四天王寺ロダンの足音がする / 『嗤う田中』シリーズ 

日南田ウヲ

(1)


大阪湾に向かって下るなだらかな坂が四天王寺夕陽丘界隈から天満橋付近まで南北に続いている。
この地形は遥か昔、大阪が海に浮かぶ台地だった名残であり、それが現在においては世間一般に「上町台地」と言われていることは良く知られている。また発見されているものや無い物を含め、寺社や路地奥等には戦国の頃、大坂城から逃げる武者の抜け道もあり、歴史の風靡を感じることができる。
 その台地沿いに歩くと大阪のちょっとした建築の変遷や集まりを見ることができる。ちなみにこの台地上を天王寺から天満橋まで縦に走る幹線を寺院が並ぶ谷町通りと言い、斯く言う僕はこの沿線が大変好きである。それは寺院が立ち並び、古めかしさを感じさせるのもあるが通りから少しK町へ向かうと、昭和の初期の頃に建てられたと思われるような趣のある長屋が疎らに点在するからだ。
長屋の入り口にある小さな門から中を覗けば二階建ての格子窓の長屋がまるでうなぎの寝床みたいに長く奥まで伸びて、先がL字型に折れて行き止る。
長屋という、人間が集合して壁一つで生活している、この生活様式。
息一つさえ漏れ聞こえそうな、何ともいえないプライベートがあるようで無い様なそんな建物。
僕はそうした人間情景と少し懐古趣味を思わせる建物が好きで、だから少し貯金と金銭に余裕ができた令和の今日この頃、思い切って今では古風めかしい二階建ての長屋へと五月薫る頃、このK町界隈の引っ越しをした。
この自慢の棲み処(僕は住処」をこの妖怪のような「棲み処」と言う漢字を当てるのが非常に気に入っている、住人には気の毒だが洒落である)についてもう少し述べたい。
此処は元々、明治から大正にかけてちょうど真上の坂上にある大宗派の寺門に住み込みで働いていた手伝い用人たちの為に作られた長屋だったが昭和の初めに建て替えられた。
当時は古木の門を潜れば土道を挟んで向かい合わせに軒を並べて長屋が建っていたのだが、昭和六十年ごろに住人の不始末による火災があって片方の長屋が全焼した。
その為、被災した長屋を取り壊して庭にして、現在は片方のだけが残るL字型の長屋である。
その長屋の奥にはちょっとした祠がありる。その祠には苔むした顔無き水かけ地蔵がひっそりと立っている。
なんでもこの地蔵はここで再び大きな火災が起きない様、火災の後どこからか運び込まれたものだと言う。
だからかもしれないが今もこの地蔵に誰かが願をかける為に水掛けに来ているようで、日曜のまだ夜も明けきらぬ頃に訪れる人の足音が僕の寝床にも聞こえてくる。
ちなみに僕も最近はそんな人に倣って週末の休みの日にだけは履き鳴らした下駄音を立てて、いくばくかの清廉な気持ちで地蔵を拝んでいる。
そんな自分にとっては非常に良い長屋だが、唯この住居で不便と感じるのは、風呂が無いということだった。
埃にまみれる都会の片隅に棲まう日々ではあるが風呂が無いのは不便だ。
特にこれから梅雨時、夏は考えるまでもない。
しかしながらである。
こうした独身のどこか気楽で趣味に没頭できるこの享楽的な生活が今の自分には非常に合うと思っていたから、どこか日の終わりは銭湯の湯船で一人佇むのも乙な気暮らしだと思って近所を歩いていると、偶然、都会の空に聳え立つ銭湯の煙突を見つけたのである。
都会とはなんとこのような人間にって便利な棲み処であろうと、その時、僕は大変心躍った。

さて、大分自分の事を申し遅れた感があるのだが、改めて自身の事を簡単に言いたい。
僕の名は田中良二。
年は四十六、独身。
こうした住居を好むことから自然と建築が好きな性分もあって今は棲み処から少し離れた松屋町にある小さなリフォーム会社で働いている。
趣味はというと先に述べた様に建築を見たりするのも好きなのだが、実は古書を探し集めるのがそれ以上に好きで、休日には大阪の様々な古書街や古本市を回り、本の中身というより本独自の装丁や独特の雰囲気があるものを手にとってはそれらを美術品のような感覚で買い漁っている。
そうして買い漁った古本をこの新しい棲み処に持ち込んでひとり酒を飲みながら、本を開いては色んな時代を想像して、ひとり悦に入りが一番の楽しみなのである。
以上が自分としてはこれ以上のないほどの自己紹介である。

さて…、それで、である。
そんな趣向の強い自由気ままな何も不満が無い様な生活ではあるが実は僕は今、少し困ったことになっている。
その困ったこととは自分の古書集めが高じて起きたことなのであるが、それではここにその話を述べていきたい。


(2)


 かっぱ横丁というのが梅田にあって、そこに古書街がある。
僕は週末になると古書を漁るためにここを手始めに天神橋へと下り、やがて日本橋へと足を運び、それから自分の棲み処へ帰るのが休みのルーティンになっている。
たまに汗をかきすぎれば先に銭湯に行くか、また喉が渇きすぎれば酒屋が営んでいる立ち飲み屋で酒を軽く飲む以外はほぼ大きく変わることは無い。そう、それは梅雨の明けた七月のはじめ、僕はいつものようにかっぱ横丁の古書A店に入り、そのルーティンで棲み処へと帰って来た。
背にリュックを背負い、その中には買い漁った古書がある。
その中にかっぱ横丁のA店で買った夏目漱石の「三四郎」があった。僕は学生の頃、国語の授業で漱石の本作には触れたことが有ったが、一度もちゃんと読んだことが無かったので、最初に訪れたかっぱ横丁の古書A店で見つけた『三四郎』をそのまま中身を開くことなく手に取った。
何となくだが入店したA店の壁に『三四郎』入荷したという張り紙があったからかもしれないのだが、潜在的意識の何かが僕に本を手に取らせたのかもしれないと思った。
そんなことは特それが何なのか詮索するほどの事でもない、まぁ気にすることでもない。
そんな「三四郎」を夕暮れ時に横になりながら開いた時である。
(おや…?)
「三四郎」背表紙は印字された出版社名が消えているほど古い物であり、現在流通している出版社の文庫本ではない。本はカバー付きで本表紙は固い紙でできている。今でいう当時のハード本といっていいだろう。
僕の本選びの選り好みはどちらかというとこうした古い時代の諸本選びが好きで、正直、本の内容の文学的な趣などの良し悪しは全く別だった。
それは何というか、
本の装丁というのか、
その時代の空気を十分に含んだ本の有りようというか、そう言った佇まいが実は本の中身よりも、僕にとっては大事な「好き」なのである。
だから僕は張り紙の事は置いといたとしても、この「「三四郎」を見た時、直感的に「好き」で手に取って中身を確認することなく小銭を払って持ち帰ったのである。
だからブックカバーから本を取り出して中を開いた時、本が意外と重いことにはじめて気が付いた。
大体、本の重さで手首に重さを感じることなど殆どないのだが、この本はそれを感じるのである。なんだろう、おまけ付きの本と言うのだろうか…。
僕は不思議な思いを感じたまま、本を数ページ捲った。すると中ほどのページが切り取られ、そこに丁度本とは別に寸分の狂いもなく同じように紙が差し込まれ、文字タイプで書かれているのを見つけた。
(何だこれは…)
思わずそれを目に止めた僕は速読する。読めばそれは誰かが小説とは全く別の意思で書き留めた言葉なのが分かった。それが数ページ続いている。

――しかし、その内容は

(果たしてこれは一体何ぞ?)

驚きを覚えながら、僕は眼を細めてページを捲って行く。
すると裏表紙に触れた手が何かに当たる。

(何だ…これは?)

僕は裏表紙を捲る。すると裏表紙に別の紙が貼ってあり四角い跡が見えた。
僕はそれを爪で丁寧に捲ると、そこが切り抜かれてカードが差し込まれていた。
驚いた。
そのカードは銀行カードである。しかしも今現在も営業している都市銀行のM社のカードであった。
僕は時代も異なる古書からこうした工夫がされて現代の銀行のカードが差し込まれていたことに非常に驚き、また小説の先程の中ほどの所に書かれたものを読み終えるや、非常に泥土の中で落とした指輪を探すような頭をひねらなければならないような困惑にぶつかったことに気づかされたのである。


(3)

 四(し)天王寺(てんのうじ)ロダン。
 何とも奇妙な名である。
僕は銭湯の湯船に浸かりながらもじゃもじゃの縮れ毛でアフロヘアの若者を見ている。
 実はこれが面前で風呂に浸かっている彼の名である。
何でも父親の芸術好きが高じて息子の名前をあの「地獄の門」で有名なフランスの彫刻家と同じオーギュスト・ロダンと同じ名前にしたそうだ。
だからカタカナで「ロダン」となった。
 初めて彼の名を聞いた時、
「奇なる苗字に、妙なる名でしょう」
 と、彼は湯気に当たりながら顔を赤くして僕に言った。
 しかしその後、
「子供の頃は嫌だったんですが、今は意外とこの名を気に入ってるんですよ」
 と、縮れ毛を指で巻きながら僕に言った。
あまりにも奇抜な名だったので、「役者か何かがちょうどいい」言うと名は何とやらで、実は彼はこの先の天王寺の阿倍野界隈にある小さな劇団の研究員だった。
「役者冥利の名ですけぇ」
 と、どこの訛り化も分からぬような口調で僕に尻を向けると颯爽と湯船を出て行った。
しかし縁とは不思議である。
湯船だけの縁だと思ったのだが、彼とはそれだけの縁でなく、僕の棲み処の長屋の住人でもあった。
僕が越して来た時には既に住んでおり、僕の姿を仕事がない日は二階の格子窓から良く見ていたそうだった。
それで僕が銭湯に行く姿を見るにつけ、こうして僕と揺馴染みの友となった。
その彼と一緒に湯船に浸かっている。
彼は後から湯船に入って来た。それからずっと黙りながらじっと湯船に浸かっている。
僕は身体を洗い終えて、今湯船に足をいれてちょうど湯加減が身体に伝わり始めた頃である。
そのまま、彼にも言葉をかけることなく先程の「三四郎」の事を考え始めた。
いや正確には「三四郎」に書かれていた誰とも分からぬ「人物」とその余白に書かれた「言葉」の事である。
僕はゆっくりと目の前で湯船に浸かるもじゃもじゃ縮れ毛のアフロヘアの若者を見ながらそれらを思い出し始めた。



(4)


(188ページ)
――拝啓、この本を手に取られた方へ。
おそらく、この本をあなたが手に取られたということはきっと私は黄泉の国へと旅立っていることでしょう。
私の妻は私の遺物ですら金銭に変えれるものは金銭に変える女です。
ええ、彼女は世にも恐ろしいほどの守銭奴なのです。私の持ち物一切はきっと金銭に変えられ、この古本すら何処かの古書店で僅かばかりに小銭に変えられるでしょう。
だからこそ、あなたの手元にこの本があるのです。


(189ページ)
――そう私は病気、おそらく癌で死ぬことになるでしょうが、そんな私の肉体すら彼女にとっては保険金に変わる「金銭」です。まぁそれは長年しがない地味な結婚生活を送らせることになったあの派手好きでどんな男からも好かれる蠱惑的な妻への人生への贖罪であるとすれば、幾分かは私の罪滅ぼしとにもなるので溜飲は下がるのですが、ただ、私にも許せないことがあるのです。


(190ページ)
――許せないこと、それは妻が不倫関係を持っていたことが分かったということです。私にはその男の名も分かりますが、甲斐性の無い男である私が妻を責めることなどできません。
ただ後世の誰かが「犯罪者」を責めることは出来るのではないでしょうか?


(191ページ)
――文学に興味のない妻がこれを手に取することは皆無でしょうが、念には念を入れます。
もし私が普段の生活で変なことをすればたちどころにあの女は感じるでしょうし、ですから私はその名をある場所に永久的に隠すことにしました。
それは銀行です。


(192ページ)
――銀行の通帳を作りました。妻が預金額を聞きましたが何分少ない金額で在りましたので、関心が無かったようです。しかし、この預金額こそ、私にとっては大事なのです!!
その銀行カードも工夫して隠しました。きっといまあなたの手元にあるでしょう。もしわからなければそれは裏表紙のところを工夫して隠してありますので見つけて下さい。


(193ページ)
――この「三四郎」を手に取られるのが私の死後何年後か、いや、何日後かわかりませんが、もしあなたが私の事を気に成されたらどうか私達に降りかかったこの「事件」を解決してくだしさい。
 ええ、私は確かに癌で死ぬでしょうが、きっとあの憎き不倫相手の男もきっと同じように黄泉へと旅立っていることでしょう。
妻はいや、あの女は恐ろしき「守銭奴」なのです。
あの男もきっと生きてはいまいと思うのです。


(194ページ)
――あなたが不倫相手の名を見つけた時、その名をどこかの「事件」で必ず探して下さい。
 もしその名がどこかの事件に出てくれば、それは妻が殺害したのです。
 おそらく、あの女は実行していることでしょう。
本当に恐ろしき女です。


(195ページ)
――預金通帳は焼き捨てました。
銀行のカード番号はこの本のどこかに分かるようにしてあります。
やはり妻に感づかれるのが恐ろしい。
あの女は預金通帳を再発行するかもしれないが、数回に分けられた入金額の意味を内縁の妻であるお前がわかるか、今の私では分からない。
これは賭けでもある。


(196ページ)
妻といっても内縁の妻だったお前。
お前の事はきっと未来に分かる事だろう。
土葬ならしゃれこうべになってお前を祟りたいが、甲斐性も勇気もない俺にはそれも出来そうにないのが本音だ。
しかし、それでも俺はお前の不貞が許せない。
それだけは、しっかりと決着をつけさせてもらうよ。
俺の保険金はお前が受取ればいいだろう。しかしながら他人のものまでお前が受け取れるはずがない。
それだけは良く知るがいい。


(5)


板張りの天井で扇風機がうねるように首を回して僕等の肉体から熱を奪うために懸命に風を送っている。その扇風機の風にアフロヘアの髪が打たれて四天王寺の縮れ毛が揺れている。
「田中さん、実に長く湯に浸かっていましたね」
 四天王寺ロダンが赤く火照る顔を向けて僕に言った。
濡れた縮れ毛を気にする風もなくバスタオルで髪をバサバサ拭いて、火照る顔のまま僕を見て言ったのだが、彼の表情は湯上りの為かどこか呆として何か僕に関心がある様な無い様なそんな表情をしているようにも見えた。
だから僕は彼に答えずにいたのだが不意に言った。
「あの『三四郎』どうされました?」
 僕は思わず顔を上げた。
「えっ?『三四郎』?」
 彼が声を上げて笑う。
「いやぁ何も知らないと思いましたか?実はですね。あの『三四郎』僕のものなんです」
 きょとんとして僕は彼に目を向けた。
(どういうことだ?)
 そんな言葉が僕の顔に浮かんでいた筈だ、だから彼は僕の表情を読み取るように言った。
「どういうことですか?ですよねぇ。あれですがね、実は僕の持ち物なんです。僕が天王寺で開かれる古本市の露店で買ったものです。実は田中さんがいつも古書巡りを梅田のかっぱ横丁から始めるのを知っていたので、今日、一寸悪戯をしたんですよ」
「悪戯だって?」
「ええ、田中さんは必ずかっぱ横丁のA店の入って一番左の棚から古書を探される習慣があるでしょう?だからそこにあの本を差し込んでおいたんですよ。勿論、あのA書店の書店員には僕の方から裏で手名付けておいて、悪戯を仕掛けたわけですがね」
 僕は思わず声が出そうなくらいの驚きを抑えて目を見開いた。
「ちょっと、どういうことさ。いくらなんでもできすぎだろう。これって」
 彼がハハハと笑う。
「いえいえ、すいません。実はね、新しい劇をしようと思ってましてね。それがちょっとした探偵ミステリーというか推理物なんですが、実際その場面というのを現実にしてみたらどうなるものかと思いまして、それで田中さんにその劇中に出て来る場面をリアルに演じて貰おうと考えて、悪戯をしたんです」
 なんてこったい。
 僕は開いた口が塞がらなかった。
まぁあまりにもそう考えれば出きすぎた話ではあると思った。人為的な事であればそれはすとんと心で納得ができた。
しかしながらではあるが、中々自分が哀れである。僕は彼の劇の見切りに使われた役者だったと言える。
 湯上りの身体が冷えるような思いだった。そんな表情をしていたのか、四天王寺が気遣うように僕に言った。
「いや、すいません。あまりに唐突でしたね。謝ります。それでその謝罪の為にちょっとお酒でも奢らせてください」
 そう切り出してもじゃもじゃの縮れ毛をくしゃくしゃにしながら頭下げた。
「まぁ…、いいよ。そんなことなら。別に何も思わないからさ」
「そうですか」
 下着を履きながら彼が頭を再び下げる。
「しかしながら…」
 僕も下着を身につけながら彼に言った。
「…あの小説本の工夫、良く出来ていたよ。あれ良く考えたね?」
 シャツに首を通しながら言った。
「え?工夫…、そりゃ、田中さん一体何ですか?
 慌てて僕は首をシャツから出す。それが驚いて突然首を出した亀の様だと僕は思った。
「えっ?四天王寺君、あの小説本…あれは君の劇で使うための工夫仕掛けではないの?」
 僕の驚きに彼がそれ以上の驚きで目を丸くして言った。
「いや…田中さん、何の事か全くわかりません。何かあの本にあったのですか?本に仕掛け何てとんでもない。実はA店の入り口に『三四郎』入荷しましたと張り紙があった筈ですよね、それが実は『「三四郎」と対になる悪戯なんです。つまり…それを目にした人間が心中印象に残れば、きっとそれを手に取るだろうか?そんな実験の結果を見てから劇中でのリアルさを出す為にちょっとと田中さんに仕掛けただけなんですから…」



(6)


「そいつはすごいですね…、そんな仕掛けがあったとは」
 僕と四天王寺ロダンは、僕が手にしている『三四郎』を挟んで二人並んで歩いている。
 二人とも桶を脇に抱え、丸首のTシャツに僕は半ズボン、彼は少し裾広のベルボトムを履いている。並んで歩く二人の姿は売れない作家か芸人のように見えているかもしれない。特に彼はその態がぴったりのように見えただろう。濡れた縮れ毛のアフロヘアにベルトム、首にタオルをかけた役者らしさの動きも合わさり、本当にそんな雰囲気を醸し出している。
「しかし、驚きだ。田中さん、こいつはすごい。劇の脚本アイデアになりますよ」
彼が履き鳴らしている下駄の音が路上に響くと通りに出て来た野良猫が音を避けるように路地の奥に消えて行く。
風呂上りちょっと近くの酒屋の立ち飲みに行こうじゃないかということになり、今、二人並んで長く伸びた寺の壁沿いを歩いている。
勿論、目下僕達二人の話題はこの『三四郎』である。彼は歩きながらも興味深そうにまじまじと『三四郎』を見ている。
僕は少しくすりと笑った。
「そうか、これが君の仕掛けでないとすると、まったく本当に誰の仕掛けかということになるんだけど」
 僕が少し汗ばむ首を撫でながら言う。
「ですよね…、ですがはっきりと分かるのは僕が買う前の以前の持ち主ということになるのは間違いないだろうと思います」
「だね」
 そう言って僕は顎で前方を指す。道を曲がる角に酒屋のビールを入れたケースが出ている。
 酒屋が見えた。
 早速二人で店に入ると簡易に置かれた粗末な木造りの立台を引き寄せるように立つと、ちょうど奥から酒屋の親父が出てきて僕等に目配せをした。
 目配せに応じるように彼が声をかける。
「ビール、瓶で呉れる?グラス二つで」
 彼の声高い声が響き、親父が頷く。それから僕に振り返ると言った。
「田中さん、ここは僕に奢らせて下さい」
「おや…、良いのかい?」
 僕は四天王寺を見る。たいして実入りの少ない現実だろうと僕は思っているから、それが少し同情的な視線になったかもしれない。
 それに感ずるように、彼が軽く頭を掻きながら言った。
「まぁ今日は田中さんを騙したわけですし…、しかしながらですよ、思った以上の収穫もあったわけです。ひょっとしたらそいつのおかげで良い脚本ができれば、うちの劇団の公演で客が増え、普段少ない懐も少しは温かくなるっていうもんですよ」
 そう言って彼は運ばれて来た瓶ビールの栓を勢いよく分けると、そのまま溢れ出すビールの泡をこぼさぬように丁寧にグラスに注ぎこんだ。


(7)


