太陽のこども


 家の近所で長い信号待ちをしている時に、『水縹(みはなだ)みそら』は自分がつけられているのに気づいた。あまりにも待ち時間が長かったので、意味もなく周囲を見回すと、自分の視線に反応し、わざとらしく身を固まらせた男がいたのだ。
 交通量の多い大通りとはいえ、夜道であり、歩いているような人間はみそらとその男しかいなかった。つけてきているのはわかりやすすぎた。
 男は結構身長が高く、若い感じで、ピンク色のもさもさした変な服を着ているように見えた。知らない男だった。みそらは、前にもあった『いざというとき』に備えて持ち歩くことにしているカバンの中の『武器』を確認し、深呼吸をした。信号が青になったので、若干の早足でひとり暮らしをしている自宅のアパートへ向かう。耳をすませて、足音が自分に近づいてこないのを確かめつつ、サンダルで早足を続けた。
「ハンバーグを作ろうとしたら、冷凍してあると思っていたひき肉が影も形もなく、しかし一度食うと『決意した』ハンバーグを諦めるのは辛いので、ひき肉のために買い物に行っただけなのに。それで尾行されるとは、一体私が何をした?」と、みそらは心の中で愚痴った。
 みそらは、数ヶ月前にも知らない男に追いかけられた。こんなことはしょっちゅうだった。『恐怖』は、まるでなかった。「何故安らかに人生を送りたい、私ばかりが、厄介ごとに何度も何度も巻き込まれねばならぬのか?」という『憤怒』だけがあった。そして、その怒りをぶつける先は、どこにも見当たらなかった。みそらはギリギリと奥歯を噛み合わせ、ペットボトルや缶ジュースの自動販売機の前で立ち止まると、厳かに振り返った。つけてきていた男、ピンク色のもさもさした変な服を着ている奴と、はっきりと目があったのがみそらにはわかった。友達の借金の連帯保証人になりそうな感じの、警戒心に欠けた顔が、街灯の光の中に浮かんでいた。男は立ち止まり、みそらの刺すような視線を平気で受け止めていた。
「つけてきてます?何か用ですか?」みそらは男に顔を向け問いかけながら、自販機でミルクティーを買った。『ミルクティーの缶』は、硬い。
「俺は、『花吹雪はじめ』。よろしく」男は場違いにさわやかに挨拶をした。犬のように微笑んでいた。ピンク色のもさもさの上着の下は、パジャマみたいな柄ズボンで、はいているスニーカーは毒の沼を歩いてきたように汚かった。どうみても怪しかった。みそらは躊躇せず、攻撃の『意志』を『実行』に移した。
「ミギャッッ!!」
 微笑みを浮かべた男の顔面に、『猛烈な速度』で、『ミルクティーの缶』がめり込んだのだ!!このような攻撃を受けては、『暗黒街育ちのタフガイ』であろうと踏み潰されたカエルのごとき惨めな声をあげずにはいられない!!
「帰れ!!次は股間にブチこんでやる!!」
 みそらは声を張り上げて予告し、カバンの中に持ち歩いている『武器』を取り出した。それは『サザエ』であった。みそら手の中に固く握りしめられているのは、殻の所々に暴力的な『とんがり』をもった『サザエ』であった。みそらは流れる水のような滑らかさで、投擲の構えをとる。『ミルクティーの缶』が地面に落ちる音のあと、顔面に衝撃を受けた男は、両手で顔を押さえながら背中をまるめ、その場に膝をつく。うめき声が男の口元から漏れ、鼻からは赤い血がどくどく流れだし、手や顎を伝い地面へ何滴も何滴も落ちていった。
 みそらは男を注視した。少しでもこちらに向かって何かしてこようものなら、その瞬間『サザエ』を投げ込むつもりだった。しかし、いつまで待っても男は痛がるばかりで、反撃に出ようとする雰囲気さえまったくなかった。男の発するうめき声も何だか下手な映画吹き替えのように『間抜け』な響きがあった。みそらは段々と焦れてきた。
「何のつもりでつけてきたの?」みそらは、待っていてもらちがあかないので、質問を投げた。
「噂は、本当だった」男は顔面から両手を離し喋った。男は目に涙を浮かべていた。
「何の噂」
「『投球魔神・田﨑太陽』の娘、親譲りのとんでもねぇ『肩』をしている!!」
 

 みそらは『うんざり』していた。『田﨑太陽』の名前は、みそらの人生にとって『呪い』でしかなかった。
『投球魔神・田﨑太陽』は、歴史上に名を残した野球の投手だ。未だに誰にも破られていない様々な記録を持ち、野球のルールを知らない老若男女でさえ誰もがその名前と顔を知っている。その理由は彼の『スター性』だけではない。『投球魔神・田﨑太陽』は偉大な野球投手であるとともに、『最低のゲス野郎』でもあったのだ。彼はスキャンダルを次々に起こした。酒を飲めば一般人に暴力をふるい、車を運転すれば当て逃げをし、温泉旅行に行けば女湯を覗き、数ヶ月のうちに結婚と離婚を繰り返し、大麻取締法違反では何度も捕まりかけた。まずいことが起きるたび、球団関係者と大金で雇われた弁護士が裏でなんとかしなければならなかった。それがなければまともに試合に出場することさえできなかっただろう。だが例えいくら金の力でスキャンダルの揉み消しをはかろうとも、あまりに数が多すぎた。なにより市井に暮らす一般の『好奇心』が、輝かしい栄光に満ちた『投球魔神・田﨑太陽』の薄汚いスキャンダルを求めないわけがなかった。揉み消したはずの事件さえも、いつのまにかどこからか漏れだしていき、『最低のゲス野郎』の悪名は水面下で、着実に拡がっていった。
 そうして、テレビに出るだけで大量のクレームが寄せられるようになった頃、『投球魔神・田﨑太陽』は姿を消した。乗っていたアメリカに向かう飛行機が海上に墜落したのだった。この事故は凄まじかった。乗客のほぼ8割が海の藻屑となった。しかも多くは死体の欠片さえ見つからなかった。飛行機が落ちた海域には、獰猛な人喰いザメが生息していて、人間は彼らの餌になってしまったらしい。
 だが数少ない生存者たちの話は、そのような事故の痛ましさとは別の方向に、想像を絶する信じられないものであった。なんと、『投球魔神・田﨑太陽』は、飛行機が墜落するなかで、CA(キャビンアテンダント)たちを強姦したのだ!!「自分は死ぬかもしれない」と誰もが考え、ある者は泣き叫び、ある者は祈り、ある者は隣の者と励ましあい、ある者は愛する家族に手紙を残そうとしている、そんなときに!!『投球魔神・田﨑太陽』は、CA(キャビンアテンダント)たちをレイプしていたのだ!!この証言には『投球魔神・田﨑太陽』のイメージを守り続けてきた球団関係者さえも絶句した。
『投球魔神・田﨑太陽』が、『最低のゲス野郎』であったことは完全に証明され、本人が姿を消した後は隠されていたスキャンダルも全てが明るみになった。かつては『投球魔神・田﨑太陽』のプレーに大興奮し、その圧倒的な『肩』を誉めちぎっていた純朴な野球ファンさえも、まったく擁護しなかった。多くの人々とともに、誰もが一丸となって『叩き』をする側になった。そのかいあって『投球魔神・田﨑太陽』の名誉というものは、後世にこれっぽっちも残らなかった。『田﨑太陽』の名は、史上最も有名なレイプ犯の名になった。
 そして、その『田﨑太陽』が、『水縹(みはなだ)みそら』の血縁上の父親にあたる。『田﨑太陽』が強姦したCA(キャビンアテンダント)たちの一人であり、乗客の8割が死んだ飛行機事故を生き残った『水縹(みはなだ)未来』を母にして、『水縹(みはなだ)みそら』は生まれたのだ。
『水縹(みはなだ)みそら』が『田﨑太陽』の娘であるということは、みそらがいくら秘密にしようとしても簡単に誰にでもバレる。ネット上に腐るほど情報が載っているし、なにより、みそらの顔は『田﨑太陽』にそっくりなのだった。色白で目力が強く、スポーツ選手らしからぬ役者じみた『田﨑太陽』の顔はテレビで見て誰もが覚えている。その顔をそのまま女子にしたのが、みそらの顔だった。
 

「すげえ、すげえよ、全くすげえ『肩』だなオイ」ピンク色のもさもさした変な服を着ている男は、鼻血をたらしながら『好奇心』で目を輝かせていた。
 みそらは基本的に他人の『好奇心』というものが嫌いだ。もっと正確にいえば、『好奇心』を向けられるのが嫌いだ。『田﨑太陽』の娘というだけで、他人から『好奇心』を向けられ、みそらの心の平穏はだいたい乱されてきた。『好奇心』を持った彼らは、自分たちが一般人を代表して『叩き』をする側であることを確かめて安らぐために、全く無邪気にみそらを陰から嘲笑した。彼らはみな『珍獣』を見る目をしていた。みそらに向けられる『好奇心』とは、そういうものだった。
 しかし、今目の前にいる男の目の光は、そのような『珍獣』を見るものとは、ズレていた。みそらが過去に出会った嫌な他人のもつ、『うすら寒い雰囲気』がなかった。何かが違った。
「もう一度投げてみてくれ」
「は?」
 みそらは「このパターンは知らない」と思った。嘲笑や嫌がらせをするために勝手に近寄ってくる奴らは、みそらの『肩』でものを投げつけられたら、逃げ帰るか、激昂するかであった。そして激昂したならば逃げ帰るまでものを投げるのが、みそらの方式だ。今より人を信じていた頃、話し合いで解決しようとしたら家を放火されかけた。だからみそらは容赦しない。しかし、「もう一度投げてみてくれ」などと、目を輝かせながら要求をされたのは初めてだったので、みそらは困惑した。
 男はその場に膝をつけたまま、背中に左手を回した。何か『武器』でももちだすのかとみそらは思ったが、そうではなかった。再び現れた男の左手には『左利き用キャッチャーミット』がはめられていた。
「俺は、『キャッチャー』だ。『花吹雪はじめ』は、野球界期待の星、そして、ポジションは『キャッチャー』!!」
「うん、で、何?」
「『水縹(みはなだ)みそら』!!俺と勝負しろ!!」
「勝負ぅ??」
 みそらはさらに困惑した。
「君はこの結構ひろめの歩道の横幅の範囲内どこかに全力で投げる。その『サザエ』を俺がキャッチできたら、君は俺たちの野球チームに入ってもらう」
「勝手に決めるな、なんでそんな話に乗らなきゃいけないの」
「だめか??」
「ふざけてる」
 みそらはずっと構えていた投擲フォームを解いた。こんな馬鹿馬鹿しい男に警戒していたのが馬鹿みたいに思えた。
「私は野球なんかしない、野球じみたこともしない。野球なんか関わりすら持ちたくない。安らかに平穏な一生を送りたいのでさようなら」そう告げると、みそらは『サザエ』をカバンにしまい、『花吹雪はじめ』に背を向けて家に帰ろうとした。
「おっと自信がないのか」
「つきあってられないだけ」
「やはり不意打ちじゃなきゃな、誰でも捕れるわけだしな、たとえあの田﨑のこどもでも。田﨑だって昔の雑な野球界だから活躍できただけで、今だったら普通のレベルかもしれないしな」
「はぁ??」
 みそらは驚いた。『田﨑太陽』が『最低のゲス野郎』であるというのは、聞きなれていることだ。だから良くはないが耐えられる。しかし、『投球魔神・田﨑太陽』が、「今だったら普通のレベル」などと侮られることは、みそらにとっては不意打ちだった。衝撃的だった。どうにも看過しがたい発言だった。驚きにより心の蓋が吹き飛んだせいか、抑えがたい『憤怒』がふつふつと沸き上がってくるのを、みそらははっきりと感じた。
 みそらは普段『憤怒』を心の中の愚痴としてしか発散しない。直接表に出た『憤怒』は穏やかではないからだ。みそらが声をあらげたり、ものを投げつけたりするのは、基本的に『威嚇』であり、他人向けのパフォーマンスだ。他人を動かすためのものだから、表面上の荒々しさのわりに、みそら自身の心に実のところ影響が薄い。それで良いのは、みそらが心を動かしたくないからだ。心に蓋をして生きているからだ。心を動かすのが怖いからだ。だがしかし、今、みそらの『憤怒』は、直接表に出ようとしていた。つまり、どうしようもなく、『動かしたくない心が動きそう』だった。
 みそらは、カバンから『サザエ』を取り出し握った。振り返ると『花吹雪はじめ』は構えていた。構えをとって待っていた。みそらはそのとき、ピンク色のもさもさした上着を着た『花吹雪はじめ』の身体から、はじめて緊張感というものが感じられた。そして、みそらは自分自身の心臓が激しく鼓動している音に気付いた。
「私、緊張してる」と、みそらはつぶやいた。言ってしまってから、「今の『花吹雪はじめ』に聞かれたか?」と思った。
「小細工はしない。ストレートに投げる。だけど絶対に捕れるわけない。私自身もこの『肩』で本気で投げたら、どうなるのかわからない。殺しちゃうかもしれない。捕れるものなら捕ってみろ」  
『花吹雪はじめ』は鼻血を流した顔で微笑んでうなずいた。みそらは、さっきまで情けないうめき声をあげていた男と、今目の前にいる男が同一人物とは思えなかった。
 みそらは『サザエ』を固く握りながら、2回深呼吸をした。そしていつものように滑らかに投擲フォームへと移った。それなのに、全身がバラバラになりそうな感じだった。投げるための力を入れれば入れるほど、みそらの『肩』はみそら自身にとってますます得体の知れないものになっていった。自分にかけられたこの『呪い』が怖かった。みそらは視線を『花吹雪はじめ』を突き抜けて、その向こう側にだどりつくように定めた。そうした時にはじめて、みそらは自分の父親もきっとこんな風にものを見ていたに違いないと感じた。同時に、いつかもしかしたら、あの父親のことを許せるようになるかもしれないと何故か思った。不意に背後から強く吹きつけた夜風に引かれるように、みそらの『肩』は動きはじめた。そしてもう、みそらが自分の身体を信じて、この勝負に何もかもを委ねた次の瞬間には、みそらはまるで見えない壁をつきやぶるような『知らない速度』で、『サザエ』を投擲していた。
 
 
 そして聞こえたのは、吐血の音だった。何が起こったのかはみそらにも把握しかねた。『花吹雪はじめ』は口から血をはいていた。そのうえピンクのもさもさした上着の胴体部分がバラバラになって飛び散っていた。構えていた『左利き用キャッチャーミット』も左手になかった。ズタズタに破れた何かの布の破片が、彼の周囲数メートルに山のように落ちていた。
 みそらの血の気はひいた。自分の『肩』の本気がこれほどの異常なものだとは、信じられなかった。どうみても『人間業』ではなかった。みそらはふらつきながら、一歩一歩『花吹雪はじめ』に近寄った。
「俺の、勝ちだ」
『花吹雪はじめ』は口を拭うと顔を上げた。顔の下半分が真っ赤だった。
「だ、大丈夫?」
 みそらはかがみこんで、何がどうなっているのかを観察して整理しようとした。だが、細かい布切れや糸屑が散らばっていて、何がなんだかよくわからなかった。おそらくみそら自身も『知らない速度』に達した『サザエ』は、凄まじい『回転』までしていたのだ。その力がミットや服をズタズタに引き裂き、このような有り様を作り出したのではないかと考えられた。
「約束は守れよ、俺は君に勝ったんだぞ」とりあえず『花吹雪はじめ』は、結構はっきりした口調をしていて死にはしなそうだった。ミットを失った左手も、それほど怪我をしているようではなかった。
「『サザエ』どこいった?」
「ここだぜ」『花吹雪はじめ』は胸を反らし誇らしげに腹を指差した。ズタズタのピンク色や茶色の布切れの間に、確かに『サザエ』らしきものが埋もれていた。
「これ、刺さってるの?」
「いや、刺さってはない」『花吹雪はじめ』は立ち上がった。そしてお腹のあたりの布切れを手で払った。『花吹雪はじめ』は、ピンク色のもさもさした上着の下に、分厚い『キャッチャー用プロテクター』をつけていた。そこに『サザエ』は深々とめり込んでいたのだ。『サザエ』の殻の暴力的な『とんがり』は、いくつかへし折れていた。
「君の『肩』は本当にすごい。はっきりいえば全然見えなかった。たぶんそうだろうと予想ついてたけど、ここまでとは思わなかった。プロテクター着てきて本当に良かった。すごかった。だがこの結果は俺の勝ちだと思うぞ。身体そのものを『キャッチャーミット』にして、捕ってやったということだなこれは」
 立ち上がった『花吹雪はじめ』はフリスビーをキャッチした犬のようにはしゃいでいる。それをみそらはかかんだまま見上げている。みそらは「こいつは自分よりかなり大きいな」と感じた。そして、「こんな馬鹿馬鹿しい奴に負けていられるものか」と思った。対抗心に火がついた。
「いや私の勝ちだ」
「そんなはずはない、俺の勝ちだ。現実を見ろ、君の投げた『サザエ』は俺がキャッチしている。約束通り、俺たちの野球チームに入ってもらう」
「ミットに収まってない。私の投げた『サザエ』は、えー、はじめ!!お前のミットを破壊しつくし消滅させた。その時点でこっちの勝ちに決まってる」
「言い訳をするんじゃない!!俺の出血量を見ろ!!すごいことになってるぞ??これだけすごいのに勝ってないわけがない」
「理屈になってない。ふざけてるの??」
「ふざけてるのは君のほうだ!!そんなとんでもねぇ『肩』しといて、その力を腐らせるつもりか!!もったいない!!」 
「私は普通に暮らしたいだけだから!!野球は嫌!!」
「たわけめ!!野球の神に選ばれているというのに!!」
「野球の神なんか知るかボケ!!」
 みそらはそう叫んだとき、誕生日をお祝わいされた時のようなウキウキした気分が、身体の隅々まで充ちるように感じた。今までの人生で感じたことのないほどだった。「こんな気分にいつまでも浸っていられたらな」と、みそらは願ったが、それはたぶん無理なのだと何となくわかった。
それでもみそらは、これから起こるどんな小さなことさえ、今は楽しみに思えてしかたがなかったのだった。

太陽のこども

太陽のこども

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-02-03

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