10月の魔法
こんなにも眠い日は久しぶりだった。すれ違う人々がもれなく全員蠅に見える。間近で見ると気持ちが悪いから、なるべく見ないように下を向いて歩く。でもどこへ向かっているのか、神無月はよくわかっていなかった。ただ心の赴くままに、自由になりたいという一心だった。家から出れたのも久しぶりなんだから、せっかくの外出を楽しもう。しかし神無月は忘れてしまった。楽しむって何だっけ、どこへ行けば楽しいんだっけ。昔々に一度だけ見た遊園地を思い出し、そうか、と頷いて方向転換する。とりあえず遊園地に行けばいいのだ、と思い足を動かす。日が沈み、青紫色の空が街全体を喰っている。ここの人たちは美味しいのかな、神無月は空腹を感じて切ない気持ちになった。こういうとき、お母さんがいてくれたらな、と思った。
お母さんは魔法使いだったが、あるとき熊に変身していた際に猟師に打たれて即死した。猟師は、神無月の母親を誤って撃ち殺してしまったことを本人に詫び、せめてもの償いをと熊鍋を振る舞ってくれた。最初は抵抗があった神無月も空腹には負けて食べたところ、美味しすぎて箸を動かす手が止まらなかった。生きている間にこんなごちそうを食べられるなんて!気づけば神無月は涙をボロボロこぼし、母親を悼んだ。ありがとう、お母さん。ごめんね。ごちそうさま、と手を合わせる神無月を見ていた猟師は、可哀想に思ったのかその晩神無月を慰めてやった。それから幾年か経ち、神無月は普通の人間として生きているが、常に空腹状態であった。どれだけ食べても腹は膨れず、満足に眠れず、不調の日々を送っていた。とにかくお腹いっぱい食べたい。ゆっくり眠りたい。もうしばらく笑うことができていない、楽しいことをして笑いたい。神無月は子どものように駄々をこねて泣いた。もうお母さんはいないのに、夜な夜なお母さんのことを呼んだ。こんな体たらくでは天国に行けないわ、と幽霊になったお母さんは嘆息を吐いた。いつも傍で見守っているのに、神無月は全く霊感がなかったので一人寂しい思いをしていた。女性が欲しい、と感覚的に強く求めていた。母親の代わりにはならないだろうが、優しく包んでくれる聖母みたいな女性が必要だと神無月は思っていた。しかし下を向いていては女性どころかどんな人間とすらも関係を持てるはずがない。いや、どこかにいないか。蠅じゃない女性が。どこかにいるはずなんだ。遊園地を目指しながら、神無月は必死に探していた。
不審者さながら、目が泳ぎ、挙動も落ち着かず、それでも神無月は信じて女性を探した。しかしそのうちに遊園地に到着してしまった。賑やかで華やかな門の前に棒立ちし、少しの間神無月は何をしたか思い出せなかった。我に返ったときには路傍に倒れていて、口の中は血の味がした。右頬もじんじん痛み、誰かに暴力をふられたと直感的に思った。だが神無月の周りに人は見当たらなくて、死んだのではないかと錯覚もした。誰かに殺されて、自分は今天国の入り口にいるのではないか。天国か? ふざけやがって。神無月は無性に腹が立った。ここが本当に天国ならお母さんに会わせろ。どうしていつも僕は一人なんだ、もうやめてくれ。怒鳴ったつもりだったが、声が聞こえなかった。何も聞こえない、無音の世界だった。ただ妙に木々が騒めき、全身を震わせるほどの恐怖が押し寄せてくる感じがした。音がないからこそ怖い。神無月は鼓膜が破れるほどの大声を出した。依然として何も聞こえない。眩暈に襲われ咄嗟に地面に伏した。顔のすぐ目の前に激臭を放つものがあり、反射的にのけぞった。そこには溶き卵を吐いたようなまっ黄色の吐しゃ物が地面に叩きつけられていた。
神無月の記憶は徐々に明らかになってきた。この吐しゃ物は自分が吐いたのだ、そして、通行人に絡まれて一方的に殴られたのだった。だがどうして嘔吐することになったのか、きっかけは何だったのかはわからなかった。いよいよ眩暈が激しく意識を飛ばすくらいになってきた。そういえば、ずっと眠たかったな。ようやく寝れるのだと神無月はどこか安心した気持ちだった。ただこれは眠気などと甘い蜜のようなものでなく、痛烈なショックであった。お母さんは思った。ようやく私のもとへ来てくれるの、嬉しいわ、愛する息子。聖母の如き優しい笑みと声色で、しもべの天使たちを呼び寄せた。紛い物のエンジェルリングを天使の一人が用意して、下界へと降り立った。神無月の目は閉じていた。穏やかに眠るように、そして、あらゆる恐怖から逃げるように、二度とその目は開かなかった。遊園地の門が閉じる。閉園後に取り残された子どもが泣いている。子どもを見捨てた若い夫婦は幸せそうに手をつなぎ、それを見ていた独り身の男はこのまま独身を貫こうと決心する。真っ黒になった空には珍しく星が出ていた。無数の星々が、夜空を飾って人々を幸せにする。天使が神無月の手を引っ張って遠く、遠くに誘った。
10月の魔法