春はまだ来ない
けだるげな、朝。
光がみえない、暗幕にくるまり、うたたねをする頃の、ひそやかな春の気配。桜の木のしたに、きみはいてね、あの、時間が経って、しっとりとした、給食の揚げパンの味を思い出すとき、すこしだけ付随するのは、漠然とした憂いだった。雪が降って、また、街は白く塗りつぶされて、宇宙からみたら、そこは、白い大地なのだろうかと、想像するときの、砂糖めいた感じ。ときどき、まよなか、悲鳴みたいな声がきこえる、のは、なんらかの野生動物の鳴き声だって、おしえてもらっても、きこえてくると、こわい、と思う。にんげんの泣き声は、こわくないのに、えたいのしれない、なんらかの動物の鳴き声は、こわい。
シャチとは、仲がいい。
陸と、海で、ぼくと、シャチは、けれども、だれよりもつながっていて、ともだちであり、恋人みたいでもあり、家族のようでもあり、けれども、なんだかそういう関係性であると、具体的に説明をするのは、ひじょうにむずかしいような気がしている。どれもがしっくりくるし、どれもが、なんだかおかしい。シャチは、ぼくの言うことを、わかっているのかもしれないし、ぼくも、シャチの言いたいことを、わかっているつもりでいる。はっきり、わかる、とは、断言できない。シャチの、鳴き声が、にんげんにとっての言語であり、ぼくの言葉が、シャチにとってのオーラルコミュニケーションであるのだろうが、それは、ぼくにとっての宇宙語であり、シャチにとっての暗号であるかもしれない。
それ、ともだちって、呼べるの。
ニアが、平坦な調子で言って、テレビのチャンネルをぱちぱちと変えている。クイズ、歌、バラエティ、そのうち、ドラマ、ニュース。さいしゅうてきには、みんな、似たり寄ったりだというのが、ニアの、テレビ番組に対する見解であり、でも、ニアは、テレビが好きだ。適度なわずらわしさが、ちょうどいいのだという。
ぼくは、どうだろう、と首を傾げながら、コーヒーを淹れる。よくわからない、というのが、総合的な感想。でも、まちがいなく、シャチのことは好きだった。
まどのそとは、どこまでも白い。
春はまだ来ない