雪と花の狭間に

雪ノ下まり子

  1. 黎明 そして暁
  2. 2011年冬
  3. 2011年冬・2
  4. 2011年冬・3
  5. 2011年冬・4
  6. 2011年冬・5
  7. 2011年冬・6
  8. 2001年12月
  9. 2001年12月・2
  10. 2001年12月・3

地名と名称は時代背景に合わせた表記で記しており、特に地名は過去編と令和編で表記が異なる場合がございます。
また、地方都市が舞台なので方言や地域特有の姓が複数登場します。
令和編の時系列はコロナ渦が収束した年の冬となります。

黎明 そして暁

――雪と花の狭間の季節に、私の何かが変わる――
ラジオ番組の収録で蘭はそう告げた。
「ちょうど私の生まれた時期ですね。私は二月の末が誕生日で、地元では三月の頭に卒業式を行うんですよ。なので私の中では二月から四月にかけた時期は人間関係が変わったり新しいことを始めるなど、物事の転換期ともいえる時期でもあるんです」
丁寧ながらも堅苦しさを除いた言い回しを心掛けるが聴者には伝わるだろうか。バカ真面目と揶揄された少女期と比べれば幾らかは堅苦しさが和らいだ方だと蘭は思うが、やはり周りから見れば真面目さゆえの堅苦しい印象は拭えないかもしれない。
「へえー。蘭さんは二月生まれなんですか。確かにそんな雰囲気ですよね。雪が似合うというのかな。そうそう、蘭さんは東北の生まれでしたね」
司会の陽気な口調とは対照的な、落ち着いた口調で蘭は続ける。
「はい。私は四方を山に囲まれた東北の地方都市で育ちました。少し前には朝ドラの舞台にもなったんです。音楽が盛んな地域で、私も又従姉に触発され、小学生の頃にフルートと声楽を習っていました」
「朝ドラも音楽が題材でしたよねえ」
「そうですね。10代の頃に吹奏楽やオーケストラで演奏した楽曲も出てきて懐かしくなりましたね」
蘭は音楽家であった。元はフルート奏者で演奏家として活躍する傍ら、自らが作曲した楽曲をいくつか世に送り出した実績はある。
20代の後半頃に結婚と出産を期に第一線から退いていたが、家族の後押しのおかげで今、返り咲かんとしている。
コロナ渦で世に浸透したオンラインでのレッスン。音楽教室での指導。ようやくコロナ渦が収まり今までの日常に戻りつつある中でコミュニティFMから番組出演の依頼が届いた。

『新幹線を使えば東京まで小一時間でアクセスできる県庁所在地』という地方出身者の中でも比較的ましな環境で生まれ育った蘭であるが、現代と比べて情報網の乏しかった時代に青春期を過ごし、限られた環境の中で活動を強いられたのは事実。
地方でも音楽活動は可能だと証明できる時代が来た。地方在住だから、資金がないからと『好き』を諦める人は後を絶たない。
人はみな、好きなことを諦めない権利がある。
若輩ゆえ実現への道のりは遠いかもしれないが、いずれは『好き』を諦めざるを得ない人達を支援したいと蘭は語った。

『あなたへのエール~好きを諦めないで』
中高生を対象としたラジオ番組で、蘭と司会のトークから始まり、過去に発表した楽曲の演奏、または音源を披露し視聴者からのお便りへのコメントを返す。
更にスマートフォンでラジオを聴く層が出ているご時世からかインターネットラジオにも対応しサイマル配信される。
この日は蘭が20代の頃に作曲した『カチューシャ幻想曲』の音源を披露した。スクールバンド向けに依頼された楽曲で、ロシア民謡のカチューシャを主題に切なさを抱かせる旋律と緩急をつけた疾走感溢れる曲調は中高生からの人気を博す。
ラストの転調するところはとりわけスクールバンドに携わる当事者達からの受けが良かったと聞く。吹奏楽版とオーケストラ版があり、この時に流したのは吹奏楽版だった。

収録を終えた蘭は早足で真冬の繁華街を歩き進める。20代の頃、長く着られるようにとブルーグレーのコートを選んだのは正解だと思う。ロシアンブルーの被毛に似た青は周りと被りにくく、意外とどんな服にも合わせやすい。おかげで30代半ばの今でも現役だ。
夫から長女と次女のお迎えは済ませているとの連絡の次に
『一人歩きは危ないから迎えに行くよ』
とかわいい絵文字付きでLINEのメッセージが入ったのは収録が終わり身支度を整えていた頃。スタッフからお熱いですねと冷やかされ、蘭は照れ笑いで応じた。

