人馬転した王子様

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「人馬転」は、じんばてん、と読み、馬に乗っている人が落ちる「落馬」に対して、人を乗せたまま馬が転ぶことを意味する。
「人馬転して今病院にいる」
従兄弟のりょうくんからそう連絡がきたとき、母が「人馬転」と検索して観た動画は、競馬中に走っている馬が転び、時速60kmで騎手が投げ出される、というものだった。よく晴れた冬の土曜日のことだった。受験勉強の休憩に僕がリビングへ入ると、母はスマートフォンを左手に持ち、右手で口を塞いでその動画を観ていた。
実際は、りょうくんが経験した「人馬転」は、立ち止まっていた馬が前足を上げて、後ろ足で立ち、そして彼を乗せたまま倒れる、というものだった。馬の下敷きになり、足を骨折したりょうくんには申し訳ないが、僕が母と観た動画とは違って、彼の人馬転は地味なものだった。ただ他に言いようがないので、彼もしかたがなく「人馬転」と言っているのだった。
「馬が俺を振り落とそうとして、竿立ちしたんだけど、俺がしがみついたから混乱して、そのまま倒れたんだと思う」
なんてことを布団に寝そべったりょうくんは言っていた気もするが、僕にはよくわからなかった。

従兄弟は千葉にある動物系の専門学校を卒業した後、僕の実家からバイクで5分ほどの隣町(実家は市の端にあった)の山奥にあるこぢんまりとした乗馬クラブに就職した。そこで引退馬の世話をしながら、時々馬場馬術の大会に出場していた。そして彼は職場近くの物件が見つかるまでの、その短い期間、僕の家に住むことになった。僕たちが住んでいたのは海から山をひとつ越えた町にある団地のせまい一室で、他に部屋がなかったため、りょうくんは僕の部屋で寝泊まりすることになった。
六つ上の従兄弟と叔父、叔母は昔から僕の家族と仲良しで、当時まだ赤ちゃんだった僕を連れて夏休みによく近くの海水浴場で遊んでいたらしい。僕が大きくなってからも、正月は横浜にある母方の祖父母の家にみんなで集まり、わいわい仲良くしていた。りょうくんは一人っ子の僕にとってお兄ちゃんだった。だからりょうくんが僕の家に住むと知った時、僕は中学生ながらもすごくうれしかった。ただ従兄弟は朝早くから夜遅くまでずっと働き詰めだったので、僕たちが会うのは夜眠る前の、ほんのひとときしかなかった。

馬場馬術は、広いプールくらいの競技場(馬場)で、馬を正確に操って歩かせる演技の美しさを競う馬術競技の一つで、競馬がスピードスケートなら、馬場馬術はフィギアスケートのようなものだと、いつだったか従兄弟は教えてくれた。
数年前、まだ専門学校生だったりょうくんが出場する大会を、僕の親とりょうくんの母(僕の叔母)とで一緒に見に行ったことがある。会場でりょうくんが「やあやあ」と挨拶してきたとき、彼は黒いジャケットと蝶ネクタイをつけ、真っ白なパンツをはき、山高帽子を被っていたので、僕たちは思わず「ほお…」と一歩後ずさった。馬に乗った従兄弟を見たのはそのときが初めてだったし、それ以前に馬をこんなに間近でみること自体初めてのことだった。競馬でみるサラブレッドとは少し種類が違って見えたが、馬たちは、こちらが少し恐怖を感じるほど、想像よりも大きかった。こんなにも大きい動物を乗りこなしている従兄弟は、彼の服装のせいもあって、子供の頃祖父母の家で僕と遊んでくれた従兄弟とは別人のように見えた。彼が乗っていたのは白馬ではなかったけれども、りょうくんは間違いなく王子様だった。

「勉強の邪魔になったらごめんよ」
初めそう言っていた従兄弟も、彼が怪我してから一週間ほど経って、このふたりの空間に慣れてきたようだった。六畳の僕の部屋にしかれた布団の上で、足を骨折した王子様は、うつ伏せになって、ギプスをつけていない方の足をぷらぷらさせながら、ずっと本を読んで過ごしていた。
数学が特に苦手だった僕は、初めの頃はりょうくんに教えてもらおうと質問していたが、どの問題に対してもりょうくんは
「うわ、難しいなこれ…高校受験でこんな難しいことやるのか…」
としか言わなかった。そのうち聞くのが気まずくなって、そういう話はしなくなった。決して沈黙がつらいわけではなかったし、むしろ僕が勉強に集中していたほうが、たぶんりょうくんにとっても楽だったのだと思う。それに僕は休憩時間にりょうくんと話せるのが楽しかった。りょうくんは意外とやんちゃだったらしい。りょうくんの話には何人もの女の子が出てきて、たまにえっちな話も教えてくれた。そういう話をしているとついつい休憩時間が長くなってしまうので、りょうくんはよく「はい、おわり。勉強の邪魔してごめんよ」と話を終わらせた。えー、なんでー、と言いながら、僕はタイマーを30分に設定してまた勉強に戻り、りょうくんは本の続きを読み始める。りょうくんが黙ってそばにいてくれた方が、一人で勉強しているよりも集中できる気がした。

「散歩に行かない?」
りょうくんがそう誘ってくれたのは完璧なタイミングだった。僕はちょうど数学の過去問の丸付けをし終わって、これなら志望校に合格できるなと満足していたところだった。ヒヨドリの鳴き声が遠くのほうから聞こえた。窓の外を見ると、ちょうど電信柱のライトがついたところだった。もう巣に帰ろう、と言っていたのだろう。
「いやあ、もう何日も外に出てないからさ」
「じゃあ上の公園まで行く?坂道は大丈夫?」
「うん」
彼は布団の脇に置いてあった松葉杖を取って、「…いや、わかんないけど、たぶん大丈夫でしょ」とほほ笑んだ。
「あ、そうそう、見て。数学、合格点とったよ」
おー、と、りょうくんは拍手した。
「本番も…」
僕とりょうくんは二人とも同時に同じことを言いかけた。
「本番もがんばります」
「本番もがんばってね」
僕たちはダウンジャケットを羽織った。四時半のチャイムが鳴っていた。
坂を上ったところにある公園についた頃にはもう日は落ちていた。松葉杖を地面に置き、僕たちはブランコに座った。軋む音が闇に吸い込まれていった。月は見えなかった。代わりに、地面の砂に三日月が描かれていた。
「本番ってどんな感じ?」
「いや…おぼえてないな。俺が行った高校は偏差値が低かったし、名前を書けば入れるようなとこだったし」
「そっか」
「不安?」
「うん、まあ」
「ノートを見返すといいよ」
ああそうか、りょうくんがノートを読み返していたあの時、彼は不安だったのかな、と僕は思い出していた。

りょうくんが人馬転する前の日の夜中のことだった。僕が目を覚ますと、彼は布団の上であぐらをかいて座っていた。枕元に置かれたライトに照らされた彼は、腿に肘をついてうつむき、何かを見つめていた。彼の視線の先、布団の真ん中に座る彼と枕との間には、ノートが開いて置いてあった。時計の針は3時を指していた。
たぶんそれは馬について彼が書いていた日誌だった。僕に見せてくれたことはないけれども、毎晩寝る前に彼が書いていたのを見ていたからわかった。そういえば、最近は彼が書いているところを見ていないな、と思った。彼はまだ僕が起きたことに気付いていない。僕は彼が見つめているノートに目を移した。外は静まり返っていて、僕のまばたきの音で、僕が起きているのがばれてしまうのではないかと不安になるほどだった。といっても、ここは僕の部屋なのだから、僕が目を覚ましてもいいじゃないか、とも思ったが、そのときそのノートにページが破られたような跡があるのに気づいた。なんだか見てはいけないようなものを見ている気がして、僕は目をつむった。けれども音で、いま彼が何をしているかが目蓋の裏に映し出される。いま、右手でページを持っている。親指の腹で撫でている。ページをめくったかと思うと、やっぱり戻し、さっき読んだページをもう一度、最初から読み返す。そんなことまでわかったのに、ぴり、という音がしたとき、僕は思わず目を開けた。
彼はページの右上を小さく破った。掌の大きさほどの、その紙片を彼は数秒見つめ、握り潰した。そこから次々と細かく紙を破っていった。破ったものを彼は掌に乗せて眺めた。まるで一羽の蝶を掌に乗せているかのようだった。そこに書かれていた文字を、蝶の紋様を、彼は目でなぞる。そして、それをぐしゃっと握り潰す。握り潰された蝶は足元に放り捨てられた。決して乱暴にというわけではなく、彼は丁寧に破り、丁寧に握り潰した。
彼が人馬転したのはその次の日、正確に言えばその日のことだった。

「りょうくんは不安なことある?」
りょうくんは答えず、しばらく黙っていた。右肘を腿について頬杖をつきながら、1メートル先にある柵を見つめていた。そんなに変な質問だっただろうか。誰にでも不安なことはたくさんあると思うし、りょうくんにももちろんあるはずだ。ああ、そうか、受験に関する僕の不安よりも、きっともっと複雑なものなのだろう。彼が僕に言いづらいのは、僕が中学生で、まだ子供だと思われているからだ。
彼は姿勢を直し、ブランコの鎖を握った。ぎいぎいという軋む音が鳴った。あの夜、蝶を握り潰した手で。
「やめようと思う」
僕にはすこしわかっていた、と思った。
「そっか、次はどこに行くの?」
「いや、馬術を」
「え」
りょうくんのほうを振り向いた。りょうくんも僕のほう向いていた。悲しそうなふうに見えなかったのは、暗かったせいかもしれない。
「馬から落ちたから…というわけでもないんだよね。ああ、ごめんなさい。なんだかわかってるような言い方をしちゃって」
「うん」
僕は理由を聞こうとしてそう言ったのだけれども、りょうくんはうなずいただけだった。馬術をやめてこれからどうするのか、聞きたい気持ちを抑えて、僕は夜空を見上げた。まだ星はいくつかしか見えなかった。大きな星と、小さな星が並んでいる。小さな星は藍に消え入りそうになりながらもりんとしているのに、大きな星はまたたいて、ゆらゆらしている。
理由を聞いてあげることがいつでも正しいというわけではないと、そのとき僕は思った。たとえ馬に乗っていなくても、僕にとってりょうくんが王子様であることに変わりはないのだ。

りょうくんが家を出ていったのは、僕が無事に高校に合格した後のことだった。完治とまではいかなかったけれども、彼はひょこひょこと歩けるようになっていた。後に母は
「りょうくんねえ、受験勉強の邪魔になるといけないからって、結構前から実家に帰るって言ってたんだけど、あのとき怪我もしていたし、なんかあんたにとってもりょうくんがいたほうがいいんじゃないかって、受験が終わるまで一緒にいてあげてって私言ってたの」
と言っていた。
「りょうくん、そのノート捨てちゃうの?」
家を出る前、荷造りの途中であのノートを手に取って眺めていた彼の背中に僕は聞いた。
「そうだね… うん、もういらない」
「僕にくれない?」
「えっ」と、彼は僕のほうを振り向いて、すこしとまどった表情を浮かべた。それから一度目を伏せて「いいよ、ビリビリだけど」と、ノートを僕に差し出した。悲しそうな顔をしていた。今度は明るかったからわかった。
「ありがとう」

それ以来、りょうくんとは一度も会っていない。地元に帰って別の仕事に就いたらしいということ以外は何も知らない。もちろん、母に聞けば連絡をとってくれるだろうけど、母方の祖父母が亡くなって、親戚で集まる機会もなくなってしまった。僕は大学生になり、あのとき人馬転した王子様と同じ年齢になった。彼がくれたノートにはまだ十数ページ残っていて、たくさんの専門用語とともに馬の絵が描かれている。白い紙の上に描かれているから、白馬だ。内容はわからないけれども、あれからずっと僕の部屋にある。ときどきそのノートを開いて、僕は白馬に乗った王子様に会いに行く。

人馬転した王子様

人馬転した王子様

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-02-07

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