戦争と鯉子の革命 第一部
戦争と鯉子の革命 第一部
1️⃣~1️⃣8️⃣ 全文
1️⃣ 絲
某所では、路上で通行人を無差別に襲撃する事件すらあったなどと報じられもしていた、異様な陽気のある年の盛夏。
半島の王朝を傀儡化したその国の軍事政権は、いよいよ、大陸の侵略にも乗り出していた。
そんな状況に感化されたのか、盆地の底に張りついた侘しいこの町の気候も異様な有り様で、気狂うばかりの蒸し暑さが一向に収まらず、嫌がる様に迎えた翌日。二間ばかりの鯉子の、トタン屋根に平屋の家である。
豊満な鯉子の膣や子宮を触診しながら、「あんたって娘は。仕方ないんだから。地主の旦那とは、いつ?」と、親子ほどの絲が、いかにも産婆の声色で聞いた。「わかるの?」「わかるわよ」「どうして?」「そりゃあ、見た通りの腕っこきの産婆だからさ」観念した鯉子が、「この前の日曜だわ」と、告白した。
絲が構わずに念を押す。「白とは?」「一昨日よ」「あんたったら。相変わらずなんだね」「だって。お腹のおっきいのがいいって言うんだもの」「誰が?」「どっちもよ」「まあ」「やっぱり、身体に悪いのかしら?」「教えた通りの姿勢で、激しくしなければ平気よ」「あんたのこれくらいの具合だったら、産道が開いて。かえっていいくらいのものだわ」「そうなの?」「鯉ちゃんの産道は、まだ、少しきついんだもの。せいぜい、気をつけて励みなさいな」「やっぱり難産になるのかしら?」
「地主は、未だ気づいてないのかい?」「すっかり、信じきってるわ」「あの男は骨の髄まで強欲なのに。その辺は、相も変わらずに間抜けなんだね」
鯉子がまとわりつく汗を拭いながら、「あの人とは幼馴染みだったんでしょ?」「近所だったからね」「子供の頃からあんな風だったの?」「何が?」「吝嗇が過ぎるとは思わない?」産婆が鯉子の裾を閉じながら、「鯉ちゃん?」「金持ちほどケチ臭いんだよ」「そうなの?貧乏暮らしばかりの私なんかは、到底、腑に落ちないことばかりなんだもの」「あの家はね。代々の名主で、ここら辺りの名家だからね。でも、暮らしぶりは清貧も清貧。玄一郎だって、私ら以上のツギハギで育ったものさ」「いちいち、何から何まで口うるさいんだもの」「でも、肝心が抜けたりするんだろ?」「そうだわね」「昔からそうだったんだよ。だから、あの年になっても平議員止まりなんだからね。普通なら、議長の役回りだわ、さ。とどのつまりは人徳が備わらなくっちゃ。金で買えないものは、この世には様々あるんだもの…」と、鯉子に目をやって、「あんただって…。あんな男と、売った買ったの浮き世だけど。どっちが賢いなんかは、藪の中、だろ?」「絲さんも、なの?」「あの男と、かい?」
2️⃣ 白という男
侘しい集落の外れの古びた一軒家である。鯉子が金主で地主の玄一郎からあてがわれた住まいは、北の北国山脈に向かって広がる、広大な里山の一隅である。椚や欅の林のただ中にあったから、この時節などは、朝も早くから日がな、蝉時雨が耐えないのである。山鳩や雉が住まい、林を少しばかり行けば、狸や狐の巣窟すらある。先方の事情があれば、時折は、北国山脈から熊だって顔を見せるのであった。
汗を拭き拭き、散々に幼馴染みの玄一郎をこき下ろしていた絲が、「自分の妾の子種も知らないなんてね」と、思わず知らずに言ってしまった。「子種?」と、聞き咎めた鯉子に、「だって、そうなんじゃないの?」「地主が何か言っているの?」鯉子の問いに絲は頭を振ったが、「あの頓馬が知らないのはあんたの男のことばかりじゃないわ。昔から小ずるい悪餓鬼で。今時では、軍事政府の、あの忌まわしい特務に、魂を売ったという話まで聞くけど…。鯉ちゃん?」「ん?」「先だっても、県都で、革命主義者の大がかりな逮捕があったでしょ?」と、最近の世情の際どい話題を振った絲だったが、鯉子の桃色の豊かな頬がひきつったのを、うっかり見逃してしまったのである。人生は機微に富んだ契機ばかりではないから、鯉子の様々な秘め事が明らかになるには、まだまだ紙数を重ねなければなるまい。
「それにしたって、あんな男だもの。特務だの間諜だのって言ったって。いずれは間が抜けた男だもの。鵺の様な国家権力、ましてや、南条などの狡猾な男が率いる軍事独裁なんて。玄一郎の手に負えるものじゃないのよ」「絲さんは南条総裁とも縁があるんだったわね?」鯉子の問いかけには答えずに、「こんなに狭い町の人間関係や事の本質なんて、あの男なんかには、知らないことばかりなんだもの」と、断定した。
真顔に戻った鯉子が、「絲さんも約束なんだから。あの事は、絶対に告げ口は駄目なのよ」「鯉ちゃん?あの事で私を疑うのは筋違いだよ。そりゃ、娘ほどに可愛いあんたのことだし。あの男には毛一本ほどの義理もあるわけじゃなし。あんたと固い約束をしたばかりは、私の口は闇夜の烏なのさ。一声だって啼きはしないんだよ」ありがたいわと、蝉時雨に包まれた鯉子が、豊かな首筋の大粒の汗を拭った
鯉子の産み月は間もなくである。中背だが、元来が豊満な鯉子の身体は、妊婦という言葉通り、何者かに手妻でも掛けられた按配に異様に変形していた。
そんな鯉子がある男と抱擁している現場に、絲は出くわしてしまったのである。つい、半月ばかり前の衝撃だった。母性ばかりだと思われる妊婦が、昼日中に女を露にしていたのだから、古稀を過ぎても未熟な筆者などには、描写のしようもないではないか。いずれにしても、鯉子はその白という男の正体を、絲ばかりには告白せざるを得なかったのである。しからば、白という半島人とは何者なのか。
3️⃣ 幼馴染み
その時、「あの男は白といって、半島の人なのよ」と、漸う、鯉子が口を開いたのであった。「私とは幼馴染みなの」
鯉子の父親は軍人で、その頃は半島の傀儡国の皇宮の警護をしていたから、鯉子は幼少の一時期を半島で育ったのだと、言うのである。後に、革命軍のテロにあった父親は、謀殺されてしまったのである。
母親と列島に戻った鯉子の苦難と呻吟は、並大抵のものではなかったに違いない。
引き上げた当初は、母親の実家、北の国の北国山脈の山腹の山里に身を寄せたが、そこにいたのは義兄夫婦ばかりであった。両親は、即ち鯉子の祖父母は病没していたが、後に、鯉子は、二人の死因は心中だったのだと、ある女から聞かされもした。
母と義兄は再婚した両親の、それぞれの連れ子であった。この二人の間には極めて露悪な、だが、古代のヤマトの、かのヒミコと弟帝の如くの秘密があったが、後に、血縁に関心を寄せて克明に調査した鯉子も、こればかりは知ることはなかったのである。
長い歴程を潜って、二人が再会したこの時、白は鯉子よりも二つ年上の三〇だった。端正だが、半島の奥地のある北方民族特有の憂いを浮かべた容貌で、痩身だ。
白は鯉子と別れた一四の辺りから、革命運動に心酔し熱狂して、この後に、玄一郎の陰謀で惨殺されるまでの若い生涯、身を賭したのである。
二人が再会したのは半年前だった。鯉子と白は北の国の雄都で、実に奇遇の有り様で邂逅したのだった。
「きっと、幼い時から、そうだったんじゃないの?」と、絲が意味ありげに言うのであった。「何の事?」「勿論、白の事だわ。この北の国もそうだったけど、半島だって。他人の土地を理不尽に侵略して。植民地にして。言葉は取り上げるは。名前を変えさせるは。御門神社を建立して遥拝を義務付けたり。散々に蹂躙して、この国との同一化を図ってきたんだもの…」「絲さんが言う、それは間違いないけど。それがどうかしたの?」「簡単だわ。だから、子供の遊びだって。この列島の風習を持ち込んだんじゃないの?」
「絲さんの、その意味が理解できないんだもの」「理解できないのは、鯉ちゃん?私なのよ?」鯉子の眉間に深い縦ジワが刻まれた。
「妊娠中のあんたと、あの白の振る舞いが、私にはどうしても腑に落ちないの。私の経験では、あなたは、もう、母性ばかりの聖母に化身している筈なんだもの。それが、あの日の痴態は、あからさまな女だったでしょ?過去にああした関係がなければ、あんな振る舞いが成立する筈もないでしょ?」「過去の?」
