オリーブを咥えて。
#OVERTURE-柊樹①-
高校の入学式を終え、新しい制服に身を包んだばかりの俺は、既にオワコンなのだと言い渡された。
「契約打ち切り。だよな」
漫画雑誌編集部の打合せ用ブースの一室で、担当編集者が向かい合う。現実を飲み込むように、目の前に提示された書面の一部分を読み上げる。なぜか妙に冷静だった。壁に貼られたアニメ化された人気作のポスターなんて気にも留めたことなかった。今まで近すぎて見えていなかったものを俯瞰している意識が、まるでもうこの場所はおかど違いであることを明らめる。
天才中学生漫画原作者・柊樹——そうもてはやされていたのは過去の栄光だった。せっかく連載までこぎつけた作品も、世間からの注目に応えられずすぐに打ち切らせてしまった。その後、連載作品はおろか、読み切りすら一本も当てていない。
担当編集である嶋岡とは3年以上の付き合いだから、なんと言うか容易に想像ついた。
「契約自体が終わるだけで、君はまだ若いしチャンスはあるんだ。また1から、頑張っていこう」
ほらな、と一語一句台詞の答え合わせをする。こんな時、どんな一流の編集者だって作家の心を救える言葉なんてかけられない。「0から」じゃないあたり、俺と違って温言だなと思わず笑みがこぼれてしまう。
「もう、いい。辞める決心がついたんだ」
停滞を言い訳に惰性のように繰り返してきた。自らを見失うほど埃を被っているとも気づかずに。
俺はこの日、これまで頑なに執着してきたものを自ら葬った。
#第1話-白咲真己①-
「トップアイドルがうちの学校に転校してくる」と、冬休み明け初日の朝は騒がしかった。2年B組の教室にできた野次馬の数の多さに、「それ」が自分と同じクラスであることを教えられる。席替えで一番の当たりと名高い窓際の最後列にある自分の席に向かうと、今まで空席であったはずの隣の席が用意されている。ああ、これは転校生がここに来るんだなと思う。
ホームルーム開始を知らせるチャイムが鳴ると、野次馬は自分たちの教室に帰っていった。若干の緊張だけが残り、教室は静寂を守るいい子ちゃんだけが存在している。それでも、それから数分間経過しても担任教師は来なかった。
「遅くない?」
しびれを切らして誰かが言った。仮初のいい子ちゃんは刹那的で、お喋りが加速し始める。それを制止するかのように教室の扉が開いた。普段は無言で教卓の前に来る担任が、今日はやけに陽気に俺たちに挨拶する。お前もか。場当たり的に良い先生の仮面をつけても、少し強張った表情が混じるその不慣れな笑顔は似合わない。
担任教師に少し距離をとって華奢な少女が姿を見せた。その瞬間、興奮とも驚きとも言えぬ喧噪が教室を支配する。静かに涙を流す女子生徒もいた。余程のファンなのだろう。
「白咲真己です。よろしくお願いします」
歓声には慣れた様子で、真己が丁寧に頭を下げる。名乗らずとも、恐らく学校中が知っているだろう。同世代の女子と比較するとより際立つ。余分な肉が一切見当たらない細い身体、漫画に描いたようにくっきりとした二重瞼と涙袋。テレビが映し出している清楚なイメージが等身大で目の前に存在している。
白咲真己が所属するのはLtd.Ⅴという15人が在籍する女性アイドルグループである。Ltd.Ⅴは昨年3月にデビューシングル『青い鳥症候群』をリリースした。このアイドルとしては王道な清楚なイメージを残しつつも、アイドルソングとは思えない強烈なメッセージ性により、発売前から動画サイトで公開されていたミュージックビデオが話題となって、女性アーティストのデビューシングル初週売上歴代1位の記録を樹立した。まさに昇竜の勢いでの登場だった。
そんな彼女らをプロデュースしたのは、メディアに対する露出の一切ない、未だ全てが謎に包まれた黒馬央司という人物だった。しかしその手腕は斬新かつ画期的と名高い。例えば、各シングル期を1任期とした序列制という人気評価システムを採用していることである。前任期の活動成果を数値化し、メンバーには次任期の序列が1人ひとりに明示される。これにはグループ内不和を誘発するなど、依然として反対意見も多くみられるが、採点基準が明確かつ平等であり、健全で前向きな競争意識を促進させるといった肯定的な意見も見られる。ちなみに昨年11月に発売した3枚目シングルまで真己は不動の序列1位、センターに立ち続けている。
「みんなも知っていると思うが、白咲は仕事で学校を休みがちになる。困ったことがあったら助けやれよ」
ぎこちない笑顔で担任が言う。「席は後ろの空いているところな」と付け足すと、真己は軽く一礼して歩き始める。クラス中の視線を一点に集め、俺の隣に来る。
「よろしくね。えっと」
「柊。柊樹だよ。よろしく」
「柊くんね。……柊樹?」
何かを思い出そうとするかのように真己が首を傾げる。次いで言いかけようとしたところで担任が進行をはじめ、2021年最初のホームルームが始まった。
*
Ltd.Ⅴについて特筆すべきことがある。それは昨年2月の初単独ライブでのことだった。セットリストを終えた後、グループのリーダー的存在である小春日和が約3000人のファンを前に発表した。
「5年後——東京ドームでの『年越しカウントダウンライブ2025→2026』をもって、Ltd.Ⅴは解散します」
来月にシングルデビューを控えていたグループが解散時期を誓言した。しかも、東京ドームを約束の地をとして。既にミュージックビデオが話題になっていた時期ということもあり、各メディアが取り上げ、この衝撃はグループに対する世間の注目度を一気に増大させた。
女性アイドルは短命。こうした不文律のようなものが女性アイドル自身によって宣布された。この裏に隠された黒馬央司の思惑を、誰もが理解できないでいた。
「あ」
ホームルームの終わりと同時に、真己は思い出したかのように声を漏らす。
「柊樹。もしかして天才中学生漫画原作者の」
「だった」。天才も、中学生も、漫画原作者も。全てが中学時代に完結している。真己の漫画やアニメ好きはどこかの雑誌のインタビュー記事を見て知っていた。それでも、てっきり胡麻すり営業の一環だと思ってた。出版社との契約が打ち切られ、もう2年が経とうとしている。連載終了からは3年。ネット上ではなく、現実世界においてその謳い文句で呼ばれたのは結構久しぶりかもしれない。沈黙は肯定に捉えられる。
「やっぱり。私中学生の時、柊先生の漫画読んでたの。今は——」
「アイドルなんでしょ。あんまり男と関わらない方が良いんじゃない。商品価値、落ちるよ」
「…そう、だね」
気づけば真己の席の周りには人だかりができている。いや、教室中にだ。明らかにうちのクラスだけの人数ではない。柊の席が台風の目のような異様さを生む。「今日は仕事お休みなの」「どうしてうちの高校に来たの」「紅白見たよ」庶民的なガヤが渦を巻いている。
駆け出しの芸能人であっても、いわゆる芸能人御用達の学校に通うことが多い。しかし真己は芸能コースのない、普通の高校に来た。昨年にデビューしたばかりとはいえ、今や老若男女問わず注目される、国民的アイドルグループの人気メンバーが転校してきた。こんな顛末は、馬鹿でも容易に想像できる。
無気力の平穏が、転校生の所為で崩壊していく。言葉を交わさないようにしているのに、自身の領域が侵されていく。この感覚は、高校の入学式の日に経験したそれとどこか類似しているのだ。
「白咲はこの後仕事で始業式には参加できないから、村上、お前始業式までに学校案内しといてくれ」
満員電車のようにすし詰め状態となっている2年B組の教室の外で、入ることを諦めた様子の担任が叫ぶように命令する。真己の右隣の女子生徒がご指名だ。先ほど言い忘れたのか、それにしてもこの現状に教師として注意すべきことはないのだろうか。とどのつまり、生徒たちと一緒に鼻の下を伸ばして、大人にも子供にもなりきれていない。まあいい、偶然隣の席になっただけの俺にだって助ける義理はない。
担任からご指名のあった村上は、まるで水を得た魚だった。表情から嬉しさが隠しきれていない。トップアイドルの転校初日、学校中が騒然となっている。そんな中、先ほどの担任の指令により十分程度、真己を独占できる拠り所を手に入れた。さぞ垂涎の時間だろう。
「村上さん。始業式前の時間にバタバタさせてごめんね」
教室を出て、渡り廊下まで来ると真己が申し訳なさそうに口を開いた。ほとんどが流石に諦めたが、まだ何人かは2人の後をついてきている。村上は真己の気遣いを口火に溜まっていた言葉を吐き出そうとするが、実際に出たのは無愛想にも「全然」の一言だけだった。そう溢して、すぐさま後悔したように足下を見る。
この高校は、本館と別館とに分かれており、渡り廊下で繋がれている。なんでも、元々は本館だけだったのが生徒数の増加により10年ほど前に別館を新設したらしい。そのため、本館は屋上を除いて3階建てであるのに対し、別館は屋上無しの2階建てで、2年生全クラスと体育教官室が主な用途である。村上は本館の方から真己を連れて行った。途中、1・3年生と遭遇すると、好奇の目に晒される。それでも、意外にも別館ほどの喧騒にはならなかった。始業式直前で移動が始まりかけていたこと、事前に教師たちの指導が入っていたこと等々、理由をいくつか挙げることはできるが、間違いなく一番に起因するものは、悪者を寄せ付けようとしない村上の強い意志がこもった威嚇が効いていたことにあるだろう。
体育教官室の前まで来ると別館の案内も終わった。あとは自分たちの教室に戻るだけというところで、ようやく村上は学校案内に関係のない私的な言葉を発することに成功する。「あの私、白咲さんのことデビューの時から応援してて。ライブも関東で行われたものは全て参加してるし。YOUTH TEENSも毎月読んでて」村上が早口でまくしたてる。YOUTH TEENSは真己が専属モデルを務める女性向けファッション雑誌だ。「ありがとう」と、真己はここに来て初めて、心からの笑顔を見せる。
「だから、さっき柊が言ったようなこと、気にしないでください。その、商品価値がどうとか。あんなのはアンチコメントみたいなもので。そもそもあいつ、口が悪いし。あ、席が近かったから聞こえちゃって。ごめんなさい」
色んな感情がちゃんぽんになって、整理がつかない可笑しな台詞になっている。敬語のよそよそしさに、どこか歯がゆさのようなものを感じた。
「大丈夫。それに、私も知ってる原作者さんを目の前に興奮して、モラルに欠けてたところあっただろうから」
村上は言うべきか言わないべきか、考えあぐねた様子で渋い顔になる。やがて周りを見渡し、人がいないことを確認すると、声量を落として言う。
「柊、もう出版社とは縁を切ってるんです」
驚かなかったわけじゃなかった。実際、うつけたようにその場で立ち尽くしてしまった。それでも、どこかでそんな気はしていたのかもしれない。柊と言葉を交わそうとした時分、人気商売という同士の勘が、何かを警告していたようだったから。
「不良…ではないけど、とっつきにくい感じで。やたらと毒舌だし。授業とか、行事とかサボりがちで。大体いつも屋上に」
とっかかりを掴んだ興奮冷め切らぬ信奉者の独占欲は止まらないらしい。冗長に知り得る柊の情報を話し始めた。聞いてはいるが、真己は心ここにあらずといった様子で呆然としている。一方通行で盲目な話を続ける村上にも、どうやら一抹の理性はあるらしく、始業式の存在を思い出し、話を中断する。「私たちの教室は2階に上がってすぐだから」と残し、大講堂のある本館の方へと向かって行った。村上の小さくなっていく背を見ながら、真己も少しずつ歩き始めた。十数分前の喧騒が嘘のように、別館は閑散としている。教室にも、誰も残っていなかった。
*
