どこまでも灰色な

夜隅ユト

どこまでも灰色な

「男装をする」「性自認が身体的性別と違う」という共通点のある岸和田レオンと柏木ぜのん。二人の高校での出会い、そしてその後の再会と交流を描く。曖昧な性自認と曖昧な関係性。これはジャンル分けができない、どこまでも曖昧で灰色な僕らの物語。

いなくなってしまった
どこにいったんだろう
いまだにその人のことを
見つけることができない

いろんな場所を探した
どこにもいなかった
歩いても 歩いても

どこにもいないようでいて
いつでもそこにあって

じゃあ自分のことを探してる
この僕は一体何なのか
一体誰だというのか
わからなくなって
また目が覚めて

いつまでたっても
夢の中にいて

起きた時に全てが夢であってくれと
願っていたあの時と
夢と現実とが 逆転してしまった今と
夢から覚めても
まだ何も見えない

ここはどこだろう
僕は誰だろう

世界はいつだって新しくて
いつだって哀しみで満ちて
ぼんやりと光っては
チクチクと瞬くのだ

痛み以外に何も感じられないから
僕は今日も空を泳ぐ



 雨の香りが密やかに網戸の隙間から差し込んでくる。空の灰色と一緒に、まだ夜明け前の部屋をそっと包み込むように。結局昨晩は一睡もできなかった。レオンが眠っている。僕の日常の中で一番近いのに、一番遠くて、手が届きそうになかったあいつが。僕のベッドの中で、ひっそりと寝息を立てていた。

 岸和田レオンと初めて出会ったのは、高校生の頃。かれこれもう五年前になる。屋上でひとり佇むレオンを見て、こんなにも美しい人間がこの世にいるのかと、僕は目を見張った。肩まで伸びた金色の髪の輪郭を、陽の光がそっと優しくなぞってこぼれ落ちる。亜麻色の大きな瞳は、僕の視線に気付いた瞬間、光を消してこちらを見返していた。細身の体に、大きめのシャツとラインの入ったニットのベスト。灰色のスラックスと黒のローファーがすらっとした印象をより際立たせていた。レオンの身体はどこまでも線が細くて儚げで、それでいて、身体の中心にすっと芯が通っているような印象を与えた。顎まで届くサラリとした滑らかな金髪。手でかき上げるのが面倒くさいのだろうか、顔にかかった前髪をそのままにしている。そのたてがみを思わせる金髪の所以か、レオンの所作はどこか怒れる獅子を思わせた。
「何か用?」
 僕の顔を見るなり、眉間に皺を寄せて、露骨に嫌そうな顔をする。イラついているのを隠すそぶりも無く、じっと僕を睨みつける鋭い眼光。たじろいでしまって、咄嗟に言葉が出てこなくなる。
「用が無いなら独りにしてくれないか」
 突き放す言葉には、どこまでも心が伴っていないように聞こえた。その時、頭の片隅でふと思った。レオンは今まで、こうやって相手をまごつかせて、追い払って生きてきたのかもしれない。だったら、正面からぶつかってみるしかない。
「用があるから来たんだ」
 何だこいつという顔をされた。言葉はぶっきらぼうなのに、思ったことがすぐ顔に出る。髪と同じ金色のまつ毛に縁取られた瞳が僕を射抜いた。
「話がしてみたいなって思って」
「何が目的なわけ?」
 ガラガラと目の前で閉まるエレベーターの扉を、手でこじ開けるような居心地の悪さに僕はもやもやした。レオンの言い方は、あまりにも拒絶的だった。こいつをここまでトゲトゲさせたものは、一体何なんだろうか。今まで、どんな奴らに何を言われてきたのか、僕には想像すらもできなかった。氷のように冷たい言葉には、どこか諦めと悲しさが漂っている。レオンがクラスメートに性別を聞かれて、「俺のパンツの中身知ってどーすんの?」と返答したというエピソードはたちまち校内中に広まっていたから、僕も聞いて知っていた。それから、金髪と亜麻色の瞳に言及され、家族の国籍に関する質問を受けた時には「それ、俺の髪が黒かったら同じこと聞くの?」と切り返したらしい。レオンの質問返しにあった人間は、たじろいでそれ以上踏み込むことができずに、何となく距離をとることを選ぶのが常だった。それでも、僕の場合は、好奇心の方が勝ってしまってどうしようもなかった。ただただ、レオンと話がしてみたかった。子供の頃に読んだ児童文学に「好奇心は猫をも殺す」という言葉が出てきた。それは、余計なことには首を突っ込むなと、子供を戒めるための警句だ。だけど当時の僕にとって、そんな言葉はナンセンスにしか思えなかった。拒絶されたなら、それはそれで仕方がない。だけれど、自分から手を引くなんて、そんなのはまっぴらごめんだ。
「僕は柏木ぜのん」
 その時、はじめてレオンは僕のことを見た。まるで生まれてはじめて人間を見たような表情で、目を瞬かせて戸惑っているようだった。僕の通っていた高校は、生物学上の性別の区分とは関係無く、制服を自由に選ぶことができた。僕がその高校を選んだのはそれが理由だった。おそらくレオンもそうだと思う。「おそらく」というのは、そういった類のことを、僕はレオンと直接話したことがないからだ。自由とはいえ、同じ学年に、スラックスを履いて登校している生物学上女性の人間は僕とレオンだけというのが、当時の僕ら生徒の中では共通の認識だった。当時の僕にとって、レオンと話す理由なんて、それだけで十分だった。それが単なる口実だったのか、本当に最初はそれだけが理由だったのか、今となってはもう思い出せない。
「僕は岸和田レオンと話がしてみたい」
「好きにすれば」
 少し照れたようにそっぽを向く。その時のレオンの表情は、忘れたくても忘れられずに、僕の心の奥底に仕舞い込まれていた。それは、入念に折りたたまれて、きつく紐で縛ってあったんだ。間違えて開いてしまわぬように。それでも、どうしたって思い出してしまう時があった。あの日のきらめきも、耳元に低く響いたレオンの声も。僕といる時だけに見せてくれるようになった、獅子が猫になる時のその瞬間も。瞳の奥に焼き付いて、僕の心から離れてはくれなかった。少なくとも、岸和田レオンは僕にとって特別な人間だった。「だった」と過去形にするのには訳がある。結局レオンのことを特別視することで、僕はレオン自身のことを遠ざけてしまっていたということに、気がついたから。気がつくのが遅くなってしまった。僕自身がそのことに気がついた時には、既に手遅れになっていて、レオンとは連絡がつかなくなった。どこでどうしているのかも、ずっと分からなかった。今日、ここで偶然再会するまでは。

