差異と反復について

この世界では反復と差異は常に混在しているようにみえる。音楽もその例外ではない。


  この世界では反復と差異は常に混在しているようにみえる。音楽もその例外ではない。どの時代、どの地域あるいは民族でも、反復と差異はまるで万物の理のように人々に利用されてきた。しかし、反復と差異は果たして本当に不可分、渾然一体のものなのか。
 「反復は、反復する事物のなかでは何も変化させないが、反復を観照する精神のなかでは何かを変化させる」というヒュームの主張が有名だ。この言葉は、僕らが普段聞いているような、例えば「対比の伴った統一」による音楽構成の本質にかなり近いのではないか。私もそう思ってたのだ。
  しかし、ドュルーズの時間論を目にした時、私は少し動揺した。この「差異と反復」という彼の著書の中ではヒュームの主張をさらに、反復による事物の同一性すら認めず、世界の本質はただ差異によるものだと書いてあった。それは従来の伝統的な西洋音楽、そして勿論当時の楽壇に風流していたトータル=セリエリズムとは無縁な存在であろう。この彼の主張を音楽にするのだとしたら、むしろその後のストックハウゼンの直観音楽やモルト=フェルドマンが考案した図形楽譜(具体的な楽譜の存在でどうしても同一性付随してしまうから)などが合ってるだろう。
  私の敬愛するオーストラリアの現代作曲家、ベルンハルト=ラングは「差異と反復」と題して、それを具体記譜法によって曲にしたのである。その音楽とドュルーズらの時空論とどのように結つけたのが私の興味を惹いたところである。以下は「差異と反復」シリーズの2曲目についての個人的見解である。


  
  冒頭から変拍子での執拗なリピートから始まる。ラングがよく使う常套手段というべきものだ。とは言っても、冒頭からいきなりリピートで入ってくるのは、彼の他の作品ではさほどない。曲名通り最初から「反復」を意識したのは明白だろう。(ミニマル=音楽のような反復の延長線にあるのは緩慢なる展開だが、この曲は音型を限定せずに「反復」という2文字に焦点を当てたと言える。)しかし、反復という要素だけではドュルーズらの思想と無理やり結びつけるわけにはいかない。
  そこで、私は楽譜の記譜に注目した。リピートの中(つまり反復される範囲内)Syndronie(同時性)やassyndronie(非同時性)のような表記が見られる。さらに、それによって生じるずれを校正するようにパート別に異なるテンポ(ポリテンポ)や拍子(ポリリズム)にするといった工夫も見られる。ここではベルクソンの「現在と共存する過去」(純粋過去)を想起させる。リピート記号という「時間」の蓄え中で、過去を体験し、そして現在に先前する過去という時間の緯度を感じられるのだろう。
  また、リピートの箇所に使われる特殊奏法も意味深い。管楽器で、比較的音程がぶれやすい重音奏法をリピート記号で繰り返すことによって、時間による反復の必然的な差異を暗示したものではなかろう。実際にそのまま反復されてゆくフレーズを聞いていくと、案外毎回音や音色の違いが目立つものである。それは人為的なものであろうが、でもまさにその人為的な部分が、聞き手になんらかのメッセージを伝えようとしている気がする。倍音列という水面下に潜む多様体が現働的領域への瞬時的な現れ、という見方においてはドュルーズの論説と通ずるものはあるのだろう。
  
  

差異と反復について

差異と反復について

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-13

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