恋した瞬間、世界が終わる -第5部 来るべき一瞬のために 編-

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恋した瞬間、世界が終わる -第5部 来るべき一瞬のために 編-
  1. 第28話「人を誘うもの」
  2. 第29話「この時代に産まれること」
  3. 第30話「煙を吸う」
  4. 第31話「命の場所」
  5. 第32話「花粉の誘い」
  6. 第33話「水先案内人(ガイド)」
  7. 第34話「くちぶえ」
  8. 第35話「熱交換」
  9. 第36話「あなたが欲しかった遺伝子」
  10. 第37話「勇気の扉 -来るべき一瞬のために-」

第5部 来るべき一瞬のために編

第28話「人を誘うもの」

第28話「人を誘うもの」


ーー反発者は、私たちのコンピュータの開発メンバーだった


私たちが用意した「マニュアル」のどこに不満を抱くのか?
私たちの中にも、反発者に興味を抱くものが現れた。


刑務所は、もう用済みになるはずだった

私たちの「マニュアル」以来、犯罪者の数は減少していた。
ウイルスに対するワクチンのように。
劇的に改善されていった。

というのも、市民のランクに応じた「仕事」「食事」「住まい」
結局は、「環境」さえ与えれば、犯罪者たちは人間として「健全」になった。

「居場所」を失くしていたのだ

彼らの内的要因を満たすことができた。
ずっと必要だった願望を私たちが叶えた。

反発者の荷物に、私たちが排除したはずの「タバコ」があった

「健全」であり「健康」な生活を送る人間には必要なくなったはずだ。
彼がなぜ、それを荷物に忍ばせたのか?

「君は知らない、例えば僕が肺がんのステージ4であったとして、
 自らの寿命を縮める一本のタバコを吸うことの価値を」


彼は、タバコを取り出し、それが何を意味するのか

私に見えるよう、くるくると回した

まるでーータンポポのように


異なった側面が浮かび上がり始めたーー


今は亡き灰皿の代用として、彼は鉄のテーブルにタバコを押し付けて消した。

「次世代のコンピュータを君は知りたくないかい?」

第29話「この時代に産まれること」

第29話「この時代に産まれること」

男には子供がいたーー

先のウィルスが世界に蔓延していた最中、産声を上げた。
3000gを越えた障害のない健康な男の子だった。

結婚して8年過ぎた頃に授かった。
それまでの間、男は妻に何度も自分の見解を説いた。
避妊をしないセックスのあと。
妻から妊娠検査薬で陰性を聞いたあと。
何度も試みて、その度に虚しい行為になったあと。
授からない理由を何度も妻に説いた。
「僕の精子がダメなのかもしれない。」
「僕の好き嫌いがダメなのかもしれない。野菜もっと食べるよ。」
「僕の肥満が原因なのかもしれない。市営体育館に通ってみるよ。」
「僕の運動方法が原因なのかもしれない。ぶら下がり健康器を買ってもいい?」
「僕の筋力不足が原因なのかもしれない。ヒップスラストで腰も鍛えるよ。」
「僕の筋トレがやり過ぎなのかもしれない。週3日に減らしてみるよ。」
「僕の筋トレがまだやり過ぎなのかもしれない。週2日でどうかな?」
妻を傷つけないよう筋トレに夢中になりつつ、その都度、自分の所為にした。
「子供は授からないかもしれないけど、君と一緒なら幸せだよ。」
養子のことも考えたけど、手続きや審査の手続きが億劫でやめた。
妻と今後について話した。
「今まで本当に頑張ってくれたね。ありがとう。
これから二人で長く幸せな生活を送れるように考え方を切り替えてゆこう。」

そう決めたあとに授かった命だった。

本当に思いがけないことだった。
妻から妊娠検査薬で陽性の知らせを聞いたとき、男の頭に浮かんだのは将来は立派なボディービルダーになってほしいことだった。
これまで自分の為だった楽しみが、自分の子供に活きてくる。
しかし、時代は混沌としていた。
「新型マナヴォリックウィルス」の所為だ。

「産まれてきて、ありがとう」
そう言うことができなかった。
この時代に産まれてくる子供が、この先どうやって生きてゆけるのか?
どうやって、この子を育てることができるのだろうか?
どうやって、幸せにできるのだろうか?
ボディービルの大会も自粛してる。
どんな幸せがあるのだろうか?

自分がどうやって生きていったら良いのか分からないのにーー

男は、ウィルスの所為で職を失いつつあった。
ジムのパーソナルトレーナーだった。
子を授からないうちの努力が職になっていた。
仕事場であるジムは、ウィルスが蔓延する環境にあるとされた。
営業自粛になり、働くことが出来なくなった。
筋トレも自宅で、自重の負荷が軽いトレーニングになった。
男の生きがいは物足りなく軽くなった。
妻は「有酸素運動で、ウォーキングでもしようよ。」
子を授かるまでの試行錯誤でお互いの健康志向は高まった。
妊娠しながらも妻は大好きな散歩を続けた。
外出自粛の中で人と接しない散歩が日課になった。
妻との時間が増えた。
それは気にはならなかったが、妻と散歩の最中も将来への不安が過ぎった。
近所の川を横切る度に「どんな飛び込み方をしてもこの高さじゃダメだな。」
自殺しようとする気持ちも萎むほどに、とにかく心が弱っていた。
「犬を飼っても、動物も感染するんじゃ…」

最悪、生活保護も考えていた。
子を持つこの先のことを考えたら、それじゃあ情けなかった。
男は自分の過去を探った。
自分の背景から、生活に活きるスキルに繋がるような小さなことでも。
小学校、中学校、高校、卒業後のフリーター、コンビニ店員。
アパレルショップでの販売員。
学生の頃の部活は、帰宅部。
TVゲームばかりやっていた。
パソコンは学生の頃から使っていた。
WordとExcelの資格は持っていた。
「これしかないか。」

男はプログラマーになろうと思った。
パーソナルトレーナーではもう生きていけない。
他に興味があるものはない。
単純に出来そうなことがなかったから。

自分が薄っぺらに思えた
これまで生きてきた背景が貧しく思えた
生き残ることが必要な時に、必要なものが自分に“無い”と

「この時代には、不便になっている」
そんな自分の背景が嫌になった

「この子は、この時代に産まれて
 自分が嫌にならずに、自分の生き方に後悔せずに
 生き残るためのレールを踏み外すことなく、
 不便な背景を背負ってしまわないだろうか?
 僕は親として、子の不便さを作りたくない
 この子を、この時代に活かしたい。」


私は、反発者の男との取り調べから、男の記憶をデバイスに記録した。
「この男は、元々は後悔のない人生を選びたかったはずだ。
 決められたマニュアルを求めていたように感じる。
 なのに、なぜ、私たちのマニュアルを拒否するのか?」

第30話「煙を吸う」

第30話「煙を吸う」


私が元の場所へ戻ろうと決めたきっかけは、
求めに応じたからだ。

私は、転々と生きていた。
職を転々と、考え方も転々と
その場その場でのルールに合わせた身のこなしがあった。
どの場所にも私がフィットすることはなかった。
脱線して選んだデジタル産業は私にフィットした。
だが、
元の人生が、結局は合っていたのだ。
違う人生を生きようと争っていたことは、私の挑戦でもあった。


