ま お

あおい はる

 さみしいから、ごはんをたべるのと、部屋のそうじをするのと、かいものに行くのを、放棄して、パソコンのまえで、じっとしていた。じいっと、だれかがゲームをしながらしゃべっている様子を、みていた。おもしろい、かと問われれば、暫し考えたのち、ふつう、と答えるだろうと、ぼくは思っていた。町は、ちいさく呼吸をしているみたいに、ひそやかで、快晴なのに、にんげんを含め、いきものといういきものが、みんな、ひるねをしているのではないか、というくらい、静かだった。そとにでても、いきものの気配がないのでは、この、ふとわいてでた、さみしい、という気持ちは、どうにもなんないだろうなぁと思った。カフェオレを、気づけば三杯、のんでいた。
 真夜中にならないと、あらわれない、まおが、いつだったかつくってくれた、パウンドケーキのことを、ぼくは、ときどき、思い出すのだ。
 まおは、真夜中にしか、うまれないで、ひとつの真夜中に、ひとりのまおしかいない上に、一日ごとに、まおは、あたらしいまおに、なるものだから、二十五時頃の、まおと対峙した第一声は、いつも、はじめまして、で、夜明けの、まおがいなくなるときの、あいさつは、さようなら、で、こんばんは、や、また明日、という言葉は、まおとのあいだには、成立しないのだった。きょうのまおに、きのうのまおはおらず、あしたのまおに、きょうのまおは微塵も、一切として残らないのが、まお、というものである。まおは、毎日、異なるまおであるが、人格は変わらずに、ただそこに、横たわっているだけの森の湖のように、おだやかで、綿をつめたみたいに、やわらかで、微笑みをたやさない。記憶だけが、リセットされて、ぼくのなまえすらも、インプットされていない、つまりは、まお、というなまえの、まったくべつの個体が、毎夜、ぼくのまえにあらわれるのだ。
 パウンドケーキをつくってくれたまおは、まおがあらわれてから、七十八日目の、つまりは、七十八人目の、まおだった。
 七十九人目以降のまおに、パウンドケーキをつくれるかたずねているものの、いまのところはだれも、つくれるものはいない。きょうは、二百九人目のまおだったが、フランス料理はとくいなのだけれど、とか言っていた。こんど、つくってもらおうと思ったけれど、二百九人目のまおに、こんどはないのだと、思い直した。あしたのまおにも、あさってのまおにも。
 だれかのやっているゲームのなかでは、キャラクターが、にんげんのように生きていて、にんげんのように死んでいる。

ま お

ま お

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
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