愛する人

 愛するひとの綺麗じゃないところも愛したい、ってひとも世の中にはいるらしい。でも、あたしは違う。愛するひとのことの全て、あたしの目には綺麗に見えてしまう。「愛するひとの綺麗じゃないところ」が思い当たらないのだ。あたしの愛するひとは、こうやって死んでしまっても、非の打ち所がないほどに綺麗で美しい。
「ゆりこちゃん」
 ゆりこちゃんは「遺書」と書かれた封筒を胸元に乗せて仰向けになったまま、すっかり冷たくなった。もう瞼を開くことも、静かに息を吸うことも、手首がとくとくと脈打つこともない。あたしの生きているうちに、愛するひとが死んでよかった。これで、あたしの中では愛するひとは綺麗で美しく完全なままだ。
「あたし、すぐにはそちら側には行けないの。ごめんなさい」
 カーテンが開けっ放しの窓から月明かりが差し込んだ。ゆりこちゃんの隣に寝転んだまま、暗闇にうっすらと輪郭の浮かぶ、ゆりこちゃんの右手をそっと握る。陶器みたいな手。いつも、本を優雅にめくっていた手。手を繋ぐときはいつも、ひんやりしていて心地よかった。ああ、今日は、ぞっとするほど冷たい。
 この手を握っていると、やっぱり、あたしも死ななければいけないような気がした。ふたりで死ぬという約束をやぶって、あたしだけ致死量の睡眠薬を飲むふりをして飲まなかったのは、やっぱり卑怯なんじゃないか。ゆりこちゃんは地獄で怒っているかもしれない。
 でも、卑怯だとどんなに言われても、あたしはゆりこちゃんと一緒には行けない。だって、怒っているゆりこちゃんが美しいのがいけないの。瞳の光をそんなにすっと尖らせるのがいけないの。吐き捨てるように短く、静かに罵るのがいけないの。そういう、ゆりこちゃんの美しい「怒り」も、あたしの心の中に閉じ込めておきたいの。そうやって閉じ込めた美しいゆりこちゃんのことを、あたしだけ、この世にたったあたしだけが覚えている日まで生きるの。
 その日まで、地獄で待ってて。馬鹿ってどれだけ言われてもいいから、ちゃんと待ってて。
 フローリングに大きな弧を描く、ゆりこちゃんの長い髪をなでた。同時、月が雲に隠れて、すうっとゆりこちゃんの部屋が暗くなる。カサリ、紙が床に落ちたような乾いた音がした。なんだろう、とあたしは暗闇に目を凝らす。ああ、ゆかりちゃんの遺書が、胸元から床に落ちたのか。でも、この部屋に風なんて吹いてないのに、どうして?
 その疑問は、すぐに消えた。
「本当に馬鹿」
 ゆりこちゃんの声がした。あたしは、自分の肺にすうっと空気が入り込むのを感じた。息をのむって、こういうことなのか。あたしはそうやって息をのんだまま、となりのゆりこちゃんの顔をじっと見る。でも、部屋が暗くて、本当にゆりこちゃんの唇が動いているのかまではよくわからない。
「呪ってあげる」
 妖しく、ふふ、とゆりこちゃんの笑みが聞こえる。あたしをからかうとき、ゆりこちゃんはわざと優しく笑うのだ。ああ、ここに、ゆりこちゃんが生きている。美しいゆりこちゃんが、生き返った。うれしいようで、悲しくもあり、恐ろしい。感情があたしの中で渦を巻く。拍動が強くなるのを感じる。
「馬鹿はそっちね、呪いをかけたのはあたしよ」
 あたしはなるべく平静を装いながら、ゆりこちゃんに言う。
「どうかしら」
 ゆりこちゃんの髪の近くに置いたままのあたしの右手に、ゆりこちゃんの手が重ねられた。ぞっとした。あたしの毛穴から、身体中の水分が出て行った心地がした。ゆりこちゃんの手は、さっきと変わらず冷たかった。その手に血が通っているとはとても思えないけれど、ゆりこちゃんはゆりこちゃんの言葉を喋りだす。
「お馬鹿さんにはわからないのね――大丈夫、地獄で会えるわ」
 きゅ、とゆりこちゃんはあたしの手を握った。そのとき、月が雲から顔を出して、ゆりこちゃんの部屋がふんわり、ちょっとだけ明るくなる。ゆりこちゃんの輪郭がだんだんとはっきりしてきた。あたしはゆりこちゃんの顔をじっと見た。本当にゆりこちゃんは息を吹き返したの?
「ゆりこちゃん」
 あたしはゆりこちゃんの冷たい手を握り返した。
「ねえ、ゆりこちゃん」
 ゆりこちゃんからの返事はない。そっと瞼と唇を閉じたままだ。「ねえ」あたしは体を起こして、ゆりこちゃんの体をゆする。月の光に、ゆりこちゃんの髪はよく艶めいたけど、ゆりこちゃんはもう何も言わず、動かなかった。ただ綺麗で美しいまま、眠るように死んでいた。こんなに美しい人をあたしは愛して、こんなに美しい人にあたしは愛されていたのか。
 やっぱり、あたしも一緒に死んでいたらよかったな。
 溜息が出た。あたしはもう一回、強くゆりこちゃんの手を握った。今日、愛する人が、死んだ。

愛する人

2020年2月 作成

愛する人

百合です

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-02-07

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