男は法廷に立っていた

「君たちのマニュアルは、唐突な生の価値を殺しているんだよ。」


検察官は男に問う

「では、あなた方が開発しているデバイスは?コンピュータは?
 私たちのものと何が違うというのです?」

「あなた方も新たなマニュアルを作るだけなのでは?」


男は意見を述べる

「これは違うよ。
 統計のものでも、コントロールの為でもない。
 秩序づけではない、価値を測るものだ。」


検察官

「価値を測る?それは、人間を選別するということか?」


「いや、その人自身。個人個人の生が還るための方法になる。」


検察官

「それは宗教なのかな?いったい、生がどこに還るっていうんだい?」


「新しい認識を持つということだよ。」


「私たちは、何かに頼っている
 一杯のコーヒーの下で
 揮発した香りの作用がこの場に反作用している。」

傍聴席の人数分だけ用意された“コーヒー”
換気口に吸い込まれてゆく湯気
ただ、一杯だけ、一人だけ
『自分のコーヒー』を持ち込んでいた

「私たちは、工夫している
 コーヒー豆の煎り方のように。」

「考え方が、新たな考え方を生み
 レールから脱線し、人生を転々とする。」 


 その時
  傍聴席の扉が開け放たれたーー


扉の音に反応した検察官、弁護人、裁判員、傍聴人…など
一様に扉の方を振り向いた
男は、換気口に向かう湯気たちが荒れ狂う瞬間を逃さなかった
湯気が集約するかのように顔へと向かったその時、
息を吹きかけた

ただ、もう一人
放たれた扉の方を振り向くことなく
男に視線を残していた
『自分のコーヒー』を持ち込んだわたしは
煙のような湯気を吸った

傍聴席の扉からは黒い服装の男が入ってきた


男は最期の言葉になることを悟る

「これが最期になるかもしれないという心持ちで、
 何かが眼前にあること。」


「君たちも会ってみると良い。
 僕らは、一人の詩人から生まれた。」


男は、最期の息継ぎを決めた

「詩の、言葉での跳躍が必要なんだ。」
 

第31話「命の場所」

第31話「命の場所」


 声に惹かれたのは、否定できないことで
 力強さというよりは、生命力を感じていた。



政府の「マニュアル」によって、犯罪率が0%になったあと
初の裁判だった
人々は物珍しさに
時代錯誤の出来事に胸が踊っていた
必要なくなりつつあった弁護士やら裁判員やらは興奮し、
検察官やら裁判官やらは久々の仕事に緊張が見られた
傍聴人の倍率は過去に例がなく、希望者は抽選番号の紙を握りしめた
そんな異様さの中、公開された男の裁判は、
人々に真に迫る印象を与えた

人々の間に広まった『詩人』
謎のその人
探すもの
陰謀説を唱えるもの
噂はもう、抑えることができなかった

それぞれの耳はもう、待ち望んでいたーー


私は男の取り調べの記録を偽った
男の深意がどれほどのものか、自分で確かめずにいられなかった
ここでまた、開発者としての欲が、
「次世代のコンピュータを君は知りたくないかい?」
男の言葉によって、私を動かしていた


 
 ーー状況が変わったのは、思いがけない出来事だった

違法移民の存在だ



取り調べ室にいた男

「農家の仕事をするはずだった」

「裏切られた」

「契約は安価なものだった」

「俺の母国の家族を養うことができない」

「違法滞在者になってしまった」

「違法滞在社のコミュニティーに逃げ込んだ」

「そこでは同じ国の人々が集まり、お互いを助け合っていた」

「金は無い」


「目をつけたのは、違法行為だった」

「生きるために仕方なかった」


“new leaves”という団体


男の記憶をデバイスに記録した

「マニュアルでは、人の心の弱さを 
 乗り越えることができなかったのか?」

「生きれば生きるほど、避け難いカルマと鉢合わせ
 度々に、負ける」

「世界で何かが起こっている」


研究室の窓からは、新緑のみずみずしい景色が見える
私たちが行なっている人工的な秩序とは対照的に
混沌が私に光を投げかけている
“みすぼらしさ”というものを、私たちは勘違いしていたのか
「あれは…枯山水というものだろうか?」

