結実


 名前を返して、さよならをした。
 僕は自然と笑顔になった。不思議そうな様子の君に「気にしないで」と言ったつもりで大きく、手を振った。その動きは、君の中に生まれた不思議を拭えはしなかったんだろう。それでも君は君だ。同じくらいに見えた大きな手振りを返し、二度と振り向くことなく、段々と遠く、その姿は離れていった。足音一つない、雪の道に点々と続く別れが始まった、僕の目の前に並ぶ二つの窪みに踏み固められた、君の冒険。それを見送る。それが、この「お話」における僕の役割だった。頭では分かっていて、気持ちで割り切れない僕の立ち位置に降り立つ雪はちらちらと見えた。
 背後にある玄関の磨りガラスから漏れる明かりだけが僕の影を引っ張って、伸ばして、届かない。お話のルール。
 季節が受け止め切れずに水分となる、白い息を吐いてから。


 名前に表れている冬だったから、厚着が必要になるって分かってた。だから、君の家を訪問する最初っから私はもこもことした姿で、暖かった。結構、長い距離を歩いて来たっていうのもあったかも。息が切れないように、ペースは守ったけどね。背負ってる荷物もなかなかの重さでさ、大事な食べ物は食べれば減るんだけど、それ以上にこれが重いから、道中の負担があんまり変わんなくて。
 途中、一休みして下ろしたりして、その上に座って凍った海を眺めたり、裸になった木々の話を聞いたり、厳しくなりがちな他所様の風の悩みを解決したりで、ここに着くまでにも色んな事があった。その全部も、いつか話すね。今日はそっちじゃないから。今日の主役はこれ。啄木鳥でも、ウソツキでもない、ああ、気を付けて!素手で触ると、「いちち!」となって、とっても痛いから。
 君の言った通りで、この真四角のケースはすごく頑丈。沢山のお話の中に埋もれて、振り回されたりしたんだけど、その度に確認したらさ、傷一つ付いていないし、欠けたり、ひび割れたりもしてなかった。感動したんだよ。入れたときの形がそのままだったから。丸っとして、カリッとして、ざわざわして、ぐにゃってしない。あ、誤解しないでよ。齧ったりなんてしてないから。指で引っ掻いても似たような音は鳴るでしょ。ほら、この雪だって。ね?
 正直な話、美味しそうだなーって思うけど、まあまあまあ、まあ聞いてよ。君だって知ってるでしょ。私の役目。そう、でしょ。話すんだよ、私は。
 そうでしょ。
 渡すんだよ、私は。
 雪の降らない朝がある冬にね、ドラゴンに食べられた白鳥の姿をよく見るの。弔いでもなくて、お話のためでもなくて、お話を聞いて感動した私の気持ちの表れ。スーッと羽を動かして、綺麗なんだ。
 お腹も鳴るんだけどね。
 だからさ、信じて。
 私はこれを齧らないよ。
 

 玄関で靴を脱いで、家に上がって廊下を歩き、階段を上って手前の部屋、襖を開けてそのまま、横のスイッチを押して点ける。
 僕の部屋の一つ。隣の部屋と接する左の壁側にある本棚には、自分で買ったものと、毎年訪問する君に貰ったお話が縦に並んで敷き詰められている。その向かい、反対の壁側にある机のスタンドライトは君の訪問に合わせて消した昨日の昼から休んだまま、動かない机の上で新しいマフラーが二本、形を崩して、だらけて寝ている。灰色のものと水色ものに付いたタグを見て、それらを切る前に君の訪問があったのを思い出す。この二本が入っていた紙袋は、と視線を落とし、くしゃくしゃに丸められた姿が埋まるゴミ箱を後で下に持って行くと決める。タグも一緒に。ハサミで切ってから。
 長さを整えてから、クローゼットの中に収めたプラスチック製の三段ケースの一番上にマフラーを仕舞う。同じ段に仕舞っている靴下を取り出す。白黒の縞のやつがいい。あとは、と細々とした段取りを立てようと見回す部屋の正面にある遮光カーテンと、その向こうの出窓。やや右側に位置するその出窓と同じ壁側にある左側の低い二段の棚には、君が気に入らなかった音楽を収録するCDと、カセットと、ラジカセと、教科書と、工具箱と捨て切れないままのポスター群がはみ出た段ボール箱がどうにか収まる。CD以外はもう使っていないから、埃は積もっているんだろう。面倒くさがって見ていない一角はその埃を払うか、いつか捨てるか。出窓と棚の間に生まれた縦に細長いスペースに貼ったポストカードに対しては、薄着で寒そうだって君が毎回言うあの子。幅の広い帽子を被り、薄い緑のワンピースを翻す。この時期に現れる君だからこその心配だねって、僕がいつも答える。前の借主の忘れ物。ここにも、面倒くさがりな僕がいる。
 苦笑混じりにもう一度目を移す本棚の上から二段目、文庫を並べたそこにある空白は両端の二冊によって主張される。作家の氏名は「あいうえお」順で、海外のSF作家の表記は片仮名読みしているから、並べるのに支障はない。空白に収まっていた一冊は上下二分冊のうちの「下」、「上」は君が昨日、会ってすぐに返却してきた。「あいうえお」順で左から進んできて、厚い文庫一冊分の隙間の前に置かれている。同じタイトルの有名な一冊があるけど、下巻を含め、君が借りて読んでいるものには猫が登場しない。有名な方は、有名なだけに、君が既に読んでいた。あらすじを明かさない、上手な感想は聞いた。僕も今、読み直している。電子書籍で読み直している。最初の頃に感じていた抵抗感はすっかり消えて、消灯後も好きに読めるという点が気に入っている。音楽もそう。嵩張らないから便利。否定できない。それで物は物、否定しない。
 そこの出窓から見える景色に君はいない。そもそも、歩いて行った方向が違う。だから、カーテンを開けて、出窓を開けた理由は空気の入れ替えと気まぐれが半々。勿論、とても寒いからすぐに閉める。予定というには短い変化を、季節に合わせてピシャリと閉める。
 冬以外は違う。君が現れない真反対のその時季に広がる海を、君には写真で見せている。『夏への扉』というには小さすぎるサイズでも、キラキラとする憧れで質問する君に答える時間は楽しい。蝉の鳴き真似だって頑張ったからね。君が聞かせてくれるお話みたいにドラマチックでなく、僕の見たままの記録といえる内容だったし、因数分解みたいに解いた場面、場面を繋げる紐の長さが足りなかったし、だから話している途中でカチャカチャとよく重複して繰り返してしまったけど、最後まで全部話し終えた。
 僕にしては珍しい。
 最後まで君に話せるのは、君がやっぱり聞き上手なんだと思う。合槌なんだろうね、僕も他の人の話を聞くときに真似してみようと思っているんだけど、まあ、なかなかだよ。
 頷きと質問。その成功と失敗の記録は、都合のいい不均衡な結果として記憶している。



 この時季、私はずっと歩いて、じっとお話を聞いて、お話を拾って、このリュックに仕舞って、渡したい人に会って、渡したい人に渡して、で、また別れてを繰り返す。そうすると、どんなお話でも上手に聞ける、どんなお話でも渡せる。でもね、同じことを繰り返すと私が飽きる。飽きるとお話を聞くのも渡すのも雑になる。だから違うことを試す。奇想天外なこともする。で、お話のやり取りにおいて何が大切かを改めて見直す。どこまでが許されるのかなって。どこまでだったら、相手からきちんとお話を聞いて、渡したい人に渡したいお話を渡せているといえるのかなって。本質と言い換えればいいんだけど、言葉にした途端、なーんかね。どうなのかなって、曖昧に問う。知れば知るほど分からなくなることがあるから。収まらないんだよね。こう、くるっと。
 ここに来る途中で立ち寄った喫茶店でお話をした人がいうには、詩と詩的表現は違うもので、詩を書くには構えが必要なんだって言っていた。
 その人は、詩には構えがあって、詩的表現にはなく、詩的表現は小説とか詩以外の文学にも溶け込むし、文学以外の表現からも感じ取れる。でも、詩そのものにはならない。これは詩だ、といえるものは文字の表現になるだろうし、「形」があるんだって。えー、でも散文詩に決まった形はありませんよねって訊いてみたところ、「形」といったのは韻律、散文という意味の形式ではなくて、「構え」としての形式だって言うの。剣道でいう残心みたいなもんですか?ってもう一回訊いたら、そうだって、その人が言う。よく分かってるじゃないかって褒められたけれど、私の答えは当てずっぽうだった。だから笑って誤魔化したり、珈琲に口つけたりして、何とかその人のお話を聞き終えようとした。
 私の役割でも書くのは大事。だから、文章の決まり事があってこその崩しの良さがあるのは理解できる。
 真ん中にこう、ものが堂々と置かれているから、その場所、それ以外の場所が分かる。そのものを中心にして、そこが分かる。別の人のお話にあったんだけど、ルールの中で勝敗を決する剣道の残心は、殺生のない剣道とルール無用の真剣勝負の双方に跨ぐ心構えとして、剣を用いる武術の真ん中にある。油断大敵というか、本当に危機が去ったのかを無心で見つめるというか、段々と、残心が人の生き方に通じていくの。そうなると、残心って境界を広げるものに近い気がする。だから、あの人が言っていた詩の「構え」とは違うんじゃないかって、その人からお話を聞いている間、ずっと気になって、仕方なかった。
 その人は、こうも言っていた。
「だから、身に付けた技術を尽くして書けば書くほど、そして恐らく歳を取れば取るほど、詩は気合いを入れないと書けない。構えるまでに時間がかかるんだよ。大体、その途中で挫ける。なんかこう、もやもやとしたものはあるんだけどね、それがこう、指向性をもって形になってくれないのさ。なんでなんだろうね。悔しいよ」
 って。それを聞いて、私が共感できるところがあった。この人も、どこまでが許されるかを探っているんだろうなって。
 自分が納得しないものを、詩とは呼べないって本人が思っている。「構え」って、あの人とあの人に書かれた詩との間にあるんだろうね。あの人が迷っているのか、書こうとする詩が難し過ぎるのかは分からないけど、その関係が上手くいっていない。上手くいっていないけど、動いているんだろうね、ずっと。
 君にあげたあれはね、表面がしっかりと固まったまま、中身が動いているんだけど、似てるよね。天体観測が趣味のお爺さんが教えてくれた惑星間の引っ張り合いみたいな、意地の張り合い。
 だって、あの人も唸ってた。
 私も。
 雪の降る中、街灯一つ、ずっと遠くにまた一つの間にある道を進むとき、私は力を込める。サク、サクッと埋める足、引っ張り出して埋める足の動きに合わせる身体がさ、深々に立ち向かう意地なんだ。私の場合、私の方から向かって行くんだけど、あの人は向かい合うんだろうね。睨み合う、あるいはそっぽを向かれているか。ウーっと唸りたくなるかもね。歯を食いしばって、「ウーっ!」て。
 街灯はその足元を照らすから、細かい水滴になった息を吐いて、すぐにまた、私は向こうの街灯を目指して歩く。あの人はひとつ何かを書いて、すぐに消すか、ずっと悩むかをして書く、書き直す。動いているんだろうね、二人とも。
 似たもの同士だ、私たちは。


 カラカラと閉める窓に反射する、明かりの灯った部屋のカーテンを閉じる。僕は部屋の真ん中に戻って、机に収まった脚付きの椅子を引いて、君から貰ったケースを置いた。点けたスタンドライトに照らされて輝くのは、君が褒めたケースの表面で、本体と同じ、プラスチック製のしっかりとした作り。中を開ければ、君が話した「美味しそうな」形をした氷結と、それを包むために敷き詰められた綿が現れる。寒暖差に揺らめき、素手で触ってはいけないそれを、角度を変えて眺める。
 惑星みたいって君が評価した水の動きを目で追いかけて、僕の季節が変わる。溶けて居なくなる、けたたましい鳴き声に包まれて、遠のいていく。
 冬以外の季節、何をしているのか君に訊いたら、春までに私たちの館に戻って、夏には私たちの館に閉じこもって、秋には主に館外で活動しつつ、並行して冬の準備を進めている、と教えてくれた。
 雪女ではない、と以前君が話してくれた。
 じゃあ、何で冬に旅立つかと訊いてみたら、困り顔で首を振った。君にも話せないことがある、と知って驚いた。何でも話してくれた君だ。今もそうだ。でも、君だって人だ。僕と同じだ。それで踏み込み過ぎた、ごめんねと言おうとして、君が先に言った。
 白い息は浮かんで消える。
 切実な思いは好きに絡まり、好きなまま、あちこちに力を込めて、出発点に舞い戻る。軸を傾けた自転に似る。日の当たり方が変わる。寒い季節がそうして訪れる。ああ、だから好きなんだ。
 だから、これは僕の言わないことだ。
 降る雪に抗議する愛猫の気分に付き合えるだけの数の扉は僕の家にはない。だから、けたたましく鳴る目覚まし時計に合わせて、溶けて無くなるほどに陽光降り注ぐ季節に起きる今日、僕は立ち上がり、読み直した一冊を補充する。がりがりと口の中で冷たく、齧って味わう固まりを溶かして。
 冷凍庫の中で冷やされた。
 偽物みたいな息を吐き。
 また、再び。
 

 指のお腹を擦るとさ、こう、コロッと出てくる、ときがあるの。ずっと昔の祖先から、私たちはずっと研究してるんだけど、条件がさっぱり分かんなくて、有力なのが、渡しきれなかったお話の細部が、個々の私たちの中で寄り集まって一個の氷結となるという排泄物に見立てた説なんだけど、ある人がね、すべての話をノートに書き写し、話した本人にもその内容を確認してもらって、すべてのお話の、内容の全部を渡すべき人に渡したと報告したの。で、その報告には不定期だけど、氷結が生まれたと書かれていた。
 本人の気分次第でお話の細部はその内心に残り、想像上、結実するという新たな主張も出てきたんだけどね、報告した本人はドライな性格で、役割を淡々と果たしたって追加報告した。こうなるともう主観の話だから、決めようが無いって違うアプローチが試されているだけど、もうさっぱり。
 私も知りたいとは思うんだけどさ、っと、少しは軽くなったかな。君に何個か話したからね。
 でね、関係性だって説もある。お話を渡すべき相手に原因を見出す考えね。
 よく、こういう一文を書く人がいるんだけど、えーとね、
「えーって変な顔しないでよ。だって、これが生まれたのって君がそう望んだからなんでしょ?だったらさ、君が原因な訳じゃない。この氷結がこうして、ここにあるの。私が届けることになったのも、そういう紐付けがされたって考えることも出来るし。大人しかったよ、私が預かったときから。賢かったよ、私の話、全部きちんと理解してさ。
 お利口さんって褒めてあげてよ。
 この惑星に、この時季に、こんな星、滅多に生まれないんだから。
 私が言うんだよ。
 間違いないよ。」
 これを聞いた相手とさ、過ごした時間で育まれるっていうロマンチックな内容で、世間話としては面白がられるんだけど、信憑性がないよね。
 私が君にお話を渡したのは今日が初めて。
 それで、もう渡せた。
 信憑性はないよね。
 君が原因?
 君がそう望んだ?
 君に渡した一個に知性は無かったよ。ここに来るまでの間、私が話しかけたり、何か教えたりしたことは無かった。
 よいしょっと。うん、温まってきた。
 実感としてはね、こういう時。こう、指のお腹を擦って。ほら。
 雪に混じって消えるけど。
 


 そこの隙間にでも埋めておければ。いや、整理整頓にならない。机の上に置いておこう。使い易いサイズのノートは、いや、そもそも使っていないノートが手持ちにないことを思い出した。買いに行かなきゃならない。
 日が昇ってから、その下の道を歩いて三十分、この辺りでは珍しい五階建てのビルの一階、店舗を構える文房具屋の出入口の真正面にあるレジの前、縦に並ぶ棚の全部。ノート類はそこに陳列されているんだ。見るべきは表紙、罫線、あとは紙質かな。種類は意外に豊富、ただそれに見合った需要があるのかは、まあいいか。僕は買いに行く。近くだし、端末は置いていくかな。いや、撮ったものを君に見せたいから、持って行くよ。リアルタイムで送る。館の中へ。
 僕から君に話すなら、こんな感じ。
 どこにも見当たらない店名は創作する。それで、どう思ったかを聞きたい。



「僕から君に話すなら、こんな感じ。
 どこにも見当たらない店名は創作する。それで、どう思ったかを聞きたい。」
 と、点滅するカーソル。
 もう来ている季節。
 私は、こうかな。


 館外は、けたたましく。

結実

結実

  • 自由詩
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-17

Copyrighted
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