ムースさん

くらうでぃーれん

  1. 1.
  2. 2.
  3. 3.
  4. 4.
  5. 5.
  6. 6.

1.


 部屋の中に響いているのは、空調の音と機械の低い駆動音。

 人気のないその場所で、彼はひとり黙々と機械の点検をしていた。
 前衛オペレーターである彼は、本来こんな裏方の仕事は専門ではない。が、ロドスは慢性的な人手不足に悩まされている。
 そのため専門知識の必要ない、誰がやっても変わらない設備の点検などは彼のような手が空いている適当なオペレーターに任されることが多かった。
 とはいえ、点検をおざなりにしていれば何かあった時、言葉通り命に関わるというのは誰もが理解している。配属は適当でも、仕事まで適当には出来ない。
 問題なく仕事をこなしながらもある程度は気を抜いて、共用部から淹れてきたコーヒーを飲みながら、彼は誰にも邪魔されることのない静かな時間を満喫していた。
 
 ロドスのメンバーは皆、良い人ばかりなのだろうとは思う。
 ただ、少々騒がしすぎるのが多いとも思う。

 音楽でも聴きながらのんびりとコーヒーを飲むのを好む彼としては、四六時中そんな場に放り込まれるのは少しばかり気疲れする。だから仕事自体は面倒でも、今のようにひとりでいられる静かな時間は得難い物だった。
 出来ることならもっと全力でくつろぎたいところだが、一応仕事中ということで最低限の体裁だけは整えている。

 共用部のコーヒーは苦いばかりで大して美味くはないが、それでもないよりは良い。すでに3杯目になるそれを飲みながら、機械油よりはマシな硬く広がりのない香りに小さなため息を漏らした。

 仕事量は多くなく、急ぐ必要もなく、難しくもなく。楽しいとは言えずとも、彼にとってこの時間はある種の休息だった。
 部屋の隅に置かれた椅子に腰かけ、ひと息つく。目の前の小さなテーブルの上にはコーヒーのカップと、数枚の書類。すでにやるべきことは終わっているが、仕事の名目で今しばらくはひとりでのんびりしていようとその場に留まっていた。

 早く仕事を終わらせたとて、やることは何もない。このような仕事を任されているということは、つまり今日は彼もロドスも重要な任務は抱えていないということだ。
 仕事がなければやることがないというのも情けない話だが、事実なのだから仕方ない。

 そうしてひとりくつろいでいた静かな空間に――突如頓狂な声が響いた。

「ま、待って、ちょっと待って~!」

 ずいぶんと慌てた声が聞こえたと思うと、ひとつの影が入口の陰からひょっこりと現れた。

 そこにいたのは――1匹の小さな動物。

 小さくて、ふわふわしていて、大きくて丸い眼と1対の三角の耳。身体と同じ麦穂色の尻尾を揺らしながら俊敏な動きで部屋に入り込み、あっという間に点検していた機械の上に上ってしまう。
 そしてその後に続くようにもう一匹、同じ姿で色の違うそれが入り込んで来たかと思うと、同じような身軽さで機械の上に飛び乗ってしまった。

 基地内にいるのを何度か見たことがあるような気がするが、なんという生き物だったか。ロドスが認可しているのであれば危険な生き物ではないのだろうが、機械の上にいるのを放っていてもいいものかどうか。精密機器というワケではないが、何かあった時に責任を負わされるのは面倒だ。

 そんなことを悩んでいると、さらにもう一匹その動物――ではなく、ひとりの少女が姿を現した。

 飾り気のない地味な黒い服に、はちみつ色の髪の上には一対の耳。腰の下からは二本の尻尾が揺れていて、翡翠色の瞳には気弱そうな光が宿っている。
 あの姿は確かフェリーンの、名前はムースといっただろうか。自分と同じ前衛オペレーターだが、普段は前線では見かけず後方支援を行っているはずだ。
 ムースは腕の中にもう一匹、機械の上からこちらを見下ろしているのと同じ動物を抱えて、ひどく慌てた様子で息を切らしながら部屋に足を踏み入れた。

「あっ‥‥! あのっ‥‥!」

 ムースの注意がこちらに向いて、わずかに気が逸れた瞬間――。
 抱いていた動物がするりとムースの手を離れ、元気よくこちらに向かって駆けだした。一直線に足元までやって来たかと思うと、勢いよく床を蹴って机の上に飛び乗る。

 ――目の前の書類をぐちゃぐちゃにしながら。

「――――――ッッッ!」

 それを見てムースは目を見開いて顔を真っ青にし、顎が外れそうなほど口を開けてガクガクと震えながら声にならない声を上げていた。
 それに対して当事者たる彼はウワーとやる気のない声を上げているだけなのだが、ムースはこの世の終わりのような表情でガタガタと激しく振動を続けている。

「‥‥っ、ご、ごごごっ、ごごごごごめんなさいっ!」

 目を白黒させながら視線をあちこちに彷徨わせ、意味もなく腕をバタバタと振りながら大慌てで謝罪を述べるムース。
 書類をぐちゃぐちゃにされて面倒は面倒なのだが、別に大した内容でもないし読もうと思えば読めるし実際わりとどうでもいい。しかしそこまで慌てられるともしかしてこれは重要な書類だったのではと勘違いしてしまいそうだ。
 狼狽しまくっていたムースはやがてぺこぺこと頭を下げながら部屋に踏み入り、動物の乗った機械の前へとゆっくりと近付いていった。

「ほ、ほら、そんなところにいたら迷惑になっちゃうよ。はやくこっちにおいで~」

 冷や汗をダラダラと流しながらやや震えた声で呼びかけるも、その小動物は気にした様子もなくあくびをしたり手を舐めたりしているだけ。

「‥‥‥‥」

 今にも泣き出しそうなムースに見かねてため息と共に腰を上げると、彼はムースの隣に並んだ。ムースはびくりと震えておどおどしながらこちらを見上げている。
 見慣れぬ者の接近に警戒を示す動物は、素早く機械の上から飛び降りて部屋の隅へと逃げてしまった。手の届く位置へと降りてきた動物にムースがゆっくりと歩み寄ると、拍子抜けするほどあっさりと動物はその手の中に収まった。
 腕の中で大人しくなった動物を抱えてムースは心底安堵したように深いため息を吐くと、ハッとして慌てて立ち上がりこちらを向いた。

「あっ、あのっ、ほ、本当にごめんなさい! ねこちゃんたちがご迷惑をかけてしまって‥‥!」
「ネコチャン」

 聞き慣れないその名前に思わず繰り返すと、ムースは途端にパッと表情を明るくさせてそのネコチャンを顔の横に掲げて見せた。

「は、はいっ、ねこちゃんです。この辺りじゃ珍しいですよね。ムースの住んでた街にはたくさんいたんですけど。ちょっとワガママで奔放ですけど、すっごく可愛いんですよ。喉を撫でてあげるとゴロゴロ言って喜んだり、寂しい時はすり寄ってきたりしてくれるんです。ちなみにこの子はパウンドって名前で、こっちはマフィン、こっちがチョコです。マフィンはすごく甘えんぼで、パウンドは元気いっぱいなんですよ。チョコは少し人見知りなところがあるんですけど、仲良くなると今度はケンカしちゃったりもするんです。でもみんなすごく良い子でとっても可愛くて‥‥」

