共有体

 ララ、みつめるさきに、星はあり、まよなかの、あの、ねむれないときの、どうしようもない感じを、わたしは、ひっしになって、かみくだこうとしている。ぐしゃぐしゃになって、きえてほしい。焦燥とか。
 ときどき、うらに、行くのは、わたしが、きっと、そういう運命のもとにうまれた、ひとだからだと、ララはいう。うらは、おもてよりも、おそらく、気温が三度ほど、低い。それから、電車の音が、すこしだけ静かだ。車の音も。うらでは、わたしは、ララと、ひとつのからだを共有している。つまり、わたしの胃は、ララの胃で、ララの血液は、わたしの血液なのだった。おもてでは、ちゃんと、わたし、という個体と、ララ、という個体が、べつべつのからだで、心臓で、生きているのだけれど。 
 そういえば、通販番組で紹介されていた、しゃべるぬいぐるみ、犬の、かわいらしいやつなのだけれど、おこさまでもかるがる抱っこできます、という謳い文句をきいて、ふと、臓器より、精密機械の方が、かるいのかしら、などと思った。かわいらしいものに対して、そういう生々しいイメージはよろしくない、と思い直しながら、わたしは、チャンネルをかえた。とくに、これといった目的もなく、チャンネルをぱちぱちとかえているときの、わずらわしさに、けれど、電源をオフにするという解決策は、なんだか負けた気がすると、わけのわからない勝気さを、発揮している瞬間の、わたしを、おもてのララは、まじめすぎてかわいい、と慈しみに満ちた眼差しを向けて、微笑む。ばかにしてるの、などとは言わない。ララならば、しかたなし、としている。うらの、わたしは、いつもなにかが、欠けていて、欠けているところは、ララのところなのだと思う。おもに、思想。

共有体

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-14

CC BY-NC-ND
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