月は何処にも行けない
現代文の授業になるとぼくはいつも頭に小宇宙を浮かべて文字の羅列をろくすっぽ見なくなる。なんだって十一時という一番お腹が空く時間に現代文なんかがあるんだろう。おなかがぐるぐるして、頭がぼんやりして、一番文学できない時間帯だ。この時間割を考えた先生は詩とか小説とか絶対に読まないんだろうなと思った。じゃあこの時間は何の授業が適切なのかって話だけど、そうだなあ、うーん、音楽だったら幾らか気が紛れたかもしれない。美術でもいい。
天井にはたくさんの星が瞬いている、廊下側の窓にはアンドロメダが、黒板の上の時計には土星の輪っかが、文学してる先生の眼鏡にはこぐま座が、左斜め前のあの子のふんわりウェーブには地球が。ぼくは、はっとして目を逸らす。また、あの子のこと見ちゃった。これで何度目だろう。七回目かな。今日だけで。
ぼくは咄嗟に自分の足元らへんに目線を落としたのだけど、これがまたよくなくて、ぼくの足元にはぼくのよれよれの鞄がだらしなく口を開けてる。宇宙人の肌の色みたいな銀色の弁当箱が、ちらりと顔を出しているのだ。ぐう、とおなかが鳴くのをぼくは腹を抱えて必死に押さえ込もうとする。まるで意味がなくて隣に座る親友に鼻で笑われる。ぼくは徒労をおぼえて上体を起こす。すると、こぐま座の光とばっちり目があった。「じゃあ……さん、十七行目から音読して」
ぼくが音読をすると、おなかはひっそりとした。でも読み終わると、情けない音で空腹を教室中に知らしめた。そうしたら、うまく鳴らないフルートの愉快な音みたいなのがさざなみのように拡がった。こんな音だ。くすくす、くすくす。つまり、ぼくはクラスメイトに声を押し殺して笑われたということである。左斜め前でふんわりウェーブが揺れた。
ああ、あの子でさえ。
ぼくはさみしげに笑い、教科書に行儀よく並んでいる文字の羅列にちゃんと集中するようにした。こっちはこっちで、たいそうな宇宙があった。ぼくは文章を目で追ったが、それは頭からするすると逃げ出してしまう。耳から、口から、鼻から。文字が、言葉が、とめどなく溢れていき、ぼくの小宇宙に混ざり込んでいく。先人のすてきな言葉はぼくのアンドロメダとダンスをして、心を刺す鮮烈な台詞は土星の輪っかを切り裂いて、繊細な心情描写はこぐま座がめちゃくちゃにして、ぼくの柔らかい心は地球の周りを月と一緒に回った。えんえんと、ぐるぐると。何処までも何処までも行けるのに、一番行きたい場所にはどうしたって辿り着かないんだ。
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きみと机をくっつけて、分け合って食べてみたかったな。春の日差しみたいにあかるくて、菜の花の黄みたいにきれいな、甘い卵焼きを。
月は何処にも行けない