 肩まで伸びた金色の髪。獅子のように、僕を射抜くその亜麻色の眼差し。間違いない。間違えようがなかった。五年前と寸分違わないその姿は、雑踏の中でも、一際目を引いた。相変わらず、とてもお洒落にメンズ服を着こなしている。振り向いてこちらを見るその姿が、まるで、スローモーションのように、高校の屋上で初めて声をかけたあの時の姿と二重映しになる。けれども、当時とは決定的に違うことがあった。それは、レオンが、僕が今までに一度も見たことのない愛想笑いをしていたこと。けれども、「お客様」に向けられた満面の笑みの奥の瞳は、ちっとも笑ってなんかいなかった。
 その一瞬、時が止まったようだった。僕の体と心は凍りついて、五年前に巻き戻された心地がした。落胆とも動揺ともつかない気持ちが、じんわりと、そしてゆっくりと、胸の奥に広がる。心の臓に硝子の破片が刺さったかのように、ひりっとした傷みを感じた。僕がレオンに対して言いたいことは、それこそ山のようにあった。何で高校の卒業式に来なかったのか、何で連絡を寄越さず、急に居なくなったりしたのか。友達だと思っていたのは僕の方だけだったのか。怒りとか悲しみとか、いろんな気持ちがないまぜになって、それでも、それは僕の側からの、一方的な感情でしかないこともわかっている。きっとレオンにはレオンなりの事情があったんだ。それだけのことだ。それは、折に触れて僕がレオンのことを思い出す度に、自分で自分をなだめるための常套句になっていた。ありとあらゆる気持ちと言葉を飲み込んで、一度深呼吸をしてから、僕はやっと口を開くことができた。
「レオン……?」
 目の前にいる青年の、どこからか切り取ってきて、無理矢理に貼り付けたような満面の笑みが崩れ去る。
「……ぜのん?」
 存在を忘れられていたわけじゃないことに安堵して、涙が湧いてきそうになるのを必死でこらえた。僕は人前で泣くのが好きじゃない。せっかく会えたレオンに泣き顔を見せたくなんてなかった。せめて、五年越しに再会したのだから、大人な自分のままでいたい。レオンとの高校時代の記憶や感情の詰まったその箱は、一度開いてしまったら、多分もう二度と閉じられないような気がして、僕は必死でその箱を開けまいとした。仕事の時みたいに、どこかよそ行きの顔で、大人のフリをすればいい。きっとできる。今の僕なら。
「まさか会えると思わなかった。都会って、田舎と違ってどこかでばったりなんて、ないと思ってたよ」
「あ……俺ってわかってて、指名したわけじゃないんだ?」
「指名?」
「男装エスコートサービス」
「あ……」
 そうだった。レオンとの突然の再会にすっかり気を取られていたけれど、転職で都会に出てきた僕は、昔から気になっていた「男装エスコート」というのを依頼していたのだった。慣れない街を独りで歩き回るよりも、道案内や話し相手をしてくれる人間がいた方が何かと良いと思った……と言うのは建前で、多分、自分みたいに「男装」をしている人と久々に話がしてみたかったんだと思う。レオンと会えなくなってから、僕はずっと満たせない空虚感みたいなものを抱えていて、それをどこかで満たしたかったんだと思う。相手にも「自分と同じ」ところがあると、わかるだけで安心するという心理は、少なからず僕にはある。自分と全く「同じ」性自認の人間なんてこの世界に存在しない。それがわかっているからこそ、なおさら。だから、初めてレオンと会えた時、僕は単純に嬉しかった。それから、こいつは一筋縄じゃいかない、ずいぶん食えないヤツだってことも、傍目から見たら同じような服装をしていたって、僕とは考え方も感じ方も性格も全然違うということを知った。当たり前だけど、僕にはそれが面白かった。それでも、僕はレオンといると、何だか自分がどこか許された気がして、嬉しかったんだ。当時、レオンに対して抱いていた、様々な感情が僕の身体の中でうごめいていた。レオンは僕の表情が硬いことに気が付いたらしく、苦しそうな顔でこちらを見つめる。
「ぜのん……あのさ、今からキャンセルしてもいいよ」
「え?」
「だって……いや、何つーか、ごめん。やりづらいのは、俺の方だ……お前が問題ないなら、仕事だからやるけど……どーする?」
「へ?」
「だから!男装エスコート……頼んだんだろ?」
「あ、う、うん。服買う店、この辺の知らないから。転職でこっちに来たんだけど、まだろくに服見に行けてなくて。だから頼んだんだ」
「どうする?」
「キャンセルは、しないよ」
 正直、服を選ぶような気分では無くなっていたけれど、ここでレオンと離れたくないというのが、僕の本音だった。それに、店選びはレオンに任せれば間違いないのは確実だ。これ以上の適任は他にいないだろう。
「男装エスコートサービス『シエル』のレオです。今日はよろしくお願いします」
 いかにも爽やかな好青年を気取った低めの声。レオンが言うと様になっていて、違和感がない、それでも、まさか接客業をしているなんて、高校時代のレオンからあまりにもかけ離れていて、ポカンとしてその綺麗な顔を見つめてしまった。僕の反応に、レオンが内心イラついてるのが伝わってくる。久々に感じる、獅子の眼光。どうしよう。僕は今、とてつもなく嬉しいかもしれない。
「お名前は、なんとお呼びしたらよろしいですか?」
「『ぜのん』でいいよ、もちろん」
「悪い。一応マニュアルだから聞いた。そんなバケモンでも見たような顔すんなよ」
「あ、ごめん……びっくりしちゃって」
「マジで知らなかったのか……どうやって依頼したんだよ? SNSとか見てないの?」
「いや……うん。あんまり。なんか、ネットで検索したら一番上に出てきたし。電話して、服買いたいって言って適当に頼んだ」
 正直、一緒にメンズ服見てくれて普段男装してる人なら誰でもよかった。誰でも……そんなのは嘘だ。僕はレオンに会いたかった。ただレオンと離れて空いた心の隙間を埋めたかった。それでもまさか、本人が来るだなんて誰が予想できる?
