鶏鳴の光
2020年の作
或る青年の、或る日の日記より
自ら生命に結末を与えることについて、家の者は総じて愚かであるという旨のことばを発していた。俺はそれらを耳に受け止めながら、彼らと自身は異なる思考をもっているどころか、まったく別の人種であるとさえ思った。彼らにしてみれば、それこそチャンチャラ可笑しいと嘲るかもしれない。ともかくその様な持論があるが、恐らくそれは間違いではないだろう。元来、同じ親の下で育った姉弟や、我等子等と大した差のない環境に居たであろう両親共に、極端に楽観的であった。対して俺はまた極端に悲観的な人間であった。彼らは社会の流動性に弾かれ、湿った泥土に脚を浸しながら一人脂汗と涙に塗れたことなど一度だってないのだろう。羨んでそういう思考をする自身がいやだった。途轍もない嫌悪が血流に紛れて全身を巡るのを感じた。ほんとうはどのような者にもまちがいなどなく、すべてが正しいのだろう。だれもが背負う労苦に耐えられなかった俺だけが、一等愚かであった、只それだけなのだ。
極楽浄土、或いは夢のなかでのこと
極楽浄土は存在した。しかしそれはかつて思い描いていたような理想郷ではなかった。どこもかしこも、空までもが一面雪が降り積もったように白かった。辺りを埋め尽くすように咲き乱れる草花も、たのしく囀る鮮やかな小鳥も、やわらかな羽衣を靡かせるうつくしい天女もなかった。山も森も谷もあったが、そこにはただ白だけが広がっていた。そのなかにぽつぽつと人間が居た。人々はやさしく、けっしてだれかの気を害したり、争ったりすることはなかった。この場にいると胸の内が晴れやかで、何もおそろしいことはなかった。空虚も不安もなかった。それでここはきっと極楽浄土なのだろうと思った。ここに居る(恐らく)数年の間に得た考えである。
時折ひどく淀んだ情調を纏った人間が現れることがあった。彼らの歩いたあとには泥が滑ったような汚物がのこり、悪臭を撒き散らし、周囲にはおおきな蠅が何匹も飛び交っていた。一目でどうしようもない悪人だとわかった。この広大な白い空間、そのなかに隠されるようにひっそりと寝転がる池がある。池は燃え上がった炎のようにまっ赤で、底が見えないほど深い。彼らは導かれるかの如く疎らに歩を進め、皆揃って呪詛を吐きながら池の底へ沈んでいった。そうしてすがたは跡形もなく見えなくなった。彼らは来世への手形を永久に剥奪され、再びたましいが空気を吸い込むことはなかった。救いの手はすべての者に平等に差し伸べられるわけではなさそうである。
己はあの悪人たちのようになりたかった。正しくは、とにかくあのようにしてこの身を終わらせなければならないと信じていた。確かに自身は悪人である。己もあの悪人等と何ら変わらない、とんでもない悪人であるのに、この白い世に留まっていることが不自然でたまらなかった。
或るとき、今すぐあの池に落ちたいというのぞみが、脳のうら側にポッと躍り出た。やさしい人々が引き留めてくれるのに構わず、悪人たちに混じって池を目指した。蠅の羽音と、次々と耳に飛び込んでくる呪いのことばが騒がしかった。加えて、すべての不幸とにくしみを煮詰めたような、鼻のひん曲がるにおいが充満していて、それが苦痛でたまらなかった。池に辿り着いたころには全身から脂汗が滲み出ていた。共にこの場所を目指して歩いた仲間たちは、耳を劈く金切り声を発しながら次々と赤に身を投げた。酸鼻を極めた光景だった。……ほんとうは、空から伸びる聖なる手が彼らの足を引っ掴んで、右へ左へ無理矢理動かし、力づくで飛び込ませているのだろう。
はやくああやって沈んでしまいたい。はやる気持ちを抑えることなく池の前へ飛び出した。しかしどうだろう、今まで確かにそう願っていたはずなのに、襲ってきたのは至大なる恐怖だった。この水のかたまりに溺れることを、どうしようもなくおそろしく感じた。
気づけば、腕と足を我武者羅に振り乱し、脱兎の如く駆けていた。自分がどこへ向かっているのか、どこへ向かわなくてはならないのかは考えすらしなかった。北へ南へ、西へ東へ走り回った。山を登り、下り、森に紛れ、峡谷へ到達し、遂には谷底へ滑り落ちた。微塵も水気のないカラカラな空気と微かな砂埃が漂っていた。そこでようやく疲れ果て、その場で延々眠りこけた。何時間か(何日か、かもしれない。この世へ来てからというもの、時間の感覚は息を吐く毎に失われ、このときにはほとんどなくなっていた)経過したのち起き上がり、気の向くほうへのろのろ歩いた。谷から這い出るちからは最早なかったので、たいして変わりもしないところをぐるぐると徘徊した。朝が何十回、何百回と顔をのぞかせて、昼も夜も同じくらいそうしていた。
朝が何千回目か訪れたときのことだった。いつものように谷間を縫ってぼんやり歩を進めていた。すると或るところで手のひら程の幅のほそい水の線がちろちろと流れていた。はてこんなものがあったろうか、どこからやって来たのかと不思議に思い、屈んでそれを眺めた。暫くしてそろそろまた歩くかと顔を上げると、そばにちいさな木造の小屋があった。さらにこぶし大のものから人の背丈ほどのものまで、幾つか岩が転がっていて、そのうちのひとつの上には、黄衣に身を包んだ青年が座って居た。突然現れたので驚きのあまり凝視していると、青年が振り向いた拍子にしっかりと目が合った。彼は己のすがたを捉えるなり、屈託のない笑顔をみせて駆け寄ってきた。
「ああ! なんてことだろう! ここに人が来たのはずいぶん久しぶりです。いやあ、うれしいなあ! どうぞ、うちへ寄ってください」
極めて俗の薄い世にいるというのに、いやに人間味のある人だった。この青年は何もかもを知っている、という直感があった。なぜかはわからないが、彼のことは信じてよいと、脳みそが訴えていた。久しく人と会わなかったのですっかり気をよくして、招かれるがままに小屋へ入った。小屋のなかは小ぢんまりとした机と椅子が二脚ほど、あとは辛うじてひとりが立てるほどの台所があるだけだった。
彼は、自分はこの谷の番人で、どう足掻いても谷から出ることは叶わず、長いことひとりで居るのだと言った。長いというのは、曰く「もうずいぶん前ですから、正しい時間というものはわかりませんが、七回か八回は人が生まれて死ぬでしょう」という程らしく、途方もない時間をこの谷で過ごしていたことに驚愕した。このいかにも無害そうな青年は、いったいどうしてこの場所へ閉じ込められているのだろうか。池へ落としても足りないくらいのおおきな罪を犯したのだろうか。それとも神々の気まぐれであろうか。はたまた手放し難い程の善い人間なのだろうか。ひとたび気になってしまえば勝手な憶測ばかりが溢れ出た。解を探るべく、生前のすがたを問うと、何でもないことのように話してくれた。
「私はむかし、ちいさな国の王族として生を受けました。父は一国の王でしたので、さまざまな権利を所持していました。王は重い税を課したり極端な法律を敷いたりと、きびしい政をおこなっていたうえ、自身は国庫金を持ち出して各地で豪遊していたため、暴君として名を馳せていました。そのような状態が続いたあと、国王が病に倒れると、代わりに私がいろいろな取り決めをおこなうことになりました。これは大変な役目だと思いましたが、王の子どもとして負うべき責任があるのは当然のことですから、皆の笑った顔を見るためにはたらきました。しかし私の力足らずが祟り、国民の怒りは膨らみ続け、遂に或る町で暴動が起こりました。それは隣町へ、またその隣町へと広がり、やがて国全体までおおきくなりました。そのうち私たち王族は一人残らず捕えられ、後日処刑されることが決まりました。
あの日、たしか正午をすこし過ぎていたころのように思います。頑丈に拘束され、下の弟たちと共に、都の中央にある広場まで連れていかれました。道中、四方八方から石やらなにやらが飛んでくるものですから、弟たちは体中をまっ赤に濡らしながら痛い、こわいと泣いていました。あの子らを庇ってやれなかったことは、今でも悔しく思っています。広場に着くと、すでに大勢の民衆が集まっていて、口々に一族を皆殺しにしろと叫んでいました。父は数日前に亡くなっていましたから、いちばんに処刑されるのは私でした。斬首台に上がり、広場を見下ろすと、そこにいるすべての人々のすがたが目に入りました。遠くのほうに、よく世話になった使用人たちが固まっていました。振り返ると、弟たちがこちらをまっすぐ見ていました。皆必死になにかを叫んで、涙を流していました。それで私はとても悲しくなりました。使用人たちは職を失い、これから少なからず迫害を受けることになるでしょう。弟たちはまだ幼く、国の決め事にはいっさい干渉していませんでした。それにも関わらず、王の一族であるというだけで斬首されることが、かわいそうでたまりませんでした」
