すれ違う心

中辺路友紀

  1. 序章 何を今更
  2. 第二章 出張と女子会
  3. 第三章 出張と田舎の弁護士
  4. 第四章 すれ違った心(後藤攻の追憶)
  5. 第五章 すれ違った心の追憶(山崎貴宏、山崎璃子)
  6. 第六章 最後のチャンス
  7. 第七章 すれ違った心(後藤柚香の追憶)
  8. 第八章 すれ違う心(後藤星來、後藤はな、山崎璃子)
  9. 終章 すれ違う心が遺したもの

「すれ違い始めた心は、誰にも止められない」

 正直な想いを伝えないと何も始まらない。想いを伝えないまますれ違うと、一生解りあうことはない。だから、人は敢えて言葉を発する。
 幼少の頃に親に捨てられた兄妹。今まで誰も信じられず、ただ妹を守るために生きてきた兄と年の離れた妹。
 そんな二人を温かく見守る兄の先輩も『すれ違った心』を抱えたまま生きていた。
 彼らの想いが交錯したとき、燻ったまま抱えてきた想いが大きく動き出す。

序章 何を今更

 夜遅くまで馬車馬みたいに働いて疲れ切った俺は、エレベータもない社宅の五階まで這うようにして登ってきた。何時もは向かいの婆さんが五月蠅いから静かにドアを閉めるんだが、余りにも疲れていてうっかり乱暴にドアを閉めちまった。
「ちょっとお兄、玄関くらい静かに閉めてよ。明日お向かいのお婆さんに怒られるの私なんだよ?」
「すまん、はな。つい…」
 たった一人の家族である我が妹よ、許してくれ…
「ゴメン。言い過ぎた。あたしを女子高に通わせる為に毎日お兄は朝から夜中まで働いてくれてるんだもんね!お疲れさまっ!いつもありがとねっ!」
 俺はつい妹に声を荒げそうになる自分を制してボソボソと妹に釘を刺した。
「俺は、はなの幸せの為に働くのが生き甲斐、いや生きている理由なんだ。俺が好きでやってる事にいちいち礼なんか言う必要はない」
「お兄はさぁ、いつもそうやって言ってくれるけど…そんな兄の愛情を受けて育った少女が感謝の心とか気遣いとか無いとでも思う?」
 「…解ってるさ、はな。俺が言いたいのは、気持ちは十分伝わっているから、いちいち口に出さなくていいってことだ」
「はいはい、わかってますよん。今日も一日ありがとっ!お風呂沸いてるから先に入っておいで。今からご飯の支度するから」
「え?今何時だと思ってんだ、夜の九時半だぞ。まさか、はなも飯食ってないのか?」
「一人でご飯なんてつまんないよ。お兄と一緒にこれから食べるの!まあ、これも妹の愛情だと思って受け止めてくれるとありがたいな。さあ、早く!お風呂冷めちゃうよ」
 そう言ってはなは俺にタオルとパジャマを優しく投げると台所に戻っていった。俺が風呂から上がると、小さなテーブルに所狭しと様々な料理が並んでいた。唐揚げ、サラダ、煮物…タオルで髪を拭いていると首筋にキンキンに冷えた物体が押し付けられる。
「…っ、何しやがる!」
「ああ〜、そんな事言ってもいいワケ?折角お兄の大好きななビール、冷やしておいたのに〜。じゃあコレは無しって事で」
 頼む。それだけは勘弁してくれ。俺は悪戯っぽく笑みを浮かべるはなに詫びを入れると、ビールを片手に椅子に座った。
「いただきま〜す!」
 飯を食いながら、はなは今日も学校であった事を楽しそうに話してくれた。その表情を眺めながら、俺は無理してでもはなを女子高に行かせて良かったと思った。
 二人きりの楽しい晩飯を済ませた後、はなは後片付けを済ませて床についた。俺は台所で独り、明日の弁当に差し支えないよう細心の注意を払いながら夕飯の残りをアテに焼酎を呷っていた。

 こうして独りでいると、思い出したくない過去が記憶の片隅から湧き出してくる…

 今、家族は俺とはなの兄妹二人だけ。正確に言うと俺たちは神が造り給うたものではないから、生物学上父母がいないということはない。敢えて言うなら父母は『いた』ことになる。
 あれははながまだ赤ん坊の頃だった。中山県のとある地方都市(小学校の教科書にも出て来る有名な火力発電所よりも南、温泉とパンダで有名な街より少し北あたり)で暮らしていた俺たちには、確かに父母がいた。クソ真面目で、工場の仕事が終わったら繁華街の飲み屋で一杯やるわけでもなく家に飛んで帰ってくる父親がある日突然俺たちに何の断りもなく家を出た。俺は、いつかある日『私よりあの女がいいならそいつの所へ行けばいいじゃない!』とか喚いていたのを聞いていたし、父親がいなくなってから俺だけには『君のお父さんは家族を捨てたんだ』と言っていたので何が起きたかは子供なりに理解していたつもりだった。俺はあの時『父親は俺たちを捨てた。これからは母親と俺とはなの三人で生きていく』もんだと思ったのを何となく覚えている。
 まあ、俺たちを捨てたのは父親だけじゃなかったんだが。その事の真相を俺たちは数日後に知ることになる……

 バンバンバンと乱暴にドアを叩く音がする。これは…ああ、また今日も怒られるんだ…
 恐る恐る、静かにドアを開けたあたしの前には、お向かいのお婆さんの姿があった。
「ちょっと後藤さんっ?何度言ったら解るのよ!夜遅くに玄関ドアの開閉したら五月蠅いって!」
「スミマセン、御迷惑おかけしてます…」
「まったくもう、最近の若い子は常識の欠片もないんだから!夜遅くまで莫迦みたいに遊び呆けているんじゃないわよ!」
 言いたい事だけ言うと、お婆さんは我が家のドアを乱暴に閉めて自室に戻っていった。一応お兄の名誉のために言っておくけど、お兄は別に遊び呆けて夜遅くなってるわけじゃない。残業や変則勤務で帰りが遅くなったり早朝になったりする、という事実にお婆さんは気付いていないようだ。業界の中では準大手と呼ばれる企業とはいえ、一応日本全国が営業エリアの運送屋さんなんだから朝早くから夜遅くまで(正確にいうと二十四時間体制で)働いている人もいるんだから夜遅くなったって不思議じゃないのに…一体お隣さんは何時に戻ってきてるんだろう…

「お〜い、セラくん」
 俺のことを一番嫌な方法で呼んだ奴がいる。
「所長、その呼び方は止めて下さい。確かに俺の名前は星來(せら)ですが…」
「そう?いい名前だと思うんだけど…」
「そもそも名前なんてのは人を識別する符号みたいなもんです。この営業所に後藤は俺一人しかいないんだから、わざわざ下の名前で呼ぶ必要はないでしょ」
「解った。君がそんなに嫌がるんなら止めておくよ。ところで後藤くん」
「はあ、なんですか」
「最近の勤務状況なんだけどね…凄く熱心に働いてくれているのは有り難いんだが…」
 真面目に働いているんだからそれでいいだろう。何が気に食わないんだ。
「はっきり言おう。君をこれ以上長い時間働かせる事はできない」
「何故ですか所長!俺は妹を養うためにもっと稼がなきゃいけないんですよ?」
 理由は他にもあるんだけどな…
「法律の壁、ですよ」
「法律?」
「そう。労働基準法では労働時間の上限ってものがある。後藤くんの場合、通常勤務時間プラス総残業時間がほぼ上限に達している。これ以上残業させたら我が社は法令違反になってしまう」
「…それ以上は働くな、と」
「そういうこと。来月から勤務シフトの調整に入るんで、後藤くんの出番は少なくなるかも知れないけど悪く思わないでね」
 何も言わずに俯いている俺に、所長は更に続けた。
「いきなり給料上げるだなんて事は出来ないけど、扶養手当なんかで出来る限りのことはやらせてもらっているし、社宅も最安値クラスの部屋を提供して…」
「もういいです。わかりました。身体のことを心配して頂いてありがとうございます」
 それだけ言うと俺は仕事に戻った。さて、あと一本走ったら今日の仕事は終わりだ。まあ、いつも通り帰りは遅くなるだろうけど…

 夜遅くに俺が帰宅すると、台所のテーブルにエプロンをしたままのはなが突っ伏して居眠りしていた。料理するのにエプロン使う位なら、いっそ家に戻ってきたらセーラー服から私服に着替えればいいのにと思うんだが、それを口にするとはなに怒られそうなので今までそれを言ったことはない。テーブルの上にはラップをかけた料理の数々。はな、お前は昭和のドラマに出てくる新妻か…
 苦笑いしながら作業着を脱ごうとした時、俺はテーブルに二通の書留郵便が置かれているのを見つけた。
 うちに郵便なんてまず来ないのに、しかも書留?何だろう、嫌な予感しかしない。二通とも無機質な印刷で『後藤星來殿』と書かれていた。俺宛か。まあ高校生のはなに書留なんて来ないだろうが…

 一通目。債権譲渡の通知。はなに見せたくなかったな…銀行から届いてる時点で察しがつくだろうが…
 高校を出て直ぐに『稼ぎが良さそうだった』という理由だけで俺は運送屋に就職した。あと、今の会社は福利厚生が充実していて『各営業拠点に社宅があった』というのも理由の一つ。就職すると施設を出ないといけない。だけど、はなを施設で独りぼっちにしたくなかった。内定が出てから会社に事情を説明すると中山県から遠く離れた、本社があるここ鞆浦市に配属して貰えた。働き始めた俺は、はなを養うためにとにかく金が必要だった。とはいえ、高卒でまだ免許も無かった俺が出来る事なんて知れていた。引退寸前のオッサンの助手として必死に働いたが、収入なんて知れたもん。(実際、ほかの高卒連中と比べると稼ぎは良かったが扶養家族がいるぶん出費も多かった)で、俺は必然的に借金をした。大手の銀行が学歴もない未成年に簡単に金を貸してくれる筈もなく、行く先はサラ金だった。最近は奴らも不景気なんだろう。どんどん大手銀行の傘下に入っていく。俺の借金も、ついにそうなったって事だ。
 参考までに、と書かれた前月末の残高を見て俺は軽い目眩を覚えた。一体いつ終わるんだこの借金は…働き始めた頃は借りまくり、最近は家計をやり繰りして返済しても元本は殆ど減らない、そんな現状に未来はあるのか…

 二通目。何だこれ?『中山県弁護士会所属・弁護士 長谷川 光子』と書かれた差出人に心当たりはない。中山県?俺の嫌な予感は最高潮に達した。

 後藤星來  殿
 後藤はな  殿(後見人 後藤星來 殿)

    後藤 攻氏相続手続の開始について(通知)

   拝啓 秋の風が爽やかに感じられる今日この頃、ますますご活躍のことと存じます。
   この度は、突然のお手紙を差し上げ失礼します。当職は、標記の件に関する手続を受任しております弁護士でございます。
   貴殿の父であります後藤 攻殿におかれましては、昨年十二月八日に御逝去されました。当職は、攻氏より生前に『自身の死後、相続手続を一任したい』との依頼を受け、これを受任しておりました次第でございます。
   つきましては、手続の着手にあたりお伝えしたい事がございますので、当職あて御連絡戴きたく、お願い申し上げます。なお、詳細については追ってご通知申し上げます。
                             敬具

 何だこれ?たちの悪い悪戯か?
 てか何を今更『父親』だ?他所に女作って、家庭を捨てて出て行った奴が『父親』?ふざけるのもいい加減にしろ!
 俺は届いた手紙をそのまま捨てようとしたが、何か躊躇いのようなものがあった。俺は軽く舌打ちをすると、その手紙をはなの目につかないところに隠すように仕舞った。
 もし仮に、俺たちを捨てて出て行ったあの男が死んだというのが事実だったとしたら…
 もういい。俺たちには関係ない。生きていようが死んでいようが、あいつが家を出て行った時点で家族でも何でもない。赤の他人みたいなもんだ。

 台所に戻ると、丁度はなが目を覚ましたところだった。
「あ、おかえりお兄。て言うか帰ってきたんなら声かけるとか起こすとかしてよ!」
「思い切りドアでも閉めれば良かったか?」
「うわっ、それだけは止めて」
「ははは、冗談だ」
「うっわ〜。普段冗談言わない人が言うとキツい〜。そりゃそうとお兄、手紙が来てたけど何かあったの?」
「はなには関係ない事だ。心配しなくていい」
「ふ〜ん]
 はなはそれ以上何も言わなかった。言っても俺は答えないし、俺がはなに気を遣わせまいとして態とそうしているのを察しているだろうから。はなならきっと、そんなこと言わなくても俺の心中は察してくれているはずだ。
「それよりもな、はな…」
「何?ご飯の支度なら直ぐに出来るよ」
「お前、テーブルに突っ伏して寝てただろ?おでこに寝型付いてるぞ」
「ええっ?やだ恥ずかしい!てかお兄、そういうデリカシーの欠片もないようなこと、お年頃のレディに言うもんじゃないわよっ!」

 この手紙が、俺たちの運命を大きく変えることになる。

第二章 出張と女子会

 夕方に突然訪れた郵便屋さんから、お兄宛の書留を受け取ったあたしはどう対応したらいいか少し戸惑った。見ちゃいけないと思いながらも差出人の名前を確かめる。
 一通目、銀行。清く貧しく、がモットーの我が家に銀行から手紙が来るなんて良い知らせの筈がない。あたしの想像でしかないけれど、きっとお兄はあたしの為に、生活の為に借り入れでもしてくれているんだろう。多分その関係の通知か何かだ。あたしのせいでお兄に何か迷惑がかかっているんだとしたらどうしよう…何か申し訳ないな…
 二通目、弁護士。お兄、何かやらかしたの?いやいや、お兄が悪いことなんかするはずないよ。でも、何でお兄のところに弁護士から手紙が来るの?あたしは差出人の住所を見て凍りついた。
 『中山県』。あたしとお兄にとっては忌まわしい場所。お兄がいつも言ってた、あたし達が生まれ育った街。両親があたし達を捨てた街。あたし達が預けられた施設があった街…
 こんな手紙、どうやってお兄に渡したらいいのよ…暫し考えたあたしは、中身を全く知らないふりをしてテーブルの上に放置することにした。あとはお兄が上手くやってくれるだろう。いや、 あたしが何かしようとしたところで、お兄は絶対に受け入れてくれない。
 晩御飯の支度をしているうちに、あたしは眠ってしまったらしい。目覚めるとそこにはいつものように優しくて疲れ果てたお兄がいた。いつもと違って無理に冗談を言ってあたしを笑わせたお兄に少し違和感を覚えたあたしの手元には、あの手紙はもうなかった。お兄、あたしを巻き込まないように気遣ってくれてるんだね。
 でも、何でもかんでも一人で抱え込まなくてもいいじゃん。少しは弱音の一つでも吐いてほしいな、たった一人の肉親なんだから。お兄、あんまり無理しないでね。

 ありがとう。

 訳の解らない手紙を受け取った俺は、極力そのことを考えないようにした。手紙を受け取ったからといって急に何かが変わるわけじゃない。俺たちを捨てたあの男が今更相続だ何だと言ったところで、俺の知ったことか!トラックを洗車機にかけなから俺は自然と湧き上がってくる忌々しい記憶を心の奥へ追い出そうと足掻く。
「お疲れ様です」
 洗車を終えた俺は勤務終了の時刻をカードリーダーに記録すると、営業所の皆に別れを告げて帰り支度を始めた。今日は珍しく定時で帰れそうだ。定時で帰れるなんて何日ぶりだろう…
「後藤クン、お疲れさま!」
 小学生かと思う位の背格好の女性がヘリウムガスでも吸ったみたいな甲高い声で俺を呼び止める。黒髪のショートボブで何故かは知らないがいつも白いブラウスに黒いパンツルックのこの女性。俺はこの人のテンションの高さがどうも苦手だ…気づかないふりをしようとした俺を苦手なハイトーンボイスが引き留める。
「ああっ!今私のこと無視しようとしたでしょ!営業所の天使、マドンナと言われるこの私のことを無視しようってワケぇ?」
「いや、そんなことないですリコさん……スミマセン。ちょっと考えごとをしてたもんで気づかなくて」
 彼女は営業所の庶務主任、リコさん。先輩だから本当は山崎さん、若しくは山崎主任とでも呼ぶのが正しいんだろうが、この営業所には男女合わせて三人の山崎さんが存在する。必然的に彼らを下の名前で呼ぶことになり、俺もそのノリで彼女をリコさんと呼んでいるが彼女は七つ上の大先輩。本人が天使だのマドンナだのと自称する通り、確かに美人ではあるけど…
「もう、偶に早く仕事が終わったと思ったらそそくさと帰ろうとするんだからっ」
「いや、あの……ウチにはまだ学生の妹がいるもんで」
「知ってるわよ!君から何回その話を聞いたかっ!て言うか君から妹ちゃんの話以外聞いたことないっ!」
 だったらいちいち聞くなよ…
「で、折角の定時退社、今日は楽しい給料日。でも君は可愛い妹の為に脇目も振らず真っ直ぐ家に帰るって訳ね」
 さっきそう言った筈だけど……
「ええ。今日は妹と…」
「はっはぁ~ん…今日は妹ちゃんと月に一度の楽しい外食の日かっ!」
 リコさんにそんな話したかな…あ、そう言えばそんな事うっかり言っちまったかも…
「営業所の野郎共から山程『給料日飲み会』オファーがあったリコ様が後藤クンを飲みに誘ってあげようとしたんだけどな…」
 そう言って態とらしく胸元で指を絡ませながらモジモジしているリコさんが段々鬱陶しくなってきた。
「じゃあ、俺は妹が待ってるんで失礼します。リコさんも家族とでも飲みに行けば…」
「あら?それって三年前に事故で夫を亡くした未亡人にかける言葉?後藤クンったらデリカシーの欠片もないんだからっ!まあ、今日は可愛い妹ちゃんに免じて許してあげるわ!」
 何かを慈しむような目で俺を見送るリコさんから逃げるように、俺は社宅に向かって駆け出した。

 「お疲れさま。カンパイ!」
 俺達は新幹線の駅からほど近い、百貨店の南側にあるカウンターしかない古ぼけた店で渇いた喉を潤す。野球好きで地元の球団を愛して止まない(所謂鯉キチ)大将が店に飾っているポスターやサイン色紙、グッズの数々を眺めながら俺は、はなを諭すように口を開いた。
「おい、はな…よりにもよってこんなところに来ることないだろ」
「だってお兄、『はなが行きたい所ならどこでも連れてってやる』って言ったじゃん」
「だからって…」
「お兄が偶に来るって聞いたから、絶対に今月の給料日ディナーはここにするって決めてたのっ!ここなら飲めないあたしでも定食メニューとかあるから大丈夫だし。ほら、お兄だって嬉しいでしょ?馴染みの店にいつもの味。更には世界一可愛い女の子が目の前でお酌してくれるんだよ?嬉しいでしょ?」
 ああ、嬉しいとも。最後の一節に、俺は手放しで同意する。俺ははなと一緒にいられるならファストフード店でも屋台でもコンビニ弁当でも嬉しいが、な。
 ふと、さっきまではしゃいでいたはなが眉を顰める。
「どうした、はな?」
「ねえ、お兄。さっきからあたしたちの事をずっとガン見してるお姉さんがいるんだけど…あの人何なんだろう…何か強い意志みたいなもんを感じるんだけど……」
 俺は嫌な予感とともに、はなの視線の先に目を向けた。コの字型のカウンターの向こう側に、よく見慣れた童顔があった。

 リコさん、何であんたがここにいるんだ…

「何でこんなところにいるんですかっ」
「私だって仕事帰りに飲みたくなる日だってあるわよっ」
 リコさんが少しむっとした表情で応酬する。
「営業所の連中にクソほど誘われたって言ってたじゃないですか!それを断って、何で態々ひとりで?」
「仕事を終えてまで、莫迦共の相手はしたくないのよ」
 店の人と常連さんに促され、リコさんが席をチェンジして俺たちの隣に陣取る。他のお客さんに詫びとお礼を述べた後、リコさんは丸椅子にちょこんと腰かけた。改めて見ると、親に連れて来られて定食を喰っている子供みたいだ。ただ、手に持っているのはビールジョッキだからある種異様ではあるけど。

 事情を知ったはなが、リコさんに話しかける。
「なんだ、お兄の先輩だったんですね…いつもウチの兄がお世話になっています」
「こちらこそお世話になっています。後藤クン、ウチの営業所ではエース級だからさぁ。営業所の中でも十屯トラックを余裕で振り回せる奴なんてそういないんだ」
 どうでもいいけどリコさん、なんでそれが普通のことであるかのように俺たちの間にいるんだ?て言うかなんではなと二人きりの楽しいディナーに合流して、二人で盛り上がっているんだ…
 いつの間にか二人は楽しそうに名物のロールキャベツと肝のステーキを食べながら連絡先の交換までしてやがる。
「後藤クンってさぁ、仕事中は物凄くクール、っていうかあまり感情を表に出さない感じなんだけど、お家ではどうなの?」
 ややほろ酔いのリコさんに問われたあたしは少しだけ戸惑った。あたしがこんな質問に答えることをお兄は望んじゃいない。何も言わず知らん振りをして焼酎を呷るお兄を横目に見ながら、あたしは適当に惚けよう。
「え?ウチにいる時はたぶん普通ですよ?あたしのことを大切に思ってくれている家族ですし、あたしを守ってくれる唯一の人で一家の大黒柱。でも家に戻ってきたら優しい兄……」
「そう、そうだよね……何かを守る為に生きている人って、周りのボンクラとは何か一味違うんだよねぇ!」
 よかった。お兄は色々詮索されたりとか生き方に意見されたりとかって物凄く嫌がるから、ここは適当に逃げといて正解だった、かな?

 ちょっと一杯のつもりで飲んで…誰かの古い歌で聞いたことがあるな。未成年のはなは勿論飲まないが、俺とリコさんは(勘定をしてくれた姉さんが何度も計算し直した挙げ句に卒倒しそうになる程)結構な量の酒を飲んだ。今まで知らなかったけど、社宅の棟が隣同士だった俺たちは表の道で別れを告げるとそれぞれの家に戻った。さあ、明日は休みだ。二日酔いの身体をゆっくり休めて、はなとのんびり過ごそう…
 そう思っていた俺の目論見はものの見事に打ち砕かれた。はなは『お兄、先週ちゃんと言ったよ?今日は友達と映画観に行ってくる』と言い残して朝早く出て行った。そうだ、すっかり忘れていた…じゃあ俺は、夕方まで寝るだけだ。夕方になりゃ買い物に行って晩飯の支度でもすればいい。
 そう考えていた俺の静寂は、不躾なノックの音で台無しにされる。

「後藤星來さまのお宅、で宜しかったでしょうか」
 我が家に突然訪ねてきた若い女は俺にそう告げた。就活中みたいな似合わないスーツの襟に何かのバッジが光る。
「誰だお前」
「申し遅れました。わたくし、中山県弁護士会所属の弁護士、長谷川光子と申します。突然押しかけて申し訳ありません」
 そう言って名刺を差し出した彼女は、先日俺とはな宛に書留を送りつけてきた奴だった。言われてみれば襟元に光っているのは弁護士バッジ。
「何の用だ」
 彼女は淡々と、かつ事務的に俺に言いたい事だけを告げる。
「先日、郵便にてお知らせいたしましたお父様の相続の件です。お二人に引き継がなければならないものが色々ございまして」
「俺たちには関係ない話だ。家族を捨てた人間の事をそもそも父だと思っちゃいない」
「家族が離れ離れになられた理由もお父様から伺っております」
「だったら余計な事をするんじゃない。今更家族ヅラされたって、こっちが迷惑だ。帰ってくれ」
  そう言ってドアを閉めようとしたその時、彼女は意味深な言葉を口にした。
「お父様に資産があったとしても、ですか?」
 事態が飲み込めずポカンとしている俺に、彼女は淡々と言葉を連ねた。
「ご家族の感情についてはわかりませんし介入する気も毛頭ございません。私は依頼を受けた『相続』手続を進めるのみです。では、本日はこれにて失礼します。ご連絡お待ちしています」
 あいつは俺に何を伝えようとしていたんだ?俺は玄関の扉を閉めると、暫く考え込んでいた。

 あの日以来、弁護士からの郵便は何通かお兄のもとに届いていた。知らん顔して捨てるワケにもいかないし、かと言って中身を聞いたってどうせ『はな、お前には関係ない事だ』とか言うに決まっている。
 ただ、一つだけ解っている事がある。
 お兄は、独りで何かを抱え込もうとしている。
 あたしを守ろうとしてくれているのは有難いし嬉しいことなんだけど、何でもかんでも抱え込んで独りで悩まないで。あたしたち、たった二人の家族なんだから…
 暫く独りで考えてみたけど何も思いつかなかったあたしは、スマフォに手を伸ばすと最近交換した連絡先に一通のメールを送信した。

 営業所内に聞き慣れないコール音と聞き慣れた声が響き渡る。
「業務連絡。業務連絡。後藤クン、所内におられましたら庶務の山崎までぇ♪」
 リコさんが俺に一体何の用事だ?今まで呼び出されたことなんてなかったし、そもそも呼び出される用事があるとは思えない。て言うか嫌な予感しかしない。そもそも、あんた俺が所内にいるって知ってて態と呼び出しただろ……
 庶務に行くと、リコさんが俺を奥の会議室に招き入れた。
「ご用件は…」
「突然ゴメンねぇ。出張をお願いしたいの」
「出張?どこへ?泊まりですか?何で俺が?」
「質問は一つずつよ、後藤クン。気になったからって莫迦みたいに何でも聞けばいいってもんじゃないの。て言うかそもそも論だけど、先ずは人の話を最後まで聞きなさい。質問はそれから!」
「はい…」
 大人しくなった俺を満足そうに眺め回すと、リコさんは説明を始めた。
「宜しい♪では説明を始めましょう。まず、行き先だけど中山県の営業所。行きは夜行便。出発は休日の夜なんで、代休対応。総労働時間の関係もあるから、夜から休日出勤−明け−代休−公休−夜行便で帰還、って感じかしら。向こうでの滞在先は営業所の寮。明けや泊まりの人用に寝泊まり出来る部屋があるの。希望すれば実費…とはいえぶっちゃけタダ同然でで食事も提供可能よん。で、あと何だっけ……」
 リコさんは態とらしく俺の方を向いた。
「…何で俺なんですか…ウチには妹がいるんですよ?」
「うん、そうそう。まだ学生の可愛い妹ちゃんが何日も独りでお留守番、となると兄としては心配で堪らない、そういうワケね」
「当たり前でしょ!」
 俺は苛ついた。
「大丈夫。ちゃんと手は打ってある」
 そう言うとリコさんは誇らしげに古ぼけたガラケーの画面を俺に見せた。リコさん、何で勝手にはなと連絡取り合っているんだ…!
”ええっ!お兄がいない間、リコさん家にお邪魔してもいいんですか?楽しみ!あ、でもお兄は何て言うかな…あたし的にはOKですけど、あとはお兄次第ですぅ♪”
 今どき珍しくなったガラケーをポケットに戻したリコさんはドヤ顔で俺に告げた。
「決定、ね」
「はい…はなのこと、宜しくお願いします」
「あ、そうだ」
 まだあるのか…
「折角中山県まで行くんだから、のんびりしておいで……温泉、パンダ、古道歩きに大(おお)斎(ゆの)原(はら)、それから何だっけ…私と後藤クン好みの辛口の地酒もあるし、めはりずしとかラーメン?紀州の漁港で水揚げされるお魚も美味しいし…あ、あと私が家飲みするとき焼酎に入れる梅は中山県産よん♪」
「生まれ育った中山県ににロクな思い出があるわけじゃなし、今更行きたい所なんか無いですよ」
「あらそう?じゃあ、お友達に会うとか何か用事を済ませるとか…」
「会いたい奴も用事もありませんっ!」
「まあ勿体無い。じゃあ、リコ様の為に中山県名産のお土産でも探してきて貰おうかな…あ、冗談よ冗談。気にしないでねっ」
 余計に気になる。まあ、はなが世話になるんだからお礼に何か買って帰るってのは社会人として最低限の常識だろう。でも、先に梅干しを振られたってことはそれ以外で攻めるか、とんでもないクオリティの梅を用意するか……
 お土産を何にするか、よりも重要な問題が俺にはある。中山県か…俺にとっては忌まわしい過去を過ごした町。いい思い出なんて一つもない。会いたい奴なんている筈もないし、行ったところで為すべき用事もない。仕事でもなけりゃ絶対に行かない町。家に帰るまではそう思っていた…
「ただいま」
 テーブルでクルクルとペンを回しながら教科書と睨めっこしていたはなが立ち上がる。
「あれ?お兄、今日は早いのね。うわっ、まだ晩御飯出来てないよっ」
 俺は慌ててエプロンを纏うはなをやんわりと制した。
「まあそう焦らなくてもいいさ。風呂の準備しながら待ってるから」
 そう言うと俺は、風呂の準備をしながら出張の支度を始めた。
「あ、お兄」
「あ、はな」
 何かの合図で声を揃えるガキみたいに二人同時に発話したのが面白くて俺たちは思わず吹き出した。ひとしきり笑い転げた後にやっと本題に入る。
「もう、お兄ったら…初デートの学生じゃないんだから!」
「すまん、はな。俺が伝えたかったのは出張の話だ。実は、急に…」
「ありゃ?リコさんから聞いてないの?出張でお兄がいない間は、あたしがリコさん家にお世話になることになってるみたいよ?まあ、それもお兄次第だけど」
 俺の意向なんかありゃしない。全てはリコさんがセッティング済み。何を考えるでもなく俺は中山県に出張して、その間はなはリコさん家に世話になることになっている。電車の線路みたいに敷かれたレールの行き先とダイヤグラムを二人で確認し合うと、俺は出張の準備を続けた。。
 出張とか大層なこと言ってるが、普段から変則勤務の仕事をしている俺のシフトと何が違うかっていうと『立ち回り先が何時もと違う中山県になる』だけだ。乗る車が大きく変わるわけじゃなし、まして交通ルールも全国共通なんだから俺的にはどうってことはない。
 支度をしながら俺はある事実に気付いた。先日押しかけてきたあの弁護士、中山県の弁護士会所属とか言ってやがったな……スマフォで地図を見ながらあの時に貰った名刺を確認する。ちっ、奴の事務所って俺が出張する営業所の近所だ…
 まあ、行くつもりは毛頭ないが一応奴の名刺を鞄のポケットに仕舞うと俺は風呂の湯加減を確かめる為に立ち上がった。

「スミマセン、急遽お兄が出張なんてことになったもんでリコさんにご迷惑をおかけして…」
 申し訳ない気持ちで一杯のあたしが呟いた言葉を、リコさんがものの見事に斬って捨てる。
「あら、迷惑だなんて誰が言ったの?後藤クンが出張するって話になった時『はなちゃんの事は私に任せて』って大見得切ったのはこのリコ様なのよん」
 彼女は得意げにあたしを見てそう言った。どうでもいいことなんだけど、リコさんってどうしてドヤ顔の時に自分のことを『リコ様』って言うんだろう…
「まあ、ご近所さんなんだし、親戚か友達の家に泊まるみたいな感じで楽しくやって欲しいな。あ、て言うか…ほら。お泊まり付きの女子会、みたいな!」
 なんだろう、このテンション。て言うか既にリコさんガブガブ飲み始めてるし。まあ、今日は『あたしがリコさん家の冷蔵庫の中にある物を活用して作るディナー』って約束になってるから別に飲んでてもらっててもいいんだけど……
「ええっ、凄いじゃんはなちゃん!三十分足らずでおかずを五品も作るって…」
「えへへ。今日はリコさんの為に、って思って張り切っちゃいました。だってリコさん、結構飲むみたいだし…」
「あら、今日は遠慮するつもりだったのよ、一応」
 一応、なんだ…て言うかグイグイ飲んでる人の『遠慮』という言葉に何の説得力もない…
 リコさんがいい感じでほろ酔い加減になってきた頃、何故かあたしたちの話題は家族の話になっていた。
「こないだ私が君たちの給料日ディナーに乱入しちゃった時、ね。ちょっと後藤クンに悪いこと聞いちゃったかもって反省してたんだ…」
「もぐもぐ…あまり感情を表に出さない、って言ってたことですか?あんまり気にしなくてもいいと思いますよ?まあ、確かにお兄は詮索されるのは好きじゃないみたいですけど、かと言って根に持つタイプでもないですから。気にしない気にしない!」
「そう?だといいんだけど…実は後藤クンのこと、他にも気になることがあって…」
「そんなに気になることが…?」
 リコさんは、少し間をおいて話し始めた。
「あれは先週だったかな…後藤クンを訪ねて営業所にやって来た人がいたの。何か就活中です、みたいな感じのリクルートスーツを着た冴えない感じの若い女の人だったわ」
「え、営業所に誰かが社員を訪ねてくるなんてことあるんですか?」
「うん、あるにはあるよ。生保レディとか飲み屋の姉ちゃんとか……でも、その人はどう見てもどっちでもなかった。ウチに来る生保レディは…私みたいな美人かもっと派手…いや華があるっていうのかな…とにかくそんな感じだし、飲み屋の姉ちゃんなら一撃で分かるわよ」
 確かにリコさんは美人だけど、自分で美人って言い切るって凄い。
「で、よくよく話を聞いたらその子、中山県から来た弁護士だっていうのよ。名刺は貰わなかったけど、弁護士会のバッジを着けていた。仕事で裁判所に行ったりすることがあるからあのバッジは見たことある。あれは本物だった」
 あ、そういえばお兄が『仕事中にトラックで事故起こしたりして示談不成立になったら裁判沙汰になる』とか言ってたっけ。リコさんってそんな仕事もしてるんだ…
「で、お兄には会ったんですか?」
「アハハ…!運送屋のドライバーが日中に営業所にいるわけないじゃない。昼間っからドライバーが営業所内にいる会社なんて余程暇な会社じゃないかしら」
 リコさんはそう言って笑うと、焼酎の水割りを作り始めた。勢いが増して段々と水の焼酎割りになりつつある。
「でね、その子が何か言いたそうにもじもじしているのを見てると段々鬱陶しくなってきて…『運送屋のドライバーが日中に営業所にいるわけないでしょっ!』て言って追い返したのよ。遥々中山県から一体何しに来たのかしらねぇ」
 リコさんに思い当たる節はなくても、あたしにはある。あの手紙だ。お兄は『はなに関係ないことだから気にするな」』って言ってたけど…
「あの、リコさん…実はウチに中山県の弁護士から手紙が何通も来てまして…」
「ああ、この間はなちゃんがメールくれた件ね。多分その絡みでウチに来たんだろうけど…悪いことしてるんなら弁護士どころの騒ぎじゃないし、後藤クンはそんな事するような子じゃないし…まあ、大体は面倒臭い話かどうでもいいような話よ、きっと。どうせなら、出張に行ったついでにチョイチョイと用事を済ましてくればいいのに…彼、段取りはウチの営業所でもピカイチだからそれ位余裕で出来そうだし」
 惚けながらリコさんは水の焼酎割りを口にした。その時、あたしの頭の中に何かが閃いた。
「リコさん!」
「どうしたの、急に大声出して立ち上がったりなんかして。ビックリするじゃない」
「今回の出張、お兄が中山県に行くために態々…」
 リコさんはあからさまに悪戯っぽく微笑むと、優しい口調で話し始めた。
「そんなわけないじゃない。偶々中山県行きの便に乗る予定だった人が身内にご不幸があって乗れなくなった、ただそれだけの事よん♪」
 そうやって惚けているけど、お兄の中山県行きを決めたのは絶対にリコさんだ…ピンチヒッターがお兄でなくちゃいけない理由はないだろうし…態々お兄を指名した理由って…
 リコさんが手許で焼酎のグラスを転がす。
「まあ、偶然とはいえ会いたがっている相手がいる所へ出張して、公休も挟むわけだし…行ったついでに何か進展があればいいかなっていうのはあるかも、ね。仮の話だけど」
 リコさんは急に真顔に戻ると、あたしに一つ問いかけた。
「あのさぁ、後藤クンってひょっとして『何でもかんでも一人で抱え込んじゃうタイプ』なのかも知れないね」
「え、ええ。多分そうだと思います…ご存知の通り、ウチに親はいないし他の家族って年下のあたししかいないし…なかなか誰にも相談できずに『抱え込まざるを得ない』っていうのが正直なところだと思います」
 リコさんはグラスを握り締めると一つ溜息をついた。
「そっか…これはあたしの個人的な見解なんだけど…そういう奴が…自分が色んなことを抱え込み過ぎて身動きできなくなった時に、誰か周りの人間が『トリガーを引かななきゃいけない』気がするんだ」
「トリガー?」
 あたしには何のことかサッパリ解らない。
「引き金、よ。あ、ちょっと気取った言い方し過ぎたかな?要は誰か周りの人間がそいつのケツを蹴り上げてでも、物事を前に進めるきっかけを作り出せばいいじゃんってこと」
 非常に解りやすくなりましたが言葉が乱暴過ぎです、リコさん。じゃあ、今回の件はリコさんがトリガーを引いてくれたんですね…
「ありがとうございます、リコさん。色んなこと教えてくれて…あと、今回の件も…」
「それは偶々だって言ったでしょ?あと、これは私の個人的な考えなんだけど…」
 リコさんは一呼吸置くと、天井を見上げながら呟いた。