注ぎ込まれた二つのグラスの間に置かれた『三四郎』
 その上を注視する僕と四天王寺のふたつの視線。本から漂う何も物語りせぬ沈黙が仕組まれた謎を深くさせている。
 ビールを一口飲むと早速僕はこの本に書かれたいたことを簡略に説明した。
 話がてら所々、要点が分からず聞き逃した箇所があれば彼から僕に細かく指摘があり、だから大方僕がこの本について彼に話し終える頃には、二人とも本に書かれていた手記については、ほぼ理解した。
 しかしながら、謎めいている。
 彼は本を手に取り、ページを捲る。
「えっと…188ページでは、自分が死んでいるだろうと書いてますね。『おそらく、この本をあなたが手に取られたということはきっと私は黄泉の国へと旅立っていることでしょう』ですから。
 後はその亡くなり方が病死か、自殺なのか、他殺になるのか…、まぁ癌をお持ちの様ですね。となるとやはり病死と言うことでしょうか…」それから指で文字をなぞって行く。
「ここからが印象的ですね。『私の妻は私の遺物ですら金銭に変えれるものは金銭に変える女です』――ここはすごい表現だ。守銭奴ですか!まるで女が凄く金に強欲だと言っている。それについては表現としてこう続きますねぇ…『ええ、彼女は世にも恐ろしいほどの守銭奴なのです。私の持ち物一切はきっと金銭に変えられ、この古本すら何処かの古書店で僅かばかりに小銭に変えられるでしょう』なんてすごい言葉だ」
 四天王寺が頬を摩りながら、僕の方を見て笑う。
「これほど何度もくり返し書くとは、余程この方は物事に対する気持ちが深いというか、この『女』に対して思いが深いと言うか…、それとも来るべき病気との最後に心理的に追い込まれていたのか…」
 縮れ毛を指で掻き揚げる。
「いやぁそれだけでなく…あとはそれだけでなくこの手紙を読む人にこの女、内縁の妻でしょうかね…その印象を強く与えたいのでしょうね」
(成程…)
 四天王寺の言葉に頷き、ビールを一口運ぶ。
(そういう理解もあるのだな)
 僕は喉にビールを流し込み、音を鳴らす。
「190ページなんて、すごいですよ、田中さん。不倫関係を知りながらも何でしょう、何もできない感情に揺り動かされているが地団駄を踏む気持ちがありありと書かれている、!!見て下さい!!」
 彼が身体を乗り出す様に僕にそのページを見せる。僕は首を伸ばして覗き込む。彼がそこに書かれた言葉を指でなぞる。
「しかしですね、最後に錐のような鋭い言葉がある。感情を叩きつけるような、ですが…それは一方では何か甚だしく予言めいた謎の言葉『ただ後世の誰かが「犯罪者」を責めることは出来るのではないでしょうか?』なんてすごいですよ」
 ふんふんと鼻を鳴らして指を止め、四天王寺が僕を見る。
「田中さん、この方は女が犯罪者になると予見してこう書いているんですよね…」
「そう読み取れるね」
 僕は空になったグラスを机の上で滑らすように横に置く。
「ちょっと考えたいのですが、この書かれたご本人が癌を患っていたとしたら、病死ですよねぇ。だから189ページで保険金を罪滅ぼしのように与えたい趣旨で書かいてます」
「うん。でもさ、後で書いているよね。『女』が自分ではなく不倫相手を殺すだろうと」
「あっ、そうか…そうでした。この犯罪者になるという意味は不倫相手を殺すだろうと言う意味ですね」
 僕の指摘に気づいて、アフロヘアの頭を掻く。
「えっと、確か193ページ…、『――もしあなたが私の事を気に成されたらどうか私達に降りかかったこの「事件」を解決してください』ふむふむ、ありますねぇ。続いて…『――あの憎き不倫相手の男もきっと同じように黄泉へと旅立っていることでしょう』ですかぁ。すごいなぁ」
 四天王寺が首を撫でる。
「本当にすごい言葉面ですよ。まるでこの方脚本家みたいですね。自分の人生の最後を劇的に飾りたいのかもしれないですが…」
 そこで彼が顔を上げて、くるりと首を回す。
「すいません、ビールを瓶で追加お願いします」
 それに応じるように店の親父が動いて奥に消えた。
「ちょいとばかり、喉が渇きました」
 少し照れるように笑いながらもどこかその視線が微睡む感じなのは、湯上りのビールのせいもある思うが、きっとこの手紙の謎に触れて何かを感づいて考えているのかもしれないと僕は思った。

(8)