「なるほど……それで俺か。えーと、仕事用? プライベート用? 何系統の服が欲しいの?」
「えっと、とりあえず仕事用はスーツがあるから、プライベート用。高校の頃からそんなに服買い替えてなかったし」
「マジか……お前、何年間同じ服着てんだよ……」
 信じられないという顔をされる。だって、僕の普段着は全部レオンと買いに行ったやつだったし……という言葉を飲み込んだ。絶対、重いって思われる。でも、どうしても捨てられなかった。そもそも着回しできるオーソドックスなアイテムしか持ってなかったし、高校生の頃からサイズもほとんど変わってない。大切に洗って着ていたし、別に困らなかったのもある。
「何軒かあるから、近いところからまわってくけどいい? 予算とかある?」
「五万くらいまでかな。まずお店の場所知るのが目的って感じで、もし気に入ったのがあれば色違いで買うかも」
「出た。ぜのんの『色違い』」
「だって……組み合わせ考えるの、めんどくさいんだもん」
 高校の頃は、よくレオンと二人で服を買いに行った。僕はいつも、レオンが決めてくれた服を色違いで買って、どれを組み合わせても着れるようにしていたのだった。あ、意外といけるかも。今の僕は普通に話せてるのかな。もしかしたら、大丈夫かもしれない。このまま数時間、何とか感情の蓋を開けずに、レオンと過ごせるのかもしれない。それどころか、なんだか、話せば話すほどに、高校生の頃の感覚がそのまま蘇ってきて、五年間も会っていないのが、信じられなくなってきた。相手がレオンだから、最初こそ怯んでしまったけれど、久々に会う友人ってのは、きっと、こんなもんなんだろう。
「じゃあご案内しますね……えっと、あの、さ、大体この辺で相手に手を繋ぎたいか聞くんだけど……どーする?」
 レオンは少し申し訳なさそうな目で僕の顔を覗き込んだ。ここで僕は少し、いや、かなり傷ついたんだと思う。僕は今まで一度もレオンに触れたことがなかったんだから。高校の頃のレオンは、まるで傷を負った野生動物みたいだった。見ていて痛々しい程に、その身から放たれる言葉にはいつも棘があって、傍目にも神経質な性格は明らかだった。おそらく、僕は単に、レオンの地雷を避けて歩くのがうまかっただけだったんだ。だからこそ、隣に居ることを許されたのだろう。それでも、レオンの容姿に憧れて近付こうとした奴らと僕の間に、そんなに大きな違いなんてなかったのかもしれない。束の間でもいい、その顔を見つめていたかった。声が聴きたかった。レオンは美しかったから。僕の知る誰よりも、気高くて気品があった。こんなにも美しい人がこの世に存在するのなら、生きているのもそう悪くはないのかもしれないと思えるほどに、僕はレオンに惹かれていたのだと思う。レオンに触れたいと思ったことはある。でも、それは叶わない夢だった。あの頃、おそらく校内で一番長くレオンと時を共に過ごした僕でさえも、その手に触れることは叶わなかったのだから。だからこそ、僕は自分の耳を疑った。そうして、意地を張った。こんな形で触るのは気が引けたのと、あそこまで頑なに他人を寄せ付けなかったレオンが、普段の仕事で初対面の人間と手を繋いでいるという事実を、なかなかすぐには飲み込めなかった。
「いいよ、そういうのは」
「だよ……な」
「あと、接客喋りも、マニュアルも、やめていいよ。ふつーに店案内してもらえて、コーデのアドバイスとかもらえたらそれでいい」
「ありがとう。やりやすいよ」
 五年もあれば、人はこんなにも変わることがあるのか。レオンが何の躊躇もなく他人にお礼を言えるようになった事実に感動している間もなく、僕が連れて行かれたのは、よく名前の知れたアパレルブランドだった。ここのメンズのSサイズならば、問題なく僕でも着られるとのことだった。メンズ服選びで一番困るのはサイズなので、それが事前にわかっているだけで、とてもありがたい。スーツを買う時には割と苦労した。特に問題なのは肩幅だ。自分に合うサイズを取り扱っていない店もあるから、何軒か店を回る羽目になったりもした。カジュアルな服の方が体に合うサイズのものを探しやすくはあるけれど、メンズ服に詳しく、なおかつお洒落なレオンに案内してもらえるのは、正直言ってとてもありがたいことだった。
 案の定、レオンの見立てのおかげで僕は服をすんなりと決めることができた。それも、色違いで買い揃えたので、しばらくは洋服を買う必要がなさそうに思えた。五年は流石に長過ぎかもしれないけれど。
「レオンは、この後どーするの?」
 ふと、何気なく聞いてみると、レオンの顔が曇る。聞いたらまずいやつだったのか。僕が無理に答えなくてもいいと言おうとした瞬間、意外な言葉が返ってくる。
「今日は漫喫。今、家ないんだ。俺」
 好奇心は猫をも殺す
 あの頃、本当はもっと、レオンの事情に首を突っ込んでみたかった。それでも、こいつから感じる気迫から、何かただならぬ事情を感じた僕はそれをしなかった。無意識のうちに、例の警句に怯えていたのかもしれない。勢いが良かったのは初対面の頃だけで、結局僕は踏み込むことができなかった。レオンの隣にいることが、ただただ心地よくて、それ以上踏み込もうともしなかった。レオンの抱えるものを知ることで、二人の関係性が壊れてしまうのが怖かった。それがよかったのか、悪かったのか、今となっては、もうわからないし、わかりようがないけれど。少なくとも、僕はもう、レオンのことをわからないままではいたくない。目の前にいるやけに身なりの良い野良猫みたいなレオンを、僕が放っておけるはずがなかった。
「うち、来る?」
「……うん」
 僕の顔を見つめるレオンの瞳は、高校の頃の、猫の瞳だった。冷たい獅子の瞳じゃなく。それだけで、僕の心の箱は、開いてしまった。どうしようもなく。
