恋した瞬間、世界が終わる 第5部 来るべき一瞬のために

恋した瞬間、世界が終わる 第5部 来るべき一瞬のために

第5部 来るべき一瞬のために編

第28話「人を誘うもの」

第28話「人を誘うもの」


ーー反発者は、私たちのコンピュータの開発メンバーだった


私たちが用意した「マニュアル」のどこに不満を抱くのか?
私たちの中にも、反発者に興味を抱くものが現れた。


刑務所は、もう用済みになるはずだった

私たちの「マニュアル」以来、犯罪者の数は減少していた。
ウイルスに対するワクチンのように。
劇的に改善されていった。

というのも、市民のランクに応じた「仕事」「食事」「住まい」
結局は、「環境」さえ与えれば、犯罪者たちは人間として「健全」になった。

「居場所」を失くしていたのだ

彼らの内的要因を満たすことができた。
ずっと必要だった願望を私たちが叶えた。

反発者の荷物に、私たちが排除したはずの「タバコ」があった

「健全」であり「健康」な生活を送る人間には必要なくなったはずだ。
彼がなぜ、それを荷物に忍ばせたのか?

「君は知らない、例えば僕が肺がんのステージ4であったとして、
 自らの寿命を縮める一本のタバコを吸うことの価値を」


彼は、タバコを取り出し、それが何を意味するのか

私に見えるよう、くるくると回した

まるでーータンポポのように


異なった側面が浮かび上がり始めたーー


今は亡き灰皿の代用として、彼は鉄のテーブルにタバコを押し付けて消した。

「次世代のコンピュータを君は知りたくないかい?」

第29話「この時代に産まれること」

第29話「この時代に産まれること」


男には子供がいたーー

先のウィルスが世界に蔓延していた最中、産声を上げた。
3000gを越えた障害のない健康な男の子だった。


結婚して8年過ぎた頃に授かった。
それまでの間、男は妻に何度も自分の見解を説いた。

避妊をしないセックスのあと。
妻から妊娠検査薬で陰性を聞いたあと。
何度も試みて、その度に虚しい行為になったあと。

授からない理由を何度も妻に説いた

「僕の喫煙がダメなのかもしれない。だから、一緒に禁煙しよう!」

「僕の精子がダメなのかもしれない。検査を受けてみるよ」

「僕の好き嫌いがダメなのかもしれない。野菜もっと食べるよ」

「僕の肥満が原因なのかもしれない。市営体育館に通ってみるよ」

「僕の運動方法が原因なのかもしれない。ぶら下がり健康器を買ってもいい?」

「僕の筋力不足が原因なのかもしれない。ヒップスラストで腰も鍛えるよ」

「僕の筋トレがやり過ぎなのかもしれない。週6日に減らしてみるよ」

「僕の筋トレがまだやり過ぎなのかもしれない。週5日で…どうかな?」

妻を傷つけないよう筋トレに夢中になりつつ、その都度、自分の所為にした

「子供は授からないかもしれないけど、君と一緒なら幸せだよ」

養子のことも考えたけど、手続きや審査の手続きが億劫でやめた


妻と今後について話した

「今まで本当に頑張ってくれたね。ありがとう。
これから二人で長く幸せな生活を送れるように考え方を切り替えてゆこう」

そう決めたあとに授かった命だった


本当に思いがけないことだった

妻から妊娠検査薬で陽性の知らせを聞いたとき、男の頭に浮かんだのは将来は立派なボディービルダーかフィジーカーになって、ミスター・オリンピアに出場してほしいことだった。
これまで自分の為だった楽しみが、自分の子供に活きてくる。


しかし、時代は混沌としていた

「新型マナヴォリックウィルス」の所為だ


「産まれてきて、ありがとう」

そう言うことができなかった


この時代に産まれてくる子供が、この先どうやって生きてゆけるのか?

どうやって、この子を育てることができるのだろうか?

どうやって、幸せにできるのだろうか?

ボディービルの大会も自粛してる

どんな幸せがあるのだろうか?

自分がどうやって生きていったら良いのか分からないのにーー


男は、ウィルスの所為で職を失いつつあった

ジムのパーソナルトレーナーだった。
子を授からないうちの努力が職になっていた。
仕事場であるジムは、ウィルスが蔓延する環境にあるとされた。
営業自粛になり、働くことが出来なくなった。
筋トレも自宅で、自重の負荷が軽いトレーニングになった。
「筋トレユーチューバーが自宅で自重トレする姿なんて見たくなかった!!」
男の生きがいは物足りなく、軽くなった。

妻は「有酸素運動で、ウォーキングでもしようよ」

子を授かるまでの試行錯誤でお互いの健康志向は高まった。
妊娠しながらも妻は大好きな散歩を続けた。
禁煙も続けていたから、ストレスの発散がより必要だった。
外出自粛の中で人と接しない散歩が日課になった。


妻との時間が増えた

お互いの干渉を避ける努力が必要だった。
でもその分、お互いをより気に掛ける必要があった。
それは気にはならなかったが、妻と散歩の最中も将来への不安が過ぎった。

近所の川を横切る度に

「どんな飛び込み方をしてもこの高さじゃダメだな」

自殺しようとする気持ちも萎むほどに、とにかく心が弱っていた

「犬を飼っても、動物も感染するんじゃ…」


最悪、生活保護も考えていた。
子を持つこの先のことを考えたら、それじゃあ情けなかった。


男は自分の過去を探ったーー

自分の背景から、生活に活きるスキルに繋がるような小さなことでも。
小学校、中学校、高校、卒業後のフリーター、コンビニ店員。
アパレルショップでの販売員。
学生の頃の部活は、帰宅部。
TVゲームばかりやっていた。
パソコンは学生の頃から使っていた。
WordとExcelの資格は持っていた。

