扉のない中庭

扉のない中庭

書肆彼方

I will give my love an apple without e'er a core,
I will give my love a house without e'er a door,
I will give my love a palace wherein she may be,
And she may unlock it without any key.

My head is the apple without e'er a core,
My mind is the house without e'er a door.
My heart is the palace wherein she may be,
And she may unlock it without any key.

——英国の古い歌

干しわらになった王子さま

干しわらになった王子さま

はじまり

 むかしむかし、水鳥たちだけの知る、美しい(みずうみ)のそばに、ひっそりとそびえるお城がありました。
 まわりの国の人びとから知られず、兵士や従者(じゅうしゃ)もいない、深い山あいの名もなき小国には、いつも手をつないで歩く、(なか)むつまじい王さまと王妃(おうひ)さまがおり、それはそれは(やさ)しく、民から父母のようにしたわれ、みんなわきあいあいと()らしていたのです。
 王さまと王妃(おうひ)さまには小麦色の(かみ)に青い(ひとみ)の元気な子どもがひとりいて、王子さまはまいにちお城をぬけては町の子どもたちと一緒(いっしょ)に山をかけまわったり、(みずうみ)でおよいだりして遊ぶのでした。

二 王さまのなぞかけ

 晴れたある日の朝。王子さまはヒヨドリのさえずりでぱっちり目をさますと、寝床(ベッド)からとび起きて顔を洗い、パンをほおばりスープをかきこみます。イスをひいて食堂(しょくどう)を飛びだそうとするやいなや、父から執務室(しつむしつ)にくるよう()び止められてしまいました。
「ちぇっ」王子さまは(した)打ちをして、「父上の用事をさっさとすませて川で葉っぱ流しをしよう。きのうはヘレムの葉っぱがいちばんだったけど、夜にとっておきの舟を思いついたんだ。きょうこそ勝ってやる」と、はやる気持ちをおさえ、いそぎ足でむかいました。
 (みずうみ)一望(いちぼう)できる回廊(かいろう)をぬけ、黒ぬりの大きな(とびら)で立ち止まると、かるくせきばらいをしてからコンコンたたき、「王よ、まいりました」。この時だけは父ではなく王だとわきまえていますので、背すじをピンとのばし、すこしばかり落ちついた声です。
「はいりなさい」
 王さまの呼びかけに応じて王子さまは(かた)をそびやかし、部屋に(はい)りました。
 しけた紙のにおいのする執務室(しつむしつ)は、いかにもむずかしそうな本が本棚(ほんだな)にずらりとならべられ、レリーフのほどこされた大きなつくえの上に山とつまれた本は今にもくずれ落ちそうなほどです。
 王子さまはすきまからあちらをのぞくと、王さまは考え(ぶか)げなようすで手紙をしたためています。——他国(たこく)交流(こうりゅう)はなく、国にあるたったひとつの門をくぐるものすらほとんどいないのに、いったいどこのだれにあてているのだろう。——王子さまはすこし不思議に思いました。
「おまえを呼んだのは」と、王さまは手をとめ、羽根ペンをつくえに置き、王子さまのほうに顔をゆっくりあげます。「息子よ。おまえに探してきてほしいものがある」
 勇猛(ゆうもう)威厳(いげん)あるライオンのような低い声に、先を見通すワシのようにするどいまな()し。王子さまはそんな父が大好きでした。なにより父のような王になりたいと願っていたのです。
「王よ、わたくしになにを探せというのでしょうか」
「うむ。それは、『(しん)のないりんご』『扉のない家』『鍵のいらない宮殿(きゅうでん)』を」
 王子さまはすこし考えてから、いぶかしげにたずねました。
「わたくしをためすなぞなぞ(・・・・)、ですか?」
「そのようにとってかまわぬ。おまえが山あいの国の王としてほんとうにふさわしいのか」
 王さまの言葉に王子さまの心はふるえます。
——父はわたしを将来(しょうらい)の王として見てくださっていたのか。わたしはもう子どもではなく、父の目にふさわしいおとなとなるのだ。そのためにも父の期待(きたい)にこたえ、民の希望とならねば。
「わが王よ、あなたの目にかなうものをかならずやお見せいたしましょう!」
「よくいってくれた。ではさっそく明日の朝、出発するように」
「おおせのままに!」
 王子さまは(ひとみ)をかがやかせ自信たっぷりにそうこたえると、部屋からでていきました。
 いまやもう友と遊ぶことなどすっかりわすれて、父からあたえられた試練(しれん)をのりこえるため、すぐに出立の準備(じゅんび)をはじめます。せっせと旅支度(たびじたく)をする王子さまの背中をながめる王さまと王妃(おうひ)さまは後悔(こうかい)したような、さびしい顔をするのでした。
 つぎの朝。雲ひとつない空のもと、王子さまはたくさんの食糧(しょくりょう)と水をつめた大きな布袋(ぬのぶくろ)を白馬にのせてまたがると正門をくぐり、国の外へと旅立ちました。母からはなにかあった時のためにと、赤い宝石つきの金の指輪(ゆびわ)を首かざりに、父からはひとふりの青い剣を(こし)に。
「希望をもって国をあとにし、栄光をもってむかえられよう」
 威勢(いせい)のよい声とともに、王さまのなぞかけにこたえるための長い旅が、こうしてはじまったのです。

三 王子さまの旅路(たびじ)

 山あいの国を()ち、田舎(いなか)の村からはじまり、街にでてやがて大都市(だいとし)へ。国の外を知らない王子さまにとって、目にうつるすべてのものは新しく、たくさんのことを知りました。世界は広く、故郷(こきょう)はちっぽけなこと。歓待(かんたい)されることもあれば、うとまれることだってある。美しい景色に目頭(めがしら)を熱くし、みにくい光景(こうけい)に目をそむける。どしゃぶりの雨に打たれ、ふきつけるつめたい風に体をガタガタふるわせ、なにより、ひとりがどれだけつらいかを感じます。洞穴(どうけつ)に身を横たえ、広がる紫紺(しこん)の地平線をながめ、ちらばる星くずの夜空に祖国(そこく)への思いを()せました。
「わたしを知るのは旅を共にする白馬だけしかいない」
 長い旅の果て、もの知りが住むという話を聞き、荒野(こうや)を通りました。そこは()の光でまっ赤に()まることから血の荒野と呼ばれ、何百年もまえに興亡(こうぼう)し、人々から忘れられた都市の廃墟(はいきょ)がありました。
 遠くに立ちのぼる、ひとすじの白煙(はくえん)を見つけた王子さまは、馬をおりて近づきました。
「はじめまして」と、たき火のまえで(こし)をおろす、ボロをまとった老人に話しかけます。「わたしは遠くの地からやってきた旅人です。あなたの深い智恵(ちえ)についてうわさで聞いております」
 老人はまるで(せっ)こう(ぞう)のようで、まえに立つ少年など目もくれず、うつむきながらパチパチと()る火に木ぎれをくべていました。
「あなたにうかがいたいことがあるのです。それは……」
「ここからさらに東……」王子さまの言葉をさえぎり、老人はつぶやきます。「金色の小麦畑にある白い壁、黒い屋根(やね)風車(ふうしゃ)に知りたいものはあるだろう」
「なぜ、話す前にすべてわかるのですか」
「風はどこからふくのか、だれが知りえよう。ただ行くべき先にのみ目をむけよ」
 王子さまは老人に感謝(かんしゃ)をつげ、少しばかりの金と食べ物や水をわたして、こう言いました。
「旅の成功に、どうかあなたの秘密について教えていただきたい」
「さて、おまえにできるかな」老人はニヤリと笑いました。
 東にむかって馬を()り、しばらくして見わたすかぎり金色の小麦畑に、ぽつりとたつ風車(ふうしゃ)が見えました。老人の言葉のとおり、白い壁に黒い屋根(やね)です。まちがいありません、ついに目的地にたどりつき、試練(しれん)の旅はむくわれたのです。
 王子さまの(むね)期待(きたい)高鳴(たかな)りました。そう、たしかにこの時までは。

四 東の風車(ふうしゃ)

 ゆっくりとまわる大きな羽根(はね)風車(ふうしゃ)の、なんともぶきみな姿におののきながら、王子さまは馬を止めて優しくなで、風車(ふうしゃ)に入りました。
 ゴオンゴオン……ギギギギー。部屋中、きしむ音やたたく音はやかましく聞こえますが、あたりに人や、だれか仕事をしている様子はありません。
「老人はこの風車(ふうしゃ)について語ったのだろうか」
 いくぶん心配を口にする王子さまは室内をあちこち探し、やがて地下につづく階段を見つけます。階段をおりて閉じられた木の(とびら)につきあたり、はずれかけのくすんだ金の把手(とって)に手をかけました。蝶番(ちょうばん)はこすれたにぶい音を()らして開き、うす(ぐら)い部屋の中へゆっくりと慎重(しんちょう)に進みます。
「ここはなんだろう、麦を備蓄(びちく)する納屋(なや)、あるいは倉庫(そうこ)か……」
 ほこりの舞うカビくさい部屋を見まわしていると、ばたん! 背後(はいご)のたたきつけるような音に、なにごとかと思わずふり返ります。はたといそぎもどり、ノブに手をかけ、ぐいぐい()したり引いたりしますが、固く閉じられた(とびら)はビクともしません。
「だれかむこうから(かぎ)をかけたのか? いや、風でしまり(じょう)はひとりでに……そんなはずは」
 ただならぬ空気を(はだ)で感じた直後、背中(せなか)強烈(きょうれつ)気配(けはい)。自然と右手は(こし)にさがる剣にふれ、すばやく見返ります。
「だれだ? いるのはわかっている」
 しんとした部屋に、ひゅうと(かわ)いた風の音。うっすら灯火(ともしび)はあらわれ、王子さまは呼吸(こきゅう)(ととの)え、そろりそろりと近づきます。すると灯火(ともしび)は奥にむかい、順に(とも)っていきます。
——いったい何者が?——そう疑問(ぎもん)に思うやいなや灯火(ともしび)はみるみるふえてゆき、ついに部屋全体をぱっと明るく照らしました。風車の地下納屋は一転して、天井(てんじょう)は高く、石づくりのりっぱな()を中央にかまえる壮麗(そうれい)()に変わっているではありませんか!
 立ちつくす王子さまはおどろきと不安を感じながらも、けっして(おもて)にだしません。どんな時でも静かな威厳(いげん)をたもつよう父から教えられていたからです。
「わたしは遠い地から王の(めい)によりつかわされたものである。あなたに聞きたい!」
 はりあげた王子さまの声は部屋中にこだまします。
「……なにもわかっていない……」
 ひやりとつめたい風のような男の声は答えます。王子さまは形なき姿をとらえようと、するどい眼光(がんこう)で周囲をなめるようにして言いました。
「声の(ぬし)! どこにいる?」
貴様(きさま)はなにもわかっていない。西の国のちいさな王子」
 さっきよりもはっきりとした声はあたりに(ひび)きます。
「なぜ、わたしがわかっていないというのだ」
 すると、だれもいないはずの部屋中央の()はスポットライトのようにパッと()らされ、王子さまは目を(おお)います。
貴様(きさま)の父は——」(かんむり)をかぶった黒い影のような人のかたちをしたものが胡坐(こざ)をかき、ふてぶてしく腕をくみ、王子さまを見おろしていました。「貴様(きさま)邪魔(じゃま)で、早く国から()いだしたかった。できるだけ遠くにな」
 王子さまはいら立ち、おうへいな黒い影をにらみつけます。しかし影はそんな王子さまを知ってか、あざ笑うように話しつづけました。
貴様(きさま)は今ごろ国中の笑い者だ。なにも知らず、ひとり放浪(ほうろう)している、わらのように中身のないスカスカな王子だと」
(うそ)をつくな。父と民はわたしを愛している。わたしをおとしめようというのか」
 影は下品(げひん)な高笑いをして、こう言います。
「ああ、人を(うたが)うことを知らない、なんと(あわ)れで(おろ)かな()しわらの王子! 貴様(きさま)をおとしめてなんになる? むしろ真実をあたえようというのに」
 憤然(ふんぜん)とした王子さまは黙ってしまいます——こんな影になにがわかるのだ。でもたしかに、いまのわたしはなにも知らない。
「いいかよく聞け、干しわらの王子。この世はなによりもまず猜疑(さいぎ)しなければならず、史実(しじつ)下卑(げび)でこうかつな支配のくり返しだ」
 風の流れを読み取る船乗りのように、王子さまの微妙(びみょう)感情(かんじょう)のゆらぎをあくまで冷静(れいせい)につかむ影は、ここぞとばかりに王子さまの耳をなで、その軽妙(けいみょう)疑心(ぎしん)は王子さまにまとわりついて(はな)れません。感じたことのない悪寒(おかん)、聞こえてくる人々からのクスクスという笑い声——王はわたしをほんとうに(みと)めてくださっていたのだろうか。もしやあいつの言うとおり……そんなまさか。
貴様(きさま)故郷(くに)を離れた時、国のだれからも見送られぬことを(うたが)わなかったのか?」
「それは……」王子さまは思わず視線(しせん)をそらします。
「ふん。では国の外は貴様(きさま)にとって理想(りそう)であったか」
「良いものも、悪いものもあった」
(いな)。人はつねに悪を(ぜん)(おお)う。羊の皮をかぶるおおかみのようにな。権力(けんりょく)渇望(かつぼう)する貴様(きさま)の父も、()かれ(さわ)愚鈍(ぐどん)な民も、良識(りょうしき)ある王の皮をかぶり、善良(ぜんりょう)なる民の皮をかぶる。しかし(まこと)の顔はだれにもあかさん」
 王子さまはスラリと剣をぬき、そのきっ先は影につきつけられます。
決闘(けっとう)をもうしこむ! たった今おまえは()が王を、祖国(そこく)侮辱(ぶじょく)した」怒気(どき)をふくむ王子さまのするどい声。
笑止(しょうし)! くだらぬ忠義心(ちゅうぎしん)。だから貴様(きさま)の頭は()しわらなのだ。剣は名誉(めいよ)のためでなく恥辱(ちじょく)をあたえるためにふるうものよ」
「ふざけるな!」
「そして」と、影はゆっくり王子を指さし、「すでに貴様(きさま)にもたらした」。
 王子さまは身体全体に寒気(さむけ)がおそってくるのをひしひしと感じます。ひたいに冷たい(あせ)がにじみ、歯はガチガチ()り、のばした右手と剣も()きざみにふるえます。
「さあ教えてやろう、貴様(きさま)の国の真実を」影はひじかけにどっしりもたれ、ほおづえをつきます。「むかし、貴様(きさま)の国は(われ)とひとつの契約(けいやく)を結んだ。それは国の安寧(あんねい)と引きかえに王の子ひとり、国から()いだすこと。しかし追放(ついほう)する子になにも伝えてはならない。また子は自発的(じはつてき)に国をでなければならない。そのひとりが干しわらの王子、貴様(きさま)だ」





 王子さまは顔をゆがめ、青い剣をゆっくり(さや)におさめます。
「父上……わたしに力を……」
「人はいつも(わる)いものを()いもので(おお)う。貴様(きさま)との約束など、なんの価値(かち)がある」
「……わたしの旅は……ああ、こごえてしまうほどに寒い……」
(われ)のいるこの()を見ろ。血で(よご)れた白い大理石(だいりせき)玉座(ぎょくざ)を。遠いむかし、領域(せかい)()べる強大な王は()し、民に裏切(うらぎ)られ、(ほろ)びた」
 王子さまの体はみるみる(かわ)き、()されきったわら(・・)(たば)に変わってゆきます。
「干しわらの王子、絶望(ぜつぼう)のうちに()すがよい。眠らぬ王のように」
 王子さまは考えるのをやめてしまいました。国のこと、父と母のこと、友人のこと、山からふいてくるおだやかなみどりのにおいのする風、つめたい川で(およ)ぐこと、小鳥のさえずり、さわやかな朝と星いっぱいの夜。王子さまにとって明日はもう楽しみではなくなったのです。すべてのものがつまらなく思えたのですから。
「どうか……どうか、わたしを助けてほしい」
 心までカラカラになった王子さまはそうつぶやくと、()いよせられるように王座の前に立ちつくし、ついには力なくすわってしまいました。()からびた手をだらりとさげ、王の()を見おろしますが、そこにはただ闇しかありません。
(まく)は……おりてゆく」
 影はいつのまにか消えさっていました。風車はいつもどおりゴオンゴオンと音を立ててまわっています。ただひとり、()しわらになった王子さまをのこして。

見つからない本と中庭

見つからない本と中庭

(かがみ)(かがみ)。このおはなしのおしまい(・・・・)はなあに?」
 菖蒲(あやめ)は窓のむこうのアヤメにそう問いかけました。
 大きなビルの五階にあるこじんまりとした図書館は菖蒲のお気にいりの居場所(いばしょ)です。赤いくつをぬぎ、いつもの丸いベンチソファにすわり、書棚(しょだな)書棚(しょだな)はさまれて(・・・・・)本を読んでいました。
 学校が休みのある日、菖蒲は濃紺(のうこん)のそでなしワンピースと白いパフスリーブのブラウス姿でお姉さんと一緒にやってきます。きょうはどうしても見つけたい本がありました。それはあかね色の表紙に金の題字で、『()しわらになった王子さま』という本です。
「わらにされた王子さまはだれにも助けられず、いきなりおしまいって、なんてへんてこなのかしら。ぬけているページもあるし、残りだって全部白紙。それに、王子さまとの約束って……」
 ふと手にしたこのまったくおかしな物語を菖蒲はつまらなさそうに本を書棚(しょだな)にもどしました。けれど『干しわらになった王子さま』の本がどうにも頭から離れません。それで小学生の菖蒲は宿題の読書感想文に、いかにおかしなお話しであるか、まとめたいと思ったのです。ところがいくら探しても、あれから『干しわらになった王子さま』の本は見つからず、検さくしても受付に聞いても、そんな本はないというのです。たしかに(たな)から(えら)び、開いて読んだはずなのに……
 じつはもうひとつ、ここには不思議な秘密がありました。といっても、それは図書館ではないかもしれません。菖蒲だけはその秘密に気づいてしまったのです。見つからない本を探すより、見つけた〝秘密〟のほうが気になってしかたありません。
 丸いベンチソファにひざをつき、窓の外をじっと見つめる菖蒲に、お姉さんはずんずんそばによってくると、「アヤメ!」
 お姉さんはついにおこりだしてしまいます。
「あなたが本を借りたいってきたのに、窓ばっかりながめて。みんなでお昼食べる約束でしょ。わたしもう帰るわよ!」
 でも菖蒲は窓の下にある〝秘密〟から目が(はな)せません。窓わくに手をかけながら黒い(ひとみ)をキラキラ(かがや)かせ、お姉さんに〝秘密〟を打ちあけることにしました。
「ねえねえお姉ちゃん、窓をのぞきこんでみて。あのお庭、扉がどこにもないの」菖蒲はビルの一階にある中庭に目をやります。「それなのに、ねえほら! あそこの木のそばに白いぼうしをかぶった人がいるわ。庭のお手入れをしているのかしら?」
うす暗く青みがかった長方形の中庭は壁にかこまれ、たしかに出入りするための扉はありません。ビルのこちらとあちらの壁にそって赤い実をつけたリンゴの木がそれぞれ三本ずつ、庭一面にびっしりとはられた芝生(しばふ)のまん中には白い井戸がありました。庭師がひとりでお手入れをしているのでしょうか、リンゴの木に手をふれます。   
「あっ! こっちを見た!」
 菖蒲は身をのりだし、目を丸くします。はじめて見る人なのに、どこかであったような、なんだかなつかしい気持ちがこみあげました。
「どうやってあの人は扉のない中庭に入ったのかしら」
 しかし、なにも返事はありません。
「お姉ちゃん?」
 ふりむくと、うしろにいたお姉さんはこつぜんと姿を消していました。
「もう! ちょっと窓の外を見ていただけじゃない。なにも黙っておうちに帰らなくたっていいのに」
 長い黒髪(くろかみ)をかきあげ、むすっとしながら図書館をでてエレベーターの前に立ちます。ところが、下にむかうボタンをいくらおしても反応がありません。上のボタンも同じです。エレベーター乗り場ドアの上部にならぶ表示灯(ひょうじとう)もついていませんでした。もしかしてメンテナンスをしているのでしょうか。
「まったくもう。きょうはついてないことばかりね」
 菖蒲は深いため息をつき、しかたなく内階段にむかいました。

アリ行列

アリ行列

「おい、1051バン! レツをミダすな!」
「いいや! 1049バンがまっすぐススまないからさ」
「なんだと。オレはマエにならっている、1050バン」
 エレベータ横の内階段のおどり場ではどこからか、こびとのひそひそ話が聞こえてきました。
 菖蒲は立ち止まって耳をそばだて、きょろきょろと見まわします。
 ザッドドザッドド、ザッドドザ、ザッドドザッドド、ザッドドザ
 声はリズムあふれる歌へと変わりました。

  イソげ! イソげ! ジョオウのモトに
  ススめ! ススめ! ジョオウへレツを
  ハタラけ! ハタラけ! ジョオウのために
  ハコべ! ハコべ! ジョオウにチエを

 くり返される歌は菖蒲の足もとから、黒いつぶつぶがえんぴつの点線のように、図書館のほうから階段下へとつづいています。
 かがんで顔を近づけてみると、なんとアリの行列ではありませんか。足なみそろえ、あっちに行ったりこっちに来たり。こんなところでなにをしているのだろうと、菖蒲はだまって観察してみました。すると、おもしろいことがわかりました。アリたちはちいさな紙片をせっせと運んでいたのです。ハキリアリは葉っぱを切って巣に持ち帰る話は本で読みましたが、紙を集めるなんて聞いたこともありません。そんなものを運んでいったいなにをするつもりなのでしょう。菖蒲の好奇心の水がめはもうあふれるほどで、思わず目のまえにいるアリたちに声をかけてしまいました。
「こんにちは、アリさん。わたしはアヤメ。アリさんたちはなぜ紙きれを運んでいるのかしら。巣に持ち帰ってなにをするの?」
 しかしアリたちは菖蒲の言葉など知らんぷりです。それでよけい、彼らについて知りたくなりました。こんな一生懸命(いっしょうけんめい)運ぶのですから、働きアリにはよほどの理由(わけ)があるに違いありません。
 そこで菖蒲は、なにも持っていないアリ行列の先頭を追ってみることにしました。
 アリたちのとなりをはって図書館へもどり、貸出カウンターをぬけ、児童書(じどうしょ)のならぶ書棚(しょだな)にむかって進みます。
「ああああっ!」菖蒲の目はぱっちり開き、図書館にいるのをすっかり忘れて口からサイレンがもれますが、すぐに手をあてました。
 なんとも不思議なことに図書館には人が誰もおらず、注意されたり、ひややかな視線(しせん)を感じたり、せき(ばら)いされる心配だってありません。でも、菖蒲が声をもらすほどおどろいたのはそんな規則(ルール)にがんじがらめのオトナにではなく、彼らの運んでいた紙片(しへん)がなにかわかったからです。なんとアリたちは『()しわらになった王子さま』の本に(むら)がり、ページをかじってはこまかくしていたのです。
 むかむかした菖蒲の眉間(みけん)にはシワがよってきました。ずっと探していた本なのですからとうぜんでしょう。
「あなたたち、本をこんなにしてダメじゃない!」
 しかし菖蒲の怒号(どごう)もなんのその、工事現場の横をするりとぬけるようにアリたちは見むきもしません。それで菖蒲式大型クレーンはガバッと本を取りあげ、こびりついた黒い土砂をぶっきらぼうにふるい落とします。
「おい、なにをするんだ! ワレワレのシゴトをウバうつもりか」アリは菖蒲の周囲にわらわらと集まり、いっせいに抗議(こうぎ)しました。「そうだそうだ!」
「ちがうわ。あなたたちはだいじな本を壊そうとしているのよ」
 アリたちはそんなの知るか、といわんばかりに自信たっぷりにこうこたえました。
「これはジョオウのメイレイである。ジョオウはカシコくなるため、ホンのカミでマクラをヨウイするようメイじられた。ワレワレのジョオウにサカらうつもりか」
「ええ、そうよ。誰がなんと言おうと、まちがえているに決まってるわ」と、菖蒲はかんかんです。「本はちぎったりまくらにするためのものではないもの。それにね、本をまくらにしても(かしこ)くはならないのよ。わかる?」
「ははあ、わかっていないのはキミのほうさ。ワレワレにとって、これがなんであるかがモンダイではなく、ハコぶことこそがジュウヨウなのだ。そもそも、キミはワレワレにメイレイできるケンゲンでももっているのかね?」と、(えら)そうな監督(かんとく)アリ。
「そうだそうだ!」と、ちょっぴり偉そうな作業アリ。
「まあ!」あきらめないアリに、菖蒲はほとほとあきれます。「わかったわ。じゃああなたたちの女王さまに今すぐ伝えてちょうだい。これはね、わたしが借りたかった本なの、あなたが寝床(ねどこ)にしようと考えるずうっと前からってね」
「だから、ワレワレには〝ジョオウにツタえる〟というシゴトはない」きっぱりとした監督(かんとく)アリ。
「それはワレワレではなくデンタツアリのシゴトだね」と、のっかる作業アリ。
「ワレワレワレワレうるさい!」菖蒲はついにがまんの限界(げんかい)をこえ、こぶしをワナワナふるわせ、「どうでもいいからさっさと女王に伝えてきなさい!」
 菖蒲の口からいきおいよく噴出(ふんしゅつ)する熱風にアリたちは飛ばされないようはいつくばり(・・・・・・)ます。ブルブルふるえて固まってしまいますが、ハッとなり、たがいに見つめ、顔を合わせながら「おいおい、なんてこった」。
「あのでっかいのはジョオウよりコワいぞ」
「いやいや、ジョオウはあんなカイブツよりずっとヤサしいおカタさ」
「あんなキショウのアラいブシツケカイブツ、ワレワレのアゴにだっておえんぞ」
 青筋(あおすじ)を立てたカイブツは「はあ?」と、彼らを見下ろします。
「ショ、ショウチした」さきほどまでのアリたちの強気な態度(たいど)はどこへやら、軽くせき(ばら)いをして「ではトクベツにジョオウにツタえよう。しかし、なにが……」
 間髪(かんはつ)をいれずに菖蒲はゆっくりと力をこめながら一語ずつ、「な・に・が?」
「ゼ、ゼ、ゼンイン、タタタタイキャクー!」
 アリたちはそれはもう怖くてたまらなくなり、紙片を投げ捨て、雲の子を散らすように逃げさりました。一匹がみだれると、ほかのもなにごとかと、今まで整然としていたえんぴつの線はめちゃくちゃに、残ったのはひとすじの紙片だけとなったのです。
 菖蒲は落ちている『()しわらになった王子さま』の本をわきにかかえると、しかたなくちぎられた紙片を一枚一枚ていねいにつまんでは本におさめ、田植(たう)えをするよう(こし)をまげ、のっそりと図書館をでておどり場までもどります。とちゅう、紙片はぷつりととぎれていました。菖蒲は首をかしげましたが、ほっとしてこう言いました。
「よかった。もうかがんで歩かなくていいのね。それにしてもいつか女王アリに会ったら注意しないと。本をこんなにしてはいけないって」
 やがて彼らと再会するのも知らず、(こし)をトントン手でたたき、ぐっとのばしてから階段をおりました。

下に上がる階段

下に上がる階段

 すみからすみまで探したはずでした。学校が終わればまっ先に図書館へ寄って、新刊(しんかん)コーナーのチェックもかかさずしていましたし、書架(しょか)のどこにどんな本があるかだってすべておぼえていたほどです。司書(ししょ)のお姉さんに、わたしより知っているとほめられたのはちょっとした自慢(じまん)でした。
「それなのになんで、見つからなかったのかしら」
 菖蒲はボロボロにされた本のことをあれやこれや考えていると、おかしな感じがます。さっきまで灰色の冷たいコンクリートの内階段でしたが、今は温かみのある電球色に照らされ、ざらざらとした乳白色(にゅうはくしょく)の壁に黒光(くろびか)りするなめらかな曲線を描いた木製(もくせい)手すりがついた階段にいるのです。古い洋館みたいですが、もしかすると改装(かいそう)したのかもしれませんし、いつもはエレベーターを使っていたので、ただ気にしていなかっただけなのかもしれません。それで菖蒲は気にせず階段をおりることにしました。
 しばらく降りていると今度は、カサカサ、ノッソリノッソリ、カサカサ、ノッソリノッソリ。
 菖蒲が目を下にやるとカメがゆっくりとふみづら(・・・・)を歩いています。カメの足の長さで階段などおりられるのでしょうか。そもそも、なぜこんなところに? 菖蒲はカメをじっくりながめていましたが、地面にへばりつき階段を進む姿があまりにおかしくて、すわって話しかけることにしました。
「こんにちはカメさん、わたしはアヤメ。あなたはなぜここにいるのかしら?」
 カメはピタリと止まり(もっとも、動いているようにも見えませんけど)首をにゅうっとだして、眠たそうな目をこちらにむけます。菖蒲はカメがのんびりやさんであるのをよく知っていましたので、こたえを気長に待ちました。
 するとカメの口もとはゆっくり動き始め、とてもちいさな声で、「彼女は……いたずら()きなのだ……わたしは彼女の……いたずらにつきあっている」
 菖蒲はあたりを見て首をかしげ、「彼女ですか? ここにはだれもいませんよ」
 カメはふたたび階段のほうに頭をゆっくりともどしました。菖蒲にはまったく意味がわかりません。どこにも女の人などいませんし、もちろん、ほかのカメだっているわけはありません。〝彼女のいたずら〟とはなんでしょうか。とても気になりますが、それにしてもカメと話していたら明日になってしまうでしょう。
「さようなら。カメさん、お話ししてくれてありがとう」
 あふれる好奇心を胸にしまい、立ちあがってカメに手をふり、わかれをつげました。
「きっとどこかで待っているお友達がいるのね。ふふっ、いつになったら会えるのかしら!」
 愉快(ゆかい)な気持ちでしばらくいくと、カサカサ、ノッソリノッソリ……まさかのカメです。
 しかもさきほどのカメとそっくりで、やはり階段をおりようと歩いているではありませんか。でも、もしかするとカメのいう〝彼女〟かもしれません。菖蒲はカメに顔を近づけます。
「こんにちは、カメさん。さっきあなたを探しているカメさんがいましたよ」
 カメは菖蒲にむかってのんびりと頭をのばし、じいっと見つめ、とぎれとぎれに「彼女は……いたずら()きなのだ……わたしは彼女の……いたずらに……つきあっている」。
「あなた、もしかしてさっきのカメさん?」
 カメはそっぽむいて、なにもこたえてくれません。菖蒲と話すよりも〝彼女のいたずら〟が大事なのか、それともなぞなぞをだしているのでしょうか。
 菖蒲はあきらめず階段をおりましたが、まったく意味のないことがすぐにわかりました。なぜならトコトコグルグル、トコトコグルグル。いくら階段を下へ下へ進んでも、同じカメがいるからです。カメに追いつけないアキレスのように、菖蒲がどれだけがんばっても、カメより先に階段をおりられないのです。それでこんどは階段をのぼってみましたが、やはりカメのいる階にもどってしまいます。
 階段を上がったり下がったり、下がったり上がったり、菖蒲はくり返すうちに目がまわり、ヘトヘトになり、ついにカメのそばにドスンと座りこんでしまいました。今、菖蒲がいるのは何階で、そもそもカメは階段を下がっているか、はたまた上がっているのか、カメにいろいろと聞きますが、あのこたえしか返ってきません。しかたがなく菖蒲はほおづえをついて、しばらく考えてみました。まずは 〝彼女〟についてです。〝彼女〟とはいったい誰なのでしょう。
「彼女のいたずらにつきあっている、ということはカメさんは今、そのいたずらをされているわけよね」
 そう言って、菖蒲はあたりを見まわします。
「でも、わたしには彼女が見えないわ。じゃあカメさんがされている〝いたずら〟とはなにかしら」
 こちょこちょ、ぺんぺん、なでなで、ぐりぐり……思いあたるいたずらを考えてみますが、カメはなにもされていません。〝いたずら〟さえわかればきっと〝彼女〟が何者なのかわかるはずなのに。菖蒲はカメと一緒にのんびりと考えます。なにかヒントはあるでしょうか。
「そっか!」
 菖蒲の大きな声が階段中に響きます。
「彼女はわたしにも(・・・・・)〝いたずら〟をしていたのよ。だっていくら階段を下がっても上がっても、カメさんのいる階にもどってしまうんですもの。だから、カメさんのいっている〝彼女〟は階段そのもの(・・・・)のことね!」
 そう、菖蒲はカメと〝彼女のいたずら〟つまり下に上がり、上に下がる階段につきあわされていたのです。いたずら好きの彼女(かいだん)は、やってくる人をそうしてこまらせていたのです。もちろん、だれも喜ばないいたずらですので、階段に近づく人はだれもいなくなってしまいました。カメをのぞいて。カメにはいくらでも時間がありましたし、このいたずらには相性ピッタリだったのです。のんびり屋のカメは、いたずら好きの階段にアリアドネという女の子の名前をつけてあげました。それでカメは〝彼女〟と言ったのです。アリアドネは名前をつけられて、とても喜びました。そのかわりにひとつだけ、カメと約束しました。もうほかの誰かにいたずらをしない、と。
「アリアドネは約束をやぶって、わたしにいたずらをしたの?」
 するとカメは首を横にふり、菖蒲が手にしているあかね色の本をポンポンたたきました。
「この本? なぜこの本が関係あるのかしら」
 こんどはゆっくりとカメの視線が階段の下を指しました。階下のおどり場の壁には、さきほどまでなかったカカオたっぷり板チョコのようなドアがあります。そう、アリアドネは菖蒲に進まなければならない、道しるべの糸をたらしてあげたのです。
「もしかして、わたしが行くの?」
 カメは、はっきりそうだとうなずきましたので、菖蒲は立ちあがり、扉に近づきます。
「うんわかった。ありがとう、とても楽しかったわ」
 菖蒲はカメとアリアドネに手をふり、はがれかかった金メッキのノブをまわしました。扉をそおっと開けると、一寸(いっすん)先はなにも見えません。おそるおそる暗黒へと足をふみいれましたが、すぐぞっとするようなことに気づきます。なんとすっぽり床が抜けていたのです。足をさげたときには「きゃあ」と、さけぶ()もなく、体ごとすいこまれるように闇の中へいなくなってしまいました。ダークチョコレートの扉が菖蒲をパクリと飲みこんで(のど)を鳴らし、満足そうに消えてなくなります。
 そんな様子(ようす)をじいっとながめているのかいないのか、カメはなにごともなかったように、カサカサ、ノッソリノッソリ歩きだしました。〝彼女のいたずら〟につきあうために。 

底なし部屋

底なし部屋

 もし、明るい部屋だったなら、菖蒲はどんなにか怖い思いをしたでしょう。でも室内はまっ暗でしたし、いつまでたっても着地しないので、なんだか(ちゅう)()いているように思えてきました。
「これなら空から落っこちるのも、海底にしずむのだって同じ気持ちなのね、きっと」
 あっけらかんとしていますが、ひとつ悲しいことに、せっかく見つけた『()しわらになった王子さま』の本をすべり落としてしまいます。働きアリがやぶった紙片はひらひらと()()り、残ったページもするするほどけ、底なし部屋のずっと下で星のようにちかちかと(かがや)いていました。
「なんてきれいなの。まるで宇宙旅行をしているみたい」
 菖蒲はうれしくなって『ちいさな星の歌』を口ずさみました。

  ティンクル ティンクル、ちいさな星よ
  あなたはだあれ?
  世界よりずっと、ずうっと遠く
  夜空にちらばるダイアモンドみたい

  ピカピカ太陽はさってゆき
  あかりがみんな眠るとき
  ちいさなあなたがキラキラと
  一晩中(ひとばんじゅう)わたしをてらしてる

  ティンクル ティンクル、ちいさな(ひとみ)
  あなたはなんてステキなの

 歌いながら手足をばたばたさせたり、すいすい(およ)いでみたり。そんな姿があまりにおかしくて、お(なか)をかかえ、笑います。それを見た魚の()れは菖蒲に近づいてきて、まわりをぐるぐるかこみ、こうたずねました。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 魚さんたち」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」魚たちは尾びれをぶんぶんふります。「でもぼくたちが泳げるってことは、ぜったいに海だね」
「なるほど。でも下を見て。星が(かがや)いているの。海に星はあるのかしら?」
「なんと!」魚たちは菖蒲の指すほうをいっせいにのぞくと、たいへんおどろきます。「これは知らなかった。もしかして深海に住むものたちだろうか。なあみんな、たしかめにいこうじゃないか」
 そう言うと竜巻(たつまき)のようにぐるぐるまわる魚たちは、光る底にいきおいよくむかい、菖蒲は魚たちに、ばいばいと手をふりました。
 誰もいなくなると、つぎに翼をぐんとのばしたわたり鳥の()れがV字編隊(へんたい)で菖蒲に近づきます。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 鳥さんたち」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」わたり鳥たちは翼をパタパタはばたかせます。「でもぼくたちが飛べるってことは、ぜったいに空だね」
「なるほど。でも下を見て。星が(かがや)いているの。地上に星はあるのかしら?」
「ちがうよアヤメ」わたり鳥たちは口ばしをゆらして笑います。「あれは街の明かりさ。夜間飛行でよく見かけるもの」
「じゃあ、あちらを見て」と、菖蒲はあおむけになって上を指します。「ほら、なんにもないわ。もしここが夜空なら満天の星がちらばっているはずよ」
「なんと!」わたり鳥たちはたいへんおどろきます。「これは知らなかった。ひょっとするとあつい雲で見えないのかもしれない。よおしみんな、確かめにいこう」
 先頭の鳥が翼を広げてふわりと上昇し、続いて前から順にわたり鳥たちは上方の闇へと消え、菖蒲は鳥たちに、ばいばいと手をふりました。
 だれもいなくなると、こんどは流れ星が光のつぶをパラパラまきながら菖蒲のところにやってきて、こうたずねます。
「ねえねえ、なにがそんなに楽しいんだい?」
「こんにちは! 流れ星さん」と、菖蒲は大きな声であいさつをします。「はじめまして、わたしの名前はアヤメ。この部屋がなにかを調べていたの。だけどなんだかおもしろくなってきちゃった。ここが空か海か宇宙なのか、どれもしっくりこないんですもの」
「どうだろう、そんなの考えたことないや」流れ星はくるくる光の尾を引きます。「でもぼくが飛んでいるってことは、ぜったいに宇宙だね」
「なるほど。でも下に星が(かがや)いているのに上はまっ暗なの。宇宙はどちらにも星があるはずよ」
「いいやアヤメ、宇宙には星も(かがや)けない、常闇(とこやみ)があるんだ」
 菖蒲はそうかそうかとうなずいて、「流れ星さんの言うとおり、ここが宇宙なら、わたしは止まっているはずよね。わたしはなぜ下に落ちているのかしら?」
「なんと!」流れ星はたいへんおどろきます。「これは知らなかった。アヤメはいったいどこに落ちているのか、ぼくが先に見てみよう!」
 (かがや)く底へ消えてゆく流れ星に菖蒲は、ばいばいと手をふりました。
 ついに魚たちも、わたり鳥たちも、流れ星もみんないなくなって、菖蒲はぽつんとひとり、底なし部屋についてじっくり考えてみることにしました。
 りんごはなぜ木から地面に落ちるのでしょうか。雨はどうして雲から地上にふってくるのでしょうか。そして、この部屋で本を手離したとき、なんで菖蒲と本は落ちたのでしょうか。
「そもそも落ちているのかしら?」
 菖蒲はずっと、暗い部屋でりんごや雨のように落下しているとばかり思っていました。もちろん、本は下に〝落ち〟ましたし、菖蒲もそれを見たのです。でも魚や、わたり鳥の()れも、流れ星ですら〝自分は落ちている〟と、言いませんでした。
「ここは空や海や宇宙であって、そうではない場所ってことかな」
 つまり、海にしずんでいるのでも、空から落ちているのでも、宇宙をただよっているのでもありませんが、魚が泳ぎ、鳥は飛び、星も流れるというわけです。
「そっか、引かれているのね!」
 ついにひらめきました。そうです、菖蒲は見えない力に強く引っぱられていたのです。でも、いったいなににでしょう? その答えはすぐにわかりました。『干しわらになった王子さま』の本です。底なし部屋で本を(ほう)ったとき、それはちらばってきらめく星となり、闇の中で菖蒲を招待(しょうたい)していたのです。ぜひこっちにきてほしい、と。でもそれがなぜかはもうすこしあとで知ることになります。
 底なし部屋のからくり(・・・・)を知った菖蒲は、ためらわず星にむかって両手をさしのべ、本の招待(しょうたい)を喜んで受けました。これからなにが起きるのだろうと、わくわくしながら星に引かれるまま、白い光は菖蒲をつつみこみ、あまりのまぶしさに目を閉じてしまいました。
——————

 バサバサとかわいた音を立て、やわらかいものにしずむと体がチクチクして麦わらぼうしのにおいがします。ゆっくりまぶたを開き、細くて黄色いストローをかきわけひょっこり顔をだすと、わら束がたくさんつんでありました。
「ここは、どこ?」
 なにがおきたのかわからず、しばらくぼーっとしますが、遠くのほうでゴトンゴトンとなにかが動く音が聞こえましたので、上方についた半開(はんびら)きの窓から外をながめます。
 青空の下には金色の麦畑が一面に広がり、遠くでは白壁に黒い屋根(やね)風車(ふしゃ)が風をうけてまわっていました。
「あの風車(ふしゃ)だ!」
 菖蒲は()しわらの王子さまの世界にやってきたのだとすぐにわかりました。胸はドキドキと高鳴(たかな)ります。ここが本の世界だから、だけではありません。
 なんと、()しわらの王子さまをおしりでふんづけていたのです。

キジ三毛のネコ

キジ三毛のネコ

 たくさんあるものから、アタリだけを一回で引き当てられるでしょうか。たとえば、いろんな味のキャンディーにひとつだけキャラメルが混ざっていて、どれもまったく同じつつみだとしたなら、どのように探しあてますか。もちろん、ひとつずつ開けてみるしかありません。でも菖蒲は山とつまれた同じわら(・・)(たば)から、これが王子さまだと一目で気づいたのです。なんで、と思うかもしれません。でもきっと菖蒲にも答えられないでしょう。ただ胸がドキドキして、これは王子さまだと教えているようでした。
 ただひとつだけ疑問(ぎもん)がわきます。『()しわらになった王子さま』の本によると、王子さまは風車(ふうしゃ)の地下室でわら(・・)(たば)に変えられ、玉座(ぎょくざ)に座っているはずなのに、なぜ目の前で横になっているのでしょう。
「それは農夫(のうふ)がひろい、ここに投げてったからさ」
「だれ?」
 菖蒲はどこからか聞こえる声に返事をします。
「こっちだよこっち」
 広い納屋(なや)をあちこち見ると、正面の大きな両扉のそば、くま手を背にキジ三毛のネコがちょこんとすわっていました。
 菖蒲はネコに近づこうと、つまれたわら(・・)からおりようとしますが、なかなかうまく足をかけられず、きゃあと声をあげ、ずるずる落ちてしまいます。
「なあ、お(じょう)ちゃん。もうすこし静かにしてくれにゃいと。あいつが物音に気づいてやってきたらどうするんだ」
「ごめんなさい。わらの上を歩くのがこんなにむずかしいだなんて思わなかったの」
 やれやれとキジ三毛ネコはため(いき)をつきます。
「まあいい。そんなことよりあのわらについてだ。お(じょう)ちゃん、あれがにゃにかわかるのか?」
「もしかして、あなたも王子さまだって知っているの?」
「あの小僧(こぞう)は王子だったのか」キジ三毛ネコはニヤリとします。「それはにゃ、おれが風車(ふうしゃ)の近くでネズミを追いかけていた時……」
 キジ三毛ネコは白馬に乗った王子さまが風車に入るのを見かけましたが、けっきょく、もどってくることはありませんでした。
「しばらくして黒い大蛇(だいじゃ)風車(ふうしゃ)から飛びだし、空高く()いあがると、いきおいよく西にむかって消えたんだ」
 おそらく王子さまと対峙(たいじ)したあの影だろうと菖蒲は考えます。
「それから、ここの畑の農夫(のうふ)風車(ふうしゃ)の地下で、青い剣と赤い宝石の首かざりをかけたわら(・・)(たば)を見つけ、大喜びしてた。ごうつくばりにゃ農夫(のうふ)め。白馬まですべて自分のものにし、町で売りさばいてお金に変えるつもりだぜ」
 それを聞いた菖蒲はひとつ思いつきました。王子さまの帰りを待つ白馬に話を聞けば、干しわらになった王子さまについてもっと知ることができるでしょう。でも、キジ三毛ネコの言うとおりなら、急がなければなりません。
「白馬さんはどこにいるのかしら。はやく助けてあげないと」
「まあおちつけ」あわてる菖蒲にキジ三毛ネコは言います。「風車(ふうしゃ)のちょうど裏手、あいつの家のすぐそばにある馬小屋につながれてる。にゃわで固くしばられてるからかんたんにはほどけにゃいぜ。小僧(こぞう)が持っていた青色の剣を使うといい。切れ味よく、するどいからハサミがわりにちょうどいいにゃんて農夫(のうふ)は喜んでた。剣はやつの寝室にあるはずさ」
 キジ三毛ネコの話を聞いて、菖蒲はほっと胸をなでおろしました。
「わかったわ。でも、なんでわたしにいろいろと教えてくれるの? あなたは農夫(のうふ)さんの()いネコなんでしょ?」
「白馬に借りがあるだけさ。大蛇(だいじゃ)はオレを……いや、まわりにあるものすべて()みつくそうとした。必死に逃げたが()いつかれ、もうおしまいかとあきらめかけた時、白馬はオレを口にくわえ、助けてくれたのさ」そしてキジ三毛ネコは機嫌(きげん)悪そうにぷいっと目を横にそらし、「それにな、お(じょう)ちゃん。オレはあんなやつに()われちゃいにゃいぜ」
「そうだったの」菖蒲はキジ三毛ネコの首を(やさ)しくなで、金の白鳥と花の()しゅうが入った黒い首輪にふれます。「じゃあなんでこれを?」
 キジ三毛ネコは首をブルブルふるわせ、すっくと立ちあがると菖蒲のまわりをすたすた歩きだしました。
「そもそもあいつと契約したのがまちがいだったのさ」
 キジ三毛ネコの言い分では、まず農夫(のうふ)と仕事の契約(けいやく)を結んだのがはじまりでした。この土地にいるネズミを一〇〇〇匹退治(たいじ)するまでの条件(じょうけん)で宿と食事を提供(ていきょう)する、という内容(ないよう)です。しかし〝退治(たいじ)するまで〟という文言(もんごん)にまんまとだまされました。つまり、ネズミを全部退治(たいじ)しなければ、農夫(のうふ)のもとから離れられないわけです。なんと農夫(のうふ)はキジ三毛ネコと契約(けいやく)を結んですぐ、ネズミ()りをそこらじゅうに置きはじめたのです。これではいつまでたっても退治(たいじ)できません。
「旅ネコのオレは気ままで自由が好きにゃんだ。同じにゃわばりをまいにちウロウロするようにゃ連中とはちがう」
 キジ三毛ネコは立ち止まり、うらめしそうに続けます。
「ここもすぐ出るつもりだったんだ。にゃのにあのいじわるにゃ農夫(のうふ)はだましやがった! はじめっからずっと働かせるためのわにゃ(・・・)だったんだ」
「にゃんてひどい人にゃのかしら!」と、菖蒲はネコみたいにまゆをしかめます。
「それでお(じょう)ちゃんにひとつたのみがある」キジ三毛ネコはじっとりした目つきで菖蒲をのぞきこみます。「あいつは寝室(しんしつ)のどっかに、オレと交わした契約書(けいやくしょ)(かく)したはずにゃんだ。それを持ってきてほしい。あいつの目を(ぬす)み、にゃんどか探したが、どうにも見つからにゃかった。あの契約書(けいやくしょ)さえ捨ててしまえば自由ににゃれるんだが」
「わかった。探してみる」菖蒲は頭をたてに大きくふりました。
 ちょうどその時、キジ三毛ネコの両耳はピクピク動き、「まずい、あいつだ。隠れろ!」
 ぎゅっぎゅと砂利(じゃり)をふみしめる足音が納屋(なや)の外からこちらに近づき、やがてピタリと止み、大きな両扉がゆっくり開きます。
 菖蒲はおどろきあわてて、飛びこむように積んであるわら(・・)(たば)の影に隠れました。
「おいキジ三毛、いるんだろ!」荒々(あらあら)しい男の声がします。「昼飯(ひるめし)の時間だ。とっととこい!」
 興奮(こうふん)する菖蒲の鼻息(はないき)ですら聞こえてしまいそうな重苦(おもくる)しい沈黙(ちんもく)
「にゃ、にゃあ」
 キジ三毛ネコのぼう読みの鳴き声に笑いをこらえながら、菖蒲は農夫(のうふ)がどんな人か見るため、そっと正面をのぞきます。こちらにのびる人影を頭からたどり、扉の前にはウェスタンブーツにデニムのオーバーオールと白シャツ、麦わら帽子(ぼうし)をかぶった、いかにもたくましい口ひげの男がどっしりかまえています。
(あんな大男に捕まったらなにされるか……)
 そんな不安が頭をよぎり、菖蒲は口に手をあて(かた)をすくめます。
「遅れたらめしはないと思え!」
 大男は扉を乱暴(らんぼう)にたたきつけて出ていきました。
「さぁて家にもどるとするか! あいつは昼飯がすんだらおれを連れて小麦を売りに街へ出かけるだろう。馬車さえ出れば家には誰もいにゃくなる。玄関(げんかん)扉はカギがかかっているが、二階の窓はいつでも()けっぱにゃしで助かるぜ。しかし泥棒(どろぼう)がそばの木をのぼってこにゃいか心配だよ。でもまあ夕方、暗くなる前に帰るから問題にゃいか」
 キジ三毛ネコはそう言って農夫のあとを()い、扉のすきまから走り去りました。
 納屋(なや)にひとり残された菖蒲は干しわらになった王子さまのそばにもどると、これから実行する計画をアヤメと話しました。菖蒲のひとり会議のはじまりです。読んだ本の感想なども菖蒲はアヤメに伝えていました。ぶつぶつ言いながらとつぜん笑ったり、怒ったり泣いたりするので、お姉さんからは「うすきみわるいからやめなさい」と、よく注意されました。
「まず王子さまをここから助けださなきゃ。だって、ほかのわら(・・)(たば)と一緒に持っていかれたら大変ですもの」
「いい考え。でも、どこに隠せばいいのかしら」
 そこらへんにほっぽって、だれかに盗まれたらいけませんし、動物にでもバラバラにされたら大変です。話し合いの結果、風車(ふうしゃ)の地下にしました。きっとあそこに王子さまをもとの姿にもどすための手がかりがあると思ったからです。
「つぎに農夫(のうふ)さんの家のそばにある木を登って、二階の窓から寝室(しんしつ)へ」
「青色の剣とキジ三毛さんの契約書(けいやくしょ)を探す」
 菖蒲はのぼり(ぼう)得意(とくい)でしたので、木登りだって問題ありません。
「それから馬小屋にいき、つかまった白馬さんのなわを剣で切って助ける」
「うん、これでよし!」
 こうして菖蒲の〝ひとり会議〟は万事(ばんじ)うまくいきました。もちろん、頭の中ではいつだってあれやこれや順調(じゅんちょう)に進むものです。菖蒲は満足そうにひじをついて()そべり、完璧(かんぺき)な計画を実行する時はまだかまだかと足をバタバタさせて(まど)の外をながめ、待ちつづけました。

菖蒲の計画

菖蒲の計画

 昼さがり、キジ三毛ネコの言うとおりに風車(ふうしゃ)のむこうから荷馬車はでていきました。菖蒲は見逃すまいと目で追いますが、まだ行動は起こしません。計画には不足の事態(じたい)があるのを知っているからです。忘れ物を思いだして引き返した農夫(のうふ)とかち合いでもしたら計画は水の(あわ)です。もちろん失敗など(ゆる)されませんので、菖蒲はできるだけ慎重(しんちょう)に行動しようと決めていました。
 馬車がだんだん小さく、地平線の彼方(かなた)に消えたのを確認(かくにん)し、あせらずゆっくりと「いち・にぃ・さん……」。六十まで数えてから、それ今だと納屋(なや)の扉を押し()けました。
 眼前(がんぜん)に新しい世界はどこまでも広がっています。ここちよい風はささっとふき、菖蒲の長い黒髪(くろかみ)をゆらし、目をつむり、(はな)から空気をいっぱいすいこめば、どこか知らない異国(いこく)の香りを感じます。そう、人生だって変えてしまうほどに、すばらしいなにかがはじまる前兆(ぜんちょう)。本で読んだおとぎ話のヒロインがそうであったように、おさえきれない高揚(こうよう)を感じながら、目をぱっと(ひら)き、回転する大きな羽根(はね)を目印に、干しわらの王子さまを(かか)えて小麦畑へ走りだしました。
 農夫(のうふ)はいつ帰ってくるのかわからないので、のんびりできる時間は少しもありません。
 小麦畑を抜けると菖蒲の前に大きな黒い風車(ふうしゃ)はどんとかまえていました。羽根(はね)の音はまるでうなり声で、さっき見た農夫が(うで)をくみ、菖蒲の計画を邪魔(じゃま)するため立ちはだかっているように見えます。そんな想像が風船(ふうせん)みたいにふくらむと恐怖(きょうふ)でたじろぎますが、王子さまのため、小さなドン・キホーテは勇敢(ゆうかん)にも風車(ふうしゃ)突進(とっしん)しました。
 風車(ふうしゃ)の中は時計のように複雑(ふくざつ)にからみあい、木製(もくせい)歯車(はぐるま)のこすれるにぶい音や、テンポよい打音(だおん)()むことなく、さわぎ立てていました。
「たしか本には王子さまは地下に続く階段を探したとあったわ」
 しかし、いくら見まわしても階段など、どこにもありません。
「〝探しまわった〟ということは王子さまはすぐに見つけられなかった……つまり、(かく)し階段だったのよ!」
 菖蒲は四つんばいになって木の(ゆか)一枚(いちまい)ずつ指でなぞります。すると、一か所だけ床板(ゆかいた)に金色の回転把手(とって)がうめこまれています。しめた、と金属(きんぞく)のつめをひっくり返し、四角(しかく)く切り抜かれた板を持ちあげると、なんと薄暗(うすぐら)い地下へと続く階段を見つけました。おりた先にはゆるく閉じた木製の古い(とびら)からヒューヒューとすきま風がふきぬけています。
「本に書かれたとおりね」
 (とびら)のむこうは風車(ふうしゃ)の地下室とは思えない、オレンジ色の灯火(ともしび)がいくつもゆらゆらゆれる壮麗(そうれい)な王の()でした。(ほろ)んだ強国の歴史の針はポッキリ()れ、つもるほこりが長い時を知らせます。部屋の両わきにはいくつもの巨大な支柱(しちゅう)はならび、中央ひな(だん)頂点(ちょうてん)にすえられた玉座(ぎょくざ)天井(てんじょう)からふりそそぐ光をあび、空位(くうい)のまま、こちらをむいていました。それにしても、人けのない廃墟(はいきょ)ほど陰気(いんき)な場所はありません。なにかでるんじゃないか、菖蒲はびくびくしながら王座に近づき、わらの王子さまを置き、「待っていて、かならずもどるから」と、耳のあたりでささやきました。知らない国のひんやり冷たいイスに置いてきぼりにされたなら、どんなにか心細(こころぼそ)いでしょう。菖蒲は王子さまを思い、とても悲しい気持ちになったのです。でも、今はこうするしかありません。
 うしろ(がみ)をひかれる思いで最初の任務(にんむ)()え、外でふうっと一息ついて次の計画にうつります。風車(ふうしゃ)の裏手にまわると、よく手入れされた庭の先にわらぶき屋根の家、となりには馬小屋が見えました。
 菖蒲は門をくぐり、色とりどりの花が咲きこぼれる庭を足早にぬけて、家に寄りそうブナの木の前で立ち止まります。それからくつ(・・)くつ下(・・・)()いで木の根もとに(かく)してから、うねる木にしがみつき、ぐいぐい登ります。とちゅう、太い木の枝が屋根裏の(まど)にせり出ていましたので、毛虫のようにくねくねと枝をつたって進みます。そして(まど)に手をかけようとした時、思わず地面を見てしまい、あまりの高さにめまいがしてぴたりと止まってしまいます。
「休んでるひまはないのよ、アヤメ」
 そう言って下をのぞかないよう顔を前に、呼吸(こきゅう)をととのえてからゆっくり腕をのばすと、なんとか(まど)はこちらに開きました。
「だいじょうぶ、わたしは飛べる。だいじょうぶ、わたしはあの(まど)に飛べる……」
 自分に言い聞かせ、太い枝に手をあててふるえる(こし)をあげ、こずえに足をつけます。
「鳥のように飛べる、チョウチョのように()える……!」
 ケムシはサナギに、そしてチョウとなって飛ぶように、菖蒲はいきおいよく(まど)に飛びうつります。木の枝はたわんでバサバサ葉をちらし、ヒバリもなにごとかと空へ逃げていきました。
 それからすぐ、どすんと重いものが落ちるにぶい音。
「いったぁぁい!」
 屋根裏部屋はもくもくほこりが舞いあがり、斜光(しゃこう)にあたって(かがや)きます。
 菖蒲はコホコホせきをしながら「アヤメチョウ……着陸(ちゃくりく)……失敗ね」。赤くなったおでこを手でおさえ、頭のズキズキを手でおさえながら天井(てんじょう)の低い屋根裏をおりました。
 かまどや壁にぶら下がる(なべ)におたま、きれいに整とん食器棚(しょっきだな)のある台所に出て、そこから勝手口、居間、べつの部屋につながるろうかに分かれていました。まよわずろうかを通り、サニタリールームの前を過ぎて(とびら)につきあたります。
 (とびら)把手(とって)に手をかけると菖蒲の胸はうずきます。人の家に無断(むだん)で立ち入るだけでも気がとがめるのに、誰かの部屋となればなおさらです。もし自分の寝室(しんしつ)勝手(かって)にいじられたら、と考えはじめるとよけいに心は痛みます。でもここで引き返せば王子さまを助けることができなくなるかもしれませんし、キジ三毛ネコもあのままです。気持ちはゆれ動きながらも「ごめんなさい」と、小声であやまり、(とびら)把手(とって)をまわしました。
 広い部屋には大きなベッドにつくえと(たな)()しゅうの入ったレースのカーテンから()の光はうっすら差しこみ、よくみがかれたマホガニー(せい)のつくえのそばに()き身の両刃の剣は立てかけられています。
 菖蒲はまっさきに剣を手にすると、美しい透明(とうめい)深青(ふかあお)のガラスはあざやかな青緑(あおみどり)に色を変えます。剣は軽石(かるいし)みたいに菖蒲にも片手(かたて)で持ちあげられるほどの重さです。
「なんてきれいなのかしら……」 
 ふしぎな剣に見とれる菖蒲は計画をはたと思いだし、剣を置くと、もとの深青(ふかあお)色にもどります。それからキジ三毛ネコの()わした契約書(けいやくしょ)を探しました。
 ところで、計画というものはたいてい思いどおりにいかないもので、調整(ちょうせい)したり、なにかをあきらめたりするものです。もちろん菖蒲もそんなことはよく知っていましたし、できるだけうまくいくよう努力するのですが、どうにもできないやっかいな問題も起きてしまうのをすぐに痛感(つうかん)することとなりました。

契約書のありか

契約書のありか

 王子さまの剣は一目見てわかりましたが、キジ三毛ネコの契約書(けいやくしょ)はどのようなものか知りません。紙に書いたのか、それともほかのなにかでしょうか。これは計画を成功させるうえで大きな問題となりました。形の想像(そうぞう)できないものを探すほどむずかしいことはないからです。
「キジ三毛さんにちゃんと聞いておくべきだったわ」
 菖蒲はうらめしく思いながら、つくえの引き出しに手をかけようとした時、卓上(たくじょう)にかざられたポストカード立てが目にとまります。(しん)ちゅうの(がく)の中では白いキャペリンハットをかぶった金髪(きんぱつ)の女性が()みをうかべています。もちろん、それらしい気配(けはい)はなく、キジ三毛ネコだって農夫(のうふ)のほか家に人はいない、と言っていました。
——これは誰だろう。でも、この人どこかで——菖蒲はどうにも思いだせません。
 引き出しを開けると手紙が何通かあるだけで契約書(けいやくしょ)らしい紙はなく、奥までのぞいても(から)でした。(たな)を探しても手がかりひとつありません。もしかしてキジ三毛ネコのかん違いなのか、それとも探すところが見当(けんとう)はずれなのか。いずれにせよ、時間だけがむだに過ぎ、刻一刻(こくいっこく)と日はかたむいてゆきます。
「どこだろう、どこだろう。いいえ菖蒲、落ちついて探すの。きっとあるはず。どこかにふと置き忘れてしまった自転車の(かぎ)と同じよ」
 あきらめず部屋中行ったり来たり、引き出しを開けたり閉めてみたり。そもそもこの寝室(しんしつ)だったのでしょうか。まさか別の部屋に? はたまた居間(いま)にあるのかも。——いや、もしかして農夫(のうふ)のポケットにあるのかしら。——ごちゃごちゃ考えるとよけいにそわそわして、ありそうでない、たった一枚の契約書(けいやくしょ)がなんとももどかしく感じます。
 すると突然(とつぜん)、外からガタガタガタと、荷馬車の音が聞こえました。
 菖蒲は全身に電気が走ったようにおどろき、頭はまっ白になります。契約書(けいやくしょ)を探しているうちに、いつの間にか時間は経過し、思いのほか帰ってくるのが早かったようです。
 それにしても、なんと最悪なタイミングでしょう! もし今この部屋を出ていけば、農夫(のうふ)(はち)合わせになるかもしれません。しかも足音はこちらにずんずん近づいてくるではありませんか。
「どうしようどうしよう」かくれんぼのように数をかぞえる(おに)から逃れるため、菖蒲は最適な隠れ場所をあちこち探します。もちろん(たな)には入れませんし、つくえの下ではおしり丸見えです。ベッドの中だってふとんをめくられたらおしまいでしょう。
 (おに)無情(むじょう)にもどんどん間合(まあ)いをつめてきます。
「あぁぁぁ、まってまってまって」万事休(ばんじきゅう)す。四方八方に首をふりながら、あわてふためいていると、足音は寝室(しんしつ)前で途絶(とだ)え、カタカタカタカタカタ。把手(とって)()きざみにふるえます。
 そしてついに扉は開き、農夫(のうふ)床板(ゆかいた)をきしませながら一歩また一歩と(まど)ぎわへ、つくえの前で止まります。あの(しん)ちゅうの(がく)を持ち、さびしそうにじっと見つめてから部屋をあとにしました。
 とりあえず(おに)の目を逃れた菖蒲は(ゆか)に頭をつけ、大きなため息をもらします。
 でも菖蒲はいったいどこに?
 それはベッドの下です!
 農夫(のうふ)が部屋に入る、もうすんでのところで、すべりこむようにもぐったのです。同時に菖蒲の立てた計画はまさに机上(きじょう)空論(くうろん)、もろくもくずれさりました。なおこまったことにベッドの下から身動きが取れなくなってしまったのです。たとえ契約書(けいやくしょ)探しをあきらめ、青い剣だけ持ちだすとしても、いつここから出ればよいのでしょう。農夫(のうふ)が家の外か屋根裏、それとも勝手口(かってぐち)居間(いま)の出入り口にいる時に? いずれも見つかる可能性があります。そもそも農夫(のうふ)は今、どこにいるかすらベッド下からではわかりません。様子を探るにはあまりに危険すぎます、——もし窓の外からのぞいていたらどうしよう——いくら計画をねり直しても、考えれば考えるほど絶望的(ぜつぼうてき)な計算結果をはじきだします。
 あれこれ悩んでいるうちに日は落ち、寝室(しんしつ)は暗くなって、もじどおり出口の見えない菖蒲の不安はどんどん高まります。いっそ農夫(のうふ)の前に姿をあらわし、ありのまま話そうかとも考えましたが、農夫(のうふ)強欲(ごうよく)というキジ三毛ネコの言葉が思い返され、(くさり)につながれて売りとばされるのでは、と身はすくみます。時計の針はぐるぐるまわり、うつぶしたまま、ついになにもできず、夜をむかえてしまいました。いっぽう農夫(のうふ)はというと、菖蒲の期待(きたい)裏切(うらぎ)るように、その日は外出することもなく、農具(のうぐ)の手入れや食事をして、家でゆっくり過ごしていました。
 好機(チャンス)深夜(しんや)におとずれます。農夫(のうふ)はふたたび寝室(しんしつ)にやってきて、手にしたランプは部屋全体をうっすら()らします。菖蒲は耳を立て、つくえにむかう足を目で()います。
「おやすみ、リリィ」つくえの上にランプ置いた農夫(のうふ)はポストカード立ての絵にあいさつをしてランプをふっとふき消します。
 ベッドはきしみ、ふとんのすれる音が聞こえた時、菖蒲は新しい計画をひらめきました。今なら農夫がどこにいるのかわかるので、青い剣をこっそり持ち逃げしようと考えたのです。なんて大胆(だいたん)な計画なのでしょう! それでも(ねん)のため、深く眠るのを待ちます。さっきはまたたく()に過ぎた時間でしたが、こんどはゆっくりと、じれったく感じました。
 二段ベッドでもないのに上段の農夫(のうふ)熟睡(じゅくすい)し、少女は下段でウツボのようにかくれる、というおかしな夜はもっと深まり、さあ今か、まだかと小さなウツボは問答(もんどう)をくり返していると、やがて大きな寝息(ねいき)が聞こえます。
 さあ計画の再開です。菖蒲は音を立てないようベッドの下からもぞもぞはい出て息をころし、顔をそっとあげます。農夫(のうふ)はふとんにしずみ、ぐっすり寝ていました。よしよしと、ひざをついてそろそろ青い剣に近寄ります。カーテンからもれる月の光を()びた剣は、まるで宇宙をかためた深い紺色(こんいろ)のようで、手に持つとやはりあざやかな青緑(あおみどり)に輝きます。
「んっんん〜」農夫(のうふ)のうめき声。
 菖蒲はとっさに剣から手を(はな)し、(ゆか)にふせます。どうやら()がえりを打っただけで起きてはいません。
 ところが、立てかけた剣はバランスをくずし、すべるようにすーっといきおいよく倒れます。菖蒲は目をむいて、とっさに手をのばし————!