 嬉しそうに少し早口で語っていたムースは、やがてハッとして再び慌ただしく視線を彷徨わせた。

「ご、ごめんなさいっ‥‥! ついついたくさん喋っちゃって‥‥。こ、こんなこと言われても困りますよね。ム、ムース、お仕事の邪魔をしてしまって、何をしたらいいか分からなくて、えっと、あの、その‥‥ご、ごめんなさい‥‥!」

 別に怒ってはいないのだが、やたら恐縮して何度も頭を下げるムース。彼は皺の刻まれた書類を取り上げて、興味なさげに目の前でぴらぴらと振った。

「コーヒーを倒されてたらちょっとは不機嫌になってたかもしれないけど、別にこんなのどうでもいいって」

 無残な姿となったソレに、ムースは心配そうにおどおどとした視線を向けてくる。

「で、でも、そんなの出して怒られたりしたらムースのせいですし‥‥」
「こんなモン重要でもないし、読めれば十分でしょ。というかこれくらいで、ドクターやアーミヤ代表が怒ると思う?」
「そ、それは‥‥」

 温厚なふたりの姿を思い浮かべ、ムースが口ごもる。仲間に危険が及ぶようなことならともかく、ちょっと字が読みづらい程度で文句を言う人たちではないことはロドスの誰もが知っている。

「そーいうこと。それじゃあ、また逃げ出さないようにな」
「は、はいっ‥‥、本当にすいませんでした‥‥。あっ、えっと、あの‥‥っ!」

 なんだかこれ以上ゆっくり出来そうにないし、気分も削がれてしまった。残っていたコーヒーを一気に飲み干してとっととその場を立ち去ろうとすると、ムースが背中になにやら声をかけてきたのが聞こえてくる。
 が、めんどくさそうだったので聞こえないふりをしてそのまま立ち去った。

 やはりというべきか、背中を追ってまで呼び止めるだけの胆力をムースは持ち合わせてはいなかったようで、その日のふたりの交流はそこで終わりを告げたのだった。

2.


「こ、こんにちは~‥‥。し、失礼しま~す‥‥」

 そんなことがあった、しばらく後のこと。
 共用の休憩室でコーヒーを飲みながら本を読んで休んでいた彼の下を、相変わらずおどおどとした様子のムースが訪ねてきた。
 自分に用があるなどとは思わず無反応を返していたが、ムースが目の前に立ったことで彼はようやく顔を上げた。

「お、お疲れさまですっ。あ、あの、良かったらケーキ、どうですかっ。コーヒーにも合うと思いますからっ」

 なんの脈絡もなく、目の前になにやら美味しそうなカップケーキが差し出された。四角い箱に丁寧に6つ並べられていて、色とりどりで見た目にも美味しそうなケーキだ。

 が、唐突すぎてどう反応すればいいのか分からない。
 黙ってケーキを眺めていると、ムースは途端にあわあわと大慌てし始めた。

「ご、ごめんんさいっ! や、やっぱりムースの作ったケーキなんて食べたくないですよねっ。突然こんなもの持ってきてしまってごめんなさい。も、持って帰って自分で食べますね‥‥」
「いやちょっと、待って待って‥‥!」

 背中を曲げてとぼとぼと去ろうとするムースを慌てて呼び止める。ワケは分からないが、いくらなんでもこのまま放っておくのはめちゃくちゃ悪いことしたみたいな気になるじゃないか。

「いらないって言ってるワケじゃなくて、突然すぎて理解できなかっただけ。‥‥えっと、だから、なんで突然こんなもの持ってきてくれたの」

 そこで初めてムースは自分の説明不足に気が付いたらしい。顔を赤くして視線を俯け、ぼそぼそと呟くような声でようやく理由の説明をしてくれた。

「あ、あの、えっと‥‥こ、この前ご迷惑をおかけしてしまったので、そのお詫びがしたいなって、思って‥‥」

 言われてようやく、なるほどと合点がいった。別にこんなことしてもらうようなことではないのだが、先程のムースの様子を見てしまっては断れるはずもない。

「あー、そっか。うん、ありがとう」

 困惑が抜けきらず微妙な表情になっていたのだろうか、ムースは再び泣きそうな表情で顔を上げる。

「あ、あのっ、無理して受け取ってもらわなくても大丈夫ですっ。む、ムースが勝手にしたことなので、嫌なら断ってもらって結構ですからっ‥‥!」
「とっても嬉しいですちょうど甘い物欲しかったですありがとうございますいただきます」

 ため息の代わりにやけくそ気味にひと息に言い切って、おもむろにひとつ掴むと大きくひと口齧りつく。しっとりとして柔らかく、甘すぎない優しい味だ。
 口の中でよく味わってから胃に落とし、決して嘘やお世辞ではない思ったままの感想を述べた。

「うん、すごく美味い。‥‥‥‥ありがとう」

 何か説教じみたことでも言おうかと思ったが、やっぱり面倒くさくなって無難なお礼だけを返した。けれどムースはひどく安心したように胸を撫でおろして、にっこりと嬉しそうな笑顔を浮かべた。
 なぜかその表情が直視できなくて、逃げるようにケーキに視線を落とす。

「よ、良かったです‥‥。もしゼンエーさんがケーキ嫌いだったらどうしようって、心配だったから‥‥」

 軽く聞き流しそうになって、言葉の一部分がしばらく理解できず、「は?」と一拍遅れて気の抜けた声が漏れた。

「え、それオレのこと?」

 ムースは小さく首を傾げて、「あっ」と声を漏らした。

「あ、あのっ、ごめんなさいっ。お名前、分からなかったので、勝手に自分の中でそう呼んでただけです‥‥! い、嫌だったら今すぐやめます‥‥!」

 ゼンエー、前衛ってことか。悪くはないけど、物凄く安直だ。

「いやまあ、別にいいんだけど、それならゼンエーはムースも一緒じゃん」
「そ、それはそうなんですけど、えっとその、他に情報がなかったっていうか、なんてお呼びすればいいか分からなかったのでムースが勝手に呼んでただけで、えっと、その、ごっ、ごめんなさいっ」
「いや、だから謝るようなことじゃ‥‥」

 どうしてこうも腰が低いのか。若干の面倒さが芽生えて部屋に帰りたくなる。しかし今このムースに背を向けることは、何となく出来そうにない。
 ゼンエーと呼ばれた彼はケーキを一旦机に置いて、部屋に置かれたコーヒーメーカーを動かしてもう一杯コーヒーを淹れ、自分の向かいの席に置いた。