「いや、冬の…破壊があった後の、再生なのか」
黒い服の男が見えた
窓の外で、私の様子を伺っている

「時期が来るまでは、自己主張を抑えて
 余計なことはしてはならない。
 君が取るべき行動は、来るべき時の一瞬の中で決まる」

私は、ここで
私が終えた生のレールを切り替えなければならない

「来るべき一瞬のために」



私は、あの男に会わなければならない

第32話「花粉の誘い」

第32話「花粉の誘い」

反発者の男の記憶に“new leaves”との接触が残っていた
私は、まず彼らに会うことから始めた


記憶には、
 
 彼らは移動する
 拠点を移し、花粉を運ぶ。
  

案の定、男が出会った当時の居場所は
家主のいない、もぬけの殻になった木造の家屋
田舎を移動しているらしいことは
男の記憶から推測できた
私たちの「マニュアル」が届かない場所などあるのか?
そういった疑問を持ちながら
私は移動した



男の記憶に残った彼らの第一印象は

 誘う(イザナウ)人がいて
 おしなべて特徴のない人たちがいて
 “容れ物”のようだった。


「ただ、ただ
 不安なんだ」

「この時代が、この先
 何処へ向うのか
 見通しのきかないことが」

「世の中を覆う“目隠し”が
 そのままであって欲しい気持ちもある」

「だけれど、

  new leaves
  こうして集まり
  記憶を無駄にしたくない」


彼らが発見したのは、新種の植物だったらしい

新種なのかは分からない
これまで発見されることなく、
“有った”のか

贈られてきたのは山々からではなく
それは「アスファルトの亀裂」から現れた
タンポポに瓜二つの見た目で
自らを隠したままに生き延びたのか
小さな花の種子が芽吹いたようだったーー


彼ら違法移民の中に食物学者がいた

「これは、
 信憑性のないことだと思っていたが
 埋もれた植物があると噂で聞いていた
 あの植物学者カール・フォン・リンネによって
 “分類”されることなく
 歴史の中で見過ごされたもの」

「我々は、これを育てなければならない
 歴史の中で抹消され
 ようやく、この時代に芽吹いた花
 今まで何処を舞っていたのか
 何処からか、風に運ばれて来たもの
 この種子を、花を、育てなければならない」



男の記憶に残るそれからの彼らは

 誘うものを断ち
 個々の生に欠けていた何かは
 “容れ物”に、魂が宿っていた。



私はこの種子の蜜が盗まれぬよう
通信手段を遮断したタブレットを抱きかかえ
いつの間にか巣へと還るミツバチとなって
田舎から、田舎へと横断していった

「彼らとの日々を追っているのか?
 しかし気になるのが、
 男の記憶の中にあるフィルターだ
 これは、なんだろうか…?」

そんな時に出逢ったのが、ココだった
彼女の香りに私は誘われていったーー

第33話「水先案内人(ガイド)」

第33話「水先案内人(ガイド)」


 「水先案内人に、
  あなたは出会ったことある?
 
  ある娘がね、私に教えてくれたの」

 そういってから、ココは

 「あなたは“くちぶえ”が吹けるかしら?」



男の記憶を運ぶ“ミツバチ”となった私は
反発者の男の記憶を辿るうちに
“ガイド”を伴った旅の記録に気がついた

秘境へと向かう旅だった


忘れ去られ、見放された土地

物事の終わった場所
環境が停止された場所

開発されることのない土地


そこへ向かうための“ガイド”
それがココ

車のラジオからはチェロが
細胞を再生させるように
リフレインを繰り返し奏でた

田んぼには光が照子となって
夏がジリジリと私の肌を湿らせた

-あるルートで折り返す-

古民家が見えてきた
田んぼの横に車を止めた
エンジンを切り、チェロが止んだ

代わりに犬の吠える声が甲高く立ち昇った

玄関の手前にはポストがあった
“記憶”にはそれを通じて
ある儀式のような段取りが必要だった

男の記憶に残されたように
私は途中の道で“タンポポ”を摘んできた
一輪、ポストに入れた

それが合図だった

景色はそのままだった
夏が私の肌を湿らせたまま
犬の甲高い声もそのまま
「それで良かったのか?」を信じて
また車へと戻りエンジンを掛け
ラジオからチェロがまた繰り返した
私の期待を、細胞を震わせた

そこからまた
車を走らせ、あるルートへと
合図を信じて
一輪の花を、一輪のタンポポを信じて

ある集落へと向かった
田舎のさらに奥地へ


田んぼは次第に姿を変えた
代わり映えのしなかった景色が
管理されていない丈の長い草木に
より自然に近づいていった

人が住んでいる証拠が消えてゆく
人の手で維持されている証拠が失せてゆく
私たちの「マニュアル」は、届いているのだろうか?

うねるような曲がり道で
久しかった田んぼに光る粒子が
走らせた車の窓を飛び越えて
私の瞼を閉じさせた

一瞬、瞼を上げると
脇道に人影が見え
麦わら帽子に添えた一輪の花が目に留まった

タンポポだと思った

白いブラウスが揺れ、私の方に手を振った


綺麗な人だった

心の透明さが田んぼの粒子のように
散りばめられた宝石となって
零れるように溢れ出ていた

白いブラウスの胸の膨らみ

麦わら帽子にまた目を向けると
それが“タンポポ”ではないものだと気がついた

カエルの声が聴こえてきた

音が帰ってきた

帰ってきたのは
賑やかなカエルの合唱隊だった


「私は、ココ
 あなたの名前は?」

ココと出会ったのは、
ある集落へと向かう途中の田舎道だった

私が落とした背景に
ココは残って居てくれた


「水先案内人に、
  あなたは出会ったことある?
 
  ある娘がね、私に教えてくれたの」

第34話「くちぶえ」

第34話「くちぶえ」

ココと歩いた田舎道は
透明な歩廊となって
大切な時間を刻んでいた

「私はね、くちぶえが吹けないことに
 がっかりしたの
 自分自身にね
 見よう見まねで何度もやってみたの
 でも、出来なかった
 面食らったんだと思うの
 そんなこともできないことにね

 そして、その時
 私の中の時計が止まったように感じたの
 
 私の時間、私の歩んできた時間が
 価値のない、取るに足らないホンの僅かな
 砂のようになって滑り落ちたの

 削ぎ落とされたのよ、私の人生が」

 
ココと田舎道を歩きながら
カエルの合唱隊の音が、まだ道に響いていた


「思い知らされたの
 
 なんでこんな簡単そうなことが
 私に出来ないんだろう?って

 私は割と器用な方だったの
 人の良いところを真似するのが得意だった
 苦労もあったけれど、習いが早い方だったの

 だけれどね、出来なかったの
 くちぶえが

 その音…そうね、“声”といってもいいわね
 その“声の音”を私は出すことができなかったの

 あんまり上手にあの娘が吹くから
 私は嫉妬したのかも」

そういってから、ココの目元は緩んで笑みを浮かべた

「でもね、とても穏やかなことなの
 とても繊細で大切にしないといけない記憶が、まだ
 まだ、世の中に有ったことに
 私は…そう、感動したのね

 あなたには出来る? くちぶえ」



「まずは君がくちぶえを吹いてごらんよ」

フーッ ーッ

「まだうまくできないの」

一生懸命になって吹こうとするココが愛らしく思えた

「なんだ、くちぶえも吹けないのか」

「それじゃあ、あなた
 やってごらんなさいよ」

「いいかい?」

 
  ピイイーーーッ!