冬は好きだ。先ほどの収録でも口にしたのだが司会からは相当驚かれた。
寒いからと冬を疎む者は多く、蘭の生まれ故郷の東北の小都市ではもちろん、ここ日本海に面した雪国ならば尚更だ。
それでもコートにマフラーを巻いた完全武装で真冬の空気の中を駆け抜けるのはとても心地良い。
その度に、蘭はなぜか懐かしい気持ちになる。ノスタルジーにふける我が心に浮かぶはいつも同じ幻影。

少女だった頃、膝下丈の制服のスカートを翻し黎明の空の色を映す雪原を駆け抜けた。
すぐに追い付くは学生服にコートを羽織った少年。緑輝く季節の似合う、薫風の如し快活な少年を蘭は恋い慕っていた。
さらさらとした雪をすくい上げ、空へ放ると六つの花は東雲色の光を宿し舞い落ちる。
やがて、真白なる六つの花は桜となる。

「カズちゃん!」
待ち合わせ場所に指定された百貨店の前にいる待ち人に蘭は手を振った。幻影の中にいた少年は立派に成長していた。
幻影では少年を「一哉ちゃん」と呼んでいたが、生活を共に過ごすうちにいつしか短くなり、長女の出産を間近に控えた頃には「カズちゃん」と呼ぶようになった。
「蘭ちゃん、おかえり。さくらもすずも待ちきれなかったみたいだよ」
にこやかに蘭を出迎える一哉は片言語を話す年頃の次女・すずの手をつなぎ、長女のさくらがママ!と叫んで駆け寄る。
かつて少年だった夫との間に生まれた愛娘達に
蘭は笑いかけた。
「ただいま」

2011年冬

―――2011年12月―――
冬の午後らしい、金色を帯びた空だった。
フランクフルト発の飛行機に乗り込んでからどれほどの時間が過ぎたろう。
音澤蘭は両手を組み合わせて腕を伸ばし、窓からのぞく空を見た。時刻は15時過ぎ。もうすぐ成田空港に着く頃だ。

演奏家志望の蘭はドイツのハンブルク市内にある音楽院に留学中で、翌年には卒業を控えている。冬休みを利用し一時帰国する最中だった。
実家は東京から新幹線で1時間ほどかけた東北の地方都市にあるが、諸々の手続きを考えれば帰宅時間は夜にずれ込むだろう。

空いた時間に日本に着いたと連絡を入れ、実家や周りで変わったことはないかと聞くと母はこのように返した。3月の震災により道路にできた凹凸で走らせた車が弾むほどだった、と。
実家に異常はないが、除染作業で取り除いた土は庭の片隅に置いたままで、いつになれば持ち出すのだと不満を漏らしていた。
気に入って育てた鉢植えの行き場がなくなった、母は電話でそう愚痴をこぼす。
母の自慢でお気に入りだった牡丹と藤の鉢植えは、どこへ置いたのだろう。

予想どおり福島に着いた時には夜になり、駅前広場は青いイルミネーションが煌めいている。駅ビルはクリスマス一色で賑わいを見せ、クリスマスの雰囲気を楽しんでいる人々の様子に蘭は安堵した。
福島。四方を山に囲まれたこの街は蘭の生まれ故郷だ。
街並みと吾妻連峰の取り合わせは壮観で、雪と花の狭間の季節は特に美しいと蘭は疑わない。
実家の部屋の窓からは吾妻連峰が見えるので、朝起きたら見てみよう。そう考えていると名前を呼ばれた。少女の声。
「やっぱり蘭さんだ! お兄ちゃんから今日帰国するって聞いてたんです!」
二重まぶたの大きな目が蘭を見上げる。蘭は背が高い。平均的な身長でも少し見上げねば170センチを少しだけ超えた蘭との視線は合わないのだ。
「花梨ちゃん? 予備校の帰りなの?」
「はい。今帰りなんです。聞いてくださいよ。今年は冬休みが短くて……」
花梨は高校三年生。薬剤師志望で連日予備校通いだ。この女子高生が蘭と親しげに接しているには、理由がある。
「総文祭も会場が避難所になっていたから吹奏楽は中止でした……。しょうがないって頭では分かってはいるんですけど、せっかく福島県内が開催地だったのに。あ、お兄ちゃんとはいつ会いますか?」
「明後日だよ。高速バス乗り継いで行くよ」
「医者になった暁には蘭さんとお兄ちゃんゴールインなのかなぁ」
含み笑いの花梨。花梨の兄である一哉は蘭の恋人だ。いずれ義理の妹になる花梨は素直で愛らしく、蘭にとって本当の妹のようにかわいい存在である。
「女子高生って恋愛の話が好きだよね。まさか花梨ちゃんに会うなんて予想外だったから渡せるのこれしかないけど、ドイツのお土産」
「グミベアーだ! ミヒャエル・ゾーヴァの本で見てから憧れていたんですよ。ありがとうございます! よし、LINEでお兄ちゃんに自慢したろ」
言葉どおり花梨はスマートフォンを取り出して手元を撮影し始める。その前に通行人の妨げにならないよう壁際に寄るという配慮は忘れていなかった。
「お兄さんにプレゼント用意してあるよ」
「あー、まさか人相の悪いくるみ割り人形ですか?」
「当たり」
「お兄ちゃん、人相の悪いくるみ割り人形が欲しいって言ってたんですよ」
変わったセンスだね、と二人は互いに顔を見合せて笑う。
「昔ね、そんなこと言ってたの思い出したんだ」
「大学の時ですか?」
「いや、中学生の頃だったかなあ。くるみ割り人形の公演に行った時にそう話してたのをふっと思い出してね。通販のはどうしてもかわいい寄りだからねえ。でも人相の悪いくるみ割り人形を探すのは大変。作家物だとおっかない顔はいるけど高いし、蚤の市で探してやっと理想どおりの見つけたの」

2011年冬・2

花梨と話し込みながら飯坂線の乗り場へ向かう。福島駅から飯坂温泉までをつなぐローカル線は雨が降ろうが槍が降ろうが運行すると聞く。
沿線に住まう周辺住民の足となり、時間帯によっては一時間あたりの便数が多いのでローカル線としては充実しているのではないかと蘭は思う。蘭自身も中高生の時分には世話になった。
寒いと言いつつも花梨は黒タイツにレッグウォーマーを重ね、更にショート丈のスノーブーツを履いていたのでいかにも温かそうな足元をしている。
「花梨ちゃんって彼氏いるんだっけか?」
苦笑いで、花梨は顔の前で片手を振る。
「いませんよ。周りにあまり興味持てる男子いなかったし、言い寄られることもなかったですね」
「えー、そうなの? 花梨ちゃんかわいいのになあ」
目鼻立ちのハッキリした愛らしい顔をしている花梨。素直で心根が優しいので彼女に好意を寄せる者が存在してもおかしくないのにと蘭はと思うが、花梨は兄譲りの『いい加減な男女交際はしたくない主義』かもしれなかった。花梨の兄も美男子ゆえに異性から高い人気を得てたが、蘭への想いがぶれたことなど全くない。
「そりゃあ、彼氏欲しいって思う時もありますよ。蘭さんとお兄ちゃんのラブラブっぷり見ていると羨ましかったし、あんな恋愛したいなーってすごく憧れてました。でも高校では勉強と部活に熱を入れてたし、女子の比率が高いから出会いが少ないんですよねえ」
花梨の置かれた環境を顧みて、まあ、確かにと蘭は納得せざるを得なかった。
「うちの高校は男女比が商業高校並みだもんね。でも吹奏楽部にも男子いたじゃん?」
うちの高校。花梨の通う県立高校は蘭の卒業した高校でもある。現在、花梨の着ているブレザーの制服をかつては蘭自身も着ていたものだった。90年代に制定されたタータンチェックのキルトスカートは未だに女子中高生から高い支持を得ているのだろう。
「あくまでも部活仲間って関係でしたね」
でも恋がしたい、と切符を買う蘭の隣で花梨は唸った。
電車内の暖房はちょうど良い加減になっていた。

「ただいま」
蘭の自宅は市街地より西側の郊外にある。
郊外とはいえど昭和末期から開発が進んだこの地域は複合型のスーパーがあり、更には地元企業のスーパーが複数件存在する。ファミレスや焼き肉店も複数件建ち並び、靴屋、ペットショップ、ファストファッションの店舗まで揃うという利便性の高い地域だ。
自宅は地区内で最も栄えた場所から少し北に位置した住宅地にあり、築30年はいかないであろう和の趣のある戸建てに蘭は入っていった。
確かに、庭の片隅には長方体にシートを被ったものが見えた。これが母を悩ませる土かと蘭は長方体を睨む。長方体の上には、いくつかの鉢植えが置いてあった。
母自慢の牡丹と藤の鉢植え。父が気に入っている梅の盆栽もある。いかにも、仕方なくそこに置いたと言わんばかりだ。

2011年冬・3

「おかえり。電話かければ迎えに行ったのに」
蘭と面差しの似た女性がドアを開け、リビングのコタツに入るようにと促す。
かすかに、日本家屋に似つかわしい薫物の香りがした。
この香りは蘭が大学卒業時に母へのお土産にと渡した新潟の雪椿のお香だと分かるなり、蘭は嬉しい気持ちになる。
母親の星(せい)は若かりし頃に駅前の百貨店でデパートガールを勤めていたのも頷ける、才気煥発で溌剌とした雰囲気を持つ女性だ。
音澤は母方の姓である。ルーツは知らないし音の字が北海道っぽいと言われたことはあるが、母は横浜出身であった。
父の旧姓は星。会津地方に多い苗字だ。星が二つ並ぶと珍妙だからと父が母方の姓に入ったのだ。
星の後ろからヌッと現れ、蘭のスーツケースをひょいと持ったのは父の泰造だった。
会津生まれの寡黙な泰造。大柄の筋肉質で、パッと見はサングラスが様になるコワモテだが、我が子の意思を尊重し寄り添うことを厭わない、子煩悩な父親。泰造は県庁で働く公務員である。
見た目は母親似で醸し出す雰囲気は父親似だとよく言われたが、蘭自身もそう思う。
「ご飯は花梨ちゃんと食べたの」
自宅に着く前に少しだけ遠回りして、蘭は花梨と町内のハンバーグがメインのファミレスで夕飯を食べてきた。
ハンバーグってハンブルク発祥らしいんだって。
えー、知りませんでした。
私も留学した頃に初めて知ったの。馴染みのある食べ物って案外ルーツを知らないものだよね。
冷えた身体をコタツにもぐり込ませて暖をとる蘭はファミレスでそんな会話をしてきたと両親に聞かせた。

「パフェも食べてきたよ」
「あらー、そう? 蘭が帰ってくるから小学校前のお菓子屋さんでケーキ買ってあるんだけどなあ」
「えっ! 食べる!」
母の言葉に目の色を変える蘭。コタツから勢いよく跳ね起きた。蘭は甘党だ。
筋金入りの甘党の娘の様子を微笑ましく思う星は「はいはい」と言って苦笑いをしながら人数分のケーキを用意する。野太い声で「僕、運ぶよ」と言う声が台所から聞こえた。
ケーキ三つにティーポットと三人分のカップ&ソーサーのセットをいっぺんにお盆に乗せて、泰造は易々とリビングに運び込む。
蘭の好きな、ホワイトチョコレートのババロアにオレンジ色のソースをかけたケーキ。オレンジ色のソースの上はフルーツで彩られている。

2011年冬・4

大好きなホワイトチョコレートのケーキは帰省の毎にありつけた。蘭が徒歩で買いに行く時もあれば、今回のように帰省するその日に合わせて家族が小学校前の菓子店まで車を走らせる時もある。両親もケーキを食べたいということもあるのだが。

入浴前にパジャマを取りに行こうと蘭は二階へ上がる。
高校卒業時まで過ごした吾妻連峰を臨む子供部屋は、年子の妹と共同で使う相部屋であった。その証拠に本棚と学習机の機能を備えたロフトベッドが二つ、対に配置されていた。
北海道で獣医学の勉強をしている妹の『みちる』は滅多に帰省できない。
高校時代に見た獣医学部を題材としたドラマの影響を受け関心を持ったみちるだが、留学前に再会した時には生命を相手にする以上生半可な覚悟では務まらないとあたかもしんどそうな様子で話していた。
泣き言を口にしながらも妹は動物はかわいいし社会に貢献できる仕事だからと懲りずに頑張っている。時折お調子者のように振る舞いつつも性根の真っ直ぐなみちるらしい。

いざ数ヶ月ぶりに自分の部屋に入ると本来の目的も忘れて関係のない引き出しを開けたくなる。
まずはクローゼット。モノトーン、または寒色系で占めている。その中でも大多数は青系だ。次いでモノトーン。時々紫が顔を覗かせた。
紺色。藍色。勿忘草。ペパーミント。プルシアンブルー。
我ながら、どれだけ青が好きなのだろうと苦笑いするほかない。実際に青のイメージだと言われたことが沢山あるし、一番しっくり馴染むのも青。特に紺色は肌が綺麗に見えるとよく褒められた。思えば成人式の振袖も青系だ。
瑠璃色をベースに珊瑚色と藤色と鳥の子色で雪輪と季節の花々を描いたアンティーク調の柄行きがお気に入りの振袖は、薄い藤色の袴と合わせて来年に控えた音楽院の卒業式にも着る予定である。

パジャマはクローゼットではなく引き出しだろうと我が身に言い聞かせるが、次に開けたのは学習机の引き出し。
こちらも苦笑いするほかなかった。小学生時代から一貫して最も好きな科目は音楽だった。引き出しには小学校から高校までの音楽の教科書が残されているのだ。

音楽が好きだとはいえ、小中学校でありがちなクラシック音楽の感想を強要するスタイルはいかがなものかと疑問を抱いたのは否めない。
蘭の友達には感想の強要が原因で音楽の授業が苦手になった者がいる。
友達が言うには楽しい、かっこいい、綺麗な曲などの感動はあるものの文字に表すと上手く表現できなくなるらしい。
小学校低学年を過ぎれば思ったままを単純に綴った感想文は許されない。
何でも良いからと言っておきながら気取った文章で小難しく綴った感想を提出することが暗黙の了解になっている。だから書けないのだ、と。
そして、蘭自身は好きな楽曲ほど言葉で表現したくない性分であった。
言葉に出せば安っぽくなってしまう。そんな気がした。
中学時代に所属していた吹奏楽部では部員が安っぽい言葉で茶化しながら、時としてからかいの材料にしながら楽曲を汚してゆく様を何度も何度も目の当たりにした。
「言葉で表したくないことなんて沢山あるのにね」
書かなければ点数がもらえないので気が進まないとは思いながらも感想を書いて提出した。高校や大学時代のアナリーゼは楽曲を分析するためなので純粋に楽しめた。

独り言と共に教科書をパラパラとめくる。
カーペンターズと井上陽水、サンタ・ルチアが掲載された教科書は高校一年生の時のものだった。

2011年冬・5

教科書をしまい、一段下の引き出しを開けた。お菓子の缶。バレンタインシーズンに駅前の百貨店で買い込んだチョコレートの缶だった。
女の子が好みそうな花のイラストをあしらった缶を開ける。
懐かしい!
そう叫びたいのを堪えて蘭は缶の中身を手に取った。
パールホワイトの携帯電話。高校入学前に最新式として発売された、いかにもな女の子向けの外見を誇る携帯電話はイルミネーションの色を自由に変えられるところが気に入っていた。
ご丁寧に充電器も取ってあるので、動くかは定かではないが充電してみよう。
缶の底には紙。おおかた友達からの手紙かと思ったが手に取るなり五線が透けて見えたので手紙ではないとわかる。

心当たりがあった。桜の舞う中で、白い携帯電話から聞かせたあの曲。
「やっぱり……」
――無題――
五線譜には手書きの音符。カノン進行を覚えたての頃に初めて作った曲だった。♭の数と位置から変ロ長調だとわかる。
中学三年生の頃に放送されていた学園青春ドラマの中で、ある生徒が作った曲をクラスメートがリコーダーで演奏するシーンがあった。ドラマの1シーンがきっかけで、受験生の身なのにと罪悪感を抱きながらも作曲に関心を持った蘭は、合間を見ては作曲方法を調べたのである。
幸いにも蘭は地頭が良く、秀才と呼んでも過言ではない成績をキープしていたので「優等生の気分転換だろう」と許された。
携帯電話にはオリジナルの着信メロディを作れる機能があり、これ幸いとばかりに春休み中に作った楽曲が『無題』だった。
うまい曲名が思いつかないまま慌ただしく時間は過ぎ、記念すべき初めて作った楽曲は未だに名無しのままであったのだ。

いい加減名前をつけてくれよ。
名無しの楽曲がそうせがんでいるように思えた。

2011年冬・6

桜の下に、かすかに聞こえる変ロ長調。
柔らかな色彩の花々を思わせる温かい曲調は懐かしさすら抱かせた。
真新しい制服の少年少女が顔を寄せ合い白い携帯電話を覗き込む。整った鼻筋の美しさを目の当たりに、少女だった蘭は頬を染めてはにかんだ。

目を覚ました時には空が白みかけている。
チョコレートの缶は、時間を逆戻りさせる玉手箱。
昨晩は懐かしい夢を見た。花梨と同じ、膝丈のキルトスカートの制服。
少年の髪からはライムのような、爽やかな柑橘の香りがした。
会いたくて仕方ない、愛しい人は少年の姿で少女の蘭に会いに来た。

帰省の期間は限られているが、大好きな友達は元気に過ごしているだろうか。
少なくとも、今でも年賀状と誕生日を祝うメッセージを送り合う友達の無事は確認できている。

蘭はパジャマの上に綿入れのフリースの上着を羽織り、窓を開けた。
白鳥が飛んでいる。これから川へと向かうのか。
青みを帯びた山肌に白雪を被った吾妻連峰が光り輝いていた。

2001年12月

あの子がいる。はやる気持ちは加速する。真冬の風に逆って、飛鳥川一哉は自転車を走らせた。
冴える空気が肌に冷たい。
近代的に舗装された道は北へ向かうにつれ時代を遡るようにノスタルジーを帯びてくる。
あの子はもう、無人駅に着いているはずだ。
あの子に会いたいがゆえのじれったさを抑えて「木枯らしに吹かれて」を口ずさみながらメタリックブルーの自転車を無人駅の駐輪場に停めた。

無人駅の階段を登った先に『あの子』はいた。
モノトーンの背景に濃紺のセーラー服が映え、身じろぐ度にスカートの裾はひざ下で揺れる。
既に時代遅れと言われながらもこの地域では女子中学生のスカートはひざ下丈と決まっており、それは10年先も変わらないだろう。
しかし、時代遅れの長いスカートこそ伏し目がちな少女の品格を引き立てるにふさわしかった。
濃紺の制服の鮮烈さに一種の懐かしさを覚えたのは、初めて彼女と出会い恋を覚えたその時を思い起こしたからだ。

あの時、彼女は濃紺に少しだけ紫を加えたプルシアンブルーのワンピースを着ていた。
プルシアンブルーの少女の頑とした強さを宿す眼差しが和やかに弛んだ時、まだ十つの一哉は己が恋心を自覚した。

俺はこの子が好きだと。

セーラー服の少女・音澤蘭は一哉を見つけるなり引き結んだ唇をほころばせた。
容姿に恵まれている蘭だが、かわいいという言葉が甘すぎて似つかわしくないと思えるのは170センチの長身とプライドが高そうな切れ長の目のおかげだろう。細面の輪郭に高い鼻筋が貴族的である。
しかし、一哉はこの少女が誰よりも可憐だと信じている。
怖いものなどなさそうな堂々とした蘭の姿は気高き女王の風格を漂わせるが、気を許せば年相応の無邪気さを見せる。
はにかみの笑顔は大人びた彼女を可憐な少女へと変貌させた。

「ごめん。蘭の方が早かったな」
蘭は顔を2回ほど左右に動かし、そんなことはないと告げた。落ち着いたアルトは理知的な少女に似合い、よく通った声質だ。
伏し目がちな麗しい目元も魅力的だが、やけに唇へ目が行くのは蘭が元吹奏楽部員でフルートを受け持っていたからだろう。赤みのさした唇は形良くまとまり、薄すぎない厚さのおかげかクールな顔立ちながらも冷たさはなかった。
「一哉ちゃん、キョンキョンの木枯らしに吹かれて歌ってた?」
「いや、ALFEEの方だよ。聞こえてたの?」
「うん。白い季節のあたりから。髪乱れてる」
「え、マジ?」
好きな女の子に乱れ髪を指摘され、一哉は窓ガラスを鏡にして前髪を整える。ガラスに映る一哉はつり目がちの大きな目が特徴的で、それでいて尖った印象はない。
二枚目の整った顔立ちをしながらもがさつな手つきで乱れ髪を直す姿は普通の少年そのもの。太めの、凛々しい眉が前髪に隠れた。
髪を整える一哉をおもしろそうに見守る蘭もまた、快活で真っ直ぐな一哉を恋い慕う。
向き直る彼の、幼さを残す面立ちに見え隠れする精悍さが眩しい。
眉が髪に隠れたところで電車がホームに入る時を告げるシグナルが鳴り響いた。

2001年12月・2

二人が降り立つ狭いホームには小型の券売機があり、蘭は券売機のボタンを押して用紙を取り出す。この用紙はどの駅から乗車したかを証明するもので、電車内で目的地までの切符を購入する仕組みなのだ。
商店が点在する西側に相反し、東側には古い住宅地が広がる。フェンスで隔てた先には小規模なブドウ畑、そして信夫山を臨む。

「蘭、コート着てねえな。寒くない?」
この日の蘭はコートを着ておらず襟元にマフラーを巻いていた。タータンチェックのマフラーは良質のウールでできている。
マフラーに隠れて見えないがセーラー服の下には白いブラウスを着込んでおり、この着方は市内の中学生によく見られた。
県内のよその市町村では丸首の白い運動着を重ね着する着方がありがちだが、蘭はセーラー服の襟元からのぞく白い丸首を「幼稚で野暮ったくて汗臭そう」と嫌ったので、ブラウスを重ねるという地域特有の着こなしは都合が良い。
「私、寒いのは平気。一応、持ってはいるけど。そう言う一哉ちゃんこそ学ランのままだべした」
垢抜けた容姿にそぐわない、方言混じりのセリフ回しは蘭が田舎娘であると確信させる。言葉どおり、蘭は腕にコートをかけている。
ミトンをはめた手に向けて吐いた息が白く染まる。雪を模したノルディック柄のミトンは、今年の2月末に一哉からもらった誕生日プレゼントだ。

一哉はというと陽気な笑みを蘭に向けて袖をまくって見せた。
目を爛々と輝かせて笑う顔は人馴れした猫の甘えた表情に似ている。
「おーっ、偶然だな。俺もコートが邪魔だから学ランの下にニットのカーディガン重ね着してんの。男子でもカーディガン着るの市民権得てるらしいよ」
「カーディガン、グレーなんだ。黒線がかっこいいね」
学生服の袖口からのぞくカーディガンの袖。黒線が二本入っている。
「いいだろ? でも俺、本当はピンクが着たい」
「学生向けでピンクのカーディガンなんて売ってないんじゃないの?」
「あったらかわいいと思わねえ? 俺、ピンク好きなんだけどなあ。マゼンタじゃなくて桜色っぽい薄いやつ」
男物でマゼンタみてえなケバい色はあるのになんで桜色ってないんだろ、と一哉は言う。
マゼンタをケバい色と評する発言に、派手好みではない性分が垣間見えた。
「……確かに学生向けでピンクのカーディガン、実際にあったらかわいいかも。女の子以上に女の子らしいところあるよね、一哉ちゃんって」
「え、なになに、例えば?」
「ホワイトデーにクッキー焼いてくれたところ。あと常に裁縫セット持ち歩いてたり臆せずに少女漫画とか少女小説読むとこ」

女の子以上に女の子らしいと蘭は言うが、一哉はがさつでズボラな少年であった。
通学用の革靴を履いたままハゲた部分を靴墨で塗りつぶし、学生服を着たまま取れかけた金ボタンを最も手近にあったからとピンクの糸で縫い付け、靴下を履いたまま穴を繕うなどのズボラさを垣間見せる有り様だ。
蘭の通う中学の女生徒達から美男子と持て囃される彼が同性の友人に恵まれるのは人並みに備えた「がさつさ」に由来するのだろう。
幼少の頃から現在にかけてやらかした男子ならではの失敗は数しれずだ。
「クッキーは進藤先輩とモジャ山とジョリ松と焼いたんだよ。あの先輩、料理上手いんだ。気に入った? また作ってあげよっか?」
「きゃあ! ありがとう!」
甘いものに目がない蘭である。それまで冷静に徹していたが両手を組んで満面の笑みで歓喜し出した。
がさつでズボラな彼も蘭の前では紳士的に振る舞いたいらしく、ホームに着いた電車のドアが開くなり先にどうぞと促した。八代亜紀の『雨の慕情』の振り付けを連想させるその動きはぎこちなく蘭の笑いを誘う。
それでも彼の気づかいが嬉しかった蘭は礼を述べて電車に乗り込んだ。

電車内では小学校高学年ほどの少女が二人、好奇のまなざしを蘭と一哉に向けてささやく。
「あの人達付き合ってるの?」
「彼氏かっこいいよね?」
「だから。美人はイケメンとくっつくんだねぇ」
微笑ましい対話に悪い気はしないが、蘭は一哉をイケメンという軽い言葉で言い表したくなかった。
当時は気づいていなかったが、心のどこかで一哉を神格化していたのだと成人した蘭は振り返る。
このことを一哉に話すと笑われ、同時に自分も蘭を神格化していたと打ち明けられた。

二駅を過ぎた頃に乗務員が来たので蘭は用紙を差し出し、運賃と引き換えに切符を渡された。
終点の福島駅で二両編成の電車を降り、薄暗い通路を抜けるとバスターミナルが、続いて百貨店と大通りの並木が目に飛び込む。
他県から来た一哉は知らないが、蘭が小学生の頃は県庁所在地らしい華やぎに満ちたこの街もここ数年のうちに勢いに欠けると指摘を受けがちだ。
しかしながら仙台は目と鼻の先、新幹線を使えば東京まで一時間で行くことができるので欲を出さない限りは生活するに不自由しない。
何よりも、春には果樹園や近くの山を花々が彩り、雪を被った山並みが見える景色を蘭は気に入っている

2001年12月・3

この日、二人は共通の知り合いが出演する演劇を観に市街地へ出向いた。街うちの会場までは徒歩でも苦にならない距離にある。信号待ちの間、二人はもうじき控えた高校受験の話題に花を咲かせた。
「一哉ちゃんも祥蘭受けるんだっけか?」
「そうだよ? F高と迷ったんだけどな。うちのところの男子はほとんどF高か祥蘭に分かれるんだよ」
一哉が着ている学ランの襟元には深緑のラインが走る。私立翠風学園中学の制服。
90年代に設立されたその学校は歴史こそ浅いものの一応は受験校と銘打つだけに地域のトップ校から二〜三番手の進学校への合格者を輩出した。会話中に名前が出てきたF高校は県北地区でトップの偏差値を誇る県立の男子校。
そのような受験校でも高校が併設されていないのは、公立至上主義の地域性から県立の進学校に生徒を取られることが明らかとの判断によるものだろうと地域の人達は語る。
「へえー。一哉ちゃん、F高余裕そうなのに? 医学部志望でしょう?」
意外だと発言しながらも、蘭は嬉しそうだ。
「野郎だけだとすげえ気楽そうだけど、女子がいねえ分ムサイっつうからよ」
「そう言うよね。F高じゃあり得ないだろうけど、男子ばかりだと学校によっては夏場の休み時間はパンツ一丁で過ごすって本当なのかな」
含み笑いの蘭に、声を立てて笑う一哉。端から見ればプラトニックで好ましい二人だが、まさか男子校にまつわるむさ苦しい噂話をしているなど考えてもみないだろう。
青信号に変わり、どっと人垣が動く中でも二人はパンツがどうだ、男子校がどうだと語る。
人垣はスーツにコートを着込んで昼食を食べに行くサラリーマンと百貨店帰りの小洒落た服装の主婦が大半だが、冬休みなので制服姿の中高生も入り混じっていた。
「パンツ一丁って誰に聞いたんだよ?」
「慧ちゃんから。友達の親戚がどこかの工業高校に通っていて、工業系って野郎ばかりだから夏の休み時間はパンツ一丁になるらしい」
「ある意味開放的だろ」
「頭のネジが吹っ飛んでない限りできないね」
「あとは修学旅行ん時に野郎共が一つの部屋に集まってエロいやつ見るってモジャ山に聞いた」
そこで蘭の含み笑いは爆笑へと変わる。くだらない下ネタは嫌いではない。
「えー、もしかしてやってたの?」
「いやいや、高校生ならともかく中学生がそんなのやる度胸ねーっつーの。だいたい俺委員長だしそんなのやってたら体裁悪いわ」
「一哉ちゃん、花屋さん寄っていい?」
「慧ちゃんにあげるやつ?」
「そう。やっぱり赤い花束かな。慧ちゃん、赤が似合うから」

雪と花の狭間に

雪と花の狭間に

「雪と花の狭間の季節に、いつも私は何かが変わる」 地方局のラジオ番組の収録でそう語る蘭は己の人生の転換期といえる『青春時代』と『青春時代から10年が過ぎた頃』を振り返る。 蘭は24歳のクリスマスに実家の引き出しから携帯電話を見つける。高校入学の記念に買ってもらった初めての携帯電話。その中には高校時代にお遊びで作曲した「無題」が残っていた。 ありがちだが、耳触りのいい変ロ長調のカノンコード。それに含まれる暖かさに懐かしい記憶が甦る。 平成~令和を音楽と共に駆け抜ける蘭。そして彼女を取り巻く者達の群像劇。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-01-13

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND