ブルー・コントラクト

やない ふじ

  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4
  5. 5

 共にときを過ごす関係を築くのであれば一つ条件がある。
 頼みでも約束でもなく条件だと、紙切れ一枚、吹けば飛ぶ契約書へ、鉛のような重さを持たせる言葉を、まるで子供の内緒話のように、ささやく。
 これを呑んでくれる人間はそうそう居ない。金銭的な問題で、社会的な、体面の問題で。だから条件としてはふさわしい、と、相変わらず勿体ぶるものだから、急かせば、何が面白いのか、けらけらと笑われた。

 私が居なくなるとき、遺骸は地面でなくて、陸でなくて海に返して。

 満面の笑みを湛えて言い放つ。
 互いに海を見たことはなかった。四方を山に囲まれたこの土地で、海に行くこと自体が一つの指標だ。移動に費やす時間、そして資本の余裕があること。自分たちにはそれらがないのは火を見るより明らかだったので、最期のときの話をしているのだと、言われずとも分かった。
 自身の寿命を積極的に推し量ろうとする人間は一体どの程度居るのか。思考したところで詮は無く、直視したくない状況がいつしか日常になる。
 週に一度、川をふたつ越えて診療所へ行く日は、帰り道で甘味を買える日。歌うように言い、楽しそうに振る舞うのは、本心なのか、虚勢混じりの気丈さの現れなのか、未だに判断がつかない。徐々に長引いていく診察時間と、増える内服薬の小袋だけを、二人で共有する。慣れない苦さが甘味で消えるのは、ほんの一瞬だ。
 金の工面の方法を指折り数える肩に、真夏の木漏れ日が、散っている。
 そのときには。保険が返ってくるでしょう、組合からも見舞金が出るでしょう、まだ着ていない服は売れるでしょう。そうだ、お母様が送ってきた使えもしない豪華な食器類も、あなた私がそうしたんだと言って売り払えばいい。さすがに今すぐはできないけどね。一体何を言われるか。
 あなた、それを書くのなら、そういうことだよ。
 子供らしさと子供っぽさを自由に行き来する口調で語るのは。契約書を―始まりを示す文書の前でする話では、なかった。
 しかし、覚悟だった。署名を施す覚悟を迫り、迫られていた。終わりを全く意識しない始まりは、単なる思いつきと同義だろうから。
 そう呟くと頷いてくれたのを、覚えている。
 ということは、人間は、思いつきで生まれてしまうのだろうか。思いつきで生まれて思いつきで生きて、慌てて覚悟する準備をする。満足のいく準備が出来たかどうかは、そのときが来るまで、分からない。では果たして、覚悟は決めようと思って決められるものなのか。
 分からない、と笑うその顔こそに覚悟はあると、指摘するのはやめた。契約書の薄っぺらさと言ったら、まるで学生時代の答案用紙だ。その気になれば、あっさりと署名を済ませてしまえるものに対して、覚悟がどうと説くのもおかしかった。


 父母からの「贈り物」は日に日に増えていった。
 珍しいもの、貴重なもの。食べ慣れてもいない珍味を美味しいと思えるのは、その希少さに価値を見出す論理の飛躍だ。湯を入れるだけで出来上がる、名ばかりのふかひれスープを啜りながら、互いに笑った。
 外国の、女神の花籠と呼ばれる生物を用いた置物も送られてきた。海に棲む生き物なのだと、同封された手紙には書いてある。硬く、網目状の構造を持つそれは、仲睦まじいつがいの象徴でもあると聞き、しかめた顔のおかしかったこと。
 こんなに硬いのならいっそうのこと、防護服や強化硝子にして送ってくれたら良かったのに。金銭のたぐいを送ることはせず、いわく「役に立つのか今ひとつ分からない」ものばかり送ってくるのは、愉快ですらあったらしい。決して信心深くない癖に、正月に縁起物をたんと買い求める両親は昔から変わらないと語る横顔に光が灯ることを、きっと本人ばかりが知らないままだ。
 向こうからすれば、体面を保ちたい思いと、こちらの様子を知りたい思いとで板挟みになっている、ところだろう。
 既に家族と呼べる人間を失った身としては、綱渡り、危険な真似は止せと言いたいところだったが、言ったところで改めるような二人ではないことも、よく知っている。知らされている。家族が一人増える、と笑顔で迎え入れられた日に感じた光は、今まさに見えたものと同じだ。囲われるように、取り込まれるように。この三人の輪へ入ったときからずっと、柔らかい諦めの中に揺蕩っている心持ちだった。
 こつりと、深爪気味の中指が置物をはじく、ベッドから伸びる指の白さは、シーツの上では然程気にならない。
 あなたと一緒にこんな狭い巣の中で暮らしても、幸せにはなれないでしょう。あなたはよく、落ち葉みたいにどこへだって行ってしまうのだし。
呆れたように言う瞳は、控えめなまつげの下で、ろうそくの火のように揺らめいている。
 落ち葉。気ままに風に吹かれて移動する、風来坊のような?
 ろうそくの火が消える。次に見えたのは、松明の赤さ。
 だけどもう、どこへでも、どこまでも行けるけれど、どこへも行かなくなるでしょう。よりによって私を選んだばっかりに、常に嵐に晒されるような、つかの間の台風の目に安心するような日々が続くでしょう。それがこの契約なのだから。
 枷と呼び、縛り付けたと詰っても構わない。途中で呪いを吐くのならば全て聞き届ける。それだけのことを私はする。あなたが居るから、出来る。
 たいまつは煌々と、より高く燃え上がる。
 そしてあなたの意思とは無関係に、私はあなたの防波堤になる。いくら強くて高い波がやって来ても、あなたを壊すことなど出来ぬよう、私があなたの盾になる。さいごのときには崩れ落ちて、深海に降る雪になるのが本望だ。
 と、こともなげに語る。そう言えば、海の底には雪が降ると、教えたことがあった。
 崩れることなく永遠に? と呟きかけた口を閉じる。永遠を望むのは契約を反故にするのと同じだった。覚悟を解くつもりは、なかった。
 蝉がわんわんと鳴いている。海にも蝉はいるだろうかと尋ねると、いて欲しいものだと返ってくる。
 枕元の机の上の小さなコップが、西日を反射させる。 

 春はふきや野蒜を採った川べりの斜面に、今はざかざかと、細長い草ばかりが生えている。うかつに引っ張って抜こうとすると、手の皮が葉のふちで切れる。実行する前に教えて欲しかった。じくじくとした熱さを持ち始めた左手を抑える。舌で舐めると、土と汗が混じった味がする。
 斜面を下り、川底に立つ人影を追いかける。大きさも形も不揃いな石に足を取られ、大きく姿勢を崩す。つんのめった身体を起こすと、石だらけの風景の中に、絵に描いたような入道雲が、浮かんでいるのが見えた。
 小さい川だ。最寄りのバス停から歩いて二十分ほど。水が全て干上がれば、向こう岸へと難なく渡れるようになる。今の水量も、笹舟でさえ渋滞を起こしそうな程度だった。
 白い石を、選びながら渡る人影は、後ろ姿もまた白い。今年おろしたばかりのシャツは軽く、風通しが良かった。日光に照らされた身体の輪郭の細さに、思わず眉が寄る。
 適度な日光浴は必要だが、過度は禁物だ。疲れる前に休もうと声をかけると、まだ大丈夫だと返事が返ってくる。これまで、本人が体調を判断して、上手くいったためしはない。
 向こう岸まで行って、見たい。
 何を?
 いつもと違うもの。
 遠くから見るいつもの道。診療所へ通う道だ。左手を真っ直ぐ伸ばした方向には、待合室のないバス停。右手の方向には、ガードレールと雑木林。行ったことはないけれど知っている、木々を分け入った先には小さい鳥居とほこらがある。
 斜面に敷き詰められた石とコンクリートの隙間から、ぞわぞわと伸びている雑草。誰かが捨てていった、古い冷蔵庫が見え隠れ。たまに咲いている、黄色くて小さな花は、食べられない。剥き出しになった川底の石。ひからびてへばりついた、藻のかけら。しゃがんで見つけられるのは、角が取れて傷だらけになった、硝子の破片。古ぼけたビールの王冠。片方だけの靴下。ひしゃげた黄色いコンテナ。いつもと違うものは、いつもと違う、それだけのことで特別になる。
 少し離れた場所の幅が狭い階段を上って、たどりついた向こう岸で。額のすみに浮いた汗の玉がつうと落ちる、音がしそうだった。
 幼い頃はより多くのものが見えていた、自分にも覚えがあった。通学路の途中にある、古ぼけたクリーニング店の奥。側溝にたまった落ち葉。工場の前にいつも漂っていた、鉄とは異なる金属の匂い。どれも謎めいていた、記憶の沈殿物になってしまったそれらを未だ抱けるのは、羨ましくもある。
 どんなにありふれたものであっても、輝き出す。見初められる。その目にうつったものは、輝く権利を得る。
 内包された魅力を引き出すことにかけて、これ以上の才能がある人間がいるだろうか。
 川を見下ろして。干上がるのは上流にあるダム機能のためだと、知っていながらそれを夏の謎と呼ぶ。
 謎は全部で四つあるらしい。二つ目はセミの音が変わるタイミング。知らぬ間に音色が変わっているから、連中は忍者の仲間なのだ、と主張するものだから、笑ってしまった。三つ目は、水の美味しさ。井戸水は元々美味しいけれど、水道水がぬるくなる夏は格別だ、という。それはもう説明ができないほど。最後は身体の軽さ。布団から出ても身体に残る、ぼんやりした億劫さがないのが夏だという。春はうららかな日が続き、また、秋や冬は朝晩が冷え込む。
 しかし熱帯夜や、朝からさんさんと日差しが降り注ぐ日は、別ではないのか。尋ねると、寒いのは嫌いだけれど暑いのは大丈夫だから、と、喉を鳴らして水筒の麦茶を飲む。
 太陽の下なら、どこまでも歩いて行けそうだし。走っても肺が痛くならなくて、疲れないし。植物が一番生長するのも、昆虫やたくさんの生き物が多いのも夏だもの。人間も、一番生きやすいのは、本当は夏に違いないよ。
 斜面のふちにじかに腰掛けるので、隣に同じ姿勢をとった。木陰を得たアスファルトが、いっそ涼しい。ほんのりと、薄荷が香るのは、虫除けの香り。薄く日焼けした脚が硬質な空気の中に放り出され、前後に揺れている。地面に置かれた水筒が、砂利を踏む音をたてる。
 春よりも細くなった手首はしかし、錠剤や点滴が似つかわしくない、健康的なものに見えた。胸に訪れるのはきっと安堵だ。まだここに居ると、共にいるのだと。どんな場所よりも今ここで、深く安堵する。麻のパンツの、幅広の裾が、風でふるふると揺れる。
 契約をした日と同じ、松明の瞳で。いつもと違うものを、見据えている。
 海にも、夏の謎があると思うの。
 根拠はない。訪れたことのない場所に、根拠など。小説やラジオや新聞や。多くの媒体に登場する海はたいてい、夏のものだからと。
 多く描かれているということは、皆、夏の海が好きなのでしょう。多くの人に好かれているのなら、謎のひとつやふたつくらい、抱えているはず。
 謎は魅力だ。人を魅了するのは、謎だ。むしろ謎だらけの方が良い。海が決して干上がらないのは、謎が詰まっているからかもしれない。水滴の一粒一粒にも、ぎゅう詰めになっていて、謎は、解決されない限り、そこに留まる。
 もし明らかにされても、干上がり続けることはないでしょう。どこかで必ず、水と共に循環しているでしょう。雨が降って、流れて、乾いて、また空に上がって、降って。そうやって、常に新しい謎で、未知のもので、世界はいっぱいになる。
 謎は解き明かしたくなる性分?
 いいえ、どちらでも。
 今日のところは、そのままにしておこう。謎を楽しめるのは、きっと素敵なことだから。
 結局、風に冷たさが混じる時間まで、空っぽの川を眺めていた。

 二人で山へ分け入り山菜を採る。数日前の予報の通り、見事な秋晴れだ。万全を期した恰好で家を出る。一人で行くのは危険だから、と生まれたときから山を所有する本人が言うので、おとなしく従った。
 石だらけの道を難なく歩いて行く姿に、病室や茶の間での姿や、一昨日も処方された色鮮やかな錠剤の山は、錯覚だと思い込みたくなる。
 山菜やキノコの群生地、あけびのつるが伸びる崖、ごく短い期間しか咲くことのない花。宝のありかは門外不出だ。わざわざ危険な目に遭うために来る人たちも近頃は居ないけれど、と、口を動かす速度も手を動かす速度も全く落ちないことに、感嘆する。
 山はね、面倒を見ないといけないんだ。
 何でもそうなのだろうけれど。手入れをしてあげないと、遠くの水も海も駄目になる。生き物たちがおかしくなる。
 だから、山を持つってすごく責任があることだ。どうせあなたも持ち主になるのだから、いまのうちに言っておく。
 毒があるものとそうでないものを一瞬で見抜く目が、上目遣いでこちらに向けられた。右手のそれは毒きのこだから、と、下がった眉はすぐに元の位置へ戻る。
 黙々と手を動かす、目を、耳を、五感のすべてを使って、山からほんの少し、命をもらう。猟師だ。獲物の大きさは違っても、行為の根本は同じだと告げると、そうだろうかと首を傾げられた。
 一度だけ、漁師たちに出くわしたことがある。と、これ以上なく重大な秘密を打ち明けるかのように、丁寧に言葉が落とされる。彼らは定期的に集団で山を訪れ、木々の手入れをしていくのだと。
 彼らの風貌は、潮風にさらされた目は赤く、髪はぼさぼさと潤いがなく、年中日に焼けた肌は浅黒いのだと聞いていた。だが自分たちといたって変わらぬ容姿の彼らを見、つい腹を立ててしまったのだと。
 腹をたてる。なぜ? 
 そうやって、彼らから知らないうちに遠ざけられてしまっていたから。自分たちとは違うのだと、危うく思い込まされるところだった。
 彼らと自分たちと、どこが違うというのか。見た目や言葉といった上辺の印象で判断するのはあまりにも浅慮だと、実体験で先入観を上書き出来て良かったと語る姿はひどく印象的だった。
 山や森、自然を保護するという点で、彼らは自分たちと同じであったと。むしろ、山の恩恵を受けてきた身でありながら、山間部をどんどんと切り開き、昼夜を問わず真っ黒な煙を吹き上げている工場の連中のほうが理解しがたい。言った後でこちらをはっと見つめ、苦し紛れのような笑いを浮かべる。
 そうした工場の誘致を進め、産業化という名目で何度も環境破壊を行ってきたのは紛れもない事実だ。あちらこちらで。この土地においても、何度も。後生抱き続ける過去だ。今は違う、と言い訳を口にすれば全てを水に流せる、筈も無いのは百も承知だ。
 とはいえあなたの前で言うことではなかった。言いつつも、本心であったことも否定できないのだろう。
 だが、晴れない顔を見ているのも心苦しかった。色々な人がいるから、色々なことがあるからと互いに誤魔化しを口にし、きのこや落ちている木の実を探す振りをした。
 海に流れ込む川の水は山からやってくるものだ。だから、海産物製造業者や漁業従事者も山の整備をする。山がきれいでなくては、海の生き物も育たない。
 自分たちの利益のためであるが、ひいては山全体、環境全体のためになる。なんて合理的で素敵な論理、と笑う。
 植樹だけであれば誰にだって出来る。その土地に全く馴染みのない有名人でも年端もいかぬ子供でも。これから山を焼こうと思っている連中でも、金が惜しくないのなら。だから確固たる理由を持って世話をする漁師の姿は異質に見えたらしい。あまりにも自分たちに馴染んだものを持っている、全く異なる文化を持った異邦人。ちぐはぐな印象はしかし、いくつか会話をする中で消えていったという。彼らが持つ信念や知識が本物であると分かるのに、時間はかからなかった。
 互いの事を話し、海について訊こうと思ったのは自然なことだろう。
 漁に出るときに何を思うのか。船上で考えていることは。
 尋ねたところ、彼らはただ、より多くの獲物を願っていると答えたという。彼らにとって海は日常だ。憧れや大仰な夢を抱くより、むしろ現実を見る場所なのだ。こちらにとっての山が彼らにとっての海であったに過ぎない。
 単に生活をする場所。生きる場所。簡単に他のものと比較できるものではなかった。当然のことに気付けたのは随分後になってからだと、遠くを眺める声で言った。
 
 あぁ、それでも。
 やはり、海へ行きたい。
 
 子供が誕生日の贈り物をひどく心待ちにするような声だった。多くは望まない。どころか、たった一度が叶うのなら満足だと、何かを堪えるように、喉を鳴らす。
 水を差すようなことを、敢えて言ってみる。交わした契約、条件の通りであれば、「たった一度」をかなえるときにあなたはいない。記憶が、存在が存在しない、幽霊か何かのたぐいになっていない限りは。
 それでも良い、海に行ける、と未来を願い続けるほうが、きっと叶えるよりも大変で、大切なことだから。
 諦めた訳ではなく。潮風でべたつく肌の感じを、肺腑をみたす磯の香りを味わいたい。眠っているときに見た水平線を確かめたい。そう思うのは、本物だ。今ここにいる自分の意志が本物であることは、必ず海に繋がると、拾った栃の葉を弄びながら、歌うように。
 それに、あなたが言うのは違うでしょう。
 何度だって行けるようになろうと、そのためのお金ならこれからたくさん稼ごうと、こういうときは言うものだよ、正直者。
 正直者である自覚はなかったけれど。傷つけることを恐れた嘘を優しい嘘とのみ呼ぶのはおこがましい。だが、そうやって、思ったことをそのまま口走ってしまうからあなたは正直者だと重ねて言われてしまっては、反論もできなかった。
 

 青空が見える開けた場所で休憩をした。
 水筒から注いだ焙じ茶が湯気をたてる。キュウリ漬けの塩気がこめかみに染みた。
 空の足下には、向こうの山、それからこの山、そのふたつをつなぐ低い山々。四方を囲まれた中で、地滑りが起きたのか病にかかったのか、ぽっかりと剥げた地点が目に留まる。
 病気だ、と呟く。いくら枝葉を切り落としても防げない伝染病のために焼かれたのだろうと。
 運だよね。からりと笑う。自分の生活もそうだ、あたらしい暮らしをどうにか始めることができたのも、二度目の秋を越せたことも、全てが場の勢いに任せた運試しの結果のようで、どうにも実感がないと。ならば契約書を見直そうかと冗談めかして言えば大げさに首を振られた。名前の一画目にやたらとインクが滲んでしまったのを、未だに悔いているのだった。
 岩の上に降り積もった落ち葉は濡れている。乾いているときよりも、ずいぶん鮮やかに見える。
 落ち葉の形で樹木の名前を当てる遊びをしながら、石が多い道を進む。膝を使って、弾むように進む姿は来たときと変わらず軽やかだ。
 広葉樹は成長するまでに時間がかかることを教えてもらった。針葉樹ばかりの山は若い山だが、新陳代謝が行われていると一括りにすることはできないと。家を作る、燃料にする、人間が使うためだけに植えられ、伐採されるのはいわば植物の養殖だと。自分の山が古い広葉樹だらけなのは、先祖代々、ここを大切に守ってきたからなのだと、このときばかりは生家を誇らしく語る。
 あなたが持ち主になったら。ここの木々も差し出せと強請られてもできるだけ反抗するんだよ、と、物騒な言葉を、子供に言い聞かせるように語る。
山があればたくさんのものを守れる。ここに生きている全てのもの。生きていないものもあるいは。ふもとに住んでいるひとたち。動植物、目に見えぬ微生物。空気。川。海。
 関係が無いわけじゃないもの、と、共通の認識を確かめる。目玉焼きに使う調味料が違っていても、好きな音楽の傾向が正反対でも、こういうところは一致する。
 生きていること、呼吸することそのものが、あらゆるものとの関係性だ。霞を食って生きていける身でもなし、物質として、人間のかたちを保つためには、自身の外部からあらゆるものを取り入れなければならない。きっと、精神も。こころのかたちは、自分ひとりだけでは作れない。
 自然へ還元できるものなど無いにもかかわらず、一方的に奪うことを関係性などと呼んで、厚顔をひけらかして生きていくのか。と絶望を抱くことなく存続できる理由は何なのだろう。無頓着、無関心のみを理由とせず、還元できるすべを探して足掻く者も、少なからずいる。それが困難であるのなら、奪うものを、より少なくすれば良いと考える者もいるだろう。欲に負けず、慎ましい生活を送るのもまた、絶望から浮上する手段の一つだ。
 他には?
 もがく。足掻く。物質的な補充。
 または儀礼。疎かにしてはならないと、個として思う。
 頂いたものをお返しする、感謝の意を伝える、様々な意味があれど、根本は同じ、感情の整理と理性の再確認だ。
 人間は、いくらでも奪える。何だって奪える。善性、倫理、道徳。そうした名前がつくものを放棄すればどこまでも残虐になれることを、もう、滲みるほどに知り尽くしている―そうであれと、僅かでも分かっていたいと、願っている。
 だから。まだ善良な人間として生きられることを実感するために、儀礼は必要だ。自己満足、利己的と言われようと。
 では、あなたは。互いが持つ共通性から少し外れたところにある、あなたの描写は。科学は、あなたの得意分野だ。情緒や情動とは異なった角度から世界を描写する力を、あなたも持っている。
 見方を変えれば。人間も山も、きっと海も同じ。この身体を細かく細かく分断していけば目に見えない粒子になり、それらは本質的には机上の実験で再現できる。何かの条件が僅かに異なっていたために異なるかたちに落ち着いてしまっただけのこと。同じ化学物質に、線引きを施すのは人間だ。それなのに、全てはつながっているのに、自分には関係がないと突き放せる理由があるというのなら、教えてほしいくらいだよ。
 あなたにとっての線引きとは何かと、尋ねるのは少し恐ろしかった。
 そう考えると。と、こちらを向く。
 紅葉に映える、くちば色の目。
 防波堤になっても、海の底に沈んでも、私とあなたもつながっているんだ。記憶、痕跡、そんな曖昧なものではなく、ひどく明確で、単純なところで。
 まだ、これからも、つながっていよう。
 三度目の秋はあけびをたくさん採ろう、と指切りをする。
 今まであった場所でも、新しく見つけた場所でも、たくさんたくさん採ろう、と、指切りをする。

 秋の深まりは空で知る。
 散歩道に敷き詰められた落ち葉や、夜の訪れの早さはもちろんだが、一番は空だと語る。空の匂いというが、要するに大気の匂いではないだろうか。甘さはないが、柔らかさを秘めた、目の覚める匂い。冬の匂いがすると言えば伝わるだろうが、雨上がりのアスファルトの匂いのように感覚的なこれらを、たった一つの言葉で片付けてしまうのは惜しく、勿体ないことでもあるような気がした。
 四方を山に囲まれた土地盆地では、雲ひとつない青空というものに出会えることは少ない。この時期になると、むしろ黒々とした雨雲が一日中、くすぶったように浮かんでいる日のほうが多くなる。
 だから、と言うべきか。過去の中に広がる景色において、雲間から覗く青空でさえ、貴重なものだった。宝物のような。
 その青空を黒く塗り潰したのは自分だ。故郷によく似た土地を散々に踏み躙った。そうしなければならなかったから、と慰めめいた言葉を、幾度となく背中に受けた。同時に、何倍もの呪いの言葉も。
 正解が探せない。当時も今も。だから―契約に、懺悔の念が一切ないとは、言い切れない。あなたへ向けるものがあなたのためのものだけではないと、全てへ報いたいのだと叫び出しそうな口元に、かじかんだ指先を当てる。一人の空間でストーブをつけるのは躊躇われた。
 新聞受けが、かたり、音をたてた。それを合図にするように玄関へ出た。
 山が光っている。快晴ではなく、雲のすきまから覗くように、橙色の光が差し込んでいる。夏の盛りをとうに過ぎ、青々とした葉も既にあちこちを暖色に染め、秋の入り口と言うにふさわしい色をしている。差し込んだ光が当たった部分だけ、まるで山そのものが光っているかのように見えた。光るより、むしろ、燃えていた。天使の梯子と呼ばれる光を次々に地上へ突き刺しながら、煌々と燃えていた。
 山から空の天辺へと繋がる雲の峰は、所々に青黒い影を落としながら南西の方角へ足を伸ばしている。平野部から立ち上る煙のように、伸びる。何重にも重ねた薄い布のように、濃淡が顕著なそれを追って瞳を上げると、白色は薄ぼんやりとした水色の中に溶け、上から湧き出す雲にまた繋がる。
 雲という、同じ呼び名を使うのがためらわれる、立体的な雲と平面的な雲とが、同時に存在している。
 むろん、珍しい光景でもないのだろう。しかしその光景をひどく美しいと思った。共有したいと思った。他でもないあなたと。
 きっと、この空も海なのだ。あらゆる想定外を内包する、いくつもの顔を持つ青は、海につながっている。
 より遠く、冠雪を眺める。粉砂糖をかけたお菓子のようだ、と喩えてしまうのは、昨日買った、焼き菓子のことを思い出したからだろうか。一つ、錠剤の種類が減ったお祝いにと買った、くるみや干しぶどうがごろごろと入った、しっとりと重たいケーキ。
 三切れほど残っているから、八つ時にでも食べよう。あなたが好きな風味の、あたたかなお茶を用意して。

 契約してから初めてこたつを使った。使ったことがないなんて信じられない、一体どうやって暮らしていたのか、と両目が落っこちそうなほど驚かれた。どうやらこたつには得体の知れない魔力がこめられているようで、一度入ると抜け出すのはかなり困難だと一日目にして思い知った。
 積雪の前に薪割りをした庭も今は白一色になっており、遠近感がまるで掴めない。小さい頃のように駆け回れはしなくなった、そのことを後悔するよりいとおしく思うのだと、昨晩鍋をつつきながら言っていた相手は、蜜柑の白い筋を丁寧に取り除く作業に没頭している。
 とある絵本を思い出す。
 暗くて寒い海で、皆が寝静まっている中で、寝付けずに冒険に出かける魚の話。
 どれだけ時間が経ってもまるでずっと夜のようで、怖くなった魚は早々に引き返す。しかし迷子になってしまい、夢かうつつかも分からない場所を巡った後、何か見えない力に引き寄せられるように、やっと帰る、という内容だった。
 子供心に陳腐な話だと思った。ありきたりな内容よりも、挿絵が記憶に残っている。鮮やかな下地を黒色で塗り込めた上を引っ掻くようにして削る技法を用いていた。細く、ときに激しく刻まれたそれは傷跡のようにも見えた。暗さ、寒さが本の中から匂い立つような絵が、印象的だったのだ。
 冬の夜は静かだが、静か、という音が聞こえる。降りしきる雪が辺りの音を吸い込む。毛布や衣服が擦れる音。動物の足音。この世のものかどうかを疑いたくなる、遠くに響く呼吸音。
 虫の音よりも好ましいから秋より冬だ、と、色を濃くした指先で口の端を拭き取る。
 水中でも音は聞こえにくくなるから、海の底は冬の夜と似ているのだろう。だと良いな、と蜜柑で語尾はふさがれる。
 暗い中で、たまに射し込む、木漏れ日みたいなの光を大事に抱えて。静かに過ごせたらこれ以上の幸せはないね。
 動植物や天候がたてる音を好んで、人間の喧噪を避けるあなたらしいと思った。幸せを語る唇の色が褪せ、海底へ降る灰となるにはまだ早い。思うよりも信じるよりも願うように、頷きを返す。
 こんな風に、いつまでも過ごせたら良いと思ってしまう。雪が溶け、冬が明け、澄んだ水が山にも流れ始めるときが来るのは自明だ。
 不変のものなどないのだ。水は温度によって姿を変えるが、原子の構成が変わるのではないのと同じように。
 であれば流れるように生きてゆこう、と思う、変化をし続けることだけが不変だと不遜に構えて笑おうかとあなたも言う。
 不変のものなどないのだから、変わり続けることを、わたしも変わらずに続けていきたいのだ。ありふれたかたちにはなれなかった、二人だけの契約のかたちに、意味を重ねてゆきたいのだ。
 一生を約束する言葉の代わりに、日々の刹那を何度でも刻めば良い。海底に堆積する灰のように。静かに重ねたかたちが残るのならば、それもまた条件の達成だ。
 やっぱりあなたと契約書出して良かった、と、蜜柑の皮をたたみ終わったあなたがこぼす。あなたは自分のために誰かを愛せる人だと分かっていたから、私はあなたに決めたのだ。
 言葉の意図はいつも正確には掴めない。しかし、互いにそれはそうだろうと返せば明るい笑い声が返ってきた。
 
 皮を重ねていく手が止まる。いつの間にか、あなたの小さな寝息がしている。また、降り積もる音の静けさだけを聞く。
 蜜柑を一つ手に取った。両手に収まってしまう瑞々しさは、重みとさわやかな甘い香りだけでなく、冷たさも伝えてくる。皮は剥かず、手の平の中で転がす。
 今だけは、大げさなものはいらない。誇張はいらない。あなたをさいなむ痛みも錠剤も点滴もいらない。自身の懺悔も、呪いも、悔恨も、罪悪も、一瞬だけ、忘れる。
 触れられぬぎりぎりのところにあなたがいる、距離感、半年間変わらなかった契約を胸の底にしまい直して、見る夢。詩情が足りない分、あたたかさをふんだんにもったこたつの上には、みずみずしい、みかんの香り。
 へたの部分から皮を剥き始める。ささくれに酸味が滲みた。切ったばかりで短い爪では、白い筋もなかなか取れない。皮を破ってしまい、そのまま口へと運んだ。あなたのように上手くいかない。花びらのかたちに皮を剥くことも、白い筋をきれいに取り除くこともできない。
 ずっと前から、わたしには、あなたからもらったものばかりだ。
 最後のみかんのひとふさのような何気ないもので、満たされる。
 共に過ごす季節のあることを、当たり前にはしたくなかった。あなたとならばどこまでも行けそうだと言えば嘘になる、言えない代わりに告げるならば、あなたで私は満たされている、その事実を。五感でつながる、不可視の実感、一人では見えないものを、聞こえないものを、示すあなたはわたしの防波堤だ。
 わたしの中にはない。あなたの中にはあるのだろうか。ないかもしれない。契約書と共に、あなたの松明のひとみが、燃やし尽くしてしまったのかもしれない。
 この、恋ではない日々を、愛と呼ぶことはできるだろうか。愛だと、思いたい。わたしは、あなたを、愛したい。

 また、あなたとともに、春を迎えるのだ。

ブルー・コントラクト

ブルー・コントラクト

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-01-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted