オリーブを咥えて。

トン

  1. #OVERTURE-柊樹①-
  2. #第1話-白咲真己①-
  3. #第2話-白咲真己②-

#OVERTURE-柊樹①-

 高校の入学式を終え、新しい制服に身を包んだばかりの俺は、既にオワコンなのだと言い渡された。
「契約打ち切り。だよな」
 漫画雑誌編集部の打合せ用ブースの一室で、担当編集者が向かい合う。現実を飲み込むように、目の前に提示された書面の一部分を読み上げる。なぜか妙に冷静だった。壁に貼られたアニメ化された人気作のポスターなんて気にも留めたことなかった。今まで近すぎて見えていなかったものを俯瞰している意識が、まるでもうこの場所はおかど違いであることを明らめる。
 天才中学生漫画原作者・柊樹(ひいらぎ いつき)——そうもてはやされていたのは過去の栄光だった。せっかく連載までこぎつけた作品も、世間からの注目に応えられずすぐに打ち切らせてしまった。その後、連載作品はおろか、読み切りすら一本も当てていない。
 担当編集である嶋岡とは3年以上の付き合いだから、なんと言うか容易に想像ついた。
「契約自体が終わるだけで、君はまだ若いしチャンスはあるんだ。また1から、頑張っていこう」
 ほらな、と一語一句台詞の答え合わせをする。こんな時、どんな一流の編集者だって作家の心を救える言葉なんてかけられない。「0から」じゃないあたり、俺と違って温言だなと思わず笑みがこぼれてしまう。
「もう、いい。辞める決心がついたんだ」
 停滞を言い訳に惰性のように繰り返してきた。自らを見失うほど埃を被っているとも気づかずに。
 俺はこの日、これまで頑なに執着してきたものを自ら葬った。

#第1話-白咲真己①-

 「トップアイドルがうちの学校に転校してくる」と、冬休み明け初日の朝は騒がしかった。2年B組の教室にできた野次馬の数の多さに、「それ」が自分と同じクラスであることを教えられる。席替えで一番の当たりと名高い窓際の最後列にある自分の席に向かうと、今まで空席であったはずの隣の席が用意されている。ああ、これは転校生がここに来るんだなと思う。
 ホームルーム開始を知らせるチャイムが鳴ると、野次馬は自分たちの教室に帰っていった。若干の緊張だけが残り、教室は静寂を守るいい子ちゃんだけが存在している。それでも、それから数分間経過しても担任教師は来なかった。
「遅くない?」
 しびれを切らして誰かが言った。仮初のいい子ちゃんは刹那的で、お喋りが加速し始める。それを制止するかのように教室の扉が開いた。普段は無言で教卓の前に来る担任が、今日はやけに陽気に俺たちに挨拶する。お前もか。場当たり的に良い先生の仮面をつけても、少し強張った表情が混じるその不慣れな笑顔は似合わない。
 担任教師に少し距離をとって華奢な少女が姿を見せた。その瞬間、興奮とも驚きとも言えぬ喧噪が教室を支配する。静かに涙を流す女子生徒もいた。余程のファンなのだろう。
白咲真己(しろさき まこ)です。よろしくお願いします」
歓声には慣れた様子で、真己が丁寧に頭を下げる。名乗らずとも、恐らく学校中が知っているだろう。同世代の女子と比較するとより際立つ。余分な肉が一切見当たらない細い身体、漫画に描いたようにくっきりとした二重瞼と涙袋。テレビが映し出している清楚なイメージが等身大で目の前に存在している。
 白咲真己が所属するのはLtd.Ⅴ(リミテッド.ピース)という15人が在籍する女性アイドルグループである。Ltd.Ⅴは昨年3月にデビューシングル『青い鳥症候群』をリリースした。このアイドルとしては王道な清楚なイメージを残しつつも、アイドルソングとは思えない強烈なメッセージ性により、発売前から動画サイトで公開されていたミュージックビデオが話題となって、女性アーティストのデビューシングル初週売上歴代1位の記録を樹立した。まさに昇竜の勢いでの登場だった。
 そんな彼女らをプロデュースしたのは、メディアに対する露出の一切ない、未だ全てが謎に包まれた黒馬央司(くろば おうじ)という人物だった。しかしその手腕は斬新かつ画期的と名高い。例えば、各シングル期を1任期とした序列制という人気評価システムを採用していることである。前任期の活動成果を数値化し、メンバーには次任期の序列が1人ひとりに明示される。これにはグループ内不和を誘発するなど、依然として反対意見も多くみられるが、採点基準が明確かつ平等であり、健全で前向きな競争意識を促進させるといった肯定的な意見も見られる。ちなみに昨年11月に発売した3枚目シングルまで真己は不動の序列1位、センターに立ち続けている。
「みんなも知っていると思うが、白咲は仕事で学校を休みがちになる。困ったことがあったら助けやれよ」
 ぎこちない笑顔で担任が言う。「席は後ろの空いているところな」と付け足すと、真己は軽く一礼して歩き始める。クラス中の視線を一点に集め、俺の隣に来る。
「よろしくね。えっと」
「柊。柊樹だよ。よろしく」
「柊くんね。……柊樹?」
 何かを思い出そうとするかのように真己が首を傾げる。次いで言いかけようとしたところで担任が進行をはじめ、2021年最初のホームルームが始まった。

           *

 Ltd.Ⅴについて特筆すべきことがある。それは昨年2月の初単独ライブでのことだった。セットリストを終えた後、グループのリーダー的存在である小春日和(こはる ひより)が約3000人のファンを前に発表した。
「5年後——東京ドームでの『年越しカウントダウンライブ2025→2026』をもって、Ltd.Ⅴは解散します」
 来月にシングルデビューを控えていたグループが解散時期を誓言した。しかも、東京ドームを約束の地をとして。既にミュージックビデオが話題になっていた時期ということもあり、各メディアが取り上げ、この衝撃はグループに対する世間の注目度を一気に増大させた。
 女性アイドルは短命。こうした不文律のようなものが女性アイドル自身によって宣布された。この裏に隠された黒馬央司の思惑を、誰もが理解できないでいた。

「あ」
 ホームルームの終わりと同時に、真己は思い出したかのように声を漏らす。
「柊樹。もしかして天才中学生漫画原作者の」
「だった」。天才も、中学生も、漫画原作者も。全てが中学時代に完結している。真己の漫画やアニメ好きはどこかの雑誌のインタビュー記事を見て知っていた。それでも、てっきり胡麻すり営業の一環だと思ってた。出版社との契約が打ち切られ、もう2年が経とうとしている。連載終了からは3年。ネット上ではなく、現実世界においてその謳い文句で呼ばれたのは結構久しぶりかもしれない。沈黙は肯定に捉えられる。
「やっぱり。私中学生の時、柊先生の漫画読んでたの。今は——」
「アイドルなんでしょ。あんまり男と関わらない方が良いんじゃない。商品価値、落ちるよ」
「…そう、だね」
 気づけば真己の席の周りには人だかりができている。いや、教室中にだ。明らかにうちのクラスだけの人数ではない。柊の席が台風の目のような異様さを生む。「今日は仕事お休みなの」「どうしてうちの高校に来たの」「紅白見たよ」庶民的なガヤが渦を巻いている。
 駆け出しの芸能人であっても、いわゆる芸能人御用達の学校に通うことが多い。しかし真己は芸能コースのない、普通の高校に来た。昨年にデビューしたばかりとはいえ、今や老若男女問わず注目される、国民的アイドルグループの人気メンバーが転校してきた。こんな顛末は、馬鹿でも容易に想像できる。
 無気力の平穏が、転校生の所為で崩壊していく。言葉を交わさないようにしているのに、自身の領域が侵されていく。この感覚は、高校の入学式の日に経験したそれとどこか類似しているのだ。

「白咲はこの後仕事で始業式には参加できないから、村上、お前始業式までに学校案内しといてくれ」
 満員電車のようにすし詰め状態となっている2年B組の教室の外で、入ることを諦めた様子の担任が叫ぶように命令する。真己の右隣の女子生徒がご指名だ。先ほど言い忘れたのか、それにしてもこの現状に教師として注意すべきことはないのだろうか。とどのつまり、生徒たちと一緒に鼻の下を伸ばして、大人にも子供にもなりきれていない。まあいい、偶然隣の席になっただけの俺にだって助ける義理はない。
 担任からご指名のあった村上は、まるで水を得た魚だった。表情から嬉しさが隠しきれていない。トップアイドルの転校初日、学校中が騒然となっている。そんな中、先ほどの担任の指令により十分程度、真己を独占できる拠り所を手に入れた。さぞ垂涎の時間だろう。
「村上さん。始業式前の時間にバタバタさせてごめんね」
 教室を出て、渡り廊下まで来ると真己が申し訳なさそうに口を開いた。ほとんどが流石に諦めたが、まだ何人かは2人の後をついてきている。村上は真己の気遣いを口火に溜まっていた言葉を吐き出そうとするが、実際に出たのは無愛想にも「全然」の一言だけだった。そう溢して、すぐさま後悔したように足下を見る。
 この高校は、本館と別館とに分かれており、渡り廊下で繋がれている。なんでも、元々は本館だけだったのが生徒数の増加により10年ほど前に別館を新設したらしい。そのため、本館は屋上を除いて3階建てであるのに対し、別館は屋上無しの2階建てで、2年生全クラスと体育教官室が主な用途である。村上は本館の方から真己を連れて行った。途中、1・3年生と遭遇すると、好奇の目に晒される。それでも、意外にも別館ほどの喧騒にはならなかった。始業式直前で移動が始まりかけていたこと、事前に教師たちの指導が入っていたこと等々、理由をいくつか挙げることはできるが、間違いなく一番に起因するものは、悪者を寄せ付けようとしない村上の強い意志がこもった威嚇が効いていたことにあるだろう。
 体育教官室の前まで来ると別館の案内も終わった。あとは自分たちの教室に戻るだけというところで、ようやく村上は学校案内に関係のない私的な言葉を発することに成功する。「あの私、白咲さんのことデビューの時から応援してて。ライブも関東で行われたものは全て参加してるし。YOUTH TEENSも毎月読んでて」村上が早口でまくしたてる。YOUTH TEENSは真己が専属モデルを務める女性向けファッション雑誌だ。「ありがとう」と、真己はここに来て初めて、心からの笑顔を見せる。
「だから、さっき柊が言ったようなこと、気にしないでください。その、商品価値がどうとか。あんなのはアンチコメントみたいなもので。そもそもあいつ、口が悪いし。あ、席が近かったから聞こえちゃって。ごめんなさい」
 色んな感情がちゃんぽんになって、整理がつかない可笑しな台詞になっている。敬語のよそよそしさに、どこか歯がゆさのようなものを感じた。
「大丈夫。それに、私も知ってる原作者さんを目の前に興奮して、モラルに欠けてたところあっただろうから」
 村上は言うべきか言わないべきか、考えあぐねた様子で渋い顔になる。やがて周りを見渡し、人がいないことを確認すると、声量を落として言う。
「柊、もう出版社とは縁を切ってるんです」
 驚かなかったわけじゃなかった。実際、うつけたようにその場で立ち尽くしてしまった。それでも、どこかでそんな気はしていたのかもしれない。柊と言葉を交わそうとした時分、人気商売という同士の勘が、何かを警告していたようだったから。
「不良…ではないけど、とっつきにくい感じで。やたらと毒舌だし。授業とか、行事とかサボりがちで。大体いつも屋上に」
 とっかかりを掴んだ興奮冷め切らぬ信奉者の独占欲は止まらないらしい。冗長に知り得る柊の情報を話し始めた。聞いてはいるが、真己は心ここにあらずといった様子で呆然としている。一方通行で盲目な話を続ける村上にも、どうやら一抹の理性はあるらしく、始業式の存在を思い出し、話を中断する。「私たちの教室は2階に上がってすぐだから」と残し、大講堂のある本館の方へと向かって行った。村上の小さくなっていく背を見ながら、真己も少しずつ歩き始めた。十数分前の喧騒が嘘のように、別館は閑散としている。教室にも、誰も残っていなかった。

           *

 至って質素な造りの屋上だった。転落防止に配慮された、一面の高いフェンス。端には別のフェンスで守られた貯水タンク。法律で義務付けられた、最小限度のもののみが設置されている。村上の言うとおりだったと、真己は目を丸くした。確かに屋上の真ん中で男子生徒が1人、仰向けで寝そべっている。柊樹だ。こちらの存在に気付いている。当然だ、屋上を繋ぐ扉が甲高く軋む。今度は両手を添えてゆっくり試してみても、やはり静かには閉められない。
「始業式、出ないの」
「お互い様だろ」
「私は仕事があるから」
「じゃあ、早く行けよ。迎えも待ってるだろ」
「謝りたくて。柊くんに、余計なこと言ってしまったこと」
 寸刻の沈黙が屋上を支配して、乾いた風の音だけが感覚として残る。柊は上半身を起こし、その場であぐらをかく。離れたフェンスの隙間から、外の景色を見下ろしている。真己がその視線の先を追おうとした瞬間、柊が呆れたように短く溜息を吐く。
「お前、ほんとプロ意識低いのな。そんなことで、わざわざ二人きりになりにくるな」
ようやく、柊と目が合った。
「気にしてない。その件については、とっくに救われてる」
 勘違いだろうか。そう言った柊の表情が綻んで、優しく微笑んでいたように見えたのは。
「どうして屋上に」
「馬鹿なのか。漫画好きといえば、屋上だろう」
「何その感性」
 柊は立ち上がると、ゆっくりと伸びをする。深呼吸するように息を大きく吐き出すと、胸ポケットから一本の鍵を取り出し、合図をした後に優しく放る。綺麗な放物線が、おおよその着地点を教えてくれる。目の前に落ちてくるそれを、確かに捕らえた。
「屋上の合鍵の余り。隠れ家にでも使えよ」
 悪びれもなく、柊が言った。「道理で」屋上が開放されているなんて、漫画みたいな学校だなとは思っていた。ようやく合点がいく。しかも共犯者にされてしまった。
「そろそろ始業式も終わるぞ」
「うん。じゃあね」
 今度は無遠慮に扉を開いた。勿論、甲高い声を上げる。ここでは当たり障りなく過ごすことが最善のような気がしていた。芸能界に足を踏み込んだ手前、もう普通の女の子には戻れないと分かっていたから。少しばかり、後悔していた。でもそれはないものねだりで、我儘なのだと諭されてきた。実際、仕事は楽しかった。相反する感情が交錯して、どちらも自分勝手だと諫めた結果、いつも建前に終始する。余計な気遣いが、普通の女の子という理想像を自ら払い除けていたように思えたのだ。

 教室に戻り、自身の鞄を手に取る。荷物を出してはいないが、一応周りに忘れ物がないことを確認する。予定より随分長居してしまった。今日はマネージャーが車で職場まで送ってくれることになっているのに、少し待たせているかもしれない。ふと、柊の机に目が行く。机の中に一冊だけ、キャンパスノートが入っていた。妙に存在感のあるそのノートに視線を向けながら、矢庭に疑問が浮かぶ。
 そういえば、どうして柊くんは迎えが来ることを知っていた——
 無意識だった。その時ばかりは、欠片の悪意も常識もなかった。魔が差したように、そのノートの中身を見ていた。その内容を見て、現実に引き戻され、感情を取り戻す。愕然としたのだ。違和感はずっとあった。どこか、初めて会ったようには思えなかった。教室の扉が静かに開く。見なくても分かる。柊だろう。「それ、取りに来たんだけど」案の定、彼の声だった。
「見たのか。お前、勝手に人の机の中漁るとか趣味悪いな」
 見られては困るもののはずなのに、なんでそんなに冷静なのだろう。ノートを持つ手が震える。感情に対する理解が追い付かない。怒り。恐怖。緊張。どれも違う。きっと、好奇心に近い。理性では形容し難い感情だった。
「まあいいや。それ渡——」
「ごめん。でも」
 そう言って彼の言葉を遮った。正直、この時の私には罪悪感なんてどこにもなかった。それでも謝った。一刻も早く、追認を受けたくて。私の瞳が、彼の瞳を捉える。お互いに、余計な感情が無い。
「あなただったんだね。黒馬央司」
 私はこの日、1年越しにプロデューサーの正体を知った。

#第2話-白咲真己②-

 Ltd.Ⅴがその名を轟かせた時分、同時に黒馬央司というプロデューサーの手腕にも注目が集まった。無名の天才。今までの経歴も年齢も不詳。取材やメディアに対する露出は全てNG。しかも、メディアにおけるメンバーの発言の端々から、メンバーですらその正体を知らないのではという噂が流れることもあった。それは事実だった。黒馬と直接話がしたい時であっても、事務所の代表である田辺健治(たなべ けんじ)を仲立人にしなければならなかった。オーディションの時も、私たちの前には現れなかった。後から、ミラーガラス越しに採点していたのだと聞かされた。
 もちろん、その正体が気にならなかったわけではなかった。何度かメンバーが田辺さんに尋ねたが、決まって苦笑いとセットの「あの人は色々と特異だから」と曖昧な答えが返ってくるだけだった。ネットで検索もかけてみた。黒馬央司は複数の業界人が運営する集合体のようなものだという説。そもそもそんな人物は存在せず、運営が話題作りのために作り出しているという説。某アイドルグループのプロデューサーが名前を変えているだけという説。どれもぴんとは来なかったが、思わず納得してしまいそうになるほど上手くこじつけてそれらしく仕上げられていた。
 それが思わぬ形で解決した。柊樹のノートには、まだ公開されていないはずのLtd.Ⅴの情報が構想として綴られていた。未公開なだけじゃない。公開される予定のない裏情報まで。しかし決定的だったのはそこじゃなかった。昨年初め、初単独ライブを実施すると知らされたとき、現時点での大雑把な構想が示された。その時提示された黒馬プロデューサーの手書き資料と記憶の限り対比させてみても、構成、字体、細かい癖、全てがこのノートと一致する。
 これだけ確信を得ても、にわかに信じ難い。黒馬央司の正体が自分と同じ高校生の、しかも同い年だなんて。
「電話、出たらどうだ」
 鞄の中で、スマホが鳴っていた。案の定、待たせているマネージャーからだった。何かあったのかと電話の先で心配するマネージャーに対し、短い謝罪とすぐ合流する旨だけを伝える。彼からはまだ明言された追認は得られていない。否認もしていない。むしろそれが雄弁に物語っていた。私の非現実的なはずの問い掛けが、正に現実なのだと。
 始業式が終わってしまう。迎えも待っている。これ以上の遅刻は仕事に支障が生まれるかもしれない。これ以上、ここにいても何も解決しない。彼の横を超然と通り過ぎて、教室を後にした。

 そういえば、スタッフのどこまでが知っているんだろう。後部座席から運転席にいるマネージャーを不意に見る。とはいえ尋ねる気にはならず、再び車窓を眺める。新しい学校から事務所に向かう景色は新しかった。埼玉の都市部から離れた場所で生まれ育った私にとって、Ltd.Ⅴの二次オーディションを受験するために初めて訪れた東京は思わず泣いてしまうほど恐ろしい場所だった。元々、極度の人見知りだったこともある。高校生になっても人見知りが改善しない私を懸念して、当時大々的に募集をかけていたアイドルグループのオーディションに両親が勝手に応募するという荒療治に出るほどだった。空間に必要以上のものを詰め込んで構築された迷路。標本のように空を四角く切り取る高いビル。屍のように右往左往する人混み。それらは衝撃的で、ちっぽけな憧れなんて簡単に支配されてしまうほど恐怖を感じた。人混みの真ん中で泣いてしまい、オーディション前には疲れ切っていたことを今でも覚えている。それから1年以上が経過した。きっかけは受動的だった。それでも人見知りも少なくなり、今では堂々とアイドルをしている。普通の女の子になるために普通の女の子を捨てることになるとは、なんとも皮肉なことである。
 私を乗せた車が都内のハウススタジオに着く。青年漫画雑誌「週刊ウォーリー」の巻頭グラビア撮影。私待ちなんだなという様相が、ハウススタジオ周辺で構えるスタッフのまんじりともしない様子から伝わってきた。それでも車から降りて小走り気味にスタジオに入ろうとすると、「焦らなくていいよ」と諭される。優しい世界が遅刻に対する罪責感を再起させる。仕事は仕事と、言い聞かせる。楽屋に入ると、先に来ていたメンバーの吉岡咲(よしおか さき)の姿があった。
「遅かったね。何かあったの」
「ううん。ごめん」
 咲とは同い年であることもあり、話しやすく仲が良かった。でも、黒馬央司のことを話す気にはなれなかった。そういえば、まだ制服のままだ。3回、ドアがノックされる。返事をすると、マネージャーに連れられた2人の男性が部屋に入ってきた。1人はカメラマンだと分かった。前に別の仕事でお世話になったことがある。
「週刊ウォーリー編集部グラビア担当の嶋岡です。今日はよろしくお願いします」
 こちらも「よろしくお願いします」と深々頭を下げ、同時に遅れてしまったことを再度謝罪する。嶋岡と名乗る担当者は、「気にしないでください」と笑顔で答える。少しふくよかな頬が吊り上がる。顔立ちだけでなく、雰囲気も穏やかだ。
「むしろこの機会に感謝しているんです。Ltd.Ⅴの一ファンとしてね。特に、吉岡咲さんのことはLtd.Ⅴ以前から応援させてもらっていて」
 咲の芸歴はLtd.Ⅴデビュー時からではない。元々、違うアイドルグループに所属していたが、諸事情により解散。アイドルを辞め、個人でのタレント活動を続けた後、Ltd.Ⅴで二度目のアイドルデビューを果たした。しかし、実はオーディションを受けていない。プロデューサーの熱烈なオファーを受け、引き抜きという形で加入している。咲もその由縁に心当たりがないため、黒馬央司に派生する謎の1つとなっている。そうした加入経緯から、デビュー時は「不正加入」、「運営との癒着」などと非難の対象となったことは、無情にも自明のことだった。
 Ltd.Ⅴ以前の芸能活動について、咲本人の口から少し聞いたことがあった。今の私たちがどれだけ恵まれた環境にいるのかを痛感するほど、劣悪な環境で戦っていた。それがトラウマとなっていることを知っていたから、恐る恐る咲の顔を一瞥する。やはりアイドルだった。過去も今も悟らせない、華のある笑みで「ありがとうございます」と言葉を返す。
「だから今回、私ごり押しでキャスティングさせてもらったんです。実は去年、週刊ペガサス編集部から異動になって。私情はさみまくりなんですけどね。グラビア担当になったからにはどうしても実現したくて」
 少年漫画雑誌「週刊ペガサス」。柊樹が連載していた雑誌だった。だめだ。また何か、変な衝動が突き動かす。
「柊樹を、ご存じですか」
 声が震えた。禁忌に触れている気配がしたのだ。マネージャーもカメラマンも、咲ですら温かみのない視線を送る。当然だ。なぜそんなことを聞くのか、怪訝に思っているのだろう。嶋岡も少し目を見開いている。そうして目を細め、再び穏やかな表情を繕う。
「知ってますよ。誰よりも。彼を担当していたのは、私ですから」
 世間は狭い。そんな言葉で片づけられるには、都合が良すぎたように思う。ひたむきに回る個々の人生の歯車が、今ようやく誰かの手によって嚙み合わされたかのような。そんな人間など、いるはずがないのに。
「柊先生は、アイドルがお好きでしたか」
「好きではなかったですね。むしろ不愉快にすら思っていたかもしれない。アイドル関連のイベントがある時は、毎回といっていいほど嫌がる先生を連れて行こうとしてましたから。当然、全て断られたんですがね」
 それが楽しい思い出だったのだと、嶋岡の円かな含み笑いが物語る。咲が横から「どうして」と覗き込む。「ううん。ファンだったから。少し気になっただけ」と答えた。咲を把捉させるほどの回答にはなっていなかったらしい。「今日、らしくないね」と、とうとう言われてしまった。
「さて、そろそろ打合せに入ろうか」
 会話の節目を探していたように、マネージャーが溜めていた台詞を吐き出す。時間が押しているのだろう。確かに私らしくない。遅刻にしても、冗多な雑談にしても。らしくなかった。Ltd.Ⅴは私たちがかつて想像していた以上に、社会に対して大きな衝動をもたらした。女性アイドルの魅力は成長過程にあるのだと、誰かが言っていた。確かに、Ltd.Ⅴは流動的だった。いくつもの変遷が世間の感情を動揺し、エンターテイメントとして人々の心に生きている。それは演者である私にとってもそうだった。そうか。なるほど。やけに腑に落ちた。結局、私たちは皆、黒馬央司の描いた戯曲の中に存在しているんだ。
 撮影自体は、いつも通り順調だった。私も咲も、現在17歳。華のセブンティーンを趣旨とした撮影だと聞かされているが、実のところ再来月にリリースを予定している4枚目シングルの告知のためのグラビアだろう。そもそも、華のセブンティーンと表される芸能人には懐疑的だった。勉強も部活も恋愛も、普通の青春なんて謳歌できているはずがないのに。斜に構えているつもりはないが、業界の利己主義から生まれた現実との乖離にどうにも胡散臭さを覚えてしまった。

「さっきの、1つ訂正させてください」
 帰り際、マネージャーの車に乗り込んだ私は、見送りに来た嶋岡に呼び止められる。
「一度だけ、柊先生とアイドルのライブに行ったことがありました。弊社との契約打ち切りを伝えた日。先生と会ったのは、それが最後でした」
 咲は興味なさそうに隣でスマホをいじっていた。運転席から、シートベルトを装着する音が聞こえてくる。エンジンをかけていないから、当然暖房がされていなかった。シートの冷たさがお尻から伝わってくる。
「その1回が、かけがえのないものになっていることを祈っています」
「ええ、私もです」
 ようやく、マネージャーがエンジンキーを回した。いつもエンジンをかけてからが早い。暖機も待たぬまま、そそくさと走り出す。次はいつ学校に通えるのだろうか。帰宅する前に確認しなければならない。柊樹ではない。今度こそ、黒馬央司と話がしたかった。それが実現できるのは、あそこしかないと直覚していた。彼にとって唯一の、共犯者なのだから。

           *

 しかれども、時宜を得ることが叶ったのはそれから1週間後のことだった。その上、書類や教材を受領するために仕事の合間をぬって学校に寄っただけに過ぎなかった。既に放課後。寂々たる校舎内とは対照的に部活動で溌溂としたグラウンドが、モノトーンな青春を染筆している。素敵だなと、職員室の窓から遠目に見ていた。学校での所用自体は、ものの数分で終わった。このままマネージャーの車に乗って事務所に戻るだけ。黒馬央司と話がしたい気持ちは日増しに強くなっていたが、さすがにもう帰っているだろうと思った。にも関わらず、屋上の扉の前に来ていた。今まで信じてきた自分を裏切った。理性じゃなく、ここにいるという確証があったのだ。放課後に屋上。なんとも漫画らしい。施錠を解き、慎重に扉を開く。やはりうるさく軋めく。乾いた風と共に、少しずつ夕暮れ時の光が差し込む。その途中、フェンス近くにあぐらをかいている黒馬央司の姿を見つけた。左の太腿には、例のキャンパスノートが置かれている。思いがけず、破顔する。
「何を笑っている」
 一瞥した彼が言う。「いえ」と、表情を引き締めながら距離を詰める。
「どうして、プロデューサーになったんですか」
 黒馬央司が、こちらを向いた。視線の先に、確かに私がいる。今話しているのは、プロデューサーとアイドルだった。
「なぜ知りたい」
「アイドルに対して、あまり良い印象を持っていなかったと聞きました。嶋岡さんから」
 彼の表情が緩む。「嶋岡か。懐かしい名前だな」と呟くように言葉を溢す。嶋岡も、同じような表情をしていた。
「嫌いなのにここまでするわけないだろ」
「そうですよね。やっぱり——」
「ただ、あながち間違ってもない。半分正解で、半分不正解といったところか」
 意味が分からなかった。嘘は言っていないのだろう。それだけは何となく分かった。
「別に今でもアイドルが好きなわけじゃない。動機も、特にはなかった。あったのは衝動だけだ」
「衝動?」
 ほぼ同時だった。2人のスマホが鳴る。待たせているマネージャーからだった。我に返ったように慌てて電話に出る。先ほどまで赤く染まっていたはずの空は、薄暗い闇に侵食されつつあった。黒馬は着信画面を見ると、「タナケンか」とぼやく。タナケンとは、Ltd.Ⅴの所属事務所の代表取締役である田辺健治の愛称だった。
 マネージャーにひとしきり謝罪をした後、身の縮む思いで電話を切る。以前とは違い、時間管理に厳しい人だった。先に連絡しておくべきだったと省みながら、そっとスマホを鞄にしまう。彼はまだ通話していた。黒馬と田辺。こうやって普段会話しているのかと、関係性が見え隠れする。
「今から事務所か。まあいいが、少し時間が——」
 そう言いかけて、黒馬が私の方を見る。何か企図した人間の、悪い顔だった。
「いや、問題ない。米山に同乗者を1人許すように一報しといてくれ」
 強引に電話を切った。米山は、ここまで送迎してくれたマネージャーの名であった。唐突に荷物をまとめだす彼。妙な気配がして、「まさか」と思わず表情が強張る。
 嫌な予感は的中した。先ほどの電話は、私と同伴で事務所に向かうと言う意味だった。彼と一緒なら、これ以上怒られることはないと楽観的に考えていたが、米山は黒馬の正体を知らないと告げられた。この状況をどう説明すればよいのだろう。単に追撃を受けた形になった。空は完全なる夕闇を形成していた。
 職員用の駐車場を抜けると、門前の通りに停められているマネージャーの車両を視認する。普段はこの駐車場を借りていたが、今日はそこまでの所要はないと考えていた。裏口のようで、ここが正門なのだと後から知った。2人して、車に近づく。傍から見れば、同い年の男女ペア。片や、日本を代表するトップアイドルである。反対車線に路上駐車していた黒いワンボックスカーの車窓が少しだけ開かれていた。不穏にも、その隙間からカメラのレンズが覗き込む。
 カシャッ——
 不都合な空間を切り抜く禍々しいシャッター音が、太陽も月もない空に溶けていった。

オリーブを咥えて。

オリーブを咥えて。

女性アイドルグループ『Ltd.Ⅴ』の出現は、アイドル界に衝撃をもたらした。 その目的は、「アイドル戦国時代に終止符を打つこと」。 誓約された5年というリミットの中に起きた、グループの壮絶な葛藤を描く青春物語——

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-02-06

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著作権法内での利用のみを許可します。

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