その瞬間だけ、
カエルの合唱隊は耳を澄ませたように
くちぶえの音に従って止んだ


「私はね、あの娘のおかげで
 自分の“声の音”が何かわかるようになった

 “Wandering
(さまよう、放浪、流浪、あてもなく歩き回ること)”
 は、終わったの
 
 まだ私には“それ”が出来ないけれど、
 いつか出来るようになる

 そう信じているの」


ココの白いブラウス
風で揺らいだ
たぶん、タンポポの綿毛が張り付いた

黒いものは
もう、そこにはなかった



  私は、まだ、変わることができる


  人は、変わることができるの

第35話「熱交換」

第35話「熱交換」

扉を開けると、冷気が足元を伝ってまとわりつくよう流れた
立ち上ってきた香りが自分の物だと気づくのに少し間が空いた
この研究室の一室に保たれた冷気は、循環されど
上へと昇るものだったか、下へと降るものだったか
その少しの間(あわい)に気を取られたあと気配に気がついた
されど、GIは後ろを振り向くことはなかった

「粒子が外へ漏れることはないと思っていたが」
GIは気配の先にいる“存在”に心の中を割ってみせた

「彼の消息が途絶えていることを
 あなたは知っているのか?」
“存在”は回答を避け必要な質問で埋めた

「ああ、分かっている」
GIはタッチパネルに左手で触れた

「彼にはもう、用がないのか?」
“存在”はGIの左手を目視した

すぐにその目線は実験室の窓に流れた
セキュリティ用のウィンドウシャッターが開いていった

「いや、ミツバチにはそのままでいて構わない」
GIはレベル4の実験室の窓を覗いた

透明なカプセルの中に人型の何かがいるのを認めた
「あの娘がいる」
“存在”はその窓越しの気配を読み取った
「新しい女王蜂の娘か」

「もう、話したのか?」
“存在”はGIとの距離を保ったまま話し掛けた

「ああ、もう知っている」
GIはその距離間に対しては注意しているようだった

「あれを黒だと思っている」
“存在”は自分の意見を述べた

GIはどこまで心の中を割ってみようかと探った目線で
実験室に並べられた価値を値踏みした
そうして、きっとそれ以上の事が訪れると判断した

「“あの”本は、翻訳しないのだろう?」
先に口を割ったのは“存在”からだった

身体に纏っていた冷気が、循環へと向かったあと
GIは窓の曇りに気を向けた
「monogamyだった…という事だよ」
GIの左手は目先の実験室の窓を撫でた

その気になれば、“向こう側”を触れる事ができる
だが、そうしない
敢えてのカーテンをGIは閉めていた

窓を撫でた左手の感触を確認するように
GIはもう一度、右手で実験室の窓を撫でた


黒い服の男は、その場を去っていった

第36話「あなたが欲しかった遺伝子」

第36話「あなたが欲しかった遺伝子」

私は自分の素性をココに話してみようと思った

私は誰で、どこから来たのか
ココには自分の心を割って話してみる“べき”だと

「すこし、
 立ち止まろう」

ココが立ち止まり、白いブラウスの裾がふわりと揺れた
透明な光の粒子が舞い上がった

「ココ、
 私の名前を伝えたい
 私は…」

ココは、唇の前に人差し指を重ねた
「いいの、知らないままで」

私は口に出し損ねて引っ込めた言葉
ーー私の名前ーーが
ココに知られぬまま終わってしまう事に
胸の痛みを覚えた
だけれど、仕方のない事なのだろうかと
それなら…

「私は、エンジニアの仕事を行なっている
 研究員と云った立場でもある」

不意に飛び立った言葉で
車の中で繰り返し流れたチェロの音が
今度は重く、鈍く
痛みのように
急に私の内側で聴こえ始めたーー

ココの表情に暗いものが伺えた

「そう…あなた私の遺伝子を盗みに来たの?」

光の粒子は空気の中で何か張り詰めたものに変わった

空気が揺れたーー

「…遺伝子を? なぜ?」

私は肌で空気を感じながらも
心を割って話したこの機会が
とても重要な展開を招くだろうことを悟った

「そう、知らないのね
 それなら、あなたも私と同じ
 オリジナルを失った人間なのよ」

私は、自分が『降下して来たこと』をふと思った

チェロの音が増幅して私の内部を揺さぶり始めた

「あなた、煙を吸ったの?」
と、ココが私に訊ねた

「煙を?」
私は、思い当たる節があるか考えを巡らせた

最初に浮かんだのは
反発者の男を聴取していた時ーー

彼が吸っていた「タバコ」だった

なぜ、私たちが取り締まっていた「タバコ」が
彼の元にあったのか?
健康を害してまで彼は吸っていたのか?

