僕たち大人になんてなれないけど、子供にだって戻れないでしょ。
プロローグ 15歳
人より何かができるわけでも、できないわけでもない。
人より幸せかと言われたらそういうわけでもない。かと言って不幸だと言い切るには私は恵まれすぎている。
家族がいて、食べるものがあって、学校に行けて。テレビで見るようなアフリカの貧しい国で、勉強をして将来医者になりたいと語る子供たちの笑顔に責められているような気分になる。
全て持っているお前が不満をこぼすのは贅沢だと。
朝起きて感じる胃が締め付けられるような感覚。クラスメイトと話していて顔が無意識に笑顔を作っているのに無感情であるとふと気づく瞬間。これからの人生を左右する進路を”いい先生”を演じるのに必死な担任に相談する馬鹿らしさ。
こういうぼんやりとした不快感に慣れていくことが大人になるということなのだろうか。慣れてしまえば幸せになれるのだろうか。
プロローグ 23歳
大人になったつもりなんてなかったのに、いつの間にか成人して20代前半と言えるのもあと一年になっていた。
同世代の人間が夢を叶えたり諦めたりする中で、私はまだ行先すら決められていない。なんとなく高校に進学して、大学では興味のない分野を専攻した。特にこれといってしたいこともなかったから何でも良かったのだ。就職活動は少しだけやって辞めた。思ってもいない志望理由や誇張した長所をひねり出すのに嫌気がさしたからだ。
それでもいつまでも親の脛をかじっているわけにもいかず、バイトで食いつなぐという選択をした。
みんなが通る道なのだからと諦めてしまえば良かったのかもしれない。嘘っぱちの志望理由も盛り盛りの長所もいくらでもくれてやれば良かったのかもしれない。そしてしたくもない仕事をしていい給料を貰って人生こんなもんだって満足していた方がきっと幸せだった。でもそうできなかったのはたぶん、私が大人になりきれなかったから。
コンビニのレジに並んでいるとき、前に立つ女子高生からあの匂いがした。
喉の奥をきゅっと締め付けられるような感じがした。
シーブリーズのせっけんの香り。
そういえばあの時も同じ匂いがしていた。なんて未だに忘れられないのはきっと、あの日々にもう一度戻りたいと無意識に願ってしまっているから。
プロローグ 15歳
チンパンジー女。私は心の中で彼女のことをそう呼んでいた。
本名を宮野マキというその女はクラスの中で逆らってはいけない存在だ。
学級委員は別にいるが本当の意味でクラスを束ねているのは彼女だと私は思っている。
チンパンジー女は本能で、どうすれば相手に効果的なダメージを与えられるかを知っている。虫や動物が嫌いな人に限ってそれらに追いかけられがちなのと同じで、マキには自分を恐れている人間を察知する能力でもあるに違いない。
ある日サルのような顔がぐっと迫ってきたかと思えば一言、
「ソバカス増えたね」
と真顔で吐き捨て、取り巻きたちとゲラゲラ笑いながら去っていった。
ただ同じクラスであるということしか接点のない人間になぜコンプレックスを指摘されなければならないのか意味が分からなかった。
怒り、羞恥、悔しさ、私がどんな感情に陥ろうが歯向かってはいけない。
チンパンジーは群れで行動するからだ。
それに対してこちらは一人。この”クラス”という狭い社会をやり過ごすには黙って受け流すのが妥当だ。
そしてこの担任、松永真弓(27歳独身)はチンパンジーの方が人間よりもお気に入りのようだ。マキのような”やんちゃな子”たちに甘く、私は他の先生と違ってあなたたちの良き理解者ですよアピールバーゲンセールだ。私はきっとそんな先生のことを冷めきった軽蔑の目で見ていたのだろう。先生が私のことを苦手だと感じているのが個人面談ではっきりと伝わってきた。心のうちを見透かしたような目で見てくる相手を前にいい気分になれるはずもない。別に先生を責めるつもりなんてない。きっとこの人もこんな風になるつもりなんてなかったんだろう。初めは生徒に慕われる先生になろうと頑張っていたのが、いつの間にか自分の中の理想に押しつぶされてしまったんだろう。そんなことを頭の中で考えているうちに面談は終わった。
学校は時間の無駄だ。通えば通うほどに馬鹿になっていくような気がする。
理不尽な評価、他人の無責任な言葉、何もできない自分への嫌悪に耐えられなくて、学校から帰ると毎日自慰をした。その行為の最中だけは何も考えず、ただひたすら快楽を求めることだけに集中できた。終わったあとは頭の中がぼんやりと麻痺して気分が少し軽くなった。
「あぁ、これでまた明日も、学校にいける。」
凡人とサル
6月下旬。
灰色の重そうな雲が空を埋め尽くし、今にも雨が降り出しそうだ。
じめじめと湿った生暖かい空気が肌をべたつかせる。
半袖で来ればよかったと考えなが紺野ゆず子は制服のシャツの袖を肘までまくり上げた。衣替えは月の始めだったのだが、女子の間では半袖の代わりに長袖を折って着るのが流行りらしい。ゆず子としては是非とも半袖を着たいところだが、周りから浮いてしまうのが嫌で長袖のままということだ。
シャツが汗ばんだ肌にピタリと張り付いてきてなんとも気持ちが悪い。
田舎の公立中学校の教室にクーラーや扇風機があるわけもなく、窓を通して入ってくる風に頼るしかないのが現実だ。
席が窓際でよかったなどと考えながら時計に目をやる。12時35分。あと10分で給食だ。この10分が長いんだよなぁとゆず子が小さくため息をついたとき、担任の松永が「そういえば」と声をあげた。
彼女の担当は英語で、たまに授業が早く終わると残り時間を雑談やら連絡事項の伝達やらに使うことがある。
「テスト勉強のスケジュール表まだ提出してない人出すんよ!それから紺野さんーーー」
いきなり自分の名前が出てゆず子がはっと顔を上げる。
「紺野さんは週末10時間も勉強しています。すごいですね。みんなも紺野さんを見習ってよ。」
クラスがざわめいた。
10時間ってやばくない?
すご!
そんなに集中力もたんわ。
あぁなんて余計なことを。ゆず子は無理やり笑顔を作りながら心の中で悪態をついた。
松永と目があった。「私はクラスでちょっと浮いてるあなたが馴染めるように手助けしてあげてるのよ。よかったね、みんなに注目してもらえて」とでも言わんばかりの微笑みを浮かべている。この偽善者が。ゆず子は内心舌打ちしながら目を逸らした。
感嘆や称賛だけで終わるはずがないのだ。
「てかさぁ、10時間も勉強するって逆に馬鹿じゃね?」
「それな!人生無駄にしてるっしょ!」
チンパンジー女マキとその群れの声がひときわ大きく響く。
ほら見ろ。お前のせいだ、と松永に視線を向けると何やら忙しそうにペンを走らせている。正確には忙しくて何も聞こえていないフリを決め込んでいる。
「てかぁ~ホントに頭良かったらそんなにしなくてもよくね?」
「それ言ったら紺野サンが馬鹿みたいじゃん!」
「そっかぁごめん紺野サン」
群れがギャハハと笑い声をあげる。
「そーいえばさぁB組の浅見君って全然勉強してないのに前の中間で1位だったらしいよ!ヤバくない?」
「えーあの東京からきた人?ヤバすぎ!」
「今度話しかけに行ってみよ~」
「マキ面食いじゃん!」
群れの笑い声がどっと上がるのと同時に授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「遅いんだよ」
ぼそりと呟いたゆず子の声が誰かに聞かれることはなかった。
凡人と通り雨
この先マキのような人間はどこへ行ってもいるのだろうかとゆず子は思う。
人柄や容姿が優れているいるわけでもない、ただ他人を虐げることに特化した人間のことだ。
逆に馬鹿じゃね?