「これしかないか」


男はプログラマーになろうと思った

パーソナルトレーナーではもう生きていけない。
他に興味があるものはない。
単純に出来そうなことがなかったから。

自分が薄っぺらに思えた

これまで生きてきた背景が貧しく思えた。
生き残ることが必要な時に、必要なものが自分に“無い”と。

「この時代には、不便になっている」

そんな自分の背景が嫌になった


「この子は、この時代に産まれて
 自分が嫌にならずに、自分の生き方に後悔せずに
 生き残るためのレールを踏み外すことなく、
 不便な背景を背負ってしまわないだろうか?
 僕は親として、子の不便さを作りたくない
 この子を、この時代に活かしたい。」


私は反発者の男を取り調べたあと、男の記憶をデバイスに保存した

「この男は、元々は後悔のない人生を選びたかったはずだ。
 決められたマニュアルを求めていたように感じる。
 なのに、なぜ、私たちのマニュアルを拒否するのか?」

第30話「煙を吸う」

第30話「煙を吸う」


 私が元の場所へ戻ろうと決めたきっかけは、
 その求めに応じたからだ


私は、転々と生きていた

職を転々と、考え方も転々と。
その場その場でのルールに合わせた身のこなしがあった。
どの場所にも私はフィットすることはなかった。

脱線して選んだデジタル産業は私にフィットした。
だが、元の人生が結局は合っていたのだ。
違う人生を生きようと争っていたことは、私の挑戦でもあった。


男は法廷に立っていた

「君たちのマニュアルは、唐突な生の価値を殺しているんだよ」


検察官は男に問う

「では、あなた方が開発しているデバイスは?コンピュータは?
 私たちのものと何が違うというのです?」

「あなた方も新たなマニュアルを作るだけなのでは?」


男は意見を述べる

「これは違うよ
 統計のものでも、コントロールの為でもない
 秩序づけではない、価値を測るものだ」


検察官

「価値を測る?それは、人間を選別するということか?」


「いや、その人自身。個人個人の生が還るための方法になる」


検察官

「それは宗教なのかな?いったい、生がどこに還るっていうんだい?」


「新しい認識を持つということだよ」

男は傍聴席を見渡したーー


「私たちは、何かに頼っている
 一杯のコーヒーの下で
 揮発した香りの作用がこの場に反作用している」


傍聴席の人数分だけ用意された“コーヒー”。
換気口に吸い込まれてゆく湯気。
ただ、たった一杯だけ、たった一人だけ、
『自分のコーヒー』を持ち込んでいるものがいた。

男は、ただ1つのコーヒーを見つけたあと声を張り上げた

「私たちは、工夫している
 コーヒー豆の煎り方のように」

「考え方が、新たな考え方を生み
 レールから脱線し、人生を転々とする」 


 その時
    傍聴席の扉が開け放たれたーー


扉の音に反応した検察官、弁護人、裁判員、傍聴人…など。
全てが一様に扉の方を振り向いた。
男は、換気口に向かう湯気たちが荒れ狂う瞬間を逃さなかった。

湯気が集約するかのように顔へと向かったその時ーー

息を吹きかけた

ただ、もう一人。
放たれた扉の方を振り向くことなく。
男に視線を残していたものがいた。

『自分のコーヒー』を持ち込んだ私だった

ーーそして、煙のような湯気を吸った

傍聴席の扉からは黒い服装の男が入ってきた


男は最期の言葉になることを悟る

「これが最期になるかもしれないという心持ちで
 何かが眼前にあること」


「君たちも会ってみると良い
 僕らは、一人の詩人から生まれた」


男は、最期の息継ぎを決めた

「詩の、言葉での跳躍が必要なんだ」
 

第31話「命の場所」

第31話「命の場所」

 声に惹かれたのは、否定できないことで
 力強さというよりは、生命力を感じていた


政府の「マニュアル」によって、犯罪率が0%になったあと。
初の裁判だった。

人々は物珍しさに。
時代錯誤の出来事に胸が踊っていた。
必要なくなりつつあった弁護士やら裁判員やらは興奮し、
検察官やら裁判官やらは久々の仕事に緊張が見られた。

傍聴人の倍率は過去に例がなく、希望者は抽選番号の紙を握りしめた。
そんな異様さの中、公開された男の裁判は、
人々に真に迫る印象を与えた。

人々の間に広まった『詩人』

謎のその人。
探すもの。
陰謀説を唱えるもの。
噂はもう、抑えることができなかった。

それぞれの耳はもう、待ち望んでいたーー


私は男の取り調べの記録を偽った

男の深意がどれほどのものか、自分で確かめずにはいられなかった。
ここでまた開発者としての欲が、

「次世代のコンピュータを君は知りたくないかい?」

男の言葉によって、私を動かしていた


 ーー状況が変わったのは、思いがけない出来事だった

違法移民の存在だ


ーー取り調べ室には、新たな反発者がいた

「農家の仕事をするはずだった」

「裏切られた」

「契約は安価なものだった」

「俺の母国の家族を養うことができない」

「違法滞在者になってしまった」

「違法滞在社のコミュニティーに逃げ込んだ」

「そこでは同じ国の人々が集まり、お互いを助け合っていた」

「金は無い」

「目をつけたのは、違法行為だった」

「生きるために仕方なかった」

「俺は、いや俺たちは、“new leaves”に助けられたんだ!」


“new leaves”という団体が浮上した


私は、この男の記憶もデバイスに保存した

「マニュアルでは、人の心の弱さを 
 乗り越えることができなかったのか?」

「人は生きれば生きるほど、避け難いカルマと鉢合わせ
 度々に、負ける」

私は自らが携わったコンピュータの開発に拭い去ることのできない何かを、もう感じずにはいられなかった

「世界では、もう何かが起こっている」

研究室の窓からは、新緑のみずみずしい景色が見えた

私たちが行なっている人工的な秩序とは対照的に。
混沌が私に光を投げかけている。

“みすぼらしさ”というものを、私たちは勘違いしていたのか

「あれは…枯山水というものだろうか?」

「いや、冬の…破壊があった後の、再生なのか」

黒い服の男が見えた

窓の外で、私の様子を伺っている

「時期が来るまでは、自己主張を抑えて
 余計なことはしてはならない。
 君が取るべき行動は、来るべき時の一瞬の中で決まる」


私は、ここで
私が終えた生のレールを切り替えなければならない

「来るべき一瞬のために」



私は、あの男の先にあるものに会わなければならない

第32話「花粉の誘い」

第32話「花粉の誘い」


反発者の男の記憶に“new leaves”との接触が残っていた
私は、まず彼らに会うことから始めた


記憶には、
 
 彼らは移動する
 ミツバチが花粉を運ぶように
 拠点を移動する

とある。
  

案の定、男が出会った当時の居場所は、
家主のいない、もぬけの殻になった木造の家屋。

田舎を移動しているらしいことは、
男の記憶から推測できた。

私たちの「マニュアル」が届かない場所などあるのか?

