瑞々しい葉の、その葉脈の
洗い場の上に備え付けられた戸棚は、この家の台所の中でもっとも馴染みの深い場所だった。扉を開けると物が隙間なく仕舞われているが、よく使う場所だからよく整理されていた。粗挽きのコーヒーは、手前に王者の風格で鎮座している。寄り添うように置かれたハーブのキャンディは、まるでクイーンのよう。その隣に、ナッツとドライフルーツが詰め合わされた大きな袋が、城を守る兵士のように構えている。しかし、馴染みが深いのは前面にあるそういった面々のみで、その後ろ、戸棚の奥にあるものは、長らく手付かずになっていた。わたしは近ごろ始めた「ものの選別」の一環で家じゅうの収納を開けては閉じていたのだが、そういえば、ここの棚はよく開けるしよく整理するけれど、見えているようで見えていなかった奥のほうは、何が入っていたかまったく思い出せないな、と思い、その流れでわたしは王国を崩しにかかったのだった。ナッツを取り除き、クイーンを恭しくエスコートし、王は取り出して瓶を眺めたのち一番身近に置いた。すると、出てきたのは紅茶の茶葉だった。記憶が走馬灯のように蘇る。そうだった、ミルクティーが飲みたくて、茶葉を買ったのだった。しかし、そのあと大きな病をしたせいで、すっかり忘れてしまっていた。茶葉の消費期限はいつなのか知ら、と総合図書館に電子メールを打った。すると五分後に、できれば二ヶ月以内、未開封でも二年です、と返信があった。
すっかりだめになってしまった紅茶の缶を、わたしは棚の一番手前に置くようにして仕舞い直した。つまり、王、クイーン、紅茶の缶、その後ろに兵士たちが追いやられたという構図だ。この紅茶の缶、は、さしづめ勇者というところか知ら。物語における勇者は、王族でも町人でも旅商人でもない。そして大概が出自については描かれない。最初から最後まで、勇者というカテゴリーの、あまり人生の見えない登場人物だ。勇者は、勇者と自称するだけで、その心の綺麗さを信用してもらえ、城の中にも入れてしまうのだ。勇者が活躍する、わたしにおすすめの本はありますかと電子メールを打った。返事を待つあいだに、コーヒーでも淹れようかな。
こんな絶好のティータイムに、あの茶葉の消費期限が切れていることが悔やまれる。一回淹れたきりで、まだ缶の中にはたっぷり赤い葉が詰め込まれていた。香りは紅茶のそれ健在であった。本当に風味が損なわれているのか、疑わしいほどに。コーヒーをドリップしたあとに、また缶を取り出してあれこれ観察する。缶。なんで缶のものを買っちゃったんだろう、と思う。思うけれど、自分のことだから明白で、可愛いから缶にしたのである。「ものの選別」をしていると、手放すこと棄てることがいかに大変か、よく身に染みてくる。燃えない塵の日、次の燃えない塵の日はいつ、とわたしは心の中でぶつくさ呟いてコーヒーを飲んだ。するとそのとき電子音が鳴ったので、端末を手に取る。図書館からの返信で、あなたの好みの傾向から、こんな本を選りすぐりました、如何でしょうか、予約をしますか、という内容だった。はい、と返信をして、また端末を机に置いた。
溜息は簡単に漏れてくる。どう棄てようか、ずっと頭の中で考えているからだ。まずとんでもなくもったいないことをしている、という罪意識に苛まれ、つぎに茶葉は塵袋に入れたらいいけれど、缶を棄てるなら他にもまとめて棄てられるものを家じゅう探して掻き集めたいと思い始め、そのあとに、まだこんなにいい香りがしているのにな、とかなしくなる。わたしはまた端末を手に取り、紅茶はどうやって作られるのですか、と問うた。司書のほうも、翻弄されるであろう。紅茶の期限、勇者の本、紅茶の作り方、ときたら、勇者の部分があまりに突然すぎるし、まったく脈絡がないんだもの。
わたしは回答を待つ間、どんな内容が届くか考えを巡らせた。今まであまり深く考えていなかったけれど、紅茶の茶葉だから、文字通り何かの葉っぱ、なのだよなあ。なんの葉っぱなのか、今まで考えずに飲んでいた。コーヒーに飽きたから紅茶を選んだり、友だちとカフェに入ったとき友だちが紅茶を選んだからなんとなく合わせたり、ジャックさんが出してくれたから成り行きに身を任せて、身体に入るものなのにすべてを信用して、ああいい香りね、と飲んでいた。紅茶の味を思い出そうとすると、あの甘い味を思い出す。でも甘いのは砂糖であって、紅茶ではない。缶の蓋を開けた。ふわっと、爽やかな香りが鼻腔を駆け抜ける。そうしてまた途方に暮れた。さっさと棄てれば好いのに。忘れてしまえば好いのに。
電子音が鳴り、わたしは決まりの動作を繰り返す。そこには紅茶についての仔細が書かれていた。内容はあまり抜粋されていない、おそらく、データベースからそのまま引っ張り出された情報なのだろう。わたしは指で端末の画面をなぞりながら、三十行分をいったりきたりしていた。目についた情報を処理しているうちに、そういえば紅茶には種類があるのだった、と思い、缶をふたたび眺めてみる。アールグレイだ。アールグレイは、ベルガモットで香り付けされたフレーバーティーである、とある。つまり。わたしが先ほどから魅了されてならない香りは、ベルガモットの香りということなのだろうか。
甘いと思ったら、それは砂糖で。すてきな香りだと思ったら、それはベルガモットで。この物体の本質は、何処? 思いがけず、思考の深みに嵌ってしまう。
瑞々しい葉の、その葉脈のひとつひとつに、大地の歴史とひとびとの知恵とが在ると思うと、気が遠くなって、巡った季節が海の上の風のように身体をすり抜けていって、わたしは所在を失ってしまうかのような、不思議な喪失感に見舞われた。
わたしは缶をトートバッグに突っ込み、ふらりと家を出て広場に向かった。教会と図書館が面したこの広場は、昔は、それはきれいに手入れされた芝で覆い尽くされていたらしい。昔って、いつですか。さあ、うんと前だよ。まるで見てきたみたいに言うのは、リュカさんだった。
「すてきな缶だね。きみみたいに。」
手帖に書き物をしていたリュカさんは、その黒革の表紙をしずかに閉じて、同じくらい漆黒の睫毛をゆっくり上げて曇り空に突き立てた。最後のフレーズは、リュカさんの癖のようなもので、本音かどうかは判らない、ただひとつ言えるのは、リュカさんのこういうところで、色んな女の人が騙されているということだ。
「中身もすてきなんです。」
家で先ほどから何度もしているように、リュカさんの前で蓋を開けてみた。ベルガモットの香りは、外だと少し弱く感ぜられたが、「いいね。アールグレイかな。」博識のリュカさんには何の問題もないことだった。
「残念なのは、古過ぎるという点です。」
「成程。きみはコーヒーを飲んでいることが多いから。」
「はい。それで、棄てようと思っていたのだけれど、棄てられなくて。」
「それはまた、どうして?」
わたしは沈黙してしまった。リュカさんの瞳が、少ない情報量からなにかを読み取るように、こまかく動いたのが見えた。「……うまく、説明できない。」これがわたしの答えだった。
リュカさんは缶を手に取った。しげしげと眺め、指先で鳴らし、終いに開きっぱなしの蓋を閉じた。「……まあ、身体には入れない方が好いだろうね。」リュカさんの、至極真っ当な感想だった。「生き物には、すこし酷だと思う。僕たちの入れ物は、ひどく脆いから。」
はい。わたしは、情けない声で返事をした。
「でも、此奴の行き場がないね。それが、困っているんだよね。そうしたら、こうしよう。これは、僕が貰う。それで、きみへの手紙に添えて、すこしずつ返すよ。そうすれば、ぼくの手紙を仕舞っておく箱から……抽斗や袋かもしれないけれど……このベルガモットの香りがするよ。ぼくを忘れたくなったら、一思いに、香りごと一緒に棄てたら好い。」
わたしは、度肝を抜かれた。そして、一気にくやしくなった。「あの……なんて言ったら好いのか、判らないけれど、有難う。」そう言うと、リュカさんは缶を鞄に仕舞った。
身軽になったわたしは、図書館に寄り、勇者の本を代わりに抱えて帰宅することになる。出自不明がちの勇者と、リュカさんが重なった。わたしの三倍生きているらしいリュカさん。ぼくを忘れたくなったら、と言われたけれど、そんな瞬間が果たしてやってくるのか、結局手放せないものがただ増えただけな気がした。言い包められてしまっただけなのだ、今日も。
瑞々しい葉の、その葉脈の