 家に着くやいなや、とりあえず頼むから寝かせてくれと言うレオンに、僕はベッドを貸すことにして、僕自身はソファで休むことにした。レオンは頑なに自分がソファで寝ると言い張ったが、頑固な僕が一度決めたことを変えないのを知っているからか、最後には折れてくれた。レオンは、ゴソゴソと鞄の中から取り出した錠剤を飲み込むと、そのまま着替えもせずに、張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、急速に眠りの海の底に落ちていった。僕は軽くコンビニで買ってきたおにぎりを食べ、シャワーを浴びて着替えてから、冷蔵庫から取り出した水を喉に流し込んだ。冷蔵庫から響く低い電子音と、喉の奥を通り過ぎる冷たい液体。タンブラーの蓋を開けた記憶も、それを口に付けた感覚も、もはや日常に馴染みすぎて無に等しい。それなのに今日は、極限まで自動化されたその動作さえも、なんだかやけに生々しく現実のものとして感じられてくる。それくらい、今日のレオンとの買い物は妙に非日常めいていた。僕の日常の中に急に現れた非日常は、確かに、かつて僕の日常のかけがえのない一部だったことがあった。あれから五年も経ったなんて、にわかには信じられなかった。誰かが、僕とレオンの間から、そっと時を盗んでいなくなってしまったようだった。レオンが居なくなってから、多分僕は抜け殻みたいになっていたのだと思う。そんな情けない話は、自分でも信じたくないけれど。認めざるを得ない。そっとカーテンを明け、月明かりに照らされたレオンの肩を少し眺めた。レオンは、僕よりも少し身長が低い。昔もガリガリに痩せてたけど、今も相変わらずだった。それでも、こんなに小さかったっけ。そこで僕は、この会えなかった五年間をかけて、僕の中の僕の知らないところで、レオンの存在が途方もなく大きくなっていたのだという事に気付かされた。直視したくなかった。このままでは、折り畳んで鎖でぐるぐる巻にしていた気持ちが、解けてしまう。
 レオンは寝返りも打たずに寝ていた。その寝顔を覗き込みたい、と、強く思う。白磁のような肌に、金色の長い睫毛の影が落ちているのだろうか。それでも、僕はそれをしなかった。眠れる獅子を起こすわけにはいかないのだから。それでも、明日朝起きたら、レオンが消えて居なくなっているような気がして、僕は眠る気が起きずに、ひとり毛布を羽織ってソファの上に座り込んでいた。レオンは、またどこかに行ってしまうのかもしれない。そうしたら、もう二度と会うことができないのかもしれない。レオンはどこに行こうとしているのだろう。その時の僕には、何もわからなかった。ただ、レオンには「幸せ」になってほしいという、漠然とした想いだけがあった。昔からそうだ。芯が強いようで、いつだって儚げで、夢みたいに綺麗で。僕はレオンに幻想を抱きすぎだ。自覚はある。それでも、止められる気がしない。だからこそ踏みとどまる。たぶん、それが正解だ。それが丁度いい距離だ。そう思い込んでいた。
 幸せ
 なんて、手垢にまみれた、陳腐な言葉なんだろうか。最大公約数的な「幸せ」なんてものは、この世に存在しないと僕は常々思っている。それは、各々が自分で見つけ出さねばならない。自分の人生も、自分の生き方も何もかも。一人で背負うにはあまりにも重いそれを、それでも一人で背負って行かなくてはならない。僕の幸せは、まだよくわからない。レオンの幸せは、一体何なんだろう。いつか、そんな話ができる日が来るんだろうか。いつか、その手を、仕事としてではなく、個人的な親愛の気持ちから、繋ぐことができたりなんてするのだろうか。そんな願いを持つことが、僕には許されるのだろうか。ぐるぐると思考は空回る。外の空気を吸いたくて、ガラガラと窓を開けると、六月の冷たい風がそっと頬を撫でるから、眠れない頭が余計に冴えていく。
 正直まだよくわからなかった。数時間買い物に付き合ってもらった。昔のように服を選んでくれたレオンが今、僕の目の前にいる。何だか妙だ。実感が湧かない。それでもレオンは夢でも嘘でも妄想でもなく、この部屋に確かに「今」存在している。けれども、レオンの存在感は、同じ部屋に本当にいるのか分からなくて怖くなるくらいに、薄くて、軽くて、透明だった。生気が感じられない……というのかな。レオンからは、生活の匂いがしないのだ。普段どうやって過ごしているのだろう。相変わらず、珈琲が好きなのだろうか。こいつが起きたら、僕は一体どうしたらいいんだろう。どうするのが正解なんだろう。一度社会に出てしまえば、もはや絶対的な「正解」なんてものはない。いつも、状況に応じて判断を下さなければならない。大人として生きる事に、窮屈な思いを感じ始めた矢先に、レオンが目の前に現れて、僕は少し混乱しているのかもしれない。レオンは僕にどうして欲しいんだろう。何も言わないで、詮索しないで、ただ一晩だけ泊めてやって、それで終わりなんだろうか。僕達は何を話すのだろう。そもそも、レオンは僕に何かを話してくれるだろうか。わからない。何もかも。
 鳥のさえずりと青白い夜明け前の空気とが、八畳一間の部屋を満たす。カーテンの隙間から覗く夜のしじまと暁の中間地点で、僕は深呼吸をする。夜の闇が薄まった空は、ほんのりと冷たくて灰色で、どこまでも鈍くて淡く、曖昧な色をしていた。たぶん、きっともう少ししたら、東の空の果てを金色の光が優しく染めてくれる。朝の光がこの部屋を満たして、レオンの金色の髪に暁光が注がれるのを、僕は黙って見ていたかった。世界が夜から朝に変わるのを僕は眺めていたかった。眠れる獅子が起きるその時をじっと待ちながら、途方もない静寂の中で。僕の心臓の鼓動だけがなぜだか妙にうるさくて。朝が来たら、おはようを伝えよう。それから先は、もう、なるようにしかならないのだから、心配するだけ無駄なんだ。
 「好奇心は猫をも殺す」そんな言葉に、僕はもう怖気付いたりなんかしない。手を伸ばしてみたい……もしも、レオンが嫌じゃないというのなら。今度こそ、僕は岸和田レオンと話がしてみたい。