「もし時間があれば、一緒に食べながら話でもしよう。共用部のコーヒーじゃ、あんまり美味くはないかもしれないけど」

 ムースは理解が及ばないようにぱちぱちと瞬き、やがて「えっ」と一歩身を引いた。

「い、いやいやダメですよっ。ムースなんかと一緒にいたら、ゼンエーさんに迷惑になってしまいますからっ」
「いやオレが誘ってるのになんで迷惑になるのさ。あ、それともオレと話すのは嫌だった? それならゴメン」
「そっ、そんなことないですっ! ムースは全然、嫌だなんて思ってないですからっ」

 少し意地悪な言い方である自覚はあったが、おかげで拒絶の色は薄れたようだ。

「せっかく淹れたコーヒーが冷めちゃうし、お茶会へどうぞ、お嬢さん」

 感情の乗らない声でわざとらしくそう言って対面の席を示すとムースはなおも迷いを見せていたが、やがておずおずといった様子でぺこぺこ頭を下げながら席に腰かけた。

 ようやく落ち着いて、先程口を付けたケーキをもうひと口かじる。多分チョコケーキだろうそれは、甘いながらもほんのりビターな風味も混じっていてしつこくない。口の中にチョコの風味を残したままコーヒーを傾けると、余韻が広がって安いコーヒーがいつもより美味く感じる。
 ムースはケーキには手を出さず、ちびちびとコーヒーに口を付けながらゼンエーがケーキを食べる様子を眺めて、いや、凝視していた。多分、本当に気に入っているのか不安なのだろう。

 しかし、つい勢いでムースに同席を勧めてしまったが、一体何を話すことがあるというのか。ムースから会話を切り出してくれるというのはあまりにも薄い望みだし、こちらから切り出そうにも会話が見つからない。そもそも、誰かと会話をするのがあまり得意なタチではないのだ。

 しばらく、沈黙が続く。

 だが誘ったのはこちらだ。このまま気まずい無言を貫くのもムースに主導を委ねるのも、あまりにも無責任だろう。それくらいはゼンエーにも分かっていた。
 かといってすぐに話題が出てくるはずもなく、さらにしばらくの沈黙を経て、手元にちょうどいいモノがあることに気付いてゼンエーはようやく口を開いた。

「‥‥ケーキ、作るの好きなの?」

 尋ねると、ムースは「はいぃ!」と2本の尻尾を一瞬ピンと逆立ててから、ゼンエーの手元に集中させていた視線を机上に落として小さな声で答えた。

「そ、そうですね、ロドスに来る前はケーキ屋さんで働いていたので、い、今でも時々作ります。ドクターとか、アーミヤさんとかに差し入れをさせてもらったり‥‥。お、おふたりとも優しいので、本当に喜んでくれてるかどうかは分かりませんけど‥‥」

 自信なさげにひと言付け足すムース。これだけ美味ければ不満を抱いているということは無いと思うが、言っても素直に聞いてはくれなさそうなので言わない。

「あの、ひとりで食うのもなんだからさ、こっちから勧めるのも変な感じだけど、良かったらムースも食ってよ。せっかくコーヒーもあるし」

 黙って手元を見続けられるのも落ち着かないので、視線を彷徨わせるムースに勧めると「えっ」と挙動がさらに不審になった。

「で、でも、ゼンエーさんのために作ったものなので‥‥」
「そうだけど、ひとりで食べるのも味気ないから」
「そ、そうですか‥‥。そ、それじゃ、色んな味を食べて欲しいから、半分こしましょう」

 作るほどだから、やはり食べることも好きなのだろう。ムースは少し嬉しそうな様子でケーキをひとつ手に取ろうとして――ぴくりと身を震わせて慌てて手を引いた。

「ご、ごめんなさいっ。ムースは、触らない方がいいですよね‥‥」

 なにを気にしているのかと言おうとして、言葉が止まる。
 そういえば、ムースは鉱石病の症状がその手に色濃く現れている。気にしすぎな性格であることは間違いないが、実際こればかりはそれだけの単純な問題ではない。

 ゼンエーは何も言わず、抹茶味と思われるケーキを半分に割って、ムースの前に差し出した。
 と、ムースが何かに気付いてハッと顔を上げる。

「ム、ムース、作る時もちゃんと直接は触らないように消毒とか、手袋とか――」

 言い終わるより早く、もしゃりとケーキにかぶりついた。ムースは驚いたように目を丸くしてから、ほんの少しだけ、口元をほころばせて笑顔を見せてくれた。
 それからようやく、ムースもケーキにひと口かじりつく。それはとても小さなひと口で、彼女の性格を表すようなかじり後がケーキに刻まれた。
 チョコケーキと同様こちらのケーキもふんわりと柔らかく、ほどよい苦味と甘みが溶け合っていてどことなく安心する味だ。

「こっちも美味しいな。出来れば、もっと美味いコーヒーと一緒に食べたかったよ」

 ゼンエーの何気ない呟きに、ムースはパッと表情を明るくしてわずかに身を乗り出す。

「そ、それなら、また作りますっ。お、お菓子作るのは好きなんですけど、ひとりじゃそんなにたくさん食べれないですから」

 一瞬の逡巡の後、思わず「ああ、うん、ありがとう」と答えてしまう。
 言った直後、ちょっとミスったかなと思った。
 正直、繰り返し会うのは少し面倒だと思わなくもない。

「あー、でも、この前の、あの、ネコチャンにあげたりはしないの?」

 なんだか明日にでもまた作って来そうな勢いを感じて、それとなく矛先を逸らしてみる。しかしムースは眉をわずかに下げて苦笑いを浮かべた。

「そう出来たらいいんですけど、ねこちゃんたちにはムースたちと同じ食べ物は合わないみたいなんです。だから、ご飯はいつも別のをあげてますよ」
「そっか。確か、ネコチャンの名前もケーキの名前だったから、てっきり」
「あっ、き、気付いてくれましたか!」

 途端にパアッと表情を明るくさせるムース。別にケーキ好きというわけではないが、パウンドとかシフォンと聞けばまあ多くの人が気付けるのではないだろうか。

「この前の3匹だけじゃなくて他にもいっぱいいるんですけど、みんなケーキの名前なんですよ。ロールとかマッチャとかスフレとかショートとか。あっ、マッチャっていってもこのケーキみたいに緑っぽいわけじゃなくて茶色なのでそこから言葉だけ取ってマッチャにしたんです。ショートも単に尻尾が短かっただけなのでみんな必ずしもケーキから連想したってわけではないんですけど、最初の3匹くらいにケーキっぽい名前を付けたので他の子たちもお揃いにしてあげたいなって思ってちょっと無理矢理付けちゃった子もいるんですけどね。中には全然関係ない名前の子もいたりして。あ、でももちろんみんな可愛くて大切にしてますよ。良かったら今度ゼンエーさんもムースの部屋にいるねこちゃんたちと――」

