと宇宙ラクダにのせて運ばれてきた」
 おじぃは花がらにうわ絵つけされた白磁(はくじ)のティーセットを()の低いテーブルにおき、紅茶(こうちゃ)をカップにそそぎます。
「とってもいいにおい」あまくてはなやかな香りにうっとりして菖蒲は言います。
「わしはコーヒーなんだが、たまにくる行商(ぎょうしょう)のウサギがぜひにとくれたんだよ」
 銀製(ぎんせい)(さら)にもられたペカンナッツやマカダミア、カシューにアーモンド、ブルーベリー、イチジク、パイナップル、それにチョコレートをつまみながら、しばらくおじぃと旅の話を楽しみました。
「……ところでアヤメちゃん」おじぃはコーヒーカップを置きます。「扉のない中庭についてだが」
「なぜそれを?」菖蒲はおどろいたように言います。
 おじぃは軽くせきばらいをしてから、「ふむ、おばぁから聞いた」。
「もしかしてジョナさんですか?」
「そう。で、わしは若いころ中庭に行ったことがある」
「ほんとうですか!」菖蒲は目を大きく(ひら)き、身をのりだします。
「まあ落ちつきなさい」おじぃは両手を上下にゆらします。
「中庭に行ったというと語弊(ごへい)があるか……正しく言えば中庭のちかくまでかな」
「どういうことですか?」
「まず中庭に入ることはできない。そもそも出入りするための扉がないからな」
「でもわたしは中庭を見ました」
「ほう、中庭を見たと。知覚(ちかく)できないはずだが。いや、あるいはだれかなんらかの方法で現象(げんしょう)させたのか」おじぃは菖蒲から目をそらし、あごひげに手をあてます。
「おじぃ、わたしにはわかりません。でも扉のない中庭にある井戸の水をくんでこないといけないんです。そうしないと王子さまはもとの姿に……」
「わかっとるよ、アヤメちゃん。そんな悲しい顔しなさんな。すこしずつ考えていこう」
「はい……」
 うつむく菖蒲に、おじぃはうなずきます。
「むつかしい表現(ひょうげん)をすれば扉のない中庭は形而上(けいじじょう)の場所、形であらわせない空間なのだよ。つまり扉のない中庭は『()るが()い庭』といえるかもしれん。アヤメちゃん、心はどこにあると思うかね?」
「それは」菖蒲はすこし考えます。「わたしの中にあって、(むね)のあたりでしょうか。でも考えるのは頭にあるような」
「とてもいい答えだ。内側(うちがわ)にあるのはおそらく正しい。頭つまりアヤメちゃんの(のう)は心を認識(にんしき)し、(むね)影響(えいきょう)をあたえたりもする。だが実際(じっさい)どちらにあるかといわれてもわからない。そもそもアヤメちゃんの体の中にあるかどうかすら知らん。精神(せいしん)生命(いのち)(のう)心臓(しんぞう)か、はたまたほかのどこにあるのかわからないのとおなじなわけだ。アヤメちゃんの行きたい場所はそういう神秘(しんぴ)領域(せかい)なのだよ」
 おじぃはコーヒーで口をぬらします。
「そこでだ。わしは中庭に入るため記憶(きおく)からたどってみた。扉のない中庭を心の空間、周囲(しゅうい)(かべ)時間軸(じかんじく)(ない)における記憶と仮定(かてい)する。まったく記憶を()て、無垢(むく)状態(じょうたい)から壁をぬけて心にアプローチできるか(ため)そうとした。結果(けっか)は庭の手前(てまえ)というわけさ」
「だから中庭のちかくまで、とおっしゃったのですね」
「そう」
 菖蒲は目をつぶり、王子さまの約束を思い返します。
 干しわらになった王子さまのくちびるをこの領域(せかい)のものではない少女が扉のない中庭にある井戸の水によってうるおす時、青き剣は闇を打ちやぶる力をえます。闇の王は笑いましたが、王子さまは信じていました。なぜでしょうか、わかりません。ただひとつ、菖蒲にしかできないことがあります。
「おじぃ。わたしは中庭のちかくでも行きたいんです。そこに行けばなにかわかるかもしれない。もしあきらめてしまえば約束は果たせなくなる。それにわたし、王子さまの信頼(しんらい)にこたえたいの」
 おじぃはするどい顔を菖蒲にむけて言います。
「先はかなりつらいぞ。アヤメちゃんのだいじなものをうしなうかもしれん」
「それでも行きます。わたしの願うおしまいでなくっとも。だってわたし、わたし……」
 菖蒲はひざの上でこぶしをにぎりしめます。
「ためしてわるかった。アヤメちゃんはやさしい()だ」
 おじぃはやわらかな手で菖蒲の頭をなでました。
「シバ。ジョナとバンドウにアヤメちゃんの帰りがおそくなるとつたえておくれ。それから島々のあるじにもよろしくな。わしらはこれから岩山のてっぺんにゆく」
 耳をひくりとさせたシバは起きあがり、ささっと外へかけだします。
「さてアヤメちゃん。これから天体観測(てんたいかんそく)にでかけよう」
「天体観測、ですか?」
 出発のあいずを知らせるように、部屋のふりこ時計がボーンボーンとお昼の時間をならしました。

天体観測

天体観測

 まわりを気にせず昼夜(かがや)(ちょう)のジコチョウ、歌のへたなノドガラガラガエル、いつまでもぶつぶつもんくを鳴くコゴトツブヤキオウム、勤労(きんろう)意欲(いよく)があるのかわからないハタラクナマケモノ、食べるといつまでも生きられるような気がするキノコのフロウフシモドキ……おじぃはガイドツアーのように山を(のぼ)りながらレウケ島に住む、ふしぎな動植物たちについて菖蒲におしえました。
 山頂(さんちょう)はたいへん見晴(みはら)らしがよく、見わたすかぎりのオーシャングリーンにサンゴ(しょう)がじゅうたんのように広がっていました。やがて空はだんだん赤く()まり、(なぎ)とともに夜のとばりがおりると月はくっきり海をてらします。
 菖蒲とおじぃは、がけっぷちに立ち、遠くさびしそうに(ひか)るまちぼうけ駅をながめていました
「あそこは未練(みれん)のこすものたちが待つ駅なんだよ」
 おじぃは言いました。
「おばぁもだれかを待っているのですか?」
「ああ。息子の帰りをずっとね。おばぁはこの島をいつも見て泣いている」
「わたしも父と母を待っているのかもしれません。だって、あの駅にいるとおちつくんですもの」
 菖蒲はまちぼうけ駅にむかって大きく手をふりました。
「さあいこうか、アヤメちゃん」
 ふたりは天体(てんたい)観測(かんそく)(じょ)()ばれるドーム型の小屋にむかいます。オレンジ色の電球が(とも)り、部屋の壁にたくさん貼られた奇妙(きみょう)な数式や図形、ちいさなつくえに()らかる万年筆(まんねんひつ)や黒いインク()れ、本やノートを()らします。部屋の中央にはとても大きな天体(てんたい)望遠鏡(ぼうえんきょう)が一段あがった円形の台の上にどんとかまえ、屋根(やね)の外につきでていました。
 おじぃは望遠鏡をのぞき、ハンドルをぐるぐるまわして止め、手まねきします。
「アヤメちゃん、ここをのぞいてごらん」
 菖蒲は望遠鏡の接眼(せつがん)レンズをのぞきこみます。
「うわぁ、これはなんですか?」
 赤に青に黄色、(むらさき)(みどり)と、まるで宝石をちりばめたカレイドスコープのような幾何学(きかがく)模様(もよう)が見えます。
「アヤメちゃんの領域(せかい)では月というのかな。まあこの衛星(えいせい)はいわゆる月としての役割(やくわり)はないのだが」
「ふしぎな星……ああっ、おじぃ、だれかいる!」
 月に小さな黒い豆つぶひとつ、ゆっくりうごいています。
「よく見えたね。あれは記憶(きおく)(あつ)めをしている」
 菖蒲は望遠鏡のレンズから目を(はな)します。
「記憶集めとはなんですか?」
「散らばった記憶のかけらを(ひろ)う仕事さ」
 ふたたび菖蒲は望遠鏡をのぞきます。
「あっ! 月になにかぶつかった」
「月にはたくさんの流れ星が落ちるからね」
「とってもきれい……」
「アヤメちゃんはまず、あそこへゆかねばならない」
「月にですか? でもロケットでないと宇宙にはいけません」
「いや、あの月は宙にはない。シロクジラで行くのだ」
「シロクジラ、ですか?」
「うむ。シロクジラはおばぁの駅にやってくる」
「そうだったんですね! でもシロクジラさんは空を飛べるのでしょうか?」
「はっはっはっ。もちろんクジラは空を飛べないし、月はわしらの上にあるとはかぎらんよ」
「どういうことですか?」菖蒲は首をかしげます。
「まあ乗ってみればわかる。ともかくアヤメちゃんはこれから月で王子の記憶を探し、それを結晶化(けっしょうか)してもらいビンに加工(かこう)する。それで井戸の水をくむ」
「ただのビンではいけないのでしょうか?」
「うむ、おそらく」おじぃはつくえに()いてあるガラスの一輪(いちりん)()しを(ゆび)ではじきます。
物質(ぶっしつ)非存在(ひそんざい)の中庭にもっていけんだろうからな」
 おじぃは菖蒲のそばにある大きなハンドルをすこしまわすと、すわっていた円形の台がゴリゴリ音をたててうごきだします。
「もういちど、のぞいてごらん」
「ブラックホールみたいなぽっかりあいた黒い穴が見えます」
「そこは『闇の門』で最初の難所(なんしょ)。扉のない中庭にちかづくためには門をくぐってから常闇(とこやみ)の地を歩いて薄暗(うすぐら)階段(かいだん)を探す」
(くら)くてなにも見えません」
「光とどかぬ闇の支配する領域(せかい)だからの。薄暗い階段をおりたところに最大の難所(なんしょ)、中庭にもっともちかい場所がある。そのさきはわしもわからん」
「どうして行かなかったですか?」
恐怖(きょうふ)で行けなかった、というのが正しいのかもしれん」おじぃは(かた)をちぢめ、身ぶるいします。
無垢(むく)記憶(きおく)とは自己喪失(じこそうしつ)意味(いみ)する。(おのれ)をうしない、中庭をおかしたとて存在(そんざい)理由(りゆう)もわからないのであればなんの意義(いぎ)があるか。生まれたての赤んぼうは自己(じこ)そして外界(がいかい)を親はじめ、他者(たしゃ)により段階的(だんかいてき)知覚(ちかく)してゆく。しかしうしなった自意識(じいしき)と記憶を中庭で瞬時(しゅんじ)回復(かいふく)し、かつ脱出(だっしゅつ)するか、まったく解決(かいけつ)できなんだ。失敗(しっぱい)すれば(からだ)(うつ)となり、心は虚無(きょむ)にとらわれるだろう。わしは好奇心(こうきしん)無謀(むぼう)(むす)びつかん性格(せいかく)なのだよ」
「それでつらいとおっしゃったのですか?」
「うむ。なんらかの強大な力で自分を捨て、扉のない中庭に侵入(しんにゅう)し、王子の記憶でつくったビンで井戸(いど)の水をくむ。それから自我(じが)回復(かいふく)させ脱出(だっしゅつ)する。これらをアヤメちゃんひとりでできるかね?」
 菖蒲は決意(けつい)にみちた力強い目で遠くを見ます。
「これくらいにしよう」おじいはため(いき)まじりに菖蒲の(かた)をたたきました。
 観測所(かんそくじょ)(あか)りは消え、外に出てからおじぃは空の月を(ゆび)さして海にゆれる月までなぞります。
海面(かいめん)にくっきり丸い月のうつりこんだ時、シロクジラは海の駅にくる。日が落ちる前に駅で待っていなさい」
「わかりました」
「先生!」シバがやってきて言います。「準備(じゅんび)できました。みんな浜で待ってますよ」
「ありがとう、シバ」おじぃはシバの頭をなでます。「さてアヤメちゃん、もどろうか」
「はい」
 おじぃは角灯(ランプ)を手に、菖蒲と岩山をおりていきました。

 真夜中の砂浜(すなはま)は、打ちよせる波の子守唄(こもりうた)(ねむ)りにつく時間ですが、今夜(こんや)ばかりはそうもいかないようです。なぜならたくさんのウミガメたちがとても大きなウミガメを中心にして集まっていたからです。
「アヤメちゃん。こちらは島々のあるじ、オオウミガメのスルフファー氏だよ。アヤメちゃんを海の駅までおくりたいそうだ」
「はじめましてスルフファーさん。わたしはアヤメです」菖蒲は大きなウミガメに頭をさげます。
(テティスニスベテキイテイル。ニジノムスメヨ)
 スルフファーは水泡(みなわ)の言葉で菖蒲に話しかけると波はやみ、ウミガメたちは涙を流しました。
「先生、産卵(さんらん)でもないのにこれは……」シバはおどろいたように言います。
「島々のあるじ祝福(しゅくふく)する時、海に(あら)たな島、誕生(たんじょう)せん。みな帰る場所がふえて喜んでいるんだよ、シバ」
「おじぃ、ありがとうございました」
 菖蒲はおじぃと()きあいます。
「気をつけてな」
「またね、アヤメちゃん」シバはしっぽをふります。
「ありがとう、シバ」
 スルフファーの化石(かせき)のようなこうらに足をかけ、てっぺんまでのぼります。すべてのウミガメ、ヤドカリやカニは道をあけ、オオウミガメのスルフファーは海までドシンドシンと地面をゆらし歩いて着水します。それはまるで船の進水式(しんすいしき)のようでした。
 菖蒲はみんなに手をふり、ぷっくりと丸い島のようなこうらはレウケ島から(はな)れていきました。
 みじかい航海(こうかい)のあいだ、菖蒲のひとり会議(かいぎ)(ひら)かれます。
「駅でシロクジラさんを待つのよ、アヤメ」と、菖蒲は言います。
「それから月で王子さまの記憶を手にいれる」と、菖蒲は答えます。
「でも、どうやって?」
「そんなの行ってみなければわからないわ」
「たしかにそうね。やってみなければわからないことだらけよ、人生なんて」
 やがて、駅の外灯(がいとう)と待合所の(あか)りが見えてきました。
「ただいま」
 まちぼうけ駅についた菖蒲はベンチで待っているおばぁの(むね)に飛びこみます。
「アヤメちゃん」おばぁは力強い(うで)で菖蒲を受け止め、耳もとで言います。「山の上からこっちに手をふってくれただろう」
「おばぁはなんでも知ってるのね」
「あぁ、わかってる、わかってるさ。アヤメちゃん」
 食堂でゆし豆腐すばをすすり、まくらに頭をのせたら、その(ばん)はぐっすり眠りました。

シロクジラ

シロクジラ

 天体観測からひと月後。
 菖蒲はいつものように豆腐(とうふ)作りをして、朝ご飯のゆし豆腐(どうふ)すばをすすります。それからイルカのバンドウと海中(かいちゅう)探検(たんけん)をしました。足をくすぐったわんぱく魚たちはサンゴ街の三丁目、アオサンゴアパートメントに住んでいて、家をのぞくとあわててちりじりになります。バンドウからイルカ式遊泳法をおそわった菖蒲はまるで人魚(にんぎょ)のように大きなシャコガイケイムショまでおいつめます。ここは(わる)さをした魚を()じこめておくためのろうやなので、みんな(おそ)れていました。
「くすぐったりしてごめんよ。きみと友だちになりたかったんだ」わんぱく魚たちは言います。
「わかったわ。そのかわり、あなたたちの街を案内してちょうだい」
 こうして菖蒲はわんぱく魚たちとすっかり仲よしになりました。
 服をきて食堂にもどると、さんぴん茶をいれたグラスを片手(かたて)に、とっておきの席で窓にうつる、いつまでもまじらない空と海の絵をおばぁとながめます。
 夕方、プラットホームの街灯(がいとう)がチンチロ点滅(てんめつ)し、パッと(とも)ります。
 ふたりはベンチにこしかけ、空にうかぶバニラアイスクリームのような月を見ていました。
「ずっとアヤメちゃんを待っていたさ」おばぁはゆっくり口をひらきます。「だから、つぎはみんなでおいで」
「つぎなんて、ないかもしれない」菖蒲はぼそりとこたえます。
 大好きな友だちと遊んだ夏休み最後の帰り道、楽しかった思い出はシャボン玉となり「またね」と、夕空ではじけてしまいそうな、どうしようもないさびしさに胸がしめつけられます。
「ここにいてもいい」菖蒲はあまえるように、おばぁの(かた)に頭をあずけます。「やっとわたしだけの(うち)に帰れたんだもの」
「王子さまとの約束、()たさんとね」
「わたしにできるかな」
()たせるから約束なんだよ」
「どうやって()たすのかわからないのに?」
「そう、結婚もそうさ。愛しあうふたりがどうして(ちか)いを()たそうか、考えるかい? ただ信じるんだよ。ほんとうの愛はまったく信じて(うたが)わない。()たすつもりのない約束はでまかせっていうのさ」
「そっか」
「アヤメちゃんは王子さまのこと好きなんだろう?」
——スキ。王子さまのコトがスキ?
 菖蒲は目の前がぐらぐらゆれて胸はどきどき()り、おなかはきゅうっとします。顔はぽっぽと蒸気船(じょうきせん)のように頭のてっぺんから蒸気(じょうき)がふきださんばかりです。
「おばぁ、そんなのわかんない。だってだって会ってもないし、(はな)してもないし、それにそれに、男子なんてよくわかんない!」菖蒲はおばぁの(かた)に顔をぐいぐいうずめます。
「たしかにそうだ、なんせわらだからねぇ」
 おばぁの大きな笑い声は(しず)かな海をゆらします。
「……おばぁのばか。やっぱりでてくもん」
 その時、海のむこうから白く(ひか)る大きなマッコウクジラがやってきて駅に停車(ていしゃ)しました。
「そろそろおわかれだね」
 おばぁはそう言って菖蒲を()きしめ、せなかをポンポンとたたいてからやさしく、なんどもなんどもさすり、耳もとでこう歌いました。

  つきぬかいしゃ とぅかみーか
  みやらびかいしゃ とぅーななつ
  ほーいちょーが
  あがりからあがりょる うふつきぬゆ
  あやめんあやめん てぃらしょうり
  ほーいちょーが

「おばぁ、ありがとう。あっというまだったけど、ずっと前からここにいたような気がするの」
「そうさアヤメちゃん」おばぁは菖蒲のほっぺをなでます。「たいせつな一瞬(いっしゅん)をすくいよせれば、人生は思ったより長く、ややこしい時間すら、いとおしく感じるものさ」
「わたし、おばぁのようになれるかな」
「もちろん。いい大豆(だいず)と水とにがり(・・・)さえあれば」
「うん……」
 おばぁは菖蒲の手の(こう)に丸いスタンプを()すと、くじらの模様(もよう)(ひか)りました。
「これはどこでも()()り自由の乗車証(じょうしゃしょう)さ。それとここに帰ってくるための道しるべだよ。(そら)は海とおなじくらい広いからね」
「おーい、まってー!」
 シバを乗せたスルフファー氏がシロクジラと反対のプラットホームに停車(ていしゃ)します。
「あれあれ、なんだかにぎやかだね」おばぁは感心して言います。
 いつのまにか、まちぼうけ駅にはスルフファー氏を追うたくさんのウミガメ、イルカのバンドウやサンゴ街のわんぱく魚たち、アザラシ、ペンギン、ジンベイザメやマンタ、クラゲとホタルイカのイルミネーションと、お祭りさわぎです。
「シバ! どうしたの?」菖蒲はおどろいたように言います。
「まにあってよかった。アヤメちゃんの手伝いをするよう先生から言われたんだ。だからボクも月にいくよ」
「まあ! それは心強いわ」菖蒲はシバのほおにキスをしました。
 シロクジラ発車(はっしゃ)の時間。菖蒲はみんなに手をふります。すこしずつ駅が遠くに、やがて街灯(がいとう)はオレンジ色の星となって水平線に消えてなくなります。
「ところでシバ、どうやって空にうかぶ月へいくのか、知ってる?」
「なにを言っているんだいアヤメちゃん」と、シバは首をかしげます。「ボクたちがこれからいくのは、あの夜空にうつる月ではなくて、海にうかぶ月さ」
「おじぃも言ってた。どういうこと?」
「水面の月が空にうつっている。つまり宇宙と海はおなじなのだよ」シバはおじぃの声まねします。
「ほんじつぅはぁ」運転手(うんてんしゅ)(けん)車掌(しゃしょう)マッコウクジラの低い声が聞こえます。
「シロクジラ観光(かんこう)のキタールにごじょうしゃありがとうございやぁす。つぎはぁきぉくのほし、きぉくのほしでございやぁす。これよりぃスピぃドをあげやすのぉで、ふりをとされないよぅどぅぞぉおつかまりくださぃ……とぉもうしましてもぉ、つかまるところなどありゃぁございやせんがぁ」
 自嘲(じちょう)気味(ぎみ)車内(しゃない)アナウンスをおえたキタールは、ぐんぐん速さをあげて海面(かいめん)の月にむかい、潜水艦(せんすいかん)のようにしずんでいきます。
「ちょ、ちょっとまって。まさかもぐるわけ?」
 菖蒲はあわててヒトデのような姿勢(しせい)でツルツルのシロクジラにへばりつきます。水しぶきをうけながら(いき)をいっぱいにすいこみ、ほおをふくらませて目を()……じた……ら…………

「くるし……くない?」
「おぼれてないからだいじょうぶだよ、アヤメちゃん」
 菖蒲はおそるおそる顔をあげると、チョウチンをぶら()げたアンコウが目の前を(とお)りすぎます。青くひかるプランクトンはまるで深海(しんかい)にちらばった星くずのようで、遠くに幾何学(きかがく)模様(もよう)の丸い大きな月がうかんでいました。
「これでわかったかな?」シバは菖蒲をのぞき、にこりと笑います。
 おきあがった菖蒲は(うで)をくみ、周囲をぼうぜんと見つめて首を横にふりました。
「いいえシバ。なんべん説明(せつめい)されたって、わたしにはまったくわからないわ」

記憶採取

記憶採取

 世界中で語られたおとぎ話しは人々の記憶にきざまれ、夢をえがきます。やがて、忘れられた物語は流れ星となって長いあいだ宇宙をさまよい、忘却(ぼうきゃく)彼方(かなた)である月に引きよせられます。それらふりそそぐ記憶の断片(だんぺん)無数(むすう)にちらばり、月はステンドグラスのようにいろどり(かがや)いていました。
 菖蒲はつぎの停車地(ていしゃち)にむかうシロクジラのキタールに手をふり、記憶の星におり立ちます。地面は薄氷(はくひょう)()れた音をたて、七色に発光(はっこう)しました。
「プリオシン海岸(かいがん)にいるみたい」菖蒲はぽつりと言います。
 まるで河原で百二十万年前のクルミのような()をにぎりしめた少年たちが改札口(かいさつぐち)にかけこみ、乗りこんだ汽車(きしゃ)の窓にうつるおもかげはだんだん消えいるように見えました。
「ふしぎね、シバ」菖蒲は(すず)()()らし落ちる星をつかみます。
「さわってる感じもしない」
「あたってもぜんぜん(いた)くないや」と、シバは言いました。
「ねえシバ、遠くで()れた音が聞こえない?」菖蒲はうつぶして頭を横にします。「パリパリ、パリパリって、だれか歩いてる」
 シバは耳をピクピクさせ、「こっちだ!」と、かけだします。
「まってよ、シバ!」菖蒲は(いき)をきらして言います。「あなたに置いてかれたらわたし、迷子(まいご)になっちゃう」
「ごめん。うれしくってつい」
 目の前に藍色(あいいろ)作務衣(さむえ)(まと)うバクが(こし)かごをぶらさげ、立っていました。すこしおどろいた顔で「やあ」と右手をあげます。
「ここにやってくる旅行者はひさしぶりだ。ぼくはメレ」
「はじめまして。わたしはアヤメ。こちらはシバよ。メレさん、もしかして記憶集めをされているのですか?」
「いかにも。よく知っているね」
「わたし、ある人の記憶がほしくてこの星にきました」
「だれかの記憶がほしいだって!」メレはますますおどろいてから笑い、(うで)を広げます。「はじめにひとつだけ忠告しておこう。だれかの記憶を選び取るなどぜったいできない。流れ星に名が書いてあるわけではないし、記憶をのぞくこともできないのだから。それにまわりをごらん。記憶の断片がどれほどあると思うんだい。しかもああして流れ星は()えずふってくる。落下した記憶のかけらを採取するのもむずかしい。ためしにさわってごらん」
 メレにすすめられるまま、菖蒲は落ちていた黄色のガラス(へん)にふれてみます。するとガラスはすぐにはじけとび、消えてなくなりました。
「どうしてすぐになくなってしまうのですか?」
干渉(かんしょう)するからさ。記憶はこの星に落ちるまでのあいだ、どんどん(はかな)くなってゆく。落下(らっか)した古い記憶はアヤメの新しい記憶とふれあい、(はかな)いほうが粉砕(ふんさい)される」
「ではどうやって記憶を(ひろ)うのですか?」
「これさ」と、メレは手にしている乳白色(にゅうはくしょく)長尺棒(ちょうじゃくぼう)を菖蒲に見せます。片方(かたほう)先端(せんたん)四角(しかく)小型(こがた)スコップに、もう片方(かたほう)熊手(くまで)のようにわかれていました。
初代星(しょだいせい)化石(かせき)からけずりだしたこの(ぼう)を使い記憶の断片(だんぺん)をかきわけ、こわさないようそっとすくう。それでもあまりいじると消えてしまうから、(ひろ)ったらすぐに工房(こうぼう)結晶化(けっしょうか)させる」
 メレはいくつか断片をすくいあげると記憶は消えず、にじ色の火花をパチパチちらしながらスコップの上でおどります。
「このごろの記憶は無色(むしょく)灰色(はいいろ)が多い。良質(りょうしつ)な記憶を採取(さいしゅ)するのはむずかしくなっているんだ」
「なぜですか?」
「おそらくむかしの人は夢より現実を、おとぎ話しよりパンについて語っていたのだろう」
「夢、ですか?」
「そう。夢やおとぎ話しは記憶に色をあたえるんだよ」
「王子さまの記憶の色は何色かしら」菖蒲は無数(むすう)()らばる断片をながめます。「どんな夢を見ていたのかな」
「さてどうだろう。ここにはあらゆる色の記憶が落ちてくるから」
「探している王子のにおい(・・・)がわかれば、ボクがおいかけるんだけどね」と、シバは言います。
「それよシバ!」菖蒲はぱっとひらめきます。
「王子さまの記憶をふらせればいいのよ。シバは落ちた星をおいかけ、わたしが拾う」
「へえ、()しの王子さま作戦ってわけかい?」シバはにやりと笑います。
「そんなのむりさ」メレはあきれたように言います。「だれかの記憶を流れ星にしてふらせるなんてつごうのいい話し、聞いたことない」
「どうかしら。これをつかえば」と、菖蒲は金の首かざりから赤い宝石の指輪(ゆびわ)をはずします。
「うわあ、その赤い宝石!」メレは目を大きくして言います。「ぼくの工房(こうぼう)加工(かこう)した奇跡(きせき)結晶(けっしょう)だ!」
「ええっ! どういうことですか」菖蒲もおどろきます。
「その赤い指輪は青い剣と(つい)で加工されたんだ。とってもふしぎな時間だった。そう、あの時もアヤメみたいにとつぜん、ふたりはシロクジラでやってきて……」

太陰潮

太陰潮

 夫婦(ふうふ)()めたる思いで月にやってきました。いつものように記憶(きおく)採取(さいしゅ)をしていたメレは、そんな若く美しい男女の姿を目にしたのです。
「自分たちの記憶を探すだって!」メレはふたりの話しを聞いて笑います。「はじめにひとつだけ忠告(ちゅうこく)しておこう。だれかの記憶を選び取るなどぜったいできない。流れ星に名が書いてあるわけではないし、記憶をのぞくこともできないのだから」
 それでもふたりは指輪とひとふりの剣を作りたいとメレになんどもたのみます。理由(わけ)を聞いても、妻の出産前に完成させたいというだけです。
 ためしてみればわかるだろうと考えたメレはしぶしぶ記憶採取をおしえることにしました。
 しかしふたりはおどろくほどの速さで熟達(じゅくたつ)します。どこからか希少(きしょう)な記憶の断片を採取しては工房に持ち帰り結晶化させ、それはみごとに加工しました。
「あなたたちの作品は芸術(げいじゅつ)だ」メレは感嘆(かんたん)の声をあげます。
 夫婦が記憶の星にきてからしばらく()ち、妻の出産はいよいよちかづきます。メレは故郷(こきょう)にもどるよう言いますが、ふたりはもうすこしと、聞きいれません。
「つぎシロクジラがくるまでに記憶を採取(さいしゅ)できなければ帰りなさい。そうでなければ工房はかさない」
 それからふたりはまいにち月をめぐりますが、記憶の断片は見つかりません。すこしもあきらめない姿に感動したメレは深いため息をつき、悲しげに工房へもどりました。
 するといつもは聞こえる流星の音がぴたりと止み、なにごとかとメレは工房をとびだします。
 なんと遠くに赤と青の美しい()を引く星ふたつ、からみあったり、(はな)れたりしながら、まるで宇宙を舞台(ぶたい)優雅(ゆうが)気品(きひん)あふれるバレリーナのように()いおどっているではありませんか!
 流れ星たちはエトワールのパドドゥのために軌道(きどう)をゆずり、祝福(しゅくふく)とすこしばかりの羨望(せんぼう)をそえてコール・ドのように月の外縁(がいえん)でまたたきます。ダンスを()えたつがいの星は、手をつないであおぎ見る夫婦の手もとにそれぞれ引きつけられたのです。
 ふたりは赤と青の星をメレの工房でふたつ同時(どうじ)に結晶化させます。交じりあう記憶の断片は一体(いったい)となり紫色(むらさきいろ)に、やがてふたたびわかれ、夫はゆらめく紺碧(こんぺき)の剣を、妻はこうこうと燃える赤い宝石つきの指輪を(かたち)づくりました。
 そのようすをメレはおどろきの(まなこ)でながめ、かつてメレに記憶の結晶法(けっしょうほう)伝授(でんじゅ)した()の言葉を思いだします。
「まこと美しい結晶は、(むす)ばれる愛の序幕(じょまく)だ」そして()はこうつけくわえます。「もっとも、これほど貴重(きちょう)な記憶を手ばなす、おろか者はいないだろう」
 完璧(かんぺき)に仕事を()しとげた夫婦はメレに感謝(かんしゃ)し、シロクジラで帰っていきました。
 わかれぎわ、メレはふたりにたずねました。
「もしやあなたたちは、はじめから星の引きあう力を知っていたのですか?」
 ふたりは見つめあい、小国の王と王妃(おうひ)であること、また【手つなぎの約束】をメレにおしえます。夫はまいにち妻の手をとり、妻は夫の手を(はな)してはならない、という約束を。
 それからふたりは高貴(こうき)()みをたたえ、こう言いました。
「わたしたちは永遠につながる手を通して約束を信じ、星の()かれあう日をただ待っていたのです」

金色あられ

金色あられ

 首かざりから指輪をはずした菖蒲は右手の小指にはめると、宝石は炎のように燃えてかがやきます。
 流れ星はぴたりとやみ、あたりはぶきみなほどの静けさにつつまれます。
 メレとシバは好奇心(こうきしん)恐怖(きょうふ)のいりまじった顔で夜空を見上げていると、遠くのほうからたくさんの星がチカチカまたたきました。
「なにかくる!」
 シバの言うが早いか、金色の流れ星はあられのようにどっとふりそそぎ、パチパチ火花をちらして消えます。なんと古今東西いろんな王子さまの記憶が菖蒲のもとに引きよせられてしまったのです。
「なんということだ!」メレはたじろぎます。
「アヤメちゃん、ちいさすぎるよ!」と、シバは飛びはねます。
「うん、わかってる」菖蒲は手をくんで目をつぶります。「わたしの王子さま。あなたの夢を、あなたのおとぎ話しを、もっともっとおしえて」
 金色あられは菖蒲の願いにこたえるように数を()し、あまりのまぶしさにメレとシバは顔をそむけます。
 光にのまれた菖蒲はゆっくり目をひらき——————


「ヘレム! ヘレム!」王子さまの声。
 深い森、草をかきわけ、山の斜面(しゃめん)をかけおりる。
 巨大な老樹(ろうじゅ)のコケむす木の根もとに、どうどうと立つ、せいかんな顔つきの大男。
「ヘレム、きょうはなにをしよう。どんな遊びをおしえてくれるの?」
「あなたの手をわたしの手にのせなさい」
 ヘレムと呼ばれる男は手をさしだし、王子さまと手をかさねる。
「山あいの国の王子よ、今から話すことは時がくるまで口外(こうがい)しないように」
「ぼくは【口止めの約束】を守り、あなたについてだれにも、父上や母上にだって話してやいないさ」
 男は笑顔でうなずく。
「そうだ。ちいさな約束を守ることは大きな力となる。いつかおまえは大きな力を必要とする時がくるだろう。ゆえに将来(しょうらい)の約束をつたえる」
 男は両手で少年の手をがっしとつかむ。
「わらとなり、かわききったおまえのくちびるを、この領域(せかい)のものではない少女が扉のない中庭にある井戸からくんだ水によってうるおす。その時、青き剣は影にとりつく邪悪(じゃあく)な王をうちやぶる力となる。
 その少女とは」
「その少女は?」
 男は顔をよせ、親しみをこめた優しいまなざしで、こちらをのぞきこむ。
 王子さまの? ううん、わたしの目を、わたしの……そう、わたしの()を!
「そうだ、アヤメ」
 景色はぐんぐんうしろに流れ、深い森からせせらぐ川、夕日の()える湖畔(こはん)、石造りのちいさな町をぬけてゆく。山あいにそびえる城壁(じょうへき)をなめるように上昇(じょうしょう)し、バルコニーで手をつなぐ王さまと王妃さまがほほえみかけて言う。
「わたしたちはあなたも信じています」
 言葉とともに大地をこえ宇宙へ。王子さまの記憶からほおりだされ、くるんとさかさまに、月の手がぐいと引っぱり、遠くにシバとメレとアヤメ、わたしがいる——————


「シバ! 記憶が流れる。おいかけて!」
 菖蒲の(ゆび)さす方角(ほうがく)に、大きな流れ星はすさまじい速さで()をえがいて落ちます。
 シバは地面をけりあげて流星(りゅうせい)めがけ、全速力でかけだし、メレもついてゆきます。菖蒲は指輪を指からはずし、首かざりにしてもどすと、金色あられはやみ、住んでいたみんなの家を忘れました。
「アヤメちゃん! ここだよここ!」シバは金光(きんこう)のまわりをぐるぐるまわっています。
「でかしたわ、シバ」菖蒲はかがみ、記憶(きおく)断片(だんぺん)に両手をそえます。
「だめだアヤメ! さわったらこわれてしまう」メレはうしろでさけびました。
「そうね」と、菖蒲はためらわずに星を(ひろ)いあげ、「もし、わたしの王子さまでなければ」。
 金色の星は菖蒲の手の中でこうこうと輝きます。
「メレさん、王子さまの記憶を結晶化(けっしょうか)できますか?」
 あっけに取られたメレは、ただうなずくしかできませんでした。