至って質素な造りの屋上だった。転落防止に配慮された、一面の高いフェンス。端には別のフェンスで守られた貯水タンク。法律で義務付けられた、最小限度のもののみが設置されている。村上の言うとおりだったと、真己は目を丸くした。確かに屋上の真ん中で男子生徒が1人、仰向けで寝そべっている。柊樹だ。こちらの存在に気付いている。当然だ、屋上を繋ぐ扉が甲高く軋む。今度は両手を添えてゆっくり試してみても、やはり静かには閉められない。
「始業式、出ないの」
「お互い様だろ」
「私は仕事があるから」
「じゃあ、早く行けよ。迎えも待ってるだろ」
「謝りたくて。柊くんに、余計なこと言ってしまったこと」
寸刻の沈黙が屋上を支配して、乾いた風の音だけが感覚として残る。柊は上半身を起こし、その場であぐらをかく。離れたフェンスの隙間から、外の景色を見下ろしている。真己がその視線の先を追おうとした瞬間、柊が呆れたように短く溜息を吐く。
「お前、ほんとプロ意識低いのな。そんなことで、わざわざ二人きりになりにくるな」
ようやく、柊と目が合った。
「気にしてない。その件については、とっくに救われてる」
勘違いだろうか。そう言った柊の表情が綻んで、優しく微笑んでいたように見えたのは。
「どうして屋上に」
「馬鹿なのか。漫画好きといえば、屋上だろう」
「何その感性」
柊は立ち上がると、ゆっくりと伸びをする。深呼吸するように息を大きく吐き出すと、胸ポケットから一本の鍵を取り出し、合図をした後に優しく放る。綺麗な放物線が、おおよその着地点を教えてくれる。目の前に落ちてくるそれを、確かに捕らえた。
「屋上の合鍵の余り。隠れ家にでも使えよ」
悪びれもなく、柊が言った。「道理で」屋上が開放されているなんて、漫画みたいな学校だなとは思っていた。ようやく合点がいく。しかも共犯者にされてしまった。
「そろそろ始業式も終わるぞ」
「うん。じゃあね」
今度は無遠慮に扉を開いた。勿論、甲高い声を上げる。ここでは当たり障りなく過ごすことが最善のような気がしていた。芸能界に足を踏み込んだ手前、もう普通の女の子には戻れないと分かっていたから。少しばかり、後悔していた。でもそれはないものねだりで、我儘なのだと諭されてきた。実際、仕事は楽しかった。相反する感情が交錯して、どちらも自分勝手だと諫めた結果、いつも建前に終始する。余計な気遣いが、普通の女の子という理想像を自ら払い除けていたように思えたのだ。
教室に戻り、自身の鞄を手に取る。荷物を出してはいないが、一応周りに忘れ物がないことを確認する。予定より随分長居してしまった。今日はマネージャーが車で職場まで送ってくれることになっているのに、少し待たせているかもしれない。ふと、柊の机に目が行く。机の中に一冊だけ、キャンパスノートが入っていた。妙に存在感のあるそのノートに視線を向けながら、矢庭に疑問が浮かぶ。
そういえば、どうして柊くんは迎えが来ることを知っていた——
無意識だった。その時ばかりは、欠片の悪意も常識もなかった。魔が差したように、そのノートの中身を見ていた。その内容を見て、現実に引き戻され、感情を取り戻す。愕然としたのだ。違和感はずっとあった。どこか、初めて会ったようには思えなかった。教室の扉が静かに開く。見なくても分かる。柊だろう。「それ、取りに来たんだけど」案の定、彼の声だった。
「見たのか。お前、勝手に人の机の中漁るとか趣味悪いな」
見られては困るもののはずなのに、なんでそんなに冷静なのだろう。ノートを持つ手が震える。感情に対する理解が追い付かない。怒り。恐怖。緊張。どれも違う。きっと、好奇心に近い。理性では形容し難い感情だった。
「まあいいや。それ渡——」
「ごめん。でも」
そう言って彼の言葉を遮った。正直、この時の私には罪悪感なんてどこにもなかった。それでも謝った。一刻も早く、追認を受けたくて。私の瞳が、彼の瞳を捉える。お互いに、余計な感情が無い。
「あなただったんだね。黒馬央司」
私はこの日、1年越しにプロデューサーの正体を知った。
#第2話-白咲真己②-
Ltd.Ⅴがその名を轟かせた時分、同時に黒馬央司というプロデューサーの手腕にも注目が集まった。無名の天才。今までの経歴も年齢も不詳。取材やメディアに対する露出は全てNG。しかも、メディアにおけるメンバーの発言の端々から、メンバーですらその正体を知らないのではという噂が流れることもあった。それは事実だった。黒馬と直接話がしたい時であっても、事務所の代表である田辺健治を仲立人にしなければならなかった。オーディションの時も、私たちの前には現れなかった。後から、ミラーガラス越しに採点していたのだと聞かされた。
もちろん、その正体が気にならなかったわけではなかった。何度かメンバーが田辺さんに尋ねたが、決まって苦笑いとセットの「あの人は色々と特異だから」と曖昧な答えが返ってくるだけだった。ネットで検索もかけてみた。黒馬央司は複数の業界人が運営する集合体のようなものだという説。そもそもそんな人物は存在せず、運営が話題作りのために作り出しているという説。某アイドルグループのプロデューサーが名前を変えているだけという説。どれもぴんとは来なかったが、思わず納得してしまいそうになるほど上手くこじつけてそれらしく仕上げられていた。
それが思わぬ形で解決した。柊樹のノートには、まだ公開されていないはずのLtd.Ⅴの情報が構想として綴られていた。未公開なだけじゃない。公開される予定のない裏情報まで。しかし決定的だったのはそこじゃなかった。昨年初め、初単独ライブを実施すると知らされたとき、現時点での大雑把な構想が示された。その時提示された黒馬プロデューサーの手書き資料と記憶の限り対比させてみても、構成、字体、細かい癖、全てがこのノートと一致する。
これだけ確信を得ても、にわかに信じ難い。黒馬央司の正体が自分と同じ高校生の、しかも同い年だなんて。
「電話、出たらどうだ」
鞄の中で、スマホが鳴っていた。案の定、待たせているマネージャーからだった。何かあったのかと電話の先で心配するマネージャーに対し、短い謝罪とすぐ合流する旨だけを伝える。彼からはまだ明言された追認は得られていない。否認もしていない。むしろそれが雄弁に物語っていた。私の非現実的なはずの問い掛けが、正に現実なのだと。
始業式が終わってしまう。迎えも待っている。これ以上の遅刻は仕事に支障が生まれるかもしれない。これ以上、ここにいても何も解決しない。彼の横を超然と通り過ぎて、教室を後にした。
そういえば、スタッフのどこまでが知っているんだろう。後部座席から運転席にいるマネージャーを不意に見る。とはいえ尋ねる気にはならず、再び車窓を眺める。新しい学校から事務所に向かう景色は新しかった。埼玉の都市部から離れた場所で生まれ育った私にとって、Ltd.Ⅴの二次オーディションを受験するために初めて訪れた東京は思わず泣いてしまうほど恐ろしい場所だった。元々、極度の人見知りだったこともある。高校生になっても人見知りが改善しない私を懸念して、当時大々的に募集をかけていたアイドルグループのオーディションに両親が勝手に応募するという荒療治に出るほどだった。空間に必要以上のものを詰め込んで構築された迷路。標本のように空を四角く切り取る高いビル。屍のように右往左往する人混み。それらは衝撃的で、ちっぽけな憧れなんて簡単に支配されてしまうほど恐怖を感じた。人混みの真ん中で泣いてしまい、オーディション前には疲れ切っていたことを今でも覚えている。それから1年以上が経過した。きっかけは受動的だった。それでも人見知りも少なくなり、今では堂々とアイドルをしている。普通の女の子になるために普通の女の子を捨てることになるとは、なんとも皮肉なことである。
私を乗せた車が都内のハウススタジオに着く。青年漫画雑誌「週刊ウォーリー」の巻頭グラビア撮影。私待ちなんだなという様相が、ハウススタジオ周辺で構えるスタッフのまんじりともしない様子から伝わってきた。それでも車から降りて小走り気味にスタジオに入ろうとすると、「焦らなくていいよ」と諭される。優しい世界が遅刻に対する罪責感を再起させる。仕事は仕事と、言い聞かせる。楽屋に入ると、先に来ていたメンバーの吉岡咲の姿があった。
「遅かったね。何かあったの」
「ううん。ごめん」
咲とは同い年であることもあり、話しやすく仲が良かった。でも、黒馬央司のことを話す気にはなれなかった。そういえば、まだ制服のままだ。3回、ドアがノックされる。返事をすると、マネージャーに連れられた2人の男性が部屋に入ってきた。1人はカメラマンだと分かった。前に別の仕事でお世話になったことがある。
「週刊ウォーリー編集部グラビア担当の嶋岡です。今日はよろしくお願いします」
こちらも「よろしくお願いします」と深々頭を下げ、同時に遅れてしまったことを再度謝罪する。嶋岡と名乗る担当者は、「気にしないでください」と笑顔で答える。少しふくよかな頬が吊り上がる。顔立ちだけでなく、雰囲気も穏やかだ。
「むしろこの機会に感謝しているんです。Ltd.Ⅴの一ファンとしてね。特に、吉岡咲さんのことはLtd.Ⅴ以前から応援させてもらっていて」
咲の芸歴はLtd.Ⅴデビュー時からではない。元々、違うアイドルグループに所属していたが、諸事情により解散。アイドルを辞め、個人でのタレント活動を続けた後、Ltd.Ⅴで二度目のアイドルデビューを果たした。しかし、実はオーディションを受けていない。プロデューサーの熱烈なオファーを受け、引き抜きという形で加入している。咲もその由縁に心当たりがないため、黒馬央司に派生する謎の1つとなっている。そうした加入経緯から、デビュー時は「不正加入」、「運営との癒着」などと非難の対象となったことは、無情にも自明のことだった。
Ltd.Ⅴ以前の芸能活動について、咲本人の口から少し聞いたことがあった。今の私たちがどれだけ恵まれた環境にいるのかを痛感するほど、劣悪な環境で戦っていた。それがトラウマとなっていることを知っていたから、恐る恐る咲の顔を一瞥する。やはりアイドルだった。過去も今も悟らせない、華のある笑みで「ありがとうございます」と言葉を返す。
「だから今回、私ごり押しでキャスティングさせてもらったんです。実は去年、週刊ペガサス編集部から異動になって。私情はさみまくりなんですけどね。グラビア担当になったからにはどうしても実現したくて」
少年漫画雑誌「週刊ペガサス」。柊樹が連載していた雑誌だった。だめだ。また何か、変な衝動が突き動かす。
「柊樹を、ご存じですか」
声が震えた。禁忌に触れている気配がしたのだ。マネージャーもカメラマンも、咲ですら温かみのない視線を送る。当然だ。なぜそんなことを聞くのか、怪訝に思っているのだろう。嶋岡も少し目を見開いている。そうして目を細め、再び穏やかな表情を繕う。
「知ってますよ。誰よりも。彼を担当していたのは、私ですから」
世間は狭い。そんな言葉で片づけられるには、都合が良すぎたように思う。ひたむきに回る個々の人生の歯車が、今ようやく誰かの手によって嚙み合わされたかのような。そんな人間など、いるはずがないのに。
「柊先生は、アイドルがお好きでしたか」
「好きではなかったですね。むしろ不愉快にすら思っていたかもしれない。アイドル関連のイベントがある時は、毎回といっていいほど嫌がる先生を連れて行こうとしてましたから。当然、全て断られたんですがね」
それが楽しい思い出だったのだと、嶋岡の円かな含み笑いが物語る。咲が横から「どうして」と覗き込む。「ううん。ファンだったから。少し気になっただけ」と答えた。咲を把捉させるほどの回答にはなっていなかったらしい。「今日、らしくないね」と、とうとう言われてしまった。
「さて、そろそろ打合せに入ろうか」
