龍の皮

くまいくまきち

  1. 龍の皮 プロローグ
  2. 第1章 その1
  3. 第1章 その2

龍の皮 プロローグ

プロローグ

 その瞬間の衝撃は、たとえようもなかった。
 息が止まった。怒り、というよりこころの奥底までがたちまち凍てついて、真っ黒に染まってゆく感覚。
——あの時と同じ。
 そう、拉致された龍を、組事務所の前のゴミ捨て場で見つけた時、あの感覚が蘇ってくる。
 私は目を閉じた。龍の声が聞こえた。
「逃げるんだマリア、あの女は化け物だ。おまえのかなう相手じゃない」
 私は首を振った。その声を振り払うように。目を開ける。
 龍がいる。
 薄い雲間を抜けて、うねりながら青々と輝く龍が天へと昇っていく。鋭い眼光を放つ双つの眼、その先には女の白い顔が描かれている。薄い羽衣をまとった天女だ。龍は天女を愛しみ護っているように見え、また天空の飛翔を楽しみつつ戯れているようにも見える。
 左の肩口のあたりに『彫敦』の文字が見える。彫師の名前だ。
 それは、刺青に沿って人の皮を剥ぎ取り、なめしたものだった。どう加工したのかわからないが、刺青は生前同様に美しいままだった。
 そして、その皮は、間違いなく龍のものだ。
 首から背中、上腕、そして臀部、太ももまで、皮はきれいに剥ぎ取られている。
 龍の皮は、首のないマネキンに、まるで華やかなジャケットのように着せかけられていた。
「どうです、美しいでしょう。この美しさにはある秘密がありましてね。五万ドルは決して高くはありません」
 ロンと名乗った男が言った。この男の英語には中国訛りがある。ロンが名前なのか姓なのかはわからない。中国人とすれば、ロンは〝龍〞だ。この男の名も龍なのだろうか。そんなことをふと思った。が、そんなことはどうでもよいのだ。
 私はロンの目を見据えた。
 ロンは肥満していて、眼球は余分な肉の中に埋もれている。このニューヨークで裏街道を歩く男らしく、眼光はそれなりに鋭かった。その視線に、野獣のような性欲が秘められているのを感じた。
 私は激しい嫌悪感を感じた。
 いや、嫌悪どころではない。殺意だった。
 真っ黒に凍り付いた私のこころで、変化が起きていた。青白い、冷たい炎が生まれ、そしてそれは急速に拡がって私のこころを焼き尽くしていく。
 なぜ三年前に東京で剥がされた龍の皮が、今ここニューヨークにあるのか?
 どういう経路をたどり、この醜く肥満した中国人のもとへ渡ったのか?
 ロンの言う売値の五万ドルが、高いのか安いのか?
 私にはわからない。
 だが、そんなことはもうどうでもよいのだ。
 私は、この龍の皮に関わった者たちすべてを殺し尽くしたかった。たぶん、この私も含めて。
 ロンは、刺青のある部分を棒のようなもので示した。千社札のように描かれている『彫敦』の、『彫』と『敦』の間、そこには小さな穴が開いていた。
「この刺青の持ち主の男は、生きながら皮を剥がれている。その証拠がこの穴さ。この皮にはこうした小さな穴が二十箇所も開いている。男は全身に長い釘を打ちつけられ、動けぬようにされて、皮を剥がれたのさ。刺青の色が美しいままなのもそのためだそうだ。皮下の組織がまだ生きているうちに加工したからね。日本のサカナの料理であったろう、何ていうんだっけ、そう、〝活け作り〞だ!」
 ロンは「イケヅクリ」とそこだけ日本語で言う。
 そしてげらげらと嗤った。
 ――嗤うがいい、嗤うがいい。
 醜い中国人が私を見ている。私のこころは冷たい炎で満たされていく。
 棒のようなものを私に示した。それは見たことがないほど長い釘だった。
「この釘で、刺したんだ。これも一緒に付けてあげよう」
 ロンは、その釘で刺青の天女を指した。
「それにしても、あなたはここに描かれている天女にそっくりだ」
 私はソファーから立ち上がった。刺青の天女がそうしているように前髪を掻きあげて、微笑んでみせた。
「私が天女に似ているのではないの。その天女が私に似ているのよ」
 もともと龍の刺青があって、まだ空いていた場所に私の顔に似せて天女を彫らせたのだ。
 天女は、私なのだ。
 中国人には意味が通じなかったようだ。あいまいな表情を浮かべている。
 私は背中に両手を伸ばし、ワンピースのジッパーを外した。両肩を抜いて、ワンピースを落とした。
 中国人が卑猥な笑みを浮かべて私を見ている。