 夜風は麦をこすり、窓ガラスにあたってカタカタ鳴らします。
 菖蒲はぎゅっと目をつぶり、息を止め、くちびるをかみ、剣をすんでのところで支えていました。腕はふるえ、バクバク脈打(みゃくう)鼓動(こどう)は部屋中に聞こえそうです。片目ずつ開き、そおっと立ちあがりベッドをのぞくと農夫(のうふ)は……寝ています。
 (かた)をなでおろし、ふたたび剣を手に、すり足で(とびら)に近づきます。
——お願い、起きないで。どうか!——
 頭の中で何度そう(とな)えたでしょう。かくれんぼや(おに)ごっこ、学習発表会に合唱(がっしょう)コンクール。できるかぎり思いうかべましたが、これほど緊張(きんちょう)したことはありません。(いき)のつまる思いで寝室(しんしつ)をぬけだしました。

 しんとした戸外(こがい)では丸い月が空にぷかりと()かび、小麦畑をやさしく()らしています。菖蒲は木の根もとに隠しておいたくつ(・・)くつ下(・・・)()き、いそいで馬小屋へむかいます。計画どおりにはゆきませんでしたが、なんとか剣だけは手にいれました。契約書(けいやくしょ)についてはキジ三毛ネコにもう一度、聞いてみるしかありません。
 ()し草のにおいで満たされた馬小屋につくと、奥には美しい白金の毛なみの馬がこちらをむいてどうどうと立っています。
「はじめまして、お(じょう)さま。くわしいことはそこにいるネコから聞いています」白馬の高く()んだ声。そばにはギロリと目を光らせたキジ三毛ネコもいました。
「ごめんなさい、キジ三毛さん。あなたのほしがっていた契約書(けいやくしょ)はいくら探しても見つからなかったの」
 キジ三毛ネコはぷいっと顔をそむけます。
 菖蒲は決まり悪そうに、なわを切ってやるため白馬に近づきます。
「はじめまして、白馬さん。あなたを助けにきました。わたし、聞きたいことがあるの」
「わたくしも、お(じょう)さまにお話ししなければならないことがあります」
「おれもまぜてもらおうか」
 背後(はいご)から聞こえる(おぼ)えのある声。菖蒲の顔からみるみる血の()が引いていきます。
 おそるおそるふりむくと、寝ているはずの大男が目の前に立っているではありませんか! 菖蒲は言葉を失い、青い剣を両腕(りょううで)()きしめたまま固まってしまいます。
 計画は完全に失敗におわりました。ただそれだけは菖蒲にもわかったのです。

農夫たちの秘密

農夫たちの秘密

 正直(しょうじき)にすべて話してあやまらなければ——菖蒲は(おそ)(おそ)る農夫に近づきます。
「お(じょう)さま、けっしてその剣を手から(はな)してはなりません!」
 思いがけない白馬の言葉に菖蒲はとまどいます。
「でもわたし、農夫(のうふ)さんの家から剣を(ぬす)んで……」
「いいや、あの白い馬の言うとおりに」と、農夫(のうふ)はさえぎります。「それにわたしは最初(さいしょ)からきみが家にいたのを知っていた」
「ど、どういうことですか?」
 農夫(のうふ)はにこりと()みをうかべ、「そこにいるネコがきみをだましたんだ」。
「おいおい、だましたにゃんてネコ()きの悪い」キジ三毛ネコはたいそう不満(ふまん)げに言います。
「そんな、ひどいわ」菖蒲はまゆをしかめます。
「ごめんよ、お(じょう)ちゃん」キジ三毛ネコのしょんぼりとした悲しい声。
 ひとつだけわかりました。ここにいるみんなはすべて知っていましたが、わけあって菖蒲だけ手のひらで(おど)らされていたのです。納屋(なや)でじっと待ち、木の上から家にしのびこんで必死に契約書(けいやくしょ)を探し、きゅうくつなベッドの下で恐怖(きょうふ)にふるえ、やっと馬小屋まで来たのに。孤軍奮闘(こぐんふんとう)した計画はすべて微塵(みじん)となり、掃除機(そうじき)()われてきれいさっぱりなくなると、ばかばかしくなり、(はら)も立ってきました。
「なんなのよ、もう!」
「お(じょう)さま、どうかお(ゆる)しください」白馬は菖蒲をなぐさめるように言います。「すべては闇に気づかれないためなのです。闇はあらゆるものを監視(かんし)しています」
 闇とは干しわらになった王子さまと対峙(たいじ)した黒い影のことで、白馬の説明によると、自在(じざい)にその姿を変え、つかみどころがなく、(きり)のように世界にたちこめています。
「青い剣はお(じょう)さまの持つ時だけ、特別な力で闇から守ります。その証拠(しょうこ)に剣をごらんなさい」
 菖蒲の手にある王子さまの剣は青緑(あおみどり)(かがや)いています。
「わたくしの主人である王子はこうもうしました。『おまえのもとにかならず少女がやってくるだろう。その()に剣をわたしておくれ』と」
「それなら、はじめっから言ってくれればいいのに」菖蒲はほおをふくらませます。
「できればそうしたかった」と、農夫(のうふ)は言います。「しかし、王子のもとめる少女はどこから来るのか、どんな顔なのか、まったくわからなかった。それにその()はほんとうにわたしたち味方になるかどうかも知る必要がある。これらを同時に、しかも闇に気づかれず実行するため、まわりくどい方法しかなかった。いじわるしようとたくらんだわけではないんだ」
「だ・か・ら、おれは強欲(ごうよく)にゃ農夫(のうふ)にだまされたあ・わ・れにゃネコってわけ!」と、キジ三毛ネコはわって入ります。「それに肉球印(にくきゅういん)入りの契約書(けいやくしょ)はちゃんと寝室(しんしつ)にあったんだぜ。ポストカード立ての絵の裏に、ね」
「ええっ」菖蒲はあきれたように言いました。
「わたしたちはきみが約束と秘密を守る〝少女〟かどうか(ため)してみたら、思っていたよりもずっとすてきな女の子だった、というわけさ。それにしても寝室(しんしつ)に入った時、きみがいなくてあわてたよ。やはり人違いだったのかと。まさか夜中にベッドの下から出てくるなんてね」
「ほんとうに、どうしていいかわからなかったんですもの!」
 菖蒲の顔はまっ()()まり、みんなくすくすと笑います。
 少し打ち()けた菖蒲は図書館からやってきたこと、『()しわらになった王子さま』の本に招待(しょうたい)されて納屋(なや)に落ちてきたことを(かく)さず話しました。
「なるほど。きみはわたしたちの領域(せかい)のものではないのか」と言って農夫は口ひげに手をあてます。
「お(じょう)さまには理解(りかい)しがたいかもしれませんけれど」と、白馬は言います。「わたくしたちの領域(せかい)で約束は力を持っています。重い約束ほど力は強く発揮(はっき)し、約束を守らなければ大きな代償(だいしょう)がともないます。王子の剣の力も約束によるもの」
「そうだったのね。でも誰の約束なのかしら」
「ちょっと待った」農夫(のうふ)は用心深げにあたりを見まわします。「夜ふけに長居(ながい)危険(きけん)だ。続きはまた明日にしよう」
 それから手まねきをし、みんな円になって小さく集まります。「いいか、よく聞くんだ。これから闇に気づかれないよう、ひと芝居(しばい)うつ。内容(ないよう)はこうだ。女の子は白馬を助けようとするが農夫(のうふ)に見つかってしまう。農夫(のうふ)は家につれこみ、おどしつけ、働く契約(けいやく)を結ばせる、という台本さ。剣をこちらにわたしたらすぐ開演(かいえん)する」
 全員こくりとうなずきます。
 農夫(のうふ)に青い剣を差しだそうとした時、みんないっせいに菖蒲のほうをむきます。
「わたくしの名はアルビレオ、王子につかえる馬です」と、白馬のアルビレオはお辞儀(じぎ)します。
「おれのにゃはモルト、山あいの国の王につかえる伝達役(でんたつやく)のネコさ」と、キジ三毛ネコのモルトは辞儀(じぎ)します。
「わたしの名はグレエン、国王につかえる風車(ふうしゃ)監視役(かんしやく)です」と、農夫(のうふ)のグレエンは辞儀(じぎ)します。
 菖蒲はみんなの名前を知ると(むね)がふわっと温かくなり、勇気もわいてきました。わからないことや不安なことがあっても、ひとりでなければなんとかなるものです。もうベッドの下にいた時のような、さびしい気持ちはどこかへいってしまいました。
 それで目を(かがや)かせ、仲間たちにこう言いました。
「わたしは王子さまに招待(しょうたい)された少女のアヤメです」

観客のいない芝居

観客のいない芝居

 菖蒲の芝居(しばい)はじつにみごとなものでした。もし観客(かんきゃく)がいたなら立ちあがって万雷(ばんらい)拍手(はくしゅ)を送ったにちがいありません。
「ごめんなさい! どうかお(ゆる)しくださいませ!」泣きじゃくる、か弱い少女役アヤメ。
「げっへっへ。こーんにゃところに(かく)れていやしたぜ、だんにゃ」アヤメを裏切(うらぎ)大根(だいこん)役ネコのモルト。
 強欲(ごうよく)農夫(のうふ)役のグレエンはアヤメの(うで)をつかみ、居間(いま)に引っぱります。
「さあ、この契約書(けいやくしょ)にサインしろ。さもなきゃ町で売り飛とばしちまうからな!」
「助けてくださるならなんでもいたします、ご主人さま!」
「にゃんでもするとはいい根性(こんじょう)してやがるぜ、まったく」
 あまりの迫力(はくりょく)演技(えんぎ)に、テーブルで顔をあわせるとみんなうつむき、(かた)をふるわせます。闇が監視(かんし)しているといっても気配(けはい)はなく、まるで観客(かんきゃく)のいない劇場(げきじょう)本番(ほんばん)さながら歌い、(おど)りきるプリマドンナのようだったからです。まして今は真夜中です。こんな時間にいったいなにをしているのでしょう。あまりにもくだらないやりとりに、笑いはこらえきれません。
 契約書(けいやくしょ)を結ぶ場面もひととおり演じ、農夫はウツボの住むらしい、うわさの寝室(しんしつ)(とこ)につくようアヤメに命令しました。
「おれは居間(いま)にいる。いいか、逃げようなんて考えるな。もし逃げたりなんかしたらただではすまさんぞ。モルト、こいつを見張(みは)ってろ!」
 菖蒲は言われたとおり、しょんぼりと寝室(しんしつ)(とびら)を閉めて寝床(ベッド)(はい)ります。毛布(もうふ)(かた)までかけると、ふんわりしたまくらからはモクレンのいい香りがにおいます。
——まあ、グレエンはわたしのために、新しくおふとんを変えてくれたのね。——でも菖蒲の胸はチクリと(いた)みます。自分はふかふかの大きなベッドなのに、グレエンは今ごろ固いイスの上なのですから。
「アヤメ、気にすんにゃ。明日からはいそがしくにゃるから早く()ろ」
 ぐるりとまるまったモルトはそう言って目をつぶります。
「うん……ありがとうモルト」
 菖蒲は目頭(めがしら)をぬぐい、まくらに頭をしずめるとすぐ、深い眠りにつきました。それも当然でしょう。本を運ぶアリや下に上がる階段のアリアドネとカメ、底なしの部屋では魚やわたり鳥に流れ星。あれよという()()しわらの王子さまのもとにやってきて、(てき)だと思っていた農夫(のうふ)とお芝居(しばい)まで(えん)じたのですから。でもほんとうは興奮(こうふん)しっぱなしで、(つか)れはしても、まだまだ起きていたかったのです。

 次の朝、太陽のやわらかな光は早く起きてと菖蒲の顔をなでます。大きなあくびをした菖蒲はカーテンを引いて(まど)をいっぱいに開きました。さわやかな風はすうっとふきぬけ、(かみ)はさらさらなびきます。
「『やっぱり夢じゃないんだ』なんてわたし、ぜったいに言わないわ。だって、夢でもそうでなくっとも、すてきなお話しだったらいつまでも見ていたいもの」
 菖蒲は体を思いきりのばし、青空を雲と一緒(いっしょ)に丸ごとすいこみました。
「アヤメ、あいつからの伝言(でんごん)だ。風呂の湯をわかしておいた。そこに新しい服も置いてある。着がえたら庭にこい」
 居間(いま)でイスにすわるモルトはそう言ってあいさつもせず、外へ走り去ってしまいました。
「そっか、おしば……」菖蒲ははっとなり、すぐ口に手をあてます。
 ラベンダーの(かお)るサニタリールームは花柄(はながら)のトルコタイルでいろどられ、(しん)ちゅう蛇口(じゃぐち)のついた洗面台と奥のバスルームには白くてなめらかな卵型のバスタブが見えます。
「まあ、なんてすてきなのかしら」菖蒲は声をあげ、すぐに服をぬいで色とりどりの花を()かべた湯につかります。「ジャスミンのいいにおい。今までで最高のお風呂ね」
 ()(かさ)なるふわふわのタオルを広げ、ぬれた体をふいて服を着がえるとすっかり気分もよくなり、軽やかな足どりで庭にむかいました。
 庭の()(つじ)のちょうどまんなかに立つガゼボにグレエンとモルトは待っていました。ダマスク()りのテーブルリネンがしかれた丸テーブルには焼きたてのパンのかごと野菜スープ、プレートにはオムレツとサラダ、ピンクのティーポットまでならべてあります。
 つばの広い白いぼうしをかぶり、レースのワンピースの菖蒲はふたりの前でくるりとまわり、グレエンは自然と優しい農夫(のうふ)の顔になります。それを見たモルトは大きなせきばらいをします。
「服はぴったりだったな。でもぼうしは少しだけ大きいか」
 グレエンはつっけんどんにそう言って立ちあがり、菖蒲のイスを引きます。菖蒲はお(れい)をしようと口を動かしますが、グレエンは大きなせきばらいをします。
「にゃんだアヤメ、もう芝居(しばい)をわす……」横やりをいれようとしたモルトに、菖蒲とグレエンは大きなせきばらいをしました。
 それからみんなで食卓(しょくたく)をかこみ、美しい庭をながめながら静かにおいしい朝食とお茶まで楽しみます。
 食事を終えて、グレエンは菖蒲を近くの畑へ連れ、草花や果物(くだもの)、野菜についていろいろと教えます。図書館の本にもない新しい植物に菖蒲の質問は止まりません。菖蒲は知らないことを学ぶのが大好きだったのです。
「ご主人さま。あちらに広がる小麦畑はなにもしないのですか?」菖蒲は最初に落ちてきた納屋(なや)のほうを見て言いました。
「ああ、あそこは気にしなくていい」と、グレエンは少し言葉につまりながら答えます。
「そうですか……」
——すぐにも収穫(しゅうかく)できそうな、たわわに(みの)る小麦畑なのに。——菖蒲はすこしふしぎに思いますが、目の前のあまりに楽しいお仕事に、すっかり忘れてしまいました。
 夕食後、農夫(のうふ)は白馬が脱走(だっそう)していないか、馬小屋の見まわりをするよう菖蒲に命令します。農具(のうぐ)にまぎれた青い剣をさりげなく手に持つとみんな集まり、馬小屋会議の始まりです。
「むかし、ひとつの大きな国がありました」まず、アルビレオが語ります。「()()べる強大な王の支配によって、領域(せかい)各地に高層建築(こうそうけんちく)乱立(らんりつ)し、大勢(おおぜい)の人を瞬時(しゅんじ)に運ぶための輸送技術(ゆそうぎじゅつ)()りめぐらされた通信網(つうしんもう)など、生活を(ゆた)かにする技術(ぎじゅつ)はまたたく()進歩(しんぽ)をとげました。しかし同時に〝不信〟という種もまきました。小さな(うたが)いは根を広げ、やがてゆがんだ()をだします。それぞれの〝根拠(こんきょ)〟を主張(しゅちょう)し、それぞれの〝本当〟をふりかざします。結果として都市には城壁(じょうへき)が、家にはカギがかけられるようになりました」
「そのような時、わたしたちの祖先(そせん)ある(・・)秘密(ひみつ)を知り、だれも知らない山あいにうつり住むようになりました」と、グレエンは言います。
「ある秘密(ひみつ)とはなんですか?」
「王国の繁栄(はんえい)には(うら)がありました。()()べる王は(やみ)、つまりあの影と手を組んでいたのです。しかし長くはつづかなかった」
「たったひとつの(うそ)から人々の調和(ちょうわ)は失われ、血を血で洗う、みにくい戦争は領域(せかい)をまきこみ、やがて全土に荒廃(こうはい)をもたらしました。この領域(せかい)栄枯盛衰(えいこせいすい)の歴史です」と、アルビレオは言います。
「おれの国も戦争でバラバラに……」モルトは悲しげに言いました。「約束が力をもったのはそれからさ」
 菖蒲はモルトを抱き上げてほおをよせ、『()しわらになった王子さま』のお話しをみんなに聞かせました。
「なるほど、そんなことが……」グレエンは少し考えてから言います。「わたしが風車(ふうしゃ)の地下に行った時は、なんでもない倉庫(そうこ)に赤い指輪(ゆびわ)をかけたわら(・・)(たば)と青い剣しかなかった」
「でも、わたしが王子さまを置いてきたのはお城の王座よ」と、菖蒲は言います。
「おそらく」グレエンはあごに手をあてます。「王子がわらになったのはアヤメさま、あなたと関係があるのかもしれない」
「王子さまと一度も会ったことも話したこともないのに?」と、菖蒲はおどろきます。
昨日(きのう)、約束の力について話しましたね」と、アルビレオは言います。「青い剣はアヤメさまが手にすると特別な力を発揮(はっき)します。ということはもしかすると王子はアヤメさまも(まじ)えた大きな約束をだれかとしたのではないでしょうか。それでわら(・・)になった」
「そうか」と、モルトは(あい)づちを打ちます。「だからアヤメさまが風車(ふうしゃ)の地下にいくと王の()につにゃがるってわけか」
 しかし肝心(かんじん)の菖蒲はうつむいてしまいます。
「わたし、王子さまをもどす方法なんて知らないわ、それに王子さまはなぜわたしを知っていたのかしら」
「知らないといえば、ひとつ気になるんだ」グレエンはモルトの目を見て言います。「ヘレムなんて名の子ども、山あいの国にいたか?」

興廃の丘

興廃の丘

 最初の馬小屋会議からしばらく()ち、田舎(いなか)のくらしになれ始めたころ。
 朝はやく、ひだつきのエプロンドレス姿の菖蒲はブリキじょうろを手に、つるバラのアーチをくぐって庭のアガパンサスにあいさつをします。パンジーひとつひとつに名前をつけてみたり、庭のガゼボのそばに()えるお気にいりのギンバイカの香りにつつまれながら、つんだペパーミントでハーブティーを飲むことも楽しみです。庭のお手入れを()えると食事の準備(じゅんび)に家のおそうじ、服の洗濯(せんたく)まだ大いそがしです。
 グレエンやモルト、アルビレオは、いつも明るくほがらかな菖蒲を大好きになりました。もちろん〝観客(かんきゃく)のいない芝居(しばい)〟は好評(こうひょう)上演中(じょうえんちゅう)で、菖蒲は主人の信頼(しんらい)を得る、ものわかりのよい召使(めしつか)いとなっていました。
 馬小屋会議は週に一度、日曜日の夜に開かれます。しかし会議は平行線のまま、どうしても王子さまをもどす方法がわからず、闇を打ちやぶるための作戦を立てられません。
 あれから菖蒲は風車(ふうしゃ)に近づきませんでした。闇に気づかれるかもしれませんし、今はグレエンのそばが一番安全だと考えたからです。でもひとつわかったのは、風のない日も風車(ふうしゃ)は仕事を休まずまわるということです。大きな時計がチックタクと時をきざむように。
 昼下がり、ティータイムに呼ぶため、菖蒲は畑にむかいます。するとグレエンはモルトと空を流れる雲を見つめていました。()らすその眼は農夫(のうふ)ではなく、まるで城塞(じょうさい)見張(みは)りをする雄々(おお)しい戦士でした。菖蒲はグレエンが時々そうするのを知っていましたが、今日はずいぶんと長いものですから、そばにトコトコ近づいて顔をあげてみます。
「ご主人さま、お天気変わりそうですか?」
「よし!」グレエンはパチンパチンと大きく手をたたき、菖蒲はびくりとします。「いつもよくはたらくアヤメへのごほうびに、日曜日はみんなでとっておきの丘へピクニックにでかけよう」
「とっておき! なんてすてきな言葉なの!」
 天気などすっかり忘れ、菖蒲はうれしそうにはしゃぎます。今まで闇に(おそ)われるかもしれないと家のまわりしか自由に歩けませんでした。でもほんとうは小麦畑のむこうがどうなっているのか、知りたいと思っていたのです。
 ピクニック前日の夜。あまりのわくわくに菖蒲の目はぱっちり(ひら)いて、まっ暗な天井(てんじょう)をいつまでもうつしていました。
「ねえ知ってる? 楽しみは楽しみにしている時がいちばん楽しいのよ、アヤメ」
 もうひとりのアヤメは寝てしまったのでしょうか、部屋はしんと静まり、そばで丸まっているモルトのかすかな寝息(ねいき)まで聞こえそうです。青白い月明かりはレースのカーテンをぬけて(ゆか)(まど)の形をぼんやりえがき、ときおりゆらゆらとすきま風にゆられ、光と影がワルツを(おど)っているようでした。菖蒲は頭を起こしてダンスをながめ、過ぎてしまった今日を思いめぐらしていました。
 コツンコツン。誰か窓ガラスをたたいたのか、それとも小石でもあたったのでしょうか。菖蒲はモルトを起こさないようにそおっとベッドから離れ、そばにかけたカーディガンをはおり、外の様子(ようす)をのぞきます。夜空をくりぬく、まん丸の月に()らされた庭はすやすや眠っていました。
「気のせい、だったのかしら」
 その時、ガゼボのむこうから影絵(かげえ)がひょっこりあらわれ、菖蒲は目で()いかけます。
「わたしは菖蒲。あなたはだれ?」
 ひんやりした空気にちぢこむ菖蒲は、前に立つ影をじっと見つめていました。影は月明かりに照らされた少年のかたちではなく、少年そのものが影だったのです。()(むらさき)色の長い(かみ)、左右の(ひとみ)に一点の星が(かがや)く美しい顔立ちの少年は菖蒲など気にせず、地面の土にえがいた丸をぴょんぴょん飛んでいました。
「けーんけーん、ぱっ」菖蒲は声をだして影のあとにつづきます。
「ねえ、これだけじゃかんたんすぎよ。わたしがもっとむずかしくしてあげる」そう言うと棒切(ぼうき)れで丸をいくつか()きたします。
 少年は菖蒲の作った丸を器用にこなし、こんどは少年が丸をふやします。(だま)ってけんけんぱを交互(こうご)にくり返し、ついにバランスをくずした菖蒲はつまずいてしまいます。
「あーあ、わたしの負け。でも楽しかったわ。おやすみなさい」
 菖蒲は少年に手をふって家に帰ろうとします。
「わたしの名はイシュ。父を待っている」
 背後(はいご)から聞こえる悲しみをまとったはかなく()んだ声に思わずふり返ると、そこにはもう誰もいませんでした。

 とっておきの日は青空で風もおだやかです。花柄(はながら)チュニックにカプリパンツ姿で庭の仕事をいつもより早めにすませます。大きなバスケットを持って、菖蒲とグレエンとモルト、それにアルビレオも連れてピクニックに出発です。
 小麦畑のあいだにのびる小径(こみち)を進むと、背にある風車(ふうしゃ)は遠くになり、やがて消え、前方に整然(せいぜん)とならぶ黄緑(きみどり)色のポプラは見えてきます。ポプラ並木(なみき)の先には、くるぶしほどある深さの小川がせせらいでいました。
 グレエンはてらてら(かがや)く川のむこうに見える雑木林(ぞうきばやし)(ゆび)さしたので菖蒲はくつ(・・)をぬぎ、流れる水に足をつけます。目のさめるほどひんやり冷たく、「ひゃっ」と声をあげ、あわてて対岸(たいがん)へわたります。美しいシラカンバの林にさす()もれ()はモザイクのようにしめった土をてらし、夜冷えた空気をあたためるため、うっすら蒸気(じょうき)をあげていました。
 プチプチプチ、ポキポキポキ。地面に落ちる木の実や枝を足でふみつける音は、しずかな林になんともここちよいリズムをあたえ、気分のよくなった菖蒲は歌を歌いはじめました。

  きまま きまま ネコはいつもきまま
  きまま きまま 風はいつもきまま
  きまま きまま 空はいつもきまま
  きまま きまま 草はいつもきまま

「なんだその歌?」グレエンは首をかしげます。
「おれのつくった歌さ。気ままにゃものを考えて歌うんだ。にゃんでもいい、そうすればずっと歌えるだろ?」モルトはいかにも偉大(いだい)な作曲家のように自信たっぷりに言います。
「庭で水やりをしていると、わたしのとなりでいっつも歌うんですもの! 耳にのこっちゃった」
「つまらない歌詞(かし)だなぁ」と、グレエンはあきれます。
「だからいいのさグレエン。かこくにゃ労働(ろうどう)には、にゃんでもない歌を歌うと気がまぎれる」
「モルト、おまえは菖蒲のそばにいるだけじゃないか」
「それはちがうグレエン、オレはアヤメが逃げないよう目をひからせているのさ」
「ずいぶんのんきなもんだ。でもアヤメはもう逃げないだろうし、明日からオレのそばで仕事するかい? モルトくん」
「ご主人さま、なんていい考えなんでしょう! そうしていただければ、わたしはもうへんな歌になやまされずにすみますわ」菖蒲はいたずらっぽく言います。
「きまま きまま ネコはきまま……」
 モルトはササっとみんなの先頭に走り、わざとらしくしっぽをふります。
「まあ! 知らんぷりして!」菖蒲は目を大きくして笑います。
 闇に監視(かんし)されているというのに、こんな楽しそうにしてよいのでしょうか。じつはこれも芝居(しばい)で、『農家の休日』というひとつの場面だったのです。
 シラカンバの林をぬけた先はあたりいちめん、風にそよぐ草原がどこまでも広がっていました。
「とっておきの場所、興廃(こうはい)の丘に到着(とうちゃく)だ」と、グレエンは言います。
「なぜ興廃(こうはい)なんですか?」菖蒲は不思議(ふしぎ)そうに言います。
「この丘はむかし、高い城壁(じょうへき)にかこまれた都市が建てられ、大きな戦争によりほろびた。残ったのはアリ一匹住めないほどの(けが)れた土壌(どじょう)だけで、今はまだ眠りについている土地なんだ」
「信じられない……こんなすてきな丘で戦争があったなんて」菖蒲はまゆをよせ、なびく(かみ)に手をあてます。
「……(つま)はここで闇に()まれた」グレエンは遠い目で話します。「あの日、いつものようにふたりでこの景色をながめていた。とつぜん、空から黒い大蛇(だいじゃ)(おそ)ってきて、リリィの手をつかみ逃げようとしたのに、彼女はわたしの手をふりほどいて大蛇(だいじゃ)に立ちむかっていった。きっとリリィは覚悟(かくご)していたのだろう」
 リリィ。菖蒲はすぐにわかりました。寝室(しんしつ)のポストカード立てにあった女の人です。
風車(ふうしゃ)や小麦畑、そしてあの家の秘密(ひみつ)について今晩(こんばん)、最後の馬小屋会議でつたえるとしよう」
 グレエンの言葉は終幕(しゅうまく)予告(よこく)をつたえ、菖蒲はあまりのさびしさに、なにもこたえられませんでした。
「おーい、おふたりさん。ぼけっとしてにゃいで早くランチにしよう!」
 遠くからモルトが呼びかけるとグレエンは菖蒲の顔をのぞいてにこりと笑い、菖蒲を軽々と(かた)に乗せて走ります。
 みんな集まってピクニックシートを広げ、バスケットからコップやお皿を取りだせばランチタイムのはじまりです。グレエンは野菜のサンドイッチをほおばり「おいしい」といくつも食べました。
 菖蒲謹製(きんせい)サンドイッチはもちろん食パンから手作りです。粉やイーストをまぜあわせてぬるま湯をいれ、まとまったならバターをもみこみ生地をこねこね。発酵(はっこう)させて生地(きじ)をくるくる丸め、四角(しかく)(かた)に入れてもう一度()かせてから石窯(いしがま)で焼きます。なんどやってもうまくふくらまず、カチカチの石っころパンも、今ではふっくらと焼きあげられるようになりました。それから庭でとれたきゅうりやトマト、ふわふわスクランブルエッグをパンにはさみます。もちろんマヨネーズソースにマスタードも(わす)れずに。チーズをこんがり焼いたジャガイモのグラタンはグレエンの大好物です。グレエンやモルト、アルビレオだって菖蒲の料理をいつもたくさんほめてくれるのです。失敗(しっぱい)した時はみんなで大笑いします。菖蒲はうれしくて、なにより楽しくて、もっともっとおいしい食事を作ろうとがんばりました。
 デザートのフルーツまで食べたあとは乗馬です。アルビレオに乗れるのは主人の王子さまだけですが、特別にゆるしてくれました。
 グレエンは菖蒲を持ちあげ白馬の背にのせます。まるでソファのようにふかふかな乗り心地(ごこち)で、かけだすとまわりの景色はひゅっとうしろに流れ、あっという()にグレエンは遠くにいました。
「きっと、アルビレオには見えない(つばさ)があるのね。だってふんわり()いているみたいなんですもの」
 菖蒲はそう言うと、アルビレオが笑います。
「わたしの父祖(ふそ)は天をかけていたと聞きます。でもアヤメさま、ほかの馬に安易(あんい)にまたがってはなりませんよ。かならず痛い思いをしますから」
 シロツメクサのかんむりをグレエンの頭にのせて王さまごっこもしました。お城でのくらしにたいくつしていたアヤメ姫を白馬のアルビレオにまたがる騎士(きし)グレエンが冒険(ぼうけん)につれだすお話です。しかしモルトだけは不機嫌(ふきげん)そうに言います。
「ちょっと待て、にゃんでオレは従者役(じゅうしゃやく)にゃんだよ!」
 ほんとうに忘れられないピクニックになりました。菖蒲はこんなに楽しいのならいつまでもずっとずっと続けばいいのに、と思ったのです。しかし、わかれはむかえるのではなく、やってくるものだと、その夜に知ることになります。

王子さまの約束

王子さまの約束

 菖蒲はこの領域(せかい)ふたつ(・・・)の悲しい夢を見ました。ひとつめ(・・・・)は、興廃(こうはい)の丘へピクニックにでかけた日の夜です。
 一本のリンゴの木がみるみるうちにしおれてゆきます。菖蒲は()れないよう懸命(けんめい)に水をやりますが、どうしてもうまくいきません。リンゴの木にお願いしても、()いてやっても、なでてもです。苦しむリンゴの木をながめ、胸をおさえ、ただ涙を流すしかできないのです。
 ついにリンゴの木は(たお)れて(ちり)となり、声が聞こえてきます。
「娘よ。どんなに()うても、おまえはたった一本のリンゴの木ですら助けることはできない」
 そこで目を()まします。うす(ぐら)天井(てんじょう)をぼんやりながめ、(とびら)のない中庭を思いだしました。
「わたしのもとに来て」
——王子さまが呼んでいる。——菖蒲はベッドからすべりおり、着がえて家を飛びだします。
「ここはどこなの……」
 あまりの光景(こうけい)に菖蒲は絶句(ぜっく)します。領域(せかい)は闇に(おお)われ、満点の星空はどこにもありません。赤黒に()まる、みにくい大蛇(だいじゃ)はあたりをうねり、そこかしこに聞こえる断末魔(だんまつま)(さけ)びや慟哭(どうこく)、ときの声は菖蒲の耳奥(みみおく)をかきまぜます。まるでおぞましい戦争の渦中(かちゅう)(ほう)りだされたようです。
 土ぼこりを()いあげ、地面をゆらす軍隊(ぐんたい)の足音に火薬(かやく)と鉄、じっとりした血の臭気(しゅうき)(はな)にまとわりつき、菖蒲は()()をもよおして両手で口をおさえます。
 一瞬(いっしゅん)、こちらをギロリとにらみつける強い視線(しせん)。肉食動物が今にもおそいかかろうとする恐怖(きょうふ)にとらわれ、逃げなければ、と、気はあせるも、おそろしさに足はすくみ、体がまったくいうことを聞きません。菖蒲のすぐそばで口をいっぱいに開く大蛇(だいじゃ)は、するどい(きば)先端(せんたん)から血をしたたらせ、青白(あおじろ)い手のような(した)で菖蒲の首をしめあげると、ずんずん(せま)ります。
 もだえる菖蒲は全身を緊張(きんちょう)させ、目をギュッとさせたその時、小麦畑の方角(ほうがく)から青い閃光(せんこう)が一直線に大蛇(だいじゃ)の赤い()()し通し、菖蒲をつつみます!
「走れ! 走れ!」身をよじる大蛇(だいじゃ)のむこうに立つ戦士は(さけ)びます。
「グレエン!」
 ふり落とされた菖蒲は、グレエンの持つ青く光る剣の()ししめす風車(ふうしゃ)目がけ、夜陰(やいん)を切って一心不乱(いっしんふらん)にひたすら()けます。
 なんとか風車(ふうしゃ)に飛びこみ、思いきり(とびら)()めると()にしてよりかかります。(いき)をあげ、ひたいからこぼれるつめたい(あせ)をぬぐい、悪夢から遠ざかるようによろよろと奥の階段へ近づきます。
「アヤメさま」
 菖蒲はおどろいて(かた)をびくりとさせ、声のするほうに体をひねります。
「モルト!」菖蒲は(なみだ)をポロポロこぼし、「グレエンが……グレエンが! わたし、どうしよう!」
「アヤメさま、どうか落ちついて。グレエンには約束の青い剣があります。それよりこれを」
 モルトはガーネットのような赤い指輪(ゆびわ)のついた金の首かざりをくわえていました。
「王子さまの指輪(ゆびわ)。なぜわたしに?」菖蒲は目をぬぐい、たずねました。
「時はつきました。闇は山あいの国を、いいえ、この領域(せかい)を、そしてアヤメさまを消そうとしています」
「でもわたしたち、気づかれないように芝居(しばい)を!」
 モルトは首を横にふります。
「あれは時間かせぎほどのまやかし。すでに闇はアヤメさまに気づいています。ここにいればめちゃくちゃにされるでしょう。あの闇は冷酷無比(れいこくむひ)です」
「そんな……」
「よくお聞きください。おれたちはアヤメさまにすべてをたくします。お願いです、()しわらの王子をどうか、どうかもとの姿にもどしてください。そうすれば闇を打ちやぶることができるはず。これはグレエンからの言伝(ことづて)です。〝赤い指輪はきっとアヤメさまの(やく)に立つでしょう。ただしお気をつけください。指輪の大きな力と引き()えに、使う者は大切な思い出を(わす)れさせる【忘失(ぼうしつ)の約束】を守らなければなりません〟」
 菖蒲は首かざりを身につけてモルトを()きあげます。その毛は逆立(さかだ)ち、わなわなふるえていました。
「おれはこれから王にすべてを伝えるため、山あいの国にもどります。でも、生きて帰れるかどうか」
「わたしの大好きなモルト。あなたと会えてほんとうによかった。わたしは約束する。王子さまをもとの姿(すがた)にもどし、帰ってきます。それまで元気で待っていて」
 菖蒲はモルトとひたいを合わせ、目を閉じ、ふっと(いき)をふきかけます。するとこわばる体はゆるみ、いつものおだやかなモルトにもどりました。
「アヤメさま、感謝(かんしゃ)します。まいにち不安でした。おれたちは無力でしたから。でも、アヤメさまとの生活は闇を忘れてしまうほど楽しく、きらきらと(かがや)く日々を思いだしました。アヤメさまはおれたちのきらめく星、雲の切れ()からふりそそぐ太陽の光です。約束します。アヤメさまが帰ってくるまで信じて待つ、と」
 モルトは菖蒲の手からするりと(はな)れ、外の闇に走り()りました。モルトを見送った菖蒲は闇に()みこまれなかった理由を考えながら地下にある王の()にむかいます。
——もし、干しわらになった王子さまにわたしが関係しているのなら、闇はまっ先にわたしを(おそ)っていたはず。でも黒い大蛇(だいじゃ)が口を()けた時、青い剣はわたしを守った。つまり、なにもしなかったのではなく、なにもできなかった?——
 王の()は王子さまをもどしたあの日からピタリと時間が止まっているようでした。菖蒲は玉座(ぎょくざ)につづく石階段をのぼり、()かりに()らされる王子さまを優しく()きます。
「わたしの名はアヤメ。あなたとあなたのお友だちを助けたいの。どうか教えて、あなたの約束を」
 王子さまの耳もとでささやくと、首かざりについた赤い宝石の指輪は(かがやき)きだし、あたりは強い光にみたされました。
 燭台(しょくだい)の炎はゆらゆらゆれ、目の前で王座にすわる黒く燃える影と、青い剣をかまえた小麦色の(かみ)の少年が見えます。
——————
「むかし、貴様(きさま)の国は我とひとつの契約(けいやく)を結んだ。それは国の安寧(あんねい)と引きかえに王の子ひとり、国から()いだすこと。しかし追放(ついほう)する子になにも伝えてはならない。また子は自発的(じはつてき)に国をでなければならない。そのひとりが()しわらの王子、貴様(きさま)だ」
 燃える影の言葉に、王子さまは不適(ふてき)()みをうかべてこう答えました。
「そう、そのためわたしはここにきた。つまりおまえを打ちやぶるために。真実を伝えられずとも大義(たいぎ)()せる。忘れたか()()べる王よ」
「なんだと」
「よく聞け! わたしは今からおまえとひとつの約束をする。()しわらとなり、かわききったわたしのくちびるを、この領域(せかい)のものではないひとりの少女が心の井戸から()んだ水によってうるおすであろう。その時、青き剣はおまえを打ちやぶる力をえる」
「はっはっはっは!」燃える影は身をのりだし、あざ笑います。「ついに気がふれたな。その女はどうして干しわらの貴様(きさま)がヒトだと、まして王子などとわかるのだ。仮に知ったとて、貴様(きさま)のためにわざわざありもしない心の井戸とやらの水をあたえるというのか」
 王子さまはいよいよ顔を(かがや)かせ、王座のそばに立つ菖蒲を見て、目を(ほそ)めます。
「不可能だからこそ、この約束には大きな力があるのだ。どうした、(うたが)いにのまれ、信じるのをやめた臆病(おくびょう)な王よ、おびえたのか?」
「なんたる侮蔑(ぶべつ)(われ)がなにものか知ってのことか、追放(ついほう)された餓鬼(がき)めが!」影は黒い炎をごおごお燃やし、王子さまを今にも食いつくさんばかりです。「よかろう! 挑発(ちょうはつ)のった。しかし約束が果たされぬ刹那(せつな)、この領域(せかい)も女の領域(せかい)もすべて、業火(ごうか)で滅ぼしたやしてくれるわ。さあ今すぐ()しわらとなれ!」
——————
 王の間はふたたび眠りについたようにうす暗く、指輪(ゆびわ)はもとの赤色にもどっていました。
「たしかにあなたの物語(おはなし)にわたしが、わたしがいたわ!」
 おどろく菖蒲の背後(はいご)では、さきほど入ってきた扉がきしんだ音を立てて開きます。ふり返ればなんと、下に続く階段に変わっているではありませんか!
 不自然な本の空白(くうはく)、図書館の(まど)から見えた扉のない中庭、そして王子さまが闇と(かわ)わした【干しわらの約束】。それぞれパズルのピースはつながりました。
 菖蒲は玉座(ぎょくざ)をあとに、階段へと消えます。
 こうして、()しわらになった王子さまを助けるための長い長い旅は始まりました。

通路の消失点

通路の消失点

 どこまでもまっ白な壁の通路には(まど)等間隔(とうかんかく)にならんでいます。あまりの長さに先は見えません。いったいどれくらいあるのだろう、と菖蒲は思います。
 まるで(ちゅう)()いているような白い窓にガラスはなく、のぞいてみても、外に広がるのはやはり白でした。
 しばらく歩いていると、うしろにあった階段もだんだん遠くなって、やがて白とまじり合い消えてしまいます。終わりのない通路の中心はひとつの黒い点のようで、こちらにむかっていつまでも大きくなることはありません。
 菖蒲は目をこらして中心点をじいっと見つめてみると、なんだか気持ち悪くなり、思わず目を右にそむけます。
 すると、ちいさな文字が(まど)の下に書かれていて、菖蒲はかがんで文字を読みました。

 「ミエルモノガサキデワナイ
   ケレドモミエナクバサキニワユケナイ」

 菖蒲は目をゴシゴシとこすり、目をつぶってから右目だけ開けて通路の焦点(しょうてん)を見ると、左側に点があります。こんどは左目だけを()けると、右側に点があるのです。両目で見ると点は左右にひとつずつ、ゆっくりと真ん中によって、かさなりました。それから通路の点を手でふさぎます。
「見えるものが先ではない。けれど見えなくば先にはゆけぬぞ、アヤメ」と、菖蒲は物知り老人の声色(こわいろ)で目を(おお)いながらふらふらと歩きました。
 ゴチン! あたりにひびくにぶい音。なにか(かた)いものにぶつかった菖蒲の頭は星がチカチカまたたきます。
「いったああい。んっもう!」
 ずきずきするおでこをおさえ、うらめしそうに顔をあげると通路の消失点(しょうしつてん)はなく、木の(とびら)が立ちはだかっています。
「『前方注意』をそえてほしいわね。まったく!」
 菖蒲はぶつぶつもんくを言いながら、(とびら)()けて中に入りました。

雨にぬれる教室

雨にぬれる教室

 (まど)の外は雨でした。コンクリートのしめったにおいのする通路には、いくつかならぶ部屋と、それぞれ上方に数字のない室名札(しつめいふだ)がつき出ています。まるでどこか知らない小学校に迷いこんだようで、ちょっぴりドキドキした菖蒲は、てきとうに()いたクリーム色の引き()からそっと顔をだしてのぞきます。
「だれもいないわね。おやすみかしら。それとも廃校(はいこう)だったりして」
 ぶるぶるっと(かた)をふるわせ、(となり)、また(となり)と順番に教室をのぞき、水たまりのある部屋で足を止めました。
 スチール丸パイプのフレームに木の座面(ざめん)と背、天板(てんばん)のつくえとイスは六列五段に整然(せいぜん)とならび、制服(せいふく)を着た男の子や女の子の大きなビスク・ドールがそれぞれカサを広げ、座席(ざせき)にすわっています。しかも天井(てんじょう)はぬけ落ちたようにまるでなく、教室全体は雨にぬれていました。
——ただでさえ雨天(うてん)の学校はジメジメして(ゆう)うつなのに、この教室はまいにちだなんて。——見ているだけで菖蒲の気分は暗くなります。
 するとひたひた廊下(ろうか)を歩く足音がこちらに近づきます。グレーチェックのスリーピースに濃紫(こむらさき)色のネクタイを着けたフクロウは黒いこうもりカサを手に(かた)をそびやかし、菖蒲のまえにあらわれました。
「ほっほう、きみは転校生(てんこうせい)かね」
「こんにちは。わたしは転校生(てんこうせい)ではありません、フクロウさん」
「ほっほう、きみ、わたしのことは先生と()びたまえ。それに転校生(てんこうせい)でなければ、なぜここにいるのかね。さては新しい学校がいやでウソをついているのではあるまい」と言って、菖蒲のこたえも聞かずに教室へ連れていきます。しかも雨にぬれたあの教室に。
「ほっほう、ところできみ、カサは持ってきたかね?」
「いいえ先生。だって教室にカサは必要ありませんもの」と、菖蒲ははっきり言います。
「ホッホー! 横着(おうちゃく)生徒(せいと)め。人生にむだなものはない。社会ではつねに(そな)えをせよ!」と、フクロウ先生は半分に閉じた目で、さしていたカサを()します。
「ありがとうございます」
「ほっほう、いいからはやく黒板(こくばん)の前に」
 バケツの水をこぼしたような(ゆか)はつるつるとすべり、菖蒲は手足をじたばた、(こし)をふりふり、やっと教壇(きょうだん)にたどりつきます。先に待つフクロウ先生はぎろりと冷たい視線を菖蒲にむけます。
「ほっほう、生徒(せいと)諸君(しょくん)。今日からこのクラスに転校(てんこう)してきた生徒(せいと)だ」と、フクロウ先生はビスク・ドール生徒(せいと)に言います。「きみ、時間はない。手短(てみじか)自己紹介(じこしょうかい)を」
「こんにちは。わたしはアヤメです。よろしくおねがいします」
 もちろん、教室内のビスク・ドール生徒(せいと)はなにも返事をしません。
「ほっほう。アヤメくんの席は(まど)ぎわ、前から三番目へ」と、フクロウ先生は空席(くうせき)()します。「ほかの(つくえ)にけっしてふれぬように! 席のずれは社会のみだれ!」
 一礼(いちれい)した菖蒲は言われたとおり席にじたばたとむかい、びしょぬれのイスに(こし)かけると、おしりはじっとりしめり、体じゅうぞわぞわします。
「うわあ、これまでの学校生活で、いっちばん最低な日がたった今、更新(こうしん)されたわ」
「ほっほう、さて生徒(せいと)諸君(しょくん)()に人生はふりやまぬ雨のようである。そのために教養(きょうよう)をもってたちむかい、また……」
 フクロウ先生のつまらない授業(じゅぎょう)はザーザー、パチンパチンと(ゆか)(つくえ)、カサにうちつける雨音(あまおと)でほとんど聞こえませんし、雨水は服にしみこみ、菖蒲のがまんもついに限界(げんかい)をこえます。
 菖蒲は学校であまり目立ちませんでしたし、授業(じゅぎょう)も静かに聞く、おとなしい女の子でしたが、あまりの不快感(ふかいかん)に、なにか言ってやらなければと、手をあげ起立(きりつ)します。
「先生、雨の音でなにも聞こえません。それにカサをさしていても雨にぬれてしまいます。となりの教室に移動(いどう)できませんか」
 フクロウ先生は、けげんそうに菖蒲を見てこう言いました。
「ほっほう。わたしはきみに意見(いけん)をもとめたおぼえはないし、立ちあがるよう指示(しじ)もしていないのだが」
「でも……」
「ほっほう、わたしはね、〝でも〟という、言いわけがましい逆説(ぎゃくせつ)接続詞(せつぞくし)がこの世でもっともいとわしい(・・・・・)言葉なのだよ。わかるかね」
「で……先生の声が聞こえなければ、みんなだれも授業(じゅぎょう)についていけません」
「ほっほう。生徒(せいと)諸君(しょくん)、どう思うかね?」
 ビスク・ドールの生徒(せいと)たちは文句(もんく)ひとつ言わず、まるで雨音(あまおと)がヒソヒソ(ばな)しをしているようです。
「ほっほう、(だれ)異論(いろん)はないようだが?」
「そんなのむちゃくちゃよ。だってみんなしゃべれないもの」
「ほっほう。アヤメくんは、はなはだ社会のルールをわかっていないようだ」フクロウ先生はあざけるような目で菖蒲を見ます。「まぎれもない事実(じじつ)として、雨のふる教室では、みな一様(いちよう)にカサをもち授業(じゅぎょう)を受ける。また先生はわたしで、きみは生徒(せいと)だ。そして、わたしはきみに発言(はつげん)するようにも、立つようにも指示(しじ)していない。さらにきみのほか、どの生徒(せいと)不満(ふまん)はない。ゆえにこれは通念(モラル)である。それにもかかわらず、わたしの授業(じゅぎょう)妨害(ぼうがい)しつづけている。不良生徒め!」
「まあ! しつれいね!」と、菖蒲は声をあげます。
 フクロウ先生は気にせず忠実(ちゅうじつ)生徒(せいと)たちにむけ、いかにも大げさに身ぶり手ぶりをしながら熱をこめ、大声でまくしたてます。
「ホッホー、生徒(せいと)諸君(しょくん)! ホッホー、こういう無作法(ぶさほう)な不良生徒が法と秩序(ちつじょ)をおびやかすのだ。ホッホー、おのが(ぜん)(あく)他者(たしゃ)強制(きょうせい)し、かつ大通りのまんなかで示威(じい)行為(こうい)をする。ホッホー、たきつけられた火にまきをくべるがごとく主観的批判(しゅかんてきひはん)をくりかえす。ホッホーらもじゅうぶんに気をつけたまえ!」
 菖蒲はほおをふくらませ、ずぶぬれのイスにすわろうとします。
「ホッホー、アヤメくん! 今後二度とわたしの指示(しじ)にそむかないように。わかったのなら返事(へんじ)だけを」
「……はい、ごめんなさい」
「ほっほう。この機会(きかい)社会(しゃかい)のルールがいかに至要(しよう)たるものか、諸君(しょくん)らに教えたいと思う。それをつぎのホッホーに話そう。では休憩(きゅうけい)とする」
 満悦至極(まんえつしごく)のフクロウ先生は物言わぬ生徒(せいと)たちにそう言って、(よう)々と戸をぴしゃりと閉め、教室を出て行きました。
 ベーっと(した)をだした菖蒲は不機嫌(ふきげん)そうに、となりのビスク・ドール女子に耳打ちします。
「ねえ、ひどいと思わない? 人の話もちゃんと聞かないでさ。ホッホー、ホッホーって。でも先生のクセがわかったわよ。ふつうの時は〝ほっほう〟で、興奮(こうふん)すると〝ホッホー〟なの」
 もちろんビスク・ドール女子はビスク・ドールなのでなんにも返ってきません。しかし中から、かすかにチュンチュンという()き声とコツコツたたく音がします。雨のあたる音でしょうか。そうではありません。耳をあてると、たしかにビスク・ドール女子の中から聞こえるのです。
——なにかいる。——菖蒲はカサをさすビスク・ドール女子をゆすります。チュンチュン、コツコツ、チュンチュン、コツコツ。菖蒲はどこかに穴でもあるのかと重たいビスク・ドール女子を動かして上から下までくまなく探ります。すると、ガシャリン! 大きな音は教室中にひびきます。菖蒲は手をすべらせ、ぬれたビスク・ドール女子をゆかに(たお)して粉々(こなごな)(くだ)いてしまったのです。おうちでお皿を落としてわった時のように、どうしようとあせります。しかしもっとおどろいたことに、(こわ)れたビスク・ドール女子の中から一羽のスズメがひょっこりでてきました。
「ちゅんちゅん、助けてくれてありがちゅん。雨宿(あまやど)りのつもりが、突然(とつぜん)だれかに閉じこめられてしまってね。暗いし、遠くでぶきみなさえずりは聞こえるし、ほんとこわかっちゅん」
「はじめまして、わたしはアヤメよ。もしかしてほかにもスズメさんがいるのかしら」
 まさかと思い、こんどはまえの席のビスク・ドール男子を()(たお)してみると、やはり一羽のスズメがいました。
「ちゅんちゅん、助けてくれてありがちゅん。雨宿(あまやど)りのつもりが……」
 菖蒲は最初に助けたスズメと目をあわせ、うなずきます。うしろのビスク・ドール女子にも、そのまたうしろにも、ビスク・ドール生徒(せいと)をわると、スズメが一羽ずつ出てきました。それでカサをほおり()げ、教室中のビスク・ドール生徒(せいと)をかたっぱしからわります。はじめは気がとがめましたが、だんだん気持ちよくなって、これはいいと投げたり蹴ったり踏んづけたり。たいくつな授業(じゅぎょう)と、いやみったらしいフクロウ先生の顔を思いうかべると、よけいに力は(はい)ります。
 菖蒲は助けだした二十九羽のスズメのために広げたカサを教壇(きょうだん)に集めました。
「さてと。これからどうするかよね」と、菖蒲はスズメたちに言います。
「ちゅんちゅん、雨がふっているからぼくたちは飛べないちゅん。どこか()れている空はないかな」
 このままだとフクロウ先生はスズメたちをつかまえてビスク・ドールに閉じこめてしまうでしょう。なにかよい方法はないものか、菖蒲は教壇(きょうだん)のあたりを(さぐ)ります。すると、引きだしに新品の十二色チョークが入った木箱を見つけました。
「これだわ!」
 妙案(みょうあん)をひらめいた菖蒲は王子さまの首かざりから指輪(ゆびわ)をはずして右手の中指にはめると、宝石は炎のように燃えて(かがや)きます。それから「きまま 、きまま 、ネコはいっつもきまま 」と、モルトの歌を口ずさみながら新品のチョークで黒板(こくばん)(みどり)色の草やシロツメクサに青い空、白い雲、遠くには雑木林(ぞうきばやし)(えが)きました。グレエンやモルト、アルビレオとピクニックにでかけた興廃(こうはい)の丘の絵です。
「これはわたしのたいせつな思い出よ。あなたたちにぴったりな青空が広がっているわ」
 菖蒲はいきいきとスズメたちに話します。さっきまで先生はフクロウでしたが、こんどは菖蒲が先生になる番です。
「………それであなたたちが(のぞ)むなら、どうぞ黒板(こくばん)にむかって()ばたいてください」アヤメ先生のすてきな授業(じゅぎょう)にスズメ生徒(せいと)たちはすっかり感心(かんしん)して拍手喝采(はくしゅかっさい)です。
「ちゅんちゅん、ここなら自由に飛ぶことも、あの林に家をつくることだってできる」
「そうだちゅん」
「よし、きめちゅん」
「アヤメ先生、教えてくれてありがちゅん!」
 スズメたちの喜ぶ顔を見たアヤメ先生は安心しました。
「うれしいわ。ひとつ、あなたたちにお(ねが)いがあるの。もしこの絵のどこかでキジ三毛のネコと白い馬と大男の農夫(のうふ)をみかけたら、アヤメは元気だと伝えてもらえる?」
「もちろんアヤメ先生、約束しまちゅん!」
 スズメたちは声をそろえて答え、黒板(こくばん)の絵にむかって元気よく飛びだします。アヤメ先生は手をふり、全員(ぜんいん)卒業(そつぎょう)見届(みとど)けてから指輪(ゆびわ)をはずし、首かざりにもどします。そして学校と友だちをすっかり(わす)れてしまいました。
「ホッホー! アヤメくん、なんてことをしてくれたのだ!」
 教室の入り口でフクロウ先生は顔をまっ()にして、くちばしをわなわなふるわせ立っています。
「フクロウ先生。生徒はみんなぶじに巣立(すだ)っていきました」と、菖蒲は笑顔(えがお)で言いました。
「ホッホー、きみはわたしをバカにしとるのかね」
「いいえ、先生。スズメたちは雨宿(あまやど)りをして大空へ飛び立ちました。みんなかわいい生徒(せいと)です」
「ホッホー、なんてことを。きみは彼らに無責任(むせきにん)な自由をあたえた。いつの世も無知(むち)は社会を(ほろ)ぼすのだ。もし! 捕食者(ほしょくしゃ)にでもねらわれたらどうするのかね。もし! 浅慮(せんりょ)により他者(たしゃ)(きず)つけでもしたら、どう責任(せきにん)をとるつもりなのだ。きみは仮定(かてい)もせずに結論(けつろん)(みちび)くつもりかね!」
「わたしは推測(すいそく)だけでなく可能性(かのうせい)も信じたいのです、フクロウ先生。スズメたちは青空を(ねが)い、飛ぶための(つばさ)をもっています。わたしにはないすばらしい個性(こせい)です。だから発揮(はっき)できる場所(ばしょ)を教えてあげたかっただけなの」
「ほっほう、詭弁(きべん)だな」と、フクロウ先生は()()てるように言います。
「あら、そうかしら。フクロウ先生もほんとうはそうしたいのでしょ?」
 にこりとする菖蒲に首をくるくるまわすフクロウ先生。
「だって、番号のない教室、新品の十二色チョーク、雨にぬれた黒板(こくばん)の前でスーツを着て、どこかで聞いた理屈(りくつ)をこねこね。先生こそなぜ、なれもしないものになろうとするのかしら」
「ホッホー、無礼者(ぶれいもの)!」フクロウの先生は(はね)を大きく広げ、ツバを飛ばしてどなりつけます。「きみのような生徒はいらん。退学(たいがく)だ。即刻(そっこく)出ていきたまえ!」
「さようなら、フクロウ先生」と、菖蒲は手をふって退室(たいしつ)しました。
 ぐちゃぐちゃにみだれた(つくえ)とイス、ちらばるビスク・ドール、教壇(きょうだん)にはめちゃくちゃのカサ。誰もいない教室に残ったのはフクロウ先生と()まない雨音(あまおと)だけです。
 フクロウ先生はついに顔をあげ、黒板(こくばん)の絵をさびしそうにながめました。
「ほっほう。わたしには信じるほどの希望(きぼう)がどれほど残っているのだろう」
 ぽつりとそう言ったフクロウ先生はスーツをぬぎ()て、黒板(こくばん)に飛びました。絵は雨水とともに流れ、消えてなくなります。
 やがて、ふりつづいた雨もやみ、教室ではビスク・ドールのかけらが()にあたってキラキラと、水たまりに青空をうつしていました。