「ちょいと…すんません」
 言ってから四天王寺が腰を下ろす。見ると手を伸ばしてベルボトムの裾を捲りあげている。
 巻き上げると下駄の底打つ音が鳴り、曲げた裾がピタリと止まった。
「いや、やはり暑くて堪りませんねぇ。ベルボトム何て今どき誰も履いちゃいない。しかし劇で七十年代とか表現しようとすると、こうした衣装が無いと困りますからねぇ」
 彼は言ってアフロヘアを撫でる。
 しかしながら妙なミスマッチ感が何ともこの人物の毛並みというか、臭いを感じさせる。
 縮れ毛アフロにTシャツと捲り上げたベルボトムの先から覗く下駄。
 どこか本当に売れない芸人か作家のような風貌である。
 それが先程から悩み深く僕と一緒に『三四郎』とにらめっこしている 。
 ふと僕は暖簾から外を覗き見る。見れば遠く大阪湾に沈む夕陽が見える。
 ここは古代、台地として海から突き出ていた。
 僕は思う。
 ここから眺める夕陽も現代に生きる僕等が眺める夕陽も幾分か違いはあるだろうか?
 ちょっとばかり大きな建築物ができて空が見えにくくなった以外、この人間の棲まう世界に沈む夕陽に過去と現在とどれほどの違いがあるのか?
「何も違いはないですねぇ…」
 思いの外から消えた四天王寺の声に振り返る。
「別段、今のやつと違いませんね」
 四天王寺は自分の財布から取り出した銀行カードと『三四郎』に挟まれていた銀行カードを立ち飲み台の上で見比べている。
 うーん、と頭を掻いて僕を見る。
「田中さん、何も違いませんね」
 目をしょぼしょぼとさせている。
 僕は彼のしょぼくれた目に合わせて言う。
「違わないだろう?これ今現在も営業している都市銀行のM社のカードでからね。ちょっと古い奴だけど、僕の田舎の母もこれを使っているからね」
 四天王寺が顔を向ける。
「ちなみに田中さん、どちらの出身で?」
「僕…?僕かい?」
 僕は押し黙る様に小声で言う。
「四国さ、沢山県境が跨るような山深いところだよ。就職で大阪に出てきたんだ」
 へーと四天王寺が頷く。
「そいつは凄い。ちょっと昔、僕もね、原付で四国を旅してましてね。そのあたりを通ったことがありますよ。山深いところで、もう日本の原風景みたいなところでしたね」
 僕はそれ以上何も言わず、頷く。
「まぁ…、山深い田舎ってことにしてくれ」
 ビールをグイっと一気に飲む。
「ところで君は?」
「僕?僕はここですよ。大阪です。生まれも育ちもね」
「そうかい。都会生まれか」
「まぁ、そうですね」
 四天王寺が頭を掻く。
「ほら苗字の通り、四天王寺生まれって奴です」
 少し笑いながら僕は答える。
「へぇ、妙な苗字だけどそれが地名だったとはね」
 それから四天王寺は頭を掻き、僕に言った。
「そうそう、田中さん。僕はこちらよりちょこっと南の方には親戚なんかも多いものですから・・そのぉ」
「何だい?」
「苗字で呼ばれると直ぐに分かっちまうんです。だから下の名で呼んでくれると嬉しいんですんが…」
「下の名?」
「ええ、ロダンって。これから」
「そう?」
「そっす」
 再び頭を掻く。
(なんで苗字じゃダメなのさ)
 と、問いかけようとしたが、そこには彼の事情があるような気がして押し黙った。もしかしたら何かその苗字では彼には差し障りがある様に察した。
 だからかもしれない。
「まぁ…、親父がねぇ、ちょっとばかり道楽が激しくて…まぁそこらへんが賑やかだったんすよ」
 黙る僕に気を使ったのか話し出そうとしたので、僕はそれを目で押さえた。
「まぁいいよ。それ以上聞かないさ、四天王…いや、ロダン君」
 彼がぺこりと頭を下げる。
 思わず、笑いが出た。
「まぁいいさ。都会に棲まう者同士。互いに何とやらだ」 
 言い終わるうちに彼が僕のグラスにビールを注ぐ。
「すいやぁせん」
 股旅者のような、どこの国ともつかぬ訛りで僕をくすりと笑わせる。
 今度は僕が彼のグラスにビールを注ぐ。
 そのビールの表面に大阪湾に沈む夕陽が映った。
 それを彼が夕陽も一緒にぐいと喉奥に流し込む。
 それから一気に息を吐いた。
 彼がビールの表面に映った夕陽に気づいたどうかどうかわからないが、呑み込んだ夕陽の味を味わうようなどこか懐かしい眼差しをして、飲み干したグラスをそっと置いた。
 「本当にこの銀行カード、何も違いませんよねぇ。それに…」
 ロダンが首を傾げて俯く。
「195ページに「――数回に分けられた入金額の意味を内縁の妻であるお前がわかるか、今の私では分からない。これは賭けでもある」とあります。例えこのカードの暗証番号が分かって確認しても残金の合計だけしか分かりませんから、これって本当に通帳が無けりゃさっぱり分かりませんよね」
僕もそうだと言うように頷く。
「賭けって…『女』に対してもそうだけど、これを見つけてですよ、田中さん。謎を解いてやろうという者にとっても解けるかどうかの『賭け』を両方に暗示させてますよねぇ」

(9)

 その日、僕達は酒屋を後にしてそれぞれの邸宅に戻った。
しかし、戻ったとはいえ、僕達は互いに軒を並べる隣同士である。
 互いの玄関を潜る時、彼は僕に言った。
「田中さん、こいつ『三四郎』預からせてもらいますね」
 勿論、それが元々彼のものであると言ってる以上、僕としては何も言いようが無いわけで、軽く頷いた。
 ただ、
「ロダン君…ねぇ、もしだね。週末までに君が何かわかったことがあったら教えてくれよ。明日は月曜だし、僕は週末まで仕事だからさ。君とは会えないけれどさ」
 それに頷いて、玄関から彼の声が聞こえた。
「分かりました。じゃぁ、田中さん。もし何か分かれば週末にでも」
 彼の返事に僕は言葉を返す間もなく、玄関の流し戸が閉まる音がする。
僕は彼が残した静まり返る答えなき沈黙の中に、何故か大きな期待をした。
それは何かというと、そう…彼が次の週末までにこの僕の胸につかえたしこりというか、喉に詰まった魚の骨というか、この魔訶不思議な重しを取り覗いてくれて、朗々と気分爽快にさせてくれそうな、そんな期待だった。
 
そして驚くことに実に彼はそれをやってのけてくれたのである。




(10)