会話の節目を探していたように、マネージャーが溜めていた台詞を吐き出す。時間が押しているのだろう。確かに私らしくない。遅刻にしても、冗多な雑談にしても。らしくなかった。Ltd.Ⅴは私たちがかつて想像していた以上に、社会に対して大きな衝動をもたらした。女性アイドルの魅力は成長過程にあるのだと、誰かが言っていた。確かに、Ltd.Ⅴは流動的だった。いくつもの変遷が世間の感情を動揺し、エンターテイメントとして人々の心に生きている。それは演者である私にとってもそうだった。そうか。なるほど。やけに腑に落ちた。結局、私たちは皆、黒馬央司の描いた戯曲の中に存在しているんだ。
撮影自体は、いつも通り順調だった。私も咲も、現在17歳。華のセブンティーンを趣旨とした撮影だと聞かされているが、実のところ再来月にリリースを予定している4枚目シングルの告知のためのグラビアだろう。そもそも、華のセブンティーンと表される芸能人には懐疑的だった。勉強も部活も恋愛も、普通の青春なんて謳歌できているはずがないのに。斜に構えているつもりはないが、業界の利己主義から生まれた現実との乖離にどうにも胡散臭さを覚えてしまった。
「さっきの、1つ訂正させてください」
帰り際、マネージャーの車に乗り込んだ私は、見送りに来た嶋岡に呼び止められる。
「一度だけ、柊先生とアイドルのライブに行ったことがありました。弊社との契約打ち切りを伝えた日。先生と会ったのは、それが最後でした」
咲は興味なさそうに隣でスマホをいじっていた。運転席から、シートベルトを装着する音が聞こえてくる。エンジンをかけていないから、当然暖房がされていなかった。シートの冷たさがお尻から伝わってくる。
「その1回が、かけがえのないものになっていることを祈っています」
「ええ、私もです」
ようやく、マネージャーがエンジンキーを回した。いつもエンジンをかけてからが早い。暖機も待たぬまま、そそくさと走り出す。次はいつ学校に通えるのだろうか。帰宅する前に確認しなければならない。柊樹ではない。今度こそ、黒馬央司と話がしたかった。それが実現できるのは、あそこしかないと直覚していた。彼にとって唯一の、共犯者なのだから。
*
しかれども、時宜を得ることが叶ったのはそれから1週間後のことだった。その上、書類や教材を受領するために仕事の合間をぬって学校に寄っただけに過ぎなかった。既に放課後。寂々たる校舎内とは対照的に部活動で溌溂としたグラウンドが、モノトーンな青春を染筆している。素敵だなと、職員室の窓から遠目に見ていた。学校での所用自体は、ものの数分で終わった。このままマネージャーの車に乗って事務所に戻るだけ。黒馬央司と話がしたい気持ちは日増しに強くなっていたが、さすがにもう帰っているだろうと思った。にも関わらず、屋上の扉の前に来ていた。今まで信じてきた自分を裏切った。理性じゃなく、ここにいるという確証があったのだ。放課後に屋上。なんとも漫画らしい。施錠を解き、慎重に扉を開く。やはりうるさく軋めく。乾いた風と共に、少しずつ夕暮れ時の光が差し込む。その途中、フェンス近くにあぐらをかいている黒馬央司の姿を見つけた。左の太腿には、例のキャンパスノートが置かれている。思いがけず、破顔する。
「何を笑っている」
一瞥した彼が言う。「いえ」と、表情を引き締めながら距離を詰める。
「どうして、プロデューサーになったんですか」
黒馬央司が、こちらを向いた。視線の先に、確かに私がいる。今話しているのは、プロデューサーとアイドルだった。
「なぜ知りたい」
「アイドルに対して、あまり良い印象を持っていなかったと聞きました。嶋岡さんから」
彼の表情が緩む。「嶋岡か。懐かしい名前だな」と呟くように言葉を溢す。嶋岡も、同じような表情をしていた。
「嫌いなのにここまでするわけないだろ」
「そうですよね。やっぱり——」
「ただ、あながち間違ってもない。半分正解で、半分不正解といったところか」
意味が分からなかった。嘘は言っていないのだろう。それだけは何となく分かった。
「別に今でもアイドルが好きなわけじゃない。動機も、特にはなかった。あったのは衝動だけだ」
「衝動?」
ほぼ同時だった。2人のスマホが鳴る。待たせているマネージャーからだった。我に返ったように慌てて電話に出る。先ほどまで赤く染まっていたはずの空は、薄暗い闇に侵食されつつあった。黒馬は着信画面を見ると、「タナケンか」とぼやく。タナケンとは、Ltd.Ⅴの所属事務所の代表取締役である田辺健治の愛称だった。
マネージャーにひとしきり謝罪をした後、身の縮む思いで電話を切る。以前とは違い、時間管理に厳しい人だった。先に連絡しておくべきだったと省みながら、そっとスマホを鞄にしまう。彼はまだ通話していた。黒馬と田辺。こうやって普段会話しているのかと、関係性が見え隠れする。
「今から事務所か。まあいいが、少し時間が——」
そう言いかけて、黒馬が私の方を見る。何か企図した人間の、悪い顔だった。
「いや、問題ない。米山に同乗者を1人許すように一報しといてくれ」
強引に電話を切った。米山は、ここまで送迎してくれたマネージャーの名であった。唐突に荷物をまとめだす彼。妙な気配がして、「まさか」と思わず表情が強張る。
嫌な予感は的中した。先ほどの電話は、私と同伴で事務所に向かうと言う意味だった。彼と一緒なら、これ以上怒られることはないと楽観的に考えていたが、米山は黒馬の正体を知らないと告げられた。この状況をどう説明すればよいのだろう。単に追撃を受けた形になった。空は完全なる夕闇を形成していた。
職員用の駐車場を抜けると、門前の通りに停められているマネージャーの車両を視認する。普段はこの駐車場を借りていたが、今日はそこまでの所要はないと考えていた。裏口のようで、ここが正門なのだと後から知った。2人して、車に近づく。傍から見れば、同い年の男女ペア。片や、日本を代表するトップアイドルである。反対車線に路上駐車していた黒いワンボックスカーの車窓が少しだけ開かれていた。不穏にも、その隙間からカメラのレンズが覗き込む。
カシャッ——
不都合な空間を切り抜く禍々しいシャッター音が、太陽も月もない空に溶けていった。
#第3話-白咲真己③-
2月に入ってすぐのことだった。朝起きると、マネージャーからの不在着信とメールの通知に気づく。急ぎの呼び出しだった。場所はLtd.Ⅴ専属事務所「Ltd.プロダクション」内にある田辺健治の執務室。扉の前に来て、そういえば役員室に入るのは初めてだなと思う。ノックする手の指先がうずく気がした。「どうぞ」と声が聞こえ、一呼吸おいて扉を開ける。空中を爽やかなオーデコロンの香りが漂っている。真っ先に目に入ったのは、奥にある執務用の大きなデスクだった。その手前の光沢あるテーブルを挟むように、2つの大きなソファが平行に横たわっている。私服の黒馬が偉そうに右側のソファを陣取りながら足を組んでいる。今日は平日だった。柊樹はどうしているだろう。
田辺は落ち着かない様子で執務用デスクの前に立っていた。苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべている。私を黒馬と反対側のソファに座らせると、A3サイズにモノクロで印字された雑誌の記事が目の前に提示される。
「この記事が、2月17日発売の週刊誌に載せられる」
2枚の写真が作興して、喋喋しく文章が並ぶ。男子生徒と共に学校から出てくる一齣。そして、そのまま2人で車に乗り込む一齣。この男子生徒が黒馬央司だという発想に至る者など普通いない。撮影者の意図するように、同じ学校の男子生徒と仲良くしていると捉えるのがほとんどだろう。まさしく、スキャンダルだった。
「ご丁寧に新曲MV公開予定日の前日。俺に似て良い性格してるな」
黒馬が顎をあげながら言う。唇を歪めながら田辺が私たちの顔を見比べる。
「こればかりは笑い事じゃない。白咲、お前だって自分の立場を理解してるだろう」
高校生につきつけられた大人の世界の話だった。アイドルというパッケージに入った私の、商品価値の話をしているのだ。需要が減ったスーパーの食材に値引きシールが貼られる。そんな感じなのだろう。
「タナケン、落ち着け。白咲に当たっても仕方ないだろ。あの日、強引に同伴させたのは俺だ。責任は俺にある」
「ああ、もちろんだ。白咲に正体がバレたのもそう。でも、あんたに言ったところで伝わらない」
「手厳しい」
黒馬が手を叩く。終始眉間にしわを寄せている田辺とは対照的だった。部屋には無駄なものが一切ない。電子機器を源流とするケーブルは見事にまとめられ、目立たないように壁の隅で処理されている。エアコンが規則正しく鳴り続けていた。
「当然、記事の差し替え交渉はするが——」
「やめとけ、無駄だ。放っておけ。別にやましいことなんてないだろ」
「それはこの3者間の話だ。記事が出たらファンはどう思う。ファンだけじゃない、世間に、白咲は糾弾されることになる。あんただってネット上で特定されて、平穏無事じゃすまない」
田辺の見解は正論だった。下を向いて嘲笑する黒馬。感情が伝わらなかった。肯定も否定もせず、こくりと頷くと、静かに立ち上がる。扉の前で立ち止まると、私に言った。
「定期試験は14日からだ。もう芸能コースじゃないんだ、ちゃんと試験受けれるようにマネージャーと調整しとけよ」
口調は平常だった。それでも違和感がある。田辺が深いため息をつきながら黒馬の座っていたソファに倒れるように座り込む。眉間を指で押さえながら、自身を消耗させる何かを鎮めようとしているようだった。
「あの、プロデューサーはなぜ、世間に正体を隠しているんですか」
「さあ。私じゃあ、考えが及ばないからね。ああ見えて、色々抱えているから。あの人なりの自己防衛かもしれないな」
「自己防衛……」
復唱してみても完全には氷解しなかった。一角にはあっただろう。核心には、何かもっと大きなものが蠢いている気がしてならなかった。
プロデューサーの意思とは裏腹に、田辺はスキャンダルを水面下で食い止めようと奔走した。しかし、叶わなかった。既にネット上では話題になっていたが、週刊誌発売の2日前になってようやくメンバー全員にスキャンダルの件が伝えられた。スキャンダルの相手が黒馬だとは、もちろん知らされずに。運が良いのか悪いのか、学校の定期試験や個人での仕事が重なって、ここ数日はメンバーと顔を合わすことがなかった。それでも、唯の怒っている顔が目に浮かぶ。夏蓮や日和は私をかばって宥めてくれているだろう。咲や葵はこの状況では焼け石に水だと諦観していそうだなとか。メンバー1人ひとりの反応が、ありありと見える。迷惑かけといて不謹慎だなと自分でも思う。普段なら決して潔しとしないはずなのに、道徳とは別の世界にいる自分が感動しているようだった。アイドルとしての人生、これが私の青春だったのだと。普通じゃなかっただけ。かけがえがなく、美しいもの。それを自ら傷つけてしまった。やはり、けじめはつけなければならない。
*