 朝起きた瞬間。夢と現との狭間で迷子になったように、一体自分が誰なのか分からなくなる。その一瞬は全てが無に等しくて、それが妙に心地よくて、俺は朝が好きだ。久々にまともな布団の中で寝た気がする。洗いたての洗濯物のような香りのする清潔な布団には、それでもほんのりと、ぜのんの匂いが染み付いている。ぜのんの布団なんだから当たり前だけど。まるで、ぜのんが纏う空気感に包み込まれていような感覚がした。そんな布団で寝て、心が安らいでしまう自分のことが心底嫌になる。俺には、そんなことを思う資格なんてないのに。高校の卒業式には行かなかった。ぜのんからの連絡は全部無視して、着信拒否もした。そんな俺が、今こうしてのうのうと、ぜのんの部屋のベッドで目覚めている。それもシャワーも浴びずに眠剤を飲んで寝てしまったようだ。流石にこれは申し訳無さしかなかった。
 八畳一間のリビングで、遮光カーテンは開けられている。昨夜ぱらついていた雨は上がったらしい。白い半透明なカーテンを通して、朝日が目にまぶしかった。まぶしすぎた。ぜのんの何もかもが、昔から、まぶしくてたまらなくて、直視できなかった。その感覚が、さらに強くなって、俺は今すぐにこの部屋から出て行きたいと思った。でも、そういうわけにもいかない。俺もそれなりに大人になったということなんだろう。ぱしぱしと目を瞬かせていると、昨日選んでやった服に着替えたぜのんがこちらを向いた。ほのかに珈琲のいい香りが漂ってくる。ぜのんが淹れてくれたんだろうか。こんな風に、私生活で誰かに珈琲を淹れてもらったことなんてなかった。今まで、一度も。この特殊な状況を、私生活と呼んでいいのかは謎だけど。
「おはよう」
「お、はよ……」
 誰かと朝の挨拶を交わすなんていつぶりだろうかと思いながら、気になってたことを聞く。
「ぜのん、仕事は?」
「今日は休みだよ」
「あ、そ……」
「レオンは?」
「んーと」
 俺はスマホのメールを確認した。頼む。仕事、入っててくれ。仕事さえ入ってりゃ、この場を何とか切り抜けられそうな気がした。この期に及んで俺はぜのんから逃げることばかりを考えていた。職場からのメールは入っていなかった。
「あ……今日は今んとこまだ無い」
 最悪だ。よりにもよって、これはもう逃げ場がないと、その時俺はある程度覚悟を決めた。もう、逃げる口実がなくなった。
「直前に入ることもあるの?」
「まぁ……な、小さい店舗だし」
「大変だね」
「うーん?まぁ、そーでもない……あのさ、ぜのん……」
「何?」
「ありがと」
 それは、黙って泊めてくれたことへの礼だった。それから、音信不通で五年ぶりに会ったのに、たいして何の説明もせず、ベッドを占領した起き抜けの俺に対して、こんな風に温かく接してくれることに対しての。
「どういたしまして」
 ぜのんがこんなに嬉しそうにする顔を、俺は初めて見たような気がした。高校の頃はあんなに一緒にいたのに、こいつには多分俺には見せたことのない顔が山のようにあるんだろうと思うと、何故だか胸の奥がひりついた。
「珈琲飲む?」
「……うん」
「トーストでいい?」
「あ、う、うん」
 何で、こんな所帯じみた会話してんだろうかと思う。
 俺、何やってんだろう。マジで。
「ていうかレオン、シャワー浴びる?使っていいから。あ、でも、着替えないか……僕のでよければ」
「あのさ」
「へ?」
「何でそんなふつーなの、お前」
 流石に、この一言でぜのんは複雑そうな顔になった。悲しそうな、寂しそうな。ぜのんにそんな顔をさせるために言ったわけじゃなかった。それでも、うやむやでいるのが先に耐えられなくなったのが俺の方だなんて、笑える。いつもそうだ。振り回すだけ振り回して、ぜのんは俺に踏み込んでこなかった。踏み込もうとすらしなかった。だから一緒に居られた。ぜのんといると楽だった。だけど、ぜのんがまぶしすぎて、俺は気づいたらぜのんから離れていた。羨ましかったのかもしれない、自分には縁のない、届かない世界にいるこいつのことが。それでも、謝る気は起きなかった。謝るのは何か違う気がする。
「ぜのん、あのさ、連絡……ずっと無視してたのはごめん」
 それでも、口は勝手に動く。俺の意思に反して、勝手に動く。多分、今目の前にいるぜのんに拒絶されるのが怖いから。今まで散々他人のこと拒絶してきたくせに。いや、だからこそだ。拒絶されるのも、レッテルを貼られるのも、うんざりだった。いつも勝手に見た目で決めつけて、期待して憧れを持たれて。また勝手に幻滅して、皆遅かれ早かれ俺の前からいなくなっていく。誰も俺の気持ちなんてわからないくせに。わかろうとすらしないくせに。そんな反抗期のガキみたいな気持ちは、今も俺の中で燻り続けている。燃やし方も捨て方もわからない、青春の残骸のように。だけど、俺だって同じようなもんじゃないのか。ぜのんに対して、まぶしさのレッテルを貼って逃げ出して。俺にレッテルを貼ってきた奴らと、同じようなことを、俺は今までで、ぜのんに対してしてきたんじゃないだろうか。それは俺が一番嫌ってた在り方だったはずだったのに。
「……いろいろあったんだろ?」
 物分かりの良い大人みたいな顔をしたぜのんが言う。一人だけ大人になって、一人だけちゃんとしてて。「ちゃんとする」って、何だ?俺だって働いてるじゃん。家は無いけど。漫喫暮らしだけど、それのどこがいけない?何で俺はこんなに動揺してるんだろう。深呼吸をして、吐き出すように一息に言った。
「家を出た。家族と縁を切った。だから金も無いままこっちに来た。そんで、余裕もなかった」
「うん……」
 一瞬の静寂。
 それだけだった。
 ぜのんは他に何も聞いてこなかった。
「聞いてこねーんだ?」
 俺はどうして欲しかったんだろう。質問責めにされるのは大嫌いなはずなのに。何でこんなに少し残念なんだろう。
「いや、ほんとは、もっと、いろいろ突っ込んで聞きたいって思ってたんだけど、何か、気が変わった」
「変わった?」
「うん……今全部聞いてレオンに会えなくなるより、聞けなくても一緒にいたいって思っちゃった」
 泣きそうな顔でぜのんが笑う。ごめん。ぜのん、ごめんな。俺はその時はじめて、もっとこいつの笑った顔が見ていたいとはっきり思った。
「……変なやつ」
 その時の俺は、多分、ぜのんと初めて会話したあの時みたいな顔をしてたと思う。照れたような顔。ちょっとだけ、自分の中の棘が和らぐのがわかった。昔からぜのんはおかしなやつだった。だから、一緒にいて落ち着いた。一緒にいると、楽だった。とても。俺はソファに座って、テーブルに置かれたマグカップから一口珈琲を口に入れた。瞬間口の中に広がる液体はひたすらに苦くて雑味が強く、まるで泥水のように感じられた。それでも、ぜのんがせっかく淹れてくれたんだ。残したら申し訳ない一心で、俺はそれを何とか一気飲みしてから口を開いた。
「ごちそーさま。あの、ぜのん……この珈琲、どーやって淹れたの?」
 ぜのんが怪訝そうな顔をする。
「え?普通のインスタントだよ?」
「インスタント?」
「うん」
 その瞬間、今日の予定が決まった。泊めてもらったせめてもの礼に、こいつをあそこに連れて行こう。その前にシャワー借りなきゃ。服も駅のコインロッカーの中だ。色々と格好がつかない。それでも、今の俺は、今度こそ、柏木ぜのんと話をしてもいいと思っているらしかった。生きてると、それまでの自分には全く考えもつかないようなことが起こることがある。俺が男装エスコート『シエル』で働き始めたのもそうだし、多分、この再会も、そういう類のもんだろう。どうせいつか、ぜのんとは、逃げずに真正面からぶつからなきゃいけない日が来ると、何となく思っていた。それは、たまに働く俺の動物的直感なのか、それともただの一方的な願望だったのか、それはよくわからないけど。これから風向きが変わっていくような、そんな予感のような実感が湧いてきて。
 もしこの世で一つだけ確かなことがあるとすれば、それは、「確かなことなんてひとつもない」ということ。俺は、これまでの経験から、それを痛いほどにわかっているつもりだった。あれ程まで逃げ腰だったのが嘘みたいに、今は少しわくわくしている自分がいる。一瞬先がわからないからこそ、多分生きることは面白いのかもしれない。俺はぜのんの手を掴んでそっと握った。言っとくけどこれは商売じゃない。お客さん以外の手なんて、握ったのは初めてだった。
「ぜのんのこと連れていきたい店があるんだけど……いい?カフェなんだけど」
 ぜのんの顔から幽霊でも見たように血の気が引いていく。そんなに俺と手を繋ぐのが嫌だったんだろうか、そういや、昨日も断ってたし……当たり前か。五年も音信不通でいきなりだもんな……。
「カフェ?」
「お前に本物の珈琲をご馳走したいと思って!」
「えっ……そんなに不味かった? 僕の珈琲……」
「あー、えっと、何というか、種類が違うっつーか、スペシャルティ珈琲ってやつだから! 飲んでみて欲しくて! お前の中の珈琲の概念が変わるから、マジで!」
 若干落ち込んで見せたのも束の間、俺が珈琲のことで必死なのがそんなに可笑しかったのか、ぜのんの顔に笑顔が戻った。繋いだ手をきゅっと握り返して嬉しそうにしている。
 花が咲いたように笑うって表現があるが、俺は今までその言葉をただの陳腐な狂言くらいにしか思っていなかった。でもその時、ぜのんの笑顔を見てたら、俺の心に花が咲いて、柔らかな春の陽射しを帯びた風まで吹いていったのを確かに感じた。本当に人生は何が起こるかわからない。
 