 その日僕は思い切ったことをしたものである。
仕事上がり同僚に誘われて市内の阿波座というところで飲んだ。
そこで同僚と別れるとそこから地下鉄に乗らず、まだ五月の夜風心地よさにそこから南に歩き、鰹座橋という古風古めかしい場所から大阪市内を真横に横切るようにK町まで歩いて帰ったのである。
途中、大阪らしい幾つもの「――橋」とついた地名を歩き、御堂筋を横に横切って、やがてやや坂上がりの谷町の地形に差し掛かると振り返る様に自分が歩いてきた道筋を思い出す。
ここまで結構な距離だった。
シャツが汗でびっちりと背に張り付いている。おかげですっかり酒が抜けてしまった。
しかしながら気分が良い。
やはり五月という新緑の風薫る季節が心を浮つかせ、自分に対してそういう気分にさせるのかもしれない。
この気分をもっと今夜は味わいたいのものだ。
あっと声を出した。
(そうだ…)
 僕は急いで門を潜った。 
平石の並ぶ土香りのする苔道を歩き、僕は彼の邸宅を覗いた。薄く奥から明かりがしている。
僕は玄関を叩いた。
しかし、なかから返事はしていなかった。寝ているだろうか?
腕時計を見る。
時刻は午後九時丁度だ。
寝るには少し早いかもしれない。
僕は再び玄関を叩いた。
すると突然、予期せぬ方向から声がした。
「田中さんですか??」
 僕は振り返る。
 声がする方向はL字型の奥まったところからした。僕はそちらを凝視する。その奥まったところは薄暗い闇である。
しかしそこから確かに僕を呼ぶロダンの声がしたのだ。
「おい…、ロダン君…かぃ…?」
 恐る恐る僕は薄暗い闇に声をかける。 僕の声に薄暗い闇の中でひときわ濃い影が揺れる。
「ええ…、僕ですよ。田中さん、ちょうどいいところへ来てくれました。少し助けて下さい」
 薄暗い闇の中で分からない薄暗い闇の中で分からないが、困惑しているようだった。
 僕は声の方に歩き出す。
灯りが消えている薄暗いL字型の角を手探る様に曲がる。角を曲がれば祠のなかで苔むした顔無き地蔵が立っている。
僕は眼を凝らす。
数本の蝋燭が地蔵の側に立っているが、その地蔵の背後の薄暗い闇の中で動く僅かな明かりが見えた。
それも蝋燭の炎だった。それが僅かに揺れている。
「おーぃ…」
 僕はその薄暗い中に向かって声をかける。
 濃い影が水かけ地蔵の蝋燭の下で揺れている。
 それを見つけて僕は言う。
「ロダン君かい?…君ぃ…、こんなところで何をしてるの?」
僕の声に蝋燭が揺れる。薄暗いとこでどこか気持ちがおどろおどろしく感じて来る。何か出てきそうな感じと言えば、そんな感じだ。
汗で背に張り付くシャツが肌冷たく感じる。
「おーぃ…、ロダン君」
 その刹那、突然ロダンが地蔵の背後の暗闇から顔を上げてこちらを見た。
蝋燭の炎ではっきりと見えた輪郭の照らし出された彼の顔はどこか妖怪のようだった。
「うわぁぁ!!」
 思わず悲鳴を上げる。
 それを抑えるようにロダンが僕の口を覆う。
「田中さん!田中さん!近所迷惑ですてっば!!そんな声を出しちゃ」
 僕は驚きで心臓がバクバクである。幸い僕の悲鳴で誰も出てこなかった。僕はやや落ち着きを取り戻し、辺りが静かになるのを待って声を出した。
「いや…驚いたよ。君が突然薄暗闇から出てきて、なんせ妖怪みたいに見えたからさ」
 息を整えながら僕が言うのを見て、彼が笑う。
「いやぁ…、そうでしたか。すいません。驚かすつもりなんか無かったんですが…」
 僕は手を上げる。
「いや君のせいじゃないさ。こっちが勝手に驚いたんだからさ。別にいいよ」
 彼は地蔵の側に置いてある蝋燭をおもむろに取ると、それで地蔵の下の台座を照らした。すると彼は台座の下を覗き込んだ。じっと覗き込んでいる。
「どうしたのさ」
 僕も彼の横で屈みこむ。
見れば僅かに手が入る程の隙間がそこにあった。
「ん…?どうしたのさ、この隙間…」
 彼の手が動いて首をぴしゃりと叩いた。
「いえね、田中さん。僕ずっとさっきからこの隙間をこの蝋燭の乏しい炎で覗いていたんです。だから目尻がおかしくてそれで顔つきが狐みたいに妖怪じみて見えたんでしょう」
「覗いていた。どうして?」
 僕は彼に言った。
 彼は僕の方を向き直り、言った。
「ええ、実はここが例の『三四郎』にとってとても大事な場所だったんです。僕もこの一週間、とても迷いました。そうまるで主人公の三四郎が最後に呟いた迷羊(ストレイシープ)のようにね」



(11)


