死にゆく海月
作者も忘れていた作品
10/2に書いたもの
海の……深海に沈んでゆく感触は悪くわなかった。
この苦しみも、息のできない辛さも、この世の中で感じてきた苦行に比べてしまえば、断然と優しさに溢れていた。
生きていればいいこともあるというが、今の自分が感じているほどに疲れ切っている中で、その考えは、もはや侮辱に等しいと言える。
五分遅れの人生を台無しにする遅刻も、明日まで嗤われるであろう邂逅も、生き恥に恐れ気ままに外出さえできない黒歴史も無い。
全てはもう無に帰した。もうそれで悩むことも無い。大切な人を失うこと可能性に積み重なる疲弊も杞憂によって被る迷惑も何もかも人生における全ての重責に泣く必要すらも無くなった。
もうすぐで灰が海水で満たされる。
死と生の境界にいる最中思う事でも無いだろうけども、明日もし生きていたら、どうしていたであろう。いつものように出勤し、大切な彼女と話し、彼女の美味い飯を食べ、その疲れを騙すようにまた明日という今日を生きていくのだろう。
自分が死んだと聞き彼らは、彼女らは一体何を思うのだろうか――多分、大いに悲しむだろう。恨まれるだろう、憎まれるだろう。
でもそれでよいのだ、それで良いのだ。そうやって僕はこの世を去るのだ。
愛する人は、後を追うだろうか。
僕の死をなんと称するのだろうか。
死後の現世も来世も期待しない。もともと無宗教な上に、幻想がとても気持ち悪い世界に思え、輪廻転生などという世迷言を吐くくらいなら、死んだ方がましだと身を投げ売り飛ばしたが。はて、投げ“売り”飛ばしたと言う事は、なんだやっぱり天を信じてるじゃないかと言われた気もするが、そうではない。ただただ、地に帰しただけに過ぎない。
社会の屑になるよりも海の屑になった方が環境にもいい。
これを、暗い思想と世間は言うだろうか。
分からない。
いや、分からなくて良いのだろう。
こんなことにグダグダと悩んでいるのも馬鹿馬鹿しく思えてしまって情けない。はっきりとした情景を改まって考えれば、それはそれで新しい発見はあると思うが、それでも傍から見れば滑稽な事この上ないのだ。
しかしながらそれを嗤うものもまた裏では笑われていることに、彼らは気づかない。その事実も相まって笑われるこの事実にまたも気づいていない。なんと言えばいいのか、やはり世の中は生きづらい。1を吐けば、これでもかという程に細分化され、言ってはいないことをさも事実かのように持ち上げられ、叩かれる。
そんな阿呆の集落に鎮座する、秀逸な顔をした詐欺師のような存在と化してゆく、今の現状が嫌で嫌で仕方がないのだ。
よくもまあ呑気に、いい世の中だと背筋を伸ばせるものだ。
そんな怖い現状に目を逸らしてまで、今日を『嗚呼良い世』と歌いたいと思うのは何故だろうか。
死にゆく海月