そういった疑問を持ちながら、
私は独り車で移動した。



男の記憶に残った彼らの第一印象は

 誘う(イザナウ)人がいて
 おしなべて特徴のない人たちがいて
 “容れ物”のようだった

とある。


特徴のない人たちは言う

「ただ、ただ
 不安なんだ」

「この時代が、この先
 何処へ向うのか
 見通しのきかないことが」

「世の中を覆う“目隠し”が
 そのままであって欲しい気持ちもある」

「だけれど、
  new leaves
  こうして集まった
  記憶を無駄にしたくない」


彼らが発見したのは、新種の植物だったらしい

本当の新種なのかは分からない。
これまで発見されることなく、
人々の傍に“有った”のか。

贈られてきたのは山々からではなく。
それは「アスファルトの亀裂」から現れた。
タンポポに瓜二つの見た目で。
自らを隠したままに生き延びたのか。

小さな花の種子が芽吹いたようだったーー


彼ら違法移民の中に食物学者がいた

「これは、
 信憑性のないことだと思っていたが
 歴史の埋もれた植物があると噂で聞いていた
 あの植物学者カール・フォン・リンネによって
 “分類”されることなく
 歴史の中で見過ごされたか、隠蔽されたものがあった」

「我々は、これを育てなければならない
 歴史の中で抹消され
 ようやく、この時代に芽吹いた花
 今まで何処を舞っていたのか
 何処からか、風に運ばれて来たもの
 この種子を、花を、育てなければならない」


男の記憶に残るそれからの彼らは

 誘うものを断ち
 個々の生に欠けていた“容れ物”に
 魂が宿されていった
 “黒い種子”とは異なるものによって


その後、この種子はどうなったのか?

“詩人”と呼べれるものとの関わりは一体何なのか?

私はこの秘密が盗まれぬよう、
通信手段を遮断したノートパソコンを抱きかかえた。

いつの間にか巣へと還るミツバチとなって、
彼らと同じく、“運ぶもの”のように。
彼らの拠点を探すべく転々と田舎から、田舎へと横断していった。

「私は彼らとの日々を追っているのか?
 しかし気になるのが、
 男の記憶の中にあるフィルターだ
 これは、いったい…」


そんな時に出逢ったのが、ココだった
彼女の匂いに私は誘わ(イザナワ)れていったーー

第33話「水先案内人(ガイド)」

第33話「水先案内人(ガイド)」

 「水先案内人(ガイド)に、
  あなたは出会ったことある?
 
  ある娘がね、私に教えてくれたの」

 そういってから、ココは

 「あなたは“くちぶえ”が吹けるかしら?」



男の記憶を運ぶ“ミツバチ”となった私は、
反発者の男の記憶を辿るうちに、
“ガイド”を伴った旅の記録に目が止まった。

それは秘境へと向かう旅だった


男はとある土地で、儀式的な行為を行っていた

“new leaves”による新種の植物の発見以降、
何かが解かれるように、彼らの団体に事が雪崩れていった。

まず“ガイド”と呼ばれる水先案内人が彼らの前に現れた

その“ガイド”は、小さな花の種子を手渡したーー

 「育てなさい
  それが、“自分”であるように 
  それが“、人々”であるように
  育てなさい」

彼ら団体の一人一人に、一つずつの種が撒かれた

それから彼らは人々の傍へとその種子を広げることになった

 「一つの種子が、一つの花が与える影響を知りなさい」


団体の中から男が選ばれ、特別な場所へと案内されたようだった

私はその手順を真似るべく、
その土地へと向かったーー


忘れ去られ、見放された土地だった

消えかかった最後の良心が逃れるように、
人々の粗悪さを避けた場所を選ぶように。

物事が終わったような場所だった。
環境が停止されたような場所だった。

誰も開発されることのない土地だった。

有り触れた自然があるだけの、
商業的価値からは“特別さ”を欠いただけの。


ーーそこへ向かうための“ガイド”
それが、ココだった。


私の車のラジオからはチェロが、
細胞を再生させるように、
リフレインを繰り返し奏でていた。

田んぼには光が照子となって、
夏がジリジリと私の肌を湿らせていた。

-あるルートで折り返す-

古民家が見えてきた。
田んぼの横に車を止めた。
エンジンを切り、チェロが止んだ。

その代わりに犬の吠える声が甲高く立ち昇り、
私の期待を高めた。

玄関の手前にはポストがあった。
“記憶”にはそれを通じて、
ある儀式のような段取りが必要だった。

男の記憶に残されたように、
私は途中の道で“タンポポ”を摘んできた。
それを一輪、ポストに入れた。

それが合図だったーー

景色はそのままだった。
夏が私の肌を湿らせたまま。
犬の甲高い声もそのまま。
「それで良かったのか?」を信じて。

また車へと戻りエンジンを掛け、
ラジオからチェロがまた繰り返した。
私の期待を、細胞を震わせた。

そこからまた、
車を走らせ、あるルートへと。
合図を信じて。
一輪の花を、一輪のタンポポを信じて。

さらに秘境の奥、ある集落へと向かった。
田舎のさらに奥地へ。


田んぼは次第に姿を変えた

代わり映えのしなかった景色が、
管理されていない丈の長い草木に。
より自然に近づいていった。

人が住んでいる証拠が消えてゆく

人の手で維持されている証拠が失せてゆく。
私たちの「マニュアル」は、届いているのだろうか?