 
 川の水がきらきらと太陽の光を照り返している。レオンと僕は、特に何かを話すわけでもなく、くっつくでも離れるでもない距離感で歩いていた。高校の頃みたいに。昨日の夜の雨が嘘みたいにいい天気だ。どこまでも掴みどころがない風に揺れる水面。自分の気持ちを知ると言うことは、その透明な水に手を伸ばして、何かを掴もうとするような行為だ。それくらい、途方もなく、掴みどころがないような気がする。まさか、レオンの方から話を切り出すとは思わなかった。今度こそ、色々な話を聞きたいと思っていた。けれど、息継ぎもできずに泳いできたような苦しそうなレオンの顔を見ていたら、出会い頭に根掘り葉掘り聞くのは、何だか違うように感じられたから。まさか、手を握られるなんて思わなかった。差し出してくれたその手が、たまらなく嬉しかった。レオンに連れられて入ったカフェは「夜のしじま」という名前だった。作家の人がよくここで本を書いているとレオンが言っていた。流石都会はすごいや、なんて言ったら笑われてしまったけれど、僕にとっては、またこうやってレオンと過ごせることが嬉しかった。僕は今までチェーン店以外の喫茶店で珈琲を飲んだことがなかったから、初めて飲んだスペシャルティ珈琲は、苦くて甘くてコクがあって、フルーティで香ばしくて……まるで口の中で色んな味が踊っているみたいだ。
「珈琲を飲んでる間だけは、生きてるって気がするんだ」いつかのレオンの言葉を、僕は思い出していた。その気持ちが、ほんの少しだけ、わかるような気がした。この珈琲は美味しい。間違いなく、酸味も苦味も凝縮されて、ほんのりと甘くて、まるで人生みたいな味がする。