頷いた絲が、「子供の頃に、白と危険な遊びをしなかった?」「危険な?」「そうよ」「絲さん?私の秘密を問い詰めたいのね?」絲が頷いた。「あんなところを見られてしまったんだもの。絲さんの疑惑は当然だわ。だったら、きっぱりと尋問すればいいんだわ」二人の視線が格闘した。その視線をそらさずに、絲が「だったら。白とは、子供の頃からしていたんじゃないの?」と、言った。
やがて、鯉子が濃い吐息に続けて、「さすがに年の功だわ。絲さんのお見通しのそのままよ」「だったら?」「そうよ。白とは幼い日の遊びからの・。あんな関係なんだわ。でも、それは、白の。いいえ。白の、あの民族の風習だったんだもの」
4️⃣ カムタイ族
「白は半島の奥の奥の深奥、大陸に鋭い槍のように突き刺さった北方の、カムタイという少数民族なのよ」「カムタイ族?」「そう。誇り高き。稀に勇猛な狩猟の民なんだけど。交易にも長けていて。船も縦横に操って。古代には、この北の国とも交流があった、と。白が言っていたわ」「そうなの?」
「そればかりじゃないのよ」「ん?」「そんな土地柄でしょ?だから、半島や大陸との攻防も激しかったから、政治に敏感で。ある時期の半島の政治などには、深く関わったと、聞いたし…」
鯉子の語り口が、珍しく硬質を帯びて、「今だって…」と、絲に何事かを訴える風情で、「こんな時勢なんだもの」と、呟いた。こんな場面は幾度かあったから、絲も気には掛けてはいたが、絲には絲の別な思惑があったから、それ以上の話が進むことはなかったのである。
「絲さん?アブクマの乱は知ってる?」すると、絲の瞳が煌めいて、「鯉ちゃん?知るも何も。私は直系の子孫なのよ」「まあ。アブクマの?」「そうじゃないわ。イワキという人よ。イワキはアブクマの恋人だったのよ」「それって、『アブクマの儚』の話だわ」「鯉ちゃん?あなたも読んていたのね」鯉子が頷いて、「そればかりじゃないわ。その他の儚も連作も、みんな読んでいるもの」
絲は初めて鯉子と会った時の、不思議な感覚を反芻した。何故か、実に親しい、いわば、同じ血の匂いを嗅いだ感覚を覚えたのであった。
賢明な読者諸兄には、『アダタラの儚』は、拝読頂いていると確信するが、改めて粗筋をなぞると、ワ軍との戦いに敗れたアブクマはイワキを残して、さらに北に逃げ延びて、カムイと合流したのだが、この時にカムイの参謀だったオニという勇者が、カムタイ族だったと、鯉子が言うのであった。安達太良山の深奥に逃げ延びたイワキは、やがて、アブクマの子を産んだのである。絲は、この赤子の直系なのだと、言うのであった。
北の国の古代戦史を一通り話し終えると、「カム族には、幼児に性の特異な風習があって…」と、鯉子が改めて述懐し始めたのである。
だが、鯉子の告白が余りに衝撃だから、ここでは、古今の希書、『性世界博物大事典』の記述を引用しよう。
『カムタイ族の幼夫遊妻』
半島北方辺鄙の少数民族のカムタイ族は、原初の民族の一つと考えられており、とりわけ、特殊な性の風習が様々あるが、幼児期のある習俗を、「幼夫遊妻」という。幼児期に性交をする儀式である。原則は許嫁だけが行う。来歴は皆目不明だが、他民族の侵略から女子を護り、幼少時から束縛して子孫を絶やさない為の知恵だったという説もある。今日のカムタイ族の伝承には、『カムイとピリカの儚』という叙事詩があり、敵方に奪われた絶世の美少女、ピリカの故事から発生したという説も有力である。この説を踏まえて書かれた、『カムタイの儚』(作者不詳)はベストセラーになった。
(性世界博物大事典)
絲が、「だったら、あなたたちは許嫁だったの?」「白は、そう言ったわ」「あなたは?」「それが。すっかり、覚えていないの」「幾つだったの?」「八つだったのよ」「白は?」「十よ」「どうして?」「あの頃の父が、半島の皇宮の護衛軍の幹部で。白の父親は半島人だったけれど、現地応召の軍人で。父の優秀な部下だったの。家も近かったし」
絲が黙りこんだ。「絲さん?どうしたの?」絲は答えない。「だったら?絲さんも?そう、だったの?」「あなたとは余りに似ているんだもの。不可思議でならないわ」「私もそんな気がしていたのよ」と、鯉子が、「だって。母親はあれから直に死んでしまったんだけど。絲さんと初めてあったあの時に、母親の面影を、余りにも感じたんだもの」
「列島に帰ったのは」「十よ」「その間、白とは?」鯉子がぼんやりと頷いた。「ずうっと?」鯉子が、やはり、曖昧に頷いた。だから、絲も沈黙すると、うって変わって、耳にまとわりつくばかりの蝉時雨が、二人に降り注いでいるのであった。
5️⃣ 満月の狸
その蝉時雨に紛れて、「そうよ。この子の父親は、地主でも、白でもないわ」と、鯉子が思わず知らず、幽玄な宣告の如くに呟いたのであった。
その、突然に現れて、謎に満ちた声音に耳を疑った絲が、「鯉ちゃん?今、何て言ったの?」「ん?」「何て言ったの?」「私が?」「確かに、言ったわ」
それでも鯉子の表情は変わらずに、「何て、言ったのかしら?」などと、一向に埒があかないのである。
絲は、鯉子には、里山の奥に棲むというあの古狸が悪さを始めたのかと、ふと疑ってみたりもした。
狸と言えば、それにしても、と、絲は無限に連鎖する蝉時雨の呪文に惑わされたのか、ある幻想に似たあの一夜を思い起こしてしまうのであった。
絲が一八だったから、あの地主の玄一郎が一五の、蒸し暑さが収まらない盆踊りの夜だった。踊りの輪から抜け出した二人は、黄金に波打つ稲穂の小道を、大川に向けて歩いていた。
この夜の月は満々と満ち足りて、黄金の兎が餅をついていると、玄一郎が初めて、一度ばかり、詩人の真似事を言ったりしたのである。
絲も玄一郎も、だいぶ離れた街の中学の寄宿舎暮らしだったが、夏休みで帰省していて、踊りの輪の中で、三年ぶりに、いかにも偶然に再会したのだった。
絲は、こんな怪しい満月の夜にばかり出没するという、里山の奥の主の古狸の昔語りを、神女カンメだった祖母から聞いていた。
その古狸は、谷を隔てた古狐と人化かしの技を、日頃から競っていて、満月の、とりわけ、盆の満月の夜などは、勝負の決戦場だと言うのであった。
一向に無口な玄一郎を尻目に、いったい、あの狸の寿命は幾つなのかしらなどと、絲は思ったりしていたし、或いは、突然に踊りの輪に現れたこの玄一郎こそが、あの狸か狐の化け損ないではないかと、疑ったりもしたのである。だから、この夜のこれから、幼馴染みに過ぎないと絲が言う二人の間に、何事があったのか。いかにも無粋な筆者などは知る由もないではないか。この寓話の行く末によっては、或いは、絲の秘密も明らかになるかも知れないが、それもこれも、絲自身が自ら述懐しなければ、朴念仁の筆者などの手には負えないのである。
すると、絲の真昼の妄想に紛れ込んで、「本当に覚えはないんだけど。何か、聞こえてしまったかしら?」と、鯉子が些かも悪びれずに言った。
「鯉ちゃん?そりゃあ、こんなにもけたたましい蝉時雨だけど。あなた?私を幾つだと思って?みんな、絲産婆なんて。知らぬ人が聞いたら、さぞかしの婆の如くの物言いだけど」絲は汗を拭って、「これでも、未だ五〇には幾つも間があるのよ。耳だって、里山の山鳩の声音の違いだって聞き分けるぐらいなんだもの」と、笑って、「鯉ちゃん?あなただって、やがては踏む道だけど。四十、五十なんて、女盛りも、真っ盛りなのよ」と、言うのであった。
勿論、鯉子は承知している。絲は鯉子の母親ほどの齢なのだが、病弱で、早くに病没した母親とは違って、絲はそもそもが豊満な上に、歴程が獲得した豊潤な女盛りの姿態に、いかにも妖し気な色香を漂わせていた。だから、母に寄せた思慕というのではなく、むしろ、存在はしなかった姉というものに感じるが如くの思いを、鯉子は抱いていたのであった。だから、「知ってるわよ。私だって、やがては、絲さんほどの女になりたいと、常々、精進しているんだもの」」と、鯉子は言うのであった。
6️⃣ 張革世
「鯉ちゃん?すると、お腹の子供の父親は白じゃないと言うのね?」と、未だ半信半疑の面持ちで、真偽を確かめようとする絲に、「違うわ」と、鯉子は顔色一つ変えないのである。
「勿論、玄一郎でもないんだわね?」何故、絲が、既に分かりきっているそんなことに拘泥するのか。ふと、ある疑念が鯉子の脳裏をよぎったが、鯉子は頭を振りながら、「違うわ」と、侮蔑の声音を吐き捨てた。
「だったら?」「そうよ。この子の父親は、張革世という男なんだもの」「張?半島の人なの?」「違うわ。大陸の人よ。名は革世。私の夫。愛しい革命家。永久に愛しい人。張革世だわ。この国の名は張本草世だわ」と、この時、甘い香りで言葉を装飾する鯉子を、絲は初めて知った。それは、豊満な身体から色香を放っていた女とはうって変わって、純粋なばかりに屹立する、人間としての鯉子であった。
「あの人は大陸の北方の人で、伝統と栄誉の誉れ高い、張一族の末裔だと聞いたわ。張家は古代の一時期は、大陸を支配して統治した名家なのよ」
「その張さんは、今はどこにいるの?」と、探索を急ぐ絲の詰問に、矢庭に表情を曇らせた鯉子が、「あの人は、この国の特別警察の取り調べ中に、死んだんだわ」「いいえ。殺されたのよ」「惨殺、いいえ。謀殺されたんだわ」悲痛な鯉子の叫びが蝉時雨を切り裂いたから、絲は息を呑んだ。
「張はこの国の大陸の侵略に抗うばかりか、半島の独立闘争を支援する国際組織の活動家だったんだわ。それに、この国の軍事政権転覆にも関わっていたのよ」「自国の闘いばかりじゃない。反帝国主義闘争の闘志だったの」鯉子の告白は驚きの連続だったから、絲は汗すら冷える如くなのである。
「去年の夏に、首府で御門の襲撃事件があったでしょ?」「そうだったわね」「あの事件にも関わっていて、やがて、この国の特務からも追われる身になってしまったんだわ」
ここで、この当時の情勢を簡潔に示しておこう。
この国が理不尽に半島を侵略して以来、国境を接する大陸の王朝は危機感を抱いていたから、軍事体制を強化すると共に、祖国防衛の一大国民運動を提唱していた。そこで、彷彿と組織されたのが『祖国防衛民族統一同盟』(民統)である。張革世は若くしてこの戦いに参画して、民統の幹部になって行くのである。
「鯉ちゃん?張さんとは、どの様にして知り合ったの?」「絲さん?知りたい?」「聞きたいわ」「それでもいいけど。驚くわよ?」「私達の話は、ここまで辿り着いてしまったんだもの。あなたのことは、一切を知りたくなってしまったの」「私だって絲さんを信頼はしているし。でも、私が話すのは、私の魂の奥深い、未だ、誰にも明かしたことのない秘密なんだから…」と、鯉子は、「絲さんにも、覚悟と約束をして欲しいわ」と、瞳を尖らせるから、「鯉ちゃんのいいぶりはもっともだわ。私が何を契ればいいの?」「これからは、私の全てをあからさまにするんだから。絲さんの心底も、洗いざらい明らかにして欲しいんだわ」
「鯉ちゃん?私の何が知りたいの?」「絲さんと地主の本当の関係だわ」と、鯉子の端的なもの言いに、絲の容貌が、一瞬、ひきつった。この娘は何を、どこまで疑っているんだろう。今までに、不審を与える隙などは見せた覚えはないのにと、反芻しながらいると、「絲さんも、真実を必ず告白してくれるでしょ?」と、鯉子の声音がキリリと追ってきたから、ひとしきり、蝉時雨を聞いた絲も、きっぱりと頷いたのであった。
やがて、鯉子が、「張は私の父親を殺したのよ」と、切り出すと、絲の顔色がすっかり変わってしまった。「しかも、私と母親の目の前で、だったわ」
7️⃣ 怨恨
蝉時雨が暫く二人の沈黙を包んでいた。絲は息を呑んだままで、鯉子が最後に放った言葉を反芻しながら、その言霊の真相を探りあぐねて、鯉子を凝視していた。だが、その鯉子は、今の今までの鯉子とは忽ちの内に豹変してしまっていて、この盛夏の大気に、冷厳な宣下の如くに佇んでいるのであった。
「鯉ちゃん?」と、漸く、掠れ果てた絲の声が現れて、「あんまり、驚いてしまって」と、繋ぐ。鯉子が、「ごめんなさい」と、僅かに頭を下げた。
そして、「あの半島の都の。私の家。夏の盛りの。やっぱり、こんな日だったわ」と、鯉子が途切れ途切れに述懐を始めるのであった。
「前の日から急に蒸し暑くて。気狂う程に異様だったわ」と、話しながら、鯉子はどこか遠くに視線を追いやっていた。
「いつになく、と、言うより。あんな夜は初めてだった気がする。寝苦しくて。目覚めているのか。酷く悪い夢の中をさ迷っているのか。朦朧としていたんだわ」
「私は一二だった。早熟だったから。もう、女になっていたわ」
そして、「あの瞬間のことは話したくない」と、鯉子は口をつぐんだ。すると、改めて、蝉時雨の舞台に暗転して、絲は我に返った。
自分もこの歳まで幾つかの衝撃や事件と出会ったし、むしろ、呻吟の人生だったのかもしれないが、この、見た限りは豊満な身体を得て、妖艶な笑みが極め付きのこの女に、こんなにも陰惨な過去が秘められていたとはと、絲は寒々とした感慨に襲われるのであった。
確かに、自分にも、先程は鯉子と契ったばかりだが、それでも話せない秘密があるのだし。絲はそういうことを思ったりもしたが、それにしても、今すぐにでも、眼前のこの女を抱き締めてやりたい程のいとおしい気分なのだが。そんな意に相違して、焦点の合わない視線を、窓の遥か彼方の北国山脈の峰峰に、茫茫と投げているのであった。
そして、ついに絲が口火を切った。「犯人と知っていて、張と?そうなったの?」「違うわ。あの時は犯人達は目隠しをしていて、一言も喋らずに。私達だって、すぐに目隠しをされて、縛り付けられたんだもの」「だったら?」「そうよ。何も見ていなかったわ。深夜の闇の中で父親は死んだけど。まるで、半島や大陸の怨念の漆黒に引きずり込まれる様に。何だか、それが自然だと思えるばかりに。父親は殺されてしまったんだわ。だからかしら。一抹の悲哀も湧かなかったんだもの。気味が悪いほどに、不可思議な感覚だったわ」
「その頃は、私は、もう、あの半島の侵略の事実も知っていたし。現地の半島の民族の怨念や怒り、呻吟や哀切も知っていたから。彼らの苦悩の根源、軍事占領、植民地化ばかりか、自分の軍務を豪も疑わない父親を、密かに嫌悪していたんだわ」「それは、母親がそうだったの。父親は元々が職業軍人だったんだけと。私が物心ついた時分には、母親はその職ばかりか、父親を嫌悪していたんだわ」
鯉子が父親に抱いていた感情は、まんざら間違いではなかった。この事件の捜査は軍が担って、結局は迷宮となったのだが、ある特務も極秘に暗躍していたのである。ここに、その特務の捜査資料があるので、要約を公開しよう。
8️⃣ 秘密
《特務機関捜査報告資料の一部・極秘》
半島国の皇宮警護隊某中尉の謀殺事案の真犯人は未だに未解決だが、某は国軍急進改革派の要注意人物であることは、既に周知の事実であり、現職への降格も、過日の『国軍内部抗争事件』の関与を処断しての人事だったが、今般、当職の調査の結果、新たに、某は民自党反主流K元幹事長が関与する『M機関』の秘密要員でもあることが判明した。K及びMは、我が国及び半島国の極秘利権を侵蝕した反国家、反御門である。
某は、とりわけ、隠匿国家資金の極秘情報をK及びMに流出させた間諜であり、某の暗躍によって我が国の膨大な資金が横領簒奪されたのであって、某がその見返り報酬として多額の還流資金を私した事実が、当職の捜査により判明したところから、某は国家反逆の徒である。
また、Kは大陸国と内通して御門国家方針に大逆していることから、以上指摘した諸点に、某謀殺の複雑な動機の存在が思慮される。
また、私怨の動機も考慮し、某の身辺調査の結果、某の関係者H女の同時期の死亡が確認されているが、諸般の判断から捜査は半島国警察の担務であり、尚捜査継続中である。
鯉子の父親は、この調査報告でも某としか記されていない。御門国家に反逆した者に対する体制の指弾なのだろうか。筆者も、未だに名前を明かさないが、それは全く異なる事由による。
さて、この父親の秘密を具体的に実証できる証拠はないものだろうか。
父親は、民自党反主流K元幹事長が関与する『M機関』の秘密要員で、多額の還流資金を私した国家反逆の徒と断罪されたのだから、私財はもとより、隠匿財産まで徹底して捜索されただろう。調査は妻の蝶にまで及んだ筈だ。だが、その蝶は、一切を他言せずに死んだのであった。
また、報告書には、『私怨の動機も考慮し、某の身辺調査の結果、某の関係者H女の同時期の死亡が確認されているが、諸般の判断から捜査は半島国警察の担務であり、尚捜査継続中である』と、ある。
この半島国警察の捜査結果にも、筆者などは大いに関心を抱くのである。
ただ、現時点では、いずれも、手がかりすらないのである。
そこで、ふと、思いが至った。読者諸兄は、『平凡な死』を拝読頂いただろうか。あの登場人物の一人が、同時代に、半島や大陸で暗躍し、戦後は持ち帰った秘密資金で与党再建に寄与し、以後もフィクサーとして隠然たる力を誇示した『K機関』に属していた男なのであった。この男なら、何らかの証言を得ることが、或いは、あるかも知れないのである。
(続く)
🎆『平凡な死』の一節
『柴萬と磐城の儚』や『原発の女』『原発の儚』の舞台であるF町に隣接するT市の、ある地区の復興事業の為に建られた小さな現場事務所に、男と女は市から詰めているのである。市の職員は二人きりだ。もう三月になる。
男は四十半ば。つい半年前に入庁したばかりだ。男の経歴は誰も知らない。それは取り立ててて珍しくはなかった。あの戦争の敗戦から五年しかたっていない。すべての者の過去は不明確であったから、敢えて詮索しようとする風もなかったのである。女も人並みの関心はあったが、触れるのを憚ったのである。
男は石川という。長身で痩躯である。寡黙というほどではないが、何処となく無頼な暗い影を漂わせている。女は、この男もあの戦争と深く関わってしまったのだと思った。
男は戦前から国家主義思想のある団体の構成員である。この組織の実態は、未だに皆目、明らかではない。
この組織から別れた一団は、戦争中は「コダマ機関」と呼ばれて、半島や大陸で諜報活動で暗躍した。戦後は収集した膨大な情報と引き換えに懲罰を免れる密約を解放軍と交わした。その上で保守政権に近づき、暗躍し続けているのである。
最近も、世情を揺るがす程のある事件に関与した男は、当初に計画した通りに、暫くは潜伏しなければならないのだ。ある国会議員の口利きで、この市の嘱託職員に採用されたのである。
とは言っても、恥ずかしいばかりだが、古希を越えた筆者には時間がない。推理の出来を競っている余裕などはないのである。賢明な諸君は『絹枝の魔性』を既に読まれただろう。
そう、戦後間もなくの北の国で起きた国有鉄道の大脱線事件、あの松山事件の実行首謀者がこの男なのである。お分かりか。従って、この短編は、だから、独立した一編ではないのである。れっきとして『儚』の連作に位置を占める綺談なのだ。そうと確認を頂ければ、さて、筆を進めようではないか。
9️⃣ 蝶
そもそも、間もなく七二にならんとする筆者が、この綺談の執筆に固執する所以は何か。
それは、是非に、この国の御門制の禁忌を暴きたいがためだ。その事をもってしか、この国の人民に未来はないと、確信するからである。
この寓話で、この国の半島侵略の醜悪な歴史を糾弾するためには、鯉子の父親の謀殺事件の実相を徹底して暴いて、具体的に立証しなければならないのである。
その為には、夫の殺害の現場に居合わせた鯉子の母親、この女の秘密を、当然に書かなければならないだろう。
だが、彼女は疑念の全てを自身に封じて逝ってしまったのであった。では、彼女の秘密が明らかにならなければ、この綺談に大いなる欠落さえ生じるのだろうか。とりあえずは、彼女の客観を書き留めてみよう。
鯉子の母は蝶といった。北の国の北国山脈の山麓の女だ。
長じて、同じ集落の出の男と夫婦になったが、男は軍人だったから、列島の北辺の幾つかの任地を経た後に、半島に渡った。夫が半島の皇室の警護に着任したからである。この時、二人には六歳になる娘の鯉子があった。
蝶の両親が再婚同士であり、互いに連れ子があったことは既に書いたが、その時分に十歳だった蝶は母親の連れ子だった。
二歳上の義兄や夫になった男と、北の国の狭い山間で、どんな幼少時を体験したのかは、未だ明らかではない。
筆者は、ヤマト朝廷の原型になったヒミコと弟帝の綺談を幾度か書いたが、この三人にもその類いの綺談が存在したのだろうか。
それとも、仮にあったとしても、相次ぐ死によって、儚い夢の如くに跡形もなく消滅してしまうのか。
だが、読者諸兄よ。ただ、この時節には、『儚』の連作の主人公達が、この辺りを漂流、跋扈していたのである。草也や類、紀世達である。果たして、彼らと蝶の邂逅はなかったのか。
いずれにしても、蝶と男は人並みにか、或いは、ある神秘な恋愛の物語を創って婚姻したのであろう。だが、かの調書にも明らかな如く、戦争が男を豹変させてしまった。
母親は純真な人だったと、鯉子が言っているから、夫の変身を悟った蝶の衝撃はいかばかりだったか。そして、蝶が夫の堕落に比例して化学反応をすることはなかったのか。あの事件の夜の二人の関係を蝕んでいたのは、いかなる心理状況だったのか。
疑念は更に残るのである。眼前で夫を殺害されながら、蝶は何故、無傷だったのか。
当局の調書には、「夫人の陳述によれば、賊は数名だと思うが、覆面をして、私も、娘は別室で、直ちに顔と口を覆われ、縛られたので、一切を知らない。私を襲った賊は一人で、一言も発しなかったから、列島、半島、大陸の何れの者かすら判然とはしない。また、直接の犯行は夫の寝室で決行されたために、物音一つすら聞いていない。また、彼らが、いつ、立ち去ったのかさえ判然とはしない。発見されたのは四時間も経た朝方で、賄いに来た通いの下女によってであった」と、こうあるばかりだったのである。
この事件の後に、蝶は実家に戻って義兄と再会したが、二年も経ずに病死してしまうのであった。
読者諸兄よ。筆者はここで、ある報告に迫られている。
こうして著述を進めていた筆者の元に、過日、ある手記が届いたのである。
差出人は蝶の義兄の妻の孫だ。この孫の女性は、今や天涯孤独であるが、あの『儚』の連作の翔子の農場の住民であった。
では、直ちにこの書簡をこの場に明らかにするのか。それは、些か憚られるのである。その内容があまりに大胆で、そのままに転記する心積もりが、筆者には未だ備わっていない。
記載の事象も、義兄の妻の一方的な聞き語りである可能性が濃いのだから、真偽の確認の方途がない。
だが、いよいよ迫られれば、やがては公開の機会があるやも知れない。
1️⃣0️⃣ 匂い
さて、鯉子の過去の秘密である。父親が謀殺されるという衝撃の事件の際に、彼女が抱いていた父親に対する心象風景は、既に鯉子自身が述べた。
特務当局の捜査資料でも、父親の虚実の大まかも明らかになっている。
そうであるなら、妻であった蝶などは、どの様な感慨で夫を捉えていたのか。母親の態度から、父親への失望や嫌悪が鯉子に伝播したくらいだから、夫婦の関係は険悪なばかりか、或いは、実に危険な状況だったのかも知れない。
筆者などは、日常に芽生えた些細な非日常が、往往にして、陰惨な綺談の遠因ではないかと、思えてならない。
それに、この疑問に関しては、鯉子が実に不可解な一言を、絲に漏らしてもいるのである。
「確かに嗅いだ気がしたんだけど…」「何を嗅いだの?」「でも、あの夜にみた悪夢の続編だったのかも知れないし」「鯉ちゃん?どんな些細でも話して頂戴?」「絲さんたら。まるで、探偵みたいだわ」「鯉ちゃん。綺談に探偵は付き物なのよ」「そうなの?」「江戸川乱歩大先生だって、ご覧なさいな」「あら?本当だわ。あの方は綺談から出発して、探偵小説の大家になったんだわ」「聡明、理知の探偵が登場しているでしょ?」「そうだわね」「私だって、そう簡単に、見劣りはしないわよ」
鯉子が、その事件の日の記憶を克明に話し始めた。「絲さん?夢で匂いを感じたことは?」「匂い?」「そう。ある?」「どうだったかしら。でも、それがどうかしたの?」「あの時、同じ匂いを嗅いだ気がしたの」「どういうこと?」
「事件のあったあの日だわ。あの日、珍しく、長いこと出掛けていた母親が、夕方に戻ったら。身体からいい匂いがしたの。初めて嗅ぐ匂いだったわ」「そしたら、これは、半島には珍しい、ピリカンカという、毒草の花の香りなのよ、って言ったわ」「ピリカンカ?」「そう。強烈な香りだわ」「どんな?」「そうね。例えばキタノドクバナ。知ってるでしょ?」絲が頷いて、「列島でも、この北の国。それも、あの北国山脈の剣山の山麓にしか生えないという…」「そうよ。伝承のピリカが、攻め込んできた敵のヤマトの…」「手負いの若武者を助けたんだよ」「そう。あの唄?絲さんは歌える?」「お祖母さんに仕込まれたからね」「だったら?
お祖母さんは?」「そうよ。剣山の神女だったんだよ」
ーピリカの唄ー
ピリカピリカピリカ
火の娘ピリカ
神の娘ピリカ
部族一の器量よし
働き者で優しい娘
それだけで幸せなのに
それだけだったら幸せなのに
敵の傷ついた若者を匿った女ピリカ
裏切り者の女
悲しさに目覚めた女
里に帰れずに黒百合になった娘ピリカ
朝露はピリカの夢の涙
ピリカピリカ風が渡るよ
戦だ戦だ血の臭い
ピリカピリカまた若者が傷ついている
ピリカピリカ
ピリカピリカ
「そうよ。キタノドクバナ。あの香りに似ているわ。あれも強力だけど。半島のピリカンカは二倍くらい強い香りなの」「それで?」「その夜半は異様に蒸し暑くて。眠れなくてうつらうつら。そしたら、次々に夢をみて。うなされたり。その時に、また、ピリカンカの匂いを嗅いだの」「夢なんでしょ?」鯉子が頷いた。「絲さんは?夢で匂いを嗅いだことは、ある?」だが、絲にはそんな記憶はなかった。
しかし、と、著者は異議を挟まざるを得ない。夢は、所詮は夢なのであって、覚醒した途端には、直ちに消え去ってしまうではないか。だからこその儚なのだから、果たして、絲が鯉子に似た夢を見ていたとしても、記憶に留まっていないことこそが、事実に近いのではないか。
1️⃣1️⃣ キタノクロキツネ
「そんな得体も知れない夢を漂っている間に。その男に。私は目隠しと猿ぐつわをされて。縛られたの」「その時に、夢の匂いがしたんだわ」「ピリカンカね?」鯉子が頷いた。「父親も母親も別な部屋にいたから。私があの事件で知っていたのは、あのピリカンカの香りだけだったの。でも…」「ん?」「それが、本当に現だったのか。或いは、私は、未だ、夢の続きを見ていたばかりなのか。いっこうに、一つも判然としないんだもの」
「鯉ちゃん?その話は誰かにした?」「誰にもしなかったわ」「警察にも?」「一切、しなかったわ。だって、取り立てて、特別には聞かれなかったんだもの。でも、聞かれても、決して、話しはしなかったと思うわ」「どうして?」「決して漏らしてはならない、母親の秘密のような気がしたんだもの。母と父。あの頃の二人はいさかいが絶えなかったんだわ。だから、あの日に限って、怪しい香りを宿して帰った母親の、誰にも話してはならない秘密の様な思いがしたの」
「だって。あの頃、父親が急に贅沢になって。私にも、何でも買ってくれたの。急な変化だったから不思議だった。母親に聞いたら、出世したのよ、って。一言ばかりで。でも、本当に悲しそうな面持ちだったんだわ」
そうして、鯉子は記憶の彼方に迷い込んだ如くに沈黙してしまった。一人で蝉時雨を聞いているしかなかった絲だったが、何事があったのか、一斉に蝉時雨が止んで、むしろ不気味な沈黙に変化すると、やがて、耐えきれずに、「鯉ちゃん?」と、呼び掛け、「張…。張さんとは?」と、曖昧に質した。「あの人?」「そう」「張に会ったのは不思議な出来事だったわ」「それで?」「でも、今は未だ、話したくないわ。」「どうして?「だって。このお腹の子と一緒に。私達は、三人が一つの秘密なんだもの。話したら、分離してしまうでしょ?直に出産するんだもの。そしたら…」
勇んでいた絲は、だから、この時のこの話はこれで終わるのかなと、諦めたのだった。
すると、蒸し暑い真昼の沈黙を、獣の叫び声が切り裂いたのである。直に、別な鳴き声が木霊した。
「狸なの?」「狐だわ。キタノクロキツネよ」と、絲が改めると、「キタノクロキツネ?」「そう。キタノアカヘビを退治する天敵なのよ」「北の山の正義みたいね?」「だって、キタノアカヘビはヤマトの軍が、私達を殺める兵器として持ち込んだんだもの。キタノクロキツネは、私達の守り神なんだわ」「守り神?」「そうよ。鯉ちゃんも守ってくれるわよ」「あの声は夫婦なのかしら?今、出会ったばかりなのかしら?」と、言い終えた鯉子に、再び、三度、木霊が届くと、如何なる心理の変化が襲ったのか、鯉子が話し始めたのであった。
英明な読者諸兄よ。あの『ピリカの儚』は拝読頂いただろうか。
風子という女がいた。キタノアカヘビに見入られた程の魔性であったが、天敵のキタノクロキツネを神として祀って、風子の始祖と対立したのが絲の先祖であった。だから、神女だった絲の祖母はキタノアカヘビの唄も歌ったのである。
《キタノアカヘビの唄》
ヨーイ、ヨーイ、ヨーイ
オニサ、神の子
朱蛇、神の子
ホーイ、ホーイ
風動け、雨動け、山動け
ヨーイ、ヨーイ
朱蛇出れば山騒ぐ
朱蛇出れば山動く
朱蛇出れば山祭り
ホーイ、ホーイ
熊、鹿、猪も敵わない
カムイも敵わない
ヨーイ、ヨーイ
ホーイ、ホーイ、ホーイ
オニサ来い、オニサ来い
ホーイ、ホーイ、ホーイ
1️⃣2️⃣ 行水
ついに、鯉子が、「あの人は革命家になっていたの」と、秘密の真相を切り出した。「革命家?」「そうよ。革命家だわ。だって、この国が半島を侵略して、併合して。植民地に
してしまったでしょ?」
「鯉ちゃん?滅多なことは…」「あら?絲さんたら、可笑しいわ。禁句だとでも言うのかしら?」「そんなつもりはないんだけど…。狭い集落だからね。ここだけなら何ともないけど。人の口にはなんとやら、だからね」「構うもんですか。私が言うのは事実なんだもの。それに、私だって、滅多には口走らないわ。絲さんだからだわ」「だから、そんなつもりじゃないのよ」
「だって。絲さん?併合なんて、曖昧なもの言いは、この国の常だけど。半島の現実は、そんなに生易しいものじゃないのよ」「鯉ちゃんは半島にいたんだものね?」鯉子は頷きながら、絲に目を据えて、「そうだし。絲さんの旦那さんだって、半島で戦死したんでしょ?」と、言った。
茫茫と頷く絲に、「半島で為したこの国の卑劣な暴挙、旦那さんだって必ず知った筈だから。きっと、軍人だった自分が無念だったに違いないわ」
絲が緩慢に、だが、同意したかに見えた。「だって、半島の言葉は取り上げるし。名前を変えさせて。御門神社を、無理矢理、遥拝させるのよ。徴用だって、慰安婦だって。やりたい放題。白だって、どれ程、悔しがっていたことか…」「北の国も、ヤマトから似たような仕打ちを受けたんだわ」と、絲が同意したから、鯉子は安堵した。
それでも、ふと、鯉子の声音が変わって、「それとも、絲さんは?」「鯉ちゃん。それ以上は無しだよ。仮にも、私の始祖は御門軍と戦った、カムイの三番弓と言われた勇者なんだよ。御門なんかに怨嗟はあっても、恭順の微塵もないのさ」
すると、そんな絲の弁舌を聞きながら、鯉子の脳裡を、突然に、あの玄一郎の醜悪な顔が過った。この人とあの人は幼馴染みだったんだわと、思うまもなく、入れ替わりに白が現れて、何か言いたげなのである。
鯉子は頭を振ると、相変わらず、眼前に端座していた絲に、「それに、絲さんは、オニ神社の神女なんだものね」と、言った。
「あの人は大陸の人で。この国の侵略に抗って、立ち上がった英傑なんだわ。半島やこの国にも仲間がいて。革命の工作をしていたんだけど。あの人は、常に官憲から追われていたわ」
「どこで、出会ったの?」「北国の雄都で働いていた私とあの人は、そんな魔法のような場面で再会したんだわ。でも、再会といっても、それは後で気付いたことで。その時は乙女心を揺るがすばかりの、衝撃の事件の対面だったんだもの。咄嗟の機転で、私が彼を助けて…」「機転?」「知りたい?」「鯉ちゃん?是非に聞かせて?」
こうして、鯉子の秘密が次々とあからさまになっていくのであった。
「丁度、こんなに蒸し暑い、去年の、真夏の昼下がりだったわ。店が休みだった私は、借家の小さな庭の井戸で、行水をしていたんだわ」「すると、その板塀の木戸から、あの人が飛び込んできたの」「戦争に反対して、貧しい人民を救う革命家だ。特務に追われている。助けてくれ、って。あんなに簡潔、端的な物言いは聞いたことがなかった。低い声が私の身体を貫いたの」「訛りがあったから、半島って、聞いたら。大陸って。目が合うと、あの人のが青だったの。深い紺碧。まるで、異国の珠玉。あんな瞳も初めてだった。瞬間で、悪人じゃないと、直感したの」「だから、あの人を裸にして抱き合ったわ」絲が円らな目を、更に見開いた。
「勿論、私は行水の最中だったんだもの」絲が喉をならした。「どれくらいの時間がたったのか。結局、特務は来なかった。どこかで見失ったんだわ」「そして、彼は官憲から自由になって。私達は、それでも、抱き合っていたの。だから、その場で恋に落ちてしまったんだわ。そして、その日から一緒に住んだの」
1️⃣3️⃣ ピリカンカ
二人はささやかな暮らしで同衾した。だが、張は殆どを、極秘の運動で駆け巡っていて、不在の日々が多かった。しかし、革命戦士の生きざまを理解した鯉子は豪の不足も言わず、金銭でも支えたのであった。
そんな一月ばかりが、慌ただしく過ぎたある日。張がキタノドクバナの香りを、体にたっぷり醸して帰ったのである。
鯉子が質すと、ある店にたくさんの鉢植えが並んでいたと、言うのであった。
「北国山脈の深奥には、名前さえ明かさない漂流の民がいるそうじゃないか?」と、唐突に張が言う。その話は、鯉子も母から聞いて知ってはいた。
ヤマト軍に敗れたりした群像が、険しい山脈の深奥に分け入って命をしのいだと、いうのである。
「この北の国は『エミシ』と蔑まれて、ヤマトにまつろわぬ民として侵略を受けたけど、山脈のその人々は、最後まで、今でも、戦っているんだわ」「大陸にもそんな部族がいるんだ。今では革命戦線の優秀な戦士が大分いる」「半島には?」と、問う鯉子に、「半島の奥地、俺の国と境を接する辺りには、数部族がいる」と、張が答えた。鯉子は、白はその部族ではないかと、ふと、思った。
「どんな人だったの?」「女の店番が二人いたけど。この辺の者と、様子は何も変わらなかった」と、張が言った。
「北国山脈の人ではなかったのね?」鯉子の問いには答えずに、張は、「ピリカンカに似ているから好きな香りなんだ」と、言い、「買って帰ろうと迷ったが、余りに特異な匂いだから。君が嫌いだと困ると思ったんだ」とも、言うのであった。
その時、咄嗟に、あの事件の、あのビリカンカの匂いが、鯉子の脳裏を過ったのである。
自分でも驚愕した程に、突然に、鯉子の記憶の凍えていた岩盤が、瞬間に弛んだのである。歴程に亀裂が走って、記憶の暗澹な断片がしみ出してくるのであった。
そして、全く何の脈絡も根拠もないのに、あの時のあの男は、この張ではないかと、瞬時に疑ってしまったのであった。
それは、鯉子自身が信じられない、唐突な啓示だった。或いは、狂気に満ちた作家がいて、突然に黙示を得て、やみくもにありもしない綺談を書き出した如くの有り様だったのか。
鯉子の妄想は怪しい白昼夢の如くに脈絡もなく変転して、疑念は店の売り子に及んだ。そのキタノドクバナの売り子こそ、漂流の民が変じた革命戦士ではなかったのか。張とこの二人のいずれかが、或いは、二人と同時に抱擁して、匂いが伝播して共有したのではないか。
鯉子に、張に対して、初めての疑念と嫉妬が芽生えたのである。そして、それは、あの事件の母親の匂いや、挙動にまで翻るのであった。 だが、こうした鯉子の激烈な化学反応を、眼前の張は知る所以とて、寸分もありはしないのである。
「それで、どうなったの?」いつの間にか黙りこんで、蝉時雨の内の一匹に化身してしまった鯉子に耐えきれずに、「それで、どうなったの?」と、絲が、再び、探索したが、鯉子は頭を振って、「どうにもなる訳がないわ。私達は、いつもの様に、二人が大好きな『北の森の妙なる葡萄酒』の栓を外したんだもの」「どうして?って。絲探偵は、さらに探索をしたいんでしょ?簡単だわ。私が愛していたからだわ。私の愛は、闇雲な妄想などは撃ち抜くほどの、純真だったんだもの」
「そして、ある日。あの人はは、特務に、ついに逮捕されたの」首を振りながら、鯉子が、「私の家じゃないわ。張には隠れ家が幾つもあったんだもの」何かを言いたげな絲に、「他に女なんていなかったわよ。後で、特務の刑事から聞いたんだもの。これ程、確かな証拠はないでしょ?」「その刑事の名は?」「闇部だわ」
「一週間後に、特務警察から知らせがあったわ」「何て?」「あの人が死んだって…」絲が息を呑んだ。かける言葉などある訳もない。悲惨や悲痛に言葉などは、往往にして、全く用をなさないのである。思い詰めた絲は、鯉子の手を握るばかりだった。
1️⃣4️⃣ 闇部
その日、鯉子を待つS市警察の遺体安置所には、立会人が一人だけいた。五〇がらみの白髪の男が、特務の闇部だと名乗った。
それから、鯉子の狂乱はいかほど続いたのだろうか。
この女は狂い死にをしてしまうのではないか。闇部は様々な阿鼻叫喚を体験してきたが、これ程の修羅を見たのは、滅多になかった。
やがて、漸く、鯉子が泣き止んだ。
「張を殺したのは玄一郎という男だ」と、闇部が囁いた。 鯉子はその名前を、真っ白な歯で何度か噛んでいたが、「その人は、やはり、特務の刑事なんでしょ?」闇部は頭を振りながら、「確かに、取り調べたのは特務の我々だが、死んだのは就寝中の夜半だ。我々に落ち度はない」鯉子は答えようがない。すると、刑事が一枚の紙を差し出して、「死亡診断書だ。急性心不全とある」と、言って、「残念だった。お見舞いする」と、続けた。意外だったが、この男は、存外に誠実なのではないかと、鯉子は思ってしまったのであった。
意を決した面持ちで、闇部が、「密告者がいたんだ」と、囁く。「密告者?」「それが玄一郎なんだよ」この闇部の台詞は、鯉子にとって、謎の扉を開ける鍵だったのか、或いは、得たいの知れない薬物だったのか。
張と玄一郎の直接的な関係は全くなかったのである。だが、確かに、玄一郎は『体制翼賛協議会』の末端に所属する、B町の町会議員に過ぎなかったが、狂信的な御門国粋主義者であった。だから、半島や大陸の戦争政策に反対する国賊と非難される輩は、玄一郎にとっても許されざるべき敵対勢力だったのである
密告の脚本は闇部が書いた。玄一郎を、極めて巧妙で卑劣な罠にかけたのだ。その手口の詳細は、後に明らかにする機会があるかもしれないが、いずれにしても、特務として国家を背負う闇部の罠に、御門国粋主義者の玄一郎は、いとも容易くはまったのであった。
そして、この闇部という男の悪魔の囁きを、仇討ちの指針と思い込んだ鯉子は、身体を投げ出したのであった。
闇部とは、いったい、何者なのか。玄一郎の集落の隣村の出で、恋敵だったのである。二人は少年時代に絲を巡って争ったのである。
読者諸兄は、かの妖しいばかりの満月の夜に、盆踊りの輪を密かに抜け出した、絲と玄一郎が描かれた情景を思い起こしていただきたい。
あの頃、盆踊りの豊作を寿ぐ建て前の裏側には、夜這いなどの情欲の習俗が伏せられていたが、若人の性もその類いだったろう。
だから、あの夜に踊りの輪から闇に紛れ様としたのは、絲と玄一郎の二人切りではなかったのである。
隣村から、一夜の欲望の相方を漁りに出ていた者の一人が、あの闇部であった。
闇部は以前から絲に恋慕していたのであったが、同い年の玄一郎と闇に消える情景を目撃して錯乱したのである。闇部は訳も知らずに、二人の後についたのであった。
ここで、あの夜の絲と玄一郎の有り様を詳しく描写する意図は、古稀を過ぎた筆者には更々ない。ただ、元より早熟だった絲は一八にして、最早、豊満な女に変身しており、二つ年下の玄一郎も又、この暗鬱な世情で性にばかりしか関心を持ち得なかった。その絲が玄一郎を、あの幼い日の遊戯の秘密と同様に、大胆に導いたとだけ、言い置こう。だから、その痴情を目の当たりにした、玄一郎と同じ一六の闇部は逆上したのは、全く自然の摂理とも言うべきものだったろう。
二人は隣り合う集落のガキ大将で、しばしば合戦に及んでいた。闇部の集落は、ある流浪民の末裔だと流布されており、子供心に玄一郎も差別に及んでいたのである。勿論、闇部に許せる訳もない。幼い二人の確執の起因は、列島国と半島国の相剋と全く同じ図式だったのである。
1️⃣5️⃣ 絲の秘密
鯉子が玄一郎に近づくのは訳もなかった。闇部が脚本を書いて演出をし、すべてを闇部が差配したのである。そして、女がいったん決意を固めれば、男の本性の情欲を籠絡することなど、いかにも安直なのである。だから、長きに渡って、絲との不安定な関係に惑っていた玄一郎などは、一溜まりもなかった。
聖なる復讐のためには、鯉子は男どもが定めた貞操などという概念を、あっさりと振り払ったのであった。
鯉子の腹には張の分身、魂そのものが新しい肉体として芽生えて、確かに息づいているのである。最も愛する者に凌駕された肉体など、何程の意味があろうか。
鯉子は結婚して直に懐妊したが、玄一郎は自分の子種だと妄信していたから、鯉子が詐言を弄して言いくるめるまでもなく、鯉子の身体を、何くれとなく、実にいたわったのであった。当然に、鯉子は母体を理由に同衾を拒んだ。
だが、元来が好色な玄一郎は、暫くすると、鯉子の拒絶に耐えきれなくなっのか、日々の様子に変化が現れた。
妊婦への気遣いを示しながらも、鯉子の熟れた身体にあれほど執着していた玄一郎から、その様子がふっつりと消えてしまったのだ。
幾つか不審な挙動もあったから、女に違いないと、鯉子は疑ったが、その方が好都合ですらあった。だから、玄一郎の相手の容貌などは、さらさら詮索もしなかったのである。
では、玄一郎の相手は誰だったのか。
言うまでもなく、賢明な読者諸兄なら、既に、探偵はお済みだろう。明察の如く、それは絲であった。
絲は戦争寡婦だった。亡夫は半島侵略の端緒となった内乱鎮撫で、早くに戦死していた。
だが、既に明らかにした如く、若き日の絲には玄一郎との、あの盆踊りの満月の一夜があったではないか。確かに、幼馴染みの二人には、この時、着色した淡雪の恋心か、青い林檎に似た欲情か、いずれにしても、青春の異様が発酵していたのは事実だったのである。
仮に、これが初恋という出来事であったならば、初恋などは破綻するのが定理だとはいえ、しからば、この二人の場合は、何故、成就しなかったのか。或いは、狸の満月だと絲の祖母が言った、怪しい夜の出来事が基因なのか。
いずれにしても、この夜の後に、絲はある男と、いとも短絡に所帯を持ち、直に夫が戦死すると、子供すら残らなかった絲は、やがて、玄一郎と再会したのである。
絲が、「鯉ちゃん?妊娠を、いつ、知ったの?」と、自分に尋ねる声音で言った。「ん?」鯉子の反応に促されて、再び、「玄一郎と会った時には知っていたの?」と、質す絲に、鯉子が頭を振って、「知らなかったわ」と、あからさまな嘘で応えたが、絲がその声音を察知出来る筈もない。そればかりか、「絲探偵さんは酷くご執心なのね」などと、逆に絲を探索するのであった。
「玄一郎とは、どこで会ったの?」「県都で、勤め始めたばかりの割烹だわ」「客だったのね?」「その日の内に言い寄られたのよ」
「いつの頃だったの?」絲が怖ず怖ずと質すと、あの日はよく覚えているわ。首府で、御門の車列に爆裂段が投げ込まれた事件があったでしょ?あの犯人が拘束された、あの日のことだもの」
それでも、鯉子の記憶は曖昧だったのであった。車上にいたのは、腹違いの弟帝の北御門だった。手傷を負ったが大事はなかった。北御門は兄の戦争政策には反対で、北の国に相当な勢力があったから、狂信的な御門国粋主義者に襲撃されたのであった。だが、鯉子の思い違いに気づいた絲が、訂正を求めることはなかった。
ここまで書くと、賢明な読者諸兄は、あの『ビリカの儚』の最終章を想起されるだろう。主人公の男とピリカが、この事件を契機に、北御門と合流するために、揃って首府に向かう場面だ。
最早、お気付きであろう。従って、この短編も、かの『儚』の連作の異聞なのであった。
果たして、張は北御門と連携があったのである。張は列島国革命の壮大な絵図を書いていたから、この事件も、警察当局が逮捕した如く単純な国粋主義者の暴挙だっのか。一方で、張が特務に逮捕された真の容疑は、この事件に関わったというものであったから、真相は、いずれ、明らかにしなければならないだろう。
そして、絲もその日の自身の出来事は克明に記憶していた。幼かったあの日以来、初めて玄一郎に抱かれていたのであった。昼日中のその足で、玄一郎は鯉子の割烹に向かったのである。後に、鯉子と絲はある事件で邂逅して、絲が鯉子の産婆になるのだが、二人はこの時からの奇縁なのであった。
1️⃣6️⃣ 戦渦の群像
さて、この寓話の筋立ても、大分錯綜してきたから、読者諸兄の推理や探偵の一助を図るべく、この叙事詩に登場した群像の連関の、今日只今の状況を詳らかにしよう。
産み月に入った鯉子と玄一郎は同居している。父娘ほどに歳は隔たっていたから、親戚には反対も強かったが、勿論、正式な入籍を済ませた、れっきとした夫婦だ。
鯉子は妊娠を知りながら、結婚したのである。腹の子の父親を証明するのは鯉子ばかりなのだが、紛れもなく張だ。
特務の拷問で殺された張を密告したのは玄一郎だと、鯉子は信じて疑わないが、その悪魔の秘密を鯉子に囁いたのは、特務の刑事、張の取り調べを担当した闇部である。
この男は、『キタノアカヘビ』という猛毒の蛇の異名を持つ。この毒蛇は、古にヤマトの軍がエミシ掃討の武器として持ち込んだ、半島の白の民族の地にしか生息しない恐るべき赤蛇だが、今では北の国でもこの辺りにしか存在しないのである。
闇部は、「張は反御門の分子とはいえ、大陸を代表する革命家だ。北御門との友誼も噂されている。さる筋からのお達しもあったから、特務の取り調べに豪も落ち度はなかった。張は重い持病もあって、名医もつけた。長い拘禁が些かは災いはしたのかも知れないが。いずれは病死したのだから、怨むなら、密告した玄一郎だ。敵をとるなら手助けをしよう」と、言いくるめて鯉子を抱いた。そして、鯉子と玄一郎の遭遇を脚本したのである。
因みに、玄一郎に父母、兄弟はなく、資産は膨大だ。こうして、殺意を隠し持った妻と、その妻の出産を心待ちにする夫が、広大な屋敷で不条理で不可思議な同棲を始めたのである。
だが、果たして、闇部の言うが如くに、密告者は玄一郎なのか。
大陸や半島、列島ばかりでなく、世界を視野にした革命家と、地主とはいえ、寂れた集落の町会議員ばかりの男に、いかなる接点や利害が存在したというのだろうか。
絲と二歳下の玄一郎は幼馴染みで、よく遊んだ。どんな遊びだったのかは、読者諸兄の想像に委ねよう。
ただ、あの狸化かしの黄金の満月の夜に、久方ぶりに再開した二人は、盆踊りの輪を密かに抜け出して、闇に消えたのであった。
血たぎる青春の漂流の果ての、大川の河原で二人に何があったのか。
読者諸兄よ。その秘密の情景を、絲に横恋慕する、隣村の闇部が覗き見ていたのであった。そして、事態はそればかりだったのか。
やがて、絲はある男と結婚したが、あの夜の出来事に因縁はなかったのか。まだ、何一つ書かれてはいない。
絲が結婚して間もなく、夫は徴兵されて、半島の皇宮警備に配置された。間もなく夫は戦死したが、上官の一人は鯉子の父親であった。絲の夫と鯉子の父親に特別ないきさつはなかったのか。未だ、謎のままだ。
今現在、妊婦の鯉子の診察をしている産婆の絲は、玄一郎に抱かれているが、勿論、鯉子は知らない。絲と玄一郎の姦通は、いつからだったのか。
特務の闇部は、絲の現状をどこまで調査しているのか。
鯉子は幼馴染みの白と再会して、時折、情を交わしている。その訳は何なのか。
蝶の義兄の妻の孫から届いた手記が、筆者の元にある。いずれは開示する機会もあるのだろうか。
鯉子の父親と同じ時期に死んだある女の記載が、特務の捜査報告書にあったのを、読者諸兄はご記憶だろうか。この女と鯉子の父親、そして、部下だった絲の夫の関係はいかなるものだったのか。絲の夫は絲に手交された官報通りに、戦死だったのか。
1️⃣7️⃣ 療治
「そうそう。鯉ちゃんに、とってもいい話があったんだわ」と、いかにも今し方思い付いた仕草で、絲が鯉子に思いやりの面持ちを向けた。
「昨日、S市で産科の講演会があってね。今時の政府は、『銃後は産めよ増やせよ』の大合唱だろ。戦争の生け贄の為の子作りなんて、いかにも、あの南条総統が考えた…」と、絲が珍しく語気荒く言うのであったが、思い直したのか、「それでも、滅多にない、私達の技術の習得には貴重な催しだったんだよ」と、繋いだ。
「そこで、ある先生と懇意になったの。思い切って、鯉ちゃんの症状を尋ねたら、こっちの方に来る用事があるからって。その先生が今日の午後に来てくれるのよ。半島の本場で修行を積んだ、針と揉み療治の達人なのよ」と、鯉子の反応を覗き込みながら、「鯉ちゃんも、もう臨月に入ったんだから、体調を万全にした方がいいと思って。あなたの産道の具合は、私なんかが今までに出会っこともない程、特殊なんだからね」と、いかにも大袈裟だ。
「鯉ちゃん?揉み療治、好きだったでしょ?」「どんな人なの?」「若い人よ。あなたと同じくらい。背が高くて、すっきりした人だわ。どう?来るでしょ?」
その日の午後。産婆の絲の家である。やはり、異様に蒸す昼下がりだ。
男を一目見た鯉子は、こんなに若い先生なのに、揉み療治はともかく、針の大家なんだろうかと、疑念が過ったが、ふと、ぼんやりとしたある興味が湧いて、すぐさまに消却してしまった。
この時、鯉子はニ七歳である。臨月に入ったが、元来が豊満な女だから、異形なばかりの、文字通りの妊婦の体型だ。
情欲の果てに欄熟した肉体を、紫の大輪の花柄の浴衣に包んで、大仰に初対面の挨拶をする。
鯉子の唇はぽってりと紅く、こぼれる歯は真っ白だ。結われた烏髪からのぞく耳朶さえ豊かだ。
「半島で随分と修業しました。クダラ流の免許皆伝です」と、藤白と名乗った男が簡単に返す。
「絲姉さんの言う通りね。そんな達人に揉まれるんだもの。素敵だわ。酷い難産かも知れないって、姉さんから言われてたの。そしたら、安産の療術の、達人の先生がいるって。母体が、きっと喜ぶに違いないわ」
藤白に促されて、早速、鯉子が蒲団に仰臥した。その身体に、男が風呂敷程の晒し木綿を掛けて、いかにも療治を演出して、無言のままに女の足の指を丹念に揉み始めた。
やがて、「やはり、産道が十分に熟し切っていない気配だな。後で、直に触診しなければ断定はできないが、この時期としては硬すぎる。産道の軟化を促進するために、下半身のリンパを療治する」などと、言うことなしに、呟くのであった。
男の実に曖昧な講釈に、納得した女が同意すると、男の手はふくらはぎから太股に粘着して、執拗に揉み登っていく。女はその指使いをすっかり堪能しながら、何故か時おり、別なある男の指使いを想起しながら、藤白の指図に素直だ。
「足を開くの?こう?もっと?」女が開いた太股の隙間に、男が尻を着けた。眼前には、膨らんだ腹が小山の風情でせり立っている。
「先生の太股に足を乗せていい?」すると、四本の脚が、一つの肉体の様に交差してしまった。
藤白がさらしを取り払って浴衣をめくった。水色の下穿き一枚だけに覆われた股間が現れた。下着の際から陰毛がはみ出ている。
両方のリンパに冷たいタオルを乗せた男が、女の股の付け根を揉み始めた。
暫くして、「鏡に全部写ってるわ」女が呟き、「先生。見て?」「写ってるでしょ?」はだけた姿態が尋常ではない。
これから先の情景は、つい数年前なら、或いは丹念に描写したのかも知れないが、今日に至っては、筆者の自己規制と言うより、古稀を越えて淡泊ばかりが残った、筆者の趣向の理由で、割愛する。
1️⃣8️⃣ 幕間
さて、綺談などというものは 、ある程度で幕を引かないと、際限のないものに陥るのが常なのである。悪女に見入れられた凡夫の有り様で、無惨な結末を迎えるのは必定なのだ。
だから、凡人の極みの筆者などは、先を急がなければならないだろう。
鯉子と謎の療治師、藤白の、絲が画策した面妖な出会いは、その後にどのように変転したのか。
結語から言えば、藤白は絲が放った刺客であった。だが、刺客といっても、鯉子を謀殺しようなどと、ぶっそつな類いではない。鯉子が玄一郎に抱く、殺意の心情の籠絡ばかりが、目的なのであった。
鯉子が玄一郎の命を狙っている心底を察知した絲が、先手を打ったのだ。絲の推理は、身体の効かない身重の鯉子が、実行役にさせるべく、白と関係しているとも、確信していた。
絲が、何故、この様な挙に及んだのか。
絲は幼少から、玄一郎との爛れた縁、今ここにその細微を書く暇はないが、妖しい縁に捉われていたのである。だから、絲は玄一郎を庇うために、たまたま遭遇した藤白に、身体を開いたのであった。
では、藤白とは何者なのか。 読者諸兄よ。驚くなかれ。この男こそ、鯉子の情人、あの白の双子の方割れなのであった。
白の民族にはある習俗があった。
かつて、張が鯉子に語った如くに、白の民族の祖先は、古代に半島の一大抗争に敗退して、北の奥地に逃れて隠れ棲んだ。長く孤立した歴程で、様々な特異な習俗が形作られたが、男児の双子は不吉を為すというのもその一つであった。古代の双子の諍いのある伝承があって、長子相続が強烈に根付いていたのである。
だから、僅かに遅れて生を受けた藤白は養子に出されたが、出来うる限りの遠方が吉との言い伝え通りに為されたから、兄の白と交わることは、決してなかったのであった。
果たして、藤白は絲に命じられた通りに、鯉子を籠絡して、彼女の心の闇に潜んでしまった殺意を、封じることが出来るのだろうか。
絲は遠からずに、闇部の陰謀を知る事になるのだろうか。未だ書かれていないが、絲と闇部にはただならぬ因縁があったから、真実を知れば、絲は闇部に近づくだろう。
そして、絲は亡夫の死因が戦死ではなく、鯉子の父親による惨殺だと察知する日があるのだろうか。もし、その様な展開が来たら、絲は犯人の娘と化した鯉子に如何なる感情を抱くのだろうか。
鯉子の父親と同じ時期に死んだある女の記載が、特務の捜査報告書にあったのを、読者諸兄はご記憶だろう。この女と鯉子の父親、そして、部下だった絲の夫の関係はいかなるものだったのか。
その他にも様々な疑念があって、何一つ解明されていないが、筆者は、一先ず、この第一幕を閉じる事としたい。先に述べた如くに、綺談には際限がないのであり、筆者の気分としては、ここいら辺で一編の短編として独立させたいのである。
古稀を越えた体に、『書き下ろし連載』の日々は、いかにも刺激的なのであった。
だが、そうは嘆きながらも、明日の事などは誰にもわからない。気分が向かえば、直に連載を開始するかも知れないのだ。気紛れやわがままなどは、この齢ばかりの特権なのである。
終り
戦争と鯉子の革命 第一部