 やや興奮気味に活き活きと語っていたムースが突如ハッとして言葉を止めた。この後の展開はもう分かりきっているので特に気にせずコーヒーをすする。

「あ、あの、ご、ごめんなさいっ。つい、調子に乗ってたくさん喋っちゃって‥‥! えっと、ムース、好きなことの話になると、ついつい熱くなっちゃって‥‥!」

 楽しそうだし、別に悪いことではないと思うのだが。ガチガチに緊張して黙っていられるよりよほど良い。自分が喋らなくて済むから、というのも少なからずあるが。
 だが多分まともな返答は得られないだろうと、ゼンエーはやはり沈黙を選んだ。
 結局そのまま押し黙ってしまったムースとケーキを食べ終えると、そろそろ切り上げてしまってもいいだろうとゼンエーは机を片付けて立ち上がった。

「それじゃあ、そろそろ部屋に戻るよ。ケーキありがとう、美味しかった」
「あ、あのっ‥‥!」

 立ち去ろうとするゼンエーに、ムースが再び声をかける。目の前で呼び止められてしまえば、先日のように聞こえない振りは出来なかった。

「よ、良かったらお名前、教えてもらってもいいですかっ」

 ゼンエーと呼ばれている彼は小さくため息を吐いて、緩く首を振った。

「‥‥‥‥いいよ、ゼンエーで」

 予想外の拒絶に、ムースはあわあわとし始める。

「えっ、で、でも今のままじゃちょっと失礼な気がしますし‥‥あっ、も、もちろんそもそもムースがちゃんと知らなかったのが失礼なのは分かってるんですけど、でも、やっぱり‥‥」

 慌てるムースに、ゼンエーはもう一度小さく首を振る。

「なんでもいいんだよ、名前なんて。いつ死ぬかも分からない相手のことなんて、無理に覚えておく必要なんてない。オレたちが生きてるのはそういう世界で、前衛オペレーターなんてのは特に、何かあったら真っ先に死ぬ役職だろ。すぐに死ぬ誰かを必要以上に理解する意味なんてない。だから、あんまり他人に入れ込むべきじゃない」

 それだけ残して、今度こそゼンエーはその場を立ち去った。
 その背中に、それ以上声が掛けられることはなかった。

3.


 ――どうやらゼンエーは、ムースのことをまだほとんど理解できていなかったようだ。

 結果だけ言うと、ムースは再びゼンエーの下を訪れた。
 あんな風に突き放せばそれ以上関わってくることはないだろうと思っていたが、もしかすると彼女は思った以上に豪胆なのかもしれない。

 その日のムースは休憩室ではなく、ゼンエーの居室を訪れていた。先日、こっそりとゼンエーが部屋に帰る姿を見ていたらしい。
 ムースは今日も箱に収まったケーキを持ってきていて、今回のそれは先日のものよりもずいぶんと大きいようだった。
 確かにまた作ると嬉しそうに言ってくれたが、まさか本当にこんなに早く作ってくるとは。

 せっかくのひとりの時間を邪魔されて少しばかり気が滅入ったが、まあ、ムースの作るケーキが美味いのは確かで、そう思えば悪いことばかりではないかもしれないと思う。一緒に口にするものがあるほうがコーヒーの香りも映えるというものだ。

 ちなみに、今日は先日のようなカップケーキではなく、ふわふわのシフォンケーキ。手間がかかりそうなものを持ってきてくれた手前、追い返すのも気が引ける。
 いや、美味そうなので欲が勝ってしまったというのが正直な感想だ。

 ムースは恐らく自分のと同じ間取りであろう部屋の椅子に腰かけ、ここにきてようやく自らの大胆さに気付いてしまったらしく、ひどく緊張している様子だった。

 いくつか種類のあるコーヒーの中から、せっかくなので一番お気に入りのものを淹れてムースの前に差し出す。ムースはいつも通りおどおどしながらぺこぺこと頭を下げた。
 自分の席にもマグカップを置いて腰を下ろすと、ムースの連れてきたネコチャンの1匹がゼンエーの足に身体をすり寄せる。

「あ、邪魔しちゃダメだよシフォン。こっちおいで」

 ムースが呼ぶと、ネコチャンは素直にムースの下へ向かい、身軽な動きで跳ねて膝の上に収まった。
 部屋の中には現在、シフォンと呼ばれたネコチャンの他にも2匹のネコチャンがムースの足元でこちらの様子を窺っている。警戒されているのだろうか。

「この子、シフォンっていうんです。ほら、このシフォンケーキと一緒で、毛がふわふわですっごく柔らかいんですよ。あっ、こら、机の上には乗っちゃダメだよ」

 シフォンは一声にゃあと鳴いて、ムースの膝の上で丸くなる。その頭をムースは嬉しそうに撫でていた。
 そうしているムースはいつもよりずっと気持ちが解れているようで、その雰囲気の柔らかさこそが本来彼女の持っているものなのだろう。いつもそうしていれば、ロドスの男たちも放っておかないだろうに、などと詮無いことを考える。

 そしてそんなムースの姿を眺めていると、こちらまで気持ちが解れていくのを自覚していた。
 ムースはネコチャンを撫でながら遠慮なくケーキを頬張り、コーヒーに口を付ける。

「あ、このコーヒー、とっても美味しいですねっ。共用部にあるコーヒーしか飲んだことなかったんですけど、えっと、なんだろう、香りが、ふわっとしてるっていうか、柔らかい、みたいな‥‥いえ、全然分からないんですけど‥‥ご、ごめんなさい、知ったような口を聞いちゃって‥‥」
「いや、好きなものを共有できるのは嬉しいもんだよ」

 内心呆れながらも、言葉通り好きなものを好きと言われるのは存外に嬉しいものだ。
 コーヒーの香りにはリラックス効果もあるようだし、良いコーヒーを飲めばムースもいつもより緊張しなくてすむかもしれない。いつまでもおどおどしているばかりではムースも疲れてしまうだろう。

 ――だから、まあ、必ずしも自分がどうこうという話ではなく、ある程度ムースのためにも、こう、気持ちを解してもらう的な意味も含めて。

「‥‥あ、あのさ、もし良かったら、なんだけど、オレもその、ネコチャンを撫でてみても、いいでしょうか」

 ムースの膝の上にそれとなく視線を送りながら、躊躇いがちに尋ねるとムースはパッと表情を明るくした。

「も、もちろんです! ほら、シフォン、ゼンエーさんがナデナデしたいって言ってるよ。お膝の上に乗って‥‥あっ」

 ムースは立ち上がってシフォンをゼンエーの膝の上に乗せようとする。しかしシフォンはムースの手の中でバタバタと暴れ、ゼンエーに触れる前に飛び跳ねるように部屋の隅に逃げ出し、他のネコチャンたちと警戒を露わにこちらを睨んでいた。
 やや緊張の様子で待ち構えていたゼンエーと、硬直した笑顔のムースの視線が合う。

「‥‥あ、あの、えっとその、ねこちゃんはみんな気まぐれなので、多分今日はたまたまちょっと気が立ってただけだと思うので、その、あの‥‥ご、ごめんなさいっ」
「いや、別にムースが謝ることじゃないけど‥‥」

