夢日記 2021.2.6
僕はハルくんを部屋の片隅に呼んだ。
「ねえハルくん、かくれんぼしよ」
ハルくんは黙ってうなずく。その素直でまっすぐな眼差しは、僕がこれからすることを見通しているかのようで、僕はすこし不安になる。彼はまだほんの小さな子どもだ。
「じゃあ、いい?じゃんけんぽい。勝った!ハルくんが鬼ね。壁のほうを向いて、手で目をふさいで、僕がもういいよっていうまで動いちゃだめだよ」
僕が先生と呼ぶ、ハルくんの母親は、中学校の国語のT先生だった。僕が3年生にあがったときに赴任した、まだ若くて、聡明な先生だった。彼女は隣町の学校の体育教師と結婚していたらしく、僕たちが受験勉強を始めた3年生の秋ごろに産休を取った。それからは別の教師が国語の授業を持っていたが、最後、大きなお腹を抱えて卒業式に出席し、僕たちみんなとお別れをした。だから、ハルくんが産まれたのは、僕が高校生になった頃だった。卒業式の日、先生と連絡先を交換した僕と、もう一人の仲が良かった友達は、二人で高校生の時に先生の家を訪ねて、まだ赤ちゃんだったハルくんと先生に会った。その友人とはそれ以来会っていない。彼は戦争に行った。
同じく戦争に行った、以前体育教師だった先生の夫の訃報が届いたのは、僕たちが住むこの街の海に敵が上陸したすぐ後だった。ハルくんは小学校に上がったか上がっていないかくらいに大きくなっていた。大学生で、休学をしていた僕は、その年ずっと地元に戻っていた。先生が住むアパートは、新幹線の通る、海から2、3キロメートル離れた地区にあった。なぜ先生がひとりの教え子である僕を家に呼んだのかは、はっきりとはわからない。ただ、その頃から、先生はすこしずつおかしくなってしまった。一日中窓の外を見て、お経を唱えるように、先生はぶつぶつと何かをつぶやいていた。
「敵が家の前を通ったら、手榴弾をもって突っ込むわ。ハルくんも一緒に、ね」
先生が僕にそう伝えたのは数日前の夜のことだった。ハルくんはすやすやと眠っていた。先生は机の上で祈るように手を組み、目を伏せながら言った。
「子連れの女なら敵も警戒しないでしょ」
先生は決して声を荒げたりはせず、ゆっくりと、淡々と話していた。その話し方は、国語の授業を行なっていた時と何も変わらなかった。
僕は何度も説得しようとした。けれども先生の意思が変わることはないだろうということも、心のどこかでわかっていた。僕たちが住むこの街に敵が進攻してくるのも時間の問題だ、と報じるテレビのニュースを、先生はじっと見つめていた。僕はその先生を見つめて、もう時間がない、と思った。先生のために何ができるだろう?ハルくんのために、何をしたらいいのだろう。
「先生、ちょっと料理するのを手伝ってください」
部屋の片隅で体育座りをして、目を両手でふさいでいるハルくんから僕は目を離した。僕は先生をキッチンの奥に追い詰めて、包丁を手に取った。そして、もう一度ハルくんの背中を見やった。そのまま、せんせい、ごめんなさい、と言いかけたそのとき、先生は僕の手から包丁を奪い取り、僕の腹を刺した。倒れた僕に先生は
「わかってた。君も敵だったんだね」
と言い捨てた。
痛くはなかった。傷を押さえる両手の指の間から、音もなく血があふれていた。ぬるぬるとした感触が伝わってきた。部屋は静まり返って、自分の心臓の拍動さえ聞こえそうなほどだった。ただ、何か鉄球のようなものが、刺されたところに重くのしかかっているようで、僕は倒れたまま動けなかった。僕はハルくんのことを考えた。彼はいま、ひとり、暗く冷たい部屋の片隅で、目を、その小さな両手でふさいでいる。そしてそのそばには、先生が立っている。
「もういいかい」
ハルくんの声が聞こえた。
夢日記 2021.2.6