 物見(ものみ)やぐらと細長(ほそなが)いえんとつを目じるしにメレの工房(こうぼう)はあります。ほら穴の入り口に『キオクザイクコウボウメレ』ときざまれた木製扉をくぐり、モザイクタイルの階段をおりると、記憶の細片(さいへん)縞模様(しまもよう)地層(ちそう)となってきらめく壁、丸いガラス天窓(てんまど)、大小さまざまなオブジェの置かれた円形広間に出ました。
「なんてすてきなのかしら」菖蒲は中央にかざられた美しいらでん細工(ざいく)()びんを見て言います。
「ああ」と、バクは花びんにふれます。「さきほど話した夫婦がはじめて採取(さいしゅ)から加工まで仕事をした作品だ。ほかのは行商(ぎょうしょう)にゆずったけど、桃色(ももいろ)金彩(きんさい)をちりばめられたものはすごくめずらしいから記念にのこしておいたんだ。まあ結晶化した記憶の断片は役割(やくわり)を終えると自然に割れてしまうのだけど」
「いつ(こわ)れるかわからないのに売れるんですか?」
「そこに価値(かち)がある。美しい記憶のおしまい(・・・・)を見ようと所有者(しょゆうしゃ)は結晶を手もとに置くのさ」
 円形広間を中心に各部屋は放射状(ほうしゃじょう)にいくつかわかれ、台所、居間、寝室、資料室、加工部屋、そして記憶を結晶化させるための作業部屋がありました。
「これらは作品となる前の記憶の結晶だよ」
 メレは長い板に(なら)んだ色とりどりのガラス玉をさします。それから作業部屋のすみにある口をななめにむけた白いるつぼ(・・・)の前に立ちます。
「星の光を集めたこのるつぼ(・・・)に記憶を入れるんだ」
 菖蒲は強い光を(はな)るつぼ(・・・)に王子さまの記憶をほおります。すると記憶の断片は火花をちらし、くずれて砂のようにサラサラになります。メレは茶色い紙袋からあまいにおいのする金平糖(こんぺいとう)をスプーンで()さじ一ぱいほどすくい、るつぼ(・・・)にいれました。
「お菓子(かし)みたいですね」
「この星の(かく)をけずったものだよ。結晶を安定(あんてい)させるためにつかう」
「ぜんぶこの星で取れた材料と光が必要だから工房があるわけですね」
「そのとおり」と、メレは壁にたてかけられたかくはん棒(・・・・・)るつぼ(・・・)につっこみ、かきまぜます。「こうして結晶化するまで記憶、星の(かく)、光。すべてひとつになるよう手を止めずにゆっくりまぜつづける」
「メレさん、わたしがまぜてもいいですか」
「もちろん。でもこの棒、アヤメにはすこし重いかも」
 メレはかくはん棒を菖蒲にわたします。
「かくはん作業は、まぜ手の思いによって結晶の仕上がりも決まる繊細(せんさい)工程(こうてい)なんだ」
 るつぼ(・・・)の中で砂金(さきん)金平糖(こんぺいとう)はころがり、キュンキュン、キュンキュンと工房中に砂の鳴き声が聞こえます。
「つかれたらぼくを()んで。いつでもかわるから」
「はい、わかりました」
 メレは菖蒲をのこして部屋をあとにします。そのようすをシバは中央広間でうずくまり、見守っていました。
 つぎの日。
「ふつう結晶化するまで半日、どんなに長くても一日かからない」メレはけげんそうに言います。
「でもアヤメちゃん、きのうからあのままずうっとかきまぜているよ」と、シバは言います。
奇跡(きせき)の記憶だからなにがあってもおかしくないけど」
「だいじょうぶかな」
「かわろうかって言っても聞かないんだ」
 菖蒲はたくさんの思い出や夢、おとぎ話しのこもった王子さまの記憶をだれにもさわらせたくありませんでした。もちろん記憶は菖蒲に語りかけはしませんが、星の鳴く音にできるだけ耳をかたむけ、王子さまに信頼してもらおうとゆっくり待っていたのです。三日間ひたすらかきまぜつづけ、菖蒲の想いと王子さまの記憶が理解しあった時、砂の音はなくなりました。
「かくはん棒をひきあげてごらん」メレは言います。
 菖蒲はかくはん棒をるつぼ(・・・)からあげると、先端(せんたん)にふわふわとしたわたあめがからまっています。
「こちらの台に棒をむけて」
 メレは平皿を作業台におきます。かくはん棒についたわたあめは白くにごり、皿にてろりとたれて、おまんじゅうのような丸い形にかたまります。
水晶玉(すいしょうだま)みたいだね」シバは結晶にうつるメレを見て言います。
「おかしい」と、メレは(うで)をくみ、首をかしげます。「あれだけ良質(りょうしつ)な金の記憶が、どうして透明(とうめい)な結晶になるのだろう」
「アヤメちゃんはどう思う?」
 シバが顔を横にむけると、菖蒲はかくはん棒によりかかるように、すうすう(ねむ)っていました。

願いの像

願いの像

 うっすら目をあけるとモザイクの天じょうが見えました。ズキズキ痛む両手にほうたいがまかれ、ベッドで()ているのに気づきます。
 ころがるようにベッドからおりて広間を通り、だれもいない作業部屋にむかい、作業台に置いてある水晶(すいしょう)をながめます。
「アヤメちゃん、()きたんだね」背後(はいご)からシバの声が聞こえます。「ずうっと寝ていたから、しんぱいしたよ」
「わたし、そんなに休んでたの?」
「うん。アヤメちゃん、三日間も手がぼろぼろになるまで記憶をかきまぜて(たお)れたんだよ。(ねむ)ってるあいだにメレが特製(とくせい)なんこう(・・・・)をぬって手あてしたんだ」
「そうだ、メレさんは?」
「記憶採取に出かけている。メレはアヤメちゃんの結晶についてなやんでるみたい」
「どういうこと?」
「金色だった記憶が無色透明の結晶になったんだ」
「わたし、なにかまちがえたのかな」
「いや、そうではない」
 工房に帰ってきたメレは言いました。
「なぜ色がないのかしら?」不安そうにたずねる菖蒲。
「ぼくにもわからない」熊手(くまで)を立てかけたメレは作業台のそばにあるイスにすわり、ひと息つきます。「資料室(しりょうしつ)にある師匠(ししょう)がのこした作業日誌(さぎょうにっし)をしらべてみたけど、色つきの記憶から無色の結晶になったという記録(きろく)はなかった。無色の記憶に色をつけるという技法(ぎほう)はあるのだけど」
採取(さいしゅ)した王子さまの記憶はもともと無色だったのかしら」
「いやいやどうだろう。あの時見たのはたしかに金色の星だったし、透明な記憶は夢ぬけといってガラスとかわらない」
「そんな……」
 みんな答えを探そうと王子さまの結晶を見つめ、低い声でうなります。
「わたしは王子さまの記憶だと信じる」と、菖蒲はきっぱり言います。「たとえガラスとおなじでも、だれに見わけられなくっとも」
 そうです。菖蒲にとって透明な結晶は、道で拾った石ころに名前をつけてみがき、クッキー缶にしまうような、たくさん思いのこもった宇宙でたったひとつの宝物だったのです。
「わかった」と、メレはうなずき、イスから立ちあがります。「アヤメが言うなら加工の工程にすすもう。仕事には敬意(けいい)を、達成(たっせい)には賞賛(しょうさん)を。ぼくの()のおしえだ」
「なんせアヤメちゃんの王子の結晶だからね」シバは片目(かため)をパチリとさせました。
「まずはその手をなおしてから」と、メレは菖蒲の手を見て言います。
「ほら」菖蒲はほうたいをほどき、ふるえる手のひらをゆっくり(ひら)いたり閉じたりします。「ちゃんとうごくわ。今からすぐに加工しましょう」
「しかしそんなにボロボロでは……」
「メレさん、お願い」
「わかった」とだけ、メレはそれ以上なにも言わず、となりの部屋に菖蒲をつれていきます。
 加工部屋はせまく、板ばりの小上がりで中央に穴があり、ろくろがすえられていました。
「アヤメ、ろくろの前にすわって」
 菖蒲はくつをぬぎ、スカートのすそをまくりあげてこしかけます。メレは王子さまの結晶をろくろ台の上に落とすと、まるでおもちのようにぺちっと台にひっつき、ふるふるゆれます。
「足もとにある円ばんをけってごらん」
 メレの言われたとおりにすると、ろくろは反時計まわりにくるくる回転をはじめ、結晶がふわりと(ちゅう)にうきました。
「加工にとくべつな技術(ぎじゅつ)はいらない。結晶にふれて思いうかべるだけでいい。結晶はアヤメの(ねが)(かたち)になる。ただし手を(はな)したら二度と(かたち)をかえたり、もとにはもどせないから気をつけて」
 そう言ってメレは部屋を出ました。
 結晶の加工は思いをみだされるとうまくいきません。どんな(かたち)にもできるのはワクワクしますが、な
かなか思いどおりにはいかない作業なのです。
 メレはろくろとむきあう菖蒲に、加工法(かこうほう)()からはじめて加工をゆるされた自分の姿(すがた)をかさねます。
 茶わんを(かたど)るよう()にいわれた弟子(でし)のメレは、緊張(きんちょう)した手つきで結晶にふれます。丸いうつわを想像(そうぞう)し、茶わんの(かたち)がくっきりうかび、もうすこしよくしようと、おごそかな茶わん、さらにだれも考えつかないような変わったうつわをつぎつぎに思いつき、まるで博物館(はくぶつかん)を旅しているような気分(きぶん)です。
 うっとりしたメレは、長い(はな)をヒクヒク。どこからかお米としょう()のにおいがします。おにぎりにじんわり()みこんだしょう()炭火(すみび)でじっくりあぶられ、パリパリの表面(ひょうめん)をわれば、ふっくらとしたお米のあまい湯気(ゆげ)につつまれます——味噌汁(みそしる)とぬか()けもほしいな。きょうの昼ご(はん)はなんだろう——
 おすし、チャーハン、カレーライスと大好物(だいこうぶつ)におぼれる姿はまるでヘンゼルとグレーテル。メレのおなかはぐぅっとなり、思わずあっと声をだし、結晶から手を(はな)してしまいます。メレはじめての作品は三角(さんかく)(かたち)をした焼きおにぎりでした。
「焼き目がじつにすばらしい!」と、()はメレをなぐさめるように言います。「なあメレ、自然な願いこそ最高の(かたち)なのだよ」
 ベテラン職人(しょくにん)はなんでも自由に結晶を(かたど)ることができます。()かれた絵や詩、音楽など、加工師はめいめい思いをくむ技法(ぎほう)を知っていました。
 ゆたかな色をもつ流れ星が落ちていた時代は分業制(ぶんぎょうせい)で、記憶採取、結晶、加工と、職人がそれぞれいて、なかでも加工の工程(こうてい)花形(はながた)でした。いつからか透明のもろい断片(だんぺい)ばかり落ちるようになり、職人(しょくにん)たちは仕事をやめてほかの星へ、工房(こうぼう)もひとつまたひとつと消え、メレだけになりました。
「できた」加工部屋から菖蒲の声が聞こえます。
「ずいぶんと早くおわったみたい」と、シバ。
「はじめはじっくり時間をかけるものだけど」メレはふしぎそうに加工部屋にむかいます。
 ろくろ台の上には素朴(そぼく)なフタつきの()ビンがポツンとひとつ、もしほかのガラスビンが(なら)んでいたなら、まったく見わけがつかなかったでしょう。
「おどろいたね」メレはたまらず笑ってしまいます。「これはなんとも」
(ねが)いの(かたち)はきめていたの」と、菖蒲は()ビンをまんぞくそうに手にします。「だって、井戸の水を()れるだけですもの」
「それはしつれいした」メレは軽くせきばらいをします。「目的にかなった作品というわけだ」
 コツコツと玄関扉(げんかんとびら)のたたく音を聞いたシバは、菖蒲とメレのもとに飛んできます。
「だれかお客さんがきたみたい」
「そうだ!」と、メレは思いだしたように手を打ちます。「行商(ぎょうしょう)の日だった」
「なにか売りにくるのですか?」菖蒲はメレにたずねます。
「いいや、行商に加工した記憶をゆずるのさ。かわりに食べものや日用品(にちようひん)とか、たまに珍品(ちんぴん)をもらったりする。アヤメの手にぬった即効性(そっこうせい)ナンデモキクリームもそのひとつさ」
「わたしの手、だいじょうぶかしら」
 菖蒲がいぶかしげに両手を見ていると、玄関扉がばっといきおいよく(ひら)きます。
「やあ、ひさしぶりだね、メレ!」
 階段をおりてきたのは、青いふろしきをかついだ、スーツ姿のシロウサギでした。

行商シロウサギ

行商シロウサギ

「ねえねえ、アヤメちゃん」
シバは()ビンをじいっとながめ、広間でメレがあぶったしょう()(あじ)の焼きおにぎりをほおばる菖蒲に話しかけました。
「なあに、シバ」
「この()ビンなんだけどさ、もしかして……」
「おばぁの家にあるガラスのしょう()さしよ」
「やっぱり。たいせつな作品だから、へんなこと言ってはよくないと思ってさ」
「なんで?」と、菖蒲はお茶をすすります。
「ろくろの前にすわっていたら、なんだかおなかすいてきたの。これはいけないって王子さまを思いうかべ納豆(なっとう)(はん)から……」
「まさか、わら(・・)からわら納豆(・・・・)からしょう()からのおばぁってこと?」
 菖蒲は目を丸くするシバの耳もとに手をそえ、ひそひそと小声で、「そのまさかよ、シバ」。
 ふたりはしばらく遠くに目をうつし、ぷっとふきだしてくすくす笑います。
 作業部屋(さぎょうべや)商談(しょうだん)をおえたメレとシロウサギは広間にもどって来ると、楽しそうに(かた)をゆらす菖蒲とシバを見つけます。
「なにかおもしろいことでもあったのかい?」
「いいえ、なんでもないわよね、シバ」菖蒲は口もとに人差し指をあてます。
「う、うん。なんでもないよ。ね、アヤメちゃん」と、シバは頭をこきざみにふります。
 でも考えれば考えるほどおかしくて、菖蒲はおなかをおさえ、シバはへんてこりんな顔をします。
「まあいいや」と、メレはけげんそうに言います。「それよりアヤメ、こちらは行商シロウサギのアルネヴ。加工(かこう)した結晶の取引(とりひき)をまかせている友だ」
 シロウサギはグレンチェックスーツのえりをクイクイひっぱり、ちょうネクタイをキュキュッとつまみ、背筋(せすじ)をのばしてからすらりと長い足をくっつけ、つややかなくつ(・・)かかと(・・・)()らして菖蒲の前に立ちます。
「はじめまして。わたしは星間行商(せいかんぎょうしょう)のアルネヴです。宇宙の(ちり)から恒星(こうせい)まで、お客さまの所望(しょもう)する(しな)をなんでもおとどけいたします」と、いかにも自信(じしん)ありげな表情(ひょうじょう)会釈(えしゃく)しました。
「はじめまして、わたしはアヤメです。アルネヴさん、金色の記憶を結晶化させたら透明(とうめい)になったんです。見ていただけますか?」
「もちろんですとも。金色の結晶など、なかなか目にすることのできない博物館級(はくぶつかんきゅう)(しな)ですから、たいへん興味(きょうみ)があります」
 菖蒲は加工した透明(とうめい)()ビンをわたします。
 アルネヴはまじまじと見つめ、「ううむ。これはなんともむずかしい(しな)だ。ガラスの()ビンにしか見えない。しかし材質(ざいしつ)はまちがいなく記憶の結晶。金色の断片と言われなければ色ぬけ(ひん)でしょう」。
「そうなんだ」と、メレはうなずきます。「でも金色の記憶をこの目ではっきり見た。それに、結晶化まで立ち会っているからほかの断片がまじるはずない。もっとも、ほかの記憶と混合(こんごう)したら干渉(かんしょう)により結晶化されないけど」
「なるほど」と、するどい目つきのアルネヴはあごに手をあてます。「ますますむずかしい」
「そのしょうゆさ……」と、シバは思わず言いかけます。
「シバ!」顔をしかめる菖蒲。
「ごめんごめん。金の結晶について、もっとくわしい人はいないかな。ボクの先生に聞いてみるとか」
「まあ、それはいい考えね!」
「なるほど」アルネヴはふたりの話に()って(はい)ります。「それでしたらどんなものでも見定(みさだ)める超一級(ちょういっきゅう)鑑定士(かんていし)がいますよ。その鑑定士にみてもらえば、あるいはなにかわかるかもしれない」
「アルネヴさん、よろしければ鑑定士さんを紹介(しょうかい)していただけませんか?」
「もちろんですとも」アルネヴは喜んで(おう)じます。「わたしも()ビンの秘密について、ぜひとも知りたいのでね。ただ……」
「問題ありますか?」
「ええ、ひとつだけ。宇宙を旅するためには旅券(パスポート)が必要なのですよ、ミス・アヤメ」
「そんな」菖蒲はこまったように胸に手をあてます。「わたし、持っていません」
「すばらしい!」アルネヴは菖蒲の手を見て、おどろいたように言います。「持っているではありませんか」
「どこですか?」菖蒲は自分の体にしっぽでもついているのかと見まわします。
「あなたの手に(ひか)るのは海の領域(せかい)()べる女王テティスの認印(にんいん)ですよ、ミス・アヤメ」
 なんと、くじら模様(もよう)のスタンプは宇宙の()てまで旅できる、とくべつな旅券(パスポート)だったのです。
「まちぼうけ駅のおばぁが()してくれたんです」
「なるほど。わたしもちかくのレウケ島に住む大冒険家(だいぼうけんか)イアソン氏と取引(とりひき)でよくいきます」
「レウケ島のイアソン氏っておじぃのこと?」
「そうさ」と、シバは言います。「イアソン先生はアルゴー船でレウケ島に来たんだ」
「そういえばわたし、おばぁとおじぃの名前を知らなかった」と、おどろく菖蒲。
「よかったね、アヤメちゃん。これでボクの役目(やくめ)()たせたよ。早く先生の家に帰って報告(ほうこく)しなきゃ」
「ありがとう」菖蒲はシバを()きしめ、頭をなでます。「あなたがいなければ王子さまの記憶を見つけられなかったわ」
()しの王子さま作戦、大成功(だいせいこう)だったね。それにボクたちだけの秘密(ひみつ)もできたし」
「メレさんも、ありがとうございました」菖蒲はメレとあく(しゅ)します。
「こちらこそ」と、メレは()れながら言います。「アヤメを見て記憶採取(きおくさいしゅ)奥深(おくぶか)い仕事だと学んだ」
「よし、ではさっそく鑑定士のいる夜明(よあ)けぬバザールへむかうとしよう。銀河(ぎんが)をわたる長旅(ながたび)になりますよ。ミス・アヤメ、わたしについてきて。家と仲間を紹介(しょうかい)します」
 そう言ってアルネヴは菖蒲を工房(こうぼう)の外につれだします。外にはとても大きな白いザトウクジラが停車中(ていしゃちゅう)で、その()に船のブリッジのような家が見えました。
「こちらはわたしの旧知(きゅうち)(なか)にして商売(しょうばい)相棒(あいぼう)、シロザトウクジラのサトウです」アルネヴが()ぶと、シロクジラはこちらにやってきます。「サトウ、夜明(よあ)けぬバザールまで旅をするミス・アヤメだ」
「はじめまして、アヤメです。サトウさん、おせわになります」
 サトウは菖蒲を見て、大きな口をゆっくり(ひら)き、「はじめましてぇ、サトウでいいよぉ。とってもかわいいむすめさんだねぇ。よろしくぅ」と、あいさつしました。
 アルネヴはサトウの背中から()()がる太いロープに足をかけ、「どうそ、こちらへ」と、菖蒲を()きよせロープを引っぱると、サトウの()にある大きな滑車(かっしゃ)がくるくるまわり、エレベーターのように家までいっきにもちあがります。
「わたしの家にようこそ」
 部屋の(ゆか)豪華(ごうか)なペルシャじゅうたんがしかれ、黒ぬりの木製(もくせい)ダイニングテーブルとイス、周囲(しゅうい)(かべ)はいくつもの大きなつづらで仕切(しき)られ、天じょうはなく、ハンモックがぶらさがっていました。
長距離(ちょうきょり)旅行(りょこう)はここで()とまりするのです。なれれば居心地(いごこち)もよくなるでしょう」
「アルネヴさんの家は秘密基地(ひみつきち)みたいですね」
 ふたりが話していると部屋全体はぐらぐらゆれます。「出発(しゅっぱつ)のあいずだ」アルネヴはよろめく菖蒲の手を取り、サトウの頭上(ずじょう)にある甲板(デッキ)にむかいました。
 菖蒲はぐるり一望(いちぼう)してシバとメレを見つけ、手をふります。地平線(ちへいせん)はみるみる球体(きゅうたい)に、幾何学模様(きかがくもよう)となった月にはいくつもの流れ星がぶつかり、花火のようにはじけ()ります。
「ねえアヤメ」()ビンをにぎる菖蒲は言いました。「大砲(たいほう)じゃなくってクジラで月にいくのをヴェルヌが聞いたら、きっと(こし)ぬかすわよ」
 月は遠く、まわりの星とおなじほどちいさなつぶとなりました。
「ミス・アヤメ。歓迎(かんげい)をかねた、ささやかなティータイムにあなたをお(さそい)いしたいのですが、招待(しょうたい)をうけていただけますか?」
 紳士(しんし)のアルネヴは(うで)()しだしました。
「もちろん、よろこんで!」

「いやはや二度も奇跡(きせき)を見るとは」メレは遠ざかるシロクジラをながめ、ぼんやり言いました。
「でもね」と、シバはこたえます。「ボクの先生がよく言うんだ。二度あることは三度あるぞって」
 メレは大笑いしてから(かた)をすくめ、工房に消えていきました。

夜明けぬバザール

夜明けぬバザール

 夜明(よあ)けぬバザールには朝がやってきません。それでガス(とう)やお店の照明(しょうめい)、ネオンサインは()えずきらめいていました。
 バザールのショーウィンドウには服飾(ふくしょく)陶器(とうき)貴金属(ききんぞく)宝石(ほうせき)から隕石(いんせき)まで(かざ)られ、ふしぎな色と形の野菜やくだものも(なら)びます。工房(こうぼう)食堂(しょくどう)喫茶店(きっさてん)遊園地(ゆうえんち)やデパートなど街全体は活気(かっき)にあふれていました。
「朝や昼といった時間のサイクルで活動(かつどう)しない街なんだ」
 バザールを歩くアルネヴは菖蒲に説明します。
「日がのぼると起きて、落ちれば()るのがふつうだけど、ここではずっと夜だから(ねむ)くなったら眠り、おなかがすいたら食事(しょくじ)をする、というぐあいに、時間にしばられずくらしている」
「どうやって待ちあわせするの?」と、菖蒲は聞きます。
「しない」アルネヴはキッパリ答えます。「会いたいと思ったら会いに行くし、いなかったらまたいつかって」
「時計は? 電話とか」
「まさか」と、アルネヴは顔をしかめ、「きゅうくつでどうかしてしまうよ。時計を手にした、遅刻(ちこく)にいらだつシロウサギなど考えられないだろう?」
 バザールでは多くの動物たちがそれぞれ買い物を楽しんでいました。(つま)ライオンにつきあわされた(おっと)ライオンが大きな箱と手さげ(ぶくろ)を両手にバランスをとりながら歩いています。おめかししたメンドリは子どもたちをうしろに連れ、楽しみにしていたフルーツパーラーへパルフェを食べにいきます。中おれ(ぼう)にステッキを手にしたハシビロコウは、ぼーっとブティック前で立ちつくし、オーナーのヒョウ夫人(ふじん)がこまりはてています。秘伝(ひでん)スパイスで有名なカレーショップ『ピッグ』のにおいにさそわれたウシは行列(ぎょうれつ)を、通りをへだてたむかいのカレー屋『カウ』ではブタが行列をつくります。
「わたしはおすすめしないよ」と、アルネヴは言います。「味はわるくないが、どちらも()(ごえ)がうるさくてね」
 とりわけにぎやかな広場の中央ではスパンコールドレスにカールさせたまつ毛のホッキョクオオカミが、アコーディオンを(かな)でるヤマネコの伴奏(ばんそう)で『ポラーノの広場のうた()を歌い、みな足を止め、うっとり聞きいっていました。

  つめくさ灯ともす 夜のひろば
  むかしのラルゴを うたいかわし
  雲をもどよもし  夜風にわすれて
  とりいれまぢかに 年ようれぬ
  まさしきねがいに いさかうとも
  銀河のかなたに  ともにわらい
  なべてのなやみを たきぎともしつつ
  はえある世界を  ともにつくらん

「アルネヴ!」歌い()えたホッキョクオオカミは、観衆(かんしゅう)の中にかつての恋人を見つけ、抱擁(ほうよう)します。
「いつ帰ってきたの?」
「やあミセス・レイラ、急用(きゅうよう)でね。常夜(とこよ)歌姫(うたひめ)と呼ばれるきみの声を聞けるぼくは幸せ者だ」
「あなたのためならいつでも」
「ひさしぶりじゃないか、アルネヴ!」
「ザラーファにワヒドカルン!」旧友(きゅうゆう)のキリンやサイもやってきてアルネヴをわっとかこみます。
 ひとりのこされた菖蒲は、ベンチにこしかけ、たくさんの動物たちにまじる男や女、子どもからおとなの人影(ひとかげ)()()様子(ようす)に目をやり、夜明けぬバザールにつくまでに起きた出来事(できごと)を思い返しました。

 記憶の星を出発したシロザトウクジラ・サトウ号の乗組員(クルー)となった菖蒲は、アルネヴの秘書(ひしょ)をしていました。買い集めた珍品(ちんぴん)をてきぱきと整理(せいり)してはカタログにまとめ、取引(とりひき)に持っていきます。
「ミス・アヤメのおかげで商談(しょうだん)がスムーズに成立(せいりつ)する」と、アルネヴはまんぞくそうに言いました。
 ティータイムには新商品の説明を聞き、質問したりして楽しみました。
「このお茶、とてもいい(かお)り。今までにない味でおいしい」と、菖蒲は言います。
「さすがミス・アヤメだね。これはとくべつな花茶(はなちゃ)なんだ」と、アルネヴは自慢(じまん)げに言います。
希少(きしょう)長寿星(ちょうじゅぼし)カノープスの竜骨(りゅうこつ)をどうしてもほしいという客がいた。どうしようか(まよ)ったけれど、三千年に一度しか咲かない幻の花ウドンゲをブレンドした茶葉(ちゃば)提示(ていじ)されてしまってはね」
「そっか、(かお)りの正体(しょうたい)はめずらしい花というわけね」
「ああ、しかし秘密(ひみつ)はそれだけじゃあない」と、アルネヴはもったいをつけて玉虫色のつつ(・・)をだします。
「ある村の伝統的(でんとうてき)保存法(ほぞんほう)で、この茶づつで熟成(じゅくせい)させるんだ。はじめは酸味(さんみ)がたつが、だんだんミルクのようなまろやかさに変化する。ほんのりハニーの(あま)みがあるけど、くどくはならない」
「うーんアルネヴ、わたしはミルクよりチョコレートだと思う」
「なるほど、いわれてみればそうかも」と、あごをなでるアルネヴ。
「わたしのテイスティングはこうよ。口にふくむと上品(じょうひん)なローズの(かお)り、レーズンのような深みのある酸味(さんみ)(あま)み。なめらかなカカオのコク、後口(あとくち)はさわやかなカルダモンね」
 菖蒲は身ぶり手ぶりで、いきいきとお茶について説明します。
「すばらしい!」アルネヴは思わず拍手(はくしゅ)します「ミス・アヤメ、お茶の商売もはじめよう。きっとわくわくするような出会いがあるにちがいない」
 アルネヴは行商(ぎょうしょう)の仕事を(えら)んだのも出会いだと話します。
「つまりね、わたしはせっかち(・・・・)ということさ」
 オリオン座の南にあるアルネヴの故郷(こきょう)で家族と昼食(ランチ)をとっていた時、菖蒲に言いました。
「友の手紙を待つナマケモノにもいつか出会いはとどくだろう。ポストの前でそわそわするキツネもいるし、()てずに郵便局(ゆうびんきょく)まで走る好奇心(こうきしん)たっぷりなコッカースパニエルもいるかもしれない。わたしについていえば……」
「家までおしかけるせっかちシロウサギ(・・・・・・・・・)ね!」秘書(ひしょ)のするどい指摘(してき)にアルネヴの十人兄弟は笑います。
 そんなせっかちシロウサギと菖蒲はいろんな星に出会いました。オペラハウス『かに()』で上演(じょうえん)されたカルキノスがふみつぶされる(げき)(なみだ)なしでは()れませんでしたし、こと()シェリアクでの舞踏会(ぶとうかい)は海の女王テティスのお(ひめ)さまとかんちがいした星の王子さまたちからワルツをさそわれました。おひつじ()にある羊星(ひつじぼし)では秘薬(ひやく)ケムクジャラシを飲んだアルネヴが全身(ぜんしん)まき()モフモフにふくれあがり、羊飼(ひつじかい)いに毛刈(けが)りバサミで()られてツルツルに。菖蒲はおなかを(かか)えて笑いました。
 大きなハンモックにゆられたふたりは星々をつなぎ、長旅のあいだにすっかり意気投合(いきとうごう)し、深い友情(ゆうじょう)(むす)ばれました。もし王子さまとの約束がなければ、菖蒲はアルネヴと行商(ぎょうしょう)の仕事を楽しんでいたかもしれません。

「ミス・アヤメ、待たせてすまない」アルネヴは言います。
「いいのよ。お友達との再会はたいせつにしないとね」
「ありがとう。さあ、きみとの約束を()たそう」
 大通りから()()迷路(めいろ)のような路地(ろじ)(はい)り、奇妙(きみょう)なハーブやスパイスを売る店、バー、地下へとつづくあやしげなラウンジを横目(よこめ)に、さらに進みます。道のつきあたりにジジジ、ジジジと音をたて、ついたり消えたりする赤むらさきの『室定鑑(しつていかん)レェシア』と、書かれたネオンサインがありました
「ここがわたしの修行先(しゅぎょうさき)、アシェレ鑑定室(かんていしつ)だ。店主(てんしゅ)高名(こうめい)工学博士(こうがくはかせ)考古学(こうこがく)にもくわしい。星間(せいかん)ガスを利用(りよう)したエネルギーシステムで夜明けぬバザールを大きな街にしたのはアシェレ博士(はかせ)なんだよ」
 木の(とびら)()けた先は古びた(かざ)(たな)にくすんだアクセサリーやヒビの(はい)った食器(しょっき)がたくさんつみかさなり、ほこりだらけの棺桶(かんおけ)からのぞくミイラや(たお)れかかった甲冑(かっちゅう)などがひしめきあっていました。
 商品を倒さないようせまい通路を横むきに、もぐるように奥へ奥へ進むと、赤いセータにフィンチ(がた)メガネをかけた(ろう)ヒツジが薄灯(うすあか)りの下で金のアクセサリーを凝視(ぎょうし)していました。
博士(はかせ)、おひさしぶりです」
「字がつぶれておるのぉ」(ろう)ヒツジはアルネヴに気づかない様子(ようす)で、毛むくじゃらの頭をかきながらブツブツひとりごとを言います。
「その象嵌(ぞうがん)技術(ぎじゅつ)は、おそらく百万年前に噴火(ふんか)で消えた星、ペイポンでつくられたペンダントではありませんか?」と、アルネヴはのぞきこんで言います。
「わしもそう思うんじゃが、(うら)刻印(こくいん)がな。あとで打ったのか、それとも偽物(にせもの)か……」
 (ろう)ヒツジはそう言ってゆっくり顔をあげ、アルネヴを見つめ、目を大きくします。
「やあやあ、アルネヴか。ひさしぶりじゃなぁ」
博士(はかせ)、お元気そうで」
 アルネヴは手をのばし、(ろう)ヒツジとあく(しゅ)をします。
「しばらくここに顔を見せないということは商売上々(しょうばいじょうじょう)かな。サトウは元気かい?」
「はい。博士(はかせ)によろしく、と。ここまで()れてこれませんので」
「イッヒッヒッヒ。わかっとる、わかっとる」
博士(はかせ)紹介(しょうかい)したい人がいます」
「はじめまして、わたしはアヤメといいます」菖蒲はおじぎをします。
「ほう、これはかわいい実体(じったい)の子か。わしはアシェレじゃ」
 老ヒツジのアシェレ博士(はかせ)は菖蒲とあく(しゅ)をかわします。
「さっそくですが、博士(はかせ)鑑定(かんてい)していただきたい品があります」
「わしにとな」アシェレ博士(はかせ)はおどろいたように言います。「おぬしのほうが目も()えておるじゃろうて」
博士(はかせ)にはまだまだ遠くおよびません。鑑定(かんてい)していただきたいのは記憶(きおく)結晶(けっしょう)です。ミス・アヤメ、見せてもらえる?」
「わかったわ」
 菖蒲は()ビンをポケットから取りだし、アシェレ博士(はかせ)にわたします。
 アシェレ博士(はかせ)はかがみこむようにして鑑定(かんてい)をはじめます。フタを()けて底をのぞき、アルコールランプのゆれる光にあててコンコンとやさしくたたき、なでてからつくえに()きました。
「で、アルネヴ。おぬしの見立ては?」
「はい。よくある透明(とうめい)な記憶の結晶だと思います。ただ……」
「ただ?」
「金色の記憶から結晶化したと聞いていますので、透明であるにはなにか理由(りゆう)があるのかと」
「ふむ。ではすこし質問(しつもん)()えようか」と、アシェレ博士(はかせ)見透(みす)かすように目をほそめます。
「もしなにも知らず、これを見たら、サトウの背中(せなか)()っとるおぬしの全財産(ぜんざいさん)交換(こうかん)するかな?」
 かたい表情(ひょうじょう)のアルネヴ。ぴんとはりつめた空気が流れます。
「いいえ、しません」
「理由は?」
損失(そんしつ)が高く、利益(りえき)は見こめません」
「つまり、色ぬけした、そこらにころがる()ビンであると?」
 アルネヴは思わず目をそらします。
 ヒゲにかくされたアシェレ博士(はかせ)口角(こうかく)()がり、メガネをはずします。沈黙(ちんもく)を楽しむように数回まばたきをしてから大きなため息をつき、「残念(ざんねん)だよアルネヴ。おぬしは一粒(ひとつぶ)真珠(しんじゅ)のためにすべてを売った偉大(いだい)商人(しょうにん)にはまだまだ遠い」。
「どういうことですか!」
「おぬしが星間行商(ぎょうしょう)をはじめたいと言った時、わしの話しをおぼえておるかね?」
「はい。よくおぼえていますとも。常識(じょうしき)()てよ。近似値(きんじち)評価(ひょうか)すべからず。本質(ほんしつ)を見よ。わたしはいつも心にとめてきました」
「ふむ。()とは()()なるもの。(ぜん)微妙(びみょう)差異(さい)にあり。(しん)客観(きゃっかん)()事実(じじつ)よ」アシェレ博士(はかせ)は菖蒲に目をうつし、「この()ビン、アヤメくんはなんだと思うかね?」
「王子さまの記憶で結晶化と加工をした金色の()ビンです」菖蒲は(まよ)わずに答えます。
 アシェレ博士(はかせ)笑顔(えがお)でウンウンとうなずき、()ビンをアルネヴにわたします。
「もう一度よく()なさい」
 言われたとおり、しばらく鑑定(かんてい)しているとアルネヴの顔は紅潮(こうちょう)します。
「まさか、まさか、これはもしかして、いや、そんな!」
「そういうことじゃよ、アルネヴ」
「これがあのすきとおった純金(じゅんきん)……しかし、あれは古い本の!」
「いいかいアルネヴ。まったく未知(みち)なるものを前にする時、それまでの知識(ちしき)経験(けいけん)はいたずらする。おぬしは透明な記憶は色ぬけして価値をもたない、という常識(じょうしき)にとらわれ、すきとおった純金(じゅんきん)()ビンをガラスの近似値(きんじち)錯覚(さっかく)した。しかもこの(しな)のむつかしいところは質朴(しつぼく)とした外見(がいけん)。だがここで重要(じゅうよう)なのは本質(ほんしつ)ではないかね」それからアシェレはこうつけくわえました。「まあわしもこの目で見るまで表現(ひょうげん)のひとつと思っておったがの。これじゃから鑑定(かんてい)はやめられんわい。イッヒッヒッヒ」
「あの、すきとおった純金(じゅんきん)とはなんですか?」と、菖蒲は聞きます。
「古い預言書(よげんしょ)にでてくる鉱物(こうぶつ)で、『ガラスのような純金(じゅんきん)』ともいわれている。不純物(ふじゅんぶつ)をうけつけない精錬(せいれん)しつくした金……領域(せかい)存在(そんざい)しない伝説(でんせつ)鉱物(こうぶつ)なんだ」
「ふつう」と、アシェレ博士(はかせ)は言います。「記憶を結晶化させる(さい)思念(しねん)()じる。つまり、もとの色にまぜ手の思いが色をくわえ、そのにごりは結晶に価値(かち)をうむわけじゃが、この()ビンは金色の記憶がアヤメくんの思いによって(きた)えられ、純度(じゅんど)をきわめた、と考えられる」
「金色の結晶でも、その希少性(きしょうせい)後世(こうせい)(かた)りつがれるのに、すきとおった純金(じゅんきん)はいったいどれほどの値打(ねう)ちなのだろう……」アルネヴは声をふるわせます。
 菖蒲はふと顔をうしろをむけ、薄暗(うすぐら)店内(てんない)を見ました。
「ミス・アヤメ、どうしたの?」
「扉の(ひら)く音がしたような」
 アルネヴはせまい店の通路をのぞき、「だれもいないよ」。
「気のせい、かしら……」
「なあ、アヤメくん」と、アシェレ博士(はかせ)は言います。「よほど深いわけがあるんじゃろう」
 菖蒲は深くうなずき、扉のない中庭について話しました。
「なるほど。言いつたえでは()りえない領域(せかい)と聞いたが」と、アシェレ博士(はかせ)
「旅のうわさで耳にしたことがあります」と、アルネヴは言います。「特定(とくてい)の|《ばしょ》ではないはず」
「わたしは中庭を見ました。それにおじぃは闇の門をくぐり、中庭のちかくにまで行ったのよ、アルネヴ」
「レウケ島のイアソン氏か。(かれ)ほどの大冒険家(だいぼうけんか)であれば(しん)ぴょう(せい)は高いね」
「闇の門は考えになかったの」アシェレ博士(はかせ)感心(かんしん)します。「あそこは光うけつけぬ、生命(いのち)正反対(せいはんたい)領域(せかい)。足をふみいれれば二度とはもどれまい」
「はい。それでもわたしは闇の領域(せかい)にむかいます」
「ほうほう」アシェレ博士(はかせ)は菖蒲の覚悟(かくご)の目を見定(みさだ)め、()みをうかべて言います。「その思いが奇跡(きせき)()ビンをうんだ、というわけじゃな」
「おしえてください。闇の門はどのようにいけばよいのでしょうか?」
「なにを言ってるんだい、ミス・アヤメ。このバザールのすぐそばにあるよ」
「ええっ!」菖蒲は思わず声をあげます。
 なんと、知らないうちに目的地(もくてきち)まできていたのです。

家出した影

家出した影

 雨がしとしとふってきました。ガス(とう)やネオンは、ぬれた地面のモザイクガラスに反射(はんしゃ)して、虹色(にじいろ)の水玉をキラキラうつします。
 アシェレ鑑定室(かんていしつ)をあとにした菖蒲とアルネヴは頭をおさえ、路地(ろじ)を走っていました。
「大きな屋根(やね)があるのに、なぜ雨はふるのかしら?」と、菖蒲は聞きます。
「街の湿度(しつど)温度(おんど)を安定させるために水滴(すいてき)が落ちるしくみになってるんだ」
 ふたりが大通りにぬけようとした時、菖蒲はなにかとぶつかり、「きゃっ」と、声をあげて水たまりにしりもちをつきます。
「だいじょうぶかい?」と、アルネヴはすぐに手を差しだします。
「うん、ありがとう」菖蒲は(いた)そうに(こし)をさすり、「だれかとびだしてきたみたい」。
「あやまりもせず立ちさるなんて!」
「わたしも前をよく見ていなかったから」
 菖蒲は(はら)を立てるアルネヴをなだめ、サトウの()市外(しがい)の公園にいそいで帰りました。
「きゃあああ!」
 サニタリールームで顔をふいていたアルネヴは菖蒲の悲鳴(ひめい)にびくりと(かた)をふるわせました。
()ビンがないの!」
「アシェレ博士(はかせ)の店に忘れたんじゃないのかい?」と、アルネヴは菖蒲にタオルをわたします。
「ポケットにちゃんといれたわ」
「では帰る道すがら落としたのかもしれない」
「さっきころんだときかな」
「往来のはげしいバザールで落としたらたいへんだ。はやく探そう!」
 家を飛び出し、ふりしきる雨もそっちのけ、ふたりはあわてて事故現場(じこげんば)交差点(こうさてん)にもどります。
「ああどうしよう、どうしよう!」
 顔色(がんしょく)をうしなう菖蒲はあっちふらふら、こっちふらふら、気もそぞろです。
「王子さまがもどせなくなったらどうしよう!」
 見かねたアルネヴは菖蒲の()にそっとふれます。
「おちついて。いいかい、わたしは博士(はかせ)の店までたどる。きみはこのあたりを探して」
「うん、わかった」
 (あま)ガッパ姿(すがた)動物(どうぶつ)でごったがえすバザールではいつくばるように探しまわりますが()ビンはどこにも見つかりません。キラキラ光るガラスの細片(さいへん)がタイルの目地(めじ)に落ちていると、まさか()れてしまったのではないかヒヤヒヤします。
「見つかってお(ねが)い。見つかってお願い」と、菖蒲はぶつぶつ(ねん)じ、フラフラ歩きます。
 ふりやんだ雨や周囲(しゅうい)様子(ようす)など気にもせず、地面(じめん)をひたすら()いかけ、にぎやかなバザールからどんどん遠ざかります。黒い灯火(ともしび)のゆれる石畳(いしだたみ)の両わきに白暖簾(しろのれん)のちいさな屋台(やたい)が立ち(なら)ぶ通り道を進み、周囲(しゅうい)(きり)のような闇につつまれました。
「サキにススんではイケナイ。サキにススんではイケナイ」屋台(やたい)から聞こえるヒソヒソ声。
 つめたい風にぶるりと(かた)をふるわせた菖蒲は、やっと頭をあげました。
 目の前に、高さ二十メートルはある鳥居(とりい)のような巨大アーチ門から人影(ひとかげ)のようなゆらぎが現れては消え、バザールのほうへ行ったり来たり往来(おうらい)しています。
 あまりのぶきみな光景(こうけい)に、菖蒲はこわくなってあとずさりします。すると、門のほうから夜の海をてらす灯台(とうだい)のように、チカチカと光がまたたき、菖蒲は目をうたがいます。なぜなら月で見た金色の流れ星と同じだったからです。自然と足は光にむきますが、(ちか)づけば近づくほど深い闇のほうへすいよせられます。
 暗黒(あんこく)からもがきのばされた(かげ)のかたまりは(かわ)いた風によって人形(ひとがた)となり、男女は(まじ)わり、子を()み、すぐに()ちてうつろいます。菖蒲は(あらし)にもまれ、重い足どりでわずかな光へ進んでいると、若い男女の(かげ)がそばによってきます。甘美(かんび)なぬくもりにまどろみ、菖蒲と影は親子のように仲良(なかよ)く手をつなぎ、深い闇の領域(せかい)へと()()られていきます。
「おかえり、おかえり、わが子よ」と、耳に聞こえる男女の混声(こんせい)
「お父さん、お母さん。ただいま……」暗闇(くらやみ)にすいこまれていく菖蒲。
「サキにいってはだめ」と、男女の混声(こんせい)を打ち消す、(ふえ)のように()んだ女の声。
 菖蒲は手首をぐいとつかまれ、門柱(もんちゅう)土台石(どだいいし)にひっぱられます。

「あなたは……」
 菖蒲が夢うつつに見たのは()ビンを手にした少女でした。菖蒲と同じくらいの年恰好(としかっこう)(かみ)はみじかくカールして、ひとつだけ大きなちがいは人影(ひとかげ)(かたち)だったことです。
「わたしを助けてくれたの?」
 そう聞いても影の少女はうつむいたまま、なにも答えません。
「はじめまして、わたしはアヤメ」と、菖蒲は気にせず()みをむけます。「よければ(うち)でお茶でもいかが?」
 すると影の少女はこくりとうなずきました。

「……わたしはねサトウ、聖人(せいじん)だとはいわないさ。だけどこんどばかりはミス・アヤメをまったく、すこっしも理解できない」甲板(デッキ)(うで)と足をどっしりとくみ、()そべるアルネヴは、ふてくされたように言いました。「貴重(きちょう)()ビンを(ぬす)まれて憤慨(ふんがい)もせず、帰るやいなや、ふたりだけで話しをしたいという。雨のなか、懸命(けんめい)に探したのにわけもいわず、わたしの家なのに(はい)ってくるな、だなんてひどいと思わないか」
 サトウは、なぐさめるように鼻息(はないき)をフシューっと()きました。 
 いっぽう、そんな(あわ)れなシロウサギの家で、菖蒲はむかいにすわる影の少女に言います。
「ね、おいしいでしょ。めずらしい花をブレンドしたお茶なのよ。さっきのシロウサギさんは行商(ぎょうしょう)のアルネヴ。わたしたち、こうしてよくティータイムを楽しむの」
 影の少女はティーカップを()き「わかんない」と、つまらなさそうに言います。
「味もにおいもなにもかも。影にはいらないから」
「そんなひどいこと、だれが言ったの?」と、菖蒲は聞きます。
「門の外に出てはいけないってパパに言われた。だから家出(いえで)した」
「あの大きな門のむこうに住んでいるのね?」
 少女はかるくうなずきます。
「影はみんな影、影はだれも影」
「ほかの影は門の外にいたわ。なぜ外に出てはいけないのかしら」
「パパが己をもつ影はいけないって」
「そっか」と、菖蒲は言います。「ねえ、もしいやでなければ、あなたの名前をおしえて」
 やっと顔をあげた影の少女は首をかしげ、こう言いました。
「ナマエってなに?」

名もナイ

名もナイ

 名はなぜあるのでしょう。区別(くべつ)するため、意味(いみ)価値(かち)()すため、あるいは理解(りかい)するためでしょうか。
 だれでも名をもち、好き(きら)いにかかわらず名によって()ばれます。だれかを最初(さいしょ)に知ろうとする時、知ってもらおうとする時、名をたずねて自己紹介(じこしょうかい)をします。菖蒲もあたりまえのように少女の名をたずねました。
 人影(ひとかげ)は自分や他人(たにん)がなにであるかを知る必要がありませんし、そもそも影を意識(いしき)して生活する人はいません。
 夜明けぬバザールにうつろう影は実体(じったい)投影(とうえい)で、住民(じゅうみん)は空気のように見ていましたし、菖蒲も影の少女とこうして出会(であ)い、話さなければ、影について気にしなかったでしょう。
 しかし名について()われた名もなき影の少女は、今やその意味について知る必要がありました。
 わたしはなにをもってわたしなのかを。
「あた……あたし」
 影の少女は居心地(いごこち)わるそうに目をきょろきょろさせ、小声(こごえ)で言います。
「ナマエは知らない。でも」
「でも?」
「あんたの心がほしい。それで家出(いえで)したのよ。(あに)みたいに」
「お(にい)さんがいるの?」
「兄は兄妹(きょうだい)といってた。兄はナマエをもらったと言い(のこ)して出ていった。二度と帰ってこなかったわ」
「お兄さんはなんで家出(いえで)したのかしら」
「ほしいものがあるんだって。あたしもいつかそれをほしくなるって」
 菖蒲はすこし考えてから、少女にこうたずねます。
「どうしてわたしの心がほしいの?」
 少女はひくっと(かた)をゆらし、「あたしも知りたい。オチャ……それにナマエ。だから……」
「だから?」
 少女は()ビンをにぎりしめたまま、かたまってしまいます。
 うなだれる少女をじっと見つめる菖蒲は、(だま)って答えを待ちます。
「だから、だから……」と、少女の目から影の(なみだ)がポロポロこぼれ、しぼりだすような声で言います。
「だから……あた……し……あたしは、あんたの()ビン……とったのよ」
 少女のつたない告白に菖蒲の(むね)は強くしめつけられ、まゆをよせ、口びるをかみました。
「あんたが()ビンのこと話してるの聞いたわ」と、少女の顔はあかるくなります。
「これがあれば、あんたになれるんでしょ。だから使いかたをおしえてちょうだい」
 少女のすんだひとみにうつるひとつ(ぼし)を見た菖蒲は強い愛を感じ、なぐさめるようにこう言います。
「なれないのよ。その()ビンでわたしにはなれないの」
「うそつき」少女は首を横にふり、乱暴(らんぼう)に言います。「記憶と思いがあるって聞いてたんだ」
「そう。たしかにその()ビンは、わたしのだいじな人の記憶やわたしの思いがたくさんつまっているけど、それを手にしたからといって、わたしになれないわ」
「うそつき!」(つくえ)をたたき、どなりつける少女。
「どうか、聞いて」と、菖蒲はおだやかに言います。「あなたはあなたで、わたしはわたし。あなたがどれだけ(のぞ)んでも、心はあなたの空腹(くうふく)()たしてはくれない。それに、たとえわたしになっても、ほかのだれかに()われたとしても、自分ではないと気づいたら、あなたはもっと(きず)つくだけよ」
「うそつき!」少女はちがうとばかりに首をなん度も横にふります。「そうやってあんたはぜんぶ自分だけのものにしてる! あたしはあんたになりたいの。あたしにはなんにもないんだから!」
「わたしは()てられ、家族も()まれた場所(ばしょ)誕生日(たんじょうび)も知らないのよ。菖蒲(あやめ)という名前ですら五月に(ひろ)われたからってだけ。それでも、あなたはほんとうにわたしになりたいと願うの?」
「大うそつきのあんたなんかにわかんないのよ! あんたには心がある。あたしにだってもらえなきゃおかしい!」
「じゃあ交換(こうかん)しましょう」と、菖蒲はぱっと立ちあがり、興奮(こうふん)する少女の両肩(りょうかた)にふれます。「わたしはわたしの(おも)う人のため、()ビンがどうしても必要よ。だから、わたしの心の半分をあげる。そのかわり()ビンを返して」
「ええいいわ」少女はにこりと笑顔(えがお)で首をたてにふります。「どうやってあんたの心をくれるわけ?」
 菖蒲は王子さまのつけていた首かざりから指輪(ゆびわ)をはずして右手の薬指(くすりゆび)にはめると、赤い宝石は炎のようにまっ()()えます。
「ひとつだけ約束して」と、菖蒲は少女に言います。「いつか、わたしの心を必要としなくなったなら、わたしに返してほしいの」
「わかった。約束する」
 菖蒲が少女の首に(うで)をまわした、その時————
「アヤメはうそつきなんかじゃない! きみがわがままなだけなんだ!」
 ひどくとりみだしたアルネヴは、声をあげてふたりの前に飛びだします。
「アヤメ、アヤメ。ぜったい、ぜったいにあげてはいけない! きみの心が(わか)たれるなら、どれほど苦しむだろう。()けた心はたがいを探しもとめ、どんなにかつらい思いをするだろう。そんなのわたしは見ていられない! こんなのおかしい、まちがってる、まちがってるよ!」
 菖蒲は少女のむこうに立つアルネヴにほほ()みかけます。でも、アルネヴは見ました。菖蒲の右目から(なみだ)が一つぶこぼれるのを。菖蒲はやさしくキスをし、おでこを影の少女のおでこにあてました。すると赤い宝石から鮮血(せんけつ)がほとばしり、天は産声(うぶごえ)をあげ、稲妻(いなづま)がふたりに落ちました。菖蒲はアヤメが引き()かれる強烈(きょうれつ)(いた)みを内奥(ないおう)に感じます。顔をゆがませ、()()いしばり、じっと()え、すべて()()れます。(たましい)()()るような(いき)をはき、指輪(ゆびわ)をはずしてから首かざりにもどし、(なか)のよい義姉(ぎし)を忘れました。
「アヤメ!」アルネヴはくずおれる菖蒲にかけよります。「ああ、きみはなんてことを!」
「ねえ」と、菖蒲はまゆをひそめ、「わたしはふたりで話したいって言ったでしょ」。
「そんな、わたしはきみがしんぱいで、いてもたってもいられなくて」
「外で待っていて」
 紳士(しんし)のシロウサギはしょんぼりと部屋を出ていきました。
「ありがとう、アルネヴ」と、菖蒲は小声で言います。「ごめんなさい」
 影の少女はとまどいながら(ぬす)んだものを返し、どうしてよいかわからず、()ビンをだいじそうになでまわす菖蒲を見つめます。
「あなたの名前、わたしがつけてあげる」菖蒲は少女にはっきりと言いました。「あなたの名はミモザ。ミモザよ」
 名もなき影の少女は、この時はじめて名の意味を知りました。影である自分はミモザで、相手は菖蒲であると。
「聞きなさい、ミモザ。あなたはわたしが(よろこ)ぶとき喜び、わたしが悲しむとき(かな)しむの。わたしの(いた)みはあなたのとげ(・・)となり、わたしの辛苦(しんく)はあなたにとってかせ(・・)となる」
 そう言い残し、菖蒲はアルネヴを()いました。
 ひとりになったミモザは両手を(むね)にあて、目を()じます。
 美しい景色(けしき)、こころよい音楽、すてきな(かお)り、ほっぺが落ちるような料理(りょうり)、ふれあい()たされる充足感(じゅうそくかん)……ゆたかな感性(かんせい)やあふれる感情(かんじょう)はすべて心さえあれば自由に(かな)えられるだろう。(あに)がほしくなるといったものはこれだったんだ。影の少女はそのために家出(いえで)し、()ビンをうばいました。
 でも、心の半分を手に()れてミモザが最初(さいしょ)に感じたこと、それは空虚(むなしさ)でした。

闇の門口

闇の門口

 ミモザはそっと(かく)れて菖蒲とアルネヴを遠くからのぞきました。
しんぱいするアルネヴ、うれしそうに()ビンを見せるアヤメ、ふきげんなシロウサギが頭上(ずじょう)でうるさかったとあきれるサトウ。みんなミモザが()ビンを(ぬす)んだとは言いません。
 でも、なぜだかミモザの胸はうずきます。
「それはね」と、菖蒲の(わか)つ心はミモザの耳もとでささやきます。「友情は守らなければ、かんたんに(こわ)れてしまうからよ」
 ミモザは(こた)えるように菖蒲にかけより、言いました。
「アヤメ、あの、その……アヤメのだいじなものをとってしまってごめんなさい。それに、うそつきって」
「もちろんゆるすわ、ミモザ」と、菖蒲はためらわずに言います。「だってわたしたち友だちでしょ」
 すると、ミモザの感じていた胸のうずきは消えていきます。
「もし」と、ミモザは痛みにむかって(かた)りかけました。「あたしがだれかを(きず)つけたり、うそをついて(かな)しませたのなら、またもどってきてほしい。まちがいに気づくために」
 ミモザをティータイムに誘い、みんなでテーブルを(かこ)みます。(きん)ぶちの白磁(はくじ)カップとソーサー、銀製(ぎんせい)のティースタンドには下からキューカンバーサンド、スコーン、一口サイズのケーキやマカロンがのっていました。
「うん、これもまたいいね」と、アルネヴは(あたた)めなおした花茶(はなちゃ)をテイスティングして言います。「もっとまろやかになっている」
「だめよアルネヴ」菖蒲はむすっとします。「しぶみがでてる。ゲストにこんなお茶を出したらティータイムはだいなしよ。新しいのと交換(こうかん)してちょうだい」
「ええっ」アルネヴはおどろいたように言います。「このお茶、高価(こうか)なのに……」
「レディをもてなしていますのよ、紳士(しんし)のアルネヴさん」菖蒲はすんとした顔で言い返します。
「それとも、うしろの(たな)の上から二段目、右奥(みぎおく)(かく)してある、もっとすばらしい茶葉(ちゃば)をわたしが知らないとでも?」
 アルネヴはあきれてなにもいえず、しぶしぶ(・・・・)新しいお茶にいれなおしました。
 ミモザはくすくす笑っていると、ふんわり立ちのぼる花の(かお)りに目を大きくします。
「なんていいにおいなの!」
「でしょ。ミモザ、飲んでみて」菖蒲はうれしそうにミモザにすすめます。
 お茶を口にしたミモザはまゆをよせたりあげたり、菖蒲とアルネヴは固唾(かたず)をのんで見守ります。
 ふーっと、(はな)から(いき)をぬくミモザ。
「ミモザ、どう?」
「おいしい……お茶ってこんなにおいしいんだ」
 うっとりしたミモザの体は、なぜだかここちよさでみたされます。
「それはね」と、菖蒲の(わか)つ心はミモザの耳もとでささやきます。「みんなに歓迎(かんげい)されているからよ」
 ミモザは答えるように、笑顔(えがお)で言いました。
「アルネヴ、アヤメ、あたしのためにありがとう」
「どういたしまして」アルネヴは()れながら言います。
「アルネヴはキュートなレディに弱いんだから」と、からかう菖蒲。
「まさかミス・アヤメ、彼女にやきもちやいているのかい?」と、言い返すアルネヴ。
 菖蒲は顔をまっ()にして、「そんなことないもん!」
 サトウまで大笑いすると部屋は大きくゆれ、ミモザはもっとうれしくなります。そして、この時がいつまでも続けばいいのに、と思いました。
「もし」と、ミモザは(しあわ)せにむかって(かた)りかけました。「あなたをあたりまえのように思い、ありがとうってつたえるのを忘れたら、どうかあたしから(はな)れてほしい。感謝(かんしゃ)を思いだすために」
 ティータイムを楽しんだ後、みんなでバザールにでかけました。
「ねえねえ見て見て、ミモザ。あそこで行列(ぎょうれつ)しているカレー屋さんは()(ごえ)がうるさいのよ。でもそういわれると食べてみたくなるのよね。あっちも……」
 そう言って菖蒲はミモザの腕を引き、お店に走ります。
 どこまでものびるスパゲッティ()現象(げんしょう)アイスクリーム(てん)、プカプカとうかぶ星の(たまご)を売る(みせ)ではだれよりも先に星の名前を決めることができます。ただし、みんなに自慢(じまん)できるのは何十億年もあとの話ですけど。宇宙乗りものショップでは高速(こうそく)ロケットのほかにも、おしりからもれるあの空気(・・・・)利用(りよう)した、クリーンヘネルギー新型(しんがた)バイクがショーウィンドウにかざられています。でも、においの完全(かんぜん)除去(じょきょ)については今後(こんご)課題(かだい)のようです。そのとなりが()きいもの(みせ)であるのは偶然(ぐうぜん)でしょうか。古着屋(ふるぎや)さんのマネキンには(はだか)の王さまが()ていたというバカには見えない(ふく)雑貨屋(ざっかや)さんのおすすめはジャックがうえた天までとどく(まめ)(きん)のたてごとで、いまなら金のたまごもセットで買えるようです。
 ミモザに()しゅう()りのボタニカルブラウスをあてがい、菖蒲の首にきらきらのネックレスをかけます。ふたりはなんでも手にとり、においをかぎ、口にし、たくさん笑いました。スゴロクでマスを進めたりもどったり、ときには一回休みになるように、この店に(はい)ったかと思えばまたあの店と、ゴールになかなかたどりつきません。アルネヴには、そんな手をつないであちこち歩くふたりの少女のうしろ姿(すがた)姉妹(しまい)のように見えました。
 それからついに「サキにススんではイケナイ」と、ヒソヒソ声の聞こえる屋台(やたい)までやってきます。
「きみたちにプレゼントしたいものがある」と、アルネヴは菖蒲に金、ミモザには銀の腕輪(バングル)(おく)ります。
「これは超新星爆発(ちょうしんせいばくはつ)でわかれた星のかけらをアルケミストの手により金と銀に変えたとされている。ふたつはひとつになろうとする腕輪(バングル)なんだ。きみたちの友情(ゆうじょう)にぴったりだと思って」
 菖蒲とミモザは口をそろえて感謝(かんしゃ)(つた)え、菖蒲は腕輪(バングル)を右手首に、ミモザは左手首につけました。
「行商はこれより先に進むのをゆるされていない。(いち)のあるところまでだ。だからお(わか)れだね」アルネヴは名残(なごり)()しそうに言います。
「アルネヴ!」菖蒲は愛するシロウサギをぎゅっと強く()きしめます。「あなたに会えてほんとうによかった。あなたはわたしの、とても、とってもたいせつな家族よ。またティータイムに招待(しょうたい)してもらえるかしら」
「もちろんさ、アヤメ」と、アルネヴは(した)しみをこめて言います。「わたしたちは多くのすばらしい宝に出会えたね。そしてこれからも」
「うん」
「おぼえておいて。わたしはきみのためならどこでもすぐ助けにゆく。約束だ」
「ありがとう、アルネヴ。大好き」菖蒲はアルネブのほおにキスをします。
 ミモザはそんなふたりの惜別(せきべつ)をながめ、強い悲しみに(おそ)われ、こう思います。
——そうか、アヤメとアルネヴはこの時をふたりだけで()ごしたかったけれど、なにも言わず、だいじな時間をあたしにゆずってくれたんだ。大切(たいせつ)な人と(はな)ればなれになるのは、こんなに不安で苦しくてつらい時を()(しの)ばなければいけない。それなのに、あたしはアヤメの心を引き()き、アヤメはずっと菖蒲を探している。
 ねえアヤメ、なぜあたしを()めないの? ()ビンを(ぬす)む、姑息(こそく)な影だとしかりつけ、ののしればいいのに。ねえアヤメ、どうしてあたしはあなたの友人なの? 心を(うば)った(わる)い影だと(にく)(きら)い、()けてくれればいいのに。
「それはね」と、菖蒲の(わか)つ心はミモザの耳もとでささやきます。「ただ()けあいたかったから。どうしようもなく、言葉にならない(さび)しさを、ただ知ってほしかった。わたしが(ひと)()く時に、あなたのような(いもうと)がそばにいてくれたら、どんなによかっただろうって」
 ミモザは遠くまで広がる孤独(こどく)にむかってさけびます。
「ああ、あたしのうちにまかれた、たくさんの悲しみよ! おまえたちは喜びの花となれ。カタクリの花がいくどもいくども厳冬(げんとう)()し、早春(そうしゅん)野山(のやま)をひっそりとかざるように。いつか、そのちいさな花を(ひと)()(あね)にとどけよう」
 ふたりはアルネヴに手をふります。
「アヤメ、あたしの手を(はな)さないで。あなたの行きたい場所を知っているから」
 ミモザは左手で菖蒲をつかみます。
「あたしを(しん)じてくれる?」
「もちろん」と、菖蒲はミモザの手をにぎり返します。「いつも、いつも。ずっと、ずっと」
 こうして、ふたりは闇の門をくぐりぬけていくのでした。

人と影による交唱

人と影による交唱

 道しるべは右手に感じるミモザのぬくもりだけでした。
 歩くたびにコツンコツンと石をたたくような(かた)足音(あしおと)反響(はんきょう)しますが、神殿(しんでん)なのかお(どう)なのか、まっ(くら)でなにもわかりません。
 ()り糸をほどくようにミモザの手を(はな)したなら、闇の中でひとり(のこ)され迷子(まいご)となって、だれも助けてはくれないでしょう。
「ミモザはどこにいるかわかるの?」
 菖蒲は不安げにそうたずねると、ミモザの声が返ってきます。
「ええ。でも前よりわからなくなってきてる」
「なぜ?」
「光を見るようになったから。かすむけどだいじょうぶよ、アヤメのいきたい階段は、兄になんどかつれていってもらったの」
「お兄さんと?」
「うん。兄は闇の領域(せかい)にやってきた男の人を階段に案内したわ。帰りを待っていたけど、もどってこなかった。そのあと、兄は闇の門から出ていった」
「ミモザはここにどれくらい住んでいたの?」
「闇の領域(せかい)は時間がないからわからない。でもアヤメの()まれるずっと前から存在(そんざい)してたと思う。(おのれ)をもつ兄とあたしは変化しない人影で、実体(じったい)意志(いし)のない影はいろいろな形相(ぎょうそう)変化(へんか)する」
「闇の門やバザールで見た影のように?」
「そう。あれらはアヤメから()えた(かたち)。アルネヴから()える影はちがうのよ」
「ミモザも?」
「ううん。あたしは影を作りだすことはできない。それぞれ投影(とうえい)された姿(すがた)から、思いや考えをすこしのぞける。兄は影をとどめ、あやつれるのよ」
「ねえミモザ、なにか聞こえない?」
「アヤメ、それは幻聴(げんちょう)よ」ミモザは菖蒲の右手をくいっと引きます。「闇はいろんなものを見せるから気にしちゃだめよ」
「た……すけ……て……」
「女の人がどこかで泣いてる」
「たすけ……て」
「どこ? どこにいるの?」と、菖蒲は左手を闇にのばします。「見えないの。なにも、なんにも」
「たすけて」
「アヤメ、()き者に関心(かんしん)をむけてはだめ」遠くになっていくミモザの声。「あたしだけを信じて」
「ミモザ、どこ? どこにいるの?」左手をおよがせる菖蒲。
「ここよ、助けてアヤメ」
「わたし?」
「そう、ここよアヤメ」
「待っていて。すぐに行くから」と、菖蒲はからませた右手をふりほどこうとします。
「アヤメ!」と、ミモザは左手をぎゅっと強くにぎり、「あたしの手を(はな)さないで!」
「ミモザ、わたし……」菖蒲の呼吸(こきゅう)はみだれ、心臓(しんぞう)はバクバクと強く鼓動(こどう)します。
「しーっ、(しず)かに。闇のあるじ(・・・・・)があたしたちを引き(はな)そうとしてる。そうよね、パパ!」
 ミモザがどこかに呼びかけた瞬間(しゅんかん)、菖蒲はおしつぶされるほど強い力と視線(しせん)を感じ、あまりの寒さにぶるぶるふるえます。
(ワレ)は」と、地面をゆらすほどの低いうなり声は反響(はんきょう)してあちこち聞こえ、(こん)だくした言語(げんご)集合(しゅうごう)し、理解(りかい)できる音声(おんせい)にかわります。「おまえの父ではない」
 菖蒲は恐怖(きょうふ)のあまりミモザの(うで)にしがみつきます。
「あなたがあたしたちの父であると兄から聞きました」と、ミモザは言います。
「影に兄弟などない」闇のあるじ(・・・・・)は答えます。「どちらも配列(はいれつ)誤差(ごさ)補正(ほせい)のガラクタにすぎん」
「ガラクタ?」と、つぶやく菖蒲。
「それでも、あなたはパパです。あたしは友人を()れてゆきます」
領域(せかい)調和(ちょうわ)をみだす者は(むく)いをうけるさだめ。(おのれ)をもつ影よ、わきまえていよう」
「はい。もちろん、ここで(ばつ)はうけます」
(おろ)かなガラクタめ。名は(おのれ)をあざむく言葉。もうひとつのクズがそうであったように」
「クズ?」と、つぶやく菖蒲。
「そうだ、娘よ」と、闇のあるじ(・・・・・)は菖蒲にむけて言います。「さだめられた領域(せかい)(おか)すにあきたらず、本質(ほんしつ)(こと)にする影に(じょう)()せ、つけこむとは。その傲慢(ごうまん)領域(せかい)破滅(はめつ)をもたらした事実(じじつ)(わす)れたか」
「ちがう!」菖蒲は力強く反論(はんろん)します。「どんなものもおなじであると決めつけてはいけない。わたしは海の女王からそうおしえられた。世界にひとつとしておなじものはない。影もまた」
(にじ)(むすめ)よ。()てられてなお、口にあまく、(はら)には(にが)い言葉をはくか」
「アヤメ、()き者を気にしなくていいのよ。もういきましょ」
 ミモザはそう言うと闇のあるじを無視(むし)して菖蒲の手を引き、ずんずん歩きます。
 すると()い影があらわれ、菖蒲とミモザを大勢(おおぜい)(かこ)み、闇のあるじ(・・・・・)交唱(こうしょう)をはじめました。

  黄色(きいろ)い花の下劣(げれつ)(うた)
   (ワレ)らに(あさ)

  黄色(きいろ)い花の醜悪(しゅうあく)な体は
   (ワレ)らにおぞましく

  黄色(きいろ)い花の低俗(ていぞく)(まい)
   (ワレ)らにつたなく
  黄色(きいろ)い花の卑猥(ひわい)な口は
   (ワレ)らに()えがたく

  黄色(きいろ)い花の…… 黄色(きいろ)い花の……
   (ワレ)らに……  (ワレ)らに……

 反復(はんぷく)するあざけりの歌は菖蒲の耳にまとわりつき、くすぶる(いか)りに火を、(にく)しみのマグマをふつふつとわきあがらせます。容赦(ようしゃ)ない非難(ひなん)そして同調(どうちょう)により、感情(かんじょう)自尊心(じそんしん)をぐしゃぐしゃに破壊(はかい)してやろうと歌っているのです。しかし黄色(きいろ)い花とはだれなのでしょう。
——わたしのミモザよ! ぜったいゆるせない!
 菖蒲は右手に力をこめます。
「あたしのためにおこらないで」と、ミモザは言います。「そんなアヤメを見たくないの」
「だってミモザ、あなたを(こわ)そうとしているのよ! 闇に(かく)攻撃(こうげき)する卑怯(ひきょう)最低(さいてい)な者たち!」
「パパも影も(かく)れてなんかない。知らないだけ。ねえアヤメ、あたしもそうだったでしょ?」
「あなたは、あなたはちがう!」
「ううん。あたしも知らなかったのよ、アヤメ。言葉は火傷(やけど)させたり、(こご)える手を(あった)めもできる。あなたにそうおしえてもらえた」
「でも、あいつらはそんなあなた(ひと)りを知ろうともしない!」
「あたしはアヤメだけに知ってもらえればかまわない。アヤメだけでいいの」
 見えない闇から()げつけられる罵詈雑言(ばりぞうごん)(はら)いのけるように、ふたりは前へ前へひたすら歩き、ついに目的の場所につきました。下へと続く、うす(ぐら)い階段に。しかし、()え広がる(にく)しみは菖蒲の目をくもらせ、すぐ前にある階段がまったく見えません。
 闇のあるじは、つたない()り糸を無情(むじょう)()()ろうと誘惑(ゆうわく)しました。
浅薄(せんぱく)なアヤメよ。おまえが名づけた黄色(きいろ)い花のゴミクズミモザは影ゆえ存在(そんざい)廃棄(はいき)できず、(じょう)苦悩(くのう)しながら闇をさまよい続ける。約束の力で破壊(はかい)しろ。キエロゴミクズミモザ、コワシテシマエ」
「ええ、こわしてやるわよ。あんたたち! みんなぜんぶ!」
 激高(げっこう)した菖蒲はミモザの手を力づくでふり切ろうとします。
「アヤメ、手を(はな)してはだめ。やっとここまできたのに」
「キエロゴミクズミモザ、コワシテシマエ」
「ミモザ手をはなして! みんなこわしてやる! みんなみんなこわしてやるんだから!」
「心を闇にしずませないで、アヤメ」
「はなせ! ミモザ! はなせミモザ!」どなりつける菖蒲。
「キエロゴミクズミモザ、コワシテシマエ、キエロゴミクズミモザコワシテシマエキエロゴミクズミモザコワシテシマエキエロ……」
「あんなやつら、いなくなればいいんだ! あんなやつら、消えてなくなればいいんだ!」
 灼熱(しゃくねつ)憎悪(ぞうお)が両手を()きこがしても、ミモザはけっして力をゆるめませんでした。菖蒲の手をとり、闇の領域(せかい)をみちびき、(やく)に立てたのが、とてもうれしくて、なにより(しあわ)せだったからです。
——だから、これはあたしの大好きなアヤメなんかじゃない。
「アヤメ、アヤメ」ミモザは声を(あら)らげる友に()びかけます。そう、なんども、なんども。
「あたし、あなたとの約束ずっとおぼえてる。おぼえているわ。だってあたしは宇宙でいちばん美しいアヤメの心をもっているんだもの。あたし、アヤメのためになんだってしたい。今はすべてをあげてもいいとさえ思える。もう、あたしのぶんはなんにもいらない」
「でも、あいつらは! むりよ! あいつらだけはゆるせない!」
「ううん。それでも、よ」と、ミモザは()けただれた左手をアヤメの右手にからませます。「さよならの時は大好きな友に笑顔(えがお)でいてほしい。また()おうって、あしたまた遊ぼうねって」
「でも、あなたをこんな(くさ)りきった墓場(はかば)においてけない!」
「ううん。それでも、よ」と、ミモザは右手を(いか)りでこわばる菖蒲の顔にのばし、やさしくなでます。自然(しぜん)とふたりは(かた)りかけるように、やがてそれは()わす歌となり、闇の領域(せかい)に広がりました。

  あなたは聞くでしょう
  ()きすさむ非情(ひじょう)な声を
   それでもあたしは()えよう
   あなたは(きよ)らかな(こと)(おと)

  あなたは歩くでしょう
  光とどかぬ闇の(ふち)
   それでもあたしは(のぞ)もう
   あなたは夜にまたたくアメジスト

  あなたは泣くでしょう
  ()てつく孤独(こどく)の時を
   それでもあたしは()えよう
   あなたは(おだ)やかな暖炉(だんろ)(ほのお)
  
  あなたは(いだ)くでしょう
  みにくいわたしの本心(ほんしん)
   それでもあたしは愛そう
   あなたのあたえてくれた(わか)つ心

「よかった。いつものアヤメね」
「わたしのミモザ! また会いましょう。一緒(いっしょ)にお買いものをして、一緒(いっしょ)にお茶をのんで、一緒(いっしょ)に旅するの。あなたと見たいものや知りたいことがたくさんあるから。いっぱい、いっぱいよ……」
 あふれる想いをつたえた時、笑顔(えがお)でいられたのか、それとも悲しい顔なのか、菖蒲にはわかりませんでした。でも、ミモザだけは知っています。ミモザが最後に暗闇(くらやみ)で見たのは、大好きな菖蒲の顔だったのですから。
 菖蒲は手をふりうす(ぐら)い階段へ、ミモザはあざけりの歌が聞こえる深い闇にとけてゆきました。

通路の消失点Ⅲ

通路の消失点Ⅲ

 まっ白な壁の通路は、あまりの長さに先が見えません。まるで宙に浮いているような白い窓が等間隔(とうかんかく)にならび、ガラスはなく、のぞいても外に広がるのは白でした。
 しばらく歩いていると、おりてきた階段はだんだん遠くなり、やがて周囲(しゅうい)の白とまじりあい、消えてしまいます。
 旅のはじまりにおりてきた変わらない通路になつかしさをおぼえ、菖蒲は足を止めます。
 ()しわらの王子さまを玉座(ぎょくざ)にのこしてから、どれくらい過ぎたのでしょう。
 遠くの消失点にむかって歩き続け、いろんな仲間と出会い、わかれ、まっ白な通路へ帰ってきたのです。まるで時計の(はり)が一周したように。
「だったら0時に出発したことにして、今は12時かな。そうするとつぎは……24時にしよう。まだ一周できるわね」
 菖蒲はくすりと笑い、思いだしたように右下、足もとあたりに目をやると文字が書いてありました。

  ミエルモノガサキデワナイ
   ケレドモミエナクバサキニワユケナイ
    ゼンポウチュウイ 
     アシモトチュウイ

 菖蒲はかがんで壁面文字(ペトログリフ)(なぞ)についてじっくり考えました。
 まず、『ミエルモノ』とはなんでしょうか。
「それは通路とその先に見える点よ」
 しかし文字の続きは『サキデワナイ』と、否定(ひてい)しています。菖蒲は見える消失点を見えないようにして『サキ』へ進むのが(なぞ)の答えであると解釈(かいしゃく)し、『サキ』を手でかくし、見えないようにしたのです。一度目は木の扉にぶつかり、二度目は地面の扉に足を引っかけましたが。
「二段目の文字はフクロウ先生の大きらいな言いわけがましい逆説(ぎゃくせつ)接続詞(せつぞくし)、『ケレドモ』ね。『ミエナクバサキニワユケナイ』って一段目と矛盾(むじゅん)してるのよね」
 菖蒲はレウケ島のイアソン氏から聞いた話しを思いだします。
「おじぃは、うす暗い階段をおりたところが中庭に近い場所とおしえてくれた。だから『ミエナクバサキニワユケナイ』ところが中庭にもっとも近い場所ってことになる」
 どうやって『サキ』を見ることができるのでしょうか。菖蒲はポケットの()ビンに手をやりました。
「アシェレ博士(はかせ)常識(じょうしき)()てて本質(ほんしつ)を見るようアルネヴに言ってた。()ビンの本質(ほんしつ)である(きん)は変わらず、色ぬけガラスだというアルネブの見かたが変わったのよ。それなら通路の本質(ほんしつ)はなにかしら」
 菖蒲は『ゼンポウチュウイ アシモトチュウイ』と(きざ)まれた(だん)(ゆび)でなぞります。
「これは通路を通るたびに話したわたしの声がのこされたんだわ」
 では、最初の文字はいったいだれがのこした言葉なのでしょうか。
「わたしのほかに薄暗(うすぐら)い階段をおりたのはおじぃだけのはず。だから最初の文字はおじぃの声ね。でもおじぃはわたしに階段をおりた先はわからない(・・・・・・・・・・・・・)と通路について言わなかった。ううん、言わなかったんじゃなくて通路だと思わなかったのよ。ということは、これらの文字は通路でなく中庭について書いてあるのか。だから矛盾(むじゅん)している」
 菖蒲はぱっと立ちあがり、通路を見回します。窓は消失点に続き、壁面文字(ペトログリフ)はかならず右にありました。消失点に向かって歩きますが、もちろんいつまでも『サキ』はつきません。ふしぎなことに天井(てんじょう)をあおいでも目を落としても正面(しょうめん)となって窓は消失点へ続いているのです。
「ずっとこの通路の『サキ』が扉のない中庭だとばかり思いこんでいたから窓と文字の位置(いち)が変わらないことに気づかなかったんだ。自分で作りだした錯覚(さっかく)の通路を歩き、『サキ』である近似値(きんじち)の扉を()けていた。でも本質(ほんしつ)はもっとシンプルで、この場所そのもの(・・・・・・・・)だったのね」
 ついに壁面文字(ペトログリフ)(なぞ)()()かした菖蒲は、さっきまで12時をさしていたあたりまえの時計の針がとつぜん、ぐるぐるぐるぐる回り始め、あまりの速さに(けむり)をあげて爆発(ばくはつ)するような衝撃(しょうげき)をうけ、新しい時間の波にくらくらめまいすらしました。
「つまり、わたしのいるここ(・・)が中庭にもっとも近い場所よ!」
 そうです。菖蒲は旅のはじまりに目的地のもっとも近くにいたわけで、通過点(つうかてん)をそのように認識(にんしき)するだけでよかったのです。しかしいったいだれが、壁面文字(ペトログリフ)はイアソン氏の言葉だと、中庭にもっとも近い場所だとわかるでしょう。
 では、菖蒲は無駄(むだ)なまわり道をしていたのですか?

  そうさアヤメちゃん。たいせつな一瞬(いっしゅん)をすくいよせれば、
  人生は思ったより長く、ややこしい時間すら、いとおしく感じるものさ

「おばぁ」と、菖蒲は顔をゆるめます。「たしかにそう思えるようになりました。きっとこれからも」
 ここまで歩いた菖蒲の旅路(たびじ)は、どれもいとおしい思い出になっていました。

もっとも近い

もっとも近い

チン、チリン、チン……
 ガラスの(うつわ)(ゆび)ではじいたようなかたい音が不規則(ふきそく)なリズムで聞こえ、意味(いみ)(うしな)った壁面文字(ペトログリフ)(まど)わくは風化(ふうか)してボロボロくずれ、ちりとなります。
 無色(むしょく)の空と、さらさらの白い砂に、石英(せきえい)のような()きとおった石がころがる荒漠(こうばく)とした地平(ちへい)のあいだに、ぽつねんと立つ菖蒲だけ色をもっていました。
 ぐるり見渡(みわた)すと、地面には双方(そうほう)に向かう足あとが遠くまで(えが)かれていました。まるで新大陸(しんたいりく)到達(とうたつ)した航海者(こうかいしゃ)が残した記念のように。
「これはきっとおじぃの歩いた足あとだわ」
 菖蒲はそう言って足跡(そくせき)をたどりました。すると大きなリュックサックを()に、カタンコトンとケトルやマグカップをうちならす好奇心にあふれた青年(せいねん)幻影(げんえい)が見えます。ふと青年はこちらをふりむき目をきょろつかせ、口もとをうごかします。
「見えるものが先ではない。けれども見えなくば先にはゆけない……」
 菖蒲は幻影(げんえい)をひたすら()います。
「暗い夜道(よみち)をミモザに手をひかれ歩いた時も、こうやっておじぃの足跡(あしあと)もなければ、なんにもわからなかったはず。わたしはみちびかれているのかな。それともわたしが選んでいるだけなのかしら。そのどちらもなの? だれかおしえて。自由とはなに? わたしとは? わたしはいったいどこにいるの?
——人生の雑踏(ざっとう)。人はゆきめぐり風のようにあらわれては消えてゆく。わたしはいつもひとりぼっち。そんなわたしを時間は()かし、文字盤(ダイヤル)の上で前に進めという。ねえ()いはない?
 うん、そうだ。わたしは王子さまのためにここまできたのよ。これはわたしが選んだわたしだけの物語(ものがたり)なんだから、おしまいまでやりとげないと。これからも、わたしは菖蒲(わたし)(えん)じよう——
 新しい気持ちで胸いっぱいの菖蒲は、いつもより高く、もうどこへでも飛んでいけそうなほど(かろ)やかな足どりで歩き、到着点(とうちゃくてん)足跡(あしあと)をふみしめ、ついにその先をながめました。

……ぷっつりとぎれ、なにもありません。まったくなにも。
 領域(せかい)()ては、すみずみまで威光(いこう)にあふれ、(だれ)も立ち()らせない白亜(はくあ)のようでもありました。闇の領域(やみ)で感じた不安や恐怖(きょうふ)ではなく、自然(しぜん)とわきおこる(おそ)れが、すこしでも()れたり、進まないよう(あと)ずさりさせます。こちらに()かう足跡(あしあと)があったのは、イアソン氏も同じように感じたからでした。夜はなく(あか)りや()の光ではない、白く(きよ)らかな領域(せかい)への畏敬(いけい)を。
「やっぱり、中庭に扉なんてなかったのね」菖蒲はきびすを返し、ため息をつきます。
 さきほどまでの高揚(こうよう)は気まぐれの(はね)をつけてあっというまに()()り、通路のあった地点までとぼとぼもどると、力なくあおむけに()(ころ)がり、赤い宝石の指輪を首かざりからはずしていじります。
 菖蒲に力をあたえた指輪は、使用(しよう)した者の記憶を()くす【忘失(ぼうしつ)の約束】がかけてあります。もし、すべての記憶がから(・・)になってしまえば力は使えなくなるので、菖蒲は右手に過去の記憶を、左手には未来の記憶をふりわける、という条件をつけました。過去とは菖蒲の住んでいた領域(せかい)の記憶で、未来とは王子さまの領域(せかい)での記憶です。スズメのための中指は学校と友人、ハタラキアリのための人差し指は街、()しの王子さま作戦の小指は家、ミモザのための薬指はお姉さんの記憶でした。では、親指の記憶はなんでしょう。
「それは、わたしよ」
 菖蒲は体を起こし、ひざまずいて息をととのえ、指輪とむきあいます。なんども親指に通そうとしますが、右手はいやがるようにふるえ、どうしてもできません。

  無垢(むく)な記憶とは自己喪失(じこそうしつ)を意味する。
  (おのれ)をうしない、中庭をおかしたとて存在(そんざい)理由(りゆう)もわからないのであればなんの意義(いぎ)があるか。
  
「おじぃ、あなたの言葉は正しかった。なにも知らないバカな子どもだと笑ってください」
 中庭へ()みこむために約束の力で現在(げんざい)の菖蒲を犠牲(ぎせい)にし、過去の菖蒲を忘失(ぼうしつ)させるのは(おそ)ろしい手段(しゅだん)でした。もし菖蒲そのものがなくなれば、王子さまを助ける記憶もなくなり、()しわらとなった王子さまのくちびるを、この領域(せかい)のものではない少女が扉のない中庭にある井戸の水によってうるおすという【干しわらの約束】を()たせないかもしれません。それに、底なしの穴、空や海、宇宙……今まで旅した未知(みち)領域(せかい)はどれも菖蒲が(えら)べました。どうしようもない問題をなんとかしたり、失敗(しっぱい)をうまくやり直したり、まちがいを正せるのはすべて意志(いし)があるからです。もし指輪の力に身をゆだねてしまえば、そうした自由意志(じゆういし)()てることになります。そしてなによりも、王子さまがわからなくなるくらいなら、イアソン氏のように引き返したほうが正解(せいかい)なのではないかと決意(けつい)はゆらぎます。なぜなら、わたしの王子さま(・・・・・・・・)ではなくなるのですから。
 しばらくのあいだ、菖蒲は葛藤(かっとう)しました。(のぞ)めば通路の消失点はすぐにふたたびあらわれ、本質(ほんしつ)から目を(そむ)けた近似値(きんじち)の扉を(ひら)き、くりかえし意識(いしき)階段(かいだん)をおりて、(あら)たな領野(りょうや)への冒険(ぼうけん)をいつまでも続けることができるでしょう。しかし目的地(もくてきち)は扉のない中庭なのです。
 自分を()て中庭に侵入(しんにゅう)するか、あくまで菖蒲としてほかの道を探すか。指輪の力はあと一回だけ……
「さよなら、菖蒲(わたし)
 覚悟(かくご)を決め、指輪が右手親指の関節(かんせつ)をくぐり、()もとにぴたりとくっついた時、赤い宝石は火花(ひばな)をちらし、こうこうと()えます。
 うすれゆく意識(いしき)の中、菖蒲の目には白妙(しろたえ)一輪(いちりん)、大きなヒガンバナがゆっくりほころぶ様子(ようす)がうつりました。
「ああ、なんてきれいなのかしら……ミモ……ザ」
チン、チリン、チン……
 ガラスの(うつわ)(ゆび)ではじいたようなかたい音が不規則(ふきそく)なリズムで聞こえ、意味(いみ)(うしな)った少女は風化(ふうか)してボロボロくずれ、ちりとなりました。

扉のない中庭

扉のない中庭

 そこは(とびら)のない中庭でした。
 まるで高くつみあげられた()み木の上に建つように、微細(びさい)な空気の振動(しんどう)ですら崩壊(ほうかい)へかたむこうとする緊張感(きんちょうかん)と、荘厳(そうごん)さが静謐(せいひつ)をまとって空間全体にただよっています。
 中庭においてあらゆる形は均等(きんとう)にわけあい、長さと太さのそろった青草が一面に()え、縦横比約一対一・六一八の長方形の地面と相似(そうじ)である無機質(むきしつ)(まど)は、四方(しほう)をかこむ磁器(じき)のようになめらかな乳白(にゅうはく)(かべ)等間隔(とうかんかく)でならんで上方(じょうほう)までずっと続き、天井(てんじょう)はなく、やわらかい光の(つぶ)がぽつぽつと中庭の井戸にむかって、ふりそそいでいました。
 長い黒髪(くろかみ)の少女は()まれたままの姿(すがた)で、いつからまぶたを()けたわけでもなく、ただ茫然自失(ぼうぜんじしつ)とあおむけになっていました。
 光の(つぶ)が目にとけこみ、まぶしくなって右手をひたいにあてます。親指にはゆらゆら赤く燃える宝石つきの金の()がはめてありますが、少女は気にすることなく、しばらくそのまま静止(せいし)していました。やがて、右腕(みぎうで)が重たくなり、ゆっくり上体(じょうたい)をおこし、周囲(しゅうい)観察(かんさつ)しはじめます。
 オリバナムとミルラがほのかに(かお)る中庭の中心には空気のような大理石(だいりせき)の白い井戸がうず()き、ふきぬけからそそぐ光の(つぶ)とまじりあい、ピカピカ(かがや)いています。そのまわりを大きくかこむように四隅(よすみ)に四本とそのあいだに二本、まったく同じ(かたち)をしたリンゴの木が合計六本、整然(せいぜん)とならんでいました。
 なぜここにいるのでしょう。少女にとってはまったく関心(かんしん)のないことでした。実際(じっさい)、少女は自分がだれであるかすらわかりません。そうした記憶はすべてないからです。そもそも〝わたし〟とはいったいなんでしょうか。なにをもって〝わたし〟といえるのでしょう。
 少女はどうにも親指にからまる異物(いぶつ)を取ってしまいたくなりました。この気持ち悪い指輪(ゆびわ)のせいでしめつけられ、息苦(いきぐる)しく感じるからです。ハーネスをはずした馬のように自由になろうと——それにしても〝自由〟とは?
 不快(ふかい)な輪に左手をかけようとした時、少女の(かた)になにかそえられ、顔を横にむけると、なめらかな手が、そこから伝わるふんわりとした心地(ここち)よさで全身は満たされます。
 少女は体をひねり、手から(うで)視線(しせん)をうつして、うすい(きぬ)をまとい、つばの大きな白く()けた帽子(ぼうし)をかぶった美しい女の園丁(えんてい)と顔を合わせました。 
 目を大きくして口もとがゆるみ、今にもキャッキャと笑おうとする少女のぷっくりとやわらかなくちびるに園丁(えんてい)の女はそっと指をあて、右手の親指をにぎり、少女の目をのぞきこみ、首を横にふります。あたかも「それをしてはいけない」と話しているかのように——でも、なぜ?
 園丁の女は少女から(はな)れてリンゴの木へ少しも音を立てず、空気のようにすうっと近づくと、みきを(やさ)しくさすり、となりの木も同じく、そのとなりの木も、といった具合(ぐあい)に六本の木を一本ずつ、ていねいに同じところを同じ回数なだめて(・・・・)いたのです。

 どれくらい時間が経過(けいか)したのでしょう。と、いっても中庭は時間に支配(しはい)されてはおらず、物体(ぶったい)制約(せいやく)された、たんなる空間(くうかん)でもありません。あれから園丁(えんてい)は少女を気にもとめず、延々(えんえん)りんごの木を愛撫(あいぶ)していました。もはや少女は指輪(ゆびわ)への興味(きょうみ)をなくし、()みを浮かべながら丸い目がじいっと園丁(えんてい)を追いかけました。まるでくり返される音楽に合わせ動く機械人形(オートマトン)のように。
 きっかけはなんでもないしぐさでした。少女が左手で右手首にふれ、金の()っかが引っかかります。ふしぎそうに手首を曲げてきらりとひかる輪っかを見つめると、少女の顔をうつし、こちらの目とむこうの目が合いました。そのときはじめて、これはなんだろう、なぜ見ているのだろうと考えはじめます。
——あなたはだれ?
 すると突然、いろんな感情(かんじょう)は四方八方から少女を(おそ)い、喜びがくすぐったかと思ったら、(かな)しみが()っぱります。(いか)りで(あつ)くなったり、楽しくてうきうきしたり、むなしくなって(しず)んだり、(おそ)れたり、安心したり……もうへんな気分(きぶん)です。
——どうしよう、わからない。なんだろう。わめけば、そうよ、(さけ)べば!
 しかし、くちびるに(のこ)った園丁(えんてい)の指のぬくもりで少女の口はぴったりとくっつき、どうしても(ひら)いてくれません。少女はおなかをかかえ、眉間(みけん)にしわをよせてむせび(・・・)少女(しょうじょ)周囲(しゅうい)にある青草たちがにわかにさわぎたちます。しぼりでるように(しずく)がひとつこぼれると、夕立ちのようにボロボロ止めどもなく目からたくさん水は流れはじめ、ほおをつたって落ちていきます。でも悲しいのかうれしいのか、なぜこれほど水があふれ出るのかわかりません。
 少女は(たき)をせき止めようと必死に手でぬぐいますが、いくらやっても止まらないのです。どうしようもなくなり、金の()っかにひたいをあてて力をこめながら、目を()じてしまいます。

——まっ(くら)居場所(いばしょ)。ああ、ここならだれも()めはしないなのね。でもここはどこかしら。
 ほっと安心する少女に、感情(かんじょう)はよけいからかって(かこ)み、少女をくすぐったり、おしたり引いたりします。
——やめて、やめてっ。
 闇の中で少女が苦しんでいると、ささやきが遠くから、やがてこちらに近づいてきて、はっきりと聞こえるようになります。
「あなたのたいせつな人のために水を」
——あなた?
「あなたの(した)う人の(かわ)いたくちびるに井戸の水を」
——人は?
「あなたの想う人のために水を」
——水は? わたしとはわたし?
「あなたの愛する人の(かわ)いたくちびるにあの井戸の水を」
——わたしは……わたしは……

 少女はおそるおそるまぶたを開き、金の腕輪(うでわ)にうつる、ゆがんだもうひとりの少女をじっくり見つめます。それから顔をあげて、自然(しぜん)と体は動き、そろりと立ちあがると、(なみだ)でかすむ中庭の井戸へ、重い足どりで歩き出しました。
 園丁(えんてい)は手を止め、少女の様子(ようす)心配(しんぱい)そうに、はじめて立ち、ふらふらとこちらへむかってくる赤子を見守る母親のような面持(おもも)ちでながめていました。それでも、感情(かんじょう)(おもて)に出さず、あくまで中庭の園丁(えんてい)として少女の歩みを注視(ちゅうし)していたのです。
 言葉(ことば)にならない言語(げんご)が飛びだしてきてはぐるぐるとまわり、少女をさらに(なや)ませます。なにかを()たそうとする強い意志(いし)と、それをさせまいとする抑止力(よくしりょく)は少女の気持ちなど無視(むし)して()えずせめぎ合いました。
 ふみしめた青草はしなびて()れ、そこに多量(たりょう)(あせ)(なみだ)がまじり、ぽたぽた落ちると、(けが)された地面は足から全身にナイフで切り()かれるような(いた)みを少女にあたえます。少女はなんどもなんどもくずおれてはうずくまり、おきあがっては井戸に近づこうとします。なにもない少女にとって今やまったく意味(いみ)をもたない行為(こうい)ですが、そこにむかって歩き、(たお)れるのです。
 苦しみを理解(りかい)してもらおうと(さけ)びたいのに、また思いきり()きだしてしまいたいのに、両手を口にあて、ぐっとこらえます。小さな音の振動(しんどう)によって中庭の精緻(せいち)均衡(きんこう)をできるだけくずしてしまわないよう、ただそれだけの理由(りゆう)(しず)かに、ゆっくりと慎重(しんちょう)に歩かねばなりませんでした。
——でも、なんで? なんで?
 (なさ)容赦(ようしゃ)ない疑問(ぎもん)(はり)で少女の体をつき()し、また石で打ち、ついに少女は井戸の手前、すんでのところでもだえ、動かなくなります。
 それでも()むことなく、なんで? なんで? なんで? なんで、と。

「答えられないからつらいの。でも、あの声をたしかに知っている」
「おまえはなにも知らない赤子(あかご)のくせに」
「たしかに無力(むりょく)赤子(あかご)。でも、あの声は知っている」
「おまえに(うそ)をついているのだ」
「だまされているのなら、それでもいい」
「なにがいい、その(うそ)でおまえはこんなにも苦しんでいるのに」
「どうなったっていい。でも、あの声は知っている」
「なんとおろかな。(うそ)を信じて苦悶(くもん)するとは」
「それでいい、それでいいの。あの声を知っているのだから」
「そうやって自分を納得(なっとく)させ、なぐさめたいだけなのだ。身勝手(みがって)な女め」
「そう、奔放(ほんぽう)な女よ。だからりんごの木は一本なくなった」
「ぜんぶ、ぜんぶおまえのせいだ。たったひとつの(あやま)ちでなくなった」
「だから井戸を、あなたにだれかをうるおす水を()きあがらせたかった」
「ではそうするがよい。しかしおまえのことをけっして(わす)れはしないだろう。こうしておまえにいつも呵責(かしゃく)をあたえるのだ」
「ああ、それでもわたしは(ねが)う。いつか、あなたにりんごの木を。こんどは(ゆた)かに実を(むす)ぶように。そうしたら、どうか(ゆる)してほしい。それまで、さあ強く()きあがれ!」

 中庭は雪が()いあがるように分解(ぶんかい)していきます。
 少女は(のこ)ったすべての力をふりしぼり、白い井戸のふちに左手をからませ、起きあがると、王子さまの記憶(きおく)と少女の(おも)いでかたどった金の()ビンを右手に持ち、ふたを()けて息を止め、ふるえるその手をふちいっぱい、ひたひたに()られた透明(とうめい)な井戸の水のなかへ、そしてできるかぎり水紋(すいもん)を立てないようにそっと()みました。温かくも冷たくもない空気のような水はみずから、ちょうど必要な量だけ()ビンにむかっていきます。
 水が入った小ビンのふたを完全に閉めると、井戸もついにはらはらとくずれさり、少女もろとも取り()ろうとしました。
 その時、少女はうしろからだれかに(やさ)しく()きとめられます。
 冷たくなった少女の(たましい)を守るように慈愛(じあい)が、すべての息を()いて(かた)を落とし、緊張(きんちょう)はほどけ、力なく目をすっと閉じます。
「ねえ、なぜ()いているの?」
「それはね、わたしがあまりにも無力(むりょく)だったからよ」
「そんなことないわ。あなたはわたしを助けてくれた。わたし、知っているもの」
「あなたが井戸の水を()むまで、わたしはすこしも手を()すことを(ゆる)されなかった。これだけ近くにいるのに、あなたはなにもかも捨てたのに、たくさんの(いた)みのこれっぽっちも()ってあげられなかった」
「わたしは(あわ)になってもいいとさえ思った。でも、あなたがわたしの(かた)に手をのせた時、わたしのくちびるにそっと指をあてた時、わたしの右手にふれてくれた時、わたしが井戸にむかって歩いている時さえも、(やさ)しく(はげ)ましてくれたから、だからわたしはここにいる」
「ごめんなさい、アヤメ」
「ありがとう、リリィ」。

たりないもの

たりないもの

 数日、数十日……ベッドで横たわる菖蒲は高熱にうなされていました。
 そばに寄りそうリリィは、菖蒲のひたいに氷をあてて汗をタオルでぬぐい、水や重湯を口にふくませ、ふるえる体を抱いて頭をなでます。
 来る日も来る日も懸命(けんめい)に世話を続けていたある日のこと。はあはあと息をあげながら菖蒲は目をぱっと開け、もうろうとした意識でリリィを見て言いました。
「はじめまして……わたしはアヤメ。干しわらになってしまった王子さまをもどすためにここへきたのよ」
「はじめまして」と、リリィは赤くほてる菖蒲のほっぺたにそっとふれます。「わたしはリリーフロラよ。リリィって呼んでね、アヤメ」
「……リリィ、わたしね……わたし、知りたいこともあるし、教えたいこともたくさんあるの。だから……ねえ、聞いてくれる?」
「もちろんよアヤメ。でも今はダメ。あなたはたくさん傷ついたから、ゆっくり休まないと」
「ありがとう。わたし、うまくやれたかしら? 王子さまもどるかなぁ……よくなるといいな」
 かすれる声を吐きだした菖蒲は自然と目を閉じ、再び眠りに落ちます。
 リリィは愕然(がくぜん)として言いました。
「あなたはなぜ、ここまであたえ続けるの?」
 その答えを探すように、リリィは衰弱(すいじゃく)してゆく菖蒲を献身的に看病し、(なぐさ)め、たっぷりの愛情をそそぎました。しかし、穴だらけのふくろに水をたくさん入れても、水はダラダラもれてしまうのと同じで、愛を受け入れる能力を失った菖蒲にどれほど愛をそそいでも回復はしません。それでも、この方法しかなかったのです。
 菖蒲を治す薬は世界中どこを探してもありません。なぜなら菖蒲のたりないものはみんな持っていますが、目には見えず、たったひとつしかない、とても貴重なものだからです。菖蒲は指輪の大きな力でそれを分けあたえ、強引に足をふみ入れました。すると決壊した障壁(しょうへき)に意識や思い、感情など、ありとあらゆるものがどっと流れ、みるみるうちに菖蒲そのものを壊してしまいました。誰も近づいてはいけない繊細(せんさい)な場所、開けたり閉めたりする扉のない中庭の井戸はもはや枯れ、菖蒲を満たす水は失われてしまったのです。
「わたしはどうなってもいい、なんでもします。だからお願い、この子だけは、この子だけは助けてください。毎日、毎日、苦しみ弱り果てる姿を見ていられない」
 焦せるリリィは恐怖で胸がつまります。それもそのはずです。菖蒲の命はもうすぐ尽きようとしていたのですから。
「いっそわたしを拒否してくれたら、憎んでくれたらいいのに」と、リリィは自分の無力さを呪うように言います。「そうすれば良くなるかもしれない。でも、なにも求めないのはどうしてなの?」
 すると、菖蒲は不安げにリリィを見て、こう答えました。
「だって、(うそ)つくことになるから……わたし約束したのよ、リリィ……わたしはわたしにもう嘘はつかないと。だから、井戸は手おけほどの水を()むことを許してくれた。王子さまを助けると決めた時からすべて受け入れたの。だから……お願いリリィ、そんなわたしのためにわたしのこと、嫌いにならないで」
「わたしは好き、アヤメのこと大好きよ」声をつまらせ、リリィは首を横にふると、たまらず目から涙が、ぽろぽろと菖蒲にこぼれ落ちていきます。「わたし、中庭からあなたをずっと見ていたの。あなたも気づいていたでしょう? あなたがとってもステキな女の子で、どんなおどろくことも成しとげる強い子だって、わたし、信じて待ってたわ。だからはやく元気になって、一緒に王子さまのところに帰りましょう、ね?」
「うん」菖蒲はうれしそうにうなずきます。それから目を閉じて耳をすませ、「きょうは、どしゃぶりね……あす……は……」
 そうしてふーっと息をおだやかに吐いて、菖蒲は呼吸をやめました。
 リリィはわっと声をあげます。家の外まで聞こえるほど強く、大きな声で。
——泣いてこの子を返してくれるのなら! もし、幾万の涙がアヤメの慈雨(じう)となるならば、わたしはいつまでもふり続けよう。

 しばらくして、鍵のかかった家に、見知らぬ訪問者がやってきます。走って急いで寝室へ、菖蒲にすがるリリィのうしろで息をきらし、立ち止まりました。
「リリィ!」胸に両手をおしつけ、強くこぶしをにぎりしめます。「あたしはアヤメのためにやってきました」
 リリィは涙で腫らした顔でふり返ると、そこにいたのは菖蒲と同じくらいの女の子です。
「あなたは」
 ふりしぼるようなリリィの声に、少女はこくりとうなずきます。
「あたしの名はミモザ。ミモザと言います。助けを求めるアヤメの叫びが闇でさまようあたしにまで聞こえました」
 ミモザは菖蒲に近づくと菖蒲の右手に左手を重ね、ふたりのバングルは再開を喜び、チリンと音を鳴らします。
「ねえ知ってる? アヤメ。中庭であなたにささやいていたのはあたしよ」菖蒲の耳もとでひそひそとミモザは話しました。「今からアヤメとした約束を果たすわ。こんどはアヤメからもらったものを返して、あたしのをあげる番。いいよね、ゆるしてくれるでしょう? もしいつか、天高くのびてりっぱにそびえ立つクスノキのように、アヤメが元気になったなら、その時、あたしはアヤメの木に宿る黄色い小鳥になる。絶対、約束よ」
 ミモザは菖蒲に優しくキスをし、おでこをアヤメのおでこにあてました。
「あたしにミモザをくれてありがとう。ほんとうにうれしかった。だから名前だけはあたしのものよ、返さないからね、お姉さん」
 ミモザは菖蒲の両手をしっかりと強くにぎりしめ、たりないものを菖蒲に返し、自分のすべてを、なにもかも菖蒲にあたえました。こうして、()のさす影は満足そうに消えていったのです。
 すると、菖蒲の右手の親指にはめていた燃える赤い宝石のついた金色の指輪は火花を散らしてくだけさり、つむる左目から一しずく、キラキラとかがやく真珠(しんじゅ)のような涙がこぼれ落ちます。
 ふたたび息をはじめた菖蒲はその時から熱がひいて、もうすっかりとよくなっていきました。

むかしむかし

むかしむかし

「おとぎ話しに登場するお姫さまは王子さまといつまでも幸せだったってほんとかしら。リリィはどう思う?」
 ベッドで身を起こし、アイボリーカラーの厚いミルクガラスのマグカップを手にした菖蒲はリリィに質問します。
「そうねぇ」リリィはベッドそばのイスで菖蒲のブラウスに刺しゅうをしながら答えます。「いつまでも(・・・・・)幸せであることと、いつも(・・・)幸せであることはちょっと違うのかな」
「おもしろい考えね、つづけて」
「物語の余白(よはく)ではいざこざもあったんじゃないかしら。たとえば食事の時、サラダとスープどちらから手をつけるか、タマゴが先かニワトリが先かって論争みたいなものよ。わたしはグレエンと洗たくもののことでよく言い合いになるし」
「なにそれ」菖蒲は甘いホットココアを口にして、「どっちでもいいんじゃない」。
「それがね、夫婦のいざこざ(・・・・)なんてまったくつまらないものなのよ、アヤメ。服と下着はべつにして洗ってほしいとか。ああ見えてグレエンはめんどくさい人なんだから。まあでも、わたしが〝そんなに大事なパンツなら自分で洗いなさい〟って言うと、彼はしょんぼりしながらひとりでゴシゴシ洗うけど」
「ふーん、グレエンの意外な一面を知ったわ。わたしと一緒の時はそんなわがまま一言も言わなかったもの」
「もちろんよ。だってアヤメはグレエンのお姫さまではないから」
「そっか……ねえ、じゃあ、どうしてリリィはグレエンと結婚したの?」
「うーん」リリィはしばらく考えます。「たぶんおとぎ話のお姫さまと同じ気持ちか、語り手の願いなのかな。もしくはそうあってほしいだけなのかもね」
「ちょっと、なにそれ」菖蒲は目をほそめながら、「わたしが子どもだからってごまかしてるでしょう?」
「ふふっ。だって、アヤメも好きな人とおとぎ話のような恋であってほしいもの」
「リリィずるい。いじわる!」
 ふたりは大笑いします。
 菖蒲はリリィの介護(かいご)もあって、ベッドの上で楽しく話せるようになりました。リリィはよく、山あいの国のお話しを菖蒲にしました。グレエンや干しわらになった王子さまが幼いころ、どれほど手を焼く男の子だったか、それにキジ三毛のモルトは由緒(ゆいしょ)ある王族ネコだったという話も。
「モルトは落ち着くのが(しょう)に合わないって、さすらいネコとして山あいの国に来たのよ」
「旅ネコの話は嘘じゃなかったのね」と、菖蒲はモルトのひょうきんな顔を思いだしてくすりと笑い、「それに王さまごっこをした時、従者役をいやがる理由もね」。
 菖蒲とリリィの会話は、むかしむかしになくしてしまった誰もが持つ宝物を探しに出かける旅と似ていました。ぶらぶら過去の森を散策しながら夢の広い草原に出て、見守るニレの木陰で休み、カサカサふく風とこすれる葉のおしゃべりに耳をかたむけます。菖蒲は寝っころがって草まみれのままリリィに抱きつき、手をつないで前に走ったり、ぴたり止まってぎゅうっと腕をひっぱり、家へ帰るまでリリィのかたわらではしゃいでいました。
 もちろん、アヤメは中庭でのことや、ミモザのあたえてくれたものを知っていましたし、リリィがそうしたことを口にしないよう気をつけていることだってわかっていました。それで、いつかその時がくるまで、胸の引きだしのすこし奥に閉まっておこうと思ったのです。
 リリィとの宝探しの旅も順調に、自分を取りもどした菖蒲はもっと良くなり、身のまわりのことがひとりでできるようになった日。ベッドで考えごとをしていると菖蒲のもとにリリィは近づき、そばに腰かけます。
「どうしたの、リリィ。おやすみを言いにきたの?」
「そうね」と、菖蒲の頭をなでて、「菖蒲がよくなってわたしはとてもうれしいわ。だから今、わたしたちのおとぎ話を聞いてほしいなって」
「リリィの?」
「そう。でもアヤメが知りたいなら、だけど」
 菖蒲はリリィをじっと見つめてから笑顔で「もちろんよ。大好きなリリィ」。
 リリィはほっとしたように菖蒲を胸に抱きよせ、ゆっくり話しはじめます。
「まずはそうね……いきなりびっくりするかもしれないけど、わたしたちはアヤメと同じ領域に住む女の子だったのよ……」
 むかしむかし、菖蒲が生まれる前のお話しです。
 ふたごの姉妹はお父さんもお母さんも知らず、施設で暮らしていました。ある晩、姉妹は招待されて知らない領域(せかい)にやってくることになります。少女たちを招待したのは干しわらの王子さまのお父さん、つまり山あいの国の王さまで、もうひとりは農夫のグレエンでした。
「ふたりは兄弟なのよ。王さまが兄でグレエンが弟。それにわたしはふたごの姉妹の妹よ」
 菖蒲はたいそうおどろき、「でも、グレエンはわたしに〝王につかえる風車の監視役〟とだけ紹介していたわ」。
「もうひとつの役割を言っていたのね。おそらく【口止めの約束】の力を得るためアヤメにすべてを伝えなかったんだと思う」
「思い返せばモルトやアルビレオも、わたしに話すことを選んでいるみたいだった」
「興廃の丘のお話はグレエンから聞いたかしら?」
「うん、高い城壁に囲まれた王国が滅びたのよね」
「東の風車のあたりにとても大きなお城があって、もともと山あいの国の人々は戦乱から逃れた一部の王家と臣下(しんか)だった」
 領域(せかい)を巻きこむ大戦がはじまる前夜、争いを避けるように祖国をあとにした人々がいました。ですが当然、燃える影は見過ごすはずありません。
「臆病な反逆者どもめ。おまえらがコソコソと逃げ隠れるのを(われ)が黙って見ているとでも思ったか。もしおまえらがただでこの城壁の大門をくぐろうものならどうなるかわかっているだろう!」
 門に立ちはだかる燃える影から家族を守るため、彼らはしかたなく契約を結ばされました。
 国を逃れ、燃える影が干渉(かんしょう)しないかわりに、領域(せかい)()べる王国のため、何も知らない子供をひとり捧げるというもので、【安寧(あんねい)契約(けいやく)】と呼ばれ、燃える影は代々王家の長子(ちょうし)を求めました。
「でも深い山あいに移り住んで最初の王子さまを送り出そうとしたとき、ひとつ大きな問題が起きた」
「王国が滅びたのね!」
「そう、そして世界を()べる王も側近の手にかかり……」
 戦争は領域(せかい)に大きな荒廃(こうはい)をもたらしつつ終わりました。山あいの国の民は大きな災厄(さいやく)をまぬがれたようにみえましたが、おとぎ話しのように幸せな結末にはなりませんでした。なぜなら燃える影は生きていて【安寧の契約】の履行(りこう)を求めたからです。
「目的は王国の再興(さいこう)か、裏切り者への復讐(ふくしゅう)なのかわからない。とにかく【安寧(あんねい)の契約】は山あいの国の民にとって、のみこんだトゲのように苦しめ続けた」
「ひどい! もともと領域(せかい)を滅ぼしたのは山あいに逃げた人々ではなかったのに」
「ええ」リリィは興奮(こうふん)する菖蒲の背中をなでます。「でも、影は人間の弱さをよく知っていた」
 懐疑(かいぎ)絶望(ぜつぼう)憎悪(ぞうお)。燃える影は飢えた月夜のおおかみのように人間のおちいる闇をむさぼり、領域(せかい)()べる王の意志を完璧(かんぺき)投影(とうえい)しました。なにも知らず国を追放されたと王子さまがすべてを知った時、甘い言葉で誘惑し、たくみにあやつろうと、しくんでいたのです。
 ところが燃える影のあてはむなしくはずれ、いく世代も平穏(へいおん)に過ぎ、ついに山あいの国の民は王に進言(しんげん)しました。
「王よ、あなたはわたしたち民のために犠牲となってくださいました。大事な子どもを影に差しだしてきたのですから。もう苦しむのはじゅうぶんです。父祖たちがここにやってきたのは、むなしい権威の束縛(そくばく)から解かれるためではありませんか。それにもかかわらず、朝、焼きたてのパンを食べても、夜にみなで音楽を(かな)で、ベッドに横になるときも、あなたの家の子が今、どこで、なにをしているのか、わたしたちをうらみ、失望しつつ孤独(こどく)にさまよっているのではないかと思うと、なにも楽しめません。あなたの子はわたしたちの家族、あなたの痛みはわたしたちの苦しみなのです」
 山あいの国の民はゆがんだ連鎖(れんさ)を今こそ断ち切り、自由になりたいと思うようになりました。
「自由だと? 愚民(ぐみん)め。束縛(そくばく)こそおまえらを(りっ)してきたのが事実」燃える影は山あいの国のオトナたちの声を聞きつけ、すぐにやってきます。
(かせ)なき支配がどうして社会秩序(しゃかいちつじょ)をもたらすか。法と(のり)にしばられた(おり)のなかであれほどさわぎ、踊りくるっていたではないか。おまえらが残した歴史は争い絶えぬ嘘ばかりの変化もない回転草。幾年もの安寧(あんねい)を子一人で保証しているほうがずっと優しいとは思わんのか」
 王は民にたずねます。
「たしかに、私たちは謳歌(おうか)した自由の責務(せきむ)から目をそむけてきたのかもしれない。しかし、果たしてこのままで良いだろうか」
 民は力強くこたえます。
「わたしたちにとって自由は権利の追求ではなく、みなで分け合い、みなで担い果たす責任です。なにより王よ、(そら)を見上げ、胸が高鳴るようなあの自由について子どもたちに喜んで語り伝えられる親となりたいのです」
「ああ、わたしの兄弟たち! 今日この場に立てることを誇りに思う。ではみなで【庇護(ひご)の約束】をしようではないか」
 つぎの朝、湖畔(こはん)のガゼボで王はふたりの子どもにすべての真実を教えました。長かった【安寧(あんねい)の契約】をついに破棄(はき)した夜、燃える影は激怒(げきど)し、山あいの国の大人だけをすべて()みつくしていったのです。
「ガキども覚えておけ! これがおまえらのバカな親が望んだ、くだらん自由とやらへの報いだ!」
庇護(ひご)の約束】によって生き残った子どもたちをおどしつけ、燃える影は空の彼方(かなた)へ消えていきました。しかし子どもたちは恐れません。生きるためにどうすればよいか、親からしっかりと聞いて学んでいたからです。そして、むかしからひそかにねられた影を打ち破る計画についても。
 ずるがしこく強力な燃える影と戦うためには約束の力と外の領域(せかい)の仲間がどうしても必要です。さっそくふたりの王子さまは行動にうつしました。
 いっぽう、深夜の孤児院(こじいん)でのこと。おとぎ話しが大好きなふたごの姉妹は、みんなが寝静まったのを見て、ボロボロの人形とためておいたビスケットを数枚、お気に入りのカバンにつめ、施設をぬけだそうとこっそり玄関(げんかん)に向かいました。
 きしむゆか板をそろりと歩いていたらとつぜん、リリリン! リリリン! 
 線のはずれた使われていない古い電話機のベルがけたたましく鳴りだします。このままではオトナに気づかれて、なにをされるか! 姉妹はあわてて重たい受話器を持ちあげると、むこうから男の子の大きな声が聞こえます。
「どうかそのままで! あなたたち、ふたごの姉妹(・・・・・・)の助けが必要なのです」
 姉妹はびっくりして顔を見合わせます。なぜこちらにふたりいて、しかもふたごの姉妹だと知っているのか、どうして助けが必要なのでしょうか。
「電話からリリィとお姉さんは招待を受けて王子さまの領域(せかい)にきたのね」
「そう。あと、これは秘密だけど」リリィは菖蒲の耳元で、「おとぎ話しをつなぐ交換手(こうかんしゅ)はシロゾウよ」。
「ほんとうに? リリィ、わたし今度会いに行きたい!」
「わたしたちはもうワクワクしたし、なによりうれしかった。姉さんとどうやって遠く広い世界へ旅に出るか、いつも本を読んでたくらんでた。あの日も、わたしたちは本気だったのよ」
 姉妹の願いはぴったりとかないました。山あいの国の子供たちにむかえ入れられ、夢のような生活が始まったからです。
「山あいの国子どもたちはとっても明るくて、すぐにみんなと仲良しになったわ。わたしたちはすこしだけ年上だったから食事を作ったり、お掃除に針仕事をして、大忙しの毎日!」
 菖蒲は目を輝かせリリィを見つめます。
「リリーフロラ、あなたはピーター・パンにでてくるウェンディね。わたしもあなたのような強い女の子になりたい」
「そう言ってくれてうれしい。アヤメ、あなたとはいい友達になれそうね」