騒々しい法廷

騒々しい法廷

「セイシュクに! セイシュクに!」
 裁判官(さいばんかん)(さわ)がしい法廷(ほうてい)(しず)めようと声をあげます。しかしなかなか話し声はやみません。今、アリの()裁判所(さいばんしょ)では裁判(さいばん)がおこなわれているのです。そのうしろで働きアリたちは今日(きょう)もせわしなく女王アリのために食糧(しょくりょう)や部屋をととのえていました。
 菖蒲は砂をかためた傍聴席(ぼうちょうせき)にすわって裁判(さいばん)のゆくえをぽかんとながめています。なにがおきているのかわかりませんし、そもそもみんな同じ黒いアリで見わけすらつきませんけれど。
 原告(げんこく)らしい集団のうち一匹のアリは裁判長(さいばんちょう)アリにこう(うった)えます。
「わたしはジョオウのためにずっとはたらきつづけたし、これからもそうするつもりだった。それをショクムホウキのヒトコトでかたずけられてたまるものか!」
 その訴えに、ほかの原告(げんこく)アリたちもいっせいに「そうだそうだ!」と、同調(どうちょう)します。
「わたしたちのジョウキョウをまるでリカイせず、いきなりカイコはフトウではないかといっているのだ」
「そうだそうだ!」
 すると被告(ひこく)アリは言いました。
「ではなぜ、まずデンタツアリにつたえなかったのだ。シレイアリのメイレイをまってからコウドウするのがルールではないのか。それをおまえたちハタラキアリはカッテにレツをみだし、ハタラキアリゼンタイのイノチをキケンにさらした。セキニンはヒジョウにおもいとみなされてもなんらフシギはない」
 働きアリ側の弁護(べんご)アリは異議(いぎ)をとなえます。
「コウセンテキなテキにレツをみださずまつ、というのはジメツしろといっているようなもので、クロアリケンポウダイ13ジョウ、コジンのイノチのソンチョウにハンしている。また、ハタラキアリとシレイアリとのタイグウがちがうのもモンダイである。イノチをかけてゼンセンにたつ、ハラタキアリとブルジョアリーというサベツは、クロアリケンポウダイ14ジョウにハンしている」
「そうだそうだ!」後方(こうほう)から原告(げんこく)アリたちの声援(せいえん)
「シッケイな」被告(ひこく)アリはふんっと鼻息(はないき)(あら)くして言います。「ワレワレもジョオウのためにみをササげている」
「しかし、ハタラキアリのリスクとイノチはケイイではないか。キミたちはジョオウのおきにいりだからと、ふんぞりかえっているのではあるまい」
「そうだそうだ!」
「サイバンチョウ! ブジョクザイですぞ!」と、冷静(れいせい)さを()いた被告(ひこく)アリは身をのりだして言います。
「ブジョクといったらキミタチだろう!」と、働きアリ側の弁護(べんご)アリは言います。
「そうだそうだ!」
「いいや、キミたちだ!」
 このような調子(ちょうし)で、法廷内(ほうていない)はいちだんと騒々(そうぞう)しくなります。
「セイシュクに! セイシュクに! ホウテイですぞ。ヒンイをカくことのナきように!」
 裁判官(さいばんかん)アリは木づちをトントンとたたいて静聴(せいちょう)をうながすものの、(さわ)ぎはおさまりません。
 菖蒲はそばで傍聴(ぼうちょう)しているアリに、なぜこんなに(さわ)がしいのかをたずねます。するとアリはこう言いました。
「クビになったハタラキアリが、シュウダンソショウをオこしたのですよ」
「どうして仕事をクビに?」
「ヒエアリキーってやつです。ジョオウのメイレイをスイコウしなかったのがゲンインのようで」
「女王の命令、ですか?」
「ええ。コロニーのジョオウはアタラしいマクラに、ホンというのをショモウされたのです。なんでもチエがつくとか。それでハタラキアリはトショカンへむかったそうですが、ほえたけるキョダイカイブツにオソわれ、イノチからがら、ニげてきたらしいのです」
 菖蒲にはおぼえのある話です。まさか図書館のアリでしょうか。
「ジョオウはオカンムリでハタラキアリゼンインカイコし、ベツのアリをやとうとおおさわぎ。ワレワレアリはコロニーでショクをうしなうと、ルンペンプロレタアリとなってサイシュウショクはムズカしいのです。それに、ジョオウにジキソはできないので、こうしてサイバンショにうったえている、というわけです」
「そんなのおかしいわ。ちょっと命令がうまくいかなかったからって、なにも追い出すまでしなくても」
「いえいえ、このコロニーはまだドウリのあるほうですよ。ほかはソショウをおこせるサイバンショすらないですし、ジョオウのメイレイがスイコウできなければモンドウムヨウでシケイなんてジダイオクれもハナハダしいコロニーもまだケッコウありますから」
「そ、そんな!」菖蒲は目を大きくしておどろきます。アリの世界がそんなにきびしいものだと思っていなかったからです。それにしても、ニンゲンのようにアリのシャカイもなかなかやっかいなもののようです。傍聴(ぼうちょう)アリはさらに説明を続けます。
「ここもムカシはそうしたコロニーだったのですが、プロレタアリによってカイカクしたのですよ。ジダイのながれとでもいうのでしょうか。サイキンはジョウホウカのナガれで、キュウタイイゼンとした、タンジュンなシュジュウカンケイはふるくさいとかんがえる、ワカモノアリもすくなくないようです。ワタシのようなジャーナアリもヒトヤクカっています」
 得意(とくい)げに話す傍聴(ぼうちょう)ジャーナアリの説明はいまいちよくわかりませんでしたが、目の前でおきている裁判(さいばん)は、おそらく菖蒲自身にも関係があると責任を感じましたので、なんとかしようと考えます。それでまず傍聴席(ぼうちょうせき)を立ち、裁判官(さいばんかん)アリにむかって言いました。
「あの〜みなさん、お話しのところすみません」
 いくら声をかけても、みな自分たちの発言(はつげん)夢中(むちゅう)で、菖蒲など見てもいません。
「みなさん! いいですか!」
 ありったけの声が法廷内(ほうていない)にビリビリとひびき、水を打ったように静まると、アリたちの視線(しせん)は菖蒲にむきます。
「たぶんこの裁判(さいばん)、わたしも関係していると思うんですけど」
 一匹の原告(げんこく)アリが菖蒲をじいっと見て、「あぁぁっ! このカイブツです、サイバンチョウ! ワレワレのシゴトをボウガイしたハンニンは!」
「ハンニンミズカらシュッテイしてくるとは、なんてふてぶてしいカイブツだ!」
「ずいぶん失礼(しつれい)な物言いね」犯人(はんにん)だときめつけられた菖蒲はむっとして、「だいたいわたしからすると女王がわるいのよ」。
「ワレワレのジョオウをワルモノあつかいするとは!」裁判官(さいばんかん)アリは強い口調(くちょう)で菖蒲に命じます。「よろしい、ショウゲンダイへ!」
 菖蒲は土の上をずかずかとふみつけるように歩き、砂の証言台(しょうげんだい)にどっしり立ちます。
「ちょうどよかった。わたしはあなたにではなくて女王に言いたいことがあるの。本をまくらにするため、やぶっていいわけないでしょってね。本は読むためにあるの。わかる?」
 アリたちの冷ややかな視線(しせん)。あれだけ(さわ)がしかった法廷内に気まずい空気が流れます。
「なによ、なんでだまってるわけ?」
 裁判官(さいばんかん)アリは二、三回せきばらいをしてから、「いいたいのはそれだけかね?」
「そうよ。だから、そもそも女王の命令がよくないってことよ」
「ハンケツ!」裁判官(さいばんかん)アリはトントンと木づちを強く打ちならします。「ハタラキアリはゼンイン、カイコとする!」
「ちょっ、ちょっと待って。だから言ったでしょ、働きアリさんへの命令がまちがっているの。なんでおかしな判決(はんけつ)になるのよ!」
 裁判官(さいばんかん)アリはあきれたように言います。
「キミのショウゲンはね、ケッテイテキなショウコとなったのだ。このサイバンはメイレイのヨしアしではなく、メイレイイハンかどうかでしかない。もしキミのくだらないシュチョウをとおすならば、ジョオウのメイレイにそむくリユウもできてしまう。そうなったらコロニーゼンタイのキリツはどうなるか。キミはムホウアリのセキニンをとれるのかね?」
「そんな……わたしは……ただ」
「キミのカンガえはシらんし、キミのクニではユルされるのかもしれん。しかしこれイジョウ、ミガッテなセイギをフりかざすのをやめてもらいたい。ワタシだってすきでやっているわけではない。ショウジキなところ、ジダイのチョウリュウだとかにキョウミもないが、チマタでコエをあげるチシキアリのメンドウなシュギシュチョウのおかげで、ワレワレのコロニーもフンキュウしてツカれている。こんなチャバンにツきアうくらいなら、コロニーのカクダイにセイをだしていたほうがどんなにケンゼンか」
 菖蒲は言葉をうしないます。目の前にいる働きアリたちを見るとぬけがらのような表情(ひょうじょう)で、力なく深いため(いき)をつきます。
「おいだされるくらいなら、まだキョッケイがよかった」と、(はたら)きアリはぼそりと言います。
 ひと段落(だんらく)してほっとした裁判官(さいばんかん)アリは大きな声でこう言いました。
「ヘイテイ!」
 あれだけ(さわ)がしかった裁判所(さいばんしょ)には、無職(むしょく)となってしょんぼりするルンペンプロレタアリたちと菖蒲しか残っていません。
「ごめんなさい」菖蒲は(かた)を落として言います。「ぜんぶわたしのせいだわ」
「あやまってもしょうがないさ。たしかにジョオウのメイレイをムシしたのはワレワレだ。あのトキ、にげたのはワレワレのセキニンなのさ」
「ねえ、これからどうするの?」とぼとぼ()ろうとするルンペンプロレタアリたちに菖蒲はたずねます。
「そんなことをききたいのかい? ルンペンプロレタアリがどれほどみじめかクチにしろ、とでも?」
 菖蒲はすこし考えてから、アリたちの丸まった背にこたえました。
「では今からわたしがあなたたちの女王になる」
 足を止め、たがいを見合わせたルンペンプロレタアリたちはあきれたように笑います。
「キミが? コロニーもないくせに! それにジョオウとなってワレワレになにをしろと? きやすめのジョウダンにしては、ずいぶんバカにしているな、まったく」
「あるわ。というより、これから作るの。あなたたちがね」
「ワレワレが? イッタイどこに?」
「それはね」と、菖蒲は自信たっぷりに言います。「わたしの知っている丘に広大(こうだい)な土地があるけど、そこはアリ一匹住めないほど(よご)れているの。あなたたちはそこでコロニーを広げ、きれいにする。仕事の報酬(ほうしゅう)は丘すべてよ。だってだれも住めないんですもの」
「そんなツゴウのいいバショ、ホントウのあるのかい」と、ルンペンプロレタアリたちは(うたが)います。
「もちろん。約束するわ。でも、わたしは前の女王と違い、命令も要求(ようきゅう)もしない女王よ。自分で考えて仕事をしなければならないから、たいへんでしょう。でもあなたたちが(のぞ)むなら、今すぐその場所を紹介(しょうかい)してあげる。どうかしら?」
 ルンペンプロレタアリたちはわらわら集まり、話しあいます。しばらくして代表アリは菖蒲に近づきます。
「ワレワレはまだまだハタラキたいというイヨクがあります。つきまして、イマからあなたをワレワレのジョオウとミトメます」
 そう言うと、ルンペンプロレタアリたちは菖蒲の前に整列(せいれつ)して頭をさげました。
「よかった。交渉成立(こうしょうせいりつ)ね」菖蒲は満足そうにうなずきます。
 アヤメ女王は王子さまの首かざりから指輪(ゆびわ)をはずして右手の人差し指にはめると、宝石は炎のように燃えて(かがや)きます。それから(ゆび)を地面の土にブスリとつきいれ、深い穴ができあがります。アヤメ女王はアリたちに言いました。
「この穴は、とても美しい丘につながっているわ。でもお願いがあるの。あなたたちのように仕事を失ったアリを見かけたなら、優しくむかえて、(なか)よく仕事をしてほしい。けっして(あらそ)わず、だれかに命令したり要求(ようきゅう)してもだめよ。それともし、この丘のどこかでキジ三毛のネコと白い馬と大男の農夫(のうふ)をみかけたら、アヤメは元気だと伝えてもらえる?」
 「ワレワレのあたらしいジョオウ。あなたのコトバ、たしかにタマワりました。ワレワレのようなものたちをカゾクとしてうけいれ、ミナでなかよくシゴトをタッセイし、けっしてあらそったり、メイレイせずヨウキュウもしません。それからジョオウのアイサツをつたえます。かならずヤクソクをまもります」
 アリたちは声をそろえて答え、一列でとっとこ穴に入っていきました。アヤメ女王は手をふり、全員の出発を見(とど)けてから穴を閉じます。そして指輪(ゆびわ)をはずして首かざりにもどすと、育った街のことをすっかり忘れてしまいました。
 だれもいない法廷(ほうてい)のうしろでは、働きアリたちが今日(きょう)もせわしなく、女王アリのために食糧(しょくりょう)や部屋をととのえていました。

通路の消失点Ⅱ

通路の消失点Ⅱ

 どこまでもまっ白な(かべ)通路(つうろ)には(まど)等間隔(とうかんかく)にならんでいます。あまりの長さに先は見えません。いったいどれくらいあるのだろう、と菖蒲は思います。
 まるで(ちゅう)()いているような白い窓にガラスはなく、のぞいてみても、外に広がるのはやはり白でした。
 しばらく歩いていると、うしろにあった階段もだんだん遠くなって、やがて白と混じり合い消えてしまいます。終わりのない通路(つうろ)の中心はひとつの黒い点のようで、こちらにむかっていつまでも大きくなることはありません。もしやと思い右をむくと、やはり白い壁にちいさな文字が書いてあるのです。
 菖蒲はかがんで文字を読みました。

 「ミエルモノガサキデワナイ
   ケレドモミエナクバサキニワユケナイ」
    ゼンポウチュウイ」

「そんなのわかってるわよ」菖蒲は鼻先(はなさき)で笑い、通路(つうろ)消失点(しょうしつてん)を手でふさぐと前方(ぜんぽう)(とびら)に注意しながら歩きはじめました。
 すると、けつまずいて思いきり地面にたおれます。
「いったああい。んっもう!」
 顔をあげてみると通路(つうろ)消失点(しょうしつてん)はなく、ゆかに扉があります。どうやら把手につまずいたようです。
「『足元注意』もそえてください!」
 だれもいない通路で大きな声で(うった)え、(とびら)を引き()けて下をのぞきます。
 鉄のはしごが下へ下へ、どこまでつづいているのかわかりません。
 菖蒲ははしごに手をかけ、ふみはずして落っこちないよう、慎重(しんちょう)()りました。

待合所ときどき夏休み

待合所ときどき夏休み

 はしごのむこうは海でした。しめった生ぬるい潮風(しおかぜ)が菖蒲の(かみ)をなでます。くすんだ灰色のコンクリートに足をつけ、ぐるり見まわすと、まるで海にポツンと()かぶ、ひなびた駅のようです。ところどころさびた駅名標(えきめいひょう)にベンチ、木製(もくせい)照明柱(しょうめいばしら)から電線(でんせん)赤瓦(あかがわら)屋根(やね)待合所(まちあいじょ)にだらりとのびていました。ここはどこなのだろうと菖蒲は駅名標(えきめいひょう)の前に立ちます。

『行きさき・気のむくまま
  時刻(じこく)・ついたら』

「なんていいかげんな駅なのかしら」菖蒲は首をかしげ、木造(もくぞう)建物(たてもの)にむかいます。
 入り口でゆれる藍色(あいいろ)(あさ)のれんをくぐり、ひき()をカラカラ引いて(はい)りました。
 駅の待合所はちいさな町の食堂(しょくどう)のようで、カウンター席が三つと(まど)ぎわにテーブル席ひとつ、席奥(せきおく)台所(だいどころ)では深い寸胴(ずんどう)なべからふつふつと湯気(ゆげ)がのぼっています。
「いらっしゃい」
 白い割烹着(かっぽうぎ)三角巾(さんかくきん)をつけたおばあさんはカウンターごしにひょっこり顔をだして、菖蒲をまじまじと見つめます。
「へえ、女の子かい。めずらしいね。さあさ、そこの席にすわってくださいな」
 菖蒲はおばあさんにいわれるまま、カウンター前のイスに(こし)かけます。
「はじめまして。アヤメといいます。あの、ここはどこですか?」
 おばあさんは手ぬぐいをひょいとわたしてからこたえました。
「ここかい? まあ見てのとおり海の駅、いちおう待合所(まちあいじょ)ってところかね。食堂(しょくどう)みたいだけどさ」
「まあ!」菖蒲はおどろきます。「ではもしかして電車がくるのですか?」
 おばあさんはすこし考えてから「電車、というかバスというか船というか生き物というか、まあきてみればわかるだろうけどさ」
「はあ」
「それより、おなか、すいてないかい?」
 言われてみれば、グレエンの家を(はな)れてからなにも食べておらず、いろんなことがありすぎて食事などすっかり(わす)れていました。菖蒲のおなかは思いだしたように、ぐうっと大きく()ります。
「おなか……ペコペコみたいです」
「そうだと思ったよ!」顔を赤らめる菖蒲におばあさんはニコニコします。「すぐつくろうね。でも、うちはすば(・・)しかないよ」
「ありがとうございます。でもわたし、お(かね)もっていないんです。だから……」
 おばあさんはポカンとした顔でながめ、「おかね? おかねってなんだい、おしんこ(・・・・)か?」
「いいえ、ものを買ったり売ったり、交換(こうかん)するために使うものです。知りませんか?」
「はぇぇ」おばあさんはいよいよ目を丸くし、ゆっくりと首をかしげます。「アヤメちゃんのいるとこではそんなめんどくせぇもんがあるわけだ。まあいいや、おかねってもんいらんから、すば食べてきな」
 おばあさんはちぢれた(めん)をばんじゅうから取りだすとてぼざる(・・・・)に入れ、ぶくぶくふっとうした寸胴(ずんどう)なべにほおりこみ、トントンまな板のうえでコネギを切りはじめます。
 菖蒲はてきぱきと料理するあばあさんの顔を見て言いました。
「おばさまはずっとここで食堂(しょくどう)をされているのですか?」
「おばぁでいいよ。そうさ、ずっとやってる。ときどき、アヤメちゃんみたいな客がふらっとやってくるんだ。あとほとんどはイルカやカモメとかさ」
 菖蒲はクスッと笑います。
「アヤメちゃんはどうしてここにきたんだい?」
「わたし、探しものがあるんです。それを急いでとどけなければいけないのですが、まだ見つかりません」
「そうかい、見つかるといいね。まあ、探しもんはだいたい、ふとしたときに見つかるもんさ」それから、おばぁは(あつ)みのあるどんぶりを菖蒲の前に()きます。「はい。できたよ」
 湯気(ゆげ)の立つ透明(とうめい)なスープにはちぢれた平打ち(めん)と白くてふわふわした雲と小ネギがぱらりと浮いています。
「とってもいいにおい! こんぶですね」
「そのとおり! アヤメちゃんよく知ってるねえ。白いのはゆし豆腐(どうふ)さ、だからこれはゆし豆腐すばね。おこのみでそこにあるコーレーグス、すこしかけるといいよ。それと、あついからゆっくり食べて」
「はい。いただきます」
 木箱(きばこ)()け、(はし)を手にして、まずはスープをひとくち。こんぶダシの(やさ)しい風味は(はな)をぬけ、ほんのり塩味のゆし豆腐(どうふ)がふんわり口いっぱいに広がります。麺をふうふうしながらすすりはじめるとスープを飲み()すまで(はし)はもう止まりません。
「ごちそうさまでした」菖蒲はふぅ、と一息(ひといき)ついて(はし)をおき、満足(まんぞく)そうに顔をあげます。「とってもおいしかったです。おなかいっぱいでポカポカ」
「よかったねぇ、いまお茶をいれるから」
 菖蒲はどんぶりと箸を持ち、台所で洗うと、おばぁはかわりに、こぶしくらいの大きさのドーナッツとしゅわしゅわ気泡ガラスコップがのったおぼんをわたします。
「これはサーターアンダーギーとさんぴん茶ね」それから、おばぁはあやめに耳打ちをします。「アヤメちゃん。そっちのテーブル席はとっておきだよ」
〝とっておき〟の席で食べる揚げたてあちこーこーかりふわサーターアンダーギーのあまりのおいしさに思わず、山もりください、と言いたくなりましたが、菖蒲は「甘くてステキ」という言葉だけお上品(じょうひん)に、さりげなくそえます。
 (まど)ぎわの()びんにはかわいらしいテッポウユリ、空は青と白い雲のくっきりとしたコントラスト、波はおだやかでコバルトブルーのグラデーションがどこまでも広がっています。
「外からながめると景色(けしき)で、(まど)からのぞくとなんだか絵画(かいが)みたい」菖蒲はぽつりと言います。
「へぇ、アヤメちゃん詩人だねぇ」と、むかいにすわるおばぁは目を大きくします。「そんなふうに考えたことなかったよ」
 菖蒲は()れを(かく)すように、さんぴん茶を口にします。ジャスミンのかおりにすっかり落ちつき、ほおづえをついて鑑賞(かんしょう)を続けました。
 こんなにちっぽけな駅でひとり、(さび)しくなったり、()きてしまうことはないのだろうかと聞いてみたくなり、菖蒲はすこし顔をゆらします。
 きらきらと(かがや)くヘーゼル色の目、知恵深く()(かさ)なる目尻(めじり)、口びるのそばに山をえがく経験(けいけん)(ゆた)かなほうれい線、やってくる日々はまるで客人(きゃくじん)のように、時を楽しむ端正(たんせい)横顔(よこがお)。菖蒲にはおばぁが哀愁(あいしゅう)()めた永遠(えいえん)の人に見えます。
 (あこが)れの眼差(まなざ)しをむける菖蒲に気づいていたのでしょうか、広い海から目を(はな)さず、おばぁは口を(ひら)きます。
「空とね、海は同じ青なのに、なんでまじらないのか考えるのさ、いつも」
 菖蒲はなにも答えられません。でもそれでいいと思いました。なぜなら、こたえをもとめない質問だからです。
 ときおり、海風(うみかぜ)(まど)をゆらし、()は波をなでます。青からあかね、オレンジに()まり、やがて今日(きょう)とともに()りゆく夕空は、おばぁのいうとおり、いつまでも、いつまでも海の青とまじることはありませんでした。
 まったく不思議(ふしぎ)な駅の待合所(まちあいじょ)です。けっきょくなにも到着(とうちゃく)せず、出発(しゅっぱつ)もせず、ただ始発(はじまり)から終発(おしまい)まで時間だけが遠くに()かぶ雲のように静かに流れていたのですから。
「ねえアヤメちゃん。うちにとまってくかい?」おばぁは(まど)にむかって言います。
「……うん」菖蒲も窓にむかって答えました。
「じゃあ、外にかけてあるのれん(・・・)、おろしてもらおうかな」
「うん」
 菖蒲は夏休みに田舎(いなか)のおばあちゃん家へひとりで遊びにきているような気のない返事(へんじ)をしました。

おつかい

おつかい

 つぎの朝、空にのびる鉄のはしごはこつぜんと消えていました。
「まあいっか。ここは駅だし、そのうちなにかやってくるはずよ」見上げる菖蒲はあっけらかんと言います。
 そんなことより、夜()る前のおしゃべりを思いだしていました。おばぁはたいへんな聞き上手(じょうず)で、菖蒲の話しにあいづちを打つたび、体はすっかり軽くなって、風船(ふうせん)のようにプカプカ()いてしまうのではないかと心配(しんぱい)したほどです。
「おばぁの耳は大きなポッケね。わたしのお話しがいくらでも(はい)るんですもの」
「いやぁ、アヤメちゃんのはここにあるのさ」と、おばぁは菖蒲の(むね)にふれました。
 ()(がた)、おばぁと一緒(いっしょ)豆腐(とうふ)作りもしました。一晩(ひとばん)水につけておいた大豆(だいず)をすりつぶして呉汁(ごじる)にしてから、(ぬの)でしぼってできた豆乳(とうにゅう)中火(ちゅうび)(あわ)をとりながら()ます。火をとめて、ニガリと塩をまぜた水をいれ、木しゃもじでさっと切るようにまぜてから、しばらく()つと(かた)まります。それをまん中に(やさ)しくよせれば完成です。朝ごはんはきのうのお昼と夜も同じ 〝ゆし豆腐(どうふ)すば〟でした。
「ねえ、おばぁ。わたしの作ったお豆腐(とうふ)昨日(きのう)食べたお豆腐(とうふ)、少し味がちがうと思わない?」
「どんな料理でもおんなじ味にはならないのさ」おばぁはゆし豆腐(どうふ)を味見してうなずきます。「いいかいアヤメちゃん。どんなもんでもおんなじ(・・・・)だからおんなじ(・・・・)だと、一緒(いっしょ)くたにしてはいけないよ」
 プラットホームのふちに(こし)かけた菖蒲は足をちゃぷんと海につけ、おばぁに借りた大きな水中メガネで海をのぞきます。色とりどりの魚は菖蒲の前をすーっと通りぬけ、うれしくなり手をふると、それに気づいたわんぱく(・・・・)魚たちは、たがいを見あわせ、菖蒲の足めがけていっせいにつつきはじめ、あまりにもくすぐったくて、たまらず足をひっこめます。
「やったわね!」菖蒲はいそいで服をぬぎ、ざぶんと海にもぐります。
 しかし、いくら(およ)いでも魚たちのほうがずっと速いので、まるでおいつけません。魚たちは近づいてくすぐり、菖蒲の口からゴボゴボと(あわ)はどんどん逃げていきます。もがいて(いき)つぎしてからふたたび海を(およ)いでいると、海底(かいてい)には美しいサンゴ(しょう)(まち)なみが広がっていました。ショッピングを楽しむコバルトスズメ、ホテルで優雅(ゆうが)()ているカサゴやフラダンスしているチンアナゴ。遠くにはひらひら泳ぐマンタの影や大きなジンベイザメまでとてもにぎやかです。
「アヤメちゃーん!」
 海面に顔を出すと、おばぁの声が遠くに聞こえ、じゃぶじゃぶ(およ)いで駅までもどります。
「アヤメちゃん、ちょうどいいや。わるいんだけど近くの島にいるおじぃのとこまで、豆腐(とうふ)もってってくれるかい」
「あばぁ、わたし島までなんて(およ)いでいけないよ」
「だいじょうぶ、バンちゃんがつれてってくれるからさー」
「バンちゃん?」
 首をかしげている菖蒲のそばに、ハンドウイルカがすいすいと近づいてきました。
「やあ、はじめまして。ぼくはバンドウ。ぼくにつかまれば、島まであっというまさ」
 そう言って、バンドウはぐるりとまわります。
「あなたがバンちゃんね。はじめまして、わたしはアヤメよ」
豆腐(とうふ)はこの大きなふろしきにつつんであるから。それと島についたらふろしきを広げてパレウにすればいいさ」
 菖蒲はふろしきをかついでバンドウの背びれにつかまり、遠くに見える(みどり)の島に、しぶきをあげながら海をきって進んでいきます。
「ねえバンドウ。あなたは海の駅にやってくる乗り物なの?」
「ああ、それはね……だよ」バンドウはバッシャバッシャと(およ)いで言います。
「ぜんっぜん聞こえないわ。もう一度言ってちょうだい!」
「島についたよ! アヤメちゃん!」
「ちがうの! そうじゃないの!」

 菖蒲はバンドウとわかれて島に上陸(じょうりく)します。さらさらの白い砂浜にヤシの木がずらりとならび、おいしげった森のむこうには切り立つ岩山が見えます。菖蒲は豆腐(とうふ)をつつんでいた大きな花がらの(ぬの)ふろしきを広げて両端(りょうたん)を胸もとで結び、ワンピースにしてから、満足(まんぞく)そうに足を前にだしますが、ぴたりと立ち止まりました。
「どうしよう、おじいさまのおうちがどこか、おばぁに聞いていなかったわ」
 すると森の中からしば(・・)犬がばさりと飛びでてきて、困っている菖蒲を見つけ、しっぽをふりふりやってきます。
「こんにちは、アヤメちゃんだね。おばぁから聞いているよ。ボクの名前はシバ。さあさあ先生の家まで案内するからついてきて」
 そう言って、しば犬のシバはささっと森に消えます。
「ちょっと待って」菖蒲は見失わないよう、早足でついてゆきます。
「ねえ、シバ。わたしの名前をどうして知っているの?」
「それはね、おばぁの伝言(でんごん)カモメだよ。砂浜にアヤメちゃんという女の子がくるって教えてくれたんだ」
「まあ、おもしろい!」おばぁとカモメの会話している様子(ようす)想像(そうぞう)して菖蒲はくすりと笑います。
「ところで、おじいさまはなんでこの島でくらしているのかしら」
「先生はむかし、前人未到(ぜんじんみとう)の地を旅する冒険家だったんだよ。でも海の駅でおばぁのゆし豆腐(どうふ)すばを食べたら近くに住むって言いだして。助手のボクもびっくりさ。でもまあ先生は自由だからね。ボクもここを気に()っているし、もちろんおばぁも大好きだよ」
「おばぁのお豆腐(とうふ)万能(ばんのう)ね!」
 やがてシダの森にかこまれた、おしゃれな石づくりの家が見えてきました。
「あれがおじぃの家だよ」と、言ってシバは()けよります。
 まるでロビンソンクルーソーの世界に(まよ)いこんだような気分(きぶん)の菖蒲は、ちょっぴりドキドキしながら「おじゃまします」と、半開(はんびら)きになった(とびら)を引いて家に(はい)ります。板ばりの部屋にはふりこ時計がカッチコッチ時をきざみ、スパイシーな異国(いこく)のかおりにみたされています。ぎっしりつまれた本や見たこともないようなブロンズ(ぞう)、こっとう品や絵画(かいが)、世界地図とコンパスなど(ざつ)に置かれ、まるで博物館(はくぶつかん)のようです。
「先生! 先生! アヤメちゃんをつれてきましたよ」シバはつくえにむかう男のそばに近づきます。
「ありがとう、シバ」
 男はそう言ってシバの頭をわしわしなで、立ちあがりました。白いえりつき半そでシャツと深藍の半ズボン、銀色の(かみ)と豊かにたくわえた口ひげは(かさ)ねた経験(けいけん)のほどをうかがわせます。
「はじめまして、アヤメと言います」菖蒲はすこし緊張(きんちょう)した顔で言います。「おばぁのお豆腐(とうふ)、お持ちしました」
 男は豆腐(とうふ)の入ったホーローの四角(しかく)い器を受けとると菖蒲に右手をさしだし、あく手とほおにキスをします。
「ありがとう、よく来たね。きみがアヤメちゃんか。ほうほう、おばぁの言うとおりとても(かしこ)そうな娘だ」
「おじいさまは……」
「おじぃでいいよ。アヤメちゃん」と、おじぃは優しく目を細めます。
「おじぃはここでどのようなことをなさっているのですか?」
「ふむ、まあわしもよくわからんな。いろいろ見たもんを書き残してる感じかの。それとも、わしのことをロビンソンクルーソーかなにかと期待(きたい)していたのかね?」おじぃが目くばせすると、菖蒲の顔はハイビスカスの色に染まり「すこしだけ」と、うなずきます。
 おじぃは口を大きく開けて笑い、「わしはレミュエル・ガリヴァーの冒険のほうがファンタジックで好みじゃけどな」
「どちらも奇人(きじん)ですわ」
「そんな奇人(きじん)をおとずれるアヤメちゃんはもっと、かの?」
 ふたりは(かた)をふるわせ、大笑いしました。
「まあまあ、すわんなさい。茶にしよう」と、おじぃは上機嫌(じょうきげん)居間(いま)にある金色のアンティークソファへ案内します。
「まあ、なんてごうかなソファなのかしら」
「こんなみすぼらしい家にあわんじゃろ? むかし、ある大きな国へ旅したとき王さまと(なか)よくなっての。いらんからくれると無理(むり)やり()しつけられたいわくつきの(しな)よ。もちろん、わしだっていらんかったが、もしそんなこと口にでもしたらなぁ……」と、おじぃは手で首を切る仕草(しぐさ)をします。「冒険で生きて帰る秘訣(ひけつ)はなんといっても、カメレオンみたいにうまぁくとけこむ適応能力(てきおうのうりょく)ってやつか」
 ()の低いテーブルにおいてある動物らしい置き物をながめていると、おじぃは花がらにうわ絵つけされた白磁(はくじ)のティーセットと、ナッツやドライフルーツがたくさんもられた皿をシルバーのアンティークトレイに乗せてやってきました。
「とってもいいにおい」
 カップにそそがれた紅茶(こうちゃ)(あま)(はな)やかな(かお)りに、菖蒲の目は自然と(かがや)きます。
「ふむ。わしはコーヒー()なんだがな、おばぁが飲めんもんで、たまにくる行商(ぎょうしょう)(たの)んでおるのだよ。しかしほかに客なんてこんからほとんどへらんな。さあさ、飲んでごらん」
「いただきます」
 ペカンナッツやマカダミア、カシューにアーモンド、パイナップル、ブルーベリー、イチジクなどおいしいおやつもつまみながら、菖蒲はしばらくおじぃと旅話を楽しみました。
「ところでなアヤメちゃん」と、おじぃはコーヒーカップを置きます。「(とびら)のない中庭について、だが」
「なんでそのことを?」菖蒲はおどろいたように言います。
 おじぃは軽くせきばらいをしてから、「ふむ、おばぁから聞いた」。
「……もしかしてカモメさん」
「そう。で、わしは若いころ中庭に行ったことがある」
「ほ、ほんとうですか!」菖蒲は目を大きく開き、身を乗りだします。
 おじぃは菖蒲に落ちつくよう両手を上下にゆらし、「中庭に行ったというと語弊(ごへい)があるか……正確に表現(ひょうげん)すれば中庭に(ちか)づいた、といえばよいのかな」。
「どういうことですか?」
「ふむ、わしのようにあの中庭の近くまではいけないこともないが、中庭に入ることはできない。そもそも出入りするための(とびら)はないから〝(はい)る〟という表現(ひょうげん)が正しいのかもわからん」
「でも、わたしはたしかに(とびら)のない中庭を見ました」
「ほう、庭を見たと。知覚(ちかく)すらできないはずだが。いや、あるいはだれかなんらかの方法で……」
 おじぃは菖蒲から目をそらし、あごひげに手をあてます。
「おじぃ、わたしにはわかりません。でもわたし、わたし、(とびら)のない中庭にある井戸の水を()んでこないといけないんです。そうしないと干しわらの王子さまが……」
「わかっとる、わかっとるよアヤメちゃん。そんな悲しい顔しなさんな。すこしずつ、ゆっくり考えていこう、なあ」
「ごめんなさい」
 打しずむ菖蒲におじぃはうんうんとうなずいて、笑みを見せます。
「まず、むずかしい表現をすると扉のない中庭は形而上(けいじじょう)のもの、形であらわせない空間(くうかん)なのだよ。つまり(とびら)のない中庭は『()るが()い場所』とも言えるかもしれん。ところでアヤメちゃん、心はどこにあると思うかね?」
 菖蒲は少し考え、「それはわたしの(うち)にあって、胸のあたりでしょうか。でも考えるのは頭のほうにあるような」。
「はっはっは。とても直感的(ちょっかんてき)でいい答えだ。(うち)にある、とはおそらく正しい。でも頭つまり(うの)は心とよばれるものを認識(にんしき)しているにすぎん。また多くの場合、胸のあたりに影響(えいきょう)をあたえたりもする。とどのつまり、心はあるにはあるが実際(じっさい)どこにあるか、そもそもあるかどうかすらだれも知らん、たとえば生命(いのち)もそういえるかの。アヤメちゃんの行きたい中庭はまさに神秘的(しんぴてき)な庭なのだよ」
 おじぃはコーヒーで口をぬらし、ソーサーにのせます。
「そこで、だ。(わか)いころ、わしは中庭に(はい)るため記憶(きおく)からたどってみることにした。心を存在(そんざい)する空間(くうかん)として、つまり(とびら)のない中庭そのものを心、中庭の壁は時間(じく)(ない)におけるあらゆる記憶(きおく)仮定(かてい)する。まったく記憶(きおく)のない、いわば無垢(むく)状態(じょうたい)から心にゆけるかアプローチしてみた。結果(けっか)としては近くまで、といったぐあいよ」
 菖蒲はすっと目をつぶります。遠くに聞こえる王子さまの声——。
『よく聞け! わたしは今からおまえとひとつの約束をする。()しわらとなり、かわききったわたしのくちびるを、この領域(せかい)のものではないひとりの少女が心の井戸から()んだ水によってうるおすであろう。その時、青き剣はおまえを打ちやぶる力をえる』
 闇は約束をあざ笑いましたが、王子さまは菖蒲を信じていました。なぜでしょうか。わかりません。でもやるのはただひとつだけです。
「おじぃ。わたし、中庭の近くであっても行ってみたい。そこに行けばなにかわかるかもしれないから。でもあきらめてしまったら、みんなの約束は果たせなくなる。それにわたし、王子さまの信頼(しんらい)にこたえたいの」
 おじぃはするどい顔を菖蒲にむけて言います。
「はっきり言うが、先はかなりつらいぞ。おそらくアヤメちゃんの大事(だいじ)なものを失うだろう」
「それでも、これはわたしにしかできません。わたしの願うおしまいでなくっとも覚悟(かくご)はできています。だってわたし、わたし……」言葉をつまらせた菖蒲はひざの上でこぶしをにぎりしめ、うつむきます。
「わるかった、わるかったよ。アヤメちゃんは優しい子だ、うん。もっとも、そんに悪い人なんかおらんがな」
 おじぃは柔らかな手で菖蒲の頭をなでます。
「シバ、悪いがカモメとバンドウにアヤメちゃんが帰るのおそくなると伝えておくれ。それから島の主にもよろしくな。わしらはこれから岩山のてっぺんにゆく」
 耳をひくりと動かしたシバは起きあがり、ササっと外へかけだします。
「さてと。では菖蒲ちゃん、これから天体観測(てんたいかんそく)にでかけよう」
天体観測(てんたいかんそく)、ですか?」
 出発の合図(あいず)を知らせるように、部屋のふりこ時計がボーンボーンとお昼の時間を()らしました。

天体観測

天体観測

 菖蒲はうっそうとしたシダの森を歩き、島の中央にそびえる岩山を登っていました。(かがや)くジコチョウや歌うガラガラガエル、コゴトツブヤキオウムに働き者のナマケモノ、フロウフシモドキ……おじぃはまるでガイドツアーのように動植物を見つけては紹介(しょうかい)します。
 ひらけた山頂(さんちょう)視界(しかい)をさえぎる草木もなく、たいへん見晴らしがよいので、菖蒲は(がけ)っぷちに立ち、絶景(ぜっけい)をながめます。見わたすかぎりのオーシャングリーンにまだらに広がるサンゴ(しょう)、大好きな海の駅を発見して、菖蒲はおーいと手を大きくふります。ふきあげる冷たい(みどり)と、しめった(しお)のまじわる不思議(ふしぎ)なにおいを(むね)いっぱいにみたしていると、空はだんだんとまっ()に、やがて夜の(とばり)はおり、まったりとした(しず)けさの夜空に月がくっきりうかんで、海を()らします。
今日(きょう)も空と海の青はまじらなかったわね」菖蒲はうっとりと言いました。
 山頂(さんちょう)には天体(てんたい)観測所(かんそくじょ)()ばれるドーム屋根(やね)小屋(こや)()っています。ぱっと(まど)電球(でんきゅう)はともり、菖蒲を()ぶおじぃの声が聞こえました。小屋(こや)の中にはインクで書かれた奇妙(きみょう)な数式や図形など、壁のいたるところに()っており、つくえには万年筆(まんねんひつ)や黒いインク()れ、しおりのたくさんはさまった本やノートがちらばっていました。とりわけ目につくのは、まん中にある大きな天体(てんたい)望遠鏡(ぼうえんきょう)で、一段あがった円形(えんけい)の台の上にどんとかまえ、先っぽは屋根(やね)の外にむかってつきでていました。
 おじぃは望遠鏡(ぼうえんきょう)をのぞき、ハンドルを手際(てぎわ)良く手前や奥にぐるぐるまわして止め、こちらにくるよう手まねきします。
「アヤメちゃん、ここをのぞいてごらん」
 言われたとおり、菖蒲は望遠鏡(ぼうえんきょう)接眼(せつがん)レンズをのぞきこみます。
「うわぁ、これはなんですか!」
 見えたのは赤に青に黄色、(むらさき)(みどり)。まるで宝石をちりばめたカレイドスコープのような幾何学(きかがく)模様(もよう)です。
「これはアヤメちゃんの領域(せかい)では月というのかな。まあ、この衛星(えいせい)はいわゆる月としての役割(やくわり)ではないのじゃが」
「ふしぎな星……ああっ、おじぃ、だれかいる!」
 月に小さな黒い豆つぶひとつ、ゆっくり動いています。
「よく見えたのぉ、アヤメちゃん。あれは記憶(きおく)収拾(しゅうしゅう)をしているんじゃよ」
 菖蒲は望遠鏡(ぼうえんきょう)のレンズから目を(はな)します。
記憶(きおく)収拾(しゅうしゅう)とはなんですか?」
「かんたんに言えば、記憶(きおく)のかけらを(ひろ)い集める仕事かの」
 ふたたび菖蒲は望遠鏡(ぼうえんきょう)をのぞきます。
「あっ! 月になにかぶつかったわ」
「記憶は流れ星となって月にふりそそぎ、たくさんたまって、きらびやかな色になったというわけさ」
「とってもきれい……」
「アヤメちゃんはこれから、あそこへゆかねばならない」
「月にですか? でもロケットで飛ばないと宇宙(うちゅう)には行けません」
「いや、あの月は宇宙(うちゅう)にはない。シロクジラで行くんじゃよ」
「シロクジラ、ですか?」
「うむ。シロクジラはおばぁの駅にやってくる」
「そうだったんですね! わたし、てっきり電車や船が()まるものだと思っていました。でもシロクジラさんは空を飛べるのでしょうか?」
「はっはっ。たしかにあの駅はいろんなものを立ちよらせるから、それもまちがいではないがな。それとクジラは空を飛べないし、月はわしらの上にあるわけでもない」
 首をかしげる菖蒲でしたが、次の目的地はカレイドスコープのような月で、そこへ行くためにはシロクジラの助けを借りなければならないようです。
「いいかい、アヤメちゃん。これから月で王子の記憶(きおく)を探し、それを結晶化(けっしょうか)してもらい、びんに加工(かこう)する。それで井戸の水を()みなさい」
「ただの小びんではいけないのでしょうか?」
「おそらく」と、おじぃはつくえにあるガラスの一輪(いちりん)()しをちんちんと指ではじきます。「物質(ぶっしつ)を中庭にもっていけんじゃろうからな」
 そう言っておじぃは菖蒲のそばにあるハンドルをすこしまわすと、すわっていた円形の台がゴリゴリ音をたてて動きだします。それから望遠鏡(ぼうえんきょう)方角(ほうがく)をかえて、ぼけたレンズのピントをかるく調整(ちょうせい)します。
「もういちど、のぞいてみなさい」
「はい」菖蒲は望遠鏡(ぼうえんきょう)をのぞくと、ぽっかり穴があいたようにまっ黒です。
「そこは『闇の門』で最初の難所(なんしょ)(とびら)のない中庭に近づくためには門をくぐってから常闇(とこやみ)の地を歩いて薄暗(うすぐら)い階段を探すんじゃ」
「でも暗くてなにも見えません」
「そう、光とどかぬ闇の支配する領域(せかい)じゃからの。薄暗(うすぐら)い階段をおりたところに最大の難所(なんしょ)『中庭にもっとも近い場所』はある。その先はわしもいっとらんからわからん」
「どうしてですか?」
本能的(ほんのうてき)恐怖(きょうふ)、というのが正しいのか」おじぃは思いだすように(かた)をちぢめ、身ぶるいします。「無垢(むく)な記憶になるとはいわば自己(じこ)喪失(そうしつ)。自分をうしない、中庭を(おか)したとて、そこにいる理由(わけ)もわからなくなったら、なんの意味(いみ)があるか。()まれたての赤んぼうは自己(じこ)もしくは外界(がいかい)母親(ははおや)はじめ、他者(たしゃ)によってだんだんに知覚(ちかく)する。しかし中庭で自己認識(じこにんしき)条件(じょうけん)瞬時(しゅんじ)回復(かいふく)し、かつ脱出(だっしゅつ)するか、まったく解決(かいけつ)できなんだ。失敗(しっぱい)すれば体は(うつ)となり心は虚無(きょむ)(とら)われるじゃろう。わしはなアヤメちゃん、好奇心(こうきしん)無謀(むぼう)は結びつかん性格(せいかく)なのだよ」
「それでこの先つらいとおっしゃったのですか?」
「うむ。なあアヤメちゃん。まず中庭に近づくまでも難儀(なんぎ)な旅さ。なんらかの強大な力で無垢(むく)となり、王子の記憶(きおく)で作ったびんをもって井戸(いど)の水を()まねばなるまい。同時(どうじ)(とびら)のない中庭からでるため、自身(じしん)記憶(きおく)も取りもどす。助けを()りずできるかな?」
 おじぃは(あわ)れむように言い、口をつぐむ菖蒲の力強い目を見ます。
天体(てんたい)観測(かんそく)はこれくらいにしようか」と、おじいはため(いき)まじりに菖蒲の(かた)(やさ)しくたたきました。
 外に出るとおじぃは空の月を(ゆび)さし、海にゆれる月までなぞります。
海面(かいめん)にくっきり丸い月のうつりこんだ時、シロクジラは海の駅に停車(ていしゃ)する。日が落ちる前に待っていなさい」
「はい、わかりました」
「先生!」シバが走ってやってきます。「準備(じゅんび)できました。下の浜で待ってますよ」
「ありがとうよ、シバ」おじぃはシバの頭をなでます。「さてアヤメちゃん、浜にもどろう」
「はい」
 おじぃは天体(てんたい)観測所(かんそくじょ)()かりを消して角灯(ランプ)を手に、菖蒲をうしろに()れ、岩山をおりていきました。
 真夜中の砂浜はよせる波の子守唄(こもりうた)によって(ねむ)りにつく時間ですが、今日(きょう)ばかりはそうもいかないようです。たくさんのウミガメたちは産卵でもないのに砂浜にあつまってたのです。
 菖蒲とおじぃはウミガメたちのあいだをぬって、まん中にどしりとかまえるウミガメに近づきます。頭だけでも菖蒲よりずっと大きなウミガメの前に立ち、おじぃは会釈(えしゃく)しました。
「アヤメちゃん。こちらは島々の(あるじ)、ウミガメのスルフファー氏じゃよ。アヤメちゃんのうわさを聞いて海の駅までおくりたいそうだ」
「はじめまして。わたしはアヤメと言います」と、菖蒲は頭をさげます。
(アナタニツイテワオバアカラスベテキイテイル。ニジノムスメヨ)
 スルフファー氏は海に住む生き物の使う水泡(みなわ)の言葉で菖蒲に話しかけるとすぐ波は()み、何百ものウミガメたちはうれしさのあまり頭を地につけ涙を流しました。
「先生これは」と、シバはおどろいたように言います。
「島々の(あるじ)語る時、海に新たな島誕生(たんじょう)せむ……みな帰る場所がふえて喜んでいるんじゃよ、シバ」
「おじぃ、シバ、ありがとうございました」菖蒲はふたりを()きます。「わたし、前に進めそうです」
「ふむ、気をつけてな」
「またね、アヤメちゃん」と、シバはしっぽをふります。
 菖蒲はスルフファー氏の化石(かせき)のようなかたいこうらに足をかけて、てっぺんまでのぼると、ウミガメたち、小さなヤドカリやカニは道をあけます。スルフファー氏は海までどすんどすんと地面をゆらし歩き、着水(ちゃくすい)する海の(あるじ)と手をふる菖蒲をみんなじっと見守ります。それはまるで海生物による進水式(しんすいしき)のようでした。
 ぷっくりと丸い小さな島は唯一(ゆいいつ)島民(とうみん)である菖蒲をのせて水平線(すいへいせん)移動(いどう)します。月は雲を気にせず島を()らし、大海原(おおうなばら)に影をうつします。
「まず、駅でシロクジラさんを待つのよ、アヤメ」
「それから月で王子さまの記憶を探す」
「でも、どうやって?」
「そんなの行ってみなければわからないわ」
「たしかにそうね。やってみなければわからないことだらけよ、人生なんて」
 菖蒲は駅につくまでアヤメとひとり会議(かいぎ)をしていました。やがて、駅舎(えきしゃ)外灯(がいとう)待合所(まちあいじょ)()かりはこちらに近づきます。
「ただいま」
 そう言って菖蒲はがまんできずにベンチで待っていたおばぁの(むね)に飛びこみます。
「アヤメちゃん」おばぁは力強い腕で菖蒲を受け止め、耳もとでささやきます。「山の上からこっちに手をふってくれただろう」
「おばぁはわたしのこと、もうなんでも知ってるのね」
「あぁ、わかってる、わかってるさ。アヤメちゃん」
 食堂(しょくどう)でいつものゆし豆腐(どうふ)すばをすすり、まくらに頭をのせたら、ほっとした菖蒲はその(ばん)、ぐっすり()てしまいました。

シロクジラ

シロクジラ

 天体(てんたい)観測(かんそく)からひと月後(つきご)。いつものように豆腐(とうふ)作りをして、朝ご(はん)のゆし豆腐(どうふ)すばをすすり、バンドウと(およ)いで海中(かいちゅう)探検(たんけん)をします。サンゴ(しょう)(まち)もだいぶめぐり、魚たちのすみかをたくさん(おぼ)えました。足をくすぐった魚たちは3丁目のアオサンゴアパートメントに住んでいて、家をのぞくとあわててちりじりになります。でも、バンドウからイルカ(しき)遊泳法(ゆうえいほう)(おそ)わった菖蒲はもう負けません。まるで人魚のように彼らを大きなシャコガイまで()いつめます。シャコガイは(わる)さをした魚を閉じこめておく牢屋(ろうや)で、みんなから(おそ)れられているのです。
「わるかったよ。ぼくたちはきみと友だちになりたかったんだ」と、魚たちはあやまります。
「ええ、ゆるすわ。そのかわり、あなたたちの(まち)案内(あんない)してちょうだい」
 こうして菖蒲は魚たちとすっかり仲良(なかよ)くなりました。 海からあがり、服を()食堂(しょくどう)にもどると、さんぴん茶をいれたグラスを片手に、とっておきの席でおばぁと(まど)絵画(かいが)を二人じめします。ずっと変わらない景色(けしき)、会話もなく、ただ過ぎゆくなんとなしの時間。おばぁとちいさな駅舎(えきしゃ)は菖蒲が菖蒲でいられる、かけがえのない居場所(いばしょ)になっていました。
 やがて日はしずみ、夜凪(よなぎ)のしんしんとしたプラットホームでは街灯(がいとう)がチンチロ点滅(てんめつ)して(とも)ります。ふたりはベンチに(こし)かけ、空に浮かぶ、くりぬいたバニラアイスクリームと海月(かいげつ)をまったりとながめていました。
「つぎはみんなでこれるといいねぇ」おばぁはゆっくり口を(ひら)きました。
 さびしさが菖蒲の(むね)にこみあげます。大好きな友達と遊んだ夏休み最後の帰り道、楽しかった思い出はシャボン玉となって少し高い雲の上で「またね」と一緒(いっしょ)にはじけてしまいそうな、どうしようもないほどの悲しみにしめつけられたのです
「わたし、ずっとここにいてもいい」おばぁの(かた)に頭をあずけ、菖蒲はあまえるように言います。「だって、やっとわたしの家に帰れたんだもの」
「でもアヤメちゃん。王子さまとの約束、()たさんとね」
「約束……()たせるかな。こわいの」
()たせるから約束なんだよ」
「どうやって()たすのかわからないのに?」
「そう、結婚だってそうさ。愛しあうふたりがどうやって(ちか)いを()たすか、なんて考えるかい? でも約束を信じるんだよ。本当の愛はまったく信じて(うたが)わない。そもそも果たせない約束は約束じゃなくて、でまかせっていうんじゃあないかい」
「そっか……」
 しばらくふたりは夜空にある満月に答えをゆだねます。
「なあアヤメちゃん、王子さまのこと好きだろう」
——スキ。そう聞いた瞬間(しゅんかん)、菖蒲の船には波がいくつもやってきて、目の前はゆらゆらゆれます。心臓(しんぞう)はドキドキ()り、おなかのあたりがポカポカして顔まで(あつ)く、蒸気船(じょうきせん)のように頭のてっぺんから蒸気(じょうき)はふきださんばかりです。
「おばぁ、そんなのわかんない。だって会ってもないし、話してもないし、それに、それに、男子なんてよくわかんない!」
 菖蒲はおばぁの肩に顔をぐいぐいうずめます。
「たしかにそうだ、なんせ〝()しわら〟だからねぇ」
 あたりにひびく、おばぁの大きな笑い声。
「……おばぁのばか。やっぱりここ出てくもん」
 ちょうどその時、海のむこうから月あかりを()り返した白いなにかがゆっくり、ゆっくりとこちらに近づいてきました。
「アヤメちゃん、そろそろ時間だね」
 菖蒲は顔をあげると、海には(かがや)く大きな白いマッコウクジラが電車のように停車(ていしゃ)します。おばぁは菖蒲を()きしめ、()なかをポンポンとたたいてから(やさ)しく、なんどもなんどもさすって、耳もとでそっと歌いました。

  月ぬ美しゃ 十日三日
  女童美しゃ 十七ツ
  ほーいちょーが
  東から上がりょる 大月ぬ夜
  菖蒲ん菖蒲ん 照ぃらしょうり
  ほーいちょーが

「おばぁ、ありがとうございます。あっという()の夏休みだったけれど、もうずっと前からいたような気がします」
「そうさアヤメちゃん」と、おばぁは菖蒲のほっぺたをなでます。「たいせつな一瞬(いっしゅん)さえすくいとれば、人生は思ったより長く、ややこしい時間すら(いと)おしく感じるものさ」
「わたし、おばぁのようになれるかな」
「もちろん、いい大豆(だいず)と水とにがりさえあれば」
「もお……」
 おばぁは菖蒲の手の(こう)に丸いスタンプを押すと、くじらの模様(もよう)にふんわりとひかりました。
「どこでも()()り自由の乗車証(じょうしゃしょう)さ。それに、この駅に帰ってくるための道しるべだよ。(そら)と海は同じほど広いからね」
「はい」
「おーい、まってー!」遠くからだれかの声。
 海のむこうで巨大ウミガメ、スルフファー氏のこうらの上に乗った、しば犬のシバはしっぽをふっていました。スルフファー氏はシロクジラと反対側(はんたいがわ)のプラットホームに停車します。
「あれあれ、なんだか今日(きょう)はにぎやかだねぇ」と、おばぁは感心(かんしん)して言います。
 駅の周囲(しゅうい)にはいつのまにかスルフファー氏を()うたくさんのウミガメ、イルカのバンドウや一緒(いっしょ)に遊んだ(あざ)やかな色の魚たち、ジンベイザメやマンタ、クラゲとホタルイカのイルミネーションまで、菖蒲を見送りに海月(かいげつ)はお祭り(さわ)ぎです。
「シバ! どうしたの?」菖蒲はおどろいたようにシバの頭をなでます。
「まにあってよかった。月でアヤメちゃんの手伝いをするよう先生から言われたんだ。だからボクもシロクジラに乗るよ」
「まあ! それは心強いわ。ありがとうシバ」と、菖蒲はシバのほおにキスをしました。
 いよいよシロクジラ発車の時間。菖蒲はみんなに手をふります。すこしずつ駅が遠くに、やがて街灯はオレンジ色の星となって消えてなくなります。菖蒲は(むね)に手をあて、さびしそうにずっと見つめていました。

「ところでシバ、どうやってあの空にうかぶ月へいくのか、知ってる?」
「なにを言っているんだいアヤメちゃん」と、シバは首をかしげ、ふしぎそうな顔で菖蒲をながめます。「ボクたちがこれからいくのは、あの夜空にうつる月ではなくて、海に浮かぶ月だよ」
「おじぃと同じね。どういうことかしら?」
「水面にある月が空にうつってるんじゃよ。つまり宇宙(うちゅう)と海はおなじなのじゃ」と、シバはおじぃの声を真似(マネ)します。
 すると運転手(けん)車掌(しゃしょう)のシロクジラは低い声で案内(あんない)をはじめます。
「ほんじつぅはぁ、ごじょうしゃありがとうございやぁす。つぎのえきはきぉくのほし、きぉくのほしでございやぁす。これよりぃスピぃドをあげやすのぉで、ふりをとされないよぅどぅぞぉおつかまりくださぃ……とぉもうしましてもぉ、つかまるところなどございやせんがぁ」
 自嘲(じちょう)気味(ぎみ)なアナウンスを()えたシロクジラは、ぐんぐん(いきお)いを増し、海面の月にむかって潜水艦(せんすいかん)のようにしずんでいきます。
「ちょっ、ちょっとまって。まさかほんっとにもぐるの? わたし、(いき)できないわよ!」
 菖蒲はツルツルのシロクジラになんとかへばりつきます。水しぶきをうけながら(いき)をいっぱいにすって、ほおをふくらませ目を……閉……じた……ら。
————
「あれ?」
 おかしなことに、いつまでたっても息苦(いきぐる)しくならず、おぼれたりしません。菖蒲はヒトデのような格好(かっこう)でおそるおそる目を開けてみると、チョウチンをぶら下げたアンコウが前を通りすぎます。青くひかるプランクトンはまるで海底にちらばった星くずのようで、遠くにはあの幾何学(きかがく)模様(もよう)の丸い大きな月もあります。
「これでわかったかい? アヤメちゃん」シバはにこりと笑って言います。
 ()きあがった菖蒲は(うで)をくみ、まわりの景色(けしき)をぼう(ぜん)と見つめて首を横にふり、こうこたえました。
「いいえシバ。なんべん説明(せつめい)されても、わたしにはまったくわからないわ」

記憶採取

記憶採取

 世界中で(かた)られたおとぎ(ばなし)は人々の記憶(きおく)にきざまれ、夢となります。朝、目ざめると、語られたおとぎ話はその人から(はな)れて長いあいだ宇宙をさまよい、やがて月とも()ばれる『記憶(きおく)の星』に引きよせられます。それで、この星では人々の記憶(きおく)細片(さいへん)となって地面にたくさんちらばり、ステンドグラスのようにいろどり(ゆた)かに(かがや)いていました。流れ(ぼし)はあちこちでシャンシャン(すず)()らし、地表(ちひょう)衝突(しょうとつ)してはガラスのわれる()んだここちよい音色(ねいろ)を聞かせます。
 菖蒲とシバは記憶(きおく)の星におり立つと、地面はパリパリという薄氷(はくひょう)をふんだような音をたて、きれいな虹色(にじいろ)発色(はっしょく)します。ふたりは次の停車地(ていしゃち)に旅立つシロクジラに手をふり、記憶(きおく)の星の散策(さんさく)をはじめました。
 ふと、河原(かわら)で百二十万年前のクルミをにぎりしめた少年たちが改札口(かいさつぐち)へいそぎ、乗りこんだ汽車(きしゃ)(まど)に見える面影(おもかげ)はだんだんと消えいるようで、菖蒲はぼんやり言いました。
「なんだかプリオシン海岸(かいがん)にいるみたい」
 たくさんの流れ(ぼし)は菖蒲やシバにぶつかってはじけます。
「ふしぎね、シバ」菖蒲は落ちてくる記憶(きおく)を手で(つか)まえようとします。「ほら、消えてなくなっちゃう。さわっている感じもしないわ」
「たしかに。あたってもぜんぜん(いた)くないや」と、シバは言いました。
 とつぜん、菖蒲はうつぶして頭を横にします。
「どうしたの? アヤメちゃん」
「ねえ、足音が聞こえない?」
「たしかにパリパリ、パリパリって聞こえる」シバは耳をピクピクさせます。「こっちだ!」
 さっとかけだしたシバを()い、しばらくして(ぼう)をもつ動物が遠くに立っています。むこうも気がついたのか、すこし警戒(けいかい)した様子でこちらをうかがっていました。
「シバ、ちょっと速すぎよ」と、菖蒲は(いき)をあげて言います。「置いてかれたらわたし迷子(まいご)になっちゃう」
「ごめん。うれしくってつい」
 ふたりのまえにいたのは藍色(あいいろ)作務衣(さむえ)を着たバクでした。菖蒲とシバにすこしおどろきつつも落ち()いた声で「やあ」と、右手をあげます。
「ここにやってくる旅行者はほんとうにひさしぶりだよ。ぼくの名前はメレ」
「はじめまして。わたしの名前はアヤメ。こちらはシバよ。メレさん、あなたはここで記憶収拾(きおくしゅうしゅう)をしているのですか?」
「いかにも。よく知っているね。ちかごろは聞かれることもない仕事さ」
「わたし、ある人の記憶(きおく)がほしくてきました。どうすれば見つけられるのでしょうか」
「だれかの記憶(きおく)を探すだって!」メレはますますおどろいてから笑い、(うで)を大きく広げます。「はじめにひとつだけ忠告(ちゅうこく)しておこう。だれかの記憶(きおく)を選び取ることなどぜったいできない。流れ(ぼし)に個々の名前が書いてあるわけではないだから。それにまわりをごらん、この星にはいったいどれほど記憶(きおく)断片(だんぺん)があると思うんだい。しかもまいにちまいにち、ああして流れ(ぼし)()えず落ちてくる。しかも落下(らっか)した記憶(きおく)のかけらだって採取(さいしゅ)するのはとてもむずかしいんだ。ためしにさわってごらん」
 メレにすすめられるまま、菖蒲はひざをかがめ、落ちていた黄色のガラス(へん)にふれてみます。するとガラスはつまんだだけで粉々(こなごな)にはじけとび、消えてなくなりました。大きくひらたいもの、あつみのあるもの、ほかのどんなガラス(へん)でも同じです。
記憶(きおく)にふれると、どうしてすぐになくなってしまうのですか?」
「それは共振(きょうしん)するからさ。人から離れた記憶(きおく)はこの星に落下するまでのあいだ、どんどん小さく、はかなくなってゆく。アヤメのもつ記憶(きおく)記憶(きおく)断片(だんぺん)はふれあい、もろい記憶のほうが粉砕(ふんさい)されるんだ」
「ではどうやって記憶採取(きおくさいしゅ)をするのですか?」
「これさ」と、メレは手にしている無色透明(むしょくとうめい)のガラス(ぼう)を見せます。一メートルとすこしくらいで、片方(かたほう)先端(せんたん)四角(しかく)皿型(さらがた)に、もう片方(かたほう)熊手(くまで)のようにわかれていました。
「星の鉱物(こうぶつ)でできた道具(どうぐ)を使い、記憶(きおく)をかきわけて、こわさないようそっとすくう。それでも記憶(きおく)断片(だんぺん)はあまりいじると消えてしまうから、すぐに工房(こうぼう)結晶化(けっしょうか)させる」
 メレは熊手(くまで)を地面につきいれ、カシャーンという透明(とうめい)な音をひびかせます。スコップでいくつか細片(さいへん)をすくいあげると記憶(きおく)は消えず、にじ色の火花をパチパチちらしながらスコップの上でおどります。
「このごろの記憶(きおく)(うす)くてもろい。しかも無色や灰色が多いね。それで良質(りょうしつ)記憶(きおく)採取(さいしゅ)するのはむずかしくなっている」
 メレは過去(かこ)(なつ)かしむように遠くを見つめます。
「なぜ()れなくなってしまったのですか?」
豊潤(ほうじゅん)記憶(きおく)は落ちてくるまでに長い時を()なければならない。たぶん昔の人は夢より日々を、おとぎ(ばなし)よりパンについて語っていたのだろう」
「夢、ですか?」
「そう、夢は記憶(きおく)に色をあたえるんだよ」
 どうすればこれほど多くのかけらの中から王子さまの記憶(きおく)を探しだせるのでしょうか。菖蒲は(なや)んでしまいます。
 すると、シバはなにげなく、こう言いました。
「流れ星に王子さまのにおい(・・・)さえあれば、ボクが()いかけるんだけどね」
「それよシバ!」菖蒲はぱっとひらめきます。「王子さまの記憶(きおく)をふらせればいいのよ。シバは落ちた星を()いかけ、わたしはそれを(ひろ)う」
「へえ、()しの王子さま作戦ってわけかい?」と、シバはニヤニヤします。
「そんなのむりさ」メレはあきれたように言います。「だれかの記憶(きおく)を流れ星にしてふらせるなんてつごうのいい話、聞いたことない」
「さあどうかしら。約束の力を使えば」と、菖蒲は金の首かざりから赤い宝石の指輪(ゆびわ)をはずします。
「うわあ、その赤い宝石!」メレは目を大きくして言います。「まえにぼくの工房(こうぼう)加工(かこう)した奇跡(きせき)結晶(けっしょう)!」
「ええっ! どういうことですか」と、菖蒲もおどろきます。
「その赤い指輪(ゆびわ)は青い剣と(つい)で加工されたんだ。とってもふしぎな光景(こうけい)だった。そう、あの時もアヤメみたいにとつぜん、ふたりはシロクジラでやってきて……」
 メレは奇跡(きせき)結晶(けっしょう)について、いきいきと(かた)りはじめました。

太陰潮

太陰潮

 シロクジラを()にする新婚(しんこん)夫婦(ふうふ)()めたる思いで月にやってきました。
 メレはいつものように記憶(きおく)採取(さいしゅ)をしていると、そんな若く美しい男女の姿(すがた)を目にします。旅行を楽しむ蜜月(みつげつ)夫婦(ふうふ)ではなく、切迫(せっぱく)したような、強い決意(けつい)(いだ)いているような……。
 夫婦(ふうふ)はメレに近づき、自分たちの記憶(きおく)指輪(ゆびわ)と一ふりの剣を作りたいと言います。
「自分の記憶(きおく)を探すだって!」メレは新婚(しんこん)旅行(りょこう)のお土産(みやげ)にしてはずいぶん()ぎたものだと笑います。「はじめにひとつだけ忠告(ちゅうこく)しておこう。だれかの記憶(きおく)を選び取るなどぜったいできない。それに、自分のもとを(はな)れた記憶(きおく)断片(だんぺん)が自分の手にもどってくるなんて話も聞いたことない」
 しかし夫婦(ふうふ)は帰ろうとせず、なんどもバクに(たの)みます。メレはわけを聞きますが、ふたりは多くを(かた)りません。ただひとつ、おなかにいる赤んぼうの出産(しゅっさん)まえに完成させたいというのです。ならば実際(じっさい)採取(さいしゅ)してみればわかるだろうと考え、メレは記憶(きおく)(ひろ)いを教えることにしました。
 すぐに仕事をはじめた夫婦(ふうふ)はメレの仕事を見逃(みのが)すまいと一心(いっしん)模倣(もほう)し、おどろくほどの速さで熟達(じゅくたつ)していきます。星じゅう歩きまわり、どこからか希少(きしょう)記憶(きおく)断片(だんぺん)採取(さいしゅ)しては工房(こうぼう)に持ち帰り、結晶化(けっしょうか)させ、それは見事(みごと)加工(かこう)をほどこします。
「あなたたちのような作品は一流(いちりゅう)マイスターでもかなわない」と、メレは感嘆(かんたん)の声をあげます。
 記憶(きおく)の星にきてからしばらくのこと。(つま)のおなかはだんだんと大きくなり、もうすぐ出産(しゅっさん)の近いことはだれの目にもあきらかでした。メレは一度故郷(こきょう)に帰るよう言いますが、ふたりはまったく聞きいれません。それでは()にあわないというのです。
「ではこうしよう。つぎにシロクジラがやってくる一週間後までにあなたたちの記憶(きおく)採取(さいしゅ)できなければ帰りなさい。そうでなければ工房(こうぼう)は使わせない」
 それからふたりはいつにもまして熱心(ねっしん)に星をめぐります。しかし、どうしても見つかりません。シロクジラのやってくる日まで、すこしもあきらめない夫婦(ふうふ)に心を動かされたメレは深いため息をつき、かける言葉もなく、(かな)しげに工房(こうぼう)へ帰りました。
 すると、あたりがいつもより(しず)かなことに気づきます——(すず)()と星が地面(じめん)にぶつかる()んだ音はやむはずないのに。なにかおかしいぞ。
 あまりの静けさに、なにごとかとメレは工房(こうぼう)を飛びだします。なんと遠くには赤と青の美しい()をひく星ふたつ、からみ合ったり(はな)れたりしながら宇宙(うちゅう)舞台(ぶたい)に、優雅(ゆうが)で、気品(きひん)あふれたバレリーナのように、くるくると()いおどっているではありませんか。
 なぜ流れ(ぼし)たちは月に(ちか)づくのをやめたか、メレにはすぐわかりました。エトワールのパドドゥのために軌道(きどう)をゆずっていたのです。祝福(しゅくふく)と少しばかりの羨望(せんぼう)をそえて、コール・ドは星の外縁(がいえん)でまたたいていました。そして一対(いっつい)の星はあるべき場所(ばしょ)、手をにぎる夫婦(ふうふ)の手にそれぞれ落ちたのです。メレはそんな美しい流星(りゅうせい)舞踊(ぶよう)(わす)れないよう目にやきつけました。
 夫婦(ふうふ)は赤と青の星をいそいでメレの工房(こうぼう)へ、ふたつ同時(どうじ)結晶化(けっしょうか)させると一体(いったい)となって(むらさき)色に、やがてふたたびわかれます。いよいよ(ふか)まる宇宙(うちゅう)静寂(しじま)のなか、夫はゆらめく紺碧(こんぺき)の剣を、(つま)はこうこうと燃える赤い宝石つきの指輪(ゆびわ)を。夫婦の手のうちで自然と記憶(きおく)はふたりの思いに(こた)えるように(かたち)となりました。
(しん)に美しい結晶(けっしょう)とは、(むす)ばれるふたりの愛の約束だ」夫婦(ふうふ)見守(みまも)るメレは、かつて()に教えられた言葉を思いだします。「もっとも、それほど貴重(きちょう)記憶(きおく)手放(てばな)(おろ)か者はだれもいないだろうが」
「先生はそれほどの結晶(けっしょう)を手にしたことありますか?」メレはまっすぐな目で()に言います。
 ()(わら)いながら、首を横にふりました。

 すべての工程(こうてい)()えた夫婦(ふうふ)はメレに感謝(かんしゃ)し、シロクジラで故郷(こきょう)に帰ってゆきました。
 わかれぎわ、メレはふたりにたずねました。
「あなたたちははじめから、おたがいの記憶(きおく)が流れ(ぼし)となるのを知っていたのですか?」
 夫婦(ふうふ)は見つめ合い、笑顔(えがお)で【手つなぎの約束】の秘密(ひみつ)について教えます。王さまはまいにちかかさず王妃(おうひ)さまの手を取り、王妃さまは王さまの手を(はな)してはならない、という約束です。そして流れ(ぼし)となった王さまと王妃(おうひ)さまの婚約(こんやく)新婚(しんこん)記憶(きおく)(わす)れないためでもあると。
 それから最後(さいご)にふたりはこう言いました。
「わたしたちは永遠(えいえん)につながる手を(とお)して、相手の星が引きよせられることをまったく信じていたのです」

金色あられ

金色あられ

 菖蒲は王子さまの首かざりから指輪(ゆびわ)をはずし、右手の小指(こゆび)にはめると、宝石は炎のように燃えて(かがや)きます。同時(どうじ)に流れ(ぼし)はぴたりと()み、あたりはぶきみなほどの(しず)けさにつつまれます。メレとシバは好奇心(こうきしん)恐怖(きょうふ)のいりまじった表情(ひょうじょう)夜空(よぞら)をあおいでいると、遠くのほうから無数の星がチカチカと数回またたきました。
「なにかくる!」
 シバの言うが早いか、金色の流れ(ぼし)はまるであられ(・・・)のように、こちらにむかってどっとふりそそぎ、パチパチとはじけては消えます。
「なんということだ!」と、メレはたじろぎます。
「アヤメちゃん、これでは小さすぎるよ!」シバはくるくるまわります。
「うん、わかってる」菖蒲は手を()んで目をつぶります。「()しわらの王子さま。わたしはあなただけをもっともっと知りたいの。教えて」
 金色のあられ(・・・)は菖蒲の願いにこたえるようにますます強くふり、みんな真っ白に(かがや)く光にのみこまれます。
 メレとシバはあまりのまぶしさに顔をそむけますが、菖蒲はゆっくりと目を(ひら)き——————
「ヘレム! ヘレム!」
 男子の……王子さまの声。草をかきわけ、深い森の斜面(しゃめん)をかけおりている。ここは山あいの国かしら。
 何年も、何百年も山にどっしりと根をおろす老樹(ろうじゅ)(こけ)むす木の根もとに、せいかんな顔つきの大男が堂々(どうどう)として立っている。
「ヘレム、今日はなにをしよう。どんな遊びをぼくに教えてくれるの?」
「王子、あなたの手をここにのせなさい」
 ヘレムはそう言って長旅(ながたび)(ろう)したであろうゴツゴツした手をさしだし、王子さまは(まよ)わず白くやわらかな手をヘレムの手の(こう)にかさねた。
「王子よ、約束するように。今から話すことは、きたるべき時がくるまで口外(こうがい)しないと」
「ぼくは【口止めの約束】を守り、あなたについて誰にも、父上や母上にだって話してやいないさ」
 ヘレムは満足(まんぞく)そうにうなずく。
「〝はい〟は〝はい〟を〝いいえ〟は〝いいえ〟を。ちいさな約束を守ることは大きな力となるのを(おぼ)えておきなさい。いつかおまえは大きな力を必要とする時がくるだろう。それゆえ今から秘密の約束を伝える」
 ヘレムは両手で少年の手をがっしりとつかむ。
()しわらとなり、かわききったおまえのくちびるを、この領域(せかい)のものではない、ひとりの少女が、心の井戸(いど)から()んだ水によってうるおすであろう。その時、青き剣は影にとりつく邪悪(じゃあく)な王を打ちやぶる力となる。その少女とは」
「その少女とは?」王子さまは声をふるわせる。
 ヘレムは顔をぐいと近づけ、王子さまを(した)しみのこもった(やさ)しい眼差(まなざ)しでのぞきこむ。
 王子さまの? ううん、わたしの目を、わたしの、そう、わたしの()よ!
「そうだ、アヤメ」
 景色(けしき)はぐんぐんうしろに流れ、美しい森からせせらぐ川、夕日に()える湖畔(こはん)牧歌的(ぼっかてき)な村で子どもたちは犬とかけまわり、朝にやくこおばしいパンの(かお)りまで(はな)にのぼる。城の(かべ)をなめるように上昇(じょうしょう)すれば、バルコニーに立つ美しい王さまと王妃(おうひ)さまはしっかり手をつなぎ、わたしにほほ()みかけ、こう言う。
「わたしたちはあなたも信じています」
 言葉とともに大地をこえて宇宙(うちゅう)へ。王子さまの記憶(きおく)から(ほお)りだされて、くるんと(さか)さまになり、月の手でぐいと引っぱられ、シバとメレとアヤメ、わたしがいるわ——————
「シバ! 王子さまの記憶(きおく)は北に落ちる。早く()いかけて!」
 菖蒲の(ゆび)さす方角(ほうがく)に、すさまじい速さで()をえがく大きな流れ(ぼし)は落下します。シバは地面をけりあげ、流星(りゅうせい)めがけて全速力(ぜんそくりょく)でかけだし、そのうしろをメレも鼻息(はないき)(あら)くついてゆきます。(のこ)された菖蒲は指輪(ゆびわ)を指からはずし、首かざりにしてもどすと、金色あられ(・・・)はぴたりと()み、住んでいた家のことを(わす)れました。
「アヤメちゃん! ここだよここ!」
 興奮(こうふん)したシバは金光(きんこう)のまわりをぐるぐるとかけ回っていました。菖蒲はかがみ、ためらわず記憶(きおく)断片(だんぺん)に両手を近づけようとします。
「だめだアヤメ! さわったら断片(だんぺん)(こわ)れてしまう」
「そうね」と、菖蒲はいく(・・)(おく)宇宙(そら)をたたえてメレを見つめ、「もし王子さまの記憶(きおく)でなければ」。そう言って金色の星を(ひろ)うと手の中でかがやき続けます。
「シバ、ありがとう。メレさん、工房(こうぼう)記憶(きおく)結晶化(けっしょうか)させてもよろしいでしょうか?」
 メレは言葉をうしない、ただうなずきました。

 やぐらのように高く()まれた掘削機(くっさくき)細長(ほそなが)煙突(えんとつ)目印(めじるし)に、メレの工房(こうぼう)はあります。ななめに()られた穴に丸い木の(とびら)がはめられ、『外出中』の(ふだ)をひっくり返すと『キオクザイクコウボウメレ』と書かれています。工房内(こうぼうない)は全面にしかれたモザイクタイル、ステンドグラスの丸い天窓(てんまど)、大きな杉板(すぎいた)のテーブルを中心に、加工(かこう)されたガラス細工(ざいく)(かべ)かけの木棚(きだな)にいくつもならべてあります。
「なんてすてきなのかしら」
 菖蒲は金やらでん(・・・)がほころぶ花のようにちりばめられてる、みごとな(もも)色の()びんに目をうばわれます。
「ああ」と、バクは()びんにふれて言います。「さきほど話した夫婦(ふうふ)がはじめて採取(さいしゅ)から加工(かこう)まで仕事をした作品だ。ほかのはすべて行商(ぎょうしょう)にゆずったけど、これだけは記念(きねん)(のこ)しておいたんだ。結晶(けっしょう)金彩(きんさい)(はい)るのはとてもめずらしいし、なにより、はじめてとは思えない景色(けしき)だから。これをながめるといつも思うんだ。まだまだたくさん美しい記憶(きおく)がある、とね」
 居間(いま)(おく)記憶(きおく)結晶化(けっしょうか)させたり加工(かこう)するための作業部屋(さぎょうべや)はありました。
「これらは作品となる前の記憶(きおく)結晶(けっしょう)だよ」
 メレは素焼(すや)きの平皿(ひらざら)にのせられたこぶしほどのガラス玉をさして言います。部屋のすみには口をななめにむけた白いるつぼ(・・・)が強い光を(はな)っていました。
「ガラスをとかすためには高い温度(おんど)が必要だけど、記憶(きおく)結晶化(けっしょうか)させるには強い光を集めなければならない。この特別(とくべつ)るつぼ(・・・)は月の光を集めているんだ」
 菖蒲は目をしばたたかせてるつぼ(・・・)の前に立ち、メレに言われるまま王子さまの記憶(きおく)(ほお)りました。するとパチパチ火花をちらして(おど)りはじめます。
「もうひとつ必要なのは……」と、メレは茶色い紙袋(かみぶくろ)(はい)ったあまいにおいのする虹色(にじいろ)金平糖(こんぺいとう)をスプーン()さじ一杯(いっぱい)ほどすくい、るつぼ(・・・)にいれました。
「お菓子(かし)みたい」
「月のもと(・・)ってとこかな。結晶(けっしょう)安定(あんてい)させるためにつかうんだ」
 菖蒲はなぜここで断片(だんぺん)加工(かこう)しなければならないのか少しだけわかりました。つまり、()れたての記憶(きおく)をすぐに結晶化(けっしょうか)する場所(ばしょ)素材(そざい)は月にしかないのです。菖蒲が納得(なっとく)していると、るつぼ(・・・)にある王子さまの記憶(きおく)(こま)かなつぶになります。
結晶化(けっしょうか)するまでやらなければならないことがある」と、バクは(ちか)くにたてかけられた長尺(ちょうじゃく)かくはん(・・・・)(ぼう)るつぼ(・・・)にいれて、ぐるりとかきまぜます。サラサラサラ、サラサラサラ……砂のこすれる音は工房中(こうぼうじゅう)に聞こえます。
記憶(きおく)、月のもと(・・)、光が均一(きんいつ)になるようこうしてゆっくりまぜる。砂の音がなくなるまでね」
「メレさん、わたしがまぜてもいいですか」
「もちろん。でもこの(ぼう)、アヤメにはすこし(おも)たいよ」
 メレはずっしりとしたかくはん(・・・・)(ぼう)を菖蒲に手わたします。
「かくはん作業(さぎょう)はまぜ手の思いによって結晶(けっしょう)のできあがりも()わる、繊細(せんさい)工程(こうてい)なんだ」
 菖蒲はメレと同じようにかくはん(・・・・)(ぼう)をまわすと砂金(さきん)金平糖(こんぺいと)はコロコロころがり、それはまるで大鍋(おおなべ)のシチューをつくっているような、ふしぎな感触(かんしょく)でした。
「つかれたらぼくを()んで。いつでもかわるよ」
「はい、わかりました」
 メレは菖蒲を(のこ)して出ていきます。そんな様子(ようす)をシバは遠くでうずくまり、うす目で見ていました。
「おかしい。ふつう、結晶化(けっしょうか)するまで半日、どんなに長くても一日かからない」イスにすわるメレはけげんそうに言います。
「でも、アヤメちゃんは昨日(きのう)からずっと、あのままだよ」と、るつぼ(・・・)の前で黙々(もくもく)とかきまぜる菖蒲のうしろ姿(すがた)を見て、シバはそう言います。
「まるで記憶(きおく)結晶(けっしょう)になるのを(こば)んでいるような……」
「だいじょうぶかな、アヤメちゃん」
「ぼくがかわろうかって言っても聞かないんだよ」
 菖蒲は王子さまの記憶(きおく)をだれにもさわらせたくありませんでした。それに、もっと知りたいとも思いました。これほど美しい金色なのですから、たくさんのすばらしい思い出や夢、おとぎ話であるにちがいありません。約束の力によって引きよせた王子さまの記憶(きおく)が菖蒲を信頼(しんらい)するまで、ゆっくりと待っていたのです。
「ねえシバ」と、メレはシバに耳打ちします。「ぼくには彼女(かのじょ)が人には見えないんだ」
 するとシバは思いだしたようにこう言いました。
「おじぃも同じこと話してたなあ。むかし見た(にじ)の女王さまに()ているとかなんとか」

 三日後、ついに砂の音は消え、まぜても空気のように、なんの感触(かんしょく)もありません。
「かくはん(ぼう)をひきあげてごらん」
 菖蒲はメレの言われたとおりにるつぼ(・・・)からあげると、かくはん(・・・・)(ぼう)の先に、ふわふわとしたわたあめがからまっています。
「こっちの作業台(さぎょうだい)(ぼう)の先をむけて」
 メレは白磁(はくじ)(さら)を一(まい)作業台(さぎょうだい)()きます。わたあめは白くにごり、ぽとりと大きな水滴(すいてき)(さら)の上に落ちて、おまんじゅうのような丸い形にかたまります。
「金色だったのに透明(とうめい)だね」
 シバはまんじゅうにうつるメレを見て言います。
「おかしい」と、メレは(うで)をくみ、首をかしげました。「あれだけ良質(りょうしつ)記憶(きおく)がどうして透明(とうめい)になるのだろう。失敗(しっぱい)はしていないはず」
「ねえ、アヤメちゃんはどう思う?」
 シバは顔を横にむけると、(こし)をおろした菖蒲はかくはん(・・・・)(ぼう)によりかかるようにして、すうすう(ねむ)っているのでした。

思いの像

思いの像

 うっすら目をあけるとモザイクタイルの天井(てんじょう)が見えました。ズキズキ(いた)両手(りょうて)にはぐるぐる包帯(ほうたい)()かれ、ベッドであおむけに()ているのだとぼんやり気づきます。遠くに()る流れ(ぼし)の音を聞き、すぐに王子さまの結晶(けっしょう)が頭によぎり、いてもたってもいられず、(ころ)がるようにベッドをぬけます。
 居間(いま)を通り、作業場(さぎょうば)に行くと、るつぼ(・・・)部屋(へや)をこうこうと()らしていました。そばのちいさな丸テーブルには無色の丸いビードロが白磁(はくじ)(さら)にのせてあります。
「アヤメちゃん()きたんだね、よかった」と、うしろからシバの声がします。「あれから三日くらい、ずうっと()ていたから心配(しんぱい)しちゃった」
「わたし、そんなに休んでいたのね」
「うん。でもメレはあれだけがんばったんだから当然(とうぜん)だって。ぼろぼろになったアヤメちゃんの手に特製(とくせい)軟膏(なんこう)をぬって手当(てあ)てしたんだ」
「そうだ、メレさんは?」
記憶(きおく)採取(さいしゅ)に出かけているよ。メレはそこにある王子さまの結晶(けっしょう)についてずっとなやんでいるみたい」
「どういうこと?」
 顔をくもらせる菖蒲に、金色だった王子さまの記憶(きおく)無色(むしょく)透明(とうめい)結晶(けっしょう)となったことをシバは教えます。
「どうしよう、わたしなにかまちがえたのかな」と、菖蒲は不安(ふあん)げに答えます。
「アヤメのせいではないよ」記憶(きおく)ひろいを()え、工房(こうぼう)に帰ってきたメレは言いました。
「ではなぜ色がないのでしょうか」と、菖蒲はメレに言います。
「ぼくにもわからない」メレはいかにもこまった様子(ようす)長棒(ながぼう)を立てかけ、作業台(さぎょうだい)そばのイスで一息(ひといき)つきます。
「アヤメが()ているあいだ、()(のこ)した作業(さぎょう)日誌(にっし)をくまなく調(しら)べてみたけど、そもそも色つきの記憶(きおく)から無色(むしょく)結晶(けっしょう)になるという記録(きろく)はなかった。無色(むしょく)記憶(きおく)多少(たしょう)の色をつけるという技法(ぎほう)はあるんだけど」
採取(さいしゅ)した王子さまの記憶(きおく)はもともと無色(むしょく)だったのかしら」
「いやいや、どうかな。あの時見たのはたしかに金色の記憶(きおく)だし、透明(とうめい)記憶(きおく)夢抜(ゆめぬ)けと()ばれてガラスと変わらない」
「そんな……」
 みんなの視線(しせん)を集める王子さまの結晶(けっしょう)について、それぞれなにがしかの原因(げんいん)(さぐ)ろうと低い声でうなります。もしやほんとうに価値(かち)のないたんなるガラスだったのでしょうか。
「わたしは王子さまの記憶(きおく)だと信じる」菖蒲はきっぱりと言います。「たとえなんてことないガラスと同じでも、だれにも見わけられなくっとも」
 そうです。菖蒲にとってはたくさん思いのこもった宇宙(うちゅう)でたったひとつの結晶(けっしょう)でした。道でひろった石に名前をつけ、みがいてテカテカにしてお菓子(かし)のカンカンにしまうように、まわりの人が石ころほどの値打(ねう)ちをつけても菖蒲には大事(だいじ)な宝物です。
「わかった」と、確信(かくしん)にあふれる菖蒲の顔を見たメレは笑顔(えがお)でうなずき、イスから立ちあがります。「アヤメがそう言うなら加工(かこう)工程(こうてい)にうつろう。仕事には敬意(けいい)を、達成(たっせい)には賞賛(しょうさん)を。()からの言葉だ」
「なんせアヤメちゃん、必死(ひっし)結晶化(けっしょうか)させたんだからね」シバは片目(かため)をぱちりとさせました。
「まずはその手を(なお)してから……」
「ほら」と、菖蒲は包帯(ほうたい)をするするほどいて、ふるえる手をゆっくり(ひら)いたり()じたりします。「ちゃんと動くわ。今すぐに加工(かこう)しましょう」
「しかしまめだらけの手では……」と、メレはためらいます。
「メレさん、おねがい」
「わかった」とだけ、メレはそれ以上(いじょう)なにも言わず、作業場(さぎょうば)となりの仕切(しき)られた、せまい部屋(へや)に菖蒲を連れていきます。
「アヤメ、ろくろの前にすわって下をけるんだ」
 菖蒲はくつ(・・)をぬいでたたみにあがり、スカートのすそをまくりあげ、ろくろのまえに(こし)かけます。メレは皿にある王子さまの結晶(けっしょう)をろくろ台の上に落とすと、まるでおもちのようにぺちっと台にくっつき、ふるふるゆれます。
「台の下の円盤(えんばん)をけってごらん」
 メレに言われたとおり、菖蒲は足元(あしもと)円盤(えんばん)をおもいきりけって台は反時計まわりにくるくると、上にのっていたゼリーも回転しはじめます。
加工(かこう)特別(とくべつ)技術(ぎじゅつ)はいらない。まわる結晶(けっしょう)にふれて思いうかべるだけでいい。そうすれば結晶(けっしょう)(かたち)になる。でも結晶(けっしょう)から手を(はな)せば二度と(かたち)をかえたり、もどせないから気をつけて」
 そう言ってメレはすぐに部屋(へや)をあとにします。加工(かこう)は思いをみだされるとうまくいかないのをよく知っているからです。刺激的(しげきてき)でワクワクしますが、とても神経(しんけい)をつかう作業(さぎょう)なのです。メレはろくろとむきあう菖蒲に、はじめて結晶(けっしょう)加工(かこう)をゆるされた(わか)い自分をかさねます。
 茶わんを(かたど)るよう()(めい)じられた弟子(でし)のメレは、緊張(きんちょう)した手つきでろくろをまわして結晶(けっしょう)にふれます。丸い(うつわ)を思いうかべ、しだいに茶わんの形がくっきり、もうすこし体裁(ていさい)をよくしようと()加工(かこう)したおごそかな茶わん、さらにはだれも考えないような変わった(うつわ)をつぎつぎと、古今東西(ここんとうざい)、まるで博物館(はくぶつかん)を旅しているような気分(きぶん)です。
 陶酔(とうすい)したメレはうっとりしていると、長い(はな)をひくひく、どこからか米としょう()のいい(かお)りがします。偉大(いだい)芸術家(げいじゅつか)メレ(さく)にして全宇宙(ぜんうちゅう)のディーラーやコレクターのほしがる芸術的(げいじゅつてき)茶わんにおにぎりひとつ置かれます。じんわり()みこんだしょう()炭火(すみび)でじっくりあぶられ、パリパリの表面(ひょうめん)をわれば、なかはふっくら白米(はくまい)のあまい蒸気(じょうき)につつまれます。——味噌汁(みそしる)とぬか()けもほしい。そうだ、今日(きょう)のお昼ご飯はなんだろう——。カレー、ラーメン、チャーハンにお寿司(すし)まで、大好物(だいこうぶつ)におぼれる姿(すがた)はまるでヘンゼルとグレーテル。メレのおなかはぐぅっとなって、思わず「あっ」と声をだし、結晶(けっしょう)から手を(はな)してしまいます。はじめての作品はきれいな三角(さんかく)(かたち)をした焼きおにぎりとなりました。
「焼き目がじつにすばらしいじゃないか!」と、落ちこむメレをなぐさめるように師|《》は言います。「メレ、自然な(ねが)いこそ最高の(かたち)なのだよ」
 ベテランの職人(しょくにん)はなんでも自由に結晶(けっしょう)(かたど)ることができます。(えが)かれた絵や詩、音楽など、加工師(かこうし)自己流(じこりゅう)のイメージわかせる方法をもっていました。
 (ゆた)かな色をもつ流れ(ぼし)が落ちていた時代(じだい)分業制(ぶんぎょうせい)で、記憶(きおく)採取(さいしゅ)結晶化(けっしょうか)そして加工(かこう)する職人(しょくにん)がそれぞれいて、なかでも加工(かこう)工程(こうてい)花形(はながた)でした。しかし、いつからか透明(とうめい)のもろい星ばかり落ちるようになり、職人(しょくにん)たちは仕事を()めてほかの星へと旅立ち、工房(こうぼう)もひとつまたひとつと消え、ついにメレだけとなりました。
 メレはちょっぴりにぎやかな工房(こうぼう)様子(ようす)気持(きも)ちが高まり、そんなむかし話を思い出していたのです。
「できた」加工(かこう)部屋(べや)から菖蒲の声が聞こえます。
「ずいぶんと早く()わったみたいだね」シバはメレに言います。
「ふつうはじっくり時間をかけるものだけど」と、メレは不思議(ふしぎ)そうに加工(かこう)部屋(べや)にむかいます。
「これはおどろいた」ろくろに置かれた作品を見たメレはたまらず笑ってしまいます。「美しい金色の星から(かたど)られた作品はなんとも質素(しっそ)な」
 たしかにそれはなんのへんてつもない、ただの()ビンでした。もしほかのガラスビンとならべたなら、まったく見わけがつかないでしょう。
「初めから決めていたのよ」菖蒲はは完成(かんせい)した透明(とうめい)()ビンを満足(まんぞく)そうに持ちあげて言います。「だって、井戸(いど)の水を入れるだけですもの」
「なるほど失礼した」メレは(かる)くせき(ばら)いをします。「宇宙(うちゅう)でアヤメだけが価値(かち)を知っている()ビンというわけだ」
 コンコン。玄関(げんかん)(とびら)のたたく音を聞いたシバは、菖蒲とメレのもとにやってきます。
「だれかお(きゃく)さんがやってきたみたいだよ」
「そうだ!」と、メレは目を大きくして手を打ちます。「行商(ぎょうしょう)のやってくる日だった」
「なにかを売りにくるのですか?」菖蒲はメレにたずねます。
「いいや、行商(ぎょうしょう)加工(かこう)した記憶(きおく)をゆずるのさ。かわりに食べものや日用品(にちようひん)とか、たまに珍品(ちんぴん)をもらったりする。アヤメの手にぬった即効性(そっこうせい)ナンデモキクリームもそのひとつさ」
「わたしの手、だいじょうぶかしら」
 菖蒲がまゆをひそめて両手を見ていると、玄関(げんかん)(とびら)はばっといきおいよく(ひら)きます。
「やあ、ひさしぶりだね、メレ!」
 はつらつとした声で立っていたのは、青いふろしきをかついだ、グレンチェックのスーツにオレンジ色のちょうネクタイ姿(すがた)のシロウサギでした。

行商シロウサギ

行商シロウサギ

「ねえねえ、アヤメちゃん」
 シバはテーブルに置かれた()ビンをじっとながめ、のりまき(うめ)おにぎりをおいしそうにほおばる菖蒲に話しかけます。
「なあに、シバ?」
加工(かこう)したこの()ビンなんだけどさ、もしかして……」
「おばぁの家にあったガラスのしょう()さしを思いうかべたのよ」
「やっぱりそうだよねぇ。いやあ、どっかで見たなと思ったんだ。でもさ、あれだけたいへんな思いをして手にいれた結晶(けっしょう)だから、おかしなこといってはよくないと思ってね」
「なんで?」菖蒲はあっけらかんとしてお茶をすすります。「すてきな(もも)色の()ビンみたいにしようと考えてたけど、なんだかおなかすいてきたの。これはいけないって必死(ひっし)に王子さまを思いうかべてたら納豆(なっとう)(はん)が……」
「まさか、カサカサ()しわらからのネバネバわら納豆(なっとう)からのしょう()からのおばぁってこと?」
 菖蒲は()をのりだして目を丸くするシバの耳もとに手をそえ、ひそひそ小声で、「そのまさかよ、シバ」。ふたりはしばらく遠くに目をそらし、ぷっとふきだしてくすくす笑います。どんな(かたち)の小ビンでもよかったとはいえ、まさかおばぁの家にあるしょう()さしと同じものだとはだれも考えつかないでしょう。このことは菖蒲とシバだけの秘密(ひみつ)になりました。
 作業(さぎょう)部屋(べや)商談(しょうだん)()えたメレとシロウサギは居間(いま)にもどって来ると、楽しそうに(かた)をゆらす菖蒲を見て言います。
「どうしたの。なにかおもしろいことでもあったのかい?」
 菖蒲はあわてて両手(りょうて)をふり、「いいえ、なんでもないわ。ね、シバ!」
「う、うん。なんでもないよ。ね、アヤメちゃん!」と、シバは首をふります。
 でも、考えれば考えるほどおかしくて、ゆれるおなかをおさえる菖蒲とシバのへんな顔に、メレはどうしたものかと首をかしげました。
「ちょっといいかな、アヤメ。こちらは行商(ぎょうしょう)のシロウサギ、アルネヴだ。加工(かこう)した結晶(けっしょう)取引(とりひき)をまかせる最高の友さ」
「はじめまして」()すじをピンとのばしたシロウサギは菖蒲の前に立ち、手をさしだします。「わたしはサトウと宇宙(うちゅう)をまたにかける行商(ぎょうしょう)シロウサギのアルネヴです。ご入り用の品がありましたらいつでもおっしゃってください。当店(とうてん)では宇宙(うちゅう)(ちり)から星にいたるまで、お客さまの所望(しょもう)する(しな)をすばやく提供(ていきょう)いたします」と、あく(しゅ)(かわ)わして、いかにも自信(じしん)ありげな表情(ひょうじょう)会釈(えしゃく)しました。
「はじめまして、わたしはアヤメです。アルネヴさん、金色の記憶(きおく)結晶化(けっしょうか)させたら透明(とうめい)になった理由(りゆう)をどうしても知りたくて。よければ見ていただけますか?」
「もちろんですとも。わたしもたいへん興味(きょうみ)あります。金色の結晶(けっしょう)など、なかなか目にすることのできない博物館級(はくぶつかんきゅう)(しな)ですから」
 菖蒲は加工(かこう)した透明(とうめい)()ビンを手わたすと、アルネヴはまじまじと見つめます。
「うむむ。これはとてもむずかしい(しな)だ。どこからどう見てもガラスの()ビンにしか思えない。しかし材質(ざいしつ)記憶(きおく)結晶(けっしょう)。金色の星と言われなければ、よくでまわっている色抜(いろぬ)(ひん)でしょうね」
「そうなんだ」メレはうなずきながら、「でも、ぼくは金色の記憶(きおく)をこの目ではっきりと見た。それに、結晶化(けっしょうか)まで立ち会っているからほかの断片(だんぺん)もまざるはずない。もっとも、ほかの記憶(きおく)とまじったら共振(きょうしん)して、結晶化(けっしょうか)されず、われるけど」
「なるほど」と、するどい目つきのアルネヴはあごに手をあてます。「ますますむずかしいね」
「そのしょうゆさ……」みんな考えこんでいると、シバは言います。
「シバ!」
「ごめんごめん」と、シバは菖蒲に(した)をへっへと出して「結晶(けっしょう)についてもっとくわしく知っている人はいないかな? たとえば、ボクの先生に聞いてみるとか」。
「シバ、いい考えね!」
「なるほど!」アルネヴはふたりの話にわって入ります。「それならどんなものでも見定(みさだ)める鑑定士(かんていし)がいますよ。その鑑定士(かんていし)に見てもらえば、あるいはなにかわかるかもしれない」
「アルネヴさん、よければわたしを鑑定士(かんていし)さんのところまで連れていっていただけませんか」
「もちろん」と、アルネヴは喜んでうなずきます。「わたしも()ビンの秘密(ひみつ)について、ぜひとも知りたいのでね。だが……」
問題(もんだい)ありますか?」
「ええ、ひとつだけ。宇宙(うちゅう)を旅するためには旅券(パスポート)が必要なのですよ、ミス・アヤメ」
「そんな」と、菖蒲はこまったように(むね)に手をあてます。「わたし、持っていません」
「すばらしい」アルネヴは菖蒲の手を見て、おどろいたように言います。「持っているではありませんか!」
「どこに、ですか?」と、菖蒲は自分の体を見まわします。
「あなたの手の(こう)に光るのは海の領域(せかい)()べる女王テティスの認印(にんいん)です、ミス・アヤメ」
 なんと、おばぁの()してくれたくじら(・・・)模様(もよう)のスタンプは宇宙(うちゅう)()てまで旅できる特別(とくべつ)なしるしだったのです。
「よかったねアヤメちゃん。これでボクの役目(やくめ)も果たせたよ。あとは先生の家に帰って報告(ほうこく)しなきゃ」
「ありがとうシバ、ほんとうに助かったわ」菖蒲はシバをだきしめ、頭をなでます。「あなたのおかげで、王子さまの記憶(きおく)を見つけることができたんですもの」
「ひさしぶりに旅ができて楽しかったよ、アヤメちゃん。それにボクたちだけの秘密(ひみつ)もできたね」
 菖蒲はメレにも感謝(かんしゃ)をつたえます。
「こちらこそ、貴重(きちょう)体験(たいけん)ができてよかった」と、メレは答えます。「アヤメを見て記憶(きおく)採取(さいしゅ)がもっと深い仕事であるのを知ることもできたし」
「よし、ではさっそく鑑定士(かんていし)の住む星へむかおう。少し長い旅になります。ミス・アヤメ、わたしについてきて。仲間(なかま)と家を紹介(しょうかい)しましょう」
 アルネヴは菖蒲をせかすように工房(こうぼう)の外に連れだします。おどろいたことに、とても大きな白いザトウクジラは(そら)()い、目をこらすとその()箱型(はこがた)の家がぽつんと乗っかっています。
「サトウ、これから鑑定士(かんていし)の星まで一緒(いっしょ)に旅をするミス・アヤメだ」アルネブがそう言うとシロザトウクジラは菖蒲に近づきます。「こちらがわたしの旧知(きゅうち)(なか)にして商売(しょうばい)相棒(あいぼう)のシロザトウクジラのサトウです」
「はじめまして、アヤメです。サトウさん、お世話(せわ)になります」
 サトウの目はぎょろりと会釈(えしゃく)する菖蒲をとらえてほそめ、ゆっくり大きな口を()けます。
「はじめましてぇ、サトウでいいよぉ。とってもかわいいむすめさんだねぇ、よろしくぅ」
 かんたんなあいさつをすませてから、アルネヴはサトウの背中(せなか)の家からたれさがるなわ(・・)に足をかけ、手をさしのべます。
「どうそ、こちらへ」
 そう言って菖蒲を()きよせたアルネヴはなわ(・・)をぐいとひっぱると、家のそばにある大きな滑車(かっしゃ)がくるくるまわり、ふたりはサトウの()まで一気(いっき)に持ち上がります。「わたしの家へようこそ」と、菖蒲の手を(やさ)しくつかみ、箱型(はこがた)の家までエスコートしました。
 天井(てんじょう)()けた部屋(へや)(ゆか)には見事(みごと)なペルシャじゅうたんが、その上にシックな黒ぬり木製(もくせい)ダイニングテーブルとイス、周囲(しゅうい)(かべ)はいくつもの大きなつづらで仕切(しき)られ、ハンモックまでぶらさがっています。
小旅行(しょうりょこう)(まち)のホテルで休めるが、長距離(ちょうきょり)はここで()とまりするのです。なれると居心地(いごこち)もよくなる」と、アルネヴは言います。
(かく)()みたい」と、菖蒲はどきどきして言います。
 するととつぜん、テーブルの上に置かれた銀のペントレイやガラスのアルコールランプはカタカタ鳴り、部屋(へや)全体がぐらぐらゆれて、菖蒲は(ころ)げないよう、近くのイスに手をかけます。
出発(しゅっぱつ)合図(あいず)だ」と、アルネヴはふらふらよろめく菖蒲を連れて部屋(へや)を出ます。
 ついた先はサトウの頭上(ずじょう)で、ぐるり一望(いちぼう)できる甲板(デッキ)のようでした。地上を見下ろした菖蒲はサトウの大きな影、そしてちっさなバクの工房(こうぼう)とシバやメレを見つけて手を大きくふります。
 わん曲した地平線(ちへいせん)はみるみる球体(きゅうたい)に、幾何学(きかがく)模様(もよう)となった月にはいくつもの流れ(ぼし)がぶつかり、まるで打ちあげ花火のようでした。
 菖蒲にはなんだか月と流れ(ぼし)()かれあって見えます。それは月が(のぞ)んでいるのか、流れ(ぼし)(ねが)いなのかわかりません。どちらも言葉や声はないからです。でも、だれもそうでないと決めつけられないでしょう。なぜなら、すべてのことを知っている人などいないからです。それに、星くずほどちょっぴり知っていたとしても、ほんとうに正しいかなんてだれにもわからないのですから。
「ねえアヤメ」王子さまの()ビンを(むね)ににぎりしめる菖蒲は流星(りゅうせい)ちりゆく花火に目をうるおわせ、言いました。「大砲(たいほう)じゃなくクジラで月にいくってヴェルヌが聞いたら、きっと(こし)ぬかすわよ」
 やがて月は甘納豆(あまなっとう)のように、だんだんまわりの星と見わけのつかないほどつぶつぶになります。
「ミス・アヤメ」アルネヴは菖蒲に(うで)をさしだします。「そろそろティータイムなのですが、よろしければ、わたしの招待(しょうたい)をうけてもらえますか?」
「もちろん、よろこんで!」

「いやはや、すごいものを見たもんだ」(そら)をあおぐメレはぼんやり言います。「しかも二度」
「でもね」と、シバはメレの()にむかって話します。「ボクの先生がよく言うんだ。〝二度あることは三度あるぞ〟って」
 メレは大笑いしてから(かた)をすくめ、工房(こうぼう)に消えていきました。

夜明けぬバザール

夜明けぬバザール

 菖蒲とアルネヴは夜明(よあ)けぬバザールを歩いていました。夜明(よあ)けぬバザールは名のとおり朝がやってきません。それで(まち)はガス(とう)やお店の()かりで()たされ、ネオンはあざやかな光をはなっています。通りに店が(のき)をつらね、服飾(ふくしょく)陶器(とうき)貴金属(ききんぞく)にきらきら(かが)宝石(ほうせき)から隕石(いんせき)までなんでもならんでいます。へんてこりんな形の野菜や色とりどりのくだもの、工房(こうぼう)食堂(しょくどう)も集まり、(まち)全体はきらびやかで活気(かっき)にあふれていました。
「ここでは朝や昼といった考えはなく、そもそも時間のサイクルで活動(かつどう)しないんだ」
 アルネヴの説明(せつめい)によると、わたしたちはふつう、日がのぼると起きて、落ちれば()ます。しかしこの(まち)はずっと夜更(よふ)けなので、眠くなったらいつでも眠り、おなかがすいたらいつでも食事(しょくじ)をする、というぐあいに、それぞれの生活リズムで()らしているのです。それで、菖蒲のような旅人はバザールの時間の流れがおどろくほどゆっくり、じれったく感じるでしょう。
「どうやって待ちあわせするの?」
「しないさ」菖蒲の質問(しつもん)にアルネヴはとうぜん、といった顔で言います。「そもそも待ちあわせる、という考えはない。会いたいと思ったらすぐ会いに行くし、いなかったらまた今度(こんど)でいいやって」
 菖蒲は自分の領域(せかい)では時間を正確に知らせる時計を中心に生活はまわっていること、決められたスケジュールで動くことや、どこでも居場所(いばしょ)を知らせたり、みんなとつながるちいさな機械(きかい)を持っていることを教えます。
「うわあ、なんてめんどうなんだろう」と、アルネヴは立ち止まり、顔をゆがめて、「効率(こうりつ)わるいし、なにより窮屈(きゅうくつ)でどうかしてしまうよ。時計を手にしたいらだつシロウサギなど考えられない」。
 ふたりの歩く大通りでは、おめかししためんどりが子供たちをつれ、ヒョコヒョコ歩いて楽しみにしていたフルーツパーラーへパルフェを食べに行きます。中折れ(ぼう)にステッキを手にしたハシビロコウはウィンドウショッピングをしているのか、はたまたぼーっとしているだけなのでしょうか、ブティックの前でどっしり立ちつくし、オーナのヒョウ夫人がこまり()てています。秘伝スパイスで有名なカレーショップ『ピッグ』のにおいに(さそ)われたクマは行列(ぎょうれつ)をなし、通りをへだてたむかいの同じくカレー屋『カウ』も負けてはいません。
「しょうじき、わたしはおすすめしないよミス・アヤメ」と、アルネヴは言います。「スパイスは悪くないけど、どちらもひどく薄味(うすあじ)なんだ」
 (まち)広場(ひろば)もたいそうにぎやかで、(つま)の買い物につきあわされた(あわ)れな(おっと)ライオンは大きな箱と手さげ(ぶくろ)を両手に、なんとかバランスをたもっていました。広場(ひろば)中央(ちゅうおう)ではスパンコールドレスに、くるっとカールさせた大きなまつ()のホッキョクオオカミが、アコーディオニストヤマネコの伴奏(ばんそう)で『ポラーノの広場のうた』を歌いあげると、あまりの美しい声にみんな立ち止まり、拍手(はくしゅ)をおくります。
「アルネヴ!」ホッキョクオオカミは聴衆(ちょうしゅう)をかきわけ、シロウサギを()きしめます。「帰ってくるなら手紙をちょうだい」
「ごめんよミセス・レイラ。常夜(とこよ)歌姫(うたひめ)()ばれるきみの声を聞けて、ぼくは(しあわ)せだ」
「あなたのためならいつでも」
 すると、近くのキリンやサイもアルネヴを見るなり()きついて、古い友人との思い()ばなしに花をさかせます。菖蒲は近くのベンチに(こし)かけ、いく百もの動物たちがめいめい買い物や商談(しょうだん)などで行き()う、ぎらぎらした川の流れに目をやります。男の人、女の人、子どもやおとなといった影の(かたち)も自然と()けこんで、たくさん行ったり来たりしていました。
 さて、アルネヴが来るのにもう少し時間もかかりそうなので、記憶(きおく)の星を離れてから夜明けぬバザールまでに起きた旅のお話しをしましょう。
 シロザトウクジラ・サトウ号の乗組員(のりくみいん)となった菖蒲はハンモックにゆられ、遠く広がる(あま)(がわ)星座(せいざ)を結んだり、アルネヴの仕事の手伝いをしていました。アルネヴの買い集めた珍品(ちんぴん)は、(かべ)のようにつみ(かさ)なる黒塗(くろぬ)りのつづらにつめられ、菖蒲はてきぱきと整理(せいり)してカタログを作ると、取り引きに持っていきます。
「アヤメのおかげで商談(しょうだん)がスムーズに成立(せいりつ)するよ」と、アルネヴは満足(まんぞく)そうに言いました。
 ティータイムになると手に()れた新しい(しな)を菖蒲に見せて説明(せつめい)します。菖蒲はそれをじっと聞き、時には質問(しつもん)したりして楽しんでいたのです。
「アルネヴ、あなたのいれたお茶、いい(かお)り。さわやかな酸味(さんみ)もあっておいしい」と、菖蒲は言います。
「さすがミス・アヤメだね。これは特別(とくべつ)にゆずってもらった花茶(はなちゃ)なんだ」アルネヴは人さし指を立てながら得意(とくい)げにこたえます。「希少(きしょう)な星のかけらをどうしてもほしいという(きゃく)がいた。はじめはどうしようか(まよ)ったけれど、千年に一度しか()かない花をブレンドした茶葉(ちゃば)を出されてしまっては(ことわ)れなくて」
(かお)りの正体(しょうたい)はその花というわけね」
「ああ、でもおいしさの秘密(ひみつ)はそれだけじゃあない」と、アルネヴは玉虫(たまむし)色の(つつ)を出します。「ある村に伝わる伝統的(でんとうてき)方法(ほうほう)でね、この特別(とくべつ)茶筒(ちゃづつ)熟成(じゅくせい)させるんだ。はじめはもっと酸味(さんみ)がたつだけど、だんだんとミルクのようにまろやかになっていく。そしてほんのりハニーのあまみがあるけど、くどくならない」
「なるほど。たしかにいつも飲むお茶とはまったく別物(べつもの)ね。でもアルネヴ、わたしはミルクというよりチョコレートのような、なめらかさだと思うの」
「チョコレートか、いわれてみればまろやかの表現(ひょうげん)だとミルクチョコレートに近いのかもしれない」と、あごをなでるアルネヴ。
「わたしのテイスティングはこうよ。口にふくむとまず上品(じょうひん)なローズ、酸味(さんみ)はそれほど強くないけど、かんきつよりも()しぶどうの深み。それになめらかなカカオティーのようで、シナモンとか複雑(ふくざつ)なスパイスの余韻(よいん)。きっとそれがこのお茶のみりょくね」
 菖蒲はソムリエのように身ぶり手ぶり、いきいきと感想(かんそう)を語ります。
「すばらしい!」アルネヴは菖蒲をまじまじと見て、「ミス・アヤメ、わたしとお茶の商売(しょうばい)をはじめよう。これほど(ゆた)かに表現(ひょうげん)できるのだから、きっとわくわくするような出会(であ)いがあるにちがいない」
 出会(であ)い。アルネヴは口ぐせのようにこの言葉を使いました。行商(ぎょうしょう)の仕事を(えら)んだのも出会(であ)いだと話します。
「けっきょくわたしはせっかちということさ」
 オリオン座の南にある小さな星、アルネヴの故郷(こきょう)で食事をしていた時のこと。アルネヴはボルシチをスプーンですくい、菖蒲に言いました。
「手紙と同じでナマケモノにも出会(であ)いは(とど)くだろう。しかしポストの前でそわそわしているキツネだっているし、郵便局(ゆうびんきょく)まで行くコッカースパニエルもいるかもしれない。わたしの場合(ばあい)……」
「友人の家まで()しよせる、せっかちシロウサギね!」菖蒲の(あい)づちにアルネヴの十人兄弟は大笑いします。
 菖蒲はそんな〝せっかちな〟シロウサギといろんな星に出会いました。かに()に住むカルキノスのふみつぶされたお話しは(なみだ)なしでは聞けませんでしたし、こと座シェリアクで開かれた舞踏会(ぶとうかい)は海の女王の(むすめ)とまちがわれ、ワルツを(おど)りました。おひつじ座にある羊だけの星は思い出してもおかしな話しです。秘薬(ひやく)・ケムクジャラシを飲んだアルネヴは全身(ぜんしん)()()モフモフになってふくれあがってしまい、毛刈(けが)りバサミで()ったら、今度(こんど)はつるっつるの(はだ)になりました。
 そんなこんなで気づいたら目的地(もくてきち)鑑定士(かんていし)の住むバザールに到着(とうちゃく)していた、というわけです。アルネヴは菖蒲をたいへん気に入り、一緒(いっしょ)に仕事をしようと何度も(さそ)いましたし、菖蒲もシロウサギの前むきな性格(せいかく)が大好きでしたので、ふたりはすっかり意気投合(いきとうごう)し、心を(ゆる)す友となりました。もし()しわらの王子さまのお話しがなければ、アルネヴと行商(ぎょうしょう)の旅をしていたことでしょう。

「ミス・アヤメ。()たせてしまってすまない。みんなどうしても(はな)してくれなくって」
 アルネヴは申しわけなさそうに菖蒲に近づきます。
「ううん、いいのよ。再会は大切にしないとね」
「ありがとう。さあ、きみとの約束を果たそう」
 商店街(しょうてんがい)のあいだにいり()迷路(めいろ)のような(ほそ)路地(ろじ)(はい)ると、一転(いってん)して静かな雰囲気(ふんいき)ただよう店がみっしりとならび、ハーブやスパイスの調合(ちょうごう)、かわった趣向(しゅこう)の服、フェルトぼうし、手織(てお)りじゅうたんを売っていました。そのさらに奥、うす(ぐら)い道のつきあたりの、ジジジ、ジジジと音をたて、ついたり消えたりする赤むらさきの『定鑑レェシア』と、書かれたネオンサインで足を止めます。
「ここがわたしの修行先『アシェレ鑑定(かんてい)』だ」
 アルネヴは木の(とびら)()けると、店内(てんない)はコレクションケースにアンティークなのかガラクタなのかわからないアクセサリーや食器(しょっき)などが雑然(ざつぜん)()みかさなって()いてあります。細工(さいく)のほどこされた大きなつぼ、ホコリかぶったかっちゅうが今にも(たお)れかかってきそうなほどです。商品(しょうひん)をくずさないよう横むきに奥へ奥へ進むと、金色のアクセサリーをじいっと見つめる赤いセータを羽織(はお)り、フィンチ(がた)メガネをかけた(ろう)ヒツジがイスに(すわ)っていました。
「先生、おひさしぶりです」
「字がつぶれておるのぉ」アルネヴのあいさつに(ろう)ヒツジは気づかないようで、毛むくじゃらの頭をかきながらブツブツとひとりごとを言います。
「その幾何学(きかがく)模様(もよう)は、おそら百万年前、超新星爆発(ちょうしんせいばくはつ)でなくなった(まぼろし)の星ペイポンで作られたペンダントではないでしょうか?」アルネヴはヒツジのそばで言います。
「ふむ、わしもそう思うんじゃが、(うら)刻印(こくいん)がすこしちがうようでなぁ。あとで打ったのか、それとも意図的(いとてき)なのか……」と、(ろう)ヒツジは顔をあげアルネヴをじいっと見つめて目を大きく(ひら)きます。「やあやあ、アルネヴか! ひさしぶりじゃぁのぉ」
「おひさしぶりです、先生。かわらず元気そうで」
 (ろう)ヒツジはゆっくり(こし)をあげ、アルネヴとあく(しゅ)抱擁(ほうよう)()わしました。
「しばらく顔を見せないとぉいうことは商売(しょうばい)上々(じょうじょう)ってやつか。サトウは元気かい?」
「はい先生。サトウも先生によろしく、と。さすがに連れてくることはできませんから」
「イッヒッヒッヒ。わかっとる、わかっとる」
「さっそくですが、先生に鑑定(かんてい)していただきたい(しな)があります」
「わしにとな」と、(ろう)ヒツジはすこしおどろいたように言います。「おぬしのほうが目も()えておるじゃろうて」
「いえ、先生には遠くおよびません。鑑定(かんてい)の前に紹介(しょうかい)したい人がいます」
 アルネヴに()ばれ、前に一歩出た菖蒲はおじぎをします。
「はじめまして、わたしはアヤメといいます」
「ほうほう、これはかわいい実体(じったい)の子どもか。わしの名はアシェレじゃ」と、言って会釈し、菖蒲の手にキスをします。
鑑定(かんてい)していただきたいのは記憶(きおく)結晶(けっしょう)です。ミス・アヤメ、見せてもらえる?」
「わかったわ」と、菖蒲は()ビンをポケットから取りだし、アシェレに手渡(てわた)します。アシェレはつくえにかがみこむようにして鑑定(かんてい)をはじめました。
 フタを()けてみたり(そこ)をのぞいたり、つくえの上にゆれるアルコールランプの光にあててコンコンと(やさ)しくたたき、なでてからことりと置きました。
「で、アルネヴ、おぬしの見立ては?」
「はい。よくある透明(とうめい)記憶(きおく)結晶(けっしょう)だと思います。ただ……」
「ただ?」
「金色の流れ(ぼし)から結晶化(けっしょうか)したと聞いていますので、透明(とうめい)であるにはなにか理由(りゆう)があるのかと」
「ふむ。ではすこし質問(しつもん)を変えようか」おっとりした(ろう)ヒツジ・アシェレは心を見透(みす)かすようなするどい視線(しせん)をアルネヴにむけ、「もしなにも知らず、これをだされたなら、サトウの背中(せなか)()っとるおぬしの全財産(ぜんざいさん)交換(こうかん)するかな?」
 アルネヴの(かた)表情(ひょうじょう)的確(てきかく)な言葉を(さぐ)ろうと目は(およ)ぎ、緊迫(きんぱく)した空気が店内(てんない)に流れます。
「いいえ、交換(こうかん)しません」
理由(りゆう)は?」
損失(そんしつ)可能性(かのうせい)が高く、利益(りえき)は見こめないからです」
「つまり、色抜(いろぬ)けした、そこらにころがる()ビンというわけだ」
 アルネヴは思わず目をそらします。
 アシェレのヒゲにかくされた口もとはニヤリと動き、ひと(いき)ついてからメガネをはずして、つくえにある木製(もくせい)トレイに()き、すこしの沈黙(ちんもく)を楽しみます。それから数回(すうかい)まばたきをしてから大きなため(いき)をつき、「ああ、おぬしはひと(つぶ)のしんじゅのために全財産(ぜんざいさん)を売った、かの商人(しょうひん)にはまだまだ遠いのぉ」。
「どういうことですか、先生!」
「アルネヴ、おぬしが星間(せいかん)行商(ぎょうしょう)をはじめたいと言った時、わしの話しをおぼえているかね?」
「はい、アシェレ先生。よくおぼえていますとも。『常識(じょうしき)()てよ。近似値(きんじち)満足(まんぞく)するべからず。ただそのもの(・・・・)をのぞくように』わたしはいつも心にとめて仕事をしてきました」
「ふむ。()とは()()なるもの、(ぜん)微妙(びみょう)異同(いどう)にあり。(しん)(おの)()ることよ」それからアシェレは菖蒲に目をうつし、「アヤメくん、この()ビンはなんだと思うかね?」
 菖蒲はアシェレをじっとまっすぐ見て迷わず、「王子さまの記憶(きおく)で、わたしが結晶化(けっしょうか)加工(かこう)をした金色の()ビンです」。
 アシェレは笑顔(えがお)でウンウンとうなずいて()ビンを持ち、それをアルネヴにわたし、「もう一度よく見てみなさい」。言われたとおり、しばらく鑑定(かんてい)しているとアルネヴの顔はみるみる紅潮(こうちょう)します。
「先生まさか、これはもしかして……いや、そんな」
「そう、アヤメくんはまちがっておらん」
「これがあの()きとおった純金(じゅんきん)……はじめて見ました。でも、あれは本の」
「いいかいアルネヴ。まったく未知(みち)なるものを前にする時、それまでの知識(ちしき)経験(けいけん)はただ邪魔(じゃま)となる。おぬしは透明(とうめい)記憶(きおく)色抜(いろぬ)けして価値(かち)をもたない、という常識(じょうしき)にとらわれ、()きとおった純金(じゅんきん)()びんをガラスの〝近似値(きんじち)〟で見た。しかもこの(しな)のむずかしいところは質朴(しつぼく)とした外見(がいけん)。だがここで重要(じゅうよう)なのは〝そのもの〟のもつ性質(せいしつ)ではないかね」
 アシェレは(いき)をのむアルネヴを教えさとしてから、こうつけくわえました。
「もっとも、わしもこの目で()るまでは、それが表現(ひょうげん)のひとつだと思っておったがのぉ」
「あの、()きとおった純金(じゅんきん)とはなんですか?」
預言書(よげんしょ)にでてくる伝説(でんせつ)鉱物(こうぶつ)で、ガラスのような純金(じゅんきん)ともいわれている」アルネヴは興奮(こうふん)をおさえるように声をふるわせます。「不純物(ふじゅんぶつ)を受けつけない精錬(せいれん)しつくした金……でも()たしてその説明(せつめい)が正しいのかどうかもわからない」
「ふつう」と、アシェレは言います。「記憶(きおく)結晶化(けっしょうか)させる時に思いがまじる。つまり、もとの色にまぜ手の色が影響(えいきょう)をあたえ、にごりは結晶(けっしょう)価値(かち)()むわけじゃが、この()ビンは金色(きんいろ)記憶(きおく)結晶化(けっしょうか)したとき、おそらくアヤメくんの思いによって精錬(せいれん)され、純度(じゅんど)(きわ)めた、と考えられるのぉ」
金色(きんにろ)結晶(けっしょう)でも、その希少性(きしょうせい)後世(こうせい)(かた)りつがれる品なのに、『()きとおった純金(じゅんきん)』であればいったいどれほどの……」と、アルネヴは()ビンをぼうぜんと見つめます。
 すると、店の入り口でがたりとなにかぶつかる音を耳にした菖蒲は店内(てんない)を見わたします。
「ミス・アヤメ、どうかした?」
「ううん、なんでもないわ。気のせいかしら……」と、菖蒲は首をかしげます。
「よほど深い意味(いみ)があるんじゃろうて。なあアヤメくん」アシェレはメガネに手をのばしかけてから菖蒲の顔をうかがいます。
 深くうなずいた菖蒲は、(とびら)のない中庭について話しはじめます。
「なるほど。わしは古い言い(つた)えで聞いたのぉ」
「わたしも旅のうわさで耳にしました。しかしアシェレ先生、どこかにある場所のようなものではないはずですが」
「それがね、アルネヴ」と、菖蒲は言います。「闇の門をくぐり、中庭の近くにまで行った人がいるのよ」
「闇の門か。それは考えになかったのぉ」と、アシェレは感心して言います。「しかし、あそこは光を受けつけぬ眠りに近いとされる領域(せかい)。いったん足をふみいれれば二度とはもどれまい」
「はい。それでもわたしは闇の門にむかいます」
「ほうほう」アシェレは菖蒲の目を見定(みさだ)め、笑顔(えがお)で、「その思いが奇跡(きせき)()ビンを()んだ、というわけじゃなぁ」。
「教えてください。闇の門へはどのようにゆけばよいのでしょうか?」
 アルネヴは不思議(ふしぎ)そうに答えました。
「ミス・アヤメ、このバザールこそ門のそばにある(まち)さ」
「ええっ!」菖蒲は思わず声をあげます。
 なんと、知らないうちに次の目的地にまで来ていたのです。

家出した影

家出した影

 アシェレ鑑定所(かんていじょ)(はな)れてすぐ、雨がしとしとふってきました。
 ガス(とう)やネオンの()かりはしめった水晶(すいしょう)のような石畳(いしだたみ)反射(はんしゃ)して、虹色(にじいろ)の水玉をうつしだします。菖蒲とアルネヴは家に帰ろうと頭をおさえ、路地(ろじ)を走ります。
「きゃあ」大通りへぬけようとした時、菖蒲はなにかと思いきりぶつかり、声をあげて水たまりにしりもちをつきます。
「ミス・アヤメ、だいじょうぶかい?」前にいたアルネヴはすぐに気づいて足を止め、手をさしのべました。
「うん、ありがとう」菖蒲は(いた)そうに(こし)をさすります。「だれかお店の横から飛びたしてきたみたい」
「あやまりもせず立ち()るなんて!」アルネヴは(おこ)りっぽく言いますが、菖蒲はまあまあとなだめ、サトウの待つ町はずれの(はら)っぱに急ぎました。

「ないわ!」
 ふかふかのタオルで頭をふくアルネヴは、あまりの大きな声にびくりと(かた)をふるわせます。
「アルネヴ、どうしよう。()ビンがないの!」顔色(がんしょく)をうしなう菖蒲は両手でびしょぬれのスカートをにぎりしめます。
「まずこれを」と、アルネヴはかわいたタオルをわたします。「先生の店に(わす)れたんじゃないのかい?」
「ううん」菖蒲は大きく首を横にふります。「あの時、たしかにポケットに()れたはずよ」
 そう言って服のすみずみまでなんども探しましたが、どこにもなく、もちろんアルネヴだって持っていません。
「もしかして、さっきぶつかったときに落っことしたのかも」
「それはたいへんだ! あれだけ混雑(こんざつ)するバザールでは見つからないぞ」
 ふりしきる雨もそっちのけ、ふたりはあわてて事故現場(じこげんば)交差点(こうさてん)にもどります。
「どうしよう、どうしよう」菖蒲はあちこちふらふら、気もそぞろです。「()ビンをなくしたら王子さまを助けられない!」
「落ちついて、ミス・アヤメ」と、アルネヴは菖蒲の(かた)にそっとふれ、「だいじょうぶ、きっと見つかる。いいかい、わたしは先生の店まで道をたどるから、きみはこのあたりを(さが)すんだ」。こくりとうなずく菖蒲にほほえみ、路地(ろじ)の奥へ消えていきます。
 カサをさす動物や雨合羽(あまがっぱ)を着た影でごった返すバザールで人目もはばからず、(こし)をまげ、()べたにはいつくばるように探しますが、あれやこれやと不安はつのるばかりです。キラキラひかるガラスの細片(さいへん)目地(めじ)に落ちるていると、まさか()れてしまったのではないかヒヤヒヤして、もうたまりません。
「お願い、見つかって」ぶつぶつと念じるように、菖蒲は大通りをどんどんと歩き続けます。
 雨はやみ、いつの間にかにぎやかなバザールを(はな)れ、ちいさな屋台(やたい)のならぶ薄暗(うすぐら)い通りをぬけると、やがて周囲(しゅうい)は闇に()けこみ、()ロウソクの(あかり)にぽつぽつと()らされた一本道に出ました。
「このサキにススんではイケナイ……」
 最後(さいご)屋台(やたい)からひそひそ聞こえるささやきも()ぎ、ついに灯火(ともしび)すらなくなった時、ひやりと冷たい風に(かた)をふるわせた菖蒲はようやく頭をあげます。
 影のようなゆらぎは何十メートルの高さもある巨大な漆黒(しっこく)のアーチ門から(あらわ)れては消え、バザールのほうへ行ったり来たりしていました。
 ぶきみな往来(おうらい)を目にした菖蒲はあまりに(こわ)くなって()をむけると、アーチ門のほうから夜の海を()らす灯台(とうだい)のように、チカチカと光はいく()かまたたきます。菖蒲は一瞬(いっしゅん)、目を(うたが)います。なぜなら記憶(きおく)の星で見た、金色の流れ(ぼし)と同じ光だったからです。
 菖蒲は光にむかいますが、門に近づけば近づくほど、菖蒲の小さな体は深い闇のほうに()いよせられます。
 闇の中からねばり気をおび、もがきつつのばされた、影の肉は形作られ、男と女、ふたりから子供は()まれ、すぐに()けてうつろいます。菖蒲は一生(いっしょう)逆巻(さかま)き、重い足取(あしど)りでわずかな光にむかって進みました。こおこおと()く風にもまれていると、ふいに若い男と女は菖蒲の両脇(りょうわき)を歩き、まるで遠い日のうしなわれた時間の影法師(かげぼうし)が子を取りもどそうとしているような、消え()甘美(かんび)(かお)りに菖蒲は思わず手を差しだし、なんだか眠たくなってそのまま闇の中へ連れられます。
「サキにいってはだめよ」と、かすれる(ふえ)のような美しい声。
 菖蒲の手首をだれかがぐっとつかみ、門柱(もんばしら)に引かれます。夢うつつに見たのは金色の()ビンを手にしてうつむく菖蒲と同じくらいの少女の影でした。
「あなたは……」
 菖蒲ははたと気づきます。さきほどサトウのところへ走って帰る時にぶつかった人影(ひとかげ)、それが目のまえにいる少女だったのです。ほっと(むね)をなでおろした菖蒲はおどろかせないよう、ゆっくり近づき、笑顔(えがお)で口を(ひら)きます。
「はじめまして、わたしはアヤメ。あなたとお話ししたいの。いいかしら?」
 影の少女は下をむいたまま、ただ(だま)っています。
「ねえ、よければわたしの家であなたとゆっくりお話ししましょ」
 影の少女は静かにうなずきました。

「わたしはねサトウ、度量(どりょう)の広い聖人シロウサギだとは言わないさ。だけど今回ばかりはミス・アヤメにまったく、すこっしも同意(どうい)できない」と、サトウの頭の上で(うで)と足をどっしりとくみながら()そべるアルネヴは、ふてくされたように言います。「宇宙(うちゅう)にひとつとない歴史的(れきしてき)価値(かち)をもつ、いいや、どんなに形容(けいよう)してもあらわせないほど貴重(きちょう)()ビンを取られておこらないだけでなく、会うやいなや、お茶をごちそうしたいだなんて。し、か、も、雨の中懸命(けんめい)に先生の店まで探したのに、わたしは自分の部屋にすら()れてもらえない!」
 サトウは鼻息(はないき)をフシューっとあげます。アルネヴと長いつきあいなので、商談(しょうだん)がどうにもうまくいかない時はこうして頭上(ずじょう)愚痴(ぐち)をこぼすのも心得(こころえ)ています。それでアルネヴの機嫌(きげん)がよくなるまで、こうして聞いてあげました。
 
「ねえ、おいしいでしょ。とってもめずらしい(しな)なの」菖蒲は千年に一度しか()かない花をブレンドしたお茶を口にします。「さっきのウサギさんはアルネヴ。星渡(ほしわた)りをする行商(ぎょうしょう)で、すてきな紳士(しんし)よ。わたしたち、こうしてよくティータイムを楽しむの。旅のこととか星のこととか、お茶をしているとなんでも話したくなるわ」
「……わからない」うつむく影の少女はティーカップをソーサーに置くと、つまらなさそうに言います。「味もにおいもなにもかも。影だから。影にはいらないんだって」
 菖蒲は言葉をうしない、ただ(むね)がぎゅうっとしめつけられます。
「門の外にでてはいけないって言われたから……家出(いえで)したの」
「あなたはあの門のむこうの領域(せかい)に住んでいたの?」
 影の少女は軽くうなずきます。
「みんなそうよ。影はみんな同じ影。ただすこし、形がちがうだけ」
「あなたはなぜ、門から外にでてはいけないのかしら」
「自分をもつ影は、みんなの迷惑(めいわく)だからいけないって、お父さんが言ってた」
「そっか」と、菖蒲は少女を(あわ)れむように答えます。「ねえ、もしいやでなければあなたのお名前を教えて」
 影の少女は顔をあげ、首をかしげてふしぎそうに言いました。
「ナマエってなに?」

名もナイ

名もナイ

 名はなんのためにあるのでしょうか。区別(くべつ)するため、意味(いみ)価値(かち)を持たせるため、それとも自分や他人(たにん)認識(にんしき)するため? だれでも、あたりまえのように名前を持っています。そして多くの場合(ばあい)——好き(きら)いにかかわらず——名によって()ばれます。ですからだれかを知ろうとする時、あるいは知ってもらおうとする時には、まず名前をたずねたり自己紹介(じこしょうかい)をします。同じように菖蒲も少女の名をたずねました。
 でも影はそれらすべて必要としません。自分がだれか、またほかのものがなにかを知る必要はなかったのです。なぜならこの領域(せかい)で影は影として()みだされていたからです。バザールに行き()う影は(まち)のうつろいであり、光と闇の均衡(バランス)にすぎませんでした。街の住人も影を空気のように見ていました。いつも影を意識(いしき)して生活する人はいません。菖蒲も少女とこうして出会い、話さなければ、そうした影の存在(そんざい)について気にもとめなかったでしょう。
 名について問われた影の少女は今や知る必要が生じました。自分とはいったいなにが自分なのか、わたしはなにをもってわたしなのかを。
「あたし……あたし」と、菖蒲の前にすわる影の少女はいごこち悪そうに目をきょろきょろさせ、何度(なんど)小声(こごえ)で言います。
「あたしはナマエを知らない……でも」
「でも?」
「あたしはあんたのようになりたい。それで家出(いえで)したのよ。兄みたいに」
「あなたにはお兄さんがいるの?」
「兄と()ぶ影はあたしに兄妹(きょうだい)と言ってた。兄は外についていろいろ教えてくれた。そして闇の門から出てった。そして二度と帰ってこなかったわ」
「お兄さんはなんで出ていったのかしら」
「ほしいものがあるんだって。あたしもいつかそれをほしくなるだろうって」
 菖蒲は少し考えてから影の少女にたずねます。
「どうしてあなたはわたしのようになりたいの?」
 少女はひくっと(かた)をゆらし、「あたしも知りたい。オチャ……それにナマエ。だから……」
「だから?」
 少女は()ビンをにぎりしめたまま人形のように固まってしまいます。
 それを見た菖蒲はすべてを知り、うなだれる影をじっと見つめ、ただ耳をかたむけます。
「だから……だから……」
 そうくり返す少女の目から影の(なみだ)がぽろぽろとこぼれ落ち、菖蒲は表情(ひょうじょう)を変えず、ただながめていました。
 やがて少女は顔をあげ、ふるえる声でこう言いました。
「だから……あたしは……あたしはあんたの()びんを盗ったのよ」
 少女のつたない告白(こくはく)は菖蒲をゆさぶり、(むね)奥深(おくふか)くはいよいよしめつけられ、たくさんの思いが噴水(ふんすい)のようにわきおこります。自然とまゆは中央(ちゅうおう)により、目にあふれる水を止めようと口びるをかみました。
 そんな菖蒲の気持ちなどおかまいなしに、少女の顔はパッと(あか)るくなります。
「あたし、あんたが()ビンのこと話してるの聞いてた。これがあれば、あんたのようになれるんでしょ。だから使い方をおしえてちょうだい」
 菖蒲は少女にとても強い愛を感じ、はっきりこう伝えます。
「なれないのよ。その()ビンでわたしにはなれないの」
「うそね」少女はあきれたように首をふります「これには記憶(きおく)と思いがあるって、あんた言ってたじゃない」
「そうね、たしかに()ビンはたいせつな人の記憶(きおく)やわたしの思いがたくさんつまっているけれど、それを手にしたからといって、あなたはわたしのようにはなれないの」
「うそよ!」少女の金切(かなき)り声。
「おねがい、聞いて」菖蒲はおさない子どもをあやすように言います、「あなたはあなたで、わたしはわたしよ。あなたがどれだけ(のぞ)んでいても、ほかのものにはなれないのよ。なれない姿(すがた)になろうとしてもあなたを(きず)つけるだけ。心はあなたの空腹(くうふく)を満たしてくれはしない。それにもし、だれかになったとしても、ほかのなにかに変われたとしても、あたえられた本来(ほんらい)姿(すがた)ではないのに気づいたなら、それを知ったあなたはもっと(きず)つき(こわ)れてしまう」
「うそつき!」少女は首を横に強くふり続けます。「そうやってあんたは全部(ぜんぶ)あんただけのものにしようと(かく)してる! あたしはあんたのようになりたいの。あたしにはなんにもないんだから!」
「わたしは家族もないし自分の生まれた日すら知らないのよ。それでもあなたはほんとうにわたしになりたいと(ねが)うの?」
「大うそつきのあんたなんかにわかんないのよ!」少女は手にある()ビンをぎゅっとにぎりしめ、菖蒲を()めたてるようにはげしく、「あんたはあたしにない心がある。あたしにだってそれをもらえなきゃおかしい!」
「では交換(こうかん)しましょう」菖蒲はすっくと立ちあがり、興奮(こうふん)する少女に両手を差し出します。「わたしは(おも)う人のため、その()ビンがどうしても必要なの。だから、あなたにわたしの心の半分をあげる。そのかわり()ビンを返して」
「いいわ」少女はにこりと笑顔(えがお)で首を(たて)にふります。「それで、どうやってあんたの心をくれるわけ?」
 菖蒲は王子さまのつけていた首かざりから指輪(ゆびわ)をはずして右手の薬指にはめると、赤い宝石は炎のようにまっ()にもえてかがやきます。
「ただ、ひとつだけ約束よ」と、菖蒲は少女に言います。「あなたが()たされてわたしの心を必要としなくなったなら、返してほしいの」
「ええ、いいわ」
 少女の返事を聞いた菖蒲は(かた)に手をまわしたその時。
「アヤメはうそつきなんかじゃない!」身をひそめていたアルネヴがふたりのまえに飛び出します。「きみがわがままなだけなんだ!」
 ひどくとりみだすアルネヴは街まで聞こえるほど大きな声でさけび続けます。
「アヤメ、アヤメ! ぜったい、ぜったいにそんなことをしてはいけない! きみの美しい心が()かたれるなら、どれほど(くる)しむだろう。()けた心を探しもとめるアヤメはどんなにかつらい思いをするだろう。そんなのわたしは見ていられない! こんなのおかしい、まちがってる!」
 菖蒲は少女のむこうに立つアルネヴに母親のような笑みをうかべます。でもアルネヴははっきりと見ました。菖蒲の右目から(なみだ)が一つぶこぼれるのを。少女を強く()きしめると、産声(うぶごえ)のようなするどい音が稲光(いなびかり)とともに遠く天から落ち、菖蒲の薬指にある赤い宝石は鮮血(せんけつ)のようにほとばしり、おそろしさのあまりアルネヴは顔をそむけました。
 心が半分に()ける時、菖蒲はけっしてだれにも理解(りかい)できない内奥(ないおう)(いた)みを強く感じ、ただくいしばり、じっと()え、すべて受け()れます。それからふーっと息をすっかりはき、指輪(ゆびわ)をはずすと首かざりにもどし、お義姉(ねえ)さんを(わす)れたのです。
「アヤメ!」アルネヴはくずおれる菖蒲のもとにかけより、(かか)えあげます。「ああ……ああ、なんてことを」
 (あせ)ばむ菖蒲はアルネヴのひざで息をととのえてからまゆをひそめ、「アルネヴ、約束やぶったわね。わたしは話しおえるまで外で待っていてと言ったでしょ」。
「そんな、わたしはただきみが心配(しんぱい)で、いてもたってもいられなくて、それで、それで……」
「外で待ってて」
 しょげかえるアルネヴの()に、菖蒲はちいさな声で言いました。
「ありがとうアルネヴ、ごめんなさい」
 少女はとまどいながら菖蒲に近づき、()ビンを返します。
「あなたの名前、わたしがつけてあげる」と、菖蒲はミモザの(かた)にふれて言いました。「あなたの名はミモザ。ミモザよ」
 ミモザと呼ばれた影はこの時はじめて名の意味を知りました。目の前にいるのは菖蒲で、自分はミモザなのだと。
「よく聞きなさい、ミモザ。あなたはわたしが歓ぶとき喜び、わたしが悲しむとき哀しむの。わたしの痛みはあなたにとってとげ(・・)となり、わたしの辛苦はあなたにとってかせ(・・)となる。あなたにあげたものは、わたしなのだから」
 菖蒲はそう言い残してアルネヴのもとにかけて行きました。
 ひとりになったミモザは手のひらを見つめてから胸にあて、目を閉じます。
 これまでにない景色、かいだことのないにおい、おいしいと言っていた味、わきおこる感情(かんじょう)、だれかを(おも)い、笑い、(にく)み、泣き、時に()き、(ゆる)すこと。それらすべてはどんなにすばらしいものなのだろう、あふれるほど(ゆた)かなのだろう、ずっとそう考えていました。鳥の(つばさ)()に、大空をどこまでも()ばたき、魚の()びれを足に、大海原(おおうなばら)を好きなだけ(およ)ぎまわれるんだ。なにより大好きな兄がほしくなるだろうと言い(のこ)したものとはきっとこれだったんだ。そのために家出(いえで)をし、菖蒲のたいせつなものを(ぬす)み、ひきかえに自分の(ねが)いを手に()れました。
 でも、菖蒲の心の半分と名前をもらい、ミモザがいちばん最初に感じたこと、それは空虚(むなし)さでした。

闇の門口

闇の門口

 ミモザは菖蒲とアルネヴを遠くからそおっとのぞくと、なぜだか胸はずきずきと痛くなります。
——アルネヴはアヤメをとても心配している。アヤメはアルネヴといるといつも笑顔。でもふたりとも、わたしのしたことを口にはしない。
「それはね」と、心はミモザに教えます。「友情は疑いから守らなければ簡単に壊れてしまうものだからよ」
 ミモザは前より見えないものを知るようになりました。菖蒲の()かつ心がそうしていたのではありません。ミモザは初めから自分を持っていたのですから。
 胸の奥に感じる痛みをはやく取りのぞいてあげようとミモザは菖蒲のもとに駆け寄ります。
「アヤメ、あの、その……ごめんなさい」と、ミモザは恥ずかしそうに言います。「あたし、アヤメの大事なもの、盗んでしまった。それにわがままばかり」
 困惑するアルネヴに菖蒲は笑顔で目くばせし、ミモザを見て、優しくこう言いました。
「ミモザ、もちろん許すわ。だってわたしたち、友達でしょう?」
 すると、感じていた心の痛みはすうっとどこかに抜けていきます。ミモザは消えた痛みにむかってこう語りかけました。
——あたしがもし誰かを傷つけていたり、嘘を言って悲しませたのなら、またもどってきてほしい。あやまちに気づけるように。
 菖蒲とアルネヴはミモザをティータイムに誘い、みんなでテーブルを囲みます。金縁の白磁カップとソーサー、銀製のティースタンドには下からキューカンバーサンド、スコーン、一口サイズのケーキやマカロンがのっていました。
「うん、これもまたいいね。まえよりもっとまろやかになっているよ」と、アルネヴはあたためなおした紅茶をティーポットに持ってきます。
「なにを考えてるのアルネヴ」菖蒲はむすっとして言います。「茶葉のもつ本来の香りがまったく消されているわ。大切な客人にこんなお茶をだして、わたしたちのティータイムを嫌いになったら大変よ。今すぐに新しいのと交換してちょうだい」
「ええっ」と、アルネヴはおどろいたように言います。「このお茶、すごく貴重なのに」
「大切なレディをふたりもおもてなししていますのよ、紳士のアルネヴさん」菖蒲はすんとした顔で言い返します。「それとも、あちらのつづら(・・・)の上から二段目、右奥にしまう茶筒には、もっとすばらしいお紅茶を隠しているの、わたしが知らないとでも?」
 アルネヴはあきれてなにも言えず、お茶だけにしぶしぶ新しいものにいれなおします。
 そんな様子を見てミモザはくすくす笑うと、ふんわり立ちのぼるゆげが鼻に近づき、「とってもいいかおり」。自然とミモザは目を大きく開きます。
 菖蒲はミモザのティーカップにミルクをいれて紅茶をそそぎ、「どうぞ、めしあがれ」。
 紅茶を口にする客人をふたりのホストは固唾を飲んで見守ります。ミモザはまゆを寄せたりあげたり、そのたびに菖蒲とアルネヴの肩は上がったり下がったり、まるで落ち着きません。
「おいしい」ミモザは鼻からふーっと息を抜き、顔をあげます。「お茶はこんなにおいしいものだったのね」
 するとミモザの体全体は心地よくふんわり満たされ、なんだろうとテーブルを見まわします。
「それはね」と、心はミモザに教えます。「すてきな友人との憩いだからよ。あなたはみんなに歓迎されているの」
 ミモザはわきあがる幸せを知り、あふれる喜びを言葉にあらわしたいと思うようになります。
「あたしのために紅茶をいれてくれてありがとう、アルネヴ、アヤメ!」
「どういたしまして」アルネヴは笑顔でこたえます。
「アルネヴ、かわいい女の子に感謝されて照れてるんでしょ」と、からかう菖蒲。
「ミス・アヤメ、まさか、やきもち焼いている?」
 アルネヴは細目でニヤニヤしながら返すとほおをふくらませた菖蒲は顔をまっ赤にして、「そんなことないもん!」
 サトウまで大笑いすると部屋は大きくゆれ、ミモザはもっともっとうれしくなります。そしてこの時間がずっと続けばいいのに、と思いました。それで、幸せにこう語りかけます。
——あなたはずっと一緒にいてほしい。でももし、もしあたしがあなたを当たり前のように思ってしまったのなら、素直にありがとうって言えなくなったなら、どうかあたしから離れて。感謝を思い起こすために。

 ティータイムを楽しんでサトウとわかれ、三人でバザールへでかけました。
「見て、ミモザ。あそこで行列しているカレー屋さんは行列ができてるけど大味なんだって。そう言われるとならんで食べてみたくなるのよね。あっちも……」菖蒲はミモザの腕を引っぱってお店に走ります。
 どこまでものびる『スパゲッティ化現象アイスクリーム』、プカプカ浮かぶ『星の卵』を売るお店では誰よりも先に星の名前をつけることができます。ただし、みんなに自慢できるのは何十億年も先の話ですけど。
 宇宙乗りものショップでは高速ロケットのほかにも、おしりからもれるあの空気を利用した『クリーンヘネルギー新型バイク』がショーウィンドウに飾られていましたが、においの完全除去については今後の課題のようです。ちなみにそのとなりが焼きいものお店であるのは偶然でしょうか。
 古着屋さんのマネキンには裸の王さまが着ていたらしい『バカには見えない服』、雑貨屋さんのおすすめはジャックが植えた『天まで届く豆』と『金のたてごと』で、今なら『金のたまご』もセットでお安くしてもらえるようです。
 ミモザに刺繍(ししゅう)入りのボタニカルブラウスをあてがい、菖蒲の首にきらきらのネックレスをかけてみます。ふたりはなんでも手にとって、においをかいで口にしてたくさん笑いました。すごろくでマスを進めたりもどったり、時には一回休みとなるように、このお店に入ったかと思ったらまたあの店と、いつになったらゴールにたどりつくのでしょうか。アルネヴには手をつないであちこち歩くふたりの少女のうしろ姿が姉妹のように見えました。
 やがて大通りにならぶお店はぽつぽつと、あたりもうす暗くなり、ついに『ひそひそと聞こえるささやく屋台』までやってきました。
「このサキにススんではイケナイ……」
 屋台のそばにいるロウソクの燃える黒い炎はささやきます。
「きみたちにプレゼントしたいものがある」と、アルネヴは足を止めて、菖蒲に金色、ミモザには銀色のペアバングルをそれぞれプレゼントします。
「一生分の輝きを終えた星の腕輪だよ。小さなヒビにより、ふたつに割れてしまった鉱石を星細工職人(アルケミスト)の手によって固く引き寄せあう金と銀に変えたとされている。きみたちの友情にぴったりだと思って」
「アルネヴ、ありがとう」
 菖蒲はバングルを右手首に、ミモザは左手首につけます。
「行商はこの先に進むのを許されていない。市のあるところ、つまり最後の屋台までが許された領域(せかい)なんだ。ここでおわかれだね」
「アルネヴ!」菖蒲はアルネヴを強く抱きしめます。「あなたに会えて本当によかった。あなたはわたしの、とても、とても、とっても大切な友よ。また、あなたのティータイムに招待してもらえるかしら」
「もちろんさ、ミス・アヤメ。わたしたちのあいだに多くの言葉は必要としなかった。でもたくさんのすばらしい宝物に出会えたね。そしてこれからもわたしたちは出会うだろう」
「うん」
「どんな小さなことでも、きみのためならわたしは断らない。すぐにサトウとやってくるよ。約束する」
「ありがとう、アルネヴ。大好き」菖蒲はアルネブのほおに優しくキスをします。
 ミモザはいつまでも抱き合うふたりをながめ、胸が苦しくなります。
——そっか、わかれを知っていたアヤメとアルネヴはふたりで過ごしたかったけれど、貴重な時間をあたしにゆずってくれたんだ。
 仲のよい友や大切な人が離れると、かたく結ばれた心はどうにかつなぎ止めようと必死に探します。どこにいってしまうのだろうかと不安になるのです。それはさっき感じたうずく痛みとはまったく違う、いいえ、痛みよりずっと苦しくてやっかいな、いやせない傷となります。
——それなのにあたしはアヤメの心を半分にしてしまった。ねえアヤメ、あたしを友達と呼ぶのはどうして? なぜあたしを責めないの? あたしを強くしかりつけて、たくさんなじって、もっと怒って、避けてくれればいいのに。大切なものを盗む、姑息(こそく)でみにくい影だと憎み嫌えばよかったのに。そうすればあなたはこんなに大きな傷をかかえないですんだのに。
「それは違うわ」と、心はミモザに語りかけます。「ただ分かちあいたかったの。言葉にできないあなたへの想いをどうしても知ってほしかった。妹のような家族の愛を」
——ああ、あたしの内うちにまかれた、たくさんの悲しみよ! いつか約束を果たしたその時、おまえたちは喜びの花となれ。カタクリがいくどもいくども厳冬を越し、やがて早春の野山をひっそりとかざるように。あたしはその花をお姉さんにとどけよう。だから待っていてほしい。
 アルネヴに手をふり、菖蒲とミモザは闇の門に近づきます。
「アヤメ、あたしの手を離さないで。あなたの行きたい場所を知っているから」ごおごおとすいこまれるような強い力に粘るような深い闇のなか、ミモザは左手で菖蒲の右手をしっかりとつかんで言います。「あたしを信じてくれる?」
「ええ、もちろん」と、菖蒲はすぐに答えます。「あなたと出会う前から。いつも、いつも。ずっと、ずっと」
 こうして、ふたりは闇の門をくぐり抜けていくのでした。

人と影による交唱

人と影による交唱

 闇は()(きり)のように立ちこめています。視覚(しかく)の闇か、はたまた感覚(かんかく)なのかわかりません。目を()けていても閉じても、まっ暗闇(くらやみ)だったからです。少し前にいるミモザも、菖蒲自身さえも見えず、しめった空気は体につめたくまとわりつき、ぶきみな風がほおをかすかになでます。ふたりのコツンコツンとガラス板をたたくような足音だけはどこまでも反響(はんきょう)して聞こえます。闇の領域(せかい)はてんじょうの高いお(どう)でしょうか、それとも広いどうくつなのでしょうか。
 まったくなにもわからない暗闇(くらやみ)で、唯一(ゆいいつ)感じられるのは右手からつたわるぬくもりです。菖蒲はミモザと手をつないで歩いていました
「ミモザ、あなたは今、どこにいるかわかるの?」
 菖蒲はそうたずねると、ミモザの声だけ返ってきます。
「ええ、でも前よりわからなくなってきてる」
「なぜかしら」
「門を出て光を知るようになったから。闇がかすんで見える。でもだいじょうぶ、あの場所は兄と何度も行ったからおぼえてる」
「お兄さんと?」
「うん。ずっと前、兄は闇の領域(せかい)にやってきた男の子をそこまで(みちび)いたの。お(れい)にイシュをもらったって喜んでた。兄はあたしを連れ、いつもそこで男の子の帰りを待っていたわ。でも、もどってくることはなかった。そのあと、兄も」

 一分、一時間、一日、一週間、一年……どれくらいの時間がすぎたのでしょうか。菖蒲はだんだんと時間がもどっているようなおかしな感覚(かんかく)におそわれ、くらくらしてきます。それにもしここでミモザの手を(はな)したなら、迷子(まいご)になってだれも助けてくれません。いつまでも闇の領域(せかい)にさまよう自分の姿(すがた)想像(そうぞう)すると不安になります。もっとわるいのは、頭で思いえがく情景(じょうけい)がまるで目の前でおこっているようにはっきり見えるのです。
 ついに歩き(つか)れた菖蒲はうずくまり、頭をひざにのせて休んでしまいました。
「助けて」と、少女のうわずる声。
 菖蒲は立ち上がり、声のする(ほう)へよろよろ歩きます。
「どこ? どこにいるの?」
「なにも見えないの。なにも、なんにも」
「助けて」
「どこ? どこにいるの?」
「見えないの。なにも、なんにも」
「わたしを助けて」
「どこ? どこにいるの?」
「助けて」
「どこ」
「見えない」
「あなたはだれ?」と、菖蒲はミモザに言います。
「いけないアヤメ!」と、ミモザはぐっしょりぬれた菖蒲の手を強くにぎり、「あたしを(うたが)わないで!」
 悪夢(あくむ)から()めたように、菖蒲の呼吸(こきゅう)(あら)く、心臓(しんぞう)はドキドキと強く打ちます。
「ミモザ、わたし……」
「しーっ、静かに。闇の(あるじ)はアヤメを排除(はいじょ)しようとしている。そうよね、パパ!」
 ミモザが声をあげた瞬間(しゅんかん)、菖蒲は()しつぶされるほどの強い力と視線(しせん)を感じ、あまりの寒さにぶるぶるふるえます。低いうなり声がいたるところから聞こえ、混濁(こんだく)した言語(げんご)はやがて菖蒲にも理解(りかい)できる音声(おんせい)へと変わります。
(ワレ)はおまえの父ではない」
 闇の(あるじ)の声は雷の落ちたような衝撃(しょうげき)で地面をゆらし、菖蒲は恐怖(きょうふ)で思わずミモザの(うで)にしがみつきます。
「はい。あたしは兄から聞いたのです」と、ミモザは落ちついた声で言います。
「影に兄弟などない」闇の(あるじ)は言います。「あれもこれも配列(はいれつ)誤差(ごさ)補正(ほせい)からでたガラクタにすぎん」
「ガラクタ……」ぼそりと菖蒲は(いか)りをこめてつぶやきます。
「それでも、あなたはパパよ。あたしは友人を連れてゆきます」
「好きにするがよい。しかし領域(せかい)調和(ちょうわ)をみだす影は相応(そうおう)のむくいを受ける(さだ)め。(おのれ)をもつ影よ、わきまえていよう」
「はい、(ばつ)は受けます」
「ガラクタめ、名は(おのれ)をあざむく言葉。あれがそうであったように」
 闇の(あるじ)は菖蒲にむかって言います。
「人よ、さだめられた領域(せかい)(おか)すに()きたらず、影に(じょう)をあたえ、つけこむなど。おまえたちの傲慢(ごうまん)が世界を破滅(はめつ)にいたらせたこと、もうわすれたか。それでなお口に(あま)く、(はら)には苦い言葉を()きつづけるとは」
「そうではない!」菖蒲は闇の(あるじ)に力強く反論(はんろん)します。「どんなものも同じと見てはいけないとわたしは教えられた。だからわたしにとって同じものはない。影もまた」
「アヤメ、気にしないでいいのよ。もういきましょう」
 ミモザは闇の(あるじ)から遠く(はな)れるように菖蒲の手を引き、ずんずん歩きます。
 すると、大勢(おおぜい)の影は菖蒲とミモザのまわりをかこみ、闇の(あるじ)の話す言葉を反響(はんきょう)させるように四方(しほう)から歌が聞こえてくるのです。

  おまえの下劣(げれつ)(うた)
   (ワレ)らに(あさ)

  おまえの醜悪(しゅうあく)な体は
   (ワレ)らにおぞましく

  おまえの低俗(ていぞく)(まい)
   (ワレ)らにつたなく

  おまえの卑猥(ひわい)(こえ)
   (ワレ)らに()えがたく

  おまえの…… おまえの……
   (ワレ)らに……  (ワレ)らに……

 くり返される交唱(こうしょう)は菖蒲の耳にまとわりつきます。くすぶる(いか)りに火をつけ、()えあがらせ、(にく)しみのマグマが奥底(おくそく)からふつふつとわきあがるのを感じました。
 容赦(ようしゃ)ない非難(ひなん)同調(どうちょう)感情(かんじょう)をぐしゃぐしゃにつぶし、自尊心(じそんしん)土足(どそく)でふみつけ、立ち(なお)れないようにしているのです。でもいったいだれを?
——わたしのミモザよ! ゆるさない!——
「あたしのために(おこ)らないで。あたしはそんなアヤメを見たくないの」
 ミモザは(いき)(あら)げる菖蒲をなだめます。
「でもミモザ、あなたをこわそうとしているのよ! なんにも知らないくせに! 闇に(かく)侮辱(ぶじょく)する卑怯(ひきょう)最低(さいてい)なものたち!」
「そう、パパもここにいる影たちも、みんな言葉の使い(かた)を知らないだけ。ねえアヤメ、あたしもそうだったでしょ?」
「でもあなたは……あなたはちがうわ!」
「ううん、あたしも知らなかったのよ、アヤメ。火によってやけどさせたり、あたためたりすることができる。言葉も同じだとあなたから教えてもらえた」
「でも……でも!」
 ましてゆく罵詈雑言(ばりぞうごん)無視(むし)してふたりは前へ前へひたすら歩き(つづ)け、ついに目的(もくてき)()につきました。下へとつづく、あのうす(ぐら)階段(かいだん)です。しかし、菖蒲は燃え広がる(にく)しみと、まとわりつく忿怒(ふんぬ)を消せず、目の前にある階段(かいだん)がまったく見えません。闇の(あるじ)はそんな菖蒲を誘惑(ゆうわく)しつづけていたのです。
「おまえが価値(かち)をあたえた、そこのガラクタのゴミクズは闇を永久(えいきゅう)にさまよい、無用(むよう)(じょう)をもったゆえに苦悩(くのう)する。()めた力を使え。スベテ破壊(ハカイ)シロ。()のムくままに。ラクニナレ、サア、チカラヲツカエ」
「ええ、指輪(ゆびわ)の力で(こわ)してやるわよ。あんたたちぜんぶ、ぜんぶね!」
 (げき)こうした菖蒲の右手はわなわなふるえ、(むな)もとの指輪(ゆびわ)にむかい、ミモザは必死(ひっし)()さえつけます。
「だめよ、アヤメ」
「ミモザ、手を(はな)して!」
「やめて、アヤメ」
(はな)しなさい! ミモザ! ミモザ!」と、どなりつける菖蒲。
 灼熱(しゃくねつ)憎悪(ぞうお)がミモザの手を焼いても、首を横にふり、けっして力をゆるめません。菖蒲の手をとり、闇の領域(せかい)(みちび)くことができて、ミモザはとてもうれしくて、なにより幸せだったからです。——これはいつものアヤメなんかじゃない。
「アヤメ、アヤメ……」と、こんどはミモザがなんども、なんども()びかけます。「あたしはあなたとの約束をずっとおぼえてる。おぼえているわ。だってあたしはアヤメの美しい琴線(きんせん)を持っているもの。あたし、アヤメのためになんだってしたい。今はすべてをあげてもいいとさえ思える。もう、あたしのぶんはなんにもいらない」
「でも、でも!」
「ううん、だからこそ、よ」ミモザは()けただれた両手でアヤメの手をにぎります。「さよならの時くらい、大好きな友だちに笑顔(えがお)でいてほしい。また会おうって、明日(あした)、また遊ぼうねって」
「あなたをこんなところにひとりでおいてけないわ」
 ミモザはこたえるように怒りでこわばる菖蒲のほおを右手でふれ、(やさ)しくなでます。ふたりはじっと見つめ、いよいよ魂に、()わす声はひとつの歌となり、つめたい闇全体(ぜんたい)に広がりました。

  あなたは聞くでしょう
  ()(すさ)非情(ひじょう)な風を
   それでもあたしは()えよう
   あなたは(きよ)らかな(こと)(おと)

  あなたは歩くでしょう
  光とどかぬ闇の(ふち)
   それでもあたしは(のぞ)もう
   あなたは空にまたたくアメジスト

  あなたはつなぐでしょう
  ()てつく孤独(こどく)の時を
   それでもあたしは()えよう
   あなたはあったかな暖炉(だんろ)(ほのお)
  
  あなたは(いだ)くでしょう
  みにくいわたしの本心(ほんしん)
   それでもあたしは(あい)そう
   あなたのあたえてくれた()かつ心

「よかった。いつものアヤメだ」
「わたしのミモザ! また会いましょう。会って一緒(いっしょ)にお買いものをして、一緒(いっしょ)にお茶を飲んで、一緒(いっしょ)に旅するの。あなたと見たいものや知りたいものがたくさんあるわ。ねえ、いっぱい、いっぱいよ……」
 あふれる(おも)いを伝えた時、菖蒲が笑顔(えがお)でいられたのか、それとも悲しい顔だったのか、菖蒲にはわかりません。暗闇(くらやみ)だったからです。でも、ミモザだけは知っています。ミモザが最後(さいご)に闇で見たのは、大好きな菖蒲の顔だったのですから。
 菖蒲は手をふってうす(ぐら)階段(かいだん)へ、()(おく)るミモザはやがて深い闇に消えてゆきました。

通路の消失点Ⅲ

通路の消失点Ⅲ

 うす(ぐら)階段(かいだん)をおりると、どこまでもまっ白な(かべ)通路(つうろ)には(まど)等間隔(とうかんかく)にならんでいます。あまりの長さに先は見えません。まるで(ちゅう)にういているような白い(まど)にガラスはなく、のぞいてみても、外に広がるのはやはり白でした。
 しばらく歩いていると、うしろにあった|階段《かいだんもだんだん遠くなって、やがて白とまじりあい、消えてしまいます。終わりのない通路(つうろ)の中心はひとつの黒い点のようで、こちらにむかっていつまでも大きくなることはありません。
 菖蒲は通路(つうろ)にたたずみ、しんみりと懐古(かいこ)(じょう)に満たされました。
 ()しわらになった王子さまを王座(おうざ)(のこ)してからどれくらい過ぎたのでしょう。いつのまにか時がたち、いろんな仲間(なかま)出会(であ)い、わかれて、ふたたびまっ白な通路(つうろ)に帰ってきたのです。まるで時計(とけい)(はり)が12時から12時へ一周したように。
「それなら0時に出発(しゅっぱつ)したことにして、たぶん今は12時ね。そうするとつぎは……24時にしよう。よかったわね、アヤメ。もう一周できるわよ」菖蒲はくすりと笑います。
 思い出したように右下、足もとあたりに目をやると、やはり文字が書いてあります。

  『ミエルモノガサキデワナイ
    ケレドモミエナクバサキニワユケナイ
     ゼンポウチュウイ 
      アシモトチュウイ』

 菖蒲は(かべ)文字のナゾナゾについて少し考えてみることにしました。
 まず〝ミエルモノ〟とはなんでしょう。
「それはきっと〝サキ〟よ。ここでいう〝サキ〟とは通路(つうろ)の先に見える点のことかしら。でも……」
 文字のつづきは〝デワナイ〟と、否定(ひてい)しています。
「じゃあ通路(つうろ)に見える点が〝サキ〟ではない、ということよね」
 それは前にもわかっていました。ですから〝サキ〟を手で(かく)して進もうとしたのです。一度目は木の(とびら)にぶつかり、二度目は地面の扉に足をひっかけましけれど。
「考えてみれば、二段落目の文字はフクロウ先生の(きら)いな逆説(ぎゃくせつ)の〝ケレドモ〟とつづいているわ。〝ミエナクバ〟とは、どういう意味(いみ)かしら?」
 見える消失点(しょうしつてん)をかくし、見えないようにしながら先へ進むこと、それがナゾナゾの答えであると菖蒲は解釈(かいしゃく)していました。〝ケレドモ〟消失点(しょうしつてん)をかくしながら進んでも〝ミエナクバサキニワ〟行けなかったので、実際(じっさい)にはナゾナゾの正しい答えではなかったのです。
「ということは、いずれかの文字の意味をかん(ちが)いしてるってこと?」
 菖蒲はふと、おじぃの言葉が頭にうかびました。
「おじぃは天体(てんたい)観測所(かんそくじょ)で、薄暗(うすぐら)階段(かいだん)をおりたところが中庭にもっとも近い場所(ばしょ)だと説明(せつめい)してくれた。だからわたしのいるこの通路(つうろ)の先が『中庭にもっとも近い場所』になるはず」
 菖蒲はこれまでの考えをまとめてみます。
 まず〝ミエルモノ〟とは『通路(つうろ)消失点(しょうしつてん)』でしょう。その消失点(しょうしつてん)の〝サキデワナイ〟つまり、『中庭にもっとも近い場所』ではないというわけです。でも〝ミエナクバ〟『中庭にもっとも近い場所』には行けません。
 では、どうやって〝サキ〟を見ることができるのか。
 菖蒲は文字をながめ、おじぃとの会話(かいわ)意味(いみ)をひとつずつ、注意(ちゅうい)(ぶか)く思い返しました。
————
「むずかしい表現をすると(とびら)のない中庭は形而上(けいじじょう)のもの、形であらわせない空間(くうかん)なのだよ。つまり(とびら)のない中庭は『()るが()い場所』とも言えるかもしれん。ところでアヤメちゃん、心はどこにあると思うかね?」
「それはわたしの(うち)にあって、胸のあたりでしょうか。でも考えるのは頭のほうにあるような」
「はっはっは。とても直感的(ちょっかんてき)でいい答えだ。(うち)にある、とはおそらく正しい。でも頭つまり(うの)は心とよばれるものを認識(にんしき)しているにすぎん。また多くの場合、胸のあたりに影響(えいきょう)をあたえたりもする。とどのつまり、心はあるにはあるが実際(じっさい)どこにあるか、そもそもあるかどうかすらだれも知らん、たとえば生命(いのち)もそういえるかの。アヤメちゃんの行きたい中庭はまさに神秘的(しんぴてき)な庭なのだよ……そこで、だ。(わか)いころ、わしは中庭に(はい)るため記憶(きおく)からたどってみることにした。心を存在(そんざい)する空間(くうかん)として、つまり(とびら)のない中庭そのものを心、中庭の壁は時間(じく)(ない)におけるあらゆる記憶(きおく)仮定(かてい)する。まったく記憶(きおく)のない、いわば無垢(むく)状態(じょうたい)から心にゆけるかアプローチしてみた。結果(けっか)としては近くまで、といったぐあいよ」
————
 菖蒲は残りの〝ゼンポウチュウイ アシモトチュウイ〟という文字を(ゆび)でなぞります。
「これはわたしがここを通るたびに話した声が言葉として壁に書かれた文字よ。つまり……」
 この通路(つうろ)の白い壁は『言葉の描写(びょうしゃ)』というわけです。
 では、最初のふたつの言葉を声に出したのはいったいだれなのでしょう?
「もしかしておじぃ、これはおじぃが書いた言葉なのね……そんな、まさか!」
 通路の仕組(しく)みを知った時、菖蒲は雷に打たれたように全身がぶるぶるっとふるえます。
〝サキ〟つまりなんと、この場所そのものが『おそらく中庭にもっとも近い場所』だったのです!
 菖蒲は旅のはじまりに目的地の一番近くにいたわけで、見えるけれど見えないとは、ただ気づくこと、認識(にんしき)さえすればよかっただけなのです。しかし、いったいだれがあの時、通路(つうろ)に書かれている文字はおじぃの言葉だと、(とびら)のない中庭にもっとも近い場所だとわかるでしょうか。
 では、これまで旅した時間は無意味(むいみ)まわり(・・・)道だったのですか?
——そうさアヤメちゃん。たいせつな一瞬(いっしゅん)さえすくいとれば、人生は思ったより長く、ややこしい時間すら(いと)おしく感じるものさ。
 遠くからおばぁが語りかけてくるようで、菖蒲は顔をゆるめます。
「おばぁ、わたしは今、たしかにそう思えるようになりました。きっとこれからも」
 ここまで歩いた長い旅路(たびじ)はどれも菖蒲のいとおしい思い出となっていたのです。

もっとも近い

もっとも近い

 チン、チリン、チン……
 ガラスの(うつわ)(ゆび)ではじいたような音が不規則(ふきそく)なリズムで聞こえたかと思うと、いつのまにか(かべ)に書かれていた文字と(まど)わくは、白化(はくか)したサンゴの破片(かけら)のようにボロボロとくずれて砂にうまります。
 あいまいな天地(てんち)境界線(きょうかいせん)、さらさらの白い砂、ころがり落ちている純度(じゅんど)の高い石英(せきえい)のような石、(あつ)くも寒くもない、どこまでも広がる荒漠(こうばく)とした大地に、ぽつねんと立つ菖蒲だけ色をもっていました。
 ぐるり見わたせば、まっさらなキャンバスと思っていた荒野(あらの)に、遠くへむかう足と、こちらへやってくる足が(そう)方向、菖蒲の前にくっきり(えが)かれています。まるでついさっき未開(みかい)の地に上陸した旅人がきざみつけた記念のように。
「これはきっとおじぃのだ。ここを歩いた(あと)がそのままのこっているんだわ」
 菖蒲は長い旅のすえ、ようやく中庭にもっとも近い場所にたどりつきました。
 偉業(いぎょう)をなしとげた感慨(かんがい)にふけるのもそこそこに、やわらかい砂に足をいれ、歩きはじめます。どこまでも続く荒野(あらの)をはじめにふみ進めたおじぃはいったいどんな気持ちだったのだろうかと考えながら。
 菖蒲の前には登山ブーツに大きなナップザックを背負(せお)い、カタンコトンとケトルやマグカップを打ち()らす、好奇心(こうきしん)にあふれた青年(せいねん)幻影(げんえい)が見えます。不意(ふい)青年(せいねん)はふりむき、目をきょろつかせ、口もとを数回動かし、ふたたび前に進みます。
 菖蒲はおじぃの足跡(あしあと)にそっくり足をかさね、ふみはずさないようついていきます。(くら)がりの道をミモザに手をひかれ歩いていた時のように。
「そっか、いまも同じね。もし、おじぃの足跡(あしあと)がなければきっと(こわ)かったはず。わたしはゆくべき場所にむかって(みちび)かれているのかな。それともわたしが(えら)んでいるのかしら。あるいはどちらもなの? ねえアヤメ、まっ白な世界にひかれた道は本当に正しいと思う? でも、道がなければ、はたしてわたしは意味を見いだせるのかしら?
 人生の雑踏(ざっとう)。人はゆきめぐり、風のようにあらわれては消えてゆく。わたしはいつもひとりぼっち。にぎられた友の手を(はな)し、時間にせかされながら、それでも前に進めと言うわ。さびしくはない、ねえアヤメ?
 うん、そうだ。わたしは(みちび)かれることも自由に(えら)べることにだって感謝(かんしゃ)しよう。手をひかれ、偉大(いだい)足跡(そくせき)をたどるとしても、物語のおしまいをまっとうしなければならないとしても、ただありがとうって。そしてわたしは笑顔(えがお)でまたね、と手をふろう。いつか会えるように。だれかがわたしをあざけったとしても、わたしは気にしない。だってわたしはアヤメを知っているもの」
 新しい気持ちで(むね)いっぱいになった菖蒲は、もうどこへでも飛んでいけそうなほど(かろ)やかな足取りで歩き続けました。そしてゴールテープがすぐそこまでやってきて観客(かんきゃく)歓声(かんせい)一身(いっしん)にあびながら両腕(りょううで)をあげるような走者になったつもりで、ついに最後(さいご)足跡(あしあと)をふみしめます。

「……やっぱり、中庭に(とびら)なんてなかったのね」
 (いき)をきらし、立ちつくす菖蒲は、ぼそりとそう言って、ひざを落とし、へたりこみます。なぜ反対(はんたい)をむく足跡(あしあと)もあったのか、ようやくわかりました。おじぃはこれを()(あた)たりにしてひき返したのです。
——果てしない皆無(かいむ)。ぷっつりとぎれたように先はなにもありません。まったくなにも。菖蒲が遠くに見たのは、地平線(ちへいせん)ではなく断崖(だんがい)絶壁(ぜっぺき)ふち(・・)でした。前もうしろも左右どちらも、なにもかもすべて、(はし)だったのです。大海原(おおうなばら)無風(むふう)となった帆船(はんせん)のように、かなたまで、いいえ、うしなわれた境界(きょうかい)から(のぞ)める白妙(しろたえ)()てを前にした菖蒲は完全に止まってしまいます。
 それは同時に挫折(ざせつ)を伝え、かすかな希望(きぼう)すら取りさり、空とも(くも)ともよべない無色の天はよけいに無力感(むりょくかん)をあたえます。はあっとため(いき)をつけば、さっきまでの気まぐれな高揚(こうよう)一緒(いっしょ)(はね)をつけてあっというまに飛んでゆきました。
 菖蒲はうずくまって顔を(おお)い、くつくつ笑うと(かた)はゆれ、(はな)をすすります。
「おじぃ、あなたの忠告(ちゅうこく)は正しかった。それでも、きょうまで意地(いじ)でなんとかできると、本気で信じていたのです」