先ほど彼女に放たれた言葉が頭の中を行ったり来たりする。
気にするだけ無駄なことをゆず子は知っている。
マキはゆず子のような言い返せない人間の気分を一方的に害すことをただ面白がっているのだ。自分の発した言葉がどれほど相手の心をえぐっているかなんて考えたこともないに違いない。それどころか相手の急所を突いていることにすら気づいていないはずだ。
「はぁ」
小さくため息を吐いて麻婆豆腐を口に運ぶ。空腹だったはずなのに食欲はどこかへいってしまっていた。
クラスでは6人ずつの班が決まっていて給食はその班で向かい合って食べるのが決まりだ。話し相手のいないゆず子にとっては一人で食べるのも班で食べるのも同じことなのだが。自分を除く5人が楽しげに笑い声を上げる度に少しだけ気まずさを感じる。食事は大勢でした方がおいしいなんて一体誰が言い出したのだろう。家でも学校でも一人で食べる方がよっぽど気楽で食べ物の味を感じられるのにとゆず子は思う。無心で米と麻婆豆腐を交互に口へ運び最後に牛乳を流し込んだ。
食器を片付けてから給食時間が終わるまで読書をして時間を潰す。この時間と朝礼前の朝読書だけがゆず子にとって気の休まる時間だ。ここ最近は洋物のホラー小説にはまっており、今読んでいる物語は雪だるまの顔に埋め込まれた遺体の頭部を発見するところから始まった。本は学校に置きっぱなしにしているため1日に読めるページ数は多くはないが、こうしてゆっくりと堪能していくのも悪くはないと感じている。
本を開き、挟んでおいたお気に入りのネコ型の栞を外す。新しい紙と印刷の匂いがゆず子は好きだった。古本屋で買った方が断然安いのだが、新書はまだ自分しか入ったことのない新しい世界へ行ったような気分にさせてくれる。実際ゆず子にとって読書は娯楽というよりも現実逃避法の一つだった。他人の存在を感じさせる古本よりも誰も触れていない新書の方がより現実を覆い隠してくれる気がするのだ。
「コラ島崎!まだ午後の授業あるけぇ戻れ!」
突然廊下から響いてきた怒鳴り声でゆず子の至福のひと時は終わった。全校生徒千人を超えるこの学校の生徒の質はピンからキリだ。喧嘩や不良が起こすトラブルなどは日常茶飯事である。自転車のカギが壊されたり窓ガラスが割れたりするのも珍しい話ではない。
今回もまたその類のことだろうと声のする方へ目をやる。教室前方のドア付近に集まった野次馬達の間からA組の担任河合が男子生徒の腕を掴んでガミガミと説教をしているのが見えた。気にせず読書に戻りたいところだが河合の野太い大声は無視するにはうるさすぎるのだ。
「だって俺デザート食べないと死んじゃう体質だから家帰ってスーパーカップ食べんの」
河合のごつい腕をペシペシと叩くその男子生徒はこの学年では有名人だ。A組の島崎一咲。無断欠席、無断遅刻、無断早退の常習犯として名が通っている。でも髪を染めているわけでも授業妨害をするわけでもカツアゲのような非行に走るわけでもない。好きな時に来て好きな時に帰る非常に気まぐれな人間だとゆず子は認識している。運悪くこっそり帰ろうとしているところを担任に見つかってしまったようだ。
「お前このままだとマジで出席日数足りなくて卒業できなくなるぞ?」
「死んだら卒業もできないから本末転倒じゃん?」
教師に何を言われようが全て笑顔でのらりくらりとかわす彼にはまるで他人の言葉なんて届いていないかのようだ。
「あのなぁ、今頑張るってことをしとかんと大人になってからもできないぞ。あと2クラスだけだから出て帰ろう。な?」
延々と続く河合の説得に島崎がはぁーとわざとらしいため息と共にガックリと肩を落とす。細い身体と目元まで伸びた前髪がどこか放浪者のような雰囲気を漂わせている。
「あーもうしつこいな。分かった、出るよ。出るから離して。」
島崎が掴まれていない方の手を自身の細い腰に当てる。ゴツい体育教師の河合の隣ではより一層その薄い身体が際立って見えた。
「絶対逃げるなよ?」
「逃げないよ~」
河合が手を離した瞬間、「たぶん」と付け加えた島崎がゆず子のいるC 組の教室に飛び込んできた。
キャーと騒ぐ女子といいぞいけとはやし立てる男子の間を風の速さで潜り抜けていく。どこにそんな筋肉がついているのかというほどの俊敏な動きにゆず子が目を見張っていると島崎が叫んだ。
「窓開けて!!!」
彼が向かって来る先にいるのが自分だということに気づいてゆず子の頭の中は真っ白になった。ほとんどの生徒は野次馬をするために席を離れていたので今窓付近にいるのはゆず子だけなのだ。
「えっ、窓?!」
「そう!早く!」
動転したゆず子が言われるがままに窓を全開にすると同時に、島崎は彼女の机を片手でトンと押して身体をふわりと宙に浮かせた。長い前髪が揺れて一瞬だけ彼の横顔がはっきりと見えた。予想外に幼さの残る顔立ちにゆず子が面食らっている間に島崎は窓から外へ身軽に着地した。そしてニッと笑って、
「ごめんね河合センセー!やっぱスーパーカップ我慢できないわ」
慌てて追いかけてくる河合にひらひらと手を振ると茫然と突っ立ているゆず子の方を向いた。ほのかに懐かしいような心地よい香りがした。
「ありがとね、助かったよ」
そう小声で早口に言われ、ゆず子はほぼ無意識にどうもと会釈する。
「島崎ー!戻ってこい!」
ズンズンと窓に迫ってくる河合を見て、んじゃまたねと去って行ったかと思うとあーそうだとひょこっと顔を覗かせた。
「宮野さぁ、かわいい服買う前にその性格直したほうがいいよ~」
それだけ言い残すと今度こそ本当に去って行った。
その後の教室はカオスだった。河合の怒鳴り声、顔を真っ赤にしたマキ、凍り付く女子、面白がる男子、あたふたする松永。
「君もなんで窓開けちゃうかなぁ。アイツ次いつ来るか分らんし今日しっかり話するつもりだったのに。」
ため息交じりに河合に言われ、ゆず子はすみませんと小さく頭を下げた。でも心の内では申し訳なさなんて微塵も感じていなかった。むしろ今日は学校に来て良かったとさえ思えた。あの通り雨のような少年が去った後、ゆず子の心は晴れ渡っていた。先生を振り切って逃げたり、他人に真正面から言葉をぶつけたり、自分には到底できないことを彼は清々しいほど簡単にやってのけた。
私もあんな風に生きれたらよかったな。
そんな想いとせっけんの香りだけがゆず子の心を満たしているのだった。
凡人の放課後
午後4時。終業のチャイムの音と共に生徒たちが一斉に教室から解き放たれる。
部活に向かう者、友達とどこか寄り道しようと計画する者、下駄箱で話し込む者、真っすぐ帰路につく者。ゆず子は一番最後のやつだ。上履きから白地に薄黄色のラインが入ったコンバースのスニーカーに履き替え、駐輪場へ向かう。灰色の重そうな雲で覆われた空を見上げ、雨が降り出す前に帰らなければと足を速めた。
まだ降り出していないというのに既にカッパを着ている生徒がちらほら見られる。家に着くまでに降り出してしまった時に一度自転車から降りてカッパを着るのはかなり面倒くさい作業だからだ。しかしこの季節にカッパを着て20分近く自転車をこげば蒸れて汗だくになってしまうというマイナス面もある。万が一に備えて着たのに結局降らなかった場合なんだか大きな損をしたような気になってしまうのだ。それ故ゆず子はカゴの底に畳んであるカッパの上にカバンを乗せ駐輪場を後にしたのだった。
帰り道はだいたいいつも登校するときと同じ道だ。例外はいつもの道にマキのような生徒がいるときだ。その類の女子達は横広がりで喋りながら低スピードで走る為抜かしずらい上に、ゆず子のようないわゆるボッチを見かけるとわざわざ聞こえるようにダサいだの暗いだの言い始める。性格が暗いのは認めざるを得ないが同じ制服を着ている相手にダサいだなんてよく言えたものだとゆず子は思う。二人以上集まった女よりも恐ろしいものはない。どんなに非の打ちどころがない相手でも彼女たちはボロクソに言ってしまうだろう。スカートの長さ、靴の趣味、自転車のこぎかた、瞬きの回数、バカにできれば何だっていいのだ。気にする必要はないと分かっていてもいざ言われると傷ついてしまう。無駄に傷つきたくないから回避できる場合は回避するということだ。
「よかった。いない」
ゆず子は彼女と同じく帰宅部のおひとり様の生徒が数人いるだけの道を見てホッと息をついた。回避コースは一度大通りに出なければならない為少しばかり遠回りになってしまう。特にこんな天気の日には、いつもの田んぼ沿いの中道を使う方が早く帰れるのでおすすめだ。学校を出た時よりも僅かに薄暗さが増したような気がしてゆず子はペダルをこぐ足を速めた。