「それは大変おそろしかったろう。君のもつにくしみは計り知れないが、それでもとんでもないのだろうな」
「いえ」彼はゆっくりと顔を傾け、こちらを見やった。淡い褐色の瞳に己の呆けた表情がうすく映っていた。瞼と唇をぼんやり開いたそれはひどく滑稽だった。
「いよいよ首が跳ぶぞという瞬間、下方に目をやると、皆笑っていたのです。焦がれた光景をあんなにも近くで見ることができたので、すっかり嬉しくなりました。……私がゆるされないのは、きっとこういうせいでしょう。気がついたときにはここに居て、与えられた役目を果たしてまいりました。なぜ私が選ばれたのかはわかりませんが、こういうせいなのでしょう」
「あまりにすばらしい、善い人だね、君は……」
「そんなことはありません。只、人々がしあわせなほうへ向かえるように、あれやこれやと考えるのが好きだったのです」
彼がこのように言ったとき、己の内臓から引きずり出された、腐り果て、黴の蔓延ったみにくさが露呈するのを隠す気にもならなかった。きっと天界のゆびが、木漏れ日の最もやさしい淡黄を掬い取り、人のかたちに捏ねたのだ。然して出来上がった理想が、この人なのであろう。ご照覧あれ、あなた方の嬰児は十全十美の偉丈夫となった。その輝きは影をもあかるく色づける。如何なる虚構もまぶしさの前では無力だ。だから今まで必死に見せまいとかくしてきた。己のエウ・ゼーンはそういうことだった。しかしこの青年の、釈迦に劣らぬ柔和なほほえみを目に入れてしまってはどうにもならなかった。光さす窓硝子に入ったちいさな罅がピキリ、ピキリと走り出し裂傷になる音が聞こえた。
己はこのすばらしい青年のように、己以外の人のために何をしただろうか? だれか一人にでも、助けを施しただろうか。持ちうるちからでなにかを成し遂げただろうか。思い浮かぶのは両親の眉間に細かく刻まれた皺だった。頭蓋骨の内側で母のほそい声が反響した――あなたはいつもそうねえ、中途半端で、自己中心的で、そのくせ考えなしで――たらふく押し込まれ、腹一杯まで聞かされた口癖だった。散々反発して、えらそうに退けたくせに、まったくその通りである。
「祝福をくださらないか」
「祝福?」
「うん、己はいま、やっと産まれたのだ」
突出も劣後もしないように、並に生きていたつもりだった。関係のある人はすくなかったが、悪い者は一人だっていなかった。いたって難のない生活を送り、勉学にはげみ、学校を卒業後は職にも就いた。とくに金に困っているわけでも、暴力に怯えているわけでもなかった。それでもどうしようもない孤独と悄然とした虚しさがからだの奥の奥に巣食っていた。際限のない欲に塗れた自分自身を、おそろしいほどみにくく感じた。いつからか成功した者に恨みを抱くようになった。たのしく生きている様子に腹が立った。そしてまたそんな感情をもつ己自身を毛嫌った。毎日がそんな循環のなかにあった。
己はいま、ようやく、自分がどのような人間であるか理解したのだった。どうにも捻くれて、誰の助けにもならなかった人間なのだ。善そのものである人間に、自身への嫌悪と苦悩は理解できないだろう。人のために生き、迷いなく手を差し伸べてきた者にはけっして。彼が悪さをしたわけではないというのに、くすんだ厭悪が靄となり、肋骨の間からむしゃくしゃと沸き上がった。青年は眉根を寄せて、顔を顰めていた。
その表情を見て、勢いのままに小屋を飛び出た瞬間、眼前の光景を疑った。目の前に広がっていたのは何千日もみた乾いた谷底などではなく、そこには荒れ狂い、痛みに叫ぶようにのたうち回る濁った水があった。氾濫した雄大な川のように溢れた濁流は、ワアワアとしゃがれ声を発しながら、転がっていた岩石を、かたく育った木の根を、そそり立つ岩壁をも吞み込んでいった。
砂埃の舞う岩肌の世界は、いつ水底の荒野と化したのか? 打って変わった外の様子に目を見開いたまま一歩も動けずに、足元にひやりとした湿り気が届くのをぼうっと感じた。足裏に触れた冷感はそのまま急速に膝へ腰へと駆け上がり、水流に足を掬われてはじめて、これはだめだと思った。仰向けに倒れこんだ己のからだは地面にぶつかることなく、傷ついた龍の如く暴れる冷温に受け止められた矢先、頭と爪先をまっ逆さまにひっくり返された。天も地もないくらい回る視界は鼠色で埋まっていた。どうにか四肢を動かそうと奮起したところで、最早どうにもならなかった。流された木や石の欠片がぶつかり、己のいたるところを傷つけた。冷えと衝撃でこれが痛いのかさえわからなかった。大量に口へ押し入った水が胃袋を圧迫した。闇雲に水を掻くと、ますますからだは沈む一方だった。この世にもまた死があるのだろうか。次第に呼吸が詰まり、全身のちからも抜け、いよいよ意識がなくなるというとき、何かに肩を掴まれた。そのまま水面へ引っ張られ、半ば気を失いながらも陸へ這い上がった。「さあ、息を吸って」声の主は谷の番人だった。
「すまない、引き上げてもらって」
「よいのです。私は泳ぎ方を知っていますから」
はっとして顔を上げると、やはり柔和なほほえみがこちらを見ていた。彼もあの濁流のなかにいたというのに、衣も髪も肌も、いっさい水を含んでいなかった。肌ざわりのよい羽織を被せてもらいながら、なるほど、先程渋い表情をみせていたのはこういうことか、と気がついた。
「人の世もこうであれば、遍く降りかかる苦しみが、すこしでもちいさくなるだろうか」
「案外忘れているだけかもしれません。それも、必死なときほど」
「君は聡いなあ」
「恥ずかしながら、こう思ったのはつい最近のことなのですよ。早くに知っていたら、もっと善く生きられたのに」
「人間だね」
「そうですとも」
「そうだったか。……ああ、こんなになつかしいものだね。なんだか帰りたくなってきた」
「ええ、帰りましょう。一息ついて、それからだって尚早すぎるくらいです」
激しい水の流れはすっかり失せていて、もとの谷底の景色が再び浮かび上がった。びっしょりと濡れきっていたからだも隈なく乾いていた。いったいあれは何だったのだろうと呟くと、隣の青年はほんとうに何だったのでしょう、試練というやつですかねえと首を傾げた。彼でもさっぱり不明らしかった。「君にも知らないことがあるのだなあ。人間のようだ」「私は人間ですって、ねえ」二人で大笑いして小屋に戻った。先程まで濁流で塞がれていた、たった数十歩の距離が愛おしかった。彼が入れてくれた茶を飲み、お互いにどうでもいいような、つまらないことばかり話した。こういうちいさな幸福を、己は自分で捨てたのだった。しずかに悔いて、窓の外を見た。以前確かに音を聞いたはずだったが、硝子には罅ひとつなく、ついさっき磨いたかのようにつるりと光っていた。番人があなたのおかげですよ、と言って己の手を握った。やわらかな温もりが伝ってくるのが心地よかった。しかしいつまでもこうしているわけにはいかなかった。彼のもとで僅かばかりの時を過ごしたただけのはずが、十日も経っていた。己は疾くここを発たなければならない。
「そろそろ行くよ。君には世話になりっぱなしだったなあ」
「もうですか。仕方ないけれど、寂しいものはどうにもならないですね」
震えた声色がおそろしく切なかった。彼はゆっくりと椅子を引き、明らかに遅くなった、しかししっかりとした足取りで歩いた。鉄製の鍵を開ける音がして、ゆっくりと扉が開いた。穏やかな風が肌を撫でた。
「この谷を出て一本道をずうっと行くと、天高く聳えるおおきな門があります。そこには門衛がいて、人々をみきわめていますが、きっとあなたは通してもらえるはずです」
「なにもかも君のおかげだ。ありがとう」
彼と出会わなかったなら、今頃己はまだふらふらと彷徨っていたかもしれない。礼を述べると、彼は何かを差し出した。
「足元を照らすものは、いつだって必要でしょう」
「違いない。助かるよ」
己の手に持たされたのは燈籠だった。燈籠のなかには、しっとりと肌に触れる、慈悲の温度が閉じ込められていて、一掬の星を掴んだ気分だった。それを落とさないようにしっかりと握りしめ小屋を出た。後ろに番人も続いていたが、はじめに出会った岩を越えたあたりから、もうひとつの足音は聞こえなくなった。代わりに澄んだ男の声が背中の産毛を波立たせた。
「さようなら! さようなら! お元気で!」
晴れやかな祈りの挨拶はどこまでも耳に届き続けた。胸のなかで、彼のために祝詞を唱えた。ほんとうの幸福が、彼の手におちればよい。
けっして後ろを振り返ることなく、谷間を闊歩した。