 あおむけになった菖蒲は赤い宝石のついた指輪(ゆびわ)を首かざりからはずし、ぼんやりとしばらく指輪(ゆびわ)をいじっていました。
 いつでも力となってきた赤い指輪(ゆびわ)はグレエンのつたえたとおり、使うたびに記憶(きおく)をうしなう、【忘失(ぼうしつ)の約束】がかけられています。それで菖蒲は約束に条件(じょうけん)をつけていました。
 まず右手に菖蒲の領域(せかい)での記憶(きおく)を、そして左手は王子さまの領域(せかい)記憶(きおく)にふりわけます。そうすればなにをすればよいか、忘れることはないでしょう。ただし、右手の指すべての力を使えば、王子さまが燃える影と()わした、この領域のものではない(・・・・・・・・・・・)少女が心の井戸から()んだ水によって(うるお)す、という【()しわらの約束】を守れなくなってしまいます。
 人差し指は街、中指は学校と友だち、小指は家、薬指はお姉さん。では最後の親指はなんなのでしょう?
 答えを知っていた菖蒲は起きあがってひざまずき、息をととのえ、指輪とむきあいます。
 ()っかに何度(なんど)何度(なんど)も親指を通そうと(ため)しますが、右手はいやがるようにブルブルふるえ、どうしてもすれちがいます。あれだけ、ためらわずつけた指輪(ゆびわ)なのに、今度ばかりは決心がなかなかつきません。アヤメは指輪の力で菖蒲を壊す、というはかりしれない恐怖(きょうふ)と戦わなければならなかったからです。意志(いし)()て、(がけ)から身を()げるように、あきらめて指輪に自分をゆだねるのだけはしたくありませんでした。

 やがて、ついに「さようなら、菖蒲」。小声でそう言って初めて、アヤメは気づきました。
 自分に手をふることは決してできないのだ、と。
 指輪が右手親指の関節(かんせつ)をくぐり、根もとにぴたりとくっついた時、赤い宝石は火花を()らし、こうこうと()えます。すると白妙(しろたえ)()てに一輪(いちりん)、大きなヒガンバナがゆっくりとほころぶように赤く()めあげました。
「ねえミモザ」うすれゆく意識(いしき)の中、()える赤い花はなんだかとても美しくて、菖蒲はうれしそうに目をほそめます。「なんてきれいなんでしょう。いつか……あなたと……」
 チン、チリン、チン……
 ガラスの(うつわ)を指ではじいたような音が不規則(ふきそく)なリズムで聞こえたかと思うと、少女は白化(はくか)したサンゴの破片(かけら)のようにボロボロとくずれて、砂にうまりました。

扉のない中庭

扉のない中庭

 そこは(とびら)のない中庭でした。
 まるで高くつみあげられた()み木の上に建つように、微細(びさい)な空気の振動(しんどう)ですら崩壊(ほうかい)へかたむこうとする緊張感(きんちょうかん)と、荘厳(そうごん)さが静謐(せいひつ)をまとって空間全体にただよっています。
 中庭においてあらゆる形は均等(きんとう)にわけあい、長さと太さのそろった青草が一面に()え、縦横比約一対一・六一八の長方形の地面と相似(そうじ)である無機質(むきしつ)(まど)は、四方(しほう)をかこむ磁器(じき)のようになめらかな乳白(にゅうはく)(かべ)等間隔(とうかんかく)でならんで上方(じょうほう)までずっと続き、天井(てんじょう)はなく、やわらかい光の(つぶ)がぽつぽつと中庭の井戸にむかって、ふりそそいでいました。
 長い黒髪(くろかみ)の少女は()まれたままの姿(すがた)で、いつからまぶたを()けたわけでもなく、ただ茫然自失(ぼうぜんじしつ)とあおむけになっていました。
 光の(つぶ)が目にとけこみ、まぶしくなって右手をひたいにあてます。親指にはゆらゆら赤く燃える宝石つきの金の()がはめてありますが、少女は気にすることなく、しばらくそのまま静止(せいし)していました。やがて、右腕(みぎうで)が重たくなり、ゆっくり上体(じょうたい)をおこし、周囲(しゅうい)観察(かんさつ)しはじめます。
 オリバナムとミルラがほのかに(かお)る中庭の中心には空気のような大理石(だいりせき)の白い井戸がうず()き、ふきぬけからそそぐ光の(つぶ)とまじりあい、ピカピカ(かがや)いています。そのまわりを大きくかこむように四隅(よすみ)に四本とそのあいだに二本、まったく同じ(かたち)をしたリンゴの木が合計六本、整然(せいぜん)とならんでいました。
 なぜここにいるのでしょう。少女にとってはまったく関心(かんしん)のないことでした。実際(じっさい)、少女は自分がだれであるかすらわかりません。そうした記憶はすべてないからです。そもそも〝わたし〟とはいったいなんでしょうか。なにをもって〝わたし〟といえるのでしょう。
 少女はどうにも親指にからまる異物(いぶつ)を取ってしまいたくなりました。この気持ち悪い指輪(ゆびわ)のせいでしめつけられ、息苦(いきぐる)しく感じるからです。ハーネスをはずした馬のように自由になろうと——それにしても〝自由〟とは?
 不快(ふかい)な輪に左手をかけようとした時、少女の(かた)になにかそえられ、顔を横にむけると、なめらかな手が、そこから伝わるふんわりとした心地(ここち)よさで全身は満たされます。
 少女は体をひねり、手から(うで)視線(しせん)をうつして、うすい(きぬ)をまとい、つばの大きな白く()けた帽子(ぼうし)をかぶった美しい女の園丁(えんてい)と顔を合わせました。 
 目を大きくして口もとがゆるみ、今にもキャッキャと笑おうとする少女のぷっくりとやわらかなくちびるに園丁(えんてい)の女はそっと指をあて、右手の親指をにぎり、少女の目をのぞきこみ、首を横にふります。あたかも「それをしてはいけない」と話しているかのように——でも、なぜ?
 園丁の女は少女から(はな)れてリンゴの木へ少しも音を立てず、空気のようにすうっと近づくと、みきを(やさ)しくさすり、となりの木も同じく、そのとなりの木も、といった具合(ぐあい)に六本の木を一本ずつ、ていねいに同じところを同じ回数なだめて(・・・・)いたのです。

 どれくらい時間が経過(けいか)したのでしょう。と、いっても中庭は時間に支配(しはい)されてはおらず、物体(ぶったい)制約(せいやく)された、たんなる空間(くうかん)でもありません。あれから園丁(えんてい)は少女を気にもとめず、延々(えんえん)りんごの木を愛撫(あいぶ)していました。もはや少女は指輪(ゆびわ)への興味(きょうみ)をなくし、()みを浮かべながら丸い目がじいっと園丁(えんてい)を追いかけました。まるでくり返される音楽に合わせ動く機械人形(オートマトン)のように。
 きっかけはなんでもないしぐさでした。少女が左手で右手首にふれ、金の()っかが引っかかります。ふしぎそうに手首を曲げてきらりとひかる輪っかを見つめると、少女の顔をうつし、こちらの目とむこうの目が合いました。そのときはじめて、これはなんだろう、なぜ見ているのだろうと考えはじめます。
——あなたはだれ?
 すると突然、いろんな感情(かんじょう)は四方八方から少女を(おそ)い、喜びがくすぐったかと思ったら、(かな)しみが()っぱります。(いか)りで(あつ)くなったり、楽しくてうきうきしたり、むなしくなって(しず)んだり、(おそ)れたり、安心したり……もうへんな気分(きぶん)です。
——どうしよう、わからない。なんだろう。わめけば、そうよ、(さけ)べば!
 しかし、くちびるに(のこ)った園丁(えんてい)の指のぬくもりで少女の口はぴったりとくっつき、どうしても(ひら)いてくれません。少女はおなかをかかえ、眉間(みけん)にしわをよせてむせび(・・・)少女(しょうじょ)周囲(しゅうい)にある青草たちがにわかにさわぎたちます。しぼりでるように(しずく)がひとつこぼれると、夕立ちのようにボロボロ止めどもなく目からたくさん水は流れはじめ、ほおをつたって落ちていきます。でも悲しいのかうれしいのか、なぜこれほど水があふれ出るのかわかりません。
 少女は(たき)をせき止めようと必死に手でぬぐいますが、いくらやっても止まらないのです。どうしようもなくなり、金の()っかにひたいをあてて力をこめながら、目を()じてしまいます。

——まっ(くら)居場所(いばしょ)。ああ、ここならだれも()めはしないなのね。でもここはどこかしら。
 ほっと安心する少女に、感情(かんじょう)はよけいからかって(かこ)み、少女をくすぐったり、おしたり引いたりします。
——やめて、やめてっ。
 闇の中で少女が苦しんでいると、ささやきが遠くから、やがてこちらに近づいてきて、はっきりと聞こえるようになります。
「あなたのたいせつな人のために水を」
——あなた?
「あなたの(した)う人の(かわ)いたくちびるに井戸の水を」
——人は?
「あなたの想う人のために水を」
——水は? わたしとはわたし?
「あなたの愛する人の(かわ)いたくちびるにあの井戸の水を」
——わたしは……わたしは……

 少女はおそるおそるまぶたを開き、金の腕輪(うでわ)にうつる、ゆがんだもうひとりの少女をじっくり見つめます。それから顔をあげて、自然(しぜん)と体は動き、そろりと立ちあがると、(なみだ)でかすむ中庭の井戸へ、重い足どりで歩き出しました。
 園丁(えんてい)は手を止め、少女の様子(ようす)心配(しんぱい)そうに、はじめて立ち、ふらふらとこちらへむかってくる赤子を見守る母親のような面持(おもも)ちでながめていました。それでも、感情(かんじょう)(おもて)に出さず、あくまで中庭の園丁(えんてい)として少女の歩みを注視(ちゅうし)していたのです。
 言葉(ことば)にならない言語(げんご)が飛びだしてきてはぐるぐるとまわり、少女をさらに(なや)ませます。なにかを()たそうとする強い意志(いし)と、それをさせまいとする抑止力(よくしりょく)は少女の気持ちなど無視(むし)して()えずせめぎ合いました。
 ふみしめた青草はしなびて()れ、そこに多量(たりょう)(あせ)(なみだ)がまじり、ぽたぽた落ちると、(けが)された地面は足から全身にナイフで切り()かれるような(いた)みを少女にあたえます。少女はなんどもなんどもくずおれてはうずくまり、おきあがっては井戸に近づこうとします。なにもない少女にとって今やまったく意味(いみ)をもたない行為(こうい)ですが、そこにむかって歩き、(たお)れるのです。
 苦しみを理解(りかい)してもらおうと(さけ)びたいのに、また思いきり()きだしてしまいたいのに、両手を口にあて、ぐっとこらえます。小さな音の振動(しんどう)によって中庭の精緻(せいち)均衡(きんこう)をできるだけくずしてしまわないよう、ただそれだけの理由(りゆう)(しず)かに、ゆっくりと慎重(しんちょう)に歩かねばなりませんでした。
——でも、なんで? なんで?
 (なさ)容赦(ようしゃ)ない疑問(ぎもん)(はり)で少女の体をつき()し、また石で打ち、ついに少女は井戸の手前、すんでのところでもだえ、動かなくなります。
 それでも()むことなく、なんで? なんで? なんで? なんで、と。

「答えられないからつらいの。でも、あの声をたしかに知っている」
「おまえはなにも知らない赤子(あかご)のくせに」
「たしかに無力(むりょく)赤子(あかご)。でも、あの声は知っている」
「おまえに(うそ)をついているのだ」
「だまされているのなら、それでもいい」
「なにがいい、その(うそ)でおまえはこんなにも苦しんでいるのに」
「どうなったっていい。でも、あの声は知っている」
「なんとおろかな。(うそ)を信じて苦悶(くもん)するとは」
「それでいい、それでいいの。あの声を知っているのだから」
「そうやって自分を納得(なっとく)させ、なぐさめたいだけなのだ。身勝手(みがって)な女め」
「そう、奔放(ほんぽう)な女よ。だからりんごの木は一本なくなった」
「ぜんぶ、ぜんぶおまえのせいだ。たったひとつの(あやま)ちでなくなった」
「だから井戸を、あなたにだれかをうるおす水を()きあがらせたかった」
「ではそうするがよい。しかしおまえのことをけっして(わす)れはしないだろう。こうしておまえにいつも呵責(かしゃく)をあたえるのだ」
「ああ、それでもわたしは(ねが)う。いつか、あなたにりんごの木を。こんどは(ゆた)かに実を(むす)ぶように。そうしたら、どうか(ゆる)してほしい。それまで、さあ強く()きあがれ!」

 中庭は雪が()いあがるように分解(ぶんかい)していきます。
 少女は(のこ)ったすべての力をふりしぼり、白い井戸のふちに左手をからませ、起きあがると、王子さまの記憶(きおく)と少女の(おも)いでかたどった金の()ビンを右手に持ち、ふたを()けて息を止め、ふるえるその手をふちいっぱい、ひたひたに()られた透明(とうめい)な井戸の水のなかへ、そしてできるかぎり水紋(すいもん)を立てないようにそっと()みました。温かくも冷たくもない空気のような水はみずから、ちょうど必要な量だけ()ビンにむかっていきます。
 水が入った小ビンのふたを完全に閉めると、井戸もついにはらはらとくずれさり、少女もろとも取り()ろうとしました。
 その時、少女はうしろからだれかに(やさ)しく()きとめられます。
 冷たくなった少女の(たましい)を守るように慈愛(じあい)が、すべての息を()いて(かた)を落とし、緊張(きんちょう)はほどけ、力なく目をすっと閉じます。
「ねえ、なぜ()いているの?」
「それはね、わたしがあまりにも無力(むりょく)だったからよ」
「そんなことないわ。あなたはわたしを助けてくれた。わたし、知っているもの」
「あなたが井戸の水を()むまで、わたしはすこしも手を()すことを(ゆる)されなかった。これだけ近くにいるのに、あなたはなにもかも捨てたのに、たくさんの(いた)みのこれっぽっちも()ってあげられなかった」
「わたしは(あわ)になってもいいとさえ思った。でも、あなたがわたしの(かた)に手をのせた時、わたしのくちびるにそっと指をあてた時、わたしの右手にふれてくれた時、わたしが井戸にむかって歩いている時さえも、(やさ)しく(はげ)ましてくれたから、だからわたしはここにいる」
「ごめんなさい、アヤメ」
「ありがとう、リリィ」。

たりないもの

たりないもの

 数日、数十日……ベッドで横たわる菖蒲は高熱にうなされていました。
 そばに寄りそうリリィは、菖蒲のひたいに氷をあてて汗をタオルでぬぐい、水や重湯を口にふくませ、ふるえる体を抱いて頭をなでます。
 来る日も来る日も懸命(けんめい)に世話を続けていたある日のこと。はあはあと息をあげながら菖蒲は目をぱっと開け、もうろうとした意識でリリィを見て言いました。
「はじめまして……わたしはアヤメ。干しわらになってしまった王子さまをもどすためにここへきたのよ」
「はじめまして」と、リリィは赤くほてる菖蒲のほっぺたにそっとふれます。「わたしはリリーフロラよ。リリィって呼んでね、アヤメ」
「……リリィ、わたしね……わたし、知りたいこともあるし、教えたいこともたくさんあるの。だから……ねえ、聞いてくれる?」
「もちろんよアヤメ。でも今はダメ。あなたはたくさん傷ついたから、ゆっくり休まないと」
「ありがとう。わたし、うまくやれたかしら? 王子さまもどるかなぁ……よくなるといいな」
 かすれる声を吐きだした菖蒲は自然と目を閉じ、再び眠りに落ちます。
 リリィは愕然(がくぜん)として言いました。
「あなたはなぜ、ここまであたえ続けるの?」
 その答えを探すように、リリィは衰弱(すいじゃく)してゆく菖蒲を献身的に看病し、(なぐさ)め、たっぷりの愛情をそそぎました。しかし、穴だらけのふくろに水をたくさん入れても、水はダラダラもれてしまうのと同じで、愛を受け入れる能力を失った菖蒲にどれほど愛をそそいでも回復はしません。それでも、この方法しかなかったのです。
 菖蒲を治す薬は世界中どこを探してもありません。なぜなら菖蒲のたりないものはみんな持っていますが、目には見えず、たったひとつしかない、とても貴重なものだからです。菖蒲は指輪の大きな力でそれを分けあたえ、強引に足をふみ入れました。すると決壊した障壁(しょうへき)に意識や思い、感情など、ありとあらゆるものがどっと流れ、みるみるうちに菖蒲そのものを壊してしまいました。誰も近づいてはいけない繊細(せんさい)な場所、開けたり閉めたりする扉のない中庭の井戸はもはや枯れ、菖蒲を満たす水は失われてしまったのです。
「わたしはどうなってもいい、なんでもします。だからお願い、この子だけは、この子だけは助けてください。毎日、毎日、苦しみ弱り果てる姿を見ていられない」
 焦せるリリィは恐怖で胸がつまります。それもそのはずです。菖蒲の命はもうすぐ尽きようとしていたのですから。
「いっそわたしを拒否してくれたら、憎んでくれたらいいのに」と、リリィは自分の無力さを呪うように言います。「そうすれば良くなるかもしれない。でも、なにも求めないのはどうしてなの?」
 すると、菖蒲は不安げにリリィを見て、こう答えました。
「だって、(うそ)つくことになるから……わたし約束したのよ、リリィ……わたしはわたしにもう嘘はつかないと。だから、井戸は手おけほどの水を()むことを許してくれた。王子さまを助けると決めた時からすべて受け入れたの。だから……お願いリリィ、そんなわたしのためにわたしのこと、嫌いにならないで」
「わたしは好き、アヤメのこと大好きよ」声をつまらせ、リリィは首を横にふると、たまらず目から涙が、ぽろぽろと菖蒲にこぼれ落ちていきます。「わたし、中庭からあなたをずっと見ていたの。あなたも気づいていたでしょう? あなたがとってもステキな女の子で、どんなおどろくことも成しとげる強い子だって、わたし、信じて待ってたわ。だからはやく元気になって、一緒に王子さまのところに帰りましょう、ね?」
「うん」菖蒲はうれしそうにうなずきます。それから目を閉じて耳をすませ、「きょうは、どしゃぶりね……あす……は……」
 そうしてふーっと息をおだやかに吐いて、菖蒲は呼吸をやめました。
 リリィはわっと声をあげます。家の外まで聞こえるほど強く、大きな声で。
——泣いてこの子を返してくれるのなら! もし、幾万の涙がアヤメの慈雨(じう)となるならば、わたしはいつまでもふり続けよう。

 しばらくして、鍵のかかった家に、見知らぬ訪問者がやってきます。走って急いで寝室へ、菖蒲にすがるリリィのうしろで息をきらし、立ち止まりました。
「リリィ!」胸に両手をおしつけ、強くこぶしをにぎりしめます。「あたしはアヤメのためにやってきました」
 リリィは涙で腫らした顔でふり返ると、そこにいたのは菖蒲と同じくらいの女の子です。
「あなたは」
 ふりしぼるようなリリィの声に、少女はこくりとうなずきます。
「あたしの名はミモザ。ミモザと言います。助けを求めるアヤメの叫びが闇でさまようあたしにまで聞こえました」
 ミモザは菖蒲に近づくと菖蒲の右手に左手を重ね、ふたりのバングルは再開を喜び、チリンと音を鳴らします。
「ねえ知ってる? アヤメ。中庭であなたにささやいていたのはあたしよ」菖蒲の耳もとでひそひそとミモザは話しました。「今からアヤメとした約束を果たすわ。こんどはアヤメからもらったものを返して、あたしのをあげる番。いいよね、ゆるしてくれるでしょう? もしいつか、天高くのびてりっぱにそびえ立つクスノキのように、アヤメが元気になったなら、その時、あたしはアヤメの木に宿る黄色い小鳥になる。絶対、約束よ」
 ミモザは菖蒲に優しくキスをし、おでこをアヤメのおでこにあてました。
「あたしにミモザをくれてありがとう。ほんとうにうれしかった。だから名前だけはあたしのものよ、返さないからね、お姉さん」
 ミモザは菖蒲の両手をしっかりと強くにぎりしめ、たりないものを菖蒲に返し、自分のすべてを、なにもかも菖蒲にあたえました。こうして、()のさす影は満足そうに消えていったのです。
 すると、菖蒲の右手の親指にはめていた燃える赤い宝石のついた金色の指輪は火花を散らしてくだけさり、つむる左目から一しずく、キラキラとかがやく真珠(しんじゅ)のような涙がこぼれ落ちます。
 ふたたび息をはじめた菖蒲はその時から熱がひいて、もうすっかりとよくなっていきました。

むかしむかし

むかしむかし

「おとぎ話しに登場するお姫さまは王子さまといつまでも幸せだったってほんとかしら。リリィはどう思う?」
 ベッドで身を起こし、アイボリーカラーの厚いミルクガラスのマグカップを手にした菖蒲はリリィに質問します。
「そうねぇ」リリィはベッドそばのイスで菖蒲のブラウスに刺しゅうをしながら答えます。「いつまでも(・・・・・)幸せであることと、いつも(・・・)幸せであることはちょっと違うのかな」
「おもしろい考えね、つづけて」
「物語の余白(よはく)ではいざこざもあったんじゃないかしら。たとえば食事の時、サラダとスープどちらから手をつけるか、タマゴが先かニワトリが先かって論争みたいなものよ。わたしはグレエンと洗たくもののことでよく言い合いになるし」
「なにそれ」菖蒲は甘いホットココアを口にして、「どっちでもいいんじゃない」。
「それがね、夫婦のいざこざ(・・・・)なんてまったくつまらないものなのよ、アヤメ。服と下着はべつにして洗ってほしいとか。ああ見えてグレエンはめんどくさい人なんだから。まあでも、わたしが〝そんなに大事なパンツなら自分で洗いなさい〟って言うと、彼はしょんぼりしながらひとりでゴシゴシ洗うけど」
「ふーん、グレエンの意外な一面を知ったわ。わたしと一緒の時はそんなわがまま一言も言わなかったもの」
「もちろんよ。だってアヤメはグレエンのお姫さまではないから」
「そっか……ねえ、じゃあ、どうしてリリィはグレエンと結婚したの?」
「うーん」リリィはしばらく考えます。「たぶんおとぎ話のお姫さまと同じ気持ちか、語り手の願いなのかな。もしくはそうあってほしいだけなのかもね」
「ちょっと、なにそれ」菖蒲は目をほそめながら、「わたしが子どもだからってごまかしてるでしょう?」
「ふふっ。だって、アヤメも好きな人とおとぎ話のような恋であってほしいもの」
「リリィずるい。いじわる!」
 ふたりは大笑いします。
 菖蒲はリリィの介護(かいご)もあって、ベッドの上で楽しく話せるようになりました。リリィはよく、山あいの国のお話しを菖蒲にしました。グレエンや干しわらになった王子さまが幼いころ、どれほど手を焼く男の子だったか、それにキジ三毛のモルトは由緒(ゆいしょ)ある王族ネコだったという話も。
「モルトは落ち着くのが(しょう)に合わないって、さすらいネコとして山あいの国に来たのよ」
「旅ネコの話は嘘じゃなかったのね」と、菖蒲はモルトのひょうきんな顔を思いだしてくすりと笑い、「それに王さまごっこをした時、従者役をいやがる理由もね」。
 菖蒲とリリィの会話は、むかしむかしになくしてしまった誰もが持つ宝物を探しに出かける旅と似ていました。ぶらぶら過去の森を散策しながら夢の広い草原に出て、見守るニレの木陰で休み、カサカサふく風とこすれる葉のおしゃべりに耳をかたむけます。菖蒲は寝っころがって草まみれのままリリィに抱きつき、手をつないで前に走ったり、ぴたり止まってぎゅうっと腕をひっぱり、家へ帰るまでリリィのかたわらではしゃいでいました。
 もちろん、アヤメは中庭でのことや、ミモザのあたえてくれたものを知っていましたし、リリィがそうしたことを口にしないよう気をつけていることだってわかっていました。それで、いつかその時がくるまで、胸の引きだしのすこし奥に閉まっておこうと思ったのです。
 リリィとの宝探しの旅も順調に、自分を取りもどした菖蒲はもっと良くなり、身のまわりのことがひとりでできるようになった日。ベッドで考えごとをしていると菖蒲のもとにリリィは近づき、そばに腰かけます。
「どうしたの、リリィ。おやすみを言いにきたの?」
「そうね」と、菖蒲の頭をなでて、「菖蒲がよくなってわたしはとてもうれしいわ。だから今、わたしたちのおとぎ話を聞いてほしいなって」
「リリィの?」
「そう。でもアヤメが知りたいなら、だけど」
 菖蒲はリリィをじっと見つめてから笑顔で「もちろんよ。大好きなリリィ」。
 リリィはほっとしたように菖蒲を胸に抱きよせ、ゆっくり話しはじめます。
「まずはそうね……いきなりびっくりするかもしれないけど、わたしたちはアヤメと同じ領域に住む女の子だったのよ……」
 むかしむかし、菖蒲が生まれる前のお話しです。
 ふたごの姉妹はお父さんもお母さんも知らず、施設で暮らしていました。ある晩、姉妹は招待されて知らない領域(せかい)にやってくることになります。少女たちを招待したのは干しわらの王子さまのお父さん、つまり山あいの国の王さまで、もうひとりは農夫のグレエンでした。
「ふたりは兄弟なのよ。王さまが兄でグレエンが弟。それにわたしはふたごの姉妹の妹よ」
 菖蒲はたいそうおどろき、「でも、グレエンはわたしに〝王につかえる風車の監視役〟とだけ紹介していたわ」。
「もうひとつの役割を言っていたのね。おそらく【口止めの約束】の力を得るためアヤメにすべてを伝えなかったんだと思う」
「思い返せばモルトやアルビレオも、わたしに話すことを選んでいるみたいだった」
「興廃の丘のお話はグレエンから聞いたかしら?」
「うん、高い城壁に囲まれた王国が滅びたのよね」
「東の風車のあたりにとても大きなお城があって、もともと山あいの国の人々は戦乱から逃れた一部の王家と臣下(しんか)だった」
 領域(せかい)を巻きこむ大戦がはじまる前夜、争いを避けるように祖国をあとにした人々がいました。ですが当然、燃える影は見過ごすはずありません。
「臆病な反逆者どもめ。おまえらがコソコソと逃げ隠れるのを(われ)が黙って見ているとでも思ったか。もしおまえらがただでこの城壁の大門をくぐろうものならどうなるかわかっているだろう!」
 門に立ちはだかる燃える影から家族を守るため、彼らはしかたなく契約を結ばされました。
 国を逃れ、燃える影が干渉(かんしょう)しないかわりに、領域(せかい)()べる王国のため、何も知らない子供をひとり捧げるというもので、【安寧(あんねい)契約(けいやく)】と呼ばれ、燃える影は代々王家の長子(ちょうし)を求めました。
「でも深い山あいに移り住んで最初の王子さまを送り出そうとしたとき、ひとつ大きな問題が起きた」
「王国が滅びたのね!」
「そう、そして世界を()べる王も側近の手にかかり……」
 戦争は領域(せかい)に大きな荒廃(こうはい)をもたらしつつ終わりました。山あいの国の民は大きな災厄(さいやく)をまぬがれたようにみえましたが、おとぎ話しのように幸せな結末にはなりませんでした。なぜなら燃える影は生きていて【安寧の契約】の履行(りこう)を求めたからです。
「目的は王国の再興(さいこう)か、裏切り者への復讐(ふくしゅう)なのかわからない。とにかく【安寧(あんねい)の契約】は山あいの国の民にとって、のみこんだトゲのように苦しめ続けた」
「ひどい! もともと領域(せかい)を滅ぼしたのは山あいに逃げた人々ではなかったのに」
「ええ」リリィは興奮(こうふん)する菖蒲の背中をなでます。「でも、影は人間の弱さをよく知っていた」
 懐疑(かいぎ)絶望(ぜつぼう)憎悪(ぞうお)。燃える影は飢えた月夜のおおかみのように人間のおちいる闇をむさぼり、領域(せかい)()べる王の意志を完璧(かんぺき)投影(とうえい)しました。なにも知らず国を追放されたと王子さまがすべてを知った時、甘い言葉で誘惑し、たくみにあやつろうと、しくんでいたのです。
 ところが燃える影のあてはむなしくはずれ、いく世代も平穏(へいおん)に過ぎ、ついに山あいの国の民は王に進言(しんげん)しました。
「王よ、あなたはわたしたち民のために犠牲となってくださいました。大事な子どもを影に差しだしてきたのですから。もう苦しむのはじゅうぶんです。父祖たちがここにやってきたのは、むなしい権威の束縛(そくばく)から解かれるためではありませんか。それにもかかわらず、朝、焼きたてのパンを食べても、夜にみなで音楽を(かな)で、ベッドに横になるときも、あなたの家の子が今、どこで、なにをしているのか、わたしたちをうらみ、失望しつつ孤独(こどく)にさまよっているのではないかと思うと、なにも楽しめません。あなたの子はわたしたちの家族、あなたの痛みはわたしたちの苦しみなのです」
 山あいの国の民はゆがんだ連鎖(れんさ)を今こそ断ち切り、自由になりたいと思うようになりました。
「自由だと? 愚民(ぐみん)め。束縛(そくばく)こそおまえらを(りっ)してきたのが事実」燃える影は山あいの国のオトナたちの声を聞きつけ、すぐにやってきます。
(かせ)なき支配がどうして社会秩序(しゃかいちつじょ)をもたらすか。法と(のり)にしばられた(おり)のなかであれほどさわぎ、踊りくるっていたではないか。おまえらが残した歴史は争い絶えぬ嘘ばかりの変化もない回転草。幾年もの安寧(あんねい)を子一人で保証しているほうがずっと優しいとは思わんのか」
 王は民にたずねます。
「たしかに、私たちは謳歌(おうか)した自由の責務(せきむ)から目をそむけてきたのかもしれない。しかし、果たしてこのままで良いだろうか」
 民は力強くこたえます。
「わたしたちにとって自由は権利の追求ではなく、みなで分け合い、みなで担い果たす責任です。なにより王よ、(そら)を見上げ、胸が高鳴るようなあの自由について子どもたちに喜んで語り伝えられる親となりたいのです」
「ああ、わたしの兄弟たち! 今日この場に立てることを誇りに思う。ではみなで【庇護(ひご)の約束】をしようではないか」
 つぎの朝、湖畔(こはん)のガゼボで王はふたりの子どもにすべての真実を教えました。長かった【安寧(あんねい)の契約】をついに破棄(はき)した夜、燃える影は激怒(げきど)し、山あいの国の大人だけをすべて()みつくしていったのです。
「ガキども覚えておけ! これがおまえらのバカな親が望んだ、くだらん自由とやらへの報いだ!」
庇護(ひご)の約束】によって生き残った子どもたちをおどしつけ、燃える影は空の彼方(かなた)へ消えていきました。しかし子どもたちは恐れません。生きるためにどうすればよいか、親からしっかりと聞いて学んでいたからです。そして、むかしからひそかにねられた影を打ち破る計画についても。
 ずるがしこく強力な燃える影と戦うためには約束の力と外の領域(せかい)の仲間がどうしても必要です。さっそくふたりの王子さまは行動にうつしました。
 いっぽう、深夜の孤児院(こじいん)でのこと。おとぎ話しが大好きなふたごの姉妹は、みんなが寝静まったのを見て、ボロボロの人形とためておいたビスケットを数枚、お気に入りのカバンにつめ、施設をぬけだそうとこっそり玄関(げんかん)に向かいました。
 きしむゆか板をそろりと歩いていたらとつぜん、リリリン! リリリン! 
 線のはずれた使われていない古い電話機のベルがけたたましく鳴りだします。このままではオトナに気づかれて、なにをされるか! 姉妹はあわてて重たい受話器を持ちあげると、むこうから男の子の大きな声が聞こえます。
「どうかそのままで! あなたたち、ふたごの姉妹(・・・・・・)の助けが必要なのです」
 姉妹はびっくりして顔を見合わせます。なぜこちらにふたりいて、しかもふたごの姉妹だと知っているのか、どうして助けが必要なのでしょうか。
「電話からリリィとお姉さんは招待を受けて王子さまの領域(せかい)にきたのね」
「そう。あと、これは秘密だけど」リリィは菖蒲の耳元で、「おとぎ話しをつなぐ交換手(こうかんしゅ)はシロゾウよ」。
「ほんとうに? リリィ、わたし今度会いに行きたい!」
「わたしたちはもうワクワクしたし、なによりうれしかった。姉さんとどうやって遠く広い世界へ旅に出るか、いつも本を読んでたくらんでた。あの日も、わたしたちは本気だったのよ」
 姉妹の願いはぴったりとかないました。山あいの国の子供たちにむかえ入れられ、夢のような生活が始まったからです。
「山あいの国子どもたちはとっても明るくて、すぐにみんなと仲良しになったわ。わたしたちはすこしだけ年上だったから食事を作ったり、お掃除に針仕事をして、大忙しの毎日!」
 菖蒲は目を輝かせリリィを見つめます。
「リリーフロラ、あなたはピーター・パンにでてくるウェンディね。わたしもあなたのような強い女の子になりたい」
「そう言ってくれてうれしい。アヤメ、あなたとはいい友達になれそうね」

約束の力

約束の力

 燃える影は山あいの国の子どもたちに【安寧(あんねい)の契約】がまだ有効であると(うそ)をつきました。大人が一方的に破棄(はき)しただけだ、というわけです。しかし子どもたちは、ほころんだ契約を逆に利用することにしました。
「闇は子どもたちの計画に気づかなかったのかしら」と、菖蒲はたずねます。
「彼らは【口止めの約束】より重い、【沈黙の約束】を結んだのよ」と、リリィは答えます。
「そっか、約束の力で燃える影に知られないようにしたのね」
「そう、闇を打ちやぶるまで真実を()める約束。闇は人の(うち)なる言葉を読むことまではできない。子供たちは親をうしなった悲しみをふくめ、すべて記憶にとどめ、かわりに希望を取りだしたの。わずかでも真実がかすまないように」
 それでふたごの姉妹は山あいの国にやってきましたが、何をすればよいのかまったくわかりませんでした。でも姉妹は子どもしかいない様子を見て、また彼らと知り合い、打ちとけるうちにだんだんと理解していったのです。
「へんな話よね。せっかくわたしたちは招待を受けたのに、なんで助けてほしいのか彼らに聞いても口をつぐんでしまうんですもの。でもね、わたしと姉はアヤメも持っているすばらしい力を使ったのよ」
「約束の力ではなく、わたしも持っている力?」
 リリィは両手で菖蒲の前髪をかきわけ、目をのぞきこみます。
「それはね、言葉にならない声を聴く力。きっとアヤメは自然に使っているから気づいていないけれど、とても美しい能力よ。もちろん、どんな力でも正しく使わなければいけないわ」
「リリィわたし、ちゃんとできているかしら」
「だからわたしたちはこうして会えたんじゃない」
 菖蒲は恥ずかしそうにリリィの胸もとに顔をうずめます。
「どんな境遇(きょうぐう)も人にいろんな力をあたえる。わたしたちはおとなになって結婚し、山あいの国の民となった日、聞かなければならない話をそれぞれ夫から伝えられた。約束の力についても」
「ねえリリィ、あなたたちは利用されたって思わなかった?」
「ぜんぜん」リリィは首を横にふります。「むしろ心がわき立った。これからおもしろいことが起きようとしている、きっと大変だけど絶対に手ばなしたくない物語になるって。アヤメも、あの異国の風をかいだでしょ?」
 菖蒲は納屋(なや)を飛びだしたあの日の興奮(こうふん)を思いだし、大きくうなずきます。
「でも愛はべつ。なにからも強要されたわけではないわ。時間を一緒に過ごして自然と、せせらぐ川のような恋をした。話しているうちに大きな川となって、どこまで続くのだろう、もっともっとグレエンの広さを知りたいから結婚したの」
「すてきなお話しね」
「ありがとう、アヤメ」
 燃える影を打ちやぶるチャンスは一度。国を旅立つ王子さまが燃える影と相対(あいたい)する時です。ですから兄弟のうち、どちらが王となるかはとても重要な問題でした。ふさわしいのは兄か弟か、ふたりの王子は悩みましたが、ついに決心します。兄が王となることを。
「どうやって選んだのかグレエンに聞いたけど、彼はぜったい教えてくれなかった。姉さんも同じことを言ってたわ。ただ【王位の約束】とだけ」
 山あいの国に新しい王が即位(そくい)し、闇を打ちやぶるための準備ははじまりました。王さまと王妃さまは急いで記憶の星に旅立ち、【手つなぎの約束】で自分たちの記憶を採取し、青い剣とそれに力を加えるため、赤い宝石の指輪も加工しました。記憶の結晶には『役割を果たすまで決して壊れない』という性質があり、燃える影と戦うにはうってつけの道具です。
「記憶の星から帰ってすぐ、わたしたち姉妹は前の領域(せかい)へ二度と帰らない、という【不帰(ふき)の約束】の力を剣と指輪に加えた。そのあと王子も誕生(たんじょう)し、あとは旅立ちを待つだけ」
「ちょっと待って、リリィ。何も知らない干しわらの王子さまはどうして剣と指輪で燃える影を打ちやぶろうと思うのかしら」
「そう、それが一番難しい問題ね。本当は【口止めの約束】で王子に伝えようとしたの。ただし【沈黙(ちんもく)の約束】をおかす危険もあった。それに、約束の力も弱まってしまう」
「どういうこと?」
「アヤメは約束の力がどういうものか知っているかしら」
「うん、馬小屋会議でアルビレオが話してくれた。〝重い約束ほど力は強く発揮(はっき)され、逆に約束を守らなければ大きな代償(だいしょう)がともなう〟でしょ」
 ではなぜ約束に力があるのでしょうか。それは誰も約束を守る人がいなくなり、なにが『本当のこと』か、わからなくなってしまったからです。人間の軽易(けいい)口約(こうやく)によって『本当のこと』を壊さないため、力をもつようになりました。
「グレエンが言うには、この領域(せかい)でない人の約束がより大きな力になるみたい。むかし、みんなの(うそ)領域(せかい)を破滅させ、約束の価値をさげたからその代償(だいしょう)に信頼を失ったから、と」
「それでわたしやリリィの助けが必要だったわけね」
「約束は信じればそれだけ強化されるし、疑うと弱くなっていく。王と姉さんは王子が旅を通して真実を理解し、行動するのを信じようと決めた。もっとも王子は国を()つ前から多くのことを知っていたみたいだけど」
——ヘレムのことだわ——。はっとする菖蒲に、リリィは黙ってうなずきます。
 燃える影はいったいどこに身をひそめているのか、これも問題のひとつでした。転機(てんき)となったのは【安寧(あんねい)の契約】を破棄(はき)した日の夜です。おとなをみんな()みこんだあと、モルトが命がけで影の(あと)をつけていきました。なんて勇敢(ゆうかん)なキジ三毛ネコでしょう!
 灯台下暗(とうだいもとぐら)し、影はずっと昔から住処(すみか)を変えていませんでした。王子が旅立つ少し前、リリィとグレエンはモルトの案内で東の風車へ向かいます。
 小麦畑の農夫として監視(かんし)を始めてからしばらくたってからのこと、ついに王子さまがアルビレオに乗って風車にやってきました。
 王子さまは青い剣に【()しわらの約束】を、赤い指輪に【忘失(ぼうしつ)の約束】を加えてアルビレオにたくします。風車からでてきた燃える影は大蛇(だいじゃ)の姿で興廃(こうはい)の丘にいるグレエンとリリィを(おそ)いました。
「わたしは山あいの国を出る前に秘密の約束をしていた。それは燃える影に恐れず立ち向かう【覚悟(かくご)の約束】。結果はどうなったかわかっているでしょう?」リリィはにやりと自信たっぷりに()みをうかべます。「わたしたちの勝ちね、アヤメ」
 みずから大蛇に()まれたリリィは王子さまが燃える影と()わした【干しわらの約束】について知ります。
「心の水を()むために女の子はすべてをうしなう。わたしはせめて中庭から出るための助けとなりたい。そう願ったら、おどろいたことに園丁(えんてい)として待つことを許された。おそらくこれは約束よりももっと強い力、わたしがあなたを見あげたときに感じたのは……でも、わたしは中庭であなたを」
 リリィは言葉につまります。まるで深い穴の底にしずむような目で、菖蒲はリリィをはるか遠くに感じ、(さび)しさで胸が苦しくなりました。——だめ! いなくなってしまう——孤独(こどく)に足をつかまれる菖蒲は闇へと消えるリリィに手をのばそうとします。
()しゅうの入ったカーテンも、モクレンのかおりがするフカフカのおふとんも、わたしにぴったりなレースのワンピースやちょっぴり大きめのぼうしも、ドライフラワーやハーブ入りのお風呂も、かわいい食器もすてきな庭も、みんな、みんな、なにもかもリリィ、あなたがわたしのために用意してくれたのよね?」
「それはね、それは……わたし、子を宿す力が」
「お願いよリリィ、アヤメのためと言って!」菖蒲はリリィの言葉を強く否定するようにさえぎります。「どんな境遇(きょうぐう)も力をあたえるのでしょ? わたし、リリィを窓ごしに見たとき、ほほ()みかけてくれた時、どうしても会いたくなった。なによりも今、わたしはたしかに満たされてる。知らないところでさえたくさん。だからこんなに落ちついていられるのよ」
 うつむくリリィの長い髪はだらりとたれ、ふたりをへだてる金色の(まく)は顔をおおいます。
「わたしはもうずっと、ずうっとリリィ、あなたの気持ちに気づいているわ。そして宇宙で一番温かな力がわたしたちを引き寄せたことにも」アヤメはリリィの手をぎゅっとにぎりしめ、「だからもうわたしを離さないで、お母さん」。
「ええそう、あなたのため、全部あなたのためよ!」
 リリィはたまらず力いっぱい菖蒲を、そのすべてを包みます。
(いと)しいわたしの娘、アヤメのために!」

なぞかけ歌

なぞかけ歌

 リリィとのむかし(ばなし)(きり)がかった木立のあいだから差しこむ()のように菖蒲の思いをさわやかに照らし、前よりずっといきいきと、新たな活力や意志をあたえました。いろんな人の考えや願い、複雑(ふくざつ)にからむ約束は、これからしなければならないことを菖蒲にはっきりと告げていたのです。そう、井戸の水で王子さまをもとのすがたにもどし、あの燃える影を打ちやぶることを!
 そんなある日、「リリィのすてきなところは」と、菖蒲は食卓(しょくたく)のイスにすわって砂時計がさらさら下に落ちるのを見ながら指折り数えていました。「早くしなさいって()かさないとこ、あれこれしなさいって押しつけないところ、おかしいって顔をしかめないところでしょ。それに……」
 全部の指を折りたたんでにこにこしていると、リリィはパウンドケーキを持ってやってきました。
「リリィはいっつもいそがしそうね」足をバタバタさせ、ほおづえをついた菖蒲は言います。
「あら、そうかしら」と、リリィは答えます。
「わたしの見るかぎり、三十人のリリィが前を往復(おうふく)していたわ」
「ああ、それは」と、リリィは四角(しかく)いパウンドケーキを切り分けてから皿を菖蒲に渡します。「きっと、この家に住む小人よ」
「七人じゃなくて? ちょっと多すぎじゃない?」
「あら、うちのお姫さまにはたりないくらいよ」
「なんて世話の焼けるお姫さまなのかしら!」
 やがて時間の砂はふりやみ、菖蒲はティーポットをかたむけると紅茶を最後の一滴(いってき)までふたつのカップにそそぎます。
「ねえリリィ、どうしても気になることがあるの。聞いてもいい?」
 リリィは立ちのぼる紅茶の香りにうっとりしながら、「教えてあげられることならなんでもどうぞ」
「『干しわらになった王子さま』の本にある、王さまのなぞなぞについて、どうしてもわからないの。〝(しん)のないりんご、扉のない家、鍵のいらない宮殿(きゅうでん)〟の答えってなんだったのかしら?」
 リリィは少し考えてから思いだしたように笑い、「たぶん王はなぞかけ歌を王子に伝えたんじゃないかしら」
「なぞかけ歌?」
 するとリリィは『愛する彼に苹果(リンゴ)を』という歌を歌いはじめました。

  愛する彼に(しん)のない苹果(リンゴ)をささげよう
  愛する彼に扉のない家をささげよう
  愛する彼の過ごす宮殿(きゅうでん)をささげよう
   彼が開けるのに鍵はいらない

  わたしの想いは(しん)のない苹果(リンゴ)
  わたしの気持ちは扉のない家
  わたしの心は彼の過ごす宮殿(きゅうでん)
   彼が開けるのに鍵はいらない

「リリィは歌じょうずね、はじめて知った」
 菖蒲はリリィの歌声を〝すてきなところ〟のひとつに加えました。
「わたしは一番のなぞかけを歌って、姉さんは二番の答えを歌うの」と、リリィは言います。「それから王とグレエンに姉と妹を当てさせる遊びをしていたわ。時には姉さんが一番、わたしが二番を歌い、さてどちらでしょうって。わたしたち双子(ふたご)だから姉妹逆転(ぎゃくてん)させて、彼らにいろんなイタズラをしたものよ」
「おもしろい遊びね」
「みんなおとなに成長して、秋の収穫(しゅうかく)も過ぎ、冬支度(じたく)を始めようとしたある日の朝、湖のほとりにあるガゼボで、王は姉さんに、グレエンはわたしにこう言ったの。
——もし姉妹(あなた)のイタズラを見やぶることができたなら、どうかリンゴをわたしにください。
 そこでわたしたちは最高の悪だくみを思いついた。わたしはサイドヘアにして姉さんのブラウスと花の()しゅう()りエプロンを身につけ、姉さんはツインテールにわたしの藍色(あいいろ)のチュニックを着る。約束の日の夕方、ガゼボに集まったわたしたちはそれぞれ赤いリンゴをひとつ手に、あの歌を歌ってみたのよ。それからリンゴをふたりの王子のまえに差し出し、あなたのほしいリンゴはどちらって」
 菖蒲の胸はなんだかほわほわと熱くなり、顔はリンゴのように、目を大きくして身を乗りだすように言います。
「それから、それからどうだったの? リリィ」
「アヤメもわかってるでしょ。わたしたちのつまらないイタズラなんて最初からお見通し。彼らは容姿(ようし)でわたしたちを見分けてたんじゃなくて、声を聞き分けていたの。ずるいわよね、ふたりともずっと知っていたのにわざとだまされたふりをしてたんだもの。まちがえたら姉さんとふたりで大笑いしようねって、ひそひそ話していたのに。まじめな男の子はつまんないわよ、ねぇ」
「……」
「お人形(にんぎょう)さんみたいにかたまって。どうしちゃったの、アヤメ?」リリィは不満げな菖蒲のほっぺをきゅっとつまみます。
「いや! そんなおしまいはいやよ。どうなったかちゃんと聞きたいの!」
「どうなったかって、それはそれは幸せに暮らしましたとさ……」
「その前のお話よ、ほら、あの言葉があるでしょ」
 ああ、と思いだしたようにリリィは目をそらし、ティーカップを口につけます。でもなんだか菖蒲みたいに顔はまっ()です。
「アヤメのいれる紅茶は最高ね。どこで覚えたのかしら」
「ごまかさないで」
 鼻息荒く熱心にこちらを見つめる菖蒲。追いつめられたリリィはついに観念(かんねん)してカップを置き、浅いため息をつきます。
「……今まで聞いたことのないくらいとっても甘くてとろけるような愛の約束をささやかれたわ。これ以上は秘密! ぜぇったい教えない、もうおしまい」
「リリィのけち」
「ふぅん」と、リリィは目をほそめ、「アヤメも大好きな男の子から聞くのよ。そうしたらわたしも同じこと聞くけど、それでもいいの?」
 思わぬ逆襲(ぎゃくしゅう)を受けた菖蒲のお城は火矢(ひや)でみごと撃ちぬかれ、心臓(しんぞう)は飛びでそうなくらい、どっくんどっくん鳴ります。考えれば考えるほど燃えあがる恋の炎を消火しようと、そばにあった水をゴクゴク飲みます。そんな様子がおかしくて、ふたりは目を合わせ、大笑いしました。
 王さまのなぞなぞは解決し、愛の約束もうまくはぐらかされたところで楽しいティータイムはおしまいとなり、食器をかたづけて居間にむかいます。
「リリィ」菖蒲は落ち着いた、でも力のこもった声で言います。「やるべきことをはじめましょう」
 リリィはうなずき、くすんだ金色の(かぎ)をつくえの上にことりと置きます。
「このカギは裏口の扉を()けるための(かぎ)よ。裏口扉の錠前(じょうまえ)は内側についていて、扉のむこうはどこへでも行ける階段があるわ。ただし、使えるのはわたしとアヤメの一回ずつ。なぜなら鍵穴(かぎあな)にさしてまわしたら、外側から閉じてふたたび(じょう)をおろすまで(かぎ)はぬけないから。それに、外側はドアノブがないから()けられない」
「なるほど、これで王子さまのいる王の()に帰れるってわけね」
「そう、そしてアヤメ、わたしたちが今どこにいるか、もうわかっているわね?」
「もちろん」と、菖蒲はすぐにこたえ、ぶあついカーテンを思い切り開いてみせました。
 窓の外はどす黒い血のような液体のたれるおぞましい夜空に、ポコポコと音を立ててヘドロわく汚れた沼地、遠くで紫色の雷は切り立つ黒い山をぶきみに照らしています。
 もちろん、ここは干しわらになった王子さまのいる領域(せかい)ではありません。菖蒲を(ねら)っていた、あの恐ろしい大蛇の体内だったのです。
「大蛇に呑まれたわたしは倒れているところを影の男の子に助けられ、ここへ連れてこられたの。影の子はときどき家にやってきては中庭や【干しわらの約束】について教えてくれたわ。それに、父親を待っているとも」
「もしかしてイシュが」
 菖蒲は月明かりに照らされたあの夜、影の少年の深く(うれ)いた声を思い、胸はうずきます。グレエンの伝えたようとした羽根(はね)のまわり続ける風車、いつも()をたらす小麦畑、納屋(なや)と古い農家の秘密とは、すべてイシュと〝父親〟の過ごした心象風景(しんしょうふうけい)で、リリィと住むこの家も東の風車にある農家とまったく同じつくりだったのです。
「ねえリリィ、わたしたちへんよね。こんな最悪な景色のそばでぐっすり寝たり、おいしい食事をしたり、さっきまでお茶を飲んで笑っていたんですもの」
「わたしたちだれよりも強い女よ。断言できるわ、アヤメ」
 リリィは窓の前で腰に手をあて、どっしりかまえます。
「〝ピッピロッタ・タベルシナジナ・カーテンアケタ・ヤマノハッカ・エフライムノムスメ・ナガクツシタ〟みたいに?」
「長い名前!」
「馬を持ちあげるくらいとっても強い女の子なのよ。わたしピッピのこと大好き」
「今のアヤメならアルビレオを持ちあげちゃいそうね」
「リリィ、わたしのお願い、聞いてもらえる?」
「わたしのしてあげられることならなんでもいいわ」
「裏口の(かぎ)、わたしたち一回ずつ使えるのよね? リリィは先にもどってほしいの」
「そんなのだめ」と、リリィは顔を横にむけると、そばに立つ菖蒲と、もうひとり重なるように女の子が固い決意を()めた目で窓の外のそびえる黒い山をじっと見つめています。
「わかったわ」リリィはしばらく考えてから言います。「ではわたしの右手にアヤメの手を重ねて」
 菖蒲は言われたとおりにのせると、リリィは左手をそえます。
「これから【母娘(おやこ)の約束】をしましょう。わたし、母であるリリィは【覚悟(かくご)の約束】で得た力をあなた、娘のアヤメにわけます。かわりにわたしのもとへ必ず帰ってきなさい。それと、中庭の時のように無理はしないで」
「わたし、娘のアヤメはあなた、母であるリリィの約束を聞きました。わたしは【母娘(おやこ)の約束】を守り、かならず母のもとに帰ります。中庭の時のような無理もしません」
「もしグレエンに会ったら、あなたの家で待っています、と伝えてもらえるかしら」
 菖蒲は笑顔でうなずきました。

光と影による交渉

光と影による交渉

 くすんだ金の棒鍵錠(ぼうかぎじょう)(かぎ)を差しこんでひねり、木製の扉をおし()けると、石階段が上へどこまでものびています。ヒューヒューとふきぬける風は、まるで階段を通る者の目ざす出口を知りたがっているようでした。
 不安げな表情をしたリリィは菖蒲のほおを優しくなで、できるだけ早く帰ってくるよう言いのこし、風とともに消えていきます。
 扉が閉まると(じょう)はひとりでにかかり、(しん)ちゅうの(かぎ)はくるんとまわってぬけ落ち、菖蒲はひろってポケットにしまいます。それからだれもいない居間を通って玄関(げんかん)の壁にぶらさがる丸い姿見(すがたみ)の前で長い黒髪をまとめました。
「お願い、わたしのミモザ」鏡にうつるアヤメは右手首についた金銀のバングルに語りかけます。「ふたたび立ちあがる勇気を」
 そう言って、まがまがしい雰囲気(ふんいき)のもれでる玄関扉(げんかんとびら)をいきおいよく(ひら)き、外へ飛びだしました。
 生ぬるくべっとりした重みのある空気、ぬかるむ地面は底なし沼のように、一度でも足をすくわれれば、体ごとのまれる危険をひしひしと感じます。もう二度と芽をだすことはゆるされない灰色の枯木(こぼく)はいたる所につっ立ち、絶望(ぜつぼう)と、ひたいにきざまれた(むくろ)はいくつも山とつみあげられ、時おり、ころがり落ちてしずみます。
 菖蒲は沼からわく腐臭(ふしゅう)にたえながら、大きな(けもの)がずるずる引きずられたような(あと)をずんずん歩きます。あちこちに隠れる面子(めんつ)をつぶされた欲深(よくふか)き四つ足の人影は、悪意にみちた表情で少女をうかがい、飛びかかってむさぼろうと一瞬(いっしゅん)の失敗をねらっています。しかし不思議なことに誰も手をだすものはいません。まるで短夜(たんや)にまうホタルのように、ぽおっと白い光が(ころも)となって菖蒲を守っていたからです。うしろめたい闇はまっすぐな光をおそれてもいました。
 はき捨てられた偽りの騒然(そうぜん)がたえず耳についてもけっしてうろたえることなく、タールのような黒い雨でよごれても、まったく気にとめず、菖蒲はただ一点を目ざし、前へ前へと進みつづけました。
 やがて沼地を()にし、雷鳴(らいめい)とどろく黒い孤峰(こほう)のふもとまで近づきます。口をあんぐりあけた鍾乳洞(しょうにゅうどう)はするどいきばをむいて待ちかまえ、嫉妬(しっと)の風をはきだしていました。もし【覚悟(かくご)の約束】の力がなければ菖蒲など紙切れのようにやすやすと遠くへふき飛ばしていたでしょう。
 山の中心に近づくほど、熱風は菖蒲をおそい、ひたいから(あせ)が流れ落ちます。それでも奥に進み続けると、やがてついに広い空間に抜けました。
 オニキスをけずりだした漆黒(しっこく)の座が中央にどうどうとかまえ、燃える影は胡坐(こざ)をかき、ひじかけにどっしりとよりかかり、ふてぶてしくこちらを見おろしています。
「さて、賢良(けんりょう)な人間だと(ひょう)し、単刀直入に言おう」
 菖蒲は王子さまと対峙(たいじ)した、ぞっとするほど冷淡(れいたん)で低い声を思いだします。
「井戸の水を(ワレ)に。【安寧(あんねい)契約(けいやく)】を破棄(はき)し、未来永劫(みらいえいごう)あの国には手をださん」
 燃える影は腹話術(ふくわじゅつ)のように菖蒲の耳もとでこうささやきます。
——おまえの手中に大勢のゆらめく灯火(いのち)がある。望みどおりにあつかうがよい。支配するも、ふき消すもおまえしだい。ただ水をこちらに渡しさえすれば。
 燃える黒い影は気づかれないほど小さく、にやりと口角(こうかく)をあげます。
(ワレ)辟易(へきえき)していた」と、影はこまり果てたように弱々しく語ります。「自由と権利をふりかざし、()くことなく〝正義〟をひたすらさえずる愚民(ぐみん)にな。だだばかりのなんとまあ、わずらわしい人形(でく)か」
 菖蒲のこぶしがすこし緊張(きんちょう)するのを影は見すごしません。間髪(かんはつ)をいれずに言います。
「いいか、人形(でく)はな、真実であるほどよく(うたが)い、(うそ)であるほど熱心に信じる。紳士淑女(しんししゅくじょ)よろしく常識(じょうしき)のドレスをまとわせ、舞台で(えん)じるが相応(そうおう)。さきの大戦もひとつの誤解で人形(でく)は壊れるまで(おど)りくるった。約束の力などとあいつらはぬかすが、そもそも約束を守らず、恥ずかしげもなく公然と(うそ)を見苦しい言いわけと共にはく。
 なるほど宇宙に(いつわ)りなどない。たんにあざむかれ、(そむ)いたのだ。(けが)した体をイチジクの葉でおおい、せいぜい(はじ)(かく)そうとしたあのはじまりから。そもそも(おのれ)の価値を低めたのは人形(でく)自身ではないか?」
——しかし(ワレ)は小ビンにこめられた水の価値を知っている。手にするため、さぞ苦心(くしん)したであろう。人形(でく)ごときにたれ流すのはなんともったいない。かってに()しわらとなったバカなど忘れ、(ワレ)とともに歩め。
(ワレ)が水の力を使えば、新たな文化の黎明(れいめい)(はい)し、高尚(こうしょう)秩序(ちつじょ)をもたらす瞬間(しゅんかん)にも立ちあえよう」
 じっと静かに見つめる菖蒲に、影は大きくため息をつきます。
「金か、称賛(しょうさん)か、それとも凡庸(ぼんよう)な人生か? そんなものにたかるはせいぜいハエぞ。まあ欲しくばなんでもよいが」
 洞穴(どうけつ)をぬける風はむなしく口笛をふきます。燃える影の交渉(こうしょう)はいつまでも合意に達することなく、菖蒲のくちびるは微動(びどう)だにしません。
「つまらん、つまらん、ああつまらん!」しびれを切らした影はごおごおと憤怒(ふんぬ)を燃やし、ひじかけをたたき壊します。
「オレはな、沈黙(ちんもく)がもっともきらいだ。なにもかも知っているようなうす(ぎたな)い目をむけやがって!
 いいか、よく聞け。おまえらがあの時のようにオレの()(ねら)おうと、こそこそ動きまわっているのに気づいていないとでも思っていたか、ひきょう者どもめ。
 なにが井戸の水だ! なにが約束の力だ! そんなもの、世を()べるオレの偉大な力で今すぐうばいとってやる!」
 あびせる怒声(どせい)威嚇(いかく)するライオンのように、影はいきおいよく立ちあがり、菖蒲にむかって左右に手を大きくふりながらつめよります。
「なにかこたえろ! さあこたえろ!」
——わたしはくり返しあなたの名を呼んだ。
「おまえをいますぐ!」
——なんども、なんども。
「この場で!」
——愛する友のたったひとりの家族だから。
「消しさってもいいんだぞ!」
——あなたを取りもどそうと。
「わかってるのか!」
——でも、(とど)かない。
「いいや、そんなもんではすまさん! 泣きわめき、命ごいするまで(いた)ぶり続けてやる! なまいきな小娘(ガキ)め!」
 燃える影は菖蒲のほほを打ち、菖蒲はうしろに(たお)れます。
——なぜあなたには見えないの? なぜあなたには聞こえないの? なぜあなたには感じられないの?
 むくりと身を起こした菖蒲は燃える影から決して目を(はな)しません。すると、どう(もう)野獣(やじゅう)は少女からあとずさりし、それはまるで鼻息(はないき)(あら)い動物をしつける調教師(ちょうきょうし)にも見えるのです。
 菖蒲は息を目一杯(めいっぱい)すい、「いいかげんになさい!」
 ビリビリふるえる叱咤(しった)(どう)くつ中にひびきます。
「わたしはあなたと交渉(こうしょう)するために来たのではない!
 聞け! 影に隠れ、(おのれ)を見まごう(あわ)れな人間の王よ。あなたのうぬぼれた野心により、剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)とみずからの役割(やくわり)をまっとうせんとする多くの高潔(こうけつ)がどれほど深くきずつけられたか、知りなさい!
 ゆがめられ、にごされた軽薄(けいはく)な言葉は、貴重(きちょう)な約束の数々を血や涙とともに逆巻(さかま)(かわ)へ流し、たどりついた激動(げきどう)の海で真実と公正を()えず天にむかってさけんでいる。そうしてふりそそぐ美しくも悲しい歴史はあなたの玩具(おもちゃ)でないことを学びなさい!
 そして闇の子よ、あなたを兄と(した)う妹の愛を思いだしなさい」
「ガキがオレに、我につまらん説教(せっきょう)をたれるか」燃える影はギリギリと食いしばり、菖蒲を指差(ゆびさ)し、金切(かなき)り声をあげます。「ゆるさん、ぜったいにおまえをゆるさん! すべておまえが悪い、おまえが妹を利用し、苦しめたくせに! おまえなんかいなくなれ! 消えうせてしまえ!」
「それでも」と、菖蒲は深い闇の先をしっかり見すえ、右手で友の手をにぎりながら「わたしにはミモザ(アヤメ)がいる。たとえすべてわたしが悪くても、わたしが許されなくとも」。
 絶句(ぜっく)した影は、走りさるふたりのうしろ姿(すがた)をただながめるしかできず、くだかれた王座に力なく(こし)を落とします。
「ああ、わたしにだって見えていた。わたしにだって聞こえていた。わたしにだって感じられていたのだ。しかし、もどれなかった」
 そう言ったのは燃えつきた影の少年であり、みじめな自分にかわいた笑いを、うなだれると黒い水が目から流れ、「お父さん、助けて」。
 意思(いし)放棄(ほうき)した影は四方八方に破裂(はれつ)し、ねぐらの山をもくずすほどの力と(いか)りのなすがままに、おたけびをあげて暴走(ぼうそう)します。憎悪(ぞうお)のかたまりはあらゆるものを、ここが自分の体内であるなどもう関係ない、といわんばかりに、なにもかも壊しはじめました。
 おそろしい光景に気づいた菖蒲はできるだけ急いで家に帰りますが、もはや制御不能(せいぎょふのう)な闇は、菖蒲を見るやいなや、()れくるう波にのまれる小さな木造船(もくぞうせん)のように、あっというまに家ごとひねりつぶしました。
 かろうじて(なん)をのがれた菖蒲は裏口扉(うらぐちとびら)(かぎ)()けて、すぐさま閉めると鍵がかかります。しかし闇は力ずくで扉を抜けようと、ぐいぐい押しよせてきます。ミモザは菖蒲の手を(はな)し、いまにもやぶれんばかりのたわむ扉を背でおさえつけます。
「ミモザ!」菖蒲は思わずふり返ります。
「はやく行って!」と、声をあげるミモザ。
「でも」 
「信じて。あたしはいつもアヤメと一緒」
「うん」
 菖蒲はうなずき、階段をかけあがると、すぐに闇は扉をぶちやぶり、どっとなだれこんできます。
 もう絶対に止まることはできません。背後(はいご)にはどす(ぐろ)(へび)が菖蒲をやつ()きにしてやろうと、これ以上ないほどの怒りをこめ、猛追(もうつい)していたからです。

干しわらの王子さま

干しわらの王子さま

 ぶきみなほど静まり返った直線の石階段。遠くに聞こえる小さな蒸気機関車(じょうききかんしゃ)のブラスト音はこちらに近づき、どおっと通りすぎていきます。
「おいおい、どこまでつづくんだ」重厚(じゅうこう)鉄車輪(てつしゃりん)は運転手にくり返し問いかけます。「こっちはもうへろへろさ!」そばで左右にふられる主連棒(しゅれんぼう)も文句ばかりです。いつまでたっても終わりの見えないトンネル、前からうしろへ流れる単調(たんちょう)な黒い景色を横目に、息せき切らす運転手の菖蒲は、がたつく機関車(きかんしゃ)をなんとか説得(せっとく)して進んでいました。後方からせまりくる恐ろしいさけび声を聴きながら。
 ミモザの時間かせぎや、怒りをたくわえすぎた闇が多少緩慢(かんまん)になったとはいえ、何十段もの階段を女の子が全力でかけているわけですから、差をつめられるのはとうぜんでしょう。
 でも、どんなことにも終わりはあります。読めないとわかりつつ、背のびして借りてしまった、単語びっしりのぶ厚い本にも、苦手な科目のテスト時間も、大きめのニンジンやピーマンのごっそりはいったスープをだされた最低な夕食にも。
 菖蒲は終わりが好きでした。本を閉じたあと、どん(ちょう)のむこうにいる役者たちの暮らしを、いつまでも想像できるからです。食べ終えたおやつのケーキにだって物語はありますし、ほろ苦い終わりにはたっぷりのミルクと砂糖をまぜてしまえば、カフェオレにできるでしょう。たとえ暗くて長いトンネルのようなまいにちだとしても、菖蒲の王国では、おしまいがはじまりと仲よく腕をくみ、『誰のためのものでもない物語』をいきいきと語り続けていました。
 そんな菖蒲の気持ちをほんのちょっぴりでも知っているならば、みんな菖蒲にむかってこう(はげ)ますにちがいありません。
「あきらめないでアヤメ、出口はもう少し!」
 ほら、前方に四角い明かりがやってきました! 菖蒲はこちらをちらっと見て目くばせし、つかむようにまっ白いカーテンのなかへ体を投げだします。
 あらわれたのは最初の部屋、干しわらの王子さまの待つ、玉座(ぎょくざ)の間でした。ついに帰ってきたのです。でも感慨(かんがい)にふけってなんかいられません。暴走した闇は菖蒲を、いいえ、この領域(せかい)すべてを壊そうと、すぐそこまで追っているのです。
 菖蒲は息つくひまもなく部屋の中央、王子さまのいる王座へまっすぐ走ってゆきました。胸はバクバク、ひたいは(あせ)でぐっしょり、息もきれそうですが、重たい鉄の足をとにかく回転させ、前へ前へ。
 やぶれた水道管から噴出(ふんしゅつ)する水のように飛びだした闇は、周囲をいきおいよく()みこみながら、菖蒲目がけて、すさまじい速さでおそってきます。なんて執念(しゅうねん)(ぶか)いのでしょう! 彼らは怒るのに()きたりず、憎しむことだって疲れを知りません。
 すぐ王子さまに水をそそぐため、菖蒲は小ビンをポケットからとりだし、フタを投げ捨てます。しかしなんとつぎの瞬間(しゅんかん)、信じられないことが。
 小ビンに気をとられ、よろけて石だたみのでっぱりにつまずいてしまったのです!
 汗ですべった小ビンは手からすっぽ抜け……
「あっ」
 目の前でゆっくり、ゆっくりと(ちゅう)にういて遠ざかります。
 菖蒲はありったけ手をのばし、ほんのちょっとだけ、指先をかすります。
 たたき割れたガラスの音が部屋中ひびいて火花をちらし、小ビンはたちどころに消えてしまいました。
——————
 時間はピタリと止まります。
——まさか! なぜ? 目的を果たすまで割れないはずの記憶の結晶が! やっとここまでたどり着いたのに。なにもかもむだだったの?——闇はほんのりただよう挫折(ざせつ)の甘い空気を感じとり、喜びいさんで菖蒲の頭をかすめ、まとめていた(かみ)ははらりとほどけます。
 地に軽く手をついた菖蒲は小ビンのそばまでかけよると、ひざをつき、こぼれた残りの水を口にふくんで王座へまっしぐら! 闇はするどい槍先(やりさき)となり、菖蒲の心臓(しんぞう)一点にねらいをさだめます。
 菖蒲は王座の階段を一段飛ばしで、干しわらになった王子さまに両手でふれると、その口に優しく口づけしてからこう言いました。

「愛する王子さま、どうかもとの姿にもどりますように」

 それからぎゅうっと抱きしめ、目をつぶります。
 菖蒲にできることはもうありません。だから、あとは干しわらになった王子さまにたくします。それは扉のない中庭にいくため戦わねばならなかった孤独(こどく)失意(しつい)、無力感などではありませんでした。これまでにないほどおだやかな気持ちで、安心してなにもかも、そう、すっかりとぜんぶ、愛している人を信じたのです。
 闇はみにくく下品な勝どきをあげ、ふたりをまるごと()みこんでいきます。
 こうして光は闇のものとなり、世界は暗転(あんてん)しました。


 でも、それは二行分ほど。
「……やみ……はなれ……よ」
 ぽつりぽつりと声がどこからか、聞こえてきます。
「わたしは……おまえとの約束を……果たした」
 少しずつ(めい)りょうになる声。
「干しわらとなったわたしに井戸の水を……そう望んだが、あたえられた水は、はるかにまさっていた」
 闇の切れ間にはなつ光芒(こうぼう)はあたりを照らし、「それにしても」と、王座からの声はつづきます。「おまえはこの水の価値をほんとうに知っているのだろうか」
 闇はひるみます。いちばん聞きたくない声だったからです。しかし声はやみません。
「父祖たちよ。わたしたちの勝利です」
 ボロぞうきんのようにさかれる闇の中で燦然(さんぜん)とかがやく少年は菖蒲をしっかり守っていました。
 菖蒲はゆっくり顔をあげると、ふんわりなびく小麦色の髪にサファイアの(ひとみ)をもつ少年がこちらを見つめています。
「もとの姿にもどれたのね。よかった」
 おだやかな笑顔の干しわらの王子さまは軽くうなずき、こう言いました。
「ありがとうアヤメ。あなたがわたしのくちびるにそえた水は、どんな花よりも(かんば)しく、極上の(みつ)よりなお甘かった」

二重星

二重星

 菖蒲はなんだか恥ずかしくなってきます。それもとうぜんでしょう、なにせ王子さまのたくましい胸にしがみついているのですから。——しかもわらたばとはいえキスまで——いてもたってもいられず、離れようと体を引くと、うしろによろけて階段をふみはずします。
「どうしたの、アヤメ?」王子さまはころげ落ちそうになる菖蒲の手首をさっとつかみます。
 にぎられる手のぬくもりは電流のように全身をかけめぐり、菖蒲はかーっと熱くなって目をそらします。
「あの、その、だから、うん、ごめんなさい」
 きょとんとする王子さま。菖蒲はよけいに意識してしまい、手をふりほどき、背をむけます——わたしなにやってるんだろう。納屋からここまで運んでも平気だったのに。あぁもう、おばぁがへんなこと言うから!
 もちろん、菖蒲は納屋で選んだわらたばが王子さまだとまったく信じていました。だからこそもとの姿にもどすため、これまで必死に旅してきたのです。しかし、ひとつだけの大きなかん違いは、干しわらでも人間でも同じだろうと思いこんでいたことでした。
——想像したよりもずっと強くて、おだやかで優しそう。どんなこと考えているのかな。ねえ、わたしのことはどう思っているの?——菖蒲の頭で『とりとめない楽団』による演奏会は開演し、満員の観客を前に指揮者はタクトをふります。ティンパニーのロールで最前列席の恋心は目ざめ、シンバル奏者が調子を合わせて打ち鳴らそうと両手を広げれば……
「アヤメ!」王子さまはぼーっとしている菖蒲に言います。「はやく闇と決着をつけなければ!」
 そう、戦いはまだ終わっていませんでした。闇は完全に消えておらず、すぐにでもふたりを始末しようとふたたび活動し始めたのです。いっこくの猶予(ゆうよ)もありません! それにもかかわらず菖蒲はとんでもないことを口にします。
「わたしはいいから先に行って!」
 王子さまは菖蒲を見ると()れたほおに全身はススけてぼろぼろ、足は生まれたてのめ鹿(じか)のようにブルブルふるえています。
 これまでずっと走りつづけ、階段をのぼりきった菖蒲の足はとうに限界を超えていました。この場でへたりこみたいほど、体力は少しも残っていなかったのです。王子さまのためにここまで来て、すべて願いはかない、ほっとしてすっかり力がぬけてしまいました。
 そんなことなどおかまいなしに、ぬるぬると寄り集まった黒い水はだんだんいきおいを取りもどし、こちらにやってきます。
 王子さまは菖蒲を優しく横にしてふわりと抱きあげ、両側からせまってきた闇を切るように正面の扉へ走ります。
「このままでは追いつかれてしまう。わたしなんか置いて早く!」
「聞いてアヤメ」王子さまは腕の中でもがく菖蒲をなだめるように言います。「わたしは傷をおった羊をこうして家に連れ帰るんだ。山三つ越えたこともある。それにかけっこでだれにも負けたことがない」
 王子さまはそう言って木扉をけやぶり、かるがると階段をかけあがります。負けじと闇はまっすぐ、狩りをするヒョウのようにしつこく追跡(ついせき)してきました。
 地下扉を抜け、風車を出ようとしたまさにその時、大きな地ひびきを立てて噴出する黒いマグマは風車をこっぱみじんに、がれきは飛散(ひさん)して(ちゅう)()い、あっというまにのまれていきます。木切れは矢のようにバラバラと落ちて地面につき()さり、爆発(ばくはつ)を逃れた王子さまは菖蒲をかばいながら()をたらす小麦畑の中を走ります。暴れくるう大蛇(だいじゃ)と化した闇はグレエンたちと過ごした家も馬小屋も納屋も、たがやした畑も、毎日水をまき、手入れした美しい庭も、いいにおいのギンバイカもすべて、なにもかもめちゃくちゃにします。確かに放縦(ほうじゅう)な力はどんなものでもたやすく壊せるでしょう。でももとどおりにすることはできません。菖蒲は失われゆく景色に深く傷つき、それと同じくらい闇の領域(せかい)憤怒(ふんど)をしずめてくれたミモザに感謝しました。
「アルビレオッ! アルビレオォ!」
 白馬アルビレオを何度も呼ぶ王子さまの声は、そこらじゅうであがる阿鼻叫喚(あびきょうかん)怒号(どごう)によってかき消されます。大蛇は赤黒い月を目に、()ちた星たちを軍兵(ぐんびょう)へと変え、王子さまにさしむけます。足を打ち鳴らしつつ背後にせまる闇の大軍、上空ではうねる大蛇がふたりをつぶそうと血眼(ちまなこ)になって探しています。
 形勢(けいせい)は一気に逆転(ぎゃくてん)し、がけっぷちの王子さまでしたが、あきらめずにアルビレオの名をひたすら呼び続けます。そんな逆境(ぎゃっきょう)のなか、ただ菖蒲だけは王子さまの胸に(はな)をよせ、ゆりかごでゆられるように目をとじると、今までの歩いてきた旅を一つずつ思い返しました。
——本に誘われいつのまにか納屋に、モルトやグレエン、アルビレオとの毎日はわたしに力をくれた。フクロウ先生や生徒のスズメたち、働きアリさんはみんな元気かしら。おばぁとまた会いたい。わたしの話をたくさん聞いてほしいな。おじぃとシバはきっと新しい旅に出かけたのでしょうね。もしかすると天体観測所でわたしたちをのぞいているかも。メレさんは今日も記憶採取してるにちがいないわ。アルネヴ! あなたのお茶は最高だった。わたしたちは古い友人のよう。なによりミモザ。あなたはわたし。わたしもあなたといつも一緒よ。リリーフロラ、わたしのお母さん。ぶたれたほっぺは怒られるかな。いつだってわたしは前に進むことができたもの。だからこれからも——
「来たわ」菖蒲はまるで知っていたかのように王子さまの顔を見て言います。
 憎しみあふれた暗闇のむこうからチカチカ星はまたたき、希望がこちらにやってきたのです。そう、白い馬です!
「アルビレオ!」王子さまはおどろきと喜びのまじった声をあげます。
「わが主人、わが王よ! 深い闇の中でわたしを呼ぶ声が聞こえました。ああ、どれほど待っていたか!」
「おそくなってすまない、アルビレオ。大いに喜べ! わたしたちの勝利だ。さあわたしを青い剣のもとに案内しておくれ」
 王子さまは菖蒲をアルビレオの背にのせ、うしろにまたがると、主人の帰ってきた白馬は土塊(つちくれ)をけり飛ばし、いつにもまして早く()けだします。
「グレエンは青い剣を持ち、興廃(こうはい)の丘にむかっています。モルトはアヤメさまが地下におりたすこしあと、王に顛末(てんまつ)を報告するため国へもどりました」
「よし、よくやった。すべて計画どおりだ」
 追ってくる闇の軍隊をぐんとひき離し、広い小麦畑は遠くに、ポプラは前から後ろへ流れ、興廃(こうはい)の丘手前、シラカンバの林が見えたところで輝く戦士はいました。
「グレエン!」
 王子さまの声にふり返るグレエンは、待っていたとばかりに青い剣を思いきり天高くほうり投げ、ふわりと浮かぶ剣はするどい閃光(せんこう)とともに、またたくまに消えさります。遠くかなたの王子さまが青い剣を高くふりあげる姿を見るや、グレエンは血湧(ちわ)肉踊(にくおど)り、たまらずこう叫びます。
「ああ父祖(ふそ)たちよ、わたしはもう満足です! 切望した解放の時、一片でもかかわることができたのですから!」
 それから腰にぶらさがる剣を右手でゆっくり鞘からひきぬきます。完璧(かんぺき)()がれた長剣アトロポスは、後方で行進する十万の兵を鏡のようにうつし、常世(とこよ)の運命を断ち切るため、かん高い声を鳴らしました。
背信(はいしん)虚言(きょげん)亡者(もうじゃ)どもよ」獲物(えもの)をとらえたワシの眼をして、ライオンが威嚇(いかく)するときの重々しい王者のうなりは大地をふるわせます。「わたしがだれの子であるかおぼえているか。底知れぬ憎悪(ぞうお)応報(おうほう)、どのようなものか教えてやろう」
 そう言って、グレエンただひとり闇の大軍に突進していきました。
 いっぽう王子さまは、みるみるうちにシラカンバ林を越え、風を切って興廃の丘に出ます。広い平原のまんなかには暗雲をつきやぶり、天までとどくほどの巨大などす黒い血のかたまりが毒々しくうねり、激しい鼓動(こどう)で空気はひずみ、その重圧によって何者も近づくのを許しません。
 アルビレオは丘の上、見晴らしのきくところでくるりと一回りして止まります。まきあがる火の粉と熱風は菖蒲や王子さまの髪、アルビレオのたてがみもゆらし、恨みをぶちまける大蛇とついに対峙(たいじ)しました。
「アルビレオ!」王子さまは青い剣のきっ先をすらりと闇にむけ、こうたずねます。「あれを見ておそれるか。狼狽(ろうばい)するだろうか」
「わが主人、わたくしはいちどたりともふるえたり、おびえたりしたでしょうか。たとえ深い谷であろうと、切り立つ山であっても、あなたがひとこと命じれば喜んで()けるでしょう!」
「よく言った! アルビレオよ、永遠に続く友情のしるしにわたしが強大な闇を打ちやぶる(さま)をおまえに見せよう。そして、それはかならず夜空にかがやく二重星(にじゅうせい)となり、人々が()らしながめる時、わたしとおまえとのあいだで()わした約束を思いだすこととなる。さあゆこう、強くあれ!」
 王子さまの高らかな宣言(せんげん)に、アルビレオは武者(むしゃ)ぶるいし、ひづめを地面に打ちつけ、雄壮(ゆうそう)ないななきでこたえます。
「アヤメ、こわくない?」王子さまは言います。
「ううん、ぜんっぜん。だってあれの正体(しょうたい)を知っているんですもの。それにわたし、しかってやったのよ」
 王子さまとアルビレオは大笑いします。
「きみはなんて気丈(きじょう)な女性なのだろう」
 アルビレオは王子さまに同意してから、こうつけくわえます。
「王妃やリリーフロラさまのもたれる気品にも、たいへんよく似ておられます」
「たしかに」と、王子さまはうなずきます。「アヤメ、どうかわたしの願いを聞いてほしい」
「わたしのしてあげられることならなんでも!」
「青い剣を共に持ってほしい。【干しわらの約束】にアヤメの信じる心をくわえたい」
 菖蒲はさしだされた剣をためらわずにぎります。菖蒲のゆるがぬ信念は青い剣をみごとなターコイズブルーに変え、重ねた王子さまの手はターコイズブルーをまばゆいばかりの透明な金へと高めます。
 アルビレオは勢いよくまっすぐに丘を駆けくだり、闇は対抗せんと全力で強襲(きょうしゅう)します。光をまとう天馬(てんば)(はな)たれた矢のごとく誰にも止めらない速さでつき進み、闇をまっぷたつにしました。
「先生、あれはなんでしょう」と、島の山頂でシバは言いました。「ボクはあんなに美しく、力強い流れ星を今まで見たことがありません」
「むかし、闇の門を旅したとき」悲しげに夜空を見あげるおじぃはゆっくり口を開きます。「自分を持つ影に名をふし、彼はわしの目となってくれた。彼の望むものはあまりに大きく、わしはあたえてやれんかった。だが、わしにとって今なお、おまえは心の美しい友人なのだよ、イシュ」
 黒煙の中でいよいよ明るく、紫色の星は砂金をちらして突き進み、宇宙の暗黒へ渾然一体(こんぜんいったい)となってぶつかると方々(ほうぼう)にさけ、白い輪っかはいっぱいに広がります。それはすぐ一点に収縮(しゅうしゅく)してからぐるっとうず巻き、多様な色の光があちこち芽吹(めぶ)いたのです。
「なんてすばらしい」宇宙に咲きこぼれる花をアルネヴはサトウの展望台でながめていました。「まるで銀河の終焉(おわり)誕生(はじまり)がひとときで起きているようだ。ミス・アヤメ、きみはついにやりとげたんだね」
 争いの終わりは静かなものです。雲ひとつない夜の丘に()がさすと、こぼれる(つゆ)は草の上でテラテラと輝きおどり、いつもの朝のおとずれを告げます。消え入る灯火を昨日(かこ)に残しながら。

帰路

帰路

 菖蒲と王子さまの前には、ひざまずいた影と、両者をへだてるようにつめたい風が通りすぎました。
()ければわたしは無くなるだろう」迷いのない表情をした少年の影は王子さまに言います。「王の子よ、右手に持つ剣でわたしを()ち、すべての約束を果たそう」
「イシュ」と、菖蒲は口を(ひら)きます。「あなたはなぜ門をでたの? なぜミモザを妹と?」
「わたしはただ父がほしかった。自分を知り、いちばんはじめに考えたこと、それは父だった。ずっと考え、今も思う。きっとこれからも」
「こんなに痛み苦しむ必要はなかった。あなたやミモザだって」
「その言葉を父から聞きたかった。わたしはわがままで、とても弱い」
「そんなことない! あの夜、あなたはわたしを手にかけることもできたはず。それにリリィはあなたに感謝してた」
 イシュは目をほそめ、菖蒲に答えてみじかいおとぎ話を伝えます。
 むかしむかし、優しい農夫は地をさまよう少年の影をわが子のように受け入れ、親子なかよく()らしていました。まわりの人々は知らない影を恐れ、遠ざけましたが、農夫は少年と手をつなぎ黄金の空、風車のまわる小麦畑を歩きながらたくさんの夢を語り、愛について教えたのです。ある時、少年は父を喜ばせようと少しばかりの力を見せます。それが人をくるわせるには十分なほどであることなど考えもせずに。農夫は〝少しばかりの力〟で世界を統べる王となり、風車に小麦畑、愛や夢、少年まで忘れてしまいました。楽しかった昔をいつまでも続けたい少年にはまったく理解できません。答えを知るため少年は父の影となり、やがて父そのものになろうとしたのです。
「……やはりわたしも多くの影と同じというわけだ。闇から()で闇へと(かえ)るうつろな影法師(かげぼうし)
「アヤメ」王子さまはきっぱりと言いました。「しばらくこっちをむいてほしい」
 ふりむく菖蒲の顔は異なる少女の哀願(あいがん)とかさなり、王子さまはまゆを寄らせ、目をそらします。
——強くありなさい、息子よ。交わした約束は果たすように。半端(はんぱ)斟酌(しんしゃく)で誰も苦しめてはならない——そう心に語りかける父の言葉に、王子さまはかたい表情をくずさず、ただ菖蒲を胸に抱きます。
「けーんけーんっぱ。けーんけーん、ぱっ」イシュの()んだ(ひとみ)()えるひとつ星は彼を遠い過去へ、楽しかった昔に連れていってしまいます。「ああ、また父さんの負けだね、父さんの……」
 王子さまは右手の青い剣をふりかざし、陽光(ようこう)刃先(はさき)を天へとつたい、力をこめて————!
 さわやかな朝に感じる重たい空気。気まぐれな風ですら意気消沈(いきしょうちん)し、草花も目をそむけるように頭をたれました。
「アヤメ、おわったよ」
 王子さまは胸もとを湿(しめ)らす菖蒲のふるえる肩に手をそえました。そして青い剣を地面に思いきりたたきつけようとした時、「お願い、やめて!」菖蒲は王子さまの腕にすがりつきます。「赤い宝石の指輪は約束を果たした時に役目を終えたの。だからきっと青い剣も同じように、だから、だから……」
 すると、青い剣はガラスの割れたような音を鳴らし、七色の火花となって散ります。
「わたしにはこうするしかできなかった」と、王子さまは悲しげに広げた両手を見ました。
 菖蒲は王子さまの手にふれ、首を横にゆらしました。

「アルビレオ!」
 遠くでのんびり草を()む白馬に菖蒲は手をふります。
「さあ(うち)に帰ろう」王子さまはアルビレオの頭を優しくなでてから背すじをぐっとのばします。「はやくやわらかいベッドにもぐりたい。もうあんなかっちかちのイスはこりごりだよ」
「干しわらになってもイスの固さは感じられるのね」と、菖蒲は不思議そうに言います。
「まさか」と、王子さまは腕を広げ笑いました。
「おーい!」漆黒(しっこく)の馬にのったグレエンはシラカンバ林から手をふり、近づいてきます。「みんな、ぶじでよかった」
 王子さまはグレエンとあく手をして抱きあいます。
「あなたの助けに感謝します、グレエン」
「いえ王子、みなの協力あってこそ」
「王子はやめてください。グレエンに言われるとなんだか恥ずかしいや」
 グレエンは高笑いしてから菖蒲の前で深々とおじぎをします。
「アヤメさま、ありがとうございました。わたしやモルト、アルビレオもあなたと過ごしたひとときが大きな力となったのです」
「優しいご主人さま、わたしもすてきな毎日が前にふみだす勇気となりました」それから菖蒲は思い出したように、「リリィからの伝言。〝あなたの家で待っています〟と。わたしも帰りますね、お父さん(・・・・)」。
 グレエンの顔はぱあっと明るくなり、目もうるんでいるようですが、みんなのするどい視線を感じてすぐに頭をふり、ごまかすようにせきばらいをします。
「わるいが急用だ。わたしはさきに国へ帰らせてもらう。では!」
 グレエンは誰の返事も待たず、馬に飛び乗り、さっそうと駆けていきました。
「ねえ、グレエンってあんな人だったかしら?」ぽかんとする菖蒲。
 王子さまとアルビレオは声をあわせて「うん、ああいう人!」
「おーい、アヤメちゃーん!」
 遠くから聞こえるたくさんの呼び声に菖蒲はあたりを見まわします。「こっちだよ、こっち!」
 なんと、青空で羽ばたく鳥の群れでした。
「まあ! あなたたちは雨の教室にいたスズメさんたちね。それにフクロウ先生も。なつかしいこと」
 スズメたちは菖蒲のまわりをくるくると、一緒に楽しく(おど)ります。
 菖蒲のそばにきたフクロウ先生は恥ずかしそうに言いました。
「教室でどなりちらしてほんとうにすまなかった。どうかわたしをゆるしてほしい」
 もちろん、と菖蒲はおちゃめなフクロウを許しました。
「アヤメちゃんの教えてくれた居場所は自由に飛びまわれるすばらしい大空だよ。ぼくたちだけではもったいないから、いろんな鳥をさそったんだ。きっとにぎやかになるね。近いうち、アヤメちゃんの家にも遊びに行くよ」
「すてきね。楽しみに待っているわ。こんどはあなたたちの旅のお話、わたしに教えて」
 スズメたちは菖蒲を祝福してから遠くへ飛びさり、手を大きくふって見送ります。
 すると、こんどは地面から声が聞こえてきました。
「ワレらがジョオウ!」
 菖蒲はかがんでのぞくと、働きアリがたくさんならんでいました。
「あなたたちはコロニーを追われたアリさんたち」
「ジョオウのショウカイしてくださったこのコウダイなトチは、やりがいのあるドジョウです。でもワレワレだけでニンムはカンスイできません。ですからみんなでコロニーをツくることをケイカクしました。ミミズやモグラ、ネズミなどにもコエをかけ、キョウリョクしてシゴトをします。あなたのヤクソクをいつまでもワスれません」
「とてもよいアイディアね。きっとまえより美しい丘になるわ」
「すべてジョオウのおかげです。テイエンがカンセイしましたら、ショウタイジョウをオクりますので、ぜひピクニックにいらしてください」
「まあ! ぜったい行く。そうしたら、あなたたちがどうやってここを美しい庭園にしたのか、わたしに教えて」
「アリ、アリ、サー!」
 アリたちは菖蒲を祝福して、穴のなかへせっせと入ってゆき、手をふって見送ります。
「干しわらになっていたあいだ、アヤメはすてきな出会いがたくさんあったんだね。うらやましいよ」王子さまは、ほほえんで言います。
「ええ、わくわくするような日々だったわ」
 長い旅をおしむように、菖蒲はみどりさざめく丘全体をしばらくながめていました。それはいつか、この地方で誰もが耳にするむかしむかしのおとぎ話となるでしょう。父と母は子どもたちの耳をくすぐり、かたりべたちはおのおの塩をくわえながら、やがてどこの国でも知られたお話に生まれ変わり、誰かのもとへ届くのです。

「さて、わたしたちも帰ろうか。アヤメにわたしの国を見せたいんだ。一緒に来てくれる?」
「もちろん。わたし、リリィに帰るって約束したから」
「そういえばアルビレオ」と、王子さまは思いだしたように言います。「アヤメがお前の背に乗ってもいやがらないね。小鳥一匹とまるだけでも大あばれしたのに」
「さてそうでしたっけ、ねえアヤメさま?」とぼけたように耳を動かすアルビレオ。
「どうだったかしら、ねえアルビレオ?」菖蒲は空を見あげ、肩をふるわせます。
 王子さまひとりだけは首をかしげ、いぶかしげにアルビレオを走らせました。


 丘陵地(きゅうりょうち)から西へ、山々をのぞむ大草原にぷかりと綿雲(わたぐも)はうかび、ゆるやかにまがりくねった川や水車場を過ぎて、ふみかためられた一本道をひたすら進みます。お昼ごろ、遊牧民の親切なもてなしを受け、天幕(てんまく)でパンとスープそれに甘いミルクティーまでごちそうになっていると、王子さまは菖蒲に「少しだけ寄りたいところがあるのだけど、いいかな?」と、たずねます。できるだけ早く山あいの国に帰ることを約束して道を北にはずれ、血の荒野へとむかいました。
 衰退(すいたい)を終え、赤い砂の毛布をかぶった眠れる都市の廃墟(はいきょ)基礎(きそ)だけ顔をだし、大きな宮殿にむかって足をのばしていました。王子さまは大階段の前でアルビレオと菖蒲を残し、かけあがります。くずれ落ちて屋根のないドーリア式の柱廊(ちゅうろう)を歩き、散乱(さんらん)する大きな石灰岩の石積みにからむつたや雑草に足を取られないよう飛びうつってさらに進みます。中央の広場にはボロボロの巨像、その足もとに粗布(あらぬの)をまとった老人がつえを持ってこしかけていました。
 王子さまは老人のまえでひざまずきます。
「あなたの導きにより今日、闇を打ちやぶることができました。助言に感謝いたします」
「わしはなんもしとらん」
「あなたはただのもの知りではなく、山あいの国の安寧(あんねい)のため追放(ついほう)された王子です、ヘレム」
「……もう、むかしのことさ」
「国を出て広い世界に旅立った時、わたしはおどろきました。各地であなたたちの評判はおとぎ話として伝わり、数珠(じゅず)のようにつぎの土地へとつながっていたのです。ある時は街全体に、ときには人知れず口伝えで遠い国の王子に助けられた、と。
 わたしは善行(ぜんこう)軌跡(きせき)をめぐりながらここまでやってきました。あなたたちがどのような思いで国をでて、どのようなこころざしで歩み、旅の意味を問うてきたのか、わたしにあたえられた試練(しれん)とは、それらの答えを示すことだと」
 老人は満足そうにうなずき、ゆっくり立ちあがると王子さまの肩に手をのせます。
「お前はよくやった。それにグレエンの勇姿(ゆうし)もたたえよう」
「あなたの教えてくださった女の子に救われました」
「よし、約束どおり秘密を語ろう。顔をあげなさい」
 王子さまは目を丸くします。なんとそこに立っていたのは老人ではなく、白銀(はくぎん)(かみ)琥珀色(こはくいろ)(ひとみ)をもつ屈強(くっきょう)な男だったからです。
「ヘレム、あなたはいったい」
「おどろいたな、王の子よ。おまえは身なりで人を判別(はんべつ)したか」と、腰に手をあて不敵な笑みをうかべ、ヘレムは続けます。「むかし、燃える影の誘惑(ゆうわく)をしりぞけ、命からがら廃墟(はいきょ)宮殿(きゅうでん)にたどりついたわたしは、倒れて深い眠りについた。目を覚ますと(みやこ)は栄光ある本来の姿をあらわし、美しい(にじ)はわたしに水をあたえてくれたのだ。わたしは(にじ)の女王を愛し、彼女は将来(しょうらい)を告げた。それは【口止めの約束】でお前に教えたとおりだ」
「では闇が打ち破られることをあなたは初めから?」
「いや、わたしの好奇心がそれを許さなかった。おしまいを知った旅など、なにがおもしろい? なるほどたしかに追い出された王の子たちにとって一年のはじまりは冬であり、一日のはじまりも夜。しかし、一度あの自由を手にした子どもがどうなるか、お前もわかっているだろう」
「広大な世界をもっとのぞきたくなる。良いものも、悪いものも」
 ふたりは顔を見合わせ、思い出すように笑います。
「ああ、だからどうかわたしをいじわるな幼子(おさなご)だと思わないでほしい。人は先を知らぬともかならず探求し理解する。そうでなければ信じる心とはいったいなにか。
 覚えておきなさい。この世界は言葉(ロゴス)によってできていることを。そして、宇宙をゆきめぐる力と法則は約束にもとづいているのだ。おまえに結ばれた星々のきずなを解くことはできるか」
「なんと! わたしの手にあまる問題です、偉大なる王よ。なにせ語り継がれた物語(ミュトス)のひとりにすぎないのですから」
「よい心がけだ。今の話はあの娘のため、胸に()めておくように」
 王子さまは静かにうなずきます。
「さて、最後にわたしたちを代表し、国のみなに言伝(ことづて)をたくす」
「ヘレム、あなたは帰らないのですか?」
「わたしたちは立ち止まっていられない。これから不当に失われし仲間たちを探しにゆく。ひじょうに困難(こんなん)な旅となろう。忘れるな兄弟、わたしたちはいつもおまえと共にいる」
 ヘレムは王子さまと抱きあい、わかれを告げて、つえを地面に二回打ちつけると七色の風がヘレムを彼方(かなた)へ運び去っていきました。一礼した王子さまは菖蒲と急いで故郷(こきょう)にむかいます。こののち、ヘレムと廃墟(はいきょ)宮殿(きゅうでん)を二度と再び見ることはありませんでした。

静かな凱旋

静かな凱旋

 みどりにおおわれた渓谷(けいこく)奥深く、山沿(やまぞ)いの道をくだってゆけば、やがて眼下(がんか)には明かりのともるちいさな町と、斜面(しゃめん)にかわいらしいお城が見えてきます。駿馬(しゅんめ)アルビレオの足でも山あいの国についた時はすっかり真夜中になっていました。 
 王子さまはなつかしい故郷(ふるさと)の変わらぬ情景を感慨(かんがい)(ぶか)げにながめ、「あそこがわたしの国だよ、アヤメ」と、遠くを指さしますが、返事はありません。菖蒲の顔をのぞくと長旅でつかれたのでしょう、ぐっすり眠っていました。それで落ちてしまわないよう菖蒲の体をそっと(うで)にもたせかけます。
 石づくりのアーチ橋を渡ってすぐ、低い石門の上部には大きなつがいの白鳥と白鳥座を中心にギンバイカの葉でまわりをかこみ、頂点(ちょうてん)にはその花のあしらわれた逆ハート型のレリーフが()られています。パチパチと燃えるたいまつのそばには『ようこそ、名もなき小さな国へ』という立て札と、子どもたちの()んだ花かんむりでかざられていました。
 門をくぐると、町で一番大きな講堂(こうどう)はどっしりかまえ、その前には噴水(ふんすい)広場もあります。人々は朝からつどい、芸術や思想、数学、建築まで自由に語り合いました。お昼には手をつないだ王さまと王妃さまがやってきて、ふたりをかこみ、歴史やおとぎ話やことわざに耳をかたむけ、夕方になると楽しい(うたげ)は始まります。そんな広場も今はひっそりとして、にぎやかな明日を夢みているようです。
 そんな思い出に心おどらせながらリリィの家にむかおうとした時、王子さまは目を見開きます。グレエンを先頭にして山あいの国の民は皆、ゆらめくろうそくの灯火を手に、ならんでいたのです。王子さまは立ち止まり、馬上からひとりひとりの名を呼ぶようにじっくり見まわします。山あいの国のおとなは誰も夜に外へ出たがりませんでした。こわかったからです。なにせおそろしい闇の大蛇(だいじゃ)に親をうばわれたのは深い夜だったのですから。
 王子さまは帰りを待つ勇気ある民にこたえるように黙って何度かうなずき、真っすぐ背筋(せすじ)をのばし、遠くにそびえるお城に顔をむけます。それからゆっくり歩きだすと、アルビレオの馬蹄(ばてい)は石だたみを打つ音を広場に鳴りひびかせ、敬意の思いで見つめる民の道を威厳(いげん)ある姿勢(しせい)で堂々と過ぎていきました。
 町の少しはずれ、闇夜を照らす(ほたる)の舞う森にグレエンとリリィの家はあります。白しっくいの壁にわらぶき屋根で、カーテンを閉じた木窓から灯はもれて、白鳥の置物の影をぼんやりうつしだしていました。
 バラの門を抜けて玄関まで近づくと、王子さまにかかえられた〝眠れる森の少女〟は家で待つリリィにまかされます。お姫さまを見送ってから山の中腹(ちゅうふく)にある城門までアルビレオと走り、一日の(ろう)をねぎらってわかれました。
 がんじょうな観音(かんのん)(びら)きの門扉(もんぴ)は最後に開けた者の閉め忘れか、それとも〝めんどうくさがり屋〟が仕事をしたのか、無防備(むぼうび)にも開けたままです。横着者(おうちゃくもの)のためにひとつ言いわけをするとしたら、今まで深い山あいの辺ぴな小国にわざわざ()めようなどと考えるひまな国はひとつもなかった、ということでしょう。
 王子さまはお城のアーチ扉の上方にある小さなのぞき穴を見て「よおし」と、手のひらにつばをぺっぺとはきます。石壁(いしかべ)のでっぱりに足をかけて軽々とのぼっていき、子どもひとり入れるくらいのせまい壁穴にもぐりこんでぐいぐい進み、城内に侵入(しんにゅう)しました。これは『通りぬけの()』と呼ばれる山あいの国で代々行われてきた儀式(ぎしき)です。子どもたちはお城にある壁穴をどれか見つけて通りぬけたらひとつ〝おとな〟になるのですが、みんなあまりにくぐりすぎて親よりも年上になってしまい(ある女の子はなんと数日で一〇〇さいをむかえたのです)、年に一回だけとなりました。
 ほかにも、お城で隠れて王さまと王妃さまに見つからないようにする『かくれんぼの儀』、地図を持って宝石を探す『宝探しの儀』、正門から屋上まで競争する『かけっこの儀』、お城に一泊する『お泊まりの儀』、みんなで作る『おやつの儀』など、それはもうたくさんの儀式があって子供たちはいそがしい毎日なのです。
 王子さまは大きな赤いペルシャじゅうたんのしかれたエントランスに飛びおりると、壁につるしてある王妃さまの大好きなドライラベンダーの香りに、ますます郷愁(きょうしゅう)をかきたてられます。
 旅先ではいろんな場所に寝泊まりしました。大木の上、風のビュービューふくほら穴、時にはりっぱな宮殿(きゅうでん)やお屋敷(やしき)にも。しかしどんないごこちのよいベッドだって、ここにはまったくかないません。山あいの国では、大人は雑用(ざつよう)でしかお城に入れない、という決まりがありました。ですから王子さまをはなばなしくでむかえる侍臣(じしん)に兵、へつらう高官、なんでもしてくれる家令(かれい)侍女(じじょ)などいなかったのです。それでも王さまをふくめ、好きな仕事や休息(きゅうそく)をみんなそれぞれもち、必要ならば助け合う、という簡単(かんたん)な約束を大切に守りつづけたので、温かい家族のような王国となりました。
 王子さまはなんだかうれしくなって内階段(うちかいだん)をいっきにかけのぼり、王の部屋の前に立ちます。
「希望をもって国をあとにし、栄光をもってむかえられよう、だなんて故郷(こきょう)を離れたのは誰かな。将来の王としてふさわしく、父の目にかなった立派な大人になろうと背のびした子どもはいったいどこにいるのか」
 父の声色をまねて王子さまはくっくと笑います。でもほんの一瞬(いっしゅん)大志(たいし)を抱き頭陀袋(ずだぶくろ)を手にした男の子が走り抜けたような。ちょっぴりうらやましく思いながらも、ひと呼吸(こきゅう)して黒ぬりの扉をコンコンと手でたたき部屋に入りました。
 一歩ずつ王のもとへ、王子さまは片ひざを地につけ、頭を下げます。
「王よ、命令どおり、すべて約束を果たしてまいりました」
 大きな窓を背に、王さまと角灯(ランプ)を持つ王妃さまはこちらを見つめて立っています。
「よくやった」王さまは、けわしい表情で王子さまをじっと見て、低い声でゆっくりと口を開きました。「山あいの国王として父祖たち、および民に変わり、心から感謝する。おまえはわたしたちの誇りだ。困難(こんなん)な旅であっただろう。契約(けいやく)とはいえ、なにも言えず苦労させたこと、心苦しく思う」
「ありがたきお言葉。わたくしは真実と徳、なにより無償(むしょう)の愛について偉大なる父上と母上から教えていただいたゆえ、言葉なくとも歩むべき正道(せいどう)を知りました」
「うむ……わが子よ、それは残念だ、わたしたちにとってとても残念なことなのだ」
 顔に影さす王さまは深いため息をつきます。
 なにごとかと王子さまの体はピクリとゆれ、緊張(きんちょう)した空気は部屋を満たします。
「おまえはわたしたちの考えているよりずっとりっぱな青年になってしまった。こんなに早く母の胸を離れ、父の腕から飛び立ってしまうとは。しかし、今夜だけはわたしたちの勝手をゆるしてくれ」
 そう言って王さまと王妃さまは手を広げ、王子さまを力いっぱいだきしめました。
「おかえり、わたしたちの愛する息子よ。この時をどれほど……どれほど待っていたか!」
「ただいま、父さん、母さん!」
 これが【安寧(あんねい)の契約】によって国を追われ、家に帰ってきた王子さまの最初で最後の記念すべき静かな凱旋(がいせん)のお話です。

湖畔のガゼボ

湖畔のガゼボ

 山あいの国は式の準備で大いそがしです。町の噴水(ふんすい)広場では長つくえに白いクロスをかける母親とドレスを着た子どもたちはつんできた野花で(かざ)りつけのお手伝いをしています。力もちの大工は木製(もくせい)の大きな(えん)だんを鼻歌(はなうた)まじりにトントン組み立てたり、赤いカーペットや古いタペストリーを講堂(こうどう)から持ちだして広げます。近所の家からパンやケーキの焼ける甘い香り、じっくりコトコト()こまれたシチューのこってりとしたにおいに、みんな思わずおなかを鳴らします。
 今日は王子さまが闇を打ちやぶった記念セレモニーの日でした。式までまだ少し時間もあるようなので、にぎやかな街の声を遠くに聞きながら、凱旋(がいせん)の次の日についてお話しをしましょう。
 晴れた朝、王子さまはボサボサの(かみ)のまま食事もせず、階段の手すりをすべりおりて正面扉をバンッと開けます。菖蒲に早く会おうと飛びだしますが、すぐがんじょうな壁にぶつかります。見あげると目の前には王妃さまが立ちはだかっていました。王子さまをむんずと(つか)まえ、問答無用(もんどうむよう)で王の()に連行しました。
 それからはまいにち部屋にこもって秘書官(ひしょかん)のお仕事です。闇を打ち破るまでの歴史、王子さまの旅程(りょてい)諸都市(しょとし)で聞いた歴代の王子さまのおとぎ話をすべて記録(きろく)しなければなりませんでした。朝から(ばん)まで紙とにらめっこする王子さまのもとには時々、こっそりとモルトがやってきて、菖蒲の様子を教えました。セレモニーの終わるまで、さわがしい子どもたちの〝儀式(ぎしき)〟はリリィの家でおこなわれ、菖蒲はお姉さんのように世話していることやグレエンはかわいいひとり娘をピクニックに連れまわし、とうとうリリィに怒られて外出禁止になった話などです。
 王子さまはペンを置き、しけった部屋の換気(かんき)(まど)を開けると、さわやかな風はヒラヒラと紙をおどらせます。土と葉のまじった、さわやかな山の空気を()い、ぐうっと(うで)をのばします。町に目を落としてリリィの家の(ほう)をあこがれるようにながめました。
 けっきょく王子さまの願いかなわず、セレモニーまで菖蒲に会うことはできませんでした。それでせめてあいさつだけでもしようと、式の当日、黒い燕尾服(えんびふく)に着がえた王子さまは広場を通らず、できるだけまっすぐグレエンの家にむかいます。しかし道中、町の人々は王子さまを見つけて次から次へと声をかけ、友人まで集まって質問ぜめにあいます。グレエンの家どころか近くの森にすらたどりつかず、時間切れとなってしまいました。
 しかたなくあきらめ、町の広場にとぼとぼむかうと、そこには正装(せいそう)をした王さまと王妃さまが待っていました。
「なんて姿勢(しせい)ですか、王の子らしく背筋(せすじ)をのばしてしゃんと立ちなさい」と、王妃さまは強い口調(くちょう)で王子さまをしかります。
「まあいいじゃないか」と、王さまは妻をなだめるように言います。「みんな知り合いだし、セレモニーという名の宴会(えんかい)みたいなものさ」それから王子さまに目くばせしました。
「いつもそうやってあまやかすから、わたしが言っても聞かなくなるのですよ!」あきれたように王妃さまは言います。「だいたい、あなた昨日も本をちらかしたまま寝て……」
 王妃さまの怒りのほこ先は王さまへとむき、強い母と、たじろぐ父の背中に王子さまはほほ()みます。
 こうして変わらない日常は闇との戦いを過去にし、やがては夢物語にでもするのでしょうか。そんな幸せにひたっているとセレモニーははじまります。国中、といってもそれほど大きいものではありませんが、おとなから子どもまで噴水(ふんすい)広場は(はな)やかなドレスを着た人でごった返し、王子さまを祝福しようとわき立っていました。
 ブルブルふるえながらトランペットを持つ、顔をまっ赤にしたちいさな男の子は、空気のまじる()のぬけたファンファーレを会場に()りひびかせます。あたたかな拍手(はくしゅ)とともに王さまと王妃さま、王子さまにグレエンは登壇(とうだん)し、みんなの視線(しせん)はいっせいにそそがれます。王さまは民の前で両手をあげ、いつものように国の歴史をすらすらと語りはじめました。
 むかしむかし、領域(せかい)()べる王には三人の息子がいました。なかでも末子(ばっし)文武(ぶんぶ)(さい)にめぐまれ、人望(じんぼう)あつく、優秀(ゆうしゅう)家臣(かしん)大勢(おおぜい)もつようになりました。数多くの戦績(せんせき)をあげ、国の発展(はってん)にも寄与(きよ)すると、自国はもちろんのこと、周辺(しゅうへん)諸国(しょこく)にまでその名は知られ、王の特別な寵愛(ちょうあい)を受けるようになりました。しかし兄弟たちからねたまれます。
 ある時、かしこい末子(ばっし)(かく)れていた影の存在に気づきます。強大な影の力によって王の考えはますますゆがみ、やがて無益(むえき)な戦争をおこし、領域(せかい)全体の大きな災厄(さいやく)につながることを(あん)じ、影と手を切るよう王に提言(ていげん)をしますが、聞き()れられないどころか、大きな怒りをかいます。ねたみにつけいられ、影の傀儡(くぐつ)となった兄弟の陰謀(いんぼう)()ては流言飛語(りゅうげんひご)により反逆者と国民から迫害(はくがい)された末子(ばっし)は忠実な臣下(しんか)とその家族を守るため、いっこくも早く故国(ここく)から逃げなければなりませんでした。そして(ほろ)びの前夜、復讐(ふくしゅう)に燃える影と【安寧(あんねい)契約(けいやく)】を結ばされることになります。
祖先(そせん)臆病(おくびょう)でも反逆者(はんぎゃくしゃ)でもなかった」と、王さまは言います。「国を、父を、人々を愛し守ろうとしたのだ。その証拠(しょうこ)祖先(そせん)の持ちだしたものはなにか、みなも知っているだろう。それは命と知恵だ。あの講堂(こうどう)書架(しょか)にならぶ、ぼう大な文書はわたしたちの祖先(そせん)が衣服やパンを犠牲(ぎせい)にし、荷車(にぐるま)に乗せてここまで運んできたものだ。暴力(ぼうりょく)破壊(はかい)によりこの領域(せかい)から消失した歴史や科学、さらには賢者(けんじゃ)の夢見たおとぎ話まですべて。わたしたちは今日、父母から読み書きを教えられ、だれでも自由に本から学び、考察(こうさつ)し、おだやかに語りあえる幸せな国である。
 なるほど心は人の苦しみを知っており、喜びすら()のものとまったくわかりあうことはない。まくらをぬらした長夜(ながよ)安眠(あんみん)はまばたきほどであるのを知っているのは(だれ)であろう。それでも理解(りかい)し、なぐさめ、笑いたいと願うのは人のもつ本来の美しさではないか——これらもまた深い知恵があってこそ。
 兄弟たち、力で闇に勝利し、自由を勝ち取ったなどと思いあがりたくはない。この物語から学ぼう。なにより感謝しよう、美しい山あいの地を残してくれたわたしたち祖先(そせん)に、身を()して真実をつたえてくれた父と母に、国を旅立った王の子たちに、わたしたちのため、外の領域(せかい)から助けにきてくれた勇敢(ゆうかん)な女性たちに!」
 王の演説(えんぜつ)賛同(さんどう)のはく手がおきます。
「王子、みんなにひとことを」
 グレエンにうながされ、王子さまは民の前に出て広場全体を見わたしました。すると噴水(ふんすい)のむこうにはリリィと、はにかんで(ひか)えめに立つ少女を見つけます。複雑(ふくざつ)()しゅうのほどこされた上質(じょうしつ)(きぬ)のドレスにルビーやエメラルドのネックレスとイヤリング、白鳥の羽が幾重(いくえ)にもかさなる銀細工(ぎんざいく)のティアラにはダイアモンドをちりばめて、なめらかな黒髪(くろかみ)をみごとにかざっています。ときおり、()にあたると宝石やビーズやスパンコールはキラキラとかがやいていました。
 そんなあまりの美しい姿に王子さまは目をうばわれ、固まってしまいます。
「ここにくるようお願いしたんだけど、どうしてもいやだって」と、グレエンは耳打ちします。
 王子さまはかるくうなずき、民のまえに立つと口を開きます。
「兄弟たち、わたしひとりでは成しとげられない、ひじょうにきびしい戦いであった。みなの信頼こそが闇を打ち破る力となったのだ。わたしからひとつだけ伝えたい。それは旅立った歴代(れきだい)の王子たちからの言伝(ことづて)である!」
 あまりの堂々(どうどう)とした声に、会場は水をうったように静まり、王さまやグレエンですらも、なにごとかと緊張(きんちょう)が走ります。
「みなさんを心から愛しています。どうかわたしたちのことで苦しまないでください。いつまでも、いつまでも山あいの国に平和があるように」
 おだやかな王子さまのまな()しによって、民の目からは自然と涙がほおをつたい、心にささっていたトゲを流すいやしの川となりました。王さまは自慢(じまん)の息子に抱擁(ほうよう)をあたえ、民衆(みんしゅう)にこう言います。
「わたしは思いだす。親を失い、みなで涙しながら(たく)をかこみ、自由を夢見て約束した朝を。われらは自由に集まり、自由に話し、自由に歌おう。朝に野山かけまわり、昼は美しき湖へ、夜は感謝し(とこ)につく。まちがえたのならあやまり(ゆる)せ。われらは深い山あいに住むちいさな家族なのだから。名もなき国はわれらの名、山の彼方(かなた)虚栄(きょえい)重荷(おもに)()て。山の彼方(かなた)虚飾(きょしょく)重荷(おもに)()て。
 わたしはここに宣言(せんげん)する。今日をもち、わたしは王ではなく〝お城のピートおじさん〟と呼ばれる。これは城に来る子どもたちが親しみをこめて呼ぶわたしの名だ。そして、こんなたいくつな式典(しきてん)はとっととやめて、早くさわぎたい! みなも好きなだけ食べて飲み、音楽に身をゆだねたいとは思わないか?」
 王さまは金の王冠(おうかん)を投げてから呆然(ぼうぜん)とする民衆(みんしゅう)にうやうやしく一礼(いちれい)して、にっこり笑います。民は歓声(かんせい)をあげ、しんみりした空気はどこへやら、となりの王妃さまはあきれて顔をおさえます。でも王妃さまだけは知っていました。王子さまが旅にでてから王さまは食事と笑いをひかえ、まいにち、城の屋上(おくじょう)から風車の方角(ほうがく)をむき、町の正門(せいもん)に出かけては息子の帰りを待ち続けていたことを。
 舞台(ぶたい)楽団(がくだん)演奏(えんそう)場面(ばめん)転換(てんかん)し、テンポの良い音楽とつくえいっぱいにならんだごちそうで大()りあがりです。
 王子さまはおどったり談笑(だんしょう)する人々のあいだをぬうように菖蒲のもとに()けぬけます。
「ねえリリィ! アヤメは?」
 すると、リリィはにこりと自分の家を指さしました。

 ひっそり静まりかえったリリィの家の庭で菖蒲はひとり、ハーブに水をやっています。
「とてもりっぱなスピーチだったわ、王子さま」と、菖蒲は背後(はいご)で息をあげる王子さまに言います。
「ありがとう、主役(しゅやく)はアヤメだったのに」
「ごめんなさい。わたし、どうしてもうまくできなくて」
「ううん」王子さまは思いだしたように顔をあげ、「そうだ、見せたいものがあるんだ、きて!」と、菖蒲の手をとって走りだします。
「どうしたの? そんなにいそがなくても」ドレスのすそを持ちあげる菖蒲は言います。
「もう時間がない」
 うす暗い森のこけむした敷石道(しきいしみち)を進み、小川にかかる木橋の先、なだらかな斜面(しゃめん)()くスミレの群生(ぐんせい)を通ります。ナラの木立を抜け、道は石づくりのガゼボで切れていました。
「ここだよ、アヤメに見せたかった場所」
 ガゼボのむこうは広い湖でした。いちめん、燃えるようなあかねにそまり、水鳥たちは優雅(ゆうが)に飛び立ち、水面に(むらさき)陰影(いんえい)がゆれます。王子さまはガゼボのこしかけに落ちた葉っぱを手ではらい「どうぞ、お姫さま」と、菖蒲をエスコートします。
「なんて美しいのかしら」
「今がとっておきなんだ。朝もいいんだけどね。この国ではみんな特別な時間と場所をもってる」
「すてき……わたしのために王子さまの〝特別〟を教えてくれてありがとう」
 湖の夕景を一望できるガゼボはだれもいない自然の美術館のようです。刻々(こくこく)とうつりかわる湖畔(こはん)はみごとな印象派(いんしょうは)絵画(かいが)で、ふたりは光にとけこみます。
 ふと王子さまを見ると、ひたむきな顔は情熱(じょうねつ)()らされ、黄金の湖水(こすい)にむけられた(ひとみ)はどこか(うれ)いを感じさせます。やがて、そのくちびるはここちよく止まった空気をにごさないよう注意深く動きました。
「良い解決はないか、ずっと考えていたんだ」
 すると、そよ風は邪魔(じゃま)するように王子さまの耳をなで、菖蒲はむっとします。でも彼女のほうが菖蒲より王子さまとのつきあいは長く、大事な人を取られてしまうのではないかと心配していたのです。夕空はそんなふたりの少女をなだめるようにだんだんと深く、とろんと山のまぶたすら閉ざして眠りつかせました。
「イシュは父を、ミモザはきみをもとめていた。アヤメは赤い宝石でミモザに望むものをあたえたのに、わたしにはなにができたのだろう。青い剣でなにをしてあげられたのか。どんなに勇んでも、無力なことを知る」
 菖蒲は王子さまの思いが濃藍(こあい)の湖にしずんでしまうのが苦しくて、星月夜(ほしづきよ)に目をそらして言います。
「わたしたちはすべてをあたえられはしないのよ、どれだけ望んでも。だから悩むの。いつだって、できないことはたくさんあるって。でも、こぼれ落ちてしまうほど小さな赤子のような手の中で、せいいっぱいしてあげようって。なによりあなたを愛してる、と」
「アヤメは優しくて強いね、安心した」
「ねえ、そうだ!」と、菖蒲は恥ずかしそうに目をおよがせます。「あなたの名前をまだ聞いていなかったわ。それとも、王子さまってお呼びしたほうがよろしいかしら?」
「アサゼル」と、王子さまはすぐに答えます。「わたしの名はアサゼル」
「みじかいのね」菖蒲はクスッと笑みをこぼし、「もっとおごそかな名かと思った」。
「しつれいな! じゃあ王子でいいよ、もう」
「えぇ……そんなんでいじけるの? 子どもねぇ」
「まったく、アヤメがそんな人だったなんて」
「女の子に〝そんな〟とか言うのはしつれいなのよ」
「……ごめんなさい」
「すぐあやまるし」
 ふたりは目を合わせてぷっとふきだし、笑いました。それからアサゼルは菖蒲に顔を近づけ、目を輝かせてこう言います。
「アヤメのこと、もっと知りたいんだ。どんなものを見て、どういう出会いがあったのか」
「いいわよ。じゃあ王……アサゼル、あなたの旅も教えてくれる?」
「もちろん!」
「そのまえに」と、菖蒲は大声で言います。「モルト! いるんでしょ、出てきなさい!」
 ザザッとしげみはゆれて、にゃあっと聞きおぼえのある、へたなネコなで声がどこからか聞こえてきます。
「とぼけてもむだよ、モルト。足音でわかるんだから」
 モルトはチッと(した)打ちしてふたりの前に姿をあらわし、じとっとした目で菖蒲のひざの上にうずくまり、鼻息をふんっと吐きます。
「なんだモルト、いたなら声をかけてくれればよかったのに」と、アサゼルは言います。
「……かけるわけにゃいだろ、こんにゃおもしろいのに」と、モルトはつぶやきます。
「リリィ!」菖蒲は続けて言います。「それにグレエンも!」
 すると、ザザッとしげみはゆれてリリィとグレエンも気まずそうに頭をかいて登場しました。
「ええ、ふたりもいたのかい!」アサゼルは目を大きくします。「ぜんぜん気づかなかった」
「あなたそれでよく闇と戦えたわね」菖蒲はあきれ顔です。
「わたしたちは親として娘をあたたかく見守っていただけさ。なあみんな!」
 グレエンの言いわけに、モルトとリリィはうんうんあいづちを打ちます。
「なあみんな、じゃないわよ。娘を心配して楽しそうにこそこそのぞく親とネコなんてどこにいるの。ゆだんもすきもないんだから」
「おーい」こんどは森のほうから、のんきな顔した〝お城のピートおじさん〟は大きめのピクニックバスケットを手に王妃さまとやってきました。
「アルビレオに聞いたらここじゃないかってさ」お城のピートおじさんはバスケットからろうそくをいくつか取り出して角灯(ランタン)の火をうつしていきます。「おなかすいただろう。食べ物をもらってきたんだ」
「おいおい、町は主催者(しゅさいしゃ)もいないパーティーかい? 兄さん」いぶかしげにグレエンは言います。
「気にするな戦士グレエン」笑顔のピートは気にするでもなく、グレエンの肩をたたきます。「わたしたちはずっと好き勝手してきたんだ。それに、そろそろこうれいのパイ投げもはじまってるだろうさ。だから、やられる前に逃げてきた。前回の仕返しが怖いからね」
 みんな思いだしたように苦笑しますが、菖蒲だけはきょとんとしています。
「やっと会えたわね、アヤメちゃん!」王妃さまは菖蒲のほっぺに優しくキスをしてから手をにぎります。「はじめまして。わたしの名前はユリーフロラ。ユリィって呼んでね」
 ユリィはリリィそっくりの(りん)とした美しい顔と声で、バラの香水を香らせ、リリィより明るく太陽のような王妃さまです。——それならきっとお母さんは物静かな月のようね——菖蒲はリリィをちらりと見てそう思います。
「アヤメちゃんのドレスかわいい」太陽は菖蒲のドレスをうらやましそうに見つめて言います。「もしかしてリリィが仕立てたのかしら」
「はい」
「いいなぁ……リリィ! わたしにも作って。ねえお願い、ねえねえ」と、太陽は月にベタベタすりよります。
「いやよ」月の冷たい返答。「わたしはこれからアヤメに服をたくさん作ってあげないといけないの。それに、姉さんは衣装箱(チェスト)にお義母(かあ)さまの服がいっぱいあるでしょ」
「リリィのけち。あなたが留守(るす)の時、庭のお手入れまいにちしてあげたのに」
「そのことだけどね、姉さん」リリィはまゆをひそめて言います。「帰ってきてびっくりしたわ。庭が()らされていたんだもの」
「いやいや、めんぼくない」ピートはもうしわけなさそうに言います。「言われたとおり、必死に世話したんだ。植栽(しょくさい)やガーデニング、植物学の本までなんでも読んださ。しかし、やればやるほど、なぜか弱っていくのだ。わらとなったアサゼルの報告(ほうこく)をモルトから聞いた時、謝罪(しょくざい)の手紙でもしたためようかと思ったが……まさかリリィまで闇に」
「ちょ、ちょっと待ってください」アサゼルはあわてて言います、「父さんはわたしが必死に旅をしていたあいだ、リリィの庭に頭を(なや)ませていたのですか!」
「うむむアサゼル、落ちついて聞いてくれ。人間などより草花の期待(きたい)にこたえるほうがよっぽど難しいのだぞ」と、しみじみ語る王さま。
「ねえねえそんなこと(・・・・・)よりあなた」あっけらかんとしてユリィは言います。「お義母さまの別邸(べってい)だったリリィのおうちはいいわよね。お城にいるより楽だもの。わたしたちもそろそろ夢だった湖畔(こはん)のおうち、ふたりで建てましょうよ。あのお城、冬はさっむいし、じめじめするし、カビくさいし、階段多くて移動も大変だし」
「おお、それはいい考えだユリィ。さっき王も辞めたし、明日から新居(しんきょ)探しを始めようじゃあないか」
「いいわね、あなた!」
「よおし、またひとつ楽しみができたね、ユリィ!」
「だいじょうぶかな、この国」両手をかさね、見つめあう父と母に、アサゼルは肩をすくめました。
「山あいの国の王さまと王妃さまってこのようだったかしら?」と、菖蒲はたずねます。
 リリィとグレエン、それにモルトは声をあわせて(まよ)わずこう答えました。
「うん、ずっとこう!」
 その日は灯火(ともしび)ゆれる湖畔(こはん)のガゼボで、おいしい食事やダンスを楽しみ、時間を忘れるほどすばらしい夕べとなりました。

ふたつめの夢

ふたつめの夢

「楽しい日は退屈(つまんない)がいたずらして時計の針を早める」と、山あいの国の親は子供たちにお話しします。「だから楽しい日に休息(おやすみ)をつくってごらん。すると時計はもとどおり時をきざむ。そうすれば気づくだろう。あなたがどれほど大きくなっているかを」
 菖蒲も楽しい日がつぎからつぎへとやってきては過ぎ、退屈(つまんない)は時計の針をぐるぐるまわしたので、大きくなっていることなどすっかり忘れていました。
 友だちと山にのぼったり、湖で泳いだり、木の実を集めたり。グレエンと畑仕事のお手伝いをして、みんなでお茶を楽しみ、モルトを連れ、アルビレオに乗って遠くの町まで冒険へでかけるのも楽しい日でした。もちろん、大好きな王子さまに会える日も。
 リリィはお母さんとして、いいえ、もっと菖蒲を愛しました。娘のためにすてきな服をぬい、おいしい食事だってかかしません。庭のお手入れを始める朝から夜寝るまで、親子はたくさん話しをしたのです。そのようにして、菖蒲との時間を宝物のように大事にしました。菖蒲が楽しい日の休息(おやすみ)をわすれてしまったのも、きっとわかるでしょう。
 充実(じゅうじつ)した日々は続き、約束が力をうしない始めたころ、菖蒲はふたつめの悲しい夢を見ました。
 オリバナムとミルラのまじりあう香りで目醒(めざ)めるように、扉のない中庭では六本のリンゴの木は満開の花をさかせ、真ん中にひざたけほどのおさないリンゴの木が一本、ふりそそぐ光をあびてまっすぐのびています。うれしくなった菖蒲はそばに近づいてかがみ、リンゴの木を優しくなでるとリンゴの木は菖蒲のためにちいさな実をひとつ結びます。菖蒲の目からこぼれたひとつぶの真珠(しんじゅ)は小さな実に落ちてはじけ、天から声はひびきます。
「おまえをけっしてわすれはしない。こうしておまえにいつも呵責(かしゃく)をあたえる」
 菖蒲はすっと立ちあがり、周囲をへだてる白い壁と上方へ等間隔(とうかんかく)にどこまでもならぶ窓を下から順に見ます。すると五階の一室の窓だけ、明かりはぽおっと黄色に(とも)っているのに気づきました。窓に手をそえる黒髪(くろかみ)の少女は悲痛(ひつう)な顔をしてこちらをのぞいているではありませんか。助けて、助けて、と、くり返しわたしにうったえているかのように——でも、わたしとはだれなの?——
 あたりを見まわしても扉はなく助けにいけません。少女のためになにかしてあげたいのに、なにもできないのです。菖蒲は「ごめんね、ごめんね」消えかかる(まど)(あか)りに何度もそう言葉を投げかけると中庭はくずれてなくなり、いちめん黄金にそまる小麦畑を歩いていました。
 大きな白鳥はすいこまれるほど深い瑠璃色(るりいろ)の空へ飛び、遠くに燃えるような赤い風車はそびえ立っています。星を中心に白い翼はぐるぐるまわり、羽の音は消える少女のさけび声のようで、たまらず耳をふさぎ、うずくまります。
 そう、二つめの夢は菖蒲に答えを求めました——このまま楽しい日をつづけるのか、おやすみを作るのか。——菖蒲は答えを知っていました。それがどれだけ悲しい結末になるかも。

 ある日の夜、リリィはいつものように化粧台(けしょうだい)のまえにすわる菖蒲の長い(かみ)をとかしていました。
「ねえリリィ。あなたはわたしの大好きなお母さんよ」菖蒲は(かがみ)にうつるリリィに言います。「それにまいにち幸せ」
「まあ、なんてうれしい言葉なのかしら」と、リリィは顔をほころばせます。
「でももし、もしもだけど、わたしがここを出ていくとしたら、どう思う?」
 リリィは手を止め、じっと考えます。菖蒲は言わなければよかったと後悔(こうかい)します。
「おぼえているかしら」と、母親は娘の頭をなで、言いました。「何年も前に教えたわたしの秘密の約束」
「もちろん。【覚悟(かくご)の約束】、それに【園丁(えんてい)の約束】も」
「そうよ。わたしは約束をかたときもわすれなかったし、できるかぎり誠実(せいじつ)でいた。あれからいつもアヤメだけを考えてる。もちろん約束だから愛していたわけじゃないのよ。そばにいればいるほどアヤメを好きになって、アヤメのためにもっともっとしてあげたいと思う。いまもこれからも。でもね……」
「でも?」
「あなたをどんなに愛しても、いつかは家をでていく時がくるでしょう。成長したヒナが巣立(すだ)ってゆくように。だからわたしはつつみこむ愛から、むかえいれる愛に変わらなければならないと思うのよ。娘がいつでも安心して家に帰れるよう、わたしも成長しなければって」
「お母さん、とても怖いの。わたし帰ってこれるかな? またひとりになったらどうしよう」
(おそ)れないで、アヤメ」リリィはおだやかに、でも力強く言いました。「わたしはあなたから自信をもらえた。あなたはほこり高き戦士グレエンとリリーフロラのひとり娘よ。(まど)をいっぱいに開け、いつでもあなたの帰りを待っているのを信じなさい」
「うん。リリィがわたしのお母さんでほんとうによかった。大好き」
「ただ、グレエンに話してはだめよ。あの人、あなたがいなくなるなんて言ったらすっごくめんどうなんだから」
 そう言ってリリィは笑顔の菖蒲にほおをよせました。

 ()(がた)、菖蒲は白鳥の金糸(きんし)の入った白いワンピースに着がえ、野鳥のさえずるほの(・・)暗い森を()しむようにゆっくり歩いてお城へむかいました。城門で草を()むアルビレオとあいさつをし、(みずうみ)まで乗せてもらいます。
 (きり)につつまれるガゼボでは紫根色(しこんいろ)の長い上着(うわぎ)をはおるアサゼルが(みずうみ)を見つめていました。
 菖蒲はどんぐりをひろい、音を立てないよう背後(はいご)にそおっと近づき、アサゼルめがけてなげるとすぐ、しげみにかくれます。どんぐりはアサゼルの頭にぼそりとあたりますが、頭をかいて気づかない様子なので、どんぐりを持ってさらに近づきます。
「アヤメだ」アサゼルは特別な親しみをこめ、呼びかけるように言います。
「なんだ、気づいてたのね。つまんないの」菖蒲ははぐらかすように、少し顔を横にそむけ、アサゼルのとなりにすわります。
「だって」と、アサゼルはさりげなく言います。「マグノリアの香り……したから」
 (みずうみ)は白い吐息(といき)湖面(こめん)にただよわせ、薄明(はくめい)の森をうつします。青の濃淡(のうたん)に支配され、ひんやりとした空気に朝露(あさつゆ)と草、甘い花の香りをまとい、まどろんだ感覚を少しずつさまそうとふたりの思いをゆすりました。
「夕やけもいいけど早朝の(みずうみ)もすてきね」菖蒲はぼんやりと言いました。「ぴんとはった緊張感(きんちょうかん)、これからすばらしい舞台(ぶたい)がはじまりそうな、前兆(ぜんちょう)の静けさ」
「セレモニーの日に教えたよ。どっちもいいって」
「もうおぼえていないわ、そんな何年もむかしのこと」
「うそだね」
「なんでよ」
「〝おぼえてない〟って言葉、アヤメの口から聞いたことない」
「そんなのわからないわ。わたしだって忘れることくらいあるもの」
「いいや、わたしは知っている。アヤメは大切なことすべておぼえているけど(かく)してるんだ。みんなのために」
「なによそれ。アサゼルがわたしのなにを知ってるのよ」
「うん、知らないかもしれない。だからきみを深く知りたい」
「……へんなの」
「考えていたんだ」
「なにを?」
「アヤメに伝えたい言葉(こと)
「…………」
「わたしたちはおとなになった。だからアヤメが(ゆる)してくれるなら、今ここで伝えようと思う」
「わかったわ」菖蒲の目は湖のしずんだ青に()いこまれるように、「そのかわり、小麦畑の風車にわたしを連れていって」。
 ぽちゃんと魚が飛びはね、波紋(はもん)湖水(こすい)に、そしてアサゼルまで広がります。
「もう風車はないはず」アサゼルは菖蒲の横顔を見て言います。
「いいから、わたしをつれてって」
 アサゼルはアルビレオを呼び、菖蒲の言うとおり、白馬を走らせます——家の窓からさびしそうにながめるリリィのことなど知らず。
 彼方(かなた)から太陽は顔をだそうと地平線に力いっぱいの()をさします。広い渓谷(けいこく)()けぬけるあいだじゅうずっと、菖蒲はアサゼルの背中をぎゅうっと抱きしめ、ほおをぴったりつけていました。
「ねえアサゼル聞いて。わたし、夢を見たの」
「どんな?」
「扉のない中庭の夢。ひとつだけ明かりのついた窓があって、そこから苦しむ少女はわたしに助けをもとめてた。もしアサゼルだったら、その子を助けにいく?」
 アサゼルはなにも答えません。
「わたしなら迷わず行く」と、菖蒲は続けます。「だって助けをもとめているんですもの。たとえすべて失うとしても」
 アサゼルは右手を菖蒲の手に(かさ)ねます。
「ねえ、アサゼルの手、やっぱりあったかい」
 そう言って、菖蒲は静かに目をつむりました。
 たわわに実る小麦畑を遠くに、アサゼルはおどろきます。あの風車です! 闇が破壊(はかい)してからだれも直していないはずなのに、どうして。
 アザゼルは困惑(こんわく)しながらも、風車のまえでアルビレオからおります。逆光(ぎゃっこう)で影のようにうつる黒い風車は羽が左にまわり、ゴオンゴオンという、いかにもぶきみな音を()らしています。周囲で小麦はサラサラこすれあい、あおられる黒髪(くろかみ)を手でおさえ、菖蒲は言いました。
「ありがとうアサゼル。ここでじゅうぶんよ。先に帰っていて」
 そっけなく風車にむかう菖蒲に、アサゼルはあわてて近づこうとします。
「来ないで!」
「でも、きみに伝えたいことがあるって」
 しかし菖蒲は足を止めません。ふり返りもしないのです。——こんな忌々(いまいま)しい風車、今すぐなくなってしまえばいいのに。——と、アサゼルはもどかしく感じます。
「ひとつだけ聞いてほしい!」
 遠ざかる距離(きょり)を少しでもちぢめようと、両手を広げながら必死に呼びかけるアサゼルを無視(むし)するように、菖蒲は閉じられた風車の戸口へずんずん歩いてゆき、うつむきかげんで扉の把手(ノブ)に手をかけました。
「いやよ」
「お願い」
「いや」
「なぜ?」
「いやだからよ。いやなものはいや!」
「どうか、こちらをむいてほしい」
「いやなの! だって……だって、ふりむいたら扉を開けられなくなるもの!」
「アヤメ、アヤメ。ほんのすこしでもいいから、わたしを見て」
 ついに覚悟(かくご)の手をゆるめ、ふりむいてしまう菖蒲。アサゼルの胸ははりさけんばかりです。山のようによせる(まゆ)(くちびる)()きざみにふるえ、あふれるほどの涙を(ひとみ)にためていたのですから。
「わたし、あなたの言葉を聞いたら帰れなくなる」ふりしぼるような声で菖蒲は言います。「だって、ぜったい忘れたくないから。とっても楽しみにしてた、たいせつな約束。ずっとこの日、この瞬間(しゅんかん)を待っていたのに。わたしは迷わず〝はい〟って、答えたいのに」
「だったらそれでいいじゃないか。すべて終わったんだ。リリィや母さんもここで幸せにくらしてる。だからアヤメも」
「むかしの約束はまだ残ってる! それを果たさなければいけないの。あの子は苦しんでいる。あの子はわたしなのよ! わたしなの……」
「そんなの」アサゼルは顔を落とし、()き捨てるように言います。「だれもおぼえてないさ」
 菖蒲は首を横になんどもなんどもふります。そう、なんどもなんども。それから天をあおぎ、ゆっくりと一息してから母親のような()みをうかべ、教え(さと)すように言いました。
「ねえアサゼル、約束は一度口にしたら、たとえ誰もおぼえていなくとも果たさなければならないのよ。(うそ)をつけば、せっかく打ち勝った闇の(かて)になる。約束の力はわたしたちのついた、たくさんの(うそ)代償(だいしょう)よ。わたしはミモザやイシュのような子が苦しむのを見たくはないの。あなただってそうでしょう?」
「でも」と、アサゼルはこぶしをかたくにぎりしめます。「アヤメがそばにいない日々など()えられない。そんなの考えるのもいやだ」
「わたしも同じよ、アサゼル。だけど、そうだとしても、たったひとつのちいさな約束を守ることは、わたしたちの乗り越えなければならない大きな悲しみよりずっと大切なこと。お願いだから、これ以上わたしを苦しめないで」
 菖蒲へのほとばしる想いはのどを()がし、理性(りせい)は胸をいよいよ()めつけます。ここまでわかれのあいさつを嫌悪(けんお)した日はありません。アサゼルはいろんな解決をめぐらせますが、どれもふたりに心痛(しんつう)をあたえ、言葉を失ってしまいます。
 菖蒲は風車の扉を()けると、ゴオゴオとすいこまれるような風に引きよせられます。王子さまはなすすべなく風車にうばわれるお姫さまをただ傍観(ぼうかん)するしかできません。見かねた白馬は思わず口をだそうとしたその時——
「わたしはこの約束を信じて(うたが)わない」アサゼルはあらんかぎりの声で言います。「アヤメがわたしを助けてくれたように、こんどはわたしがアヤメをむかえにゆく。ちいさな約束を果たしたその日、その瞬間(しゅんかん)に!」
 菖蒲は、ふり返りませんでした。
「愛している、アヤメ」
 アサゼルのささやかな告白は西風(せいふう)にいともたやすくふき飛ばされ、流れゆく雲とともにどこかへ消えます。風車の扉は無情(むじょう)にも音を立てて閉じ、軽薄(けいはく)な男だとあざ笑うかのように菖蒲を連れ去ってしまいました。

夜半〇時のらせん階段

夜半〇時のらせん階段

「シンデレラだってくりぬいたカボチャの馬車でおうちに帰ったのに、なんでわたしは歩きなのよ。しかもけっこう長いし」
 ぶつぶつともんくを言いながら菖蒲は木製(もくせい)のらせん階段をぐるぐる上へのぼっていました。
 中央のふきぬけには水晶(すいしょう)原石(げんせき)がいくつも宙にういて固まり、金のひもにつるされた丸いおもりはフーコーのふり子のように、いろいろな方向にゆれ、どこからかカッチコッチと一定のリズムで時をきざんでいます。
「それに」と、菖蒲はため(いき)まじりに言います。「おとぎ話のお姫さまはいつまでも幸せにくらすのに、こんなさびしいおしまいもあるのね。まあでもアヤメ、ふつうはこんなものよ、なにかを期待(きたい)してはいけないわ。金の馬車だとか、りっぱな身なりの従者(じゅうしゃ)だとか、まして、ガラスのくつだって落としてきたわけでもないし。盛大(せいだい)にむかえられず、送られもしない、ひっそり階段をのぼっておうちへ帰りましたとさ、おしまい、なんてのもアヤメらしくていいのかな」
 階段を一周めぐるたび、菖蒲の時間は逆行(ぎゃっこう)して助けをもとめていた少女の姿に変え、体だけではなく記憶(きおく)もだんたん遠くに、いきいきとした昨日までのできごとはまるで他人(たにん)のめぐった旅行のような感覚にさえなりました。ただひとつ(・・・・・)をのぞいて。
 周囲はいつのまにか石づくりに、乳白色の壁には木の手すりがついています。電球色のあたたかな明かりに、なんともいえないなつかしさがこみあげて、菖蒲はあたりを見まわすとカサカサ、ノッソリノッソリ。やはりカメです! あいかわらずカメはのっそのっそと階段をおりつづけていたのです。ここはのんびりカメといたずら好きのアリアドネのいる『下に上がる階段』でした。
「ひさしぶりね、カメさん!」菖蒲はうれしくなり、カメの横に(こし)をおろします。「元気そうでなによりだわ。アリアドネとはうまくいってるのかしら?」
「も・ち・ろ・ん」カメはゆっくり首をたてにふりました。
「安心した」菖蒲はほおづえをついて言います。「ねえねえカメさん、あなたとわかれたチョコレート色の扉のむこうはとんでもない部屋だったのよ。わたしのお話し、聞いてくれる?」
「も・ち・ろ・ん」カメはゆっくり首をたてにふりました。
「じゃあ、まずはね」と、菖蒲は身ぶり手ぶりをまじえて、いきいきと語りはじめます。
「扉を開けたらほんとびっくりしたの。だって床がないんですもの。まっさかさまに落ちたらお魚さんや鳥さんや、ながれ星さんまでわたしに話しかけてもうてんやわんや。ね、おもしろいでしょ。でも、じつは落っこちていたんじゃなくて……」
 どれくらい()ったのでしょう。今まで見てきたものや聞いたこと、しゃべったこと、かいだにおい、食べたものや飲んだもの、菖蒲の楽しい日々をただひとつ(・・・・・)をのぞいて、ありったけカメにつたえました。おやすみまえ、たいせつな宝石を宝石箱にひとつひとつしまうように。そんな菖蒲の話をカメはおしまいまで静かに聞いていました。なにせカメほど聞き上手(じょうず)な生き物はいないのですから。
「……それでね、風車にある、らせん階段からここにたどりついた、というわけ。どう、すごい物語でしょう?」
 カメはゆっくり首をうんうんと、何度かふってから、こうこたえます。
「……ここまで、よくやった……うむ……うまく、やった、よ……」
 カメの返答に、さっきまで楽しそうな菖蒲はうつむいてしまいます。
「わたし、カメさんの言うように、よくやれたのかな。ほんとうにうまくできたのか自信ないの。だってわたし、好きな人を傷つけてしまったし、自分の気持ちにも正直になれなかったから」
「い・い・や」と、カメは首を横にふります。「それでも……じゅうぶん、よくやった、さ……たくさん、がまんも……した……ね」
 菖蒲は想いの水平線から大波がやってくるのを感じました。いつもみたいに「うん、ありがとう」と、笑顔を作りたくとも、どうにもうまくいかないからです。
「カメさん、わかってくれてとってもうれしい。わたしね……わたし、わたし、おうちに帰ったら、きっと今のお話しぜんぶ、なにもかもわからなくなってしまうから、カメさんとの思い出もすべて。もう夜中の〇時になっちゃうから、だから、だからすこしだけ、時計の針がすべて上をむくまで、ほんのちょっとだけ、泣いてもいい?」
 カメはみじかい手をのばして菖蒲の太ももをぽんぽんと優しくたたき、体をそむけました。すると菖蒲の目から自然と涙がポロポロこぼれます。せきを切ったように、とめどなく。
 後悔(こうかい)していたわけではありません。そのように選ばなければならなかったことが(くや)しいのでもなく、ただアヤメとアサゼルのために泣いてあげたかったのです。それが菖蒲にできる最後のせいいっぱいだったから。たくさんの涙の片方は彼女のため、もう片方は彼のため。水は両方の目からそれぞれ同じ数ほど流れ、ほおをつたわり、あごでまじわると、やがて一緒に地面に落ちます——そっか、こうすれば大好きな人のそばにいられるんだ。
 たしかに菖蒲は自分のために泣くことはしませんでしたし、どうしてわたしがとか、なんでわたしだけ、などと考えないようにしていたのです。いじけてしまえばきっと前に進むのを恐れたり、なにもかもいやになってさじを投げ、せっかくのすてきな物語は台無しになってしまいます。でも、この時ばかりはあふれる気持ちをおさえたくありませんでした。
 だから、言わないと決めていたはずの〝ただひとつ〟も口にしてしまいました。
「わたしも愛しているわ、アサゼル! あなたをはじめから深く、とっても深く……むりよ、こんなおしまい耐えられない、考えたくもない。だってわたしの心は、わたしの魂は、あなたをこんなにも強く(した)いもとめているんですもの。でも、こうするしかなかったの、こうするしか……
 ああ、せめてどこかちいさな村のおとぎ話しにでもなればいいのに。むかしむかしあるところにって。そうすれば見知らぬ誰かに(おぼ)えてもらえるのに!」
 ついにおとずれた約束の時間。ゴーンゴーンと大きな(かね)の音は鳴ります。一回、二回……
「行かなきゃ」菖蒲は赤く()れた目に残る最後の涙をそっと指でぬぐい、立ちあがります。「アリアドネ、わたしの行かなければならない道を教えてちょうだい」
 しかし、階段はなにも変わりません。まさかアリアドネは約束をやぶっていたずらを始めたのでしょうか。いいえ、菖蒲はくりかえしアリアドネの名を呼びかけても、聞こえないふりをしていたのです。鐘の音は五回、六回……カメは口を開こうとしたとき、菖蒲は言いました。
「なんて優しいアリアドネ。わたしはまちがっていたわ。だってあなたが覚えてくれているんですもの、わたしたちのおとぎ話。だから、もう満足よ」
 すると上階はふわりと光り、青白く無機質(むきしつ)でつまらない階段へと変わってゆきます。カメとアリアドネにさよならと手をふり、階段を一歩一歩、ふんでいくと、はるかむかしのように思える、あの小さな図書館がポツリと見えます。
 菖蒲は目をつむり胸に手をあてました。
 とくんとくん。——ねえアヤメ、とろけるほど甘い夢からどうか()めないで——鼓動(こどう)(かね)()とリズムをずらし、物語のおしまいを止めているようです。
「そうよ。でもねアヤメ、あなたの選んだ結末(おしまい)は、菖蒲(わたし)が選んだ結末(おしまい)
 十二回目の(かね)()()()む時、少女は深呼吸(しんこきゅう)して足をふみだすと、ただ前だけを(のぞ)み、力強い笑顔で図書館へ立ちむかっていきました。
————
「アヤメ、あなたが本借りたいってきたのに窓ばかりながめて。お昼はみんなで食べる約束でしょ、わたしもう帰るわよ」
 図書館の窓をじっとながめる菖蒲に、本をかかえたお姉さんは顔をしかめて言いました。
「でもお姉ちゃん、ここのたなにある本、もう読みおわってしまったの。だからどうしようかなって」
「あなたね、もうすこしむずかしい本読みなさいよ」
「ええ、ねむくなる。わたし、お姉ちゃんみたいにおかたい(・・・・)子どもじゃないし」
「なに言ってんの。ほんとはぜんぶ読んでるくせに」
 菖蒲はベーっと舌をかるくだすと、お姉さんも口をいーっとしてふたりは笑いますが、せきばらいが聞こえ、口に手をあてて目を合わせ、わきをつつきあい、ふざけます。
 新刊(しんかん)とおすすめの本を何冊か借りてから司書さんにバイバイと手をふり、姉妹仲よく手をつないで図書館をあとにしました。
 こうして、アヤメのすてきなおとぎ話の数々は雨となってすべてながれ落ち、干しわらになった王子さまをもどす物語は、静かに(まく)をとじたのでした。

おはなしのおしまい

おはなしのおしまい

 昼すぎ、菖蒲はとなり町で用事(ようじ)をおえ、夜ごはんの献立(こんだて)を考えながら家にむかっていました。お気にいりの和菓子屋(わがしや)さんを横目に、かき氷を食べようか、それともあんみつソフトに水ようかん、わらびもち、ところてん……夜の献立(こんだて)を押しのけて三時のおやつは頭の中でくるくるまわります。
 時計はいつも通り、ちくたくと時をきざみ、菖蒲をおとなにしました。お姉さんと取りとめもないおしゃべりはかかさず、本を読むのは好きだけど学校の勉強はまあまあ、友だちとわいわい遊ぶのも(きら)いじゃない、といったぐあいに、笑ったり、おこられたり、泣いてしまったり、いやなこともありました。でも、なにかが欠けているとか、ものたりないなどとはすこしも思わなかったのです。
 菖蒲はアヤメを助けるためにおとぎ話をすっかり手ばなしたので、すてきな夢だったのに、どうにも思いだせないモヤモヤする夢のように、ああでもないこうでもないとなやむことはありませんでした。もちろん、あのちいさな図書館には何度も足を運び、窓だってのぞきましたけど、扉のあるふつうの中庭などに関心は持たず、読書のあいまにちらりと見るくらいです。ひとつだけ変わったとしたなら、菖蒲はアヤメに話しかける、あのへんなくせ(・・)がなくなったぐらいでしょうか。
 もみくちゃのまいにちは菖蒲にごくありふれた夢をあたえ、それなりの生活と満足も保証(ほしょう)しました。気になる男の子がいたかどうかはわかりません。なぜなら菖蒲に聞いても遠い目をして「そういうのよくわかんない」が口ぐせでしたから。
 青空に固まるは雲の(みね)、えんえんとくりかえすセミのフェイズ、アスファルトに逃げ水はゆらゆらゆれて、藍色(あいいろ)のリボンつきストローハットを頭にのせた菖蒲は肩にかけたクリーム色の帆布トートバックからハンカチを取りだし、ひたいにながれる汗をぬぐいました。両わきにケヤキなみ木そびえる大通りの中央には、熱気をおびた女のブロンズ(ぞう)が強くしなやかに立ち、菖蒲はあこがれ(いだ)いて「おつかれさま」と、あいさつをします。
 足早にゆきかうオフィスワーカー、重そうなリュックを背おう外国人のバックパッカー、ベビーカーを押す母親はとなりではしゃぐ長男に「ちゃんと歩きなさい」と、注意しています。建物の影でぐったりするキジ三毛ネコの泣き声があんまりヘタで、二度見した菖蒲は立ち止まり、近づいてなでようとしたら、かすかに流れてくるのはさわやかな甘い花の香り。
 それは駅近くのビル前に植えられたタイサンボクでした。ふと図書館の看板(かんばん)が目に(はい)り、読みたい本を思いだします。最近はもっぱら大きな図書館で本を借りていたので、わざわざよらなくともよかったのです。それでも、腕時計(うでどけい)を気にしながら、ほてった体を冷まそうと本をながめて帰ることにしました。
 (かた)の古い自動ドアはガタゴト左右に開き、ひとけのないビルのエントランスをぬけます。(かべ)にうめられた三角形のボタンを押すと二基(にき)あるエレベーターの左が先に到着し、くぼんだ丸い5を選択(せんたく)するとゴトンと音を立てエレベーターはゆっくり持ちあがりました。
 何年ぶりかの図書館への帰還(きかん)です。まるで大好きなお姉さんと手をつないで、そわそわする少女がすぐそこにいるような不思議な緊張感(きんちょうかん)——子どもの時はあんなに喜んででかけていたのに。
 エレベーターの扉が開くとすぐ横に新聞や雑誌(ざっし)閲覧(えつらん)席、開きっぱなしの扉のさきにてんじょうの低いこじんまりとした図書館はあります。それは子どもにはちょうどよい広さで、おとなにはちょっぴりせまい本屋さんのようなフロアです。
「うわあ、なんにもかわってない」菖蒲は感慨深(かんがいぶか)げに()つめたような濃い紙のにおいをくんくんかぎました。
 平日のかしきり図書館はなんともぜいたくで、うかれた菖蒲は雑誌を読むことなどわすれ、自然と児童書(じどうしょ)のある書棚(しょだな)へいそぎます。入り口すぐ左には歴史の本はならんで、その奥には植物や動物の図かんに芸術の本です。少し進んで右に受付と前には紙しばいや絵本、児童(じどう)小説がずらっとならんでいます。こし丈ほどの低い棚、色あせたカラフルなフカフカの丸いこしかけ、よくながめていた青い中庭の見える大きな(まど)——書棚(しょだな)書棚(しょだな)のあいだにはさまって、いつも本を読んでたっけ。なんだかあのときから時間が止まっているみたい。
 菖蒲はバッグとストローハットをそこらに置いて、紙しばいをめくったり絵本を(ひら)いたりします。(たな)にならぶ本の()に一冊ずつ人差し指をのせ、「この本好きだった」と、クスクス笑い、「最後は王子さまとお姫さまがいつまでも、しあわせにくらしましたとさ、だったかしら。これは冒険活劇(ぼうけんかつげき)、これは漂流(ひょうりゅう)記ね。この本は……海賊(かいぞく)がでてきてちょっとこわいの」
 本にふれさえすれば、つぎからつぎへと物語は菖蒲の中で動きだします。〝おやすみ〟していた空想や夢は、やかましくおどる目ざまし時計でベッドからいっせいに飛びおき、さあさあ早くと寝巻(ねま)姿(すがた)のアヤメの(うで)をとり、カーテンを思い切り(ひら)くと、わだかまりで破裂(はれつ)すんぜんの風船星(ふうせんぼし)からせかすように連れだします。言葉は少女の自由な想像(そうぞう)でいろんな物語に変わり、それは領域(せかい)をどこまでも広げ、時には結んだりもします。空に浮かびながら海で泳ぐことも、宇宙ではイワシの大群(たいぐん)が空飛ぶ金色のおひつじをかこんで帆船(はんせん)アルゴー号の冒険(ぼうけん)について話すことも、夏野菜と冬野菜はオーロラスープを食べながら北極(ほっきょく)南極(なんきょく)赤道(せきどう)を牛車で行き来するらしいと、うわさしていることも、雲をつきぬける巨人は砂粒(すなつぶ)ほどの小人と仲良く(かた)をならべることも。おしまいとはじまりが手を組む菖蒲の王国ではなんでもできるのです。そう、信じていればなんでも!
 ただ、一冊の本で指は止まりました。
「これはなんだったかしら」菖蒲はふしぎな本を手にとります。「もしかして新刊かな?」
 ラベルもなく、表紙はあかね色でタイトルが金色、作者不明の本の名前は『干しわらになった王子さま』です。
 菖蒲は子どものようにいそいで靴をぬぎすて、書棚(しょだな)書棚(しょだな)特等席(とくとうせき)にぎゅうぎゅう体をつめてすわると表紙をめくり、ページを(ひら)いて読みます。
 深い山あいの国の王子さまは燃えるような影と戦うため、約束によって干しわらになるところから物語は始まり、勇敢(ゆうかん)(やさ)しいひとりの少女が王子さまを助ける旅のお話しでした。
 主人公の少女は干しわらになった王子さまを助けようと長い旅のすえ、ついに扉のない中庭で井戸の水を()みます。たくさんの(きず)()いますが、弱り果てた少女を助けたのは親友の影の女の子でした。ふたたび力を得た少女は影のあやつる、怒りくるった邪悪(じゃあく)な王さまをしかりつけます。ところがなんと、王子さまに水をそそごうとした時、小ビンをわってしまいます。あきらめない少女は残りの水を口にふくんで王子さまにキスをすると、もとの姿になったのです。王子さまは少女の力を借りて闇を完全に打ちやぶりました。
「とても強い女の子ね! 読んでいるだけでわかるもの。わたしだったらぜったいできなかったわ」
 興奮(こうふん)する菖蒲の目はならんだ文字をどんどん追います。
 闇を打ちやぶったふたりは王子さまの国に帰ると、みんなしあわせにくらしました。しかし、いつまでも(・・・・・)ではありません。なぜならとつぜん、おしまいがやってきたからです。大きくなった少女は残してきた約束を守るため、おうちに帰らなければなりません。ふたりいつまでも一緒にいたいのに、どうにもよい方法は見つかりません。
 ついに時はつき、少女の言うがまま白馬で小麦畑に着くと、こわれたはずの風車はひとりでにたっているではありませんか。王子さまの約束に少女はふりむきもせず、風車へと消えてしまうのでした。物語はそこでおわっています。
「女の子が誰にも助けられず、いきなりおしまいって、なんてへんてこなのかしら。残りだって全部白紙になっているわ。それに王子さまの約束って……」
——鏡よ鏡、このおはなしのおしまいはなあに?——窓のむこうの少女アヤメは菖蒲の耳もとにそうささやきました。菖蒲が思わず顔をあげた時、いたずら好きのだれかさんはフーッと息をふいて、そよ風はエレベーター横の階段から図書館の入り口へ、そして白紙ページをぺらぺらとめくっていきます。
「へんな本、あとがきかしら?」
 菖蒲は空白のつづきを読み始めます。
「少女とわかれたあと……
————————
 少女とわかれたあと、とつぜん、どしゃぶりの雨がふりました。
 それはまるで領域(せかい)をぬらす少女の涙のような、地面に打ちつける雨音(あまおと)悲痛(ひつう)なさけびで、つめたい水でした。王子さまはなまりのように重たい雨に目をそむけ、ただ立ちつくします。
「笑ってくれ、アルビレオ。わたしは彼女がそばにいてくれると信じてうかれおどるバカな道化師(クラウン)だった」
「……」
「大言を吐いて。きっと愛想(あいそ)つかしただろうな」
 王子さまはうなだれたままふり返り、とぼとぼ歩きます。
「わたしは」と、アルビレオはそんな王子さまを強く見つめ、「あなたの命じるところならどこへでも()けますし、なんでもするでしょう。それがわたしにあたえられた役割(やくわり)だからです。でも、どこへゆき、なにをすべきかは王子、あなたが決めねばなりません。そして、彼女があなたに望んだのは、去りゆく背中を見送ってもらうためではなく、あなたの助けを信じていたのではありませんか。だからあなたにだけは手をふらなかった」
「そんなのわかってる、わかってるさ!」
「わかっているのであればなぜ! なぜ、あなたはいつまでもぬれそぼり、しめった地に顔を落としているのですか?
 彼女はあなたをいやすためにこの領域(せかい)へやってきて、前進し、辛苦(しんく)のとげをのみ、侮辱(ぶじょく)嘲笑(ちょうしょう)を受け止め、失望(しつぼう)してもけっしてあきらめず、ついには自分を犠牲(ぎせい)に、苦しみもだえ、中庭で井戸の水を()んだのではありませんでしたか。ただあなたのためだけに、愛するあなただけを思って! あなたのくちびるをうるおしたあの水は、貴重(きちょう)な、たったひとすくいの水は、心うるわしい女の涙なのです。
 王子! いまは道なき道を、いばらやアザミにその身を投げ入れねばならぬとも、彼女のため顔をあげ、足を前にだすべき時ではありませんか」
(そうだ、王の子よ。宇宙をゆきめぐる力と法則(ほうそく)は約束にもとづいているのだ。おまえに結ばれた星々のきずなを解くことができるか)
(こぼれ落ちてしまうほど小さな赤子のような手の中で(せい)いっぱいしてあげようって。なによりあなたを愛してる、と)
「それでもわたしは」と、王子さまは両手を見つめ、「彼女をこぼしてしまうほど、ちっぽけな手なのだろうか、望むものをあたえられないほど、みじかい腕だったか」
 大きな雨音。しばしの沈黙(ちんもく)のあと、「いいや、ゆかねば」。

  遠くで白鳥がわたしの名を呼び
  わたしは彼女の声を知っている
  天地(あまつち)の間に白くほころぶ苹果(りんご)の花
  過ぎさる星々 明けの群青(ぐんじょう)
  わたしは彼方(かなた)をさすらい
  ついに彼女を見いだす
  湖水(こすい)におどる美しきその姿
  はためく春雪(しゅんせつ)の羽つかみ
  なめらかなうなじに鼻を寄せ
  (ぬく)もる吐息(といき)を胸に
  うす桃色(ももいろ)のくちびるは甘い約束の言葉
  さあ、いつまでも いつまでも
  ともに()もう
  銀の苹果(りんご)と黄金の苹果(りんご)

 王子さまはアルビレオの首を()き、「おまえが友でほんとうによかった」。
 それから白馬に飛び乗って、いちもくさんに故郷(くに)へもどり、王さまに近づくと、その前でひざまずきます。
「わが王よ。ふたたび国を旅立つこと、どうかお(ゆる)しください!」
 王さまと王妃さまは、ずぶぬれの王子さまの突然(とつぜん)懇願(こんがん)当惑(とうわく)しながらも、おだやかにたずねました。
「なにゆえか」
「はい。約束のため、わたくしにすべてをささげてくれた深く愛する人のためにです、王よ。いつ帰れるのかわかりません。いえ、もどることはないかもしれません。しかし、それでもやはり」
「息子よ」王さまは言いました。「むかし、国を旅立つまえに話した、あのなぞかけをおぼえているか」
「もちろんです。芯のないりんご、扉のない家、鍵のいらない宮殿(きゅうでん)。これらはおさない時、毎夜(まいや)ベッドで寝るわたくしの耳もとで母上の歌ってくれた子守歌です。わたくしはゆだねる愛と、まったくの信頼こそがなにより強い約束であることを学び、闇を打ちやぶるための示唆(しさ)をえました」
「そうだわが子よ」と、王さまは満足そうに笑顔でうなずき、王子さまの肩にふれて顔をのぞきます。「では王として、なにより父としておまえに命じる。いそいで出かけなさい。おまえの約束がすこしも遅れることのないように。そして愛する人から安心してゆだねられるにふさわしい大木となり、信じ待つ彼女をしっかりつかみ、けっして離してはいけない」
 王さまの(ゆる)しをえた王子さまはいきおいよく城をでて、翼を広げた天馬(てんば)アルビレオと共に地平線(ちへいせん)の果て、(よい)()け、日の出と日没(にちぼつ)をこえて()けていきます。王子さまのむかった先は記憶の落ちる月でした。
 王子さまは記憶の断片(だんぺん)採取(さいしゅ)をしているバクに会うと、こう言います。
「わたしに記憶集めの方法を教えてください! なんでもしますから」
「教えるのはまったくかまわないが」と、バクは訪問者におどろきを隠せず、「いったいどうしたというんだい?」
「心に思う人のおとぎ話が欲しいのです。彼女から離れてしまったすべてを」
「なんと!」バクはますます目を大きくしてこたえました。「はじめにひとつだけ忠告しておこう。だれかの記憶を選び取ることなどぜったいできない。流れ星に個々の名前が書いてあるわけではないだから。それにまわりを見てごらん、無数に落ちている断片(だんぺん)からその人のおとぎ話であるとだれがわかるだろう」
 その日からまいにち、王子さまは無色透明のガラスのような長い(ぼう)を手に、朝から(ばん)まですこしも休むことなく記憶採取(きおくさいしゅ)を続けました。川辺に落ちる、いく万もの小石の中からたったひとつのちいさな宝石を見つけるように探しまわり、落ちてくる流れ星にむかっていそいで走ります。しかしどれもちがいます。彼女のおとぎ話ではないのです。
 ひとり熱心に断片(だんぺん)をひろう王子さまの姿にバクは心を打たれます。まいにち、まいにち、なん年もなん年も、少女のおとぎ話はどこかにある、と信じて疑わず、王子さまの手はけっして止まりませんでした。そうです、かならずあるのです。王子さまにとって、おとぎ話を探すためについやした多くの年月は、まるで一日しかたっていないようでした。
 それに、みんな少女の帰りをいまかいまかと待っていました。少女の父と母はいつも窓を開け、山あいの国の人々は星に願いを、スズメやフクロウは空を、イルカのバンドウやウミガメのスルフファーは海を探します。たくさんの働きアリはほうぼう聞きまわり、おばぁにおじぃにしば犬のシバにウサギのアルネヴ、ザトウクジラのサトウだって百億の星をめぐりました。
 そしてついにむかえた、その日、その瞬間(しゅんかん)、王子さまはいつものように断片探しをしていると、()えず落ちてくるはずの流れ星はピタリと止みました。
 王子さまは立ちあがり、静かになった(そら)をぐるりとあおぎました。すると、遠くにはひとすじの星が黄色い小鳥にみちびかれ、弧をえがきます。まるで広い宇宙で(なが)(なが)いわたりをおえ、(みずうみ)にもどってきた白鳥のように、王子さまのもとへやってきました。
「あれは」と、近くにいたバクはあまりの美しい光景(こうけい)に目を大きくしてうちふるえ、「まさか彼女はこの時を知っていて……しかしそんなこと」もはや言葉を失ってしまいます。
 王子さまには深く愛する少女のおとぎ話であるのがすぐにわかりました。そう、たしかにわかったのです。
 (そら)をおりなす星々はふたりの再会を祝福(しゅくふく)するため王子さまにむかって光の帯となり、美しい七色(なないろ)のカーテンも宇宙をかざります。ときめいた月はかつての色を取りもどし、記憶の断片(だんぺん)すべてに呼びかけると、いっせいに(かがや)きはじめます。すみきった光の大合唱(コーラス)はいままで聞いたことのないハーモニーとなってどこまでも遠くに()りひびきました。彼らもこの日、この瞬間(しゅんかん)を待っていたのです!
「わたしは」と、王子さまは確信をこめて言いました。「しっかりとつかんで、もう離さない」
————————
……色とりどりにかがやくじゅうたんの上で、王子さまは長い(ぼう)をほおって手を大きく広げ、(あま)の川を白鳥のようにまい、(むね)に飛びこんできた菖蒲色(あやめいろ)の星を全身でつつみこんだのです。
 王子さまはありったけの想いをかさねて結晶化させ加工するとバクに礼をいい、白馬にのって()せむかうのでした。早く少女のもとへ」

  軽やかなひずめの音はあまりに(なつ)かしく
  山あいにふきぬけるさわやかな朝のにおいは
  信じ待つ、わたしをついに休ませるでしょう
  ああ! こちらにやってくるわたしの王子さま
  色あざやかな思い出は春のうたげ
  高鳴る胸はむかえにきてくれたあなたへの想いを
  いっぱい いっぱいこみあげて
  わたしはあなたを愛そう
  どこまでも、どこまでも

「わたしはけっして離さない、アヤメ。だから、アヤメの飲みこんだとげを、ほんのすこしでもわたしにわけてほしい。お願いだからどうか、ひとりで行ってしまわないで」
「どうしよう、あなたの本びしょぬれね」
「ううん、もういいんだよ」
「アサゼルわたしね、やっとわかったの、あなたの気持ち。あなたがどんな思いで干しわらとなっていたか。信頼して待ち続けるのはこんなにも勇気のいるなんて。言葉にできない痛みをわたしは知った。
 そっか、干しわらだったのはわたしよ。どうしてもっとはやく気づかなかったのかな。そうすればあの時、わたしは素直にあなたと」
「ちがうよアヤメ。わたしはそんなアヤメが好きなんだ。そんなアヤメをずっとずっと知りたい。だからわたしたちの物語のはじまり(・・・・)は」
 アサゼルは菖蒲の両手を優しく取り、ふわりと立ちあがった少女の耳もとで【いつまでもおしまいのない愛の約束】をささやきます。それからたがいに見つめあい、きらめく星を瞳にたたえた菖蒲はおだやかな笑みをうかべ、もう迷わずこう言いました。
「はい。」
 アサゼルはキラキラ輝く宇宙でたったひとつのアメジストの指輪をお姫さまの左手薬指に、アヤメは王子さまの強くあたたかな胸にその身をゆだねるのでした。

少し長めの追伸

少し長めの追伸

 秋も深まる(みずうみ)紅葉(こうよう)はいよいよ美しく、水鳥たちもちょっぴりあわただしいような。雲は高く、ときおりふく風は冬にむかうひんやりした山のにおいを運んできます。湖畔(こはん)にやってくる親子はあざやかな赤やオレンジ、黄色の落ち葉や大きな木の実を拾ってはポッケに入れたり、こちらに気づいた女の子はかけよって収穫(しゅうかく)をわけてくれたりするのです。
 夜眠る前、まくらに頭をうずめ、ぬいぐるみを抱き、横になる、おさないわたしの耳もとで、たくさんのおとぎ話や詩を話してくれた母との時間を思いだします。とりわけ『扉のない中庭』は週末の夜だけのお楽しみで、母の知っている果てしないおとぎ話の中でも一番の(かがや)きをもつ物語でした。わたしはうれしくて目をきらつかせ多くの親をこまらせてきた、あの迷言、「ねえなんで、井戸の水を()むのに王子さまの記憶の結晶が必要だったの?」とか、「ねえなんで、干しわらになった王子さまはアヤメのキスでもどったの?」など、身を乗りだすように〝ねえなんで〟を連呼(れんこ)していると母はわたしのおでこをなでて、こう言いました。
「サラサはどう思う? あなたの考えを聞かせて」
 そうやっていつのまにか、わたしの夢の王国へ母を連れて旅したのです。
 もう少し大きくなると母は恋の話やほろ苦い話もつけくわえ、ドキドキしたりほおを赤らめたり涙したり、ふんわり温かい気持ちになったものです。きっとそうやって空想を離乳食(りにゅうしょく)のようにあたえてくれていたのでしょう。
 大人になったわたしは母のおとぎ話を本にしたいと考えるようになり、出演者(キャスト)に取材をしました。せっかくなので彼らの様子をみなさんに紹介(しょうかい)しましょう。
 まず、闇との戦いについて〝由緒(ゆいしょ)ある王族ネコ〟のモルトです。彼は自分の武勇伝(ぶゆうでん)を本当なのか、はたまた大げさなのか、たくさん話してくれました。今、モルトは山あいの国にとどまらず、気ままの歌を歌いながら、ふらふら旅をしています。アヤメとは気の合うようで、たまに帰ってくると母のベッドで一緒に寝ています。
 十万の影の兵をなぎ倒す戦士グレエンは農夫のお仕事がすっかり気にいり、畑仕事を楽しんでいますし、みんなの家や家具の修理(しゅうり)をするなんでも屋さんとして、みんなからしたわれています。アヤメがいなくなった時はものすごい落ちこみようで、リリィはそれはそれはものすごぉく、めんどくさかったって! そんなリリーフロラは温かくて優しいグランマです。リリィは今でも菖蒲の服をすべて仕立てているの。わたしは母のかわいい服をおさがりで着ています。
 ユリーフロラも大好き。さらにふたごの男の子を育て、彼らはわたしと(おさな)なじみ。山あいの国で手をつないで歩くカップルを見たなら王さまと王妃さまだ、というほど有名よ。お城のピートおじさんと湖畔(こはん)別邸(べってい)探しをしていますが、なかなか良い場所は見つからないと喜びながら(なげ)いていました。いつかすてきな新居(しんきょ)に引っ越せますように。
 働きアリさんのいる興廃(こうはい)の丘は美しい『ジョオウのテイエン』に変わりました。スズメさんやフクロウさんに聞いたら、もっと魅力的(みりょくてき)なお庭にするのが目標なんですって。いったいどんな庭園になるのでしょうか。
 おばぁとおじぃの家には家族で夏休みに出かけます。わたしは父とおじぃの島でキャンプを楽しむけれど、母だけは喜んでおばぁのせまい待合所に泊まるの。わたしはあんまり窮屈(きゅうくつ)なのでむり! なにやらアヤメはせまい場所にはさまるのが好きなようね。あ、よだんですが、おばぁには姉妹が何人かいるらしくて、いろんな場所でそば屋さんを開いているらしいわ。もしかするとあなたの街にいるかもしれません。おじぃとシバは冒険に出かける予定で、じつはわたしも(さそ)われています。意識の穴をくぐって宇宙の始まりの領域(せかい)にある不可知の色を見にいくのだそう。とっても楽しみ!
 メレは記憶採取(きおくさいしゅ)を続けています。(かがや)きを取りもどした断片を加工するのはわくわくすると言っていました。シバに言われた「二度あることは——」を思いだして、「記憶に名前がないから見つからない——」の文言はやめたそうです。ぜひみなさんも月に立ち寄りの際は好きな人の記憶を加工してみるのはいかがでしょうか。
 アルネヴはサトウといろんな星で新しい〝出会い〟を見つけています。菖蒲をビジネスパートナーにする夢を砕かれ、がっかりしているみたいなので、どなたか紳士のシロウサギと行商したい人はいないでしょうか。ティータイムを断らない女の子ならいつでも大歓迎(だいかんげい)だそうです。いつかミセス・レイラとのあわい恋物語も書けるといいな。
 干しわらの王子さまについて。アサゼルになんで〝わら〟じゃなくって〝干しわら〟なのって聞いたら、びっくりするほどパッサパサだったから、ですって。それを聞いておなかを抱えて笑ってしまったわ。アサゼルはいつも本気なのか冗談(じょうだん)なのかわからないくらいユーモアのある父です。この物語の題名を『干しわらになった王子さま』にしようか父に相談したら、アサゼルはウィンドウシートで本を読むアヤメを(いと)おしそうに見て、一言だけこう言いました。
「その本はもうなくなってしまったんだよ」
 みんなのお話しはこれくらいです。もっといろんな話を聞いたり旅して見たすてきな物語を書きたかったのですが、いつまでも終わらないので、またいつか。山あいの国の歴史、王子さまの旅の話とかおじぃとシバとの出会い、どうやっておじぃは扉のない中庭の近くまで行けたか、それに菖蒲とアルネヴが闇の門のそばのバザールに行くまでのお話し。とっても面白いの。『正直でいたってまじめなうそつき(ぞう)』を手に入れたアルネヴとアヤメはクノッソスの迷宮(ラビリンス)から出られなくなった話とか、何度も挑戦した『流れ星の渋茶(しぶちゃ)』を口にふくんだまま、上を向いて三回願いを()えるとなんでも(かな)う話とか……。
 最後に二つだけ。一つはミモザのこと。
 母はミモザのことをあんまり話したがりません。金と銀のバングルについてくわしく知ったのも最近で、父に一度だけ聞きましたが、結婚式で見たくらいだそうです。今、父と母はアルビレオを連れて遠くにいます。アヤメによるとそれは『クスノキに宿る黄色の小鳥を探す旅』とのこと。先日、アルネヴの届けてくれた母からの手紙に、もうすぐ帰れると書いてあったの。だからもしかすると、みなさんがこの本を読んでいる時にはミモザと会っているかもしれません。すっごく楽しみ。優しいママ! ミモザのこと書いてごめんなさい、どうか怒らないで。
 もう一つはそんな大好きな母のこと。
 母は講堂(こうどう)(おさ)められたたくさんの本の分類(ぶんるい)修復(しゅうふく)筆写(ひっしゃ)のお仕事をしています。「宝ものが見つかったの」と、ほこりかぶった書物を家に持ち帰ってはうれしそうに読んでいたり、忘れられた人々のおとぎ話を想像しながら、アサゼルのそばでいきいきと話しています。そんな時、わたしには母が新しく広げた領域(せかい)を冒険する少女のようにも見えるのです。
 そして、絶対に教えてくれない【いつまでもおしまいのない愛の約束】のこと。
「ねえママ、アヤメは干しわらになった王子さまから耳もとでどんなことをささやかれたの?」
 母にくり返し聞いても、答えはいつも同じです。
「それはねサラサ、今まで聞いたことないくらいとっても甘くてとろけるような言葉よ。これ以上は秘密! 絶対教えない」それから目を細めて、「あなたも大好きな男の子から聞くのよ。そうしたらわたしも同じこと聞くけど、それでもいいの?」


晩秋(ばんしゅう)のある日、湖畔(こはん)のガゼボにて
父アサゼルと母アヤメへ
たくさんの愛と感謝をこめて
あなたの娘サラサフロラより

登場人物のこと一

登場人物のこと一

扉のない中庭〜設定①〜

登場人物のこと二

登場人物のこと二

扉のない中庭の〜設定②〜

登場人物のこと三

登場人物のこと三

扉のない中庭〜設定③〜

ゆびわのこと

ゆびわのこと

扉のない中庭〜設定④〜

つるぎのこと

つるぎのこと

扉のない中庭〜設定⑤〜

たびじのこと

たびじのこと

扉のない中庭〜設定⑥〜

やくそくのこと

やくそくのこと

扉のない中庭〜設定⑦〜

扉のない中庭

主人公の菖蒲は実在する養女がモデルです。
本や音楽を愛し、力強く、聡明な、そしていつも前向きで、リリィの言葉を借りるなら、境遇が力を与えたような、尊敬する美しい人です。
彼女と話す時間はいつも新しい領域の扉を開けるように、たくさんの知識や知恵、アイディアをもらえます。

かつて、ひとりのちいさな女の子と夢の国のプリンセスについて話していたとき、日本にはプリンセスがまだいない! ということに気づき、もし東の最果てにあるちいさな島国の女の子が選ばれたら、を出発点に心と約束を題材としたお話を書きはじめました。できるだけつじつま合わせをしないよう注意しながら。

一途な少女菖蒲はアルビレオのいうとおり、はじめから王子さまだけを想い、彼だけのために人生の選択をしていきます。闇との戦い、ミモザとの関係、扉のない中庭での水くみ、彼とわかれるあの決定すら。
何年もの大人を経て、「どうしてもっとはやく気づかなかったのかな。そうすればあの時、わたしは素直にあなたと」
王子さまを想うあまり、あなたの気持ちを考えることができなかった、と菖蒲はいいます。
しかしアサゼルは「そんなアヤメが好きなんだ。そんなアヤメをずっとずっと知りたい。」と答えます。
この時代にはもう語られない、古い男女の愛の物語であり、失われた価値観であるゆえにファンタジーなのです。

母に、この物語をささげます
心からの敬意と感謝をともに

扉のない中庭

心へ旅する少女のお話

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-02-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 干しわらになった王子さま
  2. 見つからない本と中庭
  3. アリ行列
  4. 下に上がる階段
  5. 底なし部屋
  6. キジ三毛のネコ
  7. 菖蒲の計画
  8. 契約書のありか
  9. 農夫たちの秘密
  10. 観客のいない芝居
  11. 興廃の丘
  12. 王子さまの約束
  13. 通路の消失点
  14. 雨にぬれる教室
  15. 騒々しい法廷
  16. 通路の消失点Ⅱ
  17. 待合所ときどき夏休み
  18. おつかい
  19. 天体観測
  20. シロクジラ
  21. 記憶採取
  22. 太陰潮
  23. 金色あられ
  24. 思いの像
  25. 行商シロウサギ
  26. 夜明けぬバザール
  27. 家出した影
  28. 名もナイ
  29. 闇の門口
  30. 人と影による交唱
  31. 通路の消失点Ⅲ
  32. もっとも近い
  33. 扉のない中庭
  34. たりないもの
  35. むかしむかし
  36. 約束の力
  37. なぞかけ歌
  38. 光と影による交渉
  39. 干しわらの王子さま
  40. 二重星
  41. 帰路
  42. 静かな凱旋
  43. 湖畔のガゼボ
  44. ふたつめの夢
  45. 夜半〇時のらせん階段
  46. おはなしのおしまい
  47. 少し長めの追伸
  48. 登場人物のこと一
  49. 登場人物のこと二
  50. 登場人物のこと三
  51. ゆびわのこと
  52. つるぎのこと
  53. たびじのこと
  54. やくそくのこと