十九時の食卓
つまりは、そういうこと。
あの、どこか夢みたいな、ファンタジックで、おとぎばなしのような、黄色い海のはなしをしていたひとの、神経細胞のひとつでも、からだのなかにはいりこめば、もしかしたら、そんな子どもじみた想像も、じゆうに、ゆるされたかもしれないのに。十九時は、中間、夜と、真夜中の、あいだくらいの、はめをはずすには、世界はまだ明るく、なんとも中途半端、と思いながら、おかあさんのつくったコロッケをたべてる。ときどき、うざっ、と感じるのは、家族と観ているテレビで、恋人がいない歴イコール年齢を、テロップで強調してくる、あの、ちょっとした無神経さというか、なんとも思わないひとにはどうでもいいことでも、うちのおねえちゃんみたいに、趣味でいそがしいから恋人はいらない、とか言いながら、ほんとうは恋人がいないことを気にしているひとには、いやみったらしくもみえる、あのつくりかた。おかあさんのコロッケは、うずらのたまごがはいっているものが、あたりだ。おねえちゃんは、キャベツをもりもりたべながら、さりげなくテレビから目線をはずしている。おとうさんはだまっていて、おかあさんはテレビに夢中で、子どもみたいだ。黄色い海のはなしをしていたひとは、ともだちの親戚のおじさんだった。一度だけ、会ったことがある。空想家、とかいう、なぞの職業についているらしい。黄色い海の向こうには楽園があって、楽園には時間というものがないとか、なんとか。楽園に生まれた者は、一生老けないし、死なないとか、どうとか。そのともだちが、妙に熱をこめて語っていて、きっと、おじさんのことが好きなのだろうと思った。(それは、あくまでも、身内のそれとして)一種の新興宗教にはまっているひとにも、みえた。おじさんは、神さま。そう信じてやまないといった眼を、ともだちはしていた。こわ、とひそかに怯えたことは、ないしょだ。
コマーシャルに、さいきん気になっている俳優がでている。
人気が出たらいやだなぁと思いながら、コロッケをたべる。
この俳優さん、さいきんよくテレビで観るね。
おねえちゃんが、テレビを観て、つぶやいている。
おかあさんが、かっこいいわねぇと、うっとりした調子で言う。
おとうさんは、だまっている。
十九時の食卓