 ちょっと残念だしなんか恥ずかしいのでこちらも歯切れが悪くなる。ムースとしてもネコチャンをアピールするチャンスでもあったのだろう、その表情は申し訳なさよりも残念さが勝っているように見えた。

「あの、やっぱり慣れない環境だとちょっと不安みたいで、いつもだったらもうちょっと人懐っこいんですけど、今日はちょっと緊張しちゃってるだけで、だから別にゼンエーさんの雰囲気が怖いとか嫌とかそういうことでは、決してないと、思うので‥‥!」

 なおも言い訳を続けるムースだったが、その弁明を聞いて思わずそんな疑問が口をついた。

「じゃあ、ムースの部屋だったらオレが近付いても逃げないかな」

 何気ない言葉に、ムースはポンと手を叩いて表情を明るくさせた。

「そ、そうですね! ぜひ次はムースのお部屋に来てください! また美味しいケーキ焼きますから。あっ、でも、ムースはコーヒーはあまり飲まないので、紅茶しかないですけど‥‥。そ、それに、あんまりちゃんとしたのじゃなくて、よくある、いっぱい入ってる安いのしかなくて‥‥。あっ、そ、それまでにはちゃんとしたコーヒー、買っておきますからっ」
「いいよ。よく知らずに買っても美味いかどうか分からないだろ」

 いつものように慌て始めるムースを、いつものように適当にあしらう。なんだか少しずつ扱い方が分かってきたような気がする。
しかし、思わず口を突いてしまったが、こんなにもあっさりと承認されてしまうとは。わりと大したことを言っている自覚は本人にあるのだろうか。

「じゃあゼンエーさん、何のケーキが食べたいですか? 種類じゃなくて味のリクエストでも大丈夫ですよ。ケーキじゃなくても、お菓子とかでも大丈夫です。作り方さえ分かれば、初めてのものでも作れると思いますし」
「えっと、こだわりもないし詳しくもないから、お任せで‥‥」
「はいっ! 頑張って作りますね!」

 満点の笑顔で応えてくれるムースに、ゼンエーは何と答えていいのか分からず口を噤んだ。
 その後もネコチャンたちはムースの膝の上にまでは戻って来るものの、やはりゼンエーは警戒されており最後まで撫でさせてはもらえないのだった。

4.


 ――そんな穏やかな日々は、自分たちの、ロドスの、オペレーターたちの日常ではない。

 ココにある日常は、戦いと共にある。
 皆、戦う理由は様々だが、彼は戦うのに理由などなかった。
 あえて言うなら、戦うために戦っているとでも言うべきか。

 これが戦うことを何よりの悦びとする、戦闘狂とでも呼べるものならば少しは格好もついたかもしれない。
 けれど、実際はそんな単純なものではない。
 自分には欲望や希望と呼べるものは何もなく、死を願わずとも生を望んでいるわけでもない。

 ――だが、必死に生きようとしなければ命は簡単に失われる。

 鉱石病と、天災。この世界にはあまりにも大きすぎる苦難があって、ただ漫然としているだけでは生きることさえままならない。

 ――感染者であるならば、なおさら。

 症状の進行を遅らせるだけですら、通常の機関であれば困難。だからこそ多くの者がロドスに在籍し、命を繋いでいる。
 ロドスにいるということはつまり、生きるために戦い、戦うために生きているということである。
 いや、そんな後ろ向きな考えを持っている者は少数かもしれない。けれど彼には、そうとしか思えなかった。

 だから、戦う。戦うために戦って、生きるために生きる。
 それだけしかなかった、はずなのに――。

「――! ――!」

 聞き慣れた単語に、ふと顔を上げる。

「なにをぼさっとしてる! 死にたいのか! 早く移動しろ!」

 しばらく考えて、ようやくそれが自分の名前なのだと気が付いた。

 ――そうだ、オレは前衛オペレーターであってゼンエーじゃない。

 当たり前のことを思い、どうにか気持ちを切り替える。
 頭の隅にチラつく笑顔を振り払おうと必死になるが、なぜかそれがひどく難しい。
 名前なんて知らない方がいい。誰かが死んでも、それが「名前の知らない誰か」であれば必要以上に悲しむ必要もないのだから。
 自分が特別注目される理由はない。自分は大勢いるオペレーターのひとり。

 それだけでいい。

5.


「こ、これ大丈夫‥‥?」
「はい、大丈夫ですっ。優しく、ゆっくり撫でてあげてください」
「いきなり噛みついたりしない?」
「‥‥‥‥た、多分大丈夫ですっ」
「えっ、なんでちょっと言い淀んだの」
「あの、いえ、みんな気まぐれなので、たまに突然爪を立てられたり威嚇されたりはしますけど、た、多分今なら大丈夫ですっ」
「‥‥‥‥ええい、ままよっ」

 全く安心はできないまま、そっと膝の上にいるソレの頭に手を乗せる。そしてついに――

「‥‥おお」

 温かくて柔らかくてもふっとしていて、思わず感嘆の息が漏れる。
 それは戦いが日常で、殺伐としただけの世界に生きているだけなはずの、オペレーターたちの姿である。
 今この場に漂う空気は、間違いなく争いなどとは無縁のものだった。

「ね、ねっ! 可愛いですよねっ! マフィンは一番大人しくて優しい子だから、もっといっぱい撫でてあげても怒ったりしないと思いますよ。ねー、マフィンもゼンエーさんによしよししてもらえて嬉しいよね~。こちょこちょ~、えへへ~」

 ムースはゼンエーの前にしゃがみこんで彼の膝の上のネコチャン、マフィンと視線を合わせて喉の下をくすぐっている。その姿はいつものおどおどした彼女とはかけ離れていて、なんだか思わずムースの頭に手が伸びてしまいそうになるがそれはさすがにグッと堪えた。
 場所はムースの部屋。今日はケーキではなくパンを焼いてくれていたのを食べながら、いらないと言ったのに買っていたインスタントコーヒーを飲みつつ、ふたりは部屋にたくさんいるネコチャンと戯れていた。

 部屋の中にいるネコチャンの数は確認できるだけでも十数匹。正直毛の色以外は同じに見えて見分けがつかないのだが、ムースは全て名前や性格まで判別できているようだ。
 その中の一匹を目の前まで連れてくると、ムースの誘導のもとマフィンは自らゼンエーの膝の上に乗り、こうしてついにナデナデを許してもらっているワケである。

 そして、どうやらネコチャンという存在を甘く見ていたことをゼンエーは思い知る。
 この抱き心地、撫で心地、座られ心地、どれをとっても癒しの最上級。こんな生き物が世に存在しているとは。

 ゼンエーは机の上に用意されたトーストをかじって、インスタントコーヒーに口をつけた。
 香りは硬く広がりがなく、わざとらしい苦味が舌の上にざらつきを残す。いつも部屋で飲んでいるコーヒーとは比べるべくもなく、とても美味いとは言い難い。
 普段であれば他に飲むものがない時や、機嫌が悪く苦さだけを求めている時くらいしか飲まないそれが、今は少しだけ美味いと感じてしまうのはなぜだろう。
 たまにトーストを狙って机に上がってこようとするネコチャンたちだが、ムースはそれを優しくたしなめて別の食べ物を与えている。

「こいつらって、なんでロドスにいるの」

 何気なく訪ねると、ムースはネコチャンを一匹膝の上に抱いた。見分けがつかないので、それがなんという名前かはゼンエーには分からない。

「任務で他の街に行った時とか、危険な地域でひとりぼっちの子を見かけたらムースが拾ってきてるんです。近くに家族がいる子はそっとしてますけど、ひとりじゃきっと生きていけないですから。ひとりで死んじゃうのは、すごく寂しいことだと思います。だから、せめてムースが家族になってあげたいなって思うんです。ムースなんかには、それくらいしか出来ることがないですから」

 言って、ムースは愛おしげに膝の上のネコチャンを撫でる。すると他のネコチャンもムースの側に集まってきて、ムースは嬉しそうにみんなの頭や喉を撫でていた。
 ゼンエーもそれを真似てマフィンの喉をくすぐってやると、マフィンは心地よさそうにごろごろと喉を鳴らす。

 ふと気付くと、そんなゼンエーの様子をムースがどこか嬉しそうに眺めている。その瞳はネコチャンに向ける瞳とどこか似ているような気がしてなんとなく居心地が悪く、マフィンの鼻の頭に視線を落とした。

 沈黙が流れる。
 けれど、その沈黙は今まで感じたそれとは違って気まずさはなく、むしろ安心感すら覚えてしまうのはどうしてだろう。

「‥‥‥‥でも、周りのことばっかり気にして、自分が死ぬことは考えないのか?」
「えっ‥‥」

 けれどその安心感は、ゼンエーにとってはむしろ不安を煽るものでもあった。
 その不安を強引に払いのけるように思わず発してしまった言葉に、ムースはネコチャンを撫でる手を止めて顔を上げる。

「オレたちはこんな場所で戦ってるんだ。仲間が死ぬのは珍しくないし、いつ自分の番が来たっておかしくない。‥‥それに、戦わなくたってどうなるか分からないだろ」
「‥‥‥‥」

 余計なことを言っている自覚はあれど、一度溢れ出した言葉は止められない。視線は手元のマフィンに落としたまま、ゼンエーは言葉を紡ぐ。
 ムースは目を丸くして言葉を失い、やがて苦しそうな表情を浮かべて胸の前でぎゅっと手を握った。

「‥‥そんなの、分からないですよ」

 痛みを堪えるように、ムースが小さな呟きを漏らす。
 再び流れる沈黙は、安心感とはほど遠いもの。それを望んで口を開いたはずなのに、どうして後悔なんてしているのだろう。
 自分の感情さえ理解できないまま、ゼンエーは強引に自分で振った話題を逸らす。

「‥‥ムースは、今度の殲滅作戦には参加するのか?」

 不意の話題転換に、ムースは少しだけ困惑したように顔を上げて小さく頷いた。

「は、はい‥‥ロドスは人手不足ですから、大規模作戦の時はムースみたいな普段は前線に出ないオペレーターも出ないといけないみたいです‥‥」

 あまり乗り気ではないようにムースは答える。戦いが好きというわけではないのだろうが、文字通り仲間の命がかかっていることを理解しているのだろう、拒絶の色は薄い。

「‥‥ゼンエーさんも、出撃するんですよね?」
「もちろん。それがオレの仕事だから」
「そう、ですよね‥‥」

 再び場に気まずい沈黙が落ちる。
 そしてゼンエーは独白のようにそう呟いた。

「‥‥それに、オレには他に出来ることもないし」
「そっ‥‥そんなことないですっ」

 と、ムースは予想外にその呟きに強く反応を示した。膝の上にいたネコチャンは急な動きに驚いてムースの下を離れ、一歩離れて不満そうにムースを見上げている。

「何もないなんてことないですっ。ゼンエーさんは、スゴいところいっぱいありますっ」
「いや、ないよ。じゃあ、オレに何が出来るって言うんだよ。ムースみたいな後方支援なんてしたことないし、ロドスの管理だって誰にでも出来る機械のチェックくらいしかしたこともないのに」
「分かりません、分かりませんけど、きっと何かあるはずですっ」
「‥‥‥‥」

 自分から言い出したこととはいえ、そんな即答で無回答は止めて欲しい。せめてもう少し、有益さを示して欲しいものだ。
そんなゼンエーの不満とも言えない不満に気付いたのか、ムースは考えるように視線を彷徨わせる。

「‥‥そ、そうです、コーヒーっ。ゼンエーさんの淹れてくれたコーヒーはスゴく美味しかったですっ。ムースの用意したインスタントコーヒーは、全然美味しくないのに」
「いや、美味しくないってことはないと思うけど‥‥」

 まあ、普段であれば好んで飲みはしないのは事実だが。
 その全然美味しくないコーヒーを飲みつつ、手元のマフィンの頭を撫でる。
 そんな風に言われて悪い気はしないが、だからといって途端に自分を認められるかというとそんなワケもなく、ただ返す言葉を失っただけだった。

「ゼンエーさん。帰ってこれなくてもいいなんて、思っちゃダメですよ」

 先程までの自信なさげな様子とはうってかわった真剣なムースの言葉に、ゼンエーは緩やかに息を吐いた。

「‥‥別に、わざわざ死のうなんて思っちゃいないよ」
「わざわざとかそういうのじゃなくて、ちゃんと、帰ろうって思ってください。ゼンエーさんがいなくなって悲しいと思う人はきっとたくさんいませうから」

 反射的に「いないよ」と答えそうになって、しかしゼンエーは口を噤んだ。
 何か心当たりがあったから、ではない。
 その言葉をわざわざ否定する理由が見つからなかったから。
 ここで否定してもムースは納得しないだろう。
 だから、言わない。それだけ。

 ゼンエーは黙ってコーヒーをすすり、トーストをかじる。マフィンが小さく鳴き声を上げて、ノドをくすぐってやると気持ちよさそうに瞳を細めてぐるぐるとノドを鳴らした。
 どうしてこんな話になっているのだろう。自分はただ、ネコチャンを撫でに来ただけのはずなのに。

「ゼンエーさん」

 ムースの呼びかけに、顔を上げる。そこには少しだけ無理をした笑顔を浮かべたムースがいた。

「いつでも、ネコチャンを撫でたいと思ったら、ムースのお部屋に来てくれていいですからね。他に理由なんてなくてもいいですし、言ってくれればケーキでもスイーツでも、ゼンエーさんの好きなものなんでも用意しますから」

 優しく包み込むような、ムースの言葉。
 その心地良さが、ゼンエーの心をかき乱す。
 撫でる手を止めるとマフィンは不満を表すように体をすり寄せてきて、その温かさに乱れた心がわずかに落ち着くのを自覚した。
 けれど今この時間がゼンエーに何を与え、どんな影響をもたらしているのか。それだけはどうしても理解することは出来なかった。

6.