約束の力

約束の力

 燃える影は山あいの国の子どもたちに【安寧(あんねい)の契約】がまだ有効であると(うそ)をつきました。大人が一方的に破棄(はき)しただけだ、というわけです。しかし子どもたちは、ほころんだ契約を逆に利用することにしました。
「闇は子どもたちの計画に気づかなかったのかしら」と、菖蒲はたずねます。
「彼らは【口止めの約束】より重い、【沈黙の約束】を結んだのよ」と、リリィは答えます。
「そっか、約束の力で燃える影に知られないようにしたのね」
「そう、闇を打ちやぶるまで真実を()める約束。闇は人の(うち)なる言葉を読むことまではできない。子供たちは親をうしなった悲しみをふくめ、すべて記憶にとどめ、かわりに希望を取りだしたの。わずかでも真実がかすまないように」
 それでふたごの姉妹は山あいの国にやってきましたが、何をすればよいのかまったくわかりませんでした。でも姉妹は子どもしかいない様子を見て、また彼らと知り合い、打ちとけるうちにだんだんと理解していったのです。
「へんな話よね。せっかくわたしたちは招待を受けたのに、なんで助けてほしいのか彼らに聞いても口をつぐんでしまうんですもの。でもね、わたしと姉はアヤメも持っているすばらしい力を使ったのよ」
「約束の力ではなく、わたしも持っている力?」
 リリィは両手で菖蒲の前髪をかきわけ、目をのぞきこみます。
「それはね、言葉にならない声を聴く力。きっとアヤメは自然に使っているから気づいていないけれど、とても美しい能力よ。もちろん、どんな力でも正しく使わなければいけないわ」
「リリィわたし、ちゃんとできているかしら」
「だからわたしたちはこうして会えたんじゃない」
 菖蒲は恥ずかしそうにリリィの胸もとに顔をうずめます。
「どんな境遇(きょうぐう)も人にいろんな力をあたえる。わたしたちはおとなになって結婚し、山あいの国の民となった日、聞かなければならない話をそれぞれ夫から伝えられた。約束の力についても」
「ねえリリィ、あなたたちは利用されたって思わなかった?」
「ぜんぜん」リリィは首を横にふります。「むしろ心がわき立った。これからおもしろいことが起きようとしている、きっと大変だけど絶対に手ばなしたくない物語になるって。アヤメも、あの異国の風をかいだでしょ?」
 菖蒲は納屋(なや)を飛びだしたあの日の興奮(こうふん)を思いだし、大きくうなずきます。
「でも愛はべつ。なにからも強要されたわけではないわ。時間を一緒に過ごして自然と、せせらぐ川のような恋をした。話しているうちに大きな川となって、どこまで続くのだろう、もっともっとグレエンの広さを知りたいから結婚したの」
「すてきなお話しね」
「ありがとう、アヤメ」
 燃える影を打ちやぶるチャンスは一度。国を旅立つ王子さまが燃える影と相対(あいたい)する時です。ですから兄弟のうち、どちらが王となるかはとても重要な問題でした。ふさわしいのは兄か弟か、ふたりの王子は悩みましたが、ついに決心します。兄が王となることを。
「どうやって選んだのかグレエンに聞いたけど、彼はぜったい教えてくれなかった。姉さんも同じことを言ってたわ。ただ【王位の約束】とだけ」
 山あいの国に新しい王が即位(そくい)し、闇を打ちやぶるための準備ははじまりました。王さまと王妃さまは急いで記憶の星に旅立ち、【手つなぎの約束】で自分たちの記憶を採取し、青い剣とそれに力を加えるため、赤い宝石の指輪も加工しました。記憶の結晶には『役割を果たすまで決して壊れない』という性質があり、燃える影と戦うにはうってつけの道具です。
「記憶の星から帰ってすぐ、わたしたち姉妹は前の領域(せかい)へ二度と帰らない、という【不帰(ふき)の約束】の力を剣と指輪に加えた。そのあと王子も誕生(たんじょう)し、あとは旅立ちを待つだけ」
「ちょっと待って、リリィ。何も知らない干しわらの王子さまはどうして剣と指輪で燃える影を打ちやぶろうと思うのかしら」
「そう、それが一番難しい問題ね。本当は【口止めの約束】で王子に伝えようとしたの。ただし【沈黙(ちんもく)の約束】をおかす危険もあった。それに、約束の力も弱まってしまう」
「どういうこと?」
「アヤメは約束の力がどういうものか知っているかしら」
「うん、馬小屋会議でアルビレオが話してくれた。〝重い約束ほど力は強く発揮(はっき)され、逆に約束を守らなければ大きな代償(だいしょう)がともなう〟でしょ」
 ではなぜ約束に力があるのでしょうか。それは誰も約束を守る人がいなくなり、なにが『本当のこと』か、わからなくなってしまったからです。人間の軽易(けいい)口約(こうやく)によって『本当のこと』を壊さないため、力をもつようになりました。
「グレエンが言うには、この領域(せかい)でない人の約束がより大きな力になるみたい。むかし、みんなの(うそ)領域(せかい)を破滅させ、約束の価値をさげたからその代償(だいしょう)に信頼を失ったから、と」
「それでわたしやリリィの助けが必要だったわけね」
「約束は信じればそれだけ強化されるし、疑うと弱くなっていく。王と姉さんは王子が旅を通して真実を理解し、行動するのを信じようと決めた。もっとも王子は国を()つ前から多くのことを知っていたみたいだけど」
——ヘレムのことだわ——。はっとする菖蒲に、リリィは黙ってうなずきます。
 燃える影はいったいどこに身をひそめているのか、これも問題のひとつでした。転機(てんき)となったのは【安寧(あんねい)の契約】を破棄(はき)した日の夜です。おとなをみんな()みこんだあと、モルトが命がけで影の(あと)をつけていきました。なんて勇敢(ゆうかん)なキジ三毛ネコでしょう!
 灯台下暗(とうだいもとぐら)し、影はずっと昔から住処(すみか)を変えていませんでした。王子が旅立つ少し前、リリィとグレエンはモルトの案内で東の風車へ向かいます。
 小麦畑の農夫として監視(かんし)を始めてからしばらくたってからのこと、ついに王子さまがアルビレオに乗って風車にやってきました。
 王子さまは青い剣に【()しわらの約束】を、赤い指輪に【忘失(ぼうしつ)の約束】を加えてアルビレオにたくします。風車からでてきた燃える影は大蛇(だいじゃ)の姿で興廃(こうはい)の丘にいるグレエンとリリィを(おそ)いました。
「わたしは山あいの国を出る前に秘密の約束をしていた。それは燃える影に恐れず立ち向かう【覚悟(かくご)の約束】。結果はどうなったかわかっているでしょう?」リリィはにやりと自信たっぷりに()みをうかべます。「わたしたちの勝ちね、アヤメ」
 みずから大蛇に()まれたリリィは王子さまが燃える影と()わした【干しわらの約束】について知ります。
「心の水を()むために女の子はすべてをうしなう。わたしはせめて中庭から出るための助けとなりたい。そう願ったら、おどろいたことに園丁(えんてい)として待つことを許された。おそらくこれは約束よりももっと強い力、わたしがあなたを見あげたときに感じたのは……でも、わたしは中庭であなたを」
 リリィは言葉につまります。まるで深い穴の底にしずむような目で、菖蒲はリリィをはるか遠くに感じ、(さび)しさで胸が苦しくなりました。——だめ! いなくなってしまう——孤独(こどく)に足をつかまれる菖蒲は闇へと消えるリリィに手をのばそうとします。
()しゅうの入ったカーテンも、モクレンのかおりがするフカフカのおふとんも、わたしにぴったりなレースのワンピースやちょっぴり大きめのぼうしも、ドライフラワーやハーブ入りのお風呂も、かわいい食器もすてきな庭も、みんな、みんな、なにもかもリリィ、あなたがわたしのために用意してくれたのよね?」
「それはね、それは……わたし、子を宿す力が」
「お願いよリリィ、アヤメのためと言って!」菖蒲はリリィの言葉を強く否定するようにさえぎります。「どんな境遇(きょうぐう)も力をあたえるのでしょ? わたし、リリィを窓ごしに見たとき、ほほ()みかけてくれた時、どうしても会いたくなった。なによりも今、わたしはたしかに満たされてる。知らないところでさえたくさん。だからこんなに落ちついていられるのよ」
 うつむくリリィの長い髪はだらりとたれ、ふたりをへだてる金色の(まく)は顔をおおいます。
「わたしはもうずっと、ずうっとリリィ、あなたの気持ちに気づいているわ。そして宇宙で一番温かな力がわたしたちを引き寄せたことにも」アヤメはリリィの手をぎゅっとにぎりしめ、「だからもうわたしを離さないで、お母さん」。
「ええそう、あなたのため、全部あなたのためよ!」
 リリィはたまらず力いっぱい菖蒲を、そのすべてを包みます。
(いと)しいわたしの娘、アヤメのために!」

なぞかけ歌

なぞかけ歌

 リリィとのむかし(ばなし)(きり)がかった木立のあいだから差しこむ()のように菖蒲の思いをさわやかに照らし、前よりずっといきいきと、新たな活力や意志をあたえました。いろんな人の考えや願い、複雑(ふくざつ)にからむ約束は、これからしなければならないことを菖蒲にはっきりと告げていたのです。そう、井戸の水で王子さまをもとのすがたにもどし、あの燃える影を打ちやぶることを!
 そんなある日、「リリィのすてきなところは」と、菖蒲は食卓(しょくたく)のイスにすわって砂時計がさらさら下に落ちるのを見ながら指折り数えていました。「早くしなさいって()かさないとこ、あれこれしなさいって押しつけないところ、おかしいって顔をしかめないところでしょ。それに……」
 全部の指を折りたたんでにこにこしていると、リリィはパウンドケーキを持ってやってきました。
「リリィはいっつもいそがしそうね」足をバタバタさせ、ほおづえをついた菖蒲は言います。
「あら、そうかしら」と、リリィは答えます。
「わたしの見るかぎり、三十人のリリィが前を往復(おうふく)していたわ」
「ああ、それは」と、リリィは四角(しかく)いパウンドケーキを切り分けてから皿を菖蒲に渡します。「きっと、この家に住む小人よ」
「七人じゃなくて? ちょっと多すぎじゃない?」
「あら、うちのお姫さまにはたりないくらいよ」
「なんて世話の焼けるお姫さまなのかしら!」
 やがて時間の砂はふりやみ、菖蒲はティーポットをかたむけると紅茶を最後の一滴(いってき)までふたつのカップにそそぎます。
「ねえリリィ、どうしても気になることがあるの。聞いてもいい?」
 リリィは立ちのぼる紅茶の香りにうっとりしながら、「教えてあげられることならなんでもどうぞ」
「『干しわらになった王子さま』の本にある、王さまのなぞなぞについて、どうしてもわからないの。〝(しん)のないりんご、扉のない家、鍵のいらない宮殿(きゅうでん)〟の答えってなんだったのかしら?」
 リリィは少し考えてから思いだしたように笑い、「たぶん王はなぞかけ歌を王子に伝えたんじゃないかしら」
「なぞかけ歌?」
 するとリリィは『愛する彼に苹果(リンゴ)(※4)という歌を歌いはじめました。

  愛する彼に(しん)のない苹果(リンゴ)をささげよう
  愛する彼に扉のない家をささげよう
  愛する彼の過ごす宮殿(きゅうでん)をささげよう
   彼が開けるのに鍵はいらない

  わたしの想いは(しん)のない苹果(リンゴ)
  わたしの気持ちは扉のない家
  わたしの心は彼の過ごす宮殿(きゅうでん)
   彼が開けるのに鍵はいらない

「リリィは歌じょうずね、はじめて知った」
 菖蒲はリリィの歌声を〝すてきなところ〟のひとつに加えました。
「わたしは一番のなぞかけを歌って、姉さんは二番の答えを歌うの」と、リリィは言います。「それから王とグレエンに姉と妹を当てさせる遊びをしていたわ。時には姉さんが一番、わたしが二番を歌い、さてどちらでしょうって。わたしたち双子(ふたご)だから姉妹逆転(ぎゃくてん)させて、彼らにいろんなイタズラをしたものよ」
「おもしろい遊びね」
「みんなおとなに成長して、秋の収穫(しゅうかく)も過ぎ、冬支度(じたく)を始めようとしたある日の朝、湖のほとりにあるガゼボで、王は姉さんに、グレエンはわたしにこう言ったの。
——もし姉妹(あなた)のイタズラを見やぶることができたなら、どうかリンゴをわたしにください。
 そこでわたしたちは最高の悪だくみを思いついた。わたしはサイドヘアにして姉さんのブラウスと花の()しゅう()りエプロンを身につけ、姉さんはツインテールにわたしの藍色(あいいろ)のチュニックを着る。約束の日の夕方、ガゼボに集まったわたしたちはそれぞれ赤いリンゴをひとつ手に、あの歌を歌ってみたのよ。それからリンゴをふたりの王子のまえに差し出し、あなたのほしいリンゴはどちらって」
 菖蒲の胸はなんだかほわほわと熱くなり、顔はリンゴのように、目を大きくして身を乗りだすように言います。
「それから、それからどうだったの? リリィ」
「アヤメもわかってるでしょ。わたしたちのつまらないイタズラなんて最初からお見通し。彼らは容姿(ようし)でわたしたちを見分けてたんじゃなくて、声を聞き分けていたの。ずるいわよね、ふたりともずっと知っていたのにわざとだまされたふりをしてたんだもの。まちがえたら姉さんとふたりで大笑いしようねって、ひそひそ話していたのに。まじめな男の子はつまんないわよ、ねぇ」
「……」
「お人形(にんぎょう)さんみたいにかたまって。どうしちゃったの、アヤメ?」リリィは不満げな菖蒲のほっぺをきゅっとつまみます。
「いや! そんなおしまいはいやよ。どうなったかちゃんと聞きたいの!」
「どうなったかって、それはそれは幸せに暮らしましたとさ……」
「その前のお話よ、ほら、あの言葉があるでしょ」
 ああ、と思いだしたようにリリィは目をそらし、ティーカップを口につけます。でもなんだか菖蒲みたいに顔はまっ()です。
「アヤメのいれる紅茶は最高ね。どこで覚えたのかしら」
「ごまかさないで」
 鼻息荒く熱心にこちらを見つめる菖蒲。追いつめられたリリィはついに観念(かんねん)してカップを置き、浅いため息をつきます。
「……今まで聞いたことのないくらいとっても甘くてとろけるような愛の約束をささやかれたわ。これ以上は秘密! ぜぇったい教えない、もうおしまい」
「リリィのけち」
「ふぅん」と、リリィは目をほそめ、「アヤメも大好きな男の子から聞くのよ。そうしたらわたしも同じこと聞くけど、それでもいいの?」
 思わぬ逆襲(ぎゃくしゅう)を受けた菖蒲のお城は火矢(ひや)でみごと撃ちぬかれ、心臓(しんぞう)は飛びでそうなくらい、どっくんどっくん鳴ります。考えれば考えるほど燃えあがる恋の炎を消火しようと、そばにあった水をゴクゴク飲みます。そんな様子がおかしくて、ふたりは目を合わせ、大笑いしました。
 王さまのなぞなぞは解決し、愛の約束もうまくはぐらかされたところで楽しいティータイムはおしまいとなり、食器をかたづけて居間にむかいます。
「リリィ」菖蒲は落ち着いた、でも力のこもった声で言います。「やるべきことをはじめましょう」
 リリィはうなずき、くすんだ金色の(かぎ)をつくえの上にことりと置きます。
「このカギは裏口の扉を()けるための(かぎ)よ。裏口扉の錠前(じょうまえ)は内側についていて、扉のむこうはどこへでも行ける階段があるわ。ただし、使えるのはわたしとアヤメの一回ずつ。なぜなら鍵穴(かぎあな)にさしてまわしたら、外側から閉じてふたたび(じょう)をおろすまで(かぎ)はぬけないから。それに、外側はドアノブがないから()けられない」
「なるほど、これで王子さまのいる王の()に帰れるってわけね」
「そう、そしてアヤメ、わたしたちが今どこにいるか、もうわかっているわね?」
「もちろん」と、菖蒲はすぐにこたえ、ぶあついカーテンを思い切り開いてみせました。
 窓の外はどす黒い血のような液体のたれるおぞましい夜空に、ポコポコと音を立ててヘドロわく汚れた沼地、遠くで紫色の雷は切り立つ黒い山をぶきみに照らしています。
 もちろん、ここは干しわらになった王子さまのいる領域(せかい)ではありません。菖蒲を(ねら)っていた、あの恐ろしい大蛇の体内だったのです。
「大蛇に呑まれたわたしは倒れているところを影の男の子に助けられ、ここへ連れてこられたの。影の子はときどき家にやってきては中庭や【干しわらの約束】について教えてくれたわ。それに、父親を待っているとも」
「もしかしてイシュが」
 菖蒲は月明かりに照らされたあの夜、影の少年の深く(うれ)いた声を思い、胸はうずきます。グレエンの伝えたようとした羽根(はね)のまわり続ける風車、いつも()をたらす小麦畑、納屋(なや)と古い農家の秘密とは、すべてイシュと〝父親〟の過ごした心象風景(しんしょうふうけい)で、リリィと住むこの家も東の風車にある農家とまったく同じつくりだったのです。
「ねえリリィ、わたしたちへんよね。こんな最悪な景色のそばでぐっすり寝たり、おいしい食事をしたり、さっきまでお茶を飲んで笑っていたんですもの」
「わたしたちだれよりも強い女よ。断言できるわ、アヤメ」
 リリィは窓の前で腰に手をあて、どっしりかまえます。
「〝ピッピロッタ・タベルシナジナ・カーテンアケタ・ヤマノハッカ・エフライムノムスメ・ナガクツシタ(※5)みたいに?」
「長い名前!」
「馬を持ちあげるくらいとっても強い女の子なのよ。わたしピッピのこと大好き」
「今のアヤメならアルビレオを持ちあげちゃいそうね」
「リリィ、わたしのお願い、聞いてもらえる?」
「わたしのしてあげられることならなんでもいいわ」
「裏口の(かぎ)、わたしたち一回ずつ使えるのよね? リリィは先にもどってほしいの」
「そんなのだめ」と、リリィは顔を横にむけると、そばに立つ菖蒲と、もうひとり重なるように女の子が固い決意を()めた目で窓の外のそびえる黒い山をじっと見つめています。
「わかったわ」リリィはしばらく考えてから言います。「ではわたしの右手にアヤメの手を重ねて」
 菖蒲は言われたとおりにのせると、リリィは左手をそえます。
「これから【母娘(おやこ)の約束】をしましょう。わたし、母であるリリィは【覚悟(かくご)の約束】で得た力をあなた、娘のアヤメにわけます。かわりにわたしのもとへ必ず帰ってきなさい。それと、中庭の時のように無理はしないで」
「わたし、娘のアヤメはあなた、母であるリリィの約束を聞きました。わたしは【母娘(おやこ)の約束】を守り、かならず母のもとに帰ります。中庭の時のような無理もしません」
「もしグレエンに会ったら、あなたの家で待っています、と伝えてもらえるかしら」
 菖蒲は笑顔でうなずきました。

光と影による交渉

光と影による交渉

 くすんだ金の棒鍵錠(ぼうかぎじょう)(かぎ)を差しこんでひねり、木製の扉をおし()けると、石階段が上へどこまでものびています。ヒューヒューとふきぬける風は、まるで階段を通る者の目ざす出口を知りたがっているようでした。
 不安げな表情をしたリリィは菖蒲のほおを優しくなで、できるだけ早く帰ってくるよう言いのこし、風とともに消えていきます。
 扉が閉まると(じょう)はひとりでにかかり、(しん)ちゅうの(かぎ)はくるんとまわってぬけ落ち、菖蒲はひろってポケットにしまいます。それからだれもいない居間を通って玄関(げんかん)の壁にぶらさがる丸い姿見(すがたみ)の前で長い黒髪をまとめました。
「お願い、わたしのミモザ」鏡にうつるアヤメは右手首についた金銀のバングルに語りかけます。「ふたたび立ちあがる勇気を」
 そう言って、まがまがしい雰囲気(ふんいき)のもれでる玄関扉(げんかんとびら)をいきおいよく(ひら)き、外へ飛びだしました。
 生ぬるくべっとりした重みのある空気、ぬかるむ地面は底なし沼のように、一度でも足をすくわれれば、体ごとのまれる危険をひしひしと感じます。もう二度と芽をだすことはゆるされない灰色の枯木(こぼく)はいたる所につっ立ち、絶望(ぜつぼう)と、ひたいにきざまれた(むくろ)はいくつも山とつみあげられ、時おり、ころがり落ちてしずみます。
 菖蒲は沼からわく腐臭(ふしゅう)にたえながら、大きな(けもの)がずるずる引きずられたような(あと)をずんずん歩きます。あちこちに隠れる面子(めんつ)をつぶされた欲深(よくふか)き四つ足の人影は、悪意にみちた表情で少女をうかがい、飛びかかってむさぼろうと一瞬(いっしゅん)の失敗をねらっています。しかし不思議なことに誰も手をだすものはいません。まるで短夜(たんや)にまうホタルのように、ぽおっと白い光が(ころも)となって菖蒲を守っていたからです。うしろめたい闇はまっすぐな光をおそれてもいました。
 はき捨てられた偽りの騒然(そうぜん)がたえず耳についてもけっしてうろたえることなく、タールのような黒い雨でよごれても、まったく気にとめず、菖蒲はただ一点を目ざし、前へ前へと進みつづけました。
 やがて沼地を()にし、雷鳴(らいめい)とどろく黒い孤峰(こほう)のふもとまで近づきます。口をあんぐりあけた鍾乳洞(しょうにゅうどう)はするどいきばをむいて待ちかまえ、嫉妬(しっと)の風をはきだしていました。もし【覚悟(かくご)の約束】の力がなければ菖蒲など紙切れのようにやすやすと遠くへふき飛ばしていたでしょう。
 山の中心に近づくほど、熱風は菖蒲をおそい、ひたいから(あせ)が流れ落ちます。それでも奥に進み続けると、やがてついに広い空間に抜けました。
 オニキスをけずりだした漆黒(しっこく)の座が中央にどうどうとかまえ、燃える影は胡坐(こざ)をかき、ひじかけにどっしりとよりかかり、ふてぶてしくこちらを見おろしています。
「さて、賢良(けんりょう)な人間だと(ひょう)し、単刀直入に言おう」
 菖蒲は王子さまと対峙(たいじ)した、ぞっとするほど冷淡(れいたん)で低い声を思いだします。
「井戸の水を(ワレ)に。【安寧(あんねい)契約(けいやく)】を破棄(はき)し、未来永劫(みらいえいごう)あの国には手をださん」
 燃える影は腹話術(ふくわじゅつ)のように菖蒲の耳もとでこうささやきます。
——おまえの手中に大勢のゆらめく灯火(いのち)がある。望みどおりにあつかうがよい。支配するも、ふき消すもおまえしだい。ただ水をこちらに渡しさえすれば。
 燃える黒い影は気づかれないほど小さく、にやりと口角(こうかく)をあげます。
(ワレ)辟易(へきえき)していた」と、影はこまり果てたように弱々しく語ります。「自由と権利をふりかざし、()くことなく〝正義〟をひたすらさえずる愚民(ぐみん)にな。だだばかりのなんとまあ、わずらわしい人形(でく)か」
 菖蒲のこぶしがすこし緊張(きんちょう)するのを影は見すごしません。間髪(かんはつ)をいれずに言います。
「いいか、人形(でく)はな、真実であるほどよく(うたが)い、(うそ)であるほど熱心に信じる。紳士淑女(しんししゅくじょ)よろしく常識(じょうしき)のドレスをまとわせ、舞台で(えん)じるが相応(そうおう)。さきの大戦もひとつの誤解で人形(でく)は壊れるまで(おど)りくるった。約束の力などとあいつらはぬかすが、そもそも約束を守らず、恥ずかしげもなく公然と(うそ)を見苦しい言いわけと共にはく。
 なるほど宇宙に(いつわ)りなどない。たんにあざむかれ、(そむ)いたのだ。(けが)した体をイチジクの葉でおおい、せいぜい(はじ)(かく)そうとしたあのはじまりから。そもそも(おのれ)の価値を低めたのは人形(でく)自身ではないか?」
——しかし(ワレ)は小ビンにこめられた水の価値を知っている。手にするため、さぞ苦心(くしん)したであろう。人形(でく)ごときにたれ流すのはなんともったいない。かってに()しわらとなったバカなど忘れ、(ワレ)とともに歩め。
(ワレ)が水の力を使えば、新たな文化の黎明(れいめい)(はい)し、高尚(こうしょう)秩序(ちつじょ)をもたらす瞬間(しゅんかん)にも立ちあえよう」
 じっと静かに見つめる菖蒲に、影は大きくため息をつきます。
「金か、称賛(しょうさん)か、それとも凡庸(ぼんよう)な人生か? そんなものにたかるはせいぜいハエぞ。まあ欲しくばなんでもよいが」
 洞穴(どうけつ)をぬける風はむなしく口笛をふきます。燃える影の交渉(こうしょう)はいつまでも合意に達することなく、菖蒲のくちびるは微動(びどう)だにしません。
「つまらん、つまらん、ああつまらん!」しびれを切らした影はごおごおと憤怒(ふんぬ)を燃やし、ひじかけをたたき壊します。
「オレはな、沈黙(ちんもく)がもっともきらいだ。なにもかも知っているようなうす(ぎたな)い目をむけやがって!
 いいか、よく聞け。おまえらがあの時のようにオレの()(ねら)おうと、こそこそ動きまわっているのに気づいていないとでも思っていたか、ひきょう者どもめ。
 なにが井戸の水だ! なにが約束の力だ! そんなもの、世を()べるオレの偉大な力で今すぐうばいとってやる!」
 あびせる怒声(どせい)威嚇(いかく)するライオンのように、影はいきおいよく立ちあがり、菖蒲にむかって左右に手を大きくふりながらつめよります。
「なにかこたえろ! さあこたえろ!」
——わたしはくり返しあなたの名を呼んだ。
「おまえをいますぐ!」
——なんども、なんども。
「この場で!」
——愛する友のたったひとりの家族だから。
「消しさってもいいんだぞ!」
——あなたを取りもどそうと。
「わかってるのか!」
——でも、(とど)かない。
「いいや、そんなもんではすまさん! 泣きわめき、命ごいするまで(いた)ぶり続けてやる! なまいきな小娘(ガキ)め!」
 燃える影は菖蒲のほほを打ち、菖蒲はうしろに(たお)れます。
——なぜあなたには見えないの? なぜあなたには聞こえないの? なぜあなたには感じられないの?
 むくりと身を起こした菖蒲は燃える影から決して目を(はな)しません。すると、どう(もう)野獣(やじゅう)は少女からあとずさりし、それはまるで鼻息(はないき)(あら)い動物をしつける調教師(ちょうきょうし)にも見えるのです。
 菖蒲は息を目一杯(めいっぱい)すい、「いいかげんになさい!」
 ビリビリふるえる叱咤(しった)(どう)くつ中にひびきます。
「わたしはあなたと交渉(こうしょう)するために来たのではない!
 聞け! 影に隠れ、(おのれ)を見まごう(あわ)れな人間の王よ。あなたのうぬぼれた野心により、剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)とみずからの役割(やくわり)をまっとうせんとする多くの高潔(こうけつ)がどれほど深くきずつけられたか、知りなさい!
 ゆがめられ、にごされた軽薄(けいはく)な言葉は、貴重(きちょう)な約束の数々を血や涙とともに逆巻(さかま)(かわ)へ流し、たどりついた激動(げきどう)の海で真実と公正を()えず天にむかってさけんでいる。そうしてふりそそぐ美しくも悲しい歴史はあなたの玩具(おもちゃ)でないことを学びなさい!
 そして闇の子よ、あなたを兄と(した)う妹の愛を思いだしなさい」
「ガキがオレに、我につまらん説教(せっきょう)をたれるか」燃える影はギリギリと食いしばり、菖蒲を指差(ゆびさ)し、金切(かなき)り声をあげます。「ゆるさん、ぜったいにおまえをゆるさん! すべておまえが悪い、おまえが妹を利用し、苦しめたくせに! おまえなんかいなくなれ! 消えうせてしまえ!」
「それでも」と、菖蒲は深い闇の先をしっかり見すえ、右手で友の手をにぎりながら「わたしにはミモザ(アヤメ)がいる。たとえすべてわたしが悪くても、わたしが許されなくとも」。
 絶句(ぜっく)した影は、走りさるふたりのうしろ姿(すがた)をただながめるしかできず、くだかれた王座に力なく(こし)を落とします。
「ああ、わたしにだって見えていた。わたしにだって聞こえていた。わたしにだって感じられていたのだ。しかし、もどれなかった」
 そう言ったのは燃えつきた影の少年であり、みじめな自分にかわいた笑いを、うなだれると黒い水が目から流れ、「お父さん、助けて」。
 意思(いし)放棄(ほうき)した影は四方八方に破裂(はれつ)し、ねぐらの山をもくずすほどの力と(いか)りのなすがままに、おたけびをあげて暴走(ぼうそう)します。憎悪(ぞうお)のかたまりはあらゆるものを、ここが自分の体内であるなどもう関係ない、といわんばかりに、なにもかも壊しはじめました。
 おそろしい光景に気づいた菖蒲はできるだけ急いで家に帰りますが、もはや制御不能(せいぎょふのう)な闇は、菖蒲を見るやいなや、()れくるう波にのまれる小さな木造船(もくぞうせん)のように、あっというまに家ごとひねりつぶしました。
 かろうじて(なん)をのがれた菖蒲は裏口扉(うらぐちとびら)(かぎ)()けて、すぐさま閉めると鍵がかかります。しかし闇は力ずくで扉を抜けようと、ぐいぐい押しよせてきます。ミモザは菖蒲の手を(はな)し、いまにもやぶれんばかりのたわむ扉を背でおさえつけます。
「ミモザ!」菖蒲は思わずふり返ります。
「はやく行って!」と、声をあげるミモザ。
「でも」 
「信じて。あたしはいつもアヤメと一緒」
「うん」
 菖蒲はうなずき、階段をかけあがると、すぐに闇は扉をぶちやぶり、どっとなだれこんできます。
 もう絶対に止まることはできません。背後(はいご)にはどす(ぐろ)(へび)が菖蒲をやつ()きにしてやろうと、これ以上ないほどの怒りをこめ、猛追(もうつい)していたからです。

干しわらの王子さま

干しわらの王子さま

 ぶきみなほど静まり返った直線の石階段。遠くに聞こえる小さな蒸気機関車(じょうききかんしゃ)のブラスト音はこちらに近づき、どおっと通りすぎていきます。
「おいおい、どこまでつづくんだ」重厚(じゅうこう)鉄車輪(てつしゃりん)は運転手にくり返し問いかけます。「こっちはもうへろへろさ!」そばで左右にふられる主連棒(しゅれんぼう)も文句ばかりです。いつまでたっても終わりの見えないトンネル、前からうしろへ流れる単調(たんちょう)な黒い景色を横目に、息せき切らす運転手の菖蒲は、がたつく機関車(きかんしゃ)をなんとか説得(せっとく)して進んでいました。後方からせまりくる恐ろしいさけび声を聴きながら。
 ミモザの時間かせぎや、怒りをたくわえすぎた闇が多少緩慢(かんまん)になったとはいえ、何十段もの階段を女の子が全力でかけているわけですから、差をつめられるのはとうぜんでしょう。
 でも、どんなことにも終わりはあります。読めないとわかりつつ、背のびして借りてしまった、単語びっしりのぶ厚い本にも、苦手な科目のテスト時間も、大きめのニンジンやピーマンのごっそりはいったスープをだされた最低な夕食にも。
 菖蒲は終わりが好きでした。本を閉じたあと、どん(ちょう)のむこうにいる役者たちの暮らしを、いつまでも想像できるからです。食べ終えたおやつのケーキにだって物語はありますし、ほろ苦い終わりにはたっぷりのミルクと砂糖をまぜてしまえば、カフェオレにできるでしょう。たとえ暗くて長いトンネルのようなまいにちだとしても、菖蒲の王国では、おしまいがはじまりと仲よく腕をくみ、『誰のためのものでもない物語』をいきいきと語り続けていました。
「だからあきらめないで、アヤメ!」
 すると前方に四角い明かりがやってきて、菖蒲はつかむようにまっ白いカーテンのなかへ体を投げだします。
 ついに王子さまの待つ部屋に帰ってきたのです。でも感慨(かんがい)にふけってなんかいられません。暴走した闇は菖蒲を、いいえ、この領域(せかい)すべてを壊そうと、すぐそこまで追っているのです。
 菖蒲は息つくひまもなく部屋の中央、王子さまのいる王座へまっすぐ走ってゆきました。胸はバクバク、ひたいは(あせ)でぐっしょり、息もきれそうですが、重たい鉄の足をとにかく回転させ、前へ前へ。
 やぶれた水道管から噴出(ふんしゅつ)する水のように飛びだした闇は、周囲をいきおいよく()みこみながら、菖蒲目がけて、すさまじい速さでおそってきます。なんて執念(しゅうねん)(ぶか)いのでしょう! 彼らは怒るのに()きたりず、憎しむことだって疲れを知りません。
 すぐ王子さまに水をそそぐため、菖蒲は小ビンをポケットからとりだし、フタを投げ捨てます。しかしなんとつぎの瞬間(しゅんかん)、信じられないことが。
 小ビンに気をとられ、よろけて石だたみのでっぱりにつまずいてしまったのです!
 汗ですべった小ビンは手からすっぽ抜け……
「あっ」
 目の前でゆっくり、ゆっくりと(ちゅう)にういて遠ざかります。
 菖蒲はありったけ手をのばし、ほんのちょっとだけ、指先をかすります。
 たたき割れたガラスの音が部屋中ひびいて火花をちらし、小ビンはたちどころに消えてしまいました。
——————
 時間はピタリと止まります。
——まさか! なぜ? 目的を果たすまで割れないはずの記憶の結晶が! やっとここまでたどり着いたのに。なにもかもむだだったの?——闇はほんのりただよう挫折(ざせつ)の甘い空気を感じとり、喜びいさんで菖蒲の頭をかすめ、まとめていた(かみ)ははらりとほどけます。
 地に軽く手をついた菖蒲は小ビンのそばまでかけよると、ひざをつき、こぼれた残りの水を口にふくんで王座へまっしぐら! 闇はするどい槍先(やりさき)となり、菖蒲の心臓(しんぞう)一点にねらいをさだめます。
 菖蒲は王座の階段を一段飛ばしで、干しわらになった王子さまに両手でふれると、その口に優しく口づけしてからこう言いました。

「愛する王子さま、どうかもとの姿にもどりますように」

 それからぎゅうっと抱きしめ、目をつぶります。
 菖蒲にできることはもうありません。だから、あとは干しわらになった王子さまにたくします。それは扉のない中庭にいくため戦わねばならなかった孤独(こどく)失意(しつい)、無力感などではありませんでした。これまでにないほどおだやかな気持ちで、安心してなにもかも、そう、すっかりとぜんぶ、愛している人を信じたのです。
 闇はみにくく下品な勝どきをあげ、ふたりをまるごと()みこんでいきます。
 こうして光は闇のものとなり、世界は暗転(あんてん)しました。


 でも、それは二行分ほど。
「……やみ……はなれ……よ」
 ぽつりぽつりと声がどこからか、聞こえてきます。
「わたしは……おまえとの約束を……果たした」
 少しずつ(めい)りょうになる声。
「干しわらとなったわたしに井戸の水を……そう望んだが、あたえられた水は、はるかにまさっていた」
 闇の切れ間にはなつ光芒(こうぼう)はあたりを照らし、「それにしても」と、王座からの声はつづきます。「おまえはこの水の価値をほんとうに知っているのだろうか」
 闇はひるみます。いちばん聞きたくない声だったからです。しかし声はやみません。
「父祖たちよ。わたしたちの勝利です」
 ボロぞうきんのようにさかれる闇の中で燦然(さんぜん)とかがやく少年は菖蒲をしっかり守っていました。
 菖蒲はゆっくり顔をあげると、ふんわりなびく小麦色の髪にサファイアの(ひとみ)をもつ少年がこちらを見つめています。
「もとの姿にもどれたのね。よかった」
 おだやかな笑顔の干しわらの王子さまは軽くうなずき、こう言いました。
「ありがとうアヤメ。あなたがわたしのくちびるにそえた水は、どんな花よりも(かんば)しく、極上の(みつ)よりなお甘かった」

二重星

二重星

 菖蒲はなんだか恥ずかしくなってきます。それもとうぜんでしょう、なにせ王子さまのたくましい胸にしがみついているのですから。——しかもわらたばとはいえキスまで——いてもたってもいられず、離れようと体を引くと、うしろによろけて階段をふみはずします。
「どうしたの、アヤメ?」王子さまはころげ落ちそうになる菖蒲の手首をさっとつかみます。
 にぎられる手のぬくもりは電流のように全身をかけめぐり、菖蒲はかーっと熱くなって目をそらします。
「あの、その、だから、うん、ごめんなさい」
 きょとんとする王子さま。菖蒲はよけいに意識してしまい、手をふりほどき、背をむけます——わたしなにやってるんだろう。納屋からここまで運んでも平気だったのに。あぁもう、おばぁがへんなこと言うから!
 もちろん、菖蒲は納屋で選んだわらたばが王子さまだとまったく信じていました。だからこそもとの姿にもどすため、これまで必死に旅してきたのです。しかし、ひとつだけの大きなかん違いは、干しわらでも人間でも同じだろうと思いこんでいたことでした。
——想像したよりもずっと強くて、おだやかで優しそう。どんなこと考えているのかな。ねえ、わたしのことはどう思っているの?——菖蒲の頭で『とりとめない楽団』による演奏会は開演し、満員の観客を前に指揮者はタクトをふります。ティンパニーのロールで最前列席の恋心は目ざめ、シンバル奏者が調子を合わせて打ち鳴らそうと両手を広げれば……
「アヤメ!」王子さまはぼーっとしている菖蒲に言います。「はやく闇と決着をつけなければ!」
 そう、戦いはまだ終わっていませんでした。闇は完全に消えておらず、すぐにでもふたりを始末しようとふたたび活動し始めたのです。いっこくの猶予(ゆうよ)もありません! それにもかかわらず菖蒲はとんでもないことを口にします。
「わたしはいいから先に行って!」
 王子さまは菖蒲を見ると()れたほおに全身はススけてぼろぼろ、足は生まれたてのめ鹿(じか)のようにブルブルふるえています。
 これまでずっと走りつづけ、階段をのぼりきった菖蒲の足はとうに限界を超えていました。この場でへたりこみたいほど、体力は少しも残っていなかったのです。王子さまのためにここまで来て、すべて願いはかない、ほっとしてすっかり力がぬけてしまいました。
 そんなことなどおかまいなしに、ぬるぬると寄り集まった黒い水はだんだんいきおいを取りもどし、こちらにやってきます。
 王子さまは菖蒲を優しく横にしてふわりと抱きあげ、両側からせまってきた闇を切るように正面の扉へ走ります。
「このままでは追いつかれてしまう。わたしなんか置いて早く!」
「聞いてアヤメ」王子さまは腕の中でもがく菖蒲をなだめるように言います。「わたしは傷をおった羊をこうして家に連れ帰るんだ。山三つ越えたこともある。それにかけっこでだれにも負けたことがない」
 王子さまはそう言って木扉をけやぶり、かるがると階段をかけあがります。負けじと闇はまっすぐ、狩りをするヒョウのようにしつこく追跡(ついせき)してきました。
 地下扉を抜け、風車を出ようとしたまさにその時、大きな地ひびきを立てて噴出する黒いマグマは風車をこっぱみじんに、がれきは飛散(ひさん)して(ちゅう)()い、あっというまにのまれていきます。木切れは矢のようにバラバラと落ちて地面につき()さり、爆発(ばくはつ)を逃れた王子さまは菖蒲をかばいながら()をたらす小麦畑の中を走ります。暴れくるう大蛇(だいじゃ)と化した闇はグレエンたちと過ごした家も馬小屋も納屋も、たがやした畑も、毎日水をまき、手入れした美しい庭も、いいにおいのギンバイカもすべて、なにもかもめちゃくちゃにします。確かに放縦(ほうじゅう)な力はどんなものでもたやすく壊せるでしょう。でももとどおりにすることはできません。菖蒲は失われゆく景色に深く傷つき、それと同じくらい闇の領域(せかい)憤怒(ふんど)をしずめてくれたミモザに感謝しました。
「アルビレオッ! アルビレオォ!」
 白馬アルビレオを何度も呼ぶ王子さまの声は、そこらじゅうであがる阿鼻叫喚(あびきょうかん)怒号(どごう)によってかき消されます。大蛇は赤黒い月を目に、()ちた星たちを軍兵(ぐんびょう)へと変え、王子さまにさしむけます。足を打ち鳴らしつつ背後にせまる闇の大軍、上空ではうねる大蛇がふたりをつぶそうと血眼(ちまなこ)になって探しています。
 形勢(けいせい)は一気に逆転(ぎゃくてん)し、がけっぷちの王子さまでしたが、あきらめずにアルビレオの名をひたすら呼び続けます。そんな逆境(ぎゃっきょう)のなか、ただ菖蒲だけは王子さまの胸に(はな)をよせ、ゆりかごでゆられるように目をとじると、今までの歩いてきた旅を一つずつ思い返しました。
——本に誘われいつのまにか納屋に、モルトやグレエン、アルビレオとの毎日はわたしに力をくれた。フクロウ先生や生徒のスズメたち、働きアリさんはみんな元気かしら。おばぁとまた会いたい。わたしの話をたくさん聞いてほしいな。おじぃとシバはきっと新しい旅に出かけたのでしょうね。もしかすると天体観測所でわたしたちをのぞいているかも。メレさんは今日も記憶採取してるにちがいないわ。アルネヴ! あなたのお茶は最高だった。わたしたちは古い友人のよう。なによりミモザ。あなたはわたし。わたしもあなたといつも一緒よ。リリーフロラ、わたしのお母さん。ぶたれたほっぺは怒られるかな。いつだってわたしは前に進むことができたもの。だからこれからも——
「来たわ」菖蒲はまるで知っていたかのように王子さまの顔を見て言います。
 憎しみあふれた暗闇のむこうからチカチカ星はまたたき、希望がこちらにやってきたのです。そう、白い馬です!
「アルビレオ!」王子さまはおどろきと喜びのまじった声をあげます。
「わが主人、わが王よ! 深い闇の中でわたしを呼ぶ声が聞こえました。ああ、どれほど待っていたか!」
「おそくなってすまない、アルビレオ。大いに喜べ! わたしたちの勝利だ。さあわたしを青い剣のもとに案内しておくれ」
 王子さまは菖蒲をアルビレオの背にのせ、うしろにまたがると、主人の帰ってきた白馬は土塊(つちくれ)をけり飛ばし、いつにもまして早く()けだします。
「グレエンは青い剣を持ち、興廃(こうはい)の丘にむかっています。モルトはアヤメさまが地下におりたすこしあと、王に顛末(てんまつ)を報告するため国へもどりました」
「よし、よくやった。すべて計画どおりだ」
 追ってくる闇の軍隊をぐんとひき離し、広い小麦畑は遠くに、ポプラは前から後ろへ流れ、興廃(こうはい)の丘手前、シラカンバの林が見えたところで輝く戦士はいました。
「グレエン!」
 王子さまの声にふり返るグレエンは、待っていたとばかりに青い剣を思いきり天高くほうり投げ、ふわりと浮かぶ剣はするどい閃光(せんこう)とともに、またたくまに消えさります。遠くかなたの王子さまが青い剣を高くふりあげる姿を見るや、グレエンは血湧(ちわ)肉踊(にくおど)り、たまらずこう叫びます。
「ああ父祖(ふそ)たちよ、わたしはもう満足です! 切望した解放の時、一片でもかかわることができたのですから!」
 それから腰にぶらさがる剣を右手でゆっくり鞘からひきぬきます。完璧(かんぺき)()がれた長剣アトロポスは、後方で行進する十万の兵を鏡のようにうつし、常世(とこよ)の運命を断ち切るため、かん高い声を鳴らしました。
背信(はいしん)虚言(きょげん)亡者(もうじゃ)どもよ」獲物(えもの)をとらえたワシの眼をして、ライオンが威嚇(いかく)するときの重々しい王者のうなりは大地をふるわせます。「わたしがだれの子であるかおぼえているか。底知れぬ憎悪(ぞうお)応報(おうほう)、どのようなものか教えてやろう」
 そう言って、グレエンただひとり闇の大軍に突進していきました。
 いっぽう王子さまは、みるみるうちにシラカンバ林を越え、風を切って興廃の丘に出ます。広い平原のまんなかには暗雲をつきやぶり、天までとどくほどの巨大などす黒い血のかたまりが毒々しくうねり、激しい鼓動(こどう)で空気はひずみ、その重圧によって何者も近づくのを許しません。
 アルビレオは丘の上、見晴らしのきくところでくるりと一回りして止まります。まきあがる火の粉と熱風は菖蒲や王子さまの髪、アルビレオのたてがみもゆらし、恨みをぶちまける大蛇とついに対峙(たいじ)しました。
「アルビレオ!」王子さまは青い剣のきっ先をすらりと闇にむけ、こうたずねます。「あれを見ておそれるか。狼狽(ろうばい)するだろうか」
「わが主人、わたくしはいちどたりともふるえたり、おびえたりしたでしょうか。たとえ深い谷であろうと、切り立つ山であっても、あなたがひとこと命じれば喜んで()けるでしょう!」
「よく言った! アルビレオよ、永遠に続く友情のしるしにわたしが強大な闇を打ちやぶる(さま)をおまえに見せよう。そして、それはかならず夜空にかがやく二重星(にじゅうせい)となり、人々が()らしながめる時、わたしとおまえとのあいだで()わした約束を思いだすこととなる。さあゆこう、強くあれ!」
 王子さまの高らかな宣言(せんげん)に、アルビレオは武者(むしゃ)ぶるいし、ひづめを地面に打ちつけ、雄壮(ゆうそう)ないななきでこたえます。
「アヤメ、こわくない?」王子さまは言います。
「ううん、ぜんっぜん。だってあれの正体(しょうたい)を知っているんですもの。それにわたし、しかってやったのよ」
 王子さまとアルビレオは大笑いします。
「きみはなんて気丈(きじょう)な女性なのだろう」
 アルビレオは王子さまに同意してから、こうつけくわえます。
「王妃やリリーフロラさまのもたれる気品にも、たいへんよく似ておられます」
「たしかに」と、王子さまはうなずきます。「アヤメ、どうかわたしの願いを聞いてほしい」
「わたしのしてあげられることならなんでも!」
「青い剣を共に持ってほしい。【干しわらの約束】にアヤメの信じる心をくわえたい」
 菖蒲はさしだされた剣をためらわずにぎります。菖蒲のゆるがぬ信念は青い剣をみごとなターコイズブルーに変え、重ねた王子さまの手はターコイズブルーをまばゆいばかりの透明な金へと高めます。
 アルビレオは勢いよくまっすぐに丘を駆けくだり、闇は対抗せんと全力で強襲(きょうしゅう)します。光をまとう天馬(てんば)(はな)たれた矢のごとく誰にも止めらない速さでつき進み、闇をまっぷたつにしました。
「先生、あれはなんでしょう」と、島の山頂でシバは言いました。「ボクはあんなに美しく、力強い流れ星を今まで見たことがありません」
「むかし、闇の門を旅したとき」悲しげに夜空を見あげるおじぃはゆっくり口を開きます。「自分を持つ影に名をふし、彼はわしの目となってくれた。彼の望むものはあまりに大きく、わしはあたえてやれんかった。だが、わしにとって今なお、おまえは心の美しい友人なのだよ、イシュ」
 黒煙の中でいよいよ明るく、紫色の星は砂金をちらして突き進み、宇宙の暗黒へ渾然一体(こんぜんいったい)となってぶつかると方々(ほうぼう)にさけ、白い輪っかはいっぱいに広がります。それはすぐ一点に収縮(しゅうしゅく)してからぐるっとうず巻き、多様な色の光があちこち芽吹(めぶ)いたのです。
「なんてすばらしい」宇宙に咲きこぼれる花をアルネヴはサトウの展望台でながめていました。「まるで銀河の終焉(おわり)誕生(はじまり)がひとときで起きているようだ。ミス・アヤメ、きみはついにやりとげたんだね」
 争いの終わりは静かなものです。雲ひとつない夜の丘に()がさすと、こぼれる(つゆ)は草の上でテラテラと輝きおどり、いつもの朝のおとずれを告げます。消え入る灯火を昨日(かこ)に残しながら。

帰路

帰路

 菖蒲と王子さまの前には、ひざまずいた影と、両者をへだてるようにつめたい風が通りすぎました。
()ければわたしは無くなるだろう」迷いのない表情をした少年の影は王子さまに言います。「王の子よ、右手に持つ剣でわたしを()ち、すべての約束を果たそう」
「イシュ」と、菖蒲は口を(ひら)きます。「あなたはなぜ門をでたの? なぜミモザを妹と?」
「わたしはただ父がほしかった。自分を知り、いちばんはじめに考えたこと、それは父だった。ずっと考え、今も思う。きっとこれからも」
「こんなに痛み苦しむ必要はなかった。あなたやミモザだって」
「その言葉を父から聞きたかった。わたしはわがままで、とても弱い」
「そんなことない! あの夜、あなたはわたしを手にかけることもできたはず。それにリリィはあなたに感謝してた」
 イシュは目をほそめ、菖蒲に答えてみじかいおとぎ話を伝えます。
 むかしむかし、優しい農夫は地をさまよう少年の影をわが子のように受け入れ、親子なかよく()らしていました。まわりの人々は知らない影を恐れ、遠ざけましたが、農夫は少年と手をつなぎ黄金の空、風車のまわる小麦畑を歩きながらたくさんの夢を語り、愛について教えたのです。ある時、少年は父を喜ばせようと少しばかりの力を見せます。それが人をくるわせるには十分なほどであることなど考えもせずに。農夫は〝少しばかりの力〟で世界を統べる王となり、風車に小麦畑、愛や夢、少年まで忘れてしまいました。楽しかった昔をいつまでも続けたい少年にはまったく理解できません。答えを知るため少年は父の影となり、やがて父そのものになろうとしたのです。
「……やはりわたしも多くの影と同じというわけだ。闇から()で闇へと(かえ)るうつろな影法師(かげぼうし)
「アヤメ」王子さまはきっぱりと言いました。「しばらくこっちをむいてほしい」
 ふりむく菖蒲の顔は異なる少女の哀願(あいがん)とかさなり、王子さまはまゆを寄らせ、目をそらします。
——強くありなさい、息子よ。交わした約束は果たすように。半端(はんぱ)斟酌(しんしゃく)で誰も苦しめてはならない——そう心に語りかける父の言葉に、王子さまはかたい表情をくずさず、ただ菖蒲を胸に抱きます。
「けーんけーんっぱ。けーんけーん、ぱっ」イシュの()んだ(ひとみ)()えるひとつ星は彼を遠い過去へ、楽しかった昔に連れていってしまいます。「ああ、また父さんの負けだね、父さんの……」
 王子さまは右手の青い剣をふりかざし、陽光(ようこう)刃先(はさき)を天へとつたい、力をこめて————!
 さわやかな朝に感じる重たい空気。気まぐれな風ですら意気消沈(いきしょうちん)し、草花も目をそむけるように頭をたれました。
「アヤメ、おわったよ」
 王子さまは胸もとを湿(しめ)らす菖蒲のふるえる肩に手をそえました。そして青い剣を地面に思いきりたたきつけようとした時、「お願い、やめて!」菖蒲は王子さまの腕にすがりつきます。「赤い宝石の指輪は約束を果たした時に役目を終えたの。だからきっと青い剣も同じように、だから、だから……」
 すると、青い剣はガラスの割れたような音を鳴らし、七色の火花となって散ります。
「わたしにはこうするしかできなかった」と、王子さまは悲しげに広げた両手を見ました。
 菖蒲は王子さまの手にふれ、首を横にゆらしました。

「アルビレオ!」
 遠くでのんびり草を()む白馬に菖蒲は手をふります。
「さあ(うち)に帰ろう」王子さまはアルビレオの頭を優しくなでてから背すじをぐっとのばします。「はやくやわらかいベッドにもぐりたい。もうあんなかっちかちのイスはこりごりだよ」
「干しわらになってもイスの固さは感じられるのね」と、菖蒲は不思議そうに言います。
「まさか」と、王子さまは腕を広げ笑いました。
「おーい!」漆黒(しっこく)の馬にのったグレエンはシラカンバ林から手をふり、近づいてきます。「みんな、ぶじでよかった」
 王子さまはグレエンとあく手をして抱きあいます。
「あなたの助けに感謝します、グレエン」
「いえ王子、みなの協力あってこそ」
「王子はやめてください。グレエンに言われるとなんだか恥ずかしいや」
 グレエンは高笑いしてから菖蒲の前で深々とおじぎをします。
「アヤメさま、ありがとうございました。わたしやモルト、アルビレオもあなたと過ごしたひとときが大きな力となったのです」
「優しいご主人さま、わたしもすてきな毎日が前にふみだす勇気となりました」それから菖蒲は思い出したように、「リリィからの伝言。〝あなたの家で待っています〟と。わたしも帰りますね、お父さん(・・・・)」。
 グレエンの顔はぱあっと明るくなり、目もうるんでいるようですが、みんなのするどい視線を感じてすぐに頭をふり、ごまかすようにせきばらいをします。
「わるいが急用だ。わたしはさきに国へ帰らせてもらう。では!」
 グレエンは誰の返事も待たず、馬に飛び乗り、さっそうと駆けていきました。
「ねえ、グレエンってあんな人だったかしら?」ぽかんとする菖蒲。
 王子さまとアルビレオは声をあわせて「うん、ああいう人!」
「おーい、アヤメちゃーん!」
 遠くから聞こえるたくさんの呼び声に菖蒲はあたりを見まわします。「こっちだよ、こっち!」
 なんと、青空で羽ばたく鳥の群れでした。
「まあ! あなたたちは雨の教室にいたスズメさんたちね。それにフクロウ先生も。なつかしいこと」
 スズメたちは菖蒲のまわりをくるくると、一緒に楽しく(おど)ります。
 菖蒲のそばにきたフクロウ先生は恥ずかしそうに言いました。
「教室でどなりちらしてほんとうにすまなかった。どうかわたしをゆるしてほしい」
 もちろん、と菖蒲はおちゃめなフクロウを許しました。
「アヤメちゃんの教えてくれた居場所は自由に飛びまわれるすばらしい大空だよ。ぼくたちだけではもったいないから、いろんな鳥をさそったんだ。きっとにぎやかになるね。近いうち、アヤメちゃんの家にも遊びに行くよ」
「すてきね。楽しみに待っているわ。こんどはあなたたちの旅のお話、わたしに教えて」
 スズメたちは菖蒲を祝福してから遠くへ飛びさり、手を大きくふって見送ります。
 すると、こんどは地面から声が聞こえてきました。
「ワレらがジョオウ!」
 菖蒲はかがんでのぞくと、働きアリがたくさんならんでいました。
「あなたたちはコロニーを追われたアリさんたち」
「ジョオウのショウカイしてくださったこのコウダイなトチは、やりがいのあるドジョウです。でもワレワレだけでニンムはカンスイできません。ですからみんなでコロニーをツくることをケイカクしました。ミミズやモグラ、ネズミなどにもコエをかけ、キョウリョクしてシゴトをします。あなたのヤクソクをいつまでもワスれません」
「とてもよいアイディアね。きっとまえより美しい丘になるわ」
「すべてジョオウのおかげです。テイエンがカンセイしましたら、ショウタイジョウをオクりますので、ぜひピクニックにいらしてください」
「まあ! ぜったい行く。そうしたら、あなたたちがどうやってここを美しい庭園にしたのか、わたしに教えて」
「アリ、アリ、サー!」
 アリたちは菖蒲を祝福して、穴のなかへせっせと入ってゆき、手をふって見送ります。
「干しわらになっていたあいだ、アヤメはすてきな出会いがたくさんあったんだね。うらやましいよ」王子さまは、ほほえんで言います。
「ええ、わくわくするような日々だったわ」
 長い旅をおしむように、菖蒲はみどりさざめく丘全体をしばらくながめていました。それはいつか、この地方で誰もが耳にするむかしむかしのおとぎ話となるでしょう。父と母は子どもたちの耳をくすぐり、かたりべたちはおのおの塩をくわえながら、やがてどこの国でも知られたお話に生まれ変わり、誰かのもとへ届くのです。

「さて、わたしたちも帰ろうか。アヤメにわたしの国を見せたいんだ。一緒に来てくれる?」
「もちろん。わたし、リリィに帰るって約束したから」
「そういえばアルビレオ」と、王子さまは思いだしたように言います。「アヤメがお前の背に乗ってもいやがらないね。小鳥一匹とまるだけでも大あばれしたのに」
「さてそうでしたっけ、ねえアヤメさま?」とぼけたように耳を動かすアルビレオ。
「どうだったかしら、ねえアルビレオ?」菖蒲は空を見あげ、肩をふるわせます。
 王子さまひとりだけは首をかしげ、いぶかしげにアルビレオを走らせました。


 丘陵地(きゅうりょうち)から西へ、山々をのぞむ大草原にぷかりと綿雲(わたぐも)はうかび、ゆるやかにまがりくねった川や水車場を過ぎて、ふみかためられた一本道をひたすら進みます。お昼ごろ、遊牧民の親切なもてなしを受け、天幕(てんまく)でパンとスープそれに甘いミルクティーまでごちそうになっていると、王子さまは菖蒲に「少しだけ寄りたいところがあるのだけど、いいかな?」と、たずねます。できるだけ早く山あいの国に帰ることを約束して道を北にはずれ、血の荒野へとむかいました。
 衰退(すいたい)を終え、赤い砂の毛布をかぶった眠れる都市の廃墟(はいきょ)基礎(きそ)だけ顔をだし、大きな宮殿にむかって足をのばしていました。王子さまは大階段の前でアルビレオと菖蒲を残し、かけあがります。くずれ落ちて屋根のないドーリア式の柱廊(ちゅうろう)を歩き、散乱(さんらん)する大きな石灰岩の石積みにからむつたや雑草に足を取られないよう飛びうつってさらに進みます。中央の広場にはボロボロの巨像、その足もとに粗布(あらぬの)をまとった老人がつえを持ってこしかけていました。
 王子さまは老人のまえでひざまずきます。
「あなたの導きにより今日、闇を打ちやぶることができました。助言に感謝いたします」
「わしはなんもしとらん」
「あなたはただのもの知りではなく、山あいの国の安寧(あんねい)のため追放(ついほう)された王子です、ヘレム」
「……もう、むかしのことさ」
「国を出て広い世界に旅立った時、わたしはおどろきました。各地であなたたちの評判はおとぎ話として伝わり、数珠(じゅず)のようにつぎの土地へとつながっていたのです。ある時は街全体に、ときには人知れず口伝えで遠い国の王子に助けられた、と。
 わたしは善行(ぜんこう)軌跡(きせき)をめぐりながらここまでやってきました。あなたたちがどのような思いで国をでて、どのようなこころざしで歩み、旅の意味を問うてきたのか、わたしにあたえられた試練(しれん)とは、それらの答えを示すことだと」
 老人は満足そうにうなずき、ゆっくり立ちあがると王子さまの肩に手をのせます。
「お前はよくやった。それにグレエンの勇姿(ゆうし)もたたえよう」
「あなたの教えてくださった女の子に救われました」
「よし、約束どおり秘密を語ろう。顔をあげなさい」
 王子さまは目を丸くします。なんとそこに立っていたのは老人ではなく、白銀(はくぎん)(かみ)琥珀色(こはくいろ)(ひとみ)をもつ屈強(くっきょう)な男だったからです。
「ヘレム、あなたはいったい」
「おどろいたな、王の子よ。おまえは身なりで人を判別(はんべつ)したか」と、腰に手をあて不敵な笑みをうかべ、ヘレムは続けます。「むかし、燃える影の誘惑(ゆうわく)をしりぞけ、命からがら廃墟(はいきょ)宮殿(きゅうでん)にたどりついたわたしは、倒れて深い眠りについた。目を覚ますと(みやこ)は栄光ある本来の姿をあらわし、美しい(にじ)はわたしに水をあたえてくれたのだ。わたしは(にじ)の女王を愛し、彼女は将来(しょうらい)を告げた。それは【口止めの約束】でお前に教えたとおりだ」
「では闇が打ち破られることをあなたは初めから?」
「いや、わたしの好奇心がそれを許さなかった。おしまいを知った旅など、なにがおもしろい? なるほどたしかに追い出された王の子たちにとって一年のはじまりは冬であり、一日のはじまりも夜。しかし、一度あの自由を手にした子どもがどうなるか、お前もわかっているだろう」
「広大な世界をもっとのぞきたくなる。良いものも、悪いものも」
 ふたりは顔を見合わせ、思い出すように笑います。
「ああ、だからどうかわたしをいじわるな幼子(おさなご)だと思わないでほしい。人は先を知らぬともかならず探求し理解する。そうでなければ信じる心とはいったいなにか。
 覚えておきなさい。この世界は言葉(ロゴス)によってできていることを。そして、宇宙をゆきめぐる力と法則は約束にもとづいているのだ。おまえに結ばれた星々のきずなを解くことはできるか」
「なんと! わたしの手にあまる問題です、偉大なる王よ。なにせ語り継がれた物語(ミュトス)のひとりにすぎないのですから」
「よい心がけだ。今の話はあの娘のため、胸に()めておくように」
 王子さまは静かにうなずきます。
「さて、最後にわたしたちを代表し、国のみなに言伝(ことづて)をたくす」
「ヘレム、あなたは帰らないのですか?」
「わたしたちは立ち止まっていられない。これから不当に失われし仲間たちを探しにゆく。ひじょうに困難(こんなん)な旅となろう。忘れるな兄弟、わたしたちはいつもおまえと共にいる」
 ヘレムは王子さまと抱きあい、わかれを告げて、つえを地面に二回打ちつけると七色の風がヘレムを彼方(かなた)へ運び去っていきました。一礼した王子さまは菖蒲と急いで故郷(こきょう)にむかいます。こののち、ヘレムと廃墟(はいきょ)宮殿(きゅうでん)を二度と再び見ることはありませんでした。

静かな凱旋

静かな凱旋

 みどりにおおわれた渓谷(けいこく)奥深く、山沿(やまぞ)いの道をくだってゆけば、やがて眼下(がんか)には明かりのともるちいさな町と、斜面(しゃめん)にかわいらしいお城が見えてきます。駿馬(しゅんめ)アルビレオの足でも山あいの国についた時はすっかり真夜中になっていました。 
 王子さまはなつかしい故郷(ふるさと)の変わらぬ情景を感慨(かんがい)(ぶか)げにながめ、「あそこがわたしの国だよ、アヤメ」と、遠くを指さしますが、返事はありません。菖蒲の顔をのぞくと長旅でつかれたのでしょう、ぐっすり眠っていました。それで落ちてしまわないよう菖蒲の体をそっと(うで)にもたせかけます。
 石づくりのアーチ橋を渡ってすぐ、低い石門の上部には大きなつがいの白鳥と白鳥座を中心にギンバイカの葉でまわりをかこみ、頂点(ちょうてん)にはその花のあしらわれた逆ハート型のレリーフが()られています。パチパチと燃えるたいまつのそばには『ようこそ、名もなき小さな国へ』という立て札と、子どもたちの()んだ花かんむりでかざられていました。
 門をくぐると、町で一番大きな講堂(こうどう)はどっしりかまえ、その前には噴水(ふんすい)広場もあります。人々は朝からつどい、芸術や思想、数学、建築まで自由に語り合いました。お昼には手をつないだ王さまと王妃さまがやってきて、ふたりをかこみ、歴史やおとぎ話やことわざに耳をかたむけ、夕方になると楽しい(うたげ)は始まります。そんな広場も今はひっそりとして、にぎやかな明日を夢みているようです。
 そんな思い出に心おどらせながらリリィの家にむかおうとした時、王子さまは目を見開きます。グレエンを先頭にして山あいの国の民は皆、ゆらめくろうそくの灯火を手に、ならんでいたのです。王子さまは立ち止まり、馬上からひとりひとりの名を呼ぶようにじっくり見まわします。山あいの国のおとなは誰も夜に外へ出たがりませんでした。こわかったからです。なにせおそろしい闇の大蛇(だいじゃ)に親をうばわれたのは深い夜だったのですから。
 王子さまは帰りを待つ勇気ある民にこたえるように黙って何度かうなずき、真っすぐ背筋(せすじ)をのばし、遠くにそびえるお城に顔をむけます。それからゆっくり歩きだすと、アルビレオの馬蹄(ばてい)は石だたみを打つ音を広場に鳴りひびかせ、敬意の思いで見つめる民の道を威厳(いげん)ある姿勢(しせい)で堂々と過ぎていきました。
 町の少しはずれ、闇夜を照らす(ほたる)の舞う森にグレエンとリリィの家はあります。白しっくいの壁にわらぶき屋根で、カーテンを閉じた木窓から灯はもれて、白鳥の置物の影をぼんやりうつしだしていました。
 バラの門を抜けて玄関まで近づくと、王子さまにかかえられた〝眠れる森の少女〟は家で待つリリィにまかされます。お姫さまを見送ってから山の中腹(ちゅうふく)にある城門までアルビレオと走り、一日の(ろう)をねぎらってわかれました。
 がんじょうな観音(かんのん)(びら)きの門扉(もんぴ)は最後に開けた者の閉め忘れか、それとも〝めんどうくさがり屋〟が仕事をしたのか、無防備(むぼうび)にも開けたままです。横着者(おうちゃくもの)のためにひとつ言いわけをするとしたら、今まで深い山あいの辺ぴな小国にわざわざ()めようなどと考えるひまな国はひとつもなかった、ということでしょう。
 王子さまはお城のアーチ扉の上方にある小さなのぞき穴を見て「よおし」と、手のひらにつばをぺっぺとはきます。石壁(いしかべ)のでっぱりに足をかけて軽々とのぼっていき、子どもひとり入れるくらいのせまい壁穴にもぐりこんでぐいぐい進み、城内に侵入(しんにゅう)しました。これは『通りぬけの()』と呼ばれる山あいの国で代々行われてきた儀式(ぎしき)です。子どもたちはお城にある壁穴をどれか見つけて通りぬけたらひとつ〝おとな〟になるのですが、みんなあまりにくぐりすぎて親よりも年上になってしまい(ある女の子はなんと数日で一〇〇さいをむかえたのです)、年に一回だけとなりました。
 ほかにも、お城で隠れて王さまと王妃さまに見つからないようにする『かくれんぼの儀』、地図を持って宝石を探す『宝探しの儀』、正門から屋上まで競争する『かけっこの儀』、お城に一泊する『お泊まりの儀』、みんなで作る『おやつの儀』など、それはもうたくさんの儀式があって子供たちはいそがしい毎日なのです。
 王子さまは大きな赤いペルシャじゅうたんのしかれたエントランスに飛びおりると、壁につるしてある王妃さまの大好きなドライラベンダーの香りに、ますます郷愁(きょうしゅう)をかきたてられます。
 旅先ではいろんな場所に寝泊まりしました。大木の上、風のビュービューふくほら穴、時にはりっぱな宮殿(きゅうでん)やお屋敷(やしき)にも。しかしどんないごこちのよいベッドだって、ここにはまったくかないません。山あいの国では、大人は雑用(ざつよう)でしかお城に入れない、という決まりがありました。ですから王子さまをはなばなしくでむかえる侍臣(じしん)に兵、へつらう高官、なんでもしてくれる家令(かれい)侍女(じじょ)などいなかったのです。それでも王さまをふくめ、好きな仕事や休息(きゅうそく)をみんなそれぞれもち、必要ならば助け合う、という簡単(かんたん)な約束を大切に守りつづけたので、温かい家族のような王国となりました。
 王子さまはなんだかうれしくなって内階段(うちかいだん)をいっきにかけのぼり、王の部屋の前に立ちます。
「希望をもって国をあとにし、栄光をもってむかえられよう、だなんて故郷(こきょう)を離れたのは誰かな。将来の王としてふさわしく、父の目にかなった立派な大人になろうと背のびした子どもはいったいどこにいるのか」
 父の声色をまねて王子さまはくっくと笑います。でもほんの一瞬(いっしゅん)大志(たいし)を抱き頭陀袋(ずだぶくろ)を手にした男の子が走り抜けたような。ちょっぴりうらやましく思いながらも、ひと呼吸(こきゅう)して黒ぬりの扉をコンコンと手でたたき部屋に入りました。
 一歩ずつ王のもとへ、王子さまは片ひざを地につけ、頭を下げます。
「王よ、命令どおり、すべて約束を果たしてまいりました」
 大きな窓を背に、王さまと角灯(ランプ)を持つ王妃さまはこちらを見つめて立っています。
「よくやった」王さまは、けわしい表情で王子さまをじっと見て、低い声でゆっくりと口を開きました。「山あいの国王として父祖たち、および民に変わり、心から感謝する。おまえはわたしたちの誇りだ。困難(こんなん)な旅であっただろう。契約(けいやく)とはいえ、なにも言えず苦労させたこと、心苦しく思う」
「ありがたきお言葉。わたくしは真実と徳、なにより無償(むしょう)の愛について偉大なる父上と母上から教えていただいたゆえ、言葉なくとも歩むべき正道(せいどう)を知りました」
「うむ……わが子よ、それは残念だ、わたしたちにとってとても残念なことなのだ」
 顔に影さす王さまは深いため息をつきます。
 なにごとかと王子さまの体はピクリとゆれ、緊張(きんちょう)した空気は部屋を満たします。
「おまえはわたしたちの考えているよりずっとりっぱな青年になってしまった。こんなに早く母の胸を離れ、父の腕から飛び立ってしまうとは。しかし、今夜だけはわたしたちの勝手をゆるしてくれ」
 そう言って王さまと王妃さまは手を広げ、王子さまを力いっぱいだきしめました。
「おかえり、わたしたちの愛する息子よ。この時をどれほど……どれほど待っていたか!」
「ただいま、父さん、母さん!」
 これが【安寧(あんねい)の契約】によって国を追われ、家に帰ってきた王子さまの最初で最後の記念すべき静かな凱旋(がいせん)のお話です。

湖畔のガゼボ

湖畔のガゼボ

 山あいの国は式の準備で大いそがしです。町の噴水(ふんすい)広場では長つくえに白いクロスをかける母親とドレスを着た子どもたちはつんできた野花で(かざ)りつけのお手伝いをしています。力もちの大工は木製(もくせい)の大きな(えん)だんを鼻歌(はなうた)まじりにトントン組み立てたり、赤いカーペットや古いタペストリーを講堂(こうどう)から持ちだして広げます。近所の家からパンやケーキの焼ける甘い香り、じっくりコトコト()こまれたシチューのこってりとしたにおいに、みんな思わずおなかを鳴らします。
 今日は王子さまが闇を打ちやぶった記念セレモニーの日でした。式までまだ少し時間もあるようなので、にぎやかな街の声を遠くに聞きながら、凱旋(がいせん)の次の日についてお話しをしましょう。
 晴れた朝、王子さまはボサボサの(かみ)のまま食事もせず、階段の手すりをすべりおりて正面扉をバンッと開けます。菖蒲に早く会おうと飛びだしますが、すぐがんじょうな壁にぶつかります。見あげると目の前には王妃さまが立ちはだかっていました。王子さまをむんずと(つか)まえ、問答無用(もんどうむよう)で王の()に連行しました。
 それからはまいにち部屋にこもって秘書官(ひしょかん)のお仕事です。闇を打ち破るまでの歴史、王子さまの旅程(りょてい)諸都市(しょとし)で聞いた歴代の王子さまのおとぎ話をすべて記録(きろく)しなければなりませんでした。朝から(ばん)まで紙とにらめっこする王子さまのもとには時々、こっそりとモルトがやってきて、菖蒲の様子を教えました。セレモニーの終わるまで、さわがしい子どもたちの〝儀式(ぎしき)〟はリリィの家でおこなわれ、菖蒲はお姉さんのように世話していることやグレエンはかわいいひとり娘をピクニックに連れまわし、とうとうリリィに怒られて外出禁止になった話などです。
 王子さまはペンを置き、しけった部屋の換気(かんき)(まど)を開けると、さわやかな風はヒラヒラと紙をおどらせます。土と葉のまじった、さわやかな山の空気を()い、ぐうっと(うで)をのばします。町に目を落としてリリィの家の(ほう)をあこがれるようにながめました。
 けっきょく王子さまの願いかなわず、セレモニーまで菖蒲に会うことはできませんでした。それでせめてあいさつだけでもしようと、式の当日、黒い燕尾服(えんびふく)に着がえた王子さまは広場を通らず、できるだけまっすぐグレエンの家にむかいます。しかし道中、町の人々は王子さまを見つけて次から次へと声をかけ、友人まで集まって質問ぜめにあいます。グレエンの家どころか近くの森にすらたどりつかず、時間切れとなってしまいました。
 しかたなくあきらめ、町の広場にとぼとぼむかうと、そこには正装(せいそう)をした王さまと王妃さまが待っていました。
「なんて姿勢(しせい)ですか、王の子らしく背筋(せすじ)をのばしてしゃんと立ちなさい」と、王妃さまは強い口調(くちょう)で王子さまをしかります。
「まあいいじゃないか」と、王さまは妻をなだめるように言います。「みんな知り合いだし、セレモニーという名の宴会(えんかい)みたいなものさ」それから王子さまに目くばせしました。
「いつもそうやってあまやかすから、わたしが言っても聞かなくなるのですよ!」あきれたように王妃さまは言います。「だいたい、あなた昨日も本をちらかしたまま寝て……」
 王妃さまの怒りのほこ先は王さまへとむき、強い母と、たじろぐ父の背中に王子さまはほほ()みます。
 こうして変わらない日常は闇との戦いを過去にし、やがては夢物語にでもするのでしょうか。そんな幸せにひたっているとセレモニーははじまります。国中、といってもそれほど大きいものではありませんが、おとなから子どもまで噴水(ふんすい)広場は(はな)やかなドレスを着た人でごった返し、王子さまを祝福しようとわき立っていました。
 ブルブルふるえながらトランペットを持つ、顔をまっ赤にしたちいさな男の子は、空気のまじる()のぬけたファンファーレを会場に()りひびかせます。あたたかな拍手(はくしゅ)とともに王さまと王妃さま、王子さまにグレエンは登壇(とうだん)し、みんなの視線(しせん)はいっせいにそそがれます。王さまは民の前で両手をあげ、いつものように国の歴史をすらすらと語りはじめました。
 むかしむかし、領域(せかい)()べる王には三人の息子がいました。なかでも末子(ばっし)文武(ぶんぶ)(さい)にめぐまれ、人望(じんぼう)あつく、優秀(ゆうしゅう)家臣(かしん)大勢(おおぜい)もつようになりました。数多くの戦績(せんせき)をあげ、国の発展(はってん)にも寄与(きよ)すると、自国はもちろんのこと、周辺(しゅうへん)諸国(しょこく)にまでその名は知られ、王の特別な寵愛(ちょうあい)を受けるようになりました。しかし兄弟たちからねたまれます。
 ある時、かしこい末子(ばっし)(かく)れていた影の存在に気づきます。強大な影の力によって王の考えはますますゆがみ、やがて無益(むえき)な戦争をおこし、領域(せかい)全体の大きな災厄(さいやく)につながることを(あん)じ、影と手を切るよう王に提言(ていげん)をしますが、聞き()れられないどころか、大きな怒りをかいます。ねたみにつけいられ、影の傀儡(くぐつ)となった兄弟の陰謀(いんぼう)()ては流言飛語(りゅうげんひご)により反逆者と国民から迫害(はくがい)された末子(ばっし)は忠実な臣下(しんか)とその家族を守るため、いっこくも早く故国(ここく)から逃げなければなりませんでした。そして(ほろ)びの前夜、復讐(ふくしゅう)に燃える影と【安寧(あんねい)契約(けいやく)】を結ばされることになります。
祖先(そせん)臆病(おくびょう)でも反逆者(はんぎゃくしゃ)でもなかった」と、王さまは言います。「国を、父を、人々を愛し守ろうとしたのだ。その証拠(しょうこ)祖先(そせん)の持ちだしたものはなにか、みなも知っているだろう。それは命と知恵だ。あの講堂(こうどう)書架(しょか)にならぶ、ぼう大な文書はわたしたちの祖先(そせん)が衣服やパンを犠牲(ぎせい)にし、荷車(にぐるま)に乗せてここまで運んできたものだ。暴力(ぼうりょく)破壊(はかい)によりこの領域(せかい)から消失した歴史や科学、さらには賢者(けんじゃ)の夢見たおとぎ話まですべて。わたしたちは今日、父母から読み書きを教えられ、だれでも自由に本から学び、考察(こうさつ)し、おだやかに語りあえる幸せな国である。
 なるほど心は人の苦しみを知っており、喜びすら()のものとまったくわかりあうことはない。まくらをぬらした長夜(ながよ)安眠(あんみん)はまばたきほどであるのを知っているのは(だれ)であろう。それでも理解(りかい)し、なぐさめ、笑いたいと願うのは人のもつ本来の美しさではないか——これらもまた深い知恵があってこそ。
 兄弟たち、力で闇に勝利し、自由を勝ち取ったなどと思いあがりたくはない。この物語から学ぼう。なにより感謝しよう、美しい山あいの地を残してくれたわたしたち祖先(そせん)に、身を()して真実をつたえてくれた父と母に、国を旅立った王の子たちに、わたしたちのため、外の領域(せかい)から助けにきてくれた勇敢(ゆうかん)な女性たちに!」
 王の演説(えんぜつ)賛同(さんどう)のはく手がおきます。
「王子、みんなにひとことを」
 グレエンにうながされ、王子さまは民の前に出て広場全体を見わたしました。すると噴水(ふんすい)のむこうにはリリィと、はにかんで(ひか)えめに立つ少女を見つけます。複雑(ふくざつ)()しゅうのほどこされた上質(じょうしつ)(きぬ)のドレスにルビーやエメラルドのネックレスとイヤリング、白鳥の羽が幾重(いくえ)にもかさなる銀細工(ぎんざいく)のティアラにはダイアモンドをちりばめて、なめらかな黒髪(くろかみ)をみごとにかざっています。ときおり、()にあたると宝石やビーズやスパンコールはキラキラとかがやいていました。
 そんなあまりの美しい姿に王子さまは目をうばわれ、固まってしまいます。
「ここにくるようお願いしたんだけど、どうしてもいやだって」と、グレエンは耳打ちします。
 王子さまはかるくうなずき、民のまえに立つと口を開きます。
「兄弟たち、わたしひとりでは成しとげられない、ひじょうにきびしい戦いであった。みなの信頼こそが闇を打ち破る力となったのだ。わたしからひとつだけ伝えたい。それは旅立った歴代(れきだい)の王子たちからの言伝(ことづて)である!」
 あまりの堂々(どうどう)とした声に、会場は水をうったように静まり、王さまやグレエンですらも、なにごとかと緊張(きんちょう)が走ります。
「みなさんを心から愛しています。どうかわたしたちのことで苦しまないでください。いつまでも、いつまでも山あいの国に平和があるように」
 おだやかな王子さまのまな()しによって、民の目からは自然と涙がほおをつたい、心にささっていたトゲを流すいやしの川となりました。王さまは自慢(じまん)の息子に抱擁(ほうよう)をあたえ、民衆(みんしゅう)にこう言います。
「わたしは思いだす。親を失い、みなで涙しながら(たく)をかこみ、自由を夢見て約束した朝を。われらは自由に集まり、自由に話し、自由に歌おう。朝に野山かけまわり、昼は美しき湖へ、夜は感謝し(とこ)につく。まちがえたのならあやまり(ゆる)せ。われらは深い山あいに住むちいさな家族なのだから。名もなき国はわれらの名、山の彼方(かなた)虚栄(きょえい)重荷(おもに)()て。山の彼方(かなた)虚飾(きょしょく)重荷(おもに)()て。
 わたしはここに宣言(せんげん)する。今日をもち、わたしは王ではなく〝お城のピートおじさん〟と呼ばれる。これは城に来る子どもたちが親しみをこめて呼ぶわたしの名だ。そして、こんなたいくつな式典(しきてん)はとっととやめて、早くさわぎたい! みなも好きなだけ食べて飲み、音楽に身をゆだねたいとは思わないか?」
 王さまは金の王冠(おうかん)を投げてから呆然(ぼうぜん)とする民衆(みんしゅう)にうやうやしく一礼(いちれい)して、にっこり笑います。民は歓声(かんせい)をあげ、しんみりした空気はどこへやら、となりの王妃さまはあきれて顔をおさえます。でも王妃さまだけは知っていました。王子さまが旅にでてから王さまは食事と笑いをひかえ、まいにち、城の屋上(おくじょう)から風車の方角(ほうがく)をむき、町の正門(せいもん)に出かけては息子の帰りを待ち続けていたことを。
 舞台(ぶたい)楽団(がくだん)演奏(えんそう)場面(ばめん)転換(てんかん)し、テンポの良い音楽とつくえいっぱいにならんだごちそうで大()りあがりです。
 王子さまはおどったり談笑(だんしょう)する人々のあいだをぬうように菖蒲のもとに()けぬけます。
「ねえリリィ! アヤメは?」
 すると、リリィはにこりと自分の家を指さしました。

 ひっそり静まりかえったリリィの家の庭で菖蒲はひとり、ハーブに水をやっています。
「とてもりっぱなスピーチだったわ、王子さま」と、菖蒲は背後(はいご)で息をあげる王子さまに言います。
「ありがとう、主役(しゅやく)はアヤメだったのに」
「ごめんなさい。わたし、どうしてもうまくできなくて」
「ううん」王子さまは思いだしたように顔をあげ、「そうだ、見せたいものがあるんだ、きて!」と、菖蒲の手をとって走りだします。
「どうしたの? そんなにいそがなくても」ドレスのすそを持ちあげる菖蒲は言います。
「もう時間がない」
 うす暗い森のこけむした敷石道(しきいしみち)を進み、小川にかかる木橋の先、なだらかな斜面(しゃめん)()くスミレの群生(ぐんせい)を通ります。ナラの木立を抜け、道は石づくりのガゼボで切れていました。
「ここだよ、アヤメに見せたかった場所」
 ガゼボのむこうは広い湖でした。いちめん、燃えるようなあかねにそまり、水鳥たちは優雅(ゆうが)に飛び立ち、水面に(むらさき)陰影(いんえい)がゆれます。王子さまはガゼボのこしかけに落ちた葉っぱを手ではらい「どうぞ、お姫さま」と、菖蒲をエスコートします。
「なんて美しいのかしら」
「今がとっておきなんだ。朝もいいんだけどね。この国ではみんな特別な時間と場所をもってる」
「すてき……わたしのために王子さまの〝特別〟を教えてくれてありがとう」
 湖の夕景を一望できるガゼボはだれもいない自然の美術館のようです。刻々(こくこく)とうつりかわる湖畔(こはん)はみごとな印象派(いんしょうは)絵画(かいが)で、ふたりは光にとけこみます。
 ふと王子さまを見ると、ひたむきな顔は情熱(じょうねつ)()らされ、黄金の湖水(こすい)にむけられた(ひとみ)はどこか(うれ)いを感じさせます。やがて、そのくちびるはここちよく止まった空気をにごさないよう注意深く動きました。
「良い解決はないか、ずっと考えていたんだ」
 すると、そよ風は邪魔(じゃま)するように王子さまの耳をなで、菖蒲はむっとします。でも彼女のほうが菖蒲より王子さまとのつきあいは長く、大事な人を取られてしまうのではないかと心配していたのです。夕空はそんなふたりの少女をなだめるようにだんだんと深く、とろんと山のまぶたすら閉ざして眠りつかせました。
「イシュは父を、ミモザはきみをもとめていた。アヤメは赤い宝石でミモザに望むものをあたえたのに、わたしにはなにができたのだろう。青い剣でなにをしてあげられたのか。どんなに勇んでも、無力なことを知る」
 菖蒲は王子さまの思いが濃藍(こあい)の湖にしずんでしまうのが苦しくて、星月夜(ほしづきよ)に目をそらして言います。
「わたしたちはすべてをあたえられはしないのよ、どれだけ望んでも。だから悩むの。いつだって、できないことはたくさんあるって。でも、こぼれ落ちてしまうほど小さな赤子のような手の中で、せいいっぱいしてあげようって。なによりあなたを愛してる、と」
「アヤメは優しくて強いね、安心した」
「ねえ、そうだ!」と、菖蒲は恥ずかしそうに目をおよがせます。「あなたの名前をまだ聞いていなかったわ。それとも、王子さまってお呼びしたほうがよろしいかしら?」
「アサゼル」と、王子さまはすぐに答えます。「わたしの名はアサゼル」
「みじかいのね」菖蒲はクスッと笑みをこぼし、「もっとおごそかな名かと思った」。
「しつれいな! じゃあ王子でいいよ、もう」
「えぇ……そんなんでいじけるの? 子どもねぇ」
「まったく、アヤメがそんな人だったなんて」
「女の子に〝そんな〟とか言うのはしつれいなのよ」
「……ごめんなさい」
「すぐあやまるし」
 ふたりは目を合わせてぷっとふきだし、笑いました。それからアサゼルは菖蒲に顔を近づけ、目を輝かせてこう言います。
「アヤメのこと、もっと知りたいんだ。どんなものを見て、どういう出会いがあったのか」
「いいわよ。じゃあ王……アサゼル、あなたの旅も教えてくれる?」
「もちろん!」
「そのまえに」と、菖蒲は大声で言います。「モルト! いるんでしょ、出てきなさい!」
 ザザッとしげみはゆれて、にゃあっと聞きおぼえのある、へたなネコなで声がどこからか聞こえてきます。
「とぼけてもむだよ、モルト。足音でわかるんだから」
 モルトはチッと(した)打ちしてふたりの前に姿をあらわし、じとっとした目で菖蒲のひざの上にうずくまり、鼻息をふんっと吐きます。
「なんだモルト、いたなら声をかけてくれればよかったのに」と、アサゼルは言います。
「……かけるわけにゃいだろ、こんにゃおもしろいのに」と、モルトはつぶやきます。
「リリィ!」菖蒲は続けて言います。「それにグレエンも!」
 すると、ザザッとしげみはゆれてリリィとグレエンも気まずそうに頭をかいて登場しました。
「ええ、ふたりもいたのかい!」アサゼルは目を大きくします。「ぜんぜん気づかなかった」
「あなたそれでよく闇と戦えたわね」菖蒲はあきれ顔です。
「わたしたちは親として娘をあたたかく見守っていただけさ。なあみんな!」
 グレエンの言いわけに、モルトとリリィはうんうんあいづちを打ちます。
「なあみんな、じゃないわよ。娘を心配して楽しそうにこそこそのぞく親とネコなんてどこにいるの。ゆだんもすきもないんだから」
「おーい」こんどは森のほうから、のんきな顔した〝お城のピートおじさん〟は大きめのピクニックバスケットを手に王妃さまとやってきました。
「アルビレオに聞いたらここじゃないかってさ」お城のピートおじさんはバスケットからろうそくをいくつか取り出して角灯(ランタン)の火をうつしていきます。「おなかすいただろう。食べ物をもらってきたんだ」
「おいおい、町は主催者(しゅさいしゃ)もいないパーティーかい? 兄さん」いぶかしげにグレエンは言います。
「気にするな戦士グレエン」笑顔のピートは気にするでもなく、グレエンの肩をたたきます。「わたしたちはずっと好き勝手してきたんだ。それに、そろそろこうれいのパイ投げもはじまってるだろうさ。だから、やられる前に逃げてきた。前回の仕返しが怖いからね」
 みんな思いだしたように苦笑しますが、菖蒲だけはきょとんとしています。
「やっと会えたわね、アヤメちゃん!」王妃さまは菖蒲のほっぺに優しくキスをしてから手をにぎります。「はじめまして。わたしの名前はユリーフロラ。ユリィって呼んでね」
 ユリィはリリィそっくりの(りん)とした美しい顔と声で、バラの香水を香らせ、リリィより明るく太陽のような王妃さまです。——それならきっとお母さんは物静かな月のようね——菖蒲はリリィをちらりと見てそう思います。
「アヤメちゃんのドレスかわいい」太陽は菖蒲のドレスをうらやましそうに見つめて言います。「もしかしてリリィが仕立てたのかしら」
「はい」
「いいなぁ……リリィ! わたしにも作って。ねえお願い、ねえねえ」と、太陽は月にベタベタすりよります。
「いやよ」月の冷たい返答。「わたしはこれからアヤメに服をたくさん作ってあげないといけないの。それに、姉さんは衣装箱(チェスト)にお義母(かあ)さまの服がいっぱいあるでしょ」
「リリィのけち。あなたが留守(るす)の時、庭のお手入れまいにちしてあげたのに」
「そのことだけどね、姉さん」リリィはまゆをひそめて言います。「帰ってきてびっくりしたわ。庭が()らされていたんだもの」
「いやいや、めんぼくない」ピートはもうしわけなさそうに言います。「言われたとおり、必死に世話したんだ。植栽(しょくさい)やガーデニング、植物学の本までなんでも読んださ。しかし、やればやるほど、なぜか弱っていくのだ。わらとなったアサゼルの報告(ほうこく)をモルトから聞いた時、謝罪(しょくざい)の手紙でもしたためようかと思ったが……まさかリリィまで闇に」
「ちょ、ちょっと待ってください」アサゼルはあわてて言います、「父さんはわたしが必死に旅をしていたあいだ、リリィの庭に頭を(なや)ませていたのですか!」
「うむむアサゼル、落ちついて聞いてくれ。人間などより草花の期待(きたい)にこたえるほうがよっぽど難しいのだぞ」と、しみじみ語る王さま。
「ねえねえそんなこと(・・・・・)よりあなた」あっけらかんとしてユリィは言います。「お義母さまの別邸(べってい)だったリリィのおうちはいいわよね。お城にいるより楽だもの。わたしたちもそろそろ夢だった湖畔(こはん)のおうち、ふたりで建てましょうよ。あのお城、冬はさっむいし、じめじめするし、カビくさいし、階段多くて移動も大変だし」
「おお、それはいい考えだユリィ。さっき王も辞めたし、明日から新居(しんきょ)探しを始めようじゃあないか」
「いいわね、あなた!」
「よおし、またひとつ楽しみができたね、ユリィ!」
「だいじょうぶかな、この国」両手をかさね、見つめあう父と母に、アサゼルは肩をすくめました。
「山あいの国の王さまと王妃さまってこのようだったかしら?」と、菖蒲はたずねます。
 リリィとグレエン、それにモルトは声をあわせて(まよ)わずこう答えました。
「うん、ずっとこう!」
 その日は灯火(ともしび)ゆれる湖畔(こはん)のガゼボで、おいしい食事やダンスを楽しみ、時間を忘れるほどすばらしい夕べとなりました。

ふたつめの夢

ふたつめの夢

「楽しい日は退屈(つまんない)がいたずらして時計の針を早める」と、山あいの国の親は子供たちにお話しします。「だから楽しい日に休息(おやすみ)をつくってごらん。すると時計はもとどおり時をきざむ。そうすれば気づくだろう。あなたがどれほど大きくなっているかを」
 菖蒲も楽しい日がつぎからつぎへとやってきては過ぎ、退屈(つまんない)は時計の針をぐるぐるまわしたので、大きくなっていることなどすっかり忘れていました。
 友だちと山にのぼったり、湖で泳いだり、木の実を集めたり。グレエンと畑仕事のお手伝いをして、みんなでお茶を楽しみ、モルトを連れ、アルビレオに乗って遠くの町まで冒険へでかけるのも楽しい日でした。もちろん、大好きな王子さまに会える日も。
 リリィはお母さんとして、いいえ、もっと菖蒲を愛しました。娘のためにすてきな服をぬい、おいしい食事だってかかしません。庭のお手入れを始める朝から夜寝るまで、親子はたくさん話しをしたのです。そのようにして、菖蒲との時間を宝物のように大事にしました。菖蒲が楽しい日の休息(おやすみ)をわすれてしまったのも、きっとわかるでしょう。
 充実(じゅうじつ)した日々は続き、約束が力をうしない始めたころ、菖蒲はふたつめの悲しい夢を見ました。
 オリバナムとミルラのまじりあう香りで目醒(めざ)めるように、扉のない中庭では六本のリンゴの木は満開の花をさかせ、真ん中にひざたけほどのおさないリンゴの木が一本、ふりそそぐ光をあびてまっすぐのびています。うれしくなった菖蒲はそばに近づいてかがみ、リンゴの木を優しくなでるとリンゴの木は菖蒲のためにちいさな実をひとつ結びます。菖蒲の目からこぼれたひとつぶの真珠(しんじゅ)は小さな実に落ちてはじけ、天から声はひびきます。
「おまえをけっしてわすれはしない。こうしておまえにいつも呵責(かしゃく)をあたえる」
 菖蒲はすっと立ちあがり、周囲をへだてる白い壁と上方へ等間隔(とうかんかく)にどこまでもならぶ窓を下から順に見ます。すると五階の一室の窓だけ、明かりはぽおっと黄色に(とも)っているのに気づきました。窓に手をそえる黒髪(くろかみ)の少女は悲痛(ひつう)な顔をしてこちらをのぞいているではありませんか。助けて、助けて、と、くり返しわたしにうったえているかのように——でも、わたしとはだれなの?——
 あたりを見まわしても扉はなく助けにいけません。少女のためになにかしてあげたいのに、なにもできないのです。菖蒲は「ごめんね、ごめんね」消えかかる(まど)(あか)りに何度もそう言葉を投げかけると中庭はくずれてなくなり、いちめん黄金にそまる小麦畑を歩いていました。
 大きな白鳥はすいこまれるほど深い瑠璃色(るりいろ)の空へ飛び、遠くに燃えるような赤い風車はそびえ立っています。星を中心に白い翼はぐるぐるまわり、羽の音は消える少女のさけび声のようで、たまらず耳をふさぎ、うずくまります。
 そう、二つめの夢は菖蒲に答えを求めました——このまま楽しい日をつづけるのか、おやすみを作るのか。——菖蒲は答えを知っていました。それがどれだけ悲しい結末になるかも。

 ある日の夜、リリィはいつものように化粧台(けしょうだい)のまえにすわる菖蒲の長い(かみ)をとかしていました。
「ねえリリィ。あなたはわたしの大好きなお母さんよ」菖蒲は(かがみ)にうつるリリィに言います。「それにまいにち幸せ」
「まあ、なんてうれしい言葉なのかしら」と、リリィは顔をほころばせます。
「でももし、もしもだけど、わたしがここを出ていくとしたら、どう思う?」
 リリィは手を止め、じっと考えます。菖蒲は言わなければよかったと後悔(こうかい)します。
「おぼえているかしら」と、母親は娘の頭をなで、言いました。「何年も前に教えたわたしの秘密の約束」
「もちろん。【覚悟(かくご)の約束】、それに【園丁(えんてい)の約束】も」
「そうよ。わたしは約束をかたときもわすれなかったし、できるかぎり誠実(せいじつ)でいた。あれからいつもアヤメだけを考えてる。もちろん約束だから愛していたわけじゃないのよ。そばにいればいるほどアヤメを好きになって、アヤメのためにもっともっとしてあげたいと思う。いまもこれからも。でもね……」
「でも?」
「あなたをどんなに愛しても、いつかは家をでていく時がくるでしょう。成長したヒナが巣立(すだ)ってゆくように。だからわたしはつつみこむ愛から、むかえいれる愛に変わらなければならないと思うのよ。娘がいつでも安心して家に帰れるよう、わたしも成長しなければって」
「お母さん、とても怖いの。わたし帰ってこれるかな? またひとりになったらどうしよう」
(おそ)れないで、アヤメ」リリィはおだやかに、でも力強く言いました。「わたしはあなたから自信をもらえた。あなたはほこり高き戦士グレエンとリリーフロラのひとり娘よ。(まど)をいっぱいに開け、いつでもあなたの帰りを待っているのを信じなさい」
「うん。リリィがわたしのお母さんでほんとうによかった。大好き」
「ただ、グレエンに話してはだめよ。あの人、あなたがいなくなるなんて言ったらすっごくめんどうなんだから」
 そう言ってリリィは笑顔の菖蒲にほおをよせました。

 ()(がた)、菖蒲は白鳥の金糸(きんし)の入った白いワンピースに着がえ、野鳥のさえずるほの(・・)暗い森を()しむようにゆっくり歩いてお城へむかいました。城門で草を()むアルビレオとあいさつをし、(みずうみ)まで乗せてもらいます。
 (きり)につつまれるガゼボでは紫根色(しこんいろ)の長い上着(うわぎ)をはおるアサゼルが(みずうみ)を見つめていました。
 菖蒲はどんぐりをひろい、音を立てないよう背後(はいご)にそおっと近づき、アサゼルめがけてなげるとすぐ、しげみにかくれます。どんぐりはアサゼルの頭にぼそりとあたりますが、頭をかいて気づかない様子なので、どんぐりを持ってさらに近づきます。
「アヤメだ」アサゼルは特別な親しみをこめ、呼びかけるように言います。
「なんだ、気づいてたのね。つまんないの」菖蒲ははぐらかすように、少し顔を横にそむけ、アサゼルのとなりにすわります。
「だって」と、アサゼルはさりげなく言います。「マグノリアの香り……したから」
 (みずうみ)は白い吐息(といき)湖面(こめん)にただよわせ、薄明(はくめい)の森をうつします。青の濃淡(のうたん)に支配され、ひんやりとした空気に朝露(あさつゆ)と草、甘い花の香りをまとい、まどろんだ感覚を少しずつさまそうとふたりの思いをゆすりました。
「夕やけもいいけど早朝の(みずうみ)もすてきね」菖蒲はぼんやりと言いました。「ぴんとはった緊張感(きんちょうかん)、これからすばらしい舞台(ぶたい)がはじまりそうな、前兆(ぜんちょう)の静けさ」
「セレモニーの日に教えたよ。どっちもいいって」
「もうおぼえていないわ、そんな何年もむかしのこと」
「うそだね」
「なんでよ」
「〝おぼえてない〟って言葉、アヤメの口から聞いたことない」
「そんなのわからないわ。わたしだって忘れることくらいあるもの」
「いいや、わたしは知っている。アヤメは大切なことすべておぼえているけど(かく)してるんだ。みんなのために」
「なによそれ。アサゼルがわたしのなにを知ってるのよ」
「うん、知らないかもしれない。だからきみを深く知りたい」
「……へんなの」
「考えていたんだ」
「なにを?」
「アヤメに伝えたい言葉(こと)
「…………」
「わたしたちはおとなになった。だからアヤメが(ゆる)してくれるなら、今ここで伝えようと思う」
「わかったわ」菖蒲の目は湖のしずんだ青に()いこまれるように、「そのかわり、小麦畑の風車にわたしを連れていって」。
 ぽちゃんと魚が飛びはね、波紋(はもん)湖水(こすい)に、そしてアサゼルまで広がります。
「もう風車はないはず」アサゼルは菖蒲の横顔を見て言います。
「いいから、わたしをつれてって」
 アサゼルはアルビレオを呼び、菖蒲の言うとおり、白馬を走らせます——家の窓からさびしそうにながめるリリィのことなど知らず。
 彼方(かなた)から太陽は顔をだそうと地平線に力いっぱいの()をさします。広い渓谷(けいこく)()けぬけるあいだじゅうずっと、菖蒲はアサゼルの背中をぎゅうっと抱きしめ、ほおをぴったりつけていました。
「ねえアサゼル聞いて。わたし、夢を見たの」
「どんな?」
「扉のない中庭の夢。ひとつだけ明かりのついた窓があって、そこから苦しむ少女はわたしに助けをもとめてた。もしアサゼルだったら、その子を助けにいく?」
 アサゼルはなにも答えません。
「わたしなら迷わず行く」と、菖蒲は続けます。「だって助けをもとめているんですもの。たとえすべて失うとしても」
 アサゼルは右手を菖蒲の手に(かさ)ねます。
「ねえ、アサゼルの手、やっぱりあったかい」
 そう言って、菖蒲は静かに目をつむりました。
 たわわに実る小麦畑を遠くに、アサゼルはおどろきます。あの風車です! 闇が破壊(はかい)してからだれも直していないはずなのに、どうして。
 アザゼルは困惑(こんわく)しながらも、風車のまえでアルビレオからおります。逆光(ぎゃっこう)で影のようにうつる黒い風車は羽が左にまわり、ゴオンゴオンという、いかにもぶきみな音を()らしています。周囲で小麦はサラサラこすれあい、あおられる黒髪(くろかみ)を手でおさえ、菖蒲は言いました。
「ありがとうアサゼル。ここでじゅうぶんよ。先に帰っていて」
 そっけなく風車にむかう菖蒲に、アサゼルはあわてて近づこうとします。
「来ないで!」
「でも、きみに伝えたいことがあるって」
 しかし菖蒲は足を止めません。ふり返りもしないのです。——こんな忌々(いまいま)しい風車、今すぐなくなってしまえばいいのに。——と、アサゼルはもどかしく感じます。
「ひとつだけ聞いてほしい!」
 遠ざかる距離(きょり)を少しでもちぢめようと、両手を広げながら必死に呼びかけるアサゼルを無視(むし)するように、菖蒲は閉じられた風車の戸口へずんずん歩いてゆき、うつむきかげんで扉の把手(ノブ)に手をかけました。
「いやよ」
「お願い」
「いや」
「なぜ?」
「いやだからよ。いやなものはいや!」
「どうか、こちらをむいてほしい」
「いやなの! だって……だって、ふりむいたら扉を開けられなくなるもの!」
「アヤメ、アヤメ。ほんのすこしでもいいから、わたしを見て」
 ついに覚悟(かくご)の手をゆるめ、ふりむいてしまう菖蒲。アサゼルの胸ははりさけんばかりです。山のようによせる(まゆ)(くちびる)()きざみにふるえ、あふれるほどの涙を(ひとみ)にためていたのですから。
「わたし、あなたの言葉を聞いたら帰れなくなる」ふりしぼるような声で菖蒲は言います。「だって、ぜったい忘れたくないから。とっても楽しみにしてた、たいせつな約束。ずっとこの日、この瞬間(しゅんかん)を待っていたのに。わたしは迷わず〝はい〟って、答えたいのに」
「だったらそれでいいじゃないか。すべて終わったんだ。リリィや母さんもここで幸せにくらしてる。だからアヤメも」
「むかしの約束はまだ残ってる! それを果たさなければいけないの。あの子は苦しんでいる。あの子はわたしなのよ! わたしなの……」
「そんなの」アサゼルは顔を落とし、()き捨てるように言います。「だれもおぼえてないさ」
 菖蒲は首を横になんどもなんどもふります。そう、なんどもなんども。それから天をあおぎ、ゆっくりと一息してから母親のような()みをうかべ、教え(さと)すように言いました。
「ねえアサゼル、約束は一度口にしたら、たとえ誰もおぼえていなくとも果たさなければならないのよ。(うそ)をつけば、せっかく打ち勝った闇の(かて)になる。約束の力はわたしたちのついた、たくさんの(うそ)代償(だいしょう)よ。わたしはミモザやイシュのような子が苦しむのを見たくはないの。あなただってそうでしょう?」
「でも」と、アサゼルはこぶしをかたくにぎりしめます。「アヤメがそばにいない日々など()えられない。そんなの考えるのもいやだ」
「わたしも同じよ、アサゼル。だけど、そうだとしても、たったひとつのちいさな約束を守ることは、わたしたちの乗り越えなければならない大きな悲しみよりずっと大切なこと。お願いだから、これ以上わたしを苦しめないで」
 菖蒲へのほとばしる想いはのどを()がし、理性(りせい)は胸をいよいよ()めつけます。ここまでわかれのあいさつを嫌悪(けんお)した日はありません。アサゼルはいろんな解決をめぐらせますが、どれもふたりに心痛(しんつう)をあたえ、言葉を失ってしまいます。
 菖蒲は風車の扉を()けると、ゴオゴオとすいこまれるような風に引きよせられます。王子さまはなすすべなく風車にうばわれるお姫さまをただ傍観(ぼうかん)するしかできません。見かねた白馬は思わず口をだそうとしたその時——
「わたしはこの約束を信じて(うたが)わない」アサゼルはあらんかぎりの声で言います。「アヤメがわたしを助けてくれたように、こんどはわたしがアヤメをむかえにゆく。ちいさな約束を果たしたその日、その瞬間(しゅんかん)に!」
 菖蒲は、ふり返りませんでした。
「愛している、アヤメ」
 アサゼルのささやかな告白は西風(せいふう)にいともたやすくふき飛ばされ、流れゆく雲とともにどこかへ消えます。風車の扉は無情(むじょう)にも音を立てて閉じ、軽薄(けいはく)な男だとあざ笑うかのように菖蒲を連れ去ってしまいました。

夜半〇時のらせん階段

夜半〇時のらせん階段

「シンデレラだってくりぬいたカボチャの馬車でおうちに帰ったのに、なんでわたしは歩きなのよ。しかもけっこう長いし」
 ぶつぶつともんくを言いながら菖蒲は木製(もくせい)のらせん階段をぐるぐる上へのぼっていました。
 中央のふきぬけには水晶(すいしょう)原石(げんせき)がいくつも宙にういて固まり、金のひもにつるされた丸いおもりはフーコーのふり子のように、いろいろな方向にゆれ、どこからかカッチコッチと一定のリズムで時をきざんでいます。
「それに」と、菖蒲はため(いき)まじりに言います。「おとぎ話のお姫さまはいつまでも幸せにくらすのに、こんなさびしいおしまいもあるのね。まあでもアヤメ、ふつうはこんなものよ、なにかを期待(きたい)してはいけないわ。金の馬車だとか、りっぱな身なりの従者(じゅうしゃ)だとか、まして、ガラスのくつだって落としてきたわけでもないし。盛大(せいだい)にむかえられず、送られもしない、ひっそり階段をのぼっておうちへ帰りましたとさ、おしまい、なんてのもアヤメらしくていいのかな」
 階段を一周めぐるたび、菖蒲の時間は逆行(ぎゃっこう)して助けをもとめていた少女の姿に変え、体だけではなく記憶(きおく)もだんたん遠くに、いきいきとした昨日までのできごとはまるで他人(たにん)のめぐった旅行のような感覚にさえなりました。ただひとつ(・・・・・)をのぞいて。
 周囲はいつのまにか石づくりに、乳白色の壁には木の手すりがついています。電球色のあたたかな明かりに、なんともいえないなつかしさがこみあげて、菖蒲はあたりを見まわすとカサカサ、ノッソリノッソリ。やはりカメです! あいかわらずカメはのっそのっそと階段をおりつづけていたのです。ここはのんびりカメといたずら好きのアリアドネのいる『下に上がる階段』でした。
「ひさしぶりね、カメさん!」菖蒲はうれしくなり、カメの横に(こし)をおろします。「元気そうでなによりだわ。アリアドネとはうまくいってるのかしら?」
「も・ち・ろ・ん」カメはゆっくり首をたてにふりました。
「安心した」菖蒲はほおづえをついて言います。「ねえねえカメさん、あなたとわかれたチョコレート色の扉のむこうはとんでもない部屋だったのよ。わたしのお話し、聞いてくれる?」
「も・ち・ろ・ん」カメはゆっくり首をたてにふりました。
「じゃあ、まずはね」と、菖蒲は身ぶり手ぶりをまじえて、いきいきと語りはじめます。
「扉を開けたらほんとびっくりしたの。だって床がないんですもの。まっさかさまに落ちたらお魚さんや鳥さんや、ながれ星さんまでわたしに話しかけてもうてんやわんや。ね、おもしろいでしょ。でも、じつは落っこちていたんじゃなくて……」
 どれくらい()ったのでしょう。今まで見てきたものや聞いたこと、しゃべったこと、かいだにおい、食べたものや飲んだもの、菖蒲の楽しい日々をただひとつ(・・・・・)をのぞいて、ありったけカメにつたえました。おやすみまえ、たいせつな宝石を宝石箱にひとつひとつしまうように。そんな菖蒲の話をカメはおしまいまで静かに聞いていました。なにせカメほど聞き上手(じょうず)な生き物はいないのですから。
「……それでね、風車にある、らせん階段からここにたどりついた、というわけ。どう、すごい物語でしょう?」
 カメはゆっくり首をうんうんと、何度かふってから、こうこたえます。
「……ここまで、よくやった……うむ……うまく、やった、よ……」
 カメの返答に、さっきまで楽しそうな菖蒲はうつむいてしまいます。
「わたし、カメさんの言うように、よくやれたのかな。ほんとうにうまくできたのか自信ないの。だってわたし、好きな人を傷つけてしまったし、自分の気持ちにも正直になれなかったから」
「い・い・や」と、カメは首を横にふります。「それでも……じゅうぶん、よくやった、さ……たくさん、がまんも……した……ね」
 菖蒲は想いの水平線から大波がやってくるのを感じました。いつもみたいに「うん、ありがとう」と、笑顔を作りたくとも、どうにもうまくいかないからです。
「カメさん、わかってくれてとってもうれしい。わたしね……わたし、わたし、おうちに帰ったら、きっと今のお話しぜんぶ、なにもかもわからなくなってしまうから、カメさんとの思い出もすべて。もう夜中の〇時になっちゃうから、だから、だからすこしだけ、時計の針がすべて上をむくまで、ほんのちょっとだけ、泣いてもいい?」
 カメはみじかい手をのばして菖蒲の太ももをぽんぽんと優しくたたき、体をそむけました。すると菖蒲の目から自然と涙がポロポロこぼれます。せきを切ったように、とめどなく。
 後悔(こうかい)していたわけではありません。そのように選ばなければならなかったことが(くや)しいのでもなく、ただアヤメとアサゼルのために泣いてあげたかったのです。それが菖蒲にできる最後のせいいっぱいだったから。たくさんの涙の片方は彼女のため、もう片方は彼のため。水は両方の目からそれぞれ同じ数ほど流れ、ほおをつたわり、あごでまじわると、やがて一緒に地面に落ちます——そっか、こうすれば大好きな人のそばにいられるんだ。
 たしかに菖蒲は自分のために泣くことはしませんでしたし、どうしてわたしがとか、なんでわたしだけ、などと考えないようにしていたのです。いじけてしまえばきっと前に進むのを恐れたり、なにもかもいやになってさじを投げ、せっかくのすてきな物語は台無しになってしまいます。でも、この時ばかりはあふれる気持ちをおさえたくありませんでした。
 だから、言わないと決めていたはずの〝ただひとつ〟も口にしてしまいました。
「わたしも愛しているわ、アサゼル! あなたをはじめから深く、とっても深く……むりよ、こんなおしまい耐えられない、考えたくもない。だってわたしの心は、わたしの魂は、あなたをこんなにも強く(した)いもとめているんですもの。でも、こうするしかなかったの、こうするしか……
 ああ、せめてどこかちいさな村のおとぎ話しにでもなればいいのに。むかしむかしあるところにって。そうすれば見知らぬ誰かに(おぼ)えてもらえるのに!」
 ついにおとずれた約束の時間。ゴーンゴーンと大きな(かね)の音は鳴ります。一回、二回……
「行かなきゃ」菖蒲は赤く()れた目に残る最後の涙をそっと指でぬぐい、立ちあがります。「アリアドネ、わたしの行かなければならない道を教えてちょうだい」
 しかし、階段はなにも変わりません。まさかアリアドネは約束をやぶっていたずらを始めたのでしょうか。いいえ、菖蒲はくりかえしアリアドネの名を呼びかけても、聞こえないふりをしていたのです。鐘の音は五回、六回……カメは口を開こうとしたとき、菖蒲は言いました。
「なんて優しいアリアドネ。わたしはまちがっていたわ。だってあなたが覚えてくれているんですもの、わたしたちのおとぎ話。だから、もう満足よ」
 すると上階はふわりと光り、青白く無機質(むきしつ)でつまらない階段へと変わってゆきます。カメとアリアドネにさよならと手をふり、階段を一歩一歩、ふんでいくと、はるかむかしのように思える、あの小さな図書館がポツリと見えます。
 菖蒲は目をつむり胸に手をあてました。
 とくんとくん。——ねえアヤメ、とろけるほど甘い夢からどうか()めないで——鼓動(こどう)(かね)()とリズムをずらし、物語のおしまいを止めているようです。
「そうよ。でもねアヤメ、あなたの選んだ結末(おしまい)は、菖蒲(わたし)が選んだ結末(おしまい)
 十二回目の(かね)()()()む時、少女は深呼吸(しんこきゅう)して足をふみだすと、ただ前だけを(のぞ)み、力強い笑顔で図書館へ立ちむかっていきました。
————
「アヤメ、あなたが本借りたいってきたのに窓ばかりながめて。お昼はみんなで食べる約束でしょ、わたしもう帰るわよ」
 図書館の窓をじっとながめる菖蒲に、本をかかえたお姉さんは顔をしかめて言いました。
「でもお姉ちゃん、ここのたなにある本、もう読みおわってしまったの。だからどうしようかなって」
「あなたね、もうすこしむずかしい本読みなさいよ」
「ええ、ねむくなる。わたし、お姉ちゃんみたいにおかたい(・・・・)子どもじゃないし」
「なに言ってんの。ほんとはぜんぶ読んでるくせに」
 菖蒲はベーっと舌をかるくだすと、お姉さんも口をいーっとしてふたりは笑いますが、せきばらいが聞こえ、口に手をあてて目を合わせ、わきをつつきあい、ふざけます。
 新刊(しんかん)とおすすめの本を何冊か借りてから司書さんにバイバイと手をふり、姉妹仲よく手をつないで図書館をあとにしました。
 こうして、アヤメのすてきなおとぎ話の数々は雨となってすべてながれ落ち、干しわらになった王子さまをもどす物語は、静かに(まく)をとじたのでした。

おはなしのおしまい

おはなしのおしまい

 昼すぎ、菖蒲はとなり町で用事(ようじ)をおえ、夜ごはんの献立(こんだて)を考えながら家にむかっていました。お気にいりの和菓子屋(わがしや)さんを横目に、かき氷を食べようか、それともあんみつソフトに水ようかん、わらびもち、ところてん……夜の献立(こんだて)を押しのけて三時のおやつは頭の中でくるくるまわります。
 時計はいつも通り、ちくたくと時をきざみ、菖蒲をおとなにしました。お姉さんと取りとめもないおしゃべりはかかさず、本を読むのは好きだけど学校の勉強はまあまあ、友だちとわいわい遊ぶのも(きら)いじゃない、といったぐあいに、笑ったり、おこられたり、泣いてしまったり、いやなこともありました。でも、なにかが欠けているとか、ものたりないなどとはすこしも思わなかったのです。
 菖蒲はアヤメを助けるためにおとぎ話をすっかり手ばなしたので、すてきな夢だったのに、どうにも思いだせないモヤモヤする夢のように、ああでもないこうでもないとなやむことはありませんでした。もちろん、あのちいさな図書館には何度も足を運び、窓だってのぞきましたけど、扉のあるふつうの中庭などに関心は持たず、読書のあいまにちらりと見るくらいです。ひとつだけ変わったとしたなら、菖蒲はアヤメに話しかける、あのへんなくせ(・・)がなくなったぐらいでしょうか。
 もみくちゃのまいにちは菖蒲にごくありふれた夢をあたえ、それなりの生活と満足も保証(ほしょう)しました。気になる男の子がいたかどうかはわかりません。なぜなら菖蒲に聞いても遠い目をして「そういうのよくわかんない」が口ぐせでしたから。
 青空に固まるは雲の(みね)、えんえんとくりかえすセミのフェイズ、アスファルトに逃げ水はゆらゆらゆれて、藍色(あいいろ)のリボンつきストローハットを頭にのせた菖蒲は肩にかけたクリーム色の帆布トートバックからハンカチを取りだし、ひたいにながれる汗をぬぐいました。両わきにケヤキなみ木そびえる大通りの中央には、熱気をおびた女のブロンズ(ぞう)が強くしなやかに立ち、菖蒲はあこがれ(いだ)いて「おつかれさま」と、あいさつをします。
 足早にゆきかうオフィスワーカー、重そうなリュックを背おう外国人のバックパッカー、ベビーカーを押す母親はとなりではしゃぐ長男に「ちゃんと歩きなさい」と、注意しています。建物の影でぐったりするキジ三毛ネコの泣き声があんまりヘタで、二度見した菖蒲は立ち止まり、近づいてなでようとしたら、かすかに流れてくるのはさわやかな甘い花の香り。
 それは駅近くのビル前に植えられたタイサンボクでした。ふと図書館の看板(かんばん)が目に(はい)り、読みたい本を思いだします。最近はもっぱら大きな図書館で本を借りていたので、わざわざよらなくともよかったのです。それでも、腕時計(うでどけい)を気にしながら、ほてった体を冷まそうと本をながめて帰ることにしました。
 (かた)の古い自動ドアはガタゴト左右に開き、ひとけのないビルのエントランスをぬけます。(かべ)にうめられた三角形のボタンを押すと二基(にき)あるエレベーターの左が先に到着し、くぼんだ丸い5を選択(せんたく)するとゴトンと音を立てエレベーターはゆっくり持ちあがりました。
 何年ぶりかの図書館への帰還(きかん)です。まるで大好きなお姉さんと手をつないで、そわそわする少女がすぐそこにいるような不思議な緊張感(きんちょうかん)——子どもの時はあんなに喜んででかけていたのに。
 エレベーターの扉が開くとすぐ横に新聞や雑誌(ざっし)閲覧(えつらん)席、開きっぱなしの扉のさきにてんじょうの低いこじんまりとした図書館はあります。それは子どもにはちょうどよい広さで、おとなにはちょっぴりせまい本屋さんのようなフロアです。
「うわあ、なんにもかわってない」菖蒲は感慨深(かんがいぶか)げに()つめたような濃い紙のにおいをくんくんかぎました。
 平日のかしきり図書館はなんともぜいたくで、うかれた菖蒲は雑誌を読むことなどわすれ、自然と児童書(じどうしょ)のある書棚(しょだな)へいそぎます。入り口すぐ左には歴史の本はならんで、その奥には植物や動物の図かんに芸術の本です。少し進んで右に受付と前には紙しばいや絵本、児童(じどう)小説がずらっとならんでいます。こし丈ほどの低い棚、色あせたカラフルなフカフカの丸いこしかけ、よくながめていた青い中庭の見える大きな(まど)——書棚(しょだな)書棚(しょだな)のあいだにはさまって、いつも本を読んでたっけ。なんだかあのときから時間が止まっているみたい。
 菖蒲はバッグとストローハットをそこらに置いて、紙しばいをめくったり絵本を(ひら)いたりします。(たな)にならぶ本の()に一冊ずつ人差し指をのせ、「この本好きだった」と、クスクス笑い、「最後は王子さまとお姫さまがいつまでも、しあわせにくらしましたとさ、だったかしら。これは冒険活劇(ぼうけんかつげき)、これは漂流(ひょうりゅう)記ね。この本は……海賊(かいぞく)がでてきてちょっとこわいの」
 本にふれさえすれば、つぎからつぎへと物語は菖蒲の中で動きだします。〝おやすみ〟していた空想や夢は、やかましくおどる目ざまし時計でベッドからいっせいに飛びおき、さあさあ早くと寝巻(ねま)姿(すがた)のアヤメの(うで)をとり、カーテンを思い切り(ひら)くと、わだかまりで破裂(はれつ)すんぜんの風船星(ふうせんぼし)からせかすように連れだします。言葉は少女の自由な想像(そうぞう)でいろんな物語に変わり、それは領域(せかい)をどこまでも広げ、時には結んだりもします。空に浮かびながら海で泳ぐことも、宇宙ではイワシの大群(たいぐん)が空飛ぶ金色のおひつじをかこんで帆船(はんせん)アルゴー号の冒険(ぼうけん)について話すことも、夏野菜と冬野菜はオーロラスープを食べながら北極(ほっきょく)南極(なんきょく)赤道(せきどう)を牛車で行き来するらしいと、うわさしていることも、雲をつきぬける巨人は砂粒(すなつぶ)ほどの小人と仲良く(かた)をならべることも。おしまいとはじまりが手を組む菖蒲の王国ではなんでもできるのです。そう、信じていればなんでも!
 ただ、一冊の本で指は止まりました。
「これはなんだったかしら」菖蒲はふしぎな本を手にとります。「もしかして新刊かな?」
 ラベルもなく、表紙はあかね色でタイトルが金色、作者不明の本の名前は『干しわらになった王子さま』です。
 菖蒲は子どものようにいそいで靴をぬぎすて、書棚(しょだな)書棚(しょだな)特等席(とくとうせき)にぎゅうぎゅう体をつめてすわると表紙をめくり、ページを(ひら)いて読みます。
 深い山あいの国の王子さまは燃えるような影と戦うため、約束によって干しわらになるところから物語は始まり、勇敢(ゆうかん)(やさ)しいひとりの少女が王子さまを助ける旅のお話しでした。
 主人公の少女は干しわらになった王子さまを助けようと長い旅のすえ、ついに扉のない中庭で井戸の水を()みます。たくさんの(きず)()いますが、弱り果てた少女を助けたのは親友の影の女の子でした。ふたたび力を得た少女は影のあやつる、怒りくるった邪悪(じゃあく)な王さまをしかりつけます。ところがなんと、王子さまに水をそそごうとした時、小ビンをわってしまいます。あきらめない少女は残りの水を口にふくんで王子さまにキスをすると、もとの姿になったのです。王子さまは少女の力を借りて闇を完全に打ちやぶりました。
「とても強い女の子ね! 読んでいるだけでわかるもの。わたしだったらぜったいできなかったわ」
 興奮(こうふん)する菖蒲の目はならんだ文字をどんどん追います。
 闇を打ちやぶったふたりは王子さまの国に帰ると、みんなしあわせにくらしました。しかし、いつまでも(・・・・・)ではありません。なぜならとつぜん、おしまいがやってきたからです。大きくなった少女は残してきた約束を守るため、おうちに帰らなければなりません。ふたりいつまでも一緒にいたいのに、どうにもよい方法は見つかりません。
 ついに時はつき、少女の言うがまま白馬で小麦畑に着くと、こわれたはずの風車はひとりでにたっているではありませんか。王子さまの約束に少女はふりむきもせず、風車へと消えてしまうのでした。物語はそこでおわっています。
「女の子が誰にも助けられず、いきなりおしまいって、なんてへんてこなのかしら。残りだって全部白紙になっているわ。それに王子さまの約束って……」
——鏡よ鏡、このおはなしのおしまいはなあに?——窓のむこうの少女アヤメは菖蒲の耳もとにそうささやきました。菖蒲が思わず顔をあげた時、いたずら好きのだれかさんはフーッと息をふいて、そよ風はエレベーター横の階段から図書館の入り口へ、そして白紙ページをぺらぺらとめくっていきます。
「へんな本、あとがきかしら?」
 菖蒲は空白のつづきを読み始めます。
「少女とわかれたあと……
————————
 少女とわかれたあと、とつぜん、どしゃぶりの雨がふりました。
 それはまるで領域(せかい)をぬらす少女の涙のような、地面に打ちつける雨音(あまおと)悲痛(ひつう)なさけびで、つめたい水でした。王子さまはなまりのように重たい雨に目をそむけ、ただ立ちつくします。
「笑ってくれ、アルビレオ。わたしは彼女がそばにいてくれると信じてうかれおどるバカな道化師(クラウン)だった」
「……」
「大言を吐いて。きっと愛想(あいそ)つかしただろうな」
 王子さまはうなだれたままふり返り、とぼとぼ歩きます。
「わたしは」と、アルビレオはそんな王子さまを強く見つめ、「あなたの命じるところならどこへでも()けますし、なんでもするでしょう。それがわたしにあたえられた役割(やくわり)だからです。でも、どこへゆき、なにをすべきかは王子、あなたが決めねばなりません。そして、彼女があなたに望んだのは、去りゆく背中を見送ってもらうためではなく、あなたの助けを信じていたのではありませんか。だからあなたにだけは手をふらなかった」
「そんなのわかってる、わかってるさ!」
「わかっているのであればなぜ! なぜ、あなたはいつまでもぬれそぼり、しめった地に顔を落としているのですか?
 彼女はあなたをいやすためにこの領域(せかい)へやってきて、前進し、辛苦(しんく)のとげをのみ、侮辱(ぶじょく)嘲笑(ちょうしょう)を受け止め、失望(しつぼう)してもけっしてあきらめず、ついには自分を犠牲(ぎせい)に、苦しみもだえ、中庭で井戸の水を()んだのではありませんでしたか。ただあなたのためだけに、愛するあなただけを思って! あなたのくちびるをうるおしたあの水は、貴重(きちょう)な、たったひとすくいの水は、心うるわしい女の涙なのです。
 王子! いまは道なき道を、いばらやアザミにその身を投げ入れねばならぬとも、彼女のため顔をあげ、足を前にだすべき時ではありませんか」
(そうだ、王の子よ。宇宙をゆきめぐる力と法則(ほうそく)は約束にもとづいているのだ。おまえに結ばれた星々のきずなを解くことができるか)
(こぼれ落ちてしまうほど小さな赤子のような手の中で(せい)いっぱいしてあげようって。なによりあなたを愛してる、と)
「それでもわたしは」と、王子さまは両手を見つめ、「彼女をこぼしてしまうほど、ちっぽけな手なのだろうか、望むものをあたえられないほど、みじかい腕だったか」
 大きな雨音。しばしの沈黙(ちんもく)のあと、「いいや、ゆかねば」。

  遠くで白鳥がわたしの名を呼び
  わたしは彼女の声を知っている
  天地(あまつち)の間に白くほころぶ苹果(りんご)の花
  過ぎさる星々 明けの群青(ぐんじょう)
  わたしは彼方(かなた)をさすらい
  ついに彼女を見いだす
  湖水(こすい)におどる美しきその姿
  はためく春雪(しゅんせつ)の羽つかみ
  なめらかなうなじに鼻を寄せ
  (ぬく)もる吐息(といき)を胸に
  うす桃色(ももいろ)のくちびるは甘い約束の言葉
  さあ、いつまでも いつまでも
  ともに()もう
  銀の苹果(りんご)と黄金の苹果(りんご)

 王子さまはアルビレオの首を()き、「おまえが友でほんとうによかった」。
 それから白馬に飛び乗って、いちもくさんに故郷(くに)へもどり、王さまに近づくと、その前でひざまずきます。
「わが王よ。ふたたび国を旅立つこと、どうかお(ゆる)しください!」
 王さまと王妃さまは、ずぶぬれの王子さまの突然(とつぜん)懇願(こんがん)当惑(とうわく)しながらも、おだやかにたずねました。
「なにゆえか」
「はい。約束のため、わたくしにすべてをささげてくれた深く愛する人のためにです、王よ。いつ帰れるのかわかりません。いえ、もどることはないかもしれません。しかし、それでもやはり」
「息子よ」王さまは言いました。「むかし、国を旅立つまえに話した、あのなぞかけをおぼえているか」
「もちろんです。芯のないりんご、扉のない家、鍵のいらない宮殿(きゅうでん)。これらはおさない時、毎夜(まいや)ベッドで寝るわたくしの耳もとで母上の歌ってくれた子守歌です。わたくしはゆだねる愛と、まったくの信頼こそがなにより強い約束であることを学び、闇を打ちやぶるための示唆(しさ)をえました」
「そうだわが子よ」と、王さまは満足そうに笑顔でうなずき、王子さまの肩にふれて顔をのぞきます。「では王として、なにより父としておまえに命じる。いそいで出かけなさい。おまえの約束がすこしも遅れることのないように。そして愛する人から安心してゆだねられるにふさわしい大木となり、信じ待つ彼女をしっかりつかみ、けっして離してはいけない」
 王さまの(ゆる)しをえた王子さまはいきおいよく城をでて、翼を広げた天馬(てんば)アルビレオと共に地平線(ちへいせん)の果て、(よい)()け、日の出と日没(にちぼつ)をこえて()けていきます。王子さまのむかった先は記憶の落ちる月でした。
 王子さまは記憶の断片(だんぺん)採取(さいしゅ)をしているバクに会うと、こう言います。
「わたしに記憶集めの方法を教えてください! なんでもしますから」
「教えるのはまったくかまわないが」と、バクは訪問者におどろきを隠せず、「いったいどうしたというんだい?」
「心に思う人のおとぎ話が欲しいのです。彼女から離れてしまったすべてを」
「なんと!」バクはますます目を大きくしてこたえました。「はじめにひとつだけ忠告しておこう。だれかの記憶を選び取ることなどぜったいできない。流れ星に個々の名前が書いてあるわけではないだから。それにまわりを見てごらん、無数に落ちている断片(だんぺん)からその人のおとぎ話であるとだれがわかるだろう」
 その日からまいにち、王子さまは無色透明のガラスのような長い(ぼう)を手に、朝から(ばん)まですこしも休むことなく記憶採取(きおくさいしゅ)を続けました。川辺に落ちる、いく万もの小石の中からたったひとつのちいさな宝石を見つけるように探しまわり、落ちてくる流れ星にむかっていそいで走ります。しかしどれもちがいます。彼女のおとぎ話ではないのです。
 ひとり熱心に断片(だんぺん)をひろう王子さまの姿にバクは心を打たれます。まいにち、まいにち、なん年もなん年も、少女のおとぎ話はどこかにある、と信じて疑わず、王子さまの手はけっして止まりませんでした。そうです、かならずあるのです。王子さまにとって、おとぎ話を探すためについやした多くの年月は、まるで一日しかたっていないようでした。
 それに、みんな少女の帰りをいまかいまかと待っていました。少女の父と母はいつも窓を開け、山あいの国の人々は星に願いを、スズメやフクロウは空を、イルカのバンドウやウミガメのスルフファーは海を探します。たくさんの働きアリはほうぼう聞きまわり、おばぁにおじぃにしば犬のシバにウサギのアルネヴ、ザトウクジラのサトウだって百億の星をめぐりました。
 そしてついにむかえた、その日、その瞬間(しゅんかん)、王子さまはいつものように断片探しをしていると、()えず落ちてくるはずの流れ星はピタリと止みました。
 王子さまは立ちあがり、静かになった(そら)をぐるりとあおぎました。すると、遠くにはひとすじの星が黄色い小鳥にみちびかれ、弧をえがきます。まるで広い宇宙で(なが)(なが)いわたりをおえ、(みずうみ)にもどってきた白鳥のように、王子さまのもとへやってきました。
「あれは」と、近くにいたバクはあまりの美しい光景(こうけい)に目を大きくしてうちふるえ、「まさか彼女はこの時を知っていて……しかしそんなこと」もはや言葉を失ってしまいます。
 王子さまには深く愛する少女のおとぎ話であるのがすぐにわかりました。そう、たしかにわかったのです。
 (そら)をおりなす星々はふたりの再会を祝福(しゅくふく)するため王子さまにむかって光の帯となり、美しい七色(なないろ)のカーテンも宇宙をかざります。ときめいた月はかつての色を取りもどし、記憶の断片(だんぺん)すべてに呼びかけると、いっせいに(かがや)きはじめます。すみきった光の大合唱(コーラス)はいままで聞いたことのないハーモニーとなってどこまでも遠くに()りひびきました。彼らもこの日、この瞬間(しゅんかん)を待っていたのです!
「わたしは」と、王子さまは確信をこめて言いました。「しっかりとつかんで、もう離さない」
————————
……色とりどりにかがやくじゅうたんの上で、王子さまは長い(ぼう)をほおって手を大きく広げ、(あま)の川を白鳥のようにまい、(むね)に飛びこんできた菖蒲色(あやめいろ)の星を全身でつつみこんだのです。
 王子さまはありったけの想いをかさねて結晶化させ加工するとバクに礼をいい、白馬にのって()せむかうのでした。早く少女のもとへ」

  軽やかなひずめの音はあまりに(なつ)かしく
  山あいにふきぬけるさわやかな朝のにおいは
  信じ待つ、わたしをついに休ませるでしょう
  ああ! こちらにやってくるわたしの王子さま
  色あざやかな思い出は春のうたげ
  高鳴る胸はむかえにきてくれたあなたへの想いを
  いっぱい いっぱいこみあげて
  わたしはあなたを愛そう
  どこまでも、どこまでも

「わたしはけっして離さない、アヤメ。だから、アヤメの飲みこんだとげを、ほんのすこしでもわたしにわけてほしい。お願いだからどうか、ひとりで行ってしまわないで」
「どうしよう、あなたの本びしょぬれね」
「ううん、もういいんだよ」
「アサゼルわたしね、やっとわかったの、あなたの気持ち。あなたがどんな思いで干しわらとなっていたか。信頼して待ち続けるのはこんなにも勇気のいるなんて。言葉にできない痛みをわたしは知った。
 そっか、干しわらだったのはわたしよ。どうしてもっとはやく気づかなかったのかな。そうすればあの時、わたしは素直にあなたと」
「ちがうよアヤメ。わたしはそんなアヤメが好きなんだ。そんなアヤメをずっとずっと知りたい。だからわたしたちの物語のはじまり(・・・・)は」
 アサゼルは菖蒲の両手を優しく取り、ふわりと立ちあがった少女の耳もとで【いつまでもおしまいのない愛の約束】をささやきます。それからたがいに見つめあい、きらめく星を瞳にたたえた菖蒲はおだやかな笑みをうかべ、もう迷わずこう言いました。
「はい。」
 アサゼルはキラキラ輝く宇宙でたったひとつのアメジストの指輪をお姫さまの左手薬指に、アヤメは王子さまの強くあたたかな胸にその身をゆだねるのでした。

少し長めの追伸

少し長めの追伸

 秋も深まる(みずうみ)紅葉(こうよう)はいよいよ美しく、水鳥たちもちょっぴりあわただしいような。雲は高く、ときおりふく風は冬にむかうひんやりした山のにおいを運んできます。湖畔(こはん)にやってくる親子はあざやかな赤やオレンジ、黄色の落ち葉や大きな木の実を拾ってはポッケに入れたり、こちらに気づいた女の子はかけよって収穫(しゅうかく)をわけてくれたりするのです。
 夜眠る前、まくらに頭をうずめ、ぬいぐるみを抱き、横になる、おさないわたしの耳もとで、たくさんのおとぎ話や詩を話してくれた母との時間を思いだします。とりわけ『扉のない中庭』は週末の夜だけのお楽しみで、母の知っている果てしないおとぎ話の中でも一番の(かがや)きをもつ物語でした。わたしはうれしくて目をきらつかせ多くの親をこまらせてきた、あの迷言、「ねえなんで、井戸の水を()むのに王子さまの記憶の結晶が必要だったの?」とか、「ねえなんで、干しわらになった王子さまはアヤメのキスでもどったの?」など、身を乗りだすように〝ねえなんで〟を連呼(れんこ)していると母はわたしのおでこをなでて、こう言いました。
「サラサはどう思う? あなたの考えを聞かせて」
 そうやっていつのまにか、わたしの夢の王国へ母を連れて旅したのです。
 もう少し大きくなると母は恋の話やほろ苦い話もつけくわえ、ドキドキしたりほおを赤らめたり涙したり、ふんわり温かい気持ちになったものです。きっとそうやって空想を離乳食(りにゅうしょく)のようにあたえてくれていたのでしょう。
 大人になったわたしは母のおとぎ話を本にしたいと考えるようになり、出演者(キャスト)に取材をしました。せっかくなので彼らの様子をみなさんに紹介(しょうかい)しましょう。
 まず、闇との戦いについて〝由緒(ゆいしょ)ある王族ネコ〟のモルトです。彼は自分の武勇伝(ぶゆうでん)を本当なのか、はたまた大げさなのか、たくさん話してくれました。今、モルトは山あいの国にとどまらず、気ままの歌を歌いながら、ふらふら旅をしています。アヤメとは気の合うようで、たまに帰ってくると母のベッドで一緒に寝ています。
 十万の影の兵をなぎ倒す戦士グレエンは農夫のお仕事がすっかり気にいり、畑仕事を楽しんでいますし、みんなの家や家具の修理(しゅうり)をするなんでも屋さんとして、みんなからしたわれています。アヤメがいなくなった時はものすごい落ちこみようで、リリィはそれはそれはものすごぉく、めんどくさかったって! そんなリリーフロラは温かくて優しいグランマです。リリィは今でも菖蒲の服をすべて仕立てているの。わたしは母のかわいい服をおさがりで着ています。
 ユリーフロラも大好き。さらにふたごの男の子を育て、彼らはわたしと(おさな)なじみ。山あいの国で手をつないで歩くカップルを見たなら王さまと王妃さまだ、というほど有名よ。お城のピートおじさんと湖畔(こはん)別邸(べってい)探しをしていますが、なかなか良い場所は見つからないと喜びながら(なげ)いていました。いつかすてきな新居(しんきょ)に引っ越せますように。
 働きアリさんのいる興廃(こうはい)の丘は美しい『ジョオウのテイエン』に変わりました。スズメさんやフクロウさんに聞いたら、もっと魅力的(みりょくてき)なお庭にするのが目標なんですって。いったいどんな庭園になるのでしょうか。
 おばぁとおじぃの家には家族で夏休みに出かけます。わたしは父とおじぃの島でキャンプを楽しむけれど、母だけは喜んでおばぁのせまい待合所に泊まるの。わたしはあんまり窮屈(きゅうくつ)なのでむり! なにやらアヤメはせまい場所にはさまるのが好きなようね。あ、よだんですが、おばぁには姉妹が何人かいるらしくて、いろんな場所でそば屋さんを開いているらしいわ。もしかするとあなたの街にいるかもしれません。おじぃとシバは冒険に出かける予定で、じつはわたしも(さそ)われています。意識の穴をくぐって宇宙の始まりの領域(せかい)にある不可知の色を見にいくのだそう。とっても楽しみ!
 メレは記憶採取(きおくさいしゅ)を続けています。(かがや)きを取りもどした断片を加工するのはわくわくすると言っていました。シバに言われた「二度あることは——」を思いだして、「記憶に名前がないから見つからない——」の文言はやめたそうです。ぜひみなさんも月に立ち寄りの際は好きな人の記憶を加工してみるのはいかがでしょうか。
 アルネヴはサトウといろんな星で新しい〝出会い〟を見つけています。菖蒲をビジネスパートナーにする夢を砕かれ、がっかりしているみたいなので、どなたか紳士のシロウサギと行商したい人はいないでしょうか。ティータイムを断らない女の子ならいつでも大歓迎(だいかんげい)だそうです。いつかミセス・レイラとのあわい恋物語も書けるといいな。
 干しわらの王子さまについて。アサゼルになんで〝わら〟じゃなくって〝干しわら〟なのって聞いたら、びっくりするほどパッサパサだったから、ですって。それを聞いておなかを抱えて笑ってしまったわ。アサゼルはいつも本気なのか冗談(じょうだん)なのかわからないくらいユーモアのある父です。この物語の題名を『干しわらになった王子さま』にしようか父に相談したら、アサゼルはウィンドウシートで本を読むアヤメを(いと)おしそうに見て、一言だけこう言いました。
「その本はもうなくなってしまったんだよ」
 みんなのお話しはこれくらいです。もっといろんな話を聞いたり旅して見たすてきな物語を書きたかったのですが、いつまでも終わらないので、またいつか。山あいの国の歴史、王子さまの旅の話とかおじぃとシバとの出会い、どうやっておじぃは扉のない中庭の近くまで行けたか、それに菖蒲とアルネヴが闇の門のそばのバザールに行くまでのお話し。とっても面白いの。『正直でいたってまじめなうそつき(ぞう)』を手に入れたアルネヴとアヤメはクノッソスの迷宮(ラビリンス)から出られなくなった話とか、何度も挑戦した『流れ星の渋茶(しぶちゃ)』を口にふくんだまま、上を向いて三回願いを()えるとなんでも(かな)う話とか……。
 最後に二つだけ。一つはミモザのこと。
 母はミモザのことをあんまり話したがりません。金と銀のバングルについてくわしく知ったのも最近で、父に一度だけ聞きましたが、結婚式で見たくらいだそうです。今、父と母はアルビレオを連れて遠くにいます。アヤメによるとそれは『クスノキに宿る黄色の小鳥を探す旅』とのこと。先日、アルネヴの届けてくれた母からの手紙に、もうすぐ帰れると書いてあったの。だからもしかすると、みなさんがこの本を読んでいる時にはミモザと会っているかもしれません。すっごく楽しみ。優しいママ! ミモザのこと書いてごめんなさい、どうか怒らないで。
 もう一つはそんな大好きな母のこと。
 母は講堂(こうどう)(おさ)められたたくさんの本の分類(ぶんるい)修復(しゅうふく)筆写(ひっしゃ)のお仕事をしています。「宝ものが見つかったの」と、ほこりかぶった書物を家に持ち帰ってはうれしそうに読んでいたり、忘れられた人々のおとぎ話を想像しながら、アサゼルのそばでいきいきと話しています。そんな時、わたしには母が新しく広げた領域(せかい)を冒険する少女のようにも見えるのです。
 そして、絶対に教えてくれない【いつまでもおしまいのない愛の約束】のこと。
「ねえママ、アヤメは干しわらになった王子さまから耳もとでどんなことをささやかれたの?」
 母にくり返し聞いても、答えはいつも同じです。
「それはねサラサ、今まで聞いたことないくらいとっても甘くてとろけるような言葉よ。これ以上は秘密! 絶対教えない」それから目を細めて、「あなたも大好きな男の子から聞くのよ。そうしたらわたしも同じこと聞くけど、それでもいいの?」


晩秋(ばんしゅう)のある日、湖畔(こはん)のガゼボにて
父アサゼルと母アヤメへ
たくさんの愛と感謝をこめて
あなたの娘サラサフロラより

登場人物のこと一

登場人物のこと一

扉のない中庭〜設定①〜

登場人物のこと二

登場人物のこと二

扉のない中庭の〜設定②〜

登場人物のこと三

登場人物のこと三

扉のない中庭〜設定③〜

ゆびわのこと

ゆびわのこと

扉のない中庭〜設定④〜

つるぎのこと

つるぎのこと

扉のない中庭〜設定⑤〜

たびじのこと

たびじのこと

扉のない中庭〜設定⑥〜

やくそくのこと

やくそくのこと

扉のない中庭〜設定⑦〜

扉のない中庭

主人公の菖蒲は実在する養女がモデルです。
本や音楽を愛し、力強く、聡明な、そしていつも前向きで、リリィの言葉を借りるなら、境遇が力を与えたような、尊敬する美しい人です。
彼女と話す時間はいつも新しい領域の扉を開けるように、たくさんの知識や知恵、アイディアをもらえます。

かつて、ひとりのちいさな女の子と夢の国のプリンセスについて話していたとき、日本にはプリンセスがまだいない! ということに気づき、もし東の最果てにあるちいさな島国の女の子が選ばれたら、を出発点に心と約束を題材としたお話を書きはじめました。できるだけつじつま合わせをしないよう注意しながら。

一途な少女菖蒲はアルビレオのいうとおり、はじめから王子さまだけを想い、彼だけのために人生の選択をしていきます。闇との戦い、ミモザとの関係、扉のない中庭での水くみ、彼とわかれるあの決定すら。
何年もの大人を経て、「どうしてもっとはやく気づかなかったのかな。そうすればあの時、わたしは素直にあなたと」
王子さまを想うあまり、あなたの気持ちを考えることができなかった、と菖蒲はいいます。
しかしアサゼルは「そんなアヤメが好きなんだ。そんなアヤメをずっとずっと知りたい。」と答えます。
この時代にはもう語られない、古い男女の愛の物語であり、失われた価値観であるゆえにファンタジーなのです。

母に、この物語をささげます
心からの敬意と感謝をともに


※1『Twinkle, twinkle, little star』Jane Taylor
※2『月ぬ美しゃ』八重山民謡《一部改変》
※3『ポラーノの広場』レオーノ・キュースト・訳述 宮沢賢治
※4『I Will Give my Love an Apple』英国民謡
※5『長くつ下のピッピ』アストリッド・リンドグレーン・大塚勇三訳 岩波書店

扉のない中庭

心へ旅する少女のお話

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-02-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 干しわらになった王子さま
  2. 見つからない本と中庭
  3. アリ隊列
  4. 下に上がる階段
  5. 底なし部屋
  6. キジ三毛のネコ
  7. 菖蒲の計画
  8. 契約書のありか
  9. 農夫たちの秘密
  10. 観客のいない芝居
  11. 興廃の丘
  12. 王子さまの約束
  13. 通路の消失点
  14. 雨にぬれる教室
  15. 騒々しい法廷
  16. 通路の消失点Ⅱ
  17. 待合所ときどき夏休み
  18. おつかい
  19. 天体観測
  20. シロクジラ
  21. 記憶採取
  22. 太陰潮
  23. 金色あられ
  24. 願いの像
  25. 行商シロウサギ
  26. 夜明けぬバザール
  27. 家出した影
  28. 名もナイ
  29. 闇の門口
  30. 人と影による交唱
  31. 通路の消失点Ⅲ
  32. もっとも近い
  33. 扉のない中庭
  34. たりないもの
  35. むかしむかし
  36. 約束の力
  37. なぞかけ歌
  38. 光と影による交渉
  39. 干しわらの王子さま
  40. 二重星
  41. 帰路
  42. 静かな凱旋
  43. 湖畔のガゼボ
  44. ふたつめの夢
  45. 夜半〇時のらせん階段
  46. おはなしのおしまい
  47. 少し長めの追伸
  48. 登場人物のこと一
  49. 登場人物のこと二
  50. 登場人物のこと三
  51. ゆびわのこと
  52. つるぎのこと
  53. たびじのこと
  54. やくそくのこと