 一杯の珈琲ほど、人の心を温めてくれるものを、僕は他に知らない。それは両の手の平の中に、すっぽりとおさまる幸せの形。「夜のとばり」は優しい味がする。このカフェの看板ブレンドで、深いコクと甘美な香りが宵闇の空を思わせる。夜の闇に紛れるのが好きな僕にとって、このカフェは格好の巣みたいなものだった。事実、一日の大半を僕は「夜のしじま」で過ごしていた。自宅よりも滞在時間が長いのじゃないかと思う。いつものボックス席でノートパソコンを取り出して、大抵の場合は決まったものを頼む。最近よくカウンターに来る金髪の子がいた。スラっとして綺麗で、どこか気品が感じられる風貌の子だと思った。毎回一緒にいる相手が違うので、遊び人なんだな、なんて思っていたのだが、どうやら職業柄仕方のないことのようだ。今回は普段と雰囲気が随分違った。金髪くんの隣の席には、ふわりとしたパーマのかかった短い黒髪の子が座っていて、僕は思わず二人の会話に聞き耳を立ててしまう。あの金髪の子があんな砕けた笑い方をするのを僕は初めて見た。心を許した相手の前だとあんな顔をするのかと、あの子のことを書きたいと思ってしまいそうになる。僕が初めて他人を小説のモデルにしたのは、大学の頃のフランス語教師だった。いつもくたびれて気の抜けたような空気感を纏っていて、黒いスラックスに、黒いベルト。しっかりとタックインした白いシャツと不釣り合いに首元は二つもボタンが空いていて、喉仏がよく見えた。痩せ型で、いかにも神経質そうで、淡々としていて、その淡白で無機質な、一切の生活感を感じさせない彼の存在感が僕は好きだったんだ。それがどういう類の好きだったのかは、よくわからないけれど。そもそも、好きに種類や名前を付けることに、そんなに意味があるとも思えなかった。
 僕は欲望に愛という名のラベルを貼って売ることで生計を立てているのだが、現在は一切の性欲がない。現在は、と言うのは、過去にはその類の欲望が僕の中に存在していたこともあったからだ。おそらく、自分の輪郭を無くしたことがある人でないと、はっきりと自分の輪郭を意識したりはしないのかもしれないと時々思う。僕は自分の中にあった性愛の亡霊を作品に注ぎ込んだ。その亡骸を見つめながら、そっと十字を切って、永遠の別れを告げる葬いの儀式を幾度となく繰り返す。性愛と恋愛は、もう僕の中にはカケラも残っていない。独占欲も愛欲も。僕の中のありったけは、小説の中に溶けては消えていく。肌寒い秋がやがて冬に変わるように。今となっては、僕の中での性愛は単なるメタファーであり、ファンタジーでしかなかった。
「身体性のつながりに僕は微塵も意味を見出せない。愛欲は全て小説に注ぎ込んでしまったから」そんなことを、「夜のしじま」のマスターであるマサにこぼしたこともあった。
「キザだなぁ、ハルは」そう言ってマサは笑った。
 まるで夏の火照った大地に降る雨音のような声で、マサは笑う。聞いていて安心する、音楽みたいな声で話をする。マサは、現在は男性として暮らしている。現在、というのは、過去は女性として暮らしていたということだ。けれども、それはマサという人間の表層のほんの一部でしかない。あの金髪と黒髪の二人組の性別が何なのか、パッと見ても僕にはわからない。表面から見てもわからないことだらけで、この世の中は成り立っている。信頼できるのは、自分の舌と、ただ一杯の珈琲だけだ。そして、僕は喫茶店で他の客の話に耳を傾けるのが大好きだった。それがそのまま小説の題材になることなんて殆どないけれど、言葉の端々や声音の温度感から立ち上ってくるものには興味があった。そこから見えてくる二人の関係性や、漏れ出てくる人間性や、隠そうとしているもの、着ている鎧の形さえも、音の震えになって現れてくるから、人間ってのはつくづく面白い生き物だと思う。この二人も御多分に洩れず、僕の興味を引いた。元々この金髪の子は人を惹きつける何かを持っていたから、ずっと気になっていたのだけれど、いつも女の子といる時は、中身の入っていないシュークリームみたいな、上部だけの簡素な会話しかしていなかったし、その中身を絶対に見せようとはしないでいるように見えた。だから、何かあるのだろうと思っていたけれど、この子にも、こんな風に自分の脆い部分を出してみることが許される相手がいるのだということに、なぜだか赤の他人である僕がほっとしたりしている。人間観察は僕が物心ついた時からの癖みたいになっている。マサと会うまで、他人とろくに話すことがなかったからだろうか。僕は小説なんてのは人間観察記であって、独り言がエスカレートしただけの代物だと思っている。頭がイカれてるから、書かずにいられなくなるのだろうと思う。他の作家のことは知らない。でも、少なくとも僕の場合はそうだ。僕は昔、一度だけ童話を書いたことがあった。全く売れも読まれもしなかった。「夜野シジマ」と「夜野トバリ」という双子の兄弟が心中しようとする話。このカフェの名前は、そこからきている。マサはその時から僕の読者だった。たった一人の読者だった。マサがいたから僕は書くことをやめなかった。既に書くことは僕の生活の大部分を占めていて、やめ方もわからなくなっていた。今の僕に性欲は微塵もないけれど、自分の書くものに対しての嫌悪感はない。それが仕事だから、ただ、淡々と書くだけだ。でも、なぜだか、たまには違うものが書きたくてたまらなくなることがあって、今日はそんな日だった。今日は久々にマサ特製のデザートでも頼んでみようかな。
 この店のメニューには、こんな言葉が書いてある。