彼が

「君は知らない、例えば僕が肺がんのステージ4であったとして、
 自分の寿命を縮める一本のタバコを吸うことの価値を。」

と云って、
タバコをタンポポの茎のように
くるくると回して見せたこと
あれは、
本当に“タバコ”だったのか?

私は、チェロの弓がそのまま心臓の弁を捉え奏でるように迫った


「あなた、
 煙によって
 誘(イザナ)われている」

と、ココが空を指差した

ココの麦わら帽子が風に吹かれ
宙返りして見せるように舞っていった

それからココは大地を指し示した


ああ、あの時
裁判の傍聴席で吸った
煙のような湯気ーー

光の粒子が眼に止まった

ーーその時、唇に感触を覚えた

「これは、タンポポだね」
と、小さな身体の頃に教えてくれた
「そうなの、タンポポ大好きなの!」といった女の子
タンポポの綿毛よりも柔らかい表情
唇にキスをされた記憶ーー

ーー気づくと、ココの唇が触れていた

つたい、沿って
舌を絡めて
送られる吐息の熱
熱交換の感触
柔らかく地面に落ちる麦わら帽子の音
感触だけ残してココの身体が離れた
恍惚とした表情をココは浮かべた

不意に私は、“くちぶえ”の音を思い浮かべた

“遠くの景色が視えるように”
私の心を遥かな懐かしさにまで送った
忘れていたこと
忘れていたものの息吹
“祭りの時期”を過ぎてゆく夏の終わりまでーー

そうったことを思い起こさせる“ココの唇”

そういえば、あの娘もそうだった

あの娘の声も

「早川さん」

「!」
 
ココは、意外なものを見る目で驚き弾んだ

「どうして? なぜあなたがアリュールのことを?」

ココは首をかしげて、私は不思議そうな顔を浮かべた

「あなたはあの娘の居場所を知っているの?」

「居場所?」

不思議そうな顔のままの私を見て、ココは肩を落とした

「そう、知らないのね」


ココは、地面に落ちた麦わら帽子を手に取った

「あなたは、この場所を“記憶”するの?」

「記憶?」


透明な光の粒子は、私の眼を横断した

 「そう、記憶
 
  あなたは忘れずに

  この場所を記憶する?」


ココの眼の粒子が、私の眼の粒子に投げかけた

「あの人たちにも誤算があったの
 あのワクチンによって、思わぬ霊性が宿る人が少なからず居たの」

ココの言葉の真意が何かは分からなかった
ただ、伝えるべきことが思い浮かんだ

「私は、ある男に会いに来た
 このノートパソコンには、ある記憶が手がかりとして残っている
 でも、記憶の一部にはフィルターがかけられている」

ココは麦わら帽子を被り直し、私に諭した

「それを解くのは、数字やアルファベットの羅列ではないの
 それは、あるルートで折り返す必要があるの
 ガイドを伴った儀式が必要なの」

麦わら帽子に添えた一輪の花が
私に手渡された

「あなたを護るように」

私はそっと胸ポケットに花を挿し入れた


それから、ノートパソコンを起動させた
男の記憶のフィルターが解除されていた
“詩人”の記録が浮上していた


粒子が覆うように私の視界を包み
そして、開けていった


「あなたは、この道を通って行きなさい」

ココの姿は消えかかっていた

「ココは?」

袖口を掴み損ねた言葉のように

「わたしは、ここまで」と


 チェロの音がいつの間にか止んでいた

 忘れかけていた唄が舞うように
  
 青空は早く
 
 雲(足)は遠のき
 
 また明日が来るように


 

第37話「勇気の扉 -来るべき一瞬のために-」

第37話「勇気の扉 -来るべき一瞬のために-」

ーーかつての田舎道が見えてきた
 
 私の故郷によく似た光景だった

 
田んぼ

虫の音

カエルの声ーー
 
私の気持ちはそれで落ち着き、澄み渡った
 
 
ココの顔が浮かんだ

振り返ってみても、そこには道があるだけ。
誰の姿もなく、誰かの面影が立つこともない。

「ゲコゲコゲコゲコ」×1000

カエルの合唱隊が私の不安をもう一度、退けた。
今は前へと歩を進める時だ。


子供の頃、散歩道があったーー
 
私は歩くことが好きだった

何かに身を預けて進んでゆく感覚が好きだった。
自分の歩みが大地の上で一体となるのが好きだった。
こうして一歩一歩の感触が残る。
自然そのものが味方であるように感じた。

散歩道のコースは、あるところで曲がり道へと差し掛かる

分岐はなく、ただ、曲がり道へ。
その曲がり道は先を隠すような小道となっている。
それは一体、どこへ繋がるのだろうか?と。
子供の頃の私は不思議に思っていた。

その小道の先へと向かうには“勇気”がいる
 
好奇心だけでは入ってはならない。
子供の頃そんな雰囲気を毎回感じて入らないまま。
小道の先を知らずに田舎から離れていった。


だからこうして

かつての散歩道が私にまた訪れたのは、
今、来るべくして差し掛かった曲がり道だと。

その先にある小道へと、進んでゆくべきだと悟った。

胸ポケットにある“一輪の花”が、心強かった。


曲がり道へと入り歩みを進める

道幅は狭くなり植物の背丈が伸びてゆく。
低空飛行の鳥が地面の上を駆ける。
空気が冷やりと身体を撫でる。
鳥居のように控えた木々が待機する。

鳥の声が木々の間をすり抜ける。
そして、森の声が鳴る。
踏み入れた脚から循環する大地の音が聞こえる。

山林の中を私は進んでいる。
そんな感覚だ。
木々の隙間から熊が出てくる。
そんな恐怖が頭をよぎる。

木の葉が揺れ、木々がざわめき立つ。
何かに見られている。
気配だけが生々しく五感に刺さる。
一輪の花が胸ポケットにあることを確かめる。
手に伝わる感触により不安を退け、前へと進む。

深く潜ってゆく

色の濃さと、薄さ。
新旧が入り混じった自然の皮膚。
木漏れ日が一歩一歩の先を示す。
色艶で溢れて。

渓谷へと私は着く

自然が段差を作る。
水音が次第に増して聞こえる。
越えなければならない川が眼の前に現れる。
穏やかな流れを見て、今のうちにと思う。
川の中へ足を入れる。
膝下まで浸かり、水の流れが足をとる。
岩壁の奥に行かなければならない。

まとわりつく水の流れ。
気づいたら、身体が震えている。

寒いから?

小刻みになって震えている


夕暮れが始まる

木々の間に、ざわめきが走る。
自由の終わりを告げる気配に、鳥が逃げ出し空を駆ける。
木々の間から光の線が闇を秘め、体の影を地面に映す。

時間がないように感じる

早く、と。
気配が際立ち、身に迫る。
足早になった私は地面を駆ける。
容色を失いつつある地面。
そこからはもう木々は通り過ぎる過程に。
呼吸と律動でいっぱいになる。
余裕がもう失われる。

辺りはいつしか単調な色に変わっている

残酷に時を告げる

“黒”に染めてゆくーー

  

恋した瞬間、世界が終わる -第5部 来るべき一瞬のために 編-

心ある人々によって

恋した瞬間、世界が終わる -第5部 来るべき一瞬のために 編-

地上の上 路上 ログアウト マニュアル ビートニク 恋した瞬間、世界が終わる

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-01-23

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