レイヤー族

アーモンドクロワッサンと何気ない始まり:シルバ

 それは何気ない始まりだった。

 おどおどしたりびくつく暇もないくらい何気ない始まりだった。

 そういうことの始まりには、私なりのイメージがあった。
 
 小さい頃の空想癖をそのまま引きずって大人になった女の一人だから、今だに何をしていようと、どんな人混みの中でも、目をつぶれば自分なりのイマジネーションを広げられる、というやっかいな能力を捨て切れずにいた。だからそういうことの始まりを何度も想像してたと思う。自分でも気づかぬうちに…。


 想像しながら、自分だけはそうならないだろうと自負してきた。TVの中でばたばた演じる女たちを、ソファに寝そべり大きなマグカップでコーヒー飲みながら見ている、そんな余裕を抱え込み、イマジネーションの世界だけにとどめてきた。

 しかし、ここに来てイマジネーションはクリアになった。

 それは多分夜だろう。六時、七時、そんな生易しい時刻ではなく、九時、十時…あるいはミッドナイトかもしれない。

 ゴーストじみた人間や、浮浪者たちの彷徨いタイム。私はアパートへの帰り道、二十四時間スーパーからオレンジジュース、ミルク、それにココナッツ入りクッキーなどを買って出てくる。

 私は多分疲れて見えるだろう。ギギ、ギギー…思考がほとんど止まってしまったかのように疲れて見える。スーパーのドアを開け、ストリートに出る私からはエネルギーというエネルギーが流れ出てしまっている。

 多分、私は窮地にいる。お金か何かのことで困っている。そうだ、私はお金がいるのだ。

 サイドウオークには、それなりの男や女がいる。リカーのボトルを茶色の紙袋に隠して体を左右へ揺らして歩く男…。肩や腕に刺青をいれた男…。訳のわからないことを口走りながらふらふら歩く女…。陽気に大声をあげる黒い髪、黒い髭、南方系の男たち…。

 その中へ一歩踏み出すと私も彼らの一員だ。 Wanderer。彷徨い人。夜、歩き回る彷徨い人。異空間での彷徨い人。生暖かい風が耳の後ろをそっと撫で、夏の湿気がまとわりついてくる。

 ヘイ…。

 男が声をかけるのはそんなときだ。人種は…何でもいい。ただそれらしい格好をしている。黒シャツに黒ズボン、金のネックレス。男は私を見つめ、私の窮地を悟る。私も目で男のねらいを察する。男はゆっくりと口を開く…。

 ここでイマジネーションは終わりだ。そこまでだったらクラシックムービー、フィルムノワールの香りすらある。続いての安ホテルのシーンはごめんだ。とたんにチープな映画になる。

 純粋な恋愛以外の男と女の始まりを、私は長い間、こういうふうに空想し、予感さえしながらも、それは空想の世界だと安心していた。けれどそんなのは極々ありふれたものなのだ。黒シャツに黒ズボン、金のネックレスの男に荒んだ路上人たち…そんなお膳立てがいつもあるとは限らない。

 実際、その始まりは空想のようにエキサィティングでもなければ神秘的シャドーにも染まっていなかった。それは趣味でもないのに気まぐれで買ったセーターみたいなものだった。窓をカタカタいわせる秋風、カーペットに跳んだリンゴの種、傘から垂れる雨の滴、そんな何気なさだった。




 男は柔らかな微笑みを浮かべていた。ニートにカットされたブラウンとレッドの中間の髮。鼻の周りの密集したそばかすと、額にくっきりとよった皺数本がどこかアンバランスで、少年の面影が残っているようにも四十過ぎのようにも見えた。

 たまった洗濯物を二つのビニール袋に詰め、コインじゃらじゃらサンダルぺたぺた、アパートのランドリールームに入っていく私に、男は軽く微笑んだ。

 男は洗濯物を洗濯機から一枚一枚取り出しては広げ、乾燥機に入れていた。長袖シャツ、トレーナー、ブリーフ、灰色のソックス…。血管の浮いた男の手で取り上げられた灰色のソックスはライトの下でぐったりしたネズミのようにも見えた。

 男はひよこ色のトレーナーを着ていた。レモン色でも山吹色でもなく、ひよこ色だった。赤味がかった髪とひよこ色のセーターはなぜか私に安心感を与えた。

 軽く微笑む私に男も微笑んだ。私は隣の洗濯機に洗濯物を入れ、スイッチをホワイトのところに合わせようか色物のところに合わせようかと迷ったが、結局色物に合わせた。実際はほとんどホワイトだったが色物の方がどことなくフェミニンな気がしたのだ。意味なき見栄ってものだった。

 ハロー。

 男はゆっくり声をかけた。

 ハロー。

 学生ですか? 

 そんなところです。
 
 大学の夜間クラスを取っていたのだから、まんざら嘘とはいえなかった。たとえ三回に一回しか出ないにしてもだ。
 
 ショーンです、男は言った。あたしはミミです、と返すと、ニックネームかと男は聞いた。にっこり曖昧に微笑む私に、男はそれ以上聞いてこなかった。

 卒業はいつですか?
 
 卒業する予定はないんです。単に趣味なんです。それに、ノーマネー、ノータイムですから。
 
 なぜ、ノータイムと付け加えたんだろう。残業もない仕事なので、時間だけは十分にあった。ただお金がないまま時間だけいくらあっても虚しい気がして…それがノータイムと付け加えさせた。
 
 それは残念ですね…。男は最後の洗濯物を広げて…それは青いストライプ人りのティーシャツだった。二、三度振って、乾燥機に入れた。

 ここに一生住みたいなんて惚れ込むには、冬は寒すぎ、家賃は高過ぎたが、国へ帰りたくはなかった。あのホームタウンに帰ることを思う度、心にざざーと風が吹いた。ここへ来て小さな自由を掴んだ、そう感じていた。まあ常識外れの女、なんて陰口を叩かれ、家族が肩身の狭い思いもすることもなければ、誰にもうるさいことを言われない、そんな小さくて大きな自由。小さなプールで手足を伸ばし、たまに爪先で水しぶきをピシャンとあげながら背中で浮かんでるような、そんな小さくて大きな自由。

 ロンリー?イエス…。けれど、もう戻れなかった。

 生活はきりきりで小切手帳を前に溜息をついたり、財布を意味なく開けたりすることがないとはいえなかったが、なんとか暮していけた。もっと田舎の物価の安いところへ移っていたら、スリーベッドルームのアパートも夢じゃなかったかもしれない。けれど私は都会に住みたかった。三十マイル走ってやっとデパートがあるようなのどかで広大なところは、それなりに素敵だろうけどノーサンクス。私は雑多な人間が共存するエネルギーが好きだった。
 
 ジャズが流れるカフェでのランチがカウンターでのコールドサンドになっても、好きだったシアターから足が遠ざかっても、一時間程度なら雨が降っていようとタクシーに乗らずに歩き、雨を吸って靴がジャッジャッと音をたてるのを聞く羽目になっても、別に苦にはならなかった。そう、苦にはならなかった。




 男を二度目に見かけたのは、冬が誇り高きスピードで領地を広げようとしているときだった。私は以前よく行ったカフェの前で、コートのポケットに手を入れ、何やら映画の半券のようなもの握り締め、立っていた。

 実のところ、取りたてて何を考えていたわけでもなかった。強いていうならノスタルジックなフィーリングか…。そのカフェは、生活がまだ新鮮だったころのシンボルで、多いときには日に二回も来た。アーモンドクロワッサンとコーヒーを頼み、スケッチブックでも入りそうな大きな鞄から雑誌を取り出しゆっくりとページをめくるのがささやかな楽しみだった。
 
 私は決して贅沢な人間じゃない。ジュエリーとか、スーパーカーとか、一等地のコンドミニアム…そんなのなんて望んでるわけじゃない。ただ、たまにゆったりしたカフェで、アーモンドクロワッサンとコーヒーを飲みながら、人生も捨てたもんじゃないわね…など思いたかったのだ。

 焦点不明の目をしてぼぉーっと立っている私に、入りませんか、と男は声をかけた。私はなぜか動揺した。古いアルバムに涙しているのを見られてしまったようで気恥ずかしかった。

 お財布持ってくるの忘れちゃったんです。

 そんなのいいですよ、僕のおごりです。

 そういう男の手にはマホガニー色のアタッシュケースが握られていた。隠し模様でストライプ入りのライトブラウンのスーツが明るい髪によく合っていた。

 男はスピナッチ入りのクロワッサンにブロッコリスーブ、それにティをオーダーした。私はアーモンドクロワッサンにコーヒー。

 パリパリとクリスピーな音をたてるクロワッサンを噛みしめながら、私は陽気な装いというのを取り戻していた。至福とは言わなくともほとんどハッピーだった。幸せな装いに成功して気をよくした私は、おいしいですよ、ちょっと飲んでみませんか、と男が差し出したスープのスプーンを、無邪気を装い受け取ってすすってみた。丸いスプーンにブロッコリをのせて口に流し込み、私は全く上機嫌だった。

 スープの味が残っている口に、アーモンドのかけらを皿から摘み上げ、奥歯で噛んでいると男が言った。

 あのアパート、僕は出たんですよ。

 そうですか。

 前よりはちょっとリッチというわけです。

 それはおめでとうございます。

 それはそれはというように頷きながら、私は微笑んだ。

 すると男は不思議な視線で私を見た。私は男の表情を読めなかったし、読む努力もしなかった。男は借金を申し入れた様にどこか申しわけなさそうにも、何かいたずらを考えてる男の子のようにも見えた。

 今でもノータイム、ノーマネーですか。

 時間だけはありますね。

 額を中指で押さえながら、私は言った。

 パートタイムジョブでもさがしているんですか。

 そんなとこですね。

 私はディスカウントショップで、この商品もう少しばかり安くなりませんか、とでもいう表情をしていたに違いない。パートタイムなどする気はないはずだった。仕事と名のつくものは九時から五時まででたくさんのはず。プリンターの音の中で過ごす毎日に私は疲れきっていた。

 カフェを出て、男と一緒に歩き出した。風が歯にしみ、耳がちぎれそうに痛かった。帽子を買わなきゃ、耳がすっぽり入るくらいの…。大きなマフラーも買わなきゃね、首と頬にしっかり巻きつけるため…。

 こんな風に異性と歩くのは久しぶりだったが、ちっとも浮かれてこなかった。

 ここ数年で三回恋をしたが、裏切るか裹切られるかで、実は結ばなかった。それは湿気のあるペーパーにつけた火みたいなものだった。最後の方は情熱もなくなって「裏切る」なんて言葉すらドラマチック過ぎる、そんな関係だった。

 実際、もう男にときめくことはないだろう、と感じていた。自分が女の定義にあてはまるのかすら、わからなくなっていた。

 少し前から、肩の下まで伸ばしていた髪がところどころ白くなり始めていた。若白髪・・・。どうにもぴんとこない言葉だった。私は白くなった髪をグレイヘアではなくシルバーと呼ぶことにした。グレイは光を弾かないが、シルバーは弾く。今のところ、ファッションでメッシュに染めたように見えなくもない。

 ふん! 鏡を見て時々そんな声を上げた。別に悪くないじゃん、と思った。まったくのシルバーになったら、全てが吹っ切れそうな気がした。自分の中途半端な思考や感情、全てが。

 私は英語を二段階おとして話し、四才若く言い、秘書学校に行くために英語の勉強をしていると嘘をついた。自分で自分のコーティングだ。何のコーティング? 

 anonymity。 匿名のコーティング。

 どうして? 得はしないまでも損はしないだろうと思ったのだ。漠然とながら。

 アパートすぐそこなんです。僕の部屋に寄りませんか。

 男はこもった声に無理にはずみをつけたように言った。

 そうですねえ…。

 その誘いを私は二ヶ月ぶりにきた請求書のように受け取った。

 男と並んでゆっくり歩いた。頭でかすかに羽音がした。

 男がエレベータのボタンを押したときには、その羽音はうるさいほどになっていた。耳鳴りかしら、耳をとんとん叩いたが、音は確かに頭の中からだった。

 エレベータは時折、ギーギーと不快な音をさせながら上がっていき、私はいつか見たテレビでマネキンが動き出すというエピソードを思い出していた。人間になったマネキンが、自分がマネキンであったことを忘れエレベータに乗り、街へ繰り出すのだ。

 あたしの場合は反対ね、人間のマネキン化。匿名コーティングし、マネキン化していくのだ。いったい毎日、毎晩、何人の人間がマネキン化していくのだろう。エレベータに乗り、街へ繰り出していくのだろう。


 ショーンの部屋は暖房がよくきいていた。家賃は私のアパートの二倍はするだろう。フロアと壁の色がミスマッチ。カーペットのグリーンが濃すぎる。ライトグリーンならまだしも、モスグリーンに黒を落としたような緑はどうにも暗すぎた。

 素敵ね。

 ビールにする?ワイン?

 どちらもいらないと言った。ショーンはテレビをつけた。民主党の何とかという上院議員が演説している。

 あなたがたは本当に欲しいものがわかっていますか?

 お得意のポーズで両手を広げている。そのあと、教育か、温かい家族の往む家か、子供を安心して歩かせられる環境か、完璧なる医療保険かと聞き続ける。

 突然ショーンが肩に手を回してきたので、私はびっくりした。けれど動揺はしなかった。予期した突然、予想したびっくりだった。にもかかわらず私の心臓は速く打ち始めていた。

 ショーンのタッチに少しずつ反応していきながら、私は依然、この部屋の暖房効きすぎね、なんて思っていた。心は中性で、反応は一応女性…。

 私とショーンはベッドルームに入っていった。肩を抱き合ってはいたが、ロマンチックさのかけらもなかった。一人の病人をもう一人が支えてる、という感じだった。支えているのが私なのか、病人が私なのか、どっちにしても薄暗いライティングの中で二人の男女がベッドルームに向かう雰囲気にはほど遠かった。リビングのテレビはついたままで、トークショーに変わっていた。

 ベッドルームは悪くなかった。パープルがかった青。私の好きな色。

 私たちは極々普通のラブメイキングをした。

 どこからが普通でどこからがちょっと変、どこからがエクセレントなんてはっきり言えるほどのエキスパートでもなかったが、極々普通と結論を出したあと、私はナイトテーブルにあった本をパラパラ指先で弄んだ。

 ショーンがバスローブをはおってバスルームから出てきた。黒いローブ。エアロビックスのあとのように汗をかいた胸にはそばかすが浮き上かっている。

 わたしがボタンの掛け間違いに気づき、一つずつ止め直していると、ショーンが小さな箱を差し出した。

 何、これ?

 見上げる私にショーンは軽く口の端だけ上げてスマイルした。

 それは小さな黒い箱だった。つやのある黒に、細い赤いストライプが入っている。メンズパフュー厶の箱のようにも見えた。

 開けると四つにたたまれた百ドル札が一枚入っていた。

 何なの?

 私は聞いた。怒るか、当惑するか、冗談めかして笑いとばすか、何か積極的な感情表現をすべきだったのかもしれない。けれど私はまるで無表情だった。

 私は数日前に見た映画を思い出していた。その中で女は、ワンナイトスタンドの男に二十ドル渡されて、プロじゃないわよ、と一旦返すのだが、結局受け取る。彼女はそれで何を買ったのだろうか。ちょっとましなウォッカの一本でも買えば、それで終わりの二十ドル。

 私の手の中に黒い箱がある。そしてその中に百ドル。

 何、これ?

 再び聞いた。

 ショーンは母親に叱られたかのように私を見た。お金がタイトだと言ってただろ。返さなくていいよ。

 私は親指と中指で紙幣を摘み上げた。指先の紙幣の感覚になぜか笑いたくなった。腹を抱えて笑いたくなった。笑い袋のようにあたりかまわず下品な大声で笑いたくなった。両手を叩いてこりゃおかしいと笑いたくなった。けれど、私は相変わらず無表情で箱をテーブルに置き、ベッドに脚をクロスしてブラウスの最後のボタンをとめた。

 プロスティチュート。

 浮かんできたこの言葉。

 プロスティチュート。

 私か白人で、もっと知的に着飾っていたら、彼はこんなことはしなかっただろう。見くびられたわね。侮辱の中でも最も程度のひどい侮辱に違いない。私はストリートガールでもなければ、エスコートサービスでもないのだ。

 けれど心の中に怒りが湧いてくる気配はなかった。責任は私にあるようにも思えた。どうしてこんなことになったんだろう。何かおかしい。何かがおかしい。もつれにもつれた糸が、巨大な綿菓子のように頭に広がっていく。

 ショーンは箱を取り上げ、奇妙なほど緩慢な動作で再び私に渡した。私は、煙のように曖眛に微笑み、立ち上がった。そしてドアを閉め、一、二、三、四、かっきり三十歩歩いてエレベータに乗った。

 エレベータに入ると。首をガクッとそらせて天井を見つめた。心と頭と体、三つがばらばらになって空間に浮かんでる、そんな感覚に目をつぶり大きく息を吐いた。私という部品が一瞬にしてばらばらになり、宙にほおり出され、疲れだけがどんよりと空中に残る。

 百ドル…この金はショーンに惚れてても憎んでても受け取ることはできなかっただろう。けれど、彼に対する感情は、好き嫌いのスケール上にはなく、罪の意識など感じてやしなかった。私は買い物でお釣りを多く貰ったような気持ちだった。

 アパートへ帰ってから百ドル札一枚、ガラステーブルの上にのせてみた。かなり新しい。それを見ながらショーンが言った言葉を思い出した。今月から離婚手当ての心配がなくなったんだ、妻が再婚したんでね。それにちょっと昇格もしたんだ。だから金に余裕ができた。ショーンは自分から私への金の移行がいかにも正当であるかのように言った。それまで買い控えてきた写真集やコートや靴や鞄に金を費やすのが当然であるのと同じようにだ。

 紙幣を見ながら、これが二十ドル札五枚だったり、十ドル札十枚だったらどうだっただろうか、と考えた。返したかもしれない。けれど百ドル札一枚というのはちょっと小粋に思えたのだ。





 次にショーンから電話があったのは二週間後だった。私は何を期待していただろう。ショーンの体の温もりか、百ドル札か。どちらにも緊急の欲求は感じていなかった。

 ブザーを鳴らす。ドアを開けたショーンはストライプのジャケットに黄色のタイをしていた。靴の茶色は限りなくオレンジ色で、この夜のショーンはビジネスマン風というよりピエロ風だった。

 ショーンは微笑み、リビングまで私の手を引いていった。ショーンってこんなに外股だったかしら、そんなこと思いながらソファに腰をかけた。

 それから数分後にはベッドルームでショーンの首に手を回していた。フィットネスクラブのマットの上でのエクササイズに似ている。スクイーズースクイーズ! エアロビインストラクターのジーンの声が聞こえてくるようだった。

 帰りにショーンがまだ金はタイトかと聞いた。イエス。彼の頭の向こうの壁を見つめながら私は答えた。ノーと言えばショーンとのつながりがなくなってしまうように思えた。整理下手で、余分なものでもしまっておく私だ。関係を絶つ理由がとりたててなければ、しばらくキープしておくのも悪くない。

 ショーンはほっとしたように小さなカードを入れるような封筒を差し出した。私はゆっくり頷き、握りしめたまま、エレベータに乗った。

 アパートへの帰り、リカーショップでワインを買った。レッドかホワイトか決めかね、二本、買ってしまった。

 外へ出ると、どこか不穏な空気が流れていた。いや、不穏…というネガティブなエネルギーではなく、それでいてミスティリアスといってしまえば陳腐すぎ、どこか凝縮した空気だった。

 そのエネルギーは体を包み込み、背中の上から下まですーっと見えない手で撫でられる……。そんな不思議な感覚だった。

 そのときだった。道を隔てた向こう側の人物が、僅かだがぼんやり光っているのに気が付いた。

 その人物に焦点を合わせた。

 長いコートを着た男だった。

 男はこちらに向かって横断歩道を渡ってきた。すれ違う人は誰も彼に目をとめない。

 不思議なのはその顔だった。

 横断歩道を渡り切った男は、私のすぐ前に立っていた。大して背も高くなければ、横幅も太すぎるわけではなかった。ただ顔が人間とアライグマの中間に見えたのだ。

 You can see me.

私が見えるんですね、男の声はソフトでテナーで囁くようだった。口はほとんど動いてないようにも見えた。

 初めてですか? 心配はいりません。 

 そしていたわるようにこう言ったのだ。You are a feeler.

 そう、確かにそう言った。

 You are a feeler.

 私は男に背を向け、小走りをした。混乱していたが、大丈夫だと感じていた。

 部屋に戻ったころにはすっかり落ちついていた。赤ワインの栓を抜き、グラスに入れ、一口飲んだ。

 そして調べた。フィーラーの一番の意味は「触覚」だった。他の意味もいろいろあったがどの辞書でも一番に出てくるのは触覚だった。

 触覚か……。  

 虫がもっている二本の触覚。ふと私は、自分が目に見えない二本の触覚でいつも何かを探してきた、求めてきたんじゃないかと思った。

男は私がフィーラーだと言ったのだ。フィーラーとは、私の特質なのか種類なのか能力なのか、それとも存在そのものなのか。

 私を一本の触覚と言ったわけではないのだけは確かだった。触覚のような人間。触覚を持つ人間という意味だったのだろうか。

 なんだったんだろ、あの男は…。夢でもみたのか。いや、頭はクリアだった。今夜はショーンのところでアルコールも飲まなかった。酔ってもいない。そして精神も病んでいない。なぜかそれには妙な自信があった。けれど病んでいる人ほど病んでないと思うのだろう。私は フッ フッ と二度ほど笑った。




 それからもショーンとは会い続けたが、あの不思議な男には会うことがなかった。

 ショーンは時としてとてもスキルフルで、何回かに一度はとてもいい気持ちになることすらできた。彼は生活の中にパラパラちりばめられていた空白の一つを埋めた。ほんの小さな一つの空白であったにしても。

 マネキン化した私がショーンに感じるのはほんのテンポラリーな体の接触、それにともなう何のへんてつもないエキサイトメント…ただそれだけのことで、私たちの問には依然会話の広がりは見られなかった。

 一度、彼は、これからどうするのと聞いた。私は適当に音楽学院の名をあげ、ピアノを専攻するつもりだと答えた。彼がくちびるの端を中途半端に上げ、笑いを浮かべたところを見ると、どうやら嘘は見破られたようだった。秘書になるつもりだったんじゃないのか、あの学校にピアノ学科などあったかと聞くショーンに、もちろんよ、バリーマニローが出たじゃないの、と大昔のコパカバーナのメロディをハミングしてみせたが、実のところバリーマニローがどこを出たかなどまるで知らなかったし、何より私は音楽を愛するタイプには見えないはずだった。

 一度からかい半分で、前の奥さんの写真を見せて欲しいと言った。ちょっとした好奇心だった。ショーンが引き出しから取り出しだのは、ダークヘアとブルーの目がなんとなくアンバランスな印象を与える顎の尖った女の写真だった。素敵じゃない、と言ったあと、私はこう聞いた。

 私と彼女、どっちか魅力的?

 言ってから、自分でぞっとした。ぞっと…ぞっと…ぞっと…した。自分をローラーでひき、くるくると丸めて壁に叩きつけたくなった。そしてこのシチュエーション全てを嫌悪した。

 その時を除くと、私とショーンの関係は悪くはなかった。マネキンは人との摩擦をできるだけ避けようとする。話らしい話をしなかったのは、都合のよい関係が崩れるのを恐れていたからだ。

 雨が降ってる。

 ほんとね。

 時間まだある?

 あるわよ。

 今度の水曜?

 そうね。

 私たちの会話は二語の世界だった。

 親しくなるほど言葉数が少なくなるというが、それは精神と肉体の親密さが浸透し、次第に言葉が単純化されていく場合だ。私たちは最初から二語の世界から入ったのだから、出発点と到達点が逆さだった。私たちの二語の世界はそのまま何の広がりも見せなかった。

 けれど、それは心地よくすらある世界だった。絶えず投げかけられる言葉の洪水に目をパチクリさせることもかく、深みのない二語の世界に身を横たえる…。





 風の少し和らいだ日だった。私はいつになく軽やか気分で二十五ドル出して買ったばかりのオールウールのマフラーを首に巻きつけながらカフェに入り、アーモンドクロワッサンとコーヒーをオーダーした。手にひらの二倍はありそうな大きなクロワッサンを掴みあげ、勢いよく噛み始めた。こんがり焼けたアーモンドのかけらが歯茎の裏をチクチク刺すのが心地よかった。熱いコーヒーを大きなカップでゴクゴク飲み、目をつぶる。甘いアーモンドの香り、コーヒーの香り…。肩の力が抜け、眠気すら感じてきた。

 それこそ至福のハピネスだった。カフェの中は暖かく、客層もよく、アーモンドクロワッサンはほどよい甘さで、コーヒーは濃すぎも薄すぎもせず、高級とはいえぬまでも私は趣味よく装っている…。

 顔を上げたのは、頬に冷たい風があたったからだ。入ってきた私と同年代の二人の女が斜め前のテーブルに坐ろうとしていた。一人は黒い髪、黒い目、はっきりした顔だちをしていた。スパニッシュかアラブの血が入ってるような風貌だった。一人はブロンドの髪を二つのピンできりりととめていた。二人ともキャリア志向の女独特の話し方をしていた。

 ブロンドが今話題の上院議員の政策は好きだけど中絶に関しては気に入らないと言い、ブラックヘアもそれに賛成し、あんな考えの主がのさばるから女性のフリーダムはいつになっても得られないのよ、と言った。

 女のフリーダム…か…。

 ブロンドはハム&チーズクロワッサン、ブラックヘアはブルーベリーマフィンを注文し、二人とも時々顔をしかめたり、手でノーノー違うわよ、とジェスチャーしながら食べ始めたが、とてもとても幸福そうだった。ブロンドがママはあたしのことを無神論考だって言うのよ、と言い、そう?あたしのママは盲信者だって言うわ、ともう一人が言い、やがて無神論者と盲信者はボーイフレンドの話題に移り、ブロンドヘアはケニーについて、ブラックヘアはジェイクについて、誇らしげに話し始めた。ケニーはとても寝起きが悪いの、男の子ってまったくしょうがないんだから、と言うブロンドヘアも、それに頷くブラックヘアも数分前よりもっと幸福そうに見えた。

 私は肘をついて額に手をあてた。ジェラシーに似た羨ましさが体に走った。

 女のフリーダム…か…。

 二人の女の子のガールズトーク…。どこでも見かける光景のはずだった。私は自分と彼女たちとの違いを思った。正道を堂々と歩き、誇らしげに悩みなさそうに笑う彼女たち。頭の表層のみ動かし、蝕む倦怠感に何の抵抗もせず、自分で自分を少しずつ破壊していく私。

 女のフリーダム…か…。それはこげたアーモンドのかけらのように、私には意味がなかった。

 カッシャーン!

 はっとした。肘に当たったスプーンが驚くほどの音をたててフロアに転げ落ちた。

 二人の女は同時にこちらを見た。あたしはソーリーと早口でつぶやいた。ブロンドヘアが微笑み、気にしないでと言い、ブラックヘアが、あら、あなたプロフェッサースコーフのクラス取ってなかった?と聞いてきた。

 プロフェッサースコーフ? ああ…先学期三週間ほどでドロップした社会人向けのクラスだった。クラスで一人の東洋人だったから目立ったのだろう。クラスヘはいつも黒いワンピースを着てスカーフだけ換えて行った。長い髪、白いメッシュ、大きなイアリング、いつも黒いワンピースといういでたちのオリエンタルの女は目をひいたのかもしれない。小作りな顔は日本でより付加価値がつくようだった。

 イエス。覚えているわ。どうだった、あのクラス?

 最低よ。あなた正解だったわ、途中で落として。

 そう?

 ブロンドはテリー、ブラックヘアはスーザンと名乗った。あたしはカオルよ、と言った。

 私は落ち着かなかった。黒いセーターを着て気取って脚を組んでるにもかかわらず、表面をサァーつと漂白され、地の色が見えてるような、そんな感じがして何回も脚を組み直した。

 どこから?

 日本から。

 長いの?

 うん、結構になるわね。

 ここの住み心地どう?

 素敵よ。とっても素敵だわ。でも…。

 うん…?

 二人は穏やかな目を私に向けている。

 でも…。

 いろいろ大変なんでしょうね。

 そうね…。

 私はとても素直な気持ちになっていた。

 何だか道に迷っちゃったみたいよ。最初、とっても素敵だと思ったわ。それから、軽いカルチャーショックってのを経験して、それからね…全く自分がわかんなくなったみたい。不思議なことにね、ちょっと前までそれにすら気づいてなかったの。

 そう言い、ふふふふ…私は笑った。 
                            
 全く違った文化ですものね、スーザンが頷き、知らない国じゃ大変よね、テリーが言った。さらに私の言葉を待つ二人に、私は中途半端な笑いを浮かべていた。グラスの水をゴクリと飲むのが精一杯だった。もっと会話に加わりたいと思ったが、それ以上どうにも言葉が出てこなかった。

 テリーは自分のルームメートが中国へ行ったときの経験談を二、三、面白おかしく話した。私はすっかり心打ち解けたように笑ってみせた。

 けれど私にはわかっていた。道に迷ったのは別に異国にいるからじゃないってこと。どこにいたって同じなのだ。小さな罠はそこら中にある。小さなエスケープのつもりが小さな罠になるのだ。罠が潜むは自分自身…。罠も私なら、獲物も私…。
 
 彼女たちが自分たちの会話に戻り、私はプレー卜に残ってるクロワッサンのかわを人差し指でつぶし始めた。カップの中のコーヒーは薄いミルクの膜を作り始めている。

 斜め前の二人…ほんの手が届きそうなところに掛けている二人…。脚を組んで…ほんの手が届きそうなところに…。なのに彼女たちは、私にはとても遠い存在に思えた。無神論者とか盲信者と自分たちを茶化して呼ぶ彼女たちが、私にはとても遠くに思えた。私は盲信者でも無神論者でもない。私は何者でもないのだ。匿名の仮面をかぶったまま、長い間、呼吸さえしていなかったのかもしれない。

 でも…でも…あたしハッピーのはずじゃない。誰にもしばられてないはずじゃない。精神的にも空間的にも私はフリー…。ショーンも、ちょっとした百ドル札も、罪の意識からも、面倒なこと全てひっくるめて私はフリーのはずじゃない。

 スプーンでカップをかき混ぜながら、ほんの数分前との気分の違いは何だろう、と考えた。二人の女の子がトリガーなのだろうが、もっともっと根は深く地中を這っていた。彼女たちと一緒に、私は無神論者でも盲信者でもなく、偉大なる彷徨い人だと自分を茶化して笑うためにはどれくらい時間をさかのぼればいいのだろう。




 ショーンのアパートメントに足を向けたのは、別に彼に会いたかったからじゃなかった。私は払い忘れた勘定を清算にいくような気持ちだった。

 ドアをあけたショーンは一瞬無表情に私を見た。それは間違って配達された箱でも見るかのようだった。

 車ある?あるならドライブにでもいかない?

 優しく言おうとしたが、有無を言わせぬような、教師が生徒に詰問するようなトーンになってしまった。予期せぬ誘いにショーンは何かの容疑でもかけられたかのような顔をした。そして片方の眉をぴくりと上げて、イエスと答えた。

 数ブロック走ったあとショーンは聞いた。

 ちょっと行ったところに、時々行く店があるんだ。ジャズでも聞く?

 いいわね。

 裏通りに車をとめ、入ったのは狭い店だった。案内されたのはステージに近い壁際のテーブルだ。

 ドラムがカリスマティクな黒人で、ベース、ピアノ、ギターは白人だった。ピアノは大学教授にも見えそうな雰囲気をまとっていた。

 どう思う?

 演奏が始まりしばらくすると、ショーンは聞いた。

 私は言葉を探した。

 バワーフルでもなく、ソウルフルでも…ノスタルジックでもない。スキルフルっていうのかしらね、そう思ったが、いいわね、と答えた。

 ショーンに感じ始めているこの感情は何だろう? 好奇心でも悲しみでもなく…愛などであるはずもなく、苛々でもない。優しさなんて偽善は趣味じゃなく…無視されてる痛手なんて繊細さからもほど遠い。じゃ、淋しさ…だろうか。

 私はショーンを改めて見つめた。居心地悪そうにほとんど空になったグラスを何度も口に運んでいるショーンを。

 最初のセッションが終わり、店内は明るくなった。

 ヘーイ!ショーンじゃないか。

 大声とともに髭を生やした体格のいい男がやってきた。

 ハーイ、ジョージ。

 ショーンは立ち上がり、男の肩を二、三度叩いた。ジョージの連れの女もやってきた。ルイーズだという。ショーンは、こっちはミミと私を紹介した。

 私はニッコリ笑い、手を差し伸ばした。

 ミミはニックネームでほんとはカオルなの。

 本当の名を言う…何日も閉じこもって隠れ家を出るような緊張…しかしちょっとした快感でもあった。自分の名を言ったことで、僅かに残っている自己愛がチャリンと音をたてた。

 いい名前ね。意味があるの?

 ルイーズが聞いた。

 大してないわ。

 でも、いい名前だ。

 ジョージが言った。

 ねえ、二人ともジョインしない?

 ルイーズが誘い、彼らのテーブルに加わる羽目になった。これでダブルデートの形が整った。

 どこでショーンと知り合ったの?

 ピーナッツを二粒、三粒摘みながら、ルイーズが聞いた。

 以前、同じアパートメントに住んでいたのよ。

 あら、そう、よかったわ、ショーンがいい人見つけて。あたしたち心配していたのよ。離婚後のショーンってきたら・・・

 やめろよ。

 ショーンは笑いながらも目は真剣だった。
 
 会話は進まなかった。三十分ばかりの会話から私が得たのは、ジョージが三匹の犬を飼っていることと、ルイーズが最近、髪を赤く染めたということ。そしてジョージとショーンは以前職場が一緒だったということだ。

 次のセッションが始まったのをきっかけに、失礼するよ、と私の腕を取り、ショーンは立ちあがった。

 また会いましょうね。ルイーズがレッドヘアを揺らした。

 車の中で私は適当にハミングした。別にそんなことしたくはなかったが無理して歌った。そうでもなければ、窒息しそうだった。

 カオルか…。

 うん…。

 いい名だ。

 そうね。

 彼は今夜の進展にひどく当惑しているようだった。そこそこの機能だと満足していた製品が思ったより早く壊れたような気分なのだろう、と思った。

 今日で彼に会うのも最後だろうと確信した。すると急にリラックスしてきた。そこで私はショーンの神経質そうな横顔を見ながら聞いてみた。

 ねえ。仕事、何してんの?

 セールスさ。

 何の?

 オフィス小物とかの…。

 仕事変えようかって考えたことある?

 毎日だよ。

 そう? でも昇格したんでしょ。

 うん、でもマネージャーじゃない。

 いつかなれるんでしょ?

 無理だろうな。僕の場合、セールスマンはいつまでもセールスマンでセールスマネージャーにはなれないんだ。

 なぜ?

 ショーンはしばらく黙っていたが、なぜ?と繰り返す私に、小さな声で言った。

 時々、4と7の区別がつかなくなるんだ。…ときどき4を足したつもりでも7を足してしまってる。カリキュレータを使っても同じなんだ。理屈では分かっていても焦るとだめなんだ。

 数字なんか大したことないわよ。会計士にでもなる気がない限りね。

 私は陽気に言ってみた。

 ははっ。

 ショーンは少し笑った。

 私たちは初めてしっかりと顔を見合わせ、声を出して笑った。

 少しの沈黙のあとショーンは聞いた。

 がっかりした?

 どうして?

 金持ちじゃなくってさ。

 金持ちだなんて最初から思ってないわよ。

 うん…。

 紳士らしくなくって悪かったって思ってる。でもさ、ちょっとした贅沢をした気分になれたんだ。

 何が?

 ああ…。

 そのあとは、ショーンも、ミミとしての私も、カオルとしての私も口をきかなかった。

 カオルとなった私と、時々4と7の区別のつかないセールスマンになったショーン。私たちの間のイリュージョンは消えた。けれど、もともとそんなものは必用なかったし、存在すらしてなかったのかもしれない。

 ショーンに対して異性としてではなく、一人の人間として、真摯な思いが流れ始めるのを感じた。

 ショーンは私のアパートの前で車を止め、グッドナイトをグッバイの顔で言った。私は別に悲しくはなかったが、少し淋しかった。

 車を出ようとしながら、ショーンの方を振り返った。

 するとあの感覚がおそってきた。私の心と頭の触覚が動き出す…そんな感覚。背中、胸、そしてこめかみのあたりまで、濃度の変わった空気が大きな手になって触っているような感じだ。

 振り返った私は、運転席にいたショーンの横顔に一瞬呼吸が止まった。

 それは限りなくキツネに近い横顔だった。

 ショーン… 私はつぶれた声を発した。

 こちらを向いたショーン。その顔には金色と銀色のミックスしたような毛が密集して生えている。目はグリーンがかった金色で、大きくなった耳の先の毛は白かった。

 でも表情は確かにショーンだった。

 怖くないといえば嘘だった。異邦の谷に落ち込んだように、体が少し震えていた。決して逃げ出したいような怖さではなく、大切な何かが指の間から逃げて行ってしまうのでは、という焦りに似た怖さだった。

 美しい、と思った。美しい人間。美しいキツネに似た顔をもつ人間。

 ショーンは静かに私を見ていた。

 今、見えるね。

 ええ、見える。あなたで二人目。前にあった人はアナグマに似てたわ。

 ショーンは何も言わない。

 その人がフィーラーって言葉を口にしたの。ねえ、フィーラーって何?

 フィーラーか。うん、そうだな、時々レイヤー族…僕たちみたいな人間が見える人だよ。何か凝縮された瞬間に見える人が多いっていうけど、ただゆったりしているときに見え始めたって人もいるらしい。

 レイヤー族って何?

 普通の人々のことをコモン族って言うとしたら、コモン族には入り込むことのできないレイヤーに存在するものたちだよ。

 そのレイヤーってどこにあるの?

 この現実世界の同じところさ。もし僕らのレイヤーが見えるメガネがあったとしたら、そう、3Dのメガネのようにね、それをかけたら、僕らレイヤー族の姿やその他いろんなものたちの姿が見えるのさ。もっともそんな便利なメガネはないけどね。でも一瞬、そのメガネをかけた状態になれるものがフィーラーなんだ。今の君に僕が見えるようにね。

 ねえ、フィーラーって触覚って意味だよね。

 そうだね。層を分けているベールのような存在をまるで触覚を伸ばして触って一部だけ透明にするがごとく見ることのできる人がフィーラーなのさ。コモン族の中に時折現れるみたいだね。触覚のような感性で見ようと思えば見える人……。それとは違ってそのベールをくぐれるコモン族もいる。彼らはベールのところどころに存在する揺らぎのような輪を見つけてくぐるんだ。そうすると僕たちの世界をいっぺんにみることが可能になるらしい。

 触ってもいい? ショーンの顔に手を伸ばした。怖さはすっかり消えていた。

 いいよ。でも触れないよ。
 
 私はショーンの耳先を触ろうとした。でも触れることができなかった。そこには何もないのだ。確かに見えているのに。頬の横の方を触ると、そこには見えないけれど普通の耳に触れた。
 
 耳や、ふさふさした毛も、さわれないだろ。そう、さわれない着ぐるみみたいなものさ。それが僕たちのレイヤーでは形になって見えるんだ。

 ショーンは手を見せた。キツネの手を知らないが、まさにキツネの手の要素を人間の手に足したらこんな感じになるんじゃないかと思った。触ってみると、感覚的にはごくごく普通の人の手だった。光る毛に触ろうとしてみたが、何も触れなかった。

 ねえ、私がまだ二人しか見てないってことは、いつでも見えるわけじゃないよね、レイヤー族の人たちを。

 そうだね。どんどん見れるようになる人もいれば、まったく見えなくなる人もいる。

 レイヤー族ってどれくらいいるの?

 かなり珍しいと思うよ。でもまったくへんてつない暮らしをしているよ。映画のスーパーヒーローみたいなのを想像してもらっても困るよ。

 じゃ、フィーラーってどれくらいいるの? 

 決して多くはないね。

 ショーンってキツネ系だよね。

 うん、ま、そうだな。

 何かキツネに備わってる能力もあるの?

 あんまり現実社会では約に立たないことが多いね。ははっ、計算もろくにできないしね。けれど、確かにキツネの持つ優れた点を持っているかもな。

 それを生かした業種って考えなかった?

 ハハッ。穴掘り業? 野ねずみとり業? とくにないな。僕はまったく平凡な人間だよ。

 みんな何かの動物系なの?

 そうとばかりも限らないかな。僕だってたまたまキツネに近いけれど、完全なるキツネ人間ってわけじゃない。一人一人個性がある。ただ共通しているのは僕たちみたいなのはレイヤー族の一形態にすぎないってことさ。

 そうなの? よくわからないけれど、私はうなづいた。

 僕たちの仲間は静かな人が多いかな。内向的で静かで穏やかな人。

 私は何となく感じていたのかな。ショーンの何かを。どうなんだろう。

 少し微笑んで、ショーンを見つめた。不思議で美しい、と心から思った。

 車を降りると、車が見えなくなるまで手を振った。ショーンにではなく、自分の中の何かに手を振った。別れを告げているのか、新しい何かに手を振っているのかわからないまま手を振り続けた。

 真夜中まで開いているスーパーに足を向けた。ダイエッコーク2缶とスナックを買って店を出るころには、私は長い間失っていたものを少し取り戻せたと感じていた。けれどそれが何なのかはわからなかった。

 強い風に向かい、泳ぐようにして歩くと、息切れがしてきた。

 芽生え始めた陽の気配に抵抗するように、私の悪い癖、ネガティブな抑うつ感、倦怠感が襲ってきそうな気がした。そんなときは自分が干し魚になったような気がする。

 干し魚…。小さいころ、店先で吊るされていた、目の離れた魚、ポロッと開けた口に小さな歯が並んでいる魚…。限りなく死んでいるのに生臭さも残している不思議な物体。

 いや。そんなものにはならない。

 私は決心した。

 目を固く閉じると、突然の静けさに涙が流れてきた。

僕が清美に会ったのは:リュウ


 各停しか止まらぬ小さな駅。そこから少し歩いたところの小さなビル、そこへ毎日通うことになろうとは、まだ青年の域を出なかったあの頃の僕なら決して信じなかっただろう。

 一旦からっぽになった僕だけど、ルネビルの空間で今はそこそこ機能している。

 今、僕がここにいる、その成り行きを聞かれたら、何から語ればいいのだろう。

 清美だ。

 やはり清美のことを語らずにはいられない。

 少し長くなるけれど、聞いてもらえたら幸いだ。


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 僕が清美に会ったのは、にわか雨の中だった。

 唐突な大粒のにわか雨。最初、清美は僕の視界にありながら、その存在は呼吸をしていなかった。

 清美は道路脇に立っていた。女だとは思わなかった。人間だとすら思わなかった。

 いわゆる、あれ、だ。道路交通人形。交通誘導人形。工事中、道路脇で交通整理の一旦を担う、あれだ。腕だけをひたすら振っているあの人形だ。下半身は固定され、手だけ動かして旗や誘導棒を振っている、あれだ。

 彼女は、どしゃぶりの中、規則正しく腕を動かしていた。突然の雨に新しいスーツが濡れることを気にしながら両肩に苛々を貼り付けたように歩いていた僕は、その規則的な動きに一瞬安らぎを覚えた。

 どしゃぶりにもかかわらず、そのとき街は静かだった。音が消えた白黒映画のように街は静かだった。凄まじいほどの雨音がもろもろの音をかき消し、見事なほどの静けさを作り出していた。

 僕は信号に向かって真っ直ぐ歩いていた。

 はっくしょん!

 人形がくしゃみをした。機械的な動きは止めぬまま、くしゃみをした。

 なんだ、人間か。

 僕はえらの張った大きな顔に焦点を合わせた。

 顔の大きな男だと思った。顔の大きさがより人形らしく見せていたのかもしれない。男が顔に雨を這わせ、機械のように規則的に腕を振り続ける様子を見る僕は、無邪気な顔をしていたに違いない。感動にも似た小さな衝動、見つめずにはいられない衝動があった。

 くしゃん、くしゃん、くしゃん、くしゃん。男は立て続けに4回くしゃみをした。それでも規則的な腕の動きに狂いは生じなかった。

 ご苦労なことだ。

 その人間が、ただ立っているだけで、いや、ただ腕を振り続けているだけで与えた衝撃…それを踏みつぶすように、僕はメガネを中指で押し上げ、踵に力を入れて歩く速度を速め、通り過ぎようとした。

 と、男の黒目だけがすーっと動き、僕をとらえた。白目はそのままで黒目だけがすーっと動いたような不思議な動きだった。

 その時、立場が逆転した。檻の中の動物を見ていたつもりが、檻の中にいたのは僕の方で、見ていたはずの動物が外で自分を見ている、そんな感じだった。

「危ないよ。こっちを歩いて」

 その口が動いた。がっしりした顎の割に肉の薄いくちびるが動いた。

 女…か…。

 女だ…。僕は確信した。

 僕はほとんど驚愕の視線で、その存在を見た。色を失った街にその存在だけが、強烈だった。

 女…か…。僕は何度も、女か…とつぶやいた。

 そして視線を離せなくなった。胸の鼓動が速くなった。

「はやく行って」

 彼は、いや彼女は、しっかりと、しかし静かに言った。

「あ…はい…」

 僕はうなづき、足早に一ブロックほど歩いた。

 動揺していた。今まで感じたことのない説明のつかぬやっかいな感覚が僕を包んでいた。

 もう一ブロック歩いて振り返った。もう顔は見えなかった。腕を振る、その動きだけが視界の中で揺れていた。

 しばらく見つめていたが、僕はゆっくりとその存在のもとへ戻った。初めて長靴を履き、水たまりにパシャン!と入る、そんな感動だった。初めてアマガエルを手にのせる、そんな感動だった。

 僕はゆっくりと女のもとに行った。

「仕事が終わったら、食事でもしませんか?」

 彼女は再び黒目だけを動かし、星の子でも見るように僕を見て言った。

「明け方になるよ」




 そのころ僕は夜が長い街にいた。いや夜が深い街だ。一旦、その光を剥ぎ取ると、夜の底は計り知れない。時はスピンし、やがて穏やかになり、再びスピンする。意味無きスピンは止まっているのと同じはず。なのに何かが壊れていく。目には見えない何かがだ。

 仕事の時間は安らぎだった。僕にはある種の才能があった。だから、大した苦労もなく、仕事はこなせた。その意味合いも大して考えなかった。ゲームと同じでしている間は余分なことを考えずに済む。

 鏡を見るときは別だった。僕は鏡を見るのが好きだった。鏡の中では時間は止まって見えた。僕が動いてても止まっている。妬けるほど穏やかに止まっている。現実の喧騒には知らん顔で、鏡の中はいつもひんやりしていた。

 僕は幸せでも不幸でもなかった。実のところそんなことを考えたこともなかった。生活とはあてもない散歩のようなもので、小さな驚きや小さな不快さはあっても、感動にはほど遠かった。今になって考えると、「苦」や「痛み」を感じない、それだけで幸せなことだった。

 恋愛も生活に色をつけはしなかった。ジムでのトレーニングとどれほど違わない。ルーティーンと同じで新鮮味がなかった。

 そんなとき、清美に会った。僕にとって色を失った街に、その存在は強烈だった。

 彼女を見た時、しかも人間であり、しかも女であると気づいた時、いや気づく前から、何かに似ている、と既視感を持った。

 何かに似ている。

 何だろ…。

 思い出せずに苛々した。

 高校時代の友達? どこかで見たドラマに出てきたのか? 何だ、何に似てるんだ。

 このやっかいな動揺ともいえる感覚が腹立たしかった。けれど、新鮮な感覚だった。その頃、何一つこだわりを持てぬ僕だったから、スリリングですらあった。




 清美といて僕は雄弁になれた。僕の話を清美は静かに聞いてくれた。そう、静かに…だ。清美には不思議な静けさがあった。その静けさは僕を雄弁にした。

 僕はつらつらと思いつくことを言葉にした。いや、語ったのだ。清美に語ったのだ。僕は長い間、人にものなど語らなった。「しゃべり」や「言い」や「うなづき」はしたが、「語ったり」はしなかった。

 脱皮した。僕は思った。清美といて僕は脱皮した。

 語ることは確かにカタルシスだった。胸に詰まった砂粒がひとつひとつ取れていくようでもあった。清美に語って、語って、一粒残さず語って、全部の砂粒がなくなるころには僕は浮き上がれるかもしれない、そんなふうにも思った。

 僕は清美といて優しくなれた。自分が楽になると相手にも優しくなれるのだ。

 僕はレイコさん、のことすら話した。レイコさんが時々見せた不思議な顔、ピュアなる、純粋極まりない、正真正銘の「うるさがり」の顔のこともだ。何をしていたのか定かではないが、レイコさんが突然立ち上がり一歩下がり腰に手をあて、ひどく客観的に僕を見たときのことも話した。荒れ放題の部屋を仕方なしに掃除する時のような後始末の気だるさ…レイコさんにはそんなのがあって、僕はひどく悲しかった、と。そんな少年時代のトラウマさえ話した。

 あなたのママだね、レイコさんって。

 清美が言った。

 そうだよ、僕は答えた。




 お金はいいのかい?

 清美が出ていくときいつも僕は聞いた。何かの代償としてのオファーなどでは決してなかった。他の相手に僕がそう言ったとしたら、それは何らかの代償にとられても仕方ないだろう。けれど清美に対して僕は自然に聞いたのだ。

 自然に…そう自然にだ。僕の方が金を持ってるなら、彼女に少し移るのがフェアってもんだろう、そんな感じだった。水位の高いところから低いところへ水が流れる…そんな感じで、お金はいいのかい?と聞いたのだ。

 お金ね、清美はつぶやいた。

 いらないね。

 そして彼女は黒いバックパックを肩にかけ、出ていった。最初はその唐突にも見える様子に、怒らせてしまったのだろうか、と思った。けれどそうではなかった。彼女はただ出るべき時間になったから出ていっただけだった。

 彼女には花や宝石など似合わない、と思った。残酷な意味での似合わない、ではない。そんなものの輝きを微々たるものにしてしまうだろう存在感と強さがあった。けれど、それと、彼女が花や宝石を欲しがっているかもしれない、と彼女側に立って考えてみる、というのは別物のはずだった。僕は最初から、利己的な人間だったのだ。自分の思い込みを相手に対する思いやりだと勘違いしていたのだから。

 僕の思い込みにしても、清美の静かな強さは僕の中で一人歩きし始めていた。




 僕はどこにいても、子供のころ描いた抽象画みたいだった。36色のクレヨン全部使って塗りたくった抽象画。混然…。混沌…。何かに憑かれたみたいに掌でザッザッザッザッと擦ると、色は混ざり合い、僕の皮膚の一部になる。画用紙も手も混沌色だ。けれど、洗うと結構落ちていく。結構さらりと。この画用紙と僕の関係が、僕と僕を取り巻く「街」や「人」との関係だった。

 人生の反CM性。そんな言葉が浮かんだことがある。たとえば高級外車のCM。車にもたれかけ、あるいはハンドルを握り、サングラス越しの景色を見る。走るのは田園でも、高層ビル街でもいい。サングラスの奥から上目づかいに、This is life! と言えばいい。でも、人生はそういかない。それが人生の反CM性だ。

 一見CMの中の人物に似かよって見える僕に女の子たちが寄ってきた時代もあった。シゲ曰く、リュウには天は二物を与えたな、だ。二物とは何かと考えた。金とルックスか? シゲは言った。いい加減さ、と、いい加減さ、だよ。

 確かに僕はいい加減な人間だ。そして物事は薄味が好きだ。物事はサラッとが一番。さらりさらり…この感覚だ。

 けれど清美に会って、このサラッとの感覚のままでずっといていいのだろうか、そんな疑問が生まれた。僕にとっては非日常的に深い疑問の誕生だ。

 僕は清美に抱きかかえられて眠るのが好きになった。実のところ僕は横幅はないにしてもどちらかと言えば大柄で手足も長い。清美はひどくがっちりしていたにしても僕よりは小柄だ。客観的には僕の腕の中に清美はいたわけだが、僕はいつも清美に抱きかかえられている、そんなふうに感じた。

 ある日、僕は清美の腕の中にいて、性的な衝動の代わりに不思議な感動を感じていた。清美といてひどくゆったりした気分になっていた。

「ラッセル・バンクスって知ってる?」

 清美はその四角い体を起こし、静かに聞いた。

「バンクス? バンクスって銀行かい?」

「違う。小説家だよ」

「ああ、小説家か」

「彼の作品にちょっと変わったのがあってね、タイトルは、直訳すると、サラ・コール…あるラブストーリー…」

「サラ・コール? 風薬みたいな名だな。何だい、そのサラ・コールってのは?」

「それはこんなふうに始まるんだ」

 清美は目をつぶり顎をあげた。

「そのころ、僕は凄いハンサムで、サラはひどく醜かった。実を言うと、彼女、僕の知ってる中で一番醜い女だった。…こんなふうにね。…似てるって思ってない?」

「似てる?」

「あなたが思っているだろう、あなたとあたしの関係に」

「僕たちにかい?」

「そう。…その男とあなたが、あたしとサラが」

「いや、ちっとも思わないな」

 全く馬鹿げているよ、とでも言うように、僕は言った。正直思わなかった。清美は醜くはない。ただ、見かけが特に美しくはないだけだ。一般的な美の感覚に合わない。でも、僕にとって清美は何かがひどく深く美しかった。

 清美は少し笑った。小さな歯を全部見せて笑った。その笑顔が僕には意外だった。意外性は「美」につながった。ときめきに似た感覚すら持った。僕はきっと優しい顔をしていたに違いない。




 愛してるのかい? シゲが聞いた。

 僕自身、わからなかった。ただ、彼女と一緒にいれば、忘れていた何かを思い出せそう、そんな気がした。

 たくましい清美は、依然、道路脇で手を振ったり駐車場で車の誘導をしていたりした。

「あなた、今のあたしに興味を持ってる。道路に立つ男みたいなあたしが好きなんだよね」

 違うよ、と完全否定はできなかった。清美に嘘はお見通しだ。そこで僕は考えた。頭がビーンと音がするまで考えた。

「清美は似てるんだと思う」

「何? 何に似てるの?」

 その瞳が小さな期待感に輝き、希望と不安が揺らめいた。

 うん…。何かに似ている。確かに清美を初めて見た時、デジャビュ感を持ち、ずっと考え続けていた。笑ってもいなければ怒ってもいない…限りなく無表情で雨の中、誘導棒を振り続ける清美は何かに似ていた…。

「何? 何に似てるの?」

 うん。

 僕は考え、考え、考え続けた。すると少し見えてきた。思い出せる…そんな気がした。

 ああ、そうか…。夕陽を受けていたあの時の…。

「ジゾウ…かな」

「え…?」

 清美は僕を見た。大きく開けた口の形だけがそのままポッと空間に浮いてしまいそうに口を開けて、僕を見た。

 清美はさ、海に立ってたんだ。海…海…海…青い海…。昔、僕が遊んだ海からの帰りにね。

 


 初夏の海岸だった。レイコさんは優雅に横になり、鼻歌を歌っている。僕はバケツを持って、はしゃいで岩場に駆け上がる。

 パパ、蟹をつかまえようよ。

 リュウ、こっちに来いよ。砂で城を作ろう。

 お城を? パパ、どうやって作るの?

 砂でさ。砂で作るのさ。

 でも、蟹を捕まえたいな。

 蟹より城だ。

 サングラスのレイコさんが上半身を起こし、手招きする。

 こっちいらっしゃい。リュウ、こっちいらっしゃい。

 うん、でもさ、パパがお城作るんだって。

 えっ?

 ママ! パパが砂でお城作るんだって!

 お城? いいから、こっちへいらっしゃい。

 レイコさんは苛々して腰に手をあてる。

 父はレイコさんにちらりと目を走らせ、困ったように微笑む。

 リュウ、じゃ、砂ダルマにしよう。

 えっ? 何、パパ?

 砂ダルマさ。それならすぐできる。

 砂ダルマ?

 そうさ、砂ダルマだよ。冬は雪ダルマ、夏は砂ダルマさ。

 父はそう言ってクックッと笑う。そう言って、僕にではなく一人で笑うのだ。

 パパ、でも作ってもすぐ壊れない? 僕、壊れるなら作らない。

 違うさ。水をかぶって解けたとしてもさ、それは大地に戻るだけなんだ。うん、そうだ、大地に戻るんだ。

 何? ダイチニモドルって何?

 ちょっと難しいな。大地は土だよ。土の広がりだ。

 砂もダイチ?

 うん、砂も大地の一種だな。

 じゃ、砂ダルマは解けて、ダイチになるんだね、解けてもそれはそれでいいんだね。

 そうさ、リュウ、そうさ、それはそれでいいんだよ。

 けれど、結局レイコさんに呼ばれて行き、僕たちは砂ダルマを作らなかった。

 その海からの帰り、僕は海沿いに不思議なものを見た。

 パパ! パパ! 大声をあげ、運転している父の注意を引いた。

 それは道路際の海にすくっと立っていた。逆光を浴びた二体の地蔵。父は車を止め、僕は走った。父も母もひどく日光を浴びたせいかぐったりしていて車から降りようとしなかったが、僕はひどく興奮していた。作ろうとして作れなかった砂ダルマが突然現れた、そう思えたのだ。

 それは等身大の地蔵だった。ざらざらとした地蔵だった。まさに砂の粒で作ったような荒い地蔵だった。一体は顔が崩れていたが、顔のある方は、そちらも少し鼻が欠けていた気もするが、とても穏やかな顔だった。満ち潮でか地蔵は足元まで水に浸かっていた。夕陽を受けた地蔵は神々しかった。それでいて人間味があった。実体のある何かだった。




「体が揺らぐほどの感銘を受けたんだ。それはさ、単なる地蔵じゃなくて、僕と父が作り損ねた砂ダルマに思えたんだ」

「あたしがそれに似てるの?」

「うん、似てるよ。清美、似てるよ」

「どんな顔だったの?」

 僕は目をつぶった。正確に思い出そうとした。

「ひどく…穏やかな顔さ。表情があってないような…笑っていて涙ぐんでるような、そんなひどく穏やかな顔さ」

「そう…」

 僕は清美の平坦で凛とした美しさに胸をうたれた。

 僕はその時まで、そう、大の大人になってからも、可愛がっていた金魚が腹を浮かせているのを見たとき以上の切なさは感じたことがなかった。レイコさんが突然いなくなったときも、さほど衝撃を受けなかった。父が入院した時は心配はしたが切なくはなかった。けれど、その時の清美の目に僕は胸をうたれた。僕は切実な淋しさを感じた。清美を愛してる、と言い切れる…そんな気にさえなった。

「お地蔵さんに似てていいことあるのかな」

「そりゃあるさ。それはただの地蔵じゃなくってね。考えてもごらん。海、海、海、広い海…」

「で、感じたんだよね、大地を」

「うん」

「そのとき見たお地蔵さんにあたしが似てたから、不思議とあたしに懐かしさを感じた…ってそういうことだよね」

「とにかくさ、清美にはあるんだ。そのとき感じた大地的な何かがさ。地蔵はその象徴さ」

 清美は僕を見つめ、見つめ、目をつぶる。まぶたの上の窪みがピクピク揺れ、夢の中で瞬きしようとしてるみたいだった。額にあてた指先をツーっとこめかみに持ってきて大きく息を吸い、目を開く…とその瞳はもう僕を見てやしなかった。




 僕はマテリアリスティックな人間だ。金も物も嫌いじゃない。金のパワーに意味を見出す。

 金ではいろんな物が買える。だから、薄い血の海に記念碑みたいに物を並べ立てる。そうすると安心する。ひどく安心する。

 清美は僕の周りで唯一のノンマテリアリスティックな存在だった。マテリアリスティックな僕がノンマテリアリスティックな清美と付き合うのは、自己否定か自己啓発か…それとも何かへの挑戦なのか決めかねた。

 朝起きて、身支度を整えオフィスへ向かう。大理石が美しいオフィスビル。夕暮れになればガラスに映る僕の顔、僕の体。

 今夜も清美は仕事だ。物を書く人間は肉体労働がいいんだ、ここしばらくは肉体労働って決めてるんだ、清美は言う。清美は小説家志望だ。字はそれだけでは無昧乾燥だけど、集まって行進し始めれば、しっかりした足跡になる、それって肉体労働の現場に似てるんだ、そう言う清美は森閑と清らかだ。

 清美のいないとき、僕は一人で街を歩いてみたりする。歩いてバーに入り、一人の女に出会ったりする。年齢不祥に美しい女。指には四角いエメラルドの指輪をはめている。マニッシュなスーツもエメラルド色なら、瞳もグリーン。美しいレンズだ。一見無防備な退廃美を纏っている。

「お付き合い願える?」

「妻子持ちですよ」

 ふふふふふふ…。

「嘘ですよ。でも付き合ってる女がいるんです」

「あら、そう? 金持ちの?」

「いえ」

「じゃ、ハンサムな髭の濃い子とか?」

「いえ」

「じゃ、ペットのような女の子?」

「そうでもありません」

「まさかほんとの恋愛ってわけじゃないでしょう?」

「そんなタイプには見えませんか?」

「見えないわね。この街にいると、人を見る目だけは鋭くなるの」

「こんなバーにいるとかな」

「そうかもね」

「僕の何が、純な恋愛をする男に見えないのでしょう?」

「雰囲気って言ったらあまりに月並みかしら。もっと感覚的な何か…。匂いね」

「匂い?」

「そういう風に生まれ、そういう風に育ったのね、あなた」

「どういう風に?」

「そういう風によ。ねえ、あなたにふさわしいほんとの街へ行きましょうよ」

 僕は安堵感に浸る。この女は同類だ。

 冬だというのに外の風は生暖かい。この女といて安堵はしてもなぜか虚しい。

 清美に会いたい、と思う。泥水の中に手を入れ、ぎゅっと握りつぶす。指の間からぎゅうとぬめり出る泥の感触…。ひどく心地よく、生々しい魅力…そんなことを思いながら、清美に会いたいと思う。

「僕はいつか彼女に捨てられるんじゃないかって恐れてるんです。何しろ水栽培ですから」

「ミズサイバイ?」

「ええ、地に根ざしてない水栽培。最後の頑張りなど見せることなく、突然しんなりと生気を失うんです」

「そう? あなた、きっと美しく老けていくわよ」

 もし、そうだとしてもそれはただそれだけのことだろう。僕にはあるべきはずのものがなぜか備わっていない、ひどくそんな気がする。



 ある日、わけもなくよたものに殴られた。殴られ血だらけになった。鼻血が噴き上げ、腕は肩から上へ上がらない。膝にはどうやら水が溜まっている。尻の打撲が直るのはいつのことか。

 鏡に映った自分を見て、僕は唖然とした。痣だらけの顔、背中…全く唖然とした。そして思った。価値が半減しちまった…と。手から不注意に落とした梨や林檎のように、僕の価値は半滅した。

 包帯を巻きながら、清美がボクシング映画の話を始めた。ロッキー、レイジングブル、ゴールデンボーイ。

「ゴールデンボーイ?」

「ウィリアム・ホールデンの出た映画だよ。一流のバイオリン弾きを夢見る青年が、金のために出たボクシングの試合で相手を殺してしまうんだ。ハンサムで力もありかつ繊細、そしで悲劇を背負うんだ」

「なんたるヒーロー」

 僕は言う。包帯を巻き終わった僕の手をそっと包んで清美は言う。

「リュウはほんとうはヒーローになりたいんだね」

 うん、僕はうなづく。

「でも今のままじゃ駄目だ。前に読んだSFでね。人間からやる気というやる気を食べちゃう虫がはびこる話があってね。ビージーって呼ばれて恐がられてるんだ」

「どうしてビージーなのさ」僕は聞く。

「静かな夜なんかにね、ビージー…って音が聞こえるんだ。体の中でね、虫がやる気のもとを食べてる音で…」

「やる気のもと?」

「そう」

「それって冷蔵庫みたいな音?」

「違う。音って言うより響きだね。小さな地響きみたいな」

「体の中から地響きかい?…で、その虫が食うのは、やる気かい?それともやる気のもと?」

「さあ、どっちだろ」

「やる気なのか、やる気のもとなのか…。もとを食われたら、やる気はもう二度と出てこない。けど一個や二個のやる気なら。また違うやる気が出てくるかもしれない」

「そうだね」

「そうさ、だからさ、やる気かい? やる気のもとかい?どっちなのさ」

 清美は考える。

 ビージーか…。確かに僕にはやる気がない。湧き出るようなやる気ってものがない。全くない。使命感や目的意識もない。「やる気」のキャンバスはぼおっとした白だ。だとしたら、僕は生まれながらのビーシー養殖者なのかもしれない。

「リュウ」

 清美が僕を見る。僕は清美を見る。見ながら、心で問う。溺れかけたら僕を支えてくれるかい?支えて岸まで泳いでくれるかい?



 ある日、僕は清美と街へ出た。腕を組んで街に出た。

「風は流れる…」

「えっ?」

「見たい?」

 清美は止まっている一台のバスを指した。

 それはバスの側面に描かれた芝居の広告だった。

「風は流れ、海は漂う。どこかで聞いたな、こんな詩」

 ふと思う。僕はただ眠っているだけなのかも、と。目をつぶり、あの地蔵に少し似たような顔をして…。あの荒い砂でできたような地蔵。清美に似た地蔵。悟りながらもどこかに希望を捨てずにいる、そんな表情…。

 あの日に戻りたい…。そんな陳腐なこと思っていたわけじゃない。海に膝までつかり、ダイチって何だろって思ったあの頃まで戻れたら、回し過ぎて弾け跳んだバネが元に戻るかも、なんてそんな甘いことを思ってたわけじゃない。

 なぜなら…僕は「洒落た」ってのが好きなんだ。日常の中の軽さ。楽と快。隠しストライプの絹入りスーツ。タイのブランドだって決めている。あくせくすることはない。比較的楽な仕事で楽に金も手に入る。

 いつかクレイジーな男が、片手で僕を指し、片手で天を指し、おまえらがのさばってるからこの世が駄目になるんだ、緊張感がないんだ、と怒鳴った。まあまあそんなに怒らずに、僕は思った。今の世界で傷つかずに生きること、それは傍観者に徹すること。それが出来れば生きられる。ダメージ受けず、生きられる。ビージー養殖能力は傍観者に組み込まれた優れ物なのかもしれない。

「リュウ」

「ん?」

「さよならだ」

「仕事に行くのかい?」

「ちがう。さよならなんだ」

 僕は驚いた。それはあまりに突然だった。

「リュウはね、ナルシストだっていいんだけど、自分にも人にもイメージだけ転がし、楽しんでる。人と人が一緒にいるってそんなもんじゃないはずだよね。でも何を言ってもわからない」

 僕は清美を見た。真実か、事実か…。どちらにしても僕は認めたくなかった。

「いつリュウの前から消えようかってずっと考えてた。覚えてる? あの日、リュウが声をかけてきた日。ハンサムな男がどうしようもなく醜い女に声をかけた、そんなイメージを持ってたよね。でも違う。確かにリュウはそれなりの風情で歩いてきた。でも私には見えたんだ。雨に濡れた拠り所のないちっぽけな動物が小さな尻尾を垂れて足元にやってきたのがね。リュウは救いを求めてた。自分でガチガチに作り上げたイメージから抜け出る救いをね。でもね、救済者にはなれないよ。子犬でも抱き上げると、その鼓動が聞こえる。自分以外の存在を愛することを知ってる。でもリュウは知らない。だからあたし、救済者にはなれない。私は海に立ってたお地蔵さんでもなけりゃ、ビージーをやっつけるつわものでもない。でも、今まで離れられなかった。だって雨の日に拾った仔犬、震えている仔犬捨てられないよ」

 僕はうなだれた。まさに仔犬のようにうなだれた。清美は軽く僕の手を握り、僕を少しの間見つめた後、背を向け、ゆっくり歩き始めた。僕には止める言葉もない。

 清美! 叫びたいが叫べない。去っていく清美の四角い後ろ姿。

 その時ふっと空気が揺らいだ……? そして清美の後ろ姿のちょうど耳の高さのあたりをすっと何かが横切ったように思った。

 涙か、と思ったが、涙は出ていなかった。

 今までも清美といるときに何度か揺らいでいたその存在。それは小さな半透明の輪だった。目をこすってみたり、メガネのときはメガネを拭いてみたりした。清美に言うたび、清美の肩に少しだけ力が入るのがわかった。見えるんだ、リュウに見えるんだね、一度だけ、彼女は小さい目を見開き、そう言った。

 もしも私がいなくなって、またそんな輪が見えたとしたら、触ってごらん。リュウの心が静かだったら、触ってごらん。危険じゃないから。少し前に清美が言った言葉だった。

 見えたよ、どうすればいい? そう言って清美を引きとめたかった。けれど、清美の何一つ飾り気のない潔い後ろ姿に、僕は何も言えなかった。

 僕はただただ駆けていって尻尾を振りたかった。





 どれだけ時が過ぎただろう。街でいつも清美を探した。道路工事があるところでは胸が高鳴った。建築現場のヘルメットの中にも清美を探した。駐車場でもだ。

 ネットに埋もれた情報もくまなく探した。もともと僕は情報のプロだ。得れない情報なんてないはずだ。

 けれど、清美は消えてしまった。

 いつか小説家になってテレビにでも出てくれないか、と願った。ほんの少しだけ洗練された清美が相変わらずの無表情で、けれど質問には答えていく。新刊の本について答えていく。

 けれども現実は、よくあるドラマの脚本のように最後に主人公の一人が有名になってもう一人を語る、という結末にはならなかった。

 清美は消えた。

 清美は小説が書けたのだろうか。清美は今、どこで、どんな仕事をしているのだろう。僕には想像できない。僕が清美といたときは、自分の気持ちの分析に忙しく、清美のことを知ろうとしなかった。



 あるとき立ち寄った本屋で何気なく新刊の帯が目に入った。タイトルはアンディ183号。帯に書かれたのは

『全く183号には手をやいた。アンドロイドの特徴をうまく隠していたからだ。183号は極々普通に生活し、人間と同じようにセックスもした。海にノスタルジックな思いをはせたりもしたが、そんなのはほんのたまのこと、たいては洒落のめして街を歩いた。』

 どきりとした。僕はひどくどきりとした。

 裏の作者の言葉のところにはこうあった。

 この作品に特にモデルはいません。そうは思わない人がいるかもしれませんが、決してその人がモデルではないのです。けれど、もしいるとしたら、その人は少し変わっていて、自分がひどくルックスいいと思いこんでいるでしょう。そしてそれゆえ、自分は中身が空っぽで血が薄く、やる気がないのだ、と思っているでしょう。つまり、少し愚かで哀しい人なのです。

 作者は山路兼三郎とあった。

 カバーの裏に写真があった。顎鬚を生やした男だ。長い間、僕は本を手に動かけなかった。店のアルバイトの子が、声をかけた。「確か、日曜日に、4丁目の書店でサイン会があるはずですよ」

 購入したばかりの「アンディ183号」を近くのカフェで読んだ。内容は心理描写が細かいSFものとでも言おうか、一体のアンドロイドの冒険談だ。風変わりだが、さほど目新しくはない。本の帯以上に清美と作品のつながり、僕と作品のつながりは感じられなかった。

 その夜、帯に書いてあった文章がどうにも頭を離れなかった。

 日曜日、僕はサイン会場へ向かった。実物の山路兼三郎はやはり清美とは似ても似つかない男だった。髭を生していて、男としては美形の部類だった。

 僕の番が来た時、男は営業用の微笑みを浮かべ、名前は?と言ったので、清美に、と僕は答えた。どんな字ですか?と男は聞いた。

 僕は、山路さんは清美という女性を知ってますか? 山路さんの本が清美という女性を思い出させたので、と言うと、名字は?と聞く。僕は清美の名字を告げた。山路は首を傾げたが、僕をしばらく見つめ、ははん、というようにうなづいた。

「あなたで28人目ですよ」

「えっ?」

「自分がモデルじゃないかって思った人が」

「はあ」

「多分、その清美さん、とかがあなたの秘密を知っているのですね」

「秘密ですか?」

「この本の主人公とあなたの共通点をですよ」

「実を言うと…中身より、特にこの帯の文章が気になりました」

 山路は、口を少し歪めて微笑み、サインした本を僕に渡して言った。「あなただけじゃないですよ」

「お次の方どうぞ」 横に立っているアシスタントの女性が甲高い声を出した。

 28人目か…。

 僕のような男は結構多いのだ。彼らはこの帯を読んで、自分がモデルなのではと思い、内心、驚きと興奮を感じるのだろう。



 そしてまた時は過ぎていった。

 僕は悟った。清美は本当に消えたのだ。その頃になると、なぜか奇妙な安らぎすら感じるようになっていた。決して戻らない日々のことを写真を見ながら思い返す、そんな気分になれた。

 雨の中で誘導棒を振っていた清美。僕と真逆の存在だった清美。短い間にしても、僕はその存在を間近で見て、触れることができた。そのことに感謝しよう。そうだ、そのことに感謝しよう。愚かで哀しい人間に、愚かで哀しい人間だと気づかせてくれた、そのことを感謝しよう。

 あれ以来、輪は時々見えるような気もしたが、心の揺れに目を閉じると見えなくなった。

 大丈夫か…。僕は思った。心の迷いが輪となって具現化して見えるのか。自分は病んでいるのだろうか。



 ある日、混みあったカフェに入った。空いているテーブルは見当たらなかった。

「ここ、空いてますよ」声がした。

 それは隅のテーブルで、スカーフを髪に巻いた人物が手で自分の前の席を指していた。普段は相席は好まないが、その日はひどく疲れていたし、一時も早くコーヒーをすすりたかった。

「あ、すみません。ありがとうございます」 僕はひどく丁寧に言い、背中をかがめるようにして小さな椅子に座った。

 スカーフの人物は軽い微笑みを浮かべてすわっていた。スカーフは小さな動物の柄が規則性なくプリントされていた。熊か、ウォンバットか…。

「ここはね、オージーサンドがおいしいんですよ」

 メニューを差し出す仕草が限りなく静かで優しかった。

 そのあとはどちらも話さなかった。僕は少し口を開けて焦点のずれた目をしてぼんやりすわっていたと思う。コーヒーを2杯をかなりのスピードで飲み干し、それについてきた小さなスコーンらしきものを一口で飲み込んだ。

 深くため息をつき、目をつぶっていると、スカーフの人物が言った。

「あなたね、気が向いたら、このお店に行ってみるといいわ。おいしいコーヒーが飲めるわ。それとひょっとしたら、あなたが求めてるものが見つけられるかも」

 その声は深いテナーだった。

「僕はずっとある人を探しているんです」

「そうね。きっとそうでしょう」

 僕は男性に見えるが優し気で女の服をまとったその人物を見つめた。顔立ちは全く違うが清美と重なって見えた。彼女は僕の心が読める、そう感じた。

「相席ありがとうございました」お礼をいい外へ出た僕はカードを見た。

 カフェ ハーヴィ

 オフホワイトの紙に珈琲色の文字で印刷されていた。

 場所は僕が降りたことのない、確か各停しか止まらぬ駅のそばだった。

スィートテンダネス:スカーフの人

   
ここが空いてるわよ、いらっしゃいよ。

 彼女の声は低かったが、その声にはスィートテンダネスがあった。心地よい優しさ。

 彼女の声にバレンタインデー後まで売れ残っていた花束についていたカードを思い出した。スィートテンダネスをあなたに。

 sweet tendernessをあなたに。

 今年も終わりに近づいている。再びバレンタインの日がやってくる。

 いらっしゃいよ。

 彼女はしっかり私を見ているように見えたけれど、はっきりしなくて、えっ? あたし? と後ろを見た。

 そう、あなたよ。空いてるわよ、いらっしゃいよ、ここに。彼女は手招きした。

 混んだカフェだった。テーブルとテーブルの距離も近かった。

 彼女が空いているわよ、と言ってくれた席は、要するに彼女と相席だった。

 彼女が指差しているのは彼女と向かい合う席であり、テーブル自体がとても小さかったので、かなり顔を近づけてすわることになりそうだった。

 さあ、どうぞ。

 彼女の声には優しさがあふれていたので私は座った。甘さではなく優しさだった。

 スゥィートテンダネス…sweet tenderness と名づけられたブーケは、華やかさがないわけではないが何より穏やかで優しくて柔らかくて心地よい、そんな小ぶりのブーケだった。

 彼女は薄茶色の髪にスカーフをヘアバンドのようにして耳の横でリボンにして結んでいた。

 あ、ありがとうございます。すみません、相席で。

 構わないわよ。彼女は微笑むと広げていた大きめのファッション雑誌を見始めた。

 助かった。別に話し相手がほしくて手招きしたわけじゃないんだ。疲れて茫然としている私に声をかけてくれただけなんだ。

 メニューを広げてみた。テーブルの隅にあった小さいメニュー。

 それはカクテルメニューだった。

 あ、ここって普通のカフェじゃなくてアルコール専門? それにしては店内は明るい。

 何か食べるものがほしいのね。

 彼女が言った。その声にはやはりスィートテンダネスがあふれていて私はほっとした。本当に月並みな表現だけれど、砂漠で小さな水溜りを見つけた感じで、この騒がしさや、さきほどまで味わっていた負け犬感や喪失感が少し和らぐようなスゥィートテンダネスだった。

 彼女のスカーフの模様は小さな動物だった。耳が短いからうさぎではない。クマか、ハムスターか…。カピパラ? 

 ここって食べるものもあるんでしょうか?

 あるわよ。

 彼女はそう言って、読んでいた雑誌の下に隠れていたメニューを差し出した。

 えっ…。そこにあったんだ…。

 ありがとう、私は少し微笑んだ。

 それなんか悪くないわね、彼女は上から三番目を指した。

 オージー牛のメキシカンサンド。

 オージーであってメキシコ風か。

 胃は受け付けそうになかった。でもおなかは空いていた。

 結局タコスを頼んだ。メキシカンというところだけが同じだ。入っているひき肉はオージービーフなのかもしれない。ソフトタコスではなくパリパリのやつだ。タコスを齧りながら、私はしばし自分の世界に入りこんだ。パリパリという音がさきほどまでの喪失感を少し砕いてくれるような気がした。レタスが手の甲に落ちた。

 前にいる彼女の存在やスカーフの小さな動物柄も忘れて食べた。食べ終わるころには喧騒の中に一人っきりだと感じていた。

 自分の世界から引き戻されたのは、二杯目のコーヒーを半分飲んだころだった。

 きっもちわれぇな、あいつ。ちっ、どうにかなんないのかよ。

 嫌悪感でかさかさする言葉が横から聞こえた。

 またか…と思った。私は、時々、いや小さい頃はしょっちゅう気持ち悪いと言われてきた。

 顔が気持ちわるいのだそうだ。自分では毎日見ている顔なので特に気持ち悪いとは思わない。自分の顔だ。ただ、美のラインの滑り台があるとしたら、見事に下まで滑り切った顔をしているらしい。平べったさや、顔の大きさや、パーツのバランスや、いろいろの要因でだ。ただ、思春期を過ぎるころから、少しずつにしても滑り台を僅かによじ上った。背が伸び、首ができてきて少しましになった。周りにいるのも残酷なほど正直な子供たちから、高校生、大学生、社会人、と成長につれて変わっていった。

 だから、きっもちわれぇな、と声を聞いたときは久しぶりだ、と思った。

 そして、それが自分のことでないと気がつき、少し驚いた。

 彼らが言っているのは、私の前にすわる動物柄のスカーフの彼女のことだった。

 彼女は静かな視線で彼らを見ていた。その視線はやはり スゥィートテンダネスの名にふさわしいものだった。静かで優しくて穏やかだった。怒っているふうもなかった。

 私はちょっと困ったように微笑んだ。

 彼女も私にちょっと微笑んだ。

 やっぱりオージー牛のメキシカンサンドにしておけばよかったです。パリパリタコス食べにくいし…。

 でしょ。ここのメキシカンサンドはおいしいのよ。

 そう言って親指でグーの形をした。

 大きな親指だった。手全体も大きかった。肩幅もあり、胸幅もあった。もっともそれは平均的女性と比べたらで、男にしては普通のほうだろう。

 彼女は生まれつきの性は男だったにしても、スゥィートテンダネスを纏っていた。それはとてもシンプルな事実だった。この込み合った店で相席するなら、彼女のsweet tenderness は貴重だった。

 隣の声の主…声からは高校生か大学生くらいかと思ったら、一人は中年で、一人は年齢不詳だった。二人とも顔立ちは悪くないのだろうが、どこかくずれた感じがした。存在そのものがかもしれない。

 もう二人とも何も言わないでくれ、と祈った。

 幸いなことに二人は出て行き、すぐに買い物袋を三つずつ下げたご婦人二人が、よっこらしょという感じで、体をよじるように椅子の間に押し込んできた。

 二杯目のコーヒーが空になったので、コーヒーのお代りお願いします、と近くのウエイターに言った。

 ウエイターは私のカップに入れ、彼女にも聞いた。

 おつぎしますか?

 お願いね。

 彼女はハスキーで低く、それでいてやはりスィートテンダネスにあふれた声で言い、私を見つめたが、少しだけ悲しそうだった。

 そのスカーフってクマですか?

 ムーミンよ。

 ムーミン…だったんですね。輪郭だけだからわからなかったけれど、そういえばそうも見えますね。

 少なくとも私はムーミンだと思ってるの。

 しっぽがないしカピバラに似ている、とは言えなかった。

 そのあと静かに彼女は二杯目のコーヒー、私は三杯目のコーヒーを飲んだ。

 お先に失礼するわね。彼女が立ち上がったときあまりに長身なのに驚いた。180センチ以上優にある。でもそこまで不思議じゃないか。生来の性は男なのだから。足が長いのだろう。グリーンのワンピースのフレアが美しい。彼女は優雅にレジに向かった。相席嫌いで人見知りの私がすでに彼女を懐かしがっている。珍しいことだった。

 あ、これ、と言い、彼女はカードを一枚渡した。時間があったら来てくれたら嬉しいわ。自分のために来てね。誰のためでもなく。金曜日は必ずいるわ。

 ネイル May

 ネールサロンのカードだった。

 行きます。私はすぐに答えた。ネイルなど全く興味がなかったのにだ。

 スィートテンダネスで接してくれた彼女の店に行き、彼女にネイルをしてもらいたい、心からそう思った。

 何事にしてもこんなふうにはっきり思ったのは久しぶりだった。

 こんなシュアなことはない。私は胸をはった。

 








 

分析屋:メイ

 父はプロファイラーだった。

 今のようにテレビや小説でもてはやされる前からプロファイラーだった。

 プロファイラー、ではなく分析屋、と自分のことを呼んでいた。



 分析屋ってのは曖昧な名前だ。分析って言葉には宇宙ほどの広がりがある。物がある限り、人がある限り分析は存在する。何を分析するかが問題だ。

 父は知る人ぞ知る有名な分析屋だった。一時期犯人像の分析屋といえば父のことだった。




 犯罪者かそうでないかは紙一重だ、が父の言葉だ。

 紙一重…分析屋としては詩的な表現だ。一重というところが詩的だ。

「紙」からの連想なのか「それってリトマス紙で判別できる?」私は聞いた。

 すると 父にしては珍しく、興味深く私を見た。面白そうでもあった。父は、私が、というより、子供、が苦手だったので、私を珍しそうに見ることはあっても、面白そうに見ることはなかった。

「リトマス紙では判別できないな。けど、そんなのでわかったら面白いだろうな」

 父はくっくっと笑った。父にしては高めの声で笑った。低い声で笑う父は笑っていても暗かったので、高めの声で父が笑ったことが嬉しかった。笑わせた自分が少しだけ誇らしかった。けれど高めの声で笑う父はいつもほど暗くはないにしても、陽気、というのにはほど遠かった。

「ここからが犯罪でここからが犯罪じゃないって区切りがあるわけじゃないんだ」

「でもどこかに境があるわけでしょ」

「それは見る側との相互作用なんだ」

「相互作用?」

「相互作用っていうより、実際にはもっといくつもの数え切れない要因がある」

「…うん…」

「難しいか…。じゃ、こういうことならわかるかな。太陽の色は国によっては黄色だったり、橙色だったり、赤だったりする。とらえ方の違いなんだ。同じ太陽という存在なのに、ある時は暖かくてありがたがられ、ある時は迷惑がられたりする。あとは時間との関わりも大きい」

「うん…」

「やっぱり難しいか…。じゃ、砂浜に真っ直ぐに線を引くことを考えてごらん。どんなに真っ直ぐに引いたつもりでも、砂粒がわずかに動いたり、風が吹いたりすればすぐ崩れる。絶対に永遠の真っ直ぐなんてない。だから、場合によっては昨日は真っ直ぐに見えたものが今日はちっとも真っ直ぐじゃないってことなんてしょっちゅうだ」

 わかりそうな気もしたけれど、すっかり理解するには自分は経験も頭も足りないんだろうな、って思った。知りたくもないのかもしれない、とも思った。

「犯罪は刻々と変化するってことなの?」

 父はうなづきながらも、もう私のことなど視界に入っていなかった。

 父の思考はよくとんだ。実際は私にはそう思えただけで、父なりの規則性で動いていたのだろうが、私にはとても唐突に思えた。



 母は父に一目惚れした。父は若い頃から、髪を切るのを面倒がるほど見なりに構わない人だった。切らなければ髪は伸びるわけだから、朝起きると目の荒い櫛で梳かし、きっちり結んでいたという。いつも何かに悩んでいるように憂いがあり…少なくとも母にはそう見えた。そして物事の光を浴びた部分だけを見る、という特性の母は、父の歩く姿もルックスもいいのに身なりにかまわないところが潔い、と感じた。

 母は自分が美しくないと思っていた。けれど私はずっと母は 心をうつ美しさだと思っていた。12の時に亡くなった母。優しかった母。その存在が美しかった。

 母は幸せではなかったと思う。父は利己的とか自己中心という言葉が本質を表している、というタイプの人間ではなかったとしても、結果としてその言葉がまとわりつく人だった。

 器用な人ではなかっただけなのかもしれない。実際、家庭を持つべきではないほど不器用な人だった。分析屋としては一流だったにしても、仕事に関する以外のことにはほとんど興味を持たなかった。父の興味は全て仕事の周りを衛星のように回っていた。

 母が亡くなったあと、父の親としての適性が問題になった。父方にも母方にも私を引き取ってくれそうな人はいなかったので、父に適性がないと判断されれば、残る選択は里親に引き取られるか施設に行くかだった。

 それほど父といたかったわけではなかった。けれど、父に責任を感じた。父のことを見てあげなければと思った。母がそうしてきたように。さほど父に愛着を持っていたわけでもない。自分に興味を示さない人には愛着は持ちにくい。

 考えてみれば、そのときの私には優しい共感型の母の素朴な愛情深さと父の分析屋としての頭脳の芽、両方が育ち始めていたのかもしれない。若葉に急速に光と養分を与えるがごとく、私は自分の心と頭を急速回転させ成長しようと必死だった。

 私の家庭環境に懸念があるとの連絡を受けて調査に来た女性を前に、いかに父が口べたにしても愛情深く私のことを思ってくれているかを力の限り語った。そして、いかに歳の割りに常識と知能を持ち合わせていて、大人顔負けの分別と家事能力があるかを示そうとした。

 調査員は迷っていた。私をこのまま実の父親のところに残して置くかどうか。

 私は父の愛情溢れる行動を話す度、彼女の目が揺れるのを感じた。私は嘘がばれない範囲で作り話を続けた。感情にうったえたほうがいい、と感じた。取り乱すのではなく、適度に子供らしさを残しながらも知的にいかに父親と一緒にいたいか、引き離されたら自分の存在そのものが危うくなり、精神的につらくなるかを語った。

 その結果、私は父と二人きりで暮らすことになった。

何年もの間。




 父と二人で暮らすこと。結果から見ると決してよかったとはいえない。けれど、暮らさなかったら、それ以上の良い人生が待っていたかもわからない。

 父と暮らして父をより理解したが、愛情は12歳の時より深くなったのか…。

 父は愛情の吸収下手だった。そして与えることも下手だった。私に親としての責任以上の気持ちを持ったことがあるのかもわからない。

 父は私に無関心だった。無関心、は言い過ぎか。ある程度の関心、というか存在に対する認識はあったと思う。コーヒーメーカーやトースターのように。そして生身であるから、パソコンのように思い通りの結果を出したり計算ができるわけでもなかっただろうが、それにたいする忍耐力もあった。だから、怒鳴られたり、怒りをぶつられたこともない。苛々を肩のあたりに漂わせることはあったにしても…。

 父は分析屋としての仕事に夢中になると私のことを忘れた。もちろん、私のことだけでなく全てのことを忘れた。そういう意味では平等だった。けれど、友達が溢れんばかりの愛情や愛情表現を受けているのを見て、ひどく不公平だと思った。ちっとも平等じゃないじゃん。父なら言ったかもしれない。それも見方によって見解は異なるだろう、砂に描いた直線のごとく、と。

 母はよく言った。自分がいなくなったら、あなたは孤児になってしまう、と。優しい母がいなくなったら自分は孤児になってしまう、そのとおりだった。父がいるじゃない、もう一人親が、とは思わなかった。母はいつも私に言った。あなたは、あなたらしくていいのよ。あなたらしさを見つけなさいね。否定してはだめよ。

 12歳にして父と残されたとき、父に面倒みてもらおうとは思わなかった。ただただ母の代わりに父のことをみてあげなければ、と思った。


「あなたのパパには一目惚れだったわ。今から思うと何がそんなによかったのかしらね。その頃のパパは今のように骸骨のようでもなく、髪もふさふさしていて、変人ぶりも今ほどじゃなかったわね」

 母は遠くを見る目で言った。父は数年にして青年から老年に入ったように容姿が変わった。

「どこかが悪いんじゃないかって思ったわ。検査もさせたけど、健康状態は悪くなかったのよ。分析しすぎる人は脳の皺も深いっていうけど外見もそうなるのかしらね」

 母は絶望的にではなく、微笑みながら言った。母は楽天的で一度決めたものの面倒は見るタイプだった。母の心の中にはどんな小さなものでも一旦愛着を持ったものには居場所があった。飼っていたペットにはそれなりの思い出の場所があり、ことあるたびに思い出して話をしてくれた。ペキペキという名のコオロギのヒゲの様子も私が絵に描けるくらい、母は生き生きと語った。母は弱いもの、劣っているもの、保護が必要なものに対して手を差し伸べる情の深さがあった。優越感からではなく、憐れみからでもなく、ほんとうに自分ができることで相手の役に立つなら、という気持ちからだった。

 父のルックスがの良さに惹かれたのよ、っとおどけたように母は言ったけれど、父の人間として欠けているところをなんとか満たしてあげたかったのかもしれない。無意識のうちに。

私と父との食事の会話はもっぱら分析屋の仕事に関してだった。私の口の固さを父は信頼していたからか、固有名詞は避けたにしても、自分が扱っている事件、犯人像を話してくれた。

 強盗、殺人、詐欺、ありとあらゆる事件があった。私は残酷な写真、傷や血が写っているものや、刃物の写真は苦手だったので、それは見せないで、とお願いした。そうでもなかったら、食事のテーブルの上一面事件の写真で埋め尽くされていたに違いない。

 私は父の話に沿って頭の中でヴィジュアルに事件を組み立てた。言葉で聞く限り、それほどの衝撃はなかった。苦手な血は青や虹色に。刃物は鉛筆に置き換えて頭の中で想像した。少しぼやかしたり、影絵を見るように想像したこともある。

 父は事件や犯罪に関しては雄弁だった。私でなく「そう、そうなの」と繰り返すオウムがいたとしても、話し続けたのかもしれない。

 15歳になる頃には、時折父の気づいていない疑問点を投げかけたりして、父を驚かせた。父の驚く顔を見て私も驚いた。父はそんな顔を私に見せたことはなかったし、そんな顔をさせたのが自分自身であるというのも驚きだった。

 天才か、透視者かメンタリストかもしれないな。父は言った。

 自分ではちっともそんなことは思わなかった。学校ではどの科目にしても特に優れていたものはなかった。けれど授業中ほとんどデイドリームしていた割にそこそこ点が取れていたので、頭は悪い方ではなかったかもしれない。が、天才とはほど遠いと自分で思っていた。

 メンタリスト、を調べてみたがどうも自分とは違ってみえた。人が何を考えているかを推測するのに優れているとは思わなかった。人の心を操る能力なんてのもあるわけない。

 けれど、一つだけひょっとして、と思うことがあった。非常に困った局面にぶちあたったときや、必死で物事を解決しなければ、と思って頭と心を集中させたとき、自分でもそれまでその存在に気づかなかったエンジンが回り出すのを感じた。自分の未知の力が出番を待っている、そんな予感がした。

父と一緒に住めるかがかかっている調査員との面接もそうだった。私はまるで母が乗り移ったかのように、落ち着いて優しく、感情豊かな、それでいて12歳のくせに気持ち悪いと思われないように振る舞うことに集中し、成功した。自分でない偉大な役者になって役を演じ切った達成感があった。

 父が放火事件を扱っていたとき、父の与えた情報から一つの情景が浮かんできた。仮説をたて、父に話した。その数日後、真犯人が逮捕された。

 私が真の力を出すためには、心を追い立てる何か切迫つまったものが必要だった。動機が必要だった。数学の問題を解くのに喜びを見出す天才少年のような常習性は私には皆無だった。いつもはスイッチオフ。それが普通の状態だった。切羽詰まった状況でスイッチオンされると、何かが頭で心で起こり始めた。

 ただ、それによって問題が解決されたとしても、ひどくひどく疲れた。全身全霊をつかって寿命を削っている、磨耗される、体も、心も、頭も。

 だから、父が相談相手として事件を真剣に話すようになっても、私はスイッチオンにはならなかった。ハーフスイッチにもならなかった。スイッチオフの状態でもときどき閃いた。それを父に言うと父は驚いた。父に認められて嬉しいのかは、自分でもわからなかった。

 父と暮らしながら、違った暮らしをディドリーミングした。

 光に満ち、木洩れ陽のように輝いていて、自分で作らなくてもキッチンは作りかけのクッキーやシチューの匂いで満ちていて、思いっきり子供らしく遊んでくたくたになって帰っても、優しい笑顔と洗濯されたシーツのベッドが待っている…。

 家庭…。家族…。

 犯罪現場の話も写真もなく、犯罪にとりつかれた父とテーブルで向かい合うこともなく…。

 じゃあ、あの調査員に真実を言えばよかったじゃない、父は親として何もできない、と。それどころか、自分が面倒を見てあげなければならないと。

 やはりそれはできなかった…。父は自分の血であり、歴史。私にはペキペキでさえ可愛がった母の血も流れている。父を突き放すことはできなかった。母の後を継いで分析屋の父の面倒を見る、それが 自分の宿命だと思った。

恋もした。好きになる相手は決まったように皆、陰のない笑顔と笑い声に満ちていた。彼らといると自分も 陰でなく、陽になれる気がした。もちろん、私は自分の気持ちを隠し、単なる友達として接した。

 私はそれふうなことがしたかった。映画館でポップコーンを食べながら手を握ったり、野草の花が揺れる草原で追いかけっこをしたり…。たわいない恋がしたかった。

 けれどそんなのは夢物語だった。

 友達は家には連れてこないようにした。家にはなにかしら不気味なものがあり…写真にしても普通の人が見たらひくだろうものがそこらじゅうにあった。

 そして家は暗かった。できるだけ、明るい色彩で明るい雰囲気のものを置こうとしたが、住人の思考からでる得体の知れないもの…が冷気のように家を浸していた。

 その得体の知れないものは私にも影響を与えていた。 少しでも親しくなった者たちは、私に何か普通じゃない雰囲気を感じたのか、はっきりした理由も告げず去っていった。

 彼らを責めれなかった。確かに私の育ちは普通じゃない。そして私自身が普通じゃない。気づかぬうちに私は不穏な空気を纏っている…。

 私が恋愛感情を抱いた男たちは決まったように、私がカルト宗教の信者でもあるかのように敬遠しはじめた。

 私は寂しかった。死にたいほど寂しかった。なのに涙は出ない。父は私のそんな感情の起伏など全く気づかず、来る日も来る日もプロファイリングをし続けた。いい歳をして就職もしない私を人はどう見ていただろう。私はその頃、頑健で無表情だったと思う。

 長いようで短い、短いようで長い20代が過ぎていく。私は人生を諦めかけた。父の世話と仕事の手助けのみをしてこれからも暮らすのだろうか。

 父に恨みをもつわけではなかった。特に愛してもいなかったと思うが、憎んでもいなかった。自分がした決断なのだ。12歳のときの決断。

 今12歳に戻れたら、どうしただろう、時々思った。犯罪とはまったく関係のない明るい笑い声に満ちた家庭の養子になっていたら。そうしたら、父はどうなったのだろう。一人でも暮らしていけただろう。ただ食べるものにも無頓着だし、長く健康でいられる可能性は低い。父は多くの点であまりに偏りすぎていた。

 どうして父がこれほど犯罪に没頭するのかわからなかった。正義感からか、と思ったがそうではなかったと思う。つまり…父は犯罪が好きだったのだ。数学を解くのが大好きな少年が問題が難しければ難しいほどやりがいを感じるように、父は犯罪者をプロファイルするのが大好きだったのだ。

 しかしそれも私が二十歳を過ぎる頃までだった。父の脳はとみにバランスを欠き始め…医者にも行ったしMRIも撮ったが、原因はわからないまま、行動に異常も出始めた。意味のないことをつぶやくようにもなった。転びやすくもなった。

 それまでも聞き役として、否応無しに父のプロファイルの仕事に関わってきていたが、その頃になると、 父はほとんど機能しなくなっていた。プロファイラーとしては。

  父は身を削って、自分の生きる時間と引き換えにプロファイルをしてきた。父は50代にして80代の外見になっていた。

 そして老衰に似た症状で56の時、亡くなった。

 父の亡骸を見ながら、心で問った。

 どうしてそんなに犯罪に魅了されたの? 自分が極端な人格なのに、周りの人の心も読めなかったのに、どうして犯罪者のプロファイリングをしようと思ったの。お父さんって誰だったの。どんな人だったの。親子なのに犯罪の話しかしたことないよね。

 けれどふと思った。案外…案外…父は人の心も十分に読んでいたのかもしれないと。人の心が読めないものにプロファイリングはできない。父は読めても、自分の表情、行動が変えられなかっただけなのかもしれない。心の動きと脳の活動、それに対応して行動に表せるか、それはまた別ものなのだ。

 父に鍛えられたからだろうか、私は父の亡骸を見ながら、父のプロファイリングをしていた。



 ジョウくんと会ったのは父の葬式だった。

「お悔やみを申し上げます。お父様には随分お世話になりました。お父様のお陰で、この世は確実により平和になっています」

 ジョウくんは誠実な目をしていた。

 その目を見ていると泣きそうになり、私は下を向いた。

 父が亡くなったということでは泣けなかったが、ジョウくんの目を見て泣きそうになった。

 思えばいつから私は泣いたことがなかったんだろう。
 
「今は何をしていらっしゃるんですか?」

 ジョウくんは聞いた。

「特に何も…。これまでは父の身の回りの世話をしたり、家で翻訳の仕事をしたりしていました」

 父の代わりにプロファイルしていました、が正しいところだが、そう言うわけにもいかなかった。

 ジョウくんは優しかった。そして何より明るかった。ジョウくんの世界は混みいってない、陽だまりのように温かい。ジョウくんを見ると純粋に嬉しかった。

 けれど思った。これまでの人たちがそうであったように、ジョウくんもいずれ私の異様さに気づき去って行くだろうだろうと。私がまとっているどこか暗い影に気づいて。

 先のことは考えず別れの日までは楽しんだらいいじゃない。親しい友人になれたらそれだけで嬉しいじゃないの。ともすれば悲観的になる自分に言い聞かせた。

 不思議なことに6ヶ月経ってもジョウくんは去っていかなかった。それどころか、私と一緒に住みたいと言い出した。

「何を言うの?」私は不思議な目をしていたと思う。

「そんなに不思議なこと?」 ジョウくんはふざけたように私の頬をつまんだ。

「私…と一緒にいたい人がいるの?」

「いるよ。ここに」

 ジョウくんは微笑んだ。僕はね、ノンバイナリーなんだ。自分のことを男でも女でもないと思ってる。好きになるのも男性のこともあれば、女性のこともある。

 そうなんだ…。

 私は身長182センチ。体重74キロ。明…アキラという名前だ。けれど、自分では心の中で、メイと呼んていた。生まれたのか五月だったので、メイだ。明もメイと読める。私の心は女性だった。

 私は小さな声でアキラではなく、メイと呼んでほしいと言った。

「レジェンドさん、あ…メイさんのお父さん、伝説の人だから、レジェンドさんって呼ばれてたんだけど、しょっちゅうメイさんの自慢をしていたよ」

「 私の自慢を?」

 わけがわからなかった。父が私のことを人に話す? 父が私にそんなに関心を持っていたはずはない。

「あの子には自分のせいで辛い思いをさせてる、って。あの子から子供時代を奪ってしまったって」

 えっ…

 めまいがした。父がそんなことを言うはずはない。そんなはずは…。

 ジョウくんの愛嬌のある丸い目が優しく揺れていた。

 その目に私は父のことは全て忘れて幸せになりたかった。心から、影のない女になりたかった。




 ジョウくんは離れていかなかった。私は幸せだった。幸せになれるかも、初めてそんな予感がした。陰のないジョウくんと幸せになって、まとわりつく陰を薄くする…。そんなことさえできる気さえした。

 私たちは南に面したベージュの壁の小さな家を借りた。ソファ、テーブル、カップボード、ドレッサー、ベッド…買い揃えていくのが楽しかった。小さな庭には野草が咲いていた。黄色とオレンジとピンクと紫。小さいけれど、勢いのある素直な花々。

 私は人生のシンプルさを欲していた。シンプリシティはそれだけで美しい。

 小さな幸せ。小さくて大きな幸せ。自分には起こりうるはずがないと思っていた幸せ。窓から入り込む陽射しを感じ、今までで天国に一番近い場所だと思った。海辺のリゾートでなくても湖に面したログハウスでなくても私にとって天国に一番近い場所。

 ジョウくんは優しくて、存在が柔らかかった。

 そしてジョウくんのママ。笑い声が大きく冗談好きで、寛大だった。初対面のときほとんどピリピリ震えている私を両手を広げて抱きしめてくれた。あなたはジョウが今まで付き合った人の中で一番素敵よ。あの子が一緒に住みたいって言ったのはあなたが最初なの。

 ジョウくんのパパは郵便局に勤めていた。寡黙だがその目には茶目っ気があり、時々肩をすくめて私に微笑んでくれた。

 たわいない小さな置物がいっぱいのジョウくんの実家。ジョウくんのママと肩を並べて作る夕食。味見をしにくるジョウくんのパパ。

 犯罪現場や被害者の写真に溢れたテーブルでプロファイリングに取り憑かれた父と食べる夕食。私が作る誰もおいしいと言ってくれない食事。その日々の方が現実で、今が夢。過去は後退しそうになかったが、少しずつ自分自身が過去に向き合いながら後退していけたらと思った。そうすれば夢が現実になっていく。

 ジョウくんといて、一緒に笑い、雄弁にすらなれた。気分が高揚することすらあった。

 思えば今まで高揚したことなどなかった。プロファイリングで犯人がわかった時も父のように高揚できなかった。犯人が見つかる…それ自体はよかったと思った。けれど、高揚はしなかった。安堵もしなかった。論理的には犯人逮捕に貢献できるのだから、とてもよいことに違いなかった。けれど、闇に接すると自分も闇に包まれる…。笑顔が遠のいていく…。

 そんな私にこんな幸せが訪れるなんて。私の心は心は落ち着い た。

 けれどどことなく実体のない幸せだと感じることもあった。映画の中の自分を見ているような。ただ少しずつ現実味を帯びてきたのは、日常のルーティンをこなしているときだった。朝ごはんのあと、コーヒーカップを洗う。洗濯物を干す。それらが着実な幸せを与えた。ジョウくんと一緒の生活に笑顔も多くなり、自分でも動作が弾むように楽しげになってきた。

 これは演技なのだろうか。

 家の中に父の写真は飾らなかった。思い出さないようにした。父の話もしなかった。ジョウくんは時々父の名を出したが、私は最小限の言葉でしか父を語らなかった。ジョウくんはそんな私を怪訝そうに見ることもなく、それ以上聞いてこなかった。聞かないことがジョウくんの優しさだと思った。

 ジョウくんは特に社交好きでもなかったので、楽だった。パーティや付き合いは正直苦手だ。もっとも得意だったら、父と二人の生活のときにも逃げ場があっただろう。

 時々ジョウくんの子供時代からの親友だというケイくんが立ち寄った。ケイくんはジョウくんよりもシャイで、視線にどこか陰があった。ケイくんが口ごもると私は構えた。そんなとき、もう戻りたくはない細い道や見たくもない壁を背景にケイくんが立っている、そんな気がした。

 苦手だな、ケイくんは…。私は思った。けれどジョウくんはケイくんに絶対的な信頼を置いていた。とにかく凄くいいやつなんだ、ジョウくんは何度も言った。幼いころから腕白でいたずら好きだったジョウくんは何度もケイくんに助けられたと言う。ケイがいたから先生に見つからずに済んだことも多いとジョウくんはウインクした。

 幼なじみのただの友達なんだから大丈夫。二人は恋人同士ではない、それだけは確信できた。感覚的に。

 望まずしてケイくんと二人でコーヒーを飲むことがあった。ジョウくんが約束の時間より遅れて帰ったときなど。ケイくんといるときもジョウくんのときと同じように陽気に振舞おうとしたがどうしてもできなかった。古いダメな暗い自分が顔を出す。恐かった。いつもはたやすくかぶれるようになっていた擬似陽気ベールがケイくんとのときはかぶれなかった。

 ケイくんには本当の自分を身抜かされている…そんな気がした。ケイくんには何をやっても真の自分…それがなんなのかはわからないまま…を見透かされる気がした。

 けれど、ケイくんが私を嫌っているようには見えなかった。どちらかというと悪い意味ではなく興味をもたれているのではないか、と感じた。

 小説の話などで気の合うところもあった。私がカーバーのカテドラルを好きだと言うと、ケイくんも好きだと言った。二人の男が一緒にカテドラル の絵を描いているところがどうしてかわからないけれどひどく感動した、とケイくんは言った。

 私はケイくんを見た。初めて興味を持って見た。何かわからないけれど、心が揺れた。シンプリシティしか受け付けないと決めた私のラインを越えて、ケイくんは私の心を揺らした。ケイくんが好きなのはどんな人なのだろう。

 恋心などではない。どこかに忘れてきた忘れ物。いつ、どこに、何なのかもわからない忘れ物の影がチラッと頭をよぎったような…そんな気がした。

 その時を境にケイくんに対する恐れは減った。口数が少なく、表情が少なめだからといって性格が悪いわけじゃない、陰があるわけじゃない、そんなシンプルなことに気づいてなかった自分がおかしいと思った。とんだプロファイラーだわね、自分を笑った。かつてスイッチオンできた自分は遠くになっていた。スイッチオフになって長い。もうしばらくすればスイッチオンにはしたくてもできなくなるだろう。そのときが待ち遠しかった。

 ある時、ジョウくんが帰ってくるのを待ちながらコーヒーを飲んでいると、ケイくんが言った。

「メイさんは随分辛い思いをしてきたんだね」

 心の陰に直球を投げ込むような言葉に私は動揺した。動揺はしたが不思議と嫌な気はしなかった。

「よくわからないし、認めたくない自分がいるけど、きっと、きっと…ひどく寂しい思いをしてきたんだと思う」

 ケイくんは私の指先に触れた。指先が私の心を覆っている繊細な糸で織られた布でもあるかのように。

 目をつぶった。

 まぶた、肩、首筋、そして心が震えた。

 ケイくんは私の影を写しとった、そう思った。

 ケイくんが感じたこと、確信してること、ジョウくんには言わないでほしい、と願った。ケイくんが感じ取った私の本質…ジョウくんに悟られたら愛される資格がなくなる…そんな気がして怖かった。

 ジョウくんには、私が父との暮らしでねじれていることを言わないで欲しい、ともごもごと言った。

「メイさんはねじれてなんかいないと思う。ただ、苦労しただけだよ。苦労だけで人はねじれない」

「父のことをよく知ってるの?」

 すると、ケイくんは驚くことを言った。ケイくんの知り合いが殺されたとき、プロファイルをして犯人を捕まえたのが父だと。それから父にもプロファイリングにも興味を持っていた、と。

 近すぎる。私は思った。何かがひどく近すぎる。近くにあって欲しくないものが近すぎる。小さいころ父に連れられていった親戚の庭の井戸、覗き込むと奥深く知らない淀んだ世界があった。声をかけると響いてくる。夜寝るときに思った。なければいいのにあの井戸。あの井戸にどんどん生き物がのみこまれるところを想像した。最初は蟻だった。それはカナブンになり、ネズミになり、子犬になり、影のみ見える人になった。

 なければいいのに。

 そのとき井戸に対して感じたものをケイくんといて感じていた。

 私はケイくんを見つめた。

 すると…

 目に涙が浮かんできた。目尻を伝って流れた。

 自分の中にある暗い井戸のような存在に目をつぶって否定してもそれはなくならないのだ。それを悟ったとき、悲しいとか絶望感とかより、安堵した。見たくないのに見てしまい、無視したいのに存在を無視できないものから逃れるのでなく対面したときに感じるだろう安堵感なのかもしれない。

 ケイくんが井戸のわけではない。けれど井戸の存在を無視しても無駄なんだ。それに気づいたとき張り詰めていたものがとけ、涙が出てきた。

 私は涙を拭こうとはしなかった。ケイくんは指先で流れる涙に触れた。


 それ以来、私たちはできるだけ二人にならないようにした。ケイくんはジョウくんがいるときにしか家に寄らなくなった。秘密を分け合った子供達のように、二人きりになるのを避けた。

 私は近くのカフェを手伝ったり、近所の犬の散歩がかりになったり、ジョウくんの姪や甥の勉強をみてやったり…ゆったりと暮らした。

 ジョウくんは刑事だったが、最近は部署が変わって収賄関係が多く、死にからむような事件を扱うこともなかった。

 ジョウくんの安全を心配する必要がなくなり安堵した。ジョウくんと付き合い始めた頃は、ジョウくんが全く犯罪と関係ない仕事だったらいいと思ったが、父のプロファイラーとしての仕事が人の死に直面する仕事だったのに対して、ジョウくんの取り扱うのは知的犯罪に関するものがほとんどと聞き、安心した。



 そんな時に夢を見始めた。

最初は単なる悪夢だった。

 時々見る悪夢の一つ。

 私は首を絞められている。絞められていてもなぜか冷静だ。ただ、首を絞められる感覚だけが徐々に強くなっていく。
   
 最初、霧の中でぼんやり絞められているようだった。しだいに痛みがシャープになっていく。イメージもシャープになっていく。

 一瞬スローモーションになった。ドラマのように。周りは人気のないどこか寂れたショッピングストリートのようだった。

 瞬間にして視点が変わる。映画撮影で使う自動で瞬時に上下するカメラのように、一瞬にして私は上から自分自身と私の首を絞めている人物とを真上から見ている。苦しそうな顔。自分であって自分でない顔。絞めている人物は頭のてっぺんしか見えない。顔は見えない。襟足に髪が跳ねている。

 突然視点が私に戻り、目の前の顔が少しずつクリアになっていく。女だ。どこか中性的な女だ。薄い目の色をした女だ。何も言わず私の首を絞め続けている。唇を噛み締めている。大きいけれど薄い唇。

 一瞬息が楽になる。不思議だ。締められているのに。女の顔をしばし客観的に見ている自分がいる。女はなにやらぶつぶつつぶやき続ける。

 なぜ私はこの女に首を絞められなければならないのだ。女は強盗には見えない。緑色の石のついたペンダントをしている。翡翠のペンダント。丸い翡翠のペンダント。

 首を絞めている女は唇でも噛んだのか、唇からうっすらと血が流れている。

 その瞬間、私は手が使えるのだと、気がつく。女の体に爪をたてる。けれど、革ジャケットのような感触で爪がたたない。女の腰を両手でつかんで揺さぶる。

 メイ!メイ!

 ジョウくんの声で目が覚めた。私は両手を上げて振りまわしていた。

 あ…。夢を見てた…。

 そうみたいだね。嫌な夢だったんだね。

 うん、とってもやな夢だった。




 父と暮らしていたころ、現実は鬱々として、たまにみる夢に救われることがあった。夢の中で私は自由だった。乙女チックといえばそれまでの夢。雲の上をジャンプしていたり、一面の草原を両手を広げて走っていたり、翼の大きな鳥になって海面すれすれに飛んでいたりした。すれすれに飛べば、澄み切った海の中まで見えた。

 もちろん恐い夢も見ただろう。けれど今覚えているのは、夢の中では自由だったその感覚だ。心も体も自由で現実の自分より際立って解き放されている。

 けれど、今は現実が明るかった。ジョウ君がいて、キッチンはクッキーやパンケーキやスープの匂いで満ちている。アロマの香も欠かさない。南に面したリビングは明るく、芝では小さな花をつけた草が揺れている。

 現実ではこんなに自由で明るさに満ちているのに、暗い夢を見始める。しかも「死」の夢。「死」のなかでも「殺人」の夢。

 幸せ、不幸せの濃度、明るさ、暗さの濃度というのがあるのなら、育っていく過程で、ある濃度に浸っていたものは、簡単にその濃度を抜け出せないのかもしれない。夢と現実でバランスをとり、一定の濃度を保つ。

 澱んだ沼を思った。沼のねっとりした濃度の中、歩き続け、動き続けた私は、澄んだ水では軽すぎる。無意識に水を濁らせ、バランスをとろうとする。それが夢となってあらわれたのだろうか。




 コーヒーのおかわりは?

 ジョウくんがポットを片手に微笑んでいる。

 ジョウくん…。

 幸せすぎてバランスを欠くなんて、そんな馬鹿らしいことに振り回されてはいけない。自分の愚かさに崩れていってはいけない。

 ジョウ君が注ぐコーヒーポットの先から落ちるコーヒー。




 また夢を見た。

 私は池に浮かんでいる。顔を水につけ、うつ伏せになって浮かんでいる。小さな水生植物に囲まれている。きっと私は死んでいる。死んでいるのに冷静に考えている。

 どうして私は死んでいるのだろう。誰に殺されたのだ。



 それからも私は夢を見続けた。全て、殺される夢。苦しかったのは最初首を絞められた夢だけで、他の夢では既に私は死んでいる。いろいろな場所で。同じなのはどうして自分が死んでいるのか、誰に殺されたのかを考えていること。

 そして死んでいる私を、上から見下ろし観察している私がいること。

そうか…。写真か…。写真なんだ。

 父に見せられた事件の写真。キッチンテーブルの上にも、下駄箱の上にも、写真はあらゆるところに存在した。家全体が父の仕事場だった。

 私は見てないようで見ていた。私には奇妙な記憶力があり、見た写真をハイライトして覚えた。全ての細かいところを覚えるわけではない。ある一点。あるいは2、3か所。死体の髪のもつれだったり、指の形だったり、現場のテーブルに置かれていたハサミだったり。何か奇妙に感じるもの、特に心がひっかかるものが一瞬にしてわかった。それを父に言うと父は決まって一瞬顎を引き、目を見開き、私を見つめた。たいていはそれが事件の解決の糸口へと父を導いた。

 この家には、このジョウくんと私の明るい家には写真がない。私は夢の中で、自分を使って写真をクリエイトしているのだ。明るさとは程遠い写真を。



 長らく来なかったケイくんが家に来た。ケイくんはちょっと近くまで来たから、なんて嘘も言わず、私が入れたコーヒーを飲みながら、静かに言った。

「何となくメイさんの顔が見たくなって。最近、調子はどう?」

 正直ケイくんに会って嬉しかった。なぜかほっとした。ケイくんにはかっこつけなくてもよかった。素のままでいいと思った。ジョウくんの前ではいつも少しだけ頑張っている自分がいたが、ケイくんには少し猫背気味にぶつぶつ言いながらいてもいいような、そんな気楽さがあった。なぜだろう。

「レジェンドさんの仕事をメイさんが手伝っていたのを僕は知っていました」

 えっ? 

 ケイくんは一時期、父をコンサルタントとして雇う部署にいたことがある。

「他の人も知っていたの?」

「いえ、多分僕くらいだと思います。僕はちょっと観察眼が鋭いものですから」

 そういい、ケイくんはちょっと困ったように微笑んだ。

「この仕事には役に立ちますよね」

「ええ、立ちます」



 ケイくんは私のことを父からしばしば聞いたという。個人的なことはほとんど話さない父だったが、なぜかケイくんにだけは話したという。いかに私が手掛かりを見つけたかを。一度など、写真を見つめる私の真似もしてみせたという。

「写真を見る私の真似ですか? どんなふうに」

「それがほとんど表情が変わっていないのです。ちょっとだけ目を見開いて見えたのですが…」

 自分に特殊な才能があるなんて思ったこともなかったけど、父が認めてくれていたなら、それはそれで嬉しい…のかもしれない。

「いわゆる優秀といわれる人も多い、けど彼らになくてメイさんにあるものがあると思う」

それは何?

「直感かな。そう言ってしまえば月並みだけど。もちろん、メイさんが見て、感じ、なんらかのロジカルな頭脳活動の結果、気になると感じるもの、それは他のものには直感と感じられるんじゃないかな。レジェンドさんは緻密なプロファイラーでしたが、直感的なところはなかった。それが亡くなられる7、8年前から直感、勘としかいいようのない不思議な力で事件を解いていかれるようになった。僕はある日、レジェンドさんに資料を渡しに初めて家を訪れたとき、メイさんが受け取って、ファイルの写真をすいっと、そうじっとではなく首を振るようにすいっと見て、残虐過ぎて見れないものを斜めに見るように見て、大きく息を吸ってそれから幾つもの小さなため息をつくのを見たんです。そのとき、メイさんがレジェンドさんのブレイン、というか事件を解くマインドなのだと理解しました」

「ああ、連続殺人事件でしたね」

 もう、事件はまっぴらだ。普通に生活していたら、見なくてもいいもの。それを私は一生分…いやその何倍も見た。もう、あの世界に戻りたくはない。

 なのに…

「ケイくんが担当だって聞いたけど、手がかりは見つかっているの?」

その時私は自分でも思ってないことを口にしていた。最近世間を騒がせている連続殺人。同一人物によるものと思われる連続殺人事件。ケイくんが担当の一人だった。

 もう血なまぐさい事件はまっぴらのはずなのに、そんなことを口にした自分に驚いていた。私の中の別人物が私の口を借りて話しているようだった。
 
 事件は私が夢にみたような場所で起こっていた。違うのは殺されているのが私ではなく、違う人間であること。そして私はそれらの事件を新聞で読み、事実として何気なくとらえていたが、夢の中でヴィヴィッドに再生していた。

「おそらく犯人は無自覚型殺人者です。緻密な計画、捕まらずに犯罪を犯す知能を持っていますが、実際殺人を犯した記憶は殺害後意識下にあり浮上していません。多重人格か、といえば、そうではないでしょう。二重人格という表現もちがうと思います。一つの人格が一つの人格を内包しているのです。子供と母親の血液型が違ってもおかしくないように、血液は決して混ざらないように、この二つの人格は一つの人格の中にもう一つが埋まっていてもお互い独立しています。連動した二つのボタンのように、一つを押すと一つが上がる。上がった方を押すともう一方が下がる。けれど、互いに相手が上がっている、とか下がっている、という自覚がないのです」

「どうしてそんな性格が出来あがったんでしょう」

「それは多分、生まれつきの器質に育った環境、複雑な要素がからんでいるでしょう。幼い頃から、死、というのが身近に存在してたのかもしれません。サイコパスや快楽殺人ではなく、何か自分の存在の危機的なものに由来するのかも。一見なんの関連もないこれらの殺人はきっと犯人にとってはひどく意味あるものなのでしょう」

 性別は?

「どちらでもあり得ます。頭のいい、科学的知識、その他、広範な知識を持つ者。ビデオカメラをうまく避けて映っていなかったり、DNAなどを残していなかったり、警察捜査のやり方の知識も豊富でしょう」

 無意識にプロファイリングしようとして、私は気づいた。自分自身がそのプロファイリングに合っていると…。

その恐ろしい考えがゆっくりと私を浸した…。

「私もそのプロファイリングに合うわ」

  ケイくんが大声で笑いだした。

「メイさん、メイさん、メイさん」

ケイくんは三度言った。一度目はおかしげに。二度目は少し真面目に。そして三度目は少し愛しげですらあった。

「大丈夫だよ。もう、犯人は絞られてる。メイさんは違うよ。全く違う。メイさんは自分で思ってるより、優しく、強く、でも少し…脆い…」

その目は少し切なそうだった。

 ケイくんを見ながら思った。しばらくは悪夢に苦しめられても、自分の濃度調整にもたもたしても、自分で沼を這い上がらなければ、と。

 ケイくんは黙ってコーヒーをリフィルした。まるで自分の家のように。私はコーヒーを飲むケイくんを静かに見ていた。




  私が翡翠のペンダントを見つけたのは、クロゼットを掃除していたときだった。

 それは空の靴箱に入っていた。何かの整理に使おうと空の靴箱をクロゼットの隅に重ねて置いてあったのだが、少し動かし掃除機をかけた時、一番上の箱が落ちて、何かが床に落ちた。それが丸い翡翠のペンダントだった。

私はしばらく見つめた。

丸い翡翠のペンダント。手の中で細かく振動しているように思えた。

連続事件の一人目の被害者がつけていたのも翡翠のペンダントだ。現場からなくなっていたという。双子の妹が同じものを持っていて写真を提供しており、その写真を見たのは数週間前だった。

 私は目を閉じ、新聞で見たペンダントを思い出そうとした。頭の中でペンダントはクリアになった。スイッチオンした頭がチチチチと音を立て始めた。

 目を開けてみると、ペンダントは写真のもとよく似てはいたが違っていた。当たり前だ。そんなのがここにあるはずない…。



 ジョウくんが帰ってきたのは夜8時前だった。

 わたしはそっと手を開き、翡翠のペンダントを見せた。

「あ、どこにあったの? 」

ジョウくんは少し戸惑ったように言った。瞳が揺れていた。少しだけ。

「母さんが探してたんだ。僕が前、プレゼントしたやつでさ。うちで無くしたんじゃないかって言ってたんだ」

「この箱の中にあったんだけど…」

「箱の中? なんで箱の中に入ってたんだろう。ああ…多分、見つけたとき、無くしたらいけないと、一番上の箱に入れたのかもしれない。うん、そうだ…」

ジョウくんは笑った。

私はその瞬間、ジョウくんを見失った。幸せにバックグラウンドカラーがあるとしたら、その色が少しだけ明度を失った。



ジョウくんのお母さんにペンダントを返すと、「あら、探してたのよ」と満面笑みを見せた。偽りには見えなかったが、そのあとお母さんは少し困ったように言った。

「ジョウはとってもいい子なのよ。あなたがそばにいてくれて嬉しいわ」

私の中でくっきりしていたジョウくんの輪郭が、また少しだけぼやけた。

ジョウくんママは優しく言った。

「ねえ、メイさん。ジョウがどうしてメイさんを選んだか知ってる?」

 えっ? 私は恐れた。何か特別な理由があるのだろうか?

 ジョウくんママは微笑んだ。

「単にメイさんが好きだったからよ。ちょっと影のある不思議なメイさんがね。ほんとに好きになったのよ。ジョウも欠点がないとは言えないけど、メイさんを選んでくれてよかったわ」

 私は黙ってジョウくんママを見た。何かが間違っている…確かな感覚だった。



 箱に入っていた翡翠のペンダント。誰のものかははっきりしないが、ジョウくんが入れたことは間違いない。なのに、自分の心のどこかで息づいていた邪悪…な何かが箱に閉じ込められていて…そんな気がして身をぶるっとふるわせた。

 家中の引き出しを探った。スイッチオンした私には驚くほど簡単に手がかりが現れた。あまりに証明簡単な事件だった。ジョウくんの人間関係が事件だとしたらだが。

ジョウくんを疑って行動したのは初めてだった。

 私は、ひどく冷静だった。自分の存在にいびつなチャレンジを受けたがごとく、心はひどく冷静だった。




 砂浜に真っ直ぐに線を引くことを考えてごらん。どんなに真っ直ぐに引いたつもりでも、砂粒がわずかに動いたり、風が吹いたりすればすぐ崩れる。絶対に永遠の真っ直ぐなんてない。だから、場合によっては昨日は真っ直ぐに見えたものが今日はちっとも真っ直ぐじゃないってことなんてしょっちゅうだ。

 父の言葉。

 物事は時間によって変わる。見方によって変わる。見る人間によって変わる。ズームしたり、角度をつけたり…。ある時は虫レンズで、ある時は俯瞰的に。

 私は得意だったはずだ。本当にそうだろうか…。私が得意だったのは、写真に撮られた平面上のものの中から特異なものを引き上げ立体化すること。情報の羅列の中で、関連性を見つけるとこと。

 そうだ、私は得意だった。頭でシナプスが弾け飛び…。分析屋の子という環境だけでなく、生来何か私に刻まれていたもの。

 それを私は封印した。

 父の死と共に封印した。

 幸せになるために。

 幸せになるために。

 砂浜はいつも明るい陽射しに満ちていてほしかった。水彩画のごとく。パステル調で。

恋愛初期。何度も失敗していた私は、心底時間を止めたかった。結果、ジョウくんとの関係は深みを増すことも、変化を受け入れる強さも、客観的思考も失った。

 封印しようとした、父との暮らしで出来上がってしまった私という人間。それを無視しては存在も危うい。そんな当たり前のことを認めたくなかった。

 砂浜に描かれた変わりゆく直線…意識上では無視続けた直線が今私にせまっていた。

 夢で殺されていたのは、分析屋としての私。殺していたのは分析屋を嫌う私。そしてその顔はジョウくんの女友達の顔を借りていた。



キッチンのテーブルに座り、目をつぶった。

静かに。静かに。

 父のことを思い出した。

 母のことを思い出した。

 私のことを思った。過去に戻り。何を自分が渇望したか…。

 そして

 初めて

 ジョウくんを

 分析した。

 思うのではなく、分析した。一度も分析しなかったジョウくんを分析した。

 私は静かに手を組み、祈りに似た気持ちで自分を池の底に沈め、そして自分の力で池の表面にゆっくり戻る姿をイメージした。

 沼の泥水に沈んだ翡翠のペンダントを救いだす。砂浜で埋もれようとするペンダントから目を離さない。手にしたペンダントを湧き水で綺麗に洗う。そしてその意味を考える。解決は無視からではなく、思考から生まれる。

 私はケイくんに電話した。ケイくんは夕方やってきた。

 いつものように穏やかな顔をしていた。

「メイさん、犯人が見つかったよ。まだ事情徴収の段階だけど、ほぼ間違いない。精神科医からの情報なんだ」

「それはよかった…」

ねえ、ケイくん。ちょっと分析屋に戻ってみたの。私は言った。

「でも分析するのは事件じゃないわ」

ケイくんは 何?って顔をした。

「ジョウくんよ」

一旦、分析屋に戻れば、いろんな辻褄を合わせるのに、それほど時間はかからなかった。

「ジョウくんには恋人がいるのね。女性だったこともあるし、男性だったこともある。今までもいっぱいいたし、今もいるし、これからもきっといるわね。その一人は目の色が薄く、翡翠のペンダントを持っていると思う。きっと私、気づかずにどこかで彼女が写っている写真か、彼女そのものを見たことがあるんじゃないかと思う。ほんの一瞬のバックグラウンドとして。記憶に残るほどじゃないけれど、意識下には残っていて、夢には出てくる。夢の中では私、スイッチオンするみたい。夢の中では情報は混沌としていて一貫性はないけれど、所々に真実が潜んでる。そしてジョウくんはケイくんのこと友達として凄く好きなんでしょうけど、ライバル意識も強かっとと思う。周りには少しも出さないけど。でも重大事件を受け持つケイくんにコンプレックスも持っていたんだと思うの」

 ケイくんはやはり静かに私を見ていた。

「だから私に惹かれたの。私は最大の事件グッズね。なにしろ幾つもの事件を解いたレジェンドプロファイラーの子なのだから。それに…」

 それに? ケイくんが目で問う。

「それにね、ケイくんが私を理解していたから。ジョウくんは違った土俵でケイくんに勝ちたかったのね。だから、付き合ってる人はたくさんいたけど、私との同居を決めた」

 一旦、目を開けると驚くほどシンプルな事実。

そうでしょ?

父が描いた砂の上の一直線、刻々と変わる一直線。それを無視せず見つめる強さが今必要だった。

 ぼこぼことした砂浜を一本の木の枝でスーッと滑らかにする自分が見えた。

 私に必要なのはその動作なのかもしれない。自分を偽らず、変化する砂浜を見つめ、平らにする。観察だけでなく手を加える。目をそらさらず。恐れず。罪の意識も持たず。背中から陽を浴び、風を頬に受け……。

 自分の人生はプロファイリングするだけじゃなくって、自分で変えていいんだ。そんな簡単なことに気づかなかった。

「ジョウくんと話してみるわ。父の子として」

「レジェンドさんの子として?」

「ええ、父の子として」

それもいいかもしれない、ケイくんはそんな風にうなづいた後、少し微笑んだ。



 砂浜にしゃがむ親子がいる。父と私だ。私は6つくらいだろうか。

 父が砂浜に木の枝で線を引く。そしてじっと見つめる。

 その横を一人の青年が通り過ぎる。髪をポニーテールにして考え込むように歩いている。そこに一人の女性がよってくる。柔らかな髪。柔らかな視線。

 母だ。父は母を見て少し微笑む。交差した時が私の脳裏をよぎる。

私の中で動きを止めていた何かが動き出した。分析屋の視点。父風分析屋ではなく私風分析屋。

 俯瞰的。

 時軸を混ぜて。

 そうやって人は存在している。



 不思議だ。ジョウくんとの小さな家。昨日まで全てだった場所。私が存在していた場所。もうそこに私の居場所はない。もともとないところに私は張り付いていたのかもしれない。

 けれどそれはそれでいい。仕方ない。大切なのは今それを悟ったこと。

「ジョウのこと、どうして気づいたの?」

「ペンダントを見つけたの。翡翠の。きっと恋人の一人のね」

ああ…というようにケイくんはうなづいた。

「人の脳って驚く働きをするものよね。知らないうちに辻褄を合わせようと、チッチっと働いてる。自分の意識下の思考の流れを考えてみたんだけど…おそらく…」

 連続殺人事件で翡翠のペンダントのことを知る。

翡翠つながりで、何かの記憶でジョウくんの彼女がぼんやりと浮かび上がり、彼女が忘れたペンダントが家にあること、それを隠すジョウくんなどが、意識下に現れる…。

 掃除のとき、箱を落としたのは、無意識的故意であり、見つけるべくして見つけたのかもしれない。

「翡翠って幸福をもたらすものよね。でもなんだか翡翠に対してイメージが暗くなりそう」

「僕の母はいつも翡翠の指輪をしてるんだ」

 翡翠か…。そう言えば、何の石か知らないが母も緑の石のペンダントをしていた。母が自分で買ったのだろうか。父がプレゼントしたことなんてあるだろうか…。母が亡くなったあと、あのペンダントは出てこなかった。どこにいったんだろう。

「メイさんには緑が似合うと思うよ」

「私、5月に生まれたの。だから、自分のことをメイって呼ぶことにしたの。自分のセクシャリティに気づいてないほど小さな頃だったと思うけど、アキラっていう名は自分に似合わないって思ったの」

「良い名だね。メイさんは、もっと自分らしくしていいと思うよ」

 そうだ、ほんとにそうだ、私は思う。もう中性的な格好をするのもやめよう。私はスカートにヒールが履きたいのだ。そして、髪を伸ばそう。

 そうだ、いつか手に取ってしばらく見つめていたが、結局買わなかった、あのスカーフを買おう。ムーミンに似た小さな動物がいっぱいプリントされた、あのちょっと風変わりなスカーフを。なぜか心惹いたあのスカーフを。

 人生に色付けをするのは自分自身なのだ。嫌なことが起こるたび、忌み嫌うものが増えたら、もったいない。世界はもっと明るさに満ちていていいはずだ。

 私はじっとケイくんを見つめる。ケイくんも静かに見つめる。

 立ち上がり、ゆっくりコーヒーを挽く。部屋は次第にコーヒーの香りで満たされていく。

ツリーライティングセレモニー:シルバ

 クリスマスの季節。 Xmas Xmas と街がペケペケマークでいっぱいになる赤と緑とゴールドの季節。

 クリスマスになると、ケントを思い出す。サンタでもルドルフでも、何かしら膨れ上がるショッピングリストでもなく、ケントだ。

 フェアに言えば、クリスマスになると思い出す、ではなく、クリスマスになるとより思い出す、だ。その気持ちは胸の奥で密になり苦しいほどになる。

 ケント背はあまり高くなかった。ガッチリはしていた。男らしい体型、というのがあるなら、これだ、初めて見た時そう思った。なぜかひどく押しが強そうに見えた。

 その頃、私の髪はもう真っ白だった。そこにヘアダイのアッシュ系をふりかけていた。いろんな人種、髪色がある国とはいえ、東洋人にしては当時珍しい風貌だった。

 ある日、ドアを開けるとケントがいて、そこそこ愛想のいい顔で立っていた時、何だか嫌な予感がした。頼みもしないのに着払いの小包が送られてきた、そんな気がした。東洋人の顔だった。クォーターくらいでもありえるか? 少し浅黒い気もした。

 ヘェロー!ヨージはいるかい? ケントはかなりの素早さで入ってきた。ちょっとぉ!と私が眉をしかめると、ヨージに会いに来たんだ、いるかい?とその陽気さを崩さない。しぶしぶヨージを呼んでくる。しかし、ヨージは訪問者に首を傾げた。

「ケント・カシワギだよ、覚えてるかい?」

 ヨージは、ケント・カシワギ、ケント・カシワギと二回ぼそぼそつぶやき、驚異の目で男を見たが、やっとのことで笑顔を作り、「もちろんだよ!」と近寄った。

 二人はがっちり抱き合った。それは長い抱擁だった。ひどく中性的な抱擁だった。私はヨージが男とこんなにも長く中性的な抱擁をするのを見たことがなかった。

 そのケント・カシワギは急に流暢な日本語に切り替えた。日本で育った日本人の日本語というには微妙に違う気もしたが、標準語系の日本語だった。
 
「何年になるかな」
 
「18年、いやに19年かな」
 
「変わったからわかんなかっただろ」
 
「もちろん、わかったさ。もちろん、もちろんわかったさ」

 ヨージはやたらに「もちろん」を連発したが、嘘をついてるのはどう見ても明らかだった。

 しかし最初の驚きとぎこちなさが薄れると、今度はすっかり古きよき友として振る舞い始めた。「もちろん」をむやみに発しなくなったヨージは、ケントの昔話に普段より1オクターブ高い声で笑い、それにケントの笑い声が重なった。名物ティーチャーに、鼻のつぶれたジョージ(どうやら犬のことらしい)、大ガマ池に、スパイスききすぎのポンチョのレストラン、猫のキャロルに、大馬鹿フレッチャー……彼らの話はつきなかった。

 けれど、それも二日ほどのこと。三日目からは言葉数はぐっと減った。彼らには現在においてシェアすべき経験がなかったのだ。会話は同じあたりをくるくる回り、次第に速度が鈍くなって、ストン、と落ちた。しかし、そうなってもケントは一向に出ていく気配を見せなかった。
 
「一体、いつまで彼を置いとくつもり?いくら幼なじみだからって限度ってもんがあるんじやない」

「だけどさ、言いにくいんだよ」

「どうして?」

「…どうしてもさ」
 
 何度聞いてもヨージの答えは同じだった。

 ケントはと言えば、四日目あたりにツナ缶にフォークを刺しながら、こう言った。
 
「僕は今、行くところがなくてね。いや、正直なところしばらく静かにいれる場所が必要なんだ。ここは安全だ」

何をしたのよ?と聞きたかったが、聞かなかった。ひどい悪人には見えなかった。けれどひどい悪人に見えない悪人は世の中にたくさんいる。

 その頃、私のニックネームはシルバだった。ケントもすぐにその名で呼んだ。

「シルバ、もう少しだけ居させてくれるとありがたい、この傷が治るまで」

 彼はそう言って、長袖のシャツをめくり綿のような布で巻いてあった両腕の傷を見せ、Xに腕を交差して見せた。すると傷は一直線になった。

 生々しい傷だった。両腕でXの形を作り、何か刃物のようなものから身を守ったのだろう。

 私は眉をひそめた。この傷にどういう意味があるのだろう。ヨージと私がシェアしているこの家に泊め続ける意味のある傷なのだろうか。けれど彼はヨージの友人だ。ヨージの意志に任せるしかない。

「病院は?」

「行ってない」

 行けないのだろう、私は思った。
 
「少年のころは痩せてたよ、ガリガリというくらいにさ。あの頃なら、すぐ骨に刺さっただろうな」 ふざけた風でもなくケントは言った。

 その痩せた時代は青年初期まで続いたらしい。当時「絶望的」という言葉がお気に入りで、背中に「desperate!」と書かれたジャケットを着ていたという。
 
「けどさ、ある時、急にガッチリし出してさ。それまで俺のことをバカにしてた奴が後退りするようになってさ、まったくもって晴天の霹靂さ」

 ガッチリ系ケントに、「絶望」は似合わなくなった。似合わなくなったジャケットはチャリティショップに寄付したと言う。売れたかどうかも知らないが、彼なりの持ち主像というのがあったらしい。それでその持ち主のストーリーを書こうとしたと言う。

「けど、駄目だったんだ。desperate! の字以外、何も頭に浮かんでこないんだ」


 
 ケントは一時期小説家志望だった。けれど、ある時、現実があまりに小説より奇なり、と感じ、それらへの対処と葛藤で、小説どころではなくなった。

あの時ケントはひどく疲れていた。空間軸、時間軸、全てを止めたいくらい疲れていた。けれど時は非情に過ぎていった。少しずつ傷が治っていったことだけは時のおかげにしても。

 居候の三週間の間にケントは山ほどパンとオムレツとローストビーフとツナ缶を食べた。蟹料理も三回した。腕はひどく痛そうだったが。
 
「小説家志望だったなら、何かに載ったことあんの?」

「ローカルなものに、ちょこ 'とね」

 どんなストーリーよ、としつこく聞き続ける私に、しぶしぶながら彼は言った。
 
「猫と男の話…や…凧と女の話、それに、ロブスター料理をする男の話…まあこんなところかな。僕はとにかく平和な小市民的話を書きたかったんだろうな」

 私は小説家というのにちょっとした興味があった。小説が書ける人間は少なくとも自分の中の混沌を文字に出来る人間だ。何語であれ、小説を書ける人間には深みがあるはずだと思った。




ツリーライティングセレモニー。私の歩く道を大きく変える出来事があったとすれば、それはあの週末のツリーライティングセレモニーだ。

 土曜日。その週末はジェイクからの電話で始まった。三時ごろ行くと伝えてくれよ、彼は言った。

 ジェイクはヨージのボーイフレンドで、希に見るハンサムだった。後ろに梳かしつけたストレートの赤毛と深いグリーンがかった灰色の瞳がご自慢で、冬だというのに肌は見事に日焼けしていた。

 ヨージはジェイクに心底夢中で、ジェイクさえ一緒に住もうと言ったなら、すぐにでもスキップしてアパートを出ていっただろう。そうなったら、一人では家賃が払えない、私は密かに二人が別れることを望んでいた。

 そんなヨージの悩みはジェニーとスーだった。ヨージとジェニーとはワンナイトスタンド、いわゆる一夜の関係だった。しかし一夜の関係でも子供はできる。それがスーだった。

 生まれた時点で父親の可能性は二人だった。ヨージとサミール。子供ができたなら一緒に住もう、誰が父親だっていいじゃないか、そうサミールは言い、二人は住みだしたが、結局数え切れぬ口論の果て、「人の子なんか育てられるか!」と吐きすてサミールは出ていった。そうなると、父親はヨージとなる。ジェニーは養育費を請求し、時折休日をスーと過ごすことを強要した。

 ヨージがジェニーの要求を断れなかったのは、単に気弱だったからじゃない。誰が見ても、スーはおかしいほどヨージにそっくりだったのだ。

 日曜日には、スーをツリーライティングセレモニーに連れていくことになっていた。ショッピングセンターの中庭の巨大なクリスマスツリーにいっせいに明かりを灯すセレモニーだ。スーにどう接していいのかわからないヨージは、スーとのお出かけの時は、必ず私に泣きついてくる。「何でもするから、一緒に来てくれよ。お願いだからさあ」

 午後三時、ジェイクがやってきた。大きな花束を抱えている。バラだ。バラの花束だ。ペールパープル。薄紫色。少し銀色がかっている。淋しい色だった。
 
「ハッピーバースディ、ヨージ!」

 そうか、ヨージの誕生日だ…。

 恋人達が出てゆき、残されたのはケントと私だった。散歩に行かないか、ケントは言った。居候いつまでよ、とはっきり聞くにはいい機会だと思った。私は一番分厚いコートを羽織り、意気込んだ。

 薄グレイのフィルターがかかった街。知り合いのいるカフェに行こう、ケントは言った。歩き出すと、私はさっそく切り出した。話は早い方がいい。
 
「ねえ、傷の治療には街より田舎がいいんじゃない。考えてみて。平和な光景。セピアにところどころグリーンとオレンジを混ぜたような穏やかな光景…。田舎っていいわよ」
 
「そうかもな」
 
「少なくとも生活費は安いわよ」
 
「出てけって言うんだろ」
 
「まあね。あなたがいるとなんだか私落ち着かないの。よく訳はわからないんだけど」

 私は正直な気持ちが口から出たことに驚いた。

 地下鉄の駅の近くで、鳩とカモメが入り混ざってパンのかけらをつついていた。ベンチに腰掛けていたホームレスの女が立ち上がり、パアーッとポップコーンを撒くと、クワァ!バサバサバサッ、カモメが鳩の頭をつついたり、ククッククックックッ、鳩がカモメにクチバシ攻撃をしかけたり、餌に突進したりで、なんとも騒々しい。
 
「鳩にカモメかあ」

 都市ずれ、人ずれしたカモメを見ながら、彼はどこか放心状態だ。
 
「ケントっていつも人のところ転々としてんの?」
 
「いや、家はある。と言っても親の家だけれど、僕としては居場所だった。もちろんアメリカンスタンダートならこんな歳になって親と同居なんてとんでもないってとこなんだろうけど、父が日本人だしさ、母は常識にとらわれない人だし、それに母と僕はある意味こころざしが一緒だからね」

「こころざし?」

「母は信念が強く、というか正義感が強いというか、融通が効かなくて見ていて危なかしい。僕は小さい頃から母を守ってきたよ」

「お父さんは?」

「父は大学で母に会ったんだけど、ブロンドに染めて小柄だった母をホワイトだと思ったらしい。フランスあたりがルーツな小柄なコケージャンってね。でも母は、コロンビア系のラティノでね、目も黒かったんだ。髪も染めなきゃ、真っ黒だ。アメリカに来たばかりの父には分からなかったんだろうね。母は陽気で楽しくおおらかな人だからね。おどおどしてた父を助けるつもりで付き合ったのかもしれないな。父は真面目人間でアメリカに来て遊びまくろう、なんて気はこれっぽっちもなくてさ、企業派遣だったし、その後、母は日本に行く気はなかったから、父がずっとこっちの関連会社で働くことになったんだ。僕はどっちの言葉も話せるようになった。父は日本語で話しかけ、母は英語でだったからね」

 ちなみにさ、ケントってこう書くんだよ。そう言い、ケントは空中に「賢人」と書いてみせた。



 古ぼけた看板のかかったコーヒーショップの前でケントは足を止めた。つぶれてないという保証もないような店だった。

「ここだ。ここだよ。トニーが働いてた店は」

「トニー?」

「トニーさ」

 注文を取りにきたポニーテールの子にデイヴは聞いた。

「ちょっと、君、トニーって知ってるかい?」

「えっ?」

「トニーバルディリスさ」

「知んないわね。トニー何ですって?」

 ポニーテールは肩をすくめる。

「バルディリスさ。ここで働いてたんだ」

「知らないわ」

「君、いつから働いてんの?」

「三週間前よ」

「それじゃ、知らないよな。一年は前だからね」

「あら、それ早く言ってちょうだい」

 ポニーテールは考えて損をしたという風に言い、ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さいと馬鹿丁寧に頭を下げて行ってしまった。

「バルディリスって友達?」
 
「まあな。作家なんだ。ちょっとサイケな作風でさ。活字になった作品があってね」
 
「どんな話?」
 
「砂漠に男がいてね。そこで男は蝿を探してるんだ]
 
「蝿?」
 
「うん、蝿さ。蝿さえ見つけたらいいことあると信じて砂漠を彷徨ってんのさ」
 
「別に読みたいとも思わないわね」
 
「奇妙な話だろ。で、あるときさ、男は銀色の蝶がいっばい舞う砂漠のオアシスを見つけるんだよ。蝿じゃなくて蝶なんだ。男は力の限り、駆け寄るんだ。蝶が蝿に見えたのさ。でも駆け寄ってみると蝶だろ。がっかりするんだ。まったくもってね。そうするとオアシスも消えてしまう」
 
「何か言いたいの」
 
「なんだろうな。人によって価値あるものは違うってことかな」
 
「う〜ん。その男にとって蝿が夢で希望なら、それでいいじゃないの。そりゃ、蝿に固執してオアシス無くしちゃうのって、蝶の美しさに気づかない男ってミゼラブルだけど、少なくとも思い込みってのはあるじゃない」

 ふむ…ケントは私に微笑んだ。あまり魅力的な顔だと思っていなかったが、その時の彼の目の穏やかさが私をとらえた。
 
「シルバは満足してる?今の生活に」

 なんであんたに、そうは思うが、彼のひどく真摯な瞳を無視できなかった。思えば私のことを聞いてくれた人間がどれだけいただろう。形だけの、よお元気かい?元気にしてる?は聞き飽きたが、今の生活に満足してる?なんて真剣に聞いてくれたものなどいなかった。一緒に暮らした男も最後まで聞きはしなかった。
 
「満足?そうね、満足よ、うん、満足してるわ。でも…満足なんて絶対的なもんじゃないわよね。相対的なものでしよ。うん、だからね、そういう意味では満足してるわ」

 何回か男と暮して何回か別れた。今は男に興味がなくなった。フィジカルな要求もほとんどない。仙人のように森閑としている。淋しさはあっても自由でハッピーだ。相対的に。ヨージとは家賃を半分ずつ払いアパートをシェアするだけの関係だ。一人で借りるだけの金がないからいい手に違いない。それにヨージは悪い人間じゃない。ただ、毎日が……バルディリスの砂漠じゃないが、もどかしさはある。さらさら乾いた砂で何か作ろうとしている感覚だ。水で濡らすってのを思いつけばいいんだろうが、近くに水などない。動くのも面倒になる。だから、いつまでも座りこんで乾いた砂でなんとか形のあるもの作ろうとする。何を作りたいのかわからないまま…。
 
「シルバのこと書きたいな。シルバみたいな女や男のこと]
 
「私みたいな…」
 
「うん、そう。ミドルーオブーノーウェアのさ」

 えっ?
 
「middle of nowhere さ。ここでもなくてあそこでもなくて、どこにいるのかわからない。ミドルーオブーノーウェアにいる人間…そんな話を書いてみたいんだ。そんな風に思ってる男や女の話をね。月並みかな」
 
「わからないわ。…ねえ、…それって砂漠の真ん中にぽつんといるって、そんな感じ?」
 
「そうとは限らないな。ごちゃごちゃ巨大ビルが立ち並ぶとこだって、どうにも騒がしいワイルドなパーティにいたっていいんだ。要はさ、つながりさ」

「つながり?」

「数え切れない物体や人間に囲まれてたって、それらと自分とのつながりがない限り、何らかのつながりを感じない限り、ミドルーオブーノーウェアなんだよ。けど、何とか手をのばせるものも探そうとするだろ。そうしてる限り自分って実体があるんだ。無じゃないんだ。けど、無になる恐怖は常にあってさ。人によっては焦りを感じ、人によっては恐怖を感じる」
 
「でも探してるのがゴンザレスさんみたいに蝿じゃ、探さないほうがましね」
 
「バルディリスさ」

「そうだったわね」

 ミドルーオブーノーウェア…そんな話、ケントが書けるなら読んでみたい。
 
「ねえ、どうしてヨージを頼ってきたの?ケントってヨージの幼馴染み?」
 
「まあ、そうかな。かつての友達。シルバとヨージはただのハウスメート? 友達って言える?」

「どうなんだろ」

 ヨージとはルームメート募集の広告が縁だ。ヨージは男と別れたばかりで、ひどく冴えない様子だった。私も男との同居に失敗したあとで、冴えない状態にはかわりはなかった。だから、会話が生れた。ぽつりぽつりと。日系のヨージは、小さい頃からオールアメリカンの平和な家庭ってのに憧れていた。

 普通の人以外、とりたててなる気はなかったよ。オールアメリカンの平和な家庭を持つ…漠然とそんな夢を持ってた。ある日、恋をするまでね。…僕の初恋だった。焦がれて焦がれていつも見つめてた。ちょっと浅黒かったけど東洋系さ。でもしばらくは恋だと気づかなかった。ある日、夢を見るまでね。…彼と抱き合う夢さ。起きると…わかるだろ。

 ヨージの言葉を思い出して、私ははっとした。ちょっと浅黒い東洋系? 
 
「ケントってお母さんラテン系だよね。それ日焼けじゃなくて元々の色?」
 
「母がコロンビアからだろ。母は色は白いけど、親戚は結構浅黒い人多いな」
 
「ヨージとはいつ知り合ったの」
 
「小学校だよ。十二才くらいかな」

 ケントによると、その頃痩せてて格好よかったはず。私は一瞬言葉を失った。ケントがヨージの初恋の相手?彼を見たときのヨージの驚愕の表情、その意味を私はやっと理解した。ヨージがケンジを追い出せない理由もだ。

 その時、ケントは言ったのだ。
 
「シルバはフィーラーだね」

 フィーラー。そうだ、私は2度ほどその言葉を聞いていた。

「わかる?」

 ケントはうなづいた。

「ケントもなの?」

「いや、僕はフェルルだ」

「その言葉聞いたことがあるわ。私みたいにある瞬間だけじゃなくて、みんな見えるのよね」

「うん。母がレイヤー族だからね」

「どんな容貌なの? その…層内では」

「一番近いのはブルーフォックスかな」

 ブルーフォックス…。

「僕は生まれた時から、レイヤー族、コモン族どちらのレイヤーでも過ごすことができる」

「どっちが落ち着く?」

「落ち着くってより好きなのはレイヤー族の層だな。全てがカラフルで深く感じるんだ」

「けれど、今、レイヤーを越えて問題が起こりつつあってね…」

「問題?」

「メタモルフォーシスさ」

「メタモルフォーシス?」

「うん、メタ族が出てきたことさ」

 メタ族…。



 翌日の日曜日は快晴だったが、生半可な寒さじゃなかった。ヨージは二日酔いで顔が腫れていた。その顔でもたれるように私に近寄り、一緒に行ってくれるよな、と手を握る。恋人のジェイクに一緒に行ってもらえばいいじゃん、頭に浮かんだ言葉を飲み込み、仕方ないわね、と微笑んでみせる。

 ケントもついてきた。

 ジェニーのアパートに行くと、スーが抱きついてきた。私は結構スーに好かれていた。こっちはケントよと紹介すると悪意のない目でケントを見上げたが、ヨージにはちらりと目を向け、ハイ、ヨージィと言っただけだった。ジェニーはヨージのことを決してパパとは呼ばない。六才の子がどれだけ状況を理解しているのかわからないが、スーの目は明るい。口数は少ないが、強い子になる、と私は感じていた。

 ヨージはといえば口元は微笑んでいるが、いつもと同じで当惑は隠せていなかった。
 
「ねえ、シルバァ、サンタクロース来るかな?」
 
「来るよ」
 
「悪い子にでも?」
 
「六才の子に悪い子はいないわよ」
 
「じゃ、仔犬くれるかな?」
 
「仔犬ねえ。ママはどう言ってるの?」
 
「ママは関係ない。サンタさんがくれるんだから]
 
「そうね...」



 地下鉄を下り、ショッピングセンターに向かうころには、夕暮れのダークグレイの空を背にスーは一段と調子づいていた。ケントの横で、おもちゃの兵隊みたいに青いミトンをはめた手を勢いよく振りながら行進する。私は誰かが足を踏んだわ、とぶつぶつ言い、ヨージは頭痛がするとこめかみを押える。

 ショッピングセンターの中庭は、巨大なクリスマスツリーを囲んだ人で埋まっていた。オーバー、ダウンジャケット、ファーコート…皆それなりに重装備で、冷風の中ジャンボツリーを囲んで立っている。突風にサアーッと熱を奪われ、私は歯をガチガチ鳴らす。まったくなんて寒さなんだ。スーに大きなストールを巻き、帽子を深く被らせる。
 
「17000のライトバルブだってさ」

「17000ねえ…」
 
「いつ明かりつくの?」
 
「もうすぐよ」

 小さな手を頬にあて、スーは賛美の視線をツリーに向ける。
 
 楽隊はさっきから同じ曲を繰り返し演奏している。
 
「いつまで続ける気なのかしら。これ何て曲?」
 
「知らないな」
 
「それにしても凄い人ね」
 
「うん」
 
「馬鹿馬鹿しいほど寒いってのにね」
 
「ったくだ」

 周りもかなりじれている。手を擦り合わせたり、木のてっぺんについてる大きな星を恨めしそうに見上げたり、小刻みに足踏みを始めたり…。

 すぐ前は若いカップルだった。寒いわという女の子に、男の子がもうすぐさと頬をよせキスをする。このセレモニーに関しては明らかに男の子の方が乗り気のようだった。皆で集まってツリーに明かりがつくのをクリスマスキャロルを歌いながら待つ、そのアイデアはロマンチックなはずだった。
 
「凄い電球数だよなあ。幾つあるんだろう」

 後ろで髭の大男が言う。連れはラクーン毛皮の女だ。右隣は上品な中年カップルで、寒いわね、ほんとだ、以外ほとんど話さないが、たまに女の方がベティんとこのトミー坊やは幾つになったかしら、などとつぶやいている。
 
「いつまで待たせんだよ」
 
「もう明かりつけちまいなよ」

 前の方で男の子たちが騒ぎ出す。
 
「見えねえよ。肩に乗せてくれよ」
 
「何、馬鹿なことしてんのさ。見えないのはあたしたちも一緒なんだからさ、ちょっと静かにしなよ」

「ヘイ、明かりをつけろ!」

 少年が叫ぶ。ラクーン毛皮の女もダイナミックな笑い声のあと、ハスキーボイスで「明かりをつけろ!明かりをつけろ!」

 ケントも「明かりをつけろ!」
 
 ヨージはどうしたものかと、ためらい顔だ。
 
「レイディーズアレドジェントルマンー」

 マイクを通した男のもったいぶった声が響く。

 ワーッと歓声があがった。
 
「それでは次はエマーソンカレッジの楽隊による演奏です」
 
「またぁ!」
 
 みな一挙に落胆の底だ。
 
「冗談じゃねえよぉ!」
 
「音楽はもういいわよぉ!」
 
「そうさ、もういいよお!」

 三曲やっと終わったと思ったら、「それではこれからキャロルを歌って下さる皆さんをご紹介しましょう」

 オー!ノー!皆の顔に絶望が走る。

 笑い事じゃないぜ、と髭の大男。ラクーンの女は、再び「明かりをつけろ!」と叫んだが、心なしか力がない。
 
「ひっどい!まだつけないの?」

 信じられないというように首を振りながら、女の子が声をあげ、男の子はおろおろし始める。
 
「もう中に入ろうか」
 
「今さら入れりゃしないわよ」

 スーも手袋をはめた手をパタパタ小鳥のように動かしながら「いいかげんにしろよぉ」
 
「ブランダイス大学のコーラス部の皆さん、シモンズ大学の皆さん」

 マイクを通じて学校名があがる度、ところどころからパラパラと関係者の拍手がおこる。

 ヴォーカル入りの曲の一曲目は「サンタが街へやってくる」だった。


  You better watch out. You better not cry.

  Better not pout. I'm telling you why.

  Santa Claus is comin' to town.


 皆少しずつ歌い出す。右隣のカップルは無理矢理誓いの言葉でも言わされるようにぼそぼそ口を開き始め…前のカップルも肩を抱き合い歌いだし…調子のいいメロディに、ぶーぶー言っていた少年たちも声を張り上げ歌いだした。


  You better watch out. You better not cry!

  Better not pout. I'm telling you why!

  Santa Claus is comin' to town!


 次第に大声になっていく。スーは両手を叩きながら歌い、スーを抱えたヨージは体を揺らし歌っている。

 耳慣れた曲が三曲終わり、「レディーズアンドジェントルマン!」
 
「何回目のレデイースアンドジェントルマンかしら」
 
「またスペシャルスピーチかしら」

 と…ざわめきの中、突然ライトが消えた。周りを照らしていたライトが消えた。一瞬、闇の中に沈黙が広がった。
 
「それでは明かりを灯します!」

 一斉に明かりがついた。

 うわぁ!

 うわぁ!

 うわぁ!

 拍手が起こった。長く、力強い拍手だった。
 
「それではてっぺんに明かりが灯ります」

 チリリンと楽団が鳴らす透明な音色。ツリーのてっぺんに金色の光が灯ると、歓声というより、賞賛のどよめきが広がった。

 スーはぽかんと口を開けて目を大きく見開き、ツリーを見つめていた。私はなんだか嬉しくなって、その手を握り頬につけた。青いミトンの手袋をはめたその小さな手をしっかり握り頬につけた。




 こうしてツリーライティングセレモニーは終わった。私たちは人の波に押されるように、暖かいショッピングセンターの中へ流れこんだあと、小さなカフェに入った。セルフサービスでカプチーノ三つ、ホットミルク一つ、ケントが運んでくる。丸テーブルで四つの頭を寄せ、カップの中に息をフーフーかけていると、さんざんだった寒さも忘れ、いい一日だったと言い切れそうな気がした。
 
「寒かったな。大丈夫か」

 棒読みの言い方だったにしても、ヨージがスーの顔をのぞきこんで言った。そして、眠たそうなスーの頭を小鳥の羽をそろえてやるように指先でそっと不器用に撫でた。スーは目をパチパチさせた。

 そのあと、誰も口を開かなかった。ヨージは欠伸をし、私はカプチーノをフーフーして飲み、ケントは目をつぶり、スーもほとんど寝ていた。

 あの時、私たちは少しだけ幸せだったと思う。まるで、目に見えぬ小さなクリスマスツリーを囲んでいるようで、私たちはいつもより、少しだけ、いや、案外格段と幸せだったのかもしれない。

 スーを送り届けたあと、ケントと私は、ジェイクのアパートに寄ると言うヨージと別れた。まだ夜は浅かった。

 私たちはトニー・バルディリスが働いていた店よりは少しましなカフェに入った。ケントはローストビーフサンドで、私はフレンチディップを注文した。

「悪くはなかったな」
 
「うん」
 
「ツリーライティングセレモニーなんて久しぶりだ」
 
「うん」
 
「シルバに会えて良かったよ。まさか日本人のフィーラーに会えるとは思わなかった」

「そう?」
 
「メタ族が出てきてから、まだ数年だ。メタ族はさ、外見は変わっても心は元のままなんだ。ただどの層でもその変身した体を晒す。コモン族の層で見つかったら、まさに化け物扱いだ。家族ですらその変わり果てた姿に徐々に気持ちが離れていく。まさにカフカの世界だ。そして…」

 そこでケントは私を見つめ、言った。

「そのメタ族はなぜか日本で多く現れてる」

「日本で?」



 お店を出ると私たちはゆっくり歩いた。
 
「スーを見てると希望がもてるな」
 
「そうね」

 ケントの傷はメタ族を捕らえようとした男から守ろうとしたとき斬りつけられたのだという。その際に相手にも怪我を負わせたのでしばらく身を隠したかったらしい。そのメタは女性で今はケントの母親のグループが安全なところに匿っている。

 そういった場所は日本にもあるのだろうか。日本のメタ族はどういう扱いを受けているのだろう。受けるのだろう。
 
 私に何かできるだろうか。いまだにミドルーオブーノーウェアって感じの自分が。自分の居場所も行き場所もわからない自分が。
 


 その夜、夢を見た。一面の砂漠が広がっている。銀色の砂…。風紋が美しい砂漠……。何が見える?

 ツウィンクルツウィンクル…スーの歌声が聞こえてくる。
 
 ツリーだ。砂漠にクリスマスツリー。

 砂の中に一本のツリー。そのらしからぬ光景に私は微笑む。
 
 そう、砂漠にクリスマスツリー…。
 
 砂上のツリー。
 
 いい。凄くいい。突拍子もなくて凄くいい。
 
 灯りは? 灯りはついてんのかい? 誰かの声がする。
 
 ううん、まだついてないのよ。それに砂ぼこりで、近づいてみるまでツリーだってのもはっきりわかんないくらいなの。でもね、近づいてみると確かにツリーなのよ。そのてっぺんにはあの星がついてんの。ほら、スーが目を丸くして見てたあの大きな星。
 
 灯りはそのうちつくんだね? また声がする。
 
 そうねえ。つかないとは言えないわ。

 でもそれにはエネルギーが必要だ。エネルギーって何だろう。わかってるのはバルディリスの蝿みたいな「妄想」なんかじゃないってこと…。大人になったら素敵なことをいっぱいするの、スーは言った。素敵なこと…か。素敵なこと…。ソファに寝転んで歌を歌う…そんなことより素敵なこと…。

 スーを囲んでのツリーライティングセレモニー。これを小さな素敵と呼んでも構わない気がした。そんな素敵の一つ一つが砂上のツリーに灯りを灯す。

 目が覚めた。隣にケントがいた。私はケントの額を撫ぜた。ケントが愛おしく思えた。こんな気持ちは久しぶりだった。

 ケントが私を見た。ケントを見つめる…と、見えてきた。不思議なことに見えてきた。desperate!のジャケットが似合ったころの眼光鋭き若きケントが。

 実際はそんな気がしただけかもしれない。見えたらいいな、そんな気がしただけかもしれない。

 何かがとても静かだった。静かで、とても穏やかだった。



 翌日、ケントは出ていった。

 それからしばらくして私は自分の体に命が宿ったことを知った。日本に帰ろう。決心した。



 それからいろんなことがあった。話し出したらきりがない。ケントとは連絡は取り続けた。ロコの写真も送った。一度だけ、日本に会いに来て、私たちは数ヶ月一緒に過ごした。そして、私はインテグリティの一人となり、小さな三階建てのビルを借りた。ルネビルだ。

 ヨージはジェイクと別れ、スーは念願の仔犬を飼った。

 ケントのことを思うとき、ほんの時々だけど、あの時感じた静かで楽観的な気持ちを思い出す。ツリーライティングセレモニーの魔法の余韻だったのかもしれないあの穏やかな気持ち。でもそれは長くは続かない。砂漠を舞う砂塵のように不安が心の底から湧き上がってくる。

 今が妄想と偏見生み出す乾期だったとしても悲観することはないのかも…。ミドルーオブーノーウェアでも小さな素敵は探せるはず。静の中にエネルギーをため…静かな暖かさを感じたら、小さな素敵が生れるだろう。小さな素敵が生れたら、小さなエネルギーにつながるはず…。

 そしたら、ツリーに明かりか灯る。砂上のツリーに明かりが灯る。

 砂上のクリスマスツリー…。そこへカモメが飛んでくる。ホームレスから餌を漁ってたあのアグリーなカモメかもしれないけど、飛んでくる様は潔く美しい。

 飛んできて、休息にツリーにとまるのだ。

 すると小さな明かりがつく。

 一つだけポッと明かりがつく。自家発電の小さな光。

 ツリーライテイングセレモニー。

 海が近いに違いない。

メタモルフォーシス

 意外なことが意外な時に起きる…。

 こんなことが起ろうとは思ってもみなかった。

 うっすら目を開けると、梅雨明けの陽射しがまぶしかった。レースのカーテン越しに薄緑色のモミジの葉が揺れている。



 目が覚めた時はほんのきしみ程度の変化だった。

 体の中のどこかがジジ、ジジと音をたてている。

 微かではあったが毅然としたきしみだった。目を開けると、部屋の隅に自分で脱いだのか、着ていたはずの下着とパジャマがくしゃっと固まっているのが見えた。

 次の瞬間仰天した。タオルケットのかけられていない自分の膝から上が目に入って仰天した。
 
 まさに…仰天した。

 自分の慣れ親しんだ体ではない。それどころか、理解不能な物体になっている。頭がぐるぐる回りだしたとき、「マモル。そろそろ起きたほうがいいわよ」
カサカサした妻の声がした。冷たい、というよりカサカサした声。

 マスター・オブ・ザ・ユニバース。トム・ウルフの小説の主人公が言う。マスター・オブ・ザ・ユニーバース…。世界、いや宇宙をも支配しているかのごとくの達成感。そして支配感。高揚した気持ち…。

 昨日まではそんな気持ちを抱えていたはずだ。

 思い切って転職してから、収入はうなぎのぼりだった。5、6年前の機械メーカー勤めだったころが嘘のようだった。毎日、妻のお弁当を持って通っていたころ、妻は今より15キロは細く、皮肉と冷たい視線とも無縁で、僕は平凡さにそこそこ満足していた。

「もう起きないとだめなんじゃない? お客さんが来るんでしょ」

 妻の声が響く。

 な、なんなのだ。このきしみと、この不思議な体は。

 目を閉じてみる。夢から覚めることを願う。体のきしみは続いている。特に首と背中と脚の関節と…。体の遠くで感じた小さなきしみは、今、体の表面全体に広がっていた。確実にきしみが広く深く進行している。

 夢の中で夢だったらどんなにいいだろうと思い、手をつねってみるがやはり現実で…ひどく落ち込んでいると目が覚める。そんなことが何度もあった。これだってそうに違いない。現実だとしたら、あまりに馬鹿馬鹿しい。

 妻が階段を上がってくる足音がする。妻が物置にしていた小さな部屋を自分の書斎と称して寝室を分けてから四年になる。

 触れる回数で親愛の度合いが決まるなら、冷蔵庫は極めて親愛なものとなる。電子レンジもかなりのものだ。コーヒーメーカー、トースター、テーブル、椅子。便器のカバー。しかし触れないにしては妻の存在感は圧倒的だった。最近の彼女は無関心を装った批判と諦めに満ちた視線で空気をぐいぐい押してきた。

 妻とは入社五年目に出会った。麻子は総務課の雑用をしていたが、3人官女の一人のようなこじんまりした顔に何気ない愛らしさがあった。エリート大卒の社員に人気が集中する中、どこといって取り柄のない僕を少し気に入ったようだった。あとで聞くとゴキブリ事件のとき毅然としていたからだという。

 ゴキブリ事件…それは社内の飲み会の後のことだった。翌日に控えたプレゼンの資料を忘れたという同僚に付き合って、皆でぞろぞろと会社の大部屋に入っていった。電気をつけると、10数匹のゴキブリが一斉に飛んできた。ゴキブリの奇襲。暗闇に隠れて時が熟するのを待っていたかのごとく入ってきた人間を一斉に襲う…。実際は明かりと人間が発する臭いなのか熱なのかに刺激を受け、一斉に飛んできというのが正解なのだろう。

 皆、ゴキブリが一匹たりとも飛んだところを見たことないものだから、その時の混沌といったらなかった。

 あ~~~~~! 
 お~~~~~~!

 確か男六人と女四人だったが、点数主義のカズキも、爽やか好青年系のジュンヤも血相を変えて逃げまどった。シュンヤは鼻を机の角にぶつけ、大げさなほどの鼻血をポタポタまき散らした。

 その中で僕だけが落ち着いていたらしい。1、2匹、僕のところへ来たゴキブリを軽く手で振り払い、麻子の方を見て、大丈夫だよ、と仏のごとく微笑んだという。よだれを垂らさんばかりに大声で叫び続ける他の男どもに比べ、凛々しい僕からは後光が差して見えたのだそうだ。

 それから1年ばかりあとの結婚式では、ゴキブリの取り持つ縁という有難くもないスピーチで盛り上がった。



 麻子の階段を上がる足音が近づいてきた。ラスト三段くらいか…。今にもドアが、と思ったとき、「あら!」とパタパタ階段を下りていく。ケトルがピーピー鳴り始めた。

 とりあえず僕は起き上がってみることにした。この体ではとても無理なのでは、と思ったが、勢いをつけるとコロッという感じで起き上がることができた。

 見れば見るほどグロテスクだった。硬くてひだのようになった腹。体全体が茶色だ。中古車の車体のような色褪せた茶色。

 手のひらを上にして腕をあげてみた。体の割に細い腕、小さな手、細い指。ウゥッと声にならない声をあげそうになったが、その割に妙に落ち着いている。何なのだ?この妙に落ち着いて観察している自分は…。虫のようにぎざぎざではなく、5本の指、細くて節々っぽく体と同じ色ではあるが、5本の指がある手。指を曲げようとすると、普段とさほど変わらず一本一本曲げることができた。

 そしてガニ股気味な茶色の奇妙な脚。質感、細さ、色は虫であるが、形は人間らしさを残している。昆虫の足に人間の足のエッセンスをふりかけたような脚だ。足の先はあの昆虫独特のぎざぎざではなく、何かの動物、爬虫類か?のようで指すらきちんと5本ある。普段は27センチの靴を履くのだが、今では20センチあるかないかに見える。脚全体の長さは60センチくらいか。小さな脚でころりとしたかなり重たげな体を支えている。

 そのとき、脇腹からなにかがぶらぶらしているのに気がついた。な、なんだ、これは…。

 そうか、昆虫なら足は6本か。左右の脇腹についているその二本の物体は、動かそうとするが感覚がなく、仮装大会の衣装のように形だけつけたようだった。足のような、手のような…その奇妙な物体はぶらぶらしているだけで、動こうとはしない。不思議なもので、自分の意思で動く手と足に関しては、見かけにかかわらず僅かながら親しみに似た感情でその存在を認めつつあるのに、脇腹から出ているそのぶらんとしたやつだけは不気味だった。ひっこぬきたい衝動にすらかられた。

 なんとか状況を把握しようと、しばらく立っていた。細い脚が丸い大きな体を支えていることが不思議だったが、立っていて違和感はない。一歩二歩と前後に脚を動かしてみる。

 やはりこれは夢だ。この状況にもかかわらずこんなに冷静でいられるのは夢だからだ。自分は裸なのか。すっぽんぽんってことか。何かを腰に巻くべきか…など思ったりできるのも、やはりいつかは覚める夢だからだろう。

 けれどピーピーケトルをとめた妻は現実味を帯びた足音で再び階段を上がってきている。

 麻子が僕を見たら、どうなるんだ。顔を見て僕だとわかるのか。顔… そうだ顔は? 体は確認できたが顔は? くるっと見回すが、この部屋には鏡がない。前足、いや手で顔を触ってみる。硬質…。顔があるべきところを触っているのに全く未知なものに触っている。自分の顔であって顔でない。妻が見たら、妻が見たら…なんというだろう。
 ああ~~~~~! 
 きゃ~~~~!
 皆が飛んできたゴキブリに大パニックの中、一人微笑みを浮かべ立っていた妻。田舎育ちで、蝉、てんとう虫、バッタ、イナゴ、バナナ虫、ナナフシ、すべての虫が好きだと言っていた妻。ゴキブリってカブトムシのメスと大して見かけかわらないのに、行動パターンが違って不潔だからって人間に嫌われてかわいそうね、とすら言っていた妻。ゴキブリにさえ優しいコメントをしていたくらいだから、巨大だとしても僕はゴキブリよりましなはずだ。何かの虫には違いないが、頭を触ってみるが触覚もないし、ギザギザの足もない。ぶらんとした脇腹から出た足以外は大丈夫だ。大した根拠もないのに、大丈夫だ!と自分に言い聞かせた。

 あの微笑みを浮かべ立っていた妻は二十年を経て変わっただろうか。



 麻子も自分も確かに変わった。二人の関係も変わった。

 香澄の顔が浮かんだ。可憐で人懐っい香澄。女性に格付けなどしたくないが、もしするとしたらトップシェルフにおかれるだろう香澄。

 では麻子はどこに置くべきか。

 麻子は階段の最後の数段をひどく重い足取りで上がってきた。小鹿のように駆け上がっていた時もあったが、今はポテポテとしている。

「起きてるの?」

「あ…うん」
 
 声が…出た。少し金属音がかっているが声が出せた。そもそも虫は羽をこすり合わせて鳴くのだ。虫は口から音を発することがあるのか。食べ物を噛み砕く以外に口を使うことはあるのか。

 戸が開く。その瞬間、僕はころんと後ろ向きに倒れた。大きな虫が立っているより横になっていた方が威圧感が少ないと思ったのだ。

 倒れた瞬間、目をつぶった。夢であるように祈った。目を開けると目が覚めていますように。

 目を開ける。…パジャマの上にエプロンをつけた麻子が立っている。ファッション度外視のメガネをかけ、髪をひっつめた麻子はいつもより大きく見えた。夜ひとりでスィーツを食べるのがここ数年のくせになっている麻子は一段と丸々してむくんで見えた。

 目が合った。

 うっとしたように妻はひるんだ。顎をひいて僕を凝視する。僕は怖がらせないようにできるだけじっとする。1ミリたりとも動かぬように。しかしどうしても目だけがぐりぐり動くのをとめられない。

「どしたの?」

 驚いたことに麻子は意外に静かな、それでいてすぱんとした声で言った。

「どしちゃったの?」

 近くにきてすとんと膝をついた。夢だ。夢でしかない。僕は安堵した。現実だったら虫になった夫を見て「どしちゃったの」で済ます妻はいない。

「ねえ、どしちゃったの?」

 麻子は僕が登校拒否ならぬ登社拒否をしてぐずっているかのように言った。

「わからないんだ」

 やはりちょっと金属音だった。

「あら、しゃべれるのね」

「僕だってわかる?」

「わかるわよ」

「なぜ?」

 麻子はナイトテーブルの引き出しを開けた。まだ寝室が一緒だったころ、妻が使っていたナイトテーブル。そこから小さな手鏡を取り出し、僕に差し出した。

 僕はそれを手にとり、覗き込んだ。恐る恐る…。

 昆虫をアニメにしたときのような顔だった。擬人化。バグズライフにしてもアンツにしても、出てくる虫たちは決してぎざぎざした口を持っていない。僕の顔は人間と昆虫の中間だった。いや、中間より…人間よりだ。ハエの遺伝子が入った男がどんどんハエになっていくという映画があったが、その主人公よりはずっと愛嬌がある顔だ。目だけはそっくり僕のものだし。僕の目が硬質の顔の中に埋め込まれ、ぱちぱちしている。

「ね、マモルでしょ」

 僕はうなづいた。

「で、大丈夫なの? 具合は悪くないの? 息が苦しいとか」

「いや、気分は悪くない」

 もちろん気分は最悪だったが、体調は悪くはないと思った。

「それはよかった」

 夢以外の何物でもない。虫になった僕の体調を心配しているのだ。僕たちはしばし見つめ合った。じっと見つめ合うなんて何年ぶりだろう。毎日会っているはずの麻子は記憶の中より優しく見えた。すっぴんの肌にそばかすが浮き上がっていた。香澄と違い、生活臭に満ちた妻の顔をまじまじ見て変わったなと思い、おかしくなった。今まさに大きく変わったのは僕の方なのだ。



 数日前、荘太が「変身」の本を読んでいた。

「へーえ、カフカ読んでんのか」

「指定図書なんだよ。仕方ねえよ」

 荘太ちゃんはなんて品よくって可愛いんでしょ、それに比べたらうちのは野生のアライグマよっなんて二軒隣の米沢さんが言うのよ、と妻から聞かされたのはいつのことだったか。

 荘太は自分によく似ている。そう思わないでもなかった。僕の顔は意外に整っているのだ。高1になった荘太は前髪を伸ばし妙に身なりに気を使うようになっていた。不良とは程遠く歳の割には扱いやすいのだろうが、父と子としての関係は以前より遠くなったように感じていた。

「ヘンシン、ヘンシン」

 本のタイトルを翔太が繰り返した。

「ヘンシン、ヘンシン」

 意味というより音を楽しんでいるようだった。

 翔太は、声変わりする前は、男の子にしても甲高い声だったが、声変わりをした今は僕より低く、声を聞いたらその幼い話し方が意味することは明らかだった。

 ヘンシン、ヘンシン。そう言いながらテーブルの周りを翔太は回りだした。独り言のようでもあり、周りからの働きかけを待っているようでもあった。

 翔太にどう接していいのか、ひどく悩んだ。翔太の話しかけに一生懸命答えたつもりでも「あー、それ、ただの独り言なの」と麻子に言われることもあれば、独り言だとほっておいたとき、「どうして答えてやらないの」となじられたこともあった。

 翔太は体は随分大きくなったが、顔は麻子に似て丸く幼い感じだった。時折、彼の世界に僕が存在しているとわかるときがあった。笑いかけるとにっこり笑い返してくれた。手を差し出すと指先にちょんちょんと触れてくれることもあった。

「ねえ、お母さんがいきなり虫になっちゃったらどうする?」

 麻子が翔太に聞いた。

「虫って大きいやつ? 小さいやつ?」

「うん、小さめ」

「蚊くらい? 昨日そこの壁にいた蜘蛛くらい?それともカナワ君が飼っていたカブトムシくらい?」

「う~~ん」

「2センチくらい?」

「それよりさ、この本みたいに、そのままの大きさで虫になるってのがいいんじゃないかな」 荘太が言う。

「そのままって幅が? それとも長さ?」

「そうだよな、翔太、いいとこに気がついたよな。長さ、身長がそのままで虫になるってことはさ、しかも甲虫系だったらさ、すごーくヒュージだよな」

「ヒュージ、ヒュージ、ヒュージ!」

「それじゃ、ドラえもんも顔負けの迫力だわね」

 麻子が笑った。これだけは若い頃と変わらない。ころころとした笑い声。

「でも家族が虫になるってやっかいだよな。だんだん面倒になるのわかるよ。なんたって虫だからさ」

 荘太が言う。

「虫になったのママだ。ママと同じ。ママと変わりない」

 翔太が少し怒ったように言った。

 虫か、虫になってこの家から逃げてしまいたい。そのときふとそんなことを思った。逃げて香澄のところへ飛んでいく。香澄の住むマンションへ。



 妻は虫人間の僕の目を覗き込んでいる。

「今日は松川さんって方が来る日よね」

 麻子の言葉に心臓がコトンとなった。焦るといつもコトンとなる。虫人間になってもコトンとなった。

 奥様に会ってみたいの、初めて香澄にそう言われたのは何カ月も前だ。一年以上前か? これ以上断ると香澄が離れていってしまう。香澄を失ってしまう。追いつめられて、うん、とうなづいた。どれほどの数の男が同じような状況に同じようにうなづいたのだろう。

「でも僕からまず話すからさ。実質夫婦であってないようなものだから、妻は逆上したりしないと思うよ。ただ子供がいるしさ」

「いいの、取りあえず会って存在を知っていただくの。奥様に会ってみたいだけなの」

「ちょっとだけ待ってくれるかな」

「どうしようかなあ」

 香澄はくすっと笑った。

 マモルの部下の松川さんが会いたいんですって、と麻子に告げられたのは、それから数日後だった。

「ああ、仲人を頼まれたからね。君にも会っておきたいいんだろう」

 なんて下手な言い訳だろう。

 そして今日がその日だった。

「何時だったっけ? 松川君が来るのは?」
 
 口は動かしにくかったが、何とか人間らしい声が出せている。それにしても薄い金属の膜を何枚も通ったかのごとくどこか不自然な声だ。

「11時よ」

 11時? 時計を見ると10時45分を指している。

 どうする? どうする? どうするんだ。

 僕の頭の中では、妻と愛人が出会うという月並みにドラマチックな事態より、いったいこのままでいいのか服を着るべきなのか、今のこの状態は裸なのか、というひどく基本的な問題がきしきし音をたてていた。裸だとするとひどく恥かしいわけだ。



 ディール、商談をまとめる。自分にそんな才能があるとは思わなかった。

 機械メーカーに勤務して10年を過ぎたころ、頭に fed up with という文字がフラッシュし始めた。

 特に英語が得意だったわけでもない。しかしその時、クリアに驚くほどの確かさで fed up with の文字がフラッシュしたのだ。フラッシュした文字は頭の中の広い空間にアクロバット飛行機で描いた文字のようにしばらく浮かび漂ったあとぼやけてていった。

 その時、僕は確信した。自分は fed up  飽き飽きしていると。はっきりしないのはそのあとのwith につながるものだった。何に飽き飽きし、うんざりしたのか。仕事になのか。妻なのか。家族になのか。今の状況全てになのか。

 そして転職のチャンスが訪れた。自分でも思わぬ隠された才能だった。収入は増え、周りの人間も流れるがごとく一掃され、新しい顔ぶれの中、自己イメージも変化した。新しい自己イメージの構築だった。


「いつもアールグレイですね」 

 松川という入社数年目の子が言った。クライエントの会社からの帰り、チームで寄ったレストランでのことだった。天井をアンティークのファンが回っていた。壁は天然石なのか人工石なのかと考えていた。そろそろ家も建てたかった。今の中古マンションはメゾネットタイプにしてはお買い得だったが、やはり一から自分の好みに合った家を建ててみたかった。

「香りがいいからね」

 僕は微笑んだ。いつもはそんなこと気にしないのに、この微笑みにはえくぼが出ているだろうかと思った。幼いころよりチャームポイントと言われたえくぼだ。

 恋愛感情などとは長い間無縁だった。根が真面目なのだ。結婚したら他の女性に興味を持つのはいかがなものか、など古臭い考えを持っていた。

 日常生活の水面は平穏だった。平穏さは落ち着きから退屈へと移り、雨を期待し始めていた。水面に揺らぎが欲しかった。その気配を感じさせたのが「いつもアールグレイですね」の言葉だった。

 松川香澄との親密さが増すころには、求めていたのは水面の揺らぎだったのか、彼女の微笑みそのものだったのかなどどうでもよくなっていた。幸せ度合いが増したかどうかはわからないが、確かに生活には張りがでていた。

 水面の揺らぎは表面だけがさざめいているときは美しい。水の中へ入っていこうとすると水面はそれを受けとめるだけの余裕はあるのかが問題だ。

 海ならあるだろう。

 湖なら。

 池なら。

 水たまりなら。

 ちっぽけなちっぽけな泥水だったら?



 麻子と自分との違和感…。

 それはいつ頃始まったんだろう。

 麻子にとって重要なことが自分にとっては大したことでなく、自分にとって大事なことが麻子にはどうでもよく、その違いが意外な驚きとして楽しさを与えていた時期を過ぎると、どこまでも続くレールのごとき無味乾燥な平行線へと変化していった。

 けれど今は麻子との違和感について考えてている余裕などないはずだ。自分自身の違和感について考えるべきなのだ。



 子供には昆虫派と犬猫派があると思う。虫に興味を持つ子と犬猫を代表とする哺乳類に興味を持つ子。もちろん両方に興味を持つものもいれば、どちらにも興味を持たないものもいる。年齢によって興味の対象が変わっていくこともある。

 僕は圧倒的に虫派だった。虫の世界は面白かった。兜をまとい毎日戦っているように見えた。掌に虫をのせて観察するのが好きだった。たいていは必死で僕の小さい掌から脱出しようと動きまわったり、跳んだりするのだが、中には僕をじっと見つめるものもいた。彼らにとって僕がどのように見えていたのか今でも理解できないが、その瞬間はお互いの存在を認め合っているように思えた。

 犬猫が嫌いだったわけじゃない。ハムスターだってリスだって飼ったし、かわいがった。けれど触れて常に温かい生き物は自分と同じ仲間で驚異の対象ではない。それに対して虫は宇宙生物のごとく僕を魅了した。

 だからか多数のゴキブリが飛んできた時も特に驚かなかった。もちろんゴキブリは嫌いだ。けれど騒ぐには値しない。そして今、通常な精神を持つ大人だったら、自分が虫になったと知ったとき、僕のように落ち着いてはいられなかったと思う。その点では自慢していいのでは、など悠長なことも思った。

 麻子も虫が苦手ではないのは、今の状況では幸いだった。ケーブルテレビの虫の番組も翔太と一緒に楽しげに見ていた。

「あら、足が一本取れててかわいそう。痛くないのかしら。治せないないものかしらね」

 麻子は夫が虫になっていた、というシチュエーションをさほど動揺せずに受け止められる稀有な人物だと思う。虫人間になって麻子の良さに気付かされたわけだ。

 それにしてもこの状態が僕に降りかかってきたということは、何か必然性があったのだろうか。



「松川さんがいらっしゃったわよ」

 麻子が言った。僕が焦るか見てやろう、という意地の悪い声でもなければ、虫になった夫の妻としての動揺も感じられない。「あなた、クリーニングはワイシャツ一枚でしたっけ、二枚でしたっけ」くらいの何気なさだった。

 僕は薄手のタオルケットを腰に巻いた。そんなことをしたって香澄の前に顔を出せるはずもないのに、おたおたと短く細い足で部屋の中をぐるぐるした。バネをまくとかたかたを動く夜店で売っていたおもちゃを思い出した。ウサギか? ネズミか? 虫ではなかったと思う。

 麻子が入ると、タオルを巻いた僕を見た。吹き出すわけでもなく馬鹿にするでもなく穏やかな視線だった。

「松川さんに会わないわよね」

「会えるわけない…」

「そうよね。それより病院行く?」

「何科に?」

 二人で困ったように笑った。

「麻子…。実は松川くんの用ってのは」

「わかってるわよ。大体のところ」

 麻子は淡々としていた。

「とりあえず話を聞いておくわね」

「ありがとう」

 金属音のビブラートがかった声で、僕は感謝した。僕は本当にありがたい…と感謝した。



 麻子が出ていき、僕は布団にころんと横になった。むくんだときによくするように、足を上げてトントンと踵を合わせようとしたが、茶色の硬くて細い足の異様さにやる気が失せてしまった。

 目をつぶる。香澄の笑顔が浮かんでくる。香澄と生活する…。何度も思い描いたが、その度になぜだかわからないが必ず翔太の「ユウビン、ユウビン」という声が頭に響いてきた。翔太は郵便物が好きだった。テーブルに並べて切手や印刷された文字を飽きもせず見つめていた。自分には荘太と翔太という子供がいる。特に翔太には一生守ってやる親が必要だ。妻以外に好きな人が出来たからといって家を出るわけにはいかない…。

 急に麻子と香澄の会話が気になってきた。僕はなんとか立ちあがろうとした。

 よっこいしょ…。丸っこい腹。細い足でふんばる。立ちあがってはみたが歩こうとするとひょこひょこする。客間に行くには階段を下りなければならないが、そんなことができるのだろうか。

 階段を下りるなんて最初は不可能に思えた。階段を前にそれでも恐る恐る足を出してみた。体の割にバランスの悪い細い脚。チッ。細すぎるだろうが。虫になった自分の脚に悪態をついてみる。

 一段目はうまく下りれた。二段目、三段目、なんとかオッケー。ところが四段目で足がぐらっときた。手すりをつかもうにも慣れない腕の長さのせいか、つかみ損ねる。次の瞬間、ごろっごろっと体が階段を転がった。

 何とか三段を残したことろで足を広げて止めることができた。麻子や香澄が音と振動に驚いて出てくるのではと息を殺したが、特に動きはないようだ。なんとか立ち上がりながら、虫人間の僕に青あざはできないのだろうな、など思っていた。ただ、打った肘や膝や腰は外見が人間のときと同じくひどく痛んだ。

 用心してゆっくり確実に客間のドアに近づき、耳をあててみる。少し興奮気味の香澄の声が聞こえてきた。

「マモルさんはどこなんですか? どうしてここにいらっしゃらないんですか? 二人で奥さんに話すって約束しましたのに」

「すみませんね。本人、ちょっと顔を出せない事情があって」

「私がお話すべきことは聞いていただきましたので、あとはマモルさんと一緒でないと…。これからのこと決めなくちゃなりませんし」

「ええ…。そのうち本人も交えて…。でも今日はちょっと無理なんですよ」

「ご在宅なんですよね。仮病とか使ってるわけじゃありませんよね」

「仮病…。病気といえば病気、といえるのかもしれませんけど」

「どこが悪いんですか?」

「あの…。松川さん…虫は好きですか?」

「虫? なんで虫なんですか? 虫は大嫌いです。それにしてもなんで虫! 虫なんですか!」

 香澄の苛々した声が響いた。香澄はたいていは穏やかなのだが、緊張すると声高に攻撃的になる。

 僕は耳をドアに押し当てていたが、耳たぶがあるわけではないので、押し当てた場所に耳があるのかもわからなかった。ただ声はよく聞こえてきた。

「あ、ちょ、ちょっとお待ちください」

 麻子の声がしたかと思うと、戸が開き、僕はぐいっと戸に押された。突然開いたので、耳を押しあてていた僕はバランスを失って後ろに倒れた。

 僕の倒れる音と香澄のきゃあぁぁぁぁぁ!という声が同時だった。

 僕は必死で起き上がろうとした。両手両足をバタバタさせ、脇腹から出た二本の脚をぶらぶらさせ、なんとか必死で起き上がろうとしたが起き上がれない。

 そんな僕を香澄は廊下に立ててあったモップ用の棒を手にもの凄い形相で殴りつけてきた。殴りながら、ありょ~~!ともおりゃ~~!ともつかない声をあげる。

 そしてジャンプすらしそうな勢いで思いっきり殴りつけた。

 脳天に衝撃が走った。正に電気を帯びた大きな石を頭に振り下ろされたような衝撃だった。

「ちょ!ちょっと待って! やめて! 主人なんですから! 主人なんですよ!」

 香澄はその声にも躊躇することなく、廊下の隅に追いつめられ痛みに動きをとめた僕を何度も殴りつけ、さらに突こうとする。

 はっ!
 
 香澄は棒を力いっぱい僕に向かって突いた。

 ガリっ!とも ボリッ! ともつかぬ音がした。

 その瞬間、脇腹がずーんと痛んだ。

 棒が刺さった…。

 香澄は今度は棒を勢いよく引き抜いた。

 さらなる激しい痛みが僕を襲う。香澄はさらに剣道の構えをすると僕の頭めがけて振り下ろした。

「やめて! やめて下さい! 主人なんですから!」

 麻子の声も耳に入らぬようで、ギョェッ!という声とともに面!とばかりに、僕の頭に強打をあびせた。

 失いつつある意識の中で一瞬、香澄と目が合ったように思う。香澄は殺気じみた目で再び剣道の構えをしていた。



 頭が痛かった。体も痛かった。気がつくと廊下に一人転がっていた。麻子も香澄もいない。

 廊下の隅にはさまったようになっている頭をかろうじて動かし、何とか起き上がろうとした。いたたたたたっ! 思わず声が出た。それでもゆっくり立ちあがろうとすると、ことっと何かが落ちた。

 脚だ……。

 落ちたのは脚だった。脇腹から出ていた形だけの脚がくの字形になって落ちている。

 脇腹を見ると、香澄に棒で突かれたところに7センチほどの穴があき、その横に10センチばかりの縦長の傷があった。ここから脚が抜けたのだ。

 血が出ている。少し色が薄い気もするが赤い血だ。虫なら緑色の血のはずだ。とすると、この硬い皮膚の下は人間なのか。哺乳類のままなのか。

 僕は50センチばかりの脚を拾い上げ、脇腹に差し込もうとしたが、やめた。痛そうだし、もともと機能していなかった脚だ。もう片方も引っこ抜きたい衝動にかられたが止めておいた。

「マモル、大丈夫?」

 麻子が小走りにやってきた。

「松川さん追い出すのどれどけ大変だったか。凄いわね。カンフー並みの棒使いね。奇声も凄かったわ。嫌がらせですか!嫌がらせですか!!って」

「えっ?」

「どうやら嫌がらせで大きな虫を用意したと思ったらしいわ」

「・・・・・・」

「痛いでしょ。病院に行かなきゃね」

「何科に?」

 僕たちは笑った。ハハッ ハハッと大笑いした。脇腹がひどく痛んだ。頭も痛い。肩も胸も、体じゅう痛かった。

「とりあえずリビングのソファで横になってね。階段上がるの無理でしょ。わたし、どこに相談したらいいか考えるわ」



 結局どこにも相談しないまま夕方になった。こんなことを相談する場所なんて見つかるはずもない。

 頭痛は少し楽になったが脇腹の痛みは時間とともひどくなっていた。

「ロキソニン効くのかな」

 麻子が水の入ったコップとロキソニン錠を持ってきた。

 痛みをこらえながら、リビングのソファに横になっていた。太い体はソファから半分くらいはみ出しているが、どうにか落ちずにいられた。脇腹は麻子が消毒し、大きめのガーゼを何重にも貼ってくれた。



「ただいま!」

 翔太だ。どうしよう、と目で問う僕に、麻子は「大丈夫よ。動かないで」と言う。

「翔太、お帰り! おやつ、買う時間なかったんだけど、昨日のシュークリームならあるわよ。夕ご飯の準備もちょっとわけがあってまだなんだけど、簡単に作れるものすぐに用意してあげましょうね。それよりね翔太、ちょっと大切な話なんだけど」

「なに、ママ、なに?」

「あのね、パパが虫になったの。ううん、パパはパパだけど、見かけがちょっと虫っぽくなったの。でもパパに変わりはないの」

「ふーん、虫だ。パパ、虫になった?」

 翔太はそう言いながらリビングに入ってきた。そして少しはなれたところで僕をしばらく見ていたが、近づいてきて顔を覗き込んだ。

「パパ、虫になっちゃった?」

「うん。ま、そんなとこだ」

「声、変った。でも虫じゃない。話せる。脚も違う。目はパパ。色は虫。皮膚も虫。でもパパ。口もパパ」

 僕はなんだか嬉しくなった。同時にひどく情けなくもあった。

「そうだ!」

 翔太はそう言い、自分の部屋に行くと封筒を持ってきた。翔太の集めている郵便物の中から一つの封筒を持ってきた。

「ほら!」

 それは保険会社からの内容説明の手紙が入っていた封筒だった。

「ほら!」

 翔太が指差したのは切手だった。虫の切手だ。蛍のような長細い虫の切手だ。

「ほら、顔、ない。目はあるけど顔ない」

 そういって僕の顔をのぞきこんでいたが、再び「そうだ!」っと言って駆け出した。

 次に翔太が持ってきたのはごきぶりホイホイだった。台所の隅に随分長い間しかけっぱなしにしていたものだ。

「見て!」

 翔太は開けて見せた。一匹、かなりの大きさのゴキブリがかかっている。随分前にかかったのか、水分が抜け乾燥し、平たくなって形が崩れかけている。足が一本とれて2センチほどはなれたところについている。

「ほら、顔ない。人間の顔ない。パパと違う」

 そう言って、ごきぶりホイホイを僕の顔に近づける。

「パパは顔ある。パパはパパ」

 僕は切なかった。涙はこぼれなかったが、本当は涙を流して泣きたかった。そんな僕たちを麻子は少し離れた椅子にすわって見ている。

 やがて荘太も帰ってくるだろう。荘太はどう言うだろう。そして僕はいつまでこのままなのだ。

 片手に虫の切手の封筒、片手にごきぶりホイホイを持ちながら、僕は心から夢であることを願った。

 目が覚めたら、僕は昨日とは違った日を過ごしていきたいと思った。

 ただ、漠然と、これは夢ではないと感じている。

 その漠然とした確かさはどんどんはっきりとした確かさへ形を変えていき、僕の丸々とした体を満たしつつあった。
 
 

祈り:タキ



 事務所への階段を急いで上った。三階なので、急いでいるときはエレベータより駆け上がる方がはやい。

 山岸さんのことが急を要する。

 マンションの隣に住む山岸さん一家。ミクが小さい頃はよく上のお兄ちゃんに遊んでもらった。山岸さんの奥さんとは時折一緒にコーヒーを飲む。大抵はどちらかのダイニングでだが。大昔、もしも学生時代に会っていたら、親友になれたのかもしれない。いや、無理か。あの頃の自分は誰とも友達になれなかった。

 最近、ちょっと気になるのはそのお兄ちゃん、荘太くんのことだ。ここ一年で急に背が伸びた彼、数日前、チッと舌打ちしながらコンビニから出てきたが、その様子が気になった。以前の自分に重なったのかもしれない。大した理由もなくイライラしていた大昔の自分に。

 そんな自分を思い出すたび、必ず母を思い出す。

 階段途中で足をとめた。

 お母さん…。

 


 あの日、私は小さなアパートにたたずんでいた。洗面所の鏡は右下に細かい割れ目が入っている。

 鏡をじっくり見るのなど久しぶりだった。左手にはハサミ。

 まずはオレンジの部分を切った。次にピンクのところ。パープルの前髪も切る。染め直す、という手もあったが、伸びすぎていたので、色の着いたところを切ることにした。色を全部取り去ると、かなりのショートになった。床にはカラフルに髪が散らばっている。

 次に爪を切った。マニュキュアは剥げていて、でこぼこで白っぽくつやがない。痛くないぎりぎりの長さに切った。

 次に眉を丁寧に、ごく普通の人、という感じで描いてみた。穏やかな感じに。顔色は悪く、肌は荒れていた。

 そしてベージュのシンプルなワンピースに手を通した。

 鏡を見ると、別人だった。自分であって自分でない。手をパン!と打った。なぜかわからないけれど、手をパン!と打った。心がざわざわした。

 アパートの鍵を閉めるときには、心のざわざわは痛いほどになっていた。




 病院に着くと、パピーが教えてくれた階と部屋番号を頭で復唱した。

 仔犬のように可愛かったので、私は妹をパピーと呼んだ。お姉ちゃん、と呼び、どこでもついてくる、小さい頃は本当に可愛い子だった。  

 私が家を出て長かった。限りなく長かった。今考えると、親はさほど理不尽でもなく、パピーも良すぎる子だった。なのに家を出た。一人で荒れて家を出た。父はそれから数年後事故で亡くなった。

 家を出てからも荒れたままだった。生活が荒れていた。心が荒れていた。態度が荒れていた。時の流れにも、荒れて対処した。荒れが似合う歳を過ぎても、荒れる以外、術を知らなかった。

 エレベータで七階まで上がった。教えられた番号の部屋の前には四つの札があった。三つの札に三つの名前。どれも違う。四つ目は空欄だった。通りかかった看護師に、患者の名前を告げると、ご家族ですか?と聞かれ、私は口ごもった。

 緊急集中ユニットに移されたと聞き、三階まで降りた。ユニットのガラス戸の前で私は動けなくなった。

 一瞬、何で、髪切ったり、爪切ったり、いつもは着ない服を着てここにいるんだろ、ってわからなくなった。そうしなければって思ったわけを考えた。母が「下品」な感じが嫌いだったからだろうか。

 電話でパピーは母の病状がよくないと言った。会うなら今会っておかないと、と。

 パピー…。

 母とパピーのことを考え、胸の圧迫が強くなったとき、緊急治療ユニットのガラス戸の向こうにパピーが見えた。こちらに歩いてくる。

 確かにパピーだった。隣にいるのはパピーの旦那だろうか。

 私は焦って、少し後ずさりをした。そしてくるっと反対を向き、トイレのある細い通路に隠れた。

「こんなに急だなんて」

 声が聞こえてきた。パピーの声だ。泣いている。

「心の準備できてないよな」  パピーの旦那らしき者の声…。

 胸が早く打ち始めた。壊れた機械みたいだった。私は壊れていた。



 病院を出て向かいのファミレスに入った。

 頭も心も真っ白だった。真っ白ではなく濁った灰色か…。オーダーしたつもりもないのに、パンケーキとコーヒーが運ばれてきた。

 パンケーキにフォークを突き刺しながら、なぜか、「グロリア」という映画を思い出した。古い方だ。リメイクじゃない方だ。その中で主役の訳ありの中年の女が、ギャングに家族を殺された男の子を墓地に連れて行き、こう言うのだ。どのお墓でもいいから、家族のだと思って話してごらん。祈ってごらん。

 なんで、グロリアを思い出したのかわからない。その中で男の子が父親をパピーって呼んでいたからか。

 何しに来たんだろ。謝りに来たのか。ただ生きてるうちに会いたかったのか。母が誇りに思っていたのはパピーであって私ではない。一度たりとも母は私のことを誇りに思ったことがあったのだろうか。でも、愛してくれた、とは思う。事故で亡くなった父も愛してくれたと思う。パピーも慕ってくれていた。少なくともそんな頃があった。

 ファミレスを出ると、再び、病院のエレベータに乗った。指は緊急 ユニットのある3階ではなく7階を押していた。母が何日も過ごしただろう7階の部屋へ足が向いていた。

 面会時間だからか、カーテンで仕切られたベッドの周りから声が聞こえてくる。一つだけシーツがはぎ取られ、カーテンで隠されていないベッド。ここに母は横たわっていたのだ。

 触れてみた。ベッドの端に触れてみた。左手で。私は左利きだった。左手で字の練習をする私を心配そうに見つめていた母の顔を思い出した。

 お母さん、家を出てから、私はずっと荒れていました。変えたいとはずっと思っていました。でも変えれませんでした。お酒も飲み過ぎています。家を出てから、私はずっと荒れています。自分でもなぜパピーと自分がこんなに違うのかわかりませんでした。今でもわかりません。

 今度は右手で母の枕があったであろうところを触った。

 祈ろうとしていた…と思う。でも祈れなかった。何に祈るのか、祈りの意味さえわからないまま、シーツのないベッドのマットレスを見つめていた。

 あら。その声に振り向くと、丸顔の看護師が私を見ていた。

 あ、すみません。間違えたみたいで。  

 もごもご言って部屋を出た。

 母に会いたかった…のか。パピーに会いたいのか。でもやっぱり会えない。荒れた私は会えない。母が亡くなった今、会えない。パピーと二人で母の手を握るというシナリオは消失してしまった。

  病院から出ると、心が冷たく固まっていた。心の乱れはさほど感じていない…。悲しみが強すぎたわけでもないと思う。ただ心が冷たく固く固く…。

 頭の中で、映画の男の子が叫ぶ。パピーに会いたい。ママに会いたい。

 私は誰に会いたいのだろう。会いたかったのだろう。

 しばらくあてもなく歩いた。短髪、短爪、ローヒール、姿を変えても、中身は同じだった。

 ポケットに手を入れると、ファミレスの勘定書が出てきた。どうやら払わずに出てしまったようだ。

 戻るか… そうつぶやいた。

 レジで支払っていると、道路を隔てた病院の門からパピーと旦那とそれにさっきはいなかった男の子が出てくるのが見えた。パピーは泣いている。男の子は何かの模型を持っている。グロリアに出ていた男の子と同じくらいの年齢だろうか…。

 私は動きをとめ、どうしたものか、と考えた。荒れている、ではなく、荒れていた、の自分だったら会えるのに…そんなふうに思った。

 荒れていました、以前は荒れていました…荒れています、でなくて荒れていました、って言えるようになれたら…まずはそこから始められるだろうか…。

 目をつぶると幼い自分が見える…そんな気がした。グロリアの中の男の子のように、手を合わせ、うなだれて祈る幼い自分が見える…そんな気がした。

 必要なのは、祈る場所ではなく祈りそのものなのだ。そう思ったら、涙がこぼれてきた。

            ☆

 あの日を思い出すと今でも胸が熱くなる。あの時、私は震えていた。くちびるが震えていた。肩が震えていた。

 そして気づいたのだ。震えているのはくちびるではなく心だ、と。

 それ以来、何度も何度も繰り返したこの気づき。




 あの日、ファミレスを出たところで声をかけられた。

「落とされましたよ」 ビブラートのかかったハスキーな声だった。

 振り向くと、ハサミを手に私よりさらに短髪の女が立っていた。

 ハサミ? ハサミなどバックに入れていたのか? 

 その人物が手にしていたのは確かに私が髪を切った左利き用のハサミだった。


 それがシルバとの出会いだった。

アティテュード:タキ



 山岸さんのとこの下の子はショウタくん、という。小さい頃からかわいらしい知的な顔をしていた。「言葉の発達が遅くて」山岸さんはさほど気にしてるふうもなく言った。数日前会ったショウタくんは少し流れるような視線で「こんにちは!」と言った。その声が随分低くなっていたのに驚き、わあ!すっかりお兄ちゃんになったね!と言いたかったが、ゆっくり「こんにちは。ショウくん」と言うにとどめておいた。

「この子、大きな刺激が苦手なんです。ヘッドライトにあたった鹿って英語があるでしょ、その言葉聞いたとき、そんな感じだなって思ったんです。鹿が急に車のヘッドライトに照らされちゃったら、目を真ん丸にして驚いて固まるでしょ。この子、小さな刺激でもそんな顔になるんです」

 よりによって大きな刺激が苦手なショウタくんのお父さんがメタか……。急に眼差しが大人びてきたお兄ちゃんのソウタくんの方はどう受け止めているんだろう。



 メタ。メタモルフォーシス。変身。これは私たちが最も気を使わなければならない現象だ。一つのレイヤーだけに具現化するものなら、扱う方法は種々ある。けれど、メタだけは別だ。すべての層、レイヤーにさらされる。

 私がメタを目の当たりにしたケースは多くはない。まさか隣の山岸さんのご主人に起こるとは思ってもみなかった。

「山岸さぁん」買い物から帰ってきたとき、ドア越しにゴミ袋をガサガサいわせるような音がしたので、声をかけた。小学校の南班のプリントをなくしてしまったので見せてもらえればと思ったのだ。

 少しだけドアを開けた山岸さんは、いつもは、あーら!と元気に笑いかけてくるのだが、少し息をのみ、恐る恐るといった表情で私を見た。

 どうしたんですか? ドアの隙間から、血らしきものが床についているのが見えた。点々、というより、かなりの量で、直径20センチほどもある血だまりも見えた。

「誰か怪我なさったんですか?」

 そのとき、床に落ちている不思議な物体に目がとまった。山岸さんのところは角部屋のメゾネットタイプで入口の玄関扉こそうちの扉の隣に並んでついているが、中の広さは全然違う。吹き抜けもあるし、階段もある。

 その物体は階段の近く、玄関から比較的近いところに転がるように存在していた。

 緩やかな「くの字型」に曲がった子供の腕のような形だった。ただ色は薄い銅色、というかカッパー色というか…。

 メタで似たケースを以前一度だけ見たことがあった。シルバに付いてメタの人の安全確認についていったときのことだ。メタモルフォーシスしたのは40代の妻で、夫は「身長は半分になってしまいました、でも、顔は妻のままです」と笑顔で言い、すーっと涙を流した。奥の部屋に座っていた妻は少し緑がかった薄銅色をしていた。
 
 その経験もあったので、メタだ、と確信した。甲虫類のメタに違いない。

 もしかしたら、ご主人の体に何らかの変化があって、あそこに落ちているのは彼の体の一部分ではないか…。単刀直入に聞いてみた。もし、そうなら、そのようなケースに私は少し経験があるので、安全対策に協力させてもらえないだろうか、と。

 山岸さんは目を見開き、大きく息を吐くと言った。「お願い…します」
 

 シルバに伝えなければ。今すぐ。
 


               ☆


 シルバと出会ったのは、もう何年も前だ。限りなく昔のことのことのようであり、たった今のようでもある。

 私がジョウと出会って2年程経ったころだっただろうか。

 あの頃の私は若すぎないアル中で、ジョウはまだ若いアル中だった。ジョウと私は似たような年だったが、ジョウは男だからまだ若く、私は女だからそうともいかず…と不公平な話だ。

 ジョウと私は酒がいける口で、それが不幸の始まりだった。酒がいけるとアル中にならない体質は同意ではない、それどころか反対だ、と気づいたときには既に遅しで、私もジョウもアル中だった。

 私は顔にも態度にも出ないドリンカー。一杯、二杯、三杯、四杯…八杯、九杯…いくら飲んでも一向に平気。醜態もさらさず、泣き上戸にもならず、しらふのときとほとんど変わらない。

 酒が飲めると知ったときひどく嬉しかった。自分の隠された才能を見出したようで嬉しかった。得意にさえなった。それまで何をやっても平凡の域を出なかった私だったから、不良少女になったときさえ、ちょうどいいあんばいの不良少女だった私だったから、女なのに酒が飲める、ひどく飲める、いくら飲んでもしらふのまま…この事実は私を有頂天にした。

 ジョウは14で飲み始め、あたしは15だった。

 最初はビール。口の中で線香花火がパチバチ弾けた感じは、初めてコーラを飲んだときに似ていた。酒が好きになるだろう…予感がした。すると、自分が大人びて思えた。

 それから数カ月後にはウイスキーをロックで飲んで平気だった。酒を飲み始めた私の中には池ができた。いったん池ができると干上がらせるのが恐かった。だから、体に池を飼った。

 アルコールの味が好きだった。自分の変化が好きだった。どんなに緊張していてもリラックスできる。度胸らしきものもついてくる。雄弁にもなれる。

 お酒を飲むとね、体がふわっとなるのよ、そういう子もいたが、私は違った。酒を注ぎ込み池の水位が上がると、私の安定感は増した。体と頭のねじがほんの少しだけ緩んだが、緩んだ分だけ、物事の衝撃は少なくなった。

 酒に強い女だと評判になった。酒が強いからといって、誰に迷惑かけるわけでもない。可愛げのない女だと思う男たちがいたが、そういう男はどちらにしても趣味じゃなかった。不良少女はとうに卒業し、一見普通のOLになった時期も数年あったが飲み続けた。

 人並にデートもしたが、酒ねらいだった。彼らの前で、底無し沼のように飲んだ。ワイン、ウイスキー、ジン、ウオッカ、テキーラ、ラム、何でもこいだった。勘定を払うころには怒りで顔が引きつっている男も一人や二人ではなかった。家まで送るよ、という男たちの申し出を丁重に断り、しゃきっと一人で電車に乗った。女らしくないやつだ、陰口を叩かれた。山姥だ、面と向かって言ったものもいたが、私は鼻で笑い、気にもとめなかった。

 長い間、酒の弊害は全くなかった。酒を飲むと食欲が落ちたから太りもしなかった。ただ、体の濃度が少しずつ薄くなるようで…それが多少気になった。

 ある時、巨大な水袋になった夢を見た。動こうにも動けない。ごろごろ寝返りうって目が覚めた。

 もともといたようでいなかった友達もいつの間にか完全消滅した。女友達は結婚し、少しずれて男友達も年貢を納めていった。恋人らしきものはできては消え、男運は悪かった。しまいには満足いく飲み友達さえ見つけられなくなった。そして残されたのは完全なるホームドリンカーの道だ。

 店で飲む男たちに比べれば、私が酒に費やす金はずっと少なかった。それでもある日、ざっと計算したら五百万になった。五百万……。

 その数字は私を愕然とさせた。

 酒に費やさなくとも何かに使っていたには違いない。履きもしないパンプス、流行ブランドの擬似ファッション、自己満足のための小洒落た物……。

 けれど案外有効に使っていたかもしれないのだ。貯金として残っていたかもしれない。焦りを感じた。何かしなければ…。五百万も使ってアル中になっただけだったら何とも淋しいじゃない。だから毎月少しばかり寄付する手続きを取った。特別な時以外は、もう酒は飲まない、と決心もした。前者は続いたが、後者は数日後には消滅した。

 名前だけ夢々しい安普請のマンションに帰ると、取りあえず目に入ったリカーに手を伸ばす、それが日課だった。私へのレッテルは酒が強いから大酒飲みへととうの昔に変わっており、その違いもわからぬまま、数年が経っていた。そしてマンションからアパートに移るころには、仕事は飲み屋の給仕だけになり、髪に一色ずつメッシュを加えるのだけが楽しみになった。レインボーカラーの髪の私に真剣に同情するやつはいないだろう。憐れまれるのはいい。馬鹿にされるのもいい。だけど同情だけはされたくなかった。

 ある日、シェフのレイコが妊娠した。子供を待ち望んでいた彼女だったから、満面笑みで仲間に報告した。もうつわりがひどくってね、と言いながら、レイコは満足そうな笑みを浮かべた。みなレイコの周りに集まってきた。タエコは自分の事細かな経験談を披露し、エリはうらやましいわ、とレイコの肩を抱き、カヨコにいたっては「こんにちは赤ちゃん」をハミングしでみせた。

 私は、何か言わなければ……と手を止めた。

 ねえ、つわりって二目酔いに似てるのかしら?

 みな私を見た。一斉に私を見た。居心地悪さに私は続けた。あたしね、二目酔いなんて滅多にならないんだけど、ときおり朝起きるとね、むかむかして何も食べれないことがあるの。それってつわりに似てんのかな。

 二目酔いですってさ、カヨコが眉をひそめた。神聖な妊娠と二日酔いを比べるのは徹底的に悪趣味のようだった。飲み屋をやっていてもだ。私ににまったく悪気はなかったにしてもだ。

 レイコが臨月に入るころ、私も体調の変化を感じ始めた。もちろんこっちはおめでたくはない。アルコールに対する反応の変化だ。飲みすぎた翌日にとみに疲れを感じるようになった。吐き気や、めまいに立っているのさえ苦しい朝もあった。

 ある朝、バスルームでふらりとしゃがみこんだ。ドクッドクッ。心臓。腹、こめかみ、首、あらゆる血管が波うっていた。私はゆっくり立ち上がり、冷たい水で顔を洗った。若さにまかせてお酒をがぶ飲みし、不安や焦りや怒り、全てを酒で薄めていく…そんな日々が去っていく…そう思うと泣けてきた。

 その日、アルコールには手をつけず部屋をくるりと見まわした。

 女にしては殺風景な部屋。タンスをわけもなく開けては閉じたあと、机の引き出しを一つ一つ開けてみた。三段目の引き出しを開けたとき、もう随分前に母が送ってきた見合い写真が目に入った。何年も会っていない母が送ってきた、田舎の親戚のマッチメーカーからの男性の写真。見合いせぬまま終わった見合い話。男はえんじのタイをして青みがかった灰色のスーツを着ていた。丹頂鶴みたいな顔だと思った。しばらく見つめたあと、写真を閉じた。そもそも今の時代見合いなど化石みたいなものなのだ。

 パピーが大学時代から付き合っていた男性と結婚したと聞いたのはそれからしばらくしてからだった。結婚式はしたのだろうが、私は呼ばれなかった。

 酒が体に害を与えている、この事実を認めぬわけにいかなくなった。そう、ひずみが出てきていた。予感はしていたが、予想はしていなかった。ひずみが出たのはジョウの場合は肝臓で、私の場合は盲腸だった。

 盲腸と酒が関係があるなど思っちゃいない。けれど酒さえやめていたら盲腸にならなかった……そんな気がしてならなかった。酒さえ飲まなかったら、私の盲腸は痛みだしたりせず、取り出されることもなく、今だにあるべき場所にある……そんな気がしてならなかった。

 手術のあと、私の中の池は干上がった。干上がった池は空洞になった。そして時とともに大きくなった。その空洞は酒をいくら飲んでもごまかせなかった。体中が酒づけになってもそこだけは酒をはじいて……それだけに始末が悪かった。

 それは以前経験した或る空間に似ていた。私の中に視覚聴覚何もよせつけない一つの空間がある……そんな感覚。ほとんど悟りに似た感覚。皆もそれを持ってるのかそれを感じたことあるのか聞いてみたかったが、変人扱いされそうで恐かった。

 誰にも言えなかった。なぜか、いつかあひるの夢見ていた私が寝ぽけて「水かきをよく洗っといてちょうだい」と言ったときの、パピーの何ともスイートで困った様子を思い出したりした。



 ジョウに会ったのは、その急性盲腸でかつぎこまれた病院でだった。

 手術も無事終わり、翌日には退院の予定だった。私はトイレの帰り、スリッパの音をぺ夕ぺ夕響かせながら、ロビーへの階段を下りていった。週刊誌でもあるのでは、と思ったのだ。階段を一段降りるたび右腹がつったが、手摺をつたわりながらどうにか降りていった。一日中うとうとしていたので、時間の感覚はなかったが、真夜中といっていい時間のはずだった。

 ロビーに入るなり、人の気配を感じた。男が一人ソファに坐っていた。背を向けて煙草を吸っている。ぷふぁ……頭の上から煙が上がっていた。

 禁煙でしょ、病院だし・・・。

 あたしはソファの横のマガジンラックから、雑誌名も確かめずファッション雑誌らしきものを取った。腹にピピッと痛みが走った。手に取りながら男をちらりと見ると、男も横目であたしを見た。

 奇妙な風貌だった。ちりちりの髪を頭の上だけ5、6センチ立たせ、サイドと後ろはほとんど刈り上げていた。

 髪型を除いては特に変わったところは見られなかった。色は黒かったが顔立ちは日本人に見えた。それでもその髪型と浅黒さで、ハーフは無理でもクォーターくらいに見えなくもなかった。

 男はうまそうに煙草を吸っていた。煙草を挟む男の指はひどく骨ばって見えた。

 立ち去ろうとする私に男が声をかけた。

「あの……。これ、飲みますか?」
 
 男が差し出しだのは、りんごジュースだった。

「はあ」

 なぜか私は受け取った。露を持った缶は冷たかった。私はそれを不思議な物体のように手のひらに転がした。

「あのぉ、こんな時間に面会ですか?」

「いや、患者ですよ、僕も」

 どこかやけっぱちな響きだった。
 
 男は死んでも病院になど来たがらないタイプに見えた。口でもよじり、それこそ酒でもクイックイッと飮んでいるのが似合うタイプ。

「入院してるんですか?]

「そんなとこです。あなたは?」

「盲腸です」

 男はああ、とうなづいた。

 男は白地に黄色い太陽の描かれたティーシャツ、その上にブルゾンをはおっていた。胸の模様は、見方によっては電球のようにも見えた。

 男は真っ白なスニーカーを履いていた。細い体の割に大きなスニーカーだった。真っ白で、力強い、大きなスニーカーだった。そのスニーカーを見ていると、重力に向かって巨大な手で思いっきり肩を押されたような気になった。

「入院患者には見えませんね」

「そうですか?」

「どこが悪いんですか?」

「ぱたりですよ」

「ぱたり?」

「わけがわからぬまま痛みがきてぱたり。…で、救急車です」

 男は煙草の煙を吹き上げたが、途中でむせて、グリーンのブルゾンを揺らし咳き込んだ。

「どこが悪いんですか?」

 私はもう一度聞いた。

「肝臓でしょう。ここのあたりです。とにかくぱたりだから参りました。不思議だな。今までこんなことなかったのに。いくら飲んでも帰るまでぶっ倒れなかったのに。それが五杯飲んだところでぱたりなんですよ。突然ぱたり。気づいたらここだったってわけです」

 男は近視らしい目を少し細めて、あたしを見た。そして急にかしこまった様子になった。

「タマイジョウジです。みなジョウって呼びます」 男はジョージでもジョーでもなく、ジョウジ、と、ウを強調した。

 私は少しだけ体を曲げお辞儀をした。
 
「川野タキです。…あのじょうじってカタカナですか?」
 
「いや、漢字ですよ」
 
「どんな漢字でしょう?」
 
「譲るの譲に一、二の二で譲二、タマイはお手玉の玉に井戸の井です」
 
「日本人なんですよね」
 
「そうです。全くの日本人です」
 
 ジョウはチリチリした髪を撫でた。

 ふと見えない手で頭から背中から触れられた気がした。周りの空気がスッと流れた。なぜか目をつぶらずにいられず、しばし固く目をつぶって開けた私は唖然とした。

 夢なのか…。今は夢の中にいるのか…。案外死んでしまったのか、あたしは…。

 目の前にいたジョウは大きなウォンバットに似た動物になっていた。黒々とした丸い小さな目がかたそうな毛に埋まっている。身長はそのままで、Tシャツ、ブルゾンもそのままウォンバットになっていた。

 再びまばたきをすると、もとのジョウに戻っていた。

 幻影か。飲みすぎの幻視? いや、飲んでない。手術もしたし、何日も飲んでない。麻酔の影響? アルコール脳症? そんなのがあっただろうか。

 まさに固まっていたと思う。そんな私にジョウは言った。

「今、一瞬見えませんでした?」

「え?」

「一瞬、僕が何か違うものに見えたでしょう?」

「ウォンバットみたいでした」 言うかどうか考える前に口が動いていた。

「はははは」

 ジョウは言った。

「大丈夫ですよ。一瞬こっちのレイヤーが見えたんです。あなたみたいな人、フィーラーっていうんです」

 フィーラー?

 ジョウの微笑みは優しかった。もしさっきのウォンバットだったとしても優しい微笑みを浮かべていただろう。

 異様な状態のはずだった。シチュエーションもこの男も私も、何かおかしい。けれど突き止める気になれず、なぜか納得した。頭でなく心で納得した。



「川野さん、お目覚めですか」

 退院の日、ナースがやってきた。
 
「おはようございます。看護婦さん。あの…一つ聞いていいですか?」

「どうぞ」
 
「あたし、どういう患者扱いなんでしょう。ただの急性盲腸患者でしょうか、それとも……」
 
「ああ、胃洗浄のことですね」

 ナースはブラインドを上げながら言った。

 あの川野って患者はね、ちょいと変わってんのよ。睡眠薬を飲んで自殺しようとしてたところ急性虫垂炎になっちゃってさ。で、思わぬ痛みで寝ていられなくって119番したのよ。

 こんなふうにナースからナースに伝わってるのかもしれない。けれど、事実は少し違っていた。どうにも眠れず酒を飲んだがやはり眠れない。もう立っていられないくらい酔っ払っているのにやはり眠れない。そこで睡眠薬を数粒のんだ。けれどやはり眠れない。そこでまた数粒。

 これを二、三度繰り返した。いや三、四度、……案外五、六度だったのかもしれない。覚えてない。まったく覚えていないのだ。お腹が痛くなったのも、自分で119番したのも、何も覚えていない。

 担架を持って駆け込んできた男たちはさぞかし首を傾げたことだろう。腹が痛い!と通報が入ったはずなのに、酒に睡眠薬、状況は自殺未遂だ。

 運び込まれ、胃洗浄が行われた。そして盲腸の手術。白血球の数は爆発寸前だった。




 盲腸プラス自殺未遂容疑の私と、五杯でぱたり、肝臓をやられたジョウは、入院仲間から友人になった。

 あの時、ジョウが病院のロビーでぷかりと煙を吸いながら何を考えていたのかは今だに謎だ。彼が病院を抜け出して帰ってきたところだったのか、それともあの時間からふらりと出かけるつもりだったのかも聞かずじまいだ。ウォンバットに見えたことも詳しくは聞かなかった。フィーラーが何かも聞かなかった。
 
 ジーザス!ことある度にジョウは言った。怒っても、驚いても、悲しくても、最初の一言がこのジーザス。

 ジィーーーザス、時々あまりにジーをのばしすぎるものだから、もう少し短めでもいいんじゃない、と思った。

「驚いたときゴッド!って言うの知ってるけど、ジーザスってのもよく使うの?」

 ジョウは少し考えるような目つきをして、うん、そうだなと答えた。一年ほどアメリカをふらふらしていただけだから、取り分け英語ができるわけでもなけりゃ、アメリカ通というわけでもないらしい。どうやらあまり楽しい思い出ばかりじゃないようだった。いろいろ聞かれると、早く話題を終わらせようとナーバスになる。

 ジョウも私もこれ以上酒を続けると保証はないとの忠告を受けた。改めての忠告に私はさすがにビクッとした。血液成分の数値はいくつもが正常値を割っているかオーバーしているかで、もう酒には適してない体なのですよ、医者は言った。

 医者は、禁酒セラピーを勧めた。グループで集まり互いの禁酒を励ましあうグループセッションがあるという。何より意志の強さが必要になりますからね、医者は顎のくぼみをこすりながら、言った。

 何とかしなければ、と思いはした。気休めにジョーと時々会おうと決めたが、それは意外にも効果をもたらした。ジョウと話した後は、少しだけ気分がよくなった。

 けれど、会う回数は次第に減っていき…三ヶ月ぶりにジョウから電話があったのは、初秋にしては冷え冷えした朝だった。受話器の奥から聞こえる声は干からびていた。

 元気かい?元気よ。そのあとしばらくどちらも話さなかった。その沈黙に互いに元気にはほど遠い状況だと察した。



 ファミリーレストランでジョウと会った。デイリーランチを頼んだあと、ジョウは水を一気に飲んだ。のどは乾いていなかったが私も一気に飲んだ。

 ジョウは禁酒の二目目だと言った。禁酒の二目日と三日目は数え切れないほど経験したが、四日目を経験したのは数えるほどしかないとも言った。

「どうして電話しなかったのよ。互いに励まそうって言ったじゃないの」
 
「タキこそどうしてさ」

 ジョウはマヨネーズに溺れそうなコールスローをフォークの先でつついた。
 
「うん…」
 
 ジョウは運ばれてきたコーヒーを目をつぶり音をたてて飲んだ。目をつぶったジョーの顔は痩せた大仏みたいだった。病院で見たあのウォンバットのジョウをもう一度見たかった。そのことについて聞きたいことは山ほどあったが、聞いたら、ジョウの何から何まで、すべて消えてしまいそうな気がした。そうしたら、私はもう自分の記憶さえ信用できなくなるだろう。

「ねえ、ジョウって付き合ってる人いるの」
 
「人並みにいたような気がするけど…」
 
「気がするけどって、やーね。記憶がないみたいな言い方してさ」
 
「うん」
 
「じゃ、一番印象に残る子の話して」

「ま、今のとこタキかな」

「それは光栄だ」

「今さ、考えてるんだけど、会社辞めようかなって」

「ベンチャーの会社だったよね。経理だっけ」

「うん。でも税理士の資格も取ってる。で、父がやってる小さな税理士事務所、つがないかっていうんだ」
 
「そうなんだ」
 
「うん。親父、自分が結構はちゃめちゃやってたから、僕にはレールにのっかってほしいんだろうな。酒もやめて」
 
 ああ、そういうこと…。髪型まともにし、仕事も安全に、そういうことなのね、ジョウ。

 でも、それ何が悪いっての?幸せな光景じゃないの。ジョウの禁酒だって成功するかもしれない。

 ひゅー…。

 ジョウの溜息が風になった。

 私はジョウを見た。

 ジョウも私を見た。

「いいじゃない、レールにのっかるのは脱線よりずっといいわよ。あたし脱線って蟻地獄に似てると思うの」

 何、言ってんだろ。

 私たちはどちらからともなく目をそらし……しばらくジョウは空のコーヒーカップを、私は空の皿を見つめていた。


 店を出て街を歩くと、どこからかラップが流れてきた。
 
 わかるか、わかるか、キミにないもの、なんだかわかるか。
 それは、それは それは 
 ア、ア、ア、ア、アティチュード。
 ア、ア、ア、ア、アティチュード。
 
「ねえアティチュードって何だっけ?」
 
「アティチュードさ。わかるだろ」
 
「熊度ってことだよね?」

「うん、一般的にはね。でも僕はちょっと違うって思うんだ。アティチュードってのはさ、目的と存在が一致したとき生まれるんだと思う」

「わかんないわ」

「アティチュード……。僕はさ、物には何でもアティチュードがあると思うんだ。人間だけでなくって何にでもあるって思うんだ。皿みたいな物体がアティチュードを持つと灰皿になれる。一枚の布もアティチュード持つとマントやテーブルクロスになれる。わかるかな」

「わかんない」
 
「とにかくさ、アティチュードがなくなったとき、存在の意味がなくなるのさ」
 
「わかんないわ。じゃ、ぼろきれみたいな人間はアティチュードがないってこと?」
 
「違うな。ボロきれでいようと心を決める。それはそれでアティチュードさ」
 
「…ねえ…」
 
「うん」
 
「ねえ…あたしもできるかな。アティチュード持つっての」
 
 あたしだって持ちたいじゃない、ジョウの言うそのアティチュード。

 アティチュードを持つ、それは飛躍的なことに思えた。やればできる、そんな力がほんの少し頭をもたげたような気もしたが、くしゃみの予感程度のたよりなさだった。


 ある日ジョウが猫の話をしてくれた。

「いつかしっぽの先だけ白い猫が三階の窓からアスファルトに突き落とされるの見た。そりゃもう凄いもんだった。命をかけたウルトラ宙返り…」

 ジョウは悲しげだった。酒をくいっと胃に流し込めないのは、窓から突き落とされた猫どころじゃない苦しさなのだ。命をかけてのウルトラ宙返りもできないまま、ジョウはスローモーにときおり息を吐く。

 ウルトラ宙返りのその猫は足を二本折ったけれど命に別状はなかったとジョウは話す。

「そいつさ、六才の誕生日の二日前に死んだんだってさ」

「えっ?」

「猫さ。ウルトラの猫さ。猫では早いほうなのかな」

「さあ……」

「チャーリー・パーカーはさ、死んだときには68才の体だったんだってさ」

「実際は何才だったの?」

「34才」

 ジィーザス。あたしは言った。

 ジィィザス…。ジョウは言った。

「彼、ジャズメンだったわよね」

「サックスさ」

「彼、ドラッグだったわね」

「うん」

「彼はドラッグだったのよね」

「うん」

「あたしね。わからないことだらけだわ。うん。わかんないことだらけよ」

「たとえば?」

「そう、たとえばね、ドラマ見てもらい泣きできても実生活では泣けないわけとか…。いつになったら何かに対するやる気が出てくるのか…とか」
 
「それから?」

「それから……」

 沈黙のあと、あたしは話した。ジョウに話した。体に抱えた池の話……。いつの間にかそれが空洞になった話……。

 話し終わると、虚しさがほんの少しだけ和らいだ。

 

 冬が過ぎ春が来て…夏も過ぎ…紅葉の季節も終わった。そしてまた冬がやってきた。

 その日は何だかひどく疲れていた。郵便受けを覗くと、家具屋のチラシの下に一枚の葉書が入っていた。

 元気かい? 僕はとりあえず頑張ってる。タキに近いうちに会える、そんな気がする。

 それは、サンタがクビから「ただいま禁酒中」という紙をかけた絵の絵葉書だった。

 ジョウ……。




その夜、ベッドに横になると二つの言葉が浮かんできた。

 再生と復活。

 どちらもその時に私には、難しく、遠く、に思えた。

 私に必要なのは何?奇跡では実態がなさすぎ…成長では優等生過ぎ……。

 必要なのはもっと魔力のある言葉。限りなく奇跡に近く、それでいて現実味ある言葉。そんな言葉があったら教えてもらいたいもんだわ。

 と、突然、ア、ア、ア、ア、アティチュードとラップっていた男の顔を思い出した。
 
 アティチュードか…。

 キッチンに行き、ウオッカのビンを撫でた。ウィスキーのビンを撫でた。禁酒二日目と三日目は数えられないほど経験したが四日目はなかなか来ない、ジョウは言っていた。

 ボトルの蓋を開けて、閉める。

 蓋を開けて、閉める…。

 リビングに戻り、窓を少しだけ開けてみた。風が冷たい。
 
 ベッドに戻り毛布に包まると、病院の待合室にいたジョウを思い出した。ジョウに会いたいと思った。恋愛感情などではない。寒さでぶるぶる震えている小動物が仲間の誰かに会って温もりを感じたい、そんな感情に似ていた。

 ほとんど眠れぬまま、空が白んでいった。




 母が危ないと、妹からの電話をもらったのはその日のことだった。




 そしてシルバに会った。母が亡くなったあの日シルバに会った。

 シルバは拾ったハサミを手渡すと言った。「サウスポーなのね」

「サウスポーのフィーラーね」

 フィーラー。ジョウから一度だけ聞いた言葉だ。

「私もそうなの。あ、サウスポーではないけどね」

 一瞬男か女かわからなかったのは、彼女が全くの銀髪で、中性的で、年齢も判断しかねたからからだろう。彼女は老齢には決して達していないだろうが、一見若さからは遠くかけはなれた容貌だった。それでいて俊敏さとひたひたとしたエネルギーを感じた。

「まずは依存症なおさなくちゃね」

 シルバの声は低く穏やかで、ビブラートがかかっていた。

大丈夫だから:タキ

 

 あの時、シルバは言った。

「大丈夫だから」

 私は固まった。現状に一番ふさわしくない言葉…。

 大丈夫だから。

 だけど、あのとき私は、足先を少しだけ「大丈夫」の方向に向けたのかもしれない。




 それからどれだけシルバに助けられたことだろう。シルバは道しるべになった。古い言葉だが、道しるべ。

 そして、時間が経った。その間には結婚もして、ミチとの出会いもあった。


⭐️

 ミチとの出会いはありふれてはいないにしてもとりわけ衝撃的でもなかった。

 ある日、夫が抱っこして帰ってきたのだ。

 ミチの第一印象はコアラだった。

 顔が似てるとか、耳が大きいとか、そういうわけではない。夫に抱っこされている様子がコアラみたいだったのだ。強いていえば、目から鼻にかけて少し似ていたかもしれない。

 赤いセーターに黒いズボン。髪は短かったので、男の子か女の子かもわからなかった。ただただコアラみたいだと思った。いつか赤いベストを着たコアラのぬいぐるを貰ったが、そんな感じだった。


 私はあまり表情がない、言葉の抑揚も少ないとも言われる。自分では正直なだけだと思っている。喜んでないのにむやみに笑顔を見せられない。悲しくもないのに、言葉に抑揚をつけられない。

 それでも世間の感情表現の平均値よりかなりずれていると子供のころから学んできたので、社会適応はかなりできるようになったと自負していた。けれど、気を抜くと素になった。人が楽しそうに話している中、黙々と箸を動かし無表情で食べたりする。別につまらないわけではない。興味がない会話のときは、話しかけられれば答えるが、自分から積極的には話さない。箸を動かしながら愛想で微笑むこともしない。おかしかったら笑う。そんな感じだ。

 夫はそんな私の奇妙さ(周りから見たらであって、私にとってはあくまで自然な状態なのだが)を全くと言っていいほど気にしなかった。見栄とか、変な自負とかなく、飄々としてた。「おんなおんなしてる人は苦手なんだよなー」と言ったので、じゃあ、わたしは何なんじゃい、とツッコミたくなった。そして自分がツッコミたくなる人に出会えたということに密かに感動した。夫は私の友人ジョウの紹介だった。その頃は、私もジョウも断酒に成功しつつあり、自分に対する自信と目的意識を少しずつ構築しようとしているところだった。

 恋愛、恋心、夫婦になって添い遂げる、愛情深いつれあい。私たち二人はこんな言葉とは全く違ったレールにのって、それぞれの存在を認め合い、それを心地よいと思い、一緒に住みだし、ある日ふらっと籍をいれた。

 わたしたちは友達のようだった。お互いにしてもらって当然ってことが皆無に近かったので、無理をすることもなく、楽だった。ひとりでいたときより、ずっと落ち着いていられる、一人より二人がいい、それが私たちの共通の思いだった。



 ある日、夫がコアラのようなミチを連れて帰ったとき、そのバランスがゆらり、と揺らいだ。

 それでも、どうしたの? とさほど驚きもせずに私は聞いた。

 マキがちょっと精神的にみられなくなってさぁ、一緒にしておくと何がおきるかわからないから、連れてきた。

 マキって誰? 

 どうやら私との結婚前につき合ってた人で、子供が生まれたと結婚後に知ったそうだ。自分の子なのは確かだ、とも言う。マキって名前聞いたような気もしたが、どうだったんだろう、私は記憶をさかのぼったが、ジェラシーとか無縁の性格だったので、聞いたとしても忘れていたのだろう。

 そう、確かなのね、と、リビングのソファに置かれ、きょろきょろしているミチを見ながら言った。見るというより、観察に近い感じだった。ミチは首をカクッカクッと90度ずつ動かした。その様子が小鳥みたいだと思った。

 その顔をじっと見てみると、やはり似ていた。小鳥にではなく、夫にだ。

 結婚前のことなら仕方ないか、と思った。もっとも結婚後であったにしてもさほど動揺しなかった気もした。

 えっと、服や食べ物や、知っとくことは? あたし、育てたことないし、子供って。

 ミチを抱き上げながら、パピーがペットのカメをこっそり買ってきたときや、捨て猫を拾ってきたときのことなどを思い出し、それとは違うでしょ、ちょっと不謹慎だと思ったりした。

 その日から、猛勉強プラス実地訓練だ。本もネットもいろいろ調べ、基本的情報は得た。あとはとにかく安全第一に1才2カ月の子供の世話をする、これにつきる。

 夫は翌朝からけっこう安心して会社に出ていった。凄く信頼されているのだと、かなり呆れた。

 子供にはとにかく愛されている、存在を無条件に受け入れられている、という安心感を与えること、をモットーに育てることにした。

 そこで、何があっても、「大丈夫だから」と言うことにした。私がシルバに言われて、わけもないのに心に少しだけ温かいものが流れた言葉。道しるべより以前に旅の前に書いてあってほしかった言葉。

 子供ながらの好奇心から失敗しても物を壊しても、その他もろもろの不都合なことが起きても、必ず最後に「大丈夫だから」と言ってみた。

 危ないことをしたときだけは別で、肩のところを強めにきゅっと両手で挟み、「危ないわよ!怪我をしたり、させたり、病気になるようなことはしてはだめよ!」と注意した。

 それ以外はミチが不安そうになるたび「大丈夫だから」を繰り返した。時を変え、場所を変え、ミチに「大丈夫だから」と言った。ある時は抱きしめ、ある時はしっかり見つめ、ある時は一緒に床に転がり、ある時は並んで歩きながら言った。

 最初の頃は、好奇心、責任感、観察の楽しさ、生き物の成長を見るワクワク感…そんないろんなものが混ざっていた。その中に、幼い無防備なものに対する愛情、母性本能はどれくらいあったのか…。

 ただ、少しずつ変化していった。ミチが視界に入っていなくても、あれれ、どこにいったのだろ、くらいだったのから、どこ?どこ?大丈夫かな?何してんの?へ直線上をゆっくりと動いていった。

 私は、しっかり抱きしめて、目をみて「大丈夫だから」ということをルールとし、悦に浸った。きちっと母親できてる感に満足した。


 夫は正式にミチを引き取った。

 私はごくごく普通の親になり、普通の親がすることはした。しすぎるわけでもないが、しなさすぎるわけでもない。丁度いいあたり、にいる平均的に良い親でいようとした。

 顔は全く似てなかったので、あら、お母さん似ね、と言われることはなかった。夫に似ていたので、みな父親似で満足して、母親と血がつながっていないのでは、と思う人はいないようだった。

 冷静な親、模範的な親、と言われた。凄くいい意味で使われたのではないな、と感じたけれど、冷静や模範的で悪いはずはなかった。



「ママ、目が見えにくい。見えない」
 
 突然ミチが言ったのは4才になった頃だった。私は焦った。動転した。こんなに動転したのは初めてだった。

 検査をすると、視力はかなり悪くなっていた。視野も狭い。しかしMRIや眼球の検査では、異常は見つからなかった。

「精神的なことが原因の可能性もあります」

 若い柔和な医師は言った。子供は下の子ができて自分に注意を向けられてないと感じたり、以前より愛されてないと感じたり、ストレスや不安があったりすると、視力が落ち、視野が狭くなることがあるのだという。

「最近、何か変わったことはありませんか?」

 産みの母親から離れて連れてこられたのは随分前だし、本人は覚えていない。じゃ、自分が本当の母親でないって言うべきだろうか、とふと思ったが言わずにおいた。

「特に思い当たりませんが・・・」

「とにかくしばらく不安を与えないよう、注意を向けてあげて下さい。それでいて神経質ではなく、大らかにしてください。必要なのは…」

 医師がそこまで言ったとき、「優しい感情表現」とか「理屈でない無条件の愛」が続くのではないかと思ってひやっとしたが、「親まで必要以上に神経質にならないことです」だった。

 その夜、ひどく暗い気持ちになった。悲しい気持ちにもなった。焦りもした。

 アルコールに溺れて苦しんでいたときとも、どうにも心が通じないと私が一方的に思い込んでいた親がいなくなった切なさに心がちぎれそうになったときとも、まったくちがう感情だった。胸が上から押し付けられ、身動きがとれなくなるような切ない感情だった。自分はミチを守りたいのだ、と気づいたとき、パニックの中でも何かがはっきりと動いた。

 夜、小さく、大丈夫だから、と声がする気がして目が覚めた。大丈夫だから。大丈夫だからね。

 「大丈夫だから」って言ってもらいたかったのは、ずっと自分だったのだ。私はずっとこの言葉を待っていたのかもしれない。シルバが言ったときはまだそれに気づいていなかっただけだったのだ。



 ミチの視力は回復せぬまま、しばらく続き、私は、「大丈夫だから」をほおりなげた。

 私は医師の言う「おおらかに」の逆を行っていた。言葉は少なくなり、気がつくと涙ぐみながら、わけもなくミチを抱きしめていたりした。ミチはもともと口数の少ない方で、黙って少し首を傾げながら、私を見たりした。


 明日は病院で心理検査という前の日、公園へ出かけた。雲が三つ浮かんでいた。気持ちのよい日だった。私はミチの手をしっかり握り、少しだけ振りながら、無理してハミングして、木々の間を歩いた。ときどき、とりとめない言葉をミチにかけたりした。

 公園内にあるバーガー屋でチキンを二本にお茶を二つ買い、ミチとチキンを一本ずつ持って食べた。

「明日、病院なのね?」

 ミチが聞いた。

「そうよ」

「お目目の?」

「そうよ」

 私はできるだけにっこり笑い、「大丈夫だからね」と言った。

 久しぶりに言った「大丈夫だから」だった。

 ミチはしばらくその丸い目で私を見ていたが、急にチキンをほおばる手をとめると言った。

「大丈夫だから」

「えっ?」

「大丈夫は大丈夫だから」

「うん?」

「ママ、大丈夫だから」

「うん…」

 私のチキンを持つ手が少し震えた。涙があふれそうになるのをぐっと抑えた。

「大丈夫だから、は大丈夫よ、ママ」

 ミチはわざとらしいほどの笑顔を見せた。幼いながら、私のために作ってくれた笑顔だった。

「それにね、ミチ、明日は見える気がするんだ」

 うん、うん。私はチキンに落ちる涙ごとチキンをほおばった。

 そうだといいね、そうだと。

 大丈夫だから、と心の中でつぶやいた。幼い頃の自分につぶやいた。大人になった自分につぶやいた。お母さんもこの言葉、私から聞きたかったんじゃないかな。私もお母さんから言ってもらいたかったんじゃないかな。

 世の中、大丈夫でないこと多いけど、大丈夫よ、ってつぶやくこと、言ってくれる誰かがいること、それって大切なんだと思う。そうすると、大丈夫じゃないときでも少しだけ希望が持てる。

 希望って道しるべと同じですごく大切だと思う。

 あの時、シルバが言った「大丈夫だから」は私からミチへ流れ、そして最近、ミチはよく友達に口にしてる。「大丈夫だからってさ! とりあえずそう思おうよ」 彼女の楽天的性格はこのままでいいのか、とも思ったりするが、まあ大丈夫。そう思いたい。

 大丈夫だから、と言い聞かせ続けたミチも今11歳になっている。





 

ブルースカイ調査事務所:カズト

   
 タキさんからの連絡を受けて大急ぎで事務所に向かった。メタに関するアクションが必要だという。今回は甲虫系だ。
 
 僕の能力は凡庸だが、僕は僕なりにやるしかない。

 駆け足になりながら、もう何年も前のことが頭をよぎる。

 それまで勤めていた会社を辞めて、「インテグリティ」に入るきっかけになった出会い…。それはルネビルに入っていた調査事務所に興味を持ったことから始まった。
 
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 自分を見失うことないですか?

 えっ? 見失うなんて馬鹿らしい? 

 そんなにおかしいことですか? ケタケタと笑うようなことですか?

 そんなに馬鹿げたことじゃないと僕は思うんです。自分で自分を見失うわけでしょ。ありそうな話ですよ。

 いえ、別に超自然現象とか、そんなこと言ってんじゃないんです。

 自分が自分から離脱していく自己離脱感? そんな心理学的なことでもないんです。

 突然、自分のこと、あれっ、誰だっけ?っていうような軽い感覚なんですよ。ケロッグのコーンフレーク食べながら、あれ、これオートブランだったっけっていうような一瞬のラップなんですよ。つまりですね、一瞬のあれっ?てな感覚なんです。ただ一瞬のあれってな感覚が積み重なると非常に重くなるもんで・・・。そうなんです。かるーい感覚で、1、2秒自分を見失っていたつもりだったのに、気がつくと完全に自分を見失ってんです。

 おわかりでしょう? それが自分を見失うってことなんです。まだ財布の中に金が残ってると思ってたのに、気がつくとなくなってた、ってように、きっとそうなるべくしてなったんでしょうけど、あれぇって感覚なんですよ。

 ことはラジオで聞いた脳天気なアナウンサーの言葉で始まりました。

「暑い日が続きますね」

(はん、別に)

「雨も降りそうで降りませんね」

(はん、そうかい)

「今週末あたり、パアーっとパーティでもやりたいですね」

(みんながみんなじゃねえだろよ。部屋の隅で膝を抱えて顎を膝にくっつけたりしてさ、ちっちゃくちっちゃく死んだ蜘蛛さんみたいになってしまいたいやつだっているんだよ)

「ところで最近、こんな奇妙なことが案外奇妙でなくなってきてるんですよ」

 僕は機嫌が悪かったもんですから、いちいちアナウンサーの言葉にかみついてたわけなんですが、「奇妙な」ってとこで、はたと興味を持ってしまったんです。悪態をつき続けてればよかったんでしょうが、突然、えっ?って興味を持ってしまったんです。

「自分の素姓調査を自分で頼むんですよ」

(自分で自分の?)

「就職や結婚を控え、ふと不安になるんですよ。はたして自分は他人様の目から見てどう見えているのだろうと」

(自分で自分の?)

「何でも予行練習のある世の中ですから、自分で自分が調べられることへの予行練習をやり、改善できるものなら改善しようというんです。考えようによっては全くシャープなアイデアじゃないですか」

(自分で自分の?)

 その瞬間、僕はそのアイデアに全くとりつかれてしまったんです。



 そう、僕は自分で自分の素行調査を頼むと言うアイデアにまったく取りつかれてしまったんです。そしてちょっとした後ろめたさとバカバカしさも感じました。自分で自分の影を踏もうとするような・・・鼻の先についた汗を舌でなめようとして出来なかったところを人に見られてしまったような、エスカレーターで横の鏡に映った自分をナルシスト的に見つめているような、なんとなくちょっと気恥ずかしいような後ろめたいような感覚です。

 僕は正直言ってもう若いとは言えない歳です。何歳かは皆さんの想像におまかせしましょう。女なら結構開き直っている歳です。けれど男にとっては曖昧な歳というカテゴリーなのかもしれません。

 そういえばおふくろが僕を産んだとき、10才は老けたといいます。もともと5才は若く見えたおふくろでしたから、10才老けてもそれほどひどくやつれたという感じはしなかったでしょうけど・・・。歳をとると人は落ち着きが出てきたとか、大人っぽくなったとか言いますが、それはちょっとやつれたわねの裏返しですよね。そんなにおふくろに重労働を強いて生まれてきた僕でしたが、この歳になっても自分の存在感の希薄さに悩むとは何とも悲しい話です。

 とにかくラジオがきっかけで僕は調査屋さん、つまり興信所に行くことにしたのです。
 
 興信所という言葉はもう古いですよね。調査事務所・・・これも古くなってきています。探偵事務所? インフォメーションサービス? パーソナル情報サービス? 

 けれど僕はあえて古い言葉の興信所を探したいって思ったのです。でも困りました。人が普通に生活していたのではどこの興信所がいい、なんてという評判は聞かないからです。そこでイエローページを引いてみました。笑うなら笑って下さい。僕はパソコンのキーを叩くより、紙媒体のイエローページの方が心地よいし、落ち着く、そんな人間なのです。

 名は体を表すと言いますが、はたして名は興信所の良しあしをあらわすのでしょうか。

 僕は一つの興信所の名前に目を留めました。「ブルースカイ調査事務所」 ちょっと笑ってしまうでしょう。僕は横文字言葉は好きじゃないのですが、流石に「青空興信所」だったら、もっと威勢よく大声で笑ってしまったかもしれません。けれど、「ブルースカイ調査事務所」はオッケーだと思ったのです。それどころか、ここに行ってみよう!とかなりの確信さえ持ったのです。

 「ブルースカイ調査事務所」のコピーには、「パーソナルなサービス。親密に調査させていただきます」とシンプルに書いてありました。おいおい、おかしいんじゃないか、僕は思いました。親密に調査させていただきます、はどうにもおかしい、と思ったんです。でも、その「親密に」というところに少しばかりの甘さを感じないわけでもありませんでした。ちょっとした甘さをです。そこで、僕はそのオフィスの入っているビルに行き、もう少しきちんと掃除をしたらいいだろうに、という小さなエレベータに乗り、もう少しきれいに拭いたらどうだい、というドアをノックしてみたというわけです。

 入るなり、ああ、来なきゃよかった・・・って思いました。まるでテレビのギャグの一こまのような感じだったんです。どうしてそんな感じを受けたかというと、やっぱりあれでしょう。妙に物が少なく、薄っぺらなんです。いかにもセット用に作ったかのようで、ファイルケースだって、旧式のパソコンだって、コピー機だって、ソファもテーブルも何だか無理によそからもってきたようで、どうにもマッチしていないんです。けれど空気だけが、部屋に閉じ込められた空気だけが、どこか澱んでいて、テレビギャグのような底抜けのいい加減さや軽さとはずいぶん違うんです。

「どんなご用件でいらっしゃいますか?」

 声がしたとき、僕はびくっとしました。人の気配を感じてなかったからです。その女の事務員(調査員という感じではかったので、僕は当然事務員だと思ったわけですが)は、どうやら机に突っ伏して昼寝でもしていたようですが、突然頭をぴょこんと起し、べっこうの丸メガネの奥で目をパチパチさせながら、僕を見ているじゃありませんか。どうして気づかなかったんだろう、僕は自分の目を疑いました。けれど女はモグラたたきのすばしこさで頭を起こしたにもかかわらず、モグラたたきのモグラほどの存在感もなかったわけです。

 その机にはりついていたときは薄っぺらだった女は、すぐにしっかりした存在感で「どんなご用件でしょう?」と話しかけていました。突然の声の出現だったので、その存在感は少しばかりテンポがずれたにしても、次第にみしっみしっと僕に伝わってきました。

「調査のお願いにあがったのですが」

 僕が言うと、女は驚くほどの笑みを浮かべて立ち上がりました。営業用の笑みにしても驚くほどの変わり身の早さでした。立ち上がった女は「まあおかけ下さい」とねずみ色のソファを指しました。エンジの絨毯にねずみ色のソファはどうにも趣味が悪く、僕にはこたえましたが、それでも言われる通り、大人しく腰掛けました。腰がどわんとソファに沈みこみました。

 女は今度はいそいそとお茶を入れだしました。オフィスの端には、昔どこの家にでもあったような水屋があり、それもどうにも場違いでしたが、とりあえず物を集めて置いたセットという一貫性には貢献していたわけです。

 女は確かな手さばきでお茶を入れ始めました。するとさっきまで、ねずみ色のソファさながら活気のない事務員だったのが、鼻歌でも歌いだしそうな陽気なウエイトレス風に見えてきたから不思議じゃありませんか。

 もっとも、ほんの錯覚ってやつで、よくよく見れば女は相変わらずべっ甲の丸メガネをかけ、どこか曖昧であることに変わりありませんでした。うっすらと鼻の下に毛も見えそうな気もしてきました。身なりにかまわない女のようでした。

 お茶をポンと僕の前に置いた女は、そのままお盆をソファの横に立てかけて、僕の前にすわり、「さて」と言いました。いや、女は実際には言わなかったかもしれません。ただ女の目も眉も手も体中が「さて」と言っていたのです。女は「わたし、こういうものです」と言って胸ポケットから名刺を一枚取り出しました。

 「わたくし」と言わずに「わたし」と言ったところに、それも「あたし」に近い「わたし」と言ったところが何とも僕には艶っぽく感じました。ここしばらく僕の目の前でも平気で便秘の話をする会社の女の子以外とは身体的接触はもちろん話すことも全くといっていいほどなかった僕でしたから、目の前にいる彼女に思わず女を感じてしまったというわけです。けれど、じっくり、体を少し後ろにひいて見れば、やはりべっ甲の丸メガネをかけたまあどちらかというと冴えない女がいるわけで、けれど受け取った名刺はまだ彼女の胸のあたたかさが残っているようで、そして胸の曲線に沿ってか、名刺の斜めにすっと一本寄った線はまさにイエローページにあった「パーソナル」というのにふさわしく感じました。
 
 じーっと名刺を見つめている僕に彼女の「さて」の雰囲気は段々苛々したものに変わってきました。
 
 だから彼女は全身で「さて」を表すのをやめ、「ご用件はどのようなものですか?」と普通に聞いてきました。ふと彼女の名前は何だろうと思いました。名刺の皺ばかり見ていて肝心の名前を見ていなかったのです。名刺を見直すと今度は字が浮き上がって見えました。

 川野タキ、とありました。相手の名前を知ると、いやそのときの僕はきちんと把握した、という気持ちになり、なんだかゆったりと優越感まで持てたようで、顎をひき、胸を張り、「川野さんですか」を ほぉ~、川野さんというんですか、なるほどぉ~というニュアンスをこめ、言いました。

 川野さんは微笑んでいました。むっとする様子もありませんでした。よく口元は笑っていても目は怒っている人がいます。そんな器用なこと、僕にはできないと思うのですが、口で笑い、目で怒ることのできる人は結構いるんです。けれど川野さんは目も笑っていました。それは僕をひどく安心させました。

 川野さんはどうやら、このときまでに僕のタイプをつかんだようでした。

 僕はいわゆる曖昧人間です。なかなか要点を言わない、いや要点が言えないんです。要点が何かがよくわかっていないこともしょっちゅうです。

 北川さんはまるでウエイトレスがメニューを置くように、僕の前に一枚の紙を置いたのです。アイボリーの和紙に印刷した料金表というか、まさに探偵メニュー、調書メニューといったものでした。信用調査、浮気調査、ストーカー調査など、いくつかのメニューがありましたが、僕はいい紙を使っていることに、ひどく感銘を受けました。だから男にしては細く美しいといわれる指で、ゆっくりなでてみました。

すると和紙の感覚が指先に伝わり、ひどく何か懐かしい気になったのです。

「この紙、どこで購入なさったのですか?」
 
 僕はまるで紙職人でもあるかのように真剣なまなざしで川野さんに尋ねました。すると川野さんはさすがに少し苛々した様子もありましたが、口元の笑みはそのまま目元に少しだけ苛々の残光のようなものを浮かべ「すぐそこの文房具屋です」と言いました。

「こんないい紙を使うんですか? コピー用紙で十分じゃないですか?」と僕が言うと「DMにして何百人、何千人に配るわけではありませんから、ほんの数部作っただけですし、今残っているのはこれだけです」と奇妙な誠実さで教えてくれました。

 そうか、これは僕にくれるパンフレットというわけではなく、あくまで調査メニューなのだ、と気がつきました。喫茶店で注文したら「メニューおさげしてよろしいですか?」とウエイトレスが持っていってしまうあのメニューと同じなのです。友人でレストランのメニューを集めてるやつがいて、押し入れから何十枚も出してみせてくれましたが、何だか虚しいものでした。メニューというのはやはりあるべき場所になければならないのです。押し入れの中に押し込まれた下着の入った紙ダンスの横に挟んで置かれるべきものではないのです。

 僕は調査メニューに目を走らせました。どれを注文するのか決めなければなりません。ファミリーレストランにその日のランチスペシャルが終わる3時直前に駆け込み、「すみません、もうランチは終わってしまいました」と言われ、チェッと心で舌打ちし、「じゃ、いいです」と少し憤慨して出たことが何度かありますが、そのたびに後悔しました。別にその日のグラタンコロッケと唐揚げ、豚肉しょうが焼と餃子、白身魚のあんかけと海老フライのどれかが真剣に欲しかったわけではないのです。ただ、「え、ないのか~~~」というわけのわからない不満を誰かにぶつけたかっただけなのです。「じゃ、いいです!」と店を出た後、必ず後悔しました。そして結局違う店で割にあわない勘定を払うはめになり、そんなときは心の中ではなく、ほんとに舌うちしたりしました。スペシャルランチがない日曜日などは、何度もメニューを見直し、裏返したりもしますが、今日はなにぶん川野さんの目もあり、裏返してまで見る気にはなりませんでした。それでもじっとメニューを見つめずにはいられませんでした。メニューから最適なものを選ぶことがとてもとても大切なことに思えたからです。

 信用調査、浮気調査、財務調査など幾つかある中で、「尾行」というメニューがありました。

 尾行・・・。それはひどく具体的でも生々しくもありますが、なんだか爽やかな感じすら受けました。信用調査、浮気調査、結婚調査、就職調査、と目的がはっきりしている中、「尾行」というのは行為そのもので、so what? の世界だったのです。何のために尾行なのでしょう。

「尾行、というのは、つまり、尾行だけですか?」

 すると川野さんは、ああ、そのご質問ですか?というように大きくうなづきました。

 僕はそのとき川野さんの瞳の色が淡いのに気がつきました。まあ日本人にしては、ってことなんですが・・・茶色は茶色だけど薄茶色でした。けれど髪の色は真っ黒で、そこがアンバランスで普通と反対だと思いました。今はみんな髪、染めてるじゃないですか。茶色に。男でもかなりいるくらいですから、女ではほとんど100パーセントって言いたいぐらい、何らかの方法で色を抜いているのです。生え際が黒くなってくるのが嫌だったり、はやいピッチで染めるのが面倒ではないのかな、なんて思ったりしますが、それはおしゃれ心のない男の言うことでしょう。

 川野さんのような茶色い目を持った女性なら当然髪も色を抜いてくると思うのですが、彼女は真っ黒な髪のまま、後ろで一つに結んでいてなんの飾り気もないのです。川野さんって何才だろう、僕はふと思いました。そう思ったってことは、つまり、彼女に興味を持ったってわけです。僕より若いのだろうか。髪にリボンをつけるのはちょっとおかしいにしても、それなりに流行りの格好をしたら似合うだろうに、と思ったりしました。

「この、尾行、というのはですね、お客様のプライバシーを大切にするという意味なんです」

「プライバシーですか?」

「ええ、ご理由は言いたくないけれど、とにかく尾行してほしい、そいうお客様が結構いらっしゃるんです。従来のメニューですと、それにお答えできませんので」

「ただ尾行だけお願いできるのですか? 理由を言わなくても」

「ええ」

 川野さんは頷きました。できますね、とその顔は自信にみなぎっていました。

「ただ・・・」

 川野さんは笑みをさらに強めました。

「もちろん、ご理由を伺った方がやりやすいのは確かです。そこにさらなる注意を払えるっていうんでしょうか。たとえば…もし、ご主人が浮気しているのでは、とお考えのご婦人がいたとします。けれど、浮気調査をお願いします、とは言いづらい。そこで単に尾行を、と依頼されたとします。もちろん、我々といたしましたらそれでもお受けいたします。御依頼人様のお気持ちを一番に考えておりますので…。けれど、何にフォーカスして尾行すればいいのかわからないところがやりづらいのです。ドラッグをしているのではないか、の調査なら、尾行対象が人とすれ違うたび何かを手渡していないか、と見なければなりませんし、万引きの癖があるのでは、と心配している場合は、対象が店に入るたび細かい手の動きに注目しなければなりません。けれど浮気のための尾行と目的がはっきりしていれば、そんな細かい手先の動きには注意しなくてよくなります。つまり…目的をお聞きした方がより効率のよい尾行ができるわけなんです」

 川野さんはそう言って、僕を見つめました。その目は僕の目的が何なのか、まだつかみかねているようでした。

「僕は、やはりその尾行、というのを頼みたいと思います」

「どなたの?」

 川野さんは少しいたわるような口調で尋ねました。

 僕のです、僕は自分について知りたいのです。客観的に自分を見てみたいのです。おかしいですか。

「僕の……兄のです」

「お兄様ですか」

 川野さんは少し意外そうなトーンでしたが、すぐに自分の気持ちは外に表さないぞ、という営業用のスマイルになっていました。

「わかりました。特にどこか焦点をあてて、ということがありますか?」

「いいえ…特に…。なんとなく…いや、全体的に尾行してほしいのです」

 僕はとっさに「兄の」と言った自分の言葉に驚きました。僕自身のです、と胸を張って言うつもりでいたような気がしますが、兄の、と言ったあとはもともと僕自身などという気などなかったのではないか、そんな気にもなったのです。

 兄か…。兄などいない。

 そのとき、ドアが開き、一人の男が入ってきました。タキさんが何もいわず少し微笑んだように見えたところを見ると知り合いだろうと思いました。

「連絡は?」

 男は僕をちらっと見て軽く会釈したあと、川野さんに声をかけました。かすれた声でした。蛙の声をさらにすりつぶしたような声でした。だからといって魅力のない声というわけではありませんでした。それどころか、その男の容姿と同じく、ひどく心惹く声でした。

「まだありません」

 川野さんはそう言い、僕に視線を移しました。

「所長のフルセです」

 男は「古瀬流」と書かれた名刺を僕に差し出しました。

「ながれ?と読むんですか?」

「リュウです」

 所長は答えました。

 古瀬所長は決して若くはありませんでしたが、さびれた魅力がありました。それも、ひどく、とか、抜群に、をつけたいくらい魅力的な男でした。上背もありました。184センチはあるでしょう。握手をしようと立ち上がった僕より7、8センチは目の高さが上にありましたから。

 所長は僕の手を握りました。なんだかSF映画の中で善いエイリアンと握手しているような気になり、なんでだろう、と思ったりしました。

「お話はこちらの部屋で伺いましょう」

 所長は無理やりにパティションで仕切って作った部屋ごとき場所に僕を連れていきました。そこにはコバルトブルーのソファと小さなガラスのテーブルがありました。

「お待ちください」

 所長はそう言ってすぐにパティション部屋から出ていきました。

 本当に稀に見る魅力的な男でした。デザイナースーツでも着せて髪に手を入れ、それなりの表情を作り、小道具も活かして写真でも撮れば、十分にモデルとして通用するのではないでしょうか。顔には渋みに似た人生疲労のようなものが伺えましたが、それもこの所長の場合プラスに働いていました。所長は自分の魅力を知っているのだろうか、僕は思いました。

 所長は僕のことを川野さんからどのように聞くのだろう、と少し落ち着かなくなりました。

 戻ってきた所長は柔らかな笑みを浮かべていました。

「川野から聞きましたが、お兄様の尾行をということで」

「はい…。実は兄がおりまして、ちょっと問題を起こしたものですから、尾行をお願いしようかと思ったのですが、やはり弟がそんなことをしていいものかと二の足を踏んでいるところです」

「そうですか」

 所長はそう言ったきり、セールストークのようなことは言わず、心優しい教師のような視線で僕を見ました。

「迷っていらっしゃるようでしたら、今はいろいろ進んでましてね、顔を合わせることなく、自分の名を知らせることなく、調査を依頼することもできるんですよ。ネットで調査会社のサイトにアクセスし、依頼内容をインプットするだけで依頼ができるんです。もちろん何らかの名前を記入しますが、偽名でもいいですし…。先日の依頼者は『真夏の猫』と名乗っていました」

 僕はアナログ人間です。この言葉自身が滑稽なほど古いのはもちろん自覚しています。女の子なら、わたしアナログだから~~~で済むのかもしれませんが、男の子がパソコンもスマホもSNSも苦手とあれば、まじ!??の世界でほんとうに目を覆いたくなるのです。

 僕は決して数字やサイエンスが苦手なわけではありません。ただ数字以外のものが好きなんです。時も、数字で1から2、2から3に唐突に変わるのではなくきちんとチッタチッタと刻んでほしいんです。唐突なチェンジでなく滑らかな流れであってほしいんです。だって世の中、ぶつぶつ切れたものだらけじゃないですか。ぶつぶつ切れた切れっぱしだらけ見てると、何だか息切れしてしまいます。

 ちょっとしたいざこざで父と話をしなくなって随分になりますが、父は退職前はやり手のサラリーマンで専務まで出世しました。でも、家ではひどく無口な人でした。父のことを思い出すとき、なぜかバックグラウンドミュージックが流れるのです。ほら、ご存知ないかもしれませんが大昔、鶴田浩二という俳優が歌っていたあの歌です。ミュージックというより、セリフですね。セリフつきの歌ってやつです。

古い奴だとお思いでしょうが、古い奴こそ新しいものを欲しがるもんでございます。どこに新しいものがございましょう。生まれた土地は荒れ放題、今の世の中、右も左も真暗闇じゃござんせんか。

 このあと、歌になるんです。何か~ら何ま~で 真っ暗ぁ~闇よぉ~  と続くんですが、IT企業に勤めていたにもかかわらず、父はこの古臭い歌が大好きでした。カラオケでよく歌いました。歌う姿は真剣そのものでした。

 父の心の奥底の世界観の中では数字も漢数字だったような気がします。でも数学は得意でデータ処理に長けていました。人間って誰でもそんな矛盾を抱えた存在なのかもしれませんね。母はきっぷのいい人でしたから、僕が数学が出来ないのを決して責めたりせず、カズトはカズトだから、とほとんど気にしていませんでした。

 ま、それほど数学ができなかったわけじゃないのですが、僕がより興味があるのはものの描写、そしてそれに内在するものなのです。僕にとっては、皆の愛情を一身に受けているスマホもどこか不気味な存在なのです。本なら一字一字の積み重ねで意味を織りなしていくじゃないですか。なのにスマホは唐突なんです。突然なんです。そうabruptです。何もなかった画面から一瞬にして、僕の周りの空間はもちろん世界のあらゆるところを満たし溢れる情報を流出させるのです。情報を惜しげもなく投げつけてくるのです。もういいよって行っても聞かないんです。確かに困ったとき、情報を得たり、日常を豊かに楽にするアプリは便利だし、もちろん僕も一目置いています。へぇ~~、ほぉ~~、と感心します。

 僕は昭和初期に生まれていたらよかったのかもしれません。手紙と電話がコミュニケーション手段だったころのペースの中だと呼吸が楽だったのかもしれません。そんな時代は人は今とは違ったある種の感性で繋がっていた、そんな気がするのです。

 話がそれてしまいましたか? とにかくネットだと自分の素姓を隠して依頼できますよ、とその格好よすぎる所長に言われても、「そうだったのか! それは素晴らしい考えだ」とは思えず、もしそうしていたら、この奇妙なオフィスにも、川野さんにも、所長にも会えなかったじゃないか、とネットに頼らなかった自分のチョイスが妙に正しかった、優れていた、という確信を得ました。



 小さなワンルームのマンションに帰った僕の頭には、オフィスのねずみ色のソファとエンジの絨毯の空間が広がったままでした。消えないどころか、それは石膏さながらの頑固さで僕の頭をかたどっていました。

 所長の存在もどんどん大きくなっていました。僕は所長にかなり興味を持ってしまいました。所長のルックスがよかったから…それだけのことと思われるかもしれません。けれどそれだけであってそれだけでないのです。

 僕がつきあいたいと思うのは女の子です。それは小さいころから変わりありませんし、いくらかは行動に移してきました。もちろんあまり成功しとは言えませんが。

 けれど僕は時々、ひどくひどく男性に惹き付けられるのです。事実ですから否定はしません。なんせ、僕は正直なアナログ人間ですから。すみません、どこか僕の中で  正直=アナログ ってなっているところがあります。もちろんアナログな人間にも嘘つきが多いと思いますので、ま、そこのところは聞き流して下さい。

 僕が男の人に惹きつけられるときは決してつきあいたいとかではなく、その男になりたい、という同一化願望なのです。どうしてあのさびれた事務所にいたルックスはいいにしてもどこかうらぶれた印象の所長になりたいのか、どこが魅力的だったかと聞かれますと確かに困ります。ルックスは確かにいいのですが、ルックスのいいだけの男なんて五万といるじゃありませんか。ただ、所長がもっと洗練された事務所でもっとスマートに登場したら、もっと惹かれたかと言われれば、はっきりノーと答えられます。ここに鍵があるのかもしれません。
 
 あまりに高尚な存在だと浮力でふわーんと飛び上がってしまい、僕との接点が無くなってしまいます。接点がないものには感情は流れていかないのです。電流と同じですね。所長の適度にくたびれたスーツも靴も、親しみを感じさせました。僕も何年かすると、この所長くらい憂いを含んだ、どこか謎めいた魅力のある存在になれるのかもしれないという希望と錯覚をもたらしたのです。もちろん10年経とうが身長が7、8センチ低いのには変わりなく、顔の彫は所長にははるか及ばず、髪だって僕の家系からするとすっかりなくなっているかもしれないのです。

 いろいろ考えては見ましたが、所長の魅力は、風もないのに決して落ちずに舞う埃のように、僕の頭に漂っていました。

 ネットで依頼し、報告書もネットで受け取ることもできるわけですが、ネットで報告される僕って一体何なのでしょう。頭でっかちなアバターになるようでまっぴらでした。

 報告書は紙でもらいたい。その方がずっと実体があるように思えたのです。

 問題は誰が僕を尾行するか、ということでした。所長が「今日、申し込まれるようでしたら、具体的な手続きは川野が説明いたします」と言い、消えて行ったあと、川野さんに尋ねました。

「あの・・・尾行は誰がなさるのですか?」

「はい、尾行ですね」

 川野さんは僕をじっと見ました。じっとと思ったけれど、それは今までより、少しだけ長めだったのにすぎなかったのかもしれません。でも、川野さんがちょっと考えたのだけはわかりました。

「尾行は大体所長がいたします」 

 北川さんは答えました。

 そして川野さんは目を左右に動かしました。そんな動きは僕が事務所に入ってきてから初めてだったので、僕はちょっと考えてしまいました。目はきょろきょろするとき左右には動くが上下にはうごかない。上下に忙しく動かしたら、宇宙人ぽくなってしまう、などと思ってから、そんなこと今どんな関係があるのだろう、とおかしくなりました。

 川野さんは和紙のメニューカードを一度持ちあげ、トンとテーブルに立てるようにしました。そしてそのあと少し息を吐き、メニューを置きました。実際は落とした、という感じでもありました。そしてもう一度言ったのです。今度はしっかりと僕を見て、目も動かしませんでした。

「今申し込まれたら、尾行は所長が責任を持ってチームを作り、指揮いたします」

 なんと大げさな、と思わないわけではありませんでしたが、

 決めた、

 僕は思いました。

 所長が僕が尾行する。そのことに僕はときめきすら覚えました。所長が尾行することで何だか自分の価値が棒高跳び並みに持ち上がるような気になったのです。

 それって案外タレントに似てるのかもしれません。スターというべきでしょうか。今、スターは不在だけど、スターとタレントの中間くらにならいるかもしれませんよね。タレントはファンがいるから光を放てるわけです。ファン一人一人の小さな光がタレントに当たり、結果として輝やいている錯覚を与えるのです。ファンがいないタレントなんて動きを止めたマリオネット、指をはずされた指人形、無人島の石像、みたいなものです。

 見る者、見られる者、ここにある種の関係が成立します。光を与える者、与えられる者。パワーをもらう者、与える者。

 ファン一人一人小さな発光体を持ってタレントに向ける。光の数が多いほど輝く。光が消えれば、パワーも消える。

 もっとも以前はこの構図だったかもしれませんが、今は一人一人が光を投げかけるわけではなく、たくさん集まった動く物体を興味をもって懐中電灯で照らしてみる程度かもしれません。暗いとこでなんか動いてる、どれどれ光を当ててみるか、お、意外におもしろいことやってるな、ま、見てみよう、あはははは。そしてしばらくすると興味もなくなり、光も消えていく…。

 タレント評論家ではないので、これくらいにしておきましょう。話がまたまたそれてしまいましたが、僕が言いたいのは、物でも者でも光源に照らされなければ光を放てない、ということなのです。僕の場合、光源が所長です。所長が僕を尾行してくれれば、僕そのものが輝けるような錯覚を持ったのです。

 僕はろくすっぽ人に見られたことがありません。まして賛美なんて縁がありません。人に見られなければ輝きもない、と感じたのです。けれど、所長が僕を尾行し、僕の報告書を作る…このアイデアは僕に小さな希望というか期待の芽を植え付けたのです。まさに小さな光です。
 


 僕は三カ月プランをたてました。三カ月で外見を、容貌を変える、そう決めたとき、とても清々しい気持ちとともに目的設定に満足して力がみなぎるのを感じました。ドーパミン? アドレナリン? 何かわからないけど、脳内物質が流れ出したのは確かでした。

 所長には、あの事務所へ行った僕ではなく、未知の僕、を尾行してほしいと思いました。そのためには、やはり僕が僕とわからないくらい変化するしかないと思いました。

 痩せるか太るか…。どちらも健康には悪いでしょう。クリスチャン・ベールは役のために骨と皮ばかりになったのですが、ひどく健康を害したそうです。ロバート・デ・ニーロ、ヴィンセント・ドノフリオ、ジャレット・レトは太りました。これも体に悪そうです。ウルブリン役のヒュー・ジャックマンは筋肉質の体を作るため、脂肪の少ない鶏肉を常に食べ続けてると言っていました。

 僕はもともと痩せ形です。だから、10キロも20キロも痩せることは不可能だし、もし頑張って少しばかり痩せても、到底別人には見えないでしょう。もとの僕が少し痩せた僕になるだけです。

 では太るというのはどうでしょう。痩せるのが駄目なら太るしかないのですが、それもため息です。僕は太れない体質なのです。普段の体重より2、3キロ重くなると、なぜか胃が悪くなり吐いてしまうのです。太るのが嫌だとか太ってしまったという強迫観念にかられるとか、そんなわけではないのです。もう少し体重は重い方がいいと思ってるわけですから。なのに太れないのです。

 変装をする、というのは問題外でした。そんなことをすればもう僕ではないのです。あくまで小道具は使わず、僕自身を変えることで、外見が今の僕とわからないくらいにならなければ意味がないのです。

 いろいろ悩み……いろいろな方法を模索し…実行し……

 そして3か月が経ちました。

 いよいよその日がやってきました。僕はブルースカイ調査事務所に電話をし、3か月前に事務所をたずねたものだと伝えました。そのとき尾行のことで川野さんと所長に相談したのだが、尾行をやはりお願いしたいと伝えました。兄が、実際には血のつながりはないが兄と思っている人間が東京に戻ってきたので、しばらく尾行をお願いしたい、と言い、住所と写真は調査事務所のポストに既に入れておいた旨、伝えました。川野さんはきっと僕のことを覚えていたと思いますが、事務的でいながら感じよく、金の支払い方法、その他の手続きなど、電話で対応してくれました。

 さあ、いよいよ尾行の始まりです。

 僕は長期滞在できるカプセルホテルにチェックインしていました。

 寝泊まりはカプセルホテルと決め、実際にカプセルに入ってみて、しまった!と思いました。自分が閉所恐怖症の気があるのを忘れていたのです。今までもエレベータの中や狭い収納部屋、小さな窓のない部屋、などで言いようのない落ち着きなさや不安感を感じたことがあります。

 カプセルで寝ころんでいると、自分が手も足もない蜂の幼虫になった気がしました。蜂の幼虫ってどんなんだったっけ? 種類によって違うんだっけ? 蝶や蛾の幼虫は幼虫の時も成虫になったときと共通するもの、たとえば色とか角とかあったようだけど、蜂の幼虫ってどうだろう、なんて思いました。

 けれど僕は蜂の幼虫ではないのです。このカプセルを出たら、所長が尾行してくれるわけですから。尾行は所長にお願いしたいと、僕はきっぱりと言い、川野さんは了解しました、ときっぱり答えたわけですから。

 仕事は2週間休みを取りました。自己研修期間として2週間、無給ですが休みが取れました。貴重な2週間をこんなことに使っていいのか、と思わないでもありませんでしたが、僕の意志は固いものでした。そして心のどこかでこれは本当に、まさに、芯からの、自己研修だと思っていました。自分を知るために尾行をしてもらうわけですから。

 3カ月前に事務所に行ったとき、僕は所長にも川野さんにも名前も住所も教えませんでした。来客名簿に記するのも断りました。そしてこの度告げた名前は偽名です。野本栄三。これが僕の偽名です。なぜこんな名を選んだのか自分でもわかりません。頭に最初に浮かんできたのがこの名前だったのです。そして、尾行をしてもらう人物の名前は「片野秋太郎」としました。

 つまりカプセルで横たわる僕は、片野秋太郎ってわけです。

 僕は黒いシャツに黒いズボンに灰色のニットキャップをかぶり、スタバの紙袋を持ってカプセルホテルを出ました。蜂の子が陽の目を見たというわけです。ホテルから出た僕はすでに尾行されているはずでした。振り返ってみたい気がしました。尾行の気配を感じてみたい、と思ったのです。が、もちろんそんなことはしませんでした。片野秋太郎は尾行されていることなど知っているはずはないのですから。

 何がしたいのだろう、僕は歩きながら考えました。所長が尾行をしている、そう思っても別に緊張するわけでもありませんでした。それに気づいたときその事実は僕を驚かせました。誰かの注目を浴びるといつもどきどきしていた自分がありましたから。

 何がしたいのだろう、再び真剣に考えました。したいことを頭の中で箇条書きしてみたいと思ったのです。

 そして、何もしたいことが思い浮かばなかったとき、ひどく乾いた驚きが襲ってきました。尾行されている、されてないにかかわらず、僕にはしたいと思えることがなかったのです。

 何一つなかったのです。

 そこで仕方なく思いつくまま、適当に過ごすことにしました。

 ラーメン屋に入ってゆっくりとラーメンを食べました。もやしを一本一本箸でゆっくりつまんで食べました。鼻ひげと顎鬚が湯気で濡れました。僕は顔だけは毛深かったので、髭はたやすく生えました。髭を生やしてメガネをかけてみるとこれだけですっかり別人に見えました。ほとんどノンストップでのトレーニングも効を奏してか、ぴったりのTシャツを着て鏡で見ると、僕とはそれまで無縁だった怪しい男が立っていました。

 すれ違う女たちをじっくり見つめたり、時々は振り返ったりもしてみました。もちろん、僕が僕であったときはしない行動です。

 気にくわなさそうに口を大きくゆがめてはチッと言ったりもしました。郵便局の前で、足をとめ、ポケットにさも何か持っていそうに手をつっこんで確認しているふりもしました。

 全く知らない老人を追いかけていって、「もしかして村上さんではないですか?」と真剣な声で聞いてみたりもしました。戸惑った老人は僕を見て「わしゃ、そんな名前ではないような気がするな」と答えただけでした。

 ある時は細い路地にある電柱の前に立ち、ゆっくりと煙草を吸いました。煙草を吸ったのは大学生の時以来でした。むせそうになるのを必死にこらえ吸い続けました。「肺が真っ黒」という言葉が急にメロディをつけて僕の頭にポップアップしたので、慌てて煙草を捨て、つま先で火を消しながら、この動作は女っぽいのではないかとちょっと気にしました。そのあと数歩歩いたのですが、煙草のポイ捨てやめましょう、というポスターで見たにこやかな女の子の顔を浮かんできて、小走りで戻って煙草を拾いたくなりました。もちろん、それはしませんでしたけど。

 また、ある時は、繁華街で、「おい兄ちゃん、何ガンつけとんねん」と因縁をつけられました。いつもだったら、「いや、すみません」と困ったような笑みを浮かべてこそこそ逃げ出すのですが、そのときは「そっちこそ、何見とるんじゃ~~~!」と腹の底から声が出ました。僕はもともと声が低いのですが、対人が苦手だからでしょうか、人と話す時は声はかすれるかワンオクターブ上がるかなのです。しかしその時の驚くほどの低音の怒声は自分でも心底驚きました。

 ある時は高級スーツ売り場で、スパイさながらのストイックさでブラックのスーツを調達しました。

 無意味に気の向くまま過ごす、僕は次第に自分はこれがしたかったのだ、と思うようになりました。けれど、そう思い満足しようとすればするほど、焦ってきました。それは歩けば歩くほど道に迷っていく、のと同じ原理でした。

 もう、誰が尾行しているのかなんて気になりませんでした。最初は所長のくずれた美しさの横顔を思いだしたりし、所長が尾けているのか、と少しだけうわついた気になりましたが、次第に、ほんとうに不思議なことに、訳のわからないほど不思議なことに、誰がつけていようが構わなくなったのです。気にならなくなったのです。



 一週間が経ちました。

 僕はもうくたくたでした。

 疲労感が心と体に満ちていました。

 なぜだか昔飼っていたハムスターを思い出しました。カラカラカラカラ…ひっきりなしに回し車を回すハムスターでした。カラカラカラカラ、それはよく回したものです。カラカラカラカラ……その音を夜聞くたび、決して苛々はしませんでしたが、虚しくなりました。小さいケージの中で、小さい回し車にのってカラカラカラカラ回すハムスターの存在が夜眠れない自分と重なり、ゴースト的に思えたのです。意味がない、虚しい、そんな意味でのゴースト的です。

 ハムスターのことを思い出しながら、僕は、自分がいつのまにかゴーストになっていたのかも…と感じていました。



 報告書は一週間ごとのはずでした。それを読んで継続かどうかを決めることになっていました。一週間の尾行は安いものではありませんでした。

 私設私書箱宛てに届いた紙媒体の報告書。

 手にした僕は思っていたより冷静でした。もっとわくわくしたり、どきどきしたりするのではないかと思っていたのですが、休日の新聞に挟まれたチラシの束を手にするぐらいの素っ気ない無関心さでした。3か月もかけ尾行してもらうための準備をして臨んだ一大プロジェクトのはずでした。その目的もわからぬまま、何かに突き動かされたプロジェクトでしたのに、今その報告書を手にして、すっかりその突き動かしていたものがなくなっているのに直面せざるえを得ませんでした。

 報告書。

 行動に変化があった時間ごとに場所、行動が記し、写真がつけてありました。調査の目的をはっきり告げぬままでの、いわゆる尾行のための尾行であったわけですから、かなり細かい報告書になっていました。通った道、入った店、その様子、言葉を交わした人。

 確かに自分の行動が詳細に記されていました。写真もかなりの量でした。写真を見ていると、別人であって自分であって、やはり別人であって…。見れば見るほどわからなくなってきました。

 詳細な報告書。その最後の最後に数行、尾行責任者のコメントが、ほんのおまけのように載っていました。

 読んでみて、僕は大きな石を投げつけられたような衝撃に襲われました。発泡スチロールかと思っていたら、本当の岩だった…そんな感じで頭と…そして心に…衝撃を受けたのです。



 被調査人は落ち着きがなく、なんらかの人格障害に近い気質である可能性が否定できない。時として幻影を見たり、聞こえぬ声に耳を傾けたりしている様子がみられる。仕事をすることはなく、一日中街をぶらついている。人に危害を加えることはなかったが、どなり声をあげたことが3回あり、その声は常軌を逸した怒声であった。
 外見は動かずにいると特に異様というほどではないが、動き出すと、どこか不器用で挙動不審の人物に見える。多動であるが、時に一時間単位で微動だにせぬこともある。
 被調査人の行動の原因と特性を明らかにするためには、さらなる調査が望まれる。



 何だか一粒一粒積み上げた山が一瞬にして崩れ落ちたような、カラカラカラカラ回してきた回し車が一瞬にして砕け散ったような、とにかく、何かひどくひどくショックというか衝撃を受けたのだけは確かでした。

 しばらく瞬きすら億劫なくらい口を開けてじっとしていました。

 どれだけ時間が経ったのでしょう。そのあと、少しうとうとしたようにも思います。

 それから、ゆっくりコーヒーを入れて飲みました。久々のマンションで飲むコーヒーは記憶にあるより薄っぺらい味がしました。

 その日の夜からほとんど一週間、僕は鬱状態に陥りました。夜は少しだけ眠れましたが、昼間は何も手につきませんでした。何だか自分がひどく卑しめられたような、存在そのものが虐げられたような、不安と焦燥感と空虚感に動けなくなったのです。

 けれど何事にも変化は訪れるものです。休みを一日残した雨の日の午後、救いが訪れました。きっかけは一つの言葉でした。コーヒーを飲む僕の頭に一つの言葉がフラッシュして、心にじりじりと焼きついたのです。

 それは「作り屋」でした。

 「作り屋」に惑わされてはいけない、そのシンプルな事実に始めて気がついたのです。

 「作り屋」はいろいろなことを言います。たいていの「作り屋」が作るのは実体のないものかもしれません。なのに作り屋の言うことを気にし、作り屋の作り上げるものに一喜一憂します。

 自分自身が自分の作り屋になってはならないのだ、僕は思いました。

 人がどんなに自分の作り屋になって語ろうと、自分から自分の作り屋になってはいけないのだ……。

 そんな単純なことに僕はそのとき始めて気がついたのです。

 正直、自分でも「作り屋」の意味はまだよくわかっていませんでしたが、「作り屋」という言葉が僕に語りかけ、カラカラと回り始めていました。

 いいえ、語りかけているのも回っているのも僕で、僕が「作り屋」について、僕自身に語りかけていたのかもしれません。ときおり父の声で「古いやつだとお思いでしょうが…」というのも聞こえたりして、父は世の中で「作り屋」でなく過ごす大切さがわかっていたのだろうか、今度会ったら聞いてみたいと思いました。

 もう僕には、川野さんも所長も野本栄三も片野秋太郎も、どこか遠い存在に思えていました。ブルースカイ調査事務所に行ったことも、尾行をお願いし街を歩き回ったことも、カプセルの中で過ごしたことも、液晶かプラズマか、どちらにしてもフラットな画面の中で起こったことに思えてきました。人間的なタッチとして紙媒体で報告書をもらったことも、全く意味がなく、的外れだったわけです。

 紙媒体であろうとネットでであろうと、もともと関係なかったのです。

 僕は紙媒体の報告書を縦にいくつかに破ってゴミ袋にいれ、輪ゴムでしっかり縛りました。

 ゴミ袋を翌日の朝出すため、玄関ドアの手前まで運ぶと、なんだかここしばらくなかった心の安らぎを感じました。

 心からほっとしたのです。

 そして、時間があればゆっくり考えてみたいものだと思いました。

 「ゴースト」と「作り屋」、そして「僕」のことを。

33番3号ビル

   

 報告書が送られてきてから3か月ばかり経ったときのことだった。カズトがマンションの階段下までゴミを持っていくと、道を隔てて女が立っていた。

 視線を感じたが、そのまま向きを変えてマンションに入ろうとしたとき、その女はカズトに近づいてきた。

 髪を帽子に入れていたし、メガネがべっ甲ではなくフレームレスなのでぱっと見にはわからなかったが、それはブルースカイ調査事務所の川野さんだった。

「ちょっとお話できますか?」 川野さんは言った。



 ファミリーレストランに入って隅のテーブルで川野さんと向かい合った。

「あの、僕、ちゃんと振り込んでますよね」

「ええ、もちろんです。お代はいただきました。今日のお話はそれとは全く別の話なんです。いえ、もちろん、お会いしたことがあったから、今日のお話に発展したわけなんですけど」

 川野さんはカズトをしっかり見た。意思の強い目だった。表情豊かな女の子たちは、困った目、楽しい目、ウルウルの目、怒った目の使い分けを上下まぶたの調節でしている。けれど、川野さんの上下まぶたはほとんど動かずすっきりしている。そのぶん茶色がかった瞳がものを言う。

 川野さんは女性にしてはひどく無表情なのだろうが、それがカズトを落ち着かせた。雑音のある場所から静かな場所に来た、そんなふうに感じさせた。

「石巻カズトさんですね。カズトさんの本当の名前は私たち知らないことになっていたと思いますが、もちろん知っていました。調査事務所ですから。それで今日はその石巻さんに私たちの会社に入ってほしくてお願いに来たんです」

 カズトは思わずコーヒーカップを落としそうになった。


           ☆

 ブルースカイ調査事務所のビルが建てられたのはいつだろう。

 4、50年か? かなり古いそのビルはひっそりと立っていた。

 一階の右側のドアには「ネイル May」 左側は「ペットショップ のんた」とある。間口が狭いビルだから当然どちらの店のドアも小ぶりだが、その間にアルミ色のドアがあり、次のように案内が貼ってあった。

2階 201号室 雨訪税理士事務所 202号室 ブルースカイ調査事務所

3階 301号室 アンディ個別指導塾 302号室 humain

 その案内板の貼ってあるドアを開けると細い階段と細い通路があり、通路の奥がエレベーターだ。

 川野さんは言った。

 このビルは3番33号に建ってるんです。サンサンサンで、太陽がいっぱいじゃないですか。だから「太陽がいっぱいビル」って呼ぶ人もいるけど、ちょっと長すぎるから、「ルネクレマンビル」短くして「ルネビル」って呼ぶ人もいるんです。

 ああ、太陽がいっぱいは監督がルネクレマンだった、犯人が頑張るんだけど最後に逃げきれない衝撃のシーンがあった。あれはパトリシア・ハイスミスの原作とはラストが違っていたと思う。ルネクレマンといえば禁じられた遊びもそうだ。他に何かあったかな、など思いながら、カズトは太陽がいっぱいのイメージとは程遠いビルを見上げた。屋上にカラスが一羽とまって、アーコワーと鳴いた。

 川野さんは言った。

「つながってるんです」

「えっ?」

「つながってるんです。全てのテナントが、インテグリティのもとに」

「インテグリティ…ですか?」

 カズトはインテグリティの意味を漠然と頭で検索した。

「組織っていっても、オーガナイゼーションっていっても、ぴんとこないと思いますが、ある人間たちの集まりがあり、それぞれの役割を果たしている、と思ってください。ブルースカイ調査事務所もその一つですし、このビルのテナントもみなそうなんです。そしてその集まりに必要な人の素質、そのキーワードがインテグリティなんです」

 インテグリティ・・・

「人にはインテグリティの芽を持つ人もいれば、インテグリティが具現化したような人もいます。私たちが声をかけるのは少なくともその芽をもっているだろうと確信できた場合のみです」

 僕にその芽があるのか? カズトが考えこんだとき、二つの声が重なるように聞こえてきた。

 ママァァ!
 ミキちゃんママ!

 振り向くと銀髪のショートヘアの女性が二人の6、7歳の女の子の手を引いていた。

 髪を日本人形みたいにした女の子が川野さんに抱きついた。どうやら、川野さんの子らしい。

「娘のミキです」

 川野さんが誇らしげに言った。

 ショートカットのもう一人の子は賢そうな目で僕の様子をうかがっている。

「あ、シルバ、こっちが石巻さん。ご存じよね」

 川野さんにシルバと呼ばれた銀髪の女性はうなづいた。

「初めまして。石巻さんですね。お話聞いてます。三好です。みんなにシルバって呼ばれてます。川野はタキって呼ばれてます。このこはひろ子、ロコです」

 そう言い、シルバは少し微笑んだ。鋭かったシルバの目はロコを引き寄せたときだけ柔和になった。


「おにいさんもここで働くの?」
 
 川野さんの子のミキが聞いた。おじさんではなくお兄さんと呼ばれたことになぜかほっとした。若く見られたいとかじゃなくて、おじさん、と呼ばれるほど自分には経験がないと思ったのだ。

「あ、どうかな」

 口ごもっていると、「ネイル May」と書かれたドアから、大柄な女性が出てきた。

「メイさーん」 ミキとロコが抱きついた。

 メイさんと呼ばれた女性は二人を両脇に抱え上げた。かなりの力だ。よく見ると、どうやら元々は男性のようだった。小さい動物柄のスカーフを頭に纏っている。

「今日はウエディングネイルの注文が入ったのよ。結構素敵にできたわ」

 メイさんは嬉しそうに言った。





 

肩にオウムをとまらせて:ノンタ

 タウンハウスを引き払い、田舎へ・・・しかもほとんど人なんか見ずにすむくらいの田舎へ引っ越そうと言ったのはミサだった。

 髪はいつもスタイリッシュにショートで決め、汗ばむくらい暑い日でも自分だけはクールよとばかり、1ダースは持っているサングラスの一つを小粋にかけ、足取り軽く街を闊歩するミサが、田舎へ越したいと言い出したので、洋司は思わず鶏のように首を突き出した。

 ミサはジュエリーや最新のファッションに多大な意味を見出す女だった。大都会の気まぐれ族が作りだすぜいたく品を刹那的に愛することができる女だった。その気まぐれさゆえ、不安も感じたし愛していると信じたい洋司にとって、田舎に住むミサというのは、水田にほおり投げられたマニュキュアの瓶みたいに思えた。

「子供ができたみたいなの」

 子供・・・。

 洋司は一瞬無表情になった。嬉しくないわけではない。子供は自分でも好きだと思う。ただ、ミサと赤ん坊というのは、どうにも結びつかなかった。もともと温かい家庭を築きたくて一緒になったわけじゃない。ミサに魅せられた洋司が結婚してもらった、という出だしだった。

「聞いているの? 子供ができたのよ」

 ミサは浮かない顔で、こめかみの髪をぐいぐい引っぱった。ミサは苛立つと爪を噛む。さらに事態が悪くなると、絶望の中、目の前にある物に突っ伏し、声をたてずに泣く。本でもテーブルでも男の肩でもティッシュの箱でも突っ伏す対象に意味を見出すことはない。そして絶望が深い諦めの淵に沈むと、決まってこめかみの髪を引っぱりだすのだった。

 洋司は慌てた。これは重症だ。いつもと様子が違う。実際に髪抜きが止まらなくなった妻を見たことがない。そんなミサを見ずに済んだらそれにこしたことはない。洋司はどうにも怖かった。

 洋司自身、今、子供は無理だと思う。エプロン姿の妻が目立ち始めたお腹を揺らし、ハミングしながら幸せそうにキッチンに立つ姿なんて、グッディグッディのドラマの世界、洋司には縁のないものに思えた。料理嫌いのミサにとって洒落たディッシュにしてもケーキにしても、ファンシーなカフェで足を組み、上品に口に運ぶものであり、小麦粉その他と格闘しオーブンで焼いたりする代物ではなかった。

 ミサと赤ん坊か・・・。

 親戚の三才の子供の頭一つ撫でるでもないミサ。

 ミサと赤ん坊か・・・。

 スリムな服を横目に鏡を前に大きなため息をつくだろうミサ。

 ミサと赤ん坊か・・・。

 お腹が大きくなって全体的に浮腫み、荒れ狂うだろうミサ。

 洋司が思いをめぐらしているうちにもミサはこめかみの髪を抜き続け、大理石を模したテーブルには既に数十本の髪が散らばっていた。

 ミサの髪抜きが止まらなくて困ったというのは過去二回だと聞いた。一度目は大学受験に失敗したとき。第一志望に見事に落ち、右のこめかみの横に10円玉の禿げができた。

 それから5年後の、ミサいわくとんだ裏切り者のチンピラへの失恋騒動のときはもっとひどく、二つの500円玉の不毛地帯ができた。

 ミサにそんなことがあったと聞かされたとき、洋司は限りなく完璧に近いと信じていた宝石に小さな傷を発見したような気になった。同時に、ミサを人間として愛しているのかと不安にもなった。しかし、洋司は愛だと決めつけた。結婚を決めた理由は愛と言う方が何にしても爽やか・・・に思えたのだ。

 自己責任・・・。最近、やけにこの堅苦しい言葉が頭に浮かぶ。

 洋司、大人になるってことは自己責任をとるってことだ、父がしょっちゅう言っていた。

 金遣いが荒く、明日のこともろくに考えず、服を粋に着こなすことでは天才・・・そんなミサを洋司は愛しているはずだった。

 しかし、ほんとうに愛しているのだろうか、そう心に問うたび、なぜか父の「自己責任」という言葉を思い出した。ミサと父が「自己責任」という言葉で結びつくようになろうとは、思ってもみなかった。

「どうして田舎へ行きたいのさ?」

「去年のクリスマスにくれたイアリング覚えてる?」

「うん」

「じゃ、リキエルのブルーのドレスは?」

「覚えてるけど・・・」

「買ったときはみんな大好きで大切にするの。でもね、今はもう飽きてる」

「・・・うん?」

「つまりね、ここにいると新しいものが目につきすぎるの。古いものにすぐ飽きちゃうの。刺激が多すぎるの。ほしいものが多すぎるの」

「うん・・・」

「だからね、ここに住んでる限り、あたし子供産んでも途中で飽きてしまいそうな気がするのよ。ねえ、わかる?」

「馬鹿なこというんじゃないよ。物と赤ん坊じゃ違うさ」

「そうかしら。ユキの子なんて、生まれてすぐユキの着せ替え人形よ。彼女、これで泣いておしっこしなけりゃいいって言ってるわ」

「冗談だよ。本気じゃないさ」

「本気よ。彼女、いつだって本音を言うわ」

「そうかな」

「マユミは子供さえいなけりゃってぽろっと言うわ。子供さえいなけりゃ働きに出れるって」

「言ってるだけさ。あんなに仕事止めたがってたじゃないか。仕事止めるためなら牛とだって結婚したよ」

「ひどいわね」

 洋司はミサの髪をむしる手をゆっくり押さえ、握った。もっと強く握りしめたかったが、大きな石のついた指輪が邪魔だった。洋司はミサの手を握ることで、自分の気持ちも落ち着かせたかった。ミサを以前のように愛していると確信したかった。

「怖いの。自分が生臭くなののが怖いの」

「生臭く?」

「そう。あたし、美しく生きたいの。生臭さはごめんなの。一度しかない人生なんだし・・・」

「子供を産んで育てるのは美しいこと・・・だろ」

「ううん、あたしを地に落とす・・・そんな気がする」

 地に落とす、か・・・。どこかで読んだ主人公の台詞だ。洋司は笑いたくなった。・・・が気を取り直して言ってみた。

「それは地に足が着くって言うんだよ」

「まだ地に足なんか着けたくないのよ!」

 ミサは怒鳴った。いや、吠えた。

 洋司は焦った。空回りだ。ミサの頭の中で、洋司の頭の中で、からからからから何かが空回りしている。洋司とミサの関係もだ。

 彼女が心の平静を保てるというのなら、田舎へ行くのも悪くはないのかもしれない。ありがたきミサの両親のおかげで結婚当初には驚くほどの桁数だったミサの通帳が、今はほとんど空になっている。ミサが頼めばまた桁数は増えるだろう。けれどこの街にいたのでは、金は千枚の翼を持っているがごとくだ。

 ただ、この街を出てどこへ行くというのだ。どこで働くというのだ。洋司は自分の職を思った。やっと少し上がった給料を思った。

 夢のような解決策なんてどこにもない。ありゃしない。もちろんこの街から出てもいい。彼女の心穏やかなる処があるなら行きたい。でもそんな場所なんてありゃしない。あるとしたら、混乱したミサの頭の中でひらひら飛ぶ蝶のように、それもまた夢物語だ。

 せわしなげにこめかみから額にかけての髪を引っぱり続けるミサを見て、ひどく動物的だと思った。

 ミサが動物的?

 そんなことを思ったのは初めてだった。しかし、今のミサは飼い主のバスケットから野にほおり出されたのはいいが、陽のまぶしさに隠れ場所を探してバタバタする小動物のようだった。

 ミサ・・・。

 洋司は疲れを感じた。自分の中で今まで誰も触れなかったネジがギュウッと回されたようで、頭が混乱した。そんな中、一つの事実が見えてきた。ミサとの生活に疲れている・・・。父の言う「自己責任」の意味がずっとクリアには見えなかったように、今はミサとの未来が見えない。

 ぼんやりミサを見ていると、頭の中で一つの声が聞こえてきた。

 あなた、幸せなの?

 聞き覚えのある声だった。

 誰だい?

 思い出せなかった。

 あなた、幸せなの? 今、幸せなの?

 そうか・・・。

 ふっくらとした手。犬を抱き上げる手。猫の頭をくしゃくしゃする手。野良猫の臭いなどものともせず、抱き上げるその手。

 ふっくらとしたその手を思い出しながら、心でつぶやいた。

 ノンタ・・・。君だね。君の声だ。



 誰もノリコとは呼ばずノンタと呼んだ。ノンタでいいよ、会って数分後には彼女が口にする台詞。だから、パン屋の女主人も安コーポのオーナーも「やあ、ノンタ」と声をかけた。

 そう言えば一人だけ遠慮深げな花屋の店主が「ノンタさん」と呼んでいた。ノンタはその花屋の常連で、萎れかけて二束三文で売られている花束を買っていた。よい客とは言えないノンタだが、店主はいつも愛想よかった。ノンタに連れられて寄ったとき、店主が言った。

「ノンタさんは珍しいグリーンサムだよ」

 グリーンサム、緑の親指。植物を育てる天性があるという。「あんたは果報者だ」という店主に洋司はしぶしぶ微笑んだ。ノンタはそのとき、小菊の小さな鉢を自分用に、小さな花束を洋司に買い、はいっ!と渡してくれた。

 何の花束だったんだろう。黄色と橙色が混ざったような小さな花だった。

「気分が沈んだときは花を見るといいよ。蕾で買って、花瓶にさして、花が開くの見てると何だか体中の淀みがきれいになる気がするよ」

 そんなノンタの言葉に、大の男に言うことかよ、と気恥ずかしくなったのを覚えている。

 そのころ洋司は沈んでいた。何で沈んでいたのだろう。思うようにならない生活に沈んでいた。ルックスもよく、才能もある。こんな下町でいつまでもくすぶっている器じゃない。トップクラスとはいえなくても、かなりいい大学だって出た。なのにとんだ就職難で、思いもかけぬちっぽけな会社に拾ってもらうのがやっとだった。洋司はスマートに生きたかった。そうじゃない暮らしなら田舎でいくらでもできる。なのにここにいながら、この生活はない・・・。

 花を買って差し出すノンタの手はふっくらと丸かった。体は貧弱といっていいほど細かったが、手だけは柔らかく丸かった。「これはこれは」彼は茶化したように受け取った。恥ずかしかったにしても内心嬉しかったし、安らぎも感じた。しかしこんなことで感動しては男がすたる、こんなことでは目標とする生活から離れるばかりじゃないか・・・そんな風にノンタがおこした小さな感傷を吹き飛ばした。

 ノンタか・・・。

 彼女のことは、ここしばらく思い出さなかった。しばらくどころか、ずっとなかった。ずっとずっとなかった。



 ノンタのことで今思い出すのは、その奇妙な存在感だ。

 ノンタとつき合ってまだ間もない冬の日のこと。二人は散歩をしていた。ロマンチックな雰囲気はなかったと思う。思えばノンタとロマンチックに歩いたことなどなかった。

 ゆっくり歩く洋司の横をノンタはふわふわ歩く。そう、ふわふわ歩く子だった。肩のラインがふわふわ揺れる。時おり腕を組んできては、その垂れ加減の茶色の目で洋司を見つめた。

 その視線をどう受け止めていいかわからず、甘い視線や無垢な優しさを見せることができなかった。だから、いつも少しうるさそうにノンタを見た。

 けれど、ノンタの瞳は曇らなかった。ノンタには不思議な明るさがあった。温かな陽気さ。それが憂いを含んだ存在に恋をしたいと漠然と感じていた洋司にはうっとおしかった。

 当初からつき合うべくしてつき合ったとは思ってなかった。腐れ縁というにはノンタの陽気さが邪魔したが、安コーポの隣どうし、一人の日曜を重ねていた者どうし、なんとなく、一緒に出かけるようになった。

 あっ、お出かけですか?

 ええ、そこまで。

 そうですか・・・。

 一緒に歩きましょうか。

 そうですね。

 地味な子だと思った。センスのない子だと思った。けれど、懐かしい匂いがした。

 都会の一人暮らしも10年目になれば、昔駆け抜けた砂利道の水たまりの底で輝いていた太陽や、秋のひだまりに綿毛がふんわり浮かんでいる様子などが、時おりセンチメンタルなスローモーションで浮かんできた。そしてノスタルジックな思いには匂いがつきものだ。目をつぶって大きく吸い込みたいような匂い・・・。

 ノンタはその存在が匂いだった。甘さや華麗さはなかったにしても、素朴な優しい匂いがあった。時おり夕食を食べに行ったり、映画や祭りに行く。一人でいるよりずっと楽しい。恋してる気分ではないが、気を遣わなくてすむ。ノンタといて洋司はくつろいだ。

 ある日、彼女は言った。

「ピクニックに行かない?」

 手には妙に大きい水筒と弁当らしきものの入った袋を提げている。

 勘弁してくれよ、洋司は思った。

「ピクニックってどこへさ?」

「すぐ近くなの。時間はとらせないわ」

 洋司はほとんど当惑していた。どぶ川沿いのコーポの周りはごみごみした低い建物が密集しており、ほんの近くにピクニックなんて行きようがなかった。

「行きましょうよ」

 ノンタは洋司の手を取った。温かい手だった。温かい瞳だった。とても確かなあたたかさだった。何かしら不確かな毎日の中、とても確かなあたたかさに触れ、その瞬間、彼女を美しいと思った。そうだ、あの時、彼女を美しい、と思ったのだ。

「行きましょうよ」

 すぐそこよ、の言葉通り、それは確かにコーポから歩いてすぐだった。

「どう、ここだけ野原を切り取ってポンと置いたみたいでしょう」
 
 二つのビルの間に挟まれた空き地、それは不思議な一角だった。少し前まで、雑貨屋があったような気がする。手芸店だっただろうか。立ち退きせずだいぶ頑張っていたようだが、いつの間にか建物はなくなり、空き地になっていた。両脇の二つの建物が時代ものの煉瓦風のつくりだったので、そこは奇妙に風情ある空間となっていた。

「建物の間でしょ。陽が射している時間はあまり長くないの。それにしては頑張ってるでしょ、この花たち」

 ノンタは、空き地の所々に咲いている白や紫の花を両手を広げて誇らしげに示した。

「種蒔いたんだ。野草に近い丈夫な花です、土を選ばず可憐な花を咲かせますって袋に書いてあったの。種買ったのはいいけど、鉢に蒔くのもぴんと来なくて、そしたらここが目に入って。こっそり、でも思いっきりぱぁーって蒔いたんだ。冬になる前よ。五つの袋、ぜーんぶ蒔いたの。一種の賭けだったんだけど、冬の間じーっと地面の中で芽が出る準備してたのね。暖かくなって芽が出たの。普通どこにでもある雑草とちょっと違うでしょ。野草でもあたしが蒔いた種から出たんだから」

 土を選ばず可憐な花を咲かせますか・・・。ノンタみたいだ、洋司は思った。自分は卑下していつもしおれてるのに、ノンタは強い。

 ノンタの種まきは効を奏し、確かにその四角いスペースだけ唐突に春だった。

「ここね、児童公園になるらしわ。この両脇の建物もそのうち倒されるって」

「児童たってこの辺、子供いないぞ」

「児童公園って何も子供のためだけじゃないわ。そこへ行くと子供の心になって安らぐって児童公園でもいいわけじゃない」

 小さなビニールシートを広げておにぎりを食べた。最初恥ずかしかったが、面した道路が袋小路なので、人の通る気配もなく、両脇は古い建物、後ろはどぶ川沿いの低木や雑草に囲まれ、誰の目を気にすることもなかった。

 三個目のおにぎりを食べるころには、洋司もひどくのんびりした気分になっていた。羽のやぶれた紋白蝶がひらひらよたよた周りを飛んで、侵入者を恐がる様子もなかった。

 のどかだった。異性というという緊張感はなく、小さい頃、近所の女の子と縁側で一緒にお煎餅をかじってるような安らぎがあった。

 返り道、ノンタが手をつないできたとき、洋司は普段のように戸惑わなかった。そればかりか、ハミングしながら、つないだ手を揺らす、というサービスまでやってのけた。

 何を歌ったんだろう。まさか童謡ではなかったはずだ。

 歌が途切れるとノンタが言った。

「ね、どうして聞かないの?」

「えっ?」

「どうしてあたしのこともっと聞かないの? 知りたくない?」

 洋司は質問の意味がわからぬ振りをして、ハミングを続けた。続けながら、やばい…と思った。

「聞けば、場違いなところに閉じ込められた、そんな気になる? 今日のピクニックみたいに」

 ノンタはそうつぶやいた。なぜか心にぎゅうっと圧力がかかったけれど、それを無視し、洋司は再びハミングを始めた。

 その夜、ノックがあった。少しやっかいな予感がした。ドアを開けると、やはりノンタだった。湯上りなのか頬が上気し、こざっぱりして見えた。

 ノンタは洋司を見た。十時は回っていた。こんな時間にやってきたノンタをやっかいに思ったにしても、何しに来たのさ、なんて追い返す勇気もなかった。ときめきはなかったが、愛しさはあった。そして彼女の瞳の優しさに心が揺れた。

 だから、ノンタの肩を抱いた。しっかりと抱いた。

 香水の匂いがした。湯上りに香水をふった彼女の気持ちを思うと、その気になれない、なんて言えなかった。

 それ以来、何度か肌を重ねたが、今、洋司が思い浮かぶのは、あの感覚だ。メイクラブの後、彼女のふっくらした手を握るとひどく落ち着いた、あの安らぎの感覚だ。静かな安らぎ。静かで穏やかな感覚だ。

 そしてあの温かな静けさ・・・。

 しばらくノンタとの穏やかな時間は続いた。そう、ミサに出会うまで。

 

 ミサに会ったとき、その美しさに圧倒された。華奢にバランスとれた体に繊細に彫りこんだような顔。表情が乏しいような気もしたが、会話にはウイットがあり、一つ一つのしぐさが美しく品があった。そう、品があった。

 そして驚いたことに、ミサも洋司に好意をもった。

 ウワォ!

 彼は思った。

 ウワォ!

 そう思った。

 まるで宝くじにでも当たった気分だった。跳び上がって、ひゃっほう!と叫びたかった。ただ宝くじのように、その喜びや幸運をノンタとシェアするわけにはいかなかった。

 そして洋司はノンタを邪魔に思い始めた。つき合っているものがいる、とミサに知られるのが怖かったわけじゃない。ノンタを見て、センスないと呆れられるのが怖かったのだ。

 邪魔に思い始めると止まらなかった。安らぎに感じたその笑顔さえうっとおしくなった。

 そんな自分を冷たいと思った。思いはしたが、仕方ないとも思った。

 あの時は欲しいものがしっかりわかっていた。ミサだ。ミサしかいない。ノンタの存在は邪魔でしかなかった。ノンタの春のミストのような優しい存在感は、ミサの出現ではかなく消えた。

 ノンタとの関係は必然性のない関係だったのだ。必然性のない・・・。

 しばらく、細心の注意を払って顔を合わせぬようにしていたが、やはりちょっとした罪の意識を感じ、ノンタの部屋を訪れた。ミサとの出会いから一カ月ばかり経っていた。

 もうノンタも悟っているだろう。悟っていてくれた方が都合いい。

 あら、とノンタは微笑んだ。どこか淋しげな微笑みだった。その笑顔に洋司は焦った。早く片づけなければ、と焦った。ノンタのそんな顔はやはり苦手だった。

 素焼きのマグカップでコーヒーをすすり、二人はしばし沈黙した。ノンタは決心したように顔を勢いよく上げた。陽の光では茶色に見える大きな瞳が、そのとき電球の下では真っ黒に見えた。

「隣は何をする人ぞ・・・」

「えっ?」

「戻りたいんでしょ。そんな感じに・・・。隣は何をする人ぞって感じのご近所さんに。そうでしょ?」

「ごめん・・・」

「どうして?」

「どうしてって・・・」

「理由なんていいわよね。大丈夫。怒ってないわ。気にしないで。もともと恋人どうしだったわけでもないし・・・」

「じゃ、何だったのかな」

「同士よ」

 同士・・・。

「そう、淋しさを紛らす同士よ。淋しいときに触れ合う・・・。時を過ごす。それは恋でなくてもいいものよ」

 うん、洋司はうなづいた。自分の立場がよくなったのか悪くなったのかわからなかった。

「大丈夫。洋司がいなくてもしょげたりしない。そりゃ、もうしばらくはしょげてるでしょうけど・・・」

「うん・・・」

「あたし、夢が好きなの。あたし、夢見つけるのうまいの。夢っていってもかなわぬ夢じゃないわよ。現実の上にいつの間にかちょこんとのっかってそうな夢のこと。そうそう、今日ね、写真雑誌のグラビアで読んだの。ブラジルに住む女の人たちのこと。海沿いのとっても貧しいところに住んでる人たちなんだけど、彼女たちの一人の長年の夢がね、そりゃ素敵なのよ。将来の夢・・・。小さな農園持って肩にオウムをとまらせてね、風にあたりながら眠ること。ねえ、ステキな夢だと思わない? こんな夢ならあたしいっぱい持ってるから大丈夫。洋司とつき合うって夢より現実離れしてるようで、ほんとはぐっと近い、そんな不思議で素敵なあたしなりの夢をね。うん、夢いっぱい持っているから大丈夫」

 そこまで少し早口でノンタは言い・・・言葉につまった。そしてうつむいた。

「でもね、洋司はあたしにとって夢だった。現実の上にのっかっていながら、いつか羽が生えて飛んでってしまいそうな夢だった。・・・でも気にしないで。洋司が悪いんじゃない。歯ブラシや、着古したセーターや・・・そんなのみたいに洋司の日常のかけらにはなれても、洋司の夢にはなれなかったあたしが悪い」

 どれくらい時間が流れたのだろう。ほんの数秒だったのかもしれない。ノンタは微笑み、視線をあげ、洋司を見つめた。今度は洋司がうつむく番だった。

 洋司の手をとってノンタは言った。

「大丈夫。あたし肩にいっぱいね、オウムとまらせるから。ドリームバードとまらせるから」

 洋司は自分が卑怯に思えた。ひどく薄っぺらく思えた。

 けれどミサのためだ。そう、ミサというドリームガールのため。迷いはないはずだった。

「ありがとう。ノンタといて楽しかったよ。ありがとう。君はほんとうに・・・」

 そのあと何といっていいかわからなかった。ノンタを褒めたかった。今までの感謝をその一言にこめたかった。

 何て言ったらいいんだろう。

 何? という瞳でノンタは洋司を見つめていた。

 君はほんとに・・・

「あたたかい・・・」

 うん・・・その言葉をかみしめるようにノンタは小さくうなづいた。

 部屋を出ながら、ノンタの言葉を思い出した。肩にオウムをとまらせる・・・。ドリームバード。夢の鳥。夢をかなえた鳥なのか、夢をかなえる鳥なのか・・・。

 ノンタらしいな。

 洋司は両方の肩に一羽ずつオウム大の鳥をとまらせたノンタを思った。しかし、なぜかモノクロだった。モノクロの写真のように、ノンタは時をこえた懐かしい笑顔で微笑んでいる。もう、ノンタを遠くに感じていた。いや、遠くに感じようとしていた。ノンタを過去のものにしたかった。

 それでもモノクロの写真は油断をすると少しずつ色をつけていく。ノンタの肩にとまった鳥はどこか神々しい。

 ノンタの夢鳥は何色だろう、ふとそんなことを思った。



 その日こそ後味悪かったが、次の日には洋司は晴れ晴れした気持ちだった。これですっきりかたがついた。なんて果報者だ。ミサがいる。僕には美しいミサがいる。

 そして、洋司は引っ越した。引越しの日、ノンタはいなかった。

 その後、ノンタとは一度だけ偶然出会った。別れた翌年、今から三年前のクリスマスイブのことだった。洋司はミサと腕を組んで歩いていた。洋司の頭はその夜の計画でいっぱいだった。レストラン、プレゼント、ジャズに夜景に・・・洒落た夜を素敵なミサに・・・。洋司は全くミサに夢中だった。

 だから、他の女なんか目にも入らなかった。しかし、目には入らなくても声は聞こえる。

「中谷さん、元気?」

 気がつくと見覚えのある顔が洋司を見つめていた。

 ノンタだ。

 中谷さん、と名字で呼んだノンタはひどく具合が悪そうだった。くちびるはひび割れ、素顔の肌はつやがない。年季の入った革のブルゾンに黒のブーツ。分厚い毛糸の手袋をしていた。首に巻いたストライプのスカーフはいかにも寒さよけという感じだった。

「よお、どうしてる?」

 洋司はできるだけからりと言った。

「うん、まあまあよ」

 そう言ってノンタは微笑んだ。笑うと洋司の知っているノンタに少し近づいた。

「偶然だな。何してるんだい」

「病院行ってきたとこなの」

「病院?どうかしたの?」

「もう大体よくなったの。薬だけもらいにね」

「どうしたのさ」

「風邪こじらせてね。でももうほぼよくなったの。あたたかい私でも肺炎になるんだね」

 ノンタはくすりと笑った。

「そうか・・・。大変だったんだね。勤めは同じ?」

「うん、同じとこ。去年、ちょっとだけ偉くなったよ」

 そういっておどけたように肩をすくめた。

 そばで微笑みながらもミサが苛ついているのを感じ、洋司はきっぱり言った。

「じゃ! 気をつけろよ。元気で」

「うん、中谷さんこそね」

 そう言い、ノンタはミサにも軽く会釈して背を向けた。

 洋司は、なぜかその背から目が離せなかった。腕にミサの手を感じながらも、どうしても背を向けて歩きだせなかった。その瞬間、ひどく不思議なことに、視界がスッとぼやけた。
 
 え?

 ノンタが銀色の毛皮の帽子をかぶっている? さっきまではかぶっていなかったのに。

 ノンタが振り向いた。その顔はノンタじゃない・・・。人間ですらない。いや表情は人間だ。着ぐるみとかではない。

 キツネと犬の間のような顔・・・。茶色い目はさらに茶色く琥珀色で・・・。

 ノンタ?

 ノンタは笑った。確かにノンタだ。温かい笑顔だ。

 ノンタの瞳は明るかった。寒風に充血気味だったが、明るかった。あたたかかった。その瞳に何かを思い出さなければ、と思った。ひどく漠然とした懐かしさのようなものを。

「あ、あの・・・」

「何?」

 ノンタは少し近づいた。相変わらず、不思議な生き物の顔をしていた。

「オウムの調子、どうか・・・と思ってさ」

 ああ、ノンタの顔がほころんだ。大きく開いた口から八重歯が見えた。人間の顔をしていた時のノンタの歯並びを思い出させた。ノンタだね。やっぱり、どんなに変わった風貌でも僕には君だってわかる・・・。ミサの整った歯を見慣れていた洋司には唐突なほどの笑顔だった。

「絶好調よ」
 
 ミサが腕を引っ張った。

「ミサ、大川さんさ、あ、彼女大川さん、なんだけど、オウムを飼っててね」

 僕はできるだけ自然に楽しげに言った。

 ノンタは微笑んだ。

「この前までね、二羽ほどとまってたの」

 ノンタは今もとまっているかのように両肩を目で示した。

「何色?」

「一羽は白よ」

「真っ白?」

「そうよ。夢には自分で色をつけなきゃね」

「そうか、白なんだね」

「でもね、もう一羽は青よ。真っ青なの」

 ノンタは笑った。ハハッと洋司も笑った。ノンタの顔の細かい銀色の毛が風に吹かれた。頭全体を覆う毛も波のようにうねって揺れた。

 真っ青か・・・。海の色か・・・。空の色か・・・。

「じゃ!」

 ノンタは洋司に再び微笑むと、くるりと背を向け、今度はもう振り向かなかった。ブルゾンの長めの袖から出た手袋は指先しか見えない。その指先が揺れている。一瞬、その手を握りたいと思ったが、その感覚も「変わった人ね」というミサの声に消えていった。



 ノンタ、君は美しかったんだね。今の僕にはあのとき感じれなかった君の美しさがわかるよ。あのとき僕に見えた君はなんだったんだろう。でも存在の優しさはそのままだった。君がどう姿を変えても。

 その後、洋司は自分の頭も目も疑わなかった。心配もしなかった。見るべきものが見えた、それだけのことだ、と不思議なほどの確信があった。思えば奇妙なことだけど・・・。

 ノンタ、君は美しかったんだ。存在が美しかったんだ。

 今ね、肩に二羽とまってる、そう言うノンタの瞳の絶対的な優しさを今でもしっかり覚えている。

 こんなにはっきり覚えているのに、なぜノンタを思い出さなかったんだろう。

 なぜ、ここ数年、ノンタのことを忘れていたんだろう。

 それより、なぜ今、思い出すんだろう。

 ・・・ないものねだりか・・・。

 ノンタと一緒に暮らし始めていたら、どれくらい続いたというのだ。そもそもノンタはいたのか・・・。実在したのか・・・。

 もともとルックスのよい女に弱いのだ。今、ノンタを思い出すのも、ミサを手に入れたからできること・・・。あのクリスマスイヴのことだって、ほんとにあったことなのか・・・。

 ただ一つわかっているのはないものねだりだってことだ。

 そうさ、ないものねだりだ・・・。

 「時」のせいだ、洋司は思った。時、は人を疲れさせ、丸みをつけ、そして何より怖いのは・・・価値観を変えてしまう。

 価値観か・・・。価値観が変わっただけだというのか・・・。

 洋司は疲れていた。

 ないものねだりだ・・・。

 でも・・・・・・。

 洋司は思った。

 僕のオウムはなんなんだ。

 ノンタに会いたかった。三年の間、思い出しもしなかったノンタに会いたかった。利己的なとんでもないやつだ、と思いつつ、ノンタに会いたかった。あの優しい目のノンタに。ふさふさの銀色の毛で覆われたノンタでもいい。あの存在の優しいノンタに会いたかった。

 それがだめなら・・・・・・目をつぶる。

 オウムになりたい。

 オウムになり、ノンタの肩にとまる。とまって風に吹かれよう。ノンタと風に吹かれよう。穏やかで暖かい午後の風に吹かれよう。

 「自己責任」の意味など考えることもなく、妻を愛しているか、など戸惑うことなく、しばらくぐっすり眠りたい、洋司は思った。

 シャッシャッシャ・・・・・・乾いた音がした。

 気がつくと両手の爪をすりあわせている自分がいた。随分前になおったはずの癖だった。

 シャッシャッシャ、シャッシャッシャ・・・・・・。

 ひどくこせこせとした小動物になった気がした。奥まった目をせかせか動かす小さな生き物。

 髪を引っぱり続けるミサの横で、洋司は爪を擦り合わせ続けた。

 二匹の小動物。

 ひどく自虐的な気分だった。

 いやだ、こんなの。洋司は思った。

 ノンタ。

 ノンタ・・・。

 洋司はオウムになりたかった。心底オウムになりたかった。



 

サチの手:マーサとエリー

 カラーンと音をたて磁石が床に転がった。ボタンのようなプラスティックのついたその磁石、ワインを買ったとき、サービスでついてきた。「磁石になってますから、写真でもメモでも冷蔵庫にくっつけたりするのに便利です」バイトらしきその子は人懐っこく笑い、赤、黄、青、三つの磁石を私の手のひらにころんとのせた。片手におつり、片手に磁石、どうしたものかと戸惑ったのを覚えている。

 ボタン状の磁石、冷蔵庫に近づけるとペタッともカチッともいえぬ音をたてて威勢よく貼りついた。赤、黄、青、信号のように三つ並べた。長い間、何も挟まずにそのままにしておいたが、エリーから写真が三枚送られてきたとき、思い出した。

 一枚目は赤の磁石で貼り付けた。ファミリーレストランで撮ったエリーとサチの写真。窓から入る光が二人に降り注ぎ、エリーは高い高いをしてサチを抱え上げ、弾けたように笑っている。

 二枚目は黄色の磁石で。赤い髪飾りをつけたサチのクローズアップ。口をすぼめた表情が愛らしい。

 三枚目は青の磁石。プールサイドのテーブルの上に寝かされたサチの写真。目をつぶったまま両手をパアッと開いている。

 磁石と共にキッチンフロアに落ちたのは、その三枚目の写真だった。

 私は写真を拾い上げ、キッチンテーブルの上に置いた。

 おーい、ここに置いた茶封筒知らないか? リビングでデニスが呼んだ。さあぁ、答えながら、その写真の中の大きく開いたサチの手を見つめた。

 デニスがやってきてプシューと缶ビールを開ける。少し薄くなった髪をかき上げ、写真を取り上げ、「幾つだったっけ?」と聞いた。

「今、二才とちょっとかな。大きくなってると思うわ」

「父親似だよな」

「そう? 目はエリー似じゃない?」

「ふん…」

 デニスは急に興味を失って欠伸をしてビールをごくりと飲んだ。髭についたビールの泡がプシュンと弾けた。手の甲で口を拭きながら出ていくその後ろ姿、また、一回り大きくなったようだ。

 私は椅子に腰を下ろし、テーブルに置いた写真に目を近づけたり離したりしてみるが、目の焦点が合うようには頭の焦点は合わなかった。




 はい笑って! エリーが言う。サチは口をきっと閉じ、少し不機嫌な顔をする。はい、サチ笑って!サチ笑ってよ! やっとのことで口元が緩み、柔らかな表情になる。

 二年前の夏、三人でプールに行った。交替でサチを見ながら、エリーと私は代わる代わるプールに浮かんだ。目を閉じ、背中で浮かんだ。瞼に光が弾け、目を開けると一面の光だった。
 
 太陽は真上にあった。目を細めると太陽の輪郭が ぼんやり見えた。パシャパシャパシャ…目にしぶきが入るたび、太陽は気ままに細胞分裂を繰り返す。青い空だと思った。できすぎたような青い空だと。浮かびながら空の数を数えた。イチ、二、サン、シ…空は八つに仕切られていた。灰色のフレームがガラスの屋根を仕切っていた。

 パシャパシャパシャ……隣を男が泳いでいく。レイモンドかレスリーかウェスリーか、エリーの顔見知りの男はそんな名だった。笑うと顔の部品がくしゃっと真ん中により、老けているのか若いのかわからなくなった。その男がパシャパシャパシャ、水を跳ね上げ、泳いでいく。ぜいぜいぜい…ぜいぜいぜい…水面に息をエコーさせながら。

 市民プール。木曜の昼を少し回ったばかりの閑散とした市民プール。ガラスでできている屋根の他は何の取り柄もない屋内プール。そこに立てられた波模様の二つのパラソルが妙に場違いで…。そのプールでエリーは、サチの生まれる二日前まで泳いだという。大きなお腹をゆらりゆらり、水に浮かせて。
 
「水に入るとね、ふわっと軽くなるの。体だけじゃなくってね、すべての重圧がよ」

 重圧を軽くさせるため、エリーは味気ない市民プールで、来る日も来る日も泳いだ。自分の中にサチを浮かせ、自分はプールに浮かんだ。十五キロはしっかり増えたの、という体をプールに浮かせた。

 そして、あの日、私もプールに浮かんでいた。私の中にも生があった。私も小さな生も水の中だった。

 水に入るとね、ふわっと軽くなるのよ。体だけじゃなくってね、すべての、すべての重圧がなの…その言葉が私の中でゆらりと揺れた。




 エリーは髪も瞳も黒かった。イタリア系アメリカ人を父に、日系二世を母に持つ小柄で浅黒いエリーはお世辞にも目立つ容姿とは言えなかった。キャンパスでは気のいいエリーと言われ続け、ビューティフルエリー、プリティエリー、とは縁がなかった。

 エリーというのはミドルネームで、ファーストネームはスーザンだった。彼女はミドルネームで呼ばれるのを好んだ。日本語はほとんど話せなかったし 、もちろん書く方はてんで駄目だったけれど、自分の名前、恵理衣だけはきちんと書けた。彼女が三つの感字をけっこうバランスよく並べて書いてみせたとき、私は少なからず驚いた。

 クイックイッ…エリーは水と一体化して泳いだ。頭だけ水面から上げ、滑るように泳いだ。

 「水に入ってるとね、お尻が大きすぎるのわからないでしよ」ククッと笑い、すぐに少し真剣な眼差しでこう言った。「水ってのはね、すべてを和らげるのよね。大き過ぎるものは小さく、重いものは軽く、醜いものは美しく…」

 二人でキャンパスの近くの湖に泳ぎに行ったことがある。エリーは水に潜ったまま長い間出てこなかった。あまりの長さに私がパニックに陥ったとき、ザパッ!と潔い音とともに勢いよく水面から頭を出した。夕陽に照らされた大きな丸い目が輝いていた。

 うわあ…アザラシの赤ちゃんみたい…。ポスターで人気ものの何とかってアザラシの赤ちゃん…。真っ白なつるりとした輪郭の中でまあるい二つの目が光っているアザラシの赤ちゃん…。そのときのエリーはそんな目をしていた。私はなぜかひどく感動した。涙が出てきた。エリーに幸が訪れますように、私は祈った。

 エリーとは大学の寮でルームメイトになって以来の付き合いだ。時にエキセントリックな行動をしたが、とても温かい人間だった。その温かさが異国の地にいる私には心地よく、ありがたかった。笑うと三倍になる口、濃いまつげに縁取られた丸い目、つるりと赤ん坊のようなおでこ…その優しい表情が好きだった。

 卒業して会う回数がめっきり減ってからも、水面にザパッと頭だけ出したエリーをよく思い出した。するととても優しい気持ちになれた。少々落ち込んでいても心が和らいだ。春の陽射しに心の水たまりが少しだけ揺らめいて、水面に小さな泡がぷつぷつできる…そんな気持ちになれた。エリーには懐かしい「陽」の匂いがあった。

 エリーは男運が悪かった。エリーの優しさを男たちは理解しようとせず利用した。彼女との関係には緊張感がないんだよ、そう言った男がいる。確かにエリーは男女間の「ゲーム」のタクティックスに欠けていた。駆け引きをしながら自分の魅力を最大限に見せるなんて思いもしなかった。それをいいことに男たちは利用するだけ利用すると、早送りのアクション映画の慌ただしさで去っていった。エリーを気のいいだけの退屈な女と決め込み去っていった。

 そんな男たちには一つの共通点があった。それは「コーティング」のわざだ。「ずるさ」を優しさで「コーティング]してみせるわざ。それが皆そろってあまりにうまかったものだから、一見エリーに劣らずピュアな人間に見えた。勘のいい者なら「ずるさ」が棘のようにあちこちに出ているのに気づいただろうが、エリーには自分にとって損な人間を見分ける能力が欠けていた。ウィルスへの抵抗力がないものが病にふすように、その能力を欠いたため、彼女はいつも損な役割を強いられた。無理もない。自分の中に「ずるさ」のないエリーは他人のずるさに気づきようがなかった。手を差し出されれば手を差し出し、微笑みかけられれば微笑み返す…エリーの無条件の優しさ…その優しさを誰一人高く抱いて愛おしむことなく、去っていった。

 その度にエリーは泣いた。愚かだったと泣いた。そのとおりよ、もっと気をつけなければ、と私は言い、付け加えたものだ。あなたは人が良すぎるのよ、と。

 人が良すぎる、思えば不思議な表現だ。良すぎて損をするなんておかしいはず…。けれど、この世の人間のずるさの平均に達しないエリーは、人が良すぎるという結果に陥り、アザラシの子に似た大きな目から涙を流す羽目になった。

 エリーと比べ、私は男たちとの付き合いにうまく対処してきた。人にだまされるくらいならだましたい、ずっと思ってきた。傷つくのが恐かった。利用されるのが恐かった。自分には手が届かないと思える男、自分に興味を示すはずがない、と思える男からは目をそらした。

  小さい頃から、しっかりしてはいた。でも夢少なき子だったと思う。理想と現実をしっかり把握していた。でも面白味のない子だったと思う。その性格はボーイフレンド選びにも反映した。二、三、試行錯誤はしたが、確率はひどくよく、自分に興味をもつ男たちをきちんと見分け、その中で一番良さそうなのを選んだ。デニスだ。彼はルックスもよく、比較的穏やかな性格で、何より私をえらく気に入っていた。

 彼とは寮のパーティで知り合った。心が膨らんでポーンと体ごと宙に浮かんでしまいそう、そこまで気持ちは盛り上がらなかったにしても、恋に彩られ、すべてが光輝いて見えた時期もあった。ポップコーンを食べる指先、サングラスを人差し指で押し上げる横顔、ボンバージャケットからはみ出したタータンチェックのシャツ、かかとを摺るように歩くスニーカー、無造作にカールした長めの髪…。顎はまだ二重ではなく、はにかみの表情が得意だった。

 一つ一つのときめきはたわいないもので、ほんの一過性のときめき、アイスクリームトッピングのようなものだった。私たちからそんなアイスクリームトッピングの時代が過ぎ去って久しい。

 結婚して四年目の秋、私とデニスとの関係に変化が訪れた。きっかけは私の妊娠だった。




 エリーに会いに行ったのは、安定期に入りしばらく経った時だ。最初の二日間はほとんどエリーのアパートにこもって話をした。話は尽きずどれだけ時間があっても足りないように思われた。エリーが話し、私が聞いた。私が話し、エリーが聞いた。笑い、泣き、サチにミルクをやり、語り、笑い、泣き、サチにミルクをやり、笑い、泣き、歌を歌った。何年かぶりに私はリラックスした。心からうちとけて話をした。

 三日目になると、私たちは少し落ち着いた。ゆったりした沈黙が心地よかった。そうだ、泳ぎにいかない、エリーが言った。えっ、泳ぐってどこに? 近くにプールがあるのよ、市民プールが。市民プール?

 そんなわけでサチをつれて、私たちは市民プールへやってきた。八つに仕切られた空を持つ市民プールに。その日は初夏にしては気温が上がらなかったが、室内プールの水は温かく、心地よかった。

 プールから上がったエリーはプールサイドのパラソルの下でハミングしていた。テーブルの上にサチを寝かせ、その手を握って何やらハミングしていた。

 サチは半分目をつぶり、うとうとしていた。エリーが離すと、その手は花びらが開くようにふわりと開いた。小さな手だった。頼りないほど小さな手だった。私はその小さな指先にそっと触れた。

 もうすぐ女の子が生まれるの。名付け親になってよ。サチが生れる数日前にエリーは電話をかけてきた。私は電話口で唖然とした。エリーがママに? サムどうしてるの? 疑問が頭に飛び交ったが、結局、何も聞かなかった。エリーが私に名付け親になってくれと言っている、その事実だけで十分じゃない、そう思ったのだ。

 子供の父親はやはりサムだった。結婚していたのだから当然といえば当然のこと。けれど、私にはサムがエリーの子供に父親になる、というのがどうにも釈然としなかった。

 サムは細身のハンサムで手足が長かった。初めてサムを見たとき、彼はエリーの肩に手を回していた。その手が妙に長く見え、エリーにまとわりついているように感じた。サムはどこか媚びるように話し、笑う声は一オクターブ高くなった。この男も彼女を利用しようとしている、私は恐れた。サムの目はエリーに負けないくらい丸くて大きかったが、その目は決してエリーのようなアザラシの赤ちゃんの目にはなれないと感じた。

 私がデニスと結婚して半年も経たない頃、エリーもサムと結婚した。二人はエリーの母親の住むオハイオのシンシナティで小さなセレモニーを挙げた。親しい者だけが集まった手作りの式だった。胸元に花の刺繍のある白いウェディングドレスを着たエリーは、とても穏やかな顔をしていた。優しい笑顔だった。彼女の幼馴染み三人がそれぞれの夫を連れ、出席していた。類は友を呼ぶのか、みな清々しい目をしていた。けれどやはりエリーの目は逸品だった。

 エリーの結婚はやはりうまくいくはずない結婚だった。サムはある理由があって結婚を望んでいたのだ。私がそれを確信したときはすでに遅かった。

 妊娠を知ったとき、エリーは嘆願した。もう少し腰を落ち着けてちょうだいと。オー、オーケイ、サムは間延びしたように答えたという。数ヶ月後、急用が出来たとメッセージを残し、サムは消えた。エリーのお腹はどんどん大きくなり、そのお腹を抱え、彼女は市民プールに浮かんだ。水に入るとね、軽くなるような気がするの。体だけじゃないのよ。全てが、全ての重圧がよ。

 サ厶がいなくなり、エリーはとてもナーバスになった。どうして? どうして? どうして私っていつもこうなの? くらくらするまで考え続け、ギリギリギリと神経が巻かれ、巻かれる神経もなくなったとき、パキュッと自分の正気が弾けとぶ、そんな気がしたという。

「けどね、それもサチが生まれる一週間前までだったの」にっこり笑ってエリーは言った。
 
「あるとき突然ね、一日一日、ううん、一刻一刻と巻かれていた神経のコイルがシュルシュルシュルと緩んで、脱力感が体に広がったのよ。脱力感というより諦め、諦めというより諦めに似た悟りだったわね」

 サムが子を宿した自分をいとも簡単に捨てた、というその事実、それにどうもがいても直面せざるを得なくなったとき、エリーは脱力した。

 生まれてくるエリーの子供のため、私は三つ名前を考えた。そして最終決定をエリーにゆだね、責任を回避した。シンシアとヴィクトリア、最初の二つは割と簡単に決まった。三つ目をと、いくつか考えたが、どれもぴんとこなかった。そこで私は生まれてくる子の顔を想像してみた。その子がサムの目でなくエリーの目を、サムの心でなくエリーの心をもって生まれることを祈った。すると一つのフレーズが浮かんできた。

 ここに幸あり。

 その響きは祈りに似た希望をもたらした。ここに幸あり…そうだ、サチにしよう、そう決めながら、ここに幸ありのここってどこだろう、と考えた。

 シンシア、ヴィクトリア、サチ、と三つの名を告げたとき、エリーは「シャチ」と聞き返した。受話器を握り首を傾けてる彼女が見えた。「サチよ」と言うと、「シャ…サチ、サチ」何度か繰り返し、「どういう意味?」と聞いた。「ハピネス」と答えると、エリーはしばらく黙っていた。エリーを怒らせたのではないか、そんな気がして私はどきりとした。けれどエリーは言ったのだ。「それに決まりね」

 エリーがバックパックから哺乳ビンを取り出しながら聞いた。

「つわりはあったの?」

「少しね」

「食は進むの?」

「今はね、でもなぜか肉が食べれなくなったの。おかげで草食動物のような生活よ。牛乳はできるだけ飲むようにしてるんだけど」

 そのとき私はエリーに話してみたくなった。妊娠して以来、感じているあることを。エリーならわかってくれる、そう感じた。

「エリー、あたしね、自分が変化してるって感じるの」
 
「そりゃそうでしよ」
 
「ううん、外見や体の変化だけじゃないの」
 
「うん?」
 
「うん、どう言ったらいいのかな」

 変化はゆっくりと訪れた。最初はわからないくらいの変化だった。名づけがたい変化だった。窓の外で葉がかさりと鳴るくらいの何気なさだった。けれど、それは次第に私に入り込み、そして染み込んだ。

 まず攻撃的だといわれた私の運転が変わった。後ろから急かされるのでもない限り、制限時速を超えて運転することはなくなったし、突然入り込んでくる無礼ものの車に立て続けにクラクションを鳴らしたりもなくなった。そんな私をデニスはどこかスローになった、と言った。

 それから、物思いにふけることが多くなった。考え込むというより「憂い」…そして「恐れ」だ。

 最初は何を恐れているのかわからなかった。次第に漠然とながら死を恐れているのかもしれないと思った。車に跳ねられた老婦人、池で溺死した子供、連続殺人の犠牲者、遠い国での戦死者…全てのニュースに敏感に反応した。
 
「死は誰でも恐いものよ」
 
「そうね。でも、そのうち恐れているのは死というよりあるものに対してだって気がついたの」
 
「あるもの?」
 
「そう」
 
「何?」
 
「残虐…さ…とでもいうのかしら」
 
「残虐?」
 
「そう…。人の中に見え隠れする残虐性…そして攻撃性…」

 私はデニスの中の攻撃性にも敏感になった。

 デニスがリビングでテレビを見ていた。以前アメリカがある国を攻撃をしたときの映像が映し出され…。空軍が空から攻撃している様子が映し出される。花火のように夜空に光が弾けている。デニスは拳をつくり、スポーツ観戦ののりと熱気で画面に食いついて見ている。

 いけ!いけ!いけ! デニスが言っているように感じた。その横顔…。それは、以前よく彼と行ったアメフトの試合のときの顔と同じはずだった。スクールカラーに合わせての声援。青、いけえ! 緑、いけえ! 青、いけえ! 緑、いけえ! 敵の応接団に負けじとばかり声を張り上ける。青なんてくそくらえだ! やっちまえぇ! 荒々しい言葉の投げ合いもゲームを盛り上げる小遊具で…。

 ビデオゲームさながらの爆撃の様子を見ながらテレビを見ているデニスと、緑、いけえ!と叫んでいた彼は、長い睫毛もこめかみにうっすら浮かんだ血管も同じはずだった。けれど、そのときのデニスが全く見知らぬ男に思えた。 

 私は無言でサイドテーブルにあったビールの缶をつぶした。ビールが少し手の甲にこぼれた。私はリビングを出たが、急な吐き気におそわれた。ひどく汚いものが胃に流れこんだ、そんな感じがしてバスルームに駆け込んだ。どうしたのよ、自分に苛立ちながら顔を上げると、鏡に映った私の顔はひどく青ざめていた。

 少しずつデニスと私の関係は変わっていった。それまでは気にならなかったデニスの行動が気になりだした。たとえばバーでの隣のテーブルの男とデニスの何気ない口論。次第にエスカレートしていき、二人は声を荒げる。今にもつかみあいを始めそうになる。気がつくと私は叫んでいた。やめて!やめて!やめてちょうだいよ! デニスは唖然と私を見た。白けたように私を見た。
 
「それって感情を抑えられなくなったってことかしら」
 
「そう言ってしまえばそれまでのことだけど…」
 
「男ってのはね、理解しがたいのよ、どっちにしたって」

 私はハリーのことも話した。
 
「あたしたちのアパートの隣にハリーってちょっと不気味な男が住んでるの。少なくとも不気味な男だって、ここ数年思ってたの」
 
「ハリー?」
 
「そう。何と名前がハリー・カラハン。クリントイーストウッドのダーティハリーの刑事の名前と同じなのよ」
 
「そのハリーさんがどうしたの?」
 
「うん、彼、ダーティハリーとは似ても似つかぬ容貌でね。痩せてて、猫背で、小さな声でぼそぼそ話すの」
 
「奥さんは?」
 
「結婚したことあるのかな。今は一人よ」

 そのハリーがある日、買い物から帰ってきた私に声をかけた。お茶でも飲みに来ませんか?と。ヘエッ? 私はびっくりして、ハリーを見た。隣同志になって三年、挨拶以外、話などしたことなかったのだ。私は誘われるまま、ハリーの部屋に入った。なぜか不思議な力が働くようで、それまで薄気味悪いと思っていたハリーの部屋に何の抵抗もなく入ったのだ。

 部屋にはたくさんのプラントがあり、まるで小さなジャングルに入り込んだようだった。水々しい葉が部屋中に広がっている。テーブルの上には金魚鉢があった。その中にはメダカのような、どう見ても冴えない魚が数匹泳いでいた。

 ハリーはジャスミンティを入れてくれた。一口すすると、ハリーがのぞき込んでいるのに気づき、どうかしましたか?私は聞いた。どうかしましたか、と聞きたいのは僕の方ですよ、ハリーは微笑んだ。不気味だとしか思えなかったハリーが泣きたいほど優しい目をして私を見ていた。

「顔色がよくなくて何だか思いつめてるみたいでしたよ、ってハリーは言ったの。ああ、それでお茶を入れてくれたのねって…とてもありがたかったわ。その時、彼といてあたし、妙な安らぎを感じたの。それまでだったら決して感じることできなかった安らぎをよ。背びれのがたがたのちっぽけな魚見ながら、ハリーカラハンなんて似つかわしくない名を持つ男…それまで幽霊みたいって敬遠してた男の入れてくれるジャスミンティ飲みながら、あたしとても温かい気持ちになってたの。ハリーの静かな優しさってのは、なんだか、植物や水が持ってるようなそんな優しさでね…それがあたしには何よりの安らぎだったの。わかるかしら」

「うん…」
 
「わからないかしらね。あたし、何だかちょっと恐いの。自分らしくない自分が恐いの。自分の価値観や好き嫌いをも変えてしまうような変化が少しずつ自分の中で起こってるって何だか恐いの」

 わかるわよ、というようにエリーは頷いたが、少し困った様子だった。

 その時、ハリーが一瞬不思議な外見に変化したことも言いたかったが、言えなかった。私の精神状態をエリーに心配させてしまうと思ったのだ。

 一瞬だったけれど、ハリーが薄灰色のとても痩せた馬とラクダの中間の顔に見えた。体のバランスも一般的人間とは違って見えた。背がとても高くなり、手と肘と関節の感じがどうにも不思議に形作られていた。

 けれど、ちっとも怖くなかった。何度か私の見る角度によって、ハリーは姿を変えた。少なくともそんな気がした。昔、お菓子のおまけについていた光る絵。角度によって違う絵が浮かび上がる。そんな感じが現実目の前で起こったのに、怖くなかった。自分の精神状態も疑わなかった。それどころか、とても心が静かだった。野原で柔らかい風を浴びている時、目の前に野生の馬が静かに歩いて来て止まって私を見た。そんな不思議な瞬間があったら、感じただろう静けさだった。緑のプラントに囲まれ、ハリーは静かに佇んでいた。仙人のような存在感だった。

 エリーは水色にオレンジの花模様のワンピース水着を着ていた。古きよき時代という言葉を思い出させる水着だった。

 エリーはパラソルの下、テーブルの上のサチの手をそっと撫でた。
 
「サチはね、自分の手を見るのが好きなのよ。指先の動きを見るのが好きなの。あたしもね、サチの手を見るのが好きよ。小さな指と指との閧に何だか素晴らしい予感を感じるの」

「サチの世界ってどんなのかしら」
 
「自分の指…いつも一緒にいるあたしがいて…ミルクの匂い、陽の匂い…まだ父親が存在するってことも知らないサチの世界…。その世界に色をつけるのは何なのかな」

 プファファファファファ…サチは伸びをした。その瞬間小さな掌がパアッと開いた。サチの小さな掌、汗ばんでキラキラ光っていた。くっきりと三本線が刻まれた小さな掌、光を弾いて光っていた。

「どうして裏切りや戦争って起こるのかしらね」

 裏切りは個人レベル、戦争は国レベル。随分次元は違うにしてもエリーと私にとって理解できないのは同じだった。

「あたしね、この子にどうやって善と悪を説明したらいいのかわかんない。人の迷惑になることが「悪」なんて、そんな時代遅れのきれい事言ってられないしね。…小さい頃から、ずっと不思議だったの。神がほんとにいるのなら、どうして悲しいこと、つらいこと、不公平なことが山ほどあるんだろうって。大人になってからだってずっとわかんなかった。でもね、どのくらい前かしら、あたし映画を見たの。神様が人間の姿になって現れるコメディよ。その中で小さな女の子が神様に聞くの。神様がほんとにいるんなら、どうしてこの世に不幸や悲しいことがあるんですかって。病気に苦しむ子供や貧しい人や惨めな人がいるんですかって。すると神様は言うのよ。僕の失敗は片方だけを創造することができなかったことだなって」
 
「片方だけ?」
 
「うん、悲しみがあるから喜びがある。不幸があるから幸福が存在する、僕は片方に偏らせることが出来なかったってね。そういやそうだけど、不幸をふっかけられた人間はたまんないわよね。一人一人同じだけの幸せと不幸を配られるんならいいけど、ひどく幸福な人もいれば、ひどく不幸な人もいるんだもんね。あたしはやっばり片方だけ創造してもらいたかったと思うのよね。マイナスがなくゼロかプラスってふうにね。どう間違っても普通か幸福かってふうにせいぜい普通で止めて欲しかった。悲しみや不幸はなくね。もしそうだったら、世の中ってもっとサチの世界に近づくわ。ミルク色したね。単純ではあっても平和なはずよ」

 エリーは一泳ぎし、そのあと私も再びプールに背中で浮いた。

 もう誰の泳ぐ音も聞こえてこなかった。水しぶきもかからない。だから太陽は一つのままだった。

 目を閉じれば、場所と時間の感覚がなくなった。流される…そんな気になったけれど、プールの中では流されてもしれていた。プールを出ればパラソルの下に、エリーとサチの小さな世界がある。

 明日はデニスのところに戻っていく。デニスの中の見知らぬ男が再び私の中の見知らぬ私を当惑させ恐れさせたら、私も言うだろう。男って理解できないわ…と。けれど私は知っている。私が理解できないのは男じゃなくって人間の中にある何かだってこと。

 私は浮かぶのをやめ、立とうとしたが、足がつかなかった。どうやらプールの一番深い辺に浮かんでいるらしい。沈みそうになって再び背中で浮いた。目に水が入り、太陽はまた分裂し始める。あたしはまばたきをした。太陽が一つになるまでまばたきをした。目に入ったプールの水をまばたきして追い出そうとした。何度もまばたきをしていて気がついた。泣いている…と。サチを一人きりで生んだエリーを思って泣いていた。先日見たデニスの殺気だった目を思って泣いていた。パアッと開いたサチの掌を思って泣いていた。

 エリーは言った。「あたし、サムのことで心配で片時も心が休まらなかったでしょ。だからこの子にも影響を与えたんじゃないかしら。そりゃお腹の中で動いたものよ。あたしにとっては初めての経験だけど、随分騒々しい子だなってのはわかったわ。けど生まれてきたサチは目方は少し足りなかったけど、とてもリラックスして見えたわ」

 そのサチは今、エリーのお腹では握り締めていただろう手をパアッと開いている。サチのように暖かい陽の光だけを求め、両手をパアッと広げられたら、どんなにすてきだろう。たとえそれがガラス越しの陽の光だとしても…。

 目を閉じると、浮かんでいる市民プールの水が大きな海のように感じられた。海は太平洋でも大西洋でも中東の海でもなく、「陽」の海だ。涙を薄める必要のない海だ。自由に手足を伸ばせる海だ。濁りを全部のみこんで濾過してしまう海。パアッと両手を無防備に開いて浮かんでいられる海。

 どれだけ浮かんでいたのだろう。頭がこつんとプールサイドにあたった。プールから上がり、端に腰をかけると、年配の男が二人ゆっくり泳いでいるのが見えた。

 どこにでもあるプールの光景だった。市民プールの光景…。八つに仕切られた空をもつ市民プール。二つのパラソルのある市民プール。なのにしばらくどこか次元の違うところに流されていたような気がして、私はしばらく動けなかった。




 そのあと、近くにある水族館にでも行ってみようということになった。エリーも私もとりたてて水族館に行きたかったわけではない。ただ赤ん坊をつれて水族館にでも行ってみる、その響きの温かさに惹かれた。

 呼び物のラッコの水槽と赤ちゃんイルカの他は、お義理程度にペンギン、亀、アザラシ、ワニなどの古びた水槽が散在している寂しい水族館だった。

 孤独のアザラシは退屈そうに時折思い出したようにゴロゴロする他は、どこを見るともなく目を半分開けて昼寝を決め込んでいた。斑に毛の抜けたように見える体はつやがない。

 こんな近くでアザラシを見るのは初めてだった。アザラシは巨大だった。何という名なのだろう。見回したが種類が記してある看板は見当たらなかった。

 毛の抜けた重量感あるアザラシを見ていると、体が下へ下へと沈み込んでしまいそうだった。

 私はやたらに喉が乾き、朝から飲み続けているルイボスティは発汗せぬまま、体にたまり、その分頭には薄まった血しか行かないのか、ビーンという耳鳴りまで始まっていた。

 相変わらず半開きの目のアザラシは唯一の観客である私たちに注意を払う様子も見られなかった。

 どれくらいそこに立っていたのだろう。ほんの数分だったかもしれないし、かなり長くだったのかもしれない。明日からまたエリーも私もあまり満たされたとはいえず、かといって不幸というのでもない日常に戻るのだ、そんなことを漠然と考えながら立っていた。

 風が長らく微動だにせぬように、私とエリーの時間も止まっているように感じた。これからどこへ行くのだろう。自分がどこにいてどこにいくのかわからなかった。

 ピシャリと音がした。アザラシが水に入ったらしい。

 こっちよ、エリーが私の手を引いた。反対側に周ると下までガラス張りになっていて、水の中を泳ぐアザラシが見えた。水の中でのアザラシは違う生き物のようだった。ヒュー、エリーが感嘆の声をあげた。水の中を何の抵抗もなくスーイスーイ、かなりの速さで泳ぎ回っている。何の努力もみえない自然な動きだった。水の中で縦になり、横になり、くるりくるりと回転し…。むしれたような毛も水の中では滑らかに見えた。

 どうして人間、こんなふうに生きられないんだろう。するりするりと攻撃的になることなく、摩擦を避け…。

 所詮、夢物語か…。人間はするりするりと泳げる世界に生きていないのだから。何の摩擦もなくすいすいすい。攻撃も軋轢もない世界、そんなのは永久にやってこない。だとしたら、水から上がってコロリコロリ、半開きの目をしたアザラシのように怠惰になるしかないじゃない…。

 水に入るとね、ふわっと軽くなるの。体だけじゃなくってね。すべての…すべての重圧がよ。エリーの言葉が私の頭でエコーしていた。




 冷蔵庫から落ちた一枚の写真を前に、私は随分長い間すわっていた。写真の中のサチの手を見ながら、サチの掌が光を反射していた様子を思い出していた。

 あのとき、ここに幸ありの ここ とは、サチの掌ではないかと思った。幸せの予感とでもいうものをのせたサチの手。生れたときは誰でも特っている幸の予感…。大人になってもかつて自分が幸を握り締めていたという遠い記憶を残している者もれば、小さくなったベビー服のようにほおり投げてしまった者もいる。

 あのとき私には、失っていた幸の記憶がうっすらと蘇っていた。それは単に妊娠による体と精神の変化がもたらした気のせいだったのかもしれないが、その記憶は、突然出来た異物のように、私の精神、肉体に変化を起こさせた。攻撃性に敏感になり、それまで気づかなかった穏やかさに心惹かれ始めた。見えなかったものも見えてきた。もともと「幸」の培養に失敗した私だったから、「幸」は狂い咲きに似た現象を私の中に引き起こしたのかもしれない。デニスは単に「一種の狂気」だと言い、医者はホルモンの関係による感情の高ぶりだと言った。けれど私はそれ以上の何かであると信じたかった。体の中に一つの命を育み、育てていく、それが私の中の「幸」の記憶、「幸」への予感を蘇らせた…そんな希望に繋がる何かだと思いたかった。



 旅で疲れたわけでも、特に病気をしたわけでもないが、エリーとサチを過ごして帰った一ヶ月後、私は流産した。

 どうしたら流産せずに済んだのか、自分のせいか、と医者の前で取り乱して泣いたが、誰のせいでもなくてもこういうことは起こる、と医者は丁寧に医学的に説明してくれた。

 長い間すべてがつらく寝たきりだったが、少しずつ…ほんとうにゆっくりとだったが体の調子が戻ってきた。

 デニスとのペースも少しずつ取り戻した。

 私の運転に攻撃性が戻り、妊娠中経験した不思議ともいえる感情は次第に姿を消した。

 私が健康を取り戻したのが嬉しいとデニスは優しく微笑み、私は作りかけのピザにチーズを振りながら、そうね、と答え…見た目には以前の二人に戻ったようだった。ビールは冷えてるかい?という彼に、バドとミラーがまだあったはずよ、と大きいだけが取り柄の冷減庫からビールを取り出す…。そんな具合に以前の日常を取り戻した私たちは給料日には映画を見に行き、そのあと行きつけのバーで一、二杯ジョッキでビールを飲み、デニスはバーテンダーのルーとダーティジョークを二、三交わす。デニスは新しいジョークを披露したあと決まったように私の方を向きウインクする。それは学生時代と同じいたずらっぽいボーイッシュな笑顔であり、少女漫画のヒーローのように目に星がいっぱいだ、と思ったかつてのデニスの瞳をほんの少しだけにしても彷彿させる。

 デニスの中の攻撃性に息をのむ思いをすることはもうない。テレビに向かって怒鳴っていたあの時のデニスは、ビデオゲームに熱中する少年ののりだったのだ、それだけのことだ、と思えてくる。次第に、あの時の私と今の私、どちらが狂気なのか分からなくなっていく。

 あの時の私は本来の私ではなかったのだ、そうも思えてくる。あの時のフィーリングは、虹のように少しずつ輝きを失っていき、気づいたときには心象風景というキャンバスにその輪郭さえ描くのが難しくなっていく…。輝きは期待を残さぬまま薄っぺらく私の中に貼りつき、姿を消していくのかもしれない。
 
 デパートのフォーマルウェアコーナーでの毎日は何気なく過ぎていく。毎日、何人もの人に愛想笑いをし、数人の客からはお小言をちょうだいする。大学に戻り、心理学の修士を取り、カウンセラーになりたいという夢は夢のままどんどん小さく小さく小さくなっていく。

 デニスは二人の仲がまだ少しだけ以前と違うと感じていたのか、フロリダ旅行を提案した。私たちはお揃いのサマーシャツを着て飛行機に乗り、SDカード五枚分写し、誰もが羨む日焼けとともに帰ってきたが、それでもデニスが寝ついたあと、一人天井を見つめていると、何かが以前とは違うと思えてくる。

 そんなとき、私はサチの手を思い出す。小さくて、それでいて陽の光を何の苦もなく掴み取ってしまいそうだったサチの手を思い出す。太陽が細胞分裂し、まぶしくって、サチの小さな手の存在が私を満たしていたあのひとときを思い出す。
 
 もうハリーと一緒にジャスミンティを飲むこともない。彼のぎこちなさ、要領の悪さを以前のように敬遠し始めている。彼は相変わらず数匹の魚と密集した植物の鉢と暮している。そういえば、魚は一匹死んだと聞いた。

 エリーから、最近一度電話があった。サムからはやはり連絡がないという。

「サムを憎むこともあるのよ。あんなやつ死ねばいい、サチに金だけ残して死ね!って思うこともあるの。…けどね…」
 
「うん…」
 
「けどね…サムがどこかで元気で暮してること祈ったりするのよ。ほんとにバカよね」
 
「…でもね…エリーみたいなバカがもっと増えればいいと思うよ。この世の中がエリーみたいな要領の悪いバカでいっぱいになって…そしたらサチにとって希望のもてる世界になるわ」

 エリーは何も言わなかった。けれど私にはエリーが見えた。あの大きな真っ黒な目、アザラシの赤ちゃんに似た目で、受話器を握っているだろうエリーが見えた。

 私は無力のまま、デニスへの愛情も確かでないまま宙ぶらりんで受話器を握り締めていた。受話器の向こうにはやはり絶望的に宙ぶらりんのエリーがいて、気のいいエリーがいて、宙ぶらりんの私を感じているに違いない。

 一体、何が正常で何が異常なのだろう、何か狂気で何か正気なのだろう。このまま私はデニスと二人で年をとっていくのだろうか。子供には恵まれるかもしれないし、恵まれないかもしれない。

 月日が経てば、エリーからの連絡も間遠になるだろう。エリーと過ごしたあの数日のことも次第に忘れていくのかもしれない。けれど、あの数日の自分を忘れたくはないと思う。サチの掌を見て感じた、あの不思議と懐かしく、穏やかな、「幸」の記憶を忘れたくないと思う。けれど、そのうち夏の日の立ち眩みに似た唐突さしか思い出せなくなるのかもしれない。

 私はそれが恐い。

 恐く、悲しい。

ルネビル



 ルネビルにはいくつかのテナントが入っている。

 33番地3号に建つこのビルは、数字がサンサンサンと続くことから「太陽がいっぱい」という映画を連想させ、その映画監督のルネクレマンからルネビルと呼ばれるようになった。

 三階にはアンディ学習塾と humain というNPOが入っている。

 humain を仕切っているのはシルバだ。

 シルバがフィーラーだと気づいてから随分時が経った。

 himain設立は、心理カウンセラーのマサミのアイデアだった。シルバとマサミはボストン時代からの友人でマーサ、カオ、と呼び合う中だった。

 humain とはフランス語で human 、人間のこと。レイヤー族のカウンセリングが1番進んでいるといわれるのはフランスだから、フランス語で人間ってつけましょう、とマーサは言った。この名前を見た人はレイヤー族にしてもフィーラーにしても、フェルルにしても勘が働くとマーサは思ったのだ。

 実際、相談者の3割はレイヤー族、フィーラー、フェルル関係だった。これは実際の人口割合が1%に満たないのを考えると驚異的とも言えた。マーサの勘は当たった。

 humain、 human 、人間 の意味を問い続けずにはいられないものは、より多くの問題、解決すべき悩みを抱えている。一時的パニック状態だったら、必要な情報、解決策を提示するだけで収まるだろう。しかし、人間としての存在意義に悩むレイヤー族、フィーラー、フェルルの抱える闇は深く哲学的であり、実践例で解決できるケースは限られていた。

 未知のものは誰だって怖い。戸惑い、価値観の揺らぎを起こす。未知のものに触れ、人間であることの意味を問われたとき、心は激しくシェイクする。

 人としてのインテグリティは何か、それを保つためにどうしたらいいのか。

 その答えを考え、具体的解決案を考え実行する、それがインテグリティグループの使命であり、ルネビルはそんなインテグリティグループのひとつだった。

 インテグリティグループは小さなコミュニティから大都市、僻地まで、形を変え、目立たぬように存在している。国、大陸をまたいで活動することもあるる。

 下部に存在するものは、医療法人であれ、株式会社であれ、NPOであれ、使命のためなら、どんな小さい相談でも受ける、それがスタンスだった。

 humain では医師、心理カウンセラー、政治関係者、金融関係者、教育者をはじめ、様々な職種の者が協力していた。そして相談内容に応じて適した解決法の模索と実行に尽力した。

 人間関係の悩みのカウンセリング提供を求めてホームページから来る者もいたが、実際の依頼者からの口コミが広がり、相談に来るものも少なくはなかった。

 シルバは自分たちが真に役に立てると思う件だけを引き受けた。そして必要に応じて、二階のブルースカイ調査事務所に調査依頼をした。主に未成年のレイヤー族支援にはマーサの経営する学習塾アンディが担当した。メタ族、又の名を変身族への状況に応じた援助には一階の「ペットショップ のんた」の支援も大きかった。

 活動に関連した財務処理は、二階にオフィスを構える雨訪税理士事務所が引き受けた。雨訪とは「雨の訪問者」というルネクレマンの映画から取ったオフィス名であり、実際に経営するのは、玉井譲二という税理士だった。



 レイヤー族とコモン族は違ったレイヤーに存在する。といっても、それは認知、認識のレイヤーだ。実際は同じ世界に住み、同じ空間を共有している。

 レイヤー族は各レイヤー内での自分たちの姿を知っている。それに伴う悩みを抱える者もいるが、それは物心つく頃から少しずつ大きくなる場合が多い。

 突然フィーラーになったものは、自分の精神状態を疑う。統合失調症、双極性障害、そのほか自分がかなり重い精神疾患にかかっていると悩む。

 彼らは病院に行くべきかと思い悩む。しかし何かが病気とは違うと感じさせる。そんな時 humain の存在を知れば幸運だ。インテグリティグループの医者が診断し、その結果、精神疾患ではない場合、レイヤー族の協力のもとにフィーラーか否かを確かめることができる。フィーラーだとわかれば話は早い。適切で必要な知識を提供する。

 レイヤー族同士の結婚より、レイヤー族とコモン族の結婚の方が圧倒的に多い。まず、レイヤー族の数が絶対的に少ないことも理由だが、レイヤー族はコモン族に対する偏見を全くと言っていいほど持っていない。自分たちはコモン族の一形態であり、どちらが優れているわけではないと思っている。ほとんど例外なく公平な心を持っている。違いは認識するが、その違いを尊重している。

 レイヤー族がコモン族と結婚する場合、レイヤー族は相手に何も説明しない場合が多い。それを責めることはできない。精神状態を疑われたり、不気味だと思われることを避けるためには仕方ない状況がある。また、コモン族の中で知的で理性的な人ほど、レイヤー族の存在を信じないという傾向もある。

 レイヤー族の配偶者は、そのまま、子どもを作り平和に暮らし、死ぬまで知らない者もいる。

 しかし、割合は微々たるものだが、フィーラーとして目覚める者もいる。共感力、第六感が強い人、スピリチュアルな世界を信じやすい人がなりやすい、という説もあるが、納得いく統計結果は出ていない。

 コモン族とレイヤー族の間の子供がどれくらいの確率でレイヤー族になるかの統計も取られていない。感覚的には四人に一人くらいだろうか。それも生まれた時から必ずしもわかるわけではない。レイヤー族の人口は減りつつある。

 コモン族はレイヤー内とレイヤー外での外観が同じである。レイヤー族の中には赤ん坊の時はどちらの層でもコモンな外観だったのが、3、4歳くらいからレイヤー内では狼の特性を増してきたり、プレーリードッグ風になったり、黒豹に近くなったりする場合もある。

 そんなとき、コモン族の母親は見えない変化を感じることがある。漠然とした不安を抱くこともある。見えた場合は対処ができる。見えないのにただ心がざわめくのは、ストレスになる。

 シルバは絶えず、力不足を感じていた。絶望の淵まで来て深い谷を見下ろしている、そんな気持ちになることがあった。けれどかつての彼女のように自暴自棄にはならない。彼女には守るべき娘、ヒロコがいる。

 活動には優れた人的資源が必要だった。だからインテグリティのメンバーは絶えずリクルーターとしてアンテナを張っていた。 

 フィーラーの川野タキを見つけたのはシルバだ。タキはブルースカイ調査事務所に籍を置いている。タキは玉井譲二の知り合いで、彼に雨訪税理事務所を開くよう説得した。玉井はレイヤー族だった。




 この度タキの隣人の山岸の夫マモルが甲虫系メタになったことで、安全な場所への移送計画の緊急性が増してきていた。

 メタモルフォーシスの例はかなり前からある。ただ、最近になって増えてきている。原因はわからない。

 レイヤー族はコモン族層ではレイヤー族層での姿を見られることはないが、メタモルフォーシスした人間は全ての層でメタの形をさらすことになる。物理的変化もあるので、実際に甲虫系は人間と虫の間のような形態に変化する。レイヤー族が鏡や写真、映像にその姿を映し出されずに済むのに対して、メタはどの層、どの映像媒体にもその姿を見せることになる。

 メタの中にはコモン族つまり一般的人間の姿に戻れたものがいない、これが当事者やその家族に一番伝えにく事実である。今までに戻れたケースの報告は一つもない。インテグリティグループにできることはメタを悪意、偏見から守り安全に住める場所を提供することである。

 レイヤー族は、様々な形態、外観を見慣れている。人間の心があればどんな外観でも人間であるとの信念を持っているので、メタに対し、同情し協力的である。残念なことだが、それはごく一般的なコモン族には当てはまらない。

 未知のものへの恐怖は過激な行動へつながりかねない。それは歴史が証明している。

 山岸マモルの生活と家族をいかに守るか、それが今、ルネビル内で緊急に計画を進めなければならないことだった。

天使の輪:ロコ

   

 天使の輪って見たことある?

 天使の輪っていっても、

 キューピットの頭の上のやつでも、天使の上のやつでもなくってね、

 輪だけがふわふわと空中に浮いてる、そんなやつ。

 突然現れたとき思ったんだ。

 わ…ぉ 天使の輪だ……って。


 
 その頃私は小学校五年で、ケンタロウに恋をしていた。で、そのケンタロウに話したら、ガラスに明かりがなんかが映ったんだろ、って。

 ママに話したら、タバコの輪じゃないの、って。そして普段は吸わないママが、キッチンの上の高い棚からタバコを取り出して、ちょっと特別って感じで火をつけ大きく吸い込んだ。ママの口から生まれてくるいくつもの輪。

 それは確かにすごく見事な輪だったけれど、私が見たのとはまったくちがっていた。

 ちがう、ちがうよ。そんなに白くなくってモワモワもしてなくって、透き通ってて薄いんだ。

 そうなの? ママはじーっと私を見つめて息をはいた。ため息なのかな?って思った。ママはちょっと悲しそうな、それでいて悟り切ったような不思議な顔をしていた。



 それからも天使の輪はときどき私の前に現れた。ねえ、見て見て! いくら言ってもほかの誰にも見えなかった。

 あるときふと思った。あ、前にも見たことある、ずっと前にもって …。

 でもそれって…

 いつだろ、

 いつだろ、

 いつだった?

 目をつぶると時間の中を逆戻り。いつまで戻ればいいんだろ。記憶のぎりぎりのはしっこまで。もう少しで忘却のかなたとかに落っこちそうなぎりぎりのとこで、あの輪のようにふわふわしてる、そんな記憶。

 うん、あった。あったよ、確かにそんなこと。

 天使の輪がふわーんと流れてきたんだ。しゃぼん玉みたいに。

 何だろ、って思ってたら、まさに目の前でとまった。手を伸ばせば届くくらいのところで。

 そのとき、触ったのかな。

 うん、触った。そして……

 泣いた? そう、泣いた、泣いたんだ。何かに驚いて泣いたんだ。

 でも

 いったい

 何に

 驚いたんだ。



☆ 名前の由来


 私はひろこ。漢字では洋子。あだ名はロコ。

 自分の名前が好きだ。私にとって、ひろこ、のひろは青い広がり、美しい広がりだ。広がりは海であり、晴れた日の空でもある。無限の可能性だ。

 名づけたのはパパだよ、ママは言った。

 パパのこと、ママは話したがらない。でも、名づけたのはあなたのパパよ、というときのママの口調は、パ・パ という音の響きのとおり弾けてカラッとしている。

 パパはね、迷いなく、ひろこって名づけたの。初めてママからそう聞いたとき、私はまだ保育園の年少さんくらいだったんじゃないかな。

 パパのことを思うとき、なぜかママの親戚の家に行ったときの情景を思い出す。

 風に揺れる穂。長く伸びた雑草。細長い葉の間をぴょんぴょん飛ぶ虫たち。バナナ虫におんぶバッタ。猫もゆったりと土の上を歩く。

 それはミズキおばさんが亡くなってしばらくしてからで、お線香をあげに行ったときのことだった。ミズキおばさんはママの遠い親戚らしい。それはパパが姿を消してしまうちょっと前で、パパもそのときは一緒に行った。

 ママのアルバムにはミズキおばさんの写真が一枚ある。ママの横の太った短髪の人がミズキおばさんだ。体型は違っても、どこか顔がママと似ている。似てはいるけど、ひまわりとつゆ草、くらいの違いがある。似てるのにすごく違うっていうのは、物によって面白いときと悲しいときとあるけど、ママとミズキおばさんの場合はどっちだろう。底抜けに明るそうなミズキおばさんの横でママは無表情で、ちょっと悲しげに見える。

 そのひまわりのはずのミズキおばさんは、川に落ちて死んだ。滑って落ちた事故だってことになっているけれど、どうやら自殺らしい。シツレンだという。聞いたときは「失礼」と「失恋」の違いすらわからなかったけど、何年か経って、死にたくなるようなら恋なんてしない方がいいよねってママに言った。ママはそうね、とだけ言い、静かに首を横に振った。


 パパのことを思うとき、縁側にすわっている自分がいる。

 細かいとこははっきりしてなくて、私は赤と白のチェックのワンピースを着ているんだけど、ここが嘘っぽく完全に起こったこととはいえないゆえんだ。私の小さい頃の写真は一枚を除いて(それがお出かけのときの赤白チェックのワンピースなのだけど)いつもいかにも運動しやすそうな半ズボンにTシャツかトレーナーを着ている。だから、ひどくのどかな田舎の家らしき場所にいる私がよそいきの赤白チェックのワンピースを着てるはずがないと思うのだ。

 ただそのときのことを思うとき、確かなことが一つだけある。

 それは、私が幸せだったってことだ。とてつもなく幸せだったってことだ。ハッピー!てなそのへんにごろごろしてるTシャツみたいじゃなくって、きちんと漢字で書いた幸せだ。

 小さい子には小さいなりにいろんな悩みがある。ポケットに入れてたテントウムシがいなくなったとか、追いかけていたカエルを見失ったとか、最後に食べようと大切にとっておいたクッキーを落としてしまったとか、真剣な悩みで満ちていて息づくひまもない。

 けれど、パパといた、あのときの私は悩みなんか一つもなく幸せな気持ちで満たされていた、そんな気がする。いや、断言できる。そうだ、あのとき私は縁側にすわり、足をぶらぶらさせてとっても幸せだったんだ。

 そのとき誰かが言う。

「ひろちゃんのひろは海ってことなんだよ。だからさぁ、ひろちゃんは海のように大きくなるのよ」

 横でパパが微笑んでいる。パパの顔も覚えてないのに、パパのことはほとんど何一つ覚えてないって言えるくらいなのに、パパが微笑んでいたのは覚えている。不思議だな。そして私はその笑顔に、歌いだす。

 海はひろい~~な~~~おおき~い~なぁぁぁ~~

 ひろこだから、海は広いな、なのだと思い、歌いだすのだ。

 その時、パパが膝の上に抱き上げ言うんだ。ひろこのひろはただのひろじゃないぞ、~~~~~~~~~~~~~~。

 ただのひろじゃないぞ、のあとに続いていたパパの言葉は、長い間ほにゃほにゃほにゃのままだった。

 ひろこの洋が、太平洋の洋、大西洋の洋だって知ったとき、あ……………って思った。まさに、あ……………って感じだった。

 それまで、ロコって呼ばれてたりしてなんだかコロコロした名前だなって思ってたんだけど…おーい、ひろこぉって男の子が呼ぶと、だだっぴろい感じだなって思ってたんだけど…そのとき、ひろこってすごい名前なんだって思った。ほんとにほんとにすごくすてきな名前なんだって。

 そのとき、私、パパの存在を改めて感じたのかもしれない。だから、洋子ってつけてくれたパパの気持ちがわかるようで、とってもあたたかい気持ちになって、パパ、あなたはほとんどわたしの記憶にない父親ですが、ずっとパパってよんでいきますね。父ではなく、わたしの心の中ではパパって…。

 あらたまって言ってみたのは、誓います、の意味があったんだと思う。

 私は名前でパパとつながってる。そう思うと、パパに会いたくなった。記憶にもない父親にじゃなくって、名前をつけてくれたパパにだ。

 パパのことは好きだったと思う。顔も、声も、何にも覚えていないけど、好きだったと思う。きっと、顔も声も何もかも好きだったと思う。

 パパのことを思うとき、唯一思い出すのは、あの縁側で膝にのせてもらったあたたかさで、だから、パパのことを思うとき、心があたたかい。

 あたたかいけれど、さびしい。あたたかさが消えてしまったことがさびしい。

 私は子供だから、さびしさはそれ以上どこにも進まない。大人が言うような憎しみや恨みってのにも進まない。さびしさはさびしさで止まって足踏みしている。

 もっともっとパパのことを考えたいって思うことがあったけれど、考えないようにした。さびしさが水だったら、一滴一滴がたまり、大きな池になってしまうし、さびしさが雪だったとしたら、粉雪だったとしても積もって大雪となる。さびしさに溺れたり、埋もれたりしたくないから、パパのことを思い出そうとする私を、もう一人の私が追い払う。

 でも、いつか会いに行こうと決心した。生きてるうちにって。ミズキおばさんが死んで、川に落ちただけで死ぬんだって知って、すべきことは生きてるうちにって、思ったんだ。

 
☆ 伝えたいこと の 始まり


 私は誰かに伝えたい。私に起きた出来事で一番大切っていうか、意味あることを誰かに伝えたい。

 でも、その誰かって誰なんだ。

 それは、心優しき人。子供だって大人だっていい。心優しき人に語りたい。

 見かけも悪けりゃ、態度も悪くって、間違っても近くに寄りたくない人。でも案外、そういう人が心に自分でも気づかないうちに優しさのかたまり持ってたりする。もう糸がからまるみたいにぐねぐねごてごてにかたまって、一体自分でもそれが何だかわかんなくて…でもふとしたとき、そのかたまりが熱くなったり、ぐらぐら揺れたり、自分で自分の気持ち、持て余すっていうのかな、そういうの。

 ケンタロウだったら、そんなセイゼンセツばかり信じてちゃいけないよって言うだろうな。

 でも別に生まれながら心が善くなくたっていいと思う。性悪だから、心がドロドロでワルッチイ人間だから、もし、優しさのかたまりが、怒って握り締めた綿アメみたいに小さく小さくなってたとしても、優しさの種みたいなものがあったら、そして何かをきっかけにそれが心を熱くしたら、熱くできるんだったら、そのときだけでも心優しき人なんだよ、きっとその人は。

 それって、やっぱ性善説だよ、ってケンタロウなら言うだろうな。口を尖らせて。

 だから、もし機会があったら私の話を聞いてほしい。天使の輪から始まった私の話を。信じてもらえないかもしれないけど、心優しき人ならわかってくれる、そう感じるんだ。

舵仁依:ロコ

        
 私が最初に輪を見たのは、ふっと風が涼しく感じる夏の終わりだった。

 風が窓にあたり、カタカタとガラスを鳴らしている。3センチばかり開いた隙間から風がシュルーリと入り込み、黒板に張った生き物係の名前の紙を揺らした。

 私は風に魅せられる。風はいろんなものを運んでくれる。遥かな海の向こうから風にのって蝶の大群がやってくるって番組見たけど、それだけじゃない。風ってとにかくすごいんだ。目に見えるものはもちろん、目に見えないものもいっぱい運んでくれる。いい匂いだって、嫌な匂いだって。

 それに気持ちも。嬉しい気持ち、悲しい気持ち、怒りの気持ち。みんな風にのってやってくる。それって空気じゃないの?っていう人いるけれど、空気と風とは違う。風は確実に動いている。風は人の気持ちも運べるんだ。

 だから私はいつも風に魅せられる。



 その日は風がけっこう強く、その分いつもよりいろんなものを運んでる気がして、私は風から目が離せなかった。

 あ……………

 それは、3センチほど開いた隙間ではなく、その横のガラスを通り抜けて、教室へ入ってきた。赤ら顔をしながら黒板に「同音異義語」って書いてる高浜先生の頭のあたりをすーっと通り、途中でとまったり、ふわっと高くなったりしながら、まるで教室の中を散歩しているようだった。

 なのに誰も気づかない。私以外…。驚いて目を見開ききょろきょろしてるのは私だけだ。高浜先生のほんの鼻先を通り過ぎてもだ。

「ねえ、先生の耳のそばに輪っこみたいなの、見える?」

 隣の谷山くんに聞いてみた。谷山くんは先生の顔のあたりをじーっと見て、今度は私をじーっと見た。ちょうど輪っこは私の方へ向かってやってきたから、あ、谷山くんも見えるんだって思った。

「輪っこって輪ゴム?」

 あ・・・あ・・・ それは私の目の前をすーって通り、教室の廊下近くで一回カクンって下がり、そのまま壁をすーっと通り抜けていってしまった。



 その子がやってきたのは2時間目の授業の前だった。高浜先生が腹痛のため、トイレにかけこんだ直後にやってきた。高浜先生はえくぼのできる気のいい先生だけど、月曜日には必ず腹痛をおこしてトイレに駆け込む。

「いやぁ、大人はストレスが多くてね」

 高浜先生は額をかきかき言うのだけど、本当は飲みすぎなんだ。週の初めの先生はすごくお酒臭い。二日酔いだ。土曜日から飲み始めたとしたら、三日酔いか。月曜の朝や、とくに連休明けのときのむくみ顔は尋常じゃない。きっとお酒といっしょに辛いおつまみなんか食べてるんだ。辛いもの食べるとお酒がよけいにゴクゴク飲めちゃう。だから連休明けの先生のお腹は一回り大きい。お腹に水ぶくろ抱えてる。その水たっぷりのゆるゆるお腹が、ちょっとここんとこ自習しててくれるかな、そう言ってトイレへ向かって小走りさせるのだ。

 毎度のことだと、私たちは小さくうなづくだけで、大混乱は起きない。腕相撲する子や漫画のキャラを描いたりする子はいるけど、まじめに教科書に向かってる子もいたりする。

 私はたいていディドリーミングするか、風を見るかする。

 小さい頃どんな子でしたか?と聞かれたら、真っ先にこう答えるだろう。「ディドリーミングが好きな子でした」

 とにかく、その子は高浜先生がトイレにかけこんだ直後にやってきた。私が密かにオニヤンバエとあだ名をつけている教頭先生といっしょにだ。顔がハエとオニヤンマの中間みたいなのだ。勘違いしないでほしい。これは一種の好意の表れだ。私はどちらの虫にも敬意を払っている。

 オニヤンバエ先生はクラスを見回し、「またかいな」と言った。大阪のなんとかというところ出身の先生の言葉は、呆れても怒ってもそんなふうには聞こえずに、しょうがないやつでんな、って感じだった。

「そうです。そうです。そのまたかいな、です」
 
ケンタロウが答える。ドッと笑いが広がった。

 オニヤンバエ先生は、転校してきたばかりのその子に、担任の実態を伝えるのはどうしたものか、と考えているようだった。

「高浜先生はすぐ戻ってきますから、安心しなさい」

 安心したいのは自分なのだろうが、オニヤンバエ先生はきょろきょろ見ながら、その子を黒板の真ん中へ促した。

 男? 女? 

 ひそひそ声が聞こえた。

 その子はくるっとカールした髪を肩までたらしていた。巻き毛ってこういうのを言うのかな。確かに男にも女にも見えた。目がくるんとして鼻はちょっと先が丸くて上を向いている。

 色は普通。焼けてもいなければ白すぎもいない。男の子といわれればそうも見えるし、女の子といえば、ちょっときりっとした女の子に見えなくもない。

 服も中途半端だ。半ズボンなのだけど、中途半端にかわいい。女の子がボーイッシュに着たらこんな感じだ。

 吉川舵仁依

 オニヤンバエ先生が、黒板に書いた。

 なんだ? えーーと、ヘビだっけ? ジャニイじゃない? ばーか、ヘビは虫へんだろうが。声が飛び交う。

「よしかわだにいくんだ」

 だにいかぁーーーー。いくつもの声が重なった。

 ダニイ? ダニー・・・。ダニー・・・って・・・。

 その子は一、二歩動き、黒板の真ん中から窓よりに歩いてきて外を見た。前から二番目、窓から 三列目の私にはよく見えた。そしておそるおそる息をとめてその額を見つめた。

あるのかな・・・?

額に傷あとが。

ダニーが私を見た。あ・・・・・。下を向く。

 ダニー、日本人にしては変な名前。もし額に傷があったら…。あの子だ。あの子に違いない。

 どうしよう・・・・・・。

 なぜって・・・その傷は私がつけたものだからだ。



 
私にはパパがいない。それに気づいたのは3歳くらいのときだった。

「パパ」「おとうたん」と周りの子たちが呼んでるものが自分にはない。保育園に迎えに来るのは、しょっちゅうおばあちゃん?って間違えられるママで、ジャンバーやブルゾンを無造作に羽織った「パパ」ではない。

 痩せた「おとうたん」も肉付きのいい「パパ」もいろいろいるけど、私にはパパがいない。だから、パパがいる子がひどく羨ましかった。

 一番羨ましかったのは彼らの手だ。彼らの手は大きく広かった。そりゃ、大きな肩や、けっこう早く走れそうな筋肉質の足もママにはないものだったけど、彼らの手は、未知なる広がりだった。

 ヒロコのヒロってひろぉーくて、こせこせしてなくってとってもいいことなのよ。そう言いながらママは微笑む。私の手を握る、大人にしては小さなママの手。それを見て、ひろいってことは私とママにはない、なんだかとても素敵なことに思えた。

 だから、保育園に迎えに来るパパって呼ばれる男たちに「ひろい」をさがした。「ひろい」って感じたのは大きな背中や、半ズボンから出た毛の濃いむこうずねとかじゃなくって、大きな手のひらだった。

 迎えにきたぞぉーーーって広げる大きな手。

 その手と手の間には宇宙的な広さがあった。そしてその広さに嫉妬した。

 私が特に羨ましかったのはダニーだ。だってダニーのパパはポニーテールをしたゴロさんだったからだ。

 ゴロさん・・・・・・。バーンと大きな顔にははりがあり、頬っぺたが子供のように赤くつやつやしていた。頭のてっぺんは少し禿げてて、それを隠すでもなくポニーテールにしていた。たいてい光沢のある緑色のゴムだった。

 ダニーを迎えに来るのはいつもゴロさんだった。双子のヨースケ、シンスケにいつも泣かされていたダニー、お目々が大きくて髪がカールしてて人形みたいに可愛いのにあんまり表情がなくって、いつも不機嫌そうなダニー。おにぎりが大好きで、おにぎりを食べるときだけ、頬がゆるみ、まん丸顔になるダニー。口からごはんつぶをこぼしこぼし食べるなんとなく憎らしいダニー。

 ダニーはいつも突然泣いた。声は天まで届けとばかりで、目からはコボコボ涙が流れた。だからひそかに泣きんぼダニーと呼んでいた。

 そんなダニーだったけど、ゴロさん見つけて「パァパ!!!」と言って駆け寄るとき、最高に大きなおにぎりを見つけたような顔をしていた。

 駆け出す姿は弾丸で、弾丸にしてはよく転んだ。三度に一度は転んだ。そうするとゴロさんは垂れ加減の丸い目でおやおやという顔をするのだ。

 何かに似ていた。何だろっていつも思ってたけど、その答えをある日動物園で見つけた。

 アザラシだよ。タテゴトアザラシ。ゴロさんの顔は愛嬌者のあざらしに似ていた。目も体つきもよく似ていた。

 ダニーが転ぶのがわかっていてもゴロさんは駆け寄ったりしない。キャッチャーのように腰を低くし、弾丸ダニーを見守っている。そして転ぶと決まってこう言うのだ。

「よく転んだな。頑張って転んだ。今度は頑張って立ってみろ」

 私は何をしていようと、ジャングルジムで両足下がりしてようと、ゴロさんから目がはなせなくなった。

 アザラシに似たゴロさん。顔だけでなくって、体つきも似ているゴロさん。肩から腰へとつるりとずん胴で、足が短い。背はかなり高くて近くに来ると大男だったけど、公園の向こうから歩いてくるゴロさんはヒョコヒョコ歩く子アザラシみたいだった。

 海がやってきた…そう思った。

何の仕事かしらないけど、ゴロさんは時々バケツ一杯の小魚を持ってきてくれた。ある時はドジョウ。ある時はタナゴ。ある時はメダカ。あるときは見たこともない何とも不思議な魚。

 魚と一緒にやってくるゴロさんは海そのものだった。アザラシに似た海坊主。ゴロさんの広げる両手の間には海が見えた。

 パパって海なんだ。漠然とだけど、パパがいない自分はなんだか狭いところに閉じ込められている気がした。ゴロさんが持ってきたバケツの中のメダカみたいに。そしていつも一つの疑問がわいてきた。

 ロコのパパはどこ?

 思う度ママの顔が浮かんだ。小さい頃から聞き続け、その度、ママはちょっと微笑んだ。今は遠くにいるの。微笑んでいてもママが困っているのがわかった。だから、パパはどこ?って思うたび、ママの困った微笑みを思出だす。

 パパは遠くにいていっしょに暮らせないのよ、というママの言葉に遠くってどこだろうと思いながら、また会うことのできる遠くなのか、もう会うことのできない遠くなのか聞くのがこわかった。

 ロコのパパはダニーのパパのゴロさんのように、公園を横切ってロコを迎えに来てはくれないんだ。バケツの中の小さな灰色の魚を見ながら、パパと海へ行ってみたいと思った。

 ロコのパパはイルカのように泳ぎ上手だろうか。

 ザバンと水から頭を出しておどけてくれるだろうか。

 その顔はゴロさんみたいに優しい笑みを浮かべているだろうか。

 私が砂浜を走って転んで頭から砂をかぶっても、ゆったり笑い大きな手を頭にのせてくれるのだろうか。

 一度だけゴロさんに肩車してもらったことがある。私がショータにカナブンをとられて泣いていたときだ。そのカナブンはしょっちゅう見かける光沢のない茶色じゃなくって、そりゃもうピッカピッカの緑色で、宝石のように美しくって・・・。なのにショータが足二本つかんで取り上げたのだ。取り返そうにも足がちぎれそうで手が出せない。カンブン片手にショータは走り去った。私は声を張り上げて泣いた。

 と、そのとき、不思議な力が私を持ち上げた。

 気がつくと、ゴロさんに肩車をされていた。ゴロさんの薄くなった頭のてっぺんが沈みかけた太陽に照らされて光っていた。

 私は突然体が浮いたこと、ゴロさんに肩車されていることが、ゴロさんの頭のてっぺんにできた光のかたまりのように楽しかった。嬉しかった。

「高いだろ」 

 私を見上げるゴロさんの額にくっきりした皴が4本できた。

「ここに魚が泳いでる」

 ゴロさんが指差した頭の上、その禿際に、確かに魚が泳いでいた。それは一センチばかりの魚の形をしたあざだった。

 もっと髪が薄くなって禿げが広がったら、ゴロさんの頭の上でこの魚ももっと自由に泳げるだろう、そう思ったら、とっても楽しくなった。

「楽しいかい?」

「うん」

「もう泣いてないな」

「泣いてない」

 カナブンはいないけど、私は少しだけ空に近くなったのだ。だから手を伸ばした。

「パァパ!!」
 
 ゴロさんを見つけたダニーがやっぱり弾丸のようにかけてきて、お決まりに転んだ。ゴロさんは私をゆっくり下ろすと、いつものようにキャッチャースタイルに腰を下ろした。

「ダニー、上手くなったなあ、転び方が!」

 私はその瞬間ダニーが憎らしくて憎らしくてしょうがなくなった。苛立って足踏みしたくなった。ダニーを蹴散らしワァァァァァア!!と走り出したくなった。


 二日後、ゴロさんがダニーを迎えに来たとき、ダニーはジャングルジムの上にいた。

 私はそばの砂場で、雑草をむしってはバラバラにして撒き散らしていた。なんだかむしゃくしゃしていたのだ。「パァパだ!」そう言ってジャングルジムのてっぺんから下りてくるダニーを見て、その気持ちは高まった。だから・・・

 ジャングルジムからピョンと飛び降りるダニーの前に足を出した。

 地面に無事着陸し、さあ、とばかり駆け出そうとしたダニーの最初の一歩の足目がけて。

 下りたことで勢いがついていたダニーは大きく前につんのめって転んだ。

 足を出さなくたってどうせ転ぶんだから…そう思ってどうしようもなくこわい気持ちを打ち消そうとしたけど、半分起き上がって、私を見たダニーに、息がとまった。

 額から血が流れていた。ポタポタ・・・かなりの量だ。

 泣き声が響いた。私も泣き出した。痛さでびっくりしたダニーとパニックの私はどちらも負けないくらいの大声で泣いた。

 ゴロさんが走ってきた。さすがに上手に転べたとは言わなかった。ゴロさんは少し悲しげな目でダニーを抱えて保育園の中へ入り、水道で傷口を洗った。

 地面にあった大きめの石で額をうったのだった。石さえなければ、いつも転ぶのと大した違いはなく、膝小僧の擦り傷程度だっただろう。

 私は地面を見つめた。少しだけ頭の尖った石がそこにある。私は震える手でその石を拾った。拾って手で握り締めて隠そうとした。けれど、三才の子の片手では大きくはみ出てしまった。でも、見られてはいけない気がして握りしめた。強く握りしめた。ごつごつとした石は手の中でどんどん熱くなった。

「目じゃなくてよかったわ。ほんとに」

 星野先生が言った。ゴロさんは神妙な顔で、額の汗を拭いた。公園のすぐ横にある園医の先生が、この傷は縫うこともできないし、このまま消毒してばい菌が入らないようにするしかない、と言った。



 あの時の傷。その傷がうっすらとだけど、しっかりと額に残っている・・・そんな気がする。

 ダニー・・・・・・。

 確かにダニーなのだ。あのダニー。泣き虫坊主、泣き袋、泣きんぼと私がひそかに呼んでいたダニーに違いない。

 怪我のあと、チューリップ組から菊組になるのを待たずにいなくなってしまったゴロさんとダニー。

 北海道へ行ったのだと、保母の先生たちが話しているのを聞いた。ホッカイドー? その場所がどこかまったく見当がつかなかった。

「ロコちゃん、強い子になれよ」

 ゴロさんは言った。その言葉が心にしみた。いい子にしてるんだぞ、とか、しっかり先生の言うこときくんだぞ、でもなく、強い子になれよ、といってくれたゴロさんの目。タテゴトアザラシに似たゴロさんの目は私を責めてなかった。

 でも、ゴロさんは知っていたと思う。私が足を出したこと。ゴロさんからは見えなかっただろうけど、ゴロさんは確かに知っていたと思う。

 もちろん、ダニーだって知っていたはずだ。泣きながら、私を見た目が問っていた。

 どうしてなの? 

 チューリップ組でけっこう仲良くしてたはずの私とダニーだ。おままごとだってしたし、砂のトンネル作りだって毎日のように一緒にした。

 私のこと、オコタン、オコタンって、回らぬ舌で言っていたダニー。ダニーは3月生まれ、私は7月生まれ、だから、同じチューリップ組でも私の方がずっとおねえさんだった。

 保母の先生たちは知らずじまいだった。ママの耳にも入ることなかった。3歳にしてわざと人に怪我をさせた、ってことママは今だに知らない。

 ダニー親子がいなくなって、私は自分がどう感じてるのかよくわからなかった。怪我をおわせた子がいなくなった安心感はすごく大きかった。

 なのにとっても淋しかった。公園の向こうから歩いてくるあのゆったりとした海坊主のようなゴロさんがいなくなったことが。そして泣き袋のようなダニーも、いなくなってみれば確かに淋しかった。



 今、そのダニーが目の前にいる。とても涼しげな目で、教室の壁を通してどこか別の世界でも見るような風情で立っている。もう泣き袋をかかえた目には見えない。

 ダニーが私を覚えているとは思えない。まだ3才だったのだ。それに、自慢じゃないけど、私、あの頃からはずいぶん変わってるはずだった。でも、私はダニーを覚えてるじゃない。やっぱ3才だったのに。でも4才になりかけの3才だ。それに、何と言っても私には負い目があって、その記憶が深く刻まれているだけだ。

「だにい君」

 オニヤンバエ先生が言った。

「席はここにします」

 2週間前に岐阜県に転校になったレミちゃんの席を指した。

 私の斜め後ろだった。


 次の時間には高浜先生が復活した。トイレで吐いたのか、お腹を下したのか、けっこうすっきりした顔をしていた。少しだけ青白い気もしたけれど。

 徐々に調子をあげる高浜先生の時々裏返る声を聞きながら、私は妙に居心地が悪かった。斜め後ろからダニーが見ているような気がして仕方なかった。右側の首筋から頬の辺りが緊張する。授業に集中できないでいるとあてられた。

「 三好さん」

「はい!」

「あの、な、なんでしたっけ?」

 ドワワワワワーと笑いが広がった。

「水田の主な役割を言いなさい」

「米が作れます」

「それから?」

「えーと、洪水のとき、水を貯めれます」

「そういうの何て言ったかな?」

「ダム?」

「そのとおり」

「あと二つ」

「ぁ、あと二つも?」

「三好さんの得意な自然に関係したものだぞ」

 私の生き物好きを知ってて高浜先生はにっこりした。

「カエルやヘビや、合鴨農法ではカモや、動物の住みかになって自然に貢献してます」

「貢献とはいいね。あともう一つ!」

 ハイ!ともヘイ!ともつかぬ声。キョウヘイだ。

「水の方が土より気温が上がりにくいので、水田のあるところは気温が上がりにくいです」

「よし、よく出来た」

 高浜先生はにっこりすると、黒板にまとめ始めた。




「ねえ、君」

 その声に振り向くと、ダニーが立っていた。少し微笑んでるところを見ると、私のこと怒ってないのだろうか。

「ちょっと、話せる?」

「う、うん・・・・・・」

 何なのかな・・・。私はちょっとびくついた。やっぱ、覚えてたんだ。

「外に出ようか?」

「もう帰んの?」

「校庭だよ」

「あ、校庭ね・・・・・」


 二人並んで校庭を歩き出すと、風が一段と強くなった。

 ダニーが手を振った。風に向かって。風以外何もない空間に向かって手を振っている。

 この子も風に特別な思いを持っているのかも。もしそうなら同類だ。

「吉川くんも見えるんだ」

「えっ?」

「風が見えるんでしょ?」

「見えるよ、もちろん。ほかにもいろんなものが」

「いろんなものって・・・風の中に?」

「うん。・・・あのさ、君、ひょっとしてまだくぐったことないの?」

「くぐる?」

「あ、ないんだ。あ、今もくぐってないよね。じゃ、見えてないんだ」

 ダニーは大切な何かを両手にのせているように、私の前に差し出した。じーっと見つめたけれど、その空間の先にはダニーの目しか見えない。

 何? 何なの?

 ダニーは手にのせた小鳥を話すように、ふわっと両手を上げて広げると、今度は地面を指差した。

「やあ」

 地面に向かって挨拶している。

「今度は何?」

 私は、苛々してきた。

 ダニーはひどく真面目な顔で言った。

「久しぶりだよ、フェルルに会えたのが」

「ふぇるる?」

「うん、一番最近ではさ、パパと行ったリンゴ園で、農家の縁側に腰掛けてたおじいさんがそうだったな。あんな年までフェルルでいられるってすごいことだよ」

「フェルルって…何?」

「君もそうだよ。でもまだくぐったことなかったって驚いたな。ところで君、何て名前?」

「私のこと知ってんじゃないの?」

「知ってるよ。フェルルだってこと。でも名前は知らない。いっぺんに35人もの名前覚えられないよ。35人だよね、僕たちのクラス。僕をのぞいてさ」

「う、うん」

 何だか混乱してきた。私の名前知ってんじゃないの? 保育園で一緒だった、あの怪我をさせたロコだって知ってて話しかけてきたんじゃないの? それともこれ何かのワナかな? 私のことずっと恨んでたとか。

「みよしひろこ、だよ」

「ふーん、ニックネームってある?」

「ロコだよ」

「ロコか・・・・・・」

 あ…気づいた?

 この場におよんで隠したってしょうがない。

「うん、コゲラ保育園で一緒だったロコだよ」

「そうだっけ?保育園のことはあんまり覚えてないんだ。頭うったからね」

 うったから!? あの怪我、あとあとまで影響したのか?

 私はダニーの額にかかった髪を右手で分けた。そうせずにはいられなかった。

 ダニーはいきなり髪を触った私に少しびっくりしたようだったけれど、特に体を引くわけでもなかった。ただ何?って顔をしていた。

 私は間近で見て、正直、安心した。うっすらと白い線がある気もするがほとんど目立たない。

「うったって…。コゲラ保育園でだよね。この傷ついたときでしょ?」

「いや、あざみ保育園。札幌の。そこで高い方の鉄棒から落ちちゃってさ。ほとんど一日意識がなかったんだって」

「よかった…」

「え?」

「い、いや…。意識が戻ってよかったね」

「うん、ほんとだよ」

 ダニーは嬉しそうに笑った。

 私のことは覚えてなかったんだ。でもそれって私、嬉しいのかな。嬉しいはずだよね。でもなんだかがっかりしたような気がするの、どうしてだろう。

「吉川君がコゲラ保育園で怪我したとき、あたし、そばにいたんだ。凄く血が出てたから覚えてる」

「そう? コゲラ保育園でも怪我したんだ」

 私は、自分のせいだと言いたかったが言えなかった。

「ゴロさん、元気?」

「あ、パパのこと知ってるんだ。元気だよ。ほら4丁目公園あるだろ。あそこのすぐそばで床屋開業したんだ。また、来てよ。女の子も来るよ」

「ゴロさんって床屋さんだったんだ」

「ここ、数年はね」

「前は何してたの? 私ね、ゴロさんが魚もってきてくれたの覚えてるんだ。魚屋さんかなって思ってた」

「ああ、魚ね。あれは趣味だね」

 ゴロさんの頭のてっぺんの池は大きくなったんだろうか。聞いてみたかった。でもどうやって聞けばいいっての? 禿、広がった?って聞くわけにもいかないし・・・。

 昔ロコちゃんが言えなくてオコたんって呼んでたのよって、言おうとしたけどやめておいた。自分が反対の立場だったら言われて嬉しいかな、なんていつもは考えないこと考えてしまったんだ。何と言っても引け目があるからね。

「ロコって呼んでいい?」

「うん、いいよ。ダニーって呼んでいい?」

「いや、みんなダニー様って呼ぶんだ?」

「ほんと?」

「ウソだよ」

 私たちは校庭の風を見ていた。大きな枝も揺れ、校庭の土が舞う。ほとんど誰も出てないところを見ると、風のため外には出ないようにって放送が入ったかな? 私はたいてい他のこと考えてて放送を聞き逃す。

「ねえ、私のこと覚えてなかったのに何で声かけたの?」

「だから君がフェルルだからさ」

「ねえ、なんなの、それ?」

 私は少し語気を強めた。でも、おちょくってんの!?と怒る気にもなれなかった。

「僕が言うよりさ、自分で発見するほうが楽しいよ。僕もそうだった。僕の場合はちょうど6才の誕生日だったな」

「どうすればそれを発見できるの?」

「輪さ」

「輪?」
 
 心臓が コト コトン となった。

公園:ロコ

       

 学校からの帰り道、私は一人で歩いていた。

 いつもはミキとイッチーと一緒なんだけど、今日は急いでるからと一人で学校をとび出した。

 一人で帰りたかった。ダニーの言ったこと、じっくり考えてみたかった。

 輪・・・。輪・・・。

 知ってるよね、ダニーは言った。見たことあるよねって。

 うん。私は答えた。

 天使の輪。

 きっと私が何度か見た白くって透き通っている輪のことなんだ。誰に聞いても変な顔された、私にしか見えない天使の輪。

 今度見たらさ、触ってごらん。そして、腕を通してみてごらん。ダニーは言った。

 もっと詳しく聞きたかった。触れても大丈夫なの? 腕に通せるほど大きくないような気がするよ。外せなくなったりしない?

 でも、あの時、20分休みが終わるチャイムが鳴り、そのあと、他の子たちに囲まれたダニーと話す機会がないまま下校になって、ミキたちとぐずぐずしてるうちにダニーはいなくなってしまった。

 それから一週間くらい、輪を探し続けた。だけど、輪らしきものは一向に現れなかった。思えばいったい何回見たことがあるってんだろう。これから先いつ現れるとも限らない。



 私が輪、輪、輪でやきもきしてるってのに、ダニーはあっという間に人気者になった。これはどうやら変わった名前とカールした髪形だけのためじゃないらしい。

「かっわいいんだよねぇぇぇーーー」

 ミキが言う。ミキの趣味はマッチョタイプより美青年、美青年というよりかわいい男の子なのだから、ダニーはぴったりだ。ミキは性格はがらっぱちだが、着るものはひらひらのフリル好きだ。

「あんたねえ、やめときなよ。性格と着るもの、まるっきり反対っての詐欺みたいなもんじゃない」

「えっ、じゃあ、性格がぶっとんでる子はコンサバな服着ちゃだめってわけ? 性格のいい子がちょっと悪っぽいカッコしちゃだめってわけ? それって性格による差別じゃん!」

ミキの言うのは確かに一理ある。私が着ていて落ち着くのは男の子でも女の子でも着れるようなやつ、要するにユニセックスのやつだ。でも時々、妖精の可愛い女の子が着るような白い透き通るようなレースの服の前で立ち止まったりする。

 それってただきれいだから立ち止まって見てるのか、いつかは着てみたいなって気持ちがあって立ち止まってんのか、自分でもわからない。

 眉毛きりり、目がしゃきり、すばしっこそうな男の子に見える私、性格もそれに近いのかな・・・。でもこんな私ふうの子がいて、ふととっても女の子っぽい服が着たくなったとする。そしたら着たっていいのだ。

とにかく人気者になったダニーだから、たいてい誰かがそばにいた。そこに私が「よお!」って声をかけるのも何だか唐突すぎた。

ダニーがもっとひっそりした転校生だったらよかったのに。目立たない静かなタイプで、休み時間に一人残されてしまった彼に、私が親切に話しかける振りをして、実は自分が聞きたいことを聞く。

  ねえ、どこに行ったら輪が見えるのか教えてくれない?

 そう、私は、自力で輪を見つけるのを諦めかけていた。ダニーがここだよって教えてくれれば、じっと目を凝らせば見えてくるかもしれない。

 それからしばらくの間、ダニーと時々目が合った。お互い何か言いたそうに視線を交わしたりけど、どちらからも寄って話そうとはしなかった。




 その日は開校記念日で休みの日だった。6丁目公園のベンチでブランコに乗ってると、ダニーがやって来た。

 片方の足がちょっと内股なのは3才のときといっしょだ。

「オーイ!」

 私は手を振った。

「その髪、誰の趣味?」

「誰のかな。はっきり覚えていないんだ。小さい頃からずっと長かったから、長いのが自然に感じるんだ」

「けっこういい感じ。それってお母さんの趣味かと思った」

「かもね。ほとんど覚えてないからね。ママのこと」

 えっ? ダニーお母さんいなかったんだっけ? 

 そう言えば、ゴロさん以外の人が迎えに来たことあったかな? 何度かあったような気もするけど。

「お母さん、いないの?」

 聞かなきゃいいのに聞いてしまった。

「うん」

 それ以上言いたくなさそうなので話を変えようとした。と、ダニーが言った。 

「よく覚えてないし、誰も教えてくれないんだ。けど僕が2歳くらいの写真でさ、髪染めてんのがあるんだ。ママも僕もかなり金髪に染めてんだ。ママはなんだかピッピみたいだって思った。その写真の中のママはさ」

「ピッピ?」

「うん。長靴下のピッピが大きくなったらこんな感じじゃないかなってそんな感じさ。口を凄く大きく開けて笑っててさ」

 私は大人になったピッピってどんなのか考えてみた。でも思い浮かぶのは挿絵のピッピだけだった。

「きっと僕のこと外国の子みたいにしたかったんだろうな。名前だって、髪の毛だって。パパは染めたり好きじゃないから、もう染めたりはしない。でもさ、僕のこの天然の髪だけはさ、何だか切れなくてさ」

 ダニーにとって長い髪は母親との唯一のつながりなのかもしれない。私が名前でパパとつながってるみたいに。

ダニーはとても可愛らしい目をしている。ゴロさんと同じで丸くてあざらしみたいでとっても可愛らしい。ゴロさんとダニーが似てるとは思えなかったけど、その目があざらしみたいに可愛いってとこは似ている。

 ダニーは、肩まで垂れたその髪を手でくしゃくしゃとつまんだ。でもつまんだ瞬間にはもう他のことを考えてるようだった。

風を見てるの? フェルルって何? って聞きたかった。

 今なら聞けるのに、なかなか話せなかったダニーに聞けるのに、なんだか聞いたら卑怯って気がした。自分で答えを出さなきゃって。風が見える子には風が見える子同士のルールってのかな、そんなのがある気がした。


  5時の鐘が鳴るまで、一緒にブランコにのっていた。特に何も話さなかったけれど、一人じゃないって、こういうことを言うんだって思った。



 帰り道、ダニーのママってどんな人だろうって考えた。ダニーは会いたいんだろうか。

 私のママはダニーから見たら、どう映るのかな。

 ダニーにはママがいない。
 
 私にはパパがいない。

 時々、ゴロさんと話していたママ。ママの銀髪が光っていた。ママは私が覚えてる限り、ずっと銀髪だ。

 あのころ、あんなに欲しかったパパという存在が、今は特に欲しいとも思わない。それとも思わないようにしているだけかな。

 あのとき、ママがいないダニーをパパがいるって理由だけで憎らしく思った自分。ダニーにママがいないことすら気づいてなかった。

 コゲラ保育園にいた三才の自分とダニー。

 何だか今でもどこかにいるようで、耳を澄ます。あのころのあの空間が今でもどこかにあったら、お客さんみたいにそっと行ってみたいと思う。

 そんな空間、みんな自分に詰め込んでるのかもしれない。



 ママが一度だけ、男友達を紹介した。二年前のことだ。

 背が高くヒョロっとしてて、どこか動きがぎくしゃくした人だった。わたしとあまり目を合わせようとしない。「やあ、君がロコちゃんか」と言って頭を撫ではするんだけど、その目が泳いでいる。嫌いな食べ物をおいしいって言わなくちゃいけないときの苦しげな目だった。

 今から思うと、その人、特にママの恋人ってわけじゃなかったと思う。ママは人助けが仕事だから、ママが助けた人の一人かもしれない。

 何にしても私はその人が気に入らなかった。全てが気に入らなかった。襟足が伸びた髪も、ぺらぺら光沢のあるスーツも、ママに話しかけるとき、ねぇねぇと子供のように首を傾けるしぐさも。

 三人で動物園に行った。「子供と行くところって動物園だよね」とママに話しかける男に、おまえが一人でいけーーーー! と叫びたくなった。でも、叫んでる自分を思い浮かべたら何だか笑えてきたのでやめておいた。

 男は動物園で月並みに楽しそうで、月並みに優しく話しかけ、月並みに微笑んだ。月並みって言葉が教科書に出てきたばかりだった。私には男のすることすることすべて月並みに思えた。

「あの人どう思う?」

 帰ってから、聞くママに、

「なんだか、背だけ高い子供みたい。それにすごく月並みだよね」

 ママが笑い出した。ほぉっ、ほぉっ、ほぉっ、て感じの男みたいな笑いだった。

「うん、月並みだよね、彼。それにやっぱ子供っぽい。ケンタロウの方が子供なのにずっと深みがあると思うんだよね」

 ケンタロウ?というママに、私はどれだけ彼がルックスは今いちにしても、おもしろくて素晴らしい人間なのかを力説した。ママは笑って、私も夢中で話した。

 そのあと、パパに会いたくなった。パパだったら、あの男より客観的に見てもっと冴えなくて、もっと月並みだったとしても、許せたと思う。

 自分の親だから、子供だからって場合、めちゃめちゃ判断基準がきつくなるか、緩くなるかだ。きつい場合は緩くしようと、緩すぎる場合は少しはきつめにって努力したりするんだろうな。

 とにかく私がママに対してめちゃめちゃ基準緩いように、パパに対してだってそうだって思った。立って息してたら、それだけで許せるような気もする。

 
 
 ダニーの存在は私に深みを与えてくれる、そんな気がした。深みってのは複雑さ? 思考? 自分を振り返ること? 自分の存在や周りの人の存在を改めて考えること? 

 とりあえず、そう、とりあえず 輪を見つけなければ、と思った。

 
 

輪くぐり:ロコ

           

 その日、私はちょっとだけ憂鬱だった。掃除のとき聞いたんだ。遠足のとき、ケンタロウがユキちゃんに告白するんだってさ、って。

 私は黒板拭きを持ったまま、立ち尽くしてしまった。そんなのってずるいって思った。何がずるいのさ、って聞かれれば、よくわからないけれど、とにかくずるいって思った。

 ユキちゃんみたいに可愛いほうがいいのかな、可愛いほうが得するのかな。

 いつも、ボーイッシュでかしこそう、って言われる。私の顔を覗き込んで、どっちかな?って顔をする大人もたくさんいた。男の子にも見えるってわけだ。

 二歳半までは、髪が薄くて、ママは「ニコルソン禿げですの」って言っていたらしい。「ニコルソン禿げってなあに?」と聞くと、ママは描いて説明してくれた。「こうなっててね、髪の毛のここのところが薄いのよ。男でこうなったらもう生えてこないのよ。ジャックニコルソンって俳優さんがこんなこんな感じだったの」

 私は今はシャラシャラの超ロングヘアになれるほどふさふさだ。けれど生まれてからずっとショートヘアで通してる。

 なぜ?って聞かれても困るけど、ショートは手櫛でといたとき気持ちいい。親友のミキの髪は胸のへんまである。ショートだと指の間をあっという間に通り過ぎる。そのはやさがいさぎいいんだ。

 もともと私のモットーが「いさぎよく」だ。漢字でだって書ける。「ショートヘア」と「いさぎよさ」の関係。ショートヘアはきっぱり潔い。これが男の子みたいといわれてもショートで通している理由だ。

「あんた、久しぶりに見るたび、わー、ハンサムーって思うんだわー。いわゆるきれいな男の子に見えるんだわさ、あんた」

 ミキは言う。見かけはバリバリの女の子のミキだが、中身はいい意味でさっぱりきっぱりしている。ミキには悪い意味での女っぽさがない。ひそひそねっとり悪口いっぱいの内緒話やあなただけ特別よ、だから私に一目おいて、といったわがまま度合いが全くない。だからミキとは仲がいい。見かけは対照的だが仲がいい。
 
 私は自分らしさに誇りを持ってるけど、それがすこうし揺らいでいた。やっぱ可愛らしいほうがいいのかなって。

 だって、ケンタロウがユキちゃんを好きだっていうんだから。

 誰だってユキちゃんのことが好きだ。優しいし、可愛いし、ユキちゃんに可愛い声、可愛い目で話しかけられると、誰だって口調が優しくなる。間違っても、違うよ、なんて言えなくなる。




 遠足当日は前日降った雨で、草の下の土が柔らかかった。ぎゅっぎゅっとつま先を土に食い込ませてみる。

 顔をあげるとミキとイッチーがおいでおいでをしてクスクス笑っている。きっと誰かがこんなことしたよってな、聞いても聞かなくてもよさそうなことなんだ。いいよ、いいよ、行かない。何だか気のりしないもん、てな顔をしてみせる。

 ケンタロウとユキちゃんは2メートルばかり離れて立っている。その距離はだんだん縮まっていく。時々ケンタロウがユキちゃんを見て笑いかけ、ユキちゃんがケンタロウを見て笑いかけ、お互いに顔を見合わせ笑い合い…。

 何だか歩くたびふてくされた気持ちになる。柔らかな地面が沈むのも気に入らない。いつもならキュッキュッてご機嫌で歩くのに。

 けれどそれでも歩くたびに視界の中で柔らかく揺れる緑の美しさが気持ちよかった。葉っぱの緑はすてきだな。これには逆らえない。なんで雨上がりの緑ってこんなに綺麗なんだろ。

「じゃあ、2時半まで自由行動!」わ~~~~~っとみんな駆けだした。あっちこっちで男の子のグループと女の子のグループの声が玉のようにまとまってころころころころ転がっていく。

「ねえねえ、ロコ! ロォコォってったら~~」という声に軽く振り向き、笑ってみせるけど、一人で小高くなっていくところに一本生えているヤマボウシの木のもとに歩き始めた。

 引っ張られたような雲の隙間から太陽が射していた。木漏れ日がくっきりと地面を影と日向に分けている。土に落ちている葉っぱが光を弾いている。

 きれいだな・・・。

 何だか胸がキュッとした。木の枝の間で何かが見えたような気がしたんだ。

 息をこらして目を細めてみる。

 木の枝の間を何かが動いている。

 輪?

 輪…。

 あ…あ…あ… 輪だ! 輪だ! 天使の輪だ!



 それは2メートルほどの高さにある枝に引っかかっているように見えた。けれど、どの枝にも触れていない。浮かんでいる。そして、生き物のように微妙に振動していた。

 ドキドキした。近くに小鹿でもいるかのように息をひそめる。輪はその場所から動かない。やがてすーっと横に動きだし…横に動きながら、時々カクンと下にずれる。地面から1メートルくらいのところまで下がったかと思うと、またすーっと2メートルくらいのところに上がっていく。そうかと思えば結構ゆったりとした動きで動く。

 いきなり風が吹いた。

 突風に一瞬目を閉じて開けると、輪はそんな中でも、ほとんど動かず、そこにいた。軽くて薄くて私の息ひと吹きで吹き飛ばされそうな、半透明な輪なのに、葉が揺らぎ小枝がしなる突風をまるで気にしないように、凜として浮かんでいる。

 風が止んだ。

 輪はスイーっと降りてきた。手を伸ばせば届きそうなところまで。

 手を伸ばしてみようか…。

「ローコちゃん」

 トミちゃんが満面笑みで走ってきた。

「ほーら」

 差し出した手はトカゲのしっぽをつかんでる。

 トミちゃんは女子の中で私以外で唯一トカゲやヤモリを手で掴める子だ。

「最高記録だよ。この尻尾の長さは。ほーら」

 いつもなら「わぁ~、すっご~~い」って目を輝かせるんだけど、今は一人にしてほしかった。

「ほ~~ら、掴ませてあげる。このトカちゃん、目、緑なんだよ。しっぽだって弾力あってすっごく強い。普通のトカちゃんなら、もうとっくに切れて逃げ出してるとこだよ」

「う・・・うん」

「ほーら、いいからさ。遠慮しないでさ」

「う・・・うん」

 そのときダニーが少し離れたところにいるのに気がついた。ダニーは瞬時に状況を察したようだった。小走りして私とトミちゃんがいる小高いところに駆け上がってきた。

「わあ、すごいなあ。僕に見せて」

 ダニーにそう言われてトミちゃんは少し赤くなった。やっぱ、ダニーはもてる。ケンタロウにせまる勢いだ。タイプは違うけど。

 トミちゃんがダニーにトカゲを見せている時、ダニーが私に目で合図した。やっぱりダニーはわかってたんだ。私がやっと輪を見つけたってこと。ほら早くって感じで合図してる。

 早くってったってさ。

「君、ヒトミちゃんだっけ?」

「うん。みんなトミちゃんって呼ぶよ」

「トミちゃん、これさ、他の子にも見せていい?」

「うん。でもロコちゃんほど喜ばないよ」

「喜ぶさ。ちょっと見せたい子がいるんだ。おいでよ」

 ダニーがトミちゃんの半袖のTシャツを引っ張ると、トミちゃんはまんざらでもない様子だった。

 ありがと、ダニー。

 私は「輪」に集中した。

 輪はするりと下りてきて、私のつい鼻先まできた。

 私はそっと手を伸ばした。触ろうとした。そして人差し指で少しだけ触れた。

 不思議な感覚だった。何も触っていないような。それでいて指先は確かに何かを感じてる。

 振動? かすかな振動っていうのかな・・・。

 熱くもなければ冷たくもなく何にも触ってないようで。それでいてそこには確かに何かがある。

 意識を集中した。

 人差し指で感じる空気は、弾力なのか、濃度なのか、確かに何かが違っていた。

 今度は人差し指だけではなく、指全体をくっつけて、出来るものなら手全体を通そうとかまえた。

 すると指をそんなにちぢこめる必要もなく、輪が少しだけ広がった。

 えっ・・・。

 さっきは7、8センチの直径だったのが、今は10数センチはある。

 腕を通してごらん。

 ダニーの声がしたように思った。くるっと振り向いたが誰もいない。トカゲを持ったトミちゃんもダニーもいない。

 私はそのするりんと広がった輪に向けて腕を通してみた。おそるおそる・・・。

 そして息をとめ、目をつぶり、一気にくいっと腕を前に押すように出した。

 目を開けると肘より少し上、肩よりは下のところまで輪に入っている。輪は微動だにしない。

 やだ、どうしよう。でもきつくもなければ痛くもなんともない。熱くもない、電流も感じない。

 私は左手で、まるではめた輪ゴムを引っ張るかのように引っ張ってみた。すると物をつかんでいるという感覚もないのに、その輪は全く抵抗なく広がった。

 私は広がった輪に頭をくぐらせた。そして体も・・・。

 輪は広がり、腰のところに来ていた。やはり圧力も何も感じない。

 それをさらに広げ、足を一本ずつ抜いた。まるでフラフープから抜け出るように。

 抜け出ると輪はすーっとまた最初見た時の大きさになって宙に浮かび、二、三度上下すると、すーっと平行に動き、木の幹の陰に行った。ついて行ってみたが、木の裏側に来た時には輪は見えなくなっていた。

 な、なに? これで輪をくぐったわけ? ダニーが言ったみたいに? 

 で、どうだっていうんだ? 何かが変わったの? 

 射す日の量? 空の青さ? 緑のきらめき? 

 何が、何が違うんだろう。

 存在しているものはいっしょ。木は同じところにあり、雲の位置だって同じ。少し向こうで揺れていた小さな白い花も同じ。

 なのに、何か違った気がする。違いゆく予感?がした。

 光の量が少し増えたのかな? きらめきが増えた、そんな気もする。

 私はじっと立っていた。幸い誰も周りにいない。

 自分の視界に集中した。

 …と…、きらめきが見えたきた。集中するときらめきが見えてきた。

 ところどころ、光の粉をまぶしたように光っている。

 光の粉・・・。ミクロの光の粉・・・。そんなのがあるとしたら、ほんのわずかな量にしても視界が少しだけ光の粉をまぶしたように見えた。

 気のせい?

 ティンカーベルの光の粉・・・。そんな言葉が浮かんだ。絵本でも映画でもティンカーベルの周りはいつも黄金色に光輝いていた。映画ではそれに合わせて、チラチラリンという澄んだ音も流れてきた。

 今、実際に目にしているのは、黄色く輝く光の輪でもないし、チンチラリンという音も聞こえてはこないけど、気配とでもいうのかな。実際に光の粉なんか見えないのだけど、その気配。

 何なんだ・・・。

 一番光の気配のする一本の木の下へ歩いて行ってみた。

 それは生い茂った木で、地面に近いところから4、5本の幹に分かれていて、葡萄の葉に少し似た葉が幾重にもなっていた。木漏れ日がまぶしかった。

 けれど、光の気配は木漏れ日からではなかった。葉っぱの陰になった奥の奥。日陰なのに、光の気配がした。気配は匂いにもなっていた。鼻で感じず、直接体で感じる匂いがあるとすればそんな感じ・・・。

 胸がどきどきした。

 嬉しい予感・・・。

 そしてその予感は的中した。

 半透明の薄い絹が幾重にもなったようなふわふわした物体が三つほど浮いていた。幾重にも重なった半透明の絹のスカートのようなその物体は風にあおられふわりふわり翻っているみたいだった。水族館でみた白くて薄いひだがある輝くクラゲにもちょっと似ている。

 何? 

 その三つの物体は木の周りを大きくふわりふわりと周り始めた。

 どれくらいそこに立っていたんだろう。魅せられて・・・。

 やっと柔らかな踊る三つの存在になれてきたとき、何かに見られてる・・・そんな気がした。

 木の幹に近づいてみた。

 いた、いた・・・

私の背の高さくらいの枝に何かがいた。一番奥の方の枝に何かがいる。

 それは体調30センチほどで、木と同じ質感だった。腕のようなものがあり足のようなものもある。頭のようなものもあるが、顔はないように見えた。でもじっと見ていると目や口も見えてくる、そんな気もする。

 生き物じゃない・・・よね。

もし生き物っていうのが、血が流れてて、食べて、排泄とかもして成長していくものだとしたら、そういうものではないんだろうって思った。生き物でなくても意志と心がある存在ってあるのかな?魂とか。そういうのって何ていうんだっけ。

 スピリット? 妖精?

 クラゲのように浮かぶ物体、木で荒く彫っただけのような物体、これが妖精だとしたら、本で見るのとは随分違う。可愛らしい子供のようでもなきゃ、人間を小さくした感じでもない。でも確かに生きてる、そう感じた。心や精神が生きているって意味で生きてるって。

私はもう一度、木の枝に腰掛けているその存在に近づいてみた。

 何色? 木目? うん、木目だ。

そのウッド坊やは少しだけ透けてるような気もした。透けて向こうが見えるかっていったら、そうじゃないけど、でもなんだか木目でありながら、少しだけ透けていて、それでいてしっかり触ることもできそうで…。

触ってみたい…。

恐る恐る近づいた。ウッド坊やも私を見てる、そんな気がした。

ウッド坊や? ウッディくんってどうかな。

最初は表情なく見えたウッディくん、今、確かに私を見ている…。

木の中に彫り込んだような小さな黒い玉、二つ。瞳かな?

ウッディは足をぶらんぶらんと二回揺らした。

そっと手を伸ばしてみた。ウッディくんは少しビクッとしてぶらんぶらんをやめ、体を反らし、チッ でも シュッ でも スッでもない声を発した。

大丈夫だよ。今度は小声で言ってみる。

ウッディは首を傾げた。

突然、首筋に気配を感じて振り向くと、さっきの不思議な踊る物体が、頬のすぐ横で舞っていた。白いといっても真っ白じゃなくって、半透明で、光の粉をいっぱい凝縮したみたいで…。ひだが幾重にもなっていて、一見てんでバラバラに開いたり閉じたり…空中を美しい花びらが舞っているようだ。しばらくしてスッと私から離れ、こんどはかなりの速さでくるりくるり。大きさは小さい頃持ってたマフラーについてたボンボンより少し大きいくらいかな。

ひらひらと幾重にも幾重にも…。風のスカート…。

風のスカート? もしかして…風? なのだろうか?

私は手を出した。あの時、ダニーが校庭で見知らぬ何かに手を出したように。

すると、踊りがゆっくり止まり、私の方にやってきた。流れるように。

そして、ふわり、と下りた。

 私の手の中に。

 美しくて柔らかくて、手に乗っているようで、乗ってなくて、触れてるようで、触れてなくて…。

手の上でゆったり数回回転し、動きを止めた。

心で念じるように目を細め集中してみると、見えてきた。うん、見えてきた。一見表情のない、静止画のような顔。大人のようで、子供のようで、ある瞬間は確かにパーツの整った顔に見え、でも少しずつ顔らしき気配をもった物体に溶けていき…。

何? 何?

君って風?

心で問うと小さな口を開いて、ヒューって私に息? 風? をかけてくる。

フュェーイ…小さな小さな音が幾つか聞こえた。

辺りを見渡した。

あ…。

あちこちに、いろんなところに風はいた。光の気配が強い辺りには必ずくるりくるり回っている。幾つも。幾つも。

ウッディのいる樹の周りにも幾つも舞っていた。ウッディは片足で枝からぶらりぶらり。その周りを風がくるりくるり。

 輪をくぐったら見えない何かが見えてきた。

光の気配を感じるところに彼らがいる。それがわかると楽しくなった。天使の輪をくぐるって、妖精が見えることなのかな。妖精伝説って創作じゃなくって、輪をくぐった人が実際経験したことだったのかな。これからもっともっといろんな存在が見えてきたら…。

体がぶるっと震えた。嬉しさと期待と、ちょっとだけ恐れのようなものもあったと思う。

輪、輪、輪…。 天使の輪…くぐったんだ、それだけは確かだった。

「ロコ!」

 振り向くとダニーだった。

「輪をくぐったね」

「ダニーも?」

「僕もさっきくぐった」

「ねえ、くぐったってどうしてわかった?」

「そりゃわかるさ」

「どうして?」

「ほら、僕、どう見える?」

「どう見えるって…」

「どこか違わない?」

 うん…? ダニーはダニーだ。可愛らしさは同じ。その巻き毛も。あざらしような目も。

 でもなんだか光をたくさんはじいてる気がする。前より。でも、輪くぐり後の世界はなんだか全部が少しだけにしても多く光を含んでる。

「なんだかくっきり見える気がする」

「後光が射して見えない?」

「それは見えない」

「あは、冗談だよ」

「やだ、こっちは真剣に考えてるんだからね」

「でも、なんとなくさ、うすーく光の粉のベールをかぶったような、光の粉の砂場とかあるなら、そこでゴロゴロ転がったような、そんな感じしない?」

 私はまじまじダニーはを見た。くぐってない他の子と比べてそうなのかはわからない。今は周りにダニーしかいないから比べようがない。

「じゃ、あたしもそう? 」

「さ、どうかな」

 ダニーはにこっとした。「言わないよ」

「ねえ、あの輪、不思議だよね。最初見たとき思ったんだ。天使の輪だって」

「僕はさ、前は輪っこって呼んでたんだけど、なんだかどこにでもある輪ゴムみたいでつまんないだろ。いいね。天使の輪か。うん、天使の輪ってのいい」

「でしょ?」

「輪ってさ、くぐると凄く不思議なんだ。くぐっても同じ世界なんだけど、それまで見えなかったものが見えてくる」

「妖精みたいなやつ?」

「うん、それと…」

「それと?」

「あ、それは自分で見つけなきゃね。僕が言ってしまったらつまんないよ」

「そうかな、教えてほしい気がするんだけどなあ」

「僕なりにこんな風に考えたんだ。普段見えない不思議な存在…それって普段は妖精ベールとでもいうのかな、そんなので保護されてて、普通の人間の目からは見えない。けど、ベールにはところどころに奥の世界につながる輪のようなものがあるんだ。ベールにあいたほころびの輪…。それが見える人間って、僕とかロコとか…あんまりたくさんはいないみたいなんだけど、輪が見れてくぐれちゃった人間にはそれまで見えなかったものが見えてくる」

 そういうことなの?…。

「でもさ、すべてが最初から見えるわけじゃないんだよ。くぐってもさ、次第に能力が高まるっていうのかな、フェルルとしての」

「フェルル?」

「うん、天使の輪をくぐれる人間だよ」

「誰が言ったの?」

「前に会ったフェルルの人さ」

「ねえ、あの木にぶらんぶらんしたり、すわったりするのがいるんだけど、あたし、ウッディってつけてみたんだけど」

「ああ、僕はモクベイくんって呼んでる」

「モクベイ?」

「モクは木で、ベイはほら、与平とか昔の名前についたりするよね」

「和風だね」

「名前はとにかくさ、彼ら、しっかり存在して僕らがどんな名前つけようとまったく構わないと思うんだ」

 そうかな。

「さあ、行こ」

「どこへ?」

「やっぱね、聞こえなかったんだろ、笛の音」

「あ、笛の音した? 高浜先生お得意の集合笛だよね。ってもう集合?」

「お弁当の時間かな」

「あ、やだな。そんなに時間、経ってたんだ。ねえ、輪くぐりした世界って時間経つの早くない?」

「ううん、同じさ」

「そうか。…じゃ、行きますか、ね」

「嬉しくなさそ…」

「だってこんなすっごいこと起きたのに、お腹空いたぁ〜なんて言ってられないよ」

「だよね。でもさ、きっともっと驚くぞ」

「驚くって何?」

「それは言わない。だってプレゼントの中身、開ける前に知っちゃったらつまんないだろ」

 うん・・・。

 何だか楽しくなって、私はダニーの腕を組んだ。ダニーは別に嫌でもなさそうだったから、そのまま、早足でみんなのところへ向かって行った。

 私はフェルルになれた嬉しさで他のことは何も考えられなくなっていたらしい。だからみんなの前にダニーとルンルン!とスキップ風に近づいたとき、その視線の多さににびっくりした。

 みんななんだか不思議な目で見てた。

 なんで?

 ミチが近づいてきた。

「あんたさぁ、いくら自分が男の子っぽいからって、だっめだよぉ〜、そんなことしちゃあ」

「え、何? 」

 私はミキにひっぱられてダニーから剥ぎ取られた。

 何? 何よぉ。

「ダニーくんと腕組んだりしちゃ、ダメだよ。妬まれるんだからさあ。ダニーくんのファンって多いんだからさあ」

 あ…そうか、ミチもその一人だ。わたしはちょっと慌てた。

「やだ、そんなんじゃないよ。保育園のころから知ってるんだ。そんなんじゃないよ」

 みんなまだこっちを見ている。じーっと真剣に見てる子が20人くらいいる。みんな女の子だ。っつうことはダニーファンクラブか。ダニー、やだな、あんたそんなに人気者?

 私をじーっと見てるのが女の子だけかと思ったら、いた、一人だけ例外が。男の子で私を見てる子。

 ケンタロウだ。ユキちゃんの隣りにいるケンタロウが、私を見てる。けっこう真剣な眼差しに見えるのは気のせい?

 私が一応女の子だってやっとわかったのかな。

 私は何だかくすぐったく思いながら、後ろから3番目に入り込んだ。

 5年生は3クラス。

 私は5年2組で、担任は例の週明けの二日酔いが玉にきずの高浜先生。

 1組は新任三年目で最近ではおっちょこミスが減ったと先生仲間からも生徒たちからも温かく見守られてる小柄でモモンガみたいな目をした山中先生。

 3組は年齢不詳、ぬぼっとしててちょっと不思議な、先生としてはベテランの域に達してるだろう北川先生。

 5年になった時の組み替えで、担任三人の名前を見たとき、北川先生ならいいなって思った。ぽっちゃりデブって口の悪い女の子たちは言ってるけど、3年のころだったかな、担任の先生が休みだったとき、代わりにやってきた北川先生、ちょっと間違えば親父ギャグってバカにされそな小話がなかなかほんわか楽しかったんだ。

 それにその目はけっこう物の本質ってのか、そんなのを見抜くような気がした。

 ある時廊下で私を呼び止め、三好ヒロコちゃんだね、僕のダジャレに一番笑ってくれたの君だよって言ってくれた。

 今、3組の前に立つ北川先生…。先生を見て驚いた。驚いたってのはちょっと違うかも。

 感銘を受けた? 感動した?

 とにかく

 とにかく

 北川先生は

 羊人間だったんだ。

 これしか言いようがない。確かに北川先生は羊人間だった。

 体は北川先生のままで、なで肩でお腹周りの方が胸周りよりもずっと広そうで…。いつもよく着ているグリーン系のポロシャツ。幅広のベルト。

 けれどその顔…。
 
 顔には大した毛は生えてないけれど、耳のところに羊のようにくるりとした見事な角がついていて、鼻から口にかけてが羊にそっくりだ。優しそうな目は大して変わってない。

 北川先生はいつにもまして優しい目をして私を見ている。先生は私がいずれ輪をくぐるだろうって知っていたのかな。知っていて私を気にかけてくれたのかな。もしそうなら、どこでわかるんだろう? 私が特別なサインを出してたってわけ?

 ダニーも私がフェルルだって最初からわかってたわけだから、きっと北川先生も知ってたんだ。そして今、輪をくぐった私が、北川先生の本当の姿を見てるってことも知っている。

 北川先生は、見られたなぁ〜ってな顔じゃなくってとっても優しい目をしていた。

 その目はどこか動物的で…。あ、動物的って言っても、野獣って意味じゃなくって、動物にしかできない無垢な目ってことなんだ打算とか、自分の都合のよさとか、そんなのがない、まあるいきれいな目。

 別にワニやヘビだって、目が丸くなくたって、無垢な目ってできるのかもしれないけど、一番思い浮かぶのは月並みすぎるところでは仔犬で、それにアザラシ。馬もそう。

 こりゃ人間にはできないや〜っていうような不思議にピュアな目をしている動物って多いと思う。

 今見る北川先生の目はとっても優しそうで、見かけはばりばり羊人間なんだけど、ちっとも怖くなかった。

 北川先生は自分の組の子供たちにあれこれ指示していた。あっちには行かないように、とか、ゴミは拾いなさいとか…。その手も指も人間のものなんだけど、どこか違って見えた。

 そうか…北川先生は羊人間だったんだ。

 やっぱり驚きってより、感動だ。

 うん、感動だ。

 私はひどく感動していた。

ミロちゃん:ロコ



肩をつつかれて振り向くとミロちゃんだった。ミロちゃんが立っていた。

あ…ミロちゃん…。

そうだったの、ミロちゃんって、私の目が言い、

そうなのよ、ロコ、っていうように、ミロちゃんがうなづく。

ミロちゃんは猫人間だった。

ミロちゃんはただの隣のクラスの泣き虫ミロちゃんだったときの何倍にも目を輝かせて、シャキッと立っていた。猫人間として。

ミロちゃんも私が輪をくぐったってわかるんだ。

それにしてもミロちゃんが…。私はかなり、驚いていた。だって何て言ったらいいんだろ。つまり…このハムスター、実はもぐらだったんです…って言うのとも違うし、この子、実は悪魔の末裔で、とか天使の化身で、とかというのとも違う。

そうだ、こんな感じかな。

教室の隅っこの方で、ううん、別に隅っこでなくてもいいんだけど、いつも丸まっちくなってて、動きものた~ってしてて、どう見てものろくさくて、先生に聞かれても反応鈍くて、そんな子って案外どこの教室にもいないかな。そんな子がある日、運動会のリレーの選手に突然選ばれる。手違いかなんかで。

陽の光の中、鈍くて冴えなかったはずのその子が突然輝く。野を走る銀色の馬のように。そして、わかる人もいる。その子が変わったんじゃない。その子の輝きにみんなが気づかなかっただけなんだって。

ミロちゃんはそんな何かを持ってたと思う。誇らしいことだけど、私はちょっとミロちゃんの素晴らしさがわかってた気がする。

ミロちゃんの小さい目はいつも開けてるのか開けてないのかわからない感じで、表情はほとんどないのに、突然にたっと笑って、みんなをぎくっとさせたりする。

ミロちゃんはちょっと不思議な子。

小さくて目立たなくって何をやるのも最後か最後から二番目くらい。女の子の中でも浮いていて…。ううん、沈んでるっていうのかな。自ら目立たないようにか、もともとそれが自然体なのか…。

ミロちゃんはそんな子。

そんなミロちゃんだから、猫人間っていうのはかなり驚きだった。

私は犬の方がどっちかっていうと猫より好きで、飼えるようになったら絶対犬を飼うんだって思ってるけど、だからって猫が嫌いなわけじゃない。ある日、公園でないてた二匹の捨て猫、飼いたくって飼いたくって、涙が出そうに飼いたくって…。でも飼えないから、飼える人いませんか?って、友達に聞きまくったんだ。

あのときなぜかミロちゃんを思い出した。仲良しでもなければ、猫を飼えそうだな、なんて、ちっとも思わなかったけど、なぜかミロちゃんを思った。

そうか、ミロちゃん、猫人間だったんだ。

耳がピーンと立ってて、目はあいかわらずそんなに大きくはないんだけど、少なくとももうちっちゃくはなくって、体の形は人間なんだけど、どことなく猫で…。

「ミロちゃん、ぜんぜん知らなかったよ」

「だよね」

「ミロちゃん、ずっとそうだんたんだ」

「まあね」

「ミロちゃん、私違って見えんのかな」

「ロコちゃん、変わってるね」

「えっ?」

「変わって見えてんって私だよね。なのに、ロコちゃんが変わってるって聞くの?」

ミロちゃんはクククくって楽しそうに笑った。

「だってさ、ミロちゃん、私がミロちゃんのことわかったって知ってるわけだよね」

「まあね」

「どうして?」

「どうしてかな」

ミロちゃんは、にったりと、にっこりと、にたぁ~を全部ごちゃまぜにしたような顔で笑った。

「ねえ、どうして?」

「どうしてかなぁ」

「いじわるしてんの」

「まあね」

でもミロちゃんは底抜けに優しくって明るい目をしていた。目の色は茶色と金色の間のような目だ。ちょっと緑がかってるのかもしれない。ママがいつかバザーで手にとって見てたキャッツアイ、そうまさにキャッツアイって宝石に似ていた。

「教えてよ、ミロちゃん!」

 まあまあ、って感じでミロちゃんは私の手をとった。とってもふんわりした感触だった。柔らかいちっちゃなミロちゃんの手。

 ミロちゃんは私の手の甲から腕にかけて、ポンポンって感じで撫でた。

 ん? 腕から出たほこり?のような小さな粒子が太陽の光に輝いて見えた。

 やだ、何ついてんだろ。

 ミロちゃんは自分でよく見てみなってふうに、私の腕や足やいろんなとこを指さした。

 …あれ……? 私の手、指、足、みんな少しだけ前より輝いて見えた。

「何これ?」

「輪くぐったよね。くぐった人間にだけつくんだ」

「ミロちゃんは?」

「あたし、こっちの人間だからね。そんなのつかなくても見え見えだよね。くぐった人間にあたしの本当の姿が見えるだけだよ。でもあたしたちにとっては、輪くぐりした人間は少しだけ輝いて見えるんだ」

「ねえ、夜もそう?」

「夜のほうがもっとはっきりしてるよ」

「ふーん」

 なんて素敵なんだろうって思った。

「ミロちゃんは輪をくぐったりしないの?」

「そんな馬鹿らしいことしないよ。誰もしようって思わないよ。危険でもあるよね。私たちの世界から輪をくぐってそっち側には出れないよ。でも、たまたま、なんかでそっちに放り出された半人間がいてね」

「半人間?」

「うん、私たちみたいな種族。人間であり、人間以外の動物の要素ももってるもの。これ半人間っていうんだけど、私たちの間でも半人間って呼び名はやめよって言う者増えてんだ。だって半人前の人間じゃなくって、人間としても完全だけど、ごくごく普通の人間にとったら不思議な他の動物的能力をもってるってことだからね、あたしたち。もっとも外見は輪くぐりした人にしか見えないけど」

 ミロちゃんはいつもの教室の隅のグダッとしているミロちゃんじゃなくって、演壇にたつ哲学者のようにも見えてきた。

 私はママがよく言っていることを思い出した。

 ハーフタレントとか、あの人ハーフだっての、言い方としておかしいと思うのよね。両方の血が入ればダブルでしょ。オバマ大統領だってね、初のブラックの大統領っていってるけど、お母さんはホワイトよ。オバマさんは黒人であり白人であり、そういった意味でハーフじゃなくてダブルなのよ。もちろん黒人の血が入った初めての大統領ってとこには意味あるんでしょうけどね。

 ママはぶつぶつ言っていた。ママは若い頃アメリカを放浪したことがあるんだ。その頃、人種とか宗教とか差別とかいろいろ考えたって言ってる。ロコが大きくなったら、じっくり話したいわねって真剣な顔になったりする。

「そうだね。半人間じゃなくってダブル人間だね」

「ロコちゃん、わかってくれるんだ」

 ミロちゃんはひどく嬉しそうに私を見た。

「で、こっちに放り出されちゃったダブル人間族はどうなるの?」

「見えちゃうんだ。普通の人間にその姿が」

「それって…」

「うん、大変だよ。なんとか人間現れるってなニュースはガセも多いけど、なんかの拍子に私たちを守ってるこっちの世界からそっちに出ちゃった場合もあるんだ」

「そうなんだ…」

「怖いよね」

「ねえ、こっちに来た人間で騒いだりするものいないの? こっちで見ちゃったことを?」

「大丈夫だよ。こっちにこれる人間はスペシャルだからね」

「どうスペシャル?」

「なんだろな。でもこっちに来れるってことは、感覚がある意味私たちに近いんだ。輪はさ、けっこう私たちに近いフィーリングの人間にだけ見えるんだ。…まあ、そう単純には言い切れないけど、ロコちゃんもそのうちだんだんわかると思うよ」

「ねえ、じゃ、私が輪くぐりする前、私がそのうち来るだろって、ミロちゃん知ってた?」

 ダニーは知っていた。なんだったっけ。そう私がフェルルだって。

「ああ、ロコちゃんがフェルルだって?」

「うん、そう、そのフェルル。それそれ。ミロちゃんもその言葉使うの?」

「まあね」

 ミロちゃんはくすくす笑った。

「あ、来た来た、輪くぐりの先輩が。聞いてみなよ、ロコちゃん」

 ダニーがトコトコやってくるのが見えた。片っぽうの足がちょっと内股で、カールを揺らしてやってくるダニーは、なんだかいつもよりずっと幼く可愛らしく見えた。人気者になるのも無理はない。

「やあ、谷崎さん」

 ダニーはミロちゃんのことを名字で読んだ。

「吉川くん」

 ミロちゃんもダニーのこと名字で呼ぶんだけど、交わす視線はとっても親しげだ。

「ロコちゃんがどうしてフェルルってわかったか知りたいんだって」

「へへ~」

 ダニーが笑った。

「ふっふ~」

 ロコちゃんも笑った。

 そこへイッチーがやってきた。「こらあ! はやくこーい!」

 そう言ってイッチーは私の腕をつかんだ。

「さあ行くよ。お弁当、お弁当、楽しいなーでしょ。それではダニー様失礼いたします」

 イッチーはふざけて深々とお辞儀をした。

「ねえ、ミロちゃん、一緒に食べない?」

 私が言うとイッチーが眉をしかめて小さく首を振った。

「だめだよー、あの子ちょっと不気味なんだからー。勝手に誘っちゃだっめだよー」

 イッチーは小声だけど力を込めて言った。

「あたしならいいんだ、大丈夫だから」

 ミロちゃんはくるっと向こうを向いて小走りに行ってしまった。私はなんだかいてもたってもいられなくなって肩を上げてふーっと息を吸い、とんとん小さく足踏みした。ミロちゃんに悪いって気持ちがどんどん強くなった。

 けれどイッチーは、さあさあって感じで私を引っ張る。

「ダニー、一緒に食べる?」

 私たちを少し首を傾げて見ていたダニーを誘うと、「ダメ!」とイッチーがはっきり言った。

「いくら可愛くてもダメ! ダニーくんは男だからね」

「あとでねー」

 そう手を振ってダニーは走り出した。

「なんでロコ、ダニー様と親しいわけ? 保育園からとか言ってたけどわっけわかんねー。それより腹ペコー」

 ぐいぐい引いていかれた先にはミキたち5人がお弁当を食べ始めていた。

「やっと来たあ!」

 ミキがもぐもぐさせながら言った。



 当たり前のことなんだけど、北川先生は遠足中ずっと羊人間で、ミロちゃんはいっつも一人でやっぱりずっと猫人間だった。ダニーはといえば、気はいいんだけど、どっか抜けてるシンジと一緒だった。

 私はミキたちと一緒なんだけど、輪くぐりした世界に魅了され過ぎていた。

 一生懸命目をこらせば見えなかったものが見えてきそうで、キョロキョロ、挙動不審に見えたに違いない。

 遠足の帰り道も周りを見過ぎて、家に着いたときにはかなりぐったりだった。

カフェ ハーヴィ

      カフェ ハーヴィ


 遠足からの帰り道、水筒に残ったお茶を飲み干しながら、帰った。

 私が住むのは3階建ての小さなマンションの2階。一人で鍵を開けて入る。いつものことだけど今日は鍵が妙に重い。

 家の中からいっぱい見知らぬ何かが飛び出してきたらどうしよう。ほら何とかの箱。パンドラだっけ。でもそれから飛び出したのは嫌なものや悪いものだったはず。

 今までに見えなかったものが見えてきた。今まで見えなかった姿が見えてきた。北川先生にミロちゃんは、今まで見えなかった姿…。

 輪くぐりをして見えるのは他になんだろ。悪霊とか、妖怪とか、そんなもの?

 一気にドアを開ける。

 バーンと開けたけど拍子抜けだった。しーんとして何の気配もない。

 妖精って見え出すとどんどん見えてくるんだと思ってた…。

 部屋は薄暗かった。横っちょに高層マンションが建ってから、うちのちびマンションは3時過ぎには暗くなる。建設反対運動もしてたみたいだけど、効果なかったみたいだ。

 いつもならすぐ明かりをつけるんだけど、それも億劫だ。

 ソファにすわって今日の出来事を思い出してみた。何だかみんな夢みたい。みんなみんな夢みたい。

 呼び鈴が鳴った。

 誰だろ? 東洋海送なんとかって会社の社宅だったこのマンション、誰でもドアの前まで来れてしまう。随分ママも心配している。ロコ怖くない?ってママに聞かれるたび、ぜーんぜんって言ってたけれど、本当はピンポーンって鳴るたび、ドキッとしている。

 でも大体わかってきた。人となりっていうのかな。ママが決して出ないようにって言うから、のぞき穴からのぞいたりしてたんだけど、最初は何だか悪いことをしてるのがこっちの方って気がしてずいぶんいやだった。こっちだけがそっと相手を見てるってのが何だか後ろめたかったんだ。

 今日はのぞくのも何だかおっくう。でも好奇心の方が勝って立ち上がった。音のしないように。中に人がいるのがわからぬように…。

 のぞいてみたら、

 ダニー!

 開けるなり手をとった。

「どうしたの。さあ入って!」

 ダニーは思わぬ歓迎に私に手を引かれるまま入った。

「ここすぐわかった?」

「黄色のマンションで隣がクリーニング屋さんとパン屋さんで大きなマンションの裏って言ってただろ」

「うん。…ねえ、帰りに寄ったの? ってわけないかリュックも持ってないしね」

「あのさ、輪くぐり済みのロコには、言っといたほうがいいことがいっぱいあるなって…。で、とりあえず言いに来た」

「うん?」

「肩の力抜けよってさ」

 は?

「輪くぐりするとさ、みんな興奮してドキドキして、未知の世界がここにもあそこにもあるんじゃないか、目をもっと見開けば見えるんじゃないかって…血まなこでさ、疲れてしまって…病気になるやつだっているんだ」

「ほんと?」

 びっくりしたみたいに言ってみたけど、私にはわかっていた。だってもうひどく疲れていたから。

「だからさ、ロコにもメンターが必要だと思ってさ」

「メンター?」

「うん、指導者っていうのかな。先生っていう感じより、もっと深く精神的なところで指導してくれるような」

「ふーん。メンターね。そりゃさ、そんな人がいたらいいけどさ。いる?」

「いい人がいるよ。僕も小さい頃から知ってる。パパの友達なんだ」

「ふーん。でもダニーでもいいよ。私より随分知ってること多いんだから。ダニーはちびメンター。ちびメンだ」

「ちびメン? やだな、なんかカップラーメンみたいだ」

 ハハハハハ。

「じゃ、そのメンターからのアドバイスであります。今日はぐちゃぐちゃ考えずに寝ること」

「はい。ちびメン、わかりました」

「それから、明日からレッスン開始」

「明日から?」

 明日は日曜だけど、私は習い事も何もしてないので暇だ。

「うん。何か予定ある?」

「特にないよ。ママと出かけるかもしれないけど、でも最近ママ忙しいから多分ないと思う」

「じゃ、決まりだ。マスターの店にいこう。マスターはね、カフェやってんだ」

「どこにあるの?」

「ここからあんまり遠くないよ。歩いて10分くらいかな」

「なんてカフェ?」

「ハーヴィ」

「そんなカフェあったかな。それよりね、どうしたら、輪の外に出るの?」

「心配しなくても弾き出されるよ」

「えっ?」

「たいていは寝てるときみたいなんだ。輪って、見えたり見えなかったり、でもいっぱい流れてるみたいなんだ。その輪が流れてきて余分なものはポンって弾きだしちゃう」

「寝てる間に?」

「寝てなくても妖精パワーとでも言うのかな、自分のパワーが弱くなると弾き出されちゃう。一旦外に出ちゃうと、輪が流れてきても入れないこともあるし」

 いろいろ複雑なんだ、私はため息をついた。



 その夜、寝るのを待つ必要もなく、私は輪から弾き出された。

 お風呂上がり、ぼんやりしているとゆったり一つの輪が流れてきて、私のそばまでくると、ポワーンと広がり、私の頭から足へするり、と落ちた。

 皮膚に少しだけ圧力を感じたような気もする。感じたと思ったら、周りが少しだけ光を失った、そんな気がした。



  日曜日、ハナミズキ公園で待ち合わせした。

「輪をさがそう」会うなりダニーが言った。

 さがそうって言ったって、そんなに簡単に見つかるものなのかな。

 あ、ダニーは小さな声を出すと、少し離れた木のそばまで行き、何かを引っ掛けるように指を動かした。そして両手、頭、肩…を少しくねくねさせ、足も通し…。どうやら輪をくぐり抜けたようだ。

「ロコ、来て!」

 私は駆け出していった。

 あ…

 すくっと立ったダニーの足元に…一瞬だけどダニーが通り抜けただろう輪が、ほんの薄っすらと見えた。

 私はすばやく、その地面から30センチばかりのところで細かく揺れている輪に手をのばした。

 と、すっと輪は私の手に貼りつくように馴染んだ。

 私は輪に両手の親指を入れ、地面にゆっくり下ろし、足を入れた。するとふわっと輪は体を包み、頭の上でシュッと小さくなって見えなくなった。

 周りが少しだけ前より明るくなったような気がした。

 それはとても静かな明るさだった。朝陽に照らされた湖面みたいだなって思った。いつかママと行った山陰の湖面みたいだった。

 私はダニーと顔を見合わせた。やった!って感じで拳を小さく握ると、ダニーは笑った。冒険はどんな冒険でも、木登りひとつでも一人より二人の方が楽しい。それに心強い。

 なんだか既に大きなことを成し遂げたみたいで、私は地面を蹴って歩き始めた。

 風クラゲが三つひらりんひらりん優雅に舞っていた。今日の風は穏やかだ。

 木の枝に大きなナナフシみたいにぎこちなくつかまっているのはウッディに似ていたけど、昨日見たのより、手足がずっと長かった。

 足元を何かがパタパタと走った。小さな裸ん坊? 何だろ、これ?

 赤ん坊より小さいけれど、手足のバランスは人間の大人みたいだ。30センチくらいかな。これくらいのキューピー人形見たことある。キューピーは笑ってるけど、今パタパタと走っているのは笑ってない。かなりのしかめっ面だ。全然子供っぽくない不思議な顔をしている。顔は丸くて、髪らしきものはほとんどなくって、何も着ていなくって、男か女かもまるでわからない。

 何なんだ、これ?

「あ、ぼくはチータンって呼んでる」

「チータン?」

「うん」

「チータンって何? 何かの妖精?」

「わかんないんだ。見るとたいてい駆けってるか、隠れてるか、睨んでる」

「なんでチータンなの?」

「なんだかチータンって感じだろ」

「そうかな。なんだかなぁ…」

「どうしたの?」

「妖精ってもっとわかりやすいものだって思ってた。花の妖精とか…。ほら、絵でよくあるじゃない。蝶みたいな羽つけてたり、てんとう虫みたいな帽子かぶってたり、可憐な女の子やいたずら天使って感じの可愛い妖精」

「残念だけどそんなの見たことないよ」

「チータンと風クラゲとモクベイさんだっけ、その他にも見たことある? 妖精みたいなやつ」

「そりゃあるさ。でも名札つけてるわけじゃないからね。あれ何だろ、って思ってるうちにいなくなったりする。百以上見たって人もいれば、風クラゲだけの人もいるんだ」

「そんなもの?」

「うん。フェルルの中でも個人差ってけっこうあるしね。でもさ、ロコ、見えるの妖精だけじゃないだろ」

「そうだよね。ミロちゃんのほんとの姿も見れたしね。あ、ほんとの姿って言うのおかしいかな。どっちがほんとの姿かわかんないものね。違った姿っていうべきかな。それに北川先生も」

 私は何だかちょっと不安になってきた。

 他に何が見えてくるんだろ?

 見えるものが全て素敵だとは限らないはず。



 カフェ ハーヴィの扉の前には風知草の鉢が一つあった。フウチソウっていうのよって、ママが冬になる前、1つ買ってきた小さな鉢。根元から3センチほどに切られてて、正直、茎が密集した枯れ草にしか見えなかった。見ててごらんなさい。春になったら驚くわ。ママは言ったけど、私は、ほんとかなって感じだった。でも春になってぐんぐん葉っぱが伸びてきた。緑色の細長い葉の勢いは確かに驚くほどで、風が吹くと時にはさらさら、時にはふわふわ、時にはザザザザ、と揺れた。「フウチソウ」は、「風知草」になった。

 店の前のはママのとは比べものにならないくらいそりゃ大きく茂ってる風知草の鉢だった。葉は長く密に茂っていて、鍵とかはもちろんシャベルとかも隠せてしまえそうだ。

 その横にかなり大きな睡蓮鉢。花はないけれど睡蓮の葉が重なり、水面が見えないくらいだった。

「めだかとかいるのかな?」

 私は覗き込んだ。何だか不思議な魚がいたりしてね…。不思議な?そう思ったら、輪くぐりをしたことを意識してしまった。

 そうか、この店にマスターがいるんだ。どんな人だろ?楽しみなのか、不安なのかわからなくなってきた。

「どうしたの?なんか固まってない?」

 うん…。

 私はきっと大の冒険好きとか、怖いもの知らずっていうんじゃないと思う。小心者?っていうのかも。

 その時どこから現れたかのか、うっすらとした輪が私の周りをゆらゆらし始めた。

 輪くぐりあとに輪が見えてるってことは、これをくぐると、戻っちゃうんだ。

 あ…って思ったけど、輪が一瞬にして広がり、頭から足元にするりと落ちてツッと水平移動して行ってしまった。

 あ…あ…あ……

 私は輪から弾き出されてしまった… 。



「輪くぐりできてなくたっていいからさ」

 ダニーがなだめるように言った。「とにかく入ろうよ」

「やだ」

 なんだかすねた気分だった。存在を拒絶されるってこんな感じかな。なんで輪から弾かれちゃったんだろ。ちょっと不安になったり怖がったりしたのがいけなかったのかな?

 睡蓮の鉢の中に小さい魚が見えた。メダカだった。

「さあ、ロコ」

 うずくまるようにしてメダカを見てる私の袖をダニーが引っ張った。



 『ハーヴィ』の木の看板は、本当に古いのか古っぽい感じにしてるのか、文字が黒く焼きつけたようだった。扉を開けると鈍い金属音が響いた。カランカランでも、ガランガランでもない音。足を踏み入れるなり、空気が変わった。

 確かに空気感が変わった。

 ある場所に入って空気感が変わる、そんな経験、誰にもあるんじゃないかな。たいていは自分の心の状態が場所によって変わっただけなんだろうけど。

 たとえば、体育館での夏休みの研究発表。ステージの上からずらっと並んだ生徒見て、いつもと空気が違うって感じてしまう。空気が密で押し寄せてきて…。あのとき細かく揺れてどうしようもなく落ち着かなくなってしまうのは空気のせい? それとも心? 多分、自分の心の空気感。心の密度。脳内の何かの密度。

 これまでは空気感が違ったと感じた原因は自分にあったんだと思う。でも確かにこの場所は空気感が違っていた。純粋に。

 カウンターの向こうで、グラスを布巾で拭いてた男と目が合った。見事な白髪だ。小柄な人だった。カウンターが高すぎて、ちょっと不釣り合いに見えるくらいだ。

 その顔は年齢不詳だった。つやがあって若々しくも見える。銀髪を今風の髪型に変えたらぐっと若く見えるに違いない。

 そして不思議なことなんだけど、なんだかその人の周りの空気はひんやりしていた。

 いい意味でのひんやり感だ。暑苦しい人、っていうの真逆のひんやり感。冷たい、とか冷淡とか人間味が感じられない、とかいうのとは全然違ったひんやり感。

 そのひんやり感は「きっぷがいい」って感じにちょっと似てるのかもしれなかった。正直、きっぷがいいって意味、よく知らないんだけど。

 その人は私に焦点をあてた。あまりにシュッと焦点が合わされたもんだから、一瞬、呼吸が止まった。

 でもきっと客観的に見たら、普通の目、普通の視線なんだと思う。ごくごく普通の。目も大き過ぎも小さ過ぎもせず、離れ過ぎもくっつき過ぎもせず。

 ただ、強い視線ってのがあるとしたら、正にこんな視線なんだと思う。

「よお、ダニー」

 男の顔がくしゃっとなった。



 テーブルは4つ、客は7人だった。

 ダニーと入った時、テーブルに二人ずつかけている六人が皆なんとなくこちらを見た。静かな風のような視線だった。まるで風に吹かれて少し揺らいでいた葉がふっと動きを止めるように、皆なんとなくこちらを見て、その後はまた自然に揺らぎ始めた。

 ワイシャツを着たノーネクタイの二人は何やらブラウン封筒から書類を出して片方が説明している。長年連れ添った夫婦風の二人は、ゆったりとカップを動かして、多分コーヒーを飲んでいる。

 それにポニーテールの二人。大学生かな? 片方が女で片方が男。男の方が少しくせ毛でポニーテールが少し長い。

 カウンターには一人。腰かけてた高校生風が、くるりとカウンターチェアを回転させてこっちを向いた。

 随分整った顔だなって思った。ハンサムとかイケメンとかかっこいい、じゃなくって整った顔だなって。アイドルだったらあまり整いすぎててかえって人気が出ないタイプ。いるよね、そんなタイプ、どんなグループにも一人くらいは。

「ダニィィィー!」 そのおにいさん、カウンターチェアから、とび下りてやってきた。声が高くハイテンションだ。手足が長く背が高い。長〜い手を振り回すように広げて歓迎してくれている。笑うと大きな前歯が見え、整った顔はぐっと人間味を増した。みごとなすきっ歯のところが愛嬌がある。

「よお、ダニーの彼女かぁ?」

「友達だよ」

 ダニーはくすくす笑った。わたしもつられて笑った。

「ヨウちゃん背高くなったね、マスター」

 カウンターの銀髪の男は、ダニーの言葉に大きな口をさらに大きくした。

 やっぱりこれがマスターなんだ、私はなぜか安心した。ゴールの旗を見つけたような気分だった

「ダニー、見ろよ。ピアス開けたんだ」

 ヨウちゃんが言った。

「あ、ほんとだ」

 長めの髪を耳にかけると、黒い石のピアスが見えた。

「なに、それ。ブラックダイヤモンド?」

「コクタンさ」

「コクタン?」

「そう、コォクゥターン!」

「コクタンって炭? 」

「だろうな。コクタンピアスって店員ちゃんが言ってたからさ。コックゥターン!」

「ヨウイチ、それはさ、木の種類の黒檀だよ。英語でエボニー」

 マスターが言うと、会話が聞こえていたのだろう。一番近くのテーブルの夫婦が笑った。

「あ、そうだ、そうだ、そんな歌あったな。エーボニー〜アイボニー〜とかさ」

 ヨウちゃんはけっこう音程がよい。

「それを言うならばアイボリーだろ。アイボニーじゃなくってアイボリー」

 マスターが笑った。

「わかってるって、パパ。愛嬌愛嬌。ポールマッカートニーとマイケルジャクソンだよね。ちゃんと知ってるって」

 え?

 きっと私が戸惑ってるのがわかったんだ。マスターの目が、言ってごらん、って言ってる。

「スティーヴィーワンダーじゃなかったかな?」

 ちょっと遠慮がちに言ってみた。ママが教えてくれたんだ。随分長い間黒人系の大統領が選ばれるなんて考えられない時代でね、オバマさんがなった時、ママすごく感動したわ。ホワイトハウスでエボニー&アイボリーって歌が歌われてね、これは黒人のスティーヴィーワンダーさんと白人のポールマッカートニーさんが作って一緒に歌った曲なのよ。もう三十年以上も前の曲だと思うけど。

 その時ママはポールマッカートニーがビートルズのメンバーだったことや、スティーヴィーワンダーは今はすごく背も高い大きな人だけど、子供の頃はリトルスティーヴィーって呼ばれて凄い天才少年だったこととか教えてくれた。そんな話をするママはなんだかとても楽しそうだった。

「物知りだなー、ダニーの友達は。なんて名?」

「ヒロコです。みんなロコって呼びます」

 そのあと、絶対マイケルジャクソンだと思ったんだけどなーってヨウイチさんはブツブツ言っていた。それはきっとブラックオアホワイトって歌と勘違いしてるんじゃないかなって思った。いつかユーチューブでみたマイケルジャクソンのブラックオアホワイト。ダンスも歌も映像もすごい迫力だった。

「食べる?」

 マスターがサンドイッチとアイスコーヒーをカウンターに置いた。

「カフェイン抜きだから安心していいよ。ロコちゃん、こいつ、カフェインとるとめちゃめちゃハイパーになるって知ってた? こいつの父さんが間違ってコーヒーゼリー食べさせた時なんかもう大変で。数覚え始めたころだったからさ、ひとちゅ、ふたちゅ、みっちゅ、ここのちゅ、って1、2、3からいきなり9にとぶんだけど、もう一晩中跳ねまわって、ひとちゅ!ふたちゅ!みっちゅ!ここのちゅ!ってさ」

 はははは、私は笑った。笑いながら緊張がとけていくのを感じていた。

「コウちゃん、元気?」ダニーはなんとか話題を変えようとしてるみたりで、少し声を甲高区して聞いた。

「おお、コウイチも元気にしてる。ぐっと背も伸びた。前から4番目くらいになった」

「へーえ。じゃ僕くらい?」

「ダニーよりはまだ低いかな。ダニーは新しいクラスではどれくらいなんだ?」

「真ん中よりはだいぶ低いよ」

「コウイチももうそろそろ来るはずなんだけどな」

「じゃ会えるね」 ダニーは嬉しそうだった。

 私は、もう一度なんとか輪をくぐりたくってしょうがなかった。くぐってこの場所や人たち見てみたい。もっともっとカラフルに違いない。マスターの他にもダブル人間っているのかな。マスターはきっとダブル人間だよね。

 でも一体どんなダブル人間なんだ?




「おう来たか」

 その子はカウンターの裏の調理場につながる裏口から入ってたらしい。気がつくとすくっとマスターの横に立っていた。

「コウちゃん!」

 ダニーが走り寄った。コウちゃんは静かに笑った。ヨウイチさんがオーバーリアクション、ハイパーだったのと対照的だ。丸いふんわりした顔でほとんど無表情に見えた。ちょっとウーパールーパーに似てると思った。

「ダニー」コウちゃんはつぶやくようにカウンターから出てきて、ダニーの手を引くと空いているテーブルに連れて行き、二人同時にちょこんとすわった。ほんとにちょこん、という感じだった。

 私も行こうかと思ったけど、なんだか二人の世界を邪魔しちゃいけないなって気がしたから、カウンターにもたれて見ていた。

「ダニーはコウイチのいい友達でね」

 マスターは言った。

「コウイチはほとんど話さない。話せないわけじゃないんだけど話さない」

 エボニー、アイボ二ー、ってあいかわらず歌いながらエアギターしてるヨウイチさんと随分違うねって思った。

「ロコちゃんはデッサンって好き?」

 デッサン?

「柔らかめの鉛筆で物の輪郭描くだろ? 強く描くと濃くなって、薄く描くと薄くなる」

 はい…?

「そんな風に…」マスターはいつ手にしていたのか輪ゴムを一本持ち、それは普通の輪ゴムより幅のある平べったいやつで、「しっかり見える時と」と平たく太い面を見せ、「薄く見える時と」と細い方を私に見せるようにして「あるんだよ」

「それにね」マスターは続けた。「画用紙や描くものの種類によってしっかり描けるものと描けないものがある」

 うん…?

「このカフェはね、画用紙で言ったら、しっかり描ける画用紙なんだよ。しっかり輪ゴムがね。輪がね」

 あ…。

 マスターは輪のこと言ってるんだ。私が輪くぐりできてないってことも、フェルルだってことも知っている。

 私は目を見開いてマスターを見た。マスターの目は一見濃い普通の目。でもとても深い目だった。奥行きを感じる目。その目の奥にいろんな世界が広がってる目。

「ダニーは転校する時ちょっと緊張してたからね。今はロコちゃんがダニーの面倒見てくれてるんだよね。ありがと。ロコちゃんはいい子だね」

 マスターの両頬に深いえくぼができた。

 不思議なんだけど、子供扱いされたって気はしなかった。マスターの「いい子だ」はいい人間だね、って感じで、なんだか私の存在をしっかり認めてもらえたって感じだった。

「背は私の方が高いけど、ダニーの方が大人だと思います。経験も私よりはいっぱいあるし…」

「経験ってどんな経験?」

 マスターはからかうって感じじゃなくて、真摯な目をして聞いた。

 真摯って最近のお気に入りの言葉だ。教科書に載ってたけど、覚えなきゃいけない漢字じゃなくって、ルビがふってあり、読めればいいって漢字らしい。

 でも、「真摯」の意味を知って、なんだかすごくすごくいい言葉だって思った。「誠実」とか「優しさ」とかと同じように世の中にもっとあふれればいい言葉だって。

 で…マスターの真摯な目に向かって言った。

「あの、輪くぐりとか…の」

 ああ、マスターはうなづいた。

「知ってるよね、ロコちゃんには能力はあるんだよ」

「能力?」

「そう。たとえば、今まで走り幅跳びあんまりやってきたことない子が、いきなり跳んで…で、やっぱり大した記録は出ないとするよ。でも何回かに一度かはすごくいい距離が出る。能力はあるんだよ、その子。ただコツがつかめてないんだな。でもね彼女は、100回跳んで98回いい記録出す選手より、潜在能力的には上なんだよ」

 一瞬、びゅっと広がった輪に運動服を着て、それも学校指定のじゃなくって国際大会で選手が着るようなウェアを着て踏み切って体全体で跳びこもうとしてる自分が見えた。

「マスター、実はね、ここに来る前、せっかく輪くぐりできたのに、店の前ではじき出されちゃったんです。…どうしてかなあ…」

「ま、そんなこともあるさ」

 マスターは微笑んだ。

「あまり深く理由を考えず、そんなこともあるさって考えたほうがいいこと、結構あるもんだよ」

 私はひどくがっかりした顔をしてたんだと思う。マスターはしばらく両手の指先を合わせてクイクイしながら考えていたが、ま、しょうがないか、って顔で頭を二、三度横に振った。そして奥のキッチンに入ると金魚鉢を持ってきた。

 わ…ぁ…。こんな大きな金魚鉢見たことない。

 形は普通のガラスの金魚鉢。でも、幅も高さも普通に売られているのの2倍はあった。ってことは体積的には2×2×2で8倍だ。いつだったかママとお祭りですくった金魚を入れるため、金魚鉢を買ったんだ。ママが「どのくらい水入るのかしらね」って計量カップで入れたら3リットルだった。ってことはこのどでかい金魚鉢 3×8なら24リットル。1リットルは1kgだから24kgだ。

 それをマスターは、小柄なマスターは、指先や手を微動だにさせないしっかり度合いで持ってきた。重いから一刻も早くカウンターに置きたいって風でもなく、ゆっくりと軽やかにカウンターに置いた。ドン!とか ガシュッ!って感じじゃなくって、軽やかに ひゅわん って感じで置いた。分厚さの割に妙に軽い紙質の本や、空になったクッキー缶、くらいの感じで、ひゅわんって。

 金魚鉢の中には、確かカバンボとかマツモって言うんだと思うけど、5、6本の水草と金魚が一匹入っていた。

 金魚鉢が大きい割に、金魚は極々普通の大きさで、リュウキンだ。赤とオレンジの中間の色。

 私はじっと金魚を見つめた。

 特に変わったリュウキンにも見えなかった。色もお世辞にも鮮やかって言えないし、尾びれも見事とはほど遠く、一部がくっついたような尾びれをパシュパシュさせて泳いでいる。しばらく見てると、動きがピョコピョコ見えてきた。別に調子悪そうとか、空気不足、とかじゃなくって、単に癖みたいな感じでピョコピョコしてる。

 と……目が合った。

 金魚と目が合った。なんだか不思議な気持ちだった。だって金魚と目が合ったんだから。

 犬とは目が合う。マンションの別所さんのところのトイプードルとはいつもしっかり目が合う。

 猫とも目が合う。時々マンションの螺旋階段の一番下にすわって足の裏を舐めてるミケ猫ちゃんとも目が合う。そのミケちゃんは目が合うとニャーとミャーの中間の声を出す。私もミャーォとか言ってみると、ミケちゃんもしっかり目を合わせたまま、またちょっと諦め感に満ちたニャーとかミャーを返してくれる。

 けれど正直、れい子ちゃんが飼ってる黄色いポワポワしたハムスターのヨヘイちゃんや、理科の島崎先生が一度持ってきて見せてくれたシマリスのシーマちゃんとは目が合ったって感じがしなかった。目は丸くてくりっとしてて可愛いんだけど、ヨヘイちゃんにもシーマちゃんにも餌をやったりするんだけど、目が合ってるって感じられなかった。

 目が合うって一瞬にしても心も合う、ってことなのかもしれないな。相手の気持ちがわかる、とか、わかろうとする瞬間がある、とかそんなことなのかな。

 で、凄く不思議なんだけど、そのリュウキンくんと目が合ったんだ、確かに。

 目が合った…。私はつぶやいた。

 目が合った…。私のつぶやきが聞こえたのか、大学生風の二人がカウンターにやってきた。ポニーテールの二人組。すわってた時はわからなかったけれど、立つとおにいさんは見事なほど背が高かった。細いし優しそうだから威圧感とか全くないけれど、190cmくらいあるのかも。おねえさんの方は私と変わらないくらい小柄だ。

 おにいさんのポニーテールはおねえさんよりちょっと長く癖っ毛だ。二人ともとても静かにカウンターのとこまでやってきて、マスターと目を合わせてにこっと笑った。

「目が合ったんだって」おにいさんが言った。話す声に丸い小石がいくつも入って転がってる感じだ。小石が心地よいリズムで転がりながら、音を作っている。

「目が合ったの?」おねえさんも私を見た。丸い小さな顔のおねえさん。額を出してポニーテールに引っ張ってる。全ての髪をかなりの勢いでひっぱった潔いポニーテールだ。

 目が合ったのね、そう言うおねえさんの声は小さくささやくようだけど、くっきりしっかりしていて、その目の奥が深いこと…。奥行きがある不思議な目はマスターと同じだ。おにいさんの目も見ようとしたけれど、マスターの方を向いていて柔らかな、それでいてシャープな線を描く横顔しか見えなかった。


「ポポはこのレイヤーでは意思が通じるんだよ」

 おにいさんが小声で言った。

 私を見るおにいさんの目もおねえさんみたいに何種類もの光が混ざったような不思議な目だった。

「レイヤーってのは層ってことでね。ほら、何層にも重なってる、とかの」

「はい、髪でも使いますよね、レイヤーを入れて下さいって。昔の髪型はやたらにレイヤーを入れたものよ、ってママが言ってました」

「そうそう、そのレイヤー」 マスターが言った。

「どっちが上下ってわけじゃないし、左右ってわけでもないよ。ただ、ある層にコモン族、つまり輪をくぐれない人間たちの非トランスの世界層があって、そこにロコちゃんやダニーみたいに隣の層にトランス…つまり渡ることのできる能力のあるフェルルたちがいるんだ。輪はフェルルたちが感じて見れるトンネルみたいなものなんだ。いや、トンネルっていうような大げさなもんじゃないな、もっと薄い膜かベール…いや、それもちょっと違うか…。とにかくレイヤーが違うと同じ世界だけど見え方感じ方が全く違うんだ」

 3Dメガネみたいなもの? 同じ世界であっても違って見える。

 うんうん。マスターが微笑んだ。金魚鉢のリュウキンのポポを見ると、やっぱりしっかり目が合った。そしてそのパクパクしている口がちょっと笑っているように見えたんだ。

「ここはね、レイヤー族フレンドリーっていうのかな。レイヤー族のたまり場みたいになってるカフェなんだ。だれでも、マイノリティからメジャーになる空間でちょって息抜き出来るときあるよね。そんな感じかな。レイヤー族ってのはね…そうだな、百聞は一見に如かず、かな。とりあえずロコちゃんも輪くぐりした方がいいな。ほんとはね、無理に輪くぐりするのは奨励されてないんだ。自然な状態でできない時は無理しちゃだめなんだ。けれど、何事にも起こりやすいところって案外あったりするんだよ」

起こりやすいところ?

「そう。幽霊屋敷で霊を感じれるところとか、あとミステリーサークルが多いところ、不思議な現象がよく見られるところ、UFOが現れやすいところ…ま、真偽のほどはわからないし、大抵は科学的に説明がつくんだけど、そういう場所ってあるだろ。輪に関して言うと、水があるところ、それもポポのようなレイヤー内変化のある生き物のそばで見つけやすいんだ。なぜだかはっきりわかってないけどね」

 そのときエアギターしていたヨウイチさんがやってきた。

「パパ、この金魚、随分大きくなったよね。最初メダカくらいだったよね」

「いやあ、メダカほどは小さくなかったよ」

「よく死なずにいるよな。たいして餌もやってないのにさ」

「ちゃんと大切にしてるよ」 マスターは静かな目をして言った。

 ヨウイチさんがどこかカクカクした動きでダニーとコウちゃんのところに行くとマスターが微笑みながら言った。

「ヨウイチはフェルルじゃないんだ」

 そうなんですね…。

「ロコちゃん、ポポの周りに意識を集中させてごらん。ポポの動きを見ててごらん」

 私は金魚鉢に近づき、じっとポポを見た。ピョコピョコ動くポポのひれ。やっぱりしっかり目が合った。

 と、ポポが動きを止めた。ひれもえらも微動だにしなくなって私を見ている。「知」のある視線だった。心、をもった生き物特有の、そんな視線。ポニーテールのおにいさん、おねえさん、そしてマスターの目にも通じる深い目。私はポポの目に魅了された。

 ポポがちょっと微笑むと急にひらりと一回転とした。と…空中から泡のようなものがいくつかできて、水面に小さく弾けた。

 あ……。

 水面の上、数センチの所に、小さな1センチくらいの直径の輪が浮かんできた。

 輪だ。輪ができた。

 輪はすーっと上がり、私の方へよってくる。

「いつもは念じれば現れる、なんてことないから今度だけは特別だよ。それからもう一つ教えておこうね。この店は他の場所より輪が出来やすい。レイヤー族が多いところにはちょっとバランスが崩れるのか、輪が現れやすいんだよ」

 私の前に来て細かく揺れている直径10センチばかりになった輪…。

 私は両手を合わせ、祈るように輪に手を通した。




 体が輪を抜けると、なんだか体の芯がシュッとした。背筋が伸びるっていうのかな、背筋もシュッとしたんだ。

 カフェ ハーヴィの空気は確かに変わっていた。空気とか空気感とかに硬い柔らかいってあるなら、確かに柔らかくなっていた。呼吸がしやすいっていうか、肺いっぱい空気が吸えるっていうか …。

 そしてカフェにいた人たちの変化に目を見張った。

 どう変化したかっていうと…多彩になったっていうのかな。

 随分昔のことなんだけど、ママが外国行った時の写真を見せてくれて、世界はもっと多彩なのよ、って言ったことがある。多彩って言葉が、保育園で出たターサイって野菜と関係ないってことはわかった。カラフルなのよって言い直したママに、カラフル?って聞くと、色んな色があるってことなのよって答えてくれた。

 今ではカラフル、多彩ってことが単に色だけの問題じゃなくって、存在や生き方や、いろんなことが多彩であり得るんだなってわかってるけど、人間がここまで多彩になれるって、このカフェの人たちを見るまで想像もしなかった。

 つまり…ヨウイチさんとコウちゃんとダニーを除いて、皆、輪くぐり前より多彩になっていたんだ。



 カウンター内のマスター。マスターは顔はかなり変わっていたけれど、雰囲気は輪くぐり前と同じだった。何に似てるかって言われたら狼人間ふうだけど、顔がそのまま狼ってわけじゃない。

 随分前にママとテレビで見た狼男って映画で、特撮っていうのかな、どんどん顔が狼に変化していくのがあったけど、その段階を10に分けるとしたら、マスターの顔は5段階目くらいでまだ十分に人間の顔で、笑顔もとっても素敵だ。さっきまでのきっぷがいい感じも一緒で、マスターの周りがさっぱり気持ちよくひんやりしている感じも一緒。緑のエプロンが似合ってるのも輪くぐり前と一緒。

 マスターは私に微笑んだ。口は裂けるように大きいけれど、その表情は微笑みというのがふさわしい。

 何だか不思議だなって思った。

 みんな変わっているけれど、輪くぐり前の雰囲気そのままで…。当たり前かな、同じ人たちなんだから。

 ポニーテールのおにいさんは強いていうならトカゲ人間だ。それともワニ? イグアナ?皮膚の感じや、目。それにトカゲ風のしっぽもついている。うーん、一番似てるのはなんとかっていう爬虫類…。なんて名だったかな。器用そうな長い指もどこかトカゲっぽい。背の高さは同じだ。くせ毛のポニーテールはないけれど、頭のてっぺんから首にかけてゴワゴワとした癖のある長いヒレににた質感のものがついている。

 ポニーテールのおねえさんはミロちゃんに似ていた。猫人間? 顔は小さくて耳はピンとたっていて、長いポニーテールはそのままだ。ふさふさとしている。ただ色は銀色に近い白だった。小さな手は人とさほど違わないように見えた。ただ身のこなしが一段とやわらかくなっている。しなやかだ。

 どう? 私たち、ちょっと驚きでしょ。ネコおねえさんは柔らかい声で話しかけ、ふふふって笑った。とても素敵なふふふだった。

 ダニーと私が入ったとき、トカゲおにいさんや猫おねえさんと同じように、ゆったり静かな風に吹かれるように何気なく、それでいて優しげに見てくれたあと二組の人たち。ワイシャツをきた仕事仲間のような二人のうち一人は鳥系に見えた。顔はダチョウに似てるのかな。首が細くて長くて、でも手があるから翼はないのかな。よく翼の生えた人間ってアニメとか絵に出てくるけど、あれって不思議だよね。だって翼も腕も前足の変化したものだから、どっちもあるっておかしいんだよね。そういった意味ではケンタロウスも同じだね。前足もあって手もあるんだから。

 ワイシャツのもう一人の若い男の人は熊と猪の中間の顔に見えた。目はちっちゃいんだけど、笑ってるような優しい目だ。ブラウン封筒から書類を出して説明していたのはこっちの人で、相変わらず、真剣な様子で何やら説明し、ダチョウ風の人がうなづいている。

 長年連れ添った夫婦風でゆったりとコーヒーを飲んでいた二人は、やっぱり雰囲気はそのままゆったりしていた。男の人は水をゆっくり飲んでいたけれど、その顔は北川先生に少し似ていて羊風だ。でも北川先生より肩がいかつい。似てるもの同士知り合いって可能性が高いなら、北川先生のこと知ってるのかな。北川先生、結婚して子供いたはず。奥さんも羊人間なのかな。北川先生に兄弟がいたとしたらやっぱり羊人間なのかな。子供はどうなんだろ。

 とにかくその北川先生に似た男の人は、角度によっては羊より山羊に似ても見えた。長い白い髭のせいかな。目の周りに深い皺がいくつも寄っていて角はくるんと二本ある。

 女の人の方は何に似ているんだろう。色んな動物に似ている気もする。顔中茶色の毛で覆われれて、口もとが優しい。上品につぼめるように話してる。強いていうならプレーリードッグかな。

「どう思う?」

 トカゲおにいさんは声はそのままで小石が転がるような不思議に優しい声で聞いた。トカゲおにいさんと猫おねえさんはどちらも私を見つめ、その不思議な光を放っていた瞳は一段と輝きに満ちている。

「なんだか素敵だなって。こういうの多彩っていうのかなって。ママが世界はもっと多彩なのよって言ってましたけど、『世界』を『輪くぐりすると』に変えると、ほんとに多彩なんだなって。あ、すごくいい意味でなんですけど」

 「見てごらん」 マスターに言われて見てみると、金魚鉢全体が輝いて見えた。晴れた日、家に差し込んだ日の光にガラスの置物とかが反射して眩しいほど光っていることがあるけど、金魚鉢は眩しいほどではなかったけど、繊細かつ神秘的に光っていた。

 さっきまでとは違って今見るポポは何らかの魚には違いなかったけど、今まで見たこともない魚だった。少なくとももう全くリュウキンには見えなかった。紫のビロードのようなヒレが体の真ん中辺りからたっぷりと広がっている。同じなのは目だった。目の表情は同じだった。目が合ったポポの口元が今度ははっきりと微笑んでいるのがわかった。

 その口がゆっくり動き、お役に立てて嬉しいわ、って言った。声は聞こえなかったけど、私の頭にその言葉が広がった。

 ありがとう、ポポ。

 ポポは水中から頭を出し、軽く頭でうなづいた。

「マスター。ポポさんの声が聞こえたんです」

「どんな声だった。男? 女?」

「え? 女。ちょっとママの声に似てました。私の考えてることもわかるみたい。これってテレパシー?」

「まあ、その一種かな。でも聞こえる声とか言い方とか、たまには内容まで聞いてる人間の影響を受ける。フェルル度が低ければ低いほど、正確さも欠くんだ」

 そうなのか…。じゃ、ママの声に似て聞こえるのは私だけで、ほかの人にはポポの声は違って聞こえるのかな。

「コミュニュケーションってね、どうしても自分の思いが相手の答えに重なって色合いを変えていくんだよ。わかるかな」

 うん…。私はうなづいた。

 ポポさんって人間と同じくらい頭もいいんですよね。ポポに心で問うと、ヒレを大振りに動かした。

 わたしは思わず笑った。

 トカゲおにいさんとネコおねえさんも顔を見合わせて笑ってる。

 でも、こんな小さい金魚鉢にいて狭っ苦しくありませんか?

 すると、やっぱりテレパシーもどきでわたしの心を読めたんだろう、トカゲおにいさんが教えれくれた。

「心配ないよ。今だけマスターに呼ばれてロコちゃんのために助っ人にきたんだよ。ほらここの裏側に川が通ってるだろ。カウンターの裏の床を開けると川につながる通路があってね、たまにやってくるんだ。今日は輪くぐりしたいロコちゃんのためにポポちゃんに来てもらったんだ」

 ポポはどんなものよってかんじで垂直になりくるりと回ってみせた。フィギュアスケーターのスカートがふんわりするみたいで、素敵だった。

「最初は驚きの連続よね」

 ネコおねえさんが言った。ゆったりした動作の中で目だけがよく動く。やっぱりミロちゃんに似てる。ミロちゃんもここにいたらいいのに…。

「私の友達におねえさんによく似た人がいるんです。ミロちゃんって」

「ミロちゃんねえ。話したことはないと思うわ。出会ったりはしてるかも。でもどこが似てる?」

「あの…ちょっと猫みたいな雰囲気があるところとか…」

「ねえ、あたしやそのミロちゃんのこと、ゲゲゲの鬼太郎の中の猫娘みたいなもんだと思ってない?」

「あ、いいえ。猫娘ってあたし、あまり知りませんし。ママは好きなんですけど、ゲゲゲの鬼太郎の再放送見たりして。猫娘って妖怪なんでよね。ミロちゃんは人間だし…あ、でもあたしよりはずっと能力あると思いますけど。とにかく、ミロちゃん、動物の中では猫に似てますけど…」

私はしどろもどろになった。

「大丈夫よ。そんな真剣に答えなくても。猫に似てるの重々承知よ。あたしたちみたいなの、レイヤー族っていってね、ロコちゃんが入ってきたこのレイヤーだと本来の姿になれるの。でも人間なのよ、立派な。だけど、普通の人間にないパワーを持ってるものも多いわね」

私はうなづいた。

「コモン族は、あ、コモン族って一般人ってことなんだけど、コモン族は普通私たちのレイヤーが見えない。私たちは輪から出ない限り、つまりこのレイヤーにいる限り、私たちの真の姿でいられるし、そう見てもらえるの。レイヤー族はロコちゃんたちからしたら、あたしみたいに猫っぽかったり、トカゲっぽかったり、狼っぽかったりするかもしれないけど、必ずその動物に対応した特性や能力があるわけじゃないのよ」

 えっ?

「ほら、人間でも外見や性格が違う二人の親から生まれるわけだから、あ、ここは父親似だとか、あ、ここは母親そっくりとか、ここは母方のひいおばあちゃんに似てるとかあったりするでしょ。それにちょっと似てるかな。私も外見で一番近い動物って言われたら猫だけど、能力的にはより犬に近い。あと、渡り鳥にも」

 え…。

 なんだか混乱してきた。

「似てるってのは今までの知識の中で似通ったものにつなげて考えてしまうからなの。私が猫っぽく見えるとこって、耳と目が主だよね」

 そう言われれば。

「ちょっと動きも猫っぽいかな。それも認めるわね」

 猫おねえさんは困った様子の私を見て柔らかく微笑んだ。

「覚えといてほしいのはね、レイヤー族は似て見える動物との半人間じゃないってこと。ダブル人間って呼ぼうって動きもあるけど、これもほんとはおかしいと思うの。半分でもダブルでもなく、個性ある一人の人間ってことだよね。いろんな要素が混ざってるだけ。ただ外見だけ見ると目立つ特徴が何かの動物に似てる場合が多いってことなの」

 そばでマスターはお皿を拭きながら、トカゲおにいさんはしっぽで時折音をたてながら、ネコおねえさんの話を聞いていたが、「あ、そういえばね、見かけはレイヤー内でもほとんどコモン族と変わらないレイヤー族もいるんだよ」マスターが言った。

「どこでレイヤー族かコモン族かを区別するんですか?」

「まずは常にこのレイヤーにいるかどうか。でもコモン族でもフェルルになるとかなりここにとどまれちゃうものもいる。コモン族かレイヤー族かを分けるのはね…」

はい?

「宿題にしとこうかな。考えてみて」

 え? 教えてくれないんだ…。

「ねえ、おねえさんのお母さんもレイヤー族なんですか?」

「うん。でも見かけは猫っぽくないよ。コモン族がみたら、熊と馬の間みたいって言うかも」

「お父さんは?」

「コモン族だよ」

「えっ?そうなんですか」

「ちっとも驚くことじゃないわよ。親も子もレイヤー族って方がうんと珍しい。結婚だってレイヤー族とコモン族同士がずっと多いよ。あたしはママがレイヤー族でラッキーだった。疑問にすぐ答えてくれたから」

「親がどっちもコモン族だった場合はどうするんですか?」

 私は人種の違った子を養子にした時、文化、外見などでいろいろ慎重に考えなければいけないってドキュメンタリーを見たことを思い出した。

「その場合はしばらく疑問を抱えて生きるかも。でもたいていコミュニティの誰かがメンターになってくれる。不思議なんだけどね、レイヤー族って、コモン族には決して自分たちの違いを口にしないの。親であろうとね。これって長い歴史で遺伝子に刻まれてきたことなのかもしれないけど、あたしが自分の小さい頃を思い出してみると、言わないほうがずっとナチュラルなんだったのよね。相手がレイヤー族で安心できるってわかるまでは」

 おねえさんはカウンターに置いてあるお皿からアーモンドを二つつまみ、口に入れ、カシュッカシュッって噛んだ。

「厄介なのはね」おねえさんはいたずらっぽく笑った。「ダニーやロコちゃんみたいな子かな」

 え?

「結構大きくなってからフェルルの現象が出てくる人」

「もっと小さい頃からこっちに入れちゃうコモン族は、結構フィーリングがレイヤー族に似てるのよ。レイヤー族に共通してるのはね」おねえさんはもう一つアーモンドを口に入れた。

「静かな熟考型が多いってことかな。あたし、よく思うんだ、レイヤー族だけなら、世の中戦争ってないだろうなって」

 そういうおねえさんはちょっと悲しげだった。そんなおねえさんを見てトカゲおにいさんが肩をポンポンと優しく叩いた。

 二人って恋人なのかな?

「じゃ、マスター。また来ます」

 トカゲおにいさんが言った。

「マモルくん、卒業いつだっけ?」

「来年です。今OB訪問で結構忙しいんですよ」

「建築だっけ、専門」

「はい。ほんとは世界の建造物見て一年くらい回りたいんですけどね。ま、とりあえず就職して親を安心させなくっちゃって。月並みですかね」

「いや、いいと思うよ」

 マスターはうんうんとうなづいた。

「キョウコ、行こう」

 おにいさんはネコおねえさんの重たそうなバッグを持った。

 ネコおねえさんの名はキョウコ、トカゲおにいさんの名はマモルなんだ。

 キョウコおねえさんはマモルおにいさんに腕を組み、二人は出ていった

「大学生なんですね」

「うん、キョウコちゃんは医学生でね」

「お医者さんになるんですか?」

「研究者になるか臨床するか…つまり患者さんを診る医者になるかはまだ決めてないらしいよ」

「そうなんですね」

 お医者さんってレイヤー族の? コモン族の? それともどっちも診るのかな。

 思っていることがわかったのかマスターが言った。

「ロコちゃんも疑問が多いよね。そのうち徐々に分かってくるから焦らないことだね。ここにいたお客さん、今日はみなレイヤー族だったけど、レイヤー族ってのは結構割合が少なくてね。100人に一人もいないと思うよ。でもうちに来るのはレイヤー族がほとんど。何も知らずに入ってくるコモン族もいるけど、めったに常連さんにはならないな。ダニーやロコちゃんみたいなフェルルも来るよ。レイヤー族もフェルルもうちが特別だって入る前からわかるからね」

「どうやって?」

「そうか。ロコちゃんはフェルルとフェルルじゃない人間の見分け方とか、レイヤー族の気配とかまだはっきりしてない?」

「はい…」

「焦らなくていいよ。そのうちわかるようになるよ」

 ゆったりコーヒーを飲んでた夫婦が立ち上がった。奥さんの方はやっぱり立ち姿もどことなくプレーリードッグに似て愛嬌のある微笑みを浮かべている。旦那さんは北川先生に似てはいるけれど、北川先生より頑固そうだった。角も大きい。「じゃ、マスター、また!」という声に弾力がある。

「またお会いできるかもね」 私を黄金に近い丸っこい薄茶色の目で見つめ、プレーリードッグ風奥さんが言った。

「最近フェルルさんたちに出会う確率がぐっと減った気がしてたの。さすがマスターの店ね、今日は可愛いフェルルさん二人に会えてよかったわ。ダニーくんは前から知ってるけど、あなたは初めてね。あ、私たち山田っていいます。よろしくね」

 山田さんは優しく私の手を握ってくれた。「はい!」私は少し緊張しながら、感じのいい微笑みってのをやってみた。なぜか山田さんに本当に性格のいい子だって思われたかったんだ。

 山田っていうごくごく普通の名字の二人の後ろ姿をしばらく見ながら、私はぽかんとしてしまった。大柄なご主人に小柄な奥さん、どこにでもいる夫婦と言えなくもないけれど…やっぱりどうにも不思議な外見で、でもやっぱりちょっと素敵だなって思ったんだ。

透けゆく人



「ロコ、ちょっとこれ見てごらん。すごいだろ」

 ダニーが言った。コウちゃんが描いたらしい。どこかの教会の内部のような絵。 細かいタッチがまるで写真のようだ。

「コウちゃん、って呼んでいい? コウちゃん、これ凄いね。コウちゃんが描いたの?」

コウちゃんは表情をほとんど変えず小さくうなづいた。

「どこにあるの、この建物」

「パレルモ大聖堂」

 パレルモってどこだっけ?

「コウイチは本当にすごいよな。フォトグラフィックメモリーっていうのかな。ほんとにテストの時にこいつの頭、借りていよ。俺なんか、10分前のこともう忘れてる。忘れてる〜忘れてる〜 忘れてれるぅぅぅぅ 〜」

 ヨウイチさんは長い手を指揮するように振った。ちょっと調子外れに歌いながら。

  コウちゃんはどこか意思の強そうな目をしてるけどそれ以外に表情があまりない。目だけが早く動く。普通の人…普通の人がどれくらいなのかもわからないけど、多分普通の人の1.5倍くらい早いと思う。2倍とはいかなくても。

 コウちゃんの目は大きくなくて離れてるけど黒目は大きい。だから丸くてくりっとした印象を与える。そこがウーパールーパーに似てるのかな。髪はさらっとしてて横にはねてて、口は薄くてキリッと一文字に結んでいる。

「コウちゃん、この聖堂の外見も描けるの?」

「もちろんだよ。どれだけうちに聖堂だか教会だかモスクだかの絵があると思ってんのさ。最初は外見からだったけどさ、飽きたから内部の絵に移った、そうだよな、コウイチ」

 黙ってるコウちゃんの代わりにヨウイチさんが手を大きく広げて言う。どうやら、話すときはこれが癖らしい。体の細いアニメのキャラみたいだなって思う。オーバーアクションのヨウイチさんと静かなコウちゃんは対照的な兄弟だ。

「描ける」

 ヨウイチさんのオーバーアクションが終わると、コウちゃんは小さな抑揚のない声で言った。

「描こうか?」

「うん。面倒じゃなかったら」

「描く」

「そうだね。じゃ描いてみて」

 コウちゃんは青いリュックの中からマッチ箱くらいの鉛筆削りを取り出して、きっちり三回回して3Bの鉛筆を削った。

 スケッチブックの新しいページを前にしてコウちゃんは目をつぶった。かなり長い間目をつぶっていた。ダニーは何も言わずに目をつぶるコウちゃんを見守っていた。

 丸い目を静かに開けたコウちゃんは描き出した。描き始めればもう迷いはない。かなりのスピードだ。

 なんだか丸い図柄だ。

 何だろ、これ…。

「バラ窓」コウちゃんは言った。

「バラ窓?」

「そう、この部分はステンドグラス」

「そうなんだ」

 バラ窓の緻密な円形の模様を描き終わると、コウちゃんは周りの細部も描き始め、あっという間にゴシック風っていうのかな、そんな感じの聖堂になっていく。

 色のない絵だったけど、3B鉛筆だけで描いた絵だったけど、見てるうちにいろんな色が見えてきた。実物のステンドグラスはきっとカラフルなんだろうな。これもパレルモにあるのかな。そうだ、パレルモってイタリアだ。シシリー島だ。ママの話に出てきた。南イタリアを旅行したときの話に。ママも見たのかな、このバラ窓。

「できた」コウちゃんは手を止めた。

「素敵だね」

「コウちゃん、ロコが感動してるよ」

 ダニーの言葉に、コウちゃんは「感動してる。感動してる」と二回言い、リュックからハサミを出し、スケッチブックから聖堂の絵を丁寧に切り取った。そしてしばらく見つめていたが、黙って渡してくれた。

 なんだかすごく嬉しくなって、ありがとコウちゃん、ありがとダニーって言った。僕、感謝されること何もしてないよ、ダニーが笑った。

「これに入れたらいいよ」マスターがスケッチを入れる厚手の封筒みたいなのをくれた。

「こいつの絵、売ろうと思ったら売れるんじゃないかな。今に名の通った有名な画家になるかもよ。ま、せいぜい大切にしてくれたまえ」 ヨウイチさんが、誰かの真似なのかな、首をカクカクっと振った。

その時だ。「遅くなっちゃったあ!」カウンター後ろの裏口から大声を出して入って来たのは大柄な女の人だった。

「ごめんごめん。ユウヘイちゃんママと話してたら、時間経つの早い早いって」

 その人はセミロングの派手め?の髪型をして、お化粧がくっきりしていて、目と口元がヨウイチさんに似ていた。ってことはマスターの奥さんなのかな。

「ママ! 今度ユニバ行きたいからさ、アッシとダイキとさ。お小遣い前借りできないかなあ」

 ヨウイチさんが大声で言う。

「また大阪行くの? ヨウイチは他にすることあんじゃないの。推薦じゃ無理って言われてんだから。人並みに受験勉強ってのやってごらん」

 マスターは静かにジャガイモを刻みながら、その様子を見ていたが「ユカリ、さっきキャンセルが入ってさ。今夜の貸切なくなったんだ」って少し高めの声で言った。

「え? なんで? 当日キャンセルなんてなしでしょ。人数変更ならわかるけどさ」

「祝う本人が入院になったらしい…。仕方ないよ」

「そういうことなの…」

 ユカリさんは大きくため息をつき、コウちゃんの横の椅子に、さも疲れたって感じで腰をかけた。

「コウイチは今日なんだったっけ? ピアノ今日に変更してもらったんじゃない?」

「火曜日」

 コウちゃんは言った。



 どれくらい カフェ・ハーヴィで過ごしたんだろ。そんなに長くはなかったと思う。けれど、私にとって未知の世界にいたからか、時間がすごく早く経った。

 帰り際にマスターはクッキーを袋に入れてくれた。



 外に出ると少し曇っていた。

「すごく不思議な体験だったよね」 私は言った。

「うん、輪くぐりした世界っていっつも僕、魅了されちゃうんだ。でもくぐった日の夜はちょっとぐったりするな。まだレイヤー世界に慣れてないからだろうな」

そうだね。私も興奮してるからか、何だか100メートル走を走ったみたいに鼓動が早い。

「マスターが言ってたんだけどさ、オープンハート…」

「ん?」

「輪くぐりできるって特別能力だよねって少し僕が得意になってたとき、フェルルはいとも簡単にフェルルでなくなることもあるんだよ、ってマスターが教えてくれたんだ。フェルルに必要なのはね」

「必要なのは?」

「うん。ちょっと座ろうか」

 カフェ ハーヴィの斜め横には、小さな公園があった。滑り台とブランコと小さな砂場だけの公園。そこのベンチに腰掛けた。そこからはハーヴィの看板がよく見えた。

 必要なのはね、ダニーは言った。

「フェアであること」

 フェアである? フェアってのはママも好きな言葉だ。

「うん、公平な態度。フェアっていっても、法的に公平っていうのとちょっと違うらしい。僕もよくわからないんだけど、人間として、生き物として、その心がフェアである必要があるらしい。次にオープンハート。心が開いてるってことは、無防備とか、単なる珍しいもの、冒険好きってことじゃなくて、固定観念?ってのにとらわれてなくって、人の意見やランクづけに影響されることなくって、みかけの事実や現象だけじゃなくって、真の存在を理解することなんだって」

 なんだか難しいな、ダニー。でもなんとなくだけど、わかる気もする。わからなきゃいけない気がする。

「それと心がきちんと機能していること。心ってのはオレンジみたいなんだよ、ってマスター言ってた。言ったのは心理学者らしいけど。ほら、オレンジ、輪切りにしてごらん。いくつもの袋が見えるだろ。僕、みかん剥くとね、必ず数えたものなんだ。だいたい十前後の袋だよね。この一つ一つを心の要素って考えてごらん。きちんと自分の喜怒哀楽を理解し、人の喜怒哀楽も感じられるには、心の要素がきちんと出来上がってなくちゃダメなんだって。もちろん子供とかまだまだバランスとれてないらしいけど、少なくとも、この袋のもとみたいなのがあって、経験によって充たされていくのがあるべき姿なんだって」

 心をオレンジに例えるの?

「サイコパスとかいわゆる人の心の優しさが欠けてる人は、オレンジが心だとするとその何袋かがぽかんと空っぽだったり、すごく小さかったりするらしいよ」

 時々、すごく冷たい感じの人がいる。もっとも表情が乏しいだけで心豊かな人だっている。けれど、心がオレンジとしたら、中がスカスカな人っているのかもしれないな。見かけはしゃきっとしたオレンジでも…。それってすごく怖いな。

「レイヤー族は心がきちんと機能した人が多いらしい。そうじゃないとレイヤーから追い出されるらしいよ。もとレイヤー族で、レイヤーからはじき出されちゃって僕たちコモン族の間で有名になってる人もいるらしいけど…」

 誰だろう。でもレイヤーから弾き出されたら、姿がコモン族と違うからわかっちゃうんじゃないのかな。でも、見かけはほとんど変わらないレイヤー族もいるらしいから...。

「ねえ、ユカリさんどう思った?」

「どうって?」

「ねえ、マスターとユカリさんってちょっとよそよそしくなかった? 夫婦にしては?」

 うん。そういえばテンションっていうのかな。二人の間に奇妙な緊張感があった気がする。

「ロコになら言ってもいい気がするな」

  そう言ってダニーは口を一文字に閉じ、しばらく考えている様子だった。

ダニーの言葉を待ったけれど、ダニーはしばらく黙ったままだった。

 公園は決して手入れが行き届いているとは言いがたくて、雑草が茂っていた。タバコの吸殻も数本落ちている。

 夏草やつわものどもの夢のあと。

 何だかこんな句なかったっけ。

 背の高い雑草が暑さをものともせず、伸びている。どれも一見花らしい花はつけていないけど、よく見るとすごく地味な小さな花や、すでに綿毛になったのがついてたりする。

 たくましいな、って思った。たくましいから強者だよね。つわものって強者って書くんだっけ?違ってたかな。でもつわものって強いことだよね。

 そんなこと思っていると、ダニーが言った。

「ロコにならなんだか普通なら言わないこと、言ってもいいような、そんな気になるんだ」

「そう?」

 うん…。ダニーはまた黙って下を向いたけど、小さめの声で言った。

「どう思った?」

 どうって何を? 店のこと? マスターのこと? レイヤー族さんたちのこと?

「マスターとヨウちゃんとコウちゃん…それにコウちゃんのお母さん」
今度は私の目を見てはっきり言った。

「うん…。なんだろな。きっといい親子だよね。典型的とか、並みの、とかしごく普通の、とか、そんな言葉は似合わないかもしれないけど」

「じゃ、どっちかがマスターと血がつながってないって言ったら、驚く?」

「え? そうなの。でもそういうこともあるよね」 言ってから、そういうことってどういうことなんだろ、って考えた。

 ヨウイチさんもコウちゃんも、どっちもマスターには似てない。

「どっちかは血がつながってないの?」

「うん」

「どっちだろ」

 ヨウイチさんは背も高く顔も整っていてユカリさんさんには似てるけど、マスターには似てない。じゃあ、コウちゃんは? コウちゃんはどっちにも似てない。ってことはどういうことなんだ?

「コウちゃんなんだ」

「コウちゃんなの?」

「うん、コウちゃんがマスターの血のつながった子じゃないんだって」

 そうなんだ…。

「パパとマスターはいわゆる幼なじみってやつでさ、僕が覚えてる限り遠くに住んでるときも、うん、僕たちが北海道にいたときも、一年に何回かマスターが来たり僕たちがマスターのとこ行ったりしてたんだ。仲のいい兄弟って感じかな」

 そこでダニーは足元の小石を蹴って、ちょっと息を吐いた。

「まだ夜じゃないのにマスターの店で僕寝ちゃってさ、トイレ行きたくて目が覚めたら話し声がしたんだ。パパとマスターの声なんだけどいつもとトーンが違っててさ」

「どう違ってたの?」

「なんだろうな。ほら電車の中で顔見ずに話聞いてたら、いったいいくつの人が話してんだろって思うことない? 大人かなって思ったら、まだ高校生くらいの二人が何だか哲学的?っていうのかな、そんな話してたり」

「哲学的?」

「うん、生きる意味とかさ。そうかと思えばさ、どんな子供が話してるんじゃい、うるさいなって思ったら、大の大人、もう中年っていう男の人たちがたわいのない話しててさ、子供か?って感じだったり…」

 うん…?

「つまりさ、そのときのパパとマスターの話はそんな感じだったんだ。なんだろうな、話し方とかなんだか、あれっ?て感じで、いつもと違ってて、なんだか真剣で、なんだかお互いに秘密守れるもの同士が心をさらした?っていうのかな、そんなトーンでさ。いつもの大人の男同士っていうより、なんだかまだ大人になる前のパパ達が話してたらこんなこんな感じなのかなっていうような、そんな感じに聞こえたんだ。少なくとも僕の知ってるしっかりもののパパと物に動じないマスターの声って感じじゃなかったんだ」

 なんとなくわかる気がした。ママも頼りになる親友のマサエさんと話す時は、ちょっと子供っぽい感じで話したりする。甘えてるのかな、親友のマサエさんに。

「マスターが、コウスケと血がつながってなかった…って、その声はほとんど泣き声に聞こえたんだ」

 マスターが泣き声? ちょっと想像できなかった。

「そうなんだ」

 私はそれしか言えなかった。ダニーは気を取り直したように、「そういえばコウちゃんが書いた詩でこんなのがあるんだ。地区大会にも出されて賞も取ったんだよ」

 ダニーは立ち上がって目をつぶり、深呼吸した。



 遠くにいきたい

 遠くに 遠くに 遠くに行きたい

 誰もいないところ それでいていつくかの温かい目がしっかりと見ていてくれるところ

 遠くに行きたい

 遠くに 遠くに 遠くに行きたい

 誰もいないところ それでいて大きな木のあるところ 疲れたらしっかり休ませてくれる

 遠くに 遠くに 遠くに 行きたい

 誰もいないところ それでいていくつもの温かい目が 見守ってくれるところ

 できたら その目を僕が選べたらって思う 多分できないだろうけど

 遠くに 遠くに 遠くに 行きたい

 誰もいないところ

 それでいて それでいて 僕が自分になれるところ

 僕の壮大な夢



 ダニーは口元に少しだけ笑みを浮かべながら、すらすらとそれでいてゆっくりしたテンポで暗唱した。

 何だか喉のところがキュッとなった。胸のあたりも少しだけキュッとした。

 いい詩だって思った。とってもいい詩だって。

 ダニーがなんでそんなにしっかり覚えてるいたかというと、賞を取った詩は都の会館かなんかで発表するのが恒例で、ショウちゃんは大声で詩を読むなんてできないから、唯一の友達といえるダニーが代わりに読むことになったのだという。二人の小学校は違ったけれど、その時だけ、ダニーはコウちゃんのアシスタントとしてスタンドバイしてたってわけだ。

「コウちゃんの詩にふさわしい朗読がしたかったんだ。自分のだったら、照れて適当に読んだかもしれないけど、コウちゃんの詩はほんとにすごくいいって思ったからね。だから大げさ過ぎず、棒読みにならないように、さらりとそれでいてしっかり読めたらって思ったんだ。パパとマスターの話を聞いてたのが、僕の気持ちにどう影響したのかはわかんないけど…」

「で、きちんとできたんだ?」

「うん。ちょっと練習より早いテンポになっちゃったけどね。コウちゃんが言えたら、僕は舞台の袖で見てるはずだったけど、コウちゃんは僕たちだけにわかる視線を送ってきたんだ。お願いするよって。詩を読んだ後、ちらっとコウちゃん見ると、微笑んでたんだ。コウちゃんが微笑むの見たの数えるほどしかないんだけど、コウちゃんそのとき、緊張してる風でも心配そうでもなくって微笑んでたんだ。すごくほっとした。よくさ、映画かなんかで、主人公と恋人とかにスポットライトがあたって周りが暗くなってみたいなシーンがあったりするだろ。そのときの僕はさ、会場いっぱいの生徒や先生とかの反応はどうでもよかった。僕はコウちゃんに朗読してたんだ。マスターもパパもショウちゃんのママも発表者の親として特別招待されて最前列に座ってたけど、大して目に入らなかった。僕が読み終えると、拍手が始まったけど、すぐに止んだ。コウちゃんが一歩前にでて両手をあげたからね」

「え?出てきて両手を上げたの?」

「うん。コウちゃんは僕の斜め後ろに立ってたんだけど、両手を上げて手のひらをひらひらさせて変わった動きをし始めたんだ。手話を始めたって気づいたものはほとんどいなかったと思う。コウちゃんの手話はニュースで見るような感じとは全くちがってて、ほんとに流れるようなひらひらだったからね。またあいつ変なことしてる、全く変なやつだって思ったものも多かっただろうな」

「なんで手話なの?」

「数ヶ月前に聴覚障害っていうのかな、耳がほとんど聞こえない双子が入ってきてね。最初はみんな、わー、双子らしいよ。かっこいいかなーなんて言ってたりしたんだけど、多分遺伝性なのかな、二人とも耳がほとんど聞こえないらしくて、そんな二人をイマイチだなっとか思ったものもいて、補助教員の先生が特別についたんだけど、担任が確認したりするのを時間がかかる、受験に不利だ、学力が落ちるとかいう親がいたりして…。でも、コウちゃんは二人とすんなり仲良くなったんだ。すんなりとね。コウちゃんと二人の共通点はすごく頭がいいってこと、言葉があまり出ないこと、それにショウちゃんの不思議な手話を二人は充分理解してるみたいだった」

 ダニーは続けた。

「あの時のコウちゃんは格好つけるとかじゃなくって、理科の実験で特別賞をもらって会場に来ていた友達の双子にズームして…コウちゃんの凄いとこはズームできちゃうとこなんだけど、双子が何言ってだろ、どんな詩?って話してるのがわかったんだろうな。コウちゃんはリップリーダーじゃなくてマインドリーダーだね。補助の先生もいないし…。コウちゃんを見て僕は唖然とした。すごくいい意味で唖然としたんだ。マスターを見ると、涙は出てないけど、泣いてんじゃないかなって思った。僕は輪くぐりしてなかったから、マスターは普通の銀髪のおじさんでしかなかったけど…。僕はなんだか、すごくすごくすごく嬉しかったんだ。嬉しかったっていうより感動かな」

 ディフィニションオブラブ。愛の定義っていうらしい。この愛は恋人同士だけじゃなくって、真の思いやりって考えてもいいっていつかどこかで読んだと、ダニーは言う。

「きっと恋人ができたり、子供ができたり、僕がパパに感じてる感情も一種のラブなんだと思う。でも人が人に対する、友達が友達に対する対等の思いやりを初めて実感した時だったと思うよ。あのとき、デフィ二ションオブラブって言葉がしばらく心に浮かんでた。それはすごく確かな感じだった。思いやり、優しさとかひっくるめての大きな意味での愛? なんだか照れるけど、あの瞬間、僕は理解したんだって思う。コウちゃんを見て、双子のたくちゃんとあっちゃんを見て、マスターを見て、そんなマスターを気遣うパパを見て、なんだかひっくるめてね。で、悪くないな、って思ったんだ」

 私たちはその後、しばらく黙って歩いた。線路沿いを歩いた。歩きながら、影がゆったりと少しずつ伸びていくのを感じていた。

 少なくとも今日わかったこと…輪くぐり前に見えなくて輪くぐり後に気づいたことはなんだか世の中の輝きが違って見えること。それはイルミネーションのようなはっきりした光ではなく、そのつもりで見なければ見落としてしまいそうな、静かで微かな輝きだってこと。


 線路沿いでヒトガタにも会った。

 彼らはたいてい草の中や、岩と石ころの中間くらいの大きさの石が転がる中や、木の陰にいた。

 最初に会ったヒトガタは稲に似た葉が風に揺らぐ中に立っていた。

「あの中に小さな人みたいなのが見えるけど、ダニーも見える? ちっとも動かないけど」

 私は心理学を勉強してたママいわくかなりの「共感型」らしい。人の気持ちを思いやるタイプ。それは凄くいいことらしい、っていうか、社会の中で必要なことらしいけれど、過ぎると弊害もあるそうだ。とにかく共感型の私は、人間が好きらしくて、何の意味もない点や線を繋いだ絵や、タイルの模様の中にも、人の顔や姿を見い出す。

 だから最初人の形に見えたときも本当に人型の何かだとは思わなくて…山の形が人の横顔や、岩が動物の形に見える類だって思ったんだ。

「ああ、ヒトガタだね」ダニーは言い、「ヒトガタ」に近づいていった。私も続いた。ヒトガタを見下ろす位置まで行くと、ダニーはシャッとしゃがみこんだ。私もそっとしゃがんだ。

 そのヒトガタは以前見たチータンよりずっと小さくて高さは20センチくらい? 足を少し広げて立っていた。バランスは人間の大人くらい。だから可愛らしいエルフのような感じとは言いがたかった。体と頭は苔のような緑の物体で覆われている。

 表情はない。小さな目は黒目も白目もあり、少しずつ動く。こっちに焦点を合わせるように動く。けれど表情はない。手もある。足もある。でも微動だにしない。

「ねえ、動くことないの?」

「必要なければね。たいてい立ってるかしゃがみこんでるか、横たわってる。横たわってるときは目をつぶってるときが多いな」

「何なのかな?」

「ヒトガタだって」

「ヒトガタの定義って何?」

「うーん。人の形をした必要なければ動かないもの」

「生き物?」

「風クラゲやウッディって生き物だと思う?」

「ああ、そうだよね…。生き物の定義って難しいよね。生物の先生の言う生き物ではないってことだけは確かだよね」

「うん。でも見方を変えると? 魂のあるものを生き物っていうなら、ヒトガタはそうだって、マスター言ってたよ」

「へーえ、そうなんだ。じゃ、やあ、ヒトガタくんって挨拶しなきゃね。ヒトガタさん、かな?」

 私たちはしばらくしゃがみこんで、目以外は微動だにしないその「ヒトガタさん」を見ていた。

「触っていいのかな?」

「ロコは知らない生命体に触られたい?」

「あ、そうか。失礼だよね」

「失礼かはわかんないけど、相手の空間を侵害しないのが、輪くぐり後、もちろん輪くぐり前だってそうなんだろうけど、大切なんだ」

「そうだよね」

 ダニーは私以上の共感型なのかなって、思った。ダニーは優しい男の子に成長したんだなって、保育園では完全にお姉さん気取りだった私は改めて思った。あ、そう思うことって今だにお姉さん気取りだよね。

 線路沿いにヒトガタを見つける度に、私は「やあ、ヒトガタさん」「こんにちは、ヒトガタさん」とパーにした手の指先だけ振った。次第にダニーも加わって、わたしたちはいくつもの「やあ」と「こんにちは」を言いながら歩いた。

 このままダニーと疲れ果てるまで歩いたら、すごく楽しいんじゃないかな、って思った。くたくたになっても、とっても充実した1日だったって思えるんじゃないかって。

 じゃ、ケンタロウとだったらどうだろ? ダニーとみたいに自然体で歩けるかな。きっとすごく意識しちゃうんじゃないかな。

 ケンタロウのどこがいいんだろう? ケンタロウと二人っきりでこんな人気のない線路沿いを歩いたりしたら、なんだか落ち着かないだろうな。それって自分のこと好きになってもらいたいから落ち着かないのかな? 実力以上に見せたいから落ち着かないのかな?

 でも実力以上って何の実力? 女の子らしい可愛さ? もしそうならスタート時点でもう完全にユキちゃんに負けてる。

 じゃさっぱりした中に見せるちょっとした女の子らしい優しさならどうだろ? それもやっぱり無理かな。だけど女の子らしくはないけど私は乱暴じゃないし優しいと思う。

「人間力の高い人になりなさい」ってママはよく言う。人間力って何?って聞かないのは、自分で見つけなきゃならないことの一つだってなんとなくわかってるから。私の人間力って順調に育ってるのかな?

 ダニーは男の子らしくないけど優しい。

 女の子らしい優しさとか、男の子らしい優しさとか、格好良さ、ってのがなかったら、恋ってできないのかな。すごく人間力があっても、それとはまた別もんなんだよね、きっと。

 ケンタロウの優しさは男の子らしいって感じる。でもなんでだろ?声かな? 態度かな?

 ダニーの優しさはどこが違うんだろ? ダニーは男の子って意識させない。ルックスがっていうより一緒にいるときの自然さが男の子って意識させない。

 きっとケンタロウもユキちゃんといるとき感じるワクワク感と私と話すときの感じは全然違うんだろうな。私と話すときは、私がダニーと話すのに似てるのかな。いわば同士って感じだったりして。

 そんなことを考えてると、ダニーが私を見てニコッと笑った。ダニーの笑顔は素敵だ。ミロちゃんの笑顔が素敵なように、マスターの笑顔が素敵なように、純粋に素敵だ。

 じゃあ、もしケンタロウとダニーの中身が変わったら? そしたらダニーにほのかな恋心を持って、ケンタロウに今のダニーに対する気持ちを持つのかな。それとも見た目って私が思ってる以上に大きな役割果たしたりしちゃうんだろうか。

 とにかくダニーと線路沿いを歩いてて、すごく素敵なひと時だなって思ったんだ。大冒険の後の安らぎ効果だったのかもしれないけど。

マスターの店での経験は私にとって大冒険だった。ディズニーランドの三時間待ちのアトラクションより大冒険だ。出会った人はみんな不思議に素敵だったけど、だからって緊張しないわけじゃない。すごく緊張してたって思う。だからかな、ダニーと二人でひなびたっていうのか、うん、十分にひなびた線路沿いを歩きながら、ヒトガタくん、ヒトガタさんに挨拶したりして、これってかなり穏やかで素敵なことなんだって思ったんだ。

突然、ダニーが足を止めた。目を見開き、身体が少し硬くなっている。

 向こうからどことなくだるそうに男の人が歩いてきた。背広姿でなで肩の肩を揺らしながら歩いてくる。

「透けゆく人だ」 ダニーが言った。

 透けゆく人?

 私たちの方に近づいてくる。ダニーは足を止めたままだ。男は私たちから数メートル離れたところまで来ていた。

 透けゆく人…。ほんとだ…。

 その人は少しだけ透けて見えた。そう、少しだけ。

 よく透明感のある肌、なんていうけど、そういうのとはもちろん違ってて、顔も手も、そして服も透けている。向こうがはっきり見えるほどの透け方ではないけれど確かに透けている。ガラスのコップに入った水のようにクリアに透けているわけではないけど…。

 鈍い透け方だ。きれいに透けてはいない。どこか濁った透け方だ。

「きっとマスターのとこに行きたいんだ」 ダニーは少し焦ったように言った。

「え? なぜ? 」

 そう言ったときには、その人と私たちはほとんど向かい合って立っていた。私たちを見る目は穏やかだけど悲しそうで、穏やかだけど焦りのようなものがあって…。

「君たち知ってるかな? こっちの方だって聞いて来たんだ。ハーヴィって名前のカフェだって」

「誰に聞いたんですか?」

「アルパカのような顔をした人だった。事故の後、僕を囲んでた人の一人だよ。ほとんどアルパカに見えた。彼女が、言い忘れたことがあるなら、ハーヴィのマスターの所に言って伝えなきゃねって言ったんだ。消えゆく前に伝えたいことあるならねって」

 消えゆくって死ぬ?の?

「突然曲がって来たんだ。青いバンがね。逃げる暇なかったね。頭を打ったらしい。気がついたら、歩き始めてた。僕の身体はまだ道路上に残っててなんとも不思議だった…。その時、あまり時間はないんですってアルパカさんが言ったんだ。とにかくその店に行きなさいって」

「その店なら…こっちです」

 ダニーは手招きしながら、今来た線路沿いの道をマスターの店に向かって小走りし始めた。すると、その人も小走り風に歩き始めた。

 その人の後ろ姿は確かにすこうし透けていた。

ダニーは時々振り返りながら、マスターの店に向かった。私は透けゆく人の後ろをついて歩いた。

 その人がどんどん透けて行ってしまっちゃうんじゃないかって、ちょっと怖かったけれど、角度によってはほとんど透けてるようには見えなかったし、少なくともみるみる間に消えていってしまいそうには見えなかった。

 ハーヴィの店に入ると、ドアベルが例のビブラートのかかったようなガランガランという音をたてた。

「あら、ダニーちゃん、戻って来たの? お腹減ったんじゃない? 何かマスターに作ってもらう?」

 ユカリさんが明るい声をあげた。どうやらユカリさんには「透けゆく人」は見えないようだった。ゆっくりと店に入ってきた透けゆく人はかなり大柄で、透けつつあるにしてもかなりの存在感だから見えているなら無視するはずはない。

 フェルルでない人には透けゆく人は見えないんだ…。

「ちょっと足りない食材買ってくるけど、今度戻る時はもう帰っちゃってるかな。いつでも遊びに来てね。コウイチも喜ぶわ」

 ユカリさんさんはヨウイチさんに共通する大きな身振りで店を出ていった。

 ヨウイチさんはもう店内にはいなくて、コウちゃんは角のテーブルでスケッチブックを抱えて足をぶらぶらさせていた。店内のお客は一人だった。見事な角の雄鹿風レイヤー族が、威厳のある風情でカウンターに近いところのテーブルに一人で座っていて、入ってきた私たちを静かに見つめていた。

 マスターが奥から出てきたが、私たちを見てすぐに状況を把握したようだった。

 マスターは、透けゆく人に手招きしてカウンターの一番すみの席に座らせた。

「命が絶たれるといろんなものが見えてくるんですね」

 透けゆく人はマスターに静かな声で言った。マスターは柔らかい微笑みを浮かべた。

「そうですね。今まで見えなかったものが見えてるでしょうね、今は」

「私は長くはこのままでいられないんですよね」

「そうですね。数分の人もいれば数日の人もいます。でもほとんどの人は命の火が消えると冷たくなりつつある肉体のみを残し、心や魂は一瞬にして消えていくんです。けれど、たまに、命亡き後、このレイヤーの中では姿がしばらく残る人がいる。あなたもその一人です。しばらくすると透けていき、やがて消えゆく人になるんです」

「ここは冥土との中間の場所ですか?」

「いいえ、今まであなたがいた場所です。ただちょっとレイヤー、層が違うっていうのか、ものの見え方が少し違うんです。だから、少しずつ透けていくあなたがこのレイヤーでは見えるんです。でも残念ながら、それも長くはないでしょう。透けていくあなたの姿は消えていくあなたのスピリットの余韻なのです」

 ダニーは透けゆく人を見たのは3回目だと言う。すっかり透明になって消えてしまうまでの僅かな間、このレイヤーで伝言を残したり、最後の思いを残された人に反映させる努力をすることができるらしい。

 残す思いが誰かにとって価値があるものなら…もっともそれを決めるのが難しいわけだけど、それを聞いたレイヤー族が責任をもってアクションを起こすことがあるらしい。

 ダニーと私はカウンターの近くのテーブル席に座り、マスターと男の人の会話に耳を澄ませる。男の人の透け具合が少し増したようにも見えた。

「伝えたいこと、伝えたい人があるんですね」

 マスターの言葉が凛として響いた。

「伝えて欲しいのは…まず…母に…」

 透けゆく人はゆっくりと話し始めた。特に焦っているようにも見えなかった。私とダニーはお互い少し体を硬くしてながら、次の言葉を待った。やはり、死にゆく人が伝えたいのは母親なのか…。

「これまで散々私の人生を掻き回して、チャンスを潰してくれて、自分らしく生きるのを邪魔してくれて、ありがとう。最後に皮肉を言わせてもらうね、母さん。でもそれが正直な気持ちなんだ。僕は母さんに精神的に縛られていて自分らしく生きることなく死んでいくよ。ただ、今まで貯めた貯金は母さんにじゃなくて、4年前に別れたミチコに渡して欲しい。僕は母さんに言われて別れてしまったことを本当に後悔しているんだ。だから僕の貯金は母さんにじゃなくてミチコに渡したい。彼女がすでに結婚していても何していても僕からの思いだからって僕の全財産を渡して欲しい」

 ダニーは目を大きく開いた。

 マスターは特に動揺しているようにも見えなかった。

 あなたの名前は? 住所は?

 マスターは、まるで交番に落し物がないかと来た人に聞くように淡々といくつかの質問をしていったが、少しだけトーンを変えるとこう聞いた。

「その気持ちはあなたが死ぬ前から思っていたことですか? それとも死んだ後、思ったことですか?」

 男は少し考えた。

「生きている時は、母さんが生活の全てだったと思います。母さんを喜ばせたい、母さんを悲しませることはしたくない、そう思ってきました」

「でも今のあなたの言葉はひどくお母さんを傷つけるでしょう。ミチコさんへの気持ちは亡くなってしまうまでずっと心の中で思っていたことですか?」

「いや…そういわれると…不思議なことに…ここに来て奇妙なあなたに聞かれるまで、狼人間ですか?あなたは? そう、あなたに聞かれるまで大して思い出しもしませんでした」

 どういうことなの? 死ぬまではさほど思ってないことを今、命が消えても心? というか思いが残っている今、口にしている。生きてる時にも思っていた潜在意識なのかな? でも生前の遺言とは意味合いが違うよね。

 車に撥ねられ亡くなったこの男の人は、レイヤー内でのみ、透けゆく人になっている。このレイヤーで男の人の言うことをどれだけ信じたらいいんだろう。生きてるときでも何が本心かって難しいのに、消えゆく人の言うことは、生前と違っても本心だっていえるのかな。

 だいたい死後の伝言なんておかしいよね。でもこの男の人は少しだけ透けているだけで、とても死んだ人とは思えない表情でマスターと普通に会話してる。これってどういうことなんだろう。どこまで生ある人間と同じなんだろう。

 それより、この伝言をマスターはどうするんだろう。

 透けゆく人はサトヤマさんといった。サトヤマさんは、透けゆく以外は凄く冷静に見えた。自分が死んでしまったことを嘆いているようにも、悲しんでいるようにも、パニックに陥っているようにも見えなかった。コーヒーを出されたら、ゆっくりとミルクを入れ、かき混ぜるだろう、そんな余裕さえ感じられた。

「ミチコさんというのはもと奥さんですか?」

「いいえ」

「付き合っていたんですね。恋人だったんですか? どれくらい付き合っていたんですか?」

「付き合っていたともいえないかもしれません。付き合おうとはしました。もちろん、母が反対しなければ、誘ってきちんとおつきあいをお願いしたと思います。僕は古風な人間ですから、カジュアルなおつきあいってのが苦手で付き合うからには結婚したいって思ってました。でも、母が反対したのです」

「どうしてですか?」

「背が低過ぎるっていうんです」

「それだけの理由ですか?」

「ええ、それだけの理由です。低いっていっても母よりは高いんですよ。数センチくらいは。いや、低いかな。彼女、いつもかなりの高さのハイヒールを履いてましたからね」

「ではおつきあいしたわけではないんですね」

「ええ、母が反対しましたから」

 マスターとサトヤマさんの会話に耳を澄ませていたダニーが目をパチパチさせ、首を傾げた。いったい何なんだ? とでもいうように。

 マスターも困ったようだった。こんな透けゆく人も珍しいのかもしれない。

「今、あなたの魂、あなた自身が消えて行こうとしてます。で、あなたの本当に伝えたいことは先ほどおっしゃったことなんですね」

「ええ、母に僕の人生の邪魔してくれてありがとうってちょっと皮肉の一つも言いたいんです。そして財産はミチコに残し、君と一緒になりたかったって、そう伝えたいんです」

 サトヤマさんの顔は険しくなり、透け加減も急に増した。サトヤマさんは透けゆく自分の手を見て、「僕は消えていくんですね。何だか、頭も心もすかすかになってしまいそうです」と言う。

 サトヤマさんの声は小さく、少し電子音に近くなったようにも感じた。

 コウちゃんがやってきて、サトヤマさんを見つめた。じっと見つめた。透けていく透け具合とかじゃなくって、透けていくものそのものを見つめているようだった。

「おじちゃんも君のような頃があったよ。君みたいに丸い顔をしてたよ。僕は気の利かない恥ずかしがり屋でね、母さんにずいぶん迷惑をかけたなあ。忙しい父さんの代わりに母さんがキャッチボールもしてくれたん…」

 サトヤマさんの声はみるみる小さくなり、数秒後にはサトヤマさんも声もすっかり消えてしまった。何なの、これ? あまりに中途半端じゃない?

 ダニーと私はカウンターに近づいた。サトヤマさんがさっきまで座っていたカウンターチェアには座る気になれなくって二つ離れたところにすわった。ダニーも腰かけた。

「ねえ、マスター、どうするの? 伝言、伝えるの?」

 マスターは目を閉じ、頭を2、3回振った。

「どうしたものかな。レイヤー族ってのは、時としてひどく責任を負うんだよ。自分の行動で物事が変わるからね。ある時は、恋人に殺された透けゆく人が来てね。このままでは事故として扱われるから、真実を伝えて欲しいって、恋人が犯人だって証拠のある場所を教えてくれた」

「その場合はすべきことがわかるから、迷わなかったんだよね」

 ダニーが言った。

「いや、そうでもない。物事はもっと複雑なんだ。捕まった恋人の母親がショックで自殺し、結婚式を数ヶ月後に控えていた恋人の姉は破談になり、心を病んで万引きで何度も捕まり、ほとんとホームレス状態になった」

「でも犯人が捕まったんですよね」私は言った。

「それ自体は正義がなされたって言えるだろうね。でも、レイヤー族がコモン族の歴史を変えてしまったわけでもあるんだ。このレイヤーで透けゆく人に頼まれてレイヤー族が対処したわけだからね」

 ダニーもコウちゃんも神妙な面持ちで聞いていた。

「ある時は、亡くなった母親が子供へ残した手紙の場所を伝えてくれってやってきた。子供、といってももう成人だったけど、彼はその手紙を読んで、それまで厳しかった母の本当の気持ちを知り、自分があまりに大変な子供だったと落ち込んでしまった。涙も止まらなくなり、社会的機能がとまったようになってしまった。これも悲しい結果だった」

マスターは眉根を寄せた。金色の目がそれは悲しそうだった。

「ねえ、マスター。サトヤマさんの言ってることってどれだけ本当なのかってわからないよね。透けゆく人は嘘をつかないとか、そういう保証ないわけだし。言っていることが全くの嘘ってこともあるのかな? 例えば、お母さんもミチコさんのことも事実と違ってて、本当は極々普通に結婚してて子供が二人いたりして。で、なぜか透けゆく人になって事実じゃない不思議な話をする…そういうことってないのかな?」

「そういえば」 ダニーが口を開く。

「そういえばさ、こんなことがあったな。夜、どんどんってドアを叩く音がして、パパがドアを開けるとさ、膝を擦りむいてハアハア息を切らせた女の人がいてね、男に追われているから助けて欲しいって言うんだ。パパが警察を呼んで、その時は女の人もすごく怖そうにいろいろ説明して、ちゃんと話の筋も通ってたんだけどね。その人、翌日お菓子を持って謝りに来たんだ。少しお酒が入るといつもとんでもない作り話をしてしまうんだって…。ありもしないこと思い込んじゃうらしいんだ。ねえ、透けゆく人って大変なことがあったわけだよね? つまり…死んじゃったわけだし、事故にあった人ははねられて頭を打ったりしたわけだし…だから、思うんだよね、透けゆく人の言ってることってどれくらい事実なのかな」

「それが問題だね」 マスターは言った。「みんなが透けゆく人になるわけじゃない。百人に一人くらいかな。 とにかく、透けゆく人になるからには、すごく伝えたいことがあるんだろうな、真実なんだろうなって、思うだろ。でも、そうでもないんだ。気持ちが強いから、この世に未練が多すぎるから、言い残したいことがあるから、愛する人のそばを離れたくない気持ちが強すぎるから、そういう人が必ずしも透けゆく人になる、ってわけでもないんだよ」

「じゃ、どうしたらいいの? 何がほんとかってどうしたらわかるの?何をすべきかってどうしたらわかるの? 」

「判断に迷う時にはね、一番適性のある人に相談するのが一番なのかもしれないね」

 マスターはそう言い、入り口近くに座っていた見事な角を持っているお客さんに視線を移した。

「佐々木さん」

 私たちに「一緒においで」と言い、マスターはカウンターから出て、佐々木さんのところへ向かった。

 佐々木さんの角はそれは見事だった。黒と茶色の混ざった艶やかな角は小さな頃買ってほしくてたまらなかったつやつやした飴玉を思い出させた。佐々木さんは角はあるが顔はライオンに似ていた。薄茶色の毛が顔を覆っている。耳はライオンより鹿に似ている。そしてその耳にはピアスがついていた。小さなクリスタルがキラキラ綺麗な薄ピンクのハート型のピアスだ。

 佐々木さんはとても姿勢良く座っていた。両手を重ねて座る様子が、「威厳」と「奥ゆかしさ」ってちょっと矛盾にも思える二つの言葉を連想させた。ほんとに不思議なんだけど、佐々木さんはとっても奥ゆかしい感じだった。その重ねた両手は薄っすらとベージュがかった短い白い毛で覆われていて、爪には綺麗にマニュキュアがしてあった。パープルがかった優しいピンクのグラデーションのネイルアートだ。

 マスターは佐々木さんと向かい合って座った。それは二人がけの小さなテーブルだったので、私とダニーとコウちゃんはその隣の四人がけの丸テーブルにそろっと腰を下ろした。

「可愛いお客さんね」

 佐々木さんはかなりの低音を響かせた。優しい声だった。余韻ある声っていうのかな。

「三人の可愛いフェルルさん。これからの成長が楽しみね、マスター」

「心配もありますけどね。こんな世の中ですからね」

「ほんと。こんな世の中だから。悪いこと考えたらきりがないけど、良いこともそりゃ数えられないほどあるはずよね」

「そう願いますね」

「そうよ。願ってみましょうよ」

 佐々木さんは微笑みうなづいた。マスターも微笑みを浮かべた。

 佐々木さんとマスターの微笑みの本当の意味を知るのには何年もかかるのだろうなって思った。微笑みに深さがあるなら、すごく深い微笑みだった。その意味合いって分からずじまいかもしれないし…。いっぺんに瞬時にしていろいろ理解できたらどんなに楽だろう。

「コウイチとダニーは知ってますよね。こっちはロコちゃん。ヒロコちゃん」

「いい名前ね。海のような名前ね」

 佐々木さんは私を見た。一瞬にして私の名の由来や意味やいろんなこと理解してくれたって思った。佐々木さんの大きな瞳が私を見ていた。緑の中に金色が凝縮したような不思議な色合いで、一瞬にして相手を読んでしまう不思議な能力に満ちた目だった。

「佐々木ミユカっていうのよ。もともとは佐々木ケンジっていったんだけど、心は生まれた時から女だったから。わかるかしら」

「性同一性障害っていうんですよね」

 ダニーが言った。「性同一性障害」コウちゃんが繰り返した。

「そうよ。その通り」 佐々木さんは嬉しそうにうなづいた。

「フェルルにはね、どんなに頭が良くたってなれるもんじゃないのよ。心の知性が必要なの。あなたたちは心の知性の芽の勢いがよいのね。それを妨げるものが出てこないことを祈るわ。どんな世界でも成長するって難しいわね。たくさんの心の痛みも伴うわ」

 佐々木さんはハーブティーを口に運んだ。

「佐々木さんは透けゆく人の思いを誰より早く深く感じれる人でね。今日もそれで来てくれたんですよね」

 佐々木さんはうなづいた。

 透けゆく人が入った時にはすでに佐々木さんはここにいた。透けゆく人が来ることを予知していたのだろうか。



 結局カフェ・ハーヴィを出たのは暗くなってからだった。あのあと佐々木さんとマスターの話がどうなったのか私たちにはわからない。ダニーとコウちゃんと私は、一番大きなテーブルでカレーライスを食べさせてもらった。時折、佐々木さんとマスターの方を見ると、二人は真剣そのものの顔で何か話していた。

 暗くなった道を歩きながら、私は輪を初めてくぐった今日のことを、透けゆく人が消えゆく人になった今日のことを、決して決して忘れないだろうと思った。

ハッピーバースデー ツゥー ミー

 とりたてて当てはなかった。

 空は青かった。サングラスをとって見上げる空は、目にしみるほどの青さだった。

 祥平は歩道橋の真ん中というのも忘れ、立って見上げていた。

 これ買わない? 振り返ると籠にキャラクターグッズをいっぱい入れた子が笑いかけている。

「ああ」

 ちらりと見て、ポケットに手を入れる。祥平が「煙草ない…か…」とつぶやくのを聞き、財布を取り出すのだと思っていたその子、腹立ち顔で、「何だ、このおっさん」と言い、背を向けた。

 煙草、ないか…。

 久しぶりに手を通した背広だった。肘のところに革が丸くあててあるカジュアル系。ポケットには必ず煙草が入っていた。かなりマイナーなブランドの煙草だった。物にはこだわらぬ祥平の唯一のこだわりだった。以前よく買っていた自販機がちらりと頭をかすめたが、ここからは遠すぎる。

 やっぱやめとくか。祥平はポケットの中で、煙草の箱を握りつぶすように、ぎゅっと手を握りしめた。 
 
 下を見る。外車が増えたなあ。祥平が以前欲しがっていた車も通る。車か…。もう興味はない。再びポケットの煙草をまさぐろうとする自分に苦笑しながら思う。吸いたいと。

 長らく禁煙していた。いや、禁煙せざるを得なかった。特に吸いたいとも思わなかった。なのにこの背広を着ると気分はやはり愛煙家だ。

 さて、何をするか。腹は空いているか…。久しぶりの休日か…。いざそうなるってみると何をしていいかわからなかった。

 ふっと横を見ると探していた銀行はすぐ目と鼻の先にあった。さっきは見つからなかったがこうやって見ると、すぐそこだ。桂が勧めていたのはこの支店だ。

 近くへ行くことがあったら寄ってみてくれないかな、こっちはしばらく行けそうにないから。彼はいかにも銀行員風の銀縁メガネの奥で祥平を見て言った。

 祥平はその目に弱かった。その目で頼まれると断れなかった。男の自分が言うのも変だが、桂はいい目をしていた。自分自身悪くはないルックスだと思っていたが、桂にはその目だけで負けたと思った。

 それに…桂は時々姿を変えた。姿を変える人間に会ったのは久しぶりだった。また出たのだろうか、あの症状が…。少しだけ手足が震えるような感覚を持ったが、自分がそれほど動揺していないのに驚いた。以前はひどく悩んだものだった。最後に出たのは思春期を脱するちょっと前くらいだっただろうか。思春期を脱してから出なくなった。大人になる、落ち着く、とはこういうことなのだ、自分に言い聞かせた。統合失調症、以前は精神分裂病と言われていた病…。自分がそうではないかと恐れ、どれだけ調べたことだろう。けれど、自分にはほんのたまに人の姿が変わってみえる以外症状らしい症状はなかった。結局誰にも言わなかった。
 

 支店の看板を見ながら思う。アサミとやらはまだ働いているのだろうか。最後まで完全には自分のものにならなかった、そう桂は言った。完全にはとはどういう意味なのか、思いはしたが聞かなかった。桂だったら大抵の女は夢中になっただろうに…。祥平は再び煙草を探る仕草をしながら、人間ってのは資産の活用下手だと、つくづく思った。桂はルックス、祥平は運動神経を無駄にした。
 
 高校では陸上のエースだった。こんな記録はなかなか出るもんじゃねえぞ。五分刈り、まん丸メガネの田崎コーチがストップウォッチを握り締めて言った。その笑顔を今でも忘れない。しかし、大きな競技会ではとんと記録に縁がなかった。

 自分は頑張り時を知らない、あれ以来そんな気はしていた。野兎なのだ。野でぴょんぴょん自由奔放に駆け回っているときが花、人間社会の制約の中、何かを達成するというのには全く長けていない。やるスポーツ、やるスポーツ、どれもかなりの成績をあげたが、仕事とは相性が悪く、金にはつながらなかった。

 祥平は何気なく周りを見回した。どうやら歩道橋の上でぼんやりしている人間は自分だけではなさそうだ。ショートヘアのグレイのスーツ姿の女が立っていた。保険勧誘か何かの仕事の合間だろうか、寒くなりそうなのにかなりの薄着だ。ぼんやりと下を見ている。まさか、家のローンにいき詰ったかなんかで飛び降りようってんじゃないだろうな。下ばっか見ずに上を見てごらん、どうだ、青いだろう。そんな映画ごときの台詞を思い、気恥ずかしくなった。

 そういえば、遥子も以前こんな髪型をしていた。

 遥子って言うんだ、と告げたとき、僕のはアサミだ、と桂は言った。遥子のことで気持ちのバランスを崩しそうになるのを振り切るように、祥平はあの時の桂の表情を無理に思い出そうとした。

 約束だしな。祥平は見えない煙草の煙を吐き出すように、口をすぼめて息を叶いた。



 その銀行の支店は入口は小ぶりだったが、一旦入ると奥に向かってかなり広かった。入らなきゃよかったな、祥平は委縮した。
 
 サングラスは外すか。別にやましいことがあるわけじゃないが…。

 いらっしゃいませ。入り口付近でにこやかにお辞儀をするのが仕事らしい男が、サングラスを外した祥平に声をかけた。口もとは笑っているが、目は笑っていない。祥平は軽く会釈し、通り過ぎた。

 全く馬鹿な話だ。何しに来たというのだ。送金するわけでもカードで現金引き落としに来たわけでもない。

「今日のご用件は何でいらっしゃいますか?」

 後ろから近づき、男がにこやかに声をかけてきた。やっぱりきたか。ほっといてくれよ、と言いたいが、気をとりなおし、「口座を開こうか、と思いましてね」と老けた口調で言ってみる。

「それでは番号札をお取りになって、お持ち下さい」

 祥平は、黙って頷き、機械から出てきた番号札を引っ張った。049。八番目だ。

 ソファに腰を下ろし、ゆっくりと視線を動かす。昼時とあり、混んでいる。おいおい、ほんとに口座を開くつもりかい。ま、金はないわけではないが、印鑑は持ち合わせていない。

 印鑑か…。

 祥平は二年ほど前のことを思った。
               
 あの日、判を押すつもりだった。だからこそ実印を持って家を出た。遥子が新婚当時作ってくれた印鑑を持ってだ。「男なら実印持たなきゃ、立派なのをね」 遥子が黒光りする水牛の角で注文してくれた実印。「なんだい、こりゃ、読めないじゃないか」 出来上がった入り組んだ文字を見て、祥平はふざけてくるくる回したが、正直、嬉しくもあり照れてもいた。初めての本格的印鑑だった。何だか自分が偉くなった気がした。遥子はにこにこ笑っていた。清々しい笑顔だった。

 その判をつかみ、あの日、祥平は出ていった。ポケットの中で何度も判を握り締めながら。

 つい昨日のようでも遥か昔のようでもある。そんな風に思う自分を月並みだと切り捨てたいが、出来ない。出来るわけがない。

 会いに行くのは桂の相手なんかじゃなくって遥子じゃないのか…。

 だめだ。どの面下げて会いに行くっていうんだ。遥子は決して許しちゃいない。許してくれるはずがない。

 まさかもうあいつとは一緒にいまい。あいつのことは残らず遥子の前でぶちまけてやった。何十万もの調査費用も高いとは思わなかったが、大金はたいて手に入れた情報で、自分は一体何を手に入れたのか。

 手に入れたものなんか何もない。分かっているのは失ったものだけだ。

 ものに憑かれていたんだ。ものに…。

 あの日、遥子の顔を見た祥平は出来るだけ冷静にふるまおうとした。だから判ぐらいいくらでも押してやるよ、わざと穏やかに緩慢に言った。たださ、選んだ男がどんな男かだけは知っておけよ、そう言い、おもむろに茶封筒から写真を取り出した。

 日付入りの男の写真。全部で16枚。それも相手は一人ではない。 

 馬鹿だなあ、祥平はわざと優しげに微笑んだあと、だまされるなんて遥子らしくないぞ、もっと潔くなれ、と今度は後輩を励ますような語調に切り替えた。
 
 遥子は呆然として祥平を見た。事態を把握してないような視線だった。
 
 そこへ男が帰ってきた。写真で見るより体格も見栄えもよかった。その点だけは北田という男より自分の方が上だと信じていた祥平は妙な動揺を覚えた。

「主人よ」
    
 遥子が男に言った。

 なるほど、大丈夫だよ、そんな視線を遥子に返した後、男は祥平に軽く会釈した。

「彼ね、離婚届に判を押しにきてくれたの」

 遥子の言葉に「写真も持ってね」と図らずも脅すような低い声で祥平は言った。

「写真?」

 怪訝そうに北田は祥平を見た。

 祥平は遥子の手から写真をむしり取り、男に叩き付けた。

 男はむっとしたようだったが、一枚一枚丁寧にゆっくりと見た。とりわけ驚く様子もなかった。

「こんな手をを使わなくてもいいじゃないですか。この女たち、知ってますよ。昔付き合ってた人ですからね。でも日付が間違ってますよ。遥子さんと付き合いだした時はきれいな身でした」

 男は真っ直ぐに祥平を見た。興信所がでっちあげたのか、と僅かばかりの疑問を起こさせるほど堂々たる態度に見えた。焦るでもない男に、祥平は自分がとんだ間抜けに思えてきた。

「でも…」

 通子が聞こえるか聞こえないかの声で言った。

「この写ってるセーター、私がプレゼントしたものよ。半年ほど前に」

 通子は一枚の写真を北田に差し出した。

 えっ? 北田の目が微かに動いた。が、すぐにまた自信たっぷりな表情になった。

「そりゃ、貰ったときは言わなかったんだけど、同じものだったんだよ。どこかで見たなって気がしたけど、そうか、前に持ってたのと一緒だったんだな」
 
 どうしようもない大嘘つきだ。まさか信じやしないだろ、祥平は遥子を見た。

 遥子の瞳が揺れている。男の言葉を信じたい。が、信じるのは彼女の理性が許さない。

「じゃ、俺はもう用ないから、判押すよ。どこだい、離婚届ってのは」

 遥子は動かなかった。茫然としたまま動けない様子だった。

 三人無言のまま、時間が流れた。

「いいよ。別に押してもらわなくたって」

 男は憮然と言った。

「僕を信頼できないなら何の意味もない」

 どうやら信頼を回復するのは不可能だと、北田はゲームを投げたようだった。

 遥子の目から涙がこぼれた。そして頬を伝っていった。

 貴様、遥子を泣かすのか。俺だって一度も泣かしたことのない遥子を。祥平は立ち上がり、男を睨み付けた。

 今になって思えば、あのとき泣かしたのは自分なのだ。原因を作ったのは自分なのだ。かといって、あのまま女たらしに騙されるままにしておいた方がよかったというのか、何度も祥平は自問した。

 いや、そうじゃない。でも調べたのは男のしっぽをつかむことで遥子に仕返しをしてやりたかったからだ。遥子を思ってやったわけじゃない。遥子に仕返しをしてやりたかっただけなのだ。

 047…。自分の番号まであと二人になっていた。

 祥平は窓口にすわる女たちを見ながら、この中にアサミはいるだろうか、と思った。確率低しか…。名字は何だったか…。確かありふれた名たった。覚えてくれたかい? 桂は言い、ああ、と祥平は答えた。何だったか…。林…。そうだ林だ。

 しかし、どうやって聞くというのだ。あの、林アサミさんはいますか? 友人から伝言を頼まれたものですから。あ、今日はお休みですか。は、伝言ですか。あ、友人が言いますには、つまり…すまなかった、と…。それだけなんですが…。

「49番の方、3番窓口にどうぞ」

 祥平の番だ。印鑑を忘れた、と芝居でもうって帰るか…。

「お待たせいたしました」

 新入社員だろうか、ひどく幼い顔の行員が微笑んでいる。

「口座を開こうと思ったんですがね、あいにく印鑑を忘れちゃったもんですから…」

「そうですか。せっかくお待ちいただきましたのに…。もし、今日すぐ戻られるようでしたら、こちらの窓口までいらして下さい。お待たせすることなく応対させていただきますので。わたくし、米倉と申します」

 気のよさそうな子だと思った。この子になら、林アサミさんって方いますか? と気さくに聞けそうな気がした。道でも聞く感覚で。

「あの…」

「はい?」

「こちらに、林アサミさんという方勤めていらっしゃいますか?」

「林アサミ…ですか?」

 女の子は首を傾げた。

「しばらくお待ちください」

 そう言うと奥に入っていき、事務をしている少し年季の入った行員に聞いている。おいおい、そんな奥まで行って聞くことないだろ。知らないなら働いてないってわけだし、そんな難しい質問じゃないだろ。イエスかノーか、それだけでいいんだ。

 が、今さら駆け足で逃げ去るわけにもいかない。そこで余裕を見せ、脚を組み、顎を引いた。

 聞かれた方の行員は少し怪訝そうな目をして祥平を見たが、二言三言、新人に答えていた。

 戻ってきた新人は笑顔を作り直すと、祥平に言った。

「申し訳ございません。少し前まで林という行員がおりましたが、今は退職しております」

「あ、そうですか。どうもすみませんでした」

 祥平は軽い感じで言い、立ち上がった。



 カウンター式のコーヒーショップでコーヒーをすすった。

 もし、林アサミがいたら、どう言ったのだろう。

 桂という男に頼まれたんです。ご存知ですね。一言すみませんでしたって伝えてくれって頼まれたものですから。事情はよくわかりませんが、彼がそう言ったんです。はい、一言すみませんって伝えてくれ、です。桂は手紙も何枚も書いては破って捨てていました。こんな手紙が来たら、迷惑だよなって。ただ、私にはこう言ったんです。もしあの支店の近くに行くことがあったら、林アサミという行員がいるかちょっと見てほしい、もし、もしもいたら、一言伝えててほしいんだ。すみませんでしたと。

 全くあいつも要領が悪い。

 最初見たとき、嫌なやつだと思った。似ていたからだ。あの男に。遥子がたぶらかされた北田という男に。体つき、顔、祥平を見る視線まで似て思えた。実際、遠目に見たら、同じ男だと思ったかもしれない。しかし、どうしたわけか気が合った。次第に互いの事情を話すようになった。桂は最初から祥平のことを気に入ったのか、無口な彼が祥平にだけは口を開いた。その理由はなかなか言わなかったが、ある日、ぽつりと桂は言った。トミさんには、男気があるからだよ、初めっからそれを感じたんだ、と。

 男気か…。

 祥平には彼の言う「男気」が何をさしているのかわからなかったが、漠然と男気からは自分がほど違いと感じた。もし、男気があれば、あんなことはしなかった。

 しかし、桂に言われたとき、祥平は嬉しかった。桂のためなら、かなりのことはしてやろう、そんな気にもなった。別に褒められたからじゃない。自分にまだ残されていると信じたいその何かを男気と呼ぶなら、その存在を自分より先にみつけてくれた桂に感謝したかったのだ。自己嫌悪に陥っていた祥平は、自分を肯定してくれる何か、それもおべっかなどではない誠実な何かを求めていた。桂はいつもほとんど無表情だったが、「トミさんには男気がある」と言ったときの彼の目はひどく雄弁だった。

 その日以来、二人はさらに親しくなった。奇妙な兄弟感情が生れた。年も知らないから、どっちか兄か弟かも定かでないが、ただ、兄弟間でしか味わえないような信頼関係が生れた。だから、桂も今まで誰にも言ったことがない秘密を祥平に打ち明けたし、祥平も自分の気持ちの自己分析などおよそ彼らしくないことまで桂の前では口にした。

 桂はどこかもろい内面をもっている、祥平は感じた。その桂がアサミという女に惚れている。が、事情が事情で一言謝りたいが謝れない。本気で祥平にアサミに会いに行けといったわけではないだろう。ただ、言わずにいられない何かが桂の心に常に存在していたのだ。

 あのスクランブル歩道橋の横さ、わからなかったら歩道橋をのぼってみてくれよ。すぐわかるからさ、そう言ったときの真剣な眼差しの桂に「行けるときがきたら一番にいくよ。他に目的もないからさ」祥平は答えた。

 カフェのレジで金を払う際に、店内の奥にいる女が目に入った。どこかで見た女だ。そうか、歩道橋の女だ。よかった、少なくとも歩道橘は下りたのだ。相変わらず疲れて見えるが、疲れた女、疲れた男、そんなのを数えたら、きりがない。

 祥平は街を歩いた。どこに行くあてもなかった。ただ、何とか林アサミに会えないものかと思いながら歩いた。ジャケットのポケットに手を入れて歩いているうちに、いつのまにか陽射しは傾き、影は異様に長くなっていた。

 こんな夕暮れ時、遥子と歩いたものだった。自分の影の横に遥子の影があった週末の買い物どき。大切にしていたつもりだった。遥子の望むままにさせてやりたい、そう思ってきた。だから、ことある度に言った。君が決めろよ、と。君が好きにしてれば俺は満足さ、そんな愛情表現のつもりだった。

「あたしね、これからの人生どうしたらいいかって時々思うの。何が価値あるものか、何を目標にするのかって」

 遥子が物思いに浸った様子で言ったときも、祥平の答えは同じだった。君が決めろよ。

 遥子の心はあの日を境に少しずつ離れていったのかもしれない。遥子はひどく淋しげな目で祥平を見ていた。

 電車に乗った。遥子と暮した街へ行ってみようと思った。あの事件当時に住んでいた街に戻る勇気はなかったが、新婚当時住んでいたあの街なら、行けそうな気がした。

 おまえ、傷つきたいのか、自嘲してみる。感傷に浸るって柄でもないだろう。

 いや、そういうわけでもないさ。気を取り直す。他にないじゃないか、行くところが。

 取りあえず、好きだった街だ。都会の片隅にありながら、時間がゆったりと流れる街。

 そうだ、それがいい。あの街をゆっくり歩いて食事でもして、街のはずれにあったビジネスホテルにでも泊まろう。

 目的らしいものができ、祥平の気持ちが和らいだ。感傷に浸るのは今日で終わり。明日からは新しい日だ。

 電車の窓。ビルの間に夕陽が見えた。夕陽は夕陽色ではなく真っ赤で妙に大きかった。その妙に大きく真っ赤な夕陽を眺めているうちに現実離れした感覚に陥っていく。危ないな。今ほど、現実を見つめていかなければならない時はないってのにさ。



 駅前はさほど変わっているようにも見えなかった。もともとタクシー乗り場もないような小さな駅だ。

 細い商店街を歩く。魚屋と惣菜屋から流れる匂いも以前のままだ。よく入った中華料理店が目に入り、急に空腹感におそわれてのぞいてみた。しかし店内はすっかり変わっていて以前の面影はない。

 再び通りを歩き出す。右に曲がってすぐ左へ。商店街を一本ずれた道を北へ歩く。ニ十分ばかり歩くと大きな自動車道にぶちあたった。角のとこにファミリーレストランができていた。そこら中にある大手のファミレスとは違い、少し格が上、というかシックに華やいだ雰囲気で、家族連れより恋人どうしに向いていそうな趣だった。

 わたしね、なぜかね、ファミレスが好きなの。広くて安くてコーヒーのおかわりができるところ。お腹なんか空いてなくてもついふらりと入っちゃうの。コーヒーのおかわりいかがですか?なんて聞かれると、ええ、じゃお願いします、なんて、まだ半分以上残ってるコーヒーぐいっと飲んで差し出しちゃうの。どうしてかしらね。ファミレスって食事をしたりコーヒーのおかわりしてる間は時間が止まっててくれそうな気がするのよね。ゆっくり雑誌かなんか読んでてもそんなに嫌みな目向けられることもないし…。だからね、ファミレスにいる時間は猶予の時間に思えるの。何していいのかわからない私にとって何か意義あることをするまでのね。

 遥子はそう言った。もちろん、結婚したら無駄なお金は使わないようにするわ、と付け足す彼女に、いいさ、行きたいだけ行けよ、一日何回でもさ、笑いながら言うと、遥子は唐突なほど嬉しげに笑った。

 一緒になってから、遥子は空いた時間をどのように過ごしていたのだろう。祥平がいない一日の大半の時間…。時々は、やはりファミレスに来て、ぼんやりコーヒーを何杯も飲んでいたのだろうか。遥子の夢ってなんだい? 一度も聞いてやらなかった。遥子の挫折感を理解しようと努力したこともない。そんな自分と比べて北田はよき聞き手だったのだろうか。

 祥平は何かにひかれるように店内に入った。遥子がいる、そんな気がしたわけではない。ただ、猶予の時問が欲しいのはまさに自分だった。

 適当に食事を注文しよう。何よりコーヒーをお代わりしよう。コーヒーお代わりいかがですかと聞かれたら、やあ、お願いしますよ、とにこやかに答えよう。

 いらっしゃいませ! 店長らしき女性が明るい声をかけ、続いてアルバイトらしき子がメニューを抱き抱えるようにして近づいてきた。

 案内された隅のテーブル。窓を背にして祥平はすわった。

 メニューを開く。写真つきの分厚いメニュー。コンビネーション、というのがやけに多い。ロブスターとステーキのコンビネーション。ハンバーグとエビフライのコンビネーション。照焼きチキンにカキフライのコンビネーション。

「じゃあ、このシーフードプレートでお願いします。コーヒーをつけて」

 コーヒーを先に、とつけ加えるのも忘れなかった。

 外はすっかり暗くなっていた。一つ間をおいたテーブルではすでにデザートが始まっていた。どでかいアイスクリームの盛り合わせ。祥平はテーブルに立ててあった写真付きのデザートメニューを手に取った。この写真の実物があれってわけか。裏返すと、ショートケーキにろうそくが3本たった写真がある。お誕生日の方には当店から心ばかりのバースディケーキをプレゼントいたしますとある。

 バースディケーキ…か。

 昨日が遥子の誕生日だった。そして今日11月14日が祥平の誕生日。いつも13日の夜、ワインを飲みながら一緒に祝った。12時を回ると、さあ、今からは祥平のパーティね、とケーキにろうそくを立て直した。

 三年前までは一緒に祝った。三年前となると既に北田と付き合いはじめていた頃だ。遥子の変化に気づいていただろうか。気づいていたと思う。でも、目をつぶった。女は気まぐれだから、情緒不安定だから、と。

 いけない。また遥子のことを考えている。

 今日はいい旅立ちの日じゃないですか。今朝の山岸の言葉を思い出す。顔中、皺で埋め尽くされたような疲労感漂う男だったが、その目はいつも澄んでいた。いかつい顔立ちにもかかわらず、清らかな印象を与える不思議な男だった。目は充血し、腫れぼったい瞼のこともあったが、いつも澄んでいた。魔力はその視線だった。その視線はひどくストレートで影がなかった。裏がなかった。じっと見つめてぼそりと一言、二言、言う。桂以外に言葉を交わした数少ない人物だ。そして、彼も二度ほど姿を変えた。思春期にも似通った姿に変わった友人がいたが、毛の長い猿科の動物に近かった。決して人間より劣って見えたわけじゃない。猿の惑星の映画のシーザーに似た強く知的な視線をしていた。どの人間よりも知的で堂々としていた。

 桂が姿を変えたのは、明らかに猫科の何かだった。猫でもヒョウでも虎でもピューマでもチータでもない。耳が大きくて長く、目が青みがかっていた。最初に桂と心がつながったと思った瞬間、桂は姿を変えていた。祥平の視線は泳いだ。

 なんだ、何に近いんだ。今までこんな変身は見たことがない…。

 カラカルだよ。

 桂は言った。

 カラフル?

 いやカラカルだ。

 カラカル…。

 後で図書館で調べてみた。スマホだったら一発でわかるのだろうが、不便なことだ。

 カラカルってこれか…。

 それは確かに姿を変えた桂に似ていた。

 妄想ではないと思ったが、100%確信はできなかった。幻視だけではなく、幻聴もあるのか…。桂自体が存在しているのか…。

 いや桂は確かに存在しているのだ。アサミだっているはずだ。

 

 いい旅立ちの日じゃないですか、そうだ、そう山岸は言ったのだ。今日が祥平の誕生日だと知っていたわけでもないだろう。祥平は笑おうとしたがこわばったままの顔で、うなづいた。

 やがて賑々しいシーフードプレートが運ばれてきた。ありがとう、とウエイトレスに目で言ったとき、手洗いのサインの方へ入っていく一人の女が目に入った。

 あの女。

 確かにあの女だ。

 祥平は混乱した。どうしてあの女がここにいるのだ。偶然にしてはあまりにおかしい。

 そうか…。そうなんだ。

 数分後、再び女は戻ってきた。

 視界の端で見るともなく女の様子を探ると、女もときおり視界の端で祥平の方を見ている。

 祥平は急いで料理を平らげ、女がスパゲティらしい料理を食べ終わるのを待った。女は半分ほど食べたところでフォークを置いて皿を押しやり、見つめられているのを知っているかのように、ゆっくりを顔を上げ、祥平を見た。

 拝平は立ち上がり、女のテーブルの方へ歩いていった。

 女はそんな祥平から目を逸らさなかった。

「すわってもよろしいですか?」

 女は頷いた。腰かけると祥平はできるだけ心を落ち着けようとした。

「三度目です、私が今日あなたに気がついたのは。まずは、ある駅前の歩道橋の上でお会いしました。私が歩道橋の上でひどくぼんやりしていると、やはりぼんやりしているあなたがいましてね、大丈夫かなと心配したほどです。でも、近くのカフェで再びあなたを見かけ少し安心しました。ここまででしたら、単なる偶然、さほど不自然でもないでしょう。けれど、またここにあなたがいるとあっては、考えられることは一つです。あなたは私をご存知ですよね」

「富岡さんですね」

 女は慌てるふうでもなく言った。

「あなたは?」

「三原といいます」

「三原さんですか。無駄足をさせては悪いから言いますよ。私は場所なんか知りませんよ」

「は?」

「あなた、私が友達からある物の場所を聞いたと思っているんでしょう。無駄な時間を取らせては申し訳ないですからね、言っときますが、神に誓って私は知りませんよ」

 三原は祥平を見つめた。

「それにあなた、テールが下手すぎますよ」

「はい?」

「ずっとつけてたんでしょ。ここまでついて入ってきちゃ、誰だって気づきますよ。この仕事始めて間もないんですか?」

「い…いえ」

「私の友人の調査の一環ですよね。それとも私のような人間にはしばらく見張りがつくってわけですか? なんせ初めてのことでよくわからないんですがね」

 祥平はだんだん皮肉っぽくなっていった。

「まあ。いいか。とにかく私は知りませんよ。私をつけてたってドラマみたいに地面を堀りおこしたりはしませんよ」

「あの…桂から…何も聞いてないのでしょうか」

 桂、と言う女の目が鋭くなった。

「ええ、事件のことはね。いくら私たちが親しく見えてもそんなことは話しませんよ。あなたもプロだったら、それぐらいわかるでしょう。ま、上からの命令なら仕方ありませんがね」

 三原はしばらく黙っていたが「今日、誕生日ですね」と言った。

「そうか、それも知ってるわけですね。出所の日が誕生日っていう馬鹿げた偶然です。…あなた、私のことどれほど知ってますか。…離婚した妻のことも知ってますか?」

 そう言ってから祥平は馬鹿馬鹿しくなった。この女が知りたいのは桂に関することだ。自分の別れた妻のことなど知るはずもない。

「狩野遥子さんですね」

 祥平は思わず目を見開いた。体が一瞬動かなくなった。思ってもみない答だった。

「元気にしてらっしやいます」

「元気…ですか。遥子のことを知ってるんですね」

 祥平は混乱した。と同時に怖くなった。遥子が今どうしているか、何よりも知りたかったが、知るのはどうしようもなく恐かった。

「遥子は…一人ですか」

「一人…というか…。あの…お子さんがいらっしゃいます。一才になったばかりの」

 えっ…。

 祥平は耳を疑った。いろんなことを想像していたが、なぜかそれだけは思わなかった。七年間の結婚生活で子供は出来なかった。どちらからも検査しようという話は出ず、祥平は遥子には子供が出来ないのだ、と漠然と思っていた。自分に欠陥があるとは思わなかった。

 1才か…。あの男の子供だ。祥平の子である可能性はない。

「未婚の母ですか」

「ええ」
 
 三原は頷いた。祥平の中で激しく感情が渦巻いた。遥子への想い、この二年間ずっと抑えてきたやり場のない遥子への想いが渦巻いて、一つの決心となってストンと落ちた。

 誰の子でもかまわない。俺が守る。幸せにする。表立って出来ないのなら、陰で見守る。遥子が許してくれるまでずっと。

 そうだ、懇願して面倒を見させてもらおう。あまり体が強いとはいえぬ遥子が一人で子供を育てるのは大変だ。自分がどれだけ後悔し、遥子のことを思い続けていたか、正直に話そう。自分自身に正直になれるとき、遥子に対して正直になれるときがあるとしたら、今しかない。遥子の子なら自分の子のように愛そう。愛せると思う。いや、必ず愛せる。あの男の子だってかまやしない。七年近く自分のことを愛してくれた遥子じゃないか、あの男の出現まで。
                         
 けれど……。祥平は肩を落とした。子供の父親にあんなことをした男を遥子は許せるだろうか。予供が大きくなり事情を知ったとき、父親気取りだった自分を憎みはしないだろうか。

 無理な話か…。

 あの日、祥平は男の横っつらを張りとばした。遥子を泣かせた男の横っつらを。

「遥子さん、やっぱり君の言うとおり彼ってデリカシーのない野蛮人だね」

 嘲るように男が言った。我に返った瞬間、祥平は男の首ねっこを捕まえ、壁に叩き付けていた。

「やめて!やめてよ!」

 遥子が叫んだ。が、祥平の手は止まらなかった。通子の声に重なって自分の声とは思えぬ声が聞こえた。

「殺してやる!」

 男はパニックで飛び出し、マンションの螺旋階段で足がもつれ、転がり落ちた。後頭部を打ち、意識不明。

 長期に渡るリハビリが必要な怪我を負った。実際祥平が殴って与えた怪我はそれほど大きくなかった。しかし祥平の暴力が原因で階段を転げ落ち、生死に関わる大怪我をしたこと、殺してやる!という凄みのある声を聞いていた者がいた、などの点が重なり、一年半の実刑になった。

 遥子は客観的に証言してくれた。涙を浮かべ、決して祥平の顔を見ようとはしなかったにしても。

 北田に対しすまないと思っているだろうか、自虐的な気分の時など、ことさら問ってみた。が、答えはいつも同じだった。殺してたら後悔しただろう、すまないと思っただろう。だが、祥平が男に与えたくらいの肉体的痛みは当然だ。大怪我は自分でしたんだぞ。自分で転げ落ちたんだぞ。それを何だ。殺されると思って夢中だった、逃げなかったら殺されたに違いない、とは。肝の坐ってないやつだ。ばちだよ。ばちがあたったんだよ。

 あんな北田の子でも本当に可愛がれるのか。まだ、心に痛みがある。いつになっても消えない傷がある。傷は乾くことを知らない。けれど、出来るはずだ。出来なければ…。

 それが男気ってもんだろう。桂の言った男気ってもんだろう。

 遥子を愛している。別れてからの時間は遥子に対する愛情の再確認の時間だった。愛情は植物を育てるように育まなければいけないとも悟った。遥子が淋しそうな顔をしたとき、興味の違いから会話がなくなったとき、祥平は何もしなかった。

 男気だけでは駄目だったんだ。自分には繊細さが欠けていた。

 遥子…。子供を生み、育てているというのなら、親戚に恵まれぬ遥子のこと、自分が助けなくて誰が助ける。自分ほど彼女を愛しているものはない。遥子に会うきっかけを作ってくれるのなら、あの男の子でも感謝しよう。遥子と自分を再び引き合わせる口実を作ってくれるなら、それだけでまだ会わぬ幼い命に感謝しよう。
 
 祥平は涙ぐんでいた。

「今、どこにいるんですか、彼女は」

「知ってどうするんです?」

 三原という女は聞いた。

「会いたいと思います。でもご心配なく。彼女に迷感かけるようなことはしませんから」

「あの…お会いにならない方がいいと思います」

「どうしてですか?」

「今度、結婚されるんです」

 結婚…。結婚…か…。…そんなこともある…わけか…。 
 
 どこか淋しげな目をした遥子。可憐な遥子。子供がいたって彼女なら好きになる男がいても不思議はない。

「そうですか…」

 祥平は大きく溜息をついた。体中からエネルギーが抜け出て、小さく小さくひからびてパリンと割れてしまいそうだった。

 三原が祥平を見つめていた。女の前で泣くなんて…。けれど、泣けてきた。急に出現した可能性、希望に有頂天になっていたときだけに、一旦、流れ出すと涙はとまらなかった。一年半、思い出の中に生きてきた。そんな毎日の中、心だけが妙にもろくなっていった。遥か昔、大人の体型に達したとき、自分の中の感傷的部分を捨てた。そうすることで大人になったつもりだった。しかしもともとは泣き虫だったのだ。

「そうですか。相手は? どんな男ですか? そこまでは三原さんもご存知ないですよね。それに…どんな男か聞いても意味ないですね」

 三原が見つめていた。何とも気の毒そうに見つめていた。

「キタダです」

 キタダ…。

「北田…ですか」

 祥平は一瞬にして憔悴した。塀の中では誰も遥子のことを教えてくれなかった。面会に来てくれたものもいない。遥子と同じ世界に出ても彼女には近づくまい、そう決心していた。ただ、幸せかどうかは確かめたい、それだけは思っていた。

 遥子が北田の子を産み、北田と結婚する…。

 祥平は呆然と宙を見ていた。

「富岡さん」

 三原の穏やかな目が見つめている。その瞳が何か言いたげだ。

「私、あなたが思っているようなものではありません」

「え?」

「私、以前は林と言いました。林あさみです」

「桂の…アサミさん…ですか?」

「はい」

「でも三原と言いましたよね。…ああ、結婚なさったんですね」

「いいえ」

「違いますか?」

「離婚したんです」

 離婚…。

「前の夫の姓が林でした」

 桂はアサミが結婚していたことなど言わなかった。

「少し前、桂から手紙をもらいました。最初で最後の手紙だろう、と書いてありました」

 アサミは封筒を差し出した。差出人は高坂真由美となっている。

「高坂?」

「ええ、彼、私か離婚していること知らないので女の名前の方がいいと思ったんでしょう。私は字からすぐ桂からだとわかりましたけど…。どうぞ、読んで下さい」

「いいんですか?」

「ええ、富岡さんなら構わないと思います」

 アサミは封筒から手紙を取り出し、最初の一枚だけ渡した。達筆だった。

 お元気ですか。
 変な書き出しですが、他にどう書いていいのかわかりません。
 迷感だと思い、今まで連絡しませんでした。あなたの方も事情があることですから、連絡がなくても不思議はありません。
 ただ、こんな生活だと同じことを繰り返し繰り返し思ってしまいます。そしてあなたがどういうふうに毎日を過ごしているのか、何より幸せなのか、気になります。
 私がこうなったあと、あなたは一度だけ会いに来てくれました。そして、もう一度ご主人と頑張ってみると言いました。
 でも最近時々、あなたが幸せではないのではないか、そんな気がするのです。私はあの時、ひどいことを言いました。君のためにやったのに、君はご主人の元に帰るというのか。もう二度と僕の前に顔を出さないでほしい、と。
 でも今の私にはわかります。あれは自分のためにやったのです。誰のためでもありません。そして失敗し人を傷つけました。あなたには心から謝りたいと思っています。
 今の私はあなたにひどい言葉を吐いた男と同じ人間ではありません。もちろん、あなたのことを恨んでもいません。ただあなたの幸せを心から祈っています。それだけ知ってもらいたくてこの手紙を書きました。
 あなたが今、幸せに結婚生活を送っているなら、この手紙はすぐ破って捨てて下さい。
 万が一あなたが今幸福でなく、私のことを知りたいと思っているならば、富岡祥平という男をたずねて下さい。11月14日にフリーになる男です。彼に私のことを聞いて下さい。私の様子を聞いて下さい。彼は私がここで唯一信頼した男です。
 ただ、私に会いには来ないで下さい。もし会える時があれば、私があなたのいる世界に出れたときです。私は普通の人間として会いたいのです。

 読み終わった祥平は顔を上げた。

「二枚目に富岡さんのことが書いてありました。だから…」

「それで、私のことも知ったわけですか…」

「ええ…。富岡さん、私は卑怯な人間です。彼があんなことになったとき、私は無関係でいたかったのです。何があっても一緒にいたいと思ったはずの人でしたのに…。私は自分を偽りました。彼とのことはちょっとした不倫だったのだと…。そして主人との生活を続けようと決心しました。でも世間の目はごまかせても自分はごまかせません。結局一年前に離婚しました。今はなんとか自活しています。慰謝料ももちろん貰いませんでした。私の方に非がありますから」

 アサミはうつむいたが、気を取り直したように顔を上げた。

「それで、桂が言うとおり、富岡さんに会いたいと思いました。桂は富岡さんもこれから本当に幸せになってほしいと思っています。手紙からでも、その気持ちがわかります。で、私、富岡さんにお会いするからには、私の方からも富岡さんのためになる何かをお知らせすることができないか、と思って…。勝手に調べたりして、すみませんでした」

「いいんです。感謝したいくらいです。あなたから聞かなければ、遥子のことも知ることが出来なかったでしようし…」

「知らなかった方がよかったってことありませんか」

「いいえ」

 祥平はきっぱり言った。

「落ち着かれてから、桂が書いてきた住所にお尋ねするっていうことも考えました。でも、できるだけ早く桂のことを聞きたかったんです。だから、今朝起きると心は決まってました。で、富岡さんのことずっとつけていました。いつ声をおかけしようかと思いながら、ずっと後をつけて…。機会を見つけられず尾行みたいになってしまって…でもここで食事が終わったとき、声をおかけするつもりでした」

「このレストランでやっと気づくなんて、こっちも鈍いですよね」

 二人は顔を見合わせ、微笑んだが、祥平はすぐに真面目な顔になった。
       
「あの…遥子に実際会われましたか?」

「面と向かって話したわけではないんです。でも、それこそ調査員のように調べました」
 
「元気そうでしたか」

「とても。それと…可愛らしい、健康そうな赤ちゃんでした」

「そうですか…」

 北田は心を入れ替えていい人間になったと思いますか、聞いてみたかったがやめておいた。人間そんなに本質が変われるものじゃない、それにこの人とは関係ない話なのだ。

「桂は幸せです。ついてない愚か者にしても幸せな男です。待ってくれる人がいるんですから」

 アサミは少し淋しそうに微笑んだ。

「桂は馬鹿です。大馬鹿者です。運動神経あまりよくないのに…。車の運転だっていつも慎重にって私、口を酸っぱくして言ってましたのに…。その彼がバイクですから。バイクなんですから」

 一匹狼で、あるところから金を盗んだ。かなりの金額だった。念入りに計画を練った甲斐あって金を手に入れるところまではうまくいったが、バイクで逃げる途中、人をはねた。そのまま逃げたが、そのことから足がついた。三日後、捕まったとき既に金は手元になく、逃げる途中落としたと言い張った。

「愚かですよね、人間って」

「いや、賢い人間もいます。愚かな人間もいますが、損をする人間もいれば得をする人間もいて、何でも両方向あるもんですね」

 話しながら、これは桂の話し方だと思った。普通ならこんな話し方はしない。祥平はアサミを前に、桂の話し方をしている自分に気づいて可笑しくなった。

「富岡さん」

 アサミが見つめた。

「彼、お金どうしたか、言いました?」

「いや、それだけは言いませんでしたよ。まだどっかに隠しているのかな。それともほんとに落としたのかな。誰もそんなこと信じちゃいないみたいですが」

「…彼のこと、もっと知ってもらうためにはこれだけは言わなければなりませんね。桂は逃げる途中落としたと言い張りましたよね。でも、そうではないんです。だけど、もう持っていません。しかるべきところに匿名で寄付したんです。もともと盗んだ金はそこにあるべきではないお金で、盗るのは義賊としての役目だって言ってました。金を返すのはしゃくだったんでしょう。捕まるまでに三日ありました。その間、彼なりに考えて役立つところに寄付したって言ってました」

「じゃ、手元には少しも残してないんですか」

「ええ、一銭も。全く何のためにやったのか…。あ、こんな言い方不謹慎ですよね」

「アサミさん、あなたはそれを信じてますか」

「ええ」

 アサミは静寂ともいえる目を向けた。人生を知りつくしたようで、それでいて世間知らずのような不思議な目をしていた。

「彼は一体何のために事件を起こしたんですか?」

「最初はやはり、私と一緒になるためだったのかもしれません。夫が資産家でしたから、自分もある程度の金がなければ私と一緒になる資格がないとでも思ったようでした。桂は銀行員っていっても地方銀行の中途採用で、雑用のようなことしかしてないしお給料もエリートコースとは雲泥の差だと言ってました。誰も傷つけることなく、もちろん私にも知られず完全犯罪を決行するつもりでいたんです。私の踏ん切りの悪さがそうさせたわけですけど…。けれどそれだけの理由で人間あんな大それたことしないと思います。桂には危うい何かがあるって感じることがありました。計画が狂い、捕まるのは時間の問題になったとき、金を戻すよりどうせなら有効に…変な言い方でしょうか、有効に使いたいと思ったようです」

「それで寄付ですか…」

「ええ」
 
 アサミはそれを信じている。

 祥平は桂の少し語尾を引く癖のある話し方を思い出した。

 トミさん、馬鹿とはさみは使いようっていうけど、違うね。馬鹿と金は使いようさ。ある馬鹿が金を盗って隠した。その金はちょっと曰くのある金でね。馬鹿は捕まって檻に閉じ込められるが、その間に馬鹿は考えるのさ。どうやって金を使おうか、どうやったら有意義に使えるか。もし、その金を意味ある使い方できたら、馬鹿は馬鹿でなくなるのさ。

 桂はまだ金を持っている。どこかに隠している。祥平を信じて、馬鹿と金の話をした。

 その話をした時、桂はそれまで見せたことのない顔をしていた。その時はカラカルには変身していなかった。その瞳が僅かに揺れて光っていた。あれが何だったのか祥平にはわからない。ただ、このアサミも知らないだろう桂の影の部分が揺らめいていたのかもしれない。
                                
  トミさんが出たら、きっと尾行がつくよ。僕がトミさんにしゃべったと思ってるのさ。身内でちょっと金が必要な事情があるのも事実だからね、家族への金渡しを誰かに頼むと思ってるのさ。ま、適当にエンジョイしてくれよ。いきなり地面を掘ったりしてみるのも面白いかもしれないな。そう言い、彼にしては珍しくむせるように笑った。

「あの、アサミさんはカラカルって知っていますか?」

「カラカル? 何ですか、それ」

 アサミは知らないのだ。やはり自分は特殊か…。

「ちょっとすみません」

 アサミが席を立った。その後ろ姿に思う。桂、おまえの方が幸せだぞ。出れるまでにしばらくあるとしてもさ。

「あちらからお移りになったんですね。コーヒーカップ新しいのお持ちいたしました」

 さっきのアルバイトの子が、持ってきたコーヒーカップに新しくコーヒーをなみなみと注いでくれた。
 
 しばらくしてアサミが戻ってきた。
 
 祥平は目を見開いた。

 アサミが両手で大きなケーキを持っている。デザートメニューに載っていたちっぽけなサービスケーキではなく、大きな見事な丸いケーキだ。祥平の体が硬くなる。いや心が硬くなる。硬くしなければ、自分の中で渦巻いた爆発寸前の感情が溢れ出る、そんな気がした。

 アサミはゆっくりとケーキを祥平の前に置き、祥平の目を覗き込んだ。

「富岡さん、お誕生日おめでとうございます」

 温かく静かな声だった。

「あ…」

 ありがとう、は声にならなかった。

「お誕生日ならお店の人たち全員で歌を歌いましょうかって言われたんですけど、お断りしましたよ」

 アサミはにっこりすると、マッチを擦りろうそくに火をつけた。大きめのろうそく四本、小さなろうそく二本、一本ずつ灯していく。

 そして、祥平にだけ聞こえる小さな声で歌い始めた。

 ハツピーバースデイ ツゥーユー
 ハッピーバースデイ ツゥーユー
 ハッピーバースデイ ディア しょうへいサン
 ハッピーバースデイ ツゥーユー

 少し音程の外れた、けれども優しい歌声だった。

 祥平はおそるおそる火を消した。

 大きいろうそくが一本だけしぶとく揺らめいていたが、それもなんとか消えた。

「願いを唱えましたか?」

「あ…」

「もう一度つけましょうか?」

 アサミが再びマッチを擦ろうとする。

「い、いいですから…」

 祥平はかすれた声で言った。いいですから、ほんとに…。

「はい」

 アサミは手をとめた。

 願いったってなんて言っていいかわからない…。

「さあ、食べましようか。ケーキなんて久しぶりだ」

 祥平は陽気を装った声を出しながら、キャンドルを抜いた。大きいキャンドル四本、小さいキャンドル二本…。

 最後の一本を抜きながら、祥平は心でつぶやいた。

 ハッピーバースディ ツゥー........ミー......

桂アキト


商店街に入るといつもホッとする。古き良き街という、それこそ古くさい形容がよく似合う石畳の商店街。各停しかとまらぬ駅から南北に続くその商店街に入ると、夕暮れどき、人通りが多い時でも、自然に歩調がゆったりとなるのは不思議だ。この商店街の魅力だと思う。

 この店も閉店か。以前は梅干し専門店があった。間口が2.5メートルほどの小さな店だった。一粒千円の梅干しもあった。上に金箔がのっていてどっしりとした柔らかそうな梅干しだった。深みのある色をしていた。

 店員は愛想がなかったが、桂は2個セットを2000円で買って、アサミに渡した。アサミは微笑み、これなあに?というように四角い小さな包みをくるくる回してみた。

 桂アキトにはフォトグラフィックメモリーがあった。一度見たものはその気になれば細部まで思い返すことができた。いつだったか自閉症のサバン症候群でフォトグラフィックメモリーを持っている青年のドキュメンタリーを見た。本の内容を一字一句違わず瞬時に覚えられるものもいれば、難解な式を一瞬で計算できるものもいる。見たものそっくりに細部まで絵を描けるものもいる。

 アキトの記憶力はそれには及ばないが、その気になれば細部までかなり正確に思い起こすことができた。数学、化学、統計、物理、これらの理系科目において瞬時にて理解できるという特殊能力を持っていた。

 ただ入試では失敗した。科目による差が大きすぎた。結果、中の中の国立に入った。大学だけは出て欲しいという母の願いにしたがった。アキトはすぐに自力で稼ぎたいと思っていたし、また稼ぐアイデアも湧いてきていた。そしてハッカー仲間では名が通っていた。しかし、母の手前、大学だけは卒業し、就職もした。

 商店街が大きな基幹道路とぶつかる手前にあるペットショップ、そこでアサミと出会った。アキトは犬が好きだった。無口な店長は買う気がないアキトを好きなだけ居させてくれた。

 アサミは銀行勤めだったが、土曜日だけ数時間、ペットショップを手伝っていた。あらゆる動物が好きだったのだ。

 そのペットショップだった場所は今ではブランドもの買取の店に変わっている。そして「ペットショップのんた」はルネビルに移った。


 アキトはルネビルのインテグリティグループの一員となった。

 インテグリティに入るきっかけは刑務官の山岸だった。アキトと同じくレイヤー族だった山岸とは刑務官と受刑者の間柄だった。出所の日、彼は言った。「桂さんなら、お金には困らないでしょう。でも人間、道標なしではどんな賢者でも迷子になります。ここを訪れてみてください。あなたが住んでいた街にあります」

 彼が差し出した紙に書かれていたのは

 カフェ ハーヴィ



 アキトがカフェ ハーヴィの鐘を鳴らしたのは、今から6年ほど前のことだった。銀髪の目の鋭い女性が5、6歳の女の子とスパゲティを食べていた。カウンターの向こうには緑色のエプロンをつけた、銀色の毛並みが美しいウルフ系レイヤー族がいた。

「いらっしゃい」

 ソフトなテナーだった。



 ルネビルのブルースカイ調査事務所。アキトは今ここのIT顧問として働いている。一般的調査案件も取り扱うが、インテグリティへのリクルーターも担っている。今はとにかく人材が必要だった。

 ここ数年、人の意識下の差別と憎悪感情が増幅している。民族問題、宗教問題だけをとっても世界中のあらゆる地域で爆弾を抱えている。そこに今まで静かに内在していたレイヤー族の存在の顕在化が進んだら、どうなるのだろう。急に件数が増え出したメタモルフォーシス。メタ族への対応も急がれる。

 刑務所でただ一人だけ友人になった男、冨岡はフィーラーだった。彼も山岸からカフェ ハーヴィのことを聞き、インテグリティの一員となった。ルネビルのテナントと必要に応じ個人事業主として契約を結び、いわば何でも屋的に動く。器用な男だ。自分の中に押し込めていたフィーラーとしての感性も鋭くなり、リクルーターとしても尽力している。人生において絶望感を味わった冨岡だが、今は男として、いや、人間として、いい顔をしているとアキトは思う。

 冨岡とはしょっちゅう会うわけではないが、たまに見かけるとお互い敬礼するかのように額に手をあてる。その瞬間、ふっとほんの一瞬お互い口元が緩む。

 アキトは今、アサミと雑種のジャスパーと暮らしている。彼らのためにも、世の中はより公平でより寛容でより優しくあってほしい。アキトは時折突き動かされるように祈る。祈る。そしてまた祈る。

 


 


 ベランダには小さな蔦のプラントが置かれていた。蔦は灰色のマンションのベランダから垂れさがり、風に揺れていた。先端は枯れて茶色になっている葉もあった。

 一瞬自分がどうしてここに立っているのかを忘れた。空白状態の頭で、蔦の葉をカッパの水かきのようだと思った。小さな鉢。小さな葉。並んで連なる水かきのような葉っぱ。蔦の先はひょろりと伸びて下がり、空中で揺れていた。巻きつくものも見つからず、ひょろりと揺れていた。壁にぶつかる微風に揺れていた。

 なぜかそんな蔦に共感して僕は立っていた。

 もっと素直に言おう。僕はしょんぼり立っていた。何とも頼りない気持ちで立っていた。ここまで抱えていた怒りやどうしようもない腹立ち、苛々がシュッと消えたような味気なさで立っていた。僕に残ったのはその蔓のような、頼りない、よりどころのない気持ちだった。

 僕はズボンのポケットを探った。右手で右のポケットを、左手で左のポケットを探った。同時に左右対称の動作で探った。

 左手に紙の感覚があった。取り出してみると探していたものではなく、何かのレシートだった。

 本屋のレシートか…。日付は8月27日だった。8月27日…。暑い日だった。暑い暑い暑い日だった。朝と夕方、二度雨が降ったが、暑さは少しもやわらがなかった。

 忘れようにも忘れられない日だった。その日を境に僕の時間は性格を変えた。カチッカチッと威勢よく響きながら両腕を大きく振りきっぱりと過ぎて行っていた時間は、その日を境にどんより糸を引きながら這うなんとも薄気味悪いものに姿を変えた。僕自身が時間の中でその得体の知れない物体のように過ぎていくのか、時間自体が僕の周りで過ぎていくのか、僕には区別がつかなかった。   

 塩を撒けたらどんなに楽だろう。昔祖母が威勢よく塩を撒いたように、パアッと。祖母にとっては消滅させるべく物体がはっきりしていた。壁に貼りついたナメクジども。僕も小さな手で塩を振りかけたものだ。手いっぱいに塩をつかみ、振りかけた。するとナメクジはしゅるしゅると小さくなった。

 あの頃の僕には善と悪、美と醜がはっきりしていた。世の中はもっとシンプルだった。未知のことだらけにしてもシンプルだった。そして、まだ何かを「失う」という恐れも虚しさも知らなかった。

 消滅させたい物体がはっきりしない今の僕には、どれだけの塩があっても役に立たない。コントロールを失った僕自身なのか、僕の周りで澱みながら過ぎてゆく時間なのか、それともあの蒸し暑い日を境に、僕の目の前から消えた京子の思い出なのか。京子そのものなのか…。今から会おうとしている男なのか。

 本屋のレシートをくしゃっと丸めてポケットに戻し、右のポケットをもう一度探ったが、やはり何も手にあたらない。そこで胸ポケットを探ってみた。あった。ちぎってメモを書いたクリネックスの箱の一部。ハツキコーポ202とある。頭にしっかり貼りついている住所だったが、なぜかもう一度確かめたかった。

 202。外階段で2階に上がり、2つ目のドアだった。僕は頭がくらっとして、階段を降り、再びベランダの蔦を見上げた。



 ブルースカイ調査事務所のキツネから連絡があったのは朝5時半だった。わかったら真夜中でも時間に関係なく連絡してくれ、そう言う僕を、ほとんど無表情の目で見ていたキツネだったが、時間に関係なく連絡、の部分だけはしっかり聞いていたようだった。目が鋭く細面のこの男をキツネと心の中で呼んでいたが、決して醜いわけではなく、整った精悍な顔をしていた。キツネの部下は目の丸いキツネよりは若い男で、実際に動くのはこっちだろう。害のなさそうな雰囲気を全身から出している、どこといって特徴のない男だった。彼のような男こそ尾行や聞き込みの成功率が高いのかもしれない。キツネの横で、うなづきながら、僕の話を真摯な感じで聞いてくれていた。フリだけだったのかもしれないが。

 そのキツネの声を聞きながら僕は携帯を握りしめ、二度ほど言ったのだ。わかりました、と。携帯を力いっぱい握りしめる僕の大きな四角い爪が巨大に見えた。

 京子は僕の手が好きだった。特に僕の四角い爪が好きだった。ピキュリアーな爪をしている、彼女はそう言った。ピキュリアー、それは彼女がいともたやすく口にする横文字の一つだった。ピキュリアー…僕はしばらくの間、その意味を知らないままだった。何度か辞書で引こうとしたがスペルが分からなかった。だからカオルがピキュリアーと口にするたび、僕は不自然でない笑いを口元に浮かべるのに必死だった。

 ピキュリアーがpeculiarだと教えてくれたのはマコトだ。海外教育組の彼は垢ぬけした顔の配置をしていた。留学帰りは顔の配置まで違うのかと思った。そのとき、京子はこんな顔の男との方が似合うのではないか、と思ったりした。

 僕はpeculiarなものを考えてみた。たとえば、テレビのトークショーに出ていた監督のかぶっていた帽子。たとえば、前衛彫刻のようなウエディングケーキ。たとえば角のCDショップの店員の左右形が違う世紀末の武器のようなイアリング。たとえば…僕と京子の関係…。

 キツネとの会話は一語一句はっきり覚えている。キツネのかすかな訛りのある息遣いすら。

 これは確かな情報です。男について詳しいことはまだ調査中ですが、どんな僅かなことでもわかったら、たとえ夜中の何時であっても連絡するように、との言葉通り、電話をとりあえず差し上げました。

 男について住所以外にわかったことはありませんか?

 今のところ居場所だけです。その住所に行けば住んでいるのは、マルヤマリュウジロウという男とあなたの奥様のキョウコさんです。

 わかりました…。




 心を決めて2階に上がった。202号室の呼び鈴を押す指にためらいがあった。深呼吸をした。マルヤマリュウジロウの顔を想像してみた。帰国組のような整った顔か。マルヤマリュウジロウ…。なんとも間が抜けて聞こえる気もしたし、颯爽とした名前のようにも思えた。

 ドアを前にして気がついた。自分がマルヤマリュウジロウに対しては意外なほど何の感情も持っていない、ということに。

 不思議なことだった。京子の恋人だから憎いはずだろう。けれど、顔も体つきも職業も、何一つ情報がないのだ。マルヤマリュウジロウという名前以外。マルヤマリュウジロウ、マルヤマジュウジロウ、と繰り返しているうちに、アルマジロ、アルマジロと言いそうになり、バカバカしさに、ふん、と鼻を鳴らした。

 心配と心労の中、真実がわかる直前、奇妙な安堵感と高揚が、交互に顔を見せることがある。怒涛のようなパニックと不安の間であらわれる不思議なユーフォリア。僕も一瞬だけど、すべてどうでもいい気がして心が解放される気すらした。それでもやはり緊張からか、呼吸は早かった。

 呼び鈴を鳴らした。返答がない。もう一度鳴らす。留守なのか?

 ドアに耳をつけると中でことこと音がするようだった。

 ドアが開いて、姿を見せたのはひょろりと高い、長髪の男だった。

 マルヤマさんですか?

 あっ、そうです。

 ちょっと話ができますか?

 男は、あ、話ですか。と言い、ちょっと待って下さいと一旦ドアを閉めた。再び開けたときにはマスクをしていた。そして手にも一枚マスクを持ち、僕に差し出した。

 すみません。どうも、ノロウィルスに感染しちゃったらしくて、けっこう胃腸症状がひどくて、体にもきちゃいまして…。うつったら大変ですから。

 僕は改めて男を見た。マスクで顔半分が隠れてしまったが、眉と目元はすっきりしている。けれどなんとなくイメージしていた顔とは大きく違っていた。その顔はあっさりしすぎていた。ぼんやりとも言えた。

 確かに男の顔色は悪かった。腰を少しかがめ気味なのも腹に力が入らないからかもしれない。

 僕はマスクをつけた。そしてマスクつけたまま、京子の夫です、と言った。

 男は目を丸くした。小さかった目が柴犬のようになり、あ、そうですか。そうですよね。と言った。

 中に入っていいですか?

 あ、構いませんが、ノロウィルスが…。

 男を無視して、僕は2DKと見られる住みかに入っていった。ダイニングキッチンは狭くて、物が積み重なっている。二つあるドアのうち一つが開け放しになっており、そこには京子の送ったと思われる段ボールが3つばかりあった。中身が散在している。そこにあったのは京子の最近のおしゃれ着、バッグ、靴、などではなかった。古いトレーナーや昔の制服、手作りのように見えるぬいぐるみに古い手芸品や木彫りの人形。

 京子は生活用品を持って出たのではなかった。自分の過去の思い出だけ箱に詰め込み出ていったのだ。

 キッチンにしても部屋にしてもその荒れ方に僕は驚いた。僕たちのマンションはいつも整然としていた。

 京子も病気なのか? 気配を感じないが、ここにいるのか?

 京子も具合悪いんですか?

 ええ、僕がうつしちゃったみたいなんですけど…。僕、看護師してますから、気をつけてるつもりなんですけど、ウィルスが強すぎたのか、彼女もかかっちゃって…。めったにこんなことないんですけど、今年は僕の免疫力も下がってたみたいで、キョウコさんにもうつしてしまったんです。僕より症状がひどくて、点滴もした方がいいと思うんですが、大丈夫だってけっこう頑固なものですから。本当にすみません。

 男は、京子を僕から奪ったことより、京子にノロウィルスをうつしたことを真剣に謝っていた。僕は振り上げた拳を下ろせないでいた。いや、もともと振り上げてもいなかったのかもしれない。

 で、京子は?

 トイレです。上からも下からも出ちゃって脱水状態なので、心配しているんです。

 マスクをつけているのが原因でもないのだろうが、なんだか息苦しくなった。この展開は何なのだ…。

 ノロウィルスって空気感染しないはずじゃありませんでしたっけ? 僕は聞いた。

 ええ、ノロウイルスは埃にのって漂い、口に入ると感染するんです。だから、患者の触ったものを触らなければいいっていう人もいますが、それは間違いなんです。

 マルヤマは男にしては高い声で、弱々しげに言ったが、病気だからというより、もともとそんな話し方なのだろう。

 トイレを流す音がした。男は、キョウコちゃん、大丈夫? ご主人が来てるよ。とそっと戸に口を当てるようにして言った。

 あの~、宅急便が来てるんだけど、とでも言う口調に僕はむかっときた。
 
 中からは声がしなかったが、数分後に、京子が胃と腹を押さえて出てきた。

 ほら、キョウコちゃんもマスクして、男はマスクを差しだした。

 京子はマスクを持ったまま、もう一つの閉じていたドアを開けながら、ごめん、横にならせてもらうわ、と言って、青白い顔で腰を曲げながら、ベッドルームに入っていった。

 ベッドの周りには服や本やスナックなどが散らばっていた。

 大丈夫かい? 点滴した方がいいんじゃないか? 僕は言った。

 まだ、大丈夫。吐き気がとまらないようだったら、点滴に行かなきゃね。タイミングはリュウジンがついてるから大丈夫。

 うん。思わず、それはよかったと言いそうになった。

 ポカリスエットがきれちゃって…。濃度の高いイオンバランスの飲み物が薬局で買えるんですよ。ちょっと出かけますが、一緒に行きませんか。どこかでお話も聞けますし。それとも、カオルさんと話しますか?

 ごめん、私、今、話せない。ごめんね。だるくて痛くて、もうぎりぎり。

 なんで出てったきり連絡もしないんだよ。心配しないでって書き置きすればいいってもんじゃないだろ。僕は何度も心で繰り返していた言葉を結局言えず、じゃ、病院いけよって強めに言った。

 行くわよ。そのうち。

 彼女は弱々しく言った。消えそうに小さな声だった。





 僕とマルヤマは、カフェに入った。カウンターとテーブル席が4つばかりの小さな店だ。

 丸いテーブルだけが、パリのサイドカフェしてる一昔前の趣の店だった。オーナーなのだろうか、緑色のエプロンをつけた銀髪の小柄な男が、マルヤマに、久しぶりですね、と声をかけた。そして僕に、こんな日は強いコーヒーも悪くないですね、と僅かばかり微笑んだ。僕はなぜか、全ての事情を彼に悟られてしまった気がした。僕はハウスブレンド、マルヤマはカモミールティをオーダーした。

 マルヤマは僕を真っ直ぐに見た。ご心配かけて申し訳ありませんでした。深々と頭を下げた。膝に両手をのせている。

 ご心配かけて、っていうのは表現が違うだろ、と思ったが、黙ってうなづいた。

 僕が看護師をしている病院の売店にキョウコさんが来て、休み時間とかに話すようになって、結構興味とか読んでる本とか、共通点があって、なんだか、きょうだいみたいに居心地いいねって笑ったりするようになって…で、お付き合いとかしていないんですが、ある日、キョウコさんが荷物を持ってうちに来たんです。

 何も約束もしないのに突然に?

 ええ、突然でした。なんだか、すごーく疲れたって言って、しばらく置いてほしいっていったんです。

 何にそんなに疲れたって言いましたか?

 僕は聞きながら、驚いていた。京子は突然置き手紙を置いて家を出た。どこへ行くかも書いてなかった。

 熱にうかされたような恋をしたのか、歳をとっていくことに対する焦りで魔がさしたのか、平凡な僕がつまらなくなったのか…いろいろ原因を考えた。

 しかし、疲れていたっていうのは驚きだった。

  今、この男のアパートの乱雑な空間に住んでいるのだ。京子と僕のマンションは品よくイタリアンモチーフに北欧のシンプリシティを取り入れ、それは居心地のいい空間のはずだった。整理が苦手なの、という度に、僕は君はやればできるさ、と言った。そして出来たときは、ほら君はやればできるんだ、と褒めた。

 何にそんなに疲れたんでしょうか。

 僕が思いますに、男は膝に手をのせたまま言った。木谷さんとの生活じゃないかなって思うんです。キョウコさんの話からは木谷さんは正義感に満ちた、物事をきっちりこなしていく、計画性も常識もあり、博識で、とてもいい方だということがわかりました。でも、キョウコさんは木谷さんの奥さんならこれくらいはすべきだっていう、きちんと主婦するっていうのを、自分でも気づかないうちに無理してやろうとしてたんですね。だから、家に入ろうとするとひどく動悸がする、とか不安になる、とか言っていました。

 そんなことを…言っていましたか。

 僕は、ずぼらですから、筋ってものがなくふらふらしてますし、あ、もちろん看護師の仕事の時は責任感を持ってしっかりやってますけど、その他のときはこっちにふらふらあっちにふらふら風に吹かれる雑草のごとくです。このいい加減なところがキョウコさんは気が楽で、まあ話が合うってこともありますが…避難所として僕のところを選んだんじゃないでしょうか。

 じゃ、マルヤマさんは単に泊めているだけだというんですか。

 僕は、キョウコが案外民宿がわりに使っているだけだったら、と少し期待を持った。

 男はうつむいた。マスクをしたままうつむいた。

 最初は、同じベッドで寝ていても、きょうだいのように、添い寝っていいますか、そんな感じで、それ以上はありませんでした。けっこう長い間です。でも、正直に申しあげて今は違います。あ、ノロウィルスにかかるちょっと前くらいからのことなんですが。

 僕は溜息をついた。怒れたらどんなにいいだろう。罵倒できたらどんなにすっきりするだろう。人間としての常識をとくべきか、いかに二人の行動が僕をふみにじったかを言いきかせるべきか…いろんな思いがあったのに、どれも実行する気にはならなかった。

 それより男の言うことが本当ならば、非は自分にある気がした。謝らなければいけないのは自分なのか。

 京子はお宅ではどんな様子ですか? 家事とかもするんですか?

 あ、まったくしないです。でも、それで、僕は構いません。キョウコさん、今はリハビリの時期だと思うんです。

 じゃ、これからどうするべきですか。
 
 今度は男を心理リハビリ士として扱っている自分に呆れた。

 ストレスをかけないように、見守ることでしょうか。まずは感染症を治さないと。健全な体があっての心ですから。

 そうですね…。僕は苦いコーヒーを飲みほした。

 僕の携帯の番号です。いつでもご連絡下さい。勤務中はとれないことありますけど、留守電残せますから。こちらからもキョウコさんの様子ご報告しましょうか。

 そうですね。お願いします。

 僕は頭を下げながら、やっぱなんかちがうんじゃないかって思った。

 僕は自分の番号を教えた。

 で、マルヤマさんはこれからどうするつもりですか? キョウコとのこと。キョウコのこと好きですか?

 好きです。自然体のキョウコさんが好きです。今のままのキョウコさんが好きです。

 ぼんやり顔のマルヤマが少しきりっとなった。

 京子はマルヤマさんのこと真剣に好きなのでしょうか。

 好きかどうか本人でなければわかりませんが、僕といると楽なのだと思います。僕はキョウコさんが嬉しそうな笑顔を見せたり、ちょっと様子がよかったりすると、本当に嬉しいんで。単なる少し見かけがいい女の人がおしかけてきたから、調子に乗って利用している、なんてこと決してありません。これからふたりで話し合って決めていきたいと思います。木谷さんには本当にご心配をおかけしたと思います。申し訳ありませんでした。  

 マルヤマはテーブルにつくほど頭を下げた。

 わかりました。

 僕は大きく息を吐いた。マルヤマが穏やかな目で僕を見ていた。相変わらず顔色は悪い。ティを飲むときも、マスクの下をわずかにあけてすするように飲んでいる。

 勝ち組ではないかもしれないが、よい男なのだろう。いやそもそも、勝ち組、負け組って一体、誰が何の基準で決めるんだ。マルヤマはマルヤマらしく生きているというスケールでは勝ち組なのかもしれない。

 カフェを出ると、じゃ、僕、薬局に行きますから、というマルヤマに、よろしくお願いします、と頭を下げた。以前、母を介護ヘルパーに頼んだ時の気持ちに似ていた。

 僕は京子を疲れさせたのだ。ぼくはきちんとするのを好んだから。物はあるべきところにないと落ち着かない。食器の入れ場所が違っていると注意しているつもりはないけれど、口にした。京子はその度、そうね、ひろ君、気をつけるわね、と言った。プレゼントもし、ときどきディナーにも行った。でも確かに京子は少しずつ元気がなくなっていた。

 ちょっとしらばく家を出ます。心配しないで下さい。探さないで下さいね。ちょっとリハビリが必要です。

 なんのリハビリかと思った。ドラッグとアルコールは考えられなった。だから、恋人ができたんだと思った。

 僕はもう一度ハツキコーポに戻り、京子が腹痛で寝ているだろう2階の部屋、2階のバルコニーを見上げた。蔦は相変わらず風に揺れていた。あの蔦、自分かと思ったけど、京子だったんだ。

 どこかくっつくところ見つけられるといい、足場が見つかるといい…ぼんやりそう思った。
 
 蔦だった京子を季節になると花を咲かせる観賞用植物と勘違いしていたのかもしれない。京子は随分長い間僕に合わせてくれていたのだ。やればできるじゃないか、の言葉がどれほどプレッシャーになっていたのだろう。

 もう、京子は戻ってこない。

 僕は仕事もそこそこうまくこなしているし、友人もいる。京子が戻らなくても、持ち前のきっちり度で生活に大きな変化はないのかもしれない。

 僕にとって京子はそこまで必要じゃなかったのかもしれない。恋愛結婚だったしいないと淋しい。京子は優しく、よい人間だった。英語は出来たが、勤めは長く続かなかった。どこかふわふわ、時おり落ち込んだ。僕にとって京子はいて当然だったが、京子にとって僕は一緒にいて心地よい存在じゃなかったのだ。だから、京子の精神は揺らいだ。その結果、非難所がマルヤマの家だったってわけだ。

 早く治るといい。マルヤマとは連絡を取り合おう。蔦の行く先はどこなのか。あのアパートに根をはるならそれでもいい、僕にもう一度からませてくれるなら、それは凄く嬉しい。けれどもうそれはないだろう。けれど、二度目のチャンスがあるなら、僕はもう二度と、やればできるじゃないか、なんて言わない。彼女を見てただただ微笑もう。僕だってやればできるんだ。あ、今度は自分に言っている。人間、やればできることだけじゃないはずだ。でもまあ、それはそれでいいだろう。僕はこれで頑張ってきたわけだし。

 僕はハズキコーポを後にゆっくり歩き始めたが、ふっと振り返った。誰かに見られている気がしたのだ。いや、見守られている気か…。

 誰だ…? しかし誰もいなかった。

 不思議な、とても不思議なことなのだが、キツネ、丸山、そしてさっきのカフェのマスター、何故かこの何の繋がりもない三人が僕を見守っている気がした。まさに藁にでもすがりたいくらい、僕はよりどころを失っているってわけか。ただ人が放つ静かな佇まいというのがあるなら、今回の京子の蒸発を通じて感じたのかもしれない。キツネから。丸山から。カフェのマスターから。

 empathy...

 英語が苦手なはずの僕に浮かんできたこの単語。日本語で言うと何だっけ。共感? 共感か。いや、ちょっとニュアンスが違うか…。

 そうだ。そうだ。そうだった。いつか、京子が教えてくれた。今、人に必要なのってempathyよね。日本で言う単なる共感っていうのじゃないのよ。empathyってもっと心の中心、奥底からわいてくる感情だと思うの。今、私たちに必要なのってempathyよね。

 僕はどう答えたんだろう。一体何の話をしていた時に京子は言いだしたんだろう。はあ?とでも答えたんだろうか。

 丸山からの連絡を待とう。こちらからも丸山に電話しよう。そして二人が早く良くなることを祈ろう。そして、またあのカフェに行ってみるのも悪くないかもしれない。あのハウスブレンドのコーヒーを頼もう。苦かったコーヒーだが、コクがあったし悪くなかったのかもしれない。







 

息子に会う




 どこにでもありそうなウッディな雰囲気で統一された店だった。荘介は奥まったテーブルを選んですわった。かなり大きな金魚鉢が角のテーブルに置いてあった。中には水草しか見えない。

 真由子のマンションに初めて泊まった夜、暗い部屋で熱帯魚の水槽だけが輝いていた。

 明るく透明感のある水槽がひどく輝いて見えた。それは真由子との関係を象徴しているように思えた。良美とのマンションの玄関脇に置かれた餌のこびりついた水槽の中で、どこか不格好に泳ぐ金魚に比べ、真由子の熱帯魚はキラキラと尾を揺らめかせ、美しかった。

 けれど真由子は育てていたのではなく、飾っていたのだ。サービス期間だけ水槽ごとレンタルしていたと後で知った。
 
 飾っていた…か。育てるのではなく飾る…。

 自分だ。真由子を責める資格はない。自分もそうだ。愛情を持って家庭を育てる。子供を育てる。妻との愛情を育てる。真由子との生活を育てる。自分は全てに失敗した。飾り物に目がくらみ、育てるのに失敗した。

 荘介がぼんやり金魚鉢を見つめていると、カランカランとドアが開いた。

 逆光を受け、譲二が入ってきた。譲二はすぐに荘介を見つけ、少し頭を下げ、荘介の前にすわった。

「ほんとにいい天気だったなあ」

 譲二がすわるなり、荘介は言った。沈黙が恐かった。

「うん。天気予報が違ってよかった」

 譲二は答えたが、笑顔ではなかった。緊張したようなどこか顔の一部が痺れているかのような不自然な表情だった。

「何にする?」

「コーヒー…かな」

「コーヒー飲むのか」

「飲むよ」

 譲二は小声で言った。目は伏せたままで、首を傾け肩を上げてすとんと下ろした。小さい頃から緊張するとよくやっていた仕草だ。

「今日は呼んでくれてありがとう。父さん、嬉しかったぞ」

「うん…」

 譲二は少し顎を上げ、荘介と目を合わせた。

 体重が増え、顔がふっくらしたからか、以前より目が寄って見えた。睫毛の濃い目を神経質そうにパチパチさせる譲二を見ていると、どことなく狸に似ていると思った。以前、良美と行ったペンションの山道でとび出してきてライトにあたってびっくりした狸に。

 久しぶりに息子に会って思うことか…。荘介も気がつくと肩を上げてはすとんと下ろしていた。それにしてもあの時一瞬見えたウォンバットのような顔…。あれはなんだったのか…。深い焦げ茶色の毛に埋まった小さな黒豆のような目。自分の心の揺らぎが見せた一瞬の幻だったのか。

 譲二はそんな荘介をしばらく見ていたが、「この席さ、よく来るんだ。友達と」と視線を合わせず言った。

「ふーん。そうなのか」

「その子といつ来てもなんとなくここにすわるんだ」

「いつ来ても…って、そんなに何度も来てるのか」

 まだ、中学生だろ、出かけた言葉をのみこんだ。

「うん。塾のある日はさ、母さん、ここで食べなさいって」

 そうか。そういうわけか。

 譲二と顔なじみらしきマスターがやってきたが、コーヒーお願いします、と言う譲二に続いて同じものをと荘介が言うと、わかりました、と譲二に微笑んで、荘助をチラリと見た。視線の鋭い男だった。半分ほど白髪になっているが、まだ若いだろう。少なくとも自分よりは。荘助は思った。

「普段は自分で作って食べるんだけどさ、塾の日は時間がないから。ここのドリアうまいんだ」

「自分で作るって、料理好きなのか、譲二は?」

「ま…まあね」

「母さんが作ってくれるだろ」

 譲二はそれには答えなかった。

「で、その一緒に来る子ってガールフレンドかい?」

 荘介は真面目すぎず、茶化しすぎず、聞いた。

「うん…まあね。水泳部なんだ。いつまででも潜ってられる。だから、人魚って言われてる。ほんとはアルパカに似てるんだけどね」

 譲二は笑った。あたたかい笑い声だった。そして荘助を見た。僕がウォンバットに似てるみたいにね、そんな譲二の声が聞こえた気がした。

「二人三脚組んだ子かい?」

「えっ? ああ、あの子は違うよ」

 そう言って、譲二は額を掻いた。そのまま髪に手を入れ、しゃりしゃりと頭も掻く。その音に、荘介は少し苛立った。一体何のために譲二は自分を呼んだんだ。

「高校決めたのか?」

「うん、まあね」

 譲二はそう言い、受験校の中でも難易度の高い高校の名をあげた。入れるのか?驚きの声をあげそうになったが、「すごいな。譲二は父さんよりずっと頭がいいんだな」と、嬉しそうに声を出し、それ以上は聞かなかった。

「父さん、今日はありがとう。父さんにいつ会ったらいいかなって思ったとき、やっぱ運動会だろって思ったんだ」

「そうか…」

「僕さ、ずっと父さんに会わなきゃって思ってたんだ」

 譲二の真剣な眼差しに、荘介はできるだけ軽く、どうしてかな?というように視線を返した。

「…でも…会ったら、もっとにこやかにすらすら言おうって、何度も頭の中でシュミレートしてたのにうまくいかない…」

 譲二は自分に対してつぶやくように言い、小さく頭を振った。

「どんなことでも言ってごらん」

「ルーザーにはならない」

「えっ?」

「父さん、僕が小さい頃、何かあると言ってただろ。ルーザーにはなっちゃだめだって」
                        
 ルーザーか…。そういえば、そんなことを言っていた…。

「Don't be a loser」 英語弁論大会での荘介のスピーチのタイトルだった。何を書いたのか、はっきりは覚えていないが、人間には二種類ある、ルーザーかファイターかで、ファイターであることを止めたとき、ルーザーになる、だからじっとしていては駄目なんだ、努力を続けるべきなんだ、ルーザーであってはいけない、努力をストップしてはいけない、そんな内容だった。ちと観念的すぎるな、英会話部の教師が言った。

「そう言えば言ってたかもしれないな」

「うん、しょっちゅうね。運動会のときも、譲二、ルーザーになっちゃだめだぞ、頑張れ!頑張ればいいんだ。だめだと思って立ち止まる、そしたらルーザーだぞ、ビリでもいい、最後まで走れ、そしたら勝ちだ。自分に勝つんだ。相手なんかどうでもいい。自分に勝てって…。あの頃はよくわからなかったよ、父さんの言うことが。でも今ではわかる。わかるようになったよ」

 譲二は今はしっかりと荘介を見ていた。目の形は荘介に似ているが、瞳のもつ陽気さは母親似だ。パッと見には母親の目とは似ていないが、荘介を見つめる瞳の陰りのない明るさは、まぎれもなく良美のものだった。

「譲二、大きくなったんだな。そんなにしっかり考えるようになったのか…」

「うん…。でも…父さんがいなくなって、僕さ、少しぐれたんだよ。小学六年でどうぐれるんだって思うだろ。でも十分、りっぱにぐれたよ。…タバコも吸ったし、行っちゃいけないって言われるとこにもいっぱい行った。毎日毎日さ。自分でもどうでもよくなってさ、なんだか、何をしても駄目だ…みたいなそんな気がして…。でも、ある時さ、父さんの声が聞こえてきたんだ。Don't be a loser っていうあれだよ。日本語では「負け犬になるな」だろ。でも Don't be a loser ってのはすごくカッコイイんだよな。変だろ。父さんがいなくなってぐれてんのに、父さんの声が聞こえて立ち直るってのもさ」

 真摯な真剣さで譲二は続けた。

「そうなんだよ。父さんのその言葉思い出して、止めたんだ。ぐれてみるってのをね。それから、どうしたらルーザーにならなくてすむか考えた。僕なりにね。父さんの言ってた自分に勝つって何かなって…。それでさ、まず自分を責めるのをやめるって決めたんだ」

「自分を責めるって…何責めるんだ?」

「…僕のせいだ…って思ったんだ」

「何が?」

「母さん、いい母さんだったろ。父さんに対してもいつもすごく優しい母さんだったよね。だから、父さんが家を出る、家に魅力がなくなるってのは僕のせいだって思った。もちろん理屈ではわかるさ、父さんは女の人のために家を出たんだって。直接の理由はそうでもさ、僕小さい頃からずっと感じてたんだ。僕は父さんをがっかりさせてるんじゃないかって」

 荘介は息をのんだ。譲二に見破られていたのだ。今日だって、荘介は久々に見た譲二に自分勝手にがっかりしたのだ。譲二は気づいていた。小さい頃からずっと気づいていたのだ。荘介の気持ちを見抜いていたのだ。

「だけどやめたんだ。どうしたらルーザーにならなくてすむかって考えて止めたんだ。父さんが英語なら僕も英語だ。僕はまずポジティヴにって思った。もっと前向きに気楽にって。そしたら、ほんとに気が楽になった。しばらくかかったけどね。嫌なことの中にもポジティヴなこと、いいこと探そうって思った」

 マスターがコーヒーを二つ持ってきて置いた。譲二の前にはクッキーが数枚のった皿も置いた。

「僕、思ったんだ。父さんが出ていった…。嫌われるのを怖れてた父さんがいないってことだ。それならそれでいいじゃないか。父さんが出てったとしてもそれは僕のせいじゃない。僕は僕らしくいればいい」

 うん…。

「ほんとうに、僕までぐれたら、母さん、可哀相だ。母さんは無条件なんだ。父さんがいなくなっても母さん優しくてさ。母さんは無条件に…」

 無条件に自分を愛してくれる。自分を受け入れてくれる。譲二はそう言いたいのだ。父さんと違ってさ、と。

「元気かい、母さんは?」

「うん、元気だよ」

 譲二はそれだけ言い、しばらくどうしようかと考えているようだった。

「ある晩、ふと起きてキッチンのぞくと、母さんがテーブルの一点見つめて坐ってたんだ。テーブルには一本、ビンに入ったカクテルがあってさ。ほら、カクテルバーとかってシリーズのあれさ。メロン色だったから、何なのかな。酒に弱い母さんだから、半分しか飲んでないのにもうかなり酔ってるんだ。その母さんが僕の手をとって言うんだ。ジョウジィ、細かいこと気にしちゃ駄目、図太く生きるのよ。そう、図太く、ってそう母さん言ったんだ。ずぶとく。母さんはその言葉、ずっと自分に言い聞かせて頑張ってきたんじゃないかな。いい言葉だって思った。すごくいい言葉だって」

「図太く…か」

「うん…。父さんのDon't be a loser ってスマートさはないけど、すごくいい言葉だって思った。その日から父さんのDon't be a loserって言葉を思い出すたび、「ずぶとく」って言った母さんを思ってさ。母さんの「ずぶとく」にはなんだか凄いパワーがあるんだ。……祈りかな」

「祈り…か…」

「うん、僕の中にも母さんへの無条件の何かがあるって感じて、そしたら、僕の中からこだわりが消えた。父さんの「ルーザーになるな」にはないパワーってのにそのとき気づいたんだ。そしたら、僕の中で重要なことの順番が変った。父さんに気に入られなくたっていいじゃないか。父さんが気に入ってくれなかったって大した問題じゃない、って心から思えるようになった。だから、ここ数年はね、何でも一生懸命にやってきたよ。びくびくせず思いっきり。図太くね。結構きつかったし、何度もやめようかと思ったけど。でも…少しずつだけど、毎日が少しずつ素敵になった」 

 そこまで言うと譲二は大きく息を吐いた。緊張していたのか、肩を小さく上げ下げした。   
                                 
 荘介は譲二を見つめ、微笑もうとした。しかし顔の表面がぴくぴくしただけだった。

 中学三年、十五才の子がこんなにも必死に自分の心を語らなけれぱならないのは自分のせいなのだ。自分を責めながらも荘介は息子の成長に目を見張った。早く話だけ聞いて帰りたいと思っていた自分の横っつらを張り倒したくなった。

「そうなんだ、父さん。少しずつだけど素敵なことが起きてきた。すごくゆっくりだったけど…。人魚とも友達になれたし、盆踊り大会で優勝したり、アイデアコンクールで一等とったり、くだんないことだろうけど、僕にとっては快挙なんだ。母さんのずぶとくって言葉を聞く前の僕だったら、考えもしないことだよ。今日の運動会だって、前の僕だったらチビだし、一等取れないから格好悪いって、父さんに来てもらうなんて考えもしなかったと思うよ。でもだからこそ今日は父さんに来てもらいたかったんだ。どうしてもね。以前なら、格好悪い自分見せるの嫌だったよ。今日の運動会での僕、前だったらきっとかっこ悪い、恥ずかしいって父さんに見てもらいたくなかったと思うよ」

「かっこ悪くなんかなかったぞ。二人三脚なんかなかなかのもんだったぞ」

 口ごもったように言う荘介を譲二は静かな目をして見ていた。もうさほど緊張しているようにも見えなかった。ただその目は少しだけ潤んで見えた。

「いいんだよ。父さん、無理しなくても。もう父さんの知ってる僕じゃないんだ。だから今日は父さんに来て話を聞いてもらいたかった。来てもらって、僕は今の自分をちっともかっこ悪いと思ってないってこと、父さんが僕のこと気に入らなくても仕方がないってこと、はっきり言っておきたかったんだ。…父さん、僕はね、父さんの前ではいつも父さんの理想の子でいたかったよ。父さんかっこよくて、自慢のパパだったからね。だから父さんの前ではいつもびくついて本心を言ったことがなかった気がする。だから一度でいいから、父さんに本当に思っていることを自分の言葉で言いたいって思った。そうすることが僕にとっては父さんのいうルーザーにならないことだって思ったんだ。もしそれが、父さんのいうルーザーになるな、と意味が違っても仕方がないよ。僕は僕なりにルーザーにならないことで、応援してくれた父さんに返すしかない」 

 うん、うん、荘介は声に出さずに頷いた。

「だから、言うよ。父さん言うよ。僕は僕なりに一生懸命生きてるんだ。だから父さんが僕のこと気に入らなくても僕のせいじゃない。僕がかっこよく一等取れなくっても、そんなの問題じゃない。僕は僕なんだから。体裁なんか気にして努力やめたら、それってルーザーだ。僕はルーザーにはならないよ。父さんが出ていったって、ルーザーにはならないよ」

「すまない…すまない…」

 荘介は涙が出そうになるのを抑え、下を向いた。

「父さん、僕、ちょっと前までは父さんに感謝してたんだ」

 感謝?
 
「大人のことはまだ僕にはわからないよ。ただ、母さんは、父さんが譲二の父さんであることは変わりない、だから譲二が困らないようにって、それはきっちり考えてくれてるのよって、いつも言うんだ」

「母さんが…そう言うのかい?」

「うん。母さん働き出したときもさ、母さんが働くのはね、自分に甘えちゃいけないからなのって。父さんがちゃんと困らないようにしてくれてる。でも、父さんには父さんの生活があるし、いつまでも甘えてちゃいられないわねって。おじいちゃんのスーパーが倒産してからは母さん、危機感っての持っててさ」

「倒産…したのかい?」

「うん。父さんが出てった翌年だよ」

 荘介は言葉を失った。良美は…どうやって生活して来たのだ。

「父さんがお給料ほとんど全額送ってくれるのって、母さん、ずっと言ってきた。だから、父さんが出ていったの最初つらかったけど、父さんも出来る限りやってくれてるんだろうって思ってた」

「……」

「でも、父さん。最近では僕もさすがにわかるよ。父さんがお給料のほとんど送ってくれてるんなら、母さん、あんなに朝から晩まで働くことないだろうって。父さんが…僕のこと、考えてくれるんなら、会いに来なくても、手紙でも電話でも、何でもいいから、忘れてないぞって言う方法はあるだろうって。母さんは僕のために、父さんのために嘘をついてたんだなって今ならわかるよ」

 …すまない……。

 荘介はどうにも顔を上げられなかったが、出来るだけ譲二を見ようとして、譲二と自分の間の空間を見た。

「僕も母さんもしっかり前に進むには、とにかく会って自分の気持ちを父さんに伝えなきゃって思ったんだ」

「…うん、わかった。譲二の言うことよくわかった。父さんは譲二のことプラウドだよ。すごく成長したんだな。父さんが知らないうちに」

 荘介は早口でうなづきながら言ったが、自分の言葉がどうにも虚しかった。ライトに当たって逃げ出さなければいけない狸は自分なのだ。

 言うべきことを言い終えた譲二は、コーヒーカップに手を伸ばした。

 話し終わるのを待っていたのか、マスターが空になったグラスに水を入れに来た。

「マスター、おいしいね、このコーヒー。マスターが仕入れた何とか農園のコーヒーってやつ?」

 そう言う譲二にマスターはにこやかに頷いたが、荘介を見る視線は鋭かった。

 そのあと、二人はゆっくりとコーヒーを飲んだ。どちらも、ほとんど話さなかった。ただただ、コーヒーをゆっくり飲んだ。

 カップが空になると、譲二は真っ直ぐに荘介を見た。

「父さん。今までかっこいいことだけ言ったけど、今からはちょっと違うことも言うね。父さん、僕はアル中になりかけてるんだ。母さんの買ったアルコール飲料、母さんの代わりに全部飲まなきゃって気になって。母さん、飲めないのに無理して飲んで、ベッドにいく前に倒れてたりするから。捨てればいいんだろうけど、母さんの代わりに自分が全部飲んでやるって気になってさ。そしたら、どんどん飲めて、顔も赤くならなくって。自分はアルコール飲める体質なんだって知った。母さん、もう買ってこないけど、自分で買って飲んでしまう。あと…さ…父さん…今日見えたよね」

「えっ?」

「僕が見えたよね。僕が一瞬、見えたよね。人ってさ、時々、いつもは見えないものが見えるんだ」

「じゃ…父さんが…狂ってたわけじゃないんだ」

「違うよ。ただ、父さんの感覚がとても研ぎ澄まされてる状態だったんじゃないかな」

「譲二みたいな子は結構いるのかい?」

「子だけじゃないくて大人もいるよ」

 荘助の頭にいくつもの疑問がボール球のように弾け合い、ぶつかり合いった。

「じゃ!」

 そう言い、譲二は立ち上がった。荘介も立ち上がった。

 荘介より二十センチは低いだろう譲二が大きく見えた。いや、自分が小さくなったのだ。

「今日は来てくれてありがとう」

 譲二は言った。

 立場が逆転していた。譲二の方が人間が大きい。のんびり者で愚鈍ですらあると思ってきた譲二の方が、ずっと大きい。のんびり者じゃなかったんだ。愚鈍じゃなかったんだ。器が大きいんだ。これから、大きな大きな人間になっていく強さを持っている。幼くして愛情の意味を知っている。良美のずぶとくの言葉を受けとめ、自分を強くさせる心の厚みを持っている。そして譲二は何か不思議な力と形で存在しているのだ。

 わけがわからない。わけが…。

 もう何がなんだかわからなかった。

 荘介は泣けてきた。泣けてきたが、涙は出すまいと必死でこらえた。

 薄っぺらな父親だ。本質よりイメージに躍らされた愚か者だ。

 ごめん。譲二。ごめん。荘介は心の中でつぶやいた。

「じゃ、人魚って彼女によろしくな。今日は父さん嬉しかったぞ。お酒はやめられそうかい?」

「やめてみせるよ。僕、まだ15歳なんだから」

「そうだな。15歳だ。まだ15歳だ…」

 そういい、荘介は少しすすりあげて泣いた。自分でも止められなかった。みっともないと思ったがどうにも止められなかった。

 それでも力の限り明るい声で言ってみた。

「近いうちに会おうな。父さん、もう少しまとまな人間になる努力するよ。母さんにも会うよ。ごめんな。ごめん…」

 譲二は少し青ざめていて、笑顔はなかった。荘介も微笑むことが出来なかった。

 譲二は出て行き、荘介は深く椅子に体を静めた。顔がこわばっていた。体がこわばっていた。心がこわばっていた。ぼんやり藻のような水草だけが頼りなげにゆらゆら揺れている大きな金魚鉢を見つめた。そうか、人魚というガールフレンドが出来たのか…。

 譲二を連れていった祭りでの金魚すくいを思った。小さな手で恐る恐る金魚をすくう。紙はすぐに破れ、譲二は泣きべそだ。一匹だけもらった色の悪い金魚を、良美と譲二はザリガニ用の水槽で大切に飼い始めた。金魚は次第に大きくなり色つやもよくなって時々ぴしゃりと跳ねて、水面に顔をのぞかせたりした。淋しいでしょうね、良美はペットショップで三匹百五十円で友達を買ってきた。一匹は死んだが残りの三匹で仲良く泳ぎ、そのうち卵も産み、小さな金魚が生まれた。譲二が友達に金魚を分けるのに忙しかった時期もある。「いやー、金魚が増えましてね」荘介も会社で満面笑みで言ったものだ。金魚と良美と幼い譲二…。あの頃幸せだった。今、思っても幸せだった。なのに、いつの日からか、水槽にこびりついた金魚の餌の放つ臭いのように、荘介の心ににおいが充満し始め、それを振り払おうと必死になった。

 あの金魚、まだ生きているのかな。一番最初に家に来たあいつだ。今度会えたなら譲二に聞いてみよう。

 荘介は額に手をあてた。泣けた。芯から泣けてきた。自分の馬鹿さ加減に泣けてきた。

 馬鹿者だ。愚か者だ。哀れなやつだ。想像の中の真由子が吐き捨てたように、馬鹿男だ。一番のルーザーは自分自身だ。

 僕は僕だから、譲二が言った。

 私は私なの。違うものにはなれないわ、良美が言った。

 じゃ、荘介、おまえは何だ。何者だ。いったい何者なんだ。

 ビッグルーザー、大馬鹿者か…。

 虚無感の中、目をつぶる。運動会の喧騒が蘇ってくる。頑張れ! 走るんだ!譲二! 頑張れ~!抜かれんなあぁ!

 頑張れ!頑張れ!頑張れ!頑張れぇぇぇ!!!

 エールはいつしか対象を変えていく。一人断トツに速い少年、胸でゴールを切る少年。両手を広げ歓声に答える顔がスローモーに頭をよぎる。

 あったんだ。自分にもあんな頃があったんだ。

 もう一度、あの栄光には遠いかもしれないが、一歩ずつ人生やり直すしかない。

「サービスですよ」

 目をあげると目の鋭い小柄なマスターがモンブランのケーキとフレッシュなコーヒーをトレイにのせたまま置いた。

「譲二君が父さんはモンブランには目がないって言ってたんですよ」

「ありがとうございます」

 荘介は頭を下げたが、堪えきれずに、ぼろぼろと涙がテーブルの上に落ちていった。

澄江さんとの食事:タキ

 澄江さんと二人で食事をすることになったとき、別に嫌ではなかった。決して楽しみではなかったけれど、別に嫌ではなかった。

 どうしたものか…とは思った。

 澄江さんのことをまだよく知らなかった。型どおりの情報はあったけれど、私の中でまだ澄江さんははっきりとした形になっていなかった。小さい頃、食卓の上であやとりの紐でいろんな形を作ってみたけれど、たとえば犬とかキリンとか、難しいところではオウムとか…澄江さんの形は、紐で描いた形くらいにしか出来あがっていなかった。

 スミエ、と初めて聞いた時、墨絵、を思った。祖母の家の土壁にかけてあった墨絵。実際に墨絵に何が描かれていたのかは覚えていない。ただ、筆でかかれた濃淡の絵として記憶にある。

 スミエってどんな字ですか?

 澄んだ空気の「澄む」に揚子江の「江」よ、ほらサンズイに片仮名のエの…。

 ああ、澄江…。いい名前ですね。

 澄江さんは、この年齢の人特有のあたたかいながらも詮索じみた視線、というのをもっていなかった。澄江さんはほとんど平坦な無表情に近い顔で私を見た。ごくごく平均的長さの視線…というのがあるとしたら、それよりはかなり長かった。

 ほぉーーーーーら、あのじ~~~~っとした無表情な視線、あれが苦手なのよ。まったく何考えてんだか。どっかおかしいんじゃないかしら。

 たまちゃんは言った。

 たまちゃんは数少ない私の友達だ。いや、友達ではないか。私には友達がいない。

 たまちゃんは数少ない知り合いで、知り合いの割には話す人だった。そして、これからは親戚になる。スズキくんを紹介してくれたのがたまちゃんだった。

 友達の友達の友達でいい人がいるからと紹介してくれた。

 私がごく最近まで大酒飲みでアルコール依存症から回復する努力をしていることなど、たまちゃんは知らなかった。私も言わなかった。たまちゃんは私のことを、めんどくさくないさっぱり系女子と思ったらしい。

 たまちゃんが、スズキくんだよ、って紹介してくれたスズキくんは、実際は鈴木という名字ではなかった。

 たまちゃんがニックネームはスズキくん、と言ったとき、それって名字でしょ、という私に、ううん、顔がスズキに似ているのよ、ほら、魚のスズキと言った。スズキの写真をネット画像で見てみたけど、特に個性的な顔の魚とも思えなかった。

 なぜ、スズキなんだろう、どんなふうにスズキなんだろう、と疑問を抱えながら会ったスズキくんは、ほんとうにニックネーム、スズキ君なんですか、と聞く私に、いや若干一名、これがたまちゃんなんですけど、それ以外にはミュウと呼ばれてます。

 ミュウ?ポケモンのミュウですか?

 と聞くと、そう、そうですよ、ととても無邪気な顔で笑った。

 私は、スズキにもミュウにも大して似ていないけれど、この聡介という人物が気に入った。

 澄江さんの前で、たまちゃんが聡介くんのことを思わずスズキくんと言ったとき、澄江さんは、どうしてスズキくんなの?と聞いた。

 たまちゃんは、にっこり笑って、あ、それは…最初鈴木さんって人と間違えて覚えてしまったので、ふざけて呼んでるうちにスズキ君になっちゃったんです、と言った。澄江さんは特におもしろくも不快にも思わなかったのか表情を変えなかった。

 友達の友達の友達なのに、どうしていい人だって言えるの? にっこりよりにやりに近いだろう顔で聞いた私に、友達も友達の友達もそう言うからよ、と真顔で答えたたまちゃんは、たまちゃんワールドを持っていて、たまちゃんのルールに外れた人には少しばかりきびしい性格だった。私はそのたまちゃんワールドに弾かれなかったたみたいで、たまちゃんから相談を受けたり、たまちゃんのショッピングに付き合ったり、まあ私にしては無理をしてなかったとは言わないけれど、アルコール漬けの世界からもがいて抜け出し、少しでも普通ってのに近づきたい動機が強かった時だけに、その頑張りが実ってたまちゃんの友達してカウントされるまでになった。

 もう、無理。澄江さんとは無理。あ~~~憂鬱だ。

 たまちゃんは髪をかきむしった。かきむしるたまちゃんを見ながら、あ~~~たまちゃんとはもう無理!と言った共通の知人の顔が浮かんできたけれど、なかなか名前がでてこなかった。

 まあとにかく、無理!というたまちゃんのかわりに私が澄江さんと食事をすることになった。たまちゃんはいろいろあって、円形が出来たというので、少しでもストレスになることはやめたいというたまちゃんに代わって私が澄江さんと会うことになった。



 待ち合わせ場所に5分早めに着いたのだけれど、澄江さんは既に来ていて、黒っぽい傘をたたんでいるところだった。明け方からゆっくりと、けれど着々と振り続けた初雪は5センチ近く積もっており、今は一応止んでいたが空の具合を見るとまだまだ降るかもしれなかった。

 けれど澄江さんはきっぱりとした様子で明らかに湿っている傘をたたんでいた。傘はちゃんと広げて乾かしてからたたむのですよ、小さい頃に言われた母の言葉を思い出した。

 澄江さんは、私を見て、あら、タキさん、と微笑んだ。実際口角も上がってなければ、目の形もいわゆる笑っている形ではなかったけれど、私は澄江さんが微笑んだ、と思った。澄江さんに初めて会ってから半年ばかり経っていて、私は少しだけ澄江さんがわかってきたような、少なくとも澄江さんが微笑むときがわかるような気になっていた。

 お昼を回っているとあり、スズキくん兄弟の名付け親の方の喜寿のお祝いを買う前にどこかでランチをしましょう、ということになった。どこにしましょう、さあ、どこがいいんでしょう、そんな風に言いながらしばらく歩いていたが、「ここは?」と指さす澄江さんに「あ、韓国料理好きなんです!」と私が声をはずませ、まだ客がまばらな店に入ることになった。

 案内されたのは窓際のテーブルで、窓ガラスと隣のビルとの間が一メートルほどだったが、そこは小さな無国籍風空間に仕上げてあった。石と竹、ヤシっぽい人工の緑の間に小さな石像がおかれており、モアイ像のミニチュアのようにも見えた。

 澄江さんと私はお茶をすすって金属の箸で一つ二つと小皿を空にし、メインが運ばれるまでまたお茶をすすったが、澄江さんと私の間に会話は進まなかった。

 考えてみれば私と澄江さんの間に会話が進んだことなどなかったし、不思議なことに、ほんとうに不思議のなことなのだけれど、普段は気のおける人との沈黙が苦手で無理に話したはいいが空回りをしてしまう私なのだけれど、澄江さんといて私の居心地は決して悪くなかった。

 確かに普段の私なら、ははっと無理に笑ってみたり、そわそわ肩を回してみたり、指を組んでみたり、妙にくちびるをなめたりするのだけれど、澄江さんといてもそんなふうにならず、肩も動かさずくちびるもなめず静かにすわっていることができた。

 思えば澄江さんと二人になるのは短い間を除いて初めてのことかもしれなかった。



「あなたはどうしていつもそうなの? もうちょっと愛想よくできなかったの? ゆうくんママ困ってたでしょ!」

 一つ離れたテーブルから大きくはないのだけれどキーンと通る声がし、私と澄江さんは思わずその方向に目をやった。

 声の主は二人の子を連れた母親だった。肩にかかる手入れの届いたカールが美しく、ネイビーブルーのワンピースが上品だった。

 叱られている子は、ほとんど無表情に斜め下を見ていた。無表情だったが、怒っているように見えた。どちらの女の子も7、8歳に見えたが、もう一人の子は、母親と怒られた子を交互に見ながら、なんとかこの場を取り繕えないか、という感じだった。

「もっと人の気持ちになりなさい。失礼でしょうが!無表情でぼんやりしちゃってお礼を言うわけでもなく有難そうな様子もせずで。ゆうくんママがどれだけミユのこと考えて今日招待して下さったかわかってるの? リナだって困ってたわよ。妹がこうじゃ、リナだって安心して遊べないでしょ」

「大丈夫だよ。リナは別になんともないよ」

 小さな声でそのリナちゃんは言ったが、怒られているミユちゃんの方は口を固く結んでテーブルの一点を見つめていた。

 ウエイターが来て母親は笑顔を作り、間のテーブルには大学生風の3人組が案内されてすわり、私たちから親子の姿は遮られた。

 それからも私と澄江さんは耳を澄ませていたが、大学生の声ばかり響き、親子連れの声は聞こえなかった。

 私は、叱られているその子に、昔の自分を思い出していた。だから両手を組み、顎のところにあて目をつぶった。何かに祈らなれければと思ったが、できたのは大きく息を吐くことだけだった。

 やがて2種類のビビンバが運ばれてきた。

 澄江さんは二つを見比べて、何か言いたそうに口を開いたが、結局言わずに閉じてしまった。

「美味しそうですね」

「え、ええ…そうね」

 どうやら澄江さんにはあまり美味しそうに見えないようだった。

「ちょっと思ってたのと違うわね。ほら写真とも違うし」

 澄江さんはそう言ってメニューを開いた。

「そう言われればそうですよね。こっちの方が美味しそうですよね」

「なぜだと思う?」

「えっと。なんだろ…」

「肉の分量と玉子のここんとことそれに器も随分高級そうじゃない? この写真の方が」

「そういえばそうですよね」

 澄江さんは説明責任を果たして安心したようにメニューをパタッと閉じた。私は間違いさがしのようにもう少し比べていたかったが、唐突に閉じられたメニューを再び開ける気にもならなかった。

「でも、私のの方がまだ美味しそうね。あなたのは違いすぎるわよね。残念ね」

 澄江さんはもう一度メニューを開いた。今度こそしっかりと間違いさがし、と意気込み私は写真を見た。

 すると「あ、ごめんなさいね」そう言って澄江さんはメニューを閉じた。

「え、何がですか?」

 私はフレームレスの中の澄江さんの目を見た。その目が誰かに似ていると思った。少し考えると誰でもないスズキくんの目に似ているのだ。やだ、今まで気がつかなかったのかしら。でも似てても当たり前だ。親子なのだから。だけど気づかなかった…。思えば面と向かってしっかりと澄江さんを見たことがなかったのだ。

「思ったことを口にする癖がこの歳になっても治らないの。気をつけるようにはしてるんだけど。うまく失礼のないように言えないのよ。思ったことしか言えないのね」

 澄江さんは言った。

「嘘がつけないってことですよね。それっていいですよね」

「よくはないわね。嘘がつけないと、会話に苦労するわ。だから必要無ければできるだけ話さないようにしてるの」

 澄江さんはもともと口数が少ないわけではなかったのだ。話さないようにしているのだ。

「でも…私には思ったこと言って下さい。私もそうですから。私も会話っていうか、コミュニュケーション、苦手なんです。実は石みたいにぶっきらぼうなのが私の素なんです」

 澄江さんは静かにうなづいた。私は何か言わなければと思った。焦ってその場をとりつくろうというより、自分の気持ちをうまく伝えなければと思ったのだ。

「あ、人から見たら石みたいにぶっきらぼうに見えるってだけで、もちろん私は自分が石みたいだ、なんて思ってませんけど」

 賢明かはわからなかったが、私は自分が言いたいことに関連した過去の出来ごとをさがそうとした。

「あの、つい正直に言ってしまう人に対して怒る人ってたくさんいて、まあ、その気持ちもわかりますけど、私は自分がそうですから、怒らせるほうの人が全く悪気がないってのもわかったりして…。そういえば、スズキくんの…あ、聡介さんの友達に松原さんっていて、彼、随分周りの人怒らせたりするって聞いていたんですけど、聡介さんは悪気のないいいやつだって言ってて…。ある日その彼がふらりやってきて、私を見て、あ、パジャマですよね、すみません、寝てたんですかって。私、パジャマじゃなくて一応部屋着ですし、これで買い物にも行くんですって言ったんですけど、でも、どう見てもパジャマですよって言われて、そうかなって。で、聡介さんと松原さん、飲み始めたんで適当におつまみ作って出したんですけど、抹茶をまぶした肉団子をしげしげと見つめていたんですけど、これって、何とかっていう、あれ、なんだったかなって考えた末なんだか長い横文字の学名っぽい昆虫の名前言って、それの卵にそっくりだっていうんです。私はへえ、そうなのってしげしげと見つめて、これが昆虫の卵に見えるってなんだかユニークだなって思って…で、小さい頃マッチ箱にアマガエルやポケットにてんとう虫を入れて大切にした話ってのをしてみたんですけど、なんか共通性があるかなって思って、でも受けなかったんです。帰りがけに、その彼、聡介さんに大声で言うんです。いやぁぁぁ、聡介、許容範囲だよ、いい奥さん見つけたな、十分許容範囲だよって。私、ありがとうございますって笑いながら頭を下げて、彼にとって許容範囲ってすごい褒め言葉なんだなって思ったんです」

 澄江さんは特別に表情を変えずに時々小さくうなづきながら聞いていたが、「で、聡介はどう言ったの?」と言ったときには少しだけ頬が緩んでいた。

「彼が帰ったあと、言ったんです。タキなら、母さんとも話し友達になれるかもって」

 これって言ってよかったのかな、と言ってしまってから思った。

 澄江さんの頬の柔らかさはそのままだったので、私はちょっと嬉しくなった。で、話し続けた。

「高校時代の友達なんですけど、その子といると何もしゃべらなくても大丈夫って思える子がいて、なんかとても居心地のいい子だったんです。6人ぐらいでお弁当を食べる仲間がいて、彼女は軽く微笑んではいるんですけどほとんどしゃべらなくて、私はもっぱらうなづいてそうなんだ~とかへえ~とかいうのに徹していて、よく話す子たちがわいわい楽しそうな雰囲気を作り出してくれていて…。ところがある日、インフルエンザでよく話す子たちが一斉に休んじゃって、私とその子と二人でお弁当食べたんです。驚くほど二人とも何も話さなかったけれど、なんだか全然気づまりじゃなかったんです。話したことは、今でも覚えているんですけど、彼女が私のお弁当見て、あ、梅干しが入ってるね、って。私も、うんって、彼女のお弁当見て何かコメントしようとしたんですけど、特に言うことも見つからなくて…。普段だったらそこでもっと努力すると思うんですけど、その時は、ま、いいかって思って頭の動きを止めてもなんか気にならなくって…。お弁当食べたあとは二人横に並んで椅子の背にもたれてすわっていて…何も言わずに。それがなんだか、今でもとってもくつろいだひと時だったって覚えてるんです。それと彼女が言ったことがとっても印象的だったんですけど、ある時、帰りの電車の中で、私たち二人とも無口だよねって私が言ったら、違う種類の無口だよねって。どう違うのって言ったら、私は人に気を使おうと思えばできる能力のある無口、彼女は口を開くと本音しか言えないから言わない無口、って言うんです。そうなんだって。社会人になってからなんだかいろんな人と話してて合わせるの疲れたなって思うとき、彼女のことよく思うんです。どうしてるかな、って」

 澄江さんはちょっと考えていたが、「そうなの」とだけ言ってうなづいた。そしてしばらくして「珠美さんはよく話すタイプね。タイプが違う二人でも友達になれたの?」

「たまちゃんは…いい友達です。ええ、タイプ違いますけど」

「一緒にいてくつろぐ?」

「くつろぐ…ですか」

 たまちゃんと一緒にいてくつろぐか? そんなに疲れないのは確かだ。よく話してくれるし、たまちゃんの考えもよくわかるから、たまちゃんを怒らせないようにすることもできるし…。

「くつろぎますよ」

 言ってしまってから、なぜか嘘をついてしまったような気になった。

「それはいいわね。義理のきょうだいだしね。翔にはとても合っているって主人が言っているわ」

 澄江さんは嘘がつけないから自分が思っていると言えないのだ、と思った。

 思いながら、ふと翔くんの方がスズキに似ているのでは、と思った。そりゃ兄弟だから、スズキくんが似ていたら翔くんが似ていても不思議はないわけだけど、そもそも私は聡介くんがスズキに似ていると思わないし、未だに心の中でスズキくんと呼んでいるわけは、会う前にたまちゃんがスズキくん、スズキくん、スズキくんと言い続けたので、初めて会ったときにはすでにスズキくんだと頭に刻まれていたからだ。未だに自分の夫の名がすぐには聡介と出てこない。

 客観的に見たら翔くんの方がハンサムだろう。背も高い。愛想もいい。より社交的である。でも、私はスズキくんが好きだ。寛大であり、嘘がない。優しいふりはしないが根が優しい。

「なぜ、聡介はスズキくんなの?」

 えっ…。

「それは…」

 私は本当のことを言おうかと考えた。言いたくなった。けれどたまちゃんは困るだろうか。言っても澄江さんは怒らないと思う。

「魚のスズキ?」

「え…」

「スズキと言えば魚のスズキを思うんだけど、なぜ聡介が魚のスズキなの?」

「よく私もわからないんですけど…」

「スズキに似てるのかしら、聡介が…」

「さあ…」

「珠美さん、大したものよ。スズキって人にニックネームつけられるほど魚の顔を見分けられるとしたら」

 澄江さんは皮肉を言っているようでもなく、ほんとうに感心しているように見えた。

「たまちゃんがつけたわけでもないかもしれません」

「でも聡介が言っていたわ。スズキくんって呼ぶのは珠美さんだけだって。あ、それとその影響であなたもって。会ったときにはすでにスズキくんだって思われてたって」

 澄江さんはククッと笑った。はっきりとククッと笑った。

「スズキの画像だせる?」

「はい?」

「スズキの画像。携帯で」

「あ、はい・・・」

「じゃ、食べてから見せてね」

 澄江さんと私は、ビビンバを食べ始めた。お腹も空いていたし、見かけはメニューと違うとしても、とっても美味しいと思った。澄江さんも満足げに小刻みにうなづきながら食べていた。

 私たちはほとんど同時に食べ終わり、ほとんど同時に少し反りかえり、ふーっと息を吐いた。澄江さんはとても無防備に見えた。なんだか子供のように見えた。

 澄江さんはしばらく私を見ていたが、あ、そうそう、と言うように口を開いた。

「タキさんはハーヴェイって映画知ってるかしら?」

 ハーヴェイ?

「古い映画だから知らないでしょうね。ジェームズスチュアートさんって俳優が出てるの。善良な市民の役をさせたら、彼の右に出るものはないでしょうね。でもその映画ではちょっととぼけたいい感じを出してるの。大きなウサギのプーカが常に彼と一緒にいて彼にだけ見えるの。プーカってね、元はケルトの伝説とかに出てくるいたずら妖精って感じかしらね。映画ではその姿は見えないけれど、ハーヴェイって名付けれられたその大きなウサギの形をしたプーカは常にジェームズスチュアートさんが演じるエルウッドさんと行動を共にしてるの。エルウッドさんは大酒飲みだけど、とっても紳士的な人なの。映画を見てるとね、人には見えないウサギが見えるのは風変わりだけど、見えてないいわゆる普通の人の中にずっと性悪な人もいるんじゃないかって思えてくるの。人によって見えるものが違ったっていいんじゃないかなって思える、そんなちょっと風変わりなコメディなの」

「おもしろそう…。私、見てみます。ジェームズスチュアートさん好きだし。歳をとってから飼い犬のことを詩にして朗読するジミーさんの映像テレビで見たことあるけど、とってもあたたかい気持ちになりました。そりゃ裏窓とかカッコイイ役も素敵だけど、素晴らしい哉、人生!It’s a wonderful life なんかの善人を絵に描いたような役も素敵だけど、その大きなウサギの映画見てみたいです。ハーヴェイ?ですね」

「そう、ハーヴェイ。タキさん、映画好きなのね」

「大好きです。どっちかっていうと、ハリウッド系大作じゃなくって、インディーズ系の映画とかオープンエンドの映画とか好きです。より人生に近い映画って、夢はそんなにないかもしれないけど、好きです」

 好きな映画の話になり、思わず早口になった。澄江さんはそんな私を少し口角を上げて嬉しそうに見ていた。

 そういえばカフェ ハーヴィの名前の由来、聞いたことがない。もしかしたらハーヴェイって映画から名付けたのかもしれない。今度マスターに聞いてみよう。

 映画の中でジミースチュアートさんはハーヴェイっていう大きなウサギが見えるのだ。誰にも見えないものが。これって普通の人に見えない人の姿が見える者と通じるものがある。

「澄江さん、あ、お母さんはハーヴェイ的なもの見えたりすることあります?」

「ハーヴェイ的?」

「ええ、人に見えなくても自分には見えるものとか人とか」

「あるかもね。…あったかもね。タキさんはどう?」

「あるんじゃないかって思います」

「そうなのね」

「私の友達で時々ウォンバットに見える人がいるんです。大好きな友達です」

「そう、そういう人がいると世の中、より素敵になるわね。どう見えようと品格がある限り問題ないわね」

 澄江さんは、それ以上何も聞かず、うなづきながら静かに私を見つめた。

 その後、澄江さんと私は韓国のお菓子とお茶を追加注文して、ゆったりと時を過ごした。ほとんど話さなかった。



「そうだ!そうだわ。」

 突然、澄江さんが大声で言った。

「見てみましょうよ。スズキを」

 澄江さんは珍しく満面の笑みを浮かべていた。

 私はうなづきアイフォンを取り出した。

 画像検索のアイコンを押し、スズキ、魚、と打った。

 何枚も出てきた画像のうち、一番顔の分かりやすい写真を拡大し、澄江さんに見せた。

「これ…なの? 似てるかしら?」

 澄江さんはじーっと画面を見つめた。頭を横に振りながら

「真正面からの写真ある? 真正面からなら似てるかしら?」

 スズキ、魚、真正面、と打った。

 何枚か出てきた。どれを見せるか迷ったので、つぎつぎと見せた。

「似てないわね。正面からのも」

「ええ、目が離れすぎてますし、口が大きすぎますし…」

「もう一度横からのに戻して」

「はい」

 再び前の写真に戻すと澄江さんに見せた。

「やっぱり似てないわね。聡介下くちびる出てないし。だいたい聡介、魚顔じゃないわよね」

「そうですよね。わたしもそう思います」

「でも珠美さんは似てるって思ってるのね」

「ええ、何度聞いても、だって似てるじゃないって」

「珠美さん、翔にもニックネームつけた?」

「翔さんにはつけてないと思います」

 これは嘘だった。スズキくんの弟の翔くんに一目惚れしたたまちゃんは、シャッチー、ステキ!とその後かなりの長期間に渡って私に叫び続けた。シャチに似ているというのだ。とてもよい意味でだ。精悍な海のエリート。シャッチー。たまちゃんのことをそこそこ面白いと思っていたスズキくんは翔くんと彼女の中をとりもち、たまちゃんは婚約にまでこぎつけた。

「もう一度見せて」

 澄江さんはアイフォンを手にとりじっくり魚のスズキくんと対面した。

「どうやって画面動かすの?」

「こうやると横に動いて次の写真が見れるんです」

 澄江さんは指先を動かしてスズキの写真を何枚も見続けた。わたしも一緒に見た。

 澄江さんは飽きずに見た。指先の動きもスムーズになってきた。

 気がつくと澄江さんの頭と私の頭はくっつきそうになっていたが、私はとてもリラックスしてそのまま、澄江さんとスズキの写真を見続けた。ちがうわね~と言ったり、ときどき同時にふふっと笑ったりもした。

 これなんか目の感じ、ちょっと似てるかもね。今度珠美さんに見せてみましょう。似てるわって。

 そういうと澄江さんはいたずらっぽい口元になり、ふふ、と、くくの中間のような声で笑い、私もつられてははははと大声で笑ってしまった。

 私は澄江さんのとのランチを楽しんでいる、ということに気づき、嬉しくなった。帰ったらスズキ君に報告しよう。スズキ君の写真もいっぱい見たって。

 私はなんだかとても愉快な気分になっていた。

 

午後の過ごし方

 
 Kさんが入ってきたのは、いい加減紫陽花の花を見過ぎた感がある梅雨の終わりだった。テレビでもカレンダーでもいたるところに紫陽花があった。

 Kさんは総白髪だったが、顔は若々しかった。皺など結構あるのだが、目に光があった。目は心の窓とはよく言ったものだ。ここにいる人たちの目を見ると、その人がまだどれくらいその人らしI状態なのかがわかった。

 Kさんが車椅子に座っていたのもほっとさせた。変な話だが、体が不自由で入ってきたのであり、認知レベルが下がっているからでない、という可能性を高めるから、車椅子を見て安心したのかもしれない。

 私はかなり退屈していた。入居者の中に話相手もいなく、毎日がスリーピーに過ぎていた。

 そうスリーピー。



 それはスリーピーというのがぴったりな街だった。

 町というより、街。小集落でもいいかもしれない。村っていう感じではないし、一応商店街もあるようだ。

 けれど、足を踏み入れたとき、実際は膝を悪くしているから、車で入ったわけだけれど、スリーピーという言葉が頭に浮かんだ。

 その建物もスリーピーな感じだった。医師も介護士も、のろのろしているわけではなく、仕事のときは愛想もいいし、きぴきぴと動いているのだが、背中を向けて何かの準備をしているときなど、どこかスリーピーだった。スリーピーさが蔓延していた。

 都会の時の流れに慣れてしまっているといえば、それまでかもしれない。子供のころは田舎で育った。全てのペースがのんびりしていたと思う。18で都会に出た。そのとき、都会時間にセットした。セットして働いた。働いたけれど結果は出なかかった。膝を痛め、手も思うように動かなくなったとき、家族として世話をしようと名乗りをあげるものはいなかった。

 結果、このスリーピーな街のこのスリーピーな建物でしばらく暮らすことになった。いつまでかわからないが、この建物で。

 部屋は二人部屋だ。しばらくは一人だと言う。けれど、実際は希望者がいたら、明日からでもルームメイトができるらしい。

 18で都会時間に合わせた自分をスリーピー時間に直さなければな、と思った。

 久しぶりに孤独を感じた。胸の中にぷつっと点ができてじわーっと広がる孤独ではなく、心の底一面に広がって、地盤がぼこっぼこっと上がってくるような孤独だ。

 人は孤独で泣くのだろうか。人は孤独で死ぬのだろうか。二つの問いが浮かんでは消えた。

 孤独死の方は直接的な原因ではなければありえる。孤独泣きの方はいつでもできるだろう。けれど、涙は記憶にある限り、出たことがなかったし、まだまだしばらくは出そうもなかった。アレルギーで右目からだけ涙が出るが、物理的要因と心理的要因をミックスしてはいけない。




 午後に1時半から3時までは、「ゆったり時間」と名がつけられていた。ゆったりとホールで過ごして下さいというのだ。ホールというのはソファーがコの字型に置かれている殺風景な空間で、時々、野草じみた花や、入居者の家族が作った折り紙のかごとか、リハビリで膨らませ、段々小さくなってきている風船やらがあって「温かな」空間を演出しようとしていた。

 私が入った時、入居者は12人だった。介護度でいうなら、介護度1や2の、要支援よりは重たいけれど、重度とはいえない人たちが集まっていた。約半分は生き生きとはいかないが、認知度の障害はみられないようだった。受け答えも悪くはない。ただ、立ち上がったりが不自由でところどころで人の手が必要だ。約半分は認知症初期のようだった。体は健常者と同じだが、話すことがちぐはぐだった。

 ゆったり時間の過ごし方は決まっているわけではなかった。ゆったり時間というのは名目で本当は掃除の時間なのだ。入居者を一せいにホールに集めて、その間に個室や二人部屋や4人部屋を掃除するのだ。
 
ゆったり時間ではスタッフは掃除で忙しいので、たいていスタッフの一人が「さあ、皆さん、歌を聞いて過ごしましょう」といって、みなが良く知っている演歌歌手のCDをかけるか、録画してあった懐メロ番組や昔の紅白やらのビデオをつけるか、その月のカレンダー作りの塗り絵の紙を配ったりする。

 そのあとのフォローアップはないので、1時間半、みな大抵ぼんやり坐っている。たまに大声を上げたり、「せんせい!」と呼んだりするものもいる。

 その日は新参者のKさんが初めて参加していたわけだ。車椅子にすわっていたので正確な身長はわからないが、180センチ近くあるのではないかと思われた。白狼、そんな言葉が浮かんだ。頭髪が真っ白だったのと、目の色の茶色で薄かったのと、彫が深く、この年齢にしては顎がシャープなところが白狼という言葉を思い浮かべさせたのだろう。

 スタッフに車椅子にのせてもらってホールに来たkさんは最初、体が弛緩しているように見えた。だが、スタッフがいなくなると、ゆっくりとメンバーを眺めた。入居者を眺める、というより、集まったメンバーを値踏みしているようにも見えた。一人一人を見ていたが、私と目が合った。私たちはほとんど無表情でしばらく見つめ合った。認知力に衰えがない二人が、お互いを認知し合ったのだ。

「今日はお話の時間にしてはどうでしょう。思ったことを話す時間にしては」

 CDをかけるのもビデオをかけるのも、塗り絵の紙を探すのも面倒に思ったのか、それとも急に病院に搬送された人の手続きやらのごたごたで余裕がなかったのか、丸顔でいつもは丁寧で愛想のいい女性スタッフがいつもより2割増しの早口で言った。

「じゃ、今日初めて参加なさる樺山さんに最初お話をしていただきましょう。どうぞ」
 
 最後のどうぞの ぞ を言うか言わないかのうちに調理場からガシャンと瀬戸物の割れる音がしたので、彼女は慌てて走っていった。



 Kさんはおもむろに話し始めた。

「実は私、若い頃、強盗をしたことがあるんです」

 Kさんを囲んでいる人は驚くほど静かだった。Kさんが投げた石に反応し、揺らぎを見せたのはほんの数人だった。私はといえば固まっていたと思う。そしてKさんをまじまじと眺めた。

「ある時、ある街で、金に困った私は周到に、もっともそのときはまだ人生経験が浅かった私ですから、周到だ、と思っただけで、ちっとも周到ではなかったわけですが、でも自分なりに計画をたてたつもりだったんです。防犯ビデオなどもなかった時代ですし、窓口にいる人物のことも把握していたし、金があるところも知っていた。顔を見られないようにナイフをつきつけ、金を袋に入れてもらう。それだけの計画だったんです」

「ところが一歩郵便局に入った瞬間、もう計画は狂い始めてたんです」

 Kさんへの注目度は少しだけ増えた。下を見て自分の手を見つめ、ぶつぶつ言っていたものも、口でぽっぽっぽっと鳩のような音を出し続けていたものも、ゆったりのったりではあっても、まるで大学教授がレクチャーするかのようなKさんの静かな口調にKさんの存在を感じ始めていた。

「もともと大した意味もなかったんですよ」Kさんは言った。「そりゃ、金には困っていたでしょうけれど、今から思うと強盗しなければならないほどでもなかったと思うんです。あのときのことはそれこそスローモーションで覚えています。鼓動もドクッドクッはなく、ドドックァッドクァッって感じなんです。リズムがおかしいんですよね」

 そういってKさんは私たちをゆっくりと見回した。聴講している生徒の様子をうかがうようだった。口元には穏やかな笑みさえを浮かべている。

 かなり長い間黙って私たちを見ていたが、その沈黙が微妙に落ち着きなさを与え始めたとき、パンと軽く手をうつと下をカクッと向き、そのまま話をやめてしまった。

「どう狂い始めたんですか?」私は聞いた。

「えっ? ああ、そこが問題なんです」Kさんは私をその薄い茶色の目で見た。さっきよりさらに微笑みを強くしたKさんの口元にはくっきりとえくぼができた。

「思えば狂いべくして狂ったんでしょう」

 Kさんがさらに語ろうとしたとき、声が響いた。

「みなさーん。今、えんどう幼稚園の皆さんが急に来て下さいました。お歌を聞かせて下さるそうです。さあ、少し移動して、こちら側に移動して歌のステージを作ってあげましょう」

 10日ほど前に入ったパートのスタッフが甲高い声をあげて、さかさかと動き回る。

 Kさんは額のところに手をもっていくとひゅっと顔にベールをかけるような動作をして、私を見た。その顔は無表情になっていた。ショーは終わりとでもいうのか。Kさんはゆったりと目をつぶった。

 そんなkさんを見て、なぜか石灰石のようだ、と思った。石灰石のはっきりした定義を知らないが、なぜかそう思った。本当か嘘か郵便局を襲おうとした人間臭さのゆらぎは消滅し、Kさんは石灰石になっていた。もっともここにいる入居者の多くや、私もかなりの時間、石灰石になる。

 なんで失敗したんだ。疑問が頭でくるくる回った。

 子供たちの歌が響いていた。かわいい子たちだ。子供はいい。嫌いじゃない。

 私は半分口をあけ、子供たちの小さい秋みつけた、の歌を聞いていた。

アルファーの翼

 その日は起きると体中痛かった。なぜ? しばらくぼやっとした頭で考えていると、落ちたことを思い出した。

 落ちたのは地下鉄の階段だ。ごろごろ転びながら、スカートでなくてパンツスーツでよかったとぼんやり思った。階段下では若い男が壁に手をつき腰を折り曲げて吐いていた。

 帰ったとき家は森閑としていた。深夜一時半ともなれば仕方ない。お風呂も入らず顔も洗わずベッドにもぐりこんだ。

 パンツスーツだけは脱いだらしい。起きた時、上はインナー、下はショーツだけだった。パンツスーツがベッドと反対の壁の近くでくしゃっと丸まっているところを見ると、脱いで思いっきり投げつけたようだ。うっすらとした記憶の中で投げつけている自分がフラッシュした。

 洗面所へ行く。鏡を見ると目が充血している。顔も腫れている。

 鏡には私のアルパカ顔は映らない。手足や体は見れるが、顔だけは自分で見れないのだ。顔の白い毛は視界に入るが、鏡に映るのはコモン族層の姿だ。写真に映るのもそう。だから自分ではレイヤー族としての顔を見ることができない。レイヤー族として纏っている外見は物理的外見ではないから、物には反映されない。

 フェルルの知り合いに似顔絵を描いてもらったことがある。優しそうなアルパカ顔。ちょうどアルパカと人間の半分半分だろうか。知り合いはプロの似顔絵描きというわけではなかったけれど、一生懸命描いてくれた。

 鏡に映る私の顔。女性としてごくごく普通の部類だろう。ちょっと目が離れている気もする。

 近くにあった輪ゴムで髪をくくると、顔を洗い、上下合わぬスエットスーツを着て下のリビングに下りていった。

 壁の時計を見ると11時だった。11時。日曜日の11時。父母が仲人をした結婚式の引き出物の掛け時計。しばらくは時を打つたび、鼓笛隊のような人形が出てきて時間ごとに違う音楽を奏でていたが、いつの間にか人形たちは時々飛び出すが音楽はなくすぐに引っ込むようになり、やがて引っ込んだきりになり、時を告げるものはいなくなった。

 この家みたい…。私は思った。明るく楽しく笑い声に満ちていたときもあったと思う。母もまだ今のようではなく…

 おー、起きていたのか、日曜くらいゆっくりしたらいいのに。夕べ遅かったんだろ。

 父がリビングのドアから顔をのぞかせて言った。私しかいないことを確かめ、安心したように笑顔で入ってきた。お父さん、コーヒー入れようか。それとも何か食べる? お味噌汁作ろうか?

 そうだな。まずコーヒーを飲むか。そこの商店街にコーヒー豆屋さんができてね。ふらっと入ったら…。

 けっこう買う羽目になったんでしょ、お父さんのことだから。私は笑った。

 うん、まあな。でも美味しそうだぞ。ってかいい匂いなんだ。グアテマラかなんかで賞を取った農園のコーヒーらしい。

 そう言い、父は大きいコーヒー豆の袋を出した。500gはある。これだけ買ったならけっこう高かっただろう。

 やだ、そんなに買ったの? キンキンした母の声が聞こえるような気がした。けれど打ち消す。せっかくの日曜の父とのひと時を、母のイメージでぶちこわすことはないのだ。どちらにしてももうすぐ本物が出てくるわけだし。それまでの短い時間を父と楽しみたい。

 お父さん、それ豆だよね。コーヒーマシンだとけっこう音がするよね。

 父と私との間にサイレンスが広がった。母はコーヒーマシンの音が嫌いだった。

 そうだ、そうだ、父さん、忘れてた。これを買ってたんだよ。なんだか風情があってね。買ってくだしゃれ、そう言ってるようでね。 

 父はにっこりしながら、くしゃっとした紙の包みを持ってきて、目の前で開いた。ほーらぁ。

 最近はいつもひどく疲れたように見える父の目がきらっと嬉しそうに輝いたので、私も嬉しくなった。その紙包みが何であれ、父が喜んでいるものならコーヒー豆一個でも大豆一個でも嬉しいと思った。かなりの共感型、っていうんだよね、私のようなのは。

 父が開いた紙包みには手で挽くタイプの木製のコーヒーミルが入っていた。下に小さな引き出しがついていて、そこにコーヒーの粉がたまるようになっている。ハンドルのところはアンティーク風の銅色だ。

 いいね、これ。

 いいだろ。

 挽いてみようか。

 うん。

 豆を挽き始めると香りが部屋に広がった。

 いいね。

 グアテマラの香りだ。

 いいねぇ。グアテマーラァ!

 はは。はは。二人で笑った。

 グアテマラってどこだったっけ、と笑いながら、私はとても嬉しくなった。二日酔いも忘れて嬉しくなった。




 あら、あんたたち起きてたの。

 突然の声に父も私もびくっとした。体が目に見えてびくっとするわけではないが、心の中でびくっとした。

 母はすたすたとやってきて「こんなに買ったの?買い過ぎでしょ」とコーヒーの袋を指先でつまみあげた。500gのコーヒー袋を指先で異様な物体のように。ひどく役に立たないもの、いやそれ以下のなんだか汚れたもののように。

 父も私もなんだか意気消沈してしまった。spirit crusher スピリットクラッシャー…私はひそかに母のことをそう呼んでいる。やる気やいい気持ちを文字通り crush、潰してしまうのだ。

 ま、いいわ。私にも一杯入れておいて。

 母はそう言い、またリビングを出ていき、パシッとドアを閉めた。




 いつからだろう。母のことを恐れるようになったのは。物心つくころから苦手ではあったと思う。

 なんなんだろう。共感力のなさ、だろうか。裏、表だろうか…。

 顔はよく似ていると言われた。コモン族層での私の顔。父も母もコモン族だ。そっくりねえ、言われるたびにひどく居心地悪く感じた。母と私はひどく違う。根本的に。ひどくひどく違う。そう思っていたからかもしれない。




 うぉ~、よく寝たぁ。

 その声にびっくりして顔を上げた。兄が瞬間移動のようにそこにいた。

 わぁ~お兄ちゃん、帰ってたんだ。私は兄に抱きついた。

 兄が大好きだ。陽気で細かいことを気にせず、問題が起きると解決点を探し、人の醜いところを理解しながらも良いところがあればそこにライトをあてる。私もアルファーも随分かわいがってもらった。兄もコモン族だが、私とアルファーをあるがまま受け止めてくれているようにいつも感じた。

 おー、急にみんな休みをとれ~ってことになってさ~。なんだかよくわかんないんだけどさ、かわいい妹と愛する父さんの顔を見に帰ったってわけよ。

 そう言い、私の頭を撫で、父さんの肩をぽんぽんと叩いた。

 タクヤ兄さんって大きなもしゃもしゃとした犬みたいだ。人懐っこくて頭がよくて、温かくて優しくて誠実で忠実、私の自慢の兄だ。就職は狙っていた大手には入れず中堅会社に入った。そして大阪支店に配属になった。もともと人を和ませる兄の技に大阪弁と言うのが加わった。

 兄が家にいるとそれだけで随分雰囲気が和らいだ。



 母は兄を盲目的にかわいがった。兄は小さい頃から素直で可愛らしかったし、怒ってもすねても全てが愛らしかった。笑顔も抜群で面倒みもよかった。

 学校で兄を見ると純粋に嬉しかて駆け寄りたくなった。兄の周りが輝いているように思えた。

 母は兄には特別目をかけて大切にした。アルファーと私は双子で、兄とは4つ離れている。

 母は私ともアルファーとも合わなかった。それは育てていく中で、育てられていく中ではっきりしてきた。親子にも相性は確かに存在した。

 二人いっぺんに生まれて嬉しかったのよ。母は言った。

 母が嘘をついているとは思わなかった。嬉しかったのは確かだろう。けれど兄があまりにパーフェクトに可愛く育てやすかった割に、私たちは期待に沿わなかったようだった。

 アルファーは素直だ。兄とは違った意味で素直だ。嬉しくないのに嬉しがったり、悲しくないのに悲しがったり、申し訳なくないのに申し訳ながったりすることができない。アルファーは心の状態を偽って、行動や態度、顔に出すことが苦手だった。

 socially awkward  というのだと後で知った。

 日本語で、社会性がない、とか空気が読めない、とかいうのには抵抗があった。私はアルファーを心から大切に思っていたのでそういうふうに淡々と日本語でアルファーのことを言うことができなかった。

 けれどsocially awkwardと英語で言えばなんだか客観的というか第三者化したみたいだった。

 小さい頃のアルファーは、たいてい自分の興味のあることに没頭しすぎるあまり周りが見えなかった。私はいつもアルファーのそばで周りをキョロキョロ見ながら立っていた。危険からアルファーを守っていた、というと大袈裟かもしれないが、アルファーを不快な何かが起きることから守っていた。

 アルファーは小さな模型が好きだった。動物でも乗り物でも小さな模型が好きだった。アルファーの部屋はおまけでついてきたのか、誰からかもらったのか、そっとどこからか取ってきたのか、とにかく小さな模型で足の踏み場もなかった。それは母をひどく苛々させた。「ちょっとぉ、いい加減にしなさいよぉ!」「あんた、どっか変なんじゃないのぉ」と時には甲高く、時にはドスの効いた声で怒鳴った。その度に私は身をすくめた。そんなとき大抵アルファーは口をきっと結んで、きりっとした目で母を睨んでいた。

 なんなの、その顔は!

 母はアルファーの肩を揺すった。けれどアルファーは表情を変えなかった。

 母は兄がいるときはそんなにひどい怒り方はしなかった。兄のことが大好きだった母は兄にはいい母親だと思われたかったのだろう。

 ほらほら、ちゃんと片づけて。アツシくんはこんなものばっかり集めてほんとに面白い子なんだから、ねえ、タクちゃん。

 そう言ってアルファーのことも愛おしげに抱きしめようとしたりもしたが、アルファーはすごい勢いで母を押しのけた。

 あらあら。母は傷ついたようにさも困ったように兄を見た。

 そんなとき兄は、わあ、アッシー、これすごいなあ、本物そっくりだよ。ここのドア開くんだよな。すごいなあ。など、模型の一つをとり、感嘆したようにアルファーに話しかけた。アルファーの表情が少し和らいだ。

 母さんもこれだけ買ってあげるんだからほんと、優しいよな。ね、母さん。すると母の顔も和らぎ、満足したように兄に微笑むのだった。

 こんなことがどれだけあっただろう。数え切れないほどだ。




 おかんは? 兄が聞く。大阪に行ってから母のいないところでは、兄は母のことをおかんと呼ぶようになった。そう呼ぶと私や父の緊張度が和らぐのを知っていた。

 さっき、一度入ってきた。

 私は答える。父は黙っている。

 いい匂いだな。なんかすごくいい匂いだだよな。

 兄が思いっきりコーヒーの香りを吸い込む。

 父は、おー、タクヤは良さがわかるか。さすがたっくんだなあ~。と幼い頃の呼び名で呼んた。

 よし、たっくんにも挽きたてコーヒーを入れてしんぜよう。

 笑い声がコーヒーの香りのようにふんわり広がった。アルファーもいたらいいのに、私が思ったところに母が入ってきた。

 コーヒー入ったの?

 あ、母さん、ちょうど入ったよ。ほら。どうぞ。

 あ、タクちゃん、ありがとう。

 四人でテーブルを囲んだ。肩がこったように首を回す母はを見て、母さん、肩こってるんだ、とすぐ母の後ろに周り、兄は肩を揉み出した。

 ほんとにタクちゃんは気が利くわ、

 これでアツシが帰ったら家族が揃うな。

 父がぼそりと言った。母の顔が一瞬険しくなった。




 アルファーが一人暮らしを始めて3、4年になる。アルファーは極々普通…何をもって普通というのかよくわからないが…の子がたどる平均的成長からは大きくはずれていた。3、4歳まではほとんどしゃべらなかった。小学校のころはじっと虫や魚や動物を見つめていることが多かった。けれど高校も終わりに近づく頃、いきなり目覚めたかのように、人と会話を始め、時としてそれなりに愛想をよくする術を身につけた。

 私は、それが、いきなり、ではないのを知っていた。アルファーは長い間、努力していたのだ。学び、自分にインプットしてきたのだ。それがうまく出せるようになったのが、大学に入る前だったというだけのことだ。私の前ではアルファーはそれまでとほとんど変わりがなかったが、人前でのアルファーは確かに変わった。

 口数が少なかったアルファーは雄弁なほど自分の言葉で話すようになり、その表現がストレート過ぎることもあったが、独創的でウィットに富んでいたりもした。

 もともと長身で顔も整っていたが、どちらかといえば暗い固い印象を与えていたアルファーだった。けれど、自信に満ち、外向きの顔をしているとき、私はカッコいい、美しい、とすら思った。

 アルファーは翼族だった。翼族はレイヤー族の中でもかなり珍しい。肩から大きな翼が生えていて、翼の先に大抵5本の指がついていた。他の翼族はクチバシや鳥に似た目をしているものが多かったが、アルファーは違った。アルファーはレイヤー族層での顔とコモン族層での顔がほとんど変わらなかった。レイヤー族層での方が目が鋭く鼻が細く口が大きかったが、全体の印象はさほど変わらなかった。

 私達レイヤー族は心で強く願う時、相手のコモン族層での姿を見ることができた。それは見る、というより脳裏に直接投影されるような感じだった。レイヤー族層で見える外見はスピリチュアルで精巧な3Dの絵のようで、物理的には存在していない。だから角のあるものが帽子を被るのに邪魔になったり、トカゲ風の尻尾があるものがズボンを履くのに邪魔になることはない。アルファーも翼が日常生活の邪魔をすることはない。



 アルファー、頑張ったね、私は思った。

 父は優しかったが、母のもとで育つのはアルファーにはつらかったと思う。いつも耐えているのが私にはわかった。

 アルファーというニックネームは、アルファーが小さい頃、私がつけた。

 野菜のアルファルファーを見て、アルファルファアルファ、アルファルファ、と何度もアルファーが繰り返しすのに苛々した母が爆発した。

 あんた、このアルファルファみたいに変なんじゃないの。このしなびたアルファルファみたいに!

 母は、パックに残っていたしなびたアルファルファを両手に握ってギュッと潰した。

 アルファー、アルファーってバカの一つ覚えみたいに!

 母はその日、いつもより輪をかけて、一段と、機嫌が悪かった。

 そんなに好きなら、あんたのことこれからアルファーって呼んであげるわよ。アルファーってね!

 ひどく憎々しげに母は言った。

 アルファーは一見表情を変えずに母を見た。けれど顔は青ざめていた。私はアルファーが倒れるのではないかと思った。

 アルファーは小声で 「アルファーアルファーアルファーアルファー」とつぶやき、母を睨み続けた。

 私はアルファーという言葉が一生彼を傷つけるのではないか、と幼くして恐れた。そんな言葉があってはいけない、と本能的に感じた。だから言った。

 アルファーってかわいい感じだよね。アルファルファは長すぎだけどアルファーは可愛いよね。アルファーちゃんって呼んでいい?

 私はアルファーの手を取って、アルファーちゃん、と優しく呼んだ。母の憎々しげなアルファーの響きの上に優しい響きを貼り直したかったのだ。アルファーがアツシという自分の名前を気に入って愛ないのも知っていた。

 私はアルファーの手を取って両手を広げた。美しいグレイ色の翼が広がった。アルファーが翼を広げると、私は心底嬉しくなった。翼を広げたアルファーは自信に満ちて見え、美しかった。映画で見た天使ガブリエルのようだと思った。

 アルファーはうなづいた。

 ふん。母はそう言い、出て行った。




 アルファーには創作の才能があった。絵の才能。美術の才能。アルファーは美大に入り、今まで閉じていた心の翼をぱあっと広げた。アルファーの「翼」という絵を見て、私は涙ぐんだ。アルファーは翼を持ってたのに広げられなかったんだ。

 父がこの家にいなければアルファーのように家を出たい。母とはできれば、というかかなり真剣に一緒にいたくない。けれど、自分までいいなくなれば父が寂しがるだろう。




 兄の肩もみに目を閉じている母を見て、母にもアルファーの真の姿が見れたらと思った。

 アルファーが手を広げた時の翼の見事さ。手を広げたアルファーの翼、その薄灰色の翼は角度のよっては銀色に見える。もし母がアルファーの翼を見たらどんな顔をするのだろう。家族で行った観光地で翼の絵が壁に描いてある写真スポットがあった。その前に立ってポーズをとると、まるで翼が生えているように見えるのだ。そこでかなりの時間をとって何度も写真を撮りたがった母だ。実際の翼族のアルファーを見たらどう思うのだろう。少なくともアルパカの顔をした私によりは、魅了されるだろう。

 母にアルファーの人としての真の価値を知ってもらえたら、と思う。翼族としての翼を広げたアルファーでなく、普通にアルファーとしてのアルファー。母が思っているより、ずっと深く、優しく、複雑で、美しいアルファー。

 母のエッセンスは変えずに、ある部分だけを変えれたらどんなにいいだろう。人を傷つけるところだけを変えられたら。悪気がなく結果として傷つけてしまう場合は仕方ない、そのままでいい。お互い理解し合える可能性があるなら変える必要はない。ただ傷つけようと思って傷つける場合、悪意のある場合、その部分だけ変えられたら……

メグ、コーヒーおかわりは? 父が聞く。わぁ、お願いできる?

 本当にいい香りだ。グラテマラ産のコーヒー。ハーヴィのマスターのところでも中南米産のブレンドコーヒーはいつも美味しい。今度、兄を連れて行こう。兄がフィーラーかフェルルならいいのにって思ったこともあるけれど、兄は兄のままで素晴らしい。

 Beauty is only skin-deep.

 人の美しさ、価値は見かけとは関係ないものだ。もちろん、外見を自分なりにどう見せようとしているかで、人の内面が現れることも多いけれど。外見は元々生まれつきのものなのだ。そして人によって見えるもの、見えないもの、できること、できないこと、皆違う…。

 知って損はないよね。私は思う。知ろうとして損はないよね。母がもっとアルファーを知ろうとしてくれたら。見ようとしてくれたら。skin-deepの下のアルファーが見えていたら。その未来への可能性を、見てくれたら。

 でも母は母なのだ。母なりの心と限界をもって母なりに頑張ってきたのだろう。

 ふー…。私はため息をついた。
 
 ほぉーら、何だか知らないけどさー、たいていは気は楽にもって損はないぞぉ。兄が微笑む。

 うん、そうだよね。
 
 私は部屋に広がるコーヒーの匂いを思いっきり吸い込んだ。

 何度も。何度も。

 深く。

 深く。

 

もしも:カズト


僕は石巻カズトという。現在ルネビルのオフィスに勤めているが、以前は小さなメディア関係の会社で働いていた。

 その会社に入るのはなかなか大変だった。かなり真剣に就職活動にも取り組んだ。そのころは父はまだ退職前で都内に勤めていた。母は日々不思議感を増していたが、まだ父母の間に会話が成立していたと思う。

 ある日、僕は立て続けに不合格通知をもらい落ち込んでいた。一次は合格した会社七つのうち、三つは二次面接に進んだが、最終面接の前に二つ落ち、残っているのはたった一社だけだった。その面接を翌日に控え、僕はどうにも落ち着かなかった。

 もっとどっしり構えろ、子供の頃から父にしょっちゅう言われてきた。僕は父が理想とする物事に動じないタイプとは大きくかけ離れているようだった。

 父は、古いタイプの人間だったが、二度の転職の後、同世代の中では抜きんでた成果を残していた。新卒のリクルーターをしていた経験もあり、その日は夕食後、面接の練習をしてくれた。聞かれそうな質問をいろんな角度から投げかけ、模範的答え方も教えてくれた。

 これで心配ないな、父は機嫌よさそうにビールを飲み始めた。 

 あがり症の僕は練習ではうまくいっても本番では焦って早口になったり、自信なさそうにぱちぱち瞬きをする癖がある。大丈夫だろうか…内心ひどく不安だった。

 父はおいしそうにビールを飲んでいたが、僕の不安はつのるばかりだった。

 その時、それまでじっと黙って椅子の上で膝を抱えてすわっていた母が口を開いた。無表情で、時々丸まった猫のように欠伸をしていた母が、かなり元気よく言ったのだ。

 ねー、カズ君、ダイオウグソクムシって知ってる?

 それってこの前死んだやつ?

 僕は弱々しく聞いた。

 そう、それ!

 母はまたまた勢いよく言った。

 写真見たんだけどね、シャコとダンゴ虫の中間みたいよね。50グラムのアジを食べて以来、5年1カ月の間、何も食べなかったんだって。体調29センチっていうから結構大きいわよね。

 父と母は同じ空間にいてもその頃はほとんど接点がなかった。食事も二人の時は別々のようだ。僕がいると母は、全く気儘に、たとえば酢豚にうどんにヒレステーキに苺スフレとかをいっぺんに並べたりしてくれた。

 いきなりダイオウグソクムシの話をしだした母を、父は異星人でも見るような目で見た。少しびくついているようにも見えた。

 目は複眼でね、3500もの個眼からなりたってるっていうけど、近くで見るとすごい迫力らしいわよ。写真、見る?

 いや、いいよ。だいたいグソクムシの形知ってるし。

 ダイオウグソクムシをほんとに知ってる? オオグソクムシと間違えてたりしてない?

 オオグソクムシもいるんだ。

 いるのよ。それは15センチくらいにしかならないの。

 うん…。

 もしね、ママが朝起きるとダイオウグソクムシになってたら、どうする?

 父がビールを口から吹いた。

 母はちらっと見ただけで、

 ねえ、カズ君、もし朝起きるとママがダイオウグソクムシになってたら、どうする?

 母とは物心つくころから、この「もしも」ゲームをよくやった。

 もし、カズ君が蝉になっちゃったら、どうする?

 もし、カズ君が頭は犬で体は猫になっちゃったら、どうする?

 もし、カズ君が足が6本になって、そのうち1本とれちゃったら、どうする?

 僕は自分のことをカズ君と呼び、思いつく限りの「もしも」を母に投げかけた。

 母はどんなときでも、丁寧に答えてくれた。

 そうね、蝉になっちゃったら、蝉さんの生態を調べて、カズ君が弱らないようにして、どうしたら人間に戻るか真剣に考えるわね。

 そうね、頭が犬で体が猫なら、食事は犬用か猫用かって真剣に考えるわね。それから、どうしたら、人間のかわいいカズ君に戻るか研究するわ。

 そうね、足が取れたところが傷になってたら消毒して、そのあとで、どうして足が6本になっちゃったんだろう、どうしたら、もとに戻るか考えるわね。

 もし、そのままで一生もとのカズ君に戻れなかったら?と聞くと、

 そうね、じゃあ、そのままのカズ君を大切にしましょうね、と母はにっこりしたものだった。

 思春期になると僕はふさぎこみ、母とあまり話をしなくなった。僕と母との「もしも」ゲームはなりを潜めた。けれど、思春期を脱した僕は自他共に認める好青年になり、この頃になると、母が「もしも」と聞く方になった。

 もしも、お風呂に水が張ってあって、そこにタコがいて、刺身にして食べちゃったら、それが変身したママだって分かったら、どうする?

 など、かんべんしてくれよっていう「もしも」もあったが、好青年になった僕は、時間があるときは、昔母がつきあってくれたように、母の「もしも」に辛抱強くつきあった。

 そうだね、ダイオウグソクムシがママだって分かったら、生態を調べて大切にするよ。食べなくても長い間生きるわけだから、食べ物のことは心配しなくていいよね。

 でもダイオウグソクムシは深海にいるのよ。それが朝起きるとママのベッドにいるわけよ。死ぬでしょ。

 じゃあ、深海の生き物をよく知っている人に相談するよ。

 そんな時間はないわよ。で、カズ君が見てると、殻がメリメリって割れて中から何か出てくるわけ。

 うん。

 僕はここでちょっと興味を持った。父もメガネを拭いていた手をとめた。

 中から出てきたのは一回り小さくなった、やっぱりダイオウグソクムシなわけ。

 うん…。

 でもね、輝きが違うの。ちょっと前のダイオウグソクムシより輝いてる感じがするの。そして「ママよ」って確かにママの声がするの。

 じゃあ、確かにママなんだ。

 そう! それで、さらに見てるとね、出てきたばかりのダイオウグソクムシの殻がまたメリメリって割れて、また一回り小さなダイオウグソクムシが出てくるの。輝きはさらに強くなっているの。で、また「ママよ」って言うんだけど、声がちょっと小さくなってるわけ。

 うん…。

 ダイオウグソクムシはメリメリってやつを何度も繰り返すの。しまいには米粒くらいの大きさになって、「ママよ」って声も耳を近づけないと聞こえないくらい小さくなって、それでも脱皮を続けてもっと小さくなって、脱皮をしてるのかすらわかんなくなって、ピカって輝きは強くなってるんだけど、最後は塩の一粒くらいになって、でも輝きは物凄いわけ。「ママよ」って声は聞こえるような気もするけどほとんど聞こえなくって、で、最後は目に見えないくらいになってパシュってフラッシュのような輝きを残して、存在が消えるの。そしたら、どうする?

 父も僕も一瞬動きをとめて、一見無表情だけど結構楽しそうに話す母の口元を見ていたが、父はグラスを持って台所へ立ち去り、僕は、凄いね、ママ、その話、久しぶりの傑作だよね、と言った。

 でしょ。人間の存在を問う傑作でしょ。

 母は誇らしげだった。

 でね、もし、そういう結果が分かっているとして、朝起きるとほんとうにママがダイオウグソクムシになってたらどうする?



 その夜は結構よく眠れた。一人になってから、自然にくくくくっと笑ったからだろうか。母のその日の「もしも」は母と僕の長い「もしも」ゲームの歴史の中でも最高傑作だった。

 翌日、面接の番を待つ時間、どんどん緊張し、呼吸が浅くなり、動悸がし始めた僕はどうにかリラックスしようとした。母の「もしも」って話を思い出したら、少しはましになるかもって思った。だからダイオウグソクムシになった母が次々脱皮していく様を思い描いた。名前を呼ばれて、部屋に入っていく僕の頭には、父の想定質問とダイオウグソクムになった母とがごちゃ混ぜに存在していた。



 最近、僕はこのダイオウグソクムシの話をよく思い出す。あり得ないと思っていた母との「もしも話」がルネビルに勤め始めてから実際に起こりえることなのだと知った。どのように姿を変えるかは様々にしても…。

 姿は変わっても人としての本質は変わらないし、中身はより崇高になることだってあるだろう。けれど直面する身の危険…。メタモルフォーシスするメタ族のことを考えるとき、その存在を考えるとき、「ねえーカズ君」の母の「もしも」を思い出す。

 

レイヤー族

レイヤー族

レイヤー族と呼ばれる者たち、そして彼らの真の姿が見える人々が登場するヒューマンドラマの連作短編集です。一編一編はそれだけでもまとまりのある短篇小説として成り立っていますが、それぞれの登場人物は物語の大きなうねりの中で繋がっていきます。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-20

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  1. アーモンドクロワッサンと何気ない始まり:シルバ
  2. 僕が清美に会ったのは:リュウ
  3. スィートテンダネス:スカーフの人
  4. 分析屋:メイ
  5. ツリーライティングセレモニー:シルバ
  6. メタモルフォーシス
  7. 祈り:タキ
  8. アティテュード:タキ
  9. 大丈夫だから:タキ
  10. ブルースカイ調査事務所:カズト
  11. 33番3号ビル
  12. 肩にオウムをとまらせて:ノンタ
  13. サチの手:マーサとエリー
  14. ルネビル
  15. 天使の輪:ロコ
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  17. 公園:ロコ
  18. 輪くぐり:ロコ
  19. ミロちゃん:ロコ
  20. カフェ ハーヴィ
  21. 透けゆく人
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  23. 桂アキト
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