スキャンダルが掲載された週刊誌が発売された。想像以上の反響だった。この日は定期試験4日目でもあったが、学校周辺に待ち伏せしている人がおり、一時警察沙汰になるまでに至った。教師陣から苦言を呈され、試験は他の生徒から隔離された部屋で受験することになった。事務所の電話は鳴り止まず、中には脅迫まがいなものまであったと聞いた。SNSではトレンドになり、ファンやアンチ以外にも波及していく。そしてアイドルの恋愛の是非について議論が再開される。自分の願望を主張するだけなのだから、決着などつくはずがないのに。無実だからこそ、水晶玉占いをするように社会を一歩退いて見ることのできる自分が存在していた。事実を話せば傷つく人がいる。そのために都合よく脚色されたシナリオを描いたところでまた別の誰かを傷つける。ここに正解なんてない。スキャンダルの当人はどうするのが正義なのだろう。いや、この選択にも正義はない。だって、撮られたのはただ、同じ学校の男子生徒と一緒の車に乗った場景。手を繋いでいたわけでも、キスをしていたわけでも、一緒にホテルに入っていったわけでもない。それなのに社会は、アイドルが恋愛をしたと独断している。事実なんてどうでもいいのだろう。肯定派も否定派も、アイドルの本当の幸せなんて願ってない。どこからか恣意的に手に入れた正義を物差しに、過剰に反応しているだけ。こんなもののために、どうして傷つける誰かを選択しなければならない。だから、選択自体に正義はない。社会に蔓延する偽善未満の片手間の正義。これらを相殺する力の名を、正義と呼ぶのかもしれない。
スキャンダルから一夜明けた。世間はまだ炎上していた。当の本人である私が誰よりも冷静だったのは烏滸の沙汰かもしれない。予想を遥かに上回る燃え広がり様が、自分の選択が間違っていなかったと裏付ける。定期試験最終日でもあったこの日、私は学校には向かわなかった。普通も特別も、すべて捨てていく。私の会見のために用意された会場には、多くのメディア関係者が準備を整えていた。都内ホテルの会議室に厳重な警備。田辺が手配してくれたのだろう。Ltd.Ⅴの公式動画チャンネルでもライブ配信されることになっている。プロデューサー、怒るだろうな。止められると思って、ここまで内緒にしてもらった。会場の入り口付近で待機する。覚悟はできていたはずなのに、喉元がぎゅっと掴まれる感じがする。約束の時間は目前だった。突然、後ろから「おい」と呼び止められる。見慣れないスーツ姿に、最初に目がいく。顔を確認するのは二の次になってしまった。黒馬央司だろう。こちらも見慣れない表情だった。息は荒く、目つきは険しい。ネクタイを直しながら、彼が会場に近づく。
「馬鹿なのか。試験はちゃんと受けろと言ったはずだ。お前は、学校に戻れ」
「プロデューサーは——」
柊樹は、死んだ。私を会場の外に残し、記者たちがカメラを構える会場に踏み込んで。一斉にロックオンされる。もう、後戻りできない。
記者たちは一時、呆気に取られたように思考停止した。そうして若干のどよめきが起こり始める。
「はじめまして。私はLtd.Ⅴプロデューサー、黒馬央司と申します」
出し抜けの告白は、人間の理解の範疇を超えていたらしい。会場には整理に困るほど人が押し込められているはずなのに、呼吸音すら聞こえぬほど無の時間が支配した。所作こそ大人びているが、顔立ちが明らかに成人しているそれではなかった。マイクを通した彼の声は、いつもより低い。メディア関係者は自らの使命を思い出したようにカメラを回す。短兵急にたかれたフラッシュが彼の火照った表情を煌めかせた。
「本日は大変お忙しい中お集まりいただき、ありがとうございます。このたび、Ltd.Ⅴのメンバー、白咲真己、そして、私がしてしまった軽率な行動により、関係者の皆様及び視聴者の皆様にご迷惑をおかけしてしまったこと、心より深くお詫び申し上げます」
深々と頭を下げる。彼がスキャンダルの相手だと、次第に認識され始める。ようやく、世間が現実に追いついた瞬間でもあった。それでも、疑惑が完全に晴れたわけではない。引き続き、スキャンダルが掲載されるに至ったあらましを自ら詳説した。嘘偽りのない事実を。彼は話し終えると、「質問には時間が許す限りお答えいたします」と締めくくった。ここからはただの抗弁だった。終始、身体中が重苦しい感覚に襲われる。
「ええと、つまりあなたが実はLtd.Ⅴのプロデューサーで、たまたま白咲真己さんと同じ学校に通っていると。そして2人で職場に向かう途中、写真を撮られたと。そういった認識でよろしいでしょうか」
「間違いありません」
「いやあ、それは理解に苦しむというか。百歩譲って、ですよ。あなたが本物の黒馬央司プロデューサーだとして、異性としての関係もないとして、偶然と呼ぶには少しできすぎている気がしてならないのですが」
「ええ。しかし、それが事実の場合もそう言うでしょう」
「あなたが黒馬央司だとしても、結局は多感な思春期の男女に変わりない。本当に白咲真己さんと異性としての関係がないと証明できるのですか」
「それは悪魔の証明というものでしょう。異性としての関係があると疑惑をかけるのであれば、その主張者が証明するというのが人道だと心得ていますが」
一応、敬語は辛うじて保っていた。彼の毒舌っぷりは相変わらずだったが。
「白咲真己とは私的な関係は一切ない。といっても、特にファンの皆様にとっては確かに疑問の残るところでしょう。先ほど、在学していた学校の退学届が正式に受理されたとの連絡がありました。昨日付で、私は白咲真己の通っている学校を中退しています。これにより、私が白咲と学校において接触することは一切なくなりました。そして、白咲真己、いや、Ltd.Ⅴのメンバーとの私的な接触を一切しないと、この場を借りて誓約させていただきます」
言葉を失った。周囲がぐるぐると回るように、彼の姿を目に留めることができない。柊樹がこれまで粛然と守ってきたものを、私は侵してしまった。
「黒馬央司プロデューサーは、メディアに対する露出を一切控えていたはずです。なぜ今回は公の場に姿を見せたのですか」
「プロデューサーだからです。白咲の立場では、私が黒馬だと隠して会見することになる。それでは、あなた方の前で恰好の的になるだけ。それが、許せなかっただけです。今後もメディアに出るつもりはありません」
「今回の件で、ご自身の責任をどうお考えですか」
「プロデューサーとアイドルの通勤が重なったという事実に、どんな責任が生じるのか。誤解を生み、世間を動揺させてしまったことに関しては繰り返し謝罪します。しかし、責任の所在というならば、事実誤認の記事を出した週刊誌側はどうです。スクープを本職としながら、相手が黒馬央司だとも裏が取れず、早とちりして捏造記事を売買したわけですから」
スタッフがもう時間だと会場中に訴える。黒馬は「最後の質問にしましょう。何についてでも構いません」と仕舞いに入る。会場の後ろで群衆に潰されかけていた記者が権利を得た。
「Ltd.Ⅴというグループは全てが規格外だ。5年という限定された活動期間。Ltd.Ⅴの、あなたの目的は、一体何なのですか」
会場中に轟く声量だった。黒馬がほくそ笑む。
「良い質問ですね。アイドル戦国時代を終焉に導くこと。ただ、それだけです」
マイクをスタッフに渡し、頭を下げる。アイドル界全体に、激震が走る。Ltd.Ⅴの目的が、プロデューサー自身の口から明言された。胸に温かいものがこみ上げてくる。そう感じた頃には、一筋の涙が頬を伝っていた。退出間際、黒馬は思い出したように振り向く。
「ああ、そうそう。本日12時、予定通り4枚目シングルのMVが公式動画チャンネルにて公開されます。是非、ご覧ください」
不気味なほど弾けた笑顔。会場から出てきた彼と相見する。紅潮した私の顔を見て、呆れたと言わんばかりに眉をひそめる。彼は、学校に行けと言ったはずなのに。私は逆らった。
「もう、誰も守ってくれないぞ」
そう言って、彼は私の前から姿を消した。柊樹は、やはり死んだのだ。
2022年2月18日のLtd.Ⅴに関する一連の出来事は、まさに日本中を席巻した。平日の午前中だというのに、公式動画チャンネルにてライブ配信された会見動画の同時接続数は9万人を超えたらしい。アーカイブの再生数は今もうなぎ登りだという。ネット上ではスキャンダルを欺瞞するための運営側のシナリオだというのが多数派だった。しかし、彼がかつての天才中学生漫画原作者・柊樹であると特定されると、柊樹=黒馬央司である証拠が次々に列挙され始める。あとはもう、匿名同士の代理戦争だった。
そして、会見終了から2時間後にはLtd.Ⅴの最新シングル『沈黙の螺旋』のMVが公開された。無限に続く螺旋階段を上る少女たち。彼女らはこの世界から抜け出そうとする少数派の人間だった。途中、この世界を妄信する多数派が彼女らの行く手を阻む。懇願するも同調圧力に負け、逃走するも仲間が次々と囚われていく。次第に孤立していく恐怖と葛藤する中で、彼女らはようやく螺旋階段の正体が長い物に巻かれている自分自身であったことに気づくというものである。
現代社会を風刺する一曲。然るに撮影時にはなかった既視感がある。間違いない。まるで今日という1日を表しているかのようだった。やはり、偶然なんかじゃない。徐々に世間も気づき始めるだろう。果然として私たちは皆、黒馬央司の描いた戯曲の中に存在しているのだと。
*
MVが公開されてから十数分は経っていただろう。移動中の車内で、黒馬のスマホの着信音が騒々しく鳴り響く。どこで音量設定を間違えたのか。眠気で虚ろとしていた意識が呼び戻され、顔をしかめながらスマホを探す。信号が黄色に点滅し、ドライバーが数回にわけてブレーキを踏む。そういえば、後部座席の隣に鬱陶しいスーツと一緒に放り投げていた。上衣の内ポケットからスマホを取り出し、電話の相手を画面で確認する。そこには懐かしい名前が表示されていた。
「久しぶりだな、嶋岡」
『久しぶり。会見、見たよ。驚いたな、君が黒馬央司だったなんてね』
「どうした、うちのメンバーと繋がりたいって話ならすぐ切るぞ」
『はは、アイドルオタクとしての節度は守るさ。それより、1つだけ聞いてもいいかな』
じんわりと瞬きする。無言の肯定。スマホを介して、お互いの気配が伝わる。
『どこまでが、計算なんだい』
「人為的だとでも言いたげだな」
『ある程度はね。すべてが偶然だとは思えないよ』
「事実は小説よりも奇なりというだろう」
『君に限っては、どうかな』
2人して、顔が綻ぶ。
『新たな場所で君がどんな物語を見せてくれるのか、期待しても良いんだよね』
信号が青に変わる。じわじわと踏み込まれるアクセルが、加速度的に車体を動かしていく。
「さあな」
#MC-柊樹②-
ライブ前の暗晦が、心の機微と調和して安らぎを与える。2千人は収容できる規模だった。ライブ会場中に響くオフボーカルの音楽、観客同士が話す声。すべてが雑音という一言に換言され鼓膜を叩く。1階はスタンディング、2階は座席。入場開始と同時に、2階の最前に構えた。15歳とは不相当にやつれた表情だったのだろう。嶋岡が俺の顔を覗き込む。
「誘っといてなんだけど、本当に良かったのかい」
「こういうのも、たまにはいい」
出版社から契約を打ち切られ、漫画原作者を引退すると伝えても、嶋岡は繋縛しなかった。ここではもう、柊樹はオワコンなのだと悟ったのだろう。編集者としての直感と、原作者としての予見が合致した。それだけの話。いつものように「アイドルのイベントに行かないか」と別れ際に誘ってきた。普段なら断る。嫌味の1つも言っていたかもしれない。でも今日は首を縦に振った。何に期待しているのだろうか。自分は、何を求めているのだろうか。制服のまま。明日から学校も本格的に始まると言うのに、何を考えているのだろう。
間もなく開演だと、女の子の声でアナウンスが入る。インディーズからメジャーに進出したばかりの今話題の3人組アイドルだと、横で嶋岡が浮き立ちながら饒舌に語り始める。そのほとんどを聞き流していたけれど。そうこうしているうちに開演を知らせるOVERTUREが流れ始める。呼応するかのようにコールするファンたち。初めて経験するにはあまりに奇々怪々で当惑した。可愛い衣装を纏った女の子たちの登場に、会場がさらに白熱する。アイドルとファンが共鳴し、1つのステージを作り出す。そんな単純な話じゃない。女の子、衣装、音楽、ステージ、裏方、ファン……すべてが一体となって織り成す総合芸術の名を、人々は「アイドル」と呼んでいるのだろう。
「あのセンターの子、名前なんて言ったっけ」
「吉岡咲だよ。気に入ったのかい」
「いや、なんていうか、もったいないなって」
嶋岡は小首を傾げた。その時の俺は、上手く説明できなかった。吉岡咲と後ろの2人が魅せるアイドルとしての笑顔の裏に隠された闇のようなものの正体を。それでも美しかった。居ても立っても居られなくなり、席を立ちあがる。後ろの観客が不快そうに顔をしかめる。マナー違反なのは分かっていた。周囲を気にしながら「もう帰るのかい」と嶋岡がせかせかと荷物をまとめ始める。
「大丈夫。1人で帰りたいんだ」
俺の清爽な表情を確認して、安堵したのだろう。「そうか。じゃあ、元気で」と力強く別れを告げる。また今度、がない。もう、会うことはないのだろうと互いに予感していた。だから、「嶋岡こそな」とだけ返した。盛り上がるライブ会場を1人後にする。
アイドルという芸術の存在を、真に知る。神も奇跡も信じてこなかった。救いの手など、差し伸べられないと知っていたから。必死に繕ってきた。これまで数えきれないほど苦患の連続だったはずなのに。——それでも今、涙が止まらなかった。
#第4話-吉岡咲①-
13歳の時から、アイドルをやってきた。でも、アイドルになんてこれっぽっちも興味はなかった。あったのは芸能界に対する何となくの憧れだけ。同級生より身体の発達が早熟でスタイルにも特段の自信があった私は、休日はおませにも着飾り、意味もなく渋谷や原宿を1人で歩いたものだった。原宿で「アイドルにならないか」とスカウトされた時、「遂にきた」と緩む口元を誤魔化すので必死だった。モデルのスカウトではなかったことに少し不満を覚えたけれど。しかも、インディーズ。それでも、まんざらでもなく諾した。当時は自己顕示欲の化け物だったと、自分でも思う。歌って踊って愛想良くしていればいいんでしょという軽いノリでアイドルの世界に足を踏み入れた。芸能界への通過点には丁度いい。そんな甘い考えでいた。
「ざけんなっ」
そう脅嚇すると同時に、マネージャーが楽屋にあったステンレス製のゴミ箱を蹴り上げる。甲高い悲鳴が床の布タイルに吸収されて静まるのを待った。数枚のペーパータオルと一緒に、朝コンビニで買ったサラダチキンの空パックが散布する。これが日常だった。気に食わないことがあるといつもこう。でも、決して私たち本人には暴力を振るわなかった。きっと、もっと上の存在によって彼らも調教されていたのだろう。商品に傷をつけるなと。マネージャーが激昂し、暴れ疲れて部屋を去るまで私たち3人は椅子に座って静かに待っていた。
「また楽屋散らかっちゃったね。掃除し直そうか」
こういう時、最初に言葉を出すのは決まって佐倉萌香だった。3歳年上の彼女は当時の私とは何もかも正反対。彼女が嫌いでたまらなかった。大のアイドル好きで、愛想が良く常に前向きなとこ。ショートヘアが似合い、笑顔が絶えず左頬にだけ笑窪ができるとこ。私を差し置いて、センターをしているとこ。全て。
「一番お姉さんだからって、仕切らないで」
「違うよ。提案しただけ」
「それがうざいって言ってるの」
反抗期みたいなものだったのだろう。お父さんの入った湯船に後から浸かりたくないという拒絶感に似ている。そのくらい、萌香の言動に過剰に反応していた。私たち2人の言い合いの仲裁者はいなかった。もう1人のメンバーである沙耶は基本他人に干渉しない。私より1つ年上の彼女は、スマホを触りながら傍観しているのが常だった。
「うっそ」
溜息交じりの一驚に、思わず沙耶の方に視線を向ける。吐息と声量があまりに釣り合っていなかった。
「また給料減ってる」
「噓でしょ。だって……」
沙耶がスマホの画面をこちらに向ける。ネットバンク内の通帳には確かに数千円しか振り込まれていない。取り急ぎ自分のスマホでも調べてみるが、沙耶と変わらなかった。到底信じられる金額ではなかった。小さなライブハウスとはいえ、今日含めてライブだけでも今月24回。握手会やチェキ会といったイベントやインターネットテレビ番組の撮影もあった。着実に知名度も活動範囲も広がっているのに、給料だけが減っていく。これらの相関関係が、授業で習ったばかりの反比例のグラフとして脳裏に描き出される。アイドル活動の傍らで受けていた義務教育がようやく活かされた気分になった。
「沙耶、プロデューサーと掛け合ってみる」
「無駄だよ。むしろ迷惑。どうせマネージャーみたいに暴れるだけなんだから」
そう、逆上するだけ。14歳になったばかりの私でも気づいていた。いいように使われているだけだって。事務所と契約してから最初の2カ月は1円たりとも貰えなかった。プロデューサー曰く、理由は「レッスン代を給料から差し引いたから」。反論したが脅され、それ以上何も言い返せなかった。
「それじゃあ沙耶たち、何のためにアイドルやってるの」
沙耶が涙目になりながら訴える。何のため。そんなもの、ここにいる3人ですらみんなみんな違う。私は自己顕示欲のため。萌香はアイドルに憧れて。沙耶は小遣い稼ぎ。目的は異なるけれど、3人ともアイドルという同じ仮面を被っている。
「そもそも、アイドルって、何」
気づいたら、言葉に出していた。萌香の方を向いて。反抗心は微塵もなかった。ただただ、答えを知りたかった。アイドルになった、自分の正体を。自分が何者であるのか。
「萌香、教えて。アイドルって、一体何。どうして萌香は、アイドルが好きなの」
何かを言いかけて、萌香は下を向く。ただ、いつも通り明るく答えて欲しかった。それが納得いくものではなかったとしても。返答する気配はしばしば訪れたが、結局、萌香が答えを示してくれることはなかった。
私たちのメジャーデビューの話が舞い込んできた中学3年生の夏、萌香が倒れたと事務所から連絡があった。大人たちが話し合いをするため、その日は急遽オフになり、とりあえず学校帰りに沙耶と合流してお見舞いに行くことにした。
「私たちって、正直、仲悪いじゃん」
病院の個室で萌香が寂しそうに言う。彼女の腕には点滴が固定されている。シーツや病衣から放たれる漂白剤の匂いが鼻について、どうにもいたたまれない。ここに来る前に沙耶とスーパーに寄ったが、お見舞いに何を買っていくべきか2人とも分からなかった。エナジードリンク、花束、暑いからアイスクリームが正解なのだろうか。そういえばドラマじゃ果実が定番だ。でも、りんごの皮を自分で剥いたことなんてない。それに果物ナイフは病院にあるのかなとか、考えるのが面倒になって私が好きな東京ばな奈を買っていくことにした。それなのに萌香はクスリともしなくて、余計にきまりが悪かった。
「けど、こうしてお見舞いに来てくれるの、すごく嬉しいな。怪我の功名って言えばいいのかな。あんな事務所でも感謝しなきゃだね」
言葉足らずで、理解するのに数秒を要した。きっと、共通の敵がいるから私と沙耶がお見舞いに来たのだという認識なのだろう。劣悪な環境下で闘う同志。萌香の口から事務所を中傷する言葉を聞いたのは、これが初めてだった。
「過労が原因って聞いたけど」
「うん、ちょっと気張りすぎたみたい。受験勉強で最近あまり睡眠時間とれてなかったから」
沙耶の確認に、萌香が苦笑いする。萌香は私の3つ上。ということは、高校3年生。そういえば、最近は仕事の合間に勉強している萌香の姿をよく目にする。
「大学受験、するんだ」
道中にかいた汗が、適度に調節された室温によって少しずつ引いていく。インナーに残る湿り気だけが不快だった。
「そのつもり」
ふっくらとした薄桃色の唇がかすかに揺れる。とっくり見ると、確かに面やつれしている。腕も、昔は適度に肉付きが良かった。今はまるで小枝のようだった。
「1年くらい前、咲が私に聞いたじゃん。『アイドルって何。どうしてアイドルが好きなの』って」
「そんなこと、あったかな」
ちゃんと覚えていた。何故だか照れくさくて、覚えていないふりをした。
「その時、私は答えられなかった。アイドルに憧れてアイドルになったはずなのにね。自分が好きだった理想のアイドル像と、アイドルをしている自分とのギャップに気づいて、何も言えなくなってしまったの」
気づかなかった。萌香の中に、あの時そんな葛藤があったなんて。アイドルを知らない私は、どこか萌香を模範的アイドルだと画一的に捉えていたのだと思う。
「アイドルは好きだけど、アイドルをするのは自分じゃないって。元々ファンだったからこそ、分かっちゃうんだ」
「そうかな。むしろ沙耶たちの中で一番アイドルに向いている気がするけど」
萌香が弱々しく首を横に振る。言いたいけれど言えない何かを、胸にしまい込むように。3人の間に少しの沈黙が流れた後、萌香がゆっくりと私の方を見る。優しい表情だった。
「私も1つ、咲に聞いていいかな」
「ん」
「咲はどうして、いつも地下アイドルのことをインディーズって言うの」
「地下アイドルって言葉が好きじゃないだけ」
「なんで」
「なんか、悔しいから。陽が当たらない感じで」
言葉に出すと、少し恥ずかしさが残る。はにかむ私の表情を見て、萌香が悪戯に笑う。
「それを聞いて、お姉さん安心したなぁ」
「子供扱いしないで。私もう、中学3年生だよ」
「うんうん、子ども子ども」
私の頭を撫でるふりをする。この頃には萌香に対する敵対心も薄れていた。多感な時期を脱却しつつある時で、少しずつ大人になっていたんだろうと思う。
「ねえ、咲。メジャーデビューシングルからは、あなたにセンターをやって欲しい」
「え」
声を出したのは私だけではなく、沙耶もだった。沙耶と顔を見合わせて、互いに首をかしげる。キョトンとする私たちを見兼ねて、後押しするように言葉を続ける。
「私が推薦したの。プロデューサーも了解済み」
同意を求めるように、萌香が沙耶の方を覗き込む。
「沙耶は全然いいよ」
けどと付け足しながら、今度は沙耶が私の表情を覗き込む。もちろん、願ってもないことだった。アイドルにスカウトされた時から、ずっとセンターに立つことを夢見ていたから。だから、グループが結成され、プロデューサーからセンターは萌香でいくと発表された時、悔しさと怒りで目が腫れあがるほど泣いた。自分より目立つ存在がグループ内にいることが、許せなかったんだと思う。それから今まで、センターに立つことはほとんどなかった。カップリングでは何度かあったけれど、表題曲は一度もない。
センターには立ちたかった。でも、ここでセンターに立ってしまっては、大事な何かを失ってしまう気がした。
「メジャーデビューを一番夢見ていたのは、萌香の方だったのに」
「うん。でも、メジャーの場でセンターに立つのは私じゃない。元アイドルファンの感性が、そう訴えてる」
小枝のような腕が、そっと伸びてくる。私の手を優しく握り、「だから、お願い」とダメ押しした。まるで決定事項のように、彼女は断る隙を見せなかった。
「わかった」
何もわかってなかった。それでも気乗り薄な様子で首を縦に振った。こんなはずじゃなかった。私がなりなかったセンターは、こんなはずじゃなかったんだ。
私はこの日、曖昧模糊とした状態でセンターになることが決まった。
*
この年の冬、念願のメジャーデビューを果たした。私が初めて表題曲でセンターを務めることになったメジャーデビューシングルは週間ランキング1位を獲得し、音楽番組に引っ張りだこになった。
一方、給料が少しはマシになっただけで事務所の横暴さは相変わらずだった。無理なスケジューリングに法律を度外視したビジネススタイル。暴言や暴力を用いた脅迫は日常茶飯事。劣悪な労働環境に変わりはなかった。当然だ、人が変わったわけではないのだから。それでも、淡々とすべてをこなした。何か思慕することがあったわけではない。露出の多い衣装に対する抵抗が次第に薄れていくように、正常な判断能力も擦り減ってしまっていたんだと思う。
内情とは裏腹に、世間からの私たちに対する注目度は日に日に増していく。メジャーデビューの翌春には2千人以上のファンを前にライブする程までに成長していた。全てが順調だった。それが、逃げ場をなくしていたように思う。この時の私は目の前に現れた仕事を事務的に処理するだけの機械と化していた。そうして視野狭窄に陥り、自らを破滅へと追いやっていくことになる。
その晩春、佐倉萌香は首を吊って自殺した。
#第5話-吉岡咲②-
萌香の葬儀は、関係者のみでしめやかに営まれた。嗚咽する彼女の両親の姿見て、佐倉萌香という人生の存在を知る。
索条痕も綺麗に修復されており、死化粧された萌香の表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。自ら命を絶った人間のそれには相応しくないほどに。ずっと笑顔だったけれど、この表情こそが自然体だったのだなと今になって気づかされる。
何より衝撃を受けたのは、彼女のお腹に新しい命が宿っていたことだった。その命の父親は誰か、分かっていない。にも関わらず、事務所側はその事実を否認して隠蔽することに必死だった。腐った大人たちの不自然な行動からもたらされる憶測が、芸能界の深淵に沈吟していく。
私は、何も知らなかった。何も知らなかったんだ。萌香が知らないところで、もがきながら、別の何かと戦っていたことに。知らないところで、その何かから私たちを守っていたことに。自分のことしか見えてなかった私は、どうしようもなく、愚かだった。
「萌香、どうして大学受験なんてしたんだろう」
火葬場に向かうマイクロバスを横目に見送って、沙耶が細い声で聞いてきた。
「ううん。わからない」
わからないことだらけだった。私が知っている萌香は、本当の萌香だったのか、それすら定かではない。
プロデューサーや事務所の幹部を乗せた車が、マイクロバスに続いてせこせこと走り去っていく。萌香の訃報を業務用メールで送ってきたきり、私たちなどかまっている暇はないと言わんばかりにほったらかしだった。それどころじゃないのだろう。メジャーアイドルの奇妙な自殺を口火に、事務所がしてきたこれまでの悪事が暴かれていく。警察に労働基準監督署、叩けば埃は出てくるようで、脱税疑惑で国税庁までが動き出している。きっと、あまりの世間の関心に、今まで事務所を裏で守ってきた連中もお手上げだったのだろう。保身に必死な様子だった。
2人して、葬儀場の最寄りより1つ先のバス停まで歩いてきた。示し合わせたわけではなかったが、無言のまま気脈が通じたようにここまで来ていた。道沿いに並ぶ桜はほとんどが散っていて、それを追い越さんとするばかりに若葉が覆っている。「桜餅みたいだね」と言いかけて、まだ無言の空間を貫いた。薄紅色の花びらが昨夜の雨で湿った地面に残っている。
暫くの静寂が破られる呼び水となったのは、バス停に着いてから鳴ったスマホの着信音だった。沙耶のスマホも同時に反応していたから大方の送信者を予測して画面を開くと、マネージャーから「グループは解散する」と一文だけ記されていた。別に驚かなかった。最後まで雑な扱いだったなという乾いた感想が、「はは」と2文字の冷笑に変換されて口から零れた。
「沙耶は、これからどうするの」
「もういいかなって思ってる。元々、アイドルに拘りなんてなかったから」
「芸能活動自体、もうしないってこと?」
「うん。もう色んなバイトもできるようになったし、何より萌香が命を賭して切り開いてくれた脱出口だから」
「なんか、最後まで守られっぱなしで、すごく惨め」
「惨めだし、自分が許せないよ」
沙耶が下唇を噛む。彼女の正面には、無数の車が行き交っている。
朝のワイドショーで、最近テレビでよく見るコメンテーターが「なぜこうなる前に逃げなかったのか」と無責任に言っていた。そんなこと、何回もやっている。辞めると言えば違約金を支払えと脅され、親を仲介しても本人の問題だと突っぱねられ、強行突破を試みれば命の保証はなかった。私たちにもう幾ばくかの知恵と勇気があれば、逃走を成功させることができたというなら正論に近づくかもしれない。けれど、面白おかしくトリミングされた情報だけで、私たちの人生を軽薄に侮辱することは許せなかった。
所詮、世間の関心なんてさっきの桜と同じで一瞬にして儚く散っていくというのに。散った後に懸命に芽吹く若葉には、一切の興味なんてないのだから。
「普通の女の子に戻れるの」
「わかんない。でも、戻りたい」
沙耶の言葉は力強かった。そんな彼女の姿に、私は安心した。
「咲は。咲はどうするの。これから」
「別の事務所のオファーを受けようと思ってる」
「芸能界に残るんだ」
「アイドルはもうやらないけどね」
憧れだったモデル業に挑戦したいと言葉を続けようとして、言葉にならなかった。いつの間にか幼い頃からの夢でさえ雲散霧消していたことに気づく。すると突然、とてつもなく空虚な感情に晒される。今の私には、何もないのだ。
萌香が亡くなってからというもの、いくつかの事務所から転籍のオファーが来ていた。悲劇のヒロインでも求めてるのだろう。個人的には、そんな不謹慎な事務所などろくでもないと思っていたが、受けることにした。これからどうするべきなのか、何かしたいのか。もう、自分でも分からなかった。
「軽蔑した?」
「いや、全然」
バスは時刻表通りに来た。ドアブザーを鳴らしながら乗車口が開くと、沙耶はICカードを読み取り部にかざしながら粛然と乗車する。席はほとんどが埋まっていて、優先席が1席空いているだけだった。沙耶は振り返ると、バス停で立ち止まったままの私を不思議そうに見ている。
「乗らないの」
「1つ後のバスで帰ることにする」
「そう。ずっと、応援してるから」
「そっちこそ。楽しいJKライフ、聞かせてよ」
話している途中にドアブザーが鳴り、後半をかき消された。沙耶を乗せたバスが、走り去る。車体の大きなバスは他の車両群に溶け込むことはなかったが、次第に視界から消えていった。
次のバスが来るまで、20分はあった。それでも、同じバスに乗ることはできなかった。沙耶のこれからの人生に、私がいてはならない。
スマホの画面を再度開くと、グループの公式サイトの更新通知が届いていた。昨日更新された萌香の訃報に続き、グループが本日付で解散されるという内容が新たに加えられている。事務所は公式サイトにおいても、記者の取材に対しても、佐倉萌香の遺書は見つかっていないため自殺の理由は不明だと主張していた。その真偽は定かではないが、私のところには萌香から私用のSNSにダイレクトメッセージが届いていた。多分、沙耶のところにも。内容は私の未来に関することだった。けれど、そこにグループの未来については一切記されていなかった。
だから、これだけは分かった。萌香はメジャーという、より多くの人目につく世界で自ら命を絶つことで、事務所の悪事を暴露し心中を図ったのだ。そうすることで、屈辱的な扱いをしてきた奴らに対し復讐を果たした。そして、同時にその呪縛から私たちを解き放ってくれた。
「お姉さんぶらないでよ……」
喉がぎゅっと締め付けられた感じがして、しわがれた声になった。気づけば、私がアイドルになった時の萌香と同じ歳になっていた。高校一年生。誕生日を4月頭に迎えている私は、16歳になっている。いざこの歳になってみると、まだまだ全然子供だなと思う。萌香はこの年齢の時から、ずっと芸能界に蔓延る見えない何かと戦っていたのだろうか。未熟な身体と、見栄でしか大人になれない心で。
結局私は、次のバスにも乗ることができなかった。
*
——夜遅くにごめんね。咲が寝ているであろうこの時間に送ってしまいます。
佐倉萌香の死から、半年が過ぎた。グループ解散を発表した後、事務所は呆気なく潰れ、私は沙耶に話した通り別の芸能事務所に転籍した。オファーを出してきた事務所の思惑通り、当初は話題性も手伝って仕事の話がいくつか舞い込んできたが、それらを受けることは萌香の死を利用しているようで、胸を締め付けられる思いがした。
——まずは、勝手な行動で咲たちにまで迷惑かけたこと、謝らせてください。多分、大変な騒ぎになってるよね。でも、私にはこれくらいしかできなかった。
それでもやはり、世間の関心なんて一瞬だった。芸能人が不倫しようが、ひき逃げ事故を起こそうが、とどのつまり仮初の正義と使い物にならない綺麗事を並べる人間が一時的に繁殖するだけで、1か月後にはそのほとんどが忘れている。それがたとえ、18歳のアイドルが陵辱された挙句、自ら命を絶つという悲劇だとしても。
——事務所からグループのためだと言われて、これまで身も心も汚してきた。2人には言えないようなことも、たくさんしてきた。2人を守るためだと言い聞かせて。でも同時に、アイドルとしての私は死んでしまった。そんな自分が、許せなかった。
今でも時々、萌香からの最期のメッセージを読み返すことがある。もう暗唱してしまうほど繰り返し読んだが、やはり文字として目にしたかった。読み返すたびに、毎回違う感情が現れる。憤怒、悲哀、同情、自己嫌悪、悲憤、後悔、感傷。この時だけ、感情の機微に聡い血の通った自分と巡り会うことができた。
——私には、もう何もない。もう戻れない。
アイドルでなくなった私の芸能活動は、どうにも冴えないものだった。映画でよくある、正解を選ばないと同じ日常のタイムループから脱出できない世界を生きているように、うだつの上がらない日々を脱力的に処理しているだけ。かつて強欲なほどにあった原動力ともいえる自己顕示欲は、影も形もなくなっていた。
——けど、咲は違う。咲は、才能に溢れてるから。もっともっと、輝ける。でもそれは、今いる場所じゃない。
今日も色気のない末枯れた木々が並ぶ街道を通って事務所に向かう。惰性に生きる時の移ろいは、味気なく刹那的だった。
「吉岡、ちょっといいか。君にお客様だ」
しかしこの日は少しだけ違った。事務所に着くとマネージャーに呼ばれ、応接室へと通された。この事務所に転籍して半年が過ぎたが、来客用の応接室に入るのはこれが初めてだった。
——これから記す内容は、私が見届けたかった咲の未来の話です。
応接室に入ると、大きな黒いソファに小ぢんまりとした様子で1人の中年男性が座っていた。中年男性というにはまだ若い気もする。30代前半、いや、童顔なだけで40歳は過ぎているかもしれない。とにかく、如何にも高級そうなスーツを清爽に着こなしており、この人は裕福で何一つ不自由ない生活を送っているんだなという独りよがりな印象が目に張り付いてきた。いわゆる、勝ち組というやつなのだろう。
男性はすぐさま立ち上がり、手慣れた様子で名刺をこちらに差し出してくる。
「はじめまして。私はLtd.プロダクションの田辺健治と申します。本日はLtd.Ⅴプロデューサー・黒馬央司の代理人として話をしに参りました」
「Ltd.Ⅴ……黒馬央司……?」
社会人のマナーは分からなかったが、それっぽく名刺を受け取った。聞き慣れない名前ばかりで困惑していると、一緒に入室したマネージャーがとりあえず座るように促す。対面するようにソファに座ると、田辺は背筋をぴんと張り、姿勢を正した。
「単刀直入に申し上げます」
——そのためにはまず、あの時答えられなかった質問に今、答えようと思います。
「Ltd.Ⅴのメンバーとして、もう一度、アイドルをしていただけませんか」
分水嶺は、出し抜けにやってきた。
#第6話-吉岡咲③-
——アイドルとは何者なのか。
芸能界に残ると決めた時も、もうアイドルはやらないと心に決めていた。東京の街中でスカウトを待ちわびていた13歳の自分とは違う。
「折角のお話ですが、アイドルは引退したんです」
そう言いきって、口をつぐむ。面様を窺うために視線を膝元から移すが、田辺の表情はまるで動じていない。予想通りの返答がきたと言わんばかりの様子で、少し気味が悪かった。
「どうして、というにはかまととが過ぎますね。あれだけのことを経験された後ですから」
あれだけという指示表現が抽象的で、余計に鼻につく。私の、私たちの何を知っているというのだろう。結局この人も私の話題性だけを利用しに来た醜い大人の一人だ。その裏に隠れている、黒馬央司という人物も然り。
「もうよろしいでしょうか」
「本気ですよ」
腰を浮かせた瞬間、田辺は食い気味に言った。彼の真っ直ぐな瞳孔に映る私の表情は、本音と建前が交錯している。嫌悪感が隠しきれていない。
「黒馬央司は、本気ですよ」
今度は主語を明確にして言う。せめて冗談っぽく言ってくれれば、こちらも苦笑いで対応できたものを。不愉快でしかなかった。何をこの人は、こんなにも必死になっているのだろう。
丁重に一礼し、マネージャーを置いて私だけ応接室を後にした。その後の応接室でどんなやり取りがされていたのかは知らないが、マネージャーが一切口を出していなかったあたり、この件は上も了承済みなのだろうということは分かった。つまり私は事務所にとって居なくなっても惜しくない存在だということ。私に商品価値を見出していた半年前とは、当てが外れたのだ。
その翌日も、翌々日も、田辺は事務所に来た。意地悪だなと分かっていながら、彼の待つ応接室の前をあえて素通りして、交渉に応じる意思がないことを明確に示した。それでも、さすがに4日連続で面会を求められた時、応接室の扉を粗雑に開けて「本気なら、せめて黒馬さん本人に来させてはいかがです」とだけ言ってやった。もちろん、黒馬が直接交渉に来れば受けるという意味ではない。無駄なおつかいから田辺を解放してやりたいという、せめてもの善意のつもりだった。
そんな片手間の善意を人に与えたところで気分は晴れず、インターネットテレビ番組用のアンケート書類を書く手が度々止まった。その度に手に持っていた鉛筆を意味もなく転がして、思いに耽る。
自分は、何をしているのだろう。鉛筆のようにこのまま身を削りながら、終えていくのだろうか。だとすれば、意味のない独立した線を淡々と描くだけの命は虚しいだけだ。鉛筆の芯は、硬いものが薄く、柔らかいものが濃い。理屈としては分からないけれど、いつの間にかそうだと知っていた。色んな芯で描いた明暗なる線を織り成して、1つの芸術作品を作り上げる。そんな人々の心に残るような素描をしたいという気持ちは、私の中にまだ残っていた。それでも、今の私に綺麗な線は描けない。沙耶は普通の女の子という新しい色を見つけたというのに、結局私は半年経った今も何者にもなりきれてはいないのだ。
自宅に帰ったのは夜8時を過ぎていた。集合住宅に世帯を構えている我が家だが、元々はもう少し家賃の安いところに住んでいた。しかし、私のアイドル活動が軌道に乗り始めメジャーデビューの話が出始めた頃、父親がセキュリティのしっかりした今の家に引っ越すことを提案し、母親が即決した。父親は単身赴任中で、直接会うのは年に数回程度。母親は最近、昔働いていた職場に復帰して、今日は遅くなると連絡が入っていた。普通の家庭といえば、そうかもしれない。その普通を奪ったのは私自身。両親は私の芸能活動には一切言及しない人だった。それは私も同じで、仕事の話はほとんどしたことがない。けれど、わずかでも私が映っている番組があれば録画されており、ワンカットでも掲載されている雑誌があれば必ず発売日に本棚に並べられていた。アイドル時代に出したCDやDVDも、初回限定盤から通常盤まで全て揃えられている。
帰りにコンビニで買ってきたサラダとサラダチキンに、ウォーターサーバーからグラスに注いだ軟水を合わせてこの日の夕飯とした。柔らかい肉質のサラダチキンとドレッシングの酸味が見事に調和する。当然これだけでお腹が満たされるわけがない。でもこれが私のアイドル時代からの習慣になっている。昔はプロ意識とスタイルを維持したいという自己顕示欲が原動力だった。今は、正直わからない。
食事を終えて歯を磨くと、自分の部屋に戻ってベッドに倒れるように寝転がった。
「あー、疲れたぁ」
意味のない独り言だった。特段仕事をこなしてきたわけでもない。呼吸するように吐いた、本当に無意味な独り言。最近やたらと増えた気がする。ベッドの上に横たわりながら、お決まりの動画サイトを開く。ホーム画面にはおすすめ動画が並んでいて、2つに1つはアイドルに関連する動画だった。ここでもアイドルの世界に誘われようとしている。まるで私の現実を風刺しているようだ。
ホーム画面をスクロールしていると、私が所属していたグループのまとめ動画が出てきた。今より1歳か2歳若いだけなのに、ずっと幼く見える。萌香も、沙耶も。あんなことがあった、こんなこともあったと思い出を追懐して、思わずにやついている自分がいた。
「楽しかったなぁ」
また独り言だった。独り言だったのが、妙に寂しく感じた。追憶とともに、乾いた空気の中で消えていく。
途中、動画広告の画面に切り替わった。真っ先に打ち出された「アイドル募集」の文字。またか、と思ってしまう。折角の神妙な気分が台無しだ。ところが、「Ltd.Ⅴ」という既定のグループ名を見て、広告をスキップしようとしていた手が止まる。
「Ltd.Ⅴって確か……」
そうだ、間違いない。田辺が勧誘してきたグループの名前だ。スマホで検索してみると、思いのほかヒットした。動画サイトだけじゃなく、アイドル関連番組の合間のテレビコマーシャルや若者向け雑誌でも広告を載せているらしい。聞いたこともない芸能事務所、プロデューサー。それなのに、各メディアで広報活動ができるほどの資金源を持ち、大手レコード会社とも繋がりを持っている。傍から見れば確かに美味しい話だろう。いきなりメジャーレーベルからのメジャーデビューを約束しているのだから。でも、正直不気味だった。今まで見てきたアイドルとは、決定的に何かが違う。その理非曲直は明言できなかったけれど。
よく見たら応募期間は今日の夕方に締め切られている。田辺はそんな時期に、毎日私の事務所に足を運んでくれていたのかという考えが脳裏を掠め、同情とも温情とも言えない煩雑な感情が、心の中で絵の具のように混ざり合う。だが、応募期間は終わった。これでいい、これでいいのだと自分に言い聞かせ、考え事をしているうちにそのまま眠りについてしまった。いささかプロ意識に欠けていたなと、自分でも思う。
しかし翌日も田辺は事務所に来た。この日は火曜日だったが祝日で、朝起きてからゆっくり支度をしてそのまま事務所に向かった。昨日の夕方から明朝にかけて降っていた雨は止んでいたものの、曇り空に変わりはなかった。11月に入ってからずっとこの空模様である。これまでと同様に応接室の前を通り過ぎたところで、ぴたっと足を止め、弱々しく溜息をつく。潮時かもしれない。踵を返し、応接室の扉を開けた。田辺はちょうど手に取っていたコーヒーカップをゆっくりとソーサーに戻し、ソファから立ち上がって一礼した。
「本日も、お時間よろしいでしょうか」
「もう、Ltd.Ⅴのメンバー募集期間は過ぎたはずです」
そう言ったところで田辺は私にも座るように促した。私はしぶしぶ承諾して田辺と対面するように座ると、すぐさま会話の続きに戻った。
「ええ。しかし、これはスカウトであって広報ではありません。応募期間に束縛されることも、オーディションだって受ける必要はありません。たとえ貴方が希望したとしても、黒馬は受けさせないと言うでしょう」
「どうして、私にこだわるんですか」
——アイドルは、人々を幸せにする存在。私はそんなアイドルの姿に憧れた。
「私の世間からのイメージは、今やただの汚れた芸能人。ビジネスマンが冷静に考えるならば、私がアイドルをやることはむしろデメリットしかないはずです」
汚れ。枕営業や闇営業が横行していた環境下にいたのだから、世間は画一的にそう捉えている。事実なんて関係ない。世間は面白おかしく邪推したがるものだ。
——けれど、これでは「何者なのか」という答えにはなっていない。何者かなんて、誰だって知らないんだ。
田辺は一度視線をテーブルの上に落した後、再び私と目を合わせた。
「アイドルとしての才能を持っているから。貴方をスカウトする理由は、それだけじゃダメでしょうか」
「事務所やグループに、不利益を被らせる結果になったとしてもですか」
「それでもです。黒馬も、この点は重々承知しています」
「やはり、ある程度はリスクを感じているんですね」
「仕事にはつきものです。重箱の隅をつつくような議論は避けましょう」
前傾気味になった姿勢を戻し、咳払いをして仕切り直すと、田辺は優しい口調で言った。
「とにかく、マイナスの影響もこちらが受け容れている以上、この話を断る理由はないはずです」
その通りだ。昔と違って、何かやりたいことがあるわけでもない。どん底にいる私を、いわくつきの私を、これだけ必要としてくれるなら、応えてもいいんじゃないかと思う自分もいる。けれど、どうしてもいけないことのように思えたのだ。萌香の気持ちが、今なら少しだけ分かる。もう、後戻りできない。汚れの私には、アイドルは見合わないんだ。
「でも、私は、もう……」
『いつまでそうしてるつもりだ』
全ての雑音が、ぴしゃりと止んだ。田辺は胸ポケットからスマホを取り出し、テーブルの上に置いた。画面は通話中になっている。
「黒馬プロデューサーと繋がっています」
黒馬央司。彼自身の口から聞きたい。私に拘泥する理由を。
「黒馬さんは、どうしてそんなに私を贔屓にしてくださるんですか」
『贔屓? 自惚れるな。話題性とかいう、ちんけな理由で口説いてくる馬鹿共と一緒にするな』
スマホから流れるスピーカー音は、ドアの前で待機しているマネージャーにも当然聞こえているはずだったが、聞こえていないふりをしているのか平然とした様子だった。これには流石に田辺もバツが悪そうに俯いていると、黒馬は『ただ』と言葉を付け足した。
『佐倉萌香は命を賭してお前の才能を守った。このままじゃ本当に浮かばれない、そう思っただけだ』
不思議と、この人は全てを見抜いている人なんだと直感した。前の事務所の大人たちのように乱暴な言葉遣い。それでも、温かさがあった。
——だからもし、もしも咲が、もう一度アイドルになる分水嶺に直面したならば。
『これで最後の交渉だ。もう一度、うちでアイドルをやるか否か』
これで最後。ならば、ここでノーと言えばこの話は終わる。終わる、はずなのに。
「もうどうしたらいいのか……わからない……」
涙と一緒に、鼻水が垂れる。きっと酷い顔になっているだろう。人前でこんな無様な姿を晒すなんて、ありえないはずだった。萌香の訃報を聞いた時も、葬儀の時も、涙は流れなかった。今になって、私の中で何かが壊れたように色んなものが溢れてくる。止まらなかった。
目の前にそっと、紺色のハンカチが田辺から差し出された。顔に当てると、母親が贔屓にしている中性洗剤の香りが広がる。嗚咽して言葉が出なくなっている私を、落ち着くまで2人は静かに待っていた。
「私が答えを出す前に、1つだけ教えてください」
『何だ』
「アイドルとは、何者ですか」
珍しく数秒、間があった。
『今はまだ、答えられない』
落胆しそうになった。しかし黒馬は、『なぜなら』と続けて言った。
『その答えは、アイドル戦国時代の先にあるからだ』
「アイドル戦国時代を、Ltd.Ⅴが終わらせるってことですか?」
『そうして初めて判然とするはずだ。アイドルとは何者なのか。それを証明するために、Ltd.Ⅴは誕生する』
理解が追い付かない。この人は一体、何を企んでいる?
「それはつまり——」
『俺が答えるのはここまでだ。あとは自分の目で直接確かめろ』
今のままでは、厨二じみた夢物語だ。それでも賭けてみたくなった。2度目のアイドル活動に。黒馬央司という人物に。
——願わくば、
曇り空の裂け目から顔を出した漏れ日が、ブラインドカーテンの隙間を縫うようにして足元まで伸びている。
「——————」
私の決断を聞き届けて、黒馬は静かに通話を切った。
*
あれから1カ月半程が過ぎた。世間はクリスマスやら年越し準備やらとイベント事に必死になる時期で、師走とは名ばかりに老若男女が忙しなくしている。
私も例外ではなく、そして私たちにとって大切な日を迎えていた。この日、Ltd.Ⅴのメンバーが初めてマスコミの前で正式に発表される。会場の準備が終わるまでの間、楽屋での待機を命じられた私たちは、これから一緒に活動していく仲間に対してもまだ様子見だった。話しかけるタイミングを窺っている子。緊張で固まっている子。泣き出してしまった子。誰も彼も初々しい。今の彼女たちは良くも悪くも真っ新で、何色にも染められていない純白だ。でも私は違う。既に社会で醸成された汚れのイメージがある。オーディションを受けていないことも卑怯だと叩かれるかもしれない。間違いなくマイナスのスタートだ。それでも——
「それでは皆さんそろそろ移動を始めてください」
スタッフのお姉さんが楽屋中に向かって声を張る。一瞬声が裏返った。お姉さんも慣れていない様子だ。他のメンバーに紛れて簡単に返事をしながら、萌香からのダイレクトメッセージに対して返信を打ち込む。
「吉岡さん、だよね。一緒に行こう?」
震えた声で、1人の少女が私を誘う。きっと、今までとはらしくないことをしたんだろう。この子も、Ltd.Ⅴを契機に変わろうとしているのだ。見渡せば、楽屋には私と彼女の2人だけしか残っていなかった。
「白咲さん、だったよね。咲でいいよ」
「じゃあ、私も真己で」
彼女の声がぱっと明るくなった。綺麗な顔立ち。オーラもある。目の前にすると、心が温まる。不思議と笑顔になる。天性のアイドルを形容した存在だ。この子はグループの顔になると、悟った瞬間でもあった。
「うん、一緒に行こう」
萌香に「行ってきます」と送信して、真己と楽屋を後にする。その返信に既読がつくことはない。
私は再び、アイドルとして生きていく——
#MC-柊樹③-
昔からだった。興味を持ったことに対する探究心と集中力、そして創造力にかけては、自他ともに認めるほど抜きん出た才能を持っていた。漫画原作者になれたのも、そうした天資の帰結にある。
小学4年生の時、古本屋で立ち読みした「DEATH NOTE」を読んで、子供ながら初めて人間の才能に感動を覚えた。ノートに名前を書かれたら、その人間は死ぬ。子供でも分かるシンプルなアイデア1つでこれほど面白い物語が創り出せるのかと、鳥肌が止まらなかった。
その日から、暇さえあれば漫画のストーリーを創作するようになる。幼い頃から児童養護施設で育った俺に自由にノートを買う金なんてあるわけもなく、職員からシュレッダーされるのを待つだけの雑用紙を貰ってそれに描いた。とにかく描いた。本当は絵も描きたかったけれど、絶望的に下手だったから見切りをつけた。そのうち誰かに見てもらいたくなって、自分が好きだった「週刊少年ペガサス」編集部宛てにとりあえず読み切りを1本、ネーム段階のものを送った。翌月は2本、翌々月は3本送った。当時は漫画賞の存在を知らなかったのだ。
小学6年生になった頃、週刊少年ペガサスの編集者だと名乗る人物から施設に電話がきた。
『君は天才だ』
熱量のこもった声で言った。電話番号を書いた記憶はない。多分、送付先の施設の名前から検索したのだろう。
「俺の話じゃなくて、物語の感想を聞かせて」
無愛想にそう返した時も、物語を描いていた。その編集者は俺が今まで送った作品全ての感想や評価を事細かに話した。あまりに的確で、いつの間にか物語を描く手を止めていた。2時間どっぷり話し込み、電話を切った後で名前を聞くのを忘れていたと気づく。実際に会ったのはそれから1カ月先だったけれど、それが担当編集者となる嶋岡との最初の出会いとなり、俺が漫画原作者としてデビューするきっかけになったのだ。
それから4年経った今、俺は市場シェア1位のレコード会社にいる。高校一年生を相手にするには有り余るほど広い会議室に通され、入室するとすぐさま用意された椅子に座るよう促された。最初は軽く挨拶から入るのかと思っていたが、随分ぶっきら棒だ。大方予想はつく。他人の悪意には敏感なタチだ。裁判官のように重々しい表情をして向かい合う3人の社員に対し、自身が作り上げたアイドルプロジェクトについて資料を提示し、説明を始める。
しかし、ボールペンで机を叩く音とともに「もういいよ」と話の腰を折られた。
「上の命令だから話聞きに来れば、まさか高校一年生から共同マネジメントのお誘いとはよぉ。うちをどこだか分かって言ってるのそれ。お遊びに付き合ってられるほど暇じゃないんだ」
3人のうちの真ん中が、茶色く濁った歯を見せながら嫌味ったらしく言い放つ。一番歳いってるのは一目瞭然なほど両隣に比べて老けている。役職もまあ、上の方なのだろう。
「漫画原作者だかなんだか知らんが、素人の持ち込み企画に上も何必死になってんだよなぁ」
真ん中の老害に同調して、右隣の若い社員も小ばかにしたように笑い始める。
「何がおかしいんだ」
老害は戸惑い気味に「あ?」と虚勢を張る。
「よく分かってるじゃないか。遊びじゃないんだ。駄目なら駄目で、何がどう気に食わないのか具体的に提示してくれ」
「いいか小僧ぉ。一時の偶発的なトレンドで、アイドル戦国時代なんて謳われたがそれもピークを過ぎた。アイドルもアマチュアリズムも、もう時代遅れだ」
「アイドル戦国時代の到来は偶然ではない。ネットやスマートフォンの普及……アイドルが文化となるために必要な土壌が満たされ、来るべくして来たものだ」
それでも老害は小ばかにしたように鼻を鳴らしている。その拍子に鼻毛がはみ出した。お似合いな間抜け面だ。
「そもそもこのプロジェクトは、アイドル戦国時代の波に乗ろうという趣旨じゃない。ピークが過ぎている今だからこそ、真にやる意義がある。……と言っても、あんたらじゃ理解できないだろうな」
身体中の体温が引いていくのを感じる。どうやら俺は自身の創作に没頭するあまり、大事な点で盲目になっていたらしい。ここらが、潮時だろう。
「本当に滑稽なのは、音楽業界に籍を置きながらアイドル文化が何たるかもまるで理解していない、あんたらの馬鹿さ加減の方だろ」
それだけ言い放って、投げやりに会議室を1人退出した。
創作の才能には自負がある。しかし、それを社会に展開していくには、自分はあまりにも不器用だ。今は、嶋岡のような良き理解者もいない。まあ、はじめから上手くいくとは思ってなかったが。
7月も下旬に入っているというのに、関東はまだ梅雨明けしていない。しかし昨日今日と日照時間は確実に増えている。梅雨もそろそろ終わりに近づいていることは確からしい。
数十分前まで見上げていた巨大なビルを背に帰路につこうとした時だった。「待ちなさい」と息を切らして叫ぶ声が聞こえて振り返る。俺を呼び止めたのは老害の左隣にいた社員だった。
「クラウドファンディングを行うにしては、あれでは企画が弱い。柊樹名義で行うならともかく、無名のプロデューサー、無名のアイドルに、何百万も出資してくれる人間はいない」
せっかくクールビズを決めていたのに、走ってきたせいで少し着崩れている。荒げた息を整えるのを待たずして、「それと」と彼は付け加えた。
「本気であれを実現する気があるなら、うちじゃなくて業界2位の『ワールド・ミュージック』にすると良い。アイドルに理解があるし、アイドル事業の運営も上手い。共同マネジメントなら尚更だ。君が良ければ、あそこで働いてる大学時代の同期に口添えしておくよ」
探していた。良き理解者であり、ビジネスに聡いパートナーを。
「そういやあんただけだったな。ちゃんと俺の企画書に目を通していたのは」
「遊びじゃないんだろ」
彼だけは、俺を嗤わなかった。
「なんでこんな会社にいるんだ。あんたみたいな人が」
「どうしてだろうね」
彼はズボンの脇ポケットから取り出したハンカチで汗を拭き取った。拭き取る前とは、表情が曇って見える。
「君のように熱いモノを持って入社したはずなのにね。それが夢だったかのようにある日突然醒めて、茫然自失に生きてたらこの有様だ」
「じゃあ、今にでも辞めればいい」
「私は今年で36だよ」
「何か関係があるのか」
「……ないね。君といたら、そう思えるよ」
そう言った後、彼は名刺を差し出した。手際が手慣れたビジネスマンという感じだ。仕草の1つ1つに無駄がなく、器用さが見て取れる。ハンカチで汗を拭いた時もそうだった。
「改めまして、田辺健治です。ワールド・ミュージック仲介の件については、また後日連絡するよ」
田辺はその時、自分の所属を言わなかった。失礼、と軽く頭を下げて会社に戻っていく彼の背を見届けて、再び俺は帰路についた。
オリーブを咥えて。