谷を抜けると、たった一本の、すっと長く伸びた道に出た。いつだったか夢でみた、ぐっすり眠る白い大蛇のようだった。燈籠を片手にひたすら真っ直ぐ進み続けた。道端にはさまざまな色の花が咲き乱れ、煌々と輝く光が辺りを翔けていた。それは六日目の蛍を彷彿とさせ、同時に生きていたころ友人と河原で蛍を採集したおもいでを掘り起こした。捕らえた蛍は翌日には虫籠のなかで息絶えていた。やはり己は悪い人間かもしれないと思った。一輪だけ咲いていた、み空色の麝香撫子がいっそう目についた。
暫く歩くと、前方に突然おおきな影が現れた。近寄ってみると、それは遥か上空まで背丈のある門だった。門の足元には門衛がひとり、こちらをじっと見据えて立っていた。
「やあ、こんにちは。どうぞこちらへ。通行証を拝見いたします」
「通行証? そんなもの持っていないぞ。どうしたものか」
「何を仰いますので。きちんと握っておられるではありませんか」
門衛は己の右手から吊り下がったものを指差した。燈籠はまるでそうだぞ! と叫ぶように、ごうごうと鳴るほど光をつよくした。
「確認いたしましたので、いつでも出発できますよ。ところで、谷の番人にお会いできたのですね。どうでしたか、元気にやっていましたか」
「元気だったが、さびしそうだったよ。君は彼を知っているのだな。旧知か? 彼はえらく長いこと谷にいるようだ」
「あれは哀れなお人です。民のために、自らのすべてを失うまではたらいていました。彼が王の代理になった後、国政は大いに冴えわたり、それまでの暴政は次第に失われました。あの国の民、あれは愚かな者共です。善に満ち溢れたすばらしいお人の首を跳ねました」
「まるで見てきたかのような口ぶりではないか」
「見てきましたから」
「そうか。しかし、彼ののぞみは……」
「はい。ですから、後ほど迎えに上がることにします」
「頼むよ。君ののぞみではないだろうが」
「いえ。今の今まで、いちばん大切なことを忘れておりました。あのお人の幸福が、わたくしののぞみだったのです。ずっと……」
腹に響く唸り声を上げて扉が口を開けた。向こう側には何かがあるはずで、しかし何も見えなかった。その奥にはどこか知っているものが広がっている気がしたが、ちがうものであるようにも思えた。
一歩を踏み出せないでいると、門衛が燈籠をけっして手放さないようにと言った。
「これは……結局のところ、ただの燈籠ではないようだ。一体、何なのだね」
「ほんのすこしの、きぼうです。どうか、うまく使ってくださいね」
「そうか。どうりであたたかい。うん、きっとそうしよう」
己は一歩、右足を突き出した。次いで左足を進めた。また右足を踏み出した。そうやって交互に足を出した。微かな音さえ響かせず、だれの目にも触れられることなく、戦々恐々といったふうに。ようやく立ったばかりの赤ん坊のようだった。一見間抜けなこのすがたを見ている者は、ひとりもいない。
この先へいけば、また這うところから始めなければならない。それでもよいと思った。次の航海は何度荒波に揉まれるだろうか。いろいろな舟を造ろう。幾度となく難破しても、あたらしい舟を造ろう。泥の舟ではあっというまに沈むだろうか。大の百回つく馬鹿だと罵られるだろうか。最期まで止まない嘲笑に囲まれるだろうか。いや、どうだっていい。己が誇れば、泥舟は板金の、最もうつくしいものになる。
鶏が一声鳴いた。高らかで、それでいて朗らかな声だった。藤色に輝く空を仰いだ。橙の光が己を照らしていた。
鶏鳴の光
最後までお読みくださり、ありがとうございました。生きづらさや息苦しさ、理由のない不安を抱えている方、そうでない方にも、すこしでも寄り添えていたら嬉しいです。幾らかのやさしさときぼうを落とさないように、しっかり携えて、そしてだれかに配りながら、或いは受け取っていけるような世がうつくしいと思います。ひどい理想かもしれませんが、私自身、そういう風に生きていきたいと思っています。たとえ嘘だとしても、惜しみなくやさしさを配れる人は、素晴らしく、偉大で、そして素敵な人だと思います。そういうやさしい人ほど、そんなことをしても誰からも見てもらえないと、孤独や寂しさを感じているかもしれません。あなたを賞賛し、あこがれる人間がここにいるということを、どうか忘れないでください。