うねるような曲がり道で、
久しかった田んぼに光る粒子が、
走らせた車の窓を飛び越えて、
私の瞼を閉じさせた。

一瞬、瞼を上げると、
脇道に人影が見え、
麦わら帽子に添えた一輪の花が目に留まった。

タンポポだと思った

白いブラウスが揺れ、私の方に手を振った


綺麗な人だった

心の透明さが田んぼの粒子のように、
散りばめられた宝石となって、
零れるように溢れ出ていた。

白いブラウスの胸の膨らみ

麦わら帽子にまた目を向けると、
それが“タンポポ”ではないものだと気がついた。

カエルの声が聴こえてきた

“音”が帰ってきた

帰ってきたのは、
賑やかなカエルの合唱隊だった。

道の脇に車を停めて降り、
私は心の透明さに触れたーー

「私は、ココ
 あなたの名前は?」


ココと出会ったのは、
ある集落へと向かう途中の田舎道だった

私が落とした背景に
ココは残って居てくれた


「水先案内人に、
  あなたは出会ったことある?
 
  ある娘がね、私に教えてくれたの」



 

第34話「くちぶえ」

第34話「くちぶえ」


 ココと歩いた田舎道は
 透明な歩廊となって
 大切な時間を刻んでいた


何処かへと向かうように、何処へも向かわぬように

私は、ココと田舎道を歩いた


間を埋める言葉を必要とすることもなく、
ただ傍にいるだけで穏やかな気持ちになれた。

ココと私は、隣り合って歩いた

時折、ココは私の瞳を覗くように見つめた

私もその瞳を追いかけるように合わせた
歩いているようで、止まっているような時間だった。

私は言葉の訪れを待った

先に言葉が訪れたのは、ココだった

「私はね、くちぶえが吹けないことに
 がっかりしたの」

ココは白いブラウスをなびかせて私の前へと歩みでた

「自分自身にがっかりしたの
 見よう見まねで何度もやってみたの
 でも、出来なかった
 面食らったんだと思うの
 くちぶえもできないことにね」

ココは何かの懐かしさの思いに触れていた

「そして、その時
 私の中の時計が止まったように感じたの
 私の時間、私の歩んできた時間が
 価値のない、取るに足らないホンの僅かな
 砂のようになって滑り落ちたの
 削ぎ落とされたのよ、私の人生が」

ココと田舎道を歩きながら
カエルの合唱隊の音が、まだ道に響いていた

その心地良い響きが道を豊かなものにしていた

「思い知らされたの
 なんでこんな簡単そうなことが
 私に出来ないんだろう?って
 私は割と器用な方だったの
 人の良いところを真似するのが得意だった
 苦労もあったけれど、習いが早い方だったの
 だけれどね、出来なかったの
 くちぶえが」

ココの話ぶりに誰かとのかつての時間を思い出させた

「その音…そうね、“声”といってもいいわね
 その“声の音”を私は出すことができなかったの
 あんまり上手にあの娘が吹くから
 私は嫉妬したのかも」

そういってから、ココの目元は緩んで笑みを浮かべた

「でもね、とても穏やかなことなの
 とても繊細で大切にしないといけない記憶が、まだ
 まだ、世の中に有ったことに
 私は…そう、感動したのね

 あなたには出来る? くちぶえ」


私は、ココの純粋な問いかけに
子供の頃の無邪気さを思い出した

「まずは君がくちぶえを吹いてごらんよ」


フーッ ーッ

「まだうまくできないの」

フーッツ ッー

ンッ ゥフゥッ んンッ

一生懸命になって吹こうとするココが愛らしく思えた

「なんだ、くちぶえも吹けないのか」

「それじゃあ、あなた
 やってごらんなさいよ」

ココが少女のようにふくれた

「いいかい?」

 
  ピイイーーーーーーッ!


その瞬間だけ、
カエルの合唱隊は耳を澄ませたように
くちぶえの音に従って止んだ


ココは私の瞳を驚くように眺めた

そのあと、二人でなぜだか笑った


「私はね、あの娘のおかげで
 自分の“声の音”が何かわかるようになった
 “Wandering(さまよう、放浪、流浪、あてもなく歩き回ること)”
 は、終わったの
 まだ私には“それ”が出来ないけれど
 いつか出来るようになる
 そう信じているの」


ココの白いブラウスが、風で揺らいだ

たぶん、タンポポの綿毛が張り付いた


黒いものはもう、そこにはなかった



  「私は、まだ、変わることができる


   人は、変わることができるの」

第35話「熱交換」

第35話「熱交換」


扉を開けると、冷気が足元を伝ってまとわりつくよう流れた

立ち上ってきた香りが自分の物だと気づくのに少し間が空いた

この研究室の一室に保たれた冷気は、循環されど、
上へと昇るものだったか、下へと降るものだったか

その少しの間(あわい)に気を取られたあと気配に気がついた

されど、GIは後ろを振り向くことはなかった


「粒子が外へ漏れることはないと思っていたが」

GIは気配の先にいる“存在”に心の中を割ってみせた

「彼の消息が途絶えていることを
 あなたは知っているのか?」

“存在”は回答を避け必要な質問で埋めた

「ああ、分かっている」

GIはタッチパネルに左手で触れた

「彼にはもう、用がないのか?」

“存在”はGIの左手を目視した

すぐにその目線は実験室の窓に流れた
セキュリティ用のウィンドウシャッターが開いていった

「いや、ミツバチにはそのままでいて構わない」

GIはレベル4の実験室の窓を覗いた

透明なカプセルの中に人型の何かがいるのを認めた

「あの娘がいる」

“存在”はその窓越しの気配を読み取った

「新しい女王蜂の娘か」

「もう、話したのか?」

“存在”はGIとの距離を保ったまま話し掛けた

「ああ、もう知っている」

GIはその距離間に対しては注意しているようだった

「あれを黒だと思っている」

“存在”は自分の意見を述べた

GIはどこまで心の中を割ってみようかと探った目線で
実験室に並べられた価値を値踏みした

そうして、きっとそれ以上の事が訪れると判断した

「“あの”本は、翻訳しないのだろう?」

先に口を割ったのは“存在”からだった

身体に纏っていた冷気が、循環へと向かったあと
GIは窓の曇りに気を向けた

「monogamyだった…という事だよ」

GIの左手は目先の実験室の窓を撫でた

その気になれば、“向こう側”を触れる事ができる
だが、そうしない
敢えてのカーテンをGIは閉めていた

窓を撫でた左手の感触を確認するように
GIはもう一度、右手で実験室の窓を撫でた


黒い服の男は、その場を去っていった

第36話「あなたが欲しかった遺伝子」

第36話「あなたが欲しかった遺伝子」

 私は自分の素性をココに話してみようと思った


私は誰で、どこから来たのか
ココには自分の心を割って話してみる“べき”だとーー


「すこし、
 立ち止まろう」


カエルの合唱隊が競い合うように倍音を重ねていた。
“くちぶえ”の効果は長続きはしなかったが、
カエルの一生に一時の立ち止まりには為ったようだった。

ココが立ち止まり、白いブラウスの裾がふわりと揺れ、
透明な光の粒子が舞い上がった。
それはタンポポの綿毛が舞うようだった。

「ココ、私の名前を伝えたい
 私は…」

ココは、吸い込むように唇の前で人差し指を重ねた。
躊躇いの間を付け置かぬように。

「いいの、知らないままで」

私は口に出し損ねて引っ込めた言い得なかった言葉。
ーー私の名前ーーが、
ココに知られぬまま終わってしまう事で、
器官の中に行き場を失った音色を感じた。
だけれど、仕方のない事なのだろうかと。

それなら…

「私は、エンジニアの仕事を行なっている
 研究員と云った立場でもある」

器官の中で滞留した音色は不意に飛び立った言葉となり、
車の中で繰り返し流れたチェロの音が今度は重く、鈍く、
痛みのように、急に私の内側で聴こえ始めたーー

ココの表情に暗いものが伺えた

「そう…あなた私の遺伝子を盗みに来たの?」

光の粒子は空気の中で何か張り詰めたものに変わった

空気が揺れたーー

「…遺伝子を? なぜ?」

私は肌で空気を感じながらも、
心を割って話したこの機会が、
とても重要な展開を招くだろうことを悟った。

「そう、知らないのね
 それなら、あなたも私と同じ
 オリジナルを失った人間なのよ」

私は、ふと自分が『降下して来たこと』を思った。
チェロの音が増幅して私の器官に流れ始めた。

「あなた、煙を吸ったの?」

と、ココが私に訊ねた

「煙を?」

ーー私は、思い当たる節があるか考えを巡らせた

最初に浮かんだのは、
反発者の男を聴取していた時だ。

彼が吸っていた「タバコ」だ

なぜ、私たちが取り締まっていた「タバコ」が
彼の元にあったのか?
健康を害してまで彼は吸っていたのか?


 「君は知らない、例えば僕が肺がんのステージ4であったとして、
  自らの寿命を縮める一本のタバコを吸うことの価値を」


と彼が云って、
タバコをタンポポの茎のように、
くるくると回して見せたこと。
あれは、本当に“タバコ”だったのか?

私は一生の一時の立ち止まりを覚えた。
弓がチェロの弦上を摩擦するように、器官を擦った。
そのまま心臓の弁を摩耗させた。

「あなた、
 煙によって
 誘(イザナ)われている」

と、ココが空を指差して時の躊躇いを解いたーー

ココの麦わら帽子が風に吹かれ、
宙返りして見せるように舞っていった。


それからココは大地を指し示した


ーーああ、あの時。
裁判の傍聴席で吸った煙のような湯気。

光の粒子が眼に止まった


その時、唇に感触を覚えたーー

「これは、タンポポだね」

と、小さな身体の頃

「そうなの、タンポポ大好きなの!」

といった女の子

タンポポの綿毛よりも柔らかい表情を浮かべていた

唇にキスをされた記憶


ーー気づくと、ココの唇が触れていた


口唇の深みで添い寝するように、舌をつたって絡め合わせ。
重ね合わせて送られる吐息の熱量と、熱交換の感触。
柔らかく地面に落ちる麦わら帽子の音。
躊躇いの間を付け置かぬ、名残の感触を残して身体の間も寄せた。

胸の膨らみも躊躇いを置かず、乱れた吐息の熱が口唇の深みに達した。
触れ合いを覚えた唇と唇が、手と手を取り合うように熱を伝え合った。
タンポポの綿毛が口元で意地悪をして、そっと唇を離した。
眼を開けると、恍惚とした表情を浮かべたココが映った。

その美しい女性を私は心で見渡した


ーー不意に私は、“くちぶえ”の音を思い浮かべた


 “遠くの景色が視えるように”


私の心を遥かな懐かしさにまで見届ける。
忘れ去られた何時かの空のこと。
更地になっていった物事の息吹。
最盛期の“祭りの時期”を過ぎた夏の終わりまでーー

そうったことを思い起こさせる“ココとの交わり”


そういえば、あの娘もそうだった

あの娘の声も


「早川さん」


「!」
 
ココは、意外なものを見る目で驚き弾んだ

「…どうして!? なぜあなたがアリュールのことを…?」

それはココの異なる熱源をつくように心に留まるものだった

しかし、私は不思議そうな顔を浮かべた

「あなたはあの娘の居場所を知っているの?」

「居場所?」

不思議そうな顔のままの私を見て、ココは肩を落とした

「そう、知らないのね」


ココは、地面に落ちた麦わら帽子を手に取った

「あなたは、この場所を“記憶”するの?」

その言葉には厳しさが含まれていた

「記憶?」

透明な光の粒子が、私の眼を横断した


「そう、記憶
 あなたは忘れずに
 この場所を記憶する?」


ココの眼に浮かんだ粒子が、私に届き、眼の中を溢れさせた


「あの人たちにも誤算があったの
 あのワクチンによって、思わぬ霊性が宿る人が少なからず居た」


ココの言葉の真意が何かは分からなかった。
ただ、伝えるべきことが思い浮かんだ。

「私は、ある男に会いに来た
 このノートパソコンには、ある記憶が手がかりとして残っている
 でも、記憶の一部にはフィルターがかけられている」

ココは麦わら帽子を被り直し、私に諭した

「それを解くのは、数字やアルファベットの羅列ではないの
 それは、あるルートで折り返す必要があるの
 ガイドを伴った儀式が必要なの」

麦わら帽子に添えた一輪の花が、私に手渡された


「あなたを護るように」


私はそっと胸ポケットに花を挿し入れたーー


それから、ノートパソコンを起動させた。
男の記憶のフィルターが解除されていた。
“詩人”の記録が浮上していた。


ーー粒子が覆うように私の視界を包んだ

そして、開けていった

「あなたは、この道を通って行きなさい」

ココの姿は消えかかっていた

「ココ…君は?」

私は二度と出逢えない記憶の人が心に留まるよう願った。
袖口を掴み損ねた言葉のように。

「わたしは、ここまで」と


チェロの音がいつの間にか止んでいた

忘れかけていた唄が舞うように
  
青空は早く行き
 
雲(足)は遠のき
 
また明日が来るように

 
ーー記憶はそっと消える



  

第37話「勇気の扉 -来るべき一瞬のために-」

第37話「勇気の扉 -来るべき一瞬のために-」

ーーかつての田舎道が見えてきた
 
 私の故郷によく似た光景だった

 
虫の音が、四季のいつを伝えるよう。
肌に帯びた暖かさが、鼻を通り抜けてゆく。
田んぼの上っ面をかすめてゆく風。
四季をくりかえしながら、変わらぬもの。

そこに、カエルが賑わう声
 
私の心がすうっ と、晴れやかに澄み渡ってゆくのを感じたーー
 
 
ココの顔が浮かんだ

振り返ってみても、そこには道があるだけ。
誰の姿もなく、誰かの面影が立つこともない。

「ゲコゲコゲコゲコ」×1000

カエルの大合唱隊が私の不安をもう一度、退けた。
今は前へと歩を進める時だった。


子供の頃、散歩道があったーー
 
私は歩くことが好きだった

何かに身を預けて進んでゆく感覚が好きだった。
自分の歩みが大地の上で一体となる感覚。
背中には応援する虫の音の数々。
カエルの声がもうすこし!と。
平地に遮るものがない風の流れがあり。
そうやって一歩一歩の感触にあたたかみが宿る。
自然が成長を後押しする、親身な味方であるように。

私の散歩道は、あるところで曲がり道へと差しかかる

分岐はなく、ただ、曲がり道へ。
その曲がり道は先を隠すような小道となっている。
それは一体、何を隠し、どこへ繋がるのだろうか?と。
子供の頃の私は不思議に思っていた。

その小道の先へと向かうには“勇気”がいるのだろう、と
 
軽はずみな好奇心だけでは入ってはならない。
子供の頃、そんな雰囲気を感じて入らないまま。
小道の先を知らずに田舎から離れていった。


だからこうして

かつての散歩道が私にまた訪れたのは、
今、来るべくして差しかかった曲がり道だと。

その先にある小道へと進んでゆくべきだと、悟った。

そんなとき、
胸ポケットにある“一輪の花”が、心強かった。


曲がり道へと入り、歩みを進めた

道幅は狭くなり植物の背丈が伸びてゆく。
低空飛行の鳥が地面の上を駆け、空気が冷やりと身体を撫でた。
鳥居のように控えた木々が待機していた。

鳥の声が木々の間をすり抜けた。
森の声が鳴り渡り、踏み入れた脚から循環する大地の音が聞こえた。

山林の中を私は進んでいる。
そんな感覚に、木々の隙間から熊が出てくる。
そんな恐怖が頭をよぎる。

木の葉が揺れ、木々がざわめき立つ。
『何かに視られている』気配だけが生々しく五感に刺さった。

一輪の花が胸ポケットにあることを確かめ、
手に伝わる確かな感触が不安を退け、前へと進んだ。


ーー私は、声を聴いているのだと思った

それは、私の道中で起き上がってゆく声そのものだと


深く潜ってゆくーー

色の濃さと、薄さ。
新旧が入り混じった自然の皮膚の質感。
木漏れ日が明暗の一歩一歩の先を示す。
色艶で溢れながら循環する。


渓谷へと私は辿り着いた

自然が思い思いの段差を作った。
水音が次第に増して聞こえてきた。
越えなければならない川が眼の前に現れた。
穏やかな流れを見て、今のうちにと思った。

川の中へ足を踏み入れた。
膝下まで浸かった、水の流れが足を絡めた。
顔の先で、奥の院へと導くような岩壁が画のように並んだ。

沈黙の中
“岩壁の奥へは行かせない”
そんな隠し事を聴かせる

まとわりつく水の流れに、気づいたら、身体が震えている。

寒いから?

小刻みになって震えている


ーー夕暮れが始まった

木々の間に、ざわめきが走った。
自由の終わりを告げる気配に、急ぎ足の鳥が空を駆ける。
木々の間から光の線が闇を秘め、体の影を地面に映し出す。

時間がないように感じる

早く、と。
気配が際立ち、身に迫る。
足早になった私は地面を駆ける。
容色を失いつつある地面、もう木々は通り過ぎる過程に。
呼吸と律動でいっぱいになり、余裕がもう失われる。

辺りはいつしか単調な色に変わっていた

空が残酷に時を告げた


かつての田舎道はそこにはもう見えない

“黒”に染まってゆくーー

  

第38話「勇気の扉 -心ある人々によって-」

第38話「勇気の扉 -心ある人々によって-」


「黒い渓谷を出なければ」

そう思った途端、
まとわりつく水の流れが正体不明の黒さを秘めていることに気づいた。

片足を上げようとしたとき、
水かさが増すように感じ、足をとり、不安が増すよう重りを乗せ始めた。

黒い気配が私を生々しく見ている

岩壁を越えて、早く、越えて、早く

ーー自然はもう味方とは限らない

自然の力が抵抗し、黒いぬかるみに足を誘う。
不気味な光沢を川の水面が放っている。
川底へと、暗闇へと誘う声のようになって。

「下を向いてはいけない」

そう思った瞬間、ぬかるみにはまった


逃さない…


ーーそんな声が聴こえた

川の流れが渦を巻いて足の周りに纏わりついた

恐れを抱いた足を、底なしの恐怖が引き込む

得体の知れない手が、川底から伸びた

私の足を掴んだ

「死ぬ」

そう思った

得体の知れない手は、私の膝下まで川底へと引っ張った

その勢いが上体までをグラつかせて、全身ごと黒い川の底へと引き込もうとしている

足をバタつかせて抵抗したが、もう言うことを聞かない

「諦めるのか…?」

川底の卑猥な陰部が呑みこんでいった



ーー何かが私の身体に止まった

蝶だった

“モンキチョウ”のような姿が、
暗がりの中で黄色く輝いていた。

我に返って、眼を見開いた


片足が川底をしっかりと踏んだ

踏みとどまった

川の水面へと倒れかかっていた私を助けた

私は水面へと眼を凝らした。
その不気味さから眼を背けないように、凝視した。

私は生きることを選ぶ

大地に抗い、黒い川底を踏み固めた

足に纏わりついた水の流れを解いた

見通しのつかない暗闇の中、確かな一歩が今は必要だ。
だから、負けてはいけない。

“モンキチョウ”のような蝶が輝きながら、
私を先導するように羽ばたいた。

その姿を追って歩くうち、
水位が下がり、土の上へと立ったーー

夕暮れが過ぎ、もう夜だった



「暖をとらないと」

身体の震えが止まらなかった。
人肌が急に恋しくなった。

どうして寂しさで震えているのか?

分からなかった


「こっちだよ」

その時、誰かの声が聴こえた


「こっちだよ」


夜の森が誘う声に戸惑っていると、
“モンキチョウ”のような蝶が声の彼方へと羽ばたいた。
その姿が、声の案内に賭けてみようという気にさせた。


暗闇の森に私の息遣いが目立った。
体力はもう限界で、あとは気力だけ。
視界もボヤけている。
私の足取りは蝶の歩みを追うにやっとだ。

ゆっくりと、追いかけながら、
声の先へと夜道を歩いた。


「こっちだよ」


次第に近づく声の音には穏やかなものが感じられた

暖かい空気が向こうから流れて来た

森の木々の間に、空へと開け放たれた空間が見えてきた

ーー火が見えた

誰かの手が薪を焚べていた

いつの間にか、蝶は木々の間に消えていった


「そこに座りなさい」

アウトドア用の椅子が地面に置かれていた

背もたれがついた椅子に、私は解放されるように腰かけた


薪は燃えていた

驚くほどに丁寧な配置がなされていた

それは“井桁型”といわれる組み方だと見てわかった


ーー昔、愛車のミラジーノでソロキャンプに行ったことがある

何かを始めるきっかけは突然訪れるものだ。
クシシュトフ・キェシロフスキという映画監督が好きだった。
何かの作品で氷ついた水辺の上の近くで、独りの男が焚き火にあたっているシーンがあった。
それは明らかに何かが起こりそうで危ないだろう暗示的なものだった。

その危うさに心惹かれたのかは分からないが、
当時の私の薄暗い気持ちの中、その儀式的な行いに身を置くと、
何か起こるのではないか?
そんな好奇心が湧いたようだった。

“井桁型”という組み方は、薪を縦置きと横置きに2列。
「井」の字をジェンガのように積んでいく。

大きな火を起こせるため、キャンプファイヤーに向いている。
当時ソロでキャンプをした私は、その上昇する火力に驚き、
火力を維持するための用意が不十分なことに気づいたあと、
後悔しながらも、人の一生をその火に浮かべ、
「一時的にでも火力を得られたなら、私の人生の価値があるのだろうか」と。
27歳で早死にしたミュージシャンの音楽をイヤホンで聴き入りながら、
ただ火を眺めていた。


ーー森の中で、誰が薪を焚べているのだろうか? 顔を見上げた

煙の先に、後ろ姿が見えた。
夜の暗闇は人影だけを見せて、火の粉が舞いながら覆った。

焚き火台に目を落とすと、黒ずんだ光を浮かべて、
年代物のように感じた。

「歳を取ったよ」

男の背中が語りかけた

「ソロキャンプですか?」

私はよく分からず訊ねてみた

「夢の中で暖をとっていた」

またよく分からない話だった

ーーー私は視線を上げて、人影を見ようとした

気づくと、白い靄が辺りを覆い視界を霞めていた


パチンッ

火の粉が鳴った

「またお会いしましたね」

私はその声に聞き覚えがあった

「あなたはまた独りで座っているね」

アウトドア用の椅子に腰掛けた私を見て、火の粉の先が微笑んでいるように感じた。
白い靄の中にいるのは誰なんだ?