 ――失敗した。

 気を抜いたつもりはなかった。敵戦力を過小評価したつもりもなかった。ただ、運が悪かったという他ない。
 作戦自体は成功した。ロドスの損害は決して小さくないが、作戦規模を考えれば十分すぎるほどの戦果を上げた。
 それでも言ったように損害はゼロではなく、そちら側に自分も含まれてしまったというだけだ。
 敵の残党が適当に撃った銃撃がたまたま自分を捉え、たまたま嫌な場所に当たり、反撃し仕留めたところで力が抜けて動けなくなった。

 全身を赤く濡らして、何をすることも出来ず空を見上げる。空は暗雲に包まれていて、まるで今からの自分の末路を暗示しているかのようだ。
 攻撃を受けた箇所を中心に全身が灼けるように熱く、指先を動かしただけでも気が遠くなるような痛みが走る。このままでは、遠からず死ぬことは間違いないだろう。

 だが、焦りはない。
 愉快な気分ではないが、絶望に打ちひしがれてもいない。
 いつか死ぬだろうと思っていたのが、今になっただけのこと。
 生きる目的も目標もなく、最期に願うようなことも特にない。

 あえて心残りを言うならば、未開封のコーヒーを飲んでおきたかったということくらいか。
 任務で立ち寄った街で買った少し高級な豆で、どんな香りなのか楽しみにしていたのだが。
 少しずつ、少しずつ、辺りが暗く、寒くなってくる。それは単に陽が沈みつつあるだけなのか、肉体が終わりを迎えつつあるのかは分からない。

 身体が動かないので頭だけを動かしながら、ぼんやりと色々なことを考える。まとまりのない思考の中に何度も現れてくるのは――ムースだった。
 死ねば、ムースは悲しむだろうか。悲しむだろうな。彼女は、そういう子だ。

 だけど、ムースは知らない。ゼンエーのことを。その名前を。
 教えなくてよかったと、少しだけ安心する。
 名前がなければ、いなくなるのは名前も知らないどこかの誰か。失うものが少なければ、悲しみだって少なくなる。今は悲しく思うかもしれないが、きっとすぐに他の経験に上書きされてそんな悲しみなど忘れてしまうだろう。
 それでいい。そうあるべきだ。別れを悲しむことに意味はない。自分とて、これまで多くの仲間たちと死別してきた。

 徐々に、痛みが薄くなってくる。当然、治癒しているわけではない。運の悪いことに、今は周りに医療オペレーターどころか誰の姿もない。
 とても静かだ。こんな雰囲気は嫌いじゃない。聞こえてくる音も少しずつ遠のいて、眼を閉じると何も聞こえなくなる。
 戦いのために生き、戦いの中で死ぬ。
 いい人生だった、なんて言葉は似合わないが、悪い死に方ではないように思う。
 ゆっくりと地に沈み込むような感覚と共に、何もかもが遠ざかる。静かに息を吐いて、その感覚に身を任せた――。

 ――。

 ――。

 ――。

 ――! ――ッ! ――ッ!

 強引に水底から引き上げられるような感覚に、瞼を開く。
 途端、身体の感覚が戻って激痛に顔を歪めた。
 朧げな感覚が徐々に精細さを取り戻し、目の前の状況を理解し始める。

「‥‥さん! ゼンエーさん!」

 一瞬だけ、幻覚を疑った。けれど全身の痛みがそれが幻ではないと教えてくれた。
 麦穂のように揺れる金色の髪、濡れた宝石のように輝く翡翠色の瞳、視界の端で揺れる2本の尻尾。甘いケーキのようにふわふわとした声は、今は硬く緊張に張り詰めている。
 誰かと悩むまでもない、目の前にいるのはムースだった。
 ぼんやりと水中で反響するように聞こえていた声が明瞭に聞き取れるようになり、ムースにぎゅっと手を握られる。頬に血とは別の、温かくて湿った何かが触れた。

「ゼンエーさん‥‥聞こえてますか‥‥! 生きてますか‥‥! 良かった、良かった‥‥!」

 感極まったように声を震わせるムースに、なんと声をかければよいものか分からない。

「ヴぇ‥‥っ、ごほ‥‥」

 口を開こうとするも出てきたのは掠れた咳と濁った血。心配そうに顔を覗き込むムースに、冷めた視線を返す。

「‥‥なんで」
「ゼンエーさん、まだ戻ってきてないって報告を聞いたので、探しに来たんです」

 どうにかそれだけ口にすると、ムースは無理矢理笑みを浮かべてぎゅっと手を握る。その手は温かくて柔らかくて、思わず縋りそうになってしまう。

「‥‥そうじゃなくて、なんで、来たの」
「なんでって‥‥そんなの、当たり前じゃないですか‥‥っ!」

 戸惑うムースから視線を外して、空を見上げる。空は暗く淀んでいて、今にもゼンエーのことを覆い尽くして押し潰してしまいそうだ。

「‥‥来る意味なんてないだろ。こんなことするより、戻ってる怪我人の手当てでもしてたほうがマシじゃないか」

 声を発する度に全身に激痛が走り、早く眠ってしまいたい気持ちが募る。死を避けようとは思わずとも、苦しみは出来るだけ遠慮願いたいものだ。

「だって、ムースは治療のアーツなんて使えませんし、戻っても出来ることないですから‥‥」
「‥‥じゃあ、なおさらここにいる意味もないだろ。もう、行けよ」
「イヤです! 医療班の人はたくさんいても、ここにはムースしかいないです!」

 意地になるムースに、ゼンエーは瞳を閉じて首を振ろうとして、痛みに表情を歪めただけだった。

「‥‥オレはもう死ぬし、ムースに出来ることなんて何もない。仲間の死に目なんて、見てて気分のいいものじゃないさ。早く行けって」
「イヤです‥‥絶対、イヤです‥‥! 絶対、死んじゃダメです‥‥! お願いだから、そんな簡単に諦めないでください‥‥!」

 どうしてもその場を去ろうとしないムースに、ゼンエーは再び瞳を開いて視線を向ける。

「‥‥なんで、そんな必死なの」
「だから、そんなの当たり前です‥‥!」
「オレを生かす意味なんて、ないだろ‥‥。なんでそんな必死になるの‥‥」

 いったい、どんな答えを期待していたのだろう。なんと答えてくれたら満足なのだろう。その答えを引き出せたとして、自分はいったいどうしたいのだろう。
 何も分からないまま、考えるのも億劫になって返答を待つ。

 ムースはそこで初めて言葉に詰まって、必死に考えを巡らせるように瞳を彷徨わせる。
 何か言いかけて口を開き、何も言えず閉じを繰り返し、やがてぎゅっと唇を引き結んでそう答えた。

「‥‥ロ、ロドスは――人手不足なんですっ。ゼンエーさんも、知ってますよね。ゼンエーさんがいなくなったら、みんなもっと大変になるじゃないですかっ。ちゃんと、ゼンエーさんもお仕事してくださいっ」
「‥‥‥‥」

