本屋さんのまえのゆうれい
本屋さんのまえに、それはいて、それ、とは、つまり、ゆうれいだった。
あしがない。わけではない。
あしはあった、けれど、全体的に、透けているので、ぼくは、ゆうれいだとわかった。ゆうれいは、まいにち、午後四時から、六時のあいだに、本屋さんのまえにいて、いて、なにをするでもない、ただ、じっと突っ立ているだけなのだった。だれかにとり憑いたり、だれかを呪うようすもなかったし、本屋さんのなかにはいることもなかったし、かといって、本屋さんからはなれることもなかった。となりのケーキやさんや、道路をはさんで向かい側にある、おおきなスーパーマーケットでみかけることもなく、ゆうれいがいるのは、いつも、本屋さんのまえの、ひとのじゃまにならないすみっこだった。
おとこのこ。高校生くらいの。たぶん、学校では、あまり目立つような、はでなことはしない感じだったのではないだろうか、と、ぼくは思っている。勉強ができそうではあるけれど、きっと、運動はにがてであろうと想像できる、ひょろひょろしたこなのだ。ぼくは、彼のことがみえているけれど、彼は、ぼくが、自分のことをみえているのではと思っている節はなさそうであると踏んで、ときには、わりと近いところから、みつめてみるのだけれど、やはり、ぼくと目があうことはなかった。しろくまといっしょに本屋さんに寄る日は、ゆうれいがみえないしろくまにも、きょうも彼はそこにいることを指し示すのだけれど、しろくまは、ゆうれいには興味がなさそうだった。おそらく、お目当ての本があるかどうかで、あたまがいっぱいなのだろうと、ぼくは、ゆうれいのつぶさな説明はしないで、しろくまのあとをついてゆくのだった。
でも、ぼくは気づいている。
ゆうれいは、ときどき、泣いているのだ。
からだはぼんやりと、儚く薄らいでいるのに、夕暮れの頃の、照明が映えはじめる街のなかで、涙だけははっきりと、光っている。
本屋さんのまえのゆうれい