家に着くまでの時間の使い方は日に寄る。帰ってからの予定を立てたり、好きな音楽を脳内で再生したり、学校であったことを思い返したり、いろいろだ。今ゆず子の頭の中はあの通り雨ような少年のことでいっぱいだった。
「島崎、、、か」
顔を知ってはいたものの入学してから今まで何の関わりも無かった人間の存在をいきなり意識していることが不思議だった。向こうはたぶんゆず子の顔すら知らなかっただろうし、今日のことだってきっともう忘れてしまっているはずだ。学校にふらりと現れたかと思えばいつの間にか帰っていたり、上手くいかなければ今日のような逃亡劇を繰り広げる彼にとってゆず子は『ただそこに都合よくいたヤツ』の他ならない。しかし実際にそうだとしてもよかったのだ。たとえ彼に顔も名前も憶えられていなくても、彼がゆず子の心を救ってくれたのに変わりはないのだから。
帰宅した直後に雨が一気に降り始めた。ガラス窓に打ち付けられた雨粒がバチバチと音を立ててはじける。
「あーなんとか間に合った」
靴を脱いでリビングに向かう。リビングといっても6畳ほどの部屋に四人掛けのテーブルと椅子、それからテレビがあるだけの狭い空間だ。そもそもこの家はゆず子の祖父が茶道と陶芸を楽しむために建てたもので、庭には陶器を焼く窯まであったという。その窯の重みのせいで家全体が庭に向かって僅かに傾いてしまったそうだ。現在でも廊下にビー玉を置けば庭側に向かって転がっていく。何はともあれこの築40年程の平屋は人が住むことを目的として建てられていない為個室というものが応接室と物置部屋以外に存在しないのだ。幼稚園の頃から周りの友達は自室を与えられて勉強机やベッドを持っているのに比べて、家全体が家族共用のスペースであることを恥ずかしく思い、自宅に友達を招くことに気が進まなかった。今となっては家に遊びに来るような仲の友人もいないのでそういった面ではひとりぼっちなのは良いことなのかもしれない。
リビング横の台所では母の頼子が紅茶を入れているところだった。専業主婦の頼子は夕飯の支度をする前にティータイムをはさむのが日課なのだ。
「あらお帰りゆず子。雨降る前に帰って来れてよかったね。今日はなんだか暑いから冷房入れてるのよ。」
にこにこしながら紅茶に合わせるお菓子を棚から取り出す彼女の言う通り室内はひんやりとして心地よかった。ゆず子もお茶を飲むかと尋ねる彼女に首を振り、冷蔵庫からよく冷えたスポーツドリンクを取り出す。冷房の効いた部屋で暖かい飲み物を飲むという行為はなんとなく矛盾しているような気がするのだ。一気にペットボトルの半分まで飲み干したゆず子を見て頼子がまるでおっさんねとクスクス笑う。紅茶を一口のんで改めてゆず子を見ると、
「今日は学校どうだった?」
彼女は決まってこの質問をする。
「別に普通だけど」
ゆず子もまた決まった答えを返す。放課後の気分はだいたいいつも最悪だが頼子に一々その理由を話すつもりはない。
「そう。まぁ何事もなくてよかったわ」
何事もなかったと言えば嘘になる。しかし頼子が意味するのは事故や怪我など予期せぬ一大事のことだ。日頃クラスメイトから投げられる心無い言葉やゆず子が感じている憤りはその内には入らない。実際ゆず子は自分がいじめに遭っているとは思わない。水をかけられるわけでも体操着をズタズタにされるわけでも金銭を要求されるわけでもなく、ただ少し傷つく言葉をかけられるだけなのだから。もっと酷い目に遭っている人間がいる中で自分には不満など言う資格はないのだと自負している。自分よりも楽しい人生を送っている人間も自分より辛い人生を送っている人間もどちらもたくさんいるのだから自分はその間、つまり平均だという結論に辿り着く。故に普通という言葉が最も適当なのだ。
家にはまだ頼子とゆず子の二人だけだったので着替えは座敷で行った。それぞれ8畳と6畳の和室の間は元々襖で仕切られていたのだがそれを取り払って一つの座敷として使用している。そこにはゆず子と妹のりか子の服が収納されている木製のタンスやコタツ、背の高い本棚などが置かれている。そして障子を隔てた向こう側の廊下には二人の勉強机がぴたりとくっつけて並べられている。初めてこの家に入る人間はそのプライバシーの欠片もない造りを不思議に思うはずだ。ゆず子自身そろそろ自室というものが与えられても良いのではないかと思っているが、父がリフォームをすると言い出してからもう5年以上経つのでもはや期待はしていない。
机とセットになった小棚の上にカバンを置き椅子に腰かける。今日は普段よりも気分が良い。あの島崎という少年のおかげだ。明日学校に彼は来るだろうか、そんなことをふと思う。そして、今日は自分を慰めなくても大丈夫だとも。
ゆず子には誰にも言っていない秘密がある。それは彼女が随分前から自慰をしているということだ。随分前とは文字通り、彼女がまだ3つか4つのときからだ。最初は特に意味なんて無かったのだと思う。なんとなく触って気持ちよかったからするようになったのだろう。それがどういう行為なのか知らないながらにいけないことをしているという感覚はあった。自分はきっとおかしいのだと、普通の人がしないことをしているのだと思っていた。
初めてマスターベーションという言葉を目にしたのは中学生になってからだった。保健の教科書の1ページにそれは突然現れて、説明文を読んだゆず子は自分が長年している行為に名前と目的があることを初めて知った。それでもゆず子にとってその行為の意味するものが解放であることは変わらなかった。ただ快楽を追い求め、達するまでの数分間嫌なこと全部を強制的に頭から締め出すための儀式はゆず子が自分を保つ為に必要な習慣なのだ。そこに性的な要素など必要ない。ほんの一時全てを忘れられたらそれだけでいいのだ。
しかし今日はむしろ忘れたくないと思った。いつもなら椅子からずり落ちそうな恰好でその行為に及ぶところだが、手っ取り早く宿題を片付けることにした。そして明日を楽しみに感じている自分には気づかないふりをした。
お約束
べつに奇跡が起こるのを期待しているわけじゃない。何か大きなことを願っているわけでもない。ほんの少しいいことがあればなぁとささやかに願っているだけ。そのささやかな願いさえも叶わないのがこの世界のお約束なんだろうか。
次の日もまたその次の日も島崎は学校に来なかった。用も無いのにA組の前を通って彼がいないか確認するのが日課になってしまった。もう今日で4日目だ。会って何がしたいというわけでもない。むしろ会いたいというよりも見たいという表現の方が正しいのではないかとすら思う。ゆず子にとって島崎はアイドルのような存在に近かった。たとえ言葉を交わすことが出来なくても、遠くから見ることしかできなくても、その存在は大きくて生きる希望にさえなってくれる。最も島崎からすればそんなこと知ったことではないが。
つまらない授業がますます退屈に感じる。
「この文法は英語が得意な人ほど間違えやすいからね」
あからさまにゆず子の方を向いて微笑む松永が黒板を指しながら言う。癪に障るが聞こえなかった風を装いながらノートを取る。そして考える。もし今自分がいきなり立ち上がって窓から出て行きそのまま家に帰ったらどうなるかを。きっと清々しい気分になるだろう。でも翌日教室に入るのがとてつもなく恐ろしいはずだ。待ち構えたサルの群れの餌食になるのは目に見えている。
同じ行動でもする人間が違えば周りの反応も違ってくる。結局は何をするかが問題なのではなく、その人の人望やカリスマ性によってその行動は称賛あるいは否定される。残酷だが学校という場所ではそれが顕著に現れる。同じお笑い芸人のモノマネをしているのにひとりはウケてもうひとりはしらけてしまう光景はよくあるだろう。同じ意見を出しているのにAさんが言うとスルーされるのに、Bさんが言うとみんなが賛成するのもそうだ。ゆず子がゆず子である限り周りからは反対、否定、拒絶が返ってくる。そしてそれらを受け止める勇気も無視する自信も無く、ただただ自分に見合った行動だけを取り続けるしかないのだ。
「はーい、今日の授業はここまでね。来月は期末だから早めに復習始めるんよ!」
松永の声にゆず子の思考は打ち切られた。
あと1ヶ月で夏休みが始まる。楽しい予定なんてなくても学校に来なくて良いというだけで充分だ。でも学校がなかったら島崎に会うことはないのかとふと思う。
掃除時間、机を教室の後方に運んでいるとマキたちがゆず子を取り囲んだ。いかにも人を小馬鹿にしたような見下しているような目でジロジロ見られ固まってしまう。
「紺野サンまた10時間お勉強するの?」
「マジメちゃんじゃん」
「目泳いでるよ?どこ見てんの?」
「てかウチ紺野サン見てるとなんかイライラするんだけど」
「うわかわいそー!分かるけど」
もしも。もしも今自分がマキにビンタをお見舞いしてやったらどうなるだろう。群れの笑い声をBGMにそんなことを考える。無理やりにでも別のことを考えなければ投げ付けられる一語一句が棘のように心臓に刺さって抜けなくなってしまう。高鳴る鼓動、掌に伝わる衝撃、バチンと鳴る音、目を見開くマキの表情、一つ一つを鮮明に想像する。すると本来感じるべきではない歪んだ快感が胸の奥に広がっていった。
マキたちはまだ何か言っている。聞きたくない。聞こえない。
何か捨て台詞を吐かれた気がした。
ゲラゲラ笑う声が遠ざかっていく。終わったみたいだ。
私はどんな顔をしてたんだろう。多分愛想笑いを浮かべていた。それが私が紺野ゆず子である限りすべきことであって、決して自分も島崎のようになれるのではなんて淡い期待を抱いてはいけない。寝ても覚めても自分にしかなれない。それがこの世界のお約束なのだから。
期末テスト
あの日から一週間以上経っても島崎の姿を学校で見かけることはなかった。
6月下旬。まだまだ続く梅雨。このまま7月になって夏休みが始まって9月になるまで彼は来ないかもしれないという気もする。
『ちょっと待って。ゆず子、あなたここ最近彼奴に執着しすぎてない?』
心の中で自分自身に問いかける。否定はできない。ふと気が付くとあの日のことを思い返してはボーっとしてしまっていることが多々あるのだ。
『もうすぐ期末だしこのまま彼奴が来ない方が勉強に集中できるんじゃない?』
それはそうかもしれない。このまま時間が経つに任せて彼のことなんてどうでもよくなってしまった方がいいのかもしれない。受験生である身、うつつを抜かしている暇まどこにもないのだから。
コミュ障でなんの特技もない人間はせめて勉強くらい出来なければならないというのがゆず子の持論だ。だからテスト週間中週末は10時間勉強に費やすし、授業と授業の間の休み時間は問題集を解くのに使う。その成果があって中1の頃から各教科5位以内に入っている。今回も手を抜くつもりは一切ない。
『島崎のことはきれいさっぱり忘れよう。ろくに話したことも無いヤツのことを考え続けるなんておかしいんだ。』
自分に向かって断言する。
『今日からただの冴えないガリ勉ボッチ受験生ゆず子に戻るんだ。』
***
平日は帰宅してから5時間、週末は10時間ひたすら勉強した。
スケジュール表には平日2時間、週末5時間と嘘を書いた。また松永のせいで制裁を食らうのはごめんだからだ。
努力と結果は必ずしも比例するわけではない。ゆず子の半分以下の勉強時間でゆず子よりも良い結果を出す人間だっている。純粋に不公平だと思う。それでもゆず子はこれ以上凡人になり下がりたくなかった。何か一つでも他人に勝るものを持っていたかった。1位になることはできなくてもせめて2番目になりたかった。そして良い高校、良い大学に通って良い会社に就職して人よりも良い人生を送りたいのだ。その為なら嫌な学校もつまらない勉強も我慢できる。
***
手ごたえはあった。実際結果はとても良かった。国語2位、数学3位、英語2位、科学2位、、、総合順位2位。1位はないものの今回もまたトップ5に入ることができた。
「聞いた?B組の浅見君全教科1位だって!」
休み時間の教室に女子の興奮した声が響く。
聞き覚えのある名前に本のページを捲るゆず子の手がピタリと止まる。前にマキが浅見を引き合いに出すことでゆず子をこき下ろしたことがあったのでその名前は記憶に残っていた。
耳に否応なく流れ込んでくる情報からすると彼にとって成績は彼を構成する素晴らしい要素のほんの一部に過ぎないことが分かった。
「アイツ原宿でスカウトされたらしいよ」
「顔はいいし運動も勉強もできるし」
「金持ちで家すげーデカいし」
「それなのに全然偉ぶらなくて」
「まさに完璧」
そんな会話を聞きながら、天才というものは本当に存在するんだな、なんて能天気なことを考える。悔しくないと言えば嘘になる。でも自分には浅見のような人間を超えることなんて到底無理だという諦めの方が強かった。
小さく伸びをして窓から外を見やると相変わらずどんよりと曇った空がこちらを見下ろしている。なんとなく今の自分の心情を表すような灰色に少し可笑しくなる。誰かがふざけて窓に張り付けたてるてる坊主に向かって「もういっその事土砂降りにしてよ」とゆず子は小さく呟いた。
雨乞い(1)
てるてる坊主はゆず子の願いを聞かないことにしたようだ。下校時間になって空は相変わらず曇ってはいるものの雨が降り出す気配はない。
ゆず子は自転車のカゴに教科書やらノートでずっしりと重くなったカバンを乗せた。カッパはもちろんその下敷きになっている。スタンドを蹴り、自転車を押して校門まで歩く。ゆず子の通う学校は小高い山の上にある為校門を出ると急な坂が下の道路まで延びている。安全のために坂では自転車を押すのが規則となっていて、下りはまだしも上りは脚が悲鳴を上げてしまう。特に夏はその坂のせいで登校するだけで汗だくになってしまうのでたまったものではない。この学校の運動部が県大会やら全国大会で優勝しているのは日頃からこの鬼のような坂を走らされているからだとゆず子は勝手に解釈している。
坂を下りながらグラウンドを見下ろすとサッカー部の青いユニフォームがボールを追いかけるのが小さく見えた。同じ趣味を持つ者同士が集まって賑やかそうにしているのを見て楽しそうだなとは思う。実際ゆず子も2年の一学期までは美術部に所属していた。幼い頃から絵を描くのが好きで、美術部に入部することはゆず子にとってとても自然なことだった。しかし好きや楽しいという言葉だけで完結できないのが中学生の性なのだろうか。同学年の部員の間で対立が起こった結果、中立の立場にいたゆず子がのけ者にされるという形で事が収まったのだ。
ある日部室である美術室に向かうといつもゆず子が座っているテーブルで対立していたグループが談笑していた。ようやく仲直りができたのかとほっとしたのもつかの間、彼女たちが醸し出す妙な空気をゆず子は訝しく感じた。近づいて声をかけても誰も此方を見向きもせず喋り続ける様子を見て何が起こっているのかを察した。『どちらの味方にも付かなかったお前の居場所はどこにもない』と無言通達されているのだと。共通の敵を見つけたことで対立は収まりその敵を制裁するために共に戦う仲間となったわけだ。
クラスでは浅い仲の友人が数人いる程度のゆず子だったが部活には親友と呼べる間柄の子たちがいて、先生の愚痴や好きな漫画など他愛のない会話をしながら絵を描く時間が好きだった。しかしそれもなくなってしなった。一人で6人掛けのテーブルに座って解散時刻まで絵を描き続けるのは辛かった。それでも最初の1ヶ月は頑張って顔を出し続けたし、時間が経てばまた友達に戻れるのではという希望があった。しかしその希望も翌月には消え去りゆず子はほぼ幽霊部員状態になっていた。退部届を提出したのはそれからほどなくしてのことだ。理由は受験に向けて本格的に勉強を始めたいからだと伝えた。
そういえばあの日はこの坂道を下りながら少し泣いたんだったと思い出す。涙を見られないようにいつもはハンドルに引っ掛けたままで被らないヘルメットを目深に被って思い切り打つ向いて歩いたことがあった。あれからもう1年が経つのだと思うと感慨深い。3年になってかつての『親友』のうちのひとりと同じクラスになった時はどう反応すれば良いのか分からなかった。しかし向こうがあからさまにゆず子を避けるので此方からも声をかけることはしていない。ゆず子の中ではもう終わったことだという解釈だが向こうはまだ現在進行形で敵意を持っているのかもしれない。あるいはただ単に気まずさから避けてしまっている可能性もあるがどちらにせよ自分から話かける勇気は無い。
あの時自分がどちらか一方についていれば良かったのだろうかと考えてみる。自分の優柔不断さが自分にとって最悪の結果を招いたのは確かだ。しかし今あの時に戻れたとしても結局どちらかだけを選ぶことなんてできない気がする。どちらも大切な友達だからという理由が全てなら良いが、本当のところは嫌われるのが怖いのだ。それで皆にいい顔をした結果がこれだ。自業自得とは正にこのことだなと自嘲する。
部活の一件があってからゆず子は自分のような人間はひとりきりでいる方が自分のためにも周りのためにもなると考えるようになった。友達がいればなあと思うことは学校生活において多々ある。ひとりぼっちでなければマキのような輩が絡んでくることもないのかもしれない。それでもまたあの時のように傷つくことになるかもしれないと考えると怖くなるのだ。そして人と距離を取るようになり、次第に人への接し方自体が分からなくなっていった。初対面の人にはどう話しかけるんだっけ?こういう時はなんて言えばいいんだっけ?そんなことを自問することが多くなった。元々コミュニケーションは得意な方ではなかったがここまで苦手意識を持ったのは初めてだった。
「高校生になったら変われるかなぁ」
坂を下りきったところで空を見上げる。厚い灰色の雲が「無理に決まってんだろ」と言うかのように一面を覆い隠していた。
「そうかもね」
呟きながらサドルにまたがりペダルを踏む。今日も回避コースを使う必要はなさそうだと判断しいつもの中道へ自転車を走らせた。
アスファルトの長い一本道をひたすら進むと踏切があり、それを越えると墓地横の車がやっと一台通れるくらいの細い道に入る。そこを抜けると道幅も増して右手に雑木林、左手には一面の田んぼが広がっていてこんな天気でさえなければなかなかの眺めだ。
ゆず子の家はそこから田んぼの中へと延びるあぜ道を通って少しした所にある。コンクリートで舗装されてはいるもののでこぼことした道にはタニシやらザリガニやら踏まれて千切れたミミズやらの死骸が転がっていて気持ち悪いが最短距離で帰るためには仕方がない。
ここ最近降り続いた雨のせいで田んぼの水かさが大分増している。茶色く濁った泥水の上にポツンと一粒の水滴が落ちて波紋が広がったのが見えた。
「え、降り出した!?」
一粒、また一粒と落ちてきては水上に輪を作っていく。本格的に降り出す前に帰らなければとゆず子はペダルをこぐ脚を速めた。
ふと前に目をやるとゆず子のいるあぜ道から右へと延びる舗装すらされていない小道が延びており、その分岐点に人が立っているのが目に入った。どうやら二人いるらしい。自転車を小道に入ってすぐの所に止めて立ち話をしているようだ。近づくにつれてその二人が少年であるということと制服からして同じ学校の生徒だということが分かった。向こうもゆず子の存在に気付いたらしく端に寄って道を空ける。早く通り過ぎてしまおうとスピードを上げる。
二人の前に差し掛かったその時、あのせっけんの匂いがした。
はっとして雨に濡れないよう俯いていた顔を上げる。そこにはずっと探し求めていた少年が当たり前のように立っていて、その長い前髪の隙間から覗く瞳がゆず子を見つめていた。なぜよりにもよってこのタイミングなのだろう。この1ヶ月間まるで消えてしまったかのようにいなかったのになぜ今突然現れることにしたのだ。ゆず子の頭の中をそんな疑問が巡る。一瞬の出来事なのにやけにゆっくりと感じて、彼が何か言おうと口を開きかけたように見えた。
次の瞬間ゆず子の視界がぐらりと傾いた。
バシャン!とプールでよく耳にするような音が聞こえたかと思うとヌメヌメとした感触が掌に伝い、全身に生温い液体がしみ込んでくるような不快感が広がった。脚の間から覗く緑色を見てゆず子は自分が田んぼに落ちたのだと理解した。急いで起き上がろうとすると靴がぬかるみにはまって上手く抜け出せない上に、力を入れると右脚の脛に鈍い痛みが走った。どうやら落ちるときに何かしらで擦りむいてしまったようで痛みの割に派手に流血している。自転車も見事に泥水の中で横倒しになっていた。
「大丈夫?」
目の前にいきなり差し出された手にゆず子がびくりとする。
「立てる?」
たくし上げたズボンの裾から伸びた綺麗な細いふくらはぎが目に入る。甘ったるい泥の匂いに混ざって彼の香りが鼻をかすめた。
「ごめん、ちょっと引っ張るよ」
そう言って彼はゆず子の両手首をぐいと掴んで上に引き上げる。立ち上がれたはいいが途端に走った脚の痛みによろけるゆず子は背中に回された腕にしっかりと支えられた。学校では小さく見えていた彼の背が自分よりも少しだけ高いことに気づく。彼の顔がすぐ目の前にあると思うと急に恥ずかしくなってしまい、泥と血にまみれた自分の足元を見下ろすことで視線を逸らした。
彼の方も女子の身体にやむおえずとは言え触れてしまっていることに気づいて少したじろいだ気配が伝わってきた。ゆず子がバランスを保てていることを確認して背中に回していた腕を離し、片方の手でゆず子の手首を遠慮がちに握るとあぜ道へ向かってゆっくりと歩を進めた。
ゆず子は水から上がって初めて彼が裸足であったことに気づいた。黒のスニーカーが道の端に二足並べられていてその中に靴下が入っているのが目に入った。コンクリート上で露わになった彼の足の指の間には泥が入り込んでおり、脹脛にも茶色の点が飛び散ってしまっている。
「あ、あの、、、ありがとう」
思ったよりもふり絞るような声になってしまい少し焦る。
正直こんな全身から泥水を滴らせている姿を見てほしくなどない。一方的にとは言え待ち望んでいた再会をこんな形で遂げることになるだなんて予想の斜め上を行き過ぎている。簡単に言えば最悪の一言に尽きるシチュエーションだ。事実ゆず子としては遠くから眺めるだけで充分だったのだ。出来ることなら今すぐまた田んぼに飛び込んで泥の中に隠れてしまいたいとすら思う。
有難いことに彼はゆず子の方を振り向かなかった。そしてそのままただ一言呟いた。
「あの時のお礼」
予期していなかった返答に、へ?と間の抜けた声を出してしまう。
「窓、開けてくれたでしょ?」
ちらりと此方を見やる横顔にはやはり幼さが残っていて、あの日とおなじだとゆず子は思った。彼に覚えられていたことへの驚きと嬉しさが顔に出てしまいそうだったのでそっぽを向いて「うん」と一言返した。
頬にボトリと大粒の雫が落ちたのを合図に、さっきまで小降りだった雨が一気に土砂降りへと変わっていく。むしろこの状況なら身体にこびりついた泥が流れて良いのではないかと開き直ってしまう。降り注ぐ生暖かい水滴が怪我した脚の痛みも泥だらけの姿を晒す羞恥心も全部麻痺させていくような気がした。
『結局叶えるんじゃん』
ゆず子は心の中でてるてる坊主に言ったのだった。
雨乞い(2)
「あ!自転車!」とゆず子は声を上げた。
島崎との思いがけない再会で頭がいっぱいになっていたゆず子の意識が現実へと戻ってきた。慌てて後ろを振り返るとそれは田んぼの中ではなくあぜ道の端に停められていた。カゴに乗せていたカバンも茶色く染まってはいるもののちゃんとそこにあった。
その自転車の横に少年がひとり佇んでいる。ゆず子が田んぼに突っ込む前まで島崎と立ち話をしていた少年だ。どうやら彼が泥水から自転車を引き上げてくれたらしい。見たことのない顔だとゆず子は思った。すらりと背が高くて色白で、テレビに出ていてもまるで違和感のない風貌だ。もっと言えばこんな田舎の田んぼ道にいることの方がおかしいルックスである。雨に濡れて斜めに分けた前髪が頬に張り付いているがそれはそれで絵になっていてファッション誌の表紙のように見える。
ゆず子は自転車の側へ行き、見知らぬ少年にぺこりと頭を下げた。
「あの、自転車、ありがとうございました。」
そんなゆず子に少年は柔らかく微笑みながら首を振り、それから心配そうな表情でゆず子の未だ血の止まらない脛に目をやる。
「ううん。それより脚、大丈夫?」
その洗練された仕草一つ一つに思わず見入ってしまいそうになって慌てて頷く。
「家すぐ近くなんで大丈夫です。ほんとに助かりました。ありがとうございました。」
同級生なのだからタメ口で良かったのかもしれないと言ったあとで思ったが、初対面の相手への接し方を一々思い出している余裕は無かった。
右脚を上げるのは辛いので左脚からサドルにまたがる。
「じゃあ、、、帰ります。お世話になりました。」
最後に二人にもう一度お礼を言ってペダルに足をかけた時後ろから島崎に呼び止められた。
「お前、名前なんていうん?」
黒目がちな瞳がきらりと輝いたように見えたのは多分雨粒のせい。
「紺野」
自分でもぶっきらぼうな答え方だとは思ったが他にどんな言い方があるのか思いつかない。男子は女子を名字で呼ぶのが一般的だから下の名前まで言う必要はないだろうし、加えてゆず子は自分の名前を好んでいないので極力名乗りたくないのだ。
「下の名前は?」
ゆず子の心を見透かしたかのように島崎が間髪入れずに尋ねる。
「、、、ゆず子」
渋々と答えるゆず子を島崎は真顔で見つめながら「ふーん」と興味のなさそうな相槌を打った。そんな島崎に「興味が無いなら初めから聞くなよ」とゆず子は胸の内で文句を言う。露骨に嫌そうな顔をするゆず子が面白かったのか島崎が困ったように笑った。
「そっか。分かった。じゃあまた明日な、ゆず子」
そう言って今度はいたずら好きな子供みたいな満面の笑顔を向けられて面食らったゆず子はただコクリと頷くことしか出来なかった。そのあとは頭の中が真っ白になってよく覚えていない。多分無心で自転車をこいだのだろう、気が付いたら家の前にいた。自転車を停めてフーと大きく息を吐きだす。
『彼奴、、、ゆず子って言った。しかもまた明日って、明日も会えるってこと?』
思い出すだけで脳みそが沸騰しそうだ。というよりもうしている。
制服が泥だらけになっていることも脚から血がでていることも最早どうでも良くなっていた。
「明日か、、、」
ボロボロの姿で笑顔を浮かべるゆず子を見た母が悲鳴をあげるまであと5秒。
噂の少年
サドルに乾燥してこびりついた泥を手で払う。薄茶色のそれは砂のように細かくなっ
てはらはらと地面に落ちた。昨日は制服の汚れを落とすのやら怪我の消毒やらで手一
杯になり自転車の状態を確認するほどの余裕が無かった。まるでチョコレートでコー
ティングされたかのような有様をしている元々は白かった自転車を前にゆず子は溜息
ををついた。まだ学校が始まるまでに時間はあるが、少し遅れれば駐輪場が込み合う
のでそれを避けるために早めの登校を心掛けている。ひとまず制服や肌に直接
当たる部分の汚れだけを払ってサドルにまたがった。右脚に張られた大きな絆創膏の
せいで曲げ伸ばしする度に突っ張ったような感覚がある。怪我は二日目が一番痛むと
いうのは本当だなとしみじみ感じながらあまり力を入れないようにペダルをこいだ。
田んぼ道に入ると昨日ゆず子が落下した所に生えていた稲がへちゃげているのが見え
て申し訳なさと昨日の出来事は本当だったんだという喜びが混ざり合う。島崎に掴ま
れた手首を見つめてゆず子の頬がほんのりと赤みを帯びた。それまでゆず子にとって島崎は憧れの対象ではあったが彼を異性として認識したことなどなかった。今もまだ自分が彼に対して抱いている気持ちがどういうものなのかはっきりとしていない。この先彼と友達やそれ以上の関係になるなど想像することすら難しい。もしかするとただ彼が自由奔放にのらりくらりと生きていく様を傍観していたいだけなのかもしれない。学校よりもアイスクリームを優先して、先生を出し抜いて、歯に衣を着せずに物を言う彼をもっと見ていたい。それだけのことなのかもしれない。そうすることで自分も彼の人生を生きているような錯覚に陥って、気持ち良くなって、また明日も生きてみようと思いたいのかもしれない。
「そう、これは恋とかそういうんじゃない。」
うんうんと一人頷くゆず子を正面から来た同じく自転車に乗った高校生が不思議そうに見やりながら通り過ぎて行った。
あぜ道を抜けるころには肌が軽くベタつくほどに気温が上がり、久々に顔を見せた青空がなんだか眩しく感じる。坂道の手前で自転車を降り、登校して来た他の生徒たちに混ざって校門まで歩く。自分の自転車だけやけに汚いのが恥ずかしい。おまけに脚にはこの歳に似つかわしくない大きさの絆創膏だ。顔を隠すように俯きながら坂を上がって行くと校門の方から「おはようございまーす」と元気のいいあいさつが響いてきた。坂の両側に分かれて20人ほどの生徒が登校して来た生徒に向かってあいさつをしているのが見える。
『うげ、、あいさつ運動だ。』
あいさつ運動とは名前の通り、定期的に各クラスの学級委員長が校門前に立って挨拶をする取り組みのことである。もちろんゆず子たちもされるだけではなくちゃんと返さなければならない。しかし多数の生徒に一斉に挨拶されて一体どこを見ればいいのかわからなくなる気まずさ故にゆず子はこの運動が苦手なのだ。
「おはようございまーす」
一斉に自分に向けられる声にへこへこと会釈するような動きをしながらやり過ごそうとする。
「紺野さんおはよう」
急に名指しされてハッと顔を上げると、ゆず子のクラスの学級委員長である森野あやめが微笑んでいた。彼女はゆず子と個人的に仲が良いわけではないがクラスメイトとして気にかけてくれているような節がある。体育の授業終わりに「疲れたね」とか、給食当番が一緒になった時に「このパン私好きなんよ」とか、会話が苦手なゆず子が相槌ひとつで返せる内容で話しかけてくる。気を遣っているのか無意識なのかは分からないが、誰もが認める優しい理想のリーダーだ。リーダーといってもぐいぐい引っ張っていくのではなく背中をそっと押してくれるような、一言で言えばC組の母なる存在だ。どちらかと言えばゆず子と同じ物静かで自己主張しないタイプなのにマキたちとも上手くやれているのは誰にでも平等に親切で暖かみのある性格故だろう。ゆず子も彼女に対して好印象を抱いているが、ゆず子の中の彼女は「いい人」というよりも「器用な人」という言葉で表現する方が的確である。他人から見下されるほどの欠点も、妬まれるほどの利点も無く、何をやらせても要領良くこなせる彼女がゆず子は羨ましかった。
「お、おはよう」
さっきから繰り返している会釈を森野に向かってする。笑顔を作ったつもりだが口元が引きつってしまっていたかもしれない。ゆず子は気恥ずかしさから再び俯いて駐輪場まで向かった。
部活の朝練で早くから来ている生徒の自転車があるものの駐輪場はまだガランとしている。自転車を停める場所は学年とクラスごとに分かれており、3年C組のスペースにはまだ一台も来ていなかった。ゆず子はできるだけ屋根を支える太い柱のすぐ横を確保することにしている。真ん中あたりに停めれば両脇の自転車のハンドルやらペダルやらが食い込んできて帰るときに一苦労するからだ。
自転車を停めてカバンを肩にかけた時、C組の隣のスペースに自転車を押してやって来た人物を見てゆず子は脚を止めた。昨日島崎と一緒にいた見知らぬ美少年だ。向こうもゆず子に気づいてあ、という顔をする。何か話しかけるべきなのかゆず子が迷っていると、
「おはよう。昨日は大変だったね。あの後大丈夫だった?」
自転車を停めながら少年が尋ねる。
「あ、うん。なんとか、おかげさまで。」
「よかった。制服も綺麗になったみたいだね」
「うん。お母さんにびっくりされたけど」
「確かにあの恰好はすごかった」
「笑わないでよ。汚れ落とすの苦労したんだから」
「ごめん。でも可笑しくって」
クスクスと思い出し笑いする少年につられてゆず子の口元もほころぶ。
「今日、島崎は?」
二人並んで校舎へと歩きながら気になっていたことを聞いてみる。
「多分まだ寝てるんじゃないかな。彼奴朝に弱いから。」
少年がいつものことだというような顔で答える。
「そっか。」
また明日というのは単なる社交辞令だったのかもしれない。がっかりしたのを悟られないよう何か言おうとしたが少年が先に口を開いた。
「紺野さん、だっけ?一咲とは知り合いなの?」
知らない名前が出たことに一瞬頭の中が疑問符でいっぱいになったが状況からして島崎のことだと判断する。
「う、うん。知り合いっていうほどの知り合いでもないけどね。」
「そうなんだ。彼奴が女の子と話してるとこあんまり見ないから珍しいなと思って。」
「、、、そっか。」
口調に喜びが出ないように素っ気ない返事をする。
「よかったら仲良くしてやってよ。彼奴学校ほとんど来ないから友達少ないだろうし。」
少年が苦笑しながら言う。
「なんか、、、お母さんみたい。」
思ったことがそのまま口から出たことにゆず子は驚いた。学校で誰かとこんなたわいのない会話をするのはいつぶりだろう。何かまずいことを言ってしまったかもしれないと慌てて少年の顔を見る。
「え、そう?」
何も気にして無さそうな、むしろ面白がっているような笑顔が返ってくる。
「うん」
戸惑いながら頷くゆず子に少年がわざとらしくむくれた顔をする。
「せめてお父さんにして。」
「え、そこ?」
思わず吹き出してしまうゆず子を見て少年も一緒になって笑う。
靴箱で上履きに履き替えて校舎に入る。
「そういえば—―――」
「浅見くーん!」
何組なの?と続ける前にゆず子が一番聞きたくない声がそれを遮った。マキの群れがこちらに向かって廊下を走ってくる。浅見ということは噂のB組の天才にでも会いに行くのだろう。せっかくだから自分もその面を拝んでやろうと後ろを振り向いてみる。しかし立ち話をしている他クラスの女子しか見当たらない。改めて前を見てもゆず子と少年からマキまでの間には誰もいない。
まさか!!!
身体が逃げろと危険信号を出しているが遅かった。
「おはよう浅見くん」
マキを含む女子4人が少年の周りに集る。その圧に少年が少し引き気味におはようと返す。
『オマエかーい!!!オマエが浅見かーい!!!』
心の中で全力のツッコミを入れてしまう。言われてみればそうだとゆず子は思い返す。芸能界にいる方が自然なほどに整った容姿、良い性格、自転車を停めた場所と靴箱の位置からしてB組。ここまでの情報があったのに慣れない会話に気を取られて今の今まで気が付かなかったのだ。
「え、何?なんで紺野サンが浅見くんとおるん?」
取り巻きの一人がゆず子の顔を覗き込む。マキたちはバスケ部員ということもあり皆基本的に背が高くその分威圧感が凄い。首元にボディースプレーを吹いているのか甘ったるいバニラの匂いが鼻孔を刺した。
「え、えっと、駐輪場で会って、、、」
恐怖で締まる喉元から必至の声を絞り出す。
「そーなんだー。紺野サンガリ勉のくせに馬鹿だから浅見くんに勉強教えてもらうことにしたのかと思った」
マキが周りにも聞こえるほどの声で言う。
「てか紺野サンてそういうの興味ありませんみたいな顔してちゃっかり男引っ掛けるタイプだったんだ」
「そ、そんなこと―――」
「色気づいてんじゃねーよ!あんたみたいなのが周りうろついてたら浅見くんも迷惑なんだよ。」
「やめろよ!」
浅見が声を上げるがそんなことで止まるマキたちではないことをゆず子は知っている。島崎が朝寝坊することが浅見にとって日常であるように、マキに虐げられることは自分にとっての日常なのだとゆず子は思う。そしてこれ以上その『日常』を心優しい彼に見せたくはなかった。もっと言えば見られたくなかった。これ以上惨めな気持ちになりたくなかった。
「ごめんなさい。もう近づかないから。」
それだけ言うのがやっとだった。マキの顔も浅見の顔も見るのが怖くて、下を向いたまま教室へ走った。
後ろから群れの笑い声が聞こえた。浅見が何か言ったような気がした。
誰かが廊下を歩く音。教室の引き戸を開ける音。椅子と床が擦れる音。
『明日が楽しみ?思い上がるなよゆず子。これが現実じゃん。』
この世の全ての音がそう言っているような気がして、ゆず子はそっと耳をふさいだ。
異世界転生妄想
机に突っ伏したゆず子は己の運の悪さを嘆いた。こんなことになるなら自転車の泥を全部落としてから来れば良かったなと思う。そうすれば浅見と出くわすこともマキたちに絡まれることも無かっただろうと。それと同時に一つの疑問がゆず子の頭の中に浮かぶ。
『何で優等生の浅見がよりにもよってあのチャランポランな島崎と一緒にいたんだろう?』
二人に何か共通点があるようには見えなかった。強いて言うなら男だということくらいだ。「男はち〇こという魔法の一言で親友になる」と昔誰かが言っているのを聞いたことがあるが、島崎はともかく浅見はそんなことを口にしそうにない。
『あーもうどうでもいいや。』
ごちゃごちゃと思考しても分かるはずもない。それにもうあの二人に関わるべきでないのはさっきのマキたちの態度からして一目瞭然だ。マキのことだ、いつもボッチのゆず子が誰かといれば「調子に乗っている」という理由で攻撃の的にしてくるだろう。それが浅見や島崎のようなちょっとした有名人であれば尚更だ。
もう少し話してみたかったな、と名残惜しく感じるが、学校という世界を生き抜くには自衛が何よりも大切になってくる。マキのような攻撃に特化した人間の逆鱗に触れないよう、最下級層らしく大人しく言われたことに従うしか道はない。
のそのそと机から頭を上げると、前の席に最近流行りの異世界転生小説が置かれているのが目に入る。表紙にはいかにもオタクらしい少年と、派手な髪色をした少女たちが描かれている。その内容は全く知らないがおそらくこうだとゆず子は勝手に想像する。
「ありとあらゆる攻撃を仕掛けてくる敵。それに挑む主人公に特別な力はない、つまり丸腰。」という設定はいつだって「しかし」と続くのがお約束だ。「しかし、主人公は死んでもう一度やり直すというチート能力を使い、大切な仲間を守るために何度だって立ち上がる!」
都合の良いことが起こりやすいのが小説の世界なら、その逆が現実ということだろうか。チート能力も守りたい仲間も守ってくれる誰かも持ち合わせていないゆず子はひたすら死なないよう防御に徹するしかない。
初めは静かだった教室も、登校してきた生徒たちの声で騒がしくなり始めていた。夏休みを目前にしてどことなくそわそわとした雰囲気が落ち着かない気分にさせる。あと5分でチャイムが鳴るというところでマキたちが教室に入ってきた。浅見はずっと彼女たちに捕まっていたのかもしれないと思うと少し気の毒になる。おそらく彼は彼でゆず子のことを憐れに思っただろう。田んぼに落ちた翌日には朝っぱらから罵られる可哀そうな奴だと思ったに違いない。
マキが突き刺すような視線を向けてくる。
身体に黒い穴がブスブスと空いていくような気がした。このまま真っ黒になって消えてしまえば楽になれるだろうか。
そして目を覚ましたらそこは異世界で、仲間に囲まれ、チート能力でやり直しまくって、現実世界に戻っても心が成長したからマキなんてもう怖くない。
『なんて、あるわけないか。』
現実を閉めだすように、ゆず子はまた机に突っ伏したのだった。
いびつな二人
放課後になってもまだ青空がは広がっていた。
駐輪場に入ったゆず子は真っ先にB組の駐輪スペースに目をやる。そこに浅見がいないことを確認すると、素早く自身の自転車を回収してその場を後にした。ここでまた彼に出くわして、それをマキの群れに見られたらおしまいだ。自然と校門へ向かう足が速まっていく。右脛の突っ張ったような感覚に怪我をしていることを思い出す。坂が残り四分の一ほどになったところで自転車に乗って駆け下りる。見張りの先生がいない日の特権だ。
急いで学校を出たのでまだいつもの中道に生徒の姿は無かった。ひたすら真っすぐに延びるアスファルトを眺めながら、島崎は何をしているのだろうと考える。そしてそんなことを無意識に考えている自分に気づいて溜息をついた。もう二人には関わらないと決めたはずなのに、心のどこかでもっと彼らのことを知りたいという欲が湧いてくる。禁じられたことをしたくなるのが人間というものだ。だからゆず子は後ろから自分を呼ぶ声に聞こえないふりをし続けることができなかった。
「やっと追いついた!紺野さん自転車こぐの速すぎ!」
浅見が息を切らしながら言う。追いつかれないようわざと速くこいでいたのだから当然だ。ちらりと横目で見やると、思わず二度見してしまいそうなすっと鼻筋の通った横顔がすぐそこにあった。ゆず子の汗ばんだ額に張り付いた前髪とは対照的に、彼の斜め分けにされた栗毛は柔らかく風になびいて涼しげである。品評会で優勝した物の隣で売られるいびつな形をした果物はこんな気分なのかと想像して悲しくなった。
ゆず子が黙っているので浅見が続ける。
「今朝あの子たちに言われたこと、気にしてるの?」
気にするとかそういうレベルではない。マキの言うことは絶対だ。逆らえばクラスに今でさえ無い居場所が本当に無くなってしまう。
「浅見くんみたいな人気者には分かんないよ。これ以上肩身が狭くなるの嫌だからもう話かけないでくれるかな。」
本当はそんなことが言いたかったわけではないのに、自分でも驚くほどに冷たい言葉が口を突いて出て来る。
浅見の切れ長の目が大きく見開かれる。突然の突き放すような台詞に面食らうのも無理は無い。しばらく手元を見ながら黙って考えるような表情をする。そして視線を前に戻して口を開く。
「僕は人気者なんかじゃないよ。友達なんて呼べる人も一咲くらいだし。」
謙遜するような事を言う浅見にゆず子は苛立ちを覚えた。謙遜しなくても事実独りぼっちの自分との格差を見せつけられたような気がしたからだ。
「人気者かどうかは本人が決めることじゃないよ。あなたの周りにはあなたに好意を持った人間が自然に集まってくる。そんなことあなたは望んでいなくてもね。」
「だから僕には紺野さんの気持ちは理解できない。って言いたいんだと思うけど、分かるよ、その気持ち。」
「嘘。」
「嘘なら良かったと僕も思うよ。」
少し目を伏せて微笑む彼はとても美しいはずなのに、萎れた花のように生気を失っているように見えた。直感的にこれ以上の拒絶は彼を壊してしまうような気がして、ゆず子は反論しようと開きかけた口を閉ざした。
自転車のタイヤが回転するチキチキという音が二人の間の沈黙を埋める。人といること自体に緊張してしまうゆず子が気まずさに耐えかねて浅見に問う。
「ずっと気になってたんだけどさ、島崎とはどうやって知り合ったん?」
「自転車ごと田んぼに突っ込んで助けてもらったのがきっかけかな。」
先程の生気の無い表情とは打って変わって、瞳をビー玉のようにキラキラさせながら即答する彼にゆず子はうろたえてしまう。
「え、、、?えと、、嘘?」
「嘘。」
口元に手を当てて楽しそうに浅見が笑う。
「浅見くんてさ、変な人なんだね。」
クソ真面目な顔で言うゆず子に浅見がきょとんと首をかしげる。
「話に聞いてた浅見くんは、顔も頭も性格も良くて、完璧で、私なんかが仲良くなれるタイプじゃ絶対ないって思ってた。」
「思ってたってことは、今は違うの?」
「よく分からない。でも一つ分かった。」
「何?」
「浅見くんが島崎と友達なのは、二人とも変な人だからだってこと。」
何だよそれと浅見が困ったような、でもどこか嬉しそうな顔で笑う。そういうふとしたときに垣間見えるあどけない表情もよく似ているとゆず子は思う。そんな表情に何だかんだ言っても自分も彼らもまだ15歳の子供であることを思い出させられる。100年人生があるとしたらまだその6分の一にすら達していないのだ。背が伸びて、悩み事が増えて、生きることに気怠さを感じ始めて、大人になったような錯覚に陥っているだけの子供なのだ。今抱えているやり場のない不安や苛立ちなんて大人からすれば取るに足らないちっぽけなことなのかもしれない。クラスメイトからの理不尽な扱いも、不登校になるのも、誰も分かってくれないと叫びたくなる心も全部、大人からすれば人生の風物詩のようなものなのかもしれない。大人になったら、「去年の夏に花火を観に言ったんだよ」と語るのと同じ感覚で「学生の頃は大変だったんだよ」と笑いながら誰かに話したりするのだろうか。仮にそうなったとしても、線香花火の燃えかすの様に、吐き出されたスイカの種の様に、時の流れによって消化しきれなかった何かが後に残ってしまうような気がするのだ。そしてそれは大人になった自分を過去に引き留め続けるのだろう。
あぜ道に入り、浅見の後ろで自転車をこぎながら彼の背中を見つめる。彼と出会ったのがつい昨日のことだと思うとなんだか不思議な感じがした。
「あ、紺野さん。彼奴いるよ!」
浅見が前を指さしながらゆず子を振り返る。その指の先を辿ると昨日と同じ場所に島崎の姿があった。停めた自転車に寄りかかるような体勢で紙パックから伸びたストローを咥えている。
「おせーよ。」
島崎が開口一番で文句を垂れる。
「これでも早い方だよ。」
浅見が呆れ顔で言い返す。
「よ、ゆず子。」
まるで長い付き合いの友達にするかのように島崎が片手をひょいと挙げる。どういうノリで返せばいいのか分からず、ゆず子も片手を小さく挙げた。
「こんなところで何してるん?」
学校を欠席しているのに何故制服姿なのかと直球な質問をしなかったのは、何となく触れてはいけない何かがあるように感じられたからだ。
「何って、お前らのこと待っとった。」
当たり前だろという風に島崎が答える。
「そうなんだ。」
ゆず子も納得したわけではなかったがそれ以上問うことはしなかった。
「また明日って言ったろ?」
もう忘れたのかというような顔をする島崎を見てゆず子は後悔した。
もう彼らを切り離すことなんてできないのだと。
かずさ
「今日もお前んちでいい?」
そう尋ねる島崎に浅見がうんと頷く。
「ゆず子も来いよ」
突然の誘いにゆず子は戸惑ってしまう。同級生の家に招かれるのは随分と久しぶりだ。
「いや、私はいいよ。いきなり行ったら浅見くんの家族の迷惑になっちゃうし」
常識的に考えて断るのが当然だと思ったゆず子が首を横に振る。
「うち共働きで僕一人だから構わないよ?」
歓迎するように微笑む浅見を見た島崎が決まりだという顔をする。
「じゃあゆず子、ついて来いよ!」
「え、ちょっと待ってよ」
「紺野さん、うちそんなに遠くないから、ね?」
距離の問題じゃないんだけどなぁと内心呟く。島崎も浅見も同級生という以前に異性だ。気軽に自宅に上がり込んでしまって良いものなのか分からない。しかし何か理由を付けて断ろうした時には少年たちは既に数メートル先にいた。
「早くしねーと置いてくぞ」
島崎が振り返らずに言う。
ゆず子は渋々と彼らの後を自転車で追った。
浅見の家は半年ほど前にできたばかりのマンションの一室だった。白を基調としたエントランスでエレベーターを待ちながらゆず子は辺りをきょろきょろと見まわした。
「私マンションに入るのって初めてかも。なんかちょっとホテルみたいだね」
その正直な感想に島崎が「ヘンなこと言うんじゃねーよ」と少し赤面する。それを見ていた浅見が口元に手を当ててクスクスと小さく笑った。
エレベーターに乗ると島崎が9のボタンを押した。
「島崎はよくここに来るの?」
さっきの慣れた手つきからして多分そうだと思ったが一応聞いてみる。
「まぁ、時間が合えばな」
「そうなんだ」
ゆず子は島崎の答えに違和感を覚えたが、それが何故なのか分からなかった。しょっちゅうではないにしろそれなりに顔を出しているのだろうと解釈する。
9階に着くと三人はエレベーターを降りて、廊下の一番奥にある浅見の部屋へと向かった。浅見がズボンのポケットから取り出した鍵でドアを開けると、中から新築独特の香りが漂って来る。築40年の日本家屋で暮らすゆず子はその嗅ぎ慣れない匂いにそわそわとしてしまう。
「お、お邪魔します」
引っ越してきて数ヶ月にしては殺風景すぎるリビングには、ソファーと食卓にテレビと必要最低限のものしか置かれていない。モデルルームのように生活感の無い空間だ。
「適当に座って待ってて。おやつと飲み物持ってくるから」
浅見がキッチンカウンターの向こうへ周りながら言う。
「あ、ありがとう」
ゆず子はお礼を言ってソファーに腰かけている島崎の隣にちょこんと座った。
「すげーだろ円加んち」
島崎が自慢げな笑顔で言う。
「うん。うちと全然違う」
「俺んちなんてちっこい借家だよ?多分ここの方が広い」
「うちなんて人間が住むことを前提に建てられてないから」
「どーゆーことよそれ」
島崎が笑うと彼の目元まで伸びた前髪が揺れる。近くで見ると意外にもさらさらとしていることが分かる。動きに合わせて腕まくりしたシャツの袖から伸びる華奢な腕に筋肉が薄っすらと浮かぶ。その腕に抱きとめられたことを思い出したゆず子の頬が熱くなる。
「どした?いきなり黙って」
島崎がゆず子の顔を覗き込む。彼の匂いが鼻孔をくすぐった。
「ゆず――――」
「シーブリーズ」
「え?」
「いつもシーブリーズつけてるんだなぁと思って」
実はあなたに抱き寄せられたことを思い出して恥ずかしくなってました、なんて言えるわけがないので咄嗟に思いついたことを言う。島崎は一瞬きょとんとした顔をしたがすぐに、
「あぁこれね。俺汗かきやすいから」
と言ってシャツの襟を掴んでパタパタと振った。彼がゆず子の前を飛んだあの日と同じ匂いがした。
そうだあの日、とゆず子はずっと気になっていたことを思い出す。
「島崎はさ、宮野さんと知り合いなん?」
「あー、うん。1年の時に同じクラスだった。なんで?」
「あの日、宮野さんに性格直せって言ってたから、、、」
「あーあれね。アイツが人の悪口言ってんの偶々聞いちゃって、その内容がなんか許せなかったんよね。だからちょっと懲らしめてやろうと思っただけ」
「悪口って、どんな?」
「なんか10時間勉強してるヤツのこと馬鹿にしてて、ムカついた」
ゆず子の心臓がドキリと跳ねたが、平静を装う。
「へ、へぇ。」
「だってさ、そこまで頑張るってことは何か理由があるんだろうし、何も知らない他人が馬鹿にしていいわけがないから」
「、、、そう、だね」
一言合図地をうつだけで精一杯だった。もう一言でも喋れば泣いてしまいそうな気がした。理由なんて大したものじゃないと彼に言いたかった。ただ人よりましな人生が送りたいだけだ。たったそれだけの子供じみた理由なのだ。そんなことのためにわざわざ腹を立ててくれた彼に、ありがとうと言うべきなのだろうか。それともごめんねのほうが合っているだろうか。どちらにしろ口から出て来るのは思った通り素直じゃない言葉だった。
「島崎ってさ、チャランポランなのに意外と考えてるんだね」
「は?失礼だなお前。あと名字で呼ぶのやめろよ。なんか他人行儀な感じするから」
言いながら島崎は照れ隠しなのかゆず子から視線を逸らす。
「だって他人じゃん」
「お前には人の心がねーのか?!」
「ないかも」
「あーもう。とにかく、今から名字禁止な!わかった?」
「背小っちゃいのに態度はデカいんだね」
「うるせー。お前よりは高いだろうが」
小学生みたいにムキになる島崎がなんだか可愛らしく思えて、甘やかしたくなってしまう。
「かずさ」
そう一言呼んでやると一瞬固まって、ほんの少し赤くなった顔ではにかんだように笑う彼を前に、自分の一言でこんな表情をさせられるのかと面食らってしまう。
『もっと見たい』
そう思ったのは彼だからなのだろうか。その答えをゆず子はまだ出せないのだった。
僕たち大人になんてなれないけど、子供にだって戻れないでしょ。