 あまりにも予想外の答えに、言葉を失った。
 本当だろうと嘘だろうと、もっと他にあるんじゃないか。もっと、他に‥‥いや、だからどんな答えを求めていたんだと、同じ自問を繰り返す。
 ムースがどう答えれば満足で、それを聞いてどうしたいのか。
 自分のことなのに、何も分からない。
 いや、違う。分からないんじゃなくて、分かりたくないだけだ。今までの自分では、そんな答えとてもじゃないが受け入れられるものではないから。

 考えて、その答えよりも別の事実に気が付いて、ゼンエーはため息をひとつ吐いて――むくりと上半身を起こした。
 あまりにも突然のことにムースは素っ頓狂な声を上げ、目を白黒させながら大慌てしている。その姿がなんだかとても可笑しくて、ゼンエーはほんのわずか、頬を緩めた。

「‥‥えっ、ぜ、ゼンエーさん!? だ、大丈夫なんですか!?」
「大丈夫、治った」

 無論、大嘘である。身体を動かした瞬間想像を絶する激痛が全身を襲い、危うく悲鳴を上げる間もなく意識を失いそうになったほどである。

「ええっ、治ったって、なんで急に‥‥」
「ムースのおかげ」
「ムースのって‥‥でもムース、何も出来ないですし‥‥」

 戸惑いで先程までの勢いを失い、あっという間にいつも通りのムースに戻る。やっぱりムースはこうでないと、と思ってしまうのはさすがに性格が悪いだろうか。
 だがムースのおかげというのは本当だ。ムースのおかげで、ひとつ気付きを得ることが出来たから。

「‥‥ムース、ひとつお願いがあるんだけど、いいかな」
「えっ、あっ、は、はい! ムースに出来ることなら、なんでも!」

 ぐっと拳を握って勢い込むムースに、ゼンエーは視線だけを動かして力なくそう言った。

「肩、貸してください‥‥。やっぱこれ以上動けない‥‥」

 ぺたりと座り込んだままの、それが限界だった。さっき強引に起き上がったのがトドメだった。もう、指先を動かすことすら億劫である。おんぶしてとは言えないのが最後の小さなプライドだ。

「は、はいっ。ムースなんかの肩でよければ、いくらでもお貸ししますっ」

 ムースがゆっくりと支え起こしてくれるが、それでも体を動かす度に激痛が走る。ほとんど体を動かせないことを察して、ムースは何も言わずに背負ってくれた。
 ムースの首元に顔を埋めるような体勢になり、ふんわりと甘い香りが鼻孔をくすぐる。場を埋め尽くしている血と硝煙と泥と砂のニオイとはあまりにも似つかわしくない、優しい匂い。

 ムースが焼いてくれたケーキを一緒に食べた時のことを思い出す。この香りは、カップケーキか、シフォンケーキか、それとも最後に食べたトーストか。
 また一緒に、コーヒーを飲みたいと思った。
 あのケーキと一緒に、ネコチャンたちと一緒に、ムースと一緒に。

「‥‥あの、ムース。もうひとつ、お願い、っていうか、聞いてほしいことがあるんだけど」
「はい、ムースに出来ることなら、遠慮なくなんでも言ってください、ゼンエーさん」

 ゼンエーには、目的も目標もなかった。夢も欲望もなく、希望や情熱とは無縁だった。
 だから生きることに執着がなく、死ぬことに恐れもなかった。

 ――なかった。
 けど、ひとつ、目標が出来た。いや、目標なんて大層なものではないかもしれない。でも、せめてもう少し生きていてもいいかもしれないと思える、そんな理由。

 ――ムースに、あなたがいなくなると寂しいと言って欲しい。

 それが生きる理由であり、自問の答え。
 いつ死ぬか分からない戦場。そう自分で言ったにもかかわらず、あまりにも自分勝手な理由。
 だけど、願ってしまった。それはきっと、いや間違いなく――ゼンエーもムースがいなくなると寂しいと思っているから。
 だから、どうしてもムースに言わなければならないことがひとつあった。

「あのさ、ムース。オレの名前は――」

 だから、勝手な願望をムースに押し付ける。ムースなら受け入れてくれると、自己中心的な妄想を抱く。それが許されることだと信じて。
 霞む視界の中、ムースの口元が嬉しそうに緩んだように見えるのは幻想だろうか。初めて名前を呼んでくれたその声がとても暖かく感じたのは傲慢だろうか。

 今まで呼べなかった分を取り戻すかのように、ムースはその名前を繰り返す。そんな無意味な行為が、今はなぜか心地良い。
 そうだ、怪我が落ち着いたらムースにケーキの焼き方を教えてもらおう。そしてムースが淹れたコーヒーを飲みながらふたりでそれを食べるなんてどうだろう。ネコチャンを膝に乗せて、のんびりと感想を言い合うのも良いかもしれない。

 生きようと思った途端に、目的や目標にも満たないものが増えていく。そんなものは必要ないと思っていたけれど、いざ抱いてみればそれはとても嬉しくて、心躍るものだった。
 そんな無意味で下らないやり取りと共にムースの背中の温もりを感じながら、ふたりはロドスへと帰還を果たす――。

ムースさん

 最後まで目を通していただいてありがとうございます。
 最初はドクターで書こうと思ってましたが、ドクターはアーミヤと一緒にいて欲しかったのでオペレーターになりました。
 まえがきで書いた通りコミケで出せたらなあと思ってたので、今の状況が落ち着いたら後日談みたいなの書き足して出せたらいいなあと考えてます。後半はこのお話とは雰囲気変わって甘い感じのが書きたいなあと思っている所存。

 ところで危機契約なんかでどのオペレーターが強いとか色々言われていますが、最強は間違いなくムースさんですよ。数値上の攻撃力はちょい高めくらいですが、素質の効果で23%で二回攻撃が出来るので実質攻撃力が倍になり、スキルで攻撃4回に1回攻撃力+75%されるのでそれらを考慮すると実質1.5倍くらいの攻撃力となり、その上攻撃が術攻撃なのでデカブツ相手でもガッツリダメージを与えられます。さらにスキルで相手の攻撃力を40%減することができるため、タンクとしても活躍してくれます。ブロック数は1ですが、敵をガンガン落としてくれるので大量のオリジムシとかならともかく、案外取りこぼしも少ないです。
 そしてなにより、可愛い。
 そんな感じでムースちゃん強いやん育てよって思ってくれる人が増えたらいいなあって思ってます。 読了ありがとうございました。

ムースさん

アークナイツの二次創作小説です。俺ドクター、ではなく俺オペレーターとムースさんのお話です。 コミケで出そうかなあとか考えてたお話ですが、こんなご時世で行くこともままならないのでとりあえず公開することにしました。 ムースさんの魅力が伝えられたら幸いです。 タイトル考えてなかったので超適当なのは勘弁な‥‥

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-02-13

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二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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