街の背中

 明け方に薄く降り積もった雪は、午後の晴れ間の陽射しに溶けて、路面を黒く濡らしていた。踏み跡のない道端の日陰で、溶け残った雪が白い斑模様を描いている。
 街は年賀の活気に溢れていた。
 城跡近くの神社は初詣客で賑わい、参道に沿って正月限りの露店が並んだ。北郊の海岸にあるマリーナの屋外ステージでは、招待されたアーチストのカウントダウンライブを引き継いで、地元のインディーズバンドがロックンロールの軽快なリズムを刻む。
 繁華街のアーケードには、聖誕祭を祝うイルミネーションの回廊が姿を消して、赤い布地に黄色い文字で『迎春』と大書された横断幕が連なり、天窓の緩やかなアーチを朱色に染めていた。姫沙羅の並木が織りなす光のページェントは残っていたが、目立たないように隠蔽されたスピーカーから流れているのは、クリスマスソングではなく琴と尺八による穏やかな雅楽の調べである。
 通りを行き交う人々の顔からは、何となく浮き立った昂まりを感じることができたし、晴れ着を纏った若い女性たちの姿は、人波に華やかな彩りを添えていた。
 杉原大輔が繋いでいた右手を軽く引かれて下を向くと、見上げる男の子の大きな眸と出くわした。臙脂色の子供スーツを着せてもらい、水色の蝶ネクタイまで締めている。大輔自身、藍色のツーピースの上に茶褐色のチェスターコートを羽織っていたし、妻の久美も紅赤色のダッフルコートの下は黒が基調のリクルートスーツ姿である。
 実家に挨拶に出向く前に、門出を祝う記念の家族写真を撮っておくつもりだった。
 ――確かこの通り沿いに写真館があったはず……。
 大輔が記憶を辿っていると、男の子が尋いた。
「あとどれくらいで、おじさんのお家に着く?」
「良太、今日から〝おじさん〟じゃなくて〝パパ〟って呼ぶ約束じゃなかった?」
 息子と左手を繋いでいる久美が窘めると、良太は黙って俯いてしまった。
「いいよ、無理しなくても」
 大輔は言いながら、そっと良太を抱きかかえた。寄り縋る小さな身体を抱きしめていれば、気持ちは充分に伝わってくるのである。改めて〝パパ〟と呼ぶことが、少し気恥ずかしいだけなのだ。
「だけど〝おじさん〟は勘弁かな。せめて〝おにぃさん〟にしてくれる?」
 先月、二十六歳になったばかりの大輔である。良太の〝おじさん〟呼ばわりにはずっと抵抗があった。
「そうだよね。大輔くんは、まだ若いもんね」
 ――その〝大輔くん〟ってのも、やめて欲しいんだけどなぁ。
 大輔は内心そう思っていたが、口に出して言ったことはない。
 二人の出逢いは、バイク通勤中に転倒した大輔が、右の足首を骨折してしまったことがきっかけだった。ギプスで患部を固定して病室のベッドに横たわっていた大輔に、久美が担当看護師として挨拶にきたのが初対面。
 大輔のひと目惚れだった。
 看護師と入院患者、年齢がひと回り離れていることもあって、久美は最初から将来の夫のことを〝大輔くん〟と呼んだ。入院中も通院中も退院してからも、大輔は何度断られても懲りずに交際を申し込み続けた。だが、互いに憎からず思っていたにも拘らず、二人の関係はなかなか恋人同士には進展しなかった。
 久美は大輔との年齢差のほかに離婚歴もあり、前夫との間に授かった八歳になる男の子を育てるシングルマザーだった。だから三人で同じ人生の絵図を描くことを躊躇い、秘めた想いにブレーキをかけていたのである。
 かたくなに閉じられていた久美の心の扉をこじ開けたのは、大輔の変わらぬ愛の温もりだった。やがて、久美も少しずつ大輔の想いを受け入れて、二人は二年の交際の後、去年のクリスマスイブに入籍した。
 イブの入籍を希望していたのは久美である。理由を尋ねると、久美はいつになく真剣な眼差しを大輔に向けて言った。
「前に話したことがあったでしょ? 良太のお兄ちゃんのこと。たった一週間しか生きていてくれなかったけど、私にとって太一は今でも大切な息子なの。だから大輔くんとのこと、あの子にも祝って欲しくて。……イブは、太一の誕生日」
 年上の恋人が抱く熱い想いを知った大輔は、その願いを叶えてやりたいと思った。

 ふーっ、と久美は大きな溜め息をついた。今日は朝からこんな調子である。
「緊張してる? まあ、無理もないとは思うけど……」
「そりゃあ、そうだよー。だって、大輔くんのご両親とお会いするの、今日が初めてなんだからね」
「だよなぁ」
 順番が逆になってしまったことが、久美の不安をいや増していることは否めない。
 結納やら、結婚式やら、新婚旅行やら……、大袈裟な振る舞いには興味がなく、婚姻届を提出しただけで済ませてしまったが、その前に大輔の両親と顔合わせができなかったことを、久美はずっと心残りに引きずっていた。
 実家までは、車で三時間ほどの距離である。両親と兄が三人で暮らしていた。父親は町工場の配管工として長く勤め、兄はコンビナート内にある鉄工所で働いている。
 大輔は何度も久美を紹介しようとしたが、大輔の家族は頑として逢おうとしなかった。年齢差、離婚歴、シングルマザー……、強硬な態度の理由は想像に難くない。
 顔合わせの日取り交渉が遅々として進まないうちに、時間だけが過ぎていった。成り行きを見守るしかなかった久美は、やがて入籍を「来年のクリスマスまで待ってもいい」と言ってくれた。思うように交渉が捗らない中で、大輔も入籍の延期を真剣に考え始めていた矢先、久美の口から懐妊を告げられたのだった。
 状況は一変した。来年まで待つことは出来なくなった。二日後のイブ、二人は慌ただしく婚姻届を提出した。大輔の実家には、入籍の事実と正月に帰省する予定だけを伝えておいた。妊娠の件は知らせなかった。戦前生まれの両親が手放しに喜んでくれるとは、とても思えなかったからである。会っていろんな話を進める中で、折りを見て切り出すつもりだった。

 しばらく歩いているとアーケードが途切れ、同時に視界が開けて、三人はこぢんまりとした広場に辿り着いた。
 ヴィーナスのカリアティードを中央に配した噴水の水飛沫が風に舞い、新春の午後の陽射しに煌めいている。床の仕様は、商店街の矢筈模様の煉瓦敷きから、乱張りの石畳に変わっていた。正六角形をした広場は、三人が通ってきた一辺も含めて、すべての辺が繁華街の目抜き通りと交差している。それぞれ通りの入口には左右に二本ずつ、都合六対の門松が飾ってあった。
「ここが……、街の中心なの?」
 大輔は小さく首を横に振った。
「賑やかなのは、北の海端のほう。だけどこっちだって、捨てたもんじゃないよ」
「ふーん」
 改めて周囲を見廻す久美の表情には、「思っていたより、期待外れ」と書いてある。
 大輔は構わずに続けた。
「駅を降りて、いま歩いてきた通りは広場で終わりじゃなくて……」
 そう言って、大輔は噴水越しに正面に見えている通りの入口を指差した。
「あそこに繋がってる」
「通りが広場を突っ切ってるってことね?」
「そう。ついでに言うと、同じような通りがあと二本ある」
 大輔が指し示した先には、正面より向かって左右の一辺から、それぞれアーケード街が奥へと伸びていた。
「この繁華街は、三本の目抜き通りを中心に栄えてきたんだ」
「ふーん」
 曖昧に頷く久美の顔には、それでも「やっぱり期待外れ」と書かれていた。

 この街には市街地がふたつあった。街の中心からわずかに南寄りに位置するアーケード街と、北郊の海岸に切り開かれたマリーナの周辺地域である。
 戦前から戦後まもなく、さらには高度経済成長期において、アーケード商店街は経済と文化の潮流を担ってきた。しかし、海岸の埋立地にコンビナートが形成されていくにつれて、その中心はマリーナとその周辺地域へと移り変わっていく。いまではシャッター商店街となりつつある有り様を見て、久美が期待外れの感慨を抱いてしまうのも無理からぬことなのだ。
 古い商店街を抜けてしばらく行くと、街の中心を流れる川の土手にでる。流れに沿って下っていくと、次第に汐の香りが強くなり、やがて海端のマリーナに行き着く。
 家族写真を撮った後、大輔と久美はマリーナ方面に向かって、川沿いの堤防を歩いていた。良太は大輔の背中でスヤスヤと安らかな寝息をたてている。
 海岸に接したマリーナの北端から延びている桟橋には、たくさんのヨットやクルーザーが繋留され、内海の穏やかな波に身を任せて小さく揺れていた。ドーム型の広場を介した南端に高い丘があって、マリーナの喧騒を一望のもとに見下ろすことができる。対岸の埋立地に形成されたコンビナートがその規模を拡大させていくにつれ、中腹から頂上にかけて宅地開発が進み、やがて瀟洒な分譲住宅や高級マンションが建ち並んだ。
 緩やかな螺旋を描きながら丘を登る坂道の歩道は赤煉瓦の石畳敷きで、沿道にはプラタナスの並木が続いていた。街路樹の数本おきに、二又に別れた先端にランプシェードのような灯具をぶら下げた街路灯が設置されている。
 坂道沿いの家並みは、ガレージと中庭がある一戸建てが多く、どこかモダンな高級感が漂っていた。中世欧風の切妻造りで統一された、スーパーマーケットやレストランなどのショップ群も周囲に違和感なく馴染んでいる。丘の頂上から眺めることができる、坂下の中庭と建物のカラフルな色瓦が、まるで寄木細工のように犇めき合うさまは、宅地開発を担当した設計者が意図した通りの見事な景観を造りあげていた。
 丘の麓一帯には、マリーナが漁船の舟溜まりだった頃からの古い集落がまだ残っていて、コンビナートの繁栄を下支えする孫請け会社、そこから更に仕事を受注している町工場などで働く人々が、質素ながらも穏やかな生活を営んでいる。

 大輔の実家は、裾野の集落の一画にあった。周囲と比べて立派な門構えをしているのは、当時コンビナートの埋立地で漁師を営んでいた祖父が、立ち退く際に手にした金で購入したものだからだ。くすんだブロック塀に囲まれた敷地内には、狭いながらもしっかりと造りこまれた庭があった。そこだけ真新しい赤煉瓦の門柱、縦格子に組み上げられた黒い門扉。アプローチは鉄平石の乱張りで、緩やかに蛇行しながら訪う者を敷地の奥へと導いている。
 古びた引き違い戸の玄関の左右には、見事な門松が飾ってあった。父親の手製で、毎年この時期が来ると仕事の合間を縫って、材料集めから製作まで半月近くをかけて仕上げるのだ。
 大輔は実家の玄関の前で立ち止まると、背負っていた良太をそっと降ろした。寝呆け眸の良太を久美が後ろから支えてやる。
「ほら、良太、着いたわよ。ちゃんと起きて」
 小声で励ましながら、良太の服装を整えている気配を大輔は背後で感じていた。頃合いを見計らって振り返ると、久美が腰を屈めたまま頷き返す。
 腕時計に目を落とす。連絡していた午後二時まであと五分。大きな深呼吸をひとつして、大輔は玄関の引き戸を開けた。
 その瞬間、大輔の目線に飛び込んできたのは、上がり框で腕を組んで仁王立ちした父親の姿だった。刺すような視線で息子を見据え、隣近所も憚らない大声を放った。
「どの面さげて戻って来たとかッ! こん家の敷居ば跨ぐこつは、金輪際許さんッ!」
 大輔の背後で、たじろぐ二人の気配が感じられた。
「大丈夫だよ、良太。怖くなんかないよ」
 息子を励ます久美の小声が聞こえた。振り返ると、良太が母親の後ろに回って太腿にしがみついている。
 悶着は覚悟していた。頭ごなしに叱責されるだろうが仕方ない、そう腹を括ったつもりでもいた。それにも拘わらず、これほどまでの剣幕は想像していなかった。家の中に入ることすら許さないという。これでは取りつくしまもなかった。
「お前たちは、親の許しもなかとに、もう入籍したとげなの。いくらなんでん順番が反対じゃなかか? 籍ば入れれば、諦めて会うてもらえるとでも思うたか? 筋が通らんこつば一番すかんとは、お前もよう知っとろうが!」
「違うんだ。入籍したのには理由があって……」
 大輔の懸命の抗議は無視された。
「そげん甘えた考えで、これから家庭ば持って、やっていけるち思とるんか。お前たちは、世間様ば嘗めとるんじゃなかとか」
 一気にまくしたてた後、息子の背後に控えている久美を見やった。
「あんたも、ひと回りも年上でおって、大輔のこげな勝手ば許して、年のとり甲斐のなかこったい。のっけから道ば外すようなこつばしておいて、どうしてあんた達ば娘と孫ち思わるるもんかね。あんたにはすまんが、大輔共々、もう二度と顔ば見せんでくれ」
 言い終えるや否や、いきなり上がり框を土足で降りたったかと思う間もなく、大輔の目前で玄関の扉がピシャリと閉められた。直後、鍵が掛けられた音が響く。曇りガラス越しの影が、いささかの迷いも見せずに家の奥へ遠ざかっていった。
 凍てついた沈黙が、冬だまりの寒さに溶けてゆく。佇む三人が吐き出す白い息が、静止した空間の中で、わずかに揺曳(たなび)いては消えた。
 自分の見通しの甘さが原因で、玄関の前で立ち尽くす破目を招いてしまったのだ。大輔は今朝アパートを出る時、「何とかなるさ」と気安く請け合っていたことを思い出した。それが今の現実に直面して、年嵩の妻が自分にどんな想いを抱いているのか……。羞恥と屈辱が入り交じった想いに、頬がカッと熱くなる。
「大輔くん……、どうする?」
 遠慮がちな久美の声は、かえって大輔の激情を煽ってしまう結果となった。
 上桟に取り付けられた注連縄を睨めあげる。
 大輔の後ろ姿にただならぬ気配を感じたのだろう、久美が切迫した口調で訴えた。
「何をする気? 乱暴はよして。自棄になっちゃ駄目だよッ!」
 久美の声に耳も貸さずに、大輔は右手に向かって大股で玄関を回り込んだ。久美が慌てて、良太の手を引きながら後を追った。
 大輔にとっては、勝手知った実家である。
 少し行くと、縁側に面した庭に出た。土いじりが趣味の母親の手によって、庭木の合間に菜園と花壇がバランスよく整えてられている。濡れ縁の前に渡されてある二本の物干し竿に洗濯物はなく、ひび割れて色褪せた樹脂の表面が剥き出しになっていた。濡れ縁は掃き出し窓を介して、広い和室の居間に面していた。大輔が幼い頃には、風情のある猫間障子だった境界は、今ではアルミサッシの窓に変わっていた。
 明り取りも兼ねた掃き出し窓は、昼間なのに薄青色のカーテンが閉め切ってあった。
 大輔は横目で見て、歩みを速めた。
 庭を突っ切った奥、古ぼけたちっぽけな小屋が建っていた。木枠にトタン板を打ち付けただけの粗末な物置は、中学生の春休みに兄と親子三人で組み上げたものだ。中には積み重ねられたプランターや苗床をつくるセルトレイ、一輪車の上に載せられたままの肥料袋と漏斗、ペンチやスパナレンチ・ドライバーなどが入ったツールボックスや鋸・鉋・電気ドリルなど日曜大工の工具類、他にも用途不明のペール缶やコードリール、壊れたガスコンロ……、いろんなものが雑然と置いてある。
 探しものは、すぐに見つかった。小屋の隅っこに大きな切り株が置いてあり、その真ん中に使い古された斧が突き立っている。
 大輔は斧の柄を掴むと、軽く手首を捻って切り株に喰い込んでいた切刃を抜いた。
「ねえ、何をするつもりなの?」
 戸口に立った久美が、緊張を孕んだ声で尋いてくる。
 大輔は何も言わずに久美の脇をすり抜けると、もと来た道を戻っていく。
 ほどなく再び玄関の前に立った。大輔は完全に自分を見失っていた。
 躊躇いなく、斧を振り下ろす。
バキッ――。門松の頭ひとつ背の高い中央の青竹が、弾けるような音をたてて割れた。続けざまに左右の青竹と松の木が裂けて、真新しい木肌が露わになる。
「そんなことしちゃ駄目だよ、大輔くん!」
 久美が制止の声をあげると同時に、良太が堰を切ったように甲高い声で泣き出した。
「見ちゃ、駄目!」
 久美が息子を抱きかかえるようにして、両手で息子の目を覆った。
 大輔は怒りに任せて休む間もなく斧を振るい続けた。
「お願いだから、もう止めてーッ!」
 久美の絶叫で大輔が我に返った時、門松は無残な木と土と藁の塊になっていた。
 大輔は斧を放り出した。肩で息をしながら、額にうっすらとかいた汗を手で拭った。
「……行こう」
「え? だって、このまま帰っちゃうの? ねえ、ちゃんと話をしないと……」
 大輔が振り返ることはなかった。ぐんぐん遠ざかっていく。
 束の間、久美は迷った。連れ戻すべきか、後を追うべきなのか。
 怒りに任せ、肩で風を切って歩いていく大輔の後ろ姿……、久美には悄然と佇む夫の背中が見えていた。門口に立って、ズタズタに壊された門松に見入る。少し離れた隣には、午後の陽射しを浴びながら、空に向かって真っすぐに屹立する真新しい松飾り。
 久美は玄関に向かって深々と頭を下げると、良太の手を引いて大輔の後を追った。
振り返ることはなかった。

 アパートに帰り着いた時には、夜の八時を回っていた。途中、ファミレスに寄り道をしたからである。1DKのアパートは、もともと久美と良太が二人で暮らしていた所に大輔が越してきたのだが、母子は手狭になった不便さよりも、共に暮らす家族が増えた賑やかさと温もりを歓迎していた。
 だが、今夜ばかりは少し違った。帰りの電車でも、ファミレスの中でも、三人はずっと押し黙ったままだった。
 大輔の暴発した感情の熱気は、時間の経過とともに少しずつ醒めていった。実際、帰りの電車に乗り込んだ頃には、一時の激情に流されてしまったことを悔やんでいた。
 ――明日は、一人で行ってみよう。
 そのつもりでいた。それで駄目だったら明後日、また出直せばいい。時間が許す限り、わかってもらえるまで何度でも足を運ぶ……、それだけのことなのである。
 思いを定めてしまうと、肩の荷が下りたみたいに大輔の気持ちは楽になった。知らず知らずのうちに、力み過ぎていたのだ。
 それでも、大輔はいつも通りに振る舞うことが出来ずにいた。
 良太の異変に気づいたからだ。天真爛漫で弾けるような笑顔が影を潜め、強張った固い表情のまま、ひと言も口をきこうとしないのである。昼間の出来事が、幼い心を深く傷つけてしまったことは間違いないだろう。それが原因で、一時的に寡黙になっているだけならまだいい。だが、大輔は息子の暗く沈んだ眸の中に思い詰めた、ただならぬ気配を感じ取っていた。引き摺る想いが、心の内面に向かっているような気がしてならなかった。
 久美も母親として、同じ危惧を抱いていたらしい。心配そうに息子を見やり、大輔と気遣わしげな視線を交わし合った。
 家に帰るとすぐに、久美はテレビのスイッチを入れた。毎週、良太が楽しみにしている人気バラエティー番組が、正月の特番を組んでいた。三人はそれぞれの指定席で炬燵を囲み、画面が映し出す映像に黙々と見入った。普段の笑顔を交わし合う賑やかな一家団欒とは打って変わって、テレビから流れてくる音声だけが、やけに大きく部屋に響いた。
「お風呂、先に入って来てもいいかな?」
 久美が心配そうに尋いた。
 甘えん坊の良太は、まだ一人で風呂に入ったことがない。母子二人で暮らしていた間、ずっと久美が身体を洗ってやっていたのだが、最近では大輔と一緒に湯船に浸かるのが習慣になっている。
 昼間の一件と良太の様子を見て、久美は言外に〝自分がお風呂に入れようか〟と、問いかけているのだ。
「いいよ、先に済ませちゃって」大輔は、良太の様子を横目で窺いながら言った。
「本当に大丈夫?」久美は不安げな視線を送って寄こす。
 大輔は黙って、しかし力強く頷いてみせた。
「わかった。じゃあ、お風呂、沸かしてくるわね」
 言い残して、久美は席を立った。ほどなく、水掛かりの音が聞こえだした。
 良太はテレビ画面かとらも目を逸らし、しょんぼりと下を向いてしまっている。
「昼間、三人で撮ってもらった写真、一緒に見よっか?」
 俯いたままの良太に声を掛けながら、大輔は傍らのショルダーバッグからモバイルを取り出した。
 電源を入れると、液晶ディスプレイにランダムな画像が映しだされた。今回のそれは、氷原を歩くペンギンの群れだ。ログインIDとパスワードを入力すると、画面がパッと切り替わった。近くの公園で撮った久美と良太のツーショットである。
 アイコンをダブルクリックして『Outlook』を起動してみると、受信トレイに昼間の写真館からメールが届いていた。閲覧ウィンドウで来館を謝する文面に目を通して、添付されてきた三点の画像ファイルを開く。籐椅子に腰掛けた良太を両側から挟んだ一枚、台上に乗った良太を真ん中に配した一枚と同じ構図のバストアップ。
 大輔はUSBポートにメモリーを挿入して、送られてきたファイルをコピーした。次いで、別のアイコンをダブルクリックして、画像編集ソフトウェアを立ち上げた。
「こっちにおいで」大輔が手招く。
 良太は最初のうち少し逡巡していた様子だったが、やがてごそごそと動き出して大輔の膝の上に落ち着いた。
 USBメモリーは、普段デジタルフォトフレームに使っているものだ。趣味のツーリング先で撮り溜めた風景が多く保存されていたが、久美と付き合い始めてからは、少しずつ家族写真も増えつつある。ハイライトとシャドウの機能を使って軽く濃淡を出す程度の風景と違って、家族写真はブラシ機能で色彩のバランスを変えてみたり、時には思い切って背景を入れ替えてしまうなど大掛かりに手を加えることも珍しくない。
 専用のソウトウェアを使って映し出された画面を様々に変化させることが、良太には随分と刺激的だったらしい。ある日、ツーリングから帰って、大輔がいつものように撮ってきた風景を編集していると、偶然見かけた良太が「何してるの?」、言いながら寄って来たのが最初だった。大輔がいろんな機能を使って色彩や色合いを変化させてみせる度に、良太は「すっげぇー」「すっげぇー」を連発して、食い入るようにディスプレイを見つめ続けた。
 以来、大輔が編集作業をする時には大抵、良太が膝の上にいた。
「今日はどんなお化粧にしよっか?」
 良太はどういう訳か、画像処理のことを〝お化粧〟と命名して得意になっていた。悪気はないのだろうが、それを聞く度に久美は「なんだか私が、普段から厚化粧してるみたいじゃない」と嫌がった。
 ソフトウェアの中には、過去に大輔が編集したフォトグラフのすべてが、きちんと整理されて収納してあった。マウスを動かして、上端にあるタスクバーから『ギャラリー』ボタンをクリックすると、閲覧ウィンドウに二つのフォルダが表示された。
 大輔は『ファミリー』と名付けられたフォルダを開き、閲覧モードを『スライドショー』に切り替えた。保存されているたくさんの画像が、時系列を追ってディスプレイ上を流れていく……。
 最初の一枚は、まだ付き合い始める前、入院中に病院の屋上でこっそり撮ったナース姿の久美だ。想いを告白する前の一枚である。その後しばらく、被写体が久美だけのスライドが続いたが、やがて母子のツーショットが見受けられるようになっていく。この頃の良太の表情は、仏頂面をしたままカメラを睨みつけているものがほとんどである。
 そんな一連の流れの中、転機が訪れた一枚がある。ご機嫌で食べていたアイスクリームを誤って足下に落としてしまい、力いっぱい号泣しているショット。しかし、良太はポロポロと大粒の涙を零しながらも、母親ではなくカメラを向けている大輔に向かって、ピースサインで応えてくれていた。
 良太の笑顔が見られるようになったのは、それ以降である。最近では、久美がカメラマンになって、大輔と良太のツーショットを撮ることのほうが多かった。
 ふと気づくと、二人はスライドショーを最後まで観てしまっていた。慌てて壁時計に目をやる。そろそろ久美が風呂からあがってくる頃だった。今から編集に取り掛かっても、とても間に合いそうにない。大輔は中途半端で中断するよりは、送られてきた画像を取り急ぎソフトウェアに取り込んでおくことにした。
 その時――。
「……でしょう?」良太が小さな声で呟いた。
「ん? 良太、何か言ったか?」
 良太の視線は、ディスプレイの画面に固定されていた。そこには、昼間の家族写真の一枚が表示されている。
「僕のせいだよね? あの人……おじさんのパパでしょう?」
 今にも消え入りそうな声だった。
 良太の思い詰めた表情の意味を、大輔はようやく悟った。胸の奥が締めつけられるように軋んだ。
「悪いのはおじさんだ。良太のせいじゃない。良太は何も気にすることないんだよ」
 良太は、とうとう泣き出してしまった。
 泣きじゃくりながらも、途切れがちに言葉を繋ぐ。
「僕は、ずっと、パパが、欲しかった。……パパが、いなくて、寂しかったから」
 たまらなくなって、大輔は後ろから良太をギュッと抱きしめた。
「そうだったね。でも、これからは寂しい想いはしなくていいよ、おじさんが……」
 突然、強い力で良太は大輔の腕を振りほどいた。
「どうした、良太?」
 良太は大輔の傍らに立つと、涙でくしゃくしゃになった顔で真っ直ぐな眸を向けた。
「おじさんは僕のパパになってくれるの? 本当にパパって呼んでいいの? おじさんのパパが怒ったりしない?」
 小さな胸では抱えきれない優しい想いごと、大輔は良太をしっかりと抱き寄せた。
「おじさんのパパとは、ちゃんと仲直りするから」
 溢れ出す息子への愛情の中で、大輔の心の眸が見ていたものは、面罵して遠ざかっていく父親の背中が語る愛(かな)しい慟哭だった。
「誰が何と言おうと、今日からずっと、おじさんが良太のパパだ」
 小さな手が躊躇いがちに大輔の背中に回された。
「……パパ」
 抱かれたままの息子の声は、くぐもっていて聞き取りにくかったが、しっかりと新米パパの胸に届いていた。

街の背中

街の背中

第55回 北日本文学賞一次選考落選作。原稿用紙30枚。昨年も一昨年も題材を書ききれず、消化不良で終わってしまった反省を踏まえ、ストーリーをシンプルにして、その分を舞台となる街の『移ろい』に託して、ストーリーを下支えしようとしたのですが……。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-13

Copyrighted
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