交差

誰しもありますよね。信念やら意志やらを手放す瞬間って。

 墓。墓を見下ろしている。花も生けられていない、そんな墓を見下ろしている。
あの時捨てた意志を、私はまだ覚えている。風化していく定めだ。忘れ去られてゆくものだ。だが、私の中には、確実に生き続けている。例えあなたが忘れても、私はずっと覚えている。肉体が朽ち果てようとも、墓場にまでもって眠るんだから。

 かじかむ指先に白い息を吹きかける。自分の命を吹き消すように、私は白い息をかけている。生きて死ぬこと。関係ない。尊い。関係ない。私には関係ない。命。大切。関係ない。生きたいなんて思っちゃいないさ。ただ、苦しみたくないとは、切実に思っている。もうこれ以上苦しまないで済むのなら。…生きたいなんて思っちゃいない。ついでに言おう、生まれてよかったなんて微塵も思っちゃいない。
 吐き捨てるように、もう一度指先に息を吹きかける。ろうそくの灯が消えるように、私の命もボロボロ崩れて形を失くしてしまえばいいのに。信念も意志も、殆どのものを捨て去ってしまった。私に残っているのは、不安定な心と脆弱な肉体。ただ、それだけなのだ。

考察

締まる。首に手を当ててみるといい。君の鼓動を感じるだろう。さあ、手を離しておきなさい。自分の鼓動を尊く感じられるように生きていかなければいけないよ。
 締まる。自分の鼓動がやけに大きく聞こえて、脳内に侵食する。ぼんやりとする頭一杯に、ドクンドクンと自分の音が響いているのを聞くことになる。その間にも、ぶーーーーっと低い音が鳴り続けている。血液がせき止められて頭に集まるのだろうか、顔が熱くなって弾け飛びそうになる。おかしいとおもうかもしれないが、歯茎が張り裂けそうな感じがするのは事実である。そんなことしている間に、ふっと意識が飛んでいることがある。これがいわゆる。落ちるだ。風呂場で寝落ちする感覚とよく似ているなと、私は思った。
 先日の訓練で、私は見事に上官に絞め落とされてしまった。訓練だから、本当は落とす前に絞めるのをやめなければいけなのだが、どうやらこの上官は加減がわからんようだ。このまま絞め殺してくれればよかったのに。酷く残念だ。
 人は簡単に死ぬというだろう。人の命は重いというだろう。世間というのは、生きることをそうやって受け止めている。では、私はどうだろう。私の命はどうだろう。

 どうしても、自分の命に価値があるなんて思えなかった。

 世間は平等を推奨している。あくまで推奨しているだけで、例外は溢れている。平等なんてものは、この世界ではあり得ない。ごらんよ。世界は誰かの贔屓で構築されている。世間は、贔屓を良しとしないが、はたしてそれは正しいだろうか。好きな物を愛せない世の中なんて、馬鹿げてるとは思わないか。もっとも、時と立場と場所にもよるが。
 残念ながら、その誰かの贔屓からもあぶれてしまう人間がいる。それが私というわけだ。
 愛ゆえに人を贔屓する。だとするのなら、命の価値の本質が見えて来ないか。大丈夫さ。君らはきっと、愛されている。君を贔屓にする人が、この世のどこかにいるはずだ。もしも、誰もいないのならば、君は君自身を。どうか。愛してあげてほしい。
 生きて。そして。私のような、例外がいたことをどうか、頭の片隅に置いてほしいのだ。

あなたの命には、価値がある。

絞殺

酸素が足りない。ぼやける頭で考えた。ああ、死ぬ。僕は死んだ。

 電気も点けず暗い部屋。喉の奥がいまだにひきつっている。先ほどの衝撃は、純粋だった僕の首を見えない縄で絞め殺した。理解した。死ぬことは、何かを手放すことだと思った。幼く純粋だった僕は、何を手放し息絶えた。
 金だ。金だよ。生きていくのには金が要る。ごらんよ、生きているだけで支払わなければならない金が発生する。息をしているだけで、支出は発生し続ける。それをずっと目の当たりにして生きてきた。ただ、生きている。それだけで発生する支出と闘う母の後ろ姿を、ずっと見てきた。だから。今度は、僕が。そう決めたはずだった。
 それを考えて生きてきた。そればかりに重きを置いていた。だから、軍を選んだ。安定して、金を仕送りできるからだ。息をするだけで増えていく支出を、今まで闘ってきた母の分まで賄えると思ったのだ。これが、僕の意志だった。
 試験に受かり。入隊が決まり。僕が家から消える、ひと月前。彼女は僕に再婚する意思を伝えた。
 衝撃。喉が渇いてひきつった。視界が赤く染まって。頭が酷くぼんやりしている。ドクドクと、鼓動がこだまする。ぶーーーーーという低い音。落ちるとの違いは、軌道がふさがって酷く苦しいことだ。苦しい。苦しい。苦しい。

『おめでとう』

僕は、笑って絞め殺された。
笑ってよかったねという私に、ありがとうという母。もう昔の僕はいないことに気が付かない、愚かで大切な母。僕がその日に捨てたのは、僕の信念と意志だった。
 要らない。いらないんだ。私はいらないんだ。私。いらないんだ。お金も、私も。彼女に必要なくなった。いらないんだ。私だって、こんな私いらないんだ。じゃあ、私。何のために軍にいくのだろう。何のために、生きているのだろう。
 意志と信念を捨てた生きる屍。ただ、動いて喋る虚ろな肉塊。私には何もない。何も、ない。
 これから役に立てると思っていた。なのに、私はただ母に苦労を掛けただけで終わってしまったのだ。生涯を共に過ごしていく伴侶を再び見つけたのだから、足枷にしかならなかった私など、必要なわけがない。

じゃあ、私。一体、何のために生まれたのだろう。

絶望も失望も、交差して貫く。希望も切望もあったもんじゃない。
ただ、夜の闇の深い場所みたいに、ここは暗くて暖かい。誰にも見えないように、闇は私を包んでいる。泣いてもいいかな。
 ただ、死んだ僕へのサヨナラと。捨てた意志への弔いを。

交差

かじかむ手。何度か息を吹きかけて温めた手で迷彩のスカーフを握っていた。布地の柔らかさなんて感じない。皮手袋に阻害されている。
 本当に確かなものって何だろう。私を裏切らないものって何だろう。そもそも、信じるに足らないものばかり信じているから、裏切られた気持ちになるのだよ。目の前を横切った、黒い野良猫が、そう言った気がした。おっしゃる通りさ。信じなければ、裏切られない。だから、誰も信じない。だけど、それで幸せになれるだろうか。
 だからと言って、信じるって何を。誰を。自分を。ああ、誰にも必要とされない私をか。宗教を、神を、信じたくなる気持ちがわかる。自分も他人も信じられない人間は、神にでも縋りたいのだよ。でも、神様は救ってくれるだろうか。お金を恵んでくれるだろうか。愛してくれるだろうか。必要としてくれるだろうか。
 本当に神が救ってくださるというのなら、こんな私が生まれるわけがない。
 僕が死んだあの日から、煤みたいな靄が心に巣食って離れないのだ。内側から、どんどん食い荒らされている。だから、私の肉体は脆弱だと言っただろう。
 ろうそくの灯が消えるように。私の魂もボロボロ崩して形を残さないように壊してしまうことにした。
 広げると意外と長いスカーフを木の枝に括って、もやい結びにしてやる。
 
生きる私にサヨナラを。捨てる体に弔いを。
 
私と輪っかが交差する。

衝撃。喉が渇いてひきつった。視界が赤く染まって。頭が酷くぼんやりしている。ドクドクと、鼓動がこだまする。ぶーーーーーという低い音。

 神様とやらがいるのなら、どうか私が再びこの世に産まれ落ちませんように。

 赤い視界が、チカチカと点滅しだして、私の意識はふっとこの世を離れた。

墓。墓を見下ろしている。花も生けられていない、そんな墓を見下ろしている。墓。そう、墓、自分の墓を見下ろしている。
 神も仏もあったもんじゃない。あの時捨てた意志を、私はまだ覚えている。
 魂は巡り、命は交差する。

交差

目的のために生きてきたのに、目的がなくなったあとの喪失感。自分まで信じられなくなってくる。愛せなくなってしまう。大した目的もないから、死ぬこともそれほど怖くない。生きている中で降りかかる、痛みや怒り、悲しみの方がよっぽど恐ろしい。それを感じながら生きていなければならないのならば、死んだ方がましだと思うのだけれども、人間一度じゃなかなか死ねないから止めといたほうがいい。死んでも、再びこの世に産まれないとも限らない。難しいね、世の中は。俺は、次は産まれたくないです。うん。面倒なので。いろんなことが。

交差

信念やら意志を手放してしまって、色々足りない人の話。まとまんないけど、そんな感じ。

  • 小説
  • 掌編
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-02-08

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