 今日は空が綺麗だから、夜の帳が下りるのを見に行こう。
 君がそんなことを言うから、僕はそっとうなずいた。

 僕が昔、童話の一節に書いた言葉だ。童話の最後は僕としてはハッピーエンドのつもりだったが、マサは悲しいと言っていた。悲しいけど好きだと言ってくれた。金髪と黒髪の二人組は今日、この後どんな一日を過ごすのだろう。夜の帳が下りるのを二人で見に行ったりするだろうか。もしそうなら、それはとても素敵だと、僕は勝手に思いながら、カップの中で冷めてしまった珈琲の最後の一口を啜った。


 もうすぐ夜の帳が下りる。夕日が沈み、グランブルーと紺碧の混ざり合った空に銀色の星がひとつ輝いていている。夜更けと夜明けはとてもよく似ている。俺は、昼と夜との境界が曖昧になるその時間が好きだ。ぜのんは「夜のじじま」で初めて飲んだブレンドの味にえらく感動した様子で、早速、マスターのマサさんにアドバイスをもらいながら選んだ使いやすそうなミルとドリッパー、それからフィルターとオリジナルブレンドの豆を買いこんでいた。紙袋を大切そうに抱え込むぜのんの満足げな表情に、思わず俺まで顔がほころんできた。ぜのんは普段インスタントしか飲まないというので、挽きたての美味しいブレンド珈琲を絶対飲ませてやりたいと思って、店に連れて行ったわけだが、正直ぜのんの反応は俺の想像以上だった。
「僕、もうインスタント珈琲飲めないかも」はにかみながらそう言うぜのんを横目に、何だかふと手を繋ぎたくなった。こんなことは生まれて初めてなので、戸惑う。なんで俺はぜのんに触れたいと思っているのだろう。
 俺がそれこそ尖ったナイフみたいに鋭利な心を抱えて、自分自身までボロボロにしていたような高校生の頃、俺の心にそっと手を差し伸べてくれたのはぜのんだった。  
 嘘と本当の境目が曖昧なように、日常と暴力の境目は俺にとって曖昧なもので、両者を見分けるのはとても困難だった。それはすっかり日常に溶け込みひとつになっていて、もはや暴力と認識することすらできなくなっていたから、俺がそのことを誰かに話すことはなかった。記憶に残っている範囲では、それは感情的に罵倒されるという行為であることが多く、また理不尽に責め立てられるということもあり、要するに八つ当たりであることが多かったように思う。親から繰り返される呪いの言葉と、第三者から注がれる好奇の視線と嘲笑。俺は平気なフリをし続けたけれど、平気なはずなどなかった。それらは、俺の心を日々穿っていった。からみつくように吐かれた言葉が鋭い刃物のように俺を刺す。抉り出された心臓は見せしめのように、相手の足で潰されていって、その痛みに俺は自分の声を失っていった。切れ切れになった記憶の断片。脆くも崩れ去っていく時間と空間。曖昧になっていく自己認識。俺は身体が抱える記憶の拳銃の引き金がいつ引かれるのか、怯えるようになった。急に暴発することのないよう、俺は常に細心の注意を払うようになった。もやもやとした行き場のない気持ちから、誰彼構わず拒絶した。そんな時、俺の目の前に現れて、真正面から名前を名乗ったこいつ、柏木ぜのんは、俺の性別にも髪の色や目の色についても一切言及することがなかった。それでいて、腫れ物に触るような嫌な感じもなく、ただ、隣にいた。だからこそ、俺はぜのんと一緒にいられたんだ。この五年間の間、正直、何回かぜのんに連絡を取りたいと思ったことはあった。それでも、それをしなかったのは、自分にはその価値がないと思っていたから。でも今は違う。
「なぁ、ぜのん……手、繋いでもいい?」
「へ?」
 心底驚いた顔でこちらを見るも、俺が真剣に聞いているのが伝わったのか、途端にぜのんの表情は和らいだ。
「いいよ」
 ぜのんから繋がれた手は妙に温かかった。今までお客さんと手を繋ぐことはよくあった。正直最初は戸惑った。でも、段々気にならなくなっていった。俺はただ男装の「レオくん」を演じればいいだけだから。でも、どこかで、俺は「レオン」としての自分でいられる場所を必要としていた。そんな時に出会ったのがマサさんの店だった。マサさんの淹れてくれる珈琲を飲むと、張り詰めていたものが解けるようで、何だか呼吸が楽にできるような気がした。マサさんの珈琲は少しぜのんに似ている。
「今日はレオンにびっくりさせられっぱなしだ」
「俺も」俺がそう言うと、ぜのんはくすりと笑う。
「でもわかるよ。自分のことって、案外わかんなかったりするから」
 そういうことをさらっと言うから、多分俺はこいつのことが人として好きなんだと思う。多分、はじめて、他人のことを面白いと思った。
「あのさ、ぜのん。少し話していい? 『夜のしじま』はマサさんもいるし、今日はハルさんもいたし、あんまり話せなかったから」
「ハルさん? 誰?」
「いや、言ったじゃん。作家の」
「え! 今日居たの? あの場に? 言ってよ!」
「悪い。ぜのんが興味あると思わなかった。そもそもペンネームとかも知らないし」
「そうなの?」
「うん。あの人が普段何書いてるかとかも知らねーし。ただ常連でいつもいるもんだから、マサさんが教えてくれたことがあるだけ。まともに話したこともないし。あの人あそこに住んでるようなもんだから、また次行った時に挨拶でもすれば?」
「そっかぁ。って、レオンの話って何? どっかお店入る?」
「いや、そこでいいや。ぜのんが寒くなけりゃだけど」
 
 レオンが話す場所として指定した河原のベンチは、少し湿っていたけれど、座れない程ではない。こんな風に外で座ったのなんていつぶりだろうか。空の端が、翠色とラピスラズリとを混ぜ合わせたみたいな色をしていた。やけに綺麗で、レオンは空を見ながら話がしたかったのかもしれないと、ちらっと思った。昔からレオンは空が好きだったから。そんな僕は、屋上でひとり佇んで空を見上げるレオンを見ているのがずっと好きでたまらなかった。
 レオンは、ぽつりぽつりと話し始めた。今まで一緒にいて、こんな風に話を聴くことが無かったから、僕はレオンが話してくれているっていうただその事実だけで、何だかもう泣きそうになっていた。レオンはかなりぼやかして話しているけれど、レオンの家庭は、いわゆる機能不全家族というやつだったらしいのだ。
 レオンが家族から暴力を受けていることを僕は知らなかった。高校生の頃、レオンは休日は喫茶店に入り浸って珈琲を飲んでいると言っていた。僕は当時、一杯六百円の珈琲を飲む程お小遣いを持っていなかったから、一度も一緒に行ったことがなかった。それも、後々後悔したことの一つだ。そういえば、レオンは家族構成も家の話も一切しなかった。話したくないのだと思って、僕はあえて聞くことはしなかった。僕に兄がいることや、うちの家庭のことは、何度かレオンに話したことがあった。あまり会話が盛り上がらなくて、僕はその話をするのをやめた。僕らはその時々の、本当に当たり障りのない他愛のない話しかしなかった。それでも、時たまレオンの口角がほんの少し上がっていて、目元に宿っていた悲しみの色が薄くなるのを僕は知っていたし、それが嬉しくてたまらなかったんだ。後悔したって、仕方がない。これから、レオンとたくさん一緒に美味しい珈琲を飲めばいい。今度は絶対に美味しいって言わせてやろうと僕は思う。
「ねぇ、レオンあのさ、うちに来る?」
「何言ってんだよ、二日も泊まらせてもらうわけにいかないよ。つーか、明日ぜのん仕事もあるだろ」
「……違うよ。二日だけじゃなくて」
「どーいうことだよ」
「レオン。うちに、来ない?」
 ここでやっと、レオンは僕の真意に気がついてくれたらしかった。
「……ぜのん、それ、本気で言ってんの?」
「うん。僕は本気だよ」
「でも、家賃とか……」
「お金のことは、後でしっかり話し合おう。あったかい晩御飯を食べた後にだ。いい加減僕は寒くなっちゃったから」
 隣に座ったレオンの亜麻色の瞳。夜の帳が下りてきて、レオンの亜麻色の瞳の淵に滲んだ雫をそっと隠す。
「帰ろう。レオン」
「……うん」
 金色の月が、レオンと僕をそっと見守ってくれているようだった。
 岸和田レオンは、怒れる獅子でも、男装の麗人でもない。僕と肩を並べて歩く大切な人の手は、今とても温かい。  



夜明けは夜更けにとてもよく似ている

どっしりとした雲間に
僅かに青みが射して
自分の涙で目が覚める

喉の奥に詰まるような 息苦しさと
生きていることの 哀しさにとに
押し潰されそうになりながら
夜明けを見るために 僕は目を覚まし
孤独の淵にひとり佇む

なんて悲しいやつだろう
なんて愛しいやつだろう
どんなによるべのない朝も
僕だけは僕の隣で
目をこらして 
暁の光を
見つめてやろうと思うんだ

いつかこの身が朽ち果てて
夜の帳が下りるまで

どこまでも灰色な

※イラスト:Picrew五百式立ち絵メーカー様で作成した画像に文字入れさせていただきました。

どこまでも灰色な

どこまでも曖昧で灰色な僕らの物語

  • 小説
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-02-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted