グーテナハト
クナイプの入浴剤に、グーテナハトって名前の青いのがあります。不眠症の人にいいらしくて、一時期使っていた時があるんだけど、ふとそれを思い出して妄想した話です。妄想の材料は、入用剤と、蓮です。
透き通る半透明の青い湯。浴槽に肩までずぶずぶに浸かって、頭の中を空にしようとする。その実、空にしようとすればするほど、情報が溢れて、余計なもので一杯になってしまうものである。
世の中は、あまり考えないぐらいの方が渡りやすい。
頭どころか、そのうち体全体に思考の毒がまわってしまうから。二の腕の、瘡蓋のはった治りかけの傷口に、爪を這わせて薙ぐ。切ったばかりの短すぎる不格好な爪が、柔らかい肉を切り裂いて進む。爪を立てて肉を少し抉り取っては、傷口から溢れるものに、ふと安堵する。こうしておけば、体の中をぐるぐるまわる余計なものを少しは吐き出せる気がして。私は毎晩、爪を這わすのだ。
世の中は、空っぽのほうが渡りやすい。
血液と湯が混じる。浴槽からだらりと垂らした腕を伝って、はらはらと床に流れて行く。ああ、俺はまだ人間だ。人間だぞ。流れていく血を見下ろして、俺は自嘲気味に笑った。そうだ、俺はまだ…。
1、バス
ばす。バス。深い青紫色の座席に腰かけた親子を横目に、俺はつり革に手をひっかけてぼんやりバスに揺られていた。一港公園前のバス乗り場でバスは停車し、目の前の親子はバスを降りて行った。少し暗い色をした窓越しに、先ほどの親子が仲睦まじく歩道を歩いているのが視界に入る。手をつないでいた。誰かと手をつないだことなんて、今までにあっただろうか。
バスが動き出し、振動に体が揺られる。意識を、親子から目の前の座席に戻すと、杖を突いたご老人が座っていることに気が付いた。先ほどの駅で乗ってきたのだろう。そう思った。バスは、次の目的地に向かって道路の上を進んでゆく。少しの振動か体に伝わり、見れば赤信号で止まったようだった。バスのフロントガラス越しに見える赤信号から視線を戻すと、前に座っているご老人がせき込んでいた。ごほごほと、背中を丸めて苦しそうにせきをするご老人に、いたたまれない気持ちになった。
『…大丈夫ですか?』
怖がらせないようにそっと肩に触れてから、背中をさする。少し落ち着いたところで、ご老人が小さな声で『…ありがとう』と言った。俺は、カバンの中に入っていた巾着袋から、のど飴を一粒取り、ご老人の目の前に差し出した。
びっくりしたように少し目を見開いて、こちらをみた。『どうぞ』と言うと、ぺこりと小さく頭を下げてのど飴を受け取ってくれた。
はす。蓮。幼い頃から自分の内面の凶暴性に気が付いていた。自分は人間の皮をかぶって生きているのだと、錯覚していた。でも、周りの人は俺の外側の分厚い皮ばかり見ているから。皮ばかりを、知ったふりするから。皮ばかりを愛するから。内側の、誰彼かまわず喰い散らかしそうなこの私を、見せてはいけないのだとわかっていたから。
本当の俺は、どこにあるのか。凶暴な私か。清らかな心を持った、化けの皮か。大きくなるにつれて、わからなくなってしまう。俺は一体どこに行ってしまうのだろうか。上面の皮が、誰かに愛されるたび。愛が離れていくような気がしていた。
バスが、雑木林の中の道を抜けると視界が開ける。両側に美しい蓮の沼が広がっている。俺はこの風景を気に入っていた。単純に、美しいからだ。花はいい。本当の俺がどんな人間であれ、平等に癒しを与えてくれる。
『…お兄さん。』
見れば、先ほどのご老人がドロップの缶を持っていた。手を出してというので、掌を差し出すと、手首をつかまれ掌に缶を押し付けられる。そのまま、数回カシャカシャと振って、半透明の丸い大きな飴がコロンと掌に転がり落ちた。明らかにドロップではないそれを、ご老人は俺の手に包ませた。先ほどのお礼だろうか。俺は、『いただきます』といって、飴をいただくことにした。掌に乗せられた大きめの飴を、コロンと口の中に放りこむ。
『…よぉく聞いてください。』
ご老人が小さな声をもっと抑えて話し出す。
『…これからこのバスは、最後のバス停で爆発します。…でもあなたは死にません。…大丈夫です…私の命をお譲りしたのですから。ありがとうございます。私はやっと妻のもとに行くことができる…。長らく待たせてしまいました。』
俺には、ご老人の言っていることがさっぱりわからなかった。バスの爆発。命を譲る。俺は死なない。一体全体、どうなっていやがる。言葉が脳内に侵食する。
『…まあ、そんなに怖い顔をしちゃあいけません。あなたは運がいいと思いますよ。笑っているといい。』
笑う。とっさに、口角を吊り上げることができなかった。笑うこととは無縁の生活を送っていたので、表情筋が死んでいるのだ。
『…なんてったって、永遠の命を手に入れたのですから…』
ご老人は、細かった目をかっぴらいて、口角をあげて笑った。
目の前が、ぶわっと白い世界に包まれる。体を引き裂くような音がして、肉体の奥で爆ぜる。目の奥が爆ぜる。衝撃。暑い。黒。白。黒。白。黒…。視界がチカチカと点滅する。痛い。痛い。痛い。だが、叫ぶ前に…。視界が黒く染まってゆく。俺の意識は、吹き消されるろうそくの灯のように落ちた。
2、bath
ぴた。ぴた。浴室の天井から、ぽたぽたと落ちる水滴が顔に落ちてきて、沈んでいた体が浮かぶみたいに意識が浮上する。床を見れば点々と先ほどまで流した赤色が散らばっていた。まだ、湯の中が冷めていないことを考えると、うたた寝していた時間はさほど長くはないようだ。知っているさ。わかっているのさ。それでも、自分に降りかかる最悪を受け入れることができなくて…。深く深呼吸をして、先ほど薙いだ腕の傷に指を這わせる。傷は瘡蓋に戻っていた。背中がぞぉっと冷えてしまって、俺は膝を抱いて縮こまる。湯の中で、力が入って色が変わる足の指先を見つめながら、数日前のことを考える。
バスが爆発したあの日。目が覚めると、大破して真黒く焼け焦げたバスの車内に一人取り残されていた。足元や、他の座席だった場所に、炭になってしまった人間の体が転がっている。俺の脳裏を老人の言葉がよぎる。
『…なんてったって、永遠の命を手に入れたのですから…。』
俺だけ、生き残ってしまった。俺だけが、生き残ってしまった。黒焦げになった、人間だったモノたちをぼんやりと眺めて、働かない頭で、逃げなくてはと思った。このバスの中で、俺だけが生き残った。このバスの中で、俺だけが異質だ。このバスの中で、俺だけが…。異質なものは排除されるのが、世の常である。
ざわざわと、人の声が聞こえて。はっと、我にかえって。あたりを見渡せば、バスの周りに人だかりができていた。周りの人間に、自分が生きているのを見られてはいけない。異常なものは排除されるのが、世の常である。
バスから出ようとすると、どうしても人目に触れてしまう。かといって、ここにずっといて、警察に犯人にされてしまったらたまったもんじゃない。俺は悩んだ。悩んだ末に、バスから出ていく決意をした。今の自分の状況を警察に説明したところで、信じてもらえるはずがない。ご老人は、バスと共に焼け死んでしまった。この状況じゃ、どうせ。遅かれ早かれ見つかってしまうのだ。それならば、今行動に起こして。遠く、誰もいない場所まで、逃げてしまった方がよいのではないか。警察の捜査網をかいくぐれるかはわからない。それでも、ただつかまって逃げ場もない状況になるよりか、野次馬の群れを割り開いて、今逃げてみた方が幾分かましなように思われた。その決断を下すころには、バスの中でゴロゴロ横たえている死体の事なんか、私の脳内からは消え去っていた。人間、結局は自分が一番大事なんだ。
俺は、壊れたバスの割れ目からずるりと這い出した。そして、野次馬の層が薄そうな場所へ向かって一目散に走りだす。人を、避けて。避けて。避けて。避けて。そこで、やっと気が付いた。この人たちには、俺が見えていない。
おかしい。おかしいのだ。黒こげボロボロのバスの中から、無傷の人間が這い出してきたのに、誰もこちらを見ていない。試しに、何度か同じ人の目の前を横切っている。俺なんかには目もくれず、俺の後ろにある黒焦げのバスを動画で撮影している。一体俺は、どこに消えてしまった。ここは一体どこだろう。さっきまで、自分の世界の中にいたのに。自分と世界がプツンと切り離されてしまったような錯覚がした。世界から自分が消えた感覚が、酷く恐ろしくて、自分の存在を確かめたくて、とにかく急いで帰宅した。帰宅すれば、いつもと変わらぬ自分の生活空間が待っていて、酷く安心した。
あれから、職場にも行ってみたし、外出もしてみたが、やはり誰も俺のことが見えていない。バスの爆発のニュースは、あれだけ大きなニュースになったのに。ニュースからも、バスからも。否、この世界から俺の存在が消えていた。
だから、こうして風呂に浸かっている。暖かさを感じて、受け入れきれない事実をごまかそうとしている。自分が感じることで、まだ、この世界に存在しようとしている。縋り付こうとしている。かっこ悪いことこの上ないが、今の俺にはただこうして、自分を落ち着かせることしかできなかった。
死んでしまえば全て終わる。自分が世界に存在しないなんてことを、受け入れずに死に絶えて行ける。そう思っていた。現実はそう甘くない。首吊り、飛び降り、入水。どれも試してみたのだけれど、俺が死ぬことはなかった。こうやって、先ほどつけた傷も、すぐにふさがってしまう。一体どうしたものだろうか。俺は、再び傷口に爪を這わせた。
3、蓮
沈着。そう、色素が沈着するように、魂の奥底にある。曖昧な空間のその奥に、確かに存在する。沈着。俺たちには見えないが、きっと初めから、沈着していた。
わかるだろう。人間は同じ事を、何度も繰り返す生き物だ。人間どころか、そいつは世界の全てに言えることだ。人間は。世界は。繰り返している。当然、俺もその繰り返される世界の一部に過ぎないというのに。
『…あんた、透果を食わされたねぇ』
自分は誰にも見えていないと思っていた。そういうものだと思うことにした。昔からそうだったと、思いこむことにした。記憶は、人を救わない。希望だろうが、絶望だろうが、記憶は俺を救わない。俺は、世界から零れ落ちたんだと錯覚していた。
いつものように、混雑しているスーパーの人ごみに紛れ、食べ物を調達する。お金は、その分を計算してレジに置いていくから、決して万引きではない。お金は幸い、パソコン一台あればできる仕事でなんとかやりくりしている。この世界から、俺の全てが消えたわけではなかった。生活空間も、銀行口座も、その他生活に必要なものも、何もかも残っていた。それらを残して、俺だけが消しゴムをかけられたみたいに消えてしまった。筆跡はあるのに。
スーパーを出て、近所の公園のブランコに座って一休みをしているときに、俺は彼女に声をかけられた。
四年ぶりに他人から声をかけられて、言葉が自分に向かっているのか一瞬わからなかったが、彼女の瞳は確かに俺を見ていた。
『俺が見えるのか?』
『見えるよ。だって私、透果の子だもん。』
脳髄が揺さぶられるような衝撃が走った。
彼女曰く、俺はその透果と呼ばれる飴のようなものを食べてしまったからこの状態になったのだという。彼女の父もそうであった。彼女の母は、もう昔に亡くなり、父親はその時に出て行ったっきり会っていないそうだ。父親を捜しているのだという。
透果は自分が見える者にしか託すことができないらしい。俺は、彼女から透果について教えてもらう代わりに、一緒に父親を捜すという約束をした。
共に行動する日が増えれば、親しくなるのも早いもので。俺たちは、すぐに打ち解けて一緒に暮らし、気が付けば家族になっていた。
彼女が、事故にあったのは一緒に暮らし始めて4年目の冬の事であった。
赤。あか。朱。アカ。瞬間的に飛び散った赤が、こびりついて離れない。ひしゃげた看板と、大破した貨物トラックの間でぼたぼたと流れる赤を俺は見ていた。俺は、急いで駆け寄った。体の半分がつぶれた彼女を見て、喉の奥が張り付く。呼吸がしずらい。目の奥が、酷く熱くて、気が付いたらじわじわと涙が流れていた。
『晴。はる。』
俺は、手を伸ばして彼女に触れる。まだ息がある。俺の脳内は彼女を助けることで一杯だった。
ころん。何か、硬いものが転がる音がした。ああ、これは。
『…透果。』
俺は、それを拾い上げて、晴の口に放り込もうとした。俺の命なんかいらない。俺の命なんか、どうにでもなってしまえばいい。彼女がこれで助かるならば、それでいい。晴がいないと、今の俺の幸せだった記憶は存在しないのだから。
『…いやだ。』
晴は閉じていた目を大きく開いた。その瞳は、俺が命を譲りうけたご老人に少し似ていた気がした。ああ、そうか。
『…私がそれを食べたら、あなたがいなくなってしまう…。』
彼女の左手がゆっくりと持ち上がる。
『…あなたがいない世界で生きていくなんて、私にはできないわ…。』
生きて
彼女の左手は私の頬をかすめて、するりと落ちた。
5、おやすみなさい
ばす。バス。深い青紫色の座席に腰かけた親子を横目に、俺はつり革に手をひっかけてぼんやりバスに揺られていた。一港公園前のバス乗り場でバスは停車し、目の前の親子はバスを降りて行った。少し暗い色をした窓越しに、先ほどの親子が仲睦まじく歩道を歩いているのが視界に入る。手をつないでいた。誰かと手をつないだことなんて、今までにあっただろうか。
バスが動き出し、振動に体が揺られる。意識を、親子から目の前の座席に戻すと、杖を突いたご老人が座っていることに気が付いた。先ほどの駅で乗ってきたのだろう。そう思った。バスは、次の目的地に向かって道路の上を進んでゆく。少しの振動か体に伝わり、見れば赤信号で止まったようだった。バスのフロントガラス越しに見える赤信号から視線を戻すと、前に座っているご老人がせき込んでいた。ごほごほと、背中を丸めて苦しそうにせきをするご老人に、いたたまれない気持ちになった。
命は巡り。つながってゆく。俺がそうだったように。あなたがそうだったよう。繰り返す世界の中の歯車の一つみたいにめぐりめぐって、それはいつの間にか自分の前に差し出されている。偶然のようなことが、巧妙に仕組まれていたりする。色素が沈殿するように。魂に、沈殿する。ああ、おやすみなさい。
グーテナハト
蓮、バス、bath。完全に、しゃれです。遊んでます 笑
蓮の花ことばを調べてみると、結構使われてるんで面白いかも。
グーテナハト、よく眠れるんで。寝れない人は、試してみるといいかも。寝る前に風呂に入って、入ったらそのまま布団に入る。それがいい。