「枝がずいぶんと伸びたようだね」

男は、着火剤に使うであろう木の枝を手に取っていた

「ほら、あちらこちらと枝分かれをしている
 “剪定”をするべき時が来たのかね
 でも、“支柱”があることにあなたは気づいただろうか?
 “井”の字になって、あなたの火を起こしていたんだよ
 添え木だったものは、支柱となって支えている
 でも、随分とバラバラに伸びていた」


「なぜ枝を切らねばならないのか分かるだろうか?」

 
その時、周囲の白い靄が人の形に成り変わって語りかけたーー


「お前は知らない
 私が幼い頃、貧しさに耐えかねて盗みを働いたことを
 お前は知らない
 バットの中に使用禁止のコルクを入れて打席に立っていた私の気持ちを
 お前は知らない
 母国の貧しさを救えるのは自分なのかもしれないと気づいた私の気持ちを」

「お前は知らない
 耐えて忍んで、その日その日に命が尽きる母国の暮らしを 
 お前は知らない
 身も声も潜めて、ただ政治の天秤に言葉までも掛けられる暮らしを
 お前は知らない
 正義は明日には悪に、本当や真実が裏返される気持ちを」

「お前は知らない
 銃を向けた先にいた子供が、私を見て微笑んだことを
 お前は知らない
 逃げて行かねばならない時に限って、子供の行方が分からない
 お前は知らない
 翌日のゴミ捨て場で見た、子供の死体を」

「お前は知らない
 結婚して子供をようやく授かり、これからの幸せを考える時間
 お前は知らない
 急な病気と無差別な殺意、運命や必然のあみだくじ
 お前は知らない
 我が身に訪れて分かる生の無力さを」

「選ぶことができない私のようなものが、どれだけ必死に生きているのか
 お前は知らない」


私は白い靄に向かって言葉をかけた

「だからこそ、私たちの“マニュアル”が必要なんじゃないのか?」

人の形をした白い靄がニヤッ と笑った

「ほらね、お前は知らない
 貧しさや病気が、“次の人”を救い成長させることをお前は知らない」

 
私は眼の前で死を踊り続ける人の形をした白い靄に言葉を返せなかった

「これは…?」

私は、薪を焚べる男の方を見上げた

男は、タバコをタンポポの茎のようにくるくると回した

「反発者…なのか?」

火の粉が散って、眼前を遮った

「これは違う。間違っている。そう本能で感じたらいいよ」

男の理由は単純なものだった

「感のようなものが、あなたを突き動かしたとでも…?」

白い靄の先で、男の微笑む仕草が視えた気がした

ーー着火剤に火が点いた



視界が開けた

気づくと、緑に囲まれたベンチに座っていた

途端に、周囲のざわめきが飛び込んできた
木々や、葉、花、土
虫の音、気圧、風
ざわめき、それと、きらめき
溢れた地上の色が
視覚と、聴覚、嗅覚

その瞬間ーー匂い

どこかで嗅いだ香水の匂い
通り抜けてゆく

そして、
唇に残った触覚を思い出した

それは、ココの唇

味覚もあった

それは、ココの甘い舌づたえ


五感の全てが一気に流動し、私の味方であるように感じた


ベンチの横では、
光の粒子が集まり、時と重力を失ったまま昇っていった。

香水の匂いが消えた後、胸ポケットの花の匂いが立ち昇った


 

ーー私は戻るべき場所を目指した

車を走らせ、街を目指した

一般道を通り、目立たぬよう車の流れに乗って。
疲労を感じた私はコーヒーが飲みたくなった。
人目を避けたい気持ちがあった。
ノートパソコンをインターネット上へと繋ぎ、機能で体内の情報を誤送信させた。
今では使われることのないノートパソコンだからこそ。

帽子とマスクで身を隠し、民家を改築したであろう喫茶店を見つけて入った。
店内には、店主1人と客が5人ほど。
店内では騒ぎになっていた。
カウンター席のモニターに警告画面が映っていた。


「あなた達に与えられた猶予は、あと3日間
 -恋した瞬間、世界が終わる-」


“new leaves”の団体が何かを起こしたのだろうか?
彼らは何をしたのだろうか?
ふざけているのか?
悪戯にしては、悪趣味なメッセージだ。

「恋した瞬間、世界が終わる?」
店主が鼻で笑った。

「全くだぜ!」
恋人と相席している男が威勢よく発した。
その恋人は何言ってんのこの人?という顔で男を眺めた。

「俺、明日告白しようと決めてたのに!」
男の客が立ち上がり、カウンター席の前で叫んだ。

「あ、やばいわたし、新人くんのこと好きになってる…」
女の客が小型端末から天井へと顔を上げ、心に掛かる問いの答えを見てしまった。

「どうしたら!?」
男と女の客が二人叫んだ。
他人のようではある。

「ん? 僕は助かるのか?」
40代くらいの男性がテーブル席の下で、こっそりと手を揉んだ。

事態は急な展開だった。
「私たち」のコンピュータが一斉に誤作動を起こしていた。

そして、暴動が始まったらしいーー

それは、すべての立ち位置を変えてゆく


ノートパソコンを開くと、もうそこに男の記憶はなかった。
データの破損をコンピュータが伝える。
体内の情報を誤送信させるためにインターネット上へと繋いだ所為だ。
バックアップは取っていない。

ただ、もう円環に取り残されることなく、
なぞなぞを遺して去った詩人の彼に、
正解や真実は持って行かれたーー 

私が降り立った地は、
私がやり直すための地だ。

黒い服装の男たちが、また手を変えるだろう

全てをコントロールしようとすることは無理だと、
彼らは気づかなければならない。


私は最後まで、地上の上で生きる


勇気を、胸ポケットの一輪の花に秘めて



※恋した瞬間、世界が終わる -第5部 来るべき一瞬のために編-完-

恋した瞬間、世界が終わる 第5部 来るべき一瞬のために

心ある人々によって

恋した瞬間、世界が終わる 第5部 来るべき一瞬のために

地上の上 路上 ログアウト マニュアル ビートニク 恋した瞬間、世界が終わる

  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-23

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第28話「人を誘うもの」
  2. 第29話「この時代に産まれること」
  3. 第30話「煙を吸う」
  4. 第31話「命の場所」
  5. 第32話「花粉の誘い」
  6. 第33話「水先案内人(ガイド)」
  7. 第34話「くちぶえ」
  8. 第35話「熱交換」
  9. 第36話「あなたが欲しかった遺伝子」
  10. 第37話「勇気の扉 -来るべき一瞬のために-」
  11. 第38話「勇気の扉 -心ある人々によって-」