結び目
結び目
健人君の家は貧乏であった。私の家も人の家を語れるほど裕福ではなかったけれど、それでも健人君の家ほどではなかった。八畳一間の文化住宅に住む健人君は、そこで家族六人とひしめきあうように生活していた。健人君のお父さんはずっと肺の病気を患っており、働けないのだということを、いつか母親から聞いた。健人君の服はいつも黄色く変色していて、よれていた。匂うわけではない。匂うなんて言ったら、毎日六人分の洗濯を干している健人君のお母さんが浮かばれない。ただアイロンをかける余裕がないのか、そもそもアイロンがないのか、新しい服を買う余裕がないのか、服を買うお金も時間もないのか、健人君の服は黄ばんで大きくよれていた。学校の持ち物も教科書なんかの類も全ておさがりでぼろぼろだったし、クラスで一人だけ、ランドセルではなく手提げかばんで通学していた。真冬でも半ズボンで、すり傷だらけのに茶色い素足が机の銀色に冴えるパイプ脚に絡んでいる光景をよく目にした。
家が貧乏である、ということに加えて、健人君はイジメられていた。イジメの原因はよくわからない。小学生当時、私は何度か健人君と同じクラスになったけれど、どの学年になっても、まるでその役割が義務付けられているように、健人君はイジメられていた。靴を隠されたり、ぼろぼろの教科書をゴミ箱に入れられていたり、引きちぎられたり、プールの際にはパンツを隠されていたりした。休憩時間、ぼろけて紙が粉々になった教科書を、鼻をすすりながらセロテープで貼り付ける健人君の姿を、何度も見た。クラス中の生徒が見かけただろうに、私を含め、だれ一人として彼に声をかけなかった。今にして思えば、イジメの原因は、健人君の家庭事情の他に、体が小さかったことや、脅されたら何も言い返せない気弱な性格にあったのだと思う。大雪の日でも半ズボンを穿き、黒くくたびれた運動靴のかかとを踏みながら帰っていく彼の後ろ姿を見て、心の中の襞が揺れ動くのを何度も感じた。
あれは小学四年生だったか五年生だったか。教育実習生がクラスに着任したのだ。実習生は大学四年生の若い男性で、名前を菊池といった。菊池先生の全身からはエネルギーがほとばしり、誠意という誠意が漲っていた。そんな菊池先生の瑞々しいエネルギーにあてられて、小学生たちの気分も高揚した。先生の実習生活を成功させようと、皆が真剣に授業に取り組み始めた。そんな中にあっても健人君はひとり授業についてこれず、何度も授業の進行を止めてしまった。そのたびに若い教師は四苦八苦して、黒板の前で慌てた。
クラス中はみんな健人君を悪者扱いし、若い教師を庇った。可哀想なことに、健人君はどうしても最初からイジメられる為にクラスに存在していたのだ。放課後になると、健人君の机の横に膝をつき、熱心に勉強を教え込む菊池先生を何度も見かけた。ちびた鉛筆を握りしめて机に覆いかぶさるような健人君の猫背。その傍らに膝をつく教師。二人の細い影が寂しい教室に伸びていた。どれだけ出来が悪くても、菊池先生は健人君に全力を込めて接していたし、一方で健人君もこの若い教師にだけは心を開いているようだった。
当時私は保健委員なるものに所属しており、週に一回のペースで昼休みを保健室で過ごしていた。休み時間中に怪我をした生徒に絆創膏を貼ったり、体調が悪いと訴える生徒の熱を測ったりしながら時間をつぶすのがその役割だ。そんなある日、健人君が一人で保健室に入ってきた。健人君の顔色は真っ白で、服には吐しゃ物がこびりついていた。聞けば今しがた中庭で嘔吐したのだという。どうも朝から気分が悪かったけれど親にも言えず、学校に来て給食を食べ終えた途端、一気に気持ちが悪くなったのだそうだ。健人君の服と口からは、さっき給食に出ていた卵スープに、酸味と生臭さを加えたような匂いが漂っていた。養護教諭も不在の中、とにかく子どもばかりではどうにもならないので、養護教諭と担任を呼ぼうと私が動きだすと、健人君が私の腕を取り、菊池先生だけ呼んで欲しいこと、担任にも誰にも来てほしくないことを告げた。担任は呼ばなければならないと説得しても、健人君は首を振り振り、どうしても菊池先生だけ呼んでくれと懇願する。仕方なく私は職員室に赴き、入り口付近にいた教師に菊池先生を呼んでもらった。廊下に出てきた先生に事情を話すと、先生は少し戸惑いながらも、保健室に一人で付いてきてくれた。
保健室に戻ると、丸椅子に座っていた健人君が顔を上げた。真っ白い顔で、けれど菊池先生を見つけると少しだけ安心したような表情を見せた。先生は健人君のそばに膝をつき、事情を聞き始めた。時折小さくうなずき、言葉を返し、そして健人君の小さな口がそれに呼応して動いているのが見えた。何を話しているのかは聞き取れない。二人とそんなに距離があったわけでもないのに、私の耳は終に二人の会話を捉えることが出来なかった。
やがて先生が立ち上がると、健人君は上着を脱いでそれを渡した。先生は上着を腕に抱え、そしてはっと気づいたようにもう一度膝をつき、健人君が履いていた運動靴の靴紐を結びなおし始めた。その時ようやく気が付いたのだが、健人君は上履きに履き替えずに運動靴のまま保健室に入ってきたようだった。そういえば中庭で吐いたと言っていたではないか。脱いで、と言いそうになるのを思いとどまり、私は菊池先生を見つめた。先生は思った通り、脱ぎなさいとも何も言わなかった。靴紐が緩んでいたから結びなおしているだけ。時間にして数秒にも満たない程度のその行為が、まるで何十秒、何百秒とも感じたのは何故か。指先をくるりくるりと繰りながら、最後はぎゅっと力を込めて蝶々結びを完成させた。力を入れている指先が白くなるその色さえも、間近に見えた気がする。そんなものが見えるほど近くにいたわけでもないのに。
靴紐を結び終えると菊池先生は立ち上がった。そして私に向かって、担任に事情を説明して帰宅できるように手はずを整えるから、教室から健人君の荷物を持って来て欲しい旨を告げた。そこからはもう殆ど記憶がない。健人君は誰か大人に連れられて帰ったのだろう。ただ鮮明に覚えているのは、菊池先生が靴紐を結びなおしている指先と、大人しく座って、それをじっと見つめる健人君の姿だけである。
中学を卒業すると健人君は街に出て、工場で働きだしたらしい。けれど結局職場の環境にうまく馴染めずに、一年近くで退職してしまった。私が大学に進学する頃には地元で何度か見かけたこともあったので、帰ってきているのかなと思ってはいたけれど、すぐにまた街に出てしまったようだ。今度は金属買取業者かどこかで働きだしたとの情報を風の噂で聞いたけれど、そこがどうも親会社がやくざか何かで、その事務所に出入りしている健人君の姿を見た、などという噂も耳にした。その業者が本当にやくざかどうかも分からない上に、健人君の姿を誰が見たのかも分からないようだった。健人君の噂話にはいつも、健人君に似た人、という言葉が付与されていた。噂なんてそんなものだ。そんな根も葉もない噂をよくもまぁ、しゃあしゃあと流せるものだ、などと思っていたけれど、数年後、健人君が知人に暴行をはたらいたかどで逮捕されたとの情報を聞き、いよいよ噂が真実味を帯びてきてしまった。
逮捕された時分には私はもう街に出て働いていたし、健人君の噂も帰郷した際の友人の集まりでしか聞く機会がなかった。捕まる際も暴れて警察官を殴ったらしいよ、とか、殴った相手の男性は半殺し状態にされていたらしいよ、という友人たちの言葉を、ほんまかいな、といった気持ちで聞いていた。あれだけ華奢で小さかった健人君から、そんな想像が付かない。そう友人たちに告げると、でも健人君、いまはすっごく体が大きくなってるみたいで、筋肉もすっごいらしいの。と興奮気味に語りだす。
半殺しだ、血まみれだ、歯が折れてぐちゃぐちゃだ、ああだこうだ。友人たちの会話をぼんやりと聞きながら、私は飲んでいたレモンサワーに目を落とす。レモンサワーはグラスジョッキの中で小さな気泡を無数に舞い上げながらぱちぱちと音を奏でている。甘くすっぱい匂いがジョッキから込み上がっては、鼻先でパチンと弾ける。
半殺しだ。ぐちゃぐちゃだ。やくざだ。もうやくざになっちゃったって。血まみれ。血の匂い。鉄パイプの匂いで。レモンの匂い。甘く、酸っぱく、生臭い、たまごスープの匂い。
レモンサワーの水底に健人君が見える。健人君は保健室の丸椅子に座って、菊池先生に靴紐を結んでもらっている。菊池先生はくるりくるりと繰りながら、最後にぎゅっと力を込めて、蝶々結びを完成させた。先生が立ち上がると、健人君は安心したような表情を浮かべる。パチン、と泡が弾けるとまた同じ。菊池先生は健人君の靴紐を結んでいる。くるりくるりと繰りながら、最後にぎゅっと力を込める。―了―
結び目