 ブラジャーを取り、パンティーを脱いで私は全裸となった。そしてゆっくりと廻り、ロンに背中を見せた。
 ロンが感嘆の声を漏らすのが聞こえる。私の背中にはこの刺青とまったく同じ龍がいる。同じ彫師に彫らせたのだ。
 私は振り返り、ロンの方を向いた。
 中国人を見下ろし、挑発するように裸の胸を反らせた。ロンがゆっくり立ち上がる。私はロンの股間をズボンの上からなぞった。すでに準備万端のようだ。だがこの男のいち物がその役割を果たすことは、もう二度とない。
 中国人の太い指が私の乳房をまさぐる。
「身体で値引き交渉か? いいだろう」
 私はロンの右手から釘を受け取った。その釘は三十センチほどありそうだ。私は両手でその釘を撫でた。まるで龍のペニスを愛撫する時のように。
 目の前に龍の刺青がある。天女が笑っている。
 中国人が私の股間をまさぐっている。濡れている。それを私は感じている。
 龍がいる。
 龍がいる。
 私は濡れて、欲情していた。
 中国人は肥満した身体を折って私の前に跪き、私の股間に舌を這わせている。私は中国人の頬に左手をあてがう。立ち上がるように促した。ロンはゆっくりと立ち上がる。中国人の醜い顔があった。幸い、身長差はあまりなかった。
 私は口を軽く開き、中国人の顔に自分の顔を寄せる。
 と、その瞬間、私は右手に持っていた釘を、中国人の鼻の穴に刺し込む。手のひらで一気に押し上げた。鈍い手ごたえがあったが、負けずに渾身の力をこめて押し上げる。押し上げる。釘の丸い頭が手のひらにめり込むが、かまわなかった。何かを突き抜けた感覚があり、その後はまるで豆腐でも刺し貫くように、すっと入っていった。
 ロンの肉に埋もれた目が、私を見ている。
 何が起こったのか、わからないようだ。
 鼻の穴から銀色の丸い釘のアタマが見えている。まるで奇妙なピアスのように。
 私はゆっくりとロンから離れた。
 ロンは両手で顔をまさぐる。鼻孔の違和感の原因が何であるか、ロンは気づく。それを引き抜こうとする。私は言った。
「抜くと、死ぬよ」
 ロンの手が止まる。ためらっている。その間に、私は素早く下着を付けた。
ロンが私を見る。肉の間の目は激しい憎悪に燃えている。
低いうなり声がする。中国人が叫んでいる。何と言っているのだろう。わからない。もともと意味なんかないのかも知れない。地の底から響いてくるような、嫌な声だ。
私は身構えながら、床からワンピースを拾う。
次の瞬間、太った肉塊が躍り上がった。
中国人が腕を振り上げ、襲いかかってくる。私は後へ飛びのいた。が、中国人は足もとのローテーブルにつまずいて、崩れ落ちた。脳に刺さった釘が運動をつかさどる場所を傷つけたのか、単に運が悪かったのか、私にはわからない。
ソファーとローテーブルの間に、肉塊は転がった。
私は中国人の顔を見下ろす格好となった。鼻腔から釘は見えなかった。ローテーブルへ顔をぶつけ、さらに奥へ入ってしまったようだ。頭の後ろに血だまりができている。それは見るみると広がっていく。釘が後頭部を突き破ったのだろう。
中国人が唸っている。もう、動けないようだ。
私はマネキンから龍の皮を奪った。思った以上の重量がある。私は龍の皮とワンピースを脇に抱える。
ふと、ソファーに男がふたり座っているのを目の端に感じた。見やると、中年過ぎの無精ひげの貧相な男と、青白い邪悪な印象の少年だった。ふたりは私を見ている。にやにや嗤いながら。
それは、私の父と弟だった。私がこの手で殺したのだ。横浜寿町の崩れかけたあの家で。もう、二十年も前のことだ。私はふたりを殺し、肝を抜いて肝買い商人に売った。そのおカネで、ふたりに売られた妹を買い戻したのだ。
あれ以来、ふたりは時々私の前に現れる。よほど私を恨んでいるのだろう。それとも私の幻覚なのかも知れない。
だが、そんなことはどうでもいい。
「おまえたちなんて怖くない。さっさと消えるがいい」
 私は父と弟にそう、吐き捨てるように言った。
 そう、幽霊なんて怖くない。生きている人間の方が、ずっと恐ろしい。
 ひとりの女の顔が浮かぶ。
――ユキエ。
 私は下着のまま、部屋を出る。急がねばならない。異変を察して誰かがやって来るかも知れない。
 中国人が唸っている。地の底から響いて来るような、嫌な声だ。
 急がねばならない。
 私は、日本へ戻るのだ。龍とともに。

第1章 その1

第1章 その1

都市には匂いがある。例えばハワイは花の匂いがする。オーストラリアの街は海の潮風の匂い、ヨーロッパの街は、どこか黴くさいに匂いがする。
東京は、人糞の臭いがする。初めてこの街を歩いた十歳のころ、私はそう感じた。人は死ぬと脱糞する。だから東京は、死びとの臭いがする。なぜ誰も気付かないのだろう? 十歳の私は不思議に思ったものだ。
そのうち、この街で暮らすようになって私は臭いに慣れた。
成田空港から特急列車に乗り、新宿に着く。私は新宿の街をぶらついた。長かった髪を切って、ショートカットにした。つばの広いキャップとサングラスとプリペイドのスマートフォンを買った。そして、私鉄に乗って私はその街に着いた。
東京に西のはずれにあるその街、戸籍がなかった私はこの街に住み、やがて戸籍を買ってもらい日本人になった。そして龍と出会い、私たちは強く惹かれ合った。龍と愛し合った日々の記憶が、私の中でフラッシュバックする。龍の笑顔が蘇る。血なまぐさいことばかりだった私のこれまでの人生の中で、ただひとつの平和で穏やかな時間。過ぎてしまえば一瞬だった。
私はキャップを目深に被り、サングラスをした。わずかな衣類と、龍の皮が入った旅行バッグを転がして駅から繁華街を歩いた。七月の終わり。梅雨という奇妙な名前の雨季が明けたのだろう。刺すような陽射しを感じる。
この街は、その臭いが特にきつい感じがした。まるで死びとが、自分が死んだことも気付かずに歩き回っているかのようだ。呼吸するたびに腐ったはらわたの臭いを発しながら。
清原組の者たちに見られたとしても、すぐに私とは気付かないだろう。
地下に潜り、お腹の子を流産してから、私はずいぶんと肉が落ちて痩せた。だが用心に越したことはない。
スマートフォンから予約したウィークリーマンションにチェックインした。
かなりの面積をベッドが占めている狭い部屋、机とテレビ、冷蔵庫にオーブントースターがあった。殺風景な部屋だったが、生きていくために必要なものは揃っていた。それに、いずれにしてもそう長くはかからない。
復讐を遂げるにしても、遂げられなくても。どちらにしても、私は死ぬに違いない。
バッグを開けて、龍の皮を出した。少し迷ったが、それをハンガーに掛けて、壁から突き出た衣装を掛けるためのフックに吊るした。
龍が天空を昇っていく。天女とともに。
私はベッドに腰を下ろし、その姿を見つめていた。
組の者たちはどうしただろうか?
関西からの侵食を受けて、清原組は二つに割れた。激しい抗争が起きた。関西に付こうとする者、龍をはじめとする元々の上部組織とのつながりを守ろうとする者とに分かれて殺しあった。龍が殺され、私は地下へ潜った。今の清原組は、おそらく関西の組の傘下になっているのだろう。あの時歯向かった者たちの多くが、殺されるか破門されたに違いない。
ひとりの若者の顔が浮かぶ。笑うとえくぼが印象的な青年だった。
私は思いついて、カレンダーを見る。
今日は七月の最後の土曜日、もしかするとその青年、哲に会えるかも知れない。もちろん生きていればの話しだが。
私は簡単に身支度をしてウィークリーマンションを出た。留守の間にルームサービスが掃除をするようなことはないということだったので、龍の皮はそのままにしておいた。
交通量の多い街道に出る。南の方へ少し歩かなければならない。
奥まったところの看板に目を止めた。『刀剣かたおか』と読める。復讐を実行するためには、必要なものがあった。私は少し寄り道をすることにした。
古びたショーウインドウの中には、抜き身の日本刀が飾ってある。私は店の外から中を窺って、客がいないことを確認した。
店へ入った。背を向けていた男が、振り返った。白髪を後ろへ撫で付けた細い金縁のメガネを掛けた老人だった。店主の高岡だった。
「いらっしゃいませ」
 高岡は言った。その表情はやや訝しげに見えた。刀剣を扱うこの店に、ふらりとやってくる女の客は珍しいのだろう。
私は店内を見回した。奥の衝立の向こうも見やった。たしか衝立の置くにはテーブルと椅子があって、込み入った商談をしたり刀剣を抜いて見せたりしていたことを思い出したのだ。
店内には高岡の他には誰もいないようだった。
私は高岡を見据えた。高岡の表情がくもる。片方のほおに短い痙攣が走る。
私はサングラスを外し、キャップを取った。高岡の口は少し開いて、呻くような声を漏らした。金縁メガネの底の目は大きく見開かれたまま、私を見ている。真昼に死神を見たら、人はこんな表情をするのだろうか。高岡にとって、私の姿はまさに死神以外の何ものでもないのだろう。
「用意してほしいものがあるのよ」
 私は淡々と続けた。
「女ものの日傘に、刀を仕込んだもの、前にこの店で見たことがあるの、あれを用意して頂戴」
高岡は、何か奇妙な病気の発作でも起こしたように何度もうなずいた。
「どのくらいかかる?」
 高岡は天井を仰ぎ見る。何か計算でもしているようにも見えた。か細い声で言った。
「あれは特殊なものだから、今うちの店にはないから知り合いを探してみるが、なければ細工を依頼しないとならないし、少なくともひと月はみてもらわないと」
 私は遮って言った。
「――三日あげるわ。用意して」
 高岡は何かを言うとするが、言葉にならない。私は続けた。 
「その代わり、彼女の居場所を教えてあげる」
 金縁メガネは老眼鏡なのだろう、見開かれた目が滑稽なほど大きく見えた。
「佐倉あゆみちゃんの居場所を、教えてあげる。悪くない話しじゃない?」
 高岡はうなずく。何度も何度も。両手のひらを合わせて、拝むような仕草をする。
「線香を上げさせてくれ、頼む」
 小さな声が聞こえた。
「わかってるわね。もし期限を守れなかったり、私のことを清原組の者に売ったりしたら」
 大きな目が見つめている。
「佐倉あゆみちゃんの居場所は、警察に知れるわ。あなたのことも含めてね」
 そう言い捨てて、私は『刀剣かたおか』を出た。
 私はあの男が嫌いだった。店内の同じ空気を吸っていることも疎ましい。
 私はふたたび街道沿いを歩いた。
 あの男は幼児性愛者で殺人者だった。十二年前、あの男は当時七歳だった佐倉あゆみちゃんを誘拐し強姦した挙句に殺害した。そしてあろうことか、あゆみちゃんの遺体を龍と私が処理をしたのだ。
 私は反対した。あの男には制裁を与えるべきだと思った。しかし、あの男は組長の清原と知り合いで、死体の処理を依頼したのだ。もっとも、私がこの店の地下室で少女の無残な遺体を見つけたことがきっかけだった。この店の地下室には、銃器などの違法なものが保管してあったのだ。
 組としても購入した銃のことまでしゃべられたら面倒なことになる。組長は相当な額のカネを受け取り、龍に死体の処理を命じた。
 私たちは哀れな少女を丹沢の山奥へ埋めた。そしてその場所は、高岡には伝えていない。高岡を強請るネタとして持っておくことにしたのだ。
 佐倉あゆみちゃん行方不明事件は、当時大きく報道された。「佐倉あゆみちゃんを知りませんか?」というポスターを目にしたことがあった。成長した顔をプロファイルして描いた似顔絵が掲載されていた。
 しかし、あゆみちゃんは七才のまま、丹沢の山奥で眠っている。
 あの男に依頼したものが手に入ったとして、私はあゆみちゃんの居場所を教えるつもりはなかった。あの男にはもっと苦しませてやりたかった。「線香を」などと殊勝なことを言うところを見ると、あゆみちゃんの霊にも悩まされているのだろう。

第1章 その2

街道を南に向かって歩く。小さな郵便局に見覚えがあった。路地へ入る。住宅街を抜けて少し歩いた。
焼肉をやく、香ばしい匂いが漂ってくる。
短い坂を下ると、門が見えた。
 「朝鮮第二初中級学校」
と看板が読める。
毎年七月の最後の土曜日に保護者はOBたちが主催するお祭りがある。この学校の卒業生だった龍とともに、私は毎年ここに来て豚の内蔵肉を焼いた。校舎は荒廃して、崩れかけている印象だ。龍に聞いた話しでは、この学校は学校とは名ばかりで公的な助成を一切受けられていないのだ。
日本と敵対する北朝鮮の金親子を称える教育を施すこの学校にカネを与えるほど、この国は甘くないということのようだ。
しかしその分を取り返すように、龍たちは近隣の学生たちとケンかしてはおカネを巻き上げていたらしい。そのお陰で龍の名は、日本の通名・杉田正太郎は近隣の不良少年たちの間に知れ渡り、恐れられたのだという。龍の本名は朴正太、在日朝鮮人だ。哲はその後輩にあたる。
簡易なテントが張ってあるその下で、皆がうごめくようにして立ち働いている。
臓物を焼く匂い、キムチの酸っぱいような匂い、ニンニクの匂い、人間の匂い、いろんな匂いが複雑に入り混じっている。私はこの匂いが嫌いではなかった。生まれ故郷のチェンマイの屋台を思い出した。
母と妹と三人で食べた料理、ご飯に煮込んだ豚足を載せただけの簡単なものだったが、私は大好きだった。
母の貌が浮かんだ。私はタイ人にしては色が白い。日本人と見分けが付かない。その容貌のお陰で、私は多くの日本人に気に入られ、今ここにいると言っても過言ではない。
母はタイ北部の山岳民族、カレン族の出身だった。カレン族は肌の色は白く、面立ちも日本人によく似ている。父は華僑、中国人だった。
私はテントの中にひとりの男を見つけて近寄った。男は炭火の上で串に刺した鶏肉を焼いている。
「焼き鳥を頂戴」
 私は言った。男は、「塩タレどっち?」と訊く。「そうね、タレがいいわ」私は応える。男は鶏肉を串ごとタレの入った壷に入れ、さらに炭火に戻した。タレが炭火に落ちて、煙りが上がった。甘い匂いがした。
 男は焼き鳥を紙のコップに入れ、私に手渡した。
 私は代金を払い、コップを受け取る。目深に被っていたキャップとサングラスを取った。
 男は私を見た。
 焼き鳥をやく手が、止まった。
 その男は、たしか通名が金山哲男、本名は金哲男。龍は哲と呼び、私は哲くんと呼んでいた。
 哲は、私を見ている。戸惑っている。少なくとも、歓迎はされていないことだけは、理解できた。
「ほらほら、焦げちゃうよ」
 隣にいたおばさんが手を出してきた。
 哲は炭火から離れ、いったんテントの裏に廻ってから私の前に立つ。目顔で付いて来るように促した。
 哲は缶ビールを二本買って、運動場へ向かう。狭いながら、やっとドッジボールくらいはできそうな広場だった。中央に長机とパイプ椅子が並べられていて、来場者がテントで買ったものを食べられるようになっている。その隅の席に私たちは向かい合って座った。
 哲はビールを開け、口を付けた。私もそれに習ってビールを口に含んだ。乾杯はしなかった。ビールはよく冷えていた。味はよくわからなかった。
「いつ?」
 私はキャップとサングラスを掛けていた。
 清原組には在日朝鮮人が多い。組長の清原孝則からして、本名は李孝則という朝鮮人だった。
「今朝早く、ニューヨークから」
 隣には家族連れがいた。七輪の炭火を囲んでいる。高齢の老婆がいる。在日一世だろうか。
 哲は何も言わなかった。ビールを飲み、タバコに火を付けた。
「情報がほしい。いま組はどうなっているのか」
 哲は顔を歪めるようにして、鼻から煙を吐いた。まだ長いタバコを灰皿に押し付けた。
「復讐をするつもりですか?」
 私はビールを飲んだ。裸の腕に陽射しが痛い。早く日傘がほしいと思った。哲のその質問には応えなかった。
「たいした情報はありませんよ。俺は破門された身ですから。あのとき龍さんはじめ、関西に盾ついた者の多くが、死ぬか破門です。組はいまじゃ、吉村さんが若頭になって、関西の三次団体ですよ」
「清原の親父さん、組長はどうしてるの?」
 哲は少し嗤った。
「破門されて、組を追放されましたよ」
「破門って、誰に破門されたの」
 哲は上部団体の名を口にする。関東いち円に勢力を張る元々がテキヤ系の大組織だった。
 「あの人さえ、もっとしっかりしていればこんな事にはならなかったのに」と、ひとりごとのように言った。 
「じゃあ、今の組長は?」
「親父さんの弟さんです。カタギだったのを無理やり連れてきて、関西の組長と養子縁組をして、まんまと鞍替え成功です。すべて吉村さんの描いた絵の通りらしいです。そういうことで組長は名ばかりだし、清原組は実質は吉村組です」
 吉村の貌が目に浮かぶ。片方の眉に深い傷があって、それが酷薄な印象を強めている。
 黒々としたものが広がっていくのを感じた。
「由紀恵は、どうしているの?」
 哲の目が、私を見ている。
 まるで悪魔の名前を耳にしたかのように、その目に怯えが走った。
「あの化け物は、今じゃ吉村さんの片腕です。女房同然ですからね。吉村さんもあの化け物に魂を売ったおかげで、ここまでのし上がれたんだって、うわさですよ」
 哲は私から目を逸らせた。ゆっくり煙を吐いた。
 朝鮮語の歌が聞こえる。机を並べた小さな舞台がしつらえてあり、その上でピンク色のやけにヒラヒラしたドレスを着た小柄な女が歌っている。
 私はその小柄な女を、ぼんやりと眺めていた。
 私たちは由紀恵の存在に圧迫され、言葉を失ったかのようだった。
「あの……」
 若い女だった。髪を金色に染めているが、頭頂が黒くなっている。
「ゴマ油を買ってもいい? ちょっと高いんだけど、お買い得なのよ」
 哲は、女を見上げる。「ああ、いいよ」と言った。
「あ、マユコです」
 哲は女を紹介した。
「昔し世話になった兄貴の奥さん」
 哲はマユコという女に私を紹介した。
 マユコは硬い表情で私を見て、軽く頭を下げる。
 「ああ、いいよ。買えば。おカネあるか」「うんある、大丈夫」ふたりはそんな会話を交わした。
 私はマユコの後ろ姿をぼんやりと眺めていた。
「いまは、別の組の世話になってるんですよ」
 哲は組の名を口にする。たしか、関西でもかつての清原組の上部団体でもない組織に属している組だった。
「でも、破門された身だし、いい潮時かも知れないと思ってるんです」
「カタギになるの?」
 哲はゆっくりうなずいた。
 微笑んで、ようやくエクボが見えた。
「マリアさんには本当に申し訳ないが……」
 哲は私に軽く頭を下げて見せる。
「あの時、龍兄貴が死んだ時、俺は心底ビビッちまって。もう、極道を続けていく気力がなくなっちまったっていうか」   
 哲はタバコを灰皿に押し付ける。
 深く息を吸った。ため息にも見えた。
「龍兄貴に刺し違える気があったら、あの化け物を殺せたんだと思う。でも兄貴はそうしなかった。あなたに、あのひと言を伝えるために、ただそれだけのために、兄貴は生きて戻った。あのひと言がなかったら、マリアさんは化け物に挑んで、殺されていた」
 哲の目が、私を見つめた。
「そういえば、子どもはどうしたんです?」
 私は首を横に振った。
「流産したの、ニューヨークに着いて間もなくだった」
「そうですか」
 哲はうつむいた。
「守るものがあるってこと」

龍の皮

龍の皮

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
更新日
登録日 2021-01-18

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