「何か辛いことを抱え込んだまま、黙ってちゃ何も解らない。何も解らないままじゃ物事は前に進まない。そのまま離れ離れになってしまうと、永遠に理解しあえない」

「え、それってどういう…」
「彼の事よ」
 リコさんが顎で杓った隣の和室には、小さな祭壇のような物が大切に飾られている。そこにはお兄と同じ作業着を着た、やや緊張気味の表情をしたイケメン男性の写真があった。
「はなちゃん、ウチの営業所に来たことある?」
 天井を見上げたままリコさんが呟く。
「中に入ったことはないですけど、高校の行き帰りに前の道は通りますよ」
「入口からよく見える所にさ、『死亡事故ゼロ○○○日達成』て書いてあるでしょ」
「ええ、もの凄く目立ってますね」
「あのカウントをゼロに巻き戻したのは彼…私の亡くなった夫なの」
 ヤバい!やっちゃった!
「え……リコさんごめんなさい。あたし変な話振っちゃったかも」
「ううん、そんなことないから安心して。酔っぱらいの戯言だと思って軽く聞いて頂戴な♪」
 リコさんはそう言って微笑むと、優しい瞳をあたしに向けゆっくりと話し始めた。
「彼も営業所でドライバーやっててね…いつも物静かで、黙々と作業しているような人。結婚してからも彼は、物凄く優しくていい人だった…でも、双方の親同士があんまり上手くいっていなくて……何かあるたびに彼が間に入ってくれてその時は解決するんだけど、あとから何を聞いても『上手くいったから大丈夫。心配しなくていいよ』って言うばっかり。何があったのか、何をどうしてどうなったのかは教えてもらえず、結局彼が全てを抱え込んだまま。で、ある日私がキレたの。『どうして何でもかんでも一人で抱え込もうとするの!結婚するときに『お互いに助け合いながら生きていこう』って約束したじゃないの!』ってね。彼とは相当長い時間をかけて話をして、やっと二人の『すれ違っていた心』に気づいたの。彼は、私に心配かけたくない、私を巻き込みたくないという想い。私は、彼が何でもかんでも一人で抱え込むんじゃなくて二人で助け合いたいんだっていう想い。でも、お互いの『すれ違う心』に気づいたその頃……」
 リコさんはそこまで言うと、彼の写真を眺めながら焼酎を軽く呷った。
「あれは三年前の事ね…彼はヘルプで入った配送を全て終えて営業所へ戻る途中だった。あと少しで営業所、っていうところで路地から女の子が自転車で飛び出してきたの。そのままぶつかっても女の子は軽傷で済んだかも知れないし、そもそも一時停止しなかった相手方に非があるんだから大事故になったとしても彼に重い処罰が下されることはなかったかも知れない。あ、はなちゃん。ここから少々エグい話になるけど大丈夫?」
「はい、大丈夫です。続けて下さい」
 一言一句たりとも聞き逃すものか。
「彼はね、その時きっと咄嗟に判断したんだ。『例え自分がどんな目に遭おうともあの子を傷つけちゃいけない』ってね。彼、『自分を犠牲にしてでも人を守る』典型的なタイプの人だったから。で、自転車を避けようとしてハンドルを切った先は防潮堤と津波対策用の止水鉄扉。運転席から派手に突っ込んだもんだったから潰れた運転席の中なんてそりゃ酷いもんだったよ…」
「そう、だったんですね…」
「あまりにも大きな音がしたもんで営業所の人が様子を見に行ったら『ウチの車だ!』って血相変えて戻って来たもんでそりゃびっくりしたわよ。車番を聞いて彼が事故に遭ったことを認識した瞬間は腰が抜けそうだったわ」
 よくそこで耐えたもんですリコさん。あたしなら高校に『お兄が事故に遭った』って電話一本入った時点で失神する自信があります。
「私が駆けつけた頃、彼はもう搬送される頃だった。救急車の中で私の顔を見てびっくりしたみたいだったけど、いまにも消えそうな意識の中で私に『この間の約束守れなくてごめん。結局何も話せないままだったね』ってずっと詫びてた。最後に、女の子の無事を聞いて安心したみたいに意識を失った。彼はそれきり」
 私が暫くぽかんとしていると、リコさんはまた一口焼酎を呷った。
「お葬式の後、彼のご両親がこちらに来られて『遺骨はこちらで引き取ります。璃子さんは新たな人生を歩んで下さい』って言ってお骨から遺品まで全部持って行っちゃった。今まで親同士どんな揉め事があったのか全く聞いていなかったから何も言い返せず為すがまま、言われるがまま。彼のお墓がどこにあるかすら教えて貰えず。結局それっきり」
「え、じゃあ…あの写真は」
「ああ、アレ?営業所に社員証用の写真データがあったから、それを拝借してきたってワケ。だから作業着着てんの。表情も相当固いしね。あ、一応所長には了解取ったから泥棒とか個人情報流出とかじゃないわよっ」
 そう言ってリコさんは今までの重苦しい雰囲気を打ち消さんとばかりにケラケラと笑った。この人、もの凄くいい人だ。いや、今のあたしにとっては神様みたいな人だ。自身がそれだけ辛い目に遭っているのに、どうしてこの人は他人の心配なんかしていられるんだろう…
「だからね、私は自分の周りにもし何かを抱え込んで苦しんでいる人がいるんだったらケツ、じゃないやトリガーを引くようにしているの。だってその人が家族や友達の誰かと理解しあえないままどこかへ行ってしまうなんて、そんなの駄目。そんな思いをするのは、私を最後にしたいから…」
 そう言うと、リコさんは一瞬だけ寂しそうな顔をした。
「どうして、どうして…」
「何?はなちゃん」
「どうして、リコさんはお兄とあたしにそんなに優しくしてくれるんですか…」
 リコさんは焼酎を呷ると、困ったように返答した。
「う~ん……あ、誰の言葉だったか忘れちゃったけど『世界は一家、人類は皆兄弟』とかって言うじゃない?」
「惚けないでください。だったら営業所の皆にもこんなに優しいんですか?」
 さすがにこの時ばかりは焼酎に手を付けず、リコさんは呟くように言った。
「はなちゃんのことはね、家がご近所さんで身内が同じ会社の同僚っていうきっかけはあったけど、それ以外で言うと…私って末っ子で兄弟は男ばっかりだから年下の女の子って身内にいないのよ。だから急に妹が出来たみたいで凄く嬉しいの。はなちゃん可愛くていい子だし…はなちゃんってきっと誰とでもすぐに仲良くなったりその場に溶け込んでいったりできるタイプだと思うの。そんなはなちゃんと一緒にいたら、誰だって『この子の為になら』って思うわよ」
「で、お兄は?」
「後藤クン…」
 しばらく沈黙が続いた。あれ、拙いこと聞いちゃった…?リコさんはご主人の写真のほうを見て覚悟を決めたように答えた。
「後藤クンって、立ち居振る舞いが若い頃の彼にそっくりなの。何でも抱え込もうとするところや自己犠牲の精神そのものが、ね」
 これで何杯目だろう。焼酎を軽く呷ると彼女は呟いた。

「上手いこと行っているうちはいいの。でも、すれ違い始めた心は誰にも止められやしない。そんな思い、はなちゃんにしてほしくないから…」

「お兄もいずれ誰かとそうなるんじゃないかと…」
「そう。その相手がはなちゃんだなんて絶対にあっちゃいけないし、もしその相手がリコ様だったらケツ蹴り上げるどころか半殺しにして、生きてる事を後悔する位反省させてやるわよ」
 リコさん、そんなに凶暴なんですね…
「そっか、リコさんのご主人とお兄ってそんなに似てたんですか…それでお兄のことを…」
「あ、でも決定的に違うところが二つあったわ。一つは容姿。後藤クンより彼のほうが断然格好いい。あと一つ。後藤クンは莫迦みたいに飲むけど、彼は奈良漬け食べても顔が赤くなるくらい下戸だったわよ」
 彼女はそう言うとケラケラ笑いだした。暫く経って、リコさんがお手洗いに行こうとして席を立った時、あたしはリコさんに告白した。
「あのっ!あたしリコさんみたいに強くなりたい!リコさんみたいに優しくなりたい!あたし、どうしたらリコさんみたいな素敵な女性になれますかっ!」
 リコさんは困ったように微笑むと、やれやれといった様子であたしを優しく諭した。
「あのね、まず最初に言っておくけど…私は強くもないし優しくもない。ただ、大切な人を想う気持ち、それだけは誰にも負けないかな…何だかんだ偉そうに言ってるけど、自分が失敗ばかりして後悔しながら生きてるようなもんだから…」
「そのっ、いま仰った『人を想う気持ち』がわかる大人になりたいんですっ!あたしも、リコさんみたいな…」
 不覚にもあたしの眼から涙が零れ落ちる。リコさんは言葉を続けた。
「はなちゃん、今はその気持ちだけで十分よ。後藤クンだってその気持ち、きっと解ってくれてるから。はなちゃんの気持ちに気付かない程あの子も莫迦じゃない。そう言えば昔……私も大人の女性に憧れて、自分が勝手に憧れた人の立ち居振舞いとか仕草とか真似してた頃があったなあ…何か昔を思い出すわ。自分が憧れの対象になっちゃったってことは、私もそれだけ私も歳を喰ったってことなのかな。アハハハ」
 そう言って頭をぼりぼり掻きながらリコさんがお手洗いへ。
 あたしは、少しでもリコさんに近づきたいと思った。ガキのあたしが幾ら足掻いたってリコさんの足元に遠く及ばないのは百も承知。でも、リコさんみたいな強くて優しい人になりたい。
 リコさんが戻って来るのと、あたしが間違った行動を起こしたのはほぼ同時。『少しでも早く大人に近づきたい』という間違った決心をしたあたしは、リコさんの目の前で彼女のグラスを一気に空けてしまった。
「大人の立ち居振舞いを真似る、ってそこじゃないんだけどなぁ…」
 苦笑いを浮かべながら、リコさんは困り果てた様子であたしを見つめていた。そこから先の事は全く覚えていない。ただ、リコさんの胸に頬を埋めて泣いていたことだけは何となく覚えてはいたけれど…

「おはよう。大丈夫?」
 頭が割れるように痛い。
「ううっ、昨日はスミマセン」
「セーラー服で料理する子も初めて見たけど、セーラー服で焼酎呷る子も初めて見たわ」
「重ね重ねスミマセン…」
「いいわよ。但し、この話は会社と後藤クンには内緒よ」
「ハイ…」
 リコさんはにっこり微笑むと、あたしに告げた。
「さあ、今日は会社も学校も休み。折角だし、出かけるわよ」
「え?何処へ?」
「まず、そのセーラー服を着替えてらっしゃい。あ、洒落た所へ行くわけじゃないから、軽装でね」
「何しに行くんですか?」
リコさんはニヤリと笑いながら言った。
「決まってるじゃない。酒を抜くのよ」

「ええっ?リコさん車持ってたんですか?」
 社宅近くの道をブラブラ歩きながらの女子会トーク二日目。
「へっへ〜ん。営業所の連中も誰も知らないここだけの秘密よ。社宅のガレージに置いたら目立つからって、彼が屋根付き車庫を借りてたの。で、その車のことは家族に言ってなかったから遺品整理でバレずに済んだ」
「ってことはその車…」
「そう。私にとって唯一の彼の想い出、かな。お待たせ!ここに置いてあるのは内緒よ。後藤クンも知らないんだから」
「ハイ、ここはリコさんの秘密基地なんですね」
 リコさんが手動のシャッターをやや乱暴な音とともに開けた瞬間、今まで見たこともない車があたしを出迎えた。
「彼の趣味でね…結婚した時に『買い換えて!』って言ったんだけどこれだけは譲らなかったの」
 どう表現したらいいんだろう。エキセントリックっていうのかな…屋根が全面ガラスで何か戦闘機みたい。て言うかドアもスーパーカーみたいに上に開いてるし…車に乗り込んだあたしは、リコさんに恐る恐る尋ねた。
「あの、そんな大切な思い出の詰まった車に乗せていただくなんて…」
 リコさんは街中を軽快に駆け抜けながら答える。
「いいのいいの。感傷に浸って寝かしてたら、あっという間に駄目になる。車も頭も使ってナンボの世界よ!」
「そうは言っても外車って動かすだけでそこら辺に小銭ぶち撒けて走るようなイメージがあって、何か勿体無いような気が…」
 リコさんはフッと微笑んだあと、あたしに面白いことを教えてくれた。
「あら、これ外車じゃないわよ?営業所の道向かいにあるトヨタのディーラーで買った中古車。まあ、買ったのは私じゃなくて彼だけど」
「え?そうなんですか?」
「知らなかった?まあそれも無理ないわね…彼の熱意と私の意地で新車みたいなコンディションを保ってはいるけど、はなちゃんが生まれるより随分も前に生産中止になった車だし…て言うか全然売れなかったから」
「え〜。これが日本車だなんて…で、何て名前なんですか?」
「これが傑作よ。『セラ』っていうの」
 お兄、ごめん。あたしは耐えきれなくなって思わず吹き出した。
「笑っちゃ駄目よ、はなちゃん。名前の由来はね、フランス語で『意思』とかいう意味と、あと一つは未来動詞。英語でいうと『will be』にあたるのかな」
 あたしは暫く考えた。
『未来への、意思…』
 ボソっと呟いたあたしの言葉を、リコさんは聞き逃さなかった。
「あら、いい翻訳ね。私もそこまで思いつかなかったわ。まあ、近い将来『名前負け』とか言われなきゃ良いんだけど。アハハ」

 三十分後、あたし達はスーパー銭湯に到着。
「ちょっとはなちゃん、スタイル良すぎない?顔も可愛いし、周りの皆がこっちを見てるよ…」
「リコさんだって美人じゃないですか?てかリコさん胸大きい〜」
 お酒を抜いて、裸の付き合いもして。何かリコさんが段々と本当のお姉さんみたいに思えてきた。長椅子に腰掛けて二人並んで牛乳を飲んでいたら、ふとリコさんがあたしにもたれ掛かってきた。
「ねえ、はなちゃん…何かこうやって一緒にいるとさ、何かはなちゃんが本当の妹みたいに思えてきた」
「あ、あたし一緒にお風呂入ってたときにそう思いました。あたしもお姉ちゃんいないし」
 アハハハ、と声を揃えて笑う。
 ふと突然、リコさんが立ち上がる。
「さあ、はなちゃん行くわよ!」
「次はどこへ行くんですか?」
「買い出しよ。今日の晩御飯は私が用意するからねっ。で」
「で、何ですか?」
「酒も抜けたし、今日も飲むぞっ!あ、飲むのは私だけね」
 リコさんがあたしに悪戯っぽくウインクしてみせた。

第三章 出張と田舎の弁護士

 夜勤明け。営業所の連中は明けの日は朝から飲みに行ったりすぐ家に帰って寝たりするらしいが、俺は皆と少し違うようだ。大抵は近所を散歩したり、図書館へ寄ったりと昼頃までブラブラしている。あとは夕方にはなが帰って来るまで微睡む位か。
 遠路遥々中山県までやって来たものの、いつもと勝手が違うから何をしたらいいのかさっぱりわからない。充てがわれた部屋で何かしようにも着替え以外何も持って来ていない。この市に図書館はないのか?営業所の庶務に聞いてみたら、どうやら市の図書館は規模が小さいが、隣村の図書館は蔵書が沢山あって近隣の住民にも好評らしい。
 隣村か…ふと思いを巡らせようとした時、庶務の人が俺に告げた。
「隣の村って言ってもね、バスの便が殆どなくて…寮に行けば社員貸出用のスクーターか軽四があるからそれを使うといいよ」
 俺は借りたスクーターを隣村まで走らせる。親切にも地図はヘルメットと一緒に用意してくれていた。村まで一本道だし、まあ迷いはしないだろう。いざとなりゃスマフォの地図アプリを使えば何とかなる。
 図書館の前にスクーターを停め、俺は入口へと進んだ。言っちゃ悪いが人の住んでいなさそうなド田舎の割に建物がデカい。きっと他の施設も入ってるんだろう。だが、どう見ても入口には『内削村立図書館』としか書かれていない。クソ田舎にこんなデカい図書館…?
 中に入って驚いた。何と蔵書の多いこと…ウチの地元より多いかもしれない。折角こんな田舎まで来たんだから、郷土史のコーナーでも冷やかしてやろうか…

「郷土史の資料を何かお探しですか?」
 エプロンの胸元に『安村』と書かれた名札を付けた感じの良い女性が俺に話しかけてくる。
「ああ……俺はこの村の者じゃないんだが…出張で隣の市に来てて、それでこの辺の歴史でも覗いてみようかな、と」
「でしたら…私もここの出身じゃないので知らなかったんですが、内削村はかなり古くからある村でして、資料も数多くあるんですね…あ、そうだ。この概略版なら二時間もあれば読めますよ」
「ありがとう。じゃあこれを読んでみるよ」
「ごゆっくりどうぞ」
 彼女は微笑むと、カウンターへ戻っていった。いざ資料に目を通してみると、ただの田舎だと思っていたこの村は、平安時代に都から逃れてきた落人が開いたものらしい。へえ、知らない土地で郷土史を漁ってみるのも楽しいもんだ。また知らない町に出張があったら郷土史を漁ってみようか。
 資料を一気に読み終えた俺は、まだカウンターの向こうにいた安村さんに礼を言い、図書館を出た。
 スクーターのセルを回すと、古ぼけたスクーターは咳き込むように始動した。俺の間違いは、どうやらここから始まっていたようだ…

 しまった。村内のどこかで道を間違えたらしい。一応舗装はしてあるものの農道みたいな道で俺はスクーターを停めた。プロのドライバーが道を間違えるなんてお恥ずかしい限りだ。俺としたことが…
小高い丘か山みたいなところに千木が見える。あ、あれが郷土資料にあったお社…今、お社の裏にいるって事は、あそこで道を間違えたか…
 そう思って来た道を戻ろうと転回した時、そこにあった建物を見て俺は驚いた。一階がガレージで軽トラが停めてあり、二階が住居か倉庫みたいな小汚い建物。田舎によくある建物なんだろうが、俺が驚いたのはそこじゃなかった。入口に掲げられた、不釣り合いな程立派な看板。まるでどこかの相撲部屋か格闘技の道場みたいな…
そこに書かれていた文字は…

『長谷川光子綜合法律事務所』

 俺は慌てて上着のポケットに放り込んだ名刺を確認した。中山県本宮郡内削村…間違いない。何かの間違いで、俺はとんでもない所へ来てしまったらしい。
 呆然としている俺の前で、入口のドアが開いた。スウェットの上下にボサボサ頭、おまけにサンダル履きときてやがる。
 彼女も俺の姿を見て硬直した。
「ご、後藤様…?」
呆気にとられている俺に彼女は「し、少々お待ちください!」と告げると猛烈な勢いで建物の中に戻っていった。くそっ、これじゃ帰るに帰れないじゃないか…
 一階ガレージの天井からドスンバタンと物凄い音が響く。一体あいつは何をしているんだ?
 ものの五分もしないうちに彼女は再び入口に姿を現した。初めて会った時と同じ、就活中みたいなスーツ姿で。
「お待たせしました。中へどうぞ」
 家の近所でばったり会っただけなら何か理由をつけて立ち去ってもいいようなもんだが、今回は偶然と言えど俺が態々こいつを訪ねてきてしまった以上、断るわけにもいかない。俺は人を不安にさせるほどギシギシ軋む錆びた鉄の階段を上り二階へ向かった。
「何だこれ…」
 案内された部屋は誰がどう見ても台所。ファミリータイプのマンションにあるようなダイニングキッチンでもなければ、一人暮らしアパートのミニキッチンでもない。昔のドラマで見るような長屋の台所そのものだ。
「誠に相済みません…弁護士事務所とか大層な看板掲げているのに、中はこんな有様でして」
 寝癖だらけの頭を気にするでもなく、ぼりぼりと頭を搔きながら彼女が呟く。
「あの看板は…?」
「ええっと、あの看板はですね…いつもお世話になっている工務店のお婆さんが開業祝いに、って態々木材を切り出して書いてくださったんです」
 相撲部屋か、ここは。
「で、何だってこんな田舎で弁護士なんかやろうと思ったんだ?」
 彼女はぼそぼそと語り始めた。
「もともと私はこの村の生まれで先祖代々農家だったんですが、家は兄が継ぐことになっているので私は比較的自由にやらせてもらいまして…で、都会の大学へ進学し、司法試験、司法修習等を終えたのですが…都会とはあまりご縁がなかったようで…」
「で、地元で開業したって訳か」
「左様でございます。お恥ずかしい限りで」
 どこか朴訥な感じを漂わせる彼女は、そう言うとまたぼりぼり頭を掻いた。
「とはいえ、実家を間借りして事務所を構えると遊び半分でやっていると取られかねないですし、何よりも自立出来ていないことを周囲に触れて回るようなものなので…」
「で、いくらポンコツ…いや荒ら家でも独立した事務所としてここを借りた」
「全てお見込みの通りです。予算が限られているのと、このような何もない村ですので個人事務所に適した物件が殆どないこともありまして、必然的にこのような状況に」
「ドラマで見るような華やかな弁護士だけが弁護士じゃないってことか」
「はあ、まあそういうことにしておいてください」
 本当にこいつ、大丈夫なんだろうか。だんだん不安になってきた。まあ、いずれ俺はこいつに『相続なんて結構。縁の切れた人間だから何も引き継がない』と最後通告しなきゃならないと思っていたから、偶然とはいえ丁度いい機会かも知れない。
「で、態々手紙を寄こしたり、家に押しかけて来たりしていた件だが…」
「それだけではありません。実は一度、ご自宅の近所にある営業所にもお伺いしました。住所が社宅になっていたので、そこへ行けばお会いできるのではないかと思いまして…」
 そんなことまで逐一報告する必要もないと思うんだが…莫迦みたいに正直な奴だな。
「私の読みは当たっていたようなのですが、ご不在だったようで…」
「当たり前だ。運送屋のドライバーなんだから昼間っから営業所にいるわけないだろ」
「ええ、確かに仰る通りでして…ちょっと迂闊でした。応対してくださった方も全く同じことを仰っておられました」
 誰だ、そんな事言った奴は?からかい半分に俺はその質問を彼女にぶつけてみた。
「名前はど忘れしましたが、大正琴を弾く活弁士さんにそっくりな方でした。お姿だけじゃなく声までそっくりだったので驚きましたよ」
 こりゃ面白い。リコさん、ずいぶん手荒な応対してくれたもんだ。
 彼女は一つ咳払いをすると、話題をがらりと変えた。
「只今午後一時三十分です。一通りご説明差し上げるのにおよそ二時間程のお時間を頂戴しても宜しいですか?」
「ああ、構わない。俺の中でもう答えは決まっているんだが、説明をすべて聞いたうえで答えなきゃいけないんだろ?」
「ご名答、です。説明が終わった後にご決断いただき、あとは書類上の手続きを淡々と進めていくことになります」
「わかった、説明してくれ」
「では、始めさせていただきますね」
 さっきまでの朴訥な雰囲気とは打って変わって、凛とした彼女がそこにいた。

「すまん、ちょっと待ってくれ」
 相続人の確定に至る経緯(戸籍を調査したが俺とはな以外に相続人がいなかったこと、はなの後見人は俺なので、俺がすべての決断をする必要があること)、相続財産・物件等の取捨選択はできないこと(相続か放棄のオールオアナッシングであること)、相続に関する費用は事前に支払われており、俺達には一銭の負担も必要ないこと等々の説明を受け、あとは財産目録の説明と決断、というところで俺は音を上げた。
「説明が解りやすいから話の中身は理解できているんだが、ちょっと頭の中を整理させてくれ」
「一気に詰め込み過ぎてもいけませんしね。では小休止といたしましょう」
 彼女はそう言って微笑むと、当初の朴訥な感じに戻った。
 彼女がお茶を淹れてくれる間、俺達はまた下らない話をしていた。
「この事務所は、開業してどの位?」
「一年半、位でしょうか。もっとも当初は開店休業状態でしたし、今も決して忙しいとは言えない状況ですが」
 彼女はお茶の用意をしながら、肩をすくめて苦笑いして見せた。
「済まない、そういうつもりで言ったんじゃ…」
「承知していますよ。今のは自分を奮い立たせるために言っただけですから。営業エリアを拡張しないといけないのは解っているのですが、市にも弁護士さんは何人かおられますのでねぇ」
「じゃあ今は村内だけで?」
「今のところは、です。とはいえ、この村はいい人たちばかりで他人と揉め事を起こしたり捕まったりする人もいませんから主たる業務は相続関係ですね」
 お茶を戴きながら俺は更に問いかけた。
「他にはどんなことを?」
「相続、です」
「…てことは、今までに相続以外は?」
「やったことがない、という言い方もございましょうが、私はあえて『相続のスペシャリスト』と他人様にはご説明申し上げております」
 そう言うと彼女は背筋をピンと伸ばし、凛とした弁護士の姿に戻った。

「最後に、資産及び負債について御説明申し上げます。負債については故人の申立及び調査結果によると何もございません。ゼロです。光熱水費、携帯電話料金等についても私が全て清算済みです」
 借金でも残して俺とはなに押しつけるつもりだったんじゃないかと危惧していたが、どうやらそれはないようだな。
「次に、資産ですが…」
 え?そんなもんあるのか?
「土地・家屋等の不動産、自動車・美術工芸品等の動産はございません。給与振込や光熱水費等の支払い用に御本人名義の普通預金口座がございまして、こちらは私が最後に清算した結果、十七万円程残高がございます」
「何だと?たったそれだけの為に相続だ何だ言って動き回ってたのか?」
「話にはまだ続きがあります。実は、村内にございます信用金庫の貸金庫に別の預金通帳が保管されています」
「は?どういう事だ?」
「故人が遺言の依頼に当法律事務所へお越しになられた際に仰っておられました。『手元に通帳やハンコを置いておくと、何かの拍子に使ってしまいそうだから、敢えて費用を払ってでも貸金庫に預けてあるんだ』と」
「じゃあ残高も何も解らないって訳か」
「左様でございます」
くそっ、あの莫迦…最後の最後まで面倒かけやがって…
「じゃあそれを確認しないと相続するか放棄するかも…」
「ご判断は、貸金庫を開けてから…」
 腕時計に目をやると、丁度三時半を回るところだった。くそっ、今日一日で終わらないな。
「信用金庫も閉まる時間だ。この件は明日以降に持ち越し、だな」
「後藤様のご予定は如何…」
「今日は夜勤明け。明日、明後日は休みで出発は明々後日の夜だからそれまでは隣の市にいる。明日また来るさ」
「お手数をおかけします」
「あんたが悪いんじゃない。俺達に手間暇かけさせているのは死んだアイツだ」
 彼女は明らかに困惑している様子だった。何かを言いたい。言わなくちゃならない。でも言えない。そんな感じだった。
「じゃあ、また明日」
 そう言って俺はスクーターで颯爽と立ち去った、と言いたいところだがそうはいかなかった。セルを何度回してもエンジンがかからない。キックでも無理だ。くそっ、プラグでもイカれたか?
「困ったことになりましたねぇ」
 朴訥な方の彼女が、俺のスクーターを覗き込む。
「なあ、この辺にバイク屋はないのか?」
 スマフォの地図で探しても全然出てこない。て言うか地図が出てくるのも異様に遅い。何だこの通信環境は…
「生憎、村内に自動二輪や原付を扱う店はございません。最寄り、となりますと市の高校近くに一軒ございますが…あと、村内に自動車の板金工場がありますが二輪の修理となると望み薄かと」
「バスは?」
「お社前のバス停から市まで行けなくもないですが、恐ろしく不便です」
 八方塞がりってことか。
「ですが後藤様、手荒ながらに唯一かつ合理的な解決策をご用意出来ます」
「何だそれ?あんたにそんなこと出来るのか?」
「お任せ下さい!」
 彼女が誇らしげに指差した先には、俺がこの事務所を見つけた時と同じように古ぼけた軽トラが停まっていた。
「コイツを貸してくれるのか?」
「ではありません。そんなことしたら今度は私が身動き取れなくなります」
 彼女は俺の質問に答えながらテキパキと準備を始める。農機具なんかを軽トラに積み込むブリッジを奥から引きずり出してくると、スクーターをあっという間に荷台に積んでしまった。
「あ、それ位俺が…」
「こういう作業は、慣れている者がやる方が早いです」
 俺は返す言葉もなかった。積み込まれたスクーターに荷崩れ防止の処置を施し終わるまで五分足らず。
 彼女は満足げにトラックを眺め回すと、腕についた砂ぼこりをパンパンと叩いた。
「お待たせしました。では参りましょうか」
 畦道みたいな田舎道を、もの凄い音をたててポンコツ軽トラが突っ走る。

「しかしまあ、手慣れたもんだな…」
 俺は先程の積み込み作業と、今乗っている軽トラの運転について尋ねてみた。
「この村は、昔から『何でも助け合う』っていうのが伝統みたいなもんでして…田畑の作業だけではなく、誰かが困ってるとかいうときも。例えば…そうですね…村内での引越に業者さんが来た事はありませんね。大抵ご近所総出でやりますよ」
 おいおい、えらく濃い人間関係だな…
「だからスクーターを荷台に載せるなんて余裕綽々、と言うわけです。稲刈機を積むこと考えたら簡単簡単。あと、車の運転ですが田舎で軽トラに乗る以上はマニュアルミッションは当たり前、ですね。一度都会のホームセンターで買い物をした時にオートマチックの軽トラをお借りしましたが、違和感以外の何も感じませんでした」
 コイツ、都会に残らずに戻ってきたのは正解だったんじゃないか?俺は思わず吹き出しそうになるのを必死で堪える。
「今じゃ路線バスでもトラックでもオートマだぞ…俺のトラックは旧式だからマニュアルミッションだけど」
「ああ……私達のようなマニュアル車乗りはこの先消える運命なんでしょうか…これからも誤発進で店舗に突っ込む車両は増え続けるのか…クラッチペダルはアナログ方式の誤発進防止装置だというのに…」
 彼女の発想が合っているか間違っているかは解らない(たぶん合っているとは思う)が、俺は彼女が相当な変わり者であることを確信した。
「お待たせしました。後藤様、到着しましたよ」

 バイク屋で見てもらうと、案の定プラグが死んでいた。軽トラの荷台に載せたまま修理を終えたバイクとともに、寮までの道をポンコツ軽トラで暫しのドライブ。
「済まなかった。余計な手間をかけてしまって…」
「お安い御用です。さっきも言いましたけど『困ってる人がいたら助け合う』は内削村民の掟ですからね!あ…では明日、ここまでお迎えに上がります」
「態々来てもらわなくてもこっちから…」
「明日は当法律事務所以外に信用金庫などを回る予定にしておりますので、同じ車両で移動していただきたいのです。それ故のご提案です」

「おはようございます」
 律儀な彼女は、まるですぐ近くで待機していたように、約束の時間五分前に現れた。俺達トラックドライバーは荷下ろし場の関係で近場に車を停めて時間調整する事があるが、こいつもまさか…
「朝っぱらから迎えに来てもらって済まない」
「これも業務のうちですよ。では、参りましょうか」

「で、だな」
「はい、なんでしょうか後藤様」
 今、俺は彼女に信用金庫まで送ってもらっている最中だ。で、俺は何故か彼女のアタッシェケースを抱えて軽トラの助手席にいる。
「送って貰えるのは有り難いんだが、何で俺があんたの鞄を持ってるんだ?」
 学校と運送屋以外の組織に属したことがない俺は、人の鞄を持ったような経験はない。人生初の鞄持ちだ。
「それがですね、後藤様…大変申し訳ないのですが軽トラというものはキャビンスペースが限られておりまして…かといってその鞄には相続に関する重要な書類が入っております故、荷台に載せる訳にも…」
「俺が聞きたいのはそこじゃなくて、何でこんな日にまで軽トラで来るんだって事だっ。言ってくれればウチの営業所から車を借りることだって出来たんだ」
「会社にご負担をおかけするわけにはいきません。かといって、村内にレンタカー会社はございませんし、まさか実家に甘える訳にも…」
「わかった。もういい。置き場がないから、必然的に俺の膝の上にって訳だ」
「すみません、後藤様…」
 村内の道を暫く走ると、やがて信用金庫の看板が見えてきた。
 店舗に入ると、彼女の姿を見るなり同世代と思しき職員が声をかけてきた。
「あ、みっちゃんいらっしゃい」
 彼女は一つ咳払いをすると告げた。
「本日は仕事で来たのです。あの、安村さんはいらっしゃいますか」
 職員は俺を見て一瞬『しまった』というような表情を見せたあと、営業スマイルに戻った。
「長谷川先生、お待ちしておりました。別室をご用意してございますので、ご案内しますね」
 応接室に通された俺はどうも落ち着かない。
「なあ、貸金庫開ける時って何時もこんな感じなのか?」
「今回みたいなケースですと、相続人であることを証明する書類やら委任状やらを確認する必要がある故に別室で行うことがありますね。ただ、金融機関で別室に通されるっていうのはどれだけ場数を踏んでも落ち着かないもんですよぅ」
 彼女はそう言うと肩をすくめて微笑んだ。そういえば笑顔の彼女を見たのは初めてかも知れない。
「お待たせしました、長谷川先生」
 そう言って車いすの職員が入ってきた。
「安村さん、お世話になります」
 彼女が立ち上がって挨拶するもんだから、俺も釣られて立ち上がった。
「初めまして。俺、いや僕は相続の件で弁護士さんに厄介になってる後藤星來といいます」
「初めまして。中山県信用金庫内削支店の安村と申します。話はみ、いや長谷川先生から事前に伺っていますので、後は書類の確認後に貸金庫の中身をお渡しすることになります」
「書類はこちらに」
 そう言って彼女が差し出した書類は素人の俺が見ても解る位綺麗に纏められていた。
「いやあ、これだけ綺麗に纏めてくれていたら確認作業も直ぐに出来そうだ。確認が終わり次第、貸金庫の中身をお持ちします。恐れ入りますが少々お待ち下さい」
 彼はそう言うと応接室を退出した。
「なあ、さっきの人たちって親戚か友達、その家族みたいな関係か?」
「いえ?親類でも同級生でもその家族でもない、まあ冷たい言い方をすれば赤の他人ですが?」
 彼女は不思議そうに俺を見ている。
「じゃあ、何でこんなに馴れ馴れしいっていうかフレンドリーというか、身内みたいな…」
 彼女は何かに気付くと、クスッと笑った。
「わが内削村の伝統、と言えば聞こえはいいですが、要はノリです。よくドラマや漫画でお隣さん同士『家族ぐるみの付き合いです』とかいう設定があるでしょ?あのノリが村全体に隈なく行き渡っているとお考え下さい」
「で、身内でもないのに『みっちゃん』か」
「はい。大抵下の名前で呼ばれますね…村の中に光子は他にいないようですから」
「他に同じ名前の奴がいたらどうするんだ?」
「親の名前と組み合わせて『よっちゃんとこのみっちゃん』みたいになります」
「で、その皆が集まって引越とかやるわけか…」
「左様でございます。あ、そう言えば先程応対して下さった安村さんですが、何年前だったかな…事故で下半身不随になられたんですね…その時に彼のご自宅をバリアフリー化するんだって言って村中総出の人海戦術で工事したんですよ…流石に設計と資材の手配は工務店をやっておられる同級生の方がなされましたが」
 何だか濃くて面倒臭そうな村だ。はなだったら直ぐに溶け込めそうだし向いてそうだが、俺はどうも無理っぽい感じだ。
「大変お待たせしました。貸金庫の中身はこちらになります」
 そう言って手渡されたのは、クラフト封筒一つと通帳が二冊、印鑑が二本だった。封筒には厳重に封がされていたが、目録が貼付されており中身を伺い知ることが出来た。
「日記…?」
「ひとまず事務所に持ち帰ってから中身を確認しましょう」
 彼女にそう提案されるまで、俺は暫くぼーっとしていた。アイツが日記をつけていたのは知っていたが、家を出てからもまだ書いてたのか…
「あ、ちょっと待って。み、いや長谷川先生」
「なんでしょうか?」
「それ、うちの支店で開設した口座だから、最終残高を確認しておこうか?少し時間をくれたら記帳してくるけど」
 機転を利かせてくれた車いすの職員に礼を言うと、俺達は事務所に向かった。

「では、貸金庫の中身を確認いたします」
 昨日以上に凛とした彼女が俺に告げる。この時点まで俺は貸金庫から出てきた物に一切手を触れていない。チラ見しただけだ。
「預金通帳。中山県信用金庫内削支店、普通預金口座、番号〇八四五二一九。名義人、後藤星來様」
「同じく、預金通帳。中山県信用金庫内削支店、普通預金口座、番号四八七〇四〇八。名義人、後藤はな様」
 ご丁寧に二人分の口座作ってたんだ。几帳面だったアイツらしいが。
「印鑑が二本ありますが、記帳ついでに確認してもらいました。届出印と完全に合致します」
 彼女はそこまで言うと、少し間を置いた。
「続いて、預金の残高です」
 俺は大して期待なんてしちゃいなかった。

「後藤星來様の預金残高、七百六十八万七千七百十一円。後藤はな様の預金残高も同額です」
何だと?アイツ、そんなに貯めてやがったのか?
「通帳を拝見した限りでは…少なくとも月に一度は、それより多いこともございますが…数万円ずつお二人の口座に入金しておられたようですよ」
「一体、何のつもりで…」
「最後に、日記帳。ご自身がつけておられたものです」
「こんなもんまで…」
「これを持ちまして、相続物件の確認を終了します。あと、私としてはこれから後藤様が相続の意思決定をされるのを待つことになります。どのようなご判断をされても、直ぐに手続き出来るよう準備しております故、決断は今すぐでなくても構いません。ご決断なされるまでの間、通帳と遺品の日記は当法律事務所でお預かりします」
 俺は暫く考えた。この金さえあれば借金なんてあっという間に完済出来る。なんなら贅沢しなけりゃ車だって買えるかも知れない。はなの預金は?大学の学費位余裕で払える。
 ただ、不安もある。
 この金の出所だ。怪しい商売や犯罪に手を染めて生み出された金だったら…もし…」
「何でしょうか?」
 彼女が凛としたまま無表情で答える。
「もし、この金が悪いことでもやらかして生み出されたものだったり、盗んだ金だったりしたら…」
 今まで仕事モードの時は無表情だった彼女が、俺の目を真っ直ぐに見据え、今まで俺が聞いたことのないような強い口調で言った。
「その答えは、クラフト封筒の中にございます」
 どうしても俺に言いたい、伝えたいことがある。だけど職業上の義務か何かがあって言えない。そんなもどかしさが彼女の感情を突き動かしたんだろう。
「事情については守秘義務がございますので、私の口からお答えすることは出来ません。ただ、当法律事務所から持ち出さないのであれば封筒の中身を閲覧していただくことは可能です」
「じゃあ、ここで中身を確認してから判断しろってことか?」
「ではありません。確認したいのであれば当法律事務所で閲覧して下さい、ということです。見るも見ないも後藤様の自由です」
 口では自由だというものの、彼女の目からは明らかな意思が伝わってくる。
 依頼を受けた以上、彼女は何かを知っている。いや、すべてお見通しなのだろう。そうでもなきゃ依頼を受けたりしない筈だ。
 何も言わず、ただ俺を見つめる彼女の瞳を俺は真っ直ぐに見返す。
 事務所の中を、暫く沈黙が支配した。

 この封筒を開けば、何かが解る。
 この封筒を開けば、忌々しい過去が蘇る。
 この封筒を開けば、余計なトラウマが増えるだけかもしれない。
 
 でも、

 この封筒を開けなければ、何も解らない。
 この封筒を開けなければ、何も見えない。
 この封筒を開けなければ、一生後悔するかもしれない。

 俺は決心した。
「中身を見たい」
「では、ご準備いたします。少々お待ちくださいね」
 暫くして、俺に封筒と鋏を手渡したのは、朴訥な方の彼女だった。

第四章 すれ違った心(後藤攻の追憶)

「ふあぁ…」
 車いすで病院の屋上まで出た僕は、日光を浴びると大きな欠伸をした。これでもかと言わんばかりにギプスで頑丈に固定された右足が僕の自由を制限している。

 そう。あれは一週間前の事。工場で作業をしていた僕は、構内のクレーンで吊荷作業の最中。いつも朝礼で作業主任から『ワイヤは確実に掛けること』『吊荷の下にゼッタイに入らないこと』って厳命されていたんだけど、その日僕は不注意から大きなミスをやらかした。ワイヤの掛け方が少し甘いまま僕が大きな鉄のローラーを吊り上げたその時、大きな軋み音とともにローラーが傾いた。

『しまった』

 そう思った僕が不用意に吊荷に近づいた瞬間、嫌な音とともにワイヤが切れて吊荷がそこら辺に散らばる。『下敷きになる、もう駄目だ』そう思った瞬間、僕の脇に強烈な飛び蹴りが炸裂した。クリーンヒットした蹴りの破壊力で吹っ飛んだ僕は、ローラーの下敷きになることは免れたものの落下して弾け飛んだローラーが僕の右足を直撃した。
 それから先のことはよく覚えていない。怪我というより目の前に落ちてくるローラーの恐怖で僕は気を失ってしまったから。
 僕が正気に戻ったのは、県立総合病院の病室。処置が終わってから間もないようで、作業主任が作業着にヘルメット姿のままで僕の手を握りしめていた。
「親御さんには連絡した。すまん、俺はお前を守れなかった…すまん」
「そんなこと言わないで下さいよ主任。あれだけ言われていたのに不用意に吊荷の下に入った僕が悪いんであって…」
「それを見張るのが作業主任である俺の役目だ。あの時俺は、確かにお前から目を離していた」
 ちょうどその頃、僕の家族がわらわらと病室に入ってきた。父、母、妹、祖父、祖母。一台の車に乗れるだけ乗って来たんだろう。
「わたくし、工場の作業主任をしております後藤と申します。この度は、私の監督不行き届きにて大事な息子さんに大怪我を負わせてしまい、大変申し訳ありません」
 ヘルメットを脱いだ作業主任はそう言うと、皆に深々と頭を下げた。

「てことは結局、ウチの攻(おさむ)が主任さんの言いつけを守らずに迂闊な行動したから怪我したって訳だ…自業自得じゃねえかっ!お前の不注意で会社に迷惑かけてるんだろ、このあほっ!」
 そう言って話の口火を切ったのは祖父。彼は大工の棟梁だからこういうことに詳しいし、厳しい人だから。
「息子の不注意で、主任さんや会社に迷惑かけてしまって申し訳ありません」
 そう言って父が主任に深く頭を下げる。
「いえ、私がちゃんと見守っていれば…」
 お詫び合戦が始まりかけた頃、控えめなノックの音とともに医師が病室に入ってきた。
「ご家族と、勤務先の方で宜しかったでしょうか?」
僕を除く全員が頷くと、医師は自己紹介と説明を始めた。
「当院で整形外科を担当しています後藤と申します。患者さんの怪我の状態ですが、重量物の直撃を受けた右足に二ヶ所骨折があります。一ヶ所目は大腿骨。股関節から膝の中間点辺りとお考え下さい。二ヶ所目は腓骨。膝から足首までの間には二本の骨があるのですが、その二本のうちの細いほうにひびが入っています。骨折部位固定のため、股関節だけは動くようにしていますが、右足全体をギプスで固定している状況です。ギプスが取れたら本格的にリハビリ、日常生活に支障のないレベルにまで回復したら退院、ですな。あ、あと入院生活に関する注意点等は病棟の看護師長から説明があると思いますので」
 そこまで言うと、小学生の妹が僕の耳元で囁く。
「ねえ、お兄ちゃん…いま、この病室にいる人って家族もそうでない人も含めて全員後藤さんなんだね」
 小学生の無邪気な一言には抜群の破壊力がある。誰かがプッと吹いたときに看護師さんが入って来た。
「失礼します。あら、先生もいらしたんですか。私は整形外科病棟の看護師長を務めております後藤と申します」
 全員が笑いを堪えきれなくなった。こうして、後藤だらけの入院生活が始まった。

 大きな欠伸をした後で、僕は後藤だらけ事件のことを思い出していた。あれ、僕の隣のほうで日本人形みたいな綺麗な黒髪の少女が不思議そうな視線を僕に向けている…
 僕は入院してから毎日屋上で日向ぼっこをしたり、外の風景を飽きることなく眺めたり……僕の会社の工場も見えたので、工場の屋根をぼんやり眺めながら僕のせいで遅れているであろう工程のことを考えたりしていた。唯一、屋上で気に入らなかったのはうんざりするほど背の高いフェンスとその上に張り巡らされた鉄条網による『閉じ込められ感』。
 一方、彼女はというといつも花壇の横にあるベンチに腰掛けて文庫本を一心不乱に読み続けている。文庫本にはカバーが掛けられていたから、毎日違う小説を読んでいたのかそうでないのかは解らなかったけど…本を読む彼女の横顔を見て、僕は彼女がきっと美しい人であると思うと同時に、どこか儚げで危うい感じがするミステリアスな雰囲気を感じていた。

「あの、僕に何か?」
 僕を物珍しそうに眺めていた彼女は恥ずかしそうに頬を赤らめると、読みかけの文庫本をパタンと閉じた。
「ご、ごめんなさい!あの…入院している人って大抵暗い顔をしているのに、さっきから何だか楽しそうに微笑んでいらっしゃったから…つい気になってしまって」
 彼女はそう言うと恥ずかしそうに俯く。
「いや、あの……別に入院が楽しいとかいう訳じゃなくて…」
 僕が思い出し笑いの理由を説明すると、彼女は目を丸くした。
「そんな偶然ってあるんですね…で、その事を思い出して」
「ええ、まあ…それ以外にも親類やら何やらの後藤が入れ替わり立ち代わり病室に出入りしてまして…」
 彼女はどこか儚げなまま、クスッと笑った。
「いいなあ、色んな人が来てくれて。私の所には先生と看護師さん以外誰も来ないし」
 「え、貴女の所には誰も…」
「あ、自己紹介もしないままごめんなさい…私の名前はユカ。冬至に生まれたから柚子の香りと書いて柚香。私、家族がいなくてずっと施設で育ったの」
「あ…」
「気にしないで。私の事なんて誰も相手にしてくれないし、話を聞いてくれただけでも嬉しいから」
「そう…だったらいいんだけど」
「私ね、施設から学校に通ってたの」
「ええっ!じゃあ学生さん?」
「そう。高校三年生だったの。去年の三月迄は」
「だった?」
「入院が長引いちゃって、単位が取れずに除籍されちゃった」
「……」
「ごめんなさいね、急に変な話しちゃって。いつも一人でここにいたら、いつの日からか何だか楽しそうな姿をお見かけするようになって…貴方になら、私の話をしても大丈夫かなって」
「あ、僕、後藤攻(おさむ)っていいます。守るとか攻めるの攻めるって書いてオサムです。歳は今年で二十三、です」
「後藤さん、事故にでも遭われたの?」
 僕のギプスを眺めながらそう言って不思議そうな顔をする柚香さんに事情を説明すると、彼女は僕の仕事に関する話に興味を示した。
「あの、私は仕事に就いたことないから皆がどんなお仕事してるのか知りたくって。外のお話を聞く機会もないから…」
「こんな話でいいなら、毎日でもするよ。喜んで!」
「ありがとう。そういえば、荷崩れしたときに貴方を蹴飛ばした方って…」
「ああ、あれはウチの作業主任さ。主任が蹴飛ばしてくれてなかったら今頃僕は吊荷の下敷きだったから、多分ここにはいないよ。我が身の危険も顧みず、命懸けの飛び蹴りさ」
「まあ……じゃあ退院したらきちんと御礼のご挨拶しなきゃ。蹴飛ばしてくれてありがとうございますって」
「そうだね。アハハハ」

 その日から僕は、雨降りで屋上が閉鎖されている時以外は屋上で柚香さんの姿を探すようになった。深夜や朝のラジオ番組で拾ったネタを聞かせてみたり、読んでいる本を交換したり…またある時はお見舞いで貰ったおやつを一緒に食べたり。
 でも、二人だけの楽しい日々はいつまでも続かない。長期入院患者である彼女の病状が急に好転するなんて考えられない話だけど、単に怪我して入院しているだけの僕は日にち薬でどんどん回復していく。大変ながらも楽しい入院生活はいずれ終わりを迎えることになる。
 明日、ようやく僕のギプスが外されることになった。ということは、集中的なリハビリが始まるということ。屋上に来れる時間もかなり減るだろう。そんな話を彼女にしながら、僕は彼女にひとつ質問してみた。
「あの、柚香さんはリハビリとかは…」
 彼女は空を見上げると儚げに微笑んだ。
「ねえ、屋上のフェンスと鉄条網が何の為にあるか知ってる?」
 僕には見当もつかない。黙っている僕に彼女が言葉を続ける。
「私みたいな患者が、飛び降りたりしないようにしてるんだ」
 僕は息を呑んだ。

「私ね、ずっと精神科の病棟にいるの」

 無理しなくていいから、と僕は言ったんだけど柚香さんは入院に至る経過を少しずつ話し始めた。
 高校三年生の夏、下校途中。駅のホームで電車を待っていると、向かいのホームに同級生の女の子が佇んでいる。殆ど話をしたことのない子だったけれど、顔と名前は何となく知ってる子。ふと目が合い、会釈程度の挨拶を交わした…次の瞬間、彼女は躊躇いもなく向かいのホームを通過する快速列車に飛び込んだ。
 彼女は二年生の時に同級生から酷いいじめを受けていたらしくて(現場検証やら、その後のスクールカウンセラーとの面談やら何やらで嫌ほど聞かされたらしい)、彼女はその傷を引きずったまま進級。いじめは収まったものの孤独感とトラウマが彼女を衝動的な死に追いやったようだ。

  何故、止められなかった?
  何故、彼女の孤独に気付かなかった?
  何故、何もしなかった?

 柚香さんの心に、毎日のようにその声が響き渡る。
 言っておくが柚香さんに責任なんて欠片もない。ただ、顔見知りで最後に目を合わせただけ。でも、凄惨な現場の記憶は彼女の心を蝕んだ。それ以来、彼女は電車に乗れないどころか登校も出来なくなり、遂には自殺未遂までやらかして入院したそうだ。いつも隠していたからこの時に初めて気づいたけど、手首のリストカット跡が彼女の傷の深さを物語っていた。
「ごめんなさい、貴方を巻き込むつもりはなかったんだけど…」
 柚香さんが項垂れる。どんな表情だったのかは長い黒髪に隠されて解らなかったけど、床のタイルに滴る涙が僕に全てを教えてくれた。
「あの、私…明日から屋上に来るのを止めます。これ以上貴方に…」
 何かの衝動が僕を突き動かす。それが何かは僕にも解らない。
「何言ってるんですか!明日からも来なくちゃいけない。来るんだ!」
 彼女の泣き腫らした目が、驚いたように僕を見つめる。
「僕はいま話で聞いただけだし、苦しんでいる本人でもないから無責任な言い方かも知れないけど…自分の辛いこと、苦しいことを曝け出しただけで物事を終わりにしちゃいけないよっ!」
 柚香さんが驚いた表情で僕に問いかけた。
「じゃあ、明日から私はここで何をすればいいって言うの?」
「ここへ来て、にっこり笑って『おはよう』とか『こんにちは』とか『また明日ね♪』って言えばいいんだ。まずはそこからじゃない?それを積み重ねて行けばそのうち何か貴女の未来を照らしてくれる光明みたいなもんがきっとどこかに…」
 僕が言葉に詰まった瞬間、彼女がフッと微笑む。今まで見たことのないような、優しいながらも憂いを帯びたような表情が僕をゾクッとさせる。
「変わった人…物好きが過ぎると言うか、お人好しにも程があると言うか」
 僕はこの時既に、彼女を一人の女性として認識していた。いや、正直に言う。惚れていた。嵐の中で、今にも倒れそうな一輪の花が美しく、愛おしかった。

 明日も屋上に来いとか偉そうに言っておきながら、翌日から僕はリハビリ漬けで屋上に行く暇が無くなってしまった。ただ、僕がリハビリ室にいる事を彼女は知っていたので、柚香さんの居場所は屋上からリハビリ室前のロビーに変わった。リハビリを終えた僕に彼女が用意してくれたハンドタオルは僕が使っている手拭とは違った、ふんわりとした甘い香りが……
 この頃から、僕は柚香さんに惚れていた。僕は彼女とずっと一緒にいたい。これからの人生で、僕が添い遂げたい女性は彼女しかいないと確信し始めていた。彼女がどう思ってくれているのかはよく解らなかったけど…

 リハビリは順調に進み、いよいよ明日僕は退院する。柚香さんは外出許可が下りないので、僕は思い切って彼女を屋上でのデートに誘った。何時もはお互い部屋着とかジャージだったけど、この日だけは飛びっ切りのお洒落をして…
 夏の晴れた日。僕はTシャツにデニムのパンツ。彼女は、薄い水色のワンピースに白い麦わら帽子。僕の恰好はともかく、彼女のワンピースはとても良くお似合いだった。
「えへへ。どの服来て行こうかなって看護師さんと相談して決めたんだ」
 よく似合うよ、と褒めた僕に、彼女が恥ずかしそうに答える。
「あのね、今日は…」
 彼女がモジモジしながら手許の手提げバスケットに視線を落とす。
「一緒に食べようって思って、お昼ご飯を用意してきたの。刃物や火は使わせてもらえないから、売店で買ったものを詰め替えただけなんだけど…」
「えっ、そうなの!火とか刃物が使えないのは仕方ないけど、そんなに頑張ってくれたんだ!嬉しいよ!ありがとう!」
「そんなに喜んでくれるんなら、頑張った甲斐があったわ。さあ、戴きましょう♪」
 僕達はお昼ご飯を食べながら、そして食べ終わっても屋上が施錠される時間になって追い出される迄(正直、このとき僕は守衛さんを殺してやろうかと思った)色んな事を話した。
「あ、あの…」
「なあに?」
 恐る恐る切り出した僕に、彼女が優しく反応する。
「明日……僕は退院するけど、時々会いに来てもいいかな?」
 彼女は儚げな微笑みを湛えながら、呟くように答えた。
「待ってる。時々、じゃなく毎日でも」
 それからも僕は暇を見つけては彼女の病室を訪れた。儚げで危うい感じはそのままだったけど、顔を合わせる度に少しずつ元気を取り戻しかけている感じがした……

「あの、ちょっといいですか」
 僕はすっかり顔馴染みになった病棟の看護師さんに呼び止められた。
「はい、何でしょうか?」
 僕に伝えたいことがある、と詰所に案内された僕は柚香さんの主治医から衝撃的な一言を浴びせかけられる。

「覚悟は、出来ていますか?」

「覚悟?」
「彼女は貴方とお友達になってから、驚くようなスピードで回復に向かい始めた。今まで自分の悩みを打ち明けられる人もいなかったんだから、ね。たった一人でトラウマと闘って来たんだ。我々に出来る事といえば出口の見えないカウンセリングとその場凌ぎの投薬だけだった」
「僕が何かの役に立てたんなら良かったです」
「君は、私が言っていることの意味が解るか?今や彼女にとって唯一の心の拠り所は君だ。という事は…」
「という事は?」
 今ひとつ意味が解らない。だから医者ってあんまり好きじゃないんだ。
「彼女が『君に裏切られた』と確信した瞬間、今度こそ確実に彼女の人格は崩壊する」
「!」
 そういうことか…
「手を引く、というかフェードアウトするなら今が最後のチャンス。今後も君が彼女に関わり続けるということは、彼女を生かすも殺すも君次第。私が伝えたかったのは、君にその覚悟があるかどうか、ということ」
 正直言うと、僕は医師からこの話を告げられる前に決心していた。僕は彼女が好きだ。彼女を愛している。僕は彼女の事を一生守り続ける。そう答えると、僕の去り際に医師が呟いた。

「上手くいっている間はいいんだ。ただ、心がすれ違い始めるともう誰にも止められない」

 ゆるゆると回復を遂げた柚香さんは半年ほど後、長々と自由を束縛していた病院に別れを告げて病院の近所にあるアパートで暮らすことになった。
 退院する日。真新しいワンピースの裾をヒラヒラさせながら舞うように歩く柚香さんを眺めながら、彼女の荷物を自転車の荷台に載せて彼女の後をついて行く。
「外壁とか見たら物凄く古いんだけど、お部屋の中が綺麗にリフォームされてたからここに決めたの。お家賃が安かったのもあるし…」
「何かあったら直ぐに呼んでよ。僕ん家のすぐ近くなんだから」
「あら、じゃあ毎日『寂しいよ〜』って呼び出しちゃおうかしら」
 そう言うと彼女は買ったばかりの携帯電話を片手にクスッと笑った。
 柚香さんの強い希望で退院時の説明を僕も一緒に聞いたんだけど、彼女はここで暫く日常生活が支障なく送れるよう訓練みたいな事をする、らしい。看護師さんが服薬とか日常生活の相談に乗ってくれる『訪問看護』とやらに来てもらう手筈も整っているので、医療面でのケアも大丈夫みたいだ。あとは生活費…入院中に殆ど使う用事のなかった(僕が退院先のアパートに運び込んだ荷物も文庫本とCDと衣服が殆どだったから、使うお金なんて知れたもんだったんだろう)障がい年金の蓄えを少しずつ切り崩していくそうだ。ただ、症状が軽くなると精神障がい者の年金は打ち切られるから、それまでに仕事も含めて社会復帰しましょうねってことらしい。
 これから上手くやっていけるのかどうか、という不安はあったけど、僕達は周囲の援助を得ながら上手くやっていた。退院して暫くした頃、柚香さんがテレビで鉄道飛び込み自殺のニュースを見た時は軽いパニックに陥りかけたけど、看護師さんがすぐ来てくれたのと僕がずっとそばにいたこともあって無事に乗り切れた。よし、これで上手くやっていける。医者が言ってた『生かすも殺すも』云々の話はもうどうでもいい。僕がこれから柚香さんを『生かす』んだ。いや違う。僕はこれから柚香さんと一緒に『生きていく』んだ!

 僕と柚香さんが病院の屋上で出会ってから五年経った頃。

「こんな素敵なお店に来たら何か緊張しちゃうな」
 外の世界を知らずに生きてきた彼女にとっては、僕がチョイスしたベーカリーレストランのチェーン店も贅沢なものに見えたのかも。おかわりし放題のパンを選びながらコース料理をいただいた僕達は、飲み慣れていないワインの酩酊に揺られながら店を出た。
「柚香さん!」
 急に跪いた僕。彼女は動揺しながらも僕のただならぬ気配を感じたのか、僕をじっと見つめる。僕はポケットから小箱を取り出すと、中の指輪を捧げた。
「僕は貴女のことを一生大切にします!だから、だから……」
 驚いた彼女がその場にへたり込む。
「えっ…」
「柚香さん、僕の家族になって下さい!僕と結婚して下さいっ!」
 彼女は涙を流しながら、どこか憂いを含んだ瞳で僕に微笑んだ。
「ありがとう。私は『家族』がどんなものか知らずに生きてきたから、攻さんが初めての家族、ということになるのかな…喜んでお請けします。でも、貴方のご家族がどう思われるか…それが不安で…」
 そう言って倒れそうになった彼女を、僕はいつまでも抱きしめていた。
 
 実は、僕が彼女に求婚する前に家族にはその話を伝えていた。
「何も心を病んだ人と一緒にならなくても」
「同情と愛情は似て非なるもの」
 最初は言いたいことをオブラートに包むように話をしていた家族の意思はただ一つ。

 何度も説得を試みようとする僕に家族が突きつけた結論は残酷なものだった。
『頭のおかしい人間を嫁に貰うなどとんでもない』
 その残酷な一言を突きつけられたその時、僕は家族がゼッタイに彼女のことを理解できないと悟った。
「もういい。アンタ達がそう言うなら、今日を限りに僕達はもう家族でも何でもない。こんな家とはおさらばだ。じゃあね」
 そう大見得を切って家を飛び出し、僕が借りたアパートにやって来た彼女は申し訳なさそうに涙を流しながらポツリポツリと話し始めた。
「私なんかと結婚したところで、幸せになんかなれないんじゃ…ご家族も反対しておられるみたいだし…私と無理に結婚したら、貴方がご家族と離れ離れに…家に戻るなら今が最後のチャンスじゃ…」
 涙が止まらないまま言葉を紡ぎ出す彼女を僕はぴしゃりと制した。
「何言ってんのさ!結婚を決めるのは家じゃない!法律にもあるとおり、結婚は両性の合意の元に成り立つもの。そう、結婚するかどうかは僕達当事者が決める事だっ!こっちが幸せそうにしてたら、幸せな家庭見たさに向こうから見に来るよ。家族が二人だけで寂しいんなら、新しい家族を作ればいい」
 彼女は頬を赤らめると、涙を流しながら嬉しそうに俯いた。

 二年後。あれは空に星が瞬き始める…そう、一番星が空に輝き出す時間帯だった。
「もう少し、あと少しだから!頑張って!頑張れぇぇぇっ!」
 僕の絶叫の直後、やや控えめの産声とともに元気な男の子が生まれた。
 僕達は結婚するときにある約束をしていた。
『男の子が生まれたら柚香が、女の子が生まれたら僕が名前をつける』
 生まれたのは男の子だったので、彼女は産婦人科の病室で我が子に命名した。

  『星來(せら)』

 フランス語に漢字を当てはめたもので『Sera』には二つの意味がある。一つは未来を表す動詞。英語で言うと『will be』、もう一つは『意思』。これを繋げて『未来への意思』という意味を持たせ、輝かしい未来にこの子が確固たる意志を持って進んでくれることを願って名付けたんだよって分娩室で教えてくれた。

「ねえ、パパ…どうしよう」
 柚香さんは星來が熱を出したりしたときなんかに時々パニックに陥りかけることがあった。そんなときは僕が夜中に星來をおんぶして小児科の救急外来へ連れて行ったり…柚香さんはどうもその辺に上手く対処できないから、僕の出番だ。て言うか僕は彼女に出来ないことを親として立派にやってみせる。その一心で僕は彼女を支え、逆に彼女は母性を発揮して『お母さんでしか出来ないこと』を見事にこなしてくれた。父親、母親ともに何かと至らないことが多かったけど…
 ところが、だ。
 僕達が想像する遙か上を行く位、星來はとても優しくていい子だった。赤ん坊らしく愚図ってみせるとかいうことは殆どなく、寧ろどうしていいか解らなくなってパニックに陥った柚香さんと何も出来ずにただオロオロしているだけの僕を星來がベビーベッドの中から優しく見守ってくれている、そんな感じだった。僕達二人だけの生活だったら、どこかで上手くいかないこともあったかも知れない。そう、星來がいてくれるからこそ今の僕たちがある。きっと僕たちは星來に育てられているんだよね。ベビーベッドで優しい寝顔を見せてくれる星來を二人で眺めながら、僕と柚香さんは毎日のようにそんな話をしていた。

 柚香さんはいつも『四人家族で、子供は男の子と女の子がいい!』と言っていた。彼女の望みは叶うのが少々遅れてしまったかも知れないけど、星來が生まれてから五年後に遂に待ち望んでいた女の子がこの世に生を受けた!
 
  『はな』

 瓜二つと言ってもいい位、柚香さんにそっくりな顔をしていたことと彼女に初めて会った時の『嵐の中で、倒れそうになっても咲き続ける一輪の花。美しく、愛おしい花』という印象が真っ先に思い浮かんだから、僕は迷うことなく『はな』と命名した。
 柚香さんは『可愛らしい、いい名前ね。名前の通り、皆の心の中に咲く花になってほしい』と微笑んでいた。
 当たり前のことなんだけど『はなが生まれたことで星來が赤ちゃん返りするのでは』と僕は危惧していた。僕が家に居る時はなるべく星來の傍を離れないようにして孤立感を生み出さないよう努力はしていたんだけど、僕が仕事で不在にしている時はどうしているのかもの凄く気になって……で、柚香に聞いてみたけど『いつも優しく微笑みながらベビーベッドのはなを眺めているか大人しく絵本を読んでいるか』だって。会社の人に聞いてみたら『五歳下でも…いや、もっと離れていても弟か妹が生まれたら赤ちゃん返りするもんだ。親から百パーセントの愛情を自分に注いで貰えないと解った瞬間に、上の子は親の愛情を取り戻そうとして愚図り出すもんだ』と言われたんだけど、星來はまだ五歳なのに大人びているというか何かを達観したような不思議な子で『赤ちゃん返り』というより『兄としての自我』がいち早く目覚めたようで『貴方より星來のほうがよっぽど育児参加してるんじゃないかしら』って柚香にからかわれた。
 何か仕向けた訳でもないんだけど、星來はある日ベビーベッドの柵を乗り越えたかと思うと微睡むはなを愛おしく、慈しむかのように抱きしめた。
 はなに釣られて微睡み始めた星來を見つめる僕と柚香さんは、二人の姿にカメラを向けた。

『発令、後藤攻殿。本日付け、作業主任を命ず』

 その日は突然やって来た。今まで僕が働く部署にいた作業主任(僕を命がけで蹴飛ばしてくれたあの人だ!)の栄転による所謂『玉突き人事』。内々に打診があったときは『家族のことがあるんで』と断ったんだけれど…柚香さんのことは会社に伝えてあったし、これまでにも何度か柚香がパニックを起こした時に早退とかさせて貰っていたから。
 それでも『どうしても』と言うので僕は思い切って柚香に相談することにした。
「サラリーマンなんだから、会社の方針に逆らうのは良くないと思うわ。私のことならきっと大丈夫。何かあったらスーパーお兄ちゃん、星來がいてくれるし♪」
 彼女はそう言って微笑んだが、その裏側に存在した『初めて会った時に見た、危うげで儚い感じ』を僕が見抜けなかった瞬間から、家族の歯車は噛み合わなくなり始めたんだということを後になって思い知ることになる。

 僕が作業主任になってから暫くは順調、というか平和な毎日だった。僕みたいな不安全行動で怪我をする莫迦もいなかったし、工程の都合で残業が続くことはあっても柚香さんは『頑張ってね。星來とはなのことは私に任せて』と言ってくれた(後になって思えば、それが『すれ違い』を生み出すトリガーになっていたんだ、畜生!)けど、家に居る時は家族とのコミュニケーションを大切にするように細心の注意を払っていた。はなも優しくて大人しい子で、柚香さんがパニックを起こすようなこともなかったから『このまま行けば大丈夫』みたいな根拠のない安全神話的な気持ちが僕を支配し始めた。柚香さんの気持ちなんかそっちのけで…

 新年度を迎え、我が部署に新人がやって来た。工業高校から新卒採用された女の子だ。
「初めまして、新人の大川知美と申します。皆さん、宜しくお願いします!」
 やや強張った表情で挨拶する彼女を、皆は二通りの表情で出迎える。『ようこそ我が社に、っていう歓迎の意思』と、正反対の『負の感情』。昔ながらの古い考えの人達は、あからさまに『女に何が出来る?』的な冷たい視線を向けていた(視線だけじゃなくその感情を態度で示してしまったもんだから、彼女のプレッシャーは相当大きなものだったと思う)。
 作業主任という立場上、僕が付きっきりで彼女に仕事を教えることになったんだけど、作業の合間に『女だからって莫迦にされてたまるか』とか『私がしっかりしないと、後輩の就職まで危うくなる』とか言いながら自身のモチベーションを鼓舞する彼女を危うく感じるようになった。このままじゃいつか大きな失敗か労働災害でも起こしそうだ。そう確信した僕は口を酸っぱくして『変に気負うと注意力散漫になるから、余計な事は考えずに目の前にある作業に集中する』よう事あるごとに注意喚起しながら遅れがちの工程を気にする毎日が続いた。
 大川さんが気負い過ぎだったのか単に鈍臭かったのかはよく解らなかったけど、とにかく彼女は危なっかしかった。思い込みと気負い。間違った方向にベクトルが向き始めた感情が、結果的に空回りして作業が止まることも多々あったので段々と皆の雰囲気も悪くなりかけていた。

 マズい!
 これではいけないと思い、僕は一日の作業が終わった後も大川さんに粘り強く作業手順を教え続けた。少しでも皆の作業について行けるように…
 その頃だ。これじゃいけない、と思いながらも僕は家に帰るのが遅くなるのが当たり前のようになりつつあった。そう、大切な家族である心が折れそうな妻と二人の乳幼児を放ったらかしにして仕事に没頭していた。

「最近、お仕事大変そうね。そんなに忙しいの?」
 やや疲れた表情をしながら、柚香さんが僕の顔を覗き込む。
「いや…春に入社してきた新人さんが中々上手く仕事ができなくってさ。で、付きっきりになって教える羽目になったんだ。技術系の仕事に進出してきた女の子ってどう接したらいいか解らなくって…」
 僕がそう言った瞬間、柚香さんの顔色が変わった。育児疲れで消耗しきって顔色が良くない彼女の目つきが変わる。余計な事を言わなけりゃ良かったかな、と思ったが後の祭り。
「ああ、そうなんだ。今、貴方は女の子に仕事を教えてるんだ。そりゃ大変ね」
 その日以降、柚香さんの僕に対する当たりが明らかに変わった。『自分と星來とはなという大切な家族より新入社員の事を大事にするようになったんだ』って彼女は勘違いし始めたようだ。僕はただ、家族の為に頑張って働いているだけなのに…

 ある日、柚香さんは遂に僕のせいでパニックを起こした。いつものように夜遅く帰宅した僕を、柚香さんは冷ややかに迎え入れる。
「今日も遅くまでお疲れさま。仕事のバディが女の子だったらお仕事も楽しそうね。それともお仕事以外にも何か…?」
「何を言ってんだ、そんなわけないだろ!僕はただ、家族の為に、会社の為に働いているだけだ!」
 つい大声になった僕を柚香さんが諫める。
「し~っ、大声出さないで!うちには小さな子供が二人もいるんだから…」
 柚香さんは眉を顰めると、口に人差し指を当てて囁くように言った。

 僕が一生懸命築き上げてきた『家族』が、今まさに崩壊しようとしている…
 
 その日から、医者でも家族でもない奴が見ても容易に想像できるくらい柚香さんの症状は悪化の一途を辿り出した。いくら僕の想い、本当の気持ちを伝えようとしても彼女の中では『私以外の女性に入れあげている』絵は変わることは無い。遂に彼女は『私よりあの女がいいならそいつの所へ行けばいいじゃない!』とかいう言葉を吐くようになった。僕は単なる誤解だと思っていたから最初はそれでもいいと思っていた。いつか誤解は解けるんだ、そう頑なに信じていたのに…だけど、日を追うごとにその誤解はいつしか既成事実のようになり始めた。まるで、それが真実であるかのように…
 だって、柚香はその言葉を星來とはなの前で平然と言うようになったから。
 柚香が毎日のようにその言葉を口にするたび、星來はまだ何も解らないはなを抱きしめて、ただ黙って時が過ぎるのを待っていた。

 ある晩、僕は夢を見た。柚香さんがまだ入院していた頃の夢を。
 今まで僕に優しく接してくれていた柚香さんが、冷めた表情で僕を見つめる。そこに言葉はない。
 何も言わないまま、彼女は僕の元から立ち去ろうとする。

「柚香さん、どうしたの…?どこへ行くの…?」

 彼女は涙を流しながら、僕に向かって微笑んだ。

  貴方は、私の事を騙していたのね。
  さようなら。お元気で。

 唖然としている僕の視界が少しずつ闇に支配される。
 暗闇から、誰かの声が響く。

  『すれ違い始めた心は、もう誰にも止められない』

「……っ!」
 布団から飛び起きるようにして僕は目覚めた。
 僕はゆっくりと周りを見渡す。ああ、これは夢なんだ。僕と柚香さんの心はまだ繋がっている…その時僕はそう信じていた。でも、それはまやかしだったことを後に痛感することになるんだけど…
 僕一人しかいない部屋(柚香さんが露骨に嫌な顔をするうえに、星來やはなに変なことを言い出すので仕方なく部屋を分けていた)で身支度を整えると、居間にいる三人に声をかける。
「じゃあ、僕は仕事に行ってくるよ。今日は定時で帰って来れると思うから」
 柚香さんからは何の返事もなかった。ドアの向こうではなが何か言っているようだったけど、柚香さんと星來は何も答えちゃくれなかった。

 嫌な予感とともに仕事を終えて家に戻った僕は駐車場に車を駐めてアパートの玄関に辿り着いたその時、異変に気付いた。僕の作業服と着替えが洗濯かごに放り込まれて、玄関脇に積んである。
 まさか…!
 慌てて玄関の鍵を開けようとしたんだけど、開かない。鍵が回らない。暗がりで目を凝らしてよく見ると、シリンダー錠が新しいものに交換されている。道理で開かない訳だ。要するに、僕は家から閉め出されたっていうことか。
 インターホンを押してもうんともすんとも言わない。故障とかじゃなくて、明らかに電源がカットされている。呼び出し音すら鳴らない。大声出してドアをドンドン叩いたら近所迷惑になるからそっとドアを叩いて呼びかけてみたんだけど、返事はない。ただ、中からは人の気配がするし電気も点いている。て言うか玄関ドアのすぐ向こうに人の気配がする。間違いなく三人は中にいるんだけど、僕の存在を無視するかのように反応してくれない。
 慌てて外に飛び出す。
 人気のない所で携帯電話を取り出し、柚香へコール。数回の呼び出し音の後、彼女の携帯電話から応答があった。
「一体どうしたんだ?お願いだから鍵を開けてくれないか…一度落ち着いて話をしようよ。柚香は何か大きな勘違いをしているんだって」
 暫くの沈黙が、僕にはとても長く感じられた。彼女は一言も言葉を発してくれない。
 嫌な沈黙の後、彼女のすすり泣く声が聞こえる。
 やがて通話は途切れ、その日以降電話は通じなくなった。
 でも僕は諦めない。諦めてたまるか。きちんと話し合って、また四人で楽しく暮らすんだ!
つまらない誤解さえ解ければ、また四人で楽しく暮らせる筈だ!
 解決策を模索した僕は、家と工場の間に古いアパートを借りて柚香の誤解を解くつもりで待機することにした。電話は繋がらない(数日後に電話したら、解約されていた!)し行っても鍵を開けてくれないどころか相手にもしてもらえないので、僕は彼女に何度も手紙を送った。ゆっくり話し合おう、僕は待ってるからって。仮住まいの住所と連絡先を書いたメモを添えて、僕は祈るようにポストに投函し続けた。
 数日後。
 郵政局からの不在連絡票がポストに放り込まれているのを見て僕は凍り付いた。差出人の名前は『木下柚香』。何だこれ…一体彼女は何を考えてこんなことを…僕の家族なんだから彼女の名前は『後藤柚香』だろ。それとも何か…木下性を名乗って小包を送ってきたということは僕に対する決別の意思表示なのか…?

 彼女から届いた小包の封を開けると、残酷な事実が僕の目の前に突きつけられた。
 同封されていたのは、離婚届と僕が子供の頃からつけていた日記、あとは彼女が解約した携帯電話。日記は読んじゃ駄目だよってずっと言っていたし読まれたような形跡は今まで全くなかったけど、今回は明らかに読まれていると僕は確信した。
 ページがくしゃくしゃになっているし、柚香の誤解が始まった頃からのページに、水滴の跡がいくつもあった。まさか彼女、これを読んで泣いていた…?
 僕は日記に嘘なんて一切書いたことはない。もし、彼女がこれを読んで誤解だってことに気付いてくれたなら…?

 ラストチャンス!
 僕はアパートを飛び出し、家に向かって突っ走る。
 柚香、お願いだから鍵を開けて!
「……」
 運命の女神様は、僕に微笑んでくれることはなかったようだ。飛んで帰った我が家はもぬけの殻。僕が色々と想定していた中で、最悪の結末だった。
 呆然と立ち尽くす僕に、これまで仲良くしてくれていたお隣のおばさんが言いにくそうに言葉を紡ぎ出す。
「昨日のお昼前にね…家に誰かが訪ねて来たの。何か役所か警察っぽい感じの人たちと看護師さんとかお医者さんかな…多分、彼らは奥さんと子供ちゃん二人のことを保護するために来てくれたんだと思うんだけど…で、ひと悶着あった後に奥さんが大声で『子供たちを施設に預けるなんてゼッタイに嫌だ!』って言って激しく抵抗してたの。でも福祉だか病院の人だかに宥められて、最後は車に乗って何処かへ行ってしまった。奥さん、憔悴しきっていて俯いたまま何も言えずに子供ちゃんと別の車でどこかへ行っちゃったみたい。あとは引っ越し屋さんみたいなのが来て家の中のものを全部…」
 僕はこの瞬間、全てを失ってしまった事を悟った。三人が家を出て、荷物まで引き払ってしまったと言うことは、もう僕達が一緒に暮らすことが出来なくなったという残酷な事実がそこにあると言うことだ。

 翌日、僕は会社を休んで僕と柚香さんが出会ったあの総合病院にも行ってみた。柚香さんとお付き合いを始めた頃に主治医をしておられた先生がまだ精神科に在籍しておられたので、無理矢理頼み込んで診察時間外の休憩中に話をさせて貰ったんだけど、いくらお願いしても会わせてはくれなかった。先生は『患者の状況については医師としての守秘義務があるからお話しすることは出来ない』と、とりつく島も無いような感じで僕を突き放した。まあ、『一般的なことだけど』と先生は前置きした上でパニックを起こした彼女がとても人に会えるような状態ではなかった事と、第二のトラウマ(僕が原因だ!)に心を蝕まれた病院では生活できないこと、今はもう転院してここにはいない事をやんわりと匂わせていた。そうか、ここに来ても柚香にはもう会えないんだ…

「だから言っただろう。『すれ違い始めた心は、もう誰にも止められない』んだ』
 先生の最後の一言は、僕にとっては死刑宣告のようなものだった…

 次に追いかけた子供たちはもっと悲惨だった。
 県内の児童養護施設を片っ端から当たってみたけど、門前払いで話すら聞いて貰えない。そりゃそうだ。経過が何であれ、僕は妻と子供を捨てたんだから。
 失意のどん底にあった僕は、長年勤めた工場も辞めてしまい家を引き払って県内を当ても無く彷徨っていた。もう家族や知り合いには会いたくないし会いたくもない。かと言って死ぬ度胸もないから、家族も知り合いもいない所で静かに暮らそうかな、なんて思いながら…
 通勤に使っていた軽自動車で山奥の田舎道をぼんやりと走っていたその時、僕はある村で偶然求人の貼り紙を目にして急ブレーキを踏んだ。偉い達筆で書かれていたが「クレーン・電気工事経験者求厶。資格取得者・経験者優遇。社員寮アリ」の文字を僕は認識した。
「ほう、それでウチに飛び込んで来たって訳かい」
 工務店の事務所で僕の話を黙って聞いていたお婆さんが徐に口を開く。
「ええ、まあそういう事でして…僕は家族を捨て、何もかも失ってここへ来ました」
「で、あんたは工事の経験とか資格はあるのかい?」
「工場で働いてたんで、屋内なら天井走行クレーン、出先ならユニックも使えます。電気工事も資格と実務経験がありますから、戸建住宅や小規模ビルの配線工事位なら…」
 お婆さんは僕を真っ直ぐに見据えると、優しくもあり厳しくもある口調で告げた。
「あんたがその気ならウチで働いてくれたらいい。社員寮っていってもこの敷地内で半分居候みたいな生活になるけど、覚悟はいいかい?」
 僕は、お婆さんの目を見て大きく頷いた。僕に残された道はそれしかない。

「ようこそ内削村へ。我が景浦工務店へ」

 僕は翌日から必死に働いた。忙しさは寂しさを忘れさせる、とか言うけどまさにその通り。僕は寂しさを紛らわせる為に、いや『子供を捨てた』という現実から逃避する為に働き続けた。
 仕事を始めてから、せめてもの罪滅ぼしというか単なる自己満足でしかないんだけど、僕は地元の信用金庫で貯金を始めた。星來とはな、それぞれに口座を作ると収入がある度に同じ額を貯金した。いつか会える日が…もしそんな自分勝手な願いが叶うなら、きちんと二人にお詫びしてこれを渡そう。

 あれから何年経っただろうか。
 星來はもう二十歳を過ぎてるし、はなは高校生、か。

 僕はここ数日、今までに感じたこともないような胸の痛みと息苦しさで仕事を休んでいた。
「後藤さん、電話だよ。市立病院からだって」
「すみません、すぐ行きます」
 僕は離れの従業員寮から母屋の事務所へのそのそと歩き出す。大抵の人が携帯電話なりスマートフォンを持っているこのご時世に、僕はどちらも持たないままで生活していた。そんなモノに費やすお金があったら、星來とはなのために少しでも残さないと…て言うか家族も何もかも全て捨ててきた人間に連絡する相手なんかいないし。
「お待たせしました、後藤です」
 電話の向こうで、ただならぬ雰囲気の声が聞こえる。
「わたくし、先日呼吸器内科で検査を担当しました医師の奥と申します。突然お電話を差し上げまして申し訳ありません」
 こんなに切羽詰まった感じで電話をかけてくるなんて一体どうしたんだろう。
「実は、検査の結果について至急お伝えしたいことがあります。急なことで申し訳ないですが、すぐにでも受診していただきますようお願いします。あ、受診されるときはご家族と一緒にお越しください」
「あの、僕に家族とかはいないんですけど…」
 やや困惑気味に話す僕の話は皆に筒抜け。事務所の隅っこで紫煙を燻らせていた社長が反応する。
「あの、ご家族でなくても構いません。同居人、会社の上司や同僚、お友達……どなたでもいいので『第三者として俯瞰的に物事を判断できる方』に同行いただければ、と」
 どう答えたらいいか考えを巡らせる僕の右手から、社長が乱暴に受話器を引ったくる。
「俺様は会社の仲間で雇用主。同じ敷地の中で生活していて家族同然の付き合い…だったら文句ないだろ」
「ご本人が、それを望まれるのであれば……」

「単刀直入に申し上げます」
 先日、電話で奥と名乗った医師が僕の目の前にいる。丸椅子にちょこんと座った僕の斜め後ろにはパイプ椅子に腰掛けた社長。医師は表情一つ変えず、僕達に衝撃的な言葉を口にした。
「所謂『告知』です。後藤攻さん、貴方の病名は『肺がん』です。先日受診していただいた際に様々な検査を行いましたが、間違いありません」
 社長がもの凄い勢いで立ち上がる。後ろにひっくり返ったパイプ椅子を看護師さんが慌てて元に戻す。
「で、後藤さんは手術とかしたら回復するのか、なんとか言えコラァ!」
 大声で喚く社長のことなど意にも介さず、医師は僕を真っ直ぐに見据えて淡々と言葉を紡ぎ出した。
「テレビやなんかでよく言われますが…がんには『ステージ』っていうものがありますよね…後藤さんの肺がんは『ステージⅣ』に分類されます。病変は肺だけではなく他の部位に…要するに『肺はがん細胞に侵されていて、更に他の部位にも…リンパ節やら他の臓器に転移している可能性が非常に大きい』ということです。まだ他の部位を検査したわけではないので断言出来ませんが、まず間違いないかと」
「てことはこれから検査をしたら他の臓器にも転移してる、ってこと…」
 状況が飲み込めないながらに言葉を紡ぎ出す僕に、医師は僕と社長に残酷な事実を告げた。
「そう思っていただいて結構、です」

 俄に信じがたい事実を突きつけられて、僕と社長は何も言えなかった。その場でどうこう答えられる話でもないから、いったん診察室を退出して僕達は病院の食堂でお昼ご飯を戴きながら今後のことに考えを巡らせた。
「さっき医者も言ってたけどよぅ」
 社長が呟くように口を開く。
「後藤さんのがんは肺だけじゃなく身体のあちこちに転移してるだろう、って話だったじゃねえか」
 僕は大きく頷く。この事実を突きつけられた今、僕の答えはこの時点で決まっていた。あとは、その結論をいつ社長に伝えるか、だ。
「ですね。無理くり手術したところで、生存率は安打製造機の生涯打率以下だって」
「俺様は、後藤さんに少しでも長く…あと少しでも、もう少しでも長生きしてもらって俺達と一緒にいて欲しい」
「え?」
 社長が頭をぼりぼり掻きながら言葉を続ける。
「後藤さんはよぅ…ウチに来てくれてからずっと…他の職人が嫌がるようなことでも…何でも率先してやってくれてただろうが…新人教育なんかその最たるもんだ。『俺の背中を見て憶えろ』なんて格好付けたことぬかしやがってごまかす奴もいたのに、後藤さんはずっと『次世代に技術やノウハウを継承するのも僕の仕事だ』って辛抱強く若い連中に色んなことを教えてくれたよな?」
「ええ、まあ…」
 そんなに大したことじゃないと思ってたんだけど…
「だから…後藤さんはウチにずっといて欲しい…いや、いなくちゃならねえ存在なんだ。本人の意向をフル無視して俺様がこんなこと言うのも何なんだが…」
 社長が突然立ち上がる。
「なあ、後藤さん。家族のことで色々あって…子どもさんのことなんか…色々辛いことを抱え込んでいるのは俺達も聞いている。後藤さんは自分のことを『家族を捨てた裏切り者だ』と思ってウチで暮らしてたのかも知れねえが、あんたは『俺達の仲間、大切な家族』なんだ。失礼を承知で言う。後で俺様が何を言われたって構わない。本人がどう思っていようが、あんたは俺達にとってかけがえのない存在なんだ。あんたの居場所はここだ…だからっ…例え後藤さんが現場に出られなくなったとしても、自分の足で歩けなくなったとしても…これからもウチにいて、俺達に色んなことを教えちゃくれねえか!」
 今まで社長がお客さま以外の人に頭を下げるのなんか見たことがなかった。社長がそう仰ってくれたってことは、僕が工務店で働いてきたことがほんの少しでも何か人の役に立ってたってことなのかな…
「ありがとうございます…」
 僕の双眸から涙が零れ落ちる。長い間、僕が目を背けてきた…いや、こんなもの世の中に存在するもんかって思っていた感情が僕の心を支配する。

 『僕は、独りじゃないんだ』

 でも、僕は決心していた。こんなこと、社長に言ったら怒られるだろうな…
「ありがとうございます、社長」
 社長が安堵の笑みを浮かべかけたその瞬間、僕は仕掛けた。
「社長がそう仰ってくださるのは有り難いし嬉しいことなんですが、僕の中でもう結論は出ています」
 何も言わず、ただ無表情で僕を見つめる社長に告げた。

「これは、たぶん僕が妻と子ども達を捨てたことに対する報いです。所謂『天罰』という奴なんでしょうね…家族に酷い仕打ちをしながら、どうして自分だけ生き延びられるんだ…そんな自分勝手な人生なんて…要はそういうことです」
 僕は食堂の天井を見上げながら大きく息を吸い込むと、もう一度社長に向き合った。

『手術はしません。こんな運命になってしまったのは全て家族を捨てた自分のせいです。平均寿命より少し短いかもしれないけど、家族を捨てた罰が下ったんです。僕はその運命を受け入れます』

「本気で仰っているんですよね?いいですか、この決断はゲームじゃありませんから、コンティニューやリセットはありませんよ?本当にそれでいいんですか?」
 医師に何度も問い質されたけど、僕の決意は揺るがない。いま建築中の戸建て住宅が一軒とリフォームが二軒。その仕事が終わったら僕は入院して、穏やかに死んでいく。延命なんかしない。『死ぬことで己の罪から逃げようとするのか』と言われたらその通りだ。もう逃げ切れなくなったってこと。
 
 最後の新築物件がいよいよ仕上げに入ろうかという頃、工務店に一人の若い女性が訪ねてきた。暫く姿を見かけなかったけど、あの子は長谷川さんとこの光子さん(みっちゃん)だ。確か帝都の大学へ進学したとか聞いてたけど、こっちに帰ってきたのかな…?
「おや、みっちゃん待ってたよ」
 工務店のお婆さん(社長のお母さん)が奥から大きな包みを持って出てくる。小ぶりのリビングテーブルの天板かっていう位大きな包みをよく一人で担いで出てきた。
「お約束の開業祝いだよ。持って帰りな」
「有難うございますっ!」
 とは言えかなり大きくて彼女一人じゃ運べそうにない。思案顔の彼女に僕は提案した。
「じゃあ僕が軽トラで運ぼうか」
「そうしてやってくれるか、後藤さん」

「あれっ?みっちゃん家ってこっちの道じゃなかった?」
 思っていたのとは反対方向の道を指差す彼女に僕は少し驚いた。
「実はこの度、お社の裏手に新しく事務所を開くことになりまして…」
「へぇ、凄いね。若いうちから開業なんて僕には出来なかったなぁ」
「そうは言っても大したもんでは…あ、ここです。古い納屋みたいな所ですが、一応ここが事務所です。で、景浦のお婆さんが事務所の開業祝いにって看板を作ってくれたんですよぅ」
「それがこの包み、ってこと?じゃあ僕が設置までやってしまおう。工具も積んだままだし」
「いや、そこまでして戴くのは…」
「安心の一貫施工、全てのものに魂を込める景浦工務店にお任せあれ!」

「素敵な看板ですねっ、有難うございます!」
「お婆さんは昔から字が上手だからね。いやあ、立派なもんだ」
 その時、僕はある事に気付いた。
「あれっ?みっちゃん弁護士事務所を…」
 彼女は何だか照れ臭そうに頭をぼりぼりと掻いた。
「ええ、まあ一応法学部卒で試験にも受かりまして…とは言え都会で就職のご縁が無かったようで、地元に帰って来ました」
 僕はみっちゃんをじっと見つめた。しばらくの沈黙の後、僕はビックリしたような表情の彼女に告げた。
「じゃあ、ちょっとお願いしたい事があるんだ。みっちゃんに、ではなく長谷川弁護士に」
 今まで村の人達に僕の事を喋ったことは殆ど無い。職人見習いの若い子に星來とはなの話をした位か…でも、もうすぐ僕はこの世から居なくなる。僕が死んだ後の始末やら子供たちへの届けものなんかを誰かにお願いする必要があったから、僕は彼女に全てを話した。誰かに迷惑をかけるのは嫌だったけど『弁護士に依頼する』となれば顧客とクライアントの関係になれるから気兼ねなくお願いできる。僕は今までの罪を全て吐き出すように、彼女に全てを話した。

「事情は解りました。御依頼はお請けいたします」
 彼女は『私情を挟んではいけない』と思っていたんだろう。でも、あっという間に彼女は凜とした長谷川先生からいつもの優しいみっちゃんに戻ってしまい、目に涙を溜めながら何も言えずに黙っていた。
「僕は家族を捨てて、今までこうやって逃げ回ってきたのさ。最後くらいはキチンと始末つけないと、ね」
 彼女は項垂れると、遂に涙を流し始めた。
「運命というのは残酷なものですね…ほんの些細なきっかけでもお互いの気持ち、と言うか心がすれ違ってしまうんでしょうか…?すれ違い始めた心は、どうやっても…」
「戻らなかった」
 僕は呟いた。
 どれ位の時間が経っただろうか。みっちゃんが重い口を開いた。
「何か…記録というか書き置きみたいな物でも遺せたら…お子様に何も伝えないままっていうのは如何なものかと…」
「今から全てを書こうにも時間がない。いま手元にあるもんで、となると昔からつけていた日記位かな…」
「では、その日記を遺しましょう。後は、それを読んだお子様たちに判断して頂ければ宜しいかと」
 大きなクラフト封筒を受け取った僕は、日記帳を封筒に入れて封をした上で次の日に持って来るよう言われた。星來とはなの通帳は信用金庫の貸金庫に預けてあるから、一緒にこの日記を預けてしまおう。あとは僕が死んだ後長谷川先生がなんとかしてくれるから。

 もし、星來とはながこの日記を読んでくれる日が来たら…僕はそう思って日記帳に最後の筆を入れた。
 
    星來、はな。
    君たちを捨てたりして申し訳なかった。
    今、どこで何をしているのか知る由もないけど、
    星來は今もはなのことを守ってくれてるのかな。
    はなは今でも星來に優しく微笑んでいるのかな。
    君たちがこの世に生を受けた時、
    僕と柚香は一生かけて君たちを守るんだって誓った。
    結局守れなかったけど、
    その時に誓ったことは嘘じゃない。

    本当にごめんなさい。
    あと、生まれてきてくれてありがとう。
    君たちがいたから、僕はここまで生きてこられた。

    最後に、勝手なお願いだけど。
    二人の間で、どうか心がすれ違わないように。
    すれ違う心は、僕と柚香で最後にしたい。

 日記をひと通り読み終えた俺は、深く溜息をついた。彼女は微動だにせず俺が何かリアクションを起こすのをただ待っていた。
 頭の中で思っていた事が、思わず口に出る。
「莫迦か、こいつら?」
 彼女は何も言わず黙っていた。
「あんたは、俺がこの日記を読む前からこの事を?」
「存じておりました。依頼をお請けした時に伺いましたから」
「この話を聞いて、弁護士としてじゃなくいち個人としてどう思った?俺と妹は、こんな莫迦みたいな勘違いだかすれ違いだかでずっと苦しんできたんだ」
 彼女の視線が泳ぐ。
「仰せの通り、確かに莫迦みたいな話かも知れません。ただ、この話が事実だったとしたら…」
「だったら何だ?」
「お互いに、想いを寄せていた。ただ、それが上手く伝わらなかったか、解ってても心の整理が出来なかったか。二人の心がすれ違い始めた時点でもうどうしようもなくなってしまったのではないかと。あくまで推論ですし、何よりも私は当事者ではないので…」
「当事者からしたら、莫迦みたいな話だし、俄に信じられるものでもないさ」
 俺はそう言って何気なく日記をテーブルにポンと放り投げた。机上のクラフト封筒が風に舞って床に落ちると、中から一枚の写真が出て来た。
 何処かの神社で撮られたものだ。俺は微かに覚えている。やや緊張気味に写っていたのは父親、母親、はなと俺。
「これは…」
「おそらく、はなが生まれた時にお宮参りで撮ったもんだ」
「この写真…」
 えらく熱心に眺めているが、たかが写真一枚がそんなに珍しいか?
「写真がどうかしたか?お宮参りの写真なんか誰でも撮るだろ?」
「風景じゃありません。写真の角と裏を良くご覧になって下さい。相当擦った跡があります」
「何が言いたいんだ?」
 彼女は強い口調で言った。
「恐らくお父様は、この写真を何度も何度も取り出しては眺めていたんでしょう。アルバムや額に入れていたんならこんな傷は入らないですし、ポケットや財布に入れればもっとボロボロになります」
 彼女は最後に、ボソッと呟いた。

「家族を捨てて逃げるような人が、家族の写真を後生大事にするでしょうか…」

 暫くの沈黙の後、俺は彼女に質問した。
「で、その後どうなったんだ…」
「日記を貸金庫に入れたあと、ひと月も経たないうちに工務店を辞めて入院されまして…やはりがんは手の付けられないような状態だったらしくて半年もしないうちに亡くなられました。私も何度かお見舞いに行きましたが、ずっとお二人の事を心配されていましたよ。あ、あと緊急連絡用に、と周りに説得されて携帯電話を購入されたのですが待ち受け画面はその写真でしたね」

 嘘か誠か、俄かには判断できない。俺は一つの決意とともに、彼女に決心したことを伝える。
「この日記に書いてあることが嘘か本当か俺には判断できない。ただ、俺一人が判断できるものでもないしするべきでもないだろうから、俺はこの日記を持って帰って妹に読ませようと思う。なあ…仮に通帳も一緒に相続したところで、何かを…例えば俺が今使ってる通帳に送金しなきゃならないとかそういうことは無いんだろ?」
 彼女はほっとしたような表情で俺に告げた。
「日記をお持ち帰りになられるのでしたら、早速手続きを行います。参考までに、通帳はそのまま放置しておくと払出請求の時効が成立して国庫に納入されます。要は使うも放棄するも後藤様の意向次第、です」
 彼女は急にそっぽを向いたと思ったら、聞こえよがしに呟いた。
「ご家族にとっては、通帳の残高より日記の中身の方が重要だと思いますがねぇ…」

 最後の公休日、俺は彼女の好意で村のあちこちを回ることになった。父親が最後に暮らしていた村。何もない、景色が綺麗でお人好しが多いこと以外に本当に何もない村だったけど、案内される先々で俺は無意識に父親の姿を追い求めていた。何もない田舎の村だけど、山頂の展望台から見た村の景色だけが何故だか解らないけど俺の記憶に強く残った。

 最後に訪れたのは村の工務店。父親が最後に勤めていた所だ。先に彼女が手を回していたようで、特に何かを詮索される訳でもなく普通に『従業員の親族』として俺は受け入れられた。
「よく来てくれた。俺はお前の親父さんとずっと長い間一緒に仕事をさせてもらってな」
 そう言って社長さんが切り出す。
「お前の親父さん、本当にクソ真面目な職人さんで…俺たちがちょっと困ったときなんかに率先して何かをやってくれる人だった。若造の教育なんかもえらく熱心で…あ、そうだ。親父さんの愛弟子がいるから呼んでやるよ」
 そう言うと社長は大声で従業員を呼びつけた。
「おい、純はいるか?純を呼んでくれ!」
 敷地の中から若い職人さんが駆けつける。
「お前の師匠の息子さんが挨拶に来てくれたぞ。純」
 若い職人さんは、ヘルメットを脱ぐと俺に深々と頭を下げた。
「初めまして、僕は安村純と申します。高校在学中からここでお世話になっていたんですが、その時から付きっきりで僕の面倒を見てくれたのが貴方のお父さんでした」
 社長が話を続ける。
「俺様もそうだが、まあ職人ってのは付きっきりで弟子に仕事を教えるなんてことは大抵嫌がるもんだ。自分の仕事が止まるからな」
 どうでもいいけどこの親父、どうして自分のことを『俺様』って言うんだろう。
「でも、後藤さんは嫌な顔一つせず『次世代に技術を継承するのも僕の仕事なんだ』って言って僕に一から仕事を教えてくれたんです。後藤さんには本当にお世話になって…」
 そんな事までやっていたのか…まあ、俺がガキの頃からそんなことずっと言ってたんだろうな…工場にいた頃はその対象が女の子だったから母親とのすれ違いが始まったんだろうが…まあ何というか、それだけ不器用だったってことなんだろうな…
「あ、そうそう」
 彼が思い出したように声を上げる。
「仕事のノウハウを教えて貰おうと思って、迷惑を承知で彼の部屋に何度か押しかけたことがあるんですが…ひと通り仕事の話をした後はいつも決まって貴方と妹さんの話ばかりしていましたよ」
 え、そうなのか…
「いろんな事情があって子供さんと離れ離れになったとは聞いていたんですが、今日は下の子の七五三だ、とか貴方の成人式だ、とか言って節目のときは村のお社にお参りしていました。本来は本人がいないとできないような儀式でも、神主さんにお願いして『願主の思いが届きますように』って特別に祝詞を上げてもらってたんですよ」
 え、確かアンタ安村さんって…
「あ、僕が何かしたとかいうわけじゃなくて…氏子総代をやっている父が神主さんに話をつけてくれたんです。ほら…長谷川先生と信用金庫に行かれたと思うんですけど、その時応対したのが僕の父です」
 ああ、安村さんってあまり聞かない名前だなと思ってたら親族だったんだ。
「ご存じないかも知れないですけど、村の図書館にもう一人安村がいます。彼女は僕の妻です。世間って狭いでしょ」
 彼はそういうと、優しく微笑んだ。
 これだけお人好しに囲まれて生活していたら、まさか嘘っぱちをいう事も出来ないだろう。てことは日記に書いていた内容もあながち嘘ではないという事か。

 ある程度確証を得たところで、俺は工務店の皆に礼を言うと営業所に戻ることにした。帰りの道すがら、俺は彼女に問いかける。
「なあ、俺の父親って最後にこの村に流れてきて良かったのかな…」
 彼女は軽トラのシフトレバーを巧みに操りながらさも当然のように答えた。
「当たり前、です。この村に来れば誰でも優しい気持ちになれて、心穏やかに助け合って生きていけるんです。何なら後藤様も如何ですか?中山県の営業所に転勤になった際は是非とも我が内削村へ…」
「勘弁してくれ。俺はあんまり濃い人間関係ってのが好きじゃない」
「お越しになられたら、そのうちあっという間に慣れちゃいますよぅ」
 彼女はそう言うと、初めて俺の前で大声を上げて笑い出した。
「この村は、そんなにいい所なのか…?」
 そう呟いた俺に、真顔に戻った彼女が答える。
「かつて私も、何の変化も刺激もないこの村を飛び出したくて帝都の大学に進学しました。その先には、きっと別の未来があると信じて」
 そういやそんな事言ってたな…
「とはいえ、のんびりした田舎暮らしに慣れ切っていた私が都会のスピードについていくなんて無理だったのかも知れませんね…もう少し頭の回転が速い子なら対応出来たんでしょうけど」
 そこまで自虐的にならなくてもいいんじゃないか?アンタ、頭の回転は十二分だと俺は思うけど…
「気がついたら私は『成績は良いけど段取りの悪い子』みたいなレッテルを貼られていました。悔しかったですが返す言葉もありません。だってその通りなんですから」
 そう言って彼女は道端に停車すると、車を降りて空を見上げた。
「就活が上手くいかず、悔しくて悔しくて…ふと空を見上げた時に…」
 彼女に釣られて車を降りた俺も空を見上げる。そこには一点の曇りもない満天の星。
「都会で見た空は、汚れきった空気と派手なネオンの光で星なんて殆ど見えませんでした。都会も村も繋がっていて同じ空なのに、この街は私に星すら見せてくれないんだって思ったら急に村が恋しくなって…」
「で、村に戻って来ようと思った…」
「でも、私は短期間と言えども『大学に進学して、帝都で一旗揚げてやる』なんて家族や村の皆さんに大見得切って村を捨てた身。そんな私を村の人は受け入れてくれるんだろうかという不安を抱えたまま…」
 で、今この村で弁護士をしているっていう事は…
「正直『ただいま』って言っても良いのかどうか…極端な話ですが大見栄切って村を出ていったにも関わらず戻って来た負け犬を村の皆は受け入れてくれるのか、という不安しかない帰郷でした。ところが、ですね…村の皆さんは私が何を言うよりも先に『おかえり』って言ってくれたんです!私にとって人生で一番嬉しい『おかえり』でした…大見得切って村を飛び出したのに『みっちゃんが弁護士になって帰って来た』って、そりゃもう大騒ぎでしたよ。で、恥ずかしながら就職先がまだ決まっていないことをお話ししたところトントン拍子で村で開業する話になりまして現在に至る、ってことで」
「じゃあ、アンタはこの村に戻って来て…」
 彼女は間髪入れずに答えた。
「良かったと思っています。私、やっぱりこの村が好きなんです!あ、そうそう。内削村は所謂『Iターン』とでも言えばいいのでしょうか、移住者を募集していまして…詳しくは町役場のホームページをご覧いただければ…」
「誰がこんなど田舎のホームページなんか覗くんだっ」
「あぁ、酷い事仰いましたねっ!確かに村のホームページをご覧になられる方はごく少数で…信用金庫の安村さんがその辺に相当詳しいようで、彼の監修で相当高いクオリティで作り込んだサイトなんですが、アクセス数のカウンターが年間二桁止まりだったそうです。役場の担当者さんも『こんなことならカウンター機能なんか実装しなきゃよかった』と嘆いておられました。しかし、ですね。私も拝見しましたが、あのサイトを見ると後藤様もきっと移住したく…」
「俺はその『濃い人間関係』が苦手だってさっき言っただろっ!」
 俺達は、満天の星を眺めながら暫くそうやって笑い転げていた。

 翌日。
 俺は夕刻に出発する便で中山県を去る。短い滞在期間で色んなことがあったけど、俺はリュックの中に日記と通帳を大事に仕舞い込んで出発準備を進めていた。
 営業所の入口付近にふと目をやると、何か押し問答みたいな状況が見える。遠くから聞こえるその声を聞く限り嫌な予感しかしない。俺は入口に向かって駆けだした。
 案の定、入口で揉め事を起こしていたのは工務店の社長と彼女だ。
「後藤様っ!貴方にお会いしようとして中に入れていただこうとしたら守衛さんに『関係者以外はゼッタイ立入禁止』と言われて往生していたんです。私達は後藤様の関係者なのに…」
 世間一般ではそれを『関係者』とは言わない。関係者って言ったら出入りの業者か社員だろ、普通。
「で、何しに来たんだ?」
「せっかく内削村にお越しいただいたのに何もなし、手ぶらで帰っていただくわけには参りません!是非お土産を、と思ってですね…」
「俺様とみっちゃんがせっかく用意したんだから、有り難く持って帰れ。大したもんは何もねえが内削村の野菜はピカイチだ。家に帰ったら妹と鍋でもつつくといい」
 それにしてはえらい量だ。俺とはなじゃ食べきれないな…ここはリコさんにお願いして…あ、でもキャビンに私物積んで帰ったら怒るだろうな…

 キャビンに半ば無理矢理詰め込まれた野菜と複雑な思いを抱えたまま、俺は中山県を後にした。

 ありがとう。

 高速に乗った頃、俺は誰に伝えようとしたのかは解らないけどその言葉を呟いた。
 誰に伝えようとしたのか、今の俺には解らない。ただ、少なくとも野菜のお礼ではないことだけは断言できる。
 俺は深夜放送のラジオを聞きながら、鞆浦へ向かった。

第五章 すれ違った心の追憶(山崎貴宏、山崎璃子)

 リコさん家にお泊まり二日目。リコさんはあたしを連れてスーパーに行くと、手当たり次第に食材を買物カゴに放り込み始めた。
「あ、あの…」
「何?はなちゃん」
「いつもそんな豪快に買物するんですか?」
 リコさんは平然と答えた。
「毎日チマチマ買物するのが面倒なのよ…で、私の仕事も結構忙しいから遅くなるともうコンビニ弁当かファミレスになるでしょ?私、アレが嫌なの」
 確かにコンビニ弁当とかファミレスメニューって、変に味が濃いから苦手。
「とは言え、遅くなったら料理する時間もないから炒め物や焼き物中心になるけどね~」
「え、じゃあリコさんの得意料理って何ですか?」
「この食材から何か思い付かないかしら」
 種類があり過ぎて解らない。リコさんが不敵な笑みを浮かべる。
「今晩見てからのお楽しみよん♪」

 食材を抱えて戻って来ると、リコさんは物凄い勢いで支度を始める。あっという間に野菜と肉を切り終えると、隣の部屋からパラボラアンテナみたいなデカい鍋を持って来た。
「まさかリコさん、得意料理って…」
「この鍋でフランス料理とか懐石料理は無理だよねぇ」
 この小さな身体のどこにそんな力が…鍋の中で具材が激しく舞い踊り、あっという間に次々と料理が出来上がる。
「何だか餃子のチェーン店みたい…」
「あら?私の方が早いしヘルシーだし美味いわよ」
「はなちゃんお待たせ。じゃあ戴きましょう」
「いただきま〜す。うわっ、美味っ!何コレ…こんなに美味しい中華は初めてですぅ」
「でしょ?」
 リコさんがドヤ顔で缶ビールを飲み干す。
「しかしあんな大きな鍋振るなんて凄いですね…」
「ああ、あれ?ウチの実家が五人家族、親父は製鉄所で毎日汗だく、しかも兄弟は体育会系バリバリの兄二人、必然的にあの鍋が必要になったのよ。で…私が結婚する頃には二人とも所帯を持ってて既にデカい鍋を持ってたし、年寄り二人にあんな大きな鍋は要らないから私が譲り受けたワケ。まあ、大き過ぎて台所の収納に入らなかったのだけは誤算だったけど」
 新しいビールを取りに台所へ来たついでに、中華鍋を振り回しながらリコさんがケラケラ笑う。
「でも、あの鍋を振れるリコさんのパワーって凄いですね。あんな大きな物をいとも簡単に振り回せるなんて…」
「ああ、私も子供の頃からスポーツやってたからねぇ」
 リコさん、何のスポーツやってたんだろう。だんだん興味が湧いてくる。これって聞いても怒られないかな…そう思いながらもあたしは『リコさんに聞いてみたい衝動』を抑えられない。まあ、優しいお姉ちゃんだからきっと怒らずに教えてくれるだろう…
「あの…中華鍋をブン回せるスポーツって…」
 リコさんが『待ってました』とばかりにドヤ顔であたしを見つめる。
「柔術」
「え、何か全然イメージが湧かない、って言うか柔術と中華の接点が見出せないんですが…」
 リコさんがビールを一気に呷る。さあ、エンジン全開!リコ劇場の開演だっ!
「アハハハ!そりゃそうよ!必要なのは最低限の体力だけだから、あとは経験。実家は母も仕事してたから、必要に駆られて料理を覚えただけ」
「リコさんは、どうして柔術を?」
 リコさんは眉を顰めると、何故か小さな溜息をつく。
「クソ親父がね…値打ちこいて子供の教育方針に『文武両道』ってのを掲げてたワケ。で、兄二人は空手を習わされて…私も小学校に上がる時に同じ空手道場に入門させられそうになったんだけど、勝手に人生のレールを敷かれるのが嫌で近所にあった柔術道場の門を叩いたの」
「ちなみに、柔術はいつ頃までやられてたんですか?」
 リコさんが指をバキボキ鳴らしながら微笑む。柔術と指を鳴らすことはあんまり関係ないと思うんだけど…
「現役よん♪今でも仕事帰りとかオフの日に時間が空いてたら道場に通ってる。だから素人相手なら関節や骨の一つや二つ、いつでも使い物にならなく出来る!まあ、オトナになってからはそんな莫迦なことしないけど」
 リコさんって凄い…え?『オトナになってから』という言葉の意図するところがあたしには理解出来ない。でも、ここは触れない方がいいよね。そこら辺はもう少し仲良くなって『ほんとうの姉妹』みたいな関係になってから改めて聞いてみよう。
 リコさんがリビング隣の和室に吊してあるあたしのセーラー服を見て呟く。
「はなちゃん、この制服って暁達館高校のだよね」
「ええ、よく御存知ですね」
「私が通ってる道場、暁達館高校の道向かいにあるの」
「あ、あの『ブラジリアン柔術』って派手な看板出してるところ…?」
「ご名答。あの看板を掲出し始めたのはここ数年の話だけど、私が通い始めた頃はそりゃ地味な存在だった。先代師範が亡くなられたのと、ここ数年の格闘技ブームに乗っかろうとした結果がアレ」
 あの道場って格闘家養成を謳い文句にしてたような気がしてたんだけど…昔はそうじゃなかったんだ。ん?待てよ…そこであたしは一つの事に気付いた。
「え?じゃあリコさん、この街で…」
「鞆浦市生まれの鞆浦市育ち。大学だけは浪花市だったけどね」
 と言うことは実家はこの近所…?
「ほら、海沿いに大きな製鉄所があるでしょ?親父があそこに勤めてたから、ずっと近所の社宅に住んでたの。まあ、今は定年退職して『家を継ぐ』とか意味の解らない事言って瀬戸内の島に引っ越したけど」
「定年後は海沿いの街で暮らす、か。…いいなあ」
 リコさんは焼酎にチェンジすると、吐き捨てるように呟いた。
「親父は、島で古くから続く家の『ぐべんしゃの子』…じゃ解らないか…所謂小金持ちのお坊ちゃんだったの。定年退職したら家を継ぐんだってずっと言ってた。その島に継がなきゃならない家業があるわけでもないし、クソ田舎に値打ちこいたボロ家と仏壇、あと無意味に広い土地があるだけなのにね」
 あたしが何気無く視線を隣の部屋に向けると、そこには昨日と同じように亡くなった御主人の写真が飾られていた。そっか…いま聞いた話だと、お父様との関係は相当悪いのかな…?
 リコさんがあたしの視線にいち早く気付いたようだ。

「親父とは、彼の葬式以来会ってないわ」

 考えを巡らせる。リコさんは、あたしとお兄の為にトリガーを引いてくれた。あたしはリコさんに何か恩返しがしたい。ひょっとして今がその時?餓鬼の浅はかな知恵で大人に歯向かったところで一蹴されるか莫迦にされるだけかもしれないけど、大恩人のリコさんの為にあたしがトリガーを引いてやるっ!
 意を決してあたしは立ち上がった。ダイニングの椅子が音を立てて後ろに倒れる。
「どうしたのはなちゃん?」
「あの、あたし、リコさんの実家に行ってみたい…」
 リコさんは苦笑交じりに答えた。
「来てどうすんのよ…だいたい若い子が観光するようなスポットなんてないし、人に知られている所ってイルカに乗る歌を唄ってた歌手の実家か隣町にある海上護衛隊の兵学校くらいしかないところよ。余程のマニアでない限り行こうとは思わない…」
 ありゃ。適当なこと言ってもやっぱり通用しなかったか…じゃあ、仕方ない。お兄には申し訳ないけど、リコさんに嫌われてもいいからここは一発ドカンと正攻法で…
「昨日の晩、リコさん仰ってましたよねっ!」
「あら、私何か大層ななことでも言ったかしら?」
あたしの尋常ではない気配を感じて、リコさんが惚ける。
「色んなことを抱え込み過ぎて身動きできなくなった時に、誰か周りの人間がトリガーを引かななきゃいけない、って…」
「うん、まあ、確かにそう言ったわよ。あの言葉には嘘も偽りもない」
 あたしは困った表情を浮かべたリコさんに向かって一気に捲し立てた。
「解りあえないまま離れ離れになってしまうのは、私を最後にしたいって…亡くなったご主人とはもう会えないけど、お父様とはまだ会って話は出来ますよね…何で、何で解りあえないまま放ったらかしに…」
「言って聞くような相手じゃなかったのよ」
「今日まで言って駄目でも、明日なら何とかなるかもしれないじゃないですかっ!あたしは、リコさんにもう一度お父様に向き合って欲しいんですっ。あたしに大切なことを教えてくれた人が…あたしの大切なお姉ちゃんが…すれ違った心を抱えたまま生きていくのなんて見たくないから…」
 リコさんは涙を流し始めたあたしを抱きしめると、優しく語りかけた。
「そう、はなちゃんの言う通りね…人に偉そうなこと言ってるくせに自分が逃げ回ってちゃ駄目だわ…解った。今まさに、はなちゃんが私に向けてトリガーを引いてくれたんだ…その気持ち、しかと受け止めた!じゃあ、善は急げっていうか私もあまり暇がないから、後藤クンが出張に行っている間にササッと行っちゃいましょう。でもね、はなちゃん…」
「え、何ですか?」
「忠告。あの海域にイルカはいないし、イルカに乗ったおっさんは島に住んでない。で、あと一つお願い!実家でもし私が暴れそうになったらゼッタイに止めて欲しいの。私、キレると何するかわからないから…目の前で傷害事件とか殺人事件を見たくないでしょ」
 リコさんは本気とも冗談ともつかない表情で私に告げた。

「ちょっと、はなちゃん」
「はい、なんですか?」
 リコさんは腕組みしながら苦笑い。
「休みの日なのに、どうしてセーラー服に着替えようと?」
 あたしはしどろもどろになりながら答える。
「いや、あの…リコさんのご家族にお目にかかるのに変な格好じゃいけないかな、って」
 リコさんが苦笑いしながら窓際のカーテンレールに引っかけたあたしの服を見つめる。
「葬式や法事じゃないんだから、普段通りでいいのよ。ほら、昨日はなちゃんが持ってきたアレ…はなちゃんのイメージにピッタリだから、あの服でいけばいいじゃん」
 あたしは言われたとおり水色のワンピースに袖を通す。これ、お兄が『高校の入学祝いに』って買ってくれたあたしの一張羅。あたしのお気に入りをリコさんが『いい』って言ってくれた。ニヒヒ…じゃあこれで行こう。
 あれ、リコさんが押し入れの上段に飛び乗って奥の方で何かを探している。
「う~ん。確かこの辺に仕舞ってある筈なんだけど…あ、あった!」
 そう言うと同時に、リコさんがメキシコの覆面レスラーみたいに飛び降りてくる。
「!!!」
 あたしは思わず飛び退いた。
「ごめんごめん…そりゃ誰でも目の前に人が飛んできたら驚くよね。ミル・マスカラスじゃないんだから」
 そう言ってリコさんはぼりぼりと頭を搔きながらあたしに丸い箱を差し出した。
「何ですかコレ?」
「開けてご覧」
 恐る恐る箱を開ける。
「可愛い~っ!」
 中に入っていたのは鍔が狭めの白い麦わら帽子。水色のリボンがとってもラブリー。
「どうしてこんなものを…?」
「ああ、コレ?実は私の後輩が『リコさんにゼッタイ似合うと思いますよ』ってお誕生日にくれた物なんだけど……貰ったときはそうでもなかったんだけど、歳取ると段々『可愛い』っていうのが小っ恥ずかしくなってきてね…」
 そう言うとリコさんは気恥ずかしそうに麦わら帽子を被って見せた。あの…今でも十分可愛いんですけど…
「水色のワンピースとよく合うわ。今日はこの帽子でお出かけ、ね。じゃないと…」
「と?」
 今ひとつ状況が飲み込めない。
「今日みたいなクソ暑い日に、あの車に乗ったら頭が燃えるかと思うくらいの灼熱地獄だもん」
 
「ほへぇ~っ、潜水艦なんて生まれて初めて見ましたよリコさん。あ、次の次の信号を左です」
 あたし達を乗せた車は、かつて軍港だった街の海沿いの通りを颯爽と駆け抜けていく。ここまで遠出して意外だったのは、リコさんが物凄い方向音痴だったこと!あたしは使い慣れたスマフォの地図アプリを駆使しながら道案内。少しはリコさんの役に立てているはずだ、えっへん。
「はなちゃん、ごめんね…私、方向音痴どころかそれを通り越して空間識失調なんじゃないかと思う位で…」
「だったらリコさん、ナビでも…」
「いくら便利な装置があったって、それを使いこなせる人間がいなきゃ駄目でしょ」
「え、ひょっとしてリコさん…」
 だから今でもガラケーなの?
「あっ!いま私が機械音痴だからスマフォ使えないんじゃないだろって思ったでしょ」
「むほっ」
 むせる私にリコさんが大笑い。
「可愛い妹の考えてること位、何もかもお見通しなのよん♪」
 やがて車はぐるぐる回る橋を渡り、音渡町というところに入っていく。
「あ、ここまで来たら後の道は解るわ。ありがと、はなちゃん!さあ、もうすぐ実家よ。あ、ウチのクソ親父…人を見るとすぐに何でもかんでも私の自慢をし始めるから、相当長い話になると思う」
 忌々しげにお父さんの話をしたリコさんは一軒のお屋敷、ちょっとした運動場くらいの広さがあるじゃん的なだだっ広い庭に車を乗り入れた。
「ほへぇ~っ。ものすごく立派なお屋敷ですねぇ」
「無駄に広いだけで、何の値打ちもない家。大体、こんなだだっ広い家に夫婦二人だけで住む意味があるのかしらね」

 車の気配を感じたのか、家の中から白髪の男性が出て来る。
「璃子…璃子じゃないか!どうしてここに…で、こちらのお嬢さんは?」
「この子は後輩の妹ちゃん!この辺に来たことないし音渡町の景色が見たい、っていうから連れて来ただけ」
「初めまして…私はリコさんの職場の後輩の妹で、後藤はなと申します」
 彼がリコさんのお父様なんだろうな…失礼がないように細心の注意を払ってご挨拶したあたしをフル無視で、お父さまはリコさんに釘付けになっている。
 リコさんはお父様の熱い視線にそっぽを向くと、信じられような悪態をついた。
「クソ田舎のボロ家ん中で死んでないかどうか一応確かめに来てやっただけ。少しは感謝しなさい…て言うかアンタ、私の大切なゲストがこんなクソ田舎にお越しになられて…態々挨拶してくださっているっていうのにそれを無視するワケぇ?昔っからそうだったけど、アンタに『おもてなしの心』っていうか社会人の一般常識ってもんは実装されていないのかねえ」
 何だろう…リコさんからお父様に向けられた感情は、敵意というか…悪意かな、コレ…今まで何があったかは知らないけど、この言葉は少なくとも…どう考えてもいい意味には聞こえない。
 あたしは、変なトリガーを引いちゃったかなという嫌な予感というか気持ちを抱えたままお父様の招きに応じて…リコさんはふてぶてしく、あたしは恐る恐る家の中に入った。

「おめでとうございますっ!元気な女の子ですよ!」
 豊田家の跡継ぎとなるであろう長男が生まれ、クソ親父は狂喜乱舞。次は女の子を、との願いは叶わず、二年後に生まれたのは男の子。子作りを諦めかけた頃…次男が生まれた三年後に奴の念願が叶って市民病院で私はこの世に生を受けた。誕生日の度に、嫌になるほど聞かされていたから憶えているけど『生まれた時に、まるで宝石のように輝いて見えた』という理由で『璃(り)子(こ)』と命名されたんだって。大人になった今になって考えてみると、溺愛されることを前提に付けられたような名前のような気がしなくもない。まあ、それは現実になったんだけどね…
 物心ついたときから何となく気づいていた。家族の中で私だけ異常といっていい程甘やかされている。家族をぐるりと見渡してみよう。クソ親父の前、母は絶対服従。いや、寧ろ下僕か奴隷だ。兄二人は厳しく躾けられて、縮こまるように生きていたのに私だけは甘やかし放題。
 月に一度、新幹線が停まる駅のすぐ近くにある駅のデパートに買い物に行っては
「璃子に可愛いお洋服買ってあげようか♪」
「好きなおもちゃを買ってあげるよ🖤」
 クソ親父が嬉しそうに私を見つめる。ちょっと待て、アンタの子どもは私だけじゃない!そう思いながら私が兄二人のほうをチラ見すると、何も言わずじっと私の方を見ていた。兄二人が我慢を強いられているのに、私だけ好き勝手するわけにはいかないよね。て言うか幼児にそんな気遣いをさせる時点でオマエは異常だ。いい大人なんだからそういうことに気づけよ!
「今あるお洋服が気に入っているから今日は買わなくてもいい」
「おもちゃは、お兄ちゃん達と一緒に遊べるものがいい」
 いつもそうやって答えるのがお約束。兄二人がデパートで服を買ってもらったことなんて見たこともなかった(大人になってから聞いてみたら、実際になかったそうだ)し…私だけおもちゃや綺麗なお洋服を買ってもらったりしたら兄二人はどんな気持ちになっただろう…幸いにして兄二人は物わかりのいい人だったから何か不平不満を言うわけでもなったんだけど…

 七五三。クソ親父だけ異様に大盛り上がり。大人しくて何も言わない母ですらドン引きしてアイツを諫めようとした位。隣近所にお菓子の詰め合わせを配り歩くなんて、嫁入りじゃないんだからさぁ…
「璃子、七五三は綺麗な着物を着てお父さんとお参りに行こうね」
「嫌だ。私、お洋服の方がいい」
 着物なんて窮屈なだけだし子供用の着物なんて七五三以外に使い道はないだろうけど、お洋服だったら他にも使える。どうしても着物を着せたいって言うんなら、レンタルでいいじゃん。て言うか七五三を迎える時点でこんな気遣いをしていた私って…全てはあのクソ親父のせいだ!
 ところがあのクソ親父、近所の呉服屋でとんでもない値段の着物を買ってきやがった。いつも畑仕事の手伝いに行っている母の『新しい軽トラを買って欲しい』というお願いを無視しやがったアイツは、新車フル装備の軽トラが余裕で買えるような金額をポンと出したそうだ。
 私は渋々着物を着る(正確に言うと『着せられる』だ)ことになったので、七五三の時の写真はいつも微妙な表情をしていた。そりゃそうだ。適当なお出かけ着を着せられて写真を撮った長男、そのお古を着せられた次男、ポンコツの軽トラに乗ることを余儀なくされた母。複雑な感情が渦巻く家族を見て笑顔なんか出来るか、この莫迦っ!

 クソ親父に溺愛されて何一つ不自由のない生活を送っていた私に一つだけ足りなかった、いや望んでも得られない運命的なもの。いまでもそれはコンプレックスなんだけど…決定的に足りないもの…それは…
「や~い、チビ!お前このまま一生背が伸びないんじゃないか」
 別に好きでこんな身長になったわけじゃない。そもそも論だけど、いまこれだけ背が低いからって死ぬまでそうとは限らない(後に、死ぬまでそうなんだって残酷な事実を突きつけられるんだけど)。
 人は、何故『自分より劣っている何か』を他人に求めるんだろう。百歩どころか一万歩位譲って『自分のほうが優れている、秀でている』事を何やかんや言うのは許してやろう。学歴、収入、はたまた容姿…なんでもいいや。
 でも、自分に秀でたところは何もないからって『上見て暮らすな、下見て暮らせ』的な発想で物を言う奴はただのクソだ。
 他人のことなんか放っておけばいいのに、自分の不平不満や劣等感の捌け口を求めて他人を揶揄し続ける、そんなオトナの世界を私は小学校入学前に嫌というほど味わっていたんだけど…

 いつものように私をからかい続ける近所のクソガキ。確かに奴らが言う通り私は背が低い。だからってそれが何だ!お前らに迷惑をかけたことがあるか?て言うか私の身長なんかお前らに何の関係もないだろ!
 小学校の入学式に何を着せようかしら、なんて事を同世代の子供達の父母が気にし始めた頃…
「チ~ビ、チ~ビ。お前、チビだから小学校、一年遅れじゃ…」
 そう言いながら隣家のクソガキが私が大切にしていた幼稚園のフェルト帽を鷲掴みにした瞬間、遂に私はブチ切れた。
「うわっ!」
 私に引っ叩かれた隣家のクソガキが後ろに転がって泣き出す。
「おっ、チビが暴れ出したっ!」
「チビのくせに生意気なっ」
 そう言ってその他大勢のクソガキにいとも簡単に吹っ飛ばされた私は、たちまち周りを囲まれる。こうなりゃ多勢に無勢、私に勝ち目はない。力任せに押さえつけられて動けない私の顔を誰かが踏みつけようとした時!
「こらっ、お前ら何をしてるんだ!」
 兄二人が割って入る。散り散りになったクソガキどもの姿が見えなくなると、兄二人は私の服や身体に付いた土や埃をポンポンと払いながら私を諭す。
「そんな無茶したら駄目じゃないか」
「でもお兄ちゃん達『チビ』とか言って莫迦にされたことないでしょ」
「…それはそうだけど…だからって、暴力は良くないよ」
「そんなこと言ってるお兄ちゃん達だって空手習ってるじゃん。あれって強くなるためのものじゃないの?」
「あのね、璃子…僕たちが習っている空手は、心を鍛えるためのものなんだ。意地悪されても負けない強い心を養うのさ」
「じゃあ、戦えないの?」
「アハハハ…!父さんが毎週テレビで観てるプロレスみたいに戦ったりはしないよ。あ、そうだ…父さんが言ってた。璃子も再来月から小学生だから空手道場に通わせるんだ、って」
「そんなの嫌だっ!」
 私はその場から駆け出した。私はチビだから、女の子だからって莫迦にされたくない。いつか強くなってあいつらをぎゃふんと言わせてやるんだ。

 そうは言ったものの。
 何をすれば強くなれるかなんてさっぱり思いつかないまま、私は高校の前の道を一人トボトボと歩いていた。とある建物の前を通った時、私はガラス越しの光景に目を奪われる。何、アレ!
 道着を着た二人が向かい合う。取っ組み合いになったかと思うと、一方が巧みに腕を掴む。その瞬間、掴まれた人の方が床に転がりあっという間に組み伏せられる。
 私は飽きもせずその光景をガラス窓にへばりついて眺め続ける。ガラス窓が私の鼻息で曇る頃、一人のおじさんが私の肩をポンと叩いた。
「お嬢ちゃん、そんなに興味あるのかい。だったら中に入るといいよ」

「そうか、そういう事だったのか…」
 稽古を続ける二人を見ながら、おじさんはそう言った。後で知ったんだけど、私に声をかけてきたおじさんはこの道場の師範。
「これは柔術、というんだ」
「じゅうじゅつ?」
「そう。まあ、柔術にもいろいろあるんだが、今やっているのは『身を護る為』の柔術だ。喧嘩やプロレスみたいに殴り合うとかじゃなくて…例えば…」
 暫し考えていたおじさんは、お稽古真っ最中の若い二人に声をかけた。
「おい、ちょっと手伝ってくれ」
 おじさんが駆け寄ってきた一人の練習生さんと対峙する。何も知らないド素人、しかも幼児が見ても一撃で解るくらいの物凄い殺気…
「よく見ろお嬢ちゃん。今から俺が、この若いもんに殴りかかる。こいつは相当鍛錬しているから、俺はあっという間に押さえられる。面白いぜ。これを『護身術』って言うんだ」
 そう言うなりおじさんは若い人に殴りかかる。その瞬間、彼の身体はあっという間に宙を舞い、腕を極められ床に突っ伏していた。
「こうやって自分を護るんだ。これは決して人を傷つけるためのもんじゃない」
 おじさんは起き上がると私にそう告げた。
「ま、ここに通いたいんだったら親御さんに相談して、今度は一緒においで」

 鼻息荒く走って家に戻ると、クソ親父が私の帰りを待っていた。
「おかえり、璃子。私も丁度仕事から戻って来たところでな。今から道着を買いに行こう。再来月から璃子も小学生だから、お兄ちゃん達と同じ道場に通うんだ」
 私はアイツの言葉をものの見事に切り捨てた。
「行かない」
 父は唖然とした表情で私に問いかけた。
「どうしてだ、璃子!我が家は『文武両道』がモットーだ。いつも言っているだろう?ウチの子は強く、賢くなくちゃならん。それに、親の言う事を聞かないだなんて、一体…」
 初めて反抗する娘に、父は狼狽してするしかなかった。
「勉強もする。強くなる。でも、空手道場には行かない!」
 私の意図することが全く理解出来ないクソ親父の怒りと混乱は頂点に達した。
「お父さん、私について来て」

「初めまして。私はこの道場の師範をしております木村と申します」
「何だって貴様はウチの娘をこんな道場に入れようと…!」
 クソ親父が凄んでみせる。でも、百戦錬磨の師範は全く動じない。
「お嬢さんが望んだから、としか言いようがないですが」
「私、ここに通って強くなるの!空手道場になんか行かないもん!」
 娘の初めての自己主張に、クソ親父の狼狽がヒートアップ。
「だからって何もこんな物騒なところで強くならなくても…」
「私、喧嘩するためにここに通うんじゃない!自分を護る為だもん!」
 その時はそう思っていた。でもこれは、後に嘘となるんだけど…
 何故かは解らないけど、クソ親父が突然キレた。
「おい、お前も黙ってないで何とか言え!」
「入門するかどうかはお嬢さんとお父さんで話し合って決めること。私どもは来る者を拒みませんし、去る者を追いません。どうぞご自由になさってください」
「何だと、無責任なことぬかしやがって!」
 そう言ってクソ親父が師範に掴みかかろうとした瞬間、私の視界からアイツが消えた。秒殺、若しくは瞬殺って言うのかな…
「私が習いたいのはこれ!お父さん、いつも『璃子がお稽古事したいなら何でもさせてあげる』って言ってたよねぇ」
「では…娘のことを宜しくお願いします」
 そう言って、よろよろと起き上がったクソ親父が師範に頭を下げる。そう言えば、コイツが人に頭を下げるのを初めて見たような気がする…

 小学校に入学してからも、私をからかう奴はいた。
「や~い、このチビ。おい、返事しろ」
 今までずっと我慢してやっていたのに、お前ら調子に乗りやがって…!
 そう言って私の通学帽を取ろうと手を伸ばしてきた隣家のクソガキに照準を合わせる。遂にこの時が来たっ!私の帽子に手を触れた瞬間、私は師範に教えられた通りに行動した。腕を極められ地面に這い蹲って泣き喚く彼に、私は鼻高々に自分の帽子を拾いながら呟く。
「私に気安く触らないでくれるかしら」
 子供なんていい加減なもんだ。一つの事象をきっかけに力関係なんて簡単に変化する。師範のおかげで次の日から私がからかわれることは無くなったんだけど、同時に『お転婆』であるという評判が町中に広まったことを母が今でも気にしているのは気のせいだ、きっと。

「ん~。お父さんはもう少し長めの方が良かったかな~」
 小学校も高学年になると、自我なりお洒落のセンスが芽生えてくる。お洋服なんかもそうだけど、髪型にも個人の好みが現れる。それまでは皆と同じようにおかっぱ頭だった私も、髪型を変えたくてしょうがないお年頃。
「え、何もそんな急に髪型を変えたりなんかしなくても」
 阿呆かこのクソ親父。私が何も言わなかったら嫁入りまでこのおかっぱ頭で過ごさせるつもりだったの?
 すったもんだの挙げ句、ようやく母に連れてこられた美容室。母は私が変なこと言い出してクソ親父の機嫌を損ねたりしないか気がかりで仕方ないみたい。椅子にちょこんと腰掛けた私に、色んな髪型のモデルさんが載った写真集みたいなものが手渡される。お洒落なオトナって色んな髪型するんだ…私は憧れの念を抱きながら思いを巡らせる。
「リコちゃんだったらどんなのがいいかな?今の長さだったら色々できるよ~」
 私の横で眼鏡をかけた背の高い美容師のお兄さんが一緒に考えてくれる。
「え~っと、小学校の皆と同じ髪型はゼッタイに嫌。あ、あと…お稽古で汗をかくから短めの方がいいなぁ。お稽古の時、髪が長いと邪魔になるときがあって」
 ここでクソ親父に怒られたくない母が口を挟む。
「お父さんは長いほうがいいって言ってたけど…」
「嫌だ。切る!長くするんだったらここに来た意味ないもん」
「お父さんに怒られても知らないわよ」
 きっと怒られるのは私じゃなくて母だ。後で母が怒られないように、クソ親父には一発かましておこうかな…ぼんやり考えていると、何か閃いたような感じで美容師さんがページを一気に捲り始める。
「そうだ!これこれ…リコちゃんは頭の形が綺麗だから…短めにするならこんな感じでどうかな?」
 そう言って美容師さんが捲ってくれたページを、彼の勢いに釣られて食い入るように見つめる。そのページを見た私は、一人のモデルさんに釘付けになった。何人かで並んでいる写真なんだけど、いかにも欧米人でございます的な金髪長身のモデルを押しのけるかのように凛として立つ黒髪ショートヘアの女性。
「この人はねぇ、フランスで活躍してる日本人のモデルさん。最初は『日本人のくせに』『背が低い奴にモデルなんか務まるか』みたいな感じでボロカスに言われてたんだけど、今ではこんな写真でセンターに立てるくらいの人気者らしいよ…そりゃそうだよね、だってこんなに美人でお洒落なんだから」
「じゃあこれにする!」
「ええっ、本当に!この近所じゃ小学校どころか町中探しても同じ髪型の人はいないなぁ…近所どころか鞆浦で初のショートボブかもよ」
 そうか、この髪型はショートボブっていうんだ。憶えておこう。

「いや、ショートヘアの璃子も凄く可愛いんだけど、お父さんはもう少し長め…なんて言ったらいいのかな…ほら、あの、日本人形みたいな…」
「私はお人形さんなんかじゃないっ!私はこれがいいの!どうして私のやることにケチをつけるの?」
 この頃に、私の自我は芽生え始めたんだろうな…柔術のお稽古を真面目に続けたおかげで私は『自分自身の考え、想い』を前面に打ち出せるようになっていた。
 そうだ、思い出した。あの頃母は『道場に通い始めた途端にお転婆でクソ生意気になりやがった』って親類縁者やご近所さんにあれこれ言われていつも困ったような表情してたっけ。
 でもね、お母さん。
 自分の娘が『背が低いって理由だけで虐められて萎縮した大人になる』のと『心身を鍛えてお転婆娘になる』のどっちが良かったのかな…?
 母に何回か尋ねたことがあるんだけど、結局何も答えちゃくれなかった。そりゃそうだよね。何か言ったらあのクソ親父が黙っていないだろうから。
 私がガツンと一発かましたその日から、クソ親父は髪型の話に一切口を出さなくなった。兄二人は選択の余地もなく、父がいつもバリカンで丸坊主にしていた。
 あ、あと…クソ親父は私が美容院に行くたびに溜息をついては愚痴めいた事を母に呟いていたらしい。大人になってからこっそり母が教えてくれた。

 知るかよ、そんなこと。

 高校三年生。いよいよ進路を決める、っていうタイミング。私は、誰に相談することもなく卒業後の人生設計を着々と進めていた。
 漠然と考えているだけじゃ何も具現化しない。人様の理解を得る、納得してもらうためには『自分の主張、将来の展望』を示せるだけの根拠資料(エビデンス)が必要よね…投資を募るなら目論見書、株主総会で承認を得るなら中長期的な展望とか……
 このご時世、若い子達はパソコンをササッと使って…ええっと、何だっけ…あ、そうそう。プレゼンの資料を作成するのはPowerPoint?表計算するならExcel?そんなことどうでもいいや。どんなに素晴らしいソフトがあったって私には使えない。そう、私は同級生が腹を抱えて笑い転げるほど機械音痴だった…
 私は電卓の文字盤が擦り切れるほど計算を繰り返し、パワポで作るようなグラフとか表は工業高校に通っている友達に頼み込んでアナログの製図板(ドラフター)をお借りして作り込んだ。製図板を貸してくれた友達は『PCで簡単に作れるようなグラフを製図板で作成するなんて有り得ない!」とか言ってたけど…

 字が読みにくいとかそういう細かいアラはどうでもいいとして、遂に私が目指していた『高校卒業後の『計画書』は完成した。後は実行に移すのみ!!
 私が高校を卒業する頃、兄二人はクソ親父の望んだ通り似島県警察と海上護衛隊にそれぞれ就職していた(そこに本人の意思は存在しなかった。ただ、クソ親父がそうしろって言うから何も言わず従っただけであって、本人達に聞いてみたら『お父さんがそうしろって言ったから』だって。クソ親父の洗脳だ!)。
 男二人はお堅い職業に就かせて、女は良家の嫁に…一体何年前の話だ。後になって母から聞いたんだけど、クソ親父は私を花嫁修業がてらどこかの短大にでも通わせて、自分の思う人間と結婚させるつもりだったらしい。だから私が浪花市の大学に進学すると言い出した時は柔術の件以上に狼狽した。何を喚いているんだこの莫迦は。『子供は親が敷いたレールの上を走るのがアタリマエ』みたいな主張をする奴が世の中にまだいたって事が気持ち悪い。ましてそれが自分の親だなんて!
「何でそんな大事なことを親に相談もせず勝手に決めたんだ!」
「あら、私の人生を私が決めて何が悪いの?て言うか相談したところでそれを受け入れる器がお父さんにあったかしら?」
 私は、固い決意のもと自信を持って答えた(反対されるのが解っていたから『予め一発ぶちかましてやれ的な要素も含みながら)。クソ親父の視線は右に左に泳いでいるが、私は奴の眼をじっと見つめ続ける。
「…女が学問なんか身に付けたところで何になるんだ」
 このクソ親父、引っかかりやがった!今度は私のターンだ。
「それっていつの時代の話?今や女性だって教養をしっかり身に着けておかないと世の中で通用しない時代だよね…大体、父さんご自慢の製鉄所だって社長は女性じゃない」
「うぐっ」
「それとも何?私の才能の芽をそんな古臭い考えだけで摘もうってワケぇ?」
 ここまで来たらギチギチに詰めてやる。クソ親父が何も反駁出来なくなるまで追い詰めてやるっ!
「いや、そうは言っていないが…あ、ほら。浪花市みたいな都会に出れば生活費だって相当なものになるし、そもそも家賃だって鞆浦でアパート借りる位の金額出したって駐車場すら借りれないぞ…それに四年制の大学なんて学費は相当のもんだし…もっと落ち着いて考えた方が」
「物事は何でも短絡的に考えるもんじゃないわ」
 私はそう言って手書き手計算、アナログオンリーの資料を二人に突きつける。
「璃子、これは何だ?」
 細かい文字と表をびっしりと詰め込んだ資料を目の前にして、クソ親父が呻くように声を上げる。母は何も言わず、ただクソ親父と私の顔色を伺うだけ。
「大学進学にかかる資金計画表!何か新しいことをやろうって時は、収支の見込み位キチンと立てておかないと頓挫するのは目に見えているから」
 突然のことでどう反応していいか解らずにオロオロする両親に、私は淡々と説明を始める。
「先ず、志望先は公立。いくつか候補はあるけど、どこも私の成績だったら余裕で入れそうだって高校の先生が言っていた。次に、学費と家賃だけは育英会からの奨学金で賄う。この資金計画では家賃を相場より少し高めに、いや相当高く見積もってある。ぐべんしゃの子が親の援助で住むようなマンションを想定しているけど、私はもっと安いところを探す。実際に物件はいくらでもある。次に生活費。これは私がバイトして自分で賄う。その表に書いてある労働時間は実際に働けるであろう時間の七割位の時間数で、あと時給は鞆浦の最低賃金で試算してある。実際は向こうの方が最低賃金は高いし、そもそも最低賃金でバイトを募集する莫迦はいない。で、何か質問ある?」
 しばらくの沈黙の後、父親が声を絞り出すように言った。
「そんな無茶して、もし体でも壊したら…」
「その時は私の敗北、ね。悪足掻きはしない。潔く諦めてこっちに帰ってくる」
 最終的に両親が根負けする形で、私は浪花市にある大学へ進学することになった。同時に入学してきた子たちは皆親元から通うか親の援助でマンション暮らしの子ばかりだったけど、私は経費節減の為に築数十年の恐ろしく古いアパートで新生活を始めた。このアパート、手入れもいいしお手洗いとお風呂がセパレートだし、何よりもびっくりするほどお家賃が安かったので丁度良かった。ただ、唯一の弱点を除けば…

 新年度を迎え、お約束の新歓コンパ。
「ほらほら、そこのキミっ!人気ナンバーワンのテニスサークルに是非!」
「そんなこと言わずに我がアニメーション研究会にっ!」
「こんにちワンダーフォーゲル部です!」

 色んなサークルからお誘いがあったけど、高校卒業の直前に免許を取って車に興味津々だった私は自動車部の門を叩くことにした。私と同じような理由で参加した女の子も何人かいたようで、座敷の片隅に新入生女子が集められる。
「あ、豊田さん…確か私と同じ学部だよね…私、エミリっていうの。笑う里って書いてエミリ」
「私は璃子。瑠璃の璃に子供の子でリコよ」
「じゃあリコちゃん、宜しくねっ!」
「エミリちゃん、宜しくっ!」
 知らない人に囲まれるよりは知ってる子がいる方が幾らか居心地は良くなる。お酒が進んだ頃、ふとエミリちゃんが声を潜めて私の耳元で囁く。
「そういえばリコちゃん、ちょっとだけ気になることがあるんだけど…」
「何?どうしたの?」
「…気を悪くしないでね…嫌だったら答えなくてもいいから…」
「別に聞かれて嫌なこともないから気にしないで♪」
「リコちゃんって何かいつも同じ格好をしているような…今日だって白いブラウスにパンツスタイルで…似合っているしもの凄くお洒落だから別にどうってことないんだけど」
 そこか…私は頭をぼりぼりと掻きながら事情を説明する。
「いやぁ…私が住んでるアパートって物凄くボロいんだけど、結構手入れがいいしお家賃が安かったの…でも、それにはワケがあって…実は、クローゼットとか押入みたいな収納がどこにもないのよ…で、服を置く場所もないから必然的にこんな感じに…あ、ほら。高校も制服があって毎日同じ格好してたじゃん。あんな感じよ。私、もともと服とかに頓着しない方だし…この髪型も小学校の時から変わっていないのよん」
「ええっ!小学校の時にショートボブにしてた子なんていなかったよ。超お洒落じゃん!じゃあ、服装もあれ…ほら、最初にスマートフォンを世に送り出した社長と同じスタイルってことね?まあ、あの人はハイネックにジーンズだったけど」
「そういう事にしておいて、アハハ♪ウチに来ると面白いよ。ベッドの傍に同じようなブラウスとパンツがズラーッと並んでるから」
「マジ?それ、是非見てみたい!」
 宴は進み、すっかり仲良くなった私とエミリちゃんが色々話をしているところへジョッキ片手に先輩と思しき男性登場。
「ようこそ、自動車部へ」
 ジョッキを掲げる彼にエミリちゃんと私はぺこりとお辞儀をした。
「自己紹介が遅くなってごめんね。僕はこの自動車部で部長をしている田端です。周りの連中は『タバティ』って呼んでるけど。まあ、僕のことは好きに呼んでくれたらいいから」
「タメ口も具合悪いし『タバティ先輩』ってのは変だから『部長』か『田端先輩』にしときます」
 二人でくすっと笑った後、
「私は豊田リコです」
「私は上野エミリって言います」
「じゃあ、リコちゃんとエミリちゃんでいいかな」
「ハイ!」
 自己紹介を一通り終えるた部長が私たちを興味津々と言った感じで眺める。
「それはそうと君達、どうして自動車部へ?」
 先ずはエミリちゃん。
「あ…私の実家、鈑金屋なんです。子供の頃からずっと車に囲まれて育って来たし、親父も兄貴も走り屋でしたから」
「え、じゃあ…」
「残念!実家は中山県の凄い山奥の方だから、整備なんかでお役に立てることはありません。来ていただいたら親父か兄貴がうんと安く整備でも修理でもやってくれそうですけど…高速代とガソリン代でかえって高くつきますし、自走不能なら輸送費だけでとんでもないことになりますよ、たぶん」
「アハハ、そりゃ残念だな」
「まあ、部品取り位なら何とかなるかも」
「じゃあその時は何かお世話になるかも知れないね。その時は宜しく頼むよ。で、リコちゃんは?」
「あ、ああ。私ですか…進学してこっちに来るまで似島県にある製鉄所の近くに住んでたもんで、特殊な大型車を子供の頃からよく見てまして…大型車を振り回す人って何かこう…凄いっていうか格好いいって思ってたんです…で、少し前に免許を取って母親の軽四を勝手に乗り回していたんですね…免許取りたての身なんでそんなにぶっ飛ばすわけじゃないんですが、街中を駆け抜けるあの感覚のが大好きになって」
「走り屋、鈑金屋、トラックか…今年は相当面白いのが入って来たなぁ」
 ちょうどその頃、隣のテーブルで騒ぎ出した男の人を見た部長が眉を潜める。
「ああ…あいつは僕の同期だ。普段はいい奴なんだけど、飲むと相当癖が悪くてね…あ、そうだ。このテーブルにいる女性諸君に失礼なことをやらかしたらすぐに言ってね」
 部長はそう言うと、同じテーブルにいた他の子に挨拶回りを始めた。
「新入部員の女子諸君、自動車部へようこそ。タバティに口説かれなかったか?」
 例の男の人が絡んでくると、エミリちゃんがむっとしたように答える。
「何もされてません。部長はそんな人じゃありません」
「お、何だ、いきなりタバティの肩を持つのか?さては…」
 そう言ってエミリちゃんの肩を触る。
「触らないで下さい!」
 私は慌てて部長を探す。丁度お手洗いみたいだ。マズい。私は意を決した。
「触らないで、って言ってるじゃないですか」
 絡む対象が、エミリちゃんと彼の間に割って入った私に変わる。
「まあそう騒ぎ立てなくったって…スキンシップってもんがあるだろ」
 スキンシップは初めて会った人にするもんじゃない。ぶち殺すぞお前!
「倉橋、何やってんだっ!」
 お手洗いから戻って来た部長が叫ぶのと、彼が私の肩に手をかけたのと私が行動を開始したのはほぼ同時。
 唖然とする男性陣。悲鳴を上げる女の子達。座敷から無残にも転げ落ち、土間に這い蹲って腕を極められる彼。私は極めた手をほんの少しだけ緩めると吐き捨てるように言った。
「触らないで、って二回も言いましたよね。今度やったら関節を抜いて差し上げますよ、先輩」
「はい、申し訳ありませんでした…」

「リコちゃんって強いんだね!」
「私、子供の頃からチビだったから莫迦にされたりからかわれたりすることが多くてね…それで護身術のつもりで習ったんだけど…少々お転婆が過ぎたようで…高校を卒業したら封印しようと思ってたんだけど…お騒がせしましてスミマセン…」
 やっちゃった。私のお転婆生活は大学の四年間(留年しなかったら、だけど)延長。て言うかコレ、一生このままなんだろうな…多分。

 翌週末。私とエミリちゃんは早速部活のお手伝いに行くことにした。大学構内の外れにある部室へとやって来た私たちは息を呑む。
「何だこりゃ…」
「実家はもう少し片付いていたような…ここ、解体屋かスクラップ置き場みたいじゃん…とはいえ、設備はウチと遜色ないかも。資格持った人さえいれば、ここで国土省指定整備工場のの認証取得できるよ、きっと」
 唖然とする私達に先輩達が話しかけてくる。
「お、本当に来てくれたんだ…!倉橋の件があったからもう来てくれないんじゃないかって半分諦めていたんだけど」
「そんなことでめげたりしません!」
「リコちゃんがいるから大丈夫です!」
 同時に反応した私たちを見て皆がゲラゲラ笑う。
「そりゃ頼もしい。あ、そうそう。もうすぐタバティが来るはずだから、あいつが来たらそこにある二台の車を積み込んで出発だ」
「ええっ、サーキットに行くんですかぁ?」
 エミリちゃんが目を輝かせている。
「いや、あの…ゴメン。これから現場を見てもらって説明しようと思っていたんだけど…ウチの自動車部はサーキットとか走り屋じゃなくて『ジムカーナ』っていう競技が主体なんだ」
 あ、兄が二人で回し読みしていたレース関係の雑誌で見たことがある…きょとんとしているエミリちゃんそっちのけで私は反応した。
「あの、それって三角コーンの周りをグルグル回ったりするヤツですよね」
「よく知ってるね…ただ、あのコーンは『パイロン』って呼ぶんだ。パイロンで作られたコースを一台ずつ走って最速を競う競技。自分が普段使っている車に最低限の改造を施したら競技に出られるし、サーキットと違って敷居は低いうえに街乗りと競技用を兼用できるから会社員とかフリーターやりながらジムカーナに参戦している人も沢山いるよ。まあ、貧乏学生の道楽だとこれ位が限界かな。アハハ」
「楽しそうっ!!」

 私達が声を揃えて叫んだ頃、大型のカーキャリーが狭い敷地の中に入って来た。入り組んだ大学構内の道をここまで入ってくるってかなりの腕前ね…
「ゴメン、遅くなった!事故の救援で親父が仕事でこの車使っててさぁ」
「遅ぇぞタバティ!」
 え、運転手は部長なの…?ポカンとしている私達に、カーキャリーから降りてきた部長が恥ずかしそうに説明してくれる。
「いや…実は…僕の実家が運送屋で…それも宅配便みたいに荷物を運ぶんじゃなくて車両や液体、廃棄物なんかを運んでいるんだ。う~ん、ほら…リコちゃんなら解るよね…カーキャリー以外ならローリーとかバッカンみたいな」
「という事は大型免許を?」
 大学生でバッカンを操る奴はそういないって。
「勿論。大型免許を取らせてやる、大学在学中は好きなように遊んだらいい、車も貸してやる。だけど大学はちゃんと卒業したうえで家業を継げ。そういう具合なんだよ」
 部長のカーキャリーを先頭に、部員を乗せた数台の車がカルガモ状態で続く。暫く走ると私達はジムカーナ場に到着した。
 先輩達がタイヤスモークを上げながらパイロンをすり抜けていく。私とエミリちゃんはその様子をアイドルの一挙手一投足を見つめるように…羨望の眼差しってこういうことなのかな…目を輝かせながらじっと見つめていた。
「どう?興味湧いてきた?」
 部長が私達に問いかける。
「是非やってみたいです!」
 同時に声を上げた私達に、部長は微笑んだ。
「じゃあ、基本的な事から体験してみようか」
 部長が助手席にスタンバイ。先ずはエミリちゃんがアタック開始。数本走ったものの初心者らしいミス連発をして凹む彼女の次に私が乗り込む。
「いいかい?最初は誰でもミスるもんだ。コースは僕が指示するから思い切って突っ込んで」
 クラッチをやや荒めに繋いだ私は、言われた通り思い切ってパイロンに飛び込んだ。母の軽トラもMTだったからクラッチの扱いはある程度解っている、筈。
「うわっ、あの子えげつないぞ」
 部長の指示通りにタイトなターンで思い切ってサイドブレーキを引くと、車は面白いように回転する。
「初心者があんなターンするか普通?」

「リコちゃんはきっと素質があるよ」
 車を降りた部長が私に微笑む。
「いや、まあそれ程でも…」
「じゃあ、僕の指示無しでフルコースを走ってみようか」
 ところが、単走のタイムはそりゃ酷いもんだった。
「あれ、リコちゃんどうしたの?何かトラブルでも?」
「いや、あの…コースが全然覚えられなくて…躊躇ってたらタイムが」
 部長が訝しげに私に問いかける。
「ひょっとしてリコちゃん、道を覚えられないタイプの人?」
「お恥ずかしながら…」
 そう言って私はヘルメットを脱いだ頭をぼりぼり掻くしかなかった。
 私はその日のことを一生忘れない。えっと、ジムカーナの単走のことじゃなくて…
 部長が学内のクソ狭い道をすり抜けてキャリーで現れたあの時、私は決心したんだ。
 大型免許を取ってやるって!

 半年後、エミリちゃんはついに自分の車を手に入れる。実家の鈑金屋さんからボロボロの小型車をタダ同然で譲り受け、部室に持ち込んだ。蛙の子は蛙、という言葉ドンピシャなのかな?彼女はただならぬ才能の持ち主だったようで、整備の面白さにすっかり目覚めてしまった。車はあれよあれよという間にバリバリのジムカーナ仕様に仕立てられ、自動車部最強じゃないかと言われる位えげつない仕様に変貌。エミリちゃん、将来は整備工じゃなくてレースエンジニアになったほうがいいんじゃないかな…
 一方の私は、というと毎月の生活費を稼ぎつつ貯蓄開始。クソ親父に提示した資金計画は大幅に狂っていたけど、新たな目標が出来たんだから仕方ない。生活は決して豊かなものではなかった(食事目当てで賄い付きの焼肉店で働いていた!)けど、私は目標に向けてコツコツ貯蓄を続けた。学業との両立は正直言って少々きつかったけど、毎日が楽しくてしょうがなかった!

 大学生活も三年目に突入したばかりの頃。私は今まで誰にも言わずにいた秘密を、遂に…エミリちゃんに告白。
「ええええっ!最近部活でリコちゃんの姿を見かけることが少なかったのはそういうことぉぉぉ?」
 腰をぬかすほど驚いたエミリちゃんは、私の意図を素早く察知してくれたようだ。
「わかった。じゃあ、田端先輩のところへ行こうか」

「あれ、リコちゃんにエミリちゃん。久しぶりだね~」
「ご無沙汰してます。先輩」
 彼は突然現れた私達を少々訝しげに見つめた。
「会社訪問にはまだ早いし…てかウチは新卒募集なんかしていないし…何かあったの?」
「実は…」
 私はそういうと田端先輩にある物を差し出した。
「なんだ、そういうことか…いいよ、僕に出来ることなら何でも協力する」
 
 数日後の週末。いつものようにジムカーナ場に向かう準備をしている部員たちのもとに、キャリーが入ってくる。
「あれ、いつもと違うキャリーだな。誰だ?手配した奴は」
「リコさんとエミリさんです」
 しかしそこに二人の姿はない。
「え、このキャリーって田端先輩の所の奴じゃ…」
 皆が戸惑いを隠しきれない空気の中、私とエミリちゃんはキャビンから飛び降りる。
「お待たせ♪」
 
「へえ、リコちゃん大型免許取ったんだ。凄い…よく取れたね」
「でも、折角トラックに乗れても道が解らないんじゃ…」
「だから私が付いたのよ」
 エミリちゃんが口を挟む。
「ええっと…私の方向音痴のことについて発言した人。貴方に二者択一の選択肢を与えます。骨と関節、使い物にならなくなるならどっち?まあ、両方でもいいけど」

 大学生活も後半に入ると就職活動。私は当然のことながら運送業界への就職を希望。大手の運送会社をいくつか回り始めた。まあ、いくら大型免許を持っているからってドライバー志望ではない。法学部に在籍しているから総合職、みたいなところに応募することになる。大手を含め、様々な会社を回ったんだけど私の大型免許に興味を示した会社は一社のみ。
「へぇ、大型車が好きで免許まで…凄いなそりゃ。ウチに応募してきた子は沢山いるけど、大型免許持ってる子はいなかったなぁ」
「えぇ、まぁ…物好きが高じてといった感じだったんですが、実際に乗って解ったこともあるので大型免許を取って良かったと思っています」
「ちなみに、どんな事が良かったと?」
「車の構造だけで言えば視界の悪さ、とか…歩行者や自転車、特に子供さん達にその危険性をより解りやすく伝えられるんじゃないか、と。あと、実際にハンドルを握るドライバーさん達が、実際に乗務した時の緊張感とか疲労みたいなものも身を持って体験しましたから…まあ、遊びで乗ってた奴に何が解るんだって怒られるかも知れませんが」
 数日後、その担当者さんからの着信が私の携帯電話を鳴り響かせた。
「豊田さんの話をしたら、人事部の連中が凄く乗り気でね。ウチに来てくれないかって事で本日お電話しました」
「え、って言うことは…」
「おめでとうございます。内定、ですよ!」
 卒業と同時に、私は生まれ故郷の鞆浦に戻る。偶然の産物なんだけど、私が就職した鞆浦通運株式会社の本社は鞆浦市。本社営業所に配属された私を、クソ親父が手放しで喜んで見せる。
「おめでとう、璃子。大学を卒業して、地元で就職して…やっとウチに戻ってくるんだね…」
 莫迦か、コイツは。感慨深げに話すクソ親父に私は現実を突きつける。
「社宅に住んでる親元に、違う会社に勤めている子供が同居出来ると思ってんの?少しは考えなさい!お兄ちゃん達だって同じ理由でこの社宅を出て行ったでしょ?会社には事情を伝えて社宅を用意してもらってあるから」
 私は営業所で庶務、経理や法務担当(事故処理が拗れた時の裁判やなんか)をやりながら、地元の学校を回る交通安全教室の担当をさせて貰える事になった。そう、この交通安全教室が私の運命を大きく変えることになる。

「初めまして。えっと、あの、僕は…」
「本社営業所で十屯を余裕綽々で振り回せる数少ない若手ドライバー、山崎さんですよね」
 営業所の会議室。緊張してマトモに挨拶も出来ない彼に、私は口火を切った。
「御存知かも知れませんが、私は庶務の豊田リコと申します。これから、山崎さんと一緒に交通安全教室を担当することになります。進行やお喋りは基本的に私が仕切りますが、山崎さんは会場内で実際にトラックを振り回して戴いて、ドライバー目線での危険箇所の説明や注意喚起を…」
 彼は緊張で顔を紅潮させながら、おずおずと切り出す。
「あの…噂で聞いたんだけど…豊田さんは大型免許をお持ちだって…だったら僕が話すことなんて…」
 イラッ。まあ、落ち着け私…
「私みたいな奴が幾ら説明したって誰も聞きやしませんよ。子供達に本気で理解してもらおうとするんなら、ドライバー本人からも言って貰わないと…」
 彼は暫く思案した後、私に一つの提案をした。
「じゃあ、本番までに説明とトラックの振り回しを合わせておかない?息が合わないときっとボロが出るから…このままだと上手くいかないような気がして、さ」
 おっ、なんかやる気になってきたじゃん。私たちはその足で所長室に乗り込んで、営業時間外にトラックを練習用に使わせて貰う段取りを整え、私達は毎晩遅くまで練習に明け暮れた。何日も練習を繰り返しているうちに、二人の息がピッタリ合うようになってきた。よし、これならいける。あ、今日も遅い時間まで頑張りすぎたかしら…
「あら、もうこんな時間!」
「ヤバい、もうスーパー閉まってる。晩飯食いそびれたかも」
「え、山崎さんって自炊とかしないんですか?」
「いや、まあ、するにはするんだけど…変則勤務なもんで食材の買い置きとかしてないから…」
 私はそれなりにおかずの作り置きはしているけど、彼が晩御飯を食べそびれるのは忍びない。しまった、何か悪い事しちゃったな…
「まあいいや。車で暫く走ったらファミレスなりコンビニなりがあるから」
「あれ?山崎さんって車持ってるんですか?」
 彼が恥ずかしそうに答える。
「うん…ちょっと目立つ車だから社宅の駐車場を借りずに近所の屋根付きガレージを借りてるんだ」
「目立つ?そんなに凄い車なんですか?」
「うん…何なら見てみる?」
 嬉しそうな表情の彼に案内されたガレージには、日本車とは思えないような(日本車なんだけど)エキセントリックな車が鎮座していた。
「これは…セラ?」
 彼が驚いたように口を開く。
「良く知ってるね。実は、営業所の道向かいにあるディーラーで見つけたんだ。一目惚れして買っちゃった」
「そう言えば、少し前に中古車コーナーに展示されてたけどあっという間に売れちゃったって営業所の皆が言ってた。買ったのは山崎さんだったの?」
 彼がドヤ顔で答える。
「そう。こんな出物は二度とないよ!」
 深夜の街中を彼が颯爽と駆け抜ける。練習が遅くなると、彼の車で出かけて晩御飯を食べた後社宅に戻るのがルーティンになっていた。

 初めての交通安全教室を終えた日。いつものように晩御飯を二人で食べた後、ガレージから社宅に戻る道すがら彼がボソボソと切り出した。
「あの…」
「何、ですか?」
 彼は顔を赤らめながら私の方を見る。
「今日の交通安全教室、大成功だったね…」
「私の喋りに山崎さんが合わせてトラックを振り回してくれたからです。山崎さんの手柄ですよ」
「いや、豊田さんがリードしてくれたから…」
 暫しの沈黙が私たちを支配する。
「あ…あのっ!」

「ありがとう」

 更に彼が言葉を紡ぐ。
「あのっ、僕、上手く言えないけど…」
「私、煮えきらない物言いは嫌いなの。言いたい事があるならハッキリ言って下さい」
 彼は暫く黙っていたけど、やがて意を決したように私に告げた。
「無理を承知で言う。叶わない夢だと解っていても…言って失敗するのはいいんだ。言わない後悔を一生抱える位なら今ここで言ってしまう。豊田さん、いや璃子さん。僕と結婚してくれませんか…」
 私は彼の方を振り向くと、微笑んだ。
「いいわよ♪」

 結婚の報告と御挨拶は、先ず彼の実家からにした。
「いやあ、ウチの貴(たか)宏(ひろ)がこんな素敵なお嬢さんを射止めるなんて。僕ら家族には勿体無い位だよ」
「いや、まあ…人の値打ちなんて学歴や何やらで決まるもんじゃないですから…」
 お義母さんが口を挟む。
「そうは言っても、璃子さんはいい子だしいい大学を出ていらっしゃるし…貴宏も私も高卒だし、お父さんは中卒で仕事しながらやっと定時制高校を出た位のレベルなのよ」
「私も貴宏クンも、卒業証書や家柄と結婚する訳じゃありません。私は彼が真面目で優しくていい人だと思ったから…」
 彼が真っ赤になりながら言葉を続ける。
「僕だって璃子さんの肩書に惚れた訳じゃない。彼女の気遣いと人を惹きつける力に…」
 ふと首をかしげたお義母さんが、心配そうに私に問いかける。
「親の私が言うのもなんだけど、貴宏って引っ込み思案だから恋愛とかそういうのに全然疎くて…まさかこの子、いきなり『結婚してくれ』とか言ったんじゃ…」
 コレきっと駄目なヤツっ!私は飲みかけたお茶を噴きそうになるのを堪えた。
「そのまさか、ですよお母さま♪」
「それを言うんじゃないよっ!」
 全員でひと通り笑い転げたあと、お義父さんが心配そうに問いかける。
「で、璃子さんはそれでいいの?」
「営業所の莫迦共とは違って、貴宏クンは本当に私の事を心から想ってくれてるんだって解ったから…私はそれだけで十分ですよ」

 さあ、後は唯一にして最大の難関、ウチのクソ親父だ。
「で、君はウチの璃子に一目惚れ。トラックの運転手が総合職のエリートと一緒になろうって訳だ」
 父は私の自慢話を山手線がぐるぐる回るように何度か繰り返した後、吐き捨てるように告げた。
「何言ってんの?彼は営業所のエース級よ。逆に私なんかじゃ勿体無い位の逸材なんだから。て言うか教科書や成績表は人の価値を決めるものじゃない!それ言い出したらアンタだって田舎のポンコツ工業高校出ただけでしょうが」
 私は苛々しながら反駁した。貴宏は何か言いにくそうにモジモジしている。
「いや、あの…僕なんかが璃子さんと結婚しようだなんて身分違いかも知れないんですが…ただ、僕が璃子さんを想う気持ちだけは嘘偽りのない真実です。せめてそれ位は理解してください」

   けっ。

 そんな声がどこかから聞こえてきたような気がする。いや、その瞬間に母の顔が真っ青になったから間違いない。クソ親父、態と聞こえよがしにやりやがったな…私の苛立ちは頂点に達した。
「…私が決めた人に、何か不満でもあるワケぇ?」
「いや、そうじゃなくて…ただ、」
「ただ、何?」
 父は溜息をつくと、私に、いや、面と向かってじゃないけど貴宏に対して嫌味を言った。
「璃子みたいな才女なら、もっと…」
「もういい。私が決めた事だから、後は放っといて。それ以上何か言ったら只じゃ済まないわよ」
 そんなすったもんだを経て、私達は夫婦になった。父が望んだド派手な結婚式もやらず、私達は地元の神社で二人きりの式を挙げた。
 貴宏のご両親はとてもいい方で、度々私達を家に招いてくれた。皆で一緒に御飯を食べながら、時にはお酒を酌み交わしながらいろんな話をした。実家にいたときは皆がクソ親父の顔色を伺いながら無言でご飯を食べていたから、お招き戴く度にワクワクしていた。
 ある日。
「で、璃子さんはご実家には…?」
 私は溜息混じりに答えた。
「会う度に家柄がどうとかいう下らない話ばかりするからいい加減面倒臭くて…」
「それは不味いな」
 珍しく貴宏が口を開く。
「璃子が僕の親とこんなに仲良くしてくれているのに…」
「父には何を言ったって通じやしないわ。いつも己の家族と田舎の家の自慢ばかり…」
 ふと、お義父さんが口を開く。
「そう言えば、偶に璃子さんのお父さまが電話をくれたりウチに来てくれたりするけど、いつも璃子さんの自慢話ばかりしていたなあ」
 あのクソ親父、そんなことまで…態々この家まで来て娘の自慢ばかりしてやがったのか…
「たぶん、お義父さんは璃子さんが可愛くて堪らないんだと思う。だけど…家の話を聞いていたら…何だかウチと豊田さん家の間には『越えられない壁というか、明らかな差みたいなもん』があるのかなって思ったりもするよ。まあ気のせい気のせい」
 お義父さんはそう言うと、力なく笑った。
 後で解ったことなんだけど、その後貴宏は何度も私の実家を訪ねていたらしい。『ナイショよ』って母が何度か連絡くれてたから。でも、貴宏は私にその事を一切言わない。偶に聞いてみても「いやあ、お義父さんにちょっと昔の璃子の話を聞いていただけだよ」とか言ってはぐらかすばかり。私はある日、貴宏を問い詰めた。
「私の実家で一体何の話をしていたの?あの自慢話ばかりするクソ親父の御機嫌取りでも?」
 貴宏がしどろもどろに答える。
「いや、あの…僕の親がお義父さんと会うのを避けるようになってしまっていて…で、僕が間に入って何とか間を取り持とうかと…」
 だったら事前にそう言えよ!もう無理。私は怒りを爆発させた。
「それって夫婦の問題でしょ?何で君が一人で何でもかんでも抱え込むワケぇ?そんなこと、二人で協力して解決するもんじゃ…結婚するときに、お互い何でも助け合って生きていこうって言ったじゃない!」
 私は涙が止まらなくなった。己の間違いに気付いた貴宏が、私を優しく抱きしめる。
「璃子、ごめん。僕は君を巻き込む事で君を苦しめたくなかった…ただそれだけで…」
「私は、君と一緒になるって決めた時からずっと『夫婦ってもんは何でもかんでも二人で話し合って、助け合って生きていく』もんだって思ってた。でも、それは私の独りよがりだったのかも」
 彼は涙を流しながら微笑んだ。
「よし。じゃあ僕は明日から考えを改める。これからはどんな事も君と話し合ってから物事を進めて行こうと思う」
「本当に?」
「ああ、勿論さ」
 私は涙を拭うと、貴宏に告げた。
「じゃあ、あの車買い替えてくれる?あれ、二人ならいいけど家族で乗る車じゃないじゃん」
 彼は溜息をつくと、今まで言ったことのないような強い口調で答えた。
「それだけは無理。お小遣い減らされても文句は言わないけど、あの車は絶対に手放さない」
 私達は暫くの間、笑い転げていた。まさか、それが最後の笑いになろうとは…

 翌週末、私は営業所で配車の確認をしていた。日勤の車はあと三台が未帰還。まあ、もうすぐ帰って来る頃か…
 そう思っていた時、海沿いの方で大きな音がした。固体同士が激しくぶつかり合う嫌な音。様子を見に行った主任が血相を変えて戻って来る。
「おい!豊田っ!さっき、ウチの車が事故った音だっ!」
 マズい。慌てて営業運転中の車番リストに目を通す。
「車番は?」
「七六-六八。おい、乗ってたのは誰だっ?」
「山崎貴宏っ!」
 私は吐き捨てるように告げると、カウンターを飛び越えて現場に飛び出した。

「……」
 現場は凄惨なもんだった。野次馬の話を繋ぎ合わせると、路地から飛び出してきた幼女を避けようとして防潮堤の鉄扉に突っ込んだらしい。偶々ヘルプで乗った四屯のキャビンはぐしゃぐしゃに潰れていて、中はもう血塗れの酷い状況。
 現場に駆け寄ろうとした私をお巡りが制止する。
「いま救出作業中だっ!邪魔になるからせめて救出が終わるまで……あ、おい、こらっ!勝手に現場に入るんじゃないっ」
 消防のレスキュー隊が手慣れた手つきでキャビンから貴宏を運び出し、今まさに救急搬送されようとするその瞬間、私は救急車に飛び乗った。
「貴宏っ!」
 頭を包帯でぐるぐる巻きにされた貴宏はいくら呼んでも返事をしてくれない。貴宏は暫く何の反応もなかったけど、私がしつこく名前を呼び続けるとやがて微かに反応した。
「璃子…璃子なのか…」
「貴宏っ!」
「ごめんね、約束守れなくて…」
「そんなこと…」
「これからは二人で、何でも話し合って…協力していこうって言ったのに…何も話せなくて…何も協力出来なくて…ごめんね…」
「そんなこと、今はどうでもいいから!」
「あ…」
「何?」
「あの女の子…怪我とかしてなかったかな…」
「事故のショックで泣いてたけど、大丈夫。あってもかすり傷位よ!」
「そうか、良かった…」
 貴宏は、それきり目覚めることはなかった…

「璃子…」
 葬式の後、クソ親父が私に話しかけてくる。この状況下で、一番話したくない相手がコイツだ。
「大変だったな…」
 見りゃ解るでしょ。私は何も言わず、ただ俯くのみ。
「まあ、璃子はまだ若いんだからやり直しもきく。今度はもっといい人に巡り合って…」
「まさかアンタ、ご両親にその事を…」
「言ったさ。言って何が悪い?それとも何か?お前は一生山崎家に縛られて…」
 最後まで言い終わらないうちに、私の拳が飛ぶ。柔術に『殴る』という技はないけど、それは私の意思により自然に起こされた行動だった。今までなかった感情。それが怒りなのか悲しみなのか何なのかは解らない。ただ、負の感情であることは間違いない…不慮の事故で配偶者を亡くしてどん底にある人間に、再婚の話をする莫迦がどこにいる?

 その莫迦は、私の目の前にいた!

 翌月、ご両親が社宅に来られて貴宏の遺品を全て引き上げてしまう。
「璃子さんは、新たな人生を歩んで下さい」
 そう言い残された私は、部屋の隅に座り込む。何もない部屋の片隅に、私の白いブラウスと黒パンツを吊るしたハンガーラックがポツンと残されていた…

「で、アンタは貴宏やお義父さん、お義母さんの顔を見る度に私と家の自慢をしていた訳だ」
 リコさんの言葉に相当棘がある。て言うか殺気みたいなものまで感じる。敵意剥き出しっていうのかな?あたしは嫌な予感がした。いや、違う。嫌な予感しかしない。あたしの手に汗が滲む。
「そりゃそうだろ。だってウチは歴史ある家だし、厳しく躾けてきた立派な子供達なんだから…自慢?何を言ってるんだ…当たり前のことを言って何が悪いんだ」
 リコさんが更に不穏な空気を醸し出す。発射寸前のロケットみたいにもくもくと煙が上がる、そんな感じだった。
「で…その阿呆みたいな似非ブルジョワ階級の自慢を散々聞かされた普通の人がどう思うかなんて考えたことあるぅ?」
「そりゃ羨ましいって思うに決まってるだろ。なぁ?お嬢さんもそう思わないか?」
 え?急にあたしに振るなんてずるいよお父さま。あたしはリコさん家とは違って…いや、そもそも『家族』っていう概念はお兄とあたしの間にしかない。『ほんとうの家族』はそうじゃないんだろうけど…
 苛つくリコさんを刺激しないように、と思いながらあたしはお父さまに感じた違和感をそのままぶつけた。
「…何て言ったらいいんでしょうか…あたしはまだ生まれたばかりの頃に親と離れ離れになって…ずっと施設で育ったから、家柄とか家族とかそんなことよく解らないんですけど…お話を伺っていると、何かその…越えられない壁というか明らかな差、みたいなもんがあるのかなあって…」
「ああ、それはさぞかし大変だっただろうねぇ」
 その瞬間、リコさんの肩がピクッと動いた。リコさんに変なエンジンがかかったっぽい。あたし、ゼッタイに言っちゃいけないことを…
「何、その人を見下したような物の言い方は…」
 ヤバい、どうしよう。
「その身勝手な定義付けと安易な同情が、周りの人をどれだけ傷付けてきたのかアンタは解ってんの?」
 駄目だ。もうあたしには止められない。
「アンタの莫迦みたいな自慢話と、人を見下したような物言い!それが貴宏とご両親をずっと傷付けてきたんだっ!今やっと解った!テメエ、ぶち殺してやる!」
 あたしが行動を起こすより先に、リコさんは物凄い勢いで大きな座卓を飛び越えるとお父さまに飛びかかった。湯呑が砕け散り、お父さまの眼鏡が吹っ飛んで粉々になる。
 お母さまが悲鳴を上げたその瞬間、リコさんは既にお父さまの上半身に馬乗り状態。お兄が格闘技好きでよく一緒にテレビ観てたから何となく解るけど、所謂マウントポジションって奴だ。ここからだったらフルボッコも絞め落とすも何でも有りじゃん。
 慌ててリコさんを止めに入るもあたしでは太刀打ち出来ない。ボコボコに殴られた挙句に絞め上げられたお父さまの意識が朦朧とする頃、部屋に二人の屈強な男性が入って来た。お母さまが叫ぶ。
「お兄ちゃん達、来てくれたのね!お願い、璃子を止めてっ!」
 リコさんがいくら達人とはいえ、相手は現役の警察官と護衛官。まして男二人に女一人では圧倒的に分が悪く、リコさんはあっという間に取り押さえられる。羽交い絞めにされつつもリコさんはお父さまに筆舌に尽くし難い悪態を吐き続けていた…

「そうか、それで璃子は…」
 お兄さま達に事情を説明し終えた頃、二人は声を揃えて言った。
「だからって暴力はいけないな」
 やっと落ち着いたリコさんが反論する。
「下らない自慢話で家族をバラバラにされて同じ事が言えるかしら」
 お兄さま達が首を傾げる。
「僕達の家族には、そんな事全く言ってないけど…」
 眼鏡が吹っ飛んで顔中血だらけになったお父さまが、憔悴しきった様子で口を開く。
「私はただ、娘が可愛くて可愛くて…娘が如何に素晴らしい子か…ただそれだけを自慢したくて…」
 そう言うとお父さまは項垂れて涙を流し始めた。
「時既に遅し、ね。もういい、解った。アンタはその『可愛い娘』とやらのご両親に嫌味めいた自慢話をし続けた挙げ句に、婿を間に挟んで苦しめたってワケだ。アンタは今後、その事を一生後悔し続けたらいいわ。じゃあね!」

「スミマセン。何かあたし、変なトリガー引いたみたいで…」
 あたしの謝罪なんか意に介さない様子で、リコさんがケラケラ笑う。さっきまで実の父親をマウントポジションで殴ったり絞めたりしていた人の表情とは思えない…
「気にしない気にしない。トリガー引く時って大体こんな結末になるわよん」
 本当にそうだといいんだけど…
「しかしリコさん、あたし生まれて初めてマウントポジションっていうのを生で見ました…あ、次の交差点を右です」
 ステアリングを巧みに操りながらリコさんが不敵な笑みを浮かべる。
「入門当初はね、護身術しか習わせないって約束だったんだけど…まさか会得したモンを実の親に使うとは流石のリコ様でも想定してなかったわ」
「で、リコさんはこれから…あ、その先の信号を左です」
 リコさんはステアリングを構えると呟いた。
「はなちゃんは明日学校だけど、私は有給休暇を貰ってるから昼の間に主人の実家に行ってみる。今までは理由も何も解らなかったけど、理由を知った以上は何らかの取っ掛かりみたいなもんは出来たと思うから…明日、学校が終わる頃に正門まで迎えに行くからその時に結果報告、って事でどう?トリガーを引いてくれた人にはちゃんと結末を伝えないとねっ!」

 次の日。
 はなちゃんを学校に送り出した私は、駅前の百貨店でお土産を見繕うと東に向いて歩き出す。そういえば、このブランデーケーキを食べただけで貴宏は真っ赤になってたっけ。
 そんなことを思い出しながら彼の実家へ歩を進める。駅から離れたところにある家は、最近になって再開発されたショッピングモールが道向かいにあるけど、元々は寂れた飲み屋街が立ち並ぶ寂れたところにあった。
 やや緊張しながら、家の呼び鈴を押そうとしたその時…
「あれ?璃子さんじゃない…?」
後ろから不意に呼びかけた私が振り向くと、自転車で戻って来られたお義母さんがいた。
「どうして…?」
 戸惑いを隠せないお義母さんの後ろから聞き慣れた、でもこのシチュエーションでゼッタイに聞きたくない声が聞こえる。
 クソ親父め、今更何しに来やがった…
 お義母さんの戸惑いが頂点に達する。
「いや、まぁ…ここで立ち話ってのもアレなんで…取り敢えず中にお入り下さいな」
 玄関に入ると、声を聞いたお義父さんが出てきた。玄関に入ろうとする私を押し退けてクソ親父が割り込んだかと思うと、父は玄関で額を床に付ける姿勢…所謂土下座で貴宏のご両親に詫びを入れる。
「私はただ、娘が可愛いばかりに…貴宏君とご家族に莫迦みたいな自慢話ばかりして、挙げ句に大変不愉快な思いをさせてしまったこと…誠に申し訳なく…」
 お義父さんは父を抱え上げると、優しく微笑んだ。
「頭を上げてください…何もない家ですが、上がってお茶でも」

「なるほど、昨日そんな事が…で、顔のお怪我は」
 当然そこには気付くわね…
「いや、あの…ちょっと親莫迦ならぬ莫迦親の目を覚まそうとして一発かましちゃいまして…」
 そう言いながら私は頭をぼりぼり掻くしかなかった。
「そう言えば、貴宏がいつの日か言ってたわ。『璃子は柔術をやってるから、いつの日か僕が彼女を怒らせる日が来たら僕も関節を極められるか絞め落とされるんじゃないかなぁ。気をつけなくちゃ』って」
 お義母さんが懐かしそうに話す。
「いや、流石にそれはないかと…」
「ふふっ。璃子さんならそう言うし実際に絞めたりしないと思ってたわ」
 ホッとした。私にDVの嗜好はない。
「本日は、態々お越しいただいたうえに丁重なお詫びまでいただいて恐縮です」
 お義父さんが口を開く。
「いや、僕達も心の何処かで『嫌味とかを言ってるんじゃなくて、単に璃子さんを溺愛しているが故の自慢話なんじゃないのかなぁ』って薄々感じてはいたんです。ただ…それを確かめる勇気も無くて『逃げる』という方向に舵を切った」
 クソ親父が項垂れる。お義父さんは、そこで一つ溜息をついた。
「でも、貴宏は『そんな事しちゃ駄目だ。逃げちゃいけない。何なら僕が間を取り持って』って。今まで親に反抗したことがない子が噛み付いてきた」
 やっぱり、貴宏は間に挟まれてたんだ…
「で、暫くしたら『璃子と話し合って、これからは二人で解決するって決めたんだ』って嬉しそうに話してくれたんです。でも、その矢先に…」
 暫く席を外していたお義母さんが戻って来た。
「お葬式の後、何も言わずに遺品とか全部引き上げちゃってごめんなさい。でも…璃子さんはまだお若いし、次の人生を歩んでほしいと思ったのは本心なの…だから、何も遺さなかったし遺骨の在り処も伝えなかった…」
 お義母さんはそう言うと、項垂れて『申し訳ない』と繰り返すばかり。お義父さんは、お義母さんから受け取った封筒をそっと私に手渡した。
「これは…」
「開けてご覧」
 封筒の中には、鍵が一本と住所を書いた紙が一枚…あ、あと写真が一枚入っていた。
「その写真はね…貴宏が初めて営業所で十屯トラックを扱わせて貰える事になった時のもの。営業所の人にお願いして、営業所内で写真を撮らせて貰ったんだ。その話は璃子さんも知ってるかな?」
 勿論。立ち入りを許可したのは庶務の私だし、写ってる車は後藤クンが乗ってる。貴宏が事故にあった時は、ヘルプで別の四屯だったから。
「想い出を押し付けようなんて気持ちは全くないんだけど…写真の一枚でもお渡ししておいて、今後もし貴宏の事を思い出すような事があったら、この写真を見て…こんなの親のエゴだよね…ごめん」
 お義父さん、お義母さんと私も涙が止まらない。
「この写真、一生大事にします」

「ありがとう」

 涙が止まらず声にならないお義父さんに代わってお義母さんが説明してくれる。
「そこに書いてある住所なんだけど…もうすぐ定年退職するのを機会に、主人の生まれ故郷で暮らす事に決めたの。だから、貴宏のお墓もその近所に…家は義母が住んでたところをそのまま使うんだ…今は空き家だから、もし…私たちが移住するまでの間にお墓参りに来ていただけるんならその家を使って。恐ろしく不便な田舎だから日帰りなんて無理だし、宿泊施設もないし…鍵は預けておくけど、行くときは必ず事前に連絡してね。私たちから向こうの人に連絡しときゃ後は何とかなるから」

 クソ親父を引き連れて駅前のロータリーまで戻ると、案の定上の兄(海上護衛隊のほう)が父を迎えに来ていた。兄の車に乗った父が最後に何かを言おうとしてパワーウインドウを開けたが、言葉を発することは叶わず。
 アタリマエだ。私の右手が動くと同時に、父の頬に鈍い衝撃が走る。
 「一生かけて反省しろ、このクソ親父!」
 さあ、そろそろはなちゃんの学校が終わる頃だ。早く支度しなくちゃ!私はガレージに向けて全力で走り出した。

 終業後暫くして、暁達館高校ではちょっとした騒ぎが起こっていた。正門前に見慣れぬ車が停まっている。あたしだけはどんな車で誰が乗っているか知ってるけど。
「え?何あの車?ちょっとヤバくない?」
「何かドアが斜め上に開いてるし」
「てかあの美人のお姉さん誰?」
「ねえ、誰かの知り合い?」
「あ、あたしのお姉ちゃんだっ!」
「え、はなちゃんってお兄さん以外に兄弟いたっけ?」
 クラスメイトが唖然とする。
「あ、じゃあ今日はお姉ちゃんと帰るから!それでは皆さん、ごきげんよう♪」

「迎えに来てもらってスミマセン…」
「いいのよはなちゃん。その代わりこれから買い物行って荷物持ちよん」
「ハイ喜んで!」
 聞いていいものか否か。街を颯爽と駆け抜ける車内で、あたしは恐る恐るリコさんに尋ねた。
「あの、昨日の件は…」
「はなちゃんがトリガーを引いてくれたおかげで一応解決、ね。お互い誤解は解けたみたいだし」
 リコさんはそう答えると車をスーパーの駐車場に滑り込ませ、いつもより派手めにドアを開けた。軽やかなステップで店の入口まで小走りすると、私に微笑む。
「さあ、今日はお酒も買うから重いわよ。覚悟はいい?」
 そう言って大型のショッピングカートに片足を掛けて、キックボードみたいに漕ぎながら店内に入っていくリコさんを追いかけながら『あ、吹っ切れたんだ』って思った。

 その日の晩御飯。
「ほへぇ〜っ。リコさん、和食も相当な腕前ですね…凄く美味しいですっ!あたしなんかと比べ物にならない位」
「キャリアの違いよ、私の方が料理歴長いもん。はなちゃんの料理も中々のモンだから、そのうち追い越されるかもねぇ」
 リコさんはそう言ってケラケラ笑うと、いつになく速いペースで焼酎を煽る。
「今日は飲むペース速くないですか…?」
「気のせい…って言ったらバレバレか。そう、今日は夫の実家に行ってきたの。ご両親にお詫びしなきゃって思って」
 流石はリコさん、行動が早い。
「でね、家の表でお義母さんと会ったから少しお話してたら、あのクソ親父が来たのよ」
「ええっ…確か昨日お顔に怪我してましたけど…」
「そう。母に手当てしてもらったみたいで、ガーゼをあちこちに貼った上からネット包帯被ってたわ。何か特売の玉葱みたいで凄いウケた」
 あの、玉葱をネットに入れた原因はリコさんではなかったでしょうか…
「今まで人に頭下げることなんか無い人生を歩んできたあのクソ親父が、いきなり玄関で土下座なんてするからそりゃもうビックリしたわよ。アイツが人に頭下げるのを見るのって私の人生で二回目かな」
 私は、恐る恐るリコさんに尋ねた。
「あともう一回は…」
「私が道場に入門した時よ。自分の思い通りにならない私に腹を立てて、師範に言いがかりつけた挙げ句に掴みかかろうとしたから瞬殺。で、私の事を宜しくお願いしますって頭を下げたワケ」
「え、じゃあ…」
リコさんは大きく頷いた。
「そう、本気で痛い目に遭わないと解らない奴なの。言って聞く相手じゃないって私が言ったのはそういうこと」
「それにしてもリコさん、あれはちょっとやり過ぎじゃ…て言うか座卓飛び越えてマウント取るなんて!」
「うん…あれはちょっとやり過ぎたかな。テヘッ♪」
「テヘッ、じゃないですリコさん!」
「次からは手加減する…」
「手加減じゃなくて暴力行為は一切禁止、ですっ!」
 暫くしゅんとしていたリコさんが、あたしの手を握るとじっとこちらを見つめた。
「途中経過はかなりマズかったけど、少なくとも『お互いの心がすれ違っていたことと、すれ違った原因』は解りあえた。今日からいきなり仲良くって訳にはいかないけれど、振り出しに戻る位の事にはなったんじゃないかな。トリガーを引いてくれた人に報告できるのはこれ位」
 あたしの手を握るリコさん。只でさえ力強いその手にギュッと力が込められる。
「おかげで、お墓の場所も解ったし、あの愛想無い写真も入れ替わった」
 あ、本当だ…トラックの前でドヤ顔してる写真に変わってる…
「はなちゃんがトリガーを引いてくれたおかげよ」
 え、やだそんなことないですリコさん。もう少し良いやり方もあったんじゃないかと…

「ありがとね」

第六章 最後のチャンス

 朝早く、予定時刻より若干早めに営業所に帰還した俺をリコさんがプラットホーム上で今か今かと待ち構えている。普段は『関係者以外立入禁止』とか言っている営業所内に、はながいるのはなぜだろう。運送屋のプラットホームにセーラー服姿で佇むはなが、異様な存在感を示している。
「後藤クン、おかえり!何か問題とか無かった?」
 俺はエアブレーキの排気音と共に安堵の溜息をつくと、日報をリコさんに手渡した。
「仕事上では何の問題も無かったです。それよりも俺がいない間、はながお世話になりましてスミマセン」
 そう答えた俺を無視するかのように、リコさんはトラックのキャビンに入り込む。
「さあ、リコ様へのお土産でも拝見しようかしら♪」
 リコさんは、俺が村で半ば押し付けられるようにも貰ってきた野菜やら何やらのコンテナを見て絶句した。
「何これ?」
「いや、あの、向こうで何やかんやありまして…」
「普通、お土産に野菜なんか買うワケないよねぇ。てかこのコンテナ、農協のヤツじゃない?こんなもん持って帰って来るって…」
 俺は必死に弁解した。
「いや、これは村の連中が半ば強引に積み込んだもんで…」
 最終的に営業所の中まで入り込んで無理矢理積んだのは事実だ。
「私的な荷物を積んじゃダメっていつも言ってるじゃん…全くアンタって奴は…」
「スミマセン…」
 リコさんはそっぽを向いて半ば吐き捨てるように呟いた。
「まあ、これ位は大目に見てあげる…でも、こんな莫迦みたいな量の野菜をどうするつもりで持って帰って来たワケぇ?白菜がたくさんあるからキムチとか、何なら道端で露天でも…あ、でもそんなことしたら畑泥棒と間違われたりして。ウヒヒ」
 答えに窮する俺を一通り弄り倒して楽しんだリコさんは、ニヤリと笑うと俺に一つの提案をした。
「これだけの野菜があるなら、ウチで鍋パーティーね。はなちゃんもいたらこれ位の量はあっという間に捌けるわよ、きっと」

「急にお邪魔してスミマセン」
「またまたお邪魔してスミマセン」
 ひたすら恐縮して詫び続ける俺達兄妹を眺めながら、リコさんが何時もの調子でケラケラ笑う。
「後藤クンが莫迦みたいにお土産貰って来たおかげで食費が浮いたわ。はなちゃんとはまた一緒にゴハン食べたいと思ってたから丁度良かった」
「あ、あたしもリコさんとまた一緒にゴハン食べたいと思って…」
「だよね〜。私達、後藤クンがいない間に姉妹の契りを交わしたもんねぇ?盃は血よりも濃いのよ?後藤クンにそんな難しいこと言っても解らないか…」
 楽しそうに笑う二人を見て俺は軽い目眩を覚えた。杯の話は俺でも解るが、リコさんは重大な勘違いをしている。そもそも盃兄弟ってヤクザの世界だろ…

 皆でワイワイ言いながら、俺は山のような土産を持ち帰る羽目になった経過を話し始めた。
「この莫迦みたいに沢山ある土産のうち、普通に旅行か出張の土産っぽい『紀州名産袖もなか』ってヤツは後藤クンが買ってくれたのね」
 ある程度正しいけれど、リコさんは一つ間違えている。『袖もなか』じゃなくて『柚もなか』だ。そでじゃなくてゆずだ。
「で、単にもなか買ってくる以外に山のような野菜を持って帰って来たのは何故なの?」
 理由はキチンとあるんだが、赤の他人であるリコさんに話すことを俺は躊躇った。だが、はなが『リコさんには本当の事を全て話して欲しい』と言ったから俺は二人に中山県で何があったかを全て伝える事にした。

「え、嘘…。そんなつまらない事でお父さんとお母さんは離ればなれになっちゃったの…?そのせいでお兄とあたしは捨てられた…」
 はなが取り乱した様子で箸を落とす。
「…俺が知り得たのは父親側の言い分だけだ。必ずしもそれが正しいとは言えない。それが真実かどうかなんて解らない。俺が今話したのは概要みたいなもんだから…詳しくは父親の日記を持って帰って来たから後で読むといい」
 はなが突然涙を流し始める。
「嘘だ…そんなことあたしは信じたくない…ただそれだけで家族がバラバラになったなんて…そんなの悲しすぎるよ…」
 そう言ってはなはリコさんに飛びついて泣き崩れた。

 その夜は鍋をつつきながら酒を喰らって楽しい宴会になる筈だったんだが、すっかりブチ壊しにしてしまった。やっぱりリコさんの前で切り出す話じゃなかったのかも知れない。俺はただひたすら後悔していた。でも、この場を適当に取り繕って宴会なんかしていたら、はなはもっと傷ついていただろう。どっちみち、はなが傷つくことに変わりはないからリコさんがいてくれて良かったのかも知れない…
 誰かが何か喋るでもなく、ただ黙々と鍋を食べ空腹を満たすだけで夕食の時間は終わった。玄関の横に、缶ビールの箱が寂しそうに佇む。済まない、今日はお前の出番は無さそうだ…
 はながあまりにも不安定な状態だったので、心配したリコさんが俺の家まではなを送ってくれた。そこで、俺達を更に動揺させる残酷な事実を突きつけられる。
 社宅の五階まで階段を登ると、玄関の前で見慣れない奴が俺達を待ち受けていた。
「夜分遅くにすみません。後藤星來さまですか?」
 いつかの弁護士みたいな、不躾な質問。俺を苛つかせるその一言。
「だったら何だ?」
 そいつは俺に名刺を手渡し、職員証を呈示した。
「私は中山県南部広域連合社会福祉事務所でソーシャルワーカーをしています横山と申します。本日は重要なお知らせがあって失礼を承知で参りました」
 役所やら弁護士が家に来るときはたいていロクな用事じゃない。俺は身構えた。
「後藤星來様とはな様が児童養護施設に措置されたことは当方も存じております。本日はお二人を施設に預けられた、お母さまのことで伺いました」
 リコさんに抱えられたはなの肩がピクリと動いた。父親のことで精神的に参り切っているはなに一体何を伝えに来たんだ。よりにもよってこんな時に来やがって…!
「まあ、ここで立ち話ってのもなんだから、中に入れ。話くらいは聞いてやる」
「では、失礼します」
 彼女はそう言うと、何か覚悟でもしたように台所で俺たちを見据えた。俺はやや苛立ちながら次の言葉を待つ。
「…お母さまは、現在危篤状態にあります」
 俺達三人は息を飲んだ。
「お母さまは心の病で日常生活もままならない位な状況に陥り、県内のサナトリウムで療養しておられたのですが、心疾患もお持ちで…で、数日前から容態が急変して」
「だから何だって言うんだ」
 俺は冷ややかに告げた。
「今すぐ駆けつけろ、とかいうつもりはございません。ただ、私どもは…」
「何が言いたいんだ?こんな夜遅くに家まで押しかけて、俺達に何をしろと?」
 横山さんとかいう人は、一瞬だけ戸惑ったような表情を見せたあと事務的かつ冷やかに言い放った。
「何かをしろと言うつもりは毛頭ありませんしその権限もございません。ただ、我々が措置した方のうち、ご家族がおられる方については何かあった時に御連絡を差し上げるのが決まりでして」
「だったら何故今まで知らん顔してた?」
 彼女は溜息のように息を吐くと、俺達に答えた。
「御本人様の意志です。子供を捨てた以上、自分の居場所を教えたりする事は出来ない、と」
「だったら何で今更…」
「先程も申し上げましたが、生命に関わる事態、若しくは亡くなられたような場合は御本人の意思に関わらず親族に連絡する決まりでして…」
 ああ、そうか。御苦労なこった。彼女は母親がいるというサナトリウムの所在地を告げると俺達の元からそそくさと立ち去った。
 中山県本宮郡…俺が出張した営業所と内削村の近所じゃないか…そんな近くに俺は昨日までいたのか…
 台所でリコさんはずっとはなを抱きしめていた。はなは何も言わない。重苦しい沈黙が俺達を支配する。いい加減その沈黙に耐えられなくなった頃、はなが俺を見つめる。
「ねえ、お兄」
 はなが言葉を絞り出す。
「…お兄とあたしを捨てた人かも知れないけど、あたし、自分の母親がどんな人だったのか知りたい。会いたいよっ!」
「解ったよ、はな。お前が母親に会いたいんなら一緒に会いに行こう。ただ、もうこんな時間だから今晩は準備だけして明日の始発電車で…リコさん、こんな状況なんで明日から暫く欠勤してもいいですか」
 リコさんは全く動じる気配もなく言い放つ。
「それを調整するのが私の仕事よ。後藤クンの代役は私が探す!て言うか有給休暇をクソ程残してるんだから、こんな時こそ休みなさいよっ!」
「ありがとうございます、リコさん。でも、明日の朝まにお母さんが死んじゃったら…」
 はなの身体が小刻みに震えている。
「そうは言っても、はな…電車はもう無いし、移動する手段は…まさか会社のトラック借りる訳にもいかないし…」
「当たり前でしょ。社員の個人的な都合でトラックを空荷で走らせる莫迦がいるもんですか。そんなことしてたら会社が潰れちゃうわよ」
 リコさんはそこまで言うと、はなに微笑んだ。
「はなちゃん、今こそセラ君の出番ね♪」
 はなが何かに気付いた。
「え?俺が何を?」

「莫迦。君の事じゃないわよ」

 着替えの用意もそこそこに、社宅から数分の場所にあるガレージに俺達はやって来た。リコさんがやや乱暴にシャッターを開けたその先に、信じられないような光景が広がる。
「こ、これは…?」
 車好きな俺ですら実物を見たことがない、憧れのガラスキャノピーの車がそこに燦然と輝く。これって…
「後藤クンに貸す訳じゃない…どうしてもお母さんに会いたいっていうはなちゃんの為にリコ様がひと肌脱ぐって感じかしら。君は只の運転手よ」
 泣き腫らした目で、はながリコさんに問いかける。
「でも、リコさん。この車、亡くなられた御主人の想い出の…」
「きっと彼はこんなシチュエーションだったら喜んで車を貸してたわよ。まして、貸す相手は運転のプロなんだから」
 そう言ってリコさんは俺にウインクした。
「リコさん、すみません。この車、相当大事にしているモノみたいですが暫くお借りします」
「ゴチャゴチャ言ってないでサッサと行きなさい。はなちゃんの為にも、ね!小さな車だけど車重は軽いしエンジンも相当チューンしてあるからそこら辺のショボい車に負けやしない。感傷に浸ってる暇なんかないわ!でもね…」
「でも、何ですか?」
「ぶつけたら殺すわよ!さっさと行ってらっしゃい!」
 そう言うとリコさんは満面の笑みで俺のケツに強烈な蹴りを喰らわせる。施設にいた頃はなを守る為に取っ組み合いの喧嘩をした事は沢山あったけど、女性に蹴りを喰らったのは初めてだ…。
 御礼もそこそこに、俺とはなは中山県のサナトリウムに向けて車を飛ばした。

「そうか、この車ってリコさんの亡くなった御主人が…」
「そうなんだよお兄。だからリコさんの為にも、この車丁寧に扱ってね!」
「はな…俺はプロのドライバーだ。車を丁寧に扱うなんてこと基本中の基本。イロハのイだ」
 と言いながら、俺は借りた車を相当なスピードで飛ばしていた。一刻も早くはなを母親に会わせたい。ただそれだけを思いながら走り続ける。リコさんが『チューンしてある』とか言ってたけど、俺は乗った瞬間に解った。この車には、オーナーの愛情が、情熱が込められている。
「はな、このペースで行けばサナトリウムに到着するのは早朝になる。明日に備えてはなは少しでもいいから休め」
「え、でもお兄は夜通し走るのに…」
「さっきも言ったけど、俺はプロのドライバーだ。夜行便で高速を突っ走るなんて屁でもない」
「お兄…ありがと」
「礼なんていちいち言わなくても、はなの気持ちは俺に伝わってるよ」
 はなはそれ以上何も言わず、助手席で目を瞑った。俺は運転に集中していたから見なかったけど、こんな状況で眠れる筈が無い。きっと俺に気を遣って寝たフリしていたんだろう。

 夜通し車を走らせ、日が昇り始めた頃に俺達は中山県に到着した。サナトリウムは、俺が先日出張した営業所から山手に三十分程走った所にあった。
 サナトリウムの車寄せに車を突っ込んだ瞬間、はなはバタフライドアを開けると同時に建物の通用口に突進した。俺は車を停めるとはなを追う。
 建物の中に入ると、外来診察受付のフロアにはなが突っ伏している。
「はなっ!」
 駆け寄ったはなは、床に涙の雫を垂らしながら嗚咽を漏らしていた。
「お母さん、一時間程前に亡くなったって…リコさんに車借りて、お兄に夜通し頑張って貰ってここまで来たのに…」
 そう言うとはなは泣き崩れた。俺はただ、はなを抱きしめる位しか出来なかった…

 はなが少し落ち着いた頃、俺達は母親の遺体と対面した。
 地下にある霊安室で、俺達は母親の亡骸をじっと見つめる。これまで、どれほどの歳月が経っただろうか。
 過去の記憶が俺の中に蘇る。父親の日記にあった通り、母親とはなはそっくりな美人だった。道理で最近はなの顔を見ると昔のことを思い出すわけだ。無機質な寝台に横たわる母親とはなの違いは、気の毒な位痩せていて手首にリストカットの跡があること位だろうか。
「間に合わなかった…お母さん、死んじゃったんだよね…会ったら色々聞きたい事、言いたいこともあったのに…」
「はな、済まなかった。俺がもう少し飛ばしていたら…」
「お兄のせいじゃないよ。お兄、頑張ってくれたじゃん」
 そう言ってはなは、魂の抜けた亡骸をじっと見つめる。はなの涙が、母親の頬をいつまでも濡らしていた…
「そっか、間に合わなかったんだ」
 営業所に母親死亡の連絡を入れると、電話に出たのはリコさんだった。電話口でリコさんは、残念そうに俺の報告に耳を傾ける。
「でも、亡くなってすぐだったんで顔だけでも見せてやれたのは良かったかと…」
「で、はなちゃんの様子はどうなの?相当参っているんじゃないかしら」
「ええ、看護師さんが機転を利かせてくれて…今は処置室で点滴打って横になっています」
「だったらこんな電話してないで早くはなちゃんの所へ戻りなさい。私の妹の身に何かあったらぶち殺すわよ」
「いや、はなは俺の妹…」
「私の妹でもあるのっ!」
 それだけ吐き捨てるように言うとリコさんは電話を切ってしまった。まあ、相当口は悪いが何だかんだ言ってはなのことを心配してくれてるんだ。早くはなのところに戻ろう。

第七章 すれ違った心(後藤柚香の追憶)

 処置室に入ると、俺に気づいたはながベッドから半身を起こす。
「お兄、ごめんね。色んなことが起こりすぎて混乱しちゃって…」
「少しは元気になったみたいだな…さっき電話したら、リコさんも心配してたぞ」
「あとで連絡してみる…こんな時、あたしが頼れるのはやっぱりお兄とリコさんしかいない。あたし、お兄やリコさんみたいな強くて優しい人になりたい…」
 そう言うはなの目には、何か強い決意のようなものが見えた気がした。
「なれるさ、きっと。まあ、目標にするんなら俺じゃなくてリコさんにしておけ」
 俺は苦笑いしながら答えた。リコさんはともかく、俺は決して強い人間でもないし、優しい人間でもない。不運と失敗の繰り返しで、後悔しながら生きているようなもんだ…俺は、はなに幸せになってほしいというそれだけの思いで生きているだけだから。
「あら、もう具合は良くなった?」
 そう言うと、処置室に一人の看護師さんが入って来る。
「はあ、まあ少しは落ち着きました。心配させちゃってスミマセン」
「あ、そうだ。私はここの閉鎖病棟で看護師長をしている辻といいます。入院しておられる患者さんのうち、自分自身を傷つけてしまったりとか他人に危害を及ぼしたりする恐れのある方々を収容するところ。外から鍵をかけちゃうから行動の自由は制限されるんだけどね」
 何を言っているのかよく解らずにぽかんとしていた俺たちに、辻さんは告げた。
「私ねぇ…看護師の資格を取ってからずっとこの病院に勤務してるんだけど、私がまだ若かった頃にあなたたちのお母さま、柚香さんが入院して来られたの」
 俺とはなは一斉に口を開いた。
「え、じゃあ…」
「入院してから亡くなられるまで、ずっと看ていたわ」

「母のこと、あたしたちに教えてください!母は一体、どんな人で…」
 辻さんは微笑むと、処置室の掛け時計を眺める。
「それよりも君たち、お腹空いてない?明け方に駆け込んできて、今はお昼過ぎでしょ?てことは昨日の晩から何も食べていないんじゃ?」
「ええ、まあそうですが…この近所で食堂かコンビニでも探して…」
「残念ながら、近所にそんな便利なモン無いわよ」
 彼女は吐き捨てるように呟く。
「車で来てるんで、少し走れば何かあるんじゃ…」
「無い。食事するんならそれよりもいい所がある」
「え、じゃあその場所を教えてください」
 それまで凛とした看護師の姿をしていた辻さんが急に相好を崩すと俺に微笑む。
「私も丁度勤務が終わったところ。これからご飯でもって思ってたからついておいで♪」

 彼女が運転する車に俺とはなは同乗させてもらい、サナトリウムに登る山道を下ったかと思うと、今度は別の山を越え始めた。
「あの、辻さん…俺たちは一体どこへ向かっているんですか」
「ああ、そうだ。まだ言ってなかったわね。サナトリウムがある町の隣にある内削村ってところよ。そこでお昼ご飯にしましょう」
 俺は数日前のことを思い出した。あの村、確か何もなかったはずだぞ…あまり変なことを言って辻さんに不快な思いをさせても悪いので、俺は何も言わず黙っていた。
「さあ、着いたわ」
 そこは食堂というより農家のようなところ。表に看板も何もない。俺とはなは建物の入口を見て凍り付いた。そこにあったのは『辻』と書かれた表札。
「え、まさかここって…」
「私の家よ?」

「へえ、この村にはそんな習慣が…」
 食後のお茶を戴きながら、はなが不思議そうな顔をしていた。
「そう。だからこの村に飲食店の類は必要ないの。皆でおかずを持ち寄って和気藹々とごはん、っていうのがこの村の伝統。村ではそれが当たり前だから保育所や小学校、中学校にも給食はないのよ」
「ほへぇ~っ。あたし、この村に住んでみたいかも」
「あら、はなちゃんにはお似合いかもしれないわね」
 俺はその時、軽い違和感を覚えた。
「辻さん、どうしてはなの名前を?」
 彼女は何かを思い出すような表情で、はなの方を向いて微笑む。
「嵐の中で、倒れそうになっても咲き続ける一輪の美しい、愛おしい花。それが貴女の名前の由来よ」
 次に俺の方を見て彼女は話を続ける。
「フランス語で『Sera』は未来を表す動詞。そしてもう一つの意味は『意思』。君が輝かしい未来へ確固たる意思を持って進むことを願って、そして空に星が瞬き始める時にこの世に生を受けたから『星來』だったわね」
 はなが呆気にとられる。
「知らなかった…あたし達の名前にそんな意味があったなんて…」
 父親の日記はドタバタしててはなに渡せていないけど、家に帰ったらはなにもじっくり読んでもらおう。はなにも知る権利があるし、知っておく義務があると思うから。
「でも、辻さん…どうしてそこまで俺達のことを…はなは診察してもらった時に保険証を見せたから名前は解るだろうけど、俺のことまで何故…」
 彼女は、少し不思議そうな表情をした。
「あら、私のいる病棟に柚香さんが入院してたってさっき言ったでしょ?孤児だった柚香さんが亡くなられた直後に、柚香さんの家族だって血相変えて飛び込んできた女の子を見て、あ、これは娘さんに違いないって思ったの。泣き崩れる娘さんを介抱するたった一人の家族、それはお兄さん以外にいない。あ、あと一つ。君たちが離れ離れになっていた期間と入院していた期間はほぼ同じ。その長い間ずっと一緒にいたんだから、そりゃ身の上話もするわ」
 はなが急に身を乗り出す。
「え、じゃあ家族が離れ離れになっちゃった理由も?」
「全てのことを話してくれたわけじゃないだろうから、何でも知ってるって訳じゃないけど」
 そう言うと彼女は突然立ち上がり、箪笥の引き出しから封筒に入った何かを大切そうに取り出した。封筒の中にあったのは、まだ赤ん坊の時のはなを宝物のように抱きしめる俺の写真。
「柚香さんがね、私の一番の宝物を辻さんにだけ自慢するんだって何年か前に託してくれた物なの。はなちゃんが生まれて間もない頃の写真だって」

 辻さんは俺たちを真っ直ぐに見つめると、語気を強めた。
「長い話になるわよ。私がこれから話そうとしていることは、君たちにとって受け入れ難いものだったり、不都合なものだったりするかもしれない。さあ、覚悟はできた?」
 俺とはなは、同時に頷いた。

「それでは、日勤チームのミーティングを始めます!」
 私の憧れの看護師長、強さと優しさを兼ね備えた白衣の天使。ああ、声まで素敵…
「こらっ、辻さん!何ボーっとしてるの?しっかりして頂戴。貴女、腕前と判断力はウチでもピカイチだけど、時々そうやって気が抜けるのが怖いわ」
「す、スミマセン。以後気を付けます」
 さあ、気を取り直して。
「本日、県立総合病院から女性患者が一名転院して来られます。送られてきたサマリーによると、極度のトラウマによって人格が崩壊しつつあり予後不良。自傷行為を度々繰り返しているようね。あと、重要なことが一つ。彼女は心肥大症に罹患しているの」
 一同がざわつく。
「そんな患者さんだったら県立総合病院に入院し続けたほうが…」
 師長もやや合点がいかない様子で応答する。
「それがね、私も向こうの看護師に知り合いがいるからそれとなく探りを入れてみたんだけど、県立総合病院にいるってこと自体がトラウマの一つらしいの」
 私には何のことかさっぱりわからない。
「で…本人と主治医が相談した結果、全く土地勘のない所にある病院でゆっくり療養しましょうって話になったそうよ」
「で、うちのサナトリウムって訳ですか」
 師長は溜息をつくと、頷いた。
「長期療養型医療施設を標榜する以上、この手の患者さんを受け入れるのが普通ってこと。で、皆に注意して欲しい事があるの。彼女、時々パニックを起こす時があるみたいなのね。そうなると、心肥大症が悪化する恐れがあるんだって」
「じゃあどうやって対処すればいいんですか?いっそ四六時中薬で眠っててもらうとか?」
「そんなこと、人権侵害も甚だしいわ」
 不満そうに声を上げた先輩を、看護師長がピシャリと制する。
「正直、私もどうしたらいいのか考えている最中なの。先生もまだ漠然とした治療方針しか…あ、そうだ。辻さん、貴女ならどう接したらいいと思う?」
 ここで私に振ってくるとは夢にも思わなかった。え~っと、どうしようかな…
「あの、何かこう上手く言えないんですけど…パニックを起こしちゃったらそこは薬で何とか、とは思うんですが、普段どう接するか…そうですねぇ、先ずは適度な距離感を持って寄り添う感じからスタートして、お互いの信頼関係が形成されてきたら少しずつ距離を詰めてみるとか…余計なパニック発作を招かないためには過度な干渉をしたり、逆に疎外感みたいな感情を持たれると良くないような気がして…まあ、患者さんは彼女だけじゃないんでそんなに手厚くするなんて難しいですけどね…参ったなこりゃ。これ以上何も思いつかないです」
 ミーティングの時に笑顔なんて見せたことがない看護師長が突然微笑む。あの、逆に怖いんですけど…
「実は先生と私も同じこと考えてたのよ。やるわね辻さん♪まあ、貴女が言ったみたいに年中かかりっきりって訳にはいかないけど、彼女がサナトリウムに慣れるまでは暫く辻さんがそれとなく傍にいてもらうことにしましょうか。総務課か医事課にお願いして新たにシフトを組んでもらうわ」

「ふえぇぇっ」
 空に向かって変な溜息をつきながら、私はサナトリウムの正面玄関で患者さんの到着を待っている。あの日、私に向かって紡ぎ出された師長の一言が私のメンタルと胃粘膜を容赦なく攻撃する。緊張で何か吐きそうだ。
 予定時刻より少し遅れて県立総合病院の車が到着した。荷物の運搬を職員さんにお願いすると、私は彼女を診察室へと導く。
「初めまして。私は看護師の辻と申します。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 ぺこりと頭を下げる彼女は、何かの映画にでも出てきそうな凄い美人だ。どこかの休日みたいな麗しい人。でもその表情からは儚げな、消えかけの灯の様な危うさが垣間見える。
「先ずはお名前を確認させて下さい。お名前は…木下柚香さんですね」
 彼女は頷くと、躊躇いがちに呟いた。
「冬至に生まれたから柚子の香りと書いて柚香。私ね…棄てられた子だから、生まれた時から施設で育ったの。だから名字も名前も施設の人が適当に付けた名前。だから名字には何の意味もない。ただ、名前だけは気に入っているんだけど…」
 私は一瞬言葉に詰まりそうになったけど、ここで気まずくなったら一生上手くいかないような気がして次の言葉を必死に探す。
「あ!じゃあ、これからは柚香さんって呼んでもいいですか?何なら先生や他の看護師にも頼んでみますけど…?」
 そう言うと彼女は少しだけ恥ずかしそうに微笑んだ。
「私、今まであちこちの病院に入院してきたけど、そんな気遣いしてくれたのは貴女が初めてだなあ」
「まあ、手術とか検査の時はどうしてもフルネームで呼ばないといけませんが…」
「そりゃそうね。その時は私も我慢する」
 柚香さんが先だったか、私が先だったかは覚えていないけど何方かがプッと吹きだす。こうなるともう止まらない。二人で暫く笑っていた。
「ところで、辻さんのお名前はなんて言うの?」
 私は再び言葉に詰まりそうになる。
「あ、綾乃って言います。いとへんの綾に乃木大将の乃です。字は違うけど、歌手に同姓同名の方がおられまして、よく笑われるんですよね~。アハハ」
「あら、笑うなんて失礼な人ね…綾乃さんって素敵な名前じゃない。私、音楽を聴くのが趣味だけど、彼女の曲は大好きよ」
 柚香さんはそう言って微笑んだ。
「さあ、そろそろ診察のお時間です。先生を呼んできますので、少々お待ちくださいね」
 そう言って廊下に出ると、すでに先生はスタンバイ済み。
「先生、お願い事が…」
「さっきから話は聞いとった。名字禁止、やろ?診察の間に、師長にも言うときや」
「はい!ありがとうございますっ!」
 廊下を駆け出した私は考えを巡らせる。う~ん、医事課と師長、どっちが先かなぁ…

 先生の診察後に、私が案内した病室の入口には『柚香』とだけ書かれたネームプレートが掲げられていた。先に看護師長にお願いしておいて良かったけど、ここまでやるか普通?
「あ、ネームプレートも名前だけにして下さったのね。何か、変に気を遣わせちゃったみたいでごめんなさい」
「いやいや、私は先生と看護師長にお願いしてみただけで…私もまさかここまでやるとは思ってなかったです」
 彼女がクスッと微笑む。
「今まで色んな病院をたらい回しにされてきたけど、下の名前だけで患者名を書いてあるのって自分も他人も含めて初めて見たわ」
 会話を自分から途切れさせたくなかった私は、話を続ける。
「お洒落でいいかもしれませんよ。あ…ほら。女優さんの楽屋みたいで」
「ホントだ。そう考えると素敵かも知れない」
 私達はそうやって暫く笑っていた。

 病棟の決まり事を一通り案内し、当分の間柚香さんには行動制限がかかることを説明するとき、彼女が一つの反応を示した。
「入院していてずっと部屋の中にいると気が滅入る、なんていう患者さんもおられるので午後の三時間だけは屋上に上がれるように…」
「…屋上は…行かなくてもいい。行っちゃ駄目なの…」
 彼女は消え入りそうな声で答える。嫌な予感がしたので、私はそれ以上屋上について話をするのを止めた。
「じゃあ、説明はこれ位ですね…もし、不明な点やご要望等があればナースステーションまで遠慮なく仰ってください。では、失礼します」
「あ、待って辻さん」
 柚香さんが不意に私を呼び止める。
「はい、何でしょう?」
「あの、名前の件…ありがとう」
「気に入ってもらえたみたいで良かったです。あ、あと病院のスタッフにも柚香さんが喜んでたって伝えておきますね。皆もきっと喜びますよ」
 柚香さんは微笑んだ。
「辻さんってとても優しい方なのね。私、この病院に来て良かったかも」
「いや、そう言われると何だか…恐縮しちゃいますね」
 私は照れ隠しに頭をぼりぼり掻いた。
「実はね、私…木下っていう名字が大嫌いだったの」
 え、そうだったんだ…
「私は生まれてすぐ、冬の寒空に公園に棄てられていたところをお巡りさんに助けられたの。で、親が見つからない時は市長さんとか町長さんが名付け親になる決まりがあるらしいんだけど、私は『公園の木の下で発見されたから』っていう理由だけで木下姓を名乗ることになってしまって…」
 へえ…そんな決まりがあるんだ…て言うかその安直な命名ってどうなんだろう。
「それで、さっき『名字には何の意味もない』と仰ってたんですね…」
「そう。本当は名前も同じような感じで適当に付けられる段取りになっていたんだけど、私を助けてくれたお巡りさんがそれを聞いて激怒したらしくって。で、『俺が名付け親になる』って役所に直談判してくれて『柚香』になったんだって」
 突然そんなカミングアウトされても反応の仕方が解らない。先生、師長…私を助けて…!とは言ってもここには柚香さんと私しかいない。ええい、ここは正直に行こう。
「という事は…そのお巡りさんって柚香さんの命を救ってくれた大恩人でもあり、素敵な名前を授けて下さった方でもあるんですよね…もう、柚香さんにとっては神様みたいな人ですねぇ」
「でしょ?そのお巡りさんがいなかったら申請書の書き方見本みたいな適当な名前を名乗らされていたかもしれないし、そもそも発見されずに死んでたかも知れない」
 彼女はどこか儚げな表情で微笑んだ。

「師長、遅くなりました。スミマセン」
 いつもは厳しい表情しか見せない師長が、私を温かく迎え入れる。
「柚香さんと辻さんのやり取りを病室の廊下でずっと聞いていたわ。先生と一緒に、ね。上々な滑り出しだと思うけど、先生はどう仰るかしら」
 ナースステーションに入ってきた先生が親指を突き上げる。
「ツカミはオッケー、ちゅう奴や。辻さん、おおきに」
 柚香さんに接するうちに、看護師長と私の間で様々なルールが決められていく。同時に、師長が県立総合病院の知り合いに探りを入れてくれたことで色んなことが解ってきた。
 ・名字で呼ぶことはゼッタイ禁止
 ・本人が話題にしない限り、家族のことを聞いたり話したりしない
 ・鉄道事故を目撃したトラウマがあるので、電車の話はしない
 ・『屋上』にも何かトラウマがあるみたいなので不用意に案内しない
 そうすることで、ある程度コントロールできるようにはなってきた。ただ、もともと抱えているトラウマが再燃するのはある程度仕方ないことだって先生が仰っていた。

 柚香さんが入院して数年位経っただろうか。私は先生から直々にお呼び出しを受けた。何か失態をやらかした覚えはないし、かといって飲み会のお誘いでもないだろう…
「実は、ちょっと話があってな」
「な、何でしょうか…」
 思わず身構えた私を見て先生が苦笑いする。
「別に怒ろうと思うて呼んだんと違うから安心しぃ。あのなぁ、今日話をしたいのは柚香さんの事やねん」
「柚香さんに何かありましたか?」
 先生が私の目をじっと見る。
「辻さん、あんたにしか頼まれへんことや」
 柚香さんの病状はある程度落ち着いてきたので、そろそろ一般病棟へ移すことを考える時期に来ているのは私も薄々感じていた。先生が私に頼みたかったことは、外出訓練の付き添い。町に出かけて心に刺激を与え、外の世界に耐えられるか、社会性を保てるかどうかを試すってやつ。
 私は今一つ事態が呑み込めない。
「はあ…私でいいんなら行きますけど…どうして私に?」
 先生は頭を掻くと私に告げた。
「いや、ホンマは誰でもエエっちゃエエねんけどな…ただ、柚香さんの場合過去に色々あったみたいでトラウマが多すぎるんよ。で、外に出すなら院内でもなるべく親しいもんを同行させろ、と院長から指令が出たワケ」
 それで私、ってこと?
「そういうわけで、頼むわ。辻さん」

 何をしたらいいかわからないまま、外出訓練の日はやって来た。医療相談室の人が車を手配してくれていたけど、病院名が大々的に書かれた車で外出するのはあまり良くないような気がしたので丁重にお断りして、今日は私が通勤で使っている車で出かけることにしよう。
 柚香さんは久しぶりの外出。嬉しさと緊張感が入り混じった表情で、先生と二人でエントランスに現れた。
「綾乃さん、今日は一日よろしくお願いします」
「ほな、辻さん。頼むでぇ」
 何を頼まれたのかはよく解らないままだったけど、とにかく私は車をスタートさせることにした。車に乗り込むと、柚香さんは不思議そうに車の屋根を見上げた。
「何か気になることでも?」
「この車って、屋根は布張りなの?」
 あら、お気に召さなかったかしら。
「あ、この車はですね…キャンバストップ仕様というもので、キャンバスという名の通り屋根そのものが布で出来ているのでその日の気分によって開閉が出来るんです」
 柚香さんの目が輝く。
「あ、是非開けてほしいな。私、風を感じられる乗り物って自転車以上速いものに乗ったことがないから」
 キャンバストップを開ける私を先生が茶化す。
「おっ、屋根開けるんか?走行中にバッタとか入って来んように気ぃつけや」
「入ってきませんっ!」

「凄~い。車で走りながらお空が見られるって最高ね」
 柚香さんには喜んでもらえているようだ。走りながらラジオのニュースを流すと何かのきっかけでトラウマが再燃しそうな気がしたので、通勤の時に聴いているCDをそのまま流すことにしよう。
「あ、この曲『愛のかけら☆恋のかけら』だ。私もこの曲好きよ」
 初めて会った時にそんな話をしたっけ。お愛想で言ってくれているのかと思ってたけれど、どうやら本当に好きだったみたい。
「車で通勤する時、サナトリウムも家も山の中だから通る道が悉く山道でして…刺激がないもんでよく屋根を開けたり音楽を聴いたりしてるんですよね…で、今日は一日時間ありますけど、どこ行きます?」
 柚香さんが空を見上げながら何かを考えている。
「本当はね…お洋服を買って、ファミレスやコンビニに立ち寄るんだって先生と約束してたの…でも、何かどうでも良くなってきちゃった。お洋服が必要なのは本当の事なんだけど」
 ここでまさかの方針転換。先生もある程度予想はしていたみたいで禁忌事項みたいなものは告げられていたから、私はそのルールに従い柚香さんの提案を受けることにした。
「あのねえ、私、お洋服を買った後で、綾乃さんが住んでいる町をお散歩してみたい」
 私は考えを巡らせた。一応、先生が決めたルールには違反しない。でも…
「駄目かしら?」
「いや、全然大丈夫なんですけど…私の地元って何も無い所ですよ?そもそも町じゃなくて村ですし」
「自然は…山とか川とかは?」
「う~ん、そうですねぇ…逆に自然と山と川しかないっていうのが答えかと…」
「じゃあ決まりね」
 柚香さんはそう言うと微笑んだ。

「ここが私の住む村、内削村(うちそぎむら)です。ものの見事に何もないですけど…アハハ」
 柚香さんは辺りを見回すと、大きく息を吸い込む。
「素敵なところ…空気がきれいねぇ」
「それ以外に何の取り柄もないですけど…でも、私は生まれ育ったこの村が気に入っています」
 ここまで来るんだったら、お弁当買わなくてもウチでお昼ご飯にすれば良かったかな…
「あの山に登ったら、素敵な景色を見られるのかしら」
 柚香さんが川向こうの山を指さす。
「そもそも登山道が整備されていないので登るのは至難の業ですよ。あ、でも展望台があるのでそこからなら村全体の景色が見えるんですけど…」
 柚香さんが、じっと私を見つめる。
「私、その展望台に行きたいな」
 しまった。あの展望台には防護柵なんてない。余計なこと言うんじゃなかった…
「大丈夫、飛び降りたりしないから。私を信じて」
 柚香さんは、今まで展望台に登ったことがなかったそうだ。目を輝かせながら辺りを見回すと嬉しそうに微笑む。
「施設にいた頃はどこにも連れて行ってもらえなかったし、入院してからは金網越しの遠景ばかり。高いところからこうやって景色を眺めるなんて最高だわ!」
 よかった。そう言ってもらえて私は少しほっとした。
 服を買いに行ったついでに買っておいたお弁当を食べながら、柚香さんは飽きることなく遠景を眺める。
「ねえ、あの大きな古い建物はなあに?」
「ああ、あれは学校です。田舎なもんで小学校と中学校が同じ建物に同居してまして…第二次世界大戦前に建てられたものなんですが、最初は軍の施設になる予定だったか何だかで耐震補強が必要ない位頑丈に作られているそうでして」
「あ、そうなの…」
 柚香さんが急に素っ気なくなってしまった。何かまずいことでも言ったかな…何となく気まずい感じ。
 時間もちょうどいい頃だったので私たちはサナトリウムへ戻ることにした。展望台の駐車場に戻ると、柚香さんが開けっぱなしの屋根から空を仰ぐ。
「私の子供も、今は中学生なんだ」
「え…?」
 私は絶句した。返す言葉が見つからない。て言うか何か変なトリガーを引いてしまったかも知れない。ヤバい…!私の全身からすっと血の気が引く。
「今まで誰にも言わずにいたけど、綾乃さんには言えるような気がする。言ってどうなるわけじゃないけど、聞いてくださる?」
「ええ、私でよければ」
 手の震えが止まらない。私は覚悟を決めると大きく頷いた。
 屋根を開けたまま座席の背もたれを倒した私たちは、暮れ行く空を見ながら話を続けた。
「私、高校の時に同級生が目の前で電車に飛び込み自殺するのを見ちゃったの。その時私は三年生だったんだけど、その子は二年生の時にいじめに遭っていたらしいの…三年生になる頃にいじめは止んだけど、ずっとトラウマになってたんだって。で、その日…私と会釈をした直後、衝動的に飛び込んだ。その話は後で警察の人から聞いたんだ」
 師長が聞いた噂話は本当だったんだ…
「柚香さんは、その同級生と仲が良かったんですか?」
「顔と名前が何となく一致する位で話は殆どしたことはなかった。相手も多分そう…でもね、あの現場を見た後、ずっと私の心の中で誰かが問いかけてくるの。

 『何故、止められなかった?』
 『何故、彼女の孤独に気付かなかった?』
 『何故、何もしなかった?』

そんなこと私に責任なんてないっていうことは解っていても、ね」
 柚香さんはそこまで言うと、起き上がってペットボトルのお茶に口をつけた。ふうっ、と軽いため息が聞こえる。
「私は電車に乗るどころか外出も出来なくなって…挙げ句にリストカットをするようになって…で、入院しているときに病院の屋上で彼と出会ったの。凄く真面目で、私の話にもいつまでも付き合ってくれるような優しい人。私、彼がいてくれたからこそ今日まで生きて来れたと思っているし、彼のおかげで一時は退院して普通に生活していた時期もあった…彼はね、そんな私と結婚しようって言ってくれたの。彼のご家族は『頭のおかしい奴と結婚するなんてとんでもない』って大反対だったんだけど、家族やお友達を捨ててまで私と一緒になってくれたんだ」
 私は柚香さんの話を聞き逃すまいとして、彼女の目をじっと見据える。
「私、結婚するときに言ったの。『今まで家族がいなかったから、もっと家族が増えると嬉しい。もしも私の願いが叶うなら…男の子と女の子、二人いたら嬉しいなって」
 その頃は、きっと柚香さんのトラウマも影を潜めていたんだろうな。
「最初に生まれたのは男の子。泣き喚いたり我儘言ったりなんて全くしない優しくて大人しい子で、寧ろ彼と私があの子に育てられたような感じだったんだ」
 柚香さんが遠い目をして過去の記憶を呼び戻している。私は柚香さんがパニックを起こさないよう、慎重に見守る。
「上の子が生まれた五年後に、女の子が生まれたの。下の子はお兄ちゃん以上に大人しくていい子だった…それに、お兄ちゃんがお色々手伝いとかしてくれたから。二人とも、笑顔の素敵な可愛い子だった」
 柚香さんが記憶を呼び起こす視線が、急に厳しいものになった。私は、万一の為に持って来ていた鎮静剤の在りかを鞄の中でそっと確認した。いつでもいける…
「でもね、その頃から生活が一変したの。彼は工場で働いていたんだけど、真面目な働きぶりが認められて管理者的な立場になった」
 それで二人の距離が…
「毎日頑張って家族の為に働いている彼が…何時になったら戻って来れるのか、彼がいない間に子供に何かあったらどうしたらいいか、私は勝手にパニックを起こすようになった」
 再燃、って奴だ。もし今、柚香さんのパニックが再燃したらどうしよう。手に汗が滲む。
「私はヒステリーを起こして彼に噛みついたの。家族がいるのにどうして夜遅くまで帰って来ないの、って。そしたら彼『新人の女の子に仕事を教えなくちゃいけないんだ』って答えたの。その瞬間、私の心の中にある歯車は完全に噛み合わなくなった」
 きっとこの瞬間から柚香さんの人格は崩壊し始めたんだ。
「耐えなきゃいけない、頑張らなきゃいけないっていうこと位私も解っていた。でも、自分の心を制御できなかった…駄目な自分から逃避するために、一番近くで寄り添ってくれていた彼を槍玉に挙げたのっ!家庭を顧みない、挙句には会社の女の子といちゃいちゃしてるとか妄想を膨らませて…」
 私は思い切って口を開いた。
「妄想だ、って事は…」
「勿論解っていた。でもね、どうしても制御できなかったの。人に愛されたのは彼が初めてだったし、勝手な妄想で嫉妬するのも初めてだった。だって今までヤキモチすら焼いたことなかったんだもん」
 柚香さん、そこまで自分を責めなくても…
「主治医の先生に結婚する話をした時に忠告されていた」

 「すれ違い始めた心は、もう誰にも止められない」

「今になって考えてみたら、その『すれ違う心』っていうのは彼と私の心だけじゃなくて、私自身の心の話も含んでいたのかも知れない。先生が仰っていた通り、もう誰にも止められないの」
 そう言うと柚香さんは儚げに微笑む。私は、彼女を刺激しないように恐る恐る尋ねた。
「で、その後は…」
「ああ、そう。話はまだ終わっていなかったわ。じゃあ、起承転結の結、ね」
 ついに柚香さんは涙を流し始めた。私は鞄からハンカチを取り出すと、彼女にそっと手渡した。
「ありがとう…私が思っていた通り、いや、それ以上に綾乃さんって優しくて温かい人なんだね。じゃあ、話を続ける…妄想が頂点に達した私は、遂に彼を家から閉め出した。鍵を交換して、インターホンの電源を切ってしまったの。当てつけか嫌味みたいに最低限の着替えだけ外に放り出して…窓を破って入るような手荒なことをする人じゃない、と計算までして」
 ここまで来てしまったら、もう止められないんだ…
「暫くしたら、彼から手紙が届いた。もう一度話し合いたい、僕はいつまでも待っているからって住所と連絡先を書いたメモと一緒に。で、私はその住所に離婚届と彼が子供の頃からつけていた日記帳を送りつけた」
 柚香さんの涙が止まらない。連鎖反応で私の目にも涙が浮かぶ。私は必死に堪えた。
「これからは私一人で子供たちを育てなきゃいけない。働いて二人を養わないとって思いはしたもののそんな状況で働けるはずもない。で、それを知った保健師さんや先生が来て下さったの。結婚してからも、ずっと通院は続けていたから…」
 柚香さんは最後の力を振り絞るように言った。
「こんな状況で、働くどころか自分一人の生活すらままならない。もう私に選択権は無かった。療養している間だけでも子供たちを施設に預けましょうって言われて…そう、その時その瞬間に私は二人を捨てた」
 捨てたって言うけど、別に未来永劫会えないわけじゃないと思う…
「子供たちを捨てたその時に私は思ったの。もう、子供たちに会う資格なんてないし、会わせる顔もないんだって。だから、施設の人たちにも私の居場所は誰にも知らせないでってお願いしてあるの」
 そこまで話すと、柚香さんは小さく一つ溜息をついた。
「私の人格が完全に崩壊していること位私には解っている。だって自分自身のことだから……これからも定期的にパニック発作を起こすだろうし、退院して普通の生活を送るなんて出来っこない。やったってその頃のトラウマが再燃するだけだから…あ、でも調子がいい時には今日みたいに綾乃さんと一緒に外出させてもらえたらなって思う。昔、テレビで観た任侠映画で言ってた『久しぶりの娑婆の空気』っていうのかしら?」
 彼女はそう言って微笑んだけど、私は何も出来ずに曖昧なリアクションをするだけだった。

「辻さんが信頼されてるんはエエことやねんけど、えらいカミングアウトされたなあ」
 顛末を報告する私に、先生は言葉を続けた。
「県立総合病院の連中が、なんでウチに柚香さんを送り込んできたかようわかったわ」
「どういうことですか?トラウマの原因が解って、柚香さんもそれを自覚しているってことはカウンセリングとかでいい方向に向かわせるなんてことは…」
 先生はため息をつくと、私を諭すように言った。
「解ってて止められへん、ちゅうのんが具合悪いんよ。そうなってしもたら薬で押さえつけるしか手はあれへん。よう考えてみ。薬で押さえつけられた人間が、今まで通り普通の生活出来ると思うか?」
「そうは言っても…在宅医療に移行する位は…」
 私に思いつく言葉はそれ位しかなかった。
「辻さんの気持ちは解らんでもない。せやけど、正直言うて上手い事いってもグループホーム暮らしがええとこちゃうか」
 私は何か他の方法がないか思いを巡らせた。
「ほんでな、まだ柚香さんの病気の話には続きがあるねん」
 ここまで来たら嫌な予感しかしない。
「心臓の具合、だいぶん悪いみたいやねん。県立総合病院で先週検査してもろてんけど、相当進んどる」
「ということは…?」
 先生は溜息をつくと、残酷な事実を告げた。
「今度大きいパニック発作起こしたら、心臓止まるかも知れん。まあ、そうならんように薬増やして気持ちの波が起きんようにするけど…でも、そうなったら柚香さんは今までの柚香さんやなくなるで」

 本格的な大量投薬が始まる前日、私は柚香さんの病室を訪ねた。
「綾乃さん…」
「柚香さん、今日のご気分は如何ですか…?」
 暫くの沈黙が病室を支配する。
「先生から聞いてるでしょ?私、パニックを抑える為に明日から投薬量が増えるんですって。そうなったら、私はもう私じゃなくなるかも知れない」
「…」
 私は何も言えない。出来るならば、今までのことを全てなかったことにしてこの場から消えてしまいたい。それ位の重い空気が病室を支配する。
「そんな悲しい顔しないで。これは私が望んだことでもあるんだから。そうでなきゃ、先生もそんな手荒なことしない」
 ただ黙っている私を、柚香さんはじっと見つめる。
「…綾乃さんにだけ、どうしても伝えておきたいことがあるの。聞いて下さる?」
 覚悟は出来た。
「ええ、勿論」
「綾乃さんに、これを託したいの」
 そう言って手渡された封筒の中は、角が擦り切れそうになった一枚の写真のみ。
「これは…」
「下の子が生まれたばかりの頃に撮った兄妹の写真よ。私が正気を保っていた最後くらいの写真ってこと?私の唯一の宝物。ね、ほら。二人とも可愛いでしょ?今まで他人に見せたことなんてなかったけど、綾乃さんにだけは自慢しちゃう♪」
 二人で布団に寝そべりながら生まれたばかりの妹を慈しむように抱きしめるお兄ちゃんの姿は、とても五歳児とは思えないくらい優しく、強く見えた。
「本格的な投薬が始まったら、私は全てを思い出せなくなってしまうかも知れない。もし、私の身に何かあったら…」
「そんなこと言わないで下さい!縁起でもないっ」
 柚香さんは私を諭すように口を開く。
「薬でどうなるかは私にも解らないけど、心臓のせいで先が長くないってことは間違いない…私が死ぬ時には、福祉の人たちから二人に必ず連絡が行く。そうしたら優しい二人の事だから、きっとここに駆けつけてくるわ。その時に、この写真を渡して二人が生まれた頃のお話とか名前の由来とか、教えてあげて欲しいんだ…」
「柚香さん…」
「私の最後のお願い、ね」

 次の日から、柚香さんは柚香さんではなくなった。何を問いかけても曖昧で虚ろな返事しか返って来ない。感情の起伏が無くなれば、心臓は守れる。でも…
 心臓を守る為に投薬量を増やした筈なのに、病状は悪化する一方。スタッフ一丸となって柚香さんのケアに注力したけど、遂に運命の日が来てしまった。
 発作を起こした彼女は、先生がいくら処置を施しても目を覚まさない。あと少しだけでも…生き別れた子供さん達が駆けつけるまで…ほんの数時間でいいからもう少し頑張って欲しかったんだけど…

「で、その時の写真がこれですか」
 俺は辻さんに改めて確認した。
「そう。その時柚香さんに確認したけど、他に写真は無いって言ってた。最後に手元に残していた一枚って事になるのかなぁ」
 はなは、その写真を胸にぎゅっと抱えたまま涙を堪える。
「はなちゃん、辛いときはうんと泣いてもいいのよ。でも、泣くだけ泣いたら次は前を向いて進むの。どんなに辛くても、歩みは遅くてもいいから一歩ずつ…それが『生きる』っていうことだから」
 はなは堪えきれずに泣き出した。
「お父さんもお母さんも莫迦だよっ!こんなつまんない心のすれ違いで家族をバラバラにしちゃうなんてっ!そのせいで、お兄とあたしがどれだけ寂しい思いをしたか解ってんのっ?うわああぁぁ!」
 俺も涙が出そうになるのを堪え、辻さんに深々と頭を下げた。
「母が色々とお世話になりまして、有難うございました」
 辻さんは困ったように頭を掻くと呟く。
「いや、まあ…これが私の仕事だし…困ってる人がいたら誰でも助けるっていうのが内削村の掟みたいなもんだし…そんなに感謝されるようなことは…参ったなこりゃ…」

 数日後。
 辻さんが親身に手配してくれたお陰で、村の斎場で簡素ながら葬儀を済ませた俺達は関係者に挨拶周りをしたあと家に帰る事にした。
「辻さん、本当にありがとうございました」
「気にしなくていいのよ。あ、そうだ。お母さんの事を思い出したくなったらまた村にいらっしゃい。そのときはまた一緒にゴハン食べながら思い出話でも、ねっ!」
「はいっ!その時は宜しくお願いします!」
 元気に答えるはなを見て俺は安堵する。ある程度吹っ切れたようで少しは安心できた、かな。
 辻さんに礼を述べ、その場を立ち去ろうとしたその時、彼女が俺を呼び止めた。

 丸半日かけて高速を走らせた俺がガレージに車を戻しに行くと、既にリコさんはシャッターを開けて腕組みをしながら待っていた。
「はなちゃん、おかえり!よく頑張ったわね」
「リコさんっ!」
 はなが一目散にリコさんに飛びつく。
「よしよし、いい子だ。流石は私の妹って感じかな♪」
 リコさんは徐ろに俺の方を向くと、俺の肩をポンと叩く。
「帰りの道すがら、はなちゃんが報告メールくれてたから大体の事情は聞いたわ。お疲れ様。君もよく頑張った」
「大切な車をお借りして、本当に有難うございました。お陰で葬式も出してやれましたし…」
 リコさんは俺の挨拶も聞かず、先日と同じ行動に出始める。
「私、後藤クンとはなちゃんに『お土産は袖もなか以外で』ってメールで伝えたわよね?さて、本日のお土産は…」
 リアハッチを開けたリコさんが絶句する。
「後藤クン、キミって本当に莫迦じゃない?先日クソ程貰ってきた野菜をまた貰ってきたの?ひょっとして八百屋でも始めるつもり?で、この陶器の壺は何?」
 はなが助け舟を出してくれる。
「あ、それは帰る途中で買った梅干しです…リコさん、焼酎に梅干し入れて飲んでたから…お兄とあたしで試食したんですけど、ご飯にも合いそうだし、お兄が『焼酎に合いそう』って言ってたからこれにしたんです」
「流石、はなちゃん、気が利くわね〜。でかした我が妹よ!」
 チョイスしたのは俺だ…て言うか、はなはリコさんの妹じゃない。俺の妹だ。
「で、こっちの色違いの壺は…」
「あ、それは骨壷です」
 そのタイミングでリコさんがキレた。
「この莫迦!あほっ!荷室に仏様を入れるなんて失礼極まりないっ!」
「スミマセン、そんな事知らずに生きてきたもんで…」
 リコさんは溜息をつくと、気を取り直して微笑む。
「さて、何処かのお莫迦さんのお陰で当分食費は安くつきそうだけど少なくとも一週間はベジタリアン生活かしら」

第八章 すれ違う心(後藤星來、後藤はな、山崎璃子)

「そっか…後藤クンもはなちゃんも色々と大変だったわね。で、双方の言い分を聞いてどうだった?」
 鍋をつつきながら、缶ビール片手にリコさんが俺とはなに問いかける。
「二人がそんな理由で心がすれ違って、家族が離ればなれになって、あたし達が寂しくて辛い思いをして…そんなの納得いかないし認めたくもないです。でも、周りの人達に話を聞いて、現実を突き付けられて…現実を受け入れなきゃって…例えそれがどれだけ辛いことでも、これからは前を向いて一歩ずつでも進んで行こう、って…それが『生きる』ってことなんだよって看護師さんが教えてくれたから」
 リコさんは慈しむような目ではなを見つめると、俺の方に視線を移す。
「で、後藤クンはどう思ったの?」
「以下同文。俺なんかよりはなの方が余程しっかりしてますよ」
 俺は二人から目を逸らすと、缶ビールを一気に呷った。
「で、二人はこれから大丈夫なの?しっかりやっていけそう?」
 はなが俺を見つめる。
「あたしはお兄がいてくれるから大丈夫。卒業するまではお兄にお世話になるけど、あとはあたし一人の力で生きていきます」
「はなちゃんは高校卒業したらどうするの?暁達館高校からだったら大学なんて選び放題じゃない」
 リコさんが言うとおり、家事と学業を両立しながら学年トップクラスの成績を叩き出せるはなの思考回路が俺は未だに理解出来ない。
「いや、実はまだはっきり決めてなくて…あんまりお兄に迷惑かけるのも申し訳ないから就職とかも視野に入れてたりなんかして…アハハ」
「はな、お前は俺と違って成績もいいんだから大学に行け。何の心配もいらない」
 はなが戸惑いながら呟く。
「いや、あの、そうは言っても学費とか何やらイロイロあるじゃん…」
「その為に親父は田舎の信用金庫ではなの為にチマチマ貯金してたんだ。それを使わない手はないだろ。それとも何か?あの金を結婚資金にでもする気か?あれだけあったら芸能人並みのド派手な式になるぞ?」
 俺はもう社会人として一人前にやっていけているから俺名義の貯金は借金を返済して、あとは不慮の出費に備えりゃいい。はな名義の貯金を活用したら大学の学費なんて余裕綽々だ。
「そうは言っても学費以外に生活費とかもかかるし…実はあたし、大学に行くんなら育英会の奨学金とか申し込んでバイトしながらとか思ってたりしてるんだけど…」
 俺はリコさんから新しい缶ビールを受け取りながらはなを諭す。
「現時点で二人の生活は成り立っているんだから生活費なんて問題じゃない。大体、育英会の資金なんか借りちまったら就職する時点で借金抱えてスタートすることになるんだぞ。マイナスからのスタートなんて考えるな」
 ここでリコさんが俺を睨みつけた。
「後藤クン、何か大事なこと忘れてないかしら?」
 俺には思い当たる節がない。
「年度の初めにキチンと説明したし、福利厚生のパンフレットも渡したわよね?」
 あ、俺の部屋に置きっ放しだ…
「社員の親族が進学する時の奨学金制度について私がした話、まさか覚えてないワケぇ?制度を利用したら無利子で貸与されるって言ったじゃない!」
 そうだ、すっかり忘れていた。
「毎日飲んでばっかりいるからそんな大事なことを忘れちゃうのよ、この莫迦っ!」
「ス、スミマセン…」
 ひとしきり怒られたところで、気を取り直して…
「で、はなは進学して勉強したいことは何かあるのか…」
 はなは暫く黙っていたが、やがて何かを決意したように俺達を見つめる。
「正直言って、今まで何の勉強したいとかってあんまり考えてなかった。う〜ん、上手く言えないけど、ほら、何となく大学に行くとかっていう流れみたいなアレ…?」
 暫くはなは何か言いにくそうにしていたが、急に立ち上がった。勢いで椅子が後ろに倒れる。
「あたし、両親の『心のすれ違い』を目の当たりにして耐えられなかった。リコさんだって家族とすれ違ったりして…あたし、もうそんなの見たくないよ…そんな事で苦しむ人はあたしたちで終わりにしたい!だから、だから…」
 俺とリコさんは次の言葉を待つ。
「えっと…何て呼ぶのかは上手く言えないけど、施設とか病院に『困ってる人の相談に乗りますよ』って人がいるよね…あたし、そんな人になりたい!」
 リコさんが優しくはなに語りかける。こんな時は俺じゃなくてリコさんの出番だ…
「心理的な相談事ならカウンセラー。それ以外の相談事ならソーシャルワーカー、ね。はなちゃんなら、どっちにでもなれると思うよ」
 リコさんはそう言うと、はなの手を優しく握りしめた。
「だったら大学に行きなさいな…お父様が遺してくれた貯金があるなら、それを使えばいいじゃん。何なら、ウチの奨学金制度を使ったっていい。我が鞆浦通運株式会社は、他の運送屋より福利厚生制度が充実してるのが自慢なんだから!私は育英会の資金を借りて浪花市の大学に行ったけど、返済に苦労したから会社の奨学金を利用するといい…返済は父兄の給料から天引きになるから、いざとなりゃ後藤クンに頑張って貰えばいいだけだし」
 そう言ってリコさんは悪戯っぽく微笑んだ。
「はい…お兄、リコさん、ありがとう。あたし、頑張る…」
「大学に行ったら、思う存分勉強して、遊んで、素敵な恋もして…私みたいなイイ女になりなさい」
「はい!」
 前から思っていたけど、自分を美人だのマドンナだのイイ女だのって言い切れるリコさんの自信に満ち溢れた態度の根拠は何なんだろう…一度聞いてみたいところではあるけれど、車を借りたときみたいに蹴りを喰らわされるのは御免だし、多分そんな事聞いたら蹴りだけじゃ済まないから止めておこう…

 はなが一大決心をしてくれた事で、俺はちょっと安心した。ひと息つこうと俺はベランダに出ると、焼酎のグラス片手に煙草に火をつけた。窓は閉めてあるが、部屋の中から二人の声が聞こえる。
「リコさん、本当に色々とありがとうございます」
「何言ってるのよはなちゃん。私だってはなちゃんに随分助けられたわ。はなちゃんがトリガーを引いてくれなかったら、あのクソ親父と一生絶縁してたかも」
 そういや、はながそんな話してたな…
「あたしが何の役に立ったかは解らないですけど、リコさんとご主人の御両親の間にあった『すれ違った心』も解消出来て良かったじゃないですか!」
「ありがとう、はなちゃん。貴女のおかげよん♪」
「感謝されるとなんか照れるもんですね…エヘヘ」

 俺が煙草を吸い終えようとする頃、はなが思いがけない一言を口にする。
「で、あれからリコさん、御主人のお墓参りには行かれたんですか?」
「それがね、まだなのよ……暇がないってワケでもないんだけど、何かこう、足が向かないって言うか…」
「どうして…?」
「親同士の『すれ違った心』を放ったらかしにしたまま三年。今更どのツラ下げて行きゃいいのか、って言うのが正直なところかな…」
 言うんなら今しかない。俺は部屋に戻ると、リコさんに吐き捨てるように言った。

「リコさん、何逃げてんスか」

「えっ?」
 二人が驚いたように俺を見つめる。
「『たった三年』会えなかっただけでしょ。それを遠い昔の事やら未来永劫解決できない事みたいに言って…」
「そうは言っても、一度は途切れちゃった関係だし…」
 俺は苛ついた。隣の部屋にある、亡くなられたご主人の遺影と思しき写真を指さす。
「だったら何故、旦那さんの遺影を後生大事に飾ったりなんかしてるんですか?気持ちが離れてるんならそんなもん飾ったりはしないでしょっ!」
「後藤クン…」
 リコさんの目に涙が浮かぶ。
「あの…俺…生意気で失礼なのは承知の上で言います。俺とはなはもっと長い間、家族の間で『すれ違った心』を抱えたまま生きて来た。でも、今になってやっとその『すれ違った心』を埋めようっていうスタート地点に立ったんです。ここに来るまで、どれだけ辛かったか、どれだけ寂しかったか…」
 はなが俺の目をじっと見据えている。
「すれ違った期間が長ければ長い程、余計に辛くなる。だから、だから…」
 暫く黙っていたリコさんが、俯いたまま呟く…
「そうは言っても、知らない町だし不便な所らしいから…」
「そんなもん言い訳にもならんでしょ!」
 険悪な雰囲気になりかけた俺とリコさんを、はなの言葉が遮る。
「え、そんなに遠いんですか?何ならあたし、図書館で地図借りてきますよ?」
「私、地理に疎いって言うか方向音痴なのは間違いない。嘘じゃない……はなちゃんも知ってるでしょ…?でも、本当に知らない所だし…」
「営業所の連中に聞けばすぐにでも解りますよ。で、どこなんですか、お墓の場所って」
「中山県の内削村っていうところ。村に一つしかないお社の近くにあるって…」
 はなが驚いたようにリコさんを見つめる。
「そこ、お母さんのお葬式やってもらった村です…場所ならお兄が相当詳しいですよ」
「えっ…?」
 椅子から崩れ落ちそうになるリコさんをはなが支える。
 俺は止めを刺した。

「行かない、行けないっていう言い訳は無くなりましたよね。さあ、皆で『すれ違った心』を取り戻しに行きましょうか」

 今まで涙なんか見せた事がないリコさんの瞳から、涙が零れ落ちる。
「アハハ…参ったねこりゃ。はなちゃんの次は、後藤クンが私のトリガーを引いたってことか…君達には叶わないなぁ…後藤クン、ありがとね♪」
 そう言って俺に抱きつくリコさんを、はなは台所にお皿を下げに行って見ないふりをしていた。

 翌週末。
 俺たちを乗せたリコさんの車が、高速道路をひた走る。
「あのっ、リコさん」
「何?、後藤クン」
「三人の中で一番身体が大きい俺が、何で一番狭いリアシートなんスかっ!」
「後藤クンもはなちゃんも大して身長変わらないじゃない…それに大切な妹を狭い後部座席に乗せるだなんて有り得ない!」
 それにしても酷い扱いだ…この車、リアシートが狭い上にガラスハッチが寝てるから普通に座ろうとすると頭がガラスに当たる。
 俺の首がいい加減痛くなった頃、俺達は最寄りのインターを降りた。リコさんと運転を交代した俺は、何度か通った内削村への道をひた走る。
「あのさぁ、後藤クン」
 リコさんが珍しく不安げな声を発した。
「どんどん山の奥に入って行くんだけど…道間違ってない?」
「間違ってませんよ。プロのドライバーが何度も通った道を間違うわけないでしょ」
「本当に人が住んでるの?」
「少ないですけど住んでます」
「ケータイの電波入る?」
「一応入ります。スマフォの地図アプリ開いたときは気持ち悪いくらい通信速度が遅かったですけど、電波は繋がっていました。リコさんのガラケーなら通話とメールだけだし特に問題ないでしょ」
「明確に答えてくれたのには感謝するけど、ガラケーの事だけは何か腹立つなぁ。後藤クンだってちょっと前まで業務用のガラケーしか持ってなかったじゃないの!」
 そうやってワイワイ言いながら走り続けた俺達の車は、ついに内削村に辿り着く。
「あ、第一村人発見!ご挨拶した方がいいのかしら」
「はしゃがないで下さいリコさん、何かのテレビ番組じゃないんだから。あ、ここら辺でちょっと小休止しましょう」
「あ、これから山奥の一軒家を探すの…?」
「いい加減テレビから離れて下さいっ!」

 道を逸れた俺達は、暫く急な山道を登る。この間来た時はドタバタしていて、はなを連れて来れなかったからな…
「あらまぁ、こんなド田舎にもちゃんとした展望台があるのね。空気も綺麗だし、いい所じゃない」
 リコさんが小さな身体を精一杯伸ばしながら深呼吸する。
「お兄、ここってもしかして…」
「後藤クン、まさか…」
 俺は遠くの景色を見つめたまま、二人に答えた。
「そう…母親が看護師さんに自分の事を洗いざらい、全てを告白した場所」
「そうなんだ…もし、お母さんと辻さんがここに来てなかったら…あたし達は真実に辿り着いていなかったって事なのかなあ…」
「多分、な」
 感傷に浸るはなに聞こえないよう、俺の耳元でリコさんが囁く。と同時に、はなに見えないように俺の胸ぐらを掴む。
「アンタ、私の墓参りより己の用事を優先させたんだ…」
 すごい剣幕だ…違う、俺はただ…
「いや、あの、俺の都合じゃなくて…母親の葬式の時、ドタバタしててはなをここに連れて来れなかったから…それでここへ…」
 リコさんは表情を一変させて微笑む。
「あら、はなちゃんの為に?じゃあ許してあげる。妹のためだもん、ね♪」
 何だこの表裏というかツンデレ感は…
 はなはいつか自分の母親も見たであろう景色を眺めながら俺のほうを振り向いた。
「ねえ、お兄は覚えてるかな?」
「何を?」
「あたし達が施設にいた頃さぁ、あたしが『お父さんお母さんがいなくて寂しい、会いたい』ってグズグズ言い出す度に近くの山にあたしを連れ出したこと」
「ああ、そんな事もあったかな」
「その時お兄は何も言わなかったけど、ただあたしの顔をじっと見て笑ってたよね」
 そうだったか…そこまで覚えてない。
「あの頃、いつもこうやって暗くなるまで二人でじっと空を眺めてた…」
 はなが突然、空を指差す。
「あ、ほら!一番星っ!」
 はなが俺の方を振り向く。
「辻さんが言ってた。きっとお兄はこの時に生まれたんだよね?空に星が輝き始める時に、この世に生を受けたんだよって…」
「星が輝き始める頃に生まれ、未来への意思を持って生きていく。名前負けしなきゃいいんだけどねぇ」
 リコさんが毒を吐く。
「人が折角いい話してるんだから、茶々入れるのは止めて下さいっ!て言うかアンタの車と俺の名前を一緒にするな!」

 展望台に一台の車が上がって来る。私の車から少し離れた所に車を停め、降り立った彼女は硬直した。
「ありゃ?星來君…はなちゃん…!」
 え、二人の知り合い?
「辻さん!」
 ひょっとして、二人から聞いたあの看護師さん?
「へぇ、また村に来てくれたんだぁ。私、お葬式の時にバタバタしてたからはなちゃんをここに案内できなかったでしょ?それが気になってたもんで写真でも撮って郵送しようか、なんて…あら?こちらの方は…君達には他にも妹さんが…」
「会社の先輩です」と後藤クン。
「はなちゃんの姉です」と私。
「あたしの大切なお姉ちゃんです」とはなちゃん。
 まずい。辻さんが何か混乱している。
「えっと、貴女は星來君の会社の先輩で…家族ぐるみのお付き合いをされてて…で、はなちゃんとは姉妹のように仲良くしていらっしゃる、と言う事でいいのかしら」
「ええ、大体合ってます。あ、申し遅れました。私、山崎リコっていいます」
「リコさんか、可愛らしいお名前ですね。で、リコさんは今日ははなちゃんを展望台に…?」
「いや、まあ理由は他にもありまして…実は私の亡くなった夫のお墓がこちらにあるんですよね…」
 ふと、辻さんが空を見ながら思いを巡らせる。
「え、ちょっと待って…確か貴女、山崎さんって仰ったわね…亡くなられたご主人ってもしかして…」
「夫の名前は…」
「タカヒロくんじゃない?」
「ええ、確かに貴宏ですが…ご存知なんですか?」
「村に住んでた訳じゃないけど、夏休みとかによくお婆さまの所に来てたのよ。それで名前と顔を覚えてるの。今は空き家だけど、もうすぐ息子さん夫婦が戻って来る予定らしいよ」
 ええ。知ってます。今日はその家を借りる予定ですから。
「で、君達は今日中に帰っちゃうの?」
「いえ、お義父さんが『泊まるところなんてゼッタイに無いからウチを使うといい』って家の鍵をお借りしてるんで、今日はそこに泊まろうかと…」
 辻さんが慌て始める。立て続けに何本かの電話をかけ、早口にまくし立てていたかと思うと唖然としている私達に告げた。
「さあ、お待たせ。皆で写真撮ったら出かけるわよ!」
 慌ただしく記念写真を撮ると、私は恐る恐る辻さんに尋ねた。
「あの、これからどこへ?」
「決まってるじゃない。おうちに御案内するのよ。星來君は大体の場所は解ると思うけど…」
「え、でも村全体の事を知ってる訳じゃ…」
 そう言う後藤クンに、辻さんが微笑む。
「知らない道じゃないと思うわ。だって私の家のすぐ裏だもん。まあ、裏っていっても結構離れているけどね」
 運命の女神様は気まぐれに微笑む、って誰が言ったんだろう。
 私は今までそんな言葉は一切信用するもんかって思っていた。でも、私はこの日この瞬間にそれが間違いであることを身をもって知る。
 家に到着すると、辻さんが玄関の鍵を開ける。あれ、なんで辻さんが鍵を持ってるんですか?
「おうちってね、時々風を通したりお掃除してあげないと一気に傷むもんなの。だから時々、窓を開けたりお掃除したりしてたのよ。最近は忙しくってサボり気味だったからアレだけど…ごめんなさいね…アハハ」
「え、そんな事していただいてたんですね。スミマセン」
「リコさんが気にすることじゃないわ。この辺りでは当たり前の事。ほら、誰かが入院した時とかあるじゃない」
 ええ、まあ家族とかならそうするんですが…
「実はね、リコさんが来られる事もお義父さんから聞いてて…でも一人でって聞いてたからそっとしておこうと思ってたんだけど、まさか準村人と来るなんて思ってなかったからそりゃもう村じゅう大騒ぎよ」
「準村人ぉ?」
 後藤クンとはなちゃんが声を揃える。辻さんはゲラゲラ笑いながら腹を抱える。
「アハハ…縁、よ」
「えにし、ですか…」
 今ひとつ状況が飲み込めない。
「村と何かしらで繋がっている人。血縁であったりそれ以外のご縁であったり。この村の人たちはね、そういう人達を皆仲間だと思っている」
 何だか人間関係の濃い村ね…はなちゃんはともかく後藤クンはちょっと無理っぽいかも。
 私はお礼もそこそこに、台所の装備をチェックする。あとは食材をどこで調達して…
「ひょっとして食材の調達とか気にしていらっしゃるのかな?だとしたらその必要はないわ」
 辻さんがピシャリと言い放つ。
「ええっ、辻さん。またお邪魔するなんて…」とはなちゃん。
「ブー。ハズレよ♪」
 辻さんが悪戯っぽく笑う。
「まさか、辻さん…片っ端から電話してたのって…」
 後藤クンが青ざめる。
「えっとぉ、工務店の皆とぉ、みっちゃんとぉ…」
 さっきの電話はそれだった訳、か。後藤クンはトランクに山程積み込んだ土産の数を一生懸命数えていた。

 三十分後。私達は予想だにしなかった喧騒の中に放り出される。
 後藤クンのお父様が亡くなる少し前まで働いていたという工務店の作業スペースをお借りして大宴会。色々と人が出入りするもんで誰が誰だか訳が解らない。
「先日は、大変失礼致しました」
 見覚えのある女性に突然声をかけられてビックリした。この娘、ウチの営業所を訪ねてきた弁護士さんだ。
「いえ、こちらこそ失礼しました。何せウチはセキュリティの関係とかもあって出入りが厳しかったりするもんで…」
「…御社のセキュリティの厳しさは存じております」
 苦笑いしながら彼女が答える。ひと通り苦しい言い訳はしてみたものの、何か気まずい。取り敢えず話題を変えよう。
「で、後藤クンの件は?」
「ハイ、全て解決の一件落着でございます。尤も、私は書類の手配だけで…解決は後藤様自らが」
 そう言って彼女は後藤クンの方を見た。工務店の作業着を着た若い子と親しげに話をしている。
「彼は工務店の社員さんで、彼のお父様がつきっきりで仕事を叩き込んだそうです。ほら、一番弟子って奴ですよ。きっと昔話に花が咲いてるんじゃないでしょうか」
 彼女はそう言って微笑んだ。後藤クンも、昔の辛い事とか一つずつ乗り越えていこうとしてるんだ…
 ふと見ると、工務店の社長と思しき男性とお婆さんが佇んでいる。
「スミマセン、今日はなんか…」
「気にすんなって。ウチの村はいつもこんなもんだから」
 彼は缶ビールを二つ手に取ると、一つを私に手渡し、もう一つを呷った。
「タカヒロくんの嫁さんなんだって?」
「ええ、そうです。三年前に事故で亡くなりましたが」
「今、住まいはどこに?」
「似島県の鞆浦市ってところです」
「ああ、あのデカい運送屋の本社があるところか…へぇ、えらい遠いところから来てくれたもんだ。それであの有名な薬用酒を土産に頂戴したってワケだ。あそこは薬用酒で有名だしなぁ。婆ちゃんが喜んでるぜ」
 用意してくれたのは私じゃなくて後藤クンだけど…
「ええ、まあ。なかなか来る機会も無くて…」
「親御さんが内削村に戻って来るって話をしてたところだったもんで、こっちの墓に入れちまったからな…まあ、明日ゆっくり参るといい。あ、あそこの墓地、墓が入り組んでて解りにくいから、地図を焼いておいた。それ見て行きゃ迷わねえさ。但し、墓地の中に山崎が何軒もあるから気を付けろ」
「はい、有難うございます」
 彼はそう言うと、私に缶ビールをもう一缶と青焼きの地図を手渡して別の輪に入って行った。
「リコさん、だったね」
 お婆さんが口を開く。
「よう来てくれた。タカヒロくんの御両親から色々と聞いてたよ。まさかここまで来てもらえるなんて…あの子も喜んでいるだろうさ」
 貴宏のお婆様とご近所さんだったから御存知なのかな…?
「タカヒロくんはお婆ちゃん子でねぇ。夏休みになると必ずこの村に来てた」
「へぇ、よく御存知なんですね」
 お婆さんは突然笑いだした。
「知ってるも何も、毎日のように隣近所集まって今日みたいにワイワイやってたんだからそりゃついて来るさ。お婆ちゃんから離れたくないんだから」
「なるほど、そういうことですね」
「あの子、小さい頃から大きな車が好きでね…この村じゃあまり見ないけど、偶に大型トラックが通りを走り過ぎるのを飽きもせずにずっと見てた。ここに遊びに来てもお婆ちゃんにずっとくっついていたかウチのトラックや重機を眺めていたか、どっちか」
 私、そんな事知らなかった…
「子供の頃から車好きだった、という話は聞いていましたがまさかそこまでとは」
「中学、高校と進学していくうちに部活だ塾だって忙しくなったから村に来ることは殆どなくなったけど、律儀に年賀状なんかは毎年送ってきてたよ」
 ふふっ。何だか貴宏らしいな。
「で、彼が運送屋に就職したって聞いてはいたんだけど、ある日ウチの前に莫迦でかいトラックを横付けした奴がいてね…何事かと思って表に出てみたらトラックから降りてきたのはタカヒロくんだった。『お婆さん、見て下さい。僕、こんな大きなトラックに乗せてもらえるようになったんです!』ってね。タカヒロ君の婆さんも孫の成長を見て泣き出すわ、近所の子供たちが集まってきて大騒ぎになるわで大変だったんだ。あの子、集まってきた子供たちをトラックの運転席に乗せてあげたりとかしてたもんだから営業所に戻るのが遅くなってこっ酷く叱られたらしい」
 そうか…彼、仕事で中山県にも来てたんだ…
 思い出話がひとしきり終わると、お婆さんは周りに聞こえないように声を潜める。
「で、アンタ。タカヒロくんの親御さんとは上手くいってるのかい?」
 え、何でそんなことまで知っているの…私は暫く答えられずにいた。
「あれはタカヒロくんがあんたと結婚する前の年だったかな…婆さんが亡くなっちまってね…タカヒロくんの親父さん、葬式の後『定年退職したらこっちに戻ってくるつもりだったのに…もう少し早く戻ってくればよかった』って嘆いてた。あと、タカヒロくんの落ち込みっぷりったらそりゃもう見てられないくらいだったよ」
 その頃、私はまだ彼の家族のことは知らなかった。
「ひどい落ち込み様で鞆浦に戻って行ったから『大丈夫かな』って心配してたんだが、いきなり結婚しますって知らせが来たもんだから皆びっくりしてなぁ」
 ええ、結構なスピード婚でしたから。
「二人の結婚写真、葉書にして送ってくれただろ。タカヒロくんの嫁さん可愛いねって皆で言ってたんだ。綾乃ちゃんもワシもあの写真はまだ持ってるぞ。何なら見せてやろうか?」
 そう言ってお婆さんは豪快に笑った。え、何か恥ずかしい…
「冗談だよ、冗談。で、アンタはお義父さんの事をどれだけ知ってる?」
「いえ、あの…結婚する時に挨拶に行って、時々実家にお招きいただく位で、優しくていい人なんだなって…それ位しか」
「アンタのお義父さん、相当な苦労してきたんだよ」
 私は息を飲んだ。そんな事、お義父さんは一言も言ってなかったけど…
「彼が生まれてすぐ、父親が病気で亡くなったんだ…以後、母子二人で頑張って生きてきた。この村の事だから、まあ皆で助け合いながらやってきてたんだがそれにも限界がある。で、彼は『母親に少しでも楽して欲しいんだ』って言って周りの反対する声には耳も貸さず、中学校を卒業すると就職する為にこの村を出た。『いつかまたこの村に戻ってきて、今度は僕がお母さんの面倒を見るんだ』ってずっと涙を流していた。ウチの車で彼を帝鉄の駅まで送っていったんだが、彼は列車が出ても窓からずっとワシらに手を振っていた。その姿はいつまでも忘れられない」
 私はお婆さんの話にじっと耳を傾ける。
「やがて彼から村の皆に手紙が届いた。鞆浦市の工場で働きながら定時制の高校に通っているんだ、って。仕事と勉強の二足の草鞋なんて体でも壊しやしないかと心配してたんだが、実家に定期的にかかってくる電話では元気そうな声でしたよって婆さんは嬉しそうに話してた。あと、畑の手伝いに来た時に真っ新な長靴を履いて来て『あの子が送ってくれたお金で買ったの』って笑いながら言っていた。てことは、自分の生活しながら学費も払って親に仕送りまでしてたってことなのかねぇ」
「お義父さん、そんな御苦労をなさってたんですね…」
「まあ、彼の事だろうから、そんなこと他人に話しゃしないだろうし、聞かれたって答えないだろうけど」
 お婆さんが思い出話を続けてくれる。
「ある日、彼がひょっこり村に戻って来た。可愛いお嬢さんを連れて、な。それがタカヒロくんのお母さんだ。結婚するって聞いたんでそりゃもう村中大騒ぎ。おまけに祝言はこの村で、って言うもんで村中挙げてのどんちゃん騒ぎになって」
 この場がそうであるように、物凄く濃い人間関係と人情というか友情というか慈愛の心を感じさせるような話、ね。
「その何年か後にタカヒロくんが生まれた。アンタは知らないだろうけど、お宮参りもこのお社でやったんだよ」
「ええっ、そうなんですか?」
 マジかっ。鞆浦からここまでどうやって来たんだろう。
「どこの世界に生まれたばかりの赤ん坊を半日も車に乗せて連れて来る莫迦がいるもんか!ってワシは怒ったんだが『この村の子だから、村のお社でお宮参りをするのは当たり前でしょ!』って彼が珍しくワシに噛みついた。『ああ、この子は本当にこの村を大切にしていたんだ、愛してくれていたんだ』ってその時に解ったんだ。村を出た時に『いつか必ずこの村に戻ってきます』って言っていたのは嘘偽りのない本当の心だったんだって」
 それでお義父さん、この村に戻るって仰ってたのね…
「で、タカヒロくんとアンタが結婚してから、ちょくちょく夫婦でこっちに戻ってきてたんだ。家の事とか色々あるし…で、その時にワシがタカヒロくん夫婦の事を聞いたら、彼がボソッと呟いたんだ。
「リコさんはとてもいい子でよくウチの貴宏なんかと一緒になってくれて良かったなと思っています。ただ…」
「ただ?」
「僕とリコさんの親御さんの間には、越えられない壁というか明らかな差みたいなもんがあるんですよ、ってあの時に言った」
 クソ親父の自慢話を真に受けたせいだ。私は、奴の自慢癖が引き起こした心のすれ違いについて要点を簡潔に説明した。
「何だって?じゃあアンタの親父さんの自慢話が原因で、親同士の関係が滅茶苦茶になっていたってことかい?」
 私は慎重に言葉を選びながら、説明を続ける。
「顔を合わせる度に莫迦みたいに自慢話ばかりするもんで、そのうちお義父さんも会うのをなんとなく避けるようになって…その都度貴宏がフォローしてくれていたんですけど、そのことを私…全然知らなくて…」
「お人好しのタカヒロくんが間に挟まれて、全部抱え込んでしまってたって訳か」
「お恥ずかしい話ですが、その通りです…私がそのことに気づいて、貴宏と話し合って『これからは二人で協力していこう』って約束したところで彼は事故で亡くなりました…」
 このお婆さんになら何でも相談できる。洗いざらいぶちまけても大丈夫だと思って一気に話し続けた私の目から不覚にも涙か零れる。
 お婆さんは『いい歳こいた大人が泣くもんじゃない』と呟くと、周りの人間に見えないように手拭いをそっと投げてくれた。
「で、ここに来たってことはタカヒロくんのご両親とは…」
 私は涙を拭うと、お婆さんの目を真っ直ぐに見つめる。
「お互いの『すれ違っていた心』の原因を知ったとき、私がブチ切れて親父をブン殴ったんです。それで親父も目が覚めたみたいで、私が貴宏のご両親にお詫びに行ったら親父もついて来て。要は自分の娘がどれだけ可愛いかっていうのを自慢したかっただけなんだ、ってことを解ってもらえて…」
「わだかまりは無くなった」
「無くなってはいないでしょうけど、一から人間関係をやり直すくらいの間柄にはなれたのかな、と」
「それでやっとお墓参りに来れたってことか」
「ええ、それまではお墓の場所も教えてもらえませんでしたから…」
 お婆さんは立ち上がると、私の頭をポンと叩いた。
「明日お墓に行って、自分の気持ちを整理しておいで。あ、そうだ。この辺に花屋はないから、ワシが榊やら花を手配しておいた。明日の朝、表にバケツごと放り出しておくから持っていきな」
「ありがとうございます」
 私が深々と頭を下げると、お婆さんが微笑む。
「何、ほら、あの薬用酒のお礼だよ。気にするこっちゃない。それよりもう一つ、大事な話がある。ついて来な」
 お婆さんが向かった先には後藤クンと親しげに話す青年と、そっとその傍に寄り添う女性がいた。何この人、凄い美人…私といい勝負ね…
 お婆さんが輪の中に入っていく。
「純くん、話の途中に済まないね」
「あ、大丈夫です。えっと、こちらの方がさっき星來さんが仰ってた会社の先輩ですか…」
「初めまして、山崎リコと申します」
「…貴宏さんの」
「ええ、そうです。今回はお墓参りってことで村にお邪魔してます」
「僕は安村純と申します。ここの従業員です。あと」
「妻の彩乃と申します」
 後藤クンが、二人のことを私に説明してくれた。
「彼女は、俺が最初に中山県の営業所に来た明けの日に図書館に行った時、一緒に本を探してくれた司書さんなんですよ。で、そのご主人が俺の父親がこの工務店で働いていた時の…」
「一番弟子、です」
 安村さんはそう言って胸を張った。
「世間って広いようで物凄く狭いのかもしれませんね。山崎さんとも村人の親族繋がりでこうやってお会いできたんですから」
 そう言って奥さんが微笑む。
「『縁』、だよ。人はそうやって誰かと繋がっているもんだ」
 お婆さんはそう言うと、安村さんに尋ねた。
「ところで純くん、さっき頼んでおいた件はどうだった?」
「ついさっき神主さんから連絡がありました。勿論快諾です」
 え?神主さんに何をお願いしたの?
「いや、実はね。普段はそんなことやらないんですが、折角だから神主さんにお墓の前で祝詞をあげていただこうかと」
 安村さんがドヤ顔で続ける。
「で、それが終わったら山崎さんと後藤さん兄妹に御祈祷を受けていただく段取りで」
「え、どういうことですか?」
「さっき会長、じゃないやお婆さんが言っていた通り『縁』です。理由はともかくこうして僕たちは繋がることが出来た。その繋がりがこれからも続くように、皆で助け合って明日からも笑って楽しく過ごせるようにっていう出発の儀式ですよ」
「どうやら俺達は、その『縁』で繋がっているみたいです。偶にはこういうのもいいんじゃないですか」
「あれ、後藤クン人嫌いじゃなかったっけ?」
「この村でだけ、人嫌いってことは封印します」
「え~っ。後藤クンに限ってそんなこと有り得ない」
「何を失敬な!俺が侍だったら今ここで無礼討ちにしてますよ!」
「…その前に、私が後藤クンに会った瞬間に君は私の刀の錆になってるわよ!」
 辻さんとはなちゃんがこっちにやって来た。
「お、何かお二人でいい感じじゃん。目の前に内削村のベストカップルがいるから参考にするといいわ」
「何で、こんな人とっ!」
「何で、こんな奴とっ!」
 はなちゃんが笑い転げている。場が温まったところで、辻さんが笑いながら安村さんの方を向いた。。
「純くん。あの作戦は上手くいったかな?」
「バッチリですよ辻さん。祝詞から御祈祷まで、万事手配済みです」
「え、はなはこの話知ってたのか?」
「知るわけないじゃん。ついさっき辻さんから聞いてあたしもびっくりしているところよ」
 お婆さんが豪快に笑う。
「さあ、これで明日の主役が揃ったね。皆、飲み物の準備はいいかい」

「あたしはお婆さん特製の梅シロップ」とはなちゃん。
「俺は焼酎」と後藤クン。
「私も焼酎」と辻さん。
「僕はハイボールで」と安村さん。
「私、お酒は日本酒しか飲まないんです」と彩乃さん。
「お婆さんは何を?」
「さっきからアンタ達に戴いた薬用酒をちびちびやってるよ。で、リコさんは?」
「じゃあ、私も日本酒!」
 乾杯の後、後藤クンが私をからかう。
「明日は主人公なんだから、飲み過ぎちゃ駄目ですよ」
「いつも馬が水飲むみたいにガブガブ飲んでる君にだけは言われたくないっ」

 次の日、支度をしてお墓の前で待っていると、神主さんがお越しになられた。祝詞をあげていただいた後、神主さんは優しく私の方を振り向いた。
「お話は親御さんから伺っています。まあ、いろいろ積もる話もあるでしょうから私はこれで失礼します。私どもは拝殿で御祈祷の準備をしながらお待ちしていますので、ごゆっくりなさってください。あ、あと、ご両親から貴女宛のお手紙をお預かりしています。このお墓に来られることがあったらお渡しくださいと承りました。では、これで」
 神主さんが去って行った後、私はお墓の前で呆然と立ち尽くしていた。クソ親父とお義父さんお義母さんの間に生じた心のすれ違いが、これほどの長い空白を作ってしまった。私は、今やっとその『すれ違った心』を埋めるスタート地点に立つことが出来た。偉そうに言っているけど、私一人の力じゃない。後藤クンとはなちゃんがトリガーを引いてくれたから、この村の皆が後押ししてくれたから私は今ここに立っている。
 私は貴宏のお墓に向かって口を開いた。墓石が喋るわけないし、何の返事も無いのは百も承知だけど、言葉にして伝えなければならないと思ったから。
「貴宏…今まで君が、どうして辛い思いをして苦しんできたかやっと解った。私を巻き込んだら、私が辛い思いをすると思って、ずっと間に入って守ってくれてたんだよね…」
 視界にある墓石が涙で滲む。
「貴宏…ごめんね。今まで何も出来なくて…貴宏はずっと私のことを守ってくれていたのに、私は何もして来なかった。君が亡くなってからも現実に背を向けて、ずっと逃げ回って生きてきた…」
 溢れ出す涙はもう止まらない。
「でもね…そんな情けない私に手を差し伸べてくれた仲間がいたの。その子たちの導きで、私はここまで来れた。もう私は逃げたりしないし、これからは前を向いて歩いていく。それが『生きる』ということなんだよって皆が教えてくれたから。失敗や後悔ばっかりの人生だけど、先は長いし、まあボチボチ前に進んでいくわ…あと」

「ありがとう」

「ねえ、お兄。リコさん大丈夫かな?」
「少なくとも墓の前で泣き崩れたまま卒倒するような人じゃないさ、リコさんは」
 はなが少しむっとした様子で口を開く。
「お兄の中にレディに対する労りとか気遣いとか、そういうもんはないのかなあ」
「確かにリコさん、一時は折れそうになってたけど…それでハイ終わりって人じゃないよあの人は。脆さも併せ持ちつつ、辛い事を乗り越えようとしている人だからこそ、ほんとうの『強さ』と『優しさ』を持ってるんだ。だから俺達もリコさんの導きで真実に辿り着けた」
「ほへぇ~っ。そんなもんなのかな」
「見てろ。そのうち自分の心の中でケリをつけたらバケツ持ってこっちに走ってくるぞ」

 私は、神主さんにお渡しいただいた封筒を開ける。

璃子さんへ
 ありがとう。

 物凄くシンプルだけど、なかなか口に出して言えない言葉。でも、思っているだけじゃ相手に伝わらない。何も言わなきゃ始まらない。何かを伝えることで物事は動き始める。その時に発した言葉は、お互いにとってきっと特別な言葉になる。
 そう。だから、これからも私はトリガーを引き続ける。何かをやらかした失敗はこれからもクソ程あるだろうけど、何もしなかった後悔だけは絶対にしたくないから!
 私は涙を拭い、大きく深呼吸するとバケツを持って車を停めたところまで駆けだした。

「ほら見ろっ、あの調子だっ!俺の言った通りだろ?」
 お兄が嬉しそうに叫ぶ。
 バケツを振り回しながら戻ってくるリコさんを見て、あたし達は新たな出発点に立とうとしているんだって確信した。

「お世話になりましたっ!」
 三人の声が揃った。例の如く、トランクの中はお土産物で一杯。ベジタリアン生活はまだまだ続きそうだ。
「で、ちょっと気になってたことがあるんだけど」
 辻さんが、遠慮がちにリコさんに問いかける。
「工務店のお婆さんと話をしてて思ったんだけど、タカヒロくんとリコさんが知り合ってから結婚するまでの間が凄く短いような気がするのね…職場結婚だって聞いたし…で、何でだろうなって…いや、あの、大したことじゃないから別に答えなくてもいいんだけど…変な話振ってごめんなさい…」
 リコさんは微笑むと、臆することなく答えた。
「営業所の莫迦共は『飲みに行こう』とか『一晩付き合え』とか下らない事ばかりいう奴らばっかりだったけど、貴宏は仕事の都合で偶々晩御飯を一緒に食べた時に帰り道で『僕と結婚してくれませんか』って何の前フリも無しに言ったんです。スケベ根性剥き出しで声をかけて来る莫迦共とは違っていきなり結婚を持ち出してくるなんて、コイツは私のことを真剣に想ってくれてるんだなって思ったんですよっ!キッカケなんてそんなもんです。アハハ」
「何かその話、タカヒロくんらしいな~」
 見送りに来てくれた皆に、心地よい笑いが響き渡った。

 帰りの高速道路。後部座席でリコさんがふと呟いた。
「後藤クン、はなちゃん」
「何ですか?」
 ハモった俺達に、リアハッチから外の景色を眺めながらリコさんがリアハッチ越しに空を見上げる。
「私…君たちがいてくれたからここまで辿り着けた。私一人じゃ死ぬまで何も出来ないまま過ごしていたと思う。だから、だから…」
 俺達は何も言わず、次の言葉を待った。

「ありがとね」

 そう言ってリコさんは横を向いて寝落ちしたように見せたが、彼女は涙を流していた。俺は、リコさんの涙を見なかったことにして車を走らせる。
「俺だって、リコさんには感謝してもし切れないです」
 ふと呟いた俺にはなが反応した。
「あたしもよ、お兄。リコさん、ありがとう」

終章 すれ違う心が遺したもの

「ねえお兄、本当にこれで良かったのかなぁ?」
 はなが間もなく高校を卒業しようという頃、真新しい小さな墓の前ではなが俺に問いかける。
 色々悩んだ結果、俺は父親と母親を同じ墓に納めることにした。父親が俺に遺した預金で今までの借金を返済したら、丁度小さな墓なら建てられる位の金が残った。いっそその金で車でも買おうかと思ったこともあったけど、俺はその金で二人の為に墓を建てた。
 はなは、春から医療系の大学に進学する。医者にはなれそうもないけど、カウンセラーかソーシャルワーカーを目指すそうだ。進路の話をする度にはなは『すれ違う心を、これ以上生み出しちゃいけない』と何度も繰り返していた。

「俺は、二人を同じ墓に入れるべきだと思った。何かの間違いで心がすれ違った二人だけど、その理由を知った俺達が出来ることっていったらこれ位かなって思ったんだ。誤解は解けた、その後に俺たちが出来る事って…なあ、はなはどう思う?」

 はなはひと呼吸おくと微笑んだ。
「お兄のその想い、間違ってないしあたしはそれでいいと思う。あたしが同じ立場だったらきっとお兄と同じ結論を出してた。あの世で二人がどう思うかは解らないけど、お互いの想いを知った以上、また一緒に話をする機会くらいは作らないとね!それが親孝行なんじゃないの?」
 はなは、俺の思いをやっぱり理解してくれていた。周りの奴が何を言おうとも、家族である俺達が出した結論に文句は言わせない。俺の決意は唯一の家族であるはなに伝わっていた。俺は安堵して、はなに話を続ける。
「同じ墓に放り込んだことで出会った頃の関係に戻れるチャンスを俺達が作ったんだから、後は二人で話し合いでも殴り合いでもしてくれたらいいさ。出来れば俺達が生まれる前からやり直してくれたらいいかな…結論がどうであっても、な」
 暫しの沈黙の後、はなが俺の方を見て呟いた。
「あたし達、今まで『お互いの気持ちは敢えて言葉にしなくても、相手に伝わるもんだ』って思ってたけど、そうじゃなかったのかも知れないね」

 俺も暫く沈黙したあと、言葉を選ぶようにはなに伝えた。

「そう…はなの言う通り『言葉にしなくても相手に伝わっている』なんて考えは捨てちまった方がいいんだろうな…お互いの思いはキチンと言葉にして伝えないと」
 墓場に春の風が吹き抜ける中、暫くの間二人を静寂が支配する。

「ありがとう」
 何か示し合わせた訳じゃないけれど、二人同時に声を上げた。

 何か言葉を飾りつけようとして言った訳じゃない。
 自らの想いを正直に言葉にして伝える、ただそれだけのこと。
 きっと、相手を想う気持ちはそこから始まる。
 俺は、ひと仕事やり遂げた充足感を噛み締めながら墓の脇でそっと煙草に火をつける。はなが、俺に何か言いたそうにしている。
「お兄さぁ、あたし以外にも素直に言葉を伝えるべき人がいるんじゃないの?あたしよりその人の気持ちを大事にするべきじゃないのかなあ?」
 そう言うとはなは、態とらしく俺にそっぽを向いた。
 俺は、はなに見えないように振り向くとスマフォの連絡先を検索してやや緊張しながら発信ボタンを押した。まあ、誰にかけているかなんてはなにはバレバレだけれど。
「ハイ、山崎の携帯です。あら、後藤クン?貴方から私の携帯に連絡してくるなんて珍しいんじゃない?てか初めて?」
「あの、突然電話なんかしてすみません。この間色々ご迷惑やら心配やら…で、やっと両親の遺骨を納骨したところで…本当に…あの…」
「何ゴチャゴチャ言ってるの?言いたい事があるんならハッキリ言いなさいよ!」
 やや苛ついた、でも何か暖かい口調でリコさんが俺に発破をかける。
「いや、あの。何て言うか…ありがとうございます。これだけは先ず伝えたかったんで…」
「で?結局何が言いたいワケぇ?」
 俺は戸惑いながら話を続ける。
「実は、話はそれだけじゃないんですけど…」
「…煮えきらない奴は嫌いよ」
 態と突き放すようにリコさんは吐き捨てた。
「改めて、お会いしたうえで御礼も言いたいってのは勿論あるんですが…それよりも…」
「だからぁ、言いたい事はハッキリ伝えなさいって!私、結論の見えない話は大嫌いなのっ!『それよりも』の続きは何なのよっ!」
 俺は覚悟を決めて、思いを伝える。
「あの…今晩あたりお暇ですか?無理にとは言わないんですが、俺、色々と話したいことがあって…」

 態とらしい溜息の後、リコさんは答えた。
「まあ、私も含めて皆色々あったし、私も後藤クンに言いたい事がクソ程あるから飲みに付き合ってあげてもいいわよ。で、はなちゃんは?一緒にいるんじゃないの?」
 俺ははなの方を振り返る。はなは俺に向かって笑いながら全力でアッカンベーをしている。
「いや、はなはこれから何か別の用事があるみたいで…」
「あら、じゃあ仕方ないわね。偶々、だけど私は今晩空いてるから、後藤クンの相手してあげる♪じゃあ、今日は飲むわよっ!」
「…今日は、ですか」
「あら?ひょっとして『今日も、の間違いじゃないか』とか言いたいワケぇ?いつも莫迦みたいに飲む君に言われる筋合いはないわよ!」
 リコさんはそう言いながら電話口でケラケラ笑っていた。
「では、あの店で…」
 俺は通話を終えると、はなの方を見た。
「じゃあ、お兄。後は上手くやりなよっ!あ、あとあたしのお姉ちゃんを傷つけたりしたら一生許さないからねっ」


  はな、リコさん。

 二人がいてくれたから、俺は現実と向き合ってここまで来ることが出来た。
 これまでも、そしてこれからも俺は二人に伝えなきゃならない、いや伝えたい言葉がある。

 「ありがとう」って。

 世の中に普通に存在するごくありふれた言葉だけれど、その一言から全てが始まる。その何気ない言葉が、俺たちには特別な言葉になった。

 これからも、俺はその言葉を伝え続けようと思う。
 その一言を聞くだけで、俺は明日からも頑張って生きていこうと思える。
 その一言を伝えることで、自分の本当の気持ちが相手に伝わる。
 伝えられないまま気持ちがすれ違うと、一生解りあうことはない。

  だから、俺は敢えて言葉にしようと決意した。

  そうやって、人と人とは繋がっている。
  その繋がりはやがて少しずつ大きな輪に、
  明日に向けて動き出す力になる。
 (了)

すれ違う心

すれ違う心

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-02-09

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