僕は今、彼の部屋にいる。
 五月が終わろうとする夜。
 彼の部屋の二階から見える格子窓越しに満月が見え、時折、熱を冷ます心地よい夜風が吹いている。
 僕はジャケットを畳の上に投げ出し、ネクタイを外して襟元を緩め、彼が下で酒を用意している間、彼がネットから流してくれたクラシックギターを胡坐をかきながら聴いている。
 熱くも寒くもない、五月の新緑の季節の心地よい夜。
 僕の心を浮つかせる気分にさせる。
 月が輝いているのを静かに待つ。
 ふと気が付けば『禁じられた遊び』が月の寄る辺に聴こえてきた。
 心が規則正しく、いやでもどこかふわふわと浮き沈んで行く。
(いい気分だ…)
 思うと、背を伸ばした。めい一杯空気を吸い込む。
「田中さん、すいません。お待たせしました」
 そう言って彼が階段下から声をかけて盆にビールとグラス、それと袋に入った量の多いイカのあたりめを載せて現れた。
 畳にそれを置くと胡坐をかき、僕を見てはにかみながら、いやぁと言った。
「実は近くの業務スーパーでこのお得用サイズが安く売ってましてね、買っちゃいました。田中さん、粗末なもんですが、今夜はこれをつまみに」
 さぁどうぞ、
 彼の言葉に僕はグラスを手にする。
 彼がグラスを手にしたビールの僕に注ぐ。 グラスに泡がこぼれそうになるまで注ぐと、今度は僕が彼のグラスにビールを注ぐ。
 注ぐグラスでの中でビールがコポコポと鳴る。
 やがてグラスの縁まで泡が出てくると、後は互いに顔を合わせて、軽く会釈して何も言わず一気に喉に流し込んだ。
 そして数秒、
「あぁ良いですね。やっぱ生き返ります!!」
 彼が満面の笑みでアフロヘアを揺らす。
「なんせ、あの水かけ地蔵の下の隙間を薄暗闇の中でにらめっこしてたんですからね。喉が渇きますよ」
 笑いながら頭を掻く。
「どれくらいにらめっこしてたのさ?」
 僕は尋ねながら釣られて笑う。
「ざっと二時間かな」
「えっ、二時間???」
 そいつは大変だぁ、
 僕が言うと彼は手を伸ばしてあたりめを口に入れる。
 それからくちゃくちゃと咀嚼しながら、僕に向かって言った。
「いやねぇ…、だって一番大事なところなんですよ。あの『三四郎』の謎の一番の肝だったんですから…」
 彼の言葉に僕は驚く。
「えっ??あの『三四郎』の?」
「そうです」
 彼がくちゃくちゃと音を立てながら味を楽しむ様にあたりめを噛む。僕は彼を覗き込む様に言った。
「どういうことさ…、あれがこことどんな関係があるの」
 言うと、彼が顔を寄せて来た。
「田中さん、あるってもんじゃないですよ…。ありありも有りすぎる。ここがまさかのあれに書かれていた渦中の場所だったんですよ!!」
 言うや彼は縮れ毛を手で掴むと思いっきりアフロヘアを掻きむしる。
「あー、しかし、すごい話だ!!」
 僕は驚いたまま、何も言葉が無い。ただ彼が髪を掻きむしるのが終わるのを待つしかなかった。
 彼はくしゃくしゃに手を回して十分に髪を掻きなぐると、やがて手を止めたまま僕を見た。それから首をぴしゃりと音を鳴らして叩いた。
 それからじっと目を微動だにさせず、僕を見た。その眼差しがどこか暗い。しかし、病んでいるとかいうのではない。
 何か悲し気だった。 
「田中さん…、こいつはね。本当に奇妙で精緻にできた『事件』でした。かのシェイクスピアでも書けない奇妙な話ですよ」
 言ってから彼は手を伸ばして再びあたりめを手に取ると、それを舌で舐めてから僕に言った。
「こいつの話が終わったら、田中さん銭湯にひとっ風呂(ぷろ)でも浴びに行きましょうや」


(12)


「さて…」
 言ってから彼は背後から『三四郎』を取り出すと二人の間に置いた。イカのあたりめを口の中にぽいと放り込むと僕を見る。
「翌日、僕は仕事が休みだったので、早速こいつとにらめっこすることになりました」
「そうだったの?」
 相槌を打って彼が僕を見る。
「ええ、僕は今すこし先にあるA図書館に任期付き職員として働いてるんですが、月曜が休みなんです。だから…まぁその時間の暇つぶしみたいな感じですね」
 僕は初めて彼がそんな仕事をしているのを知った。てっきり劇団員だけで生計を立てているものだと思っていた。
 彼がそんな僕の心の声を聞いたかのように笑う。
「はっはっ、流石に売れない役者じゃ、とてもとても食べていけないですよ。今は色んな仕事を掛け持ちしながら劇団員として頑張っているんでさぁ」
 どこの訛りか分からぬ国言葉ではっはっはっと再び笑う。
「そうだったのか。うん、まぁそうだよね、金が無けりゃねぇ」
「そう、銭でさぁ、田中さん。銭が無けりゃ、この四天王寺ロダン、毎晩、このイカのあたりめだけで空腹を満たさなけりゃなりませんぜぇ」
 言ってから彼は縮れ毛のアフロヘアを揺らしながら口に含んだあたりめを呑み込んで笑った。
 僕も彼の後に続いて笑ったが、話が脱線しそうになりそうだったので話題を戻そうと笑いを抑えるように彼に言った。
「それでさ、ロダン君。話をさ…、その『三四郎』に戻すと…」
 彼も僕の言葉で話題が脱線しそうになるのが分かったらしく、小さく咳払いをして僕に向かってまじまじと見つめ返してきた。
「そうです…、『三四郎』ですね。そうそう、僕は月曜の朝起きてからずっとこいつを見ながら考えていたんです」
「どんなことを?」
 ええ、と彼は言う。
「こいつの存在する意味をね」
 彼は髪を掻く。
「存在する意味だって?」
「そうです」
 アフロヘアから手を放して言った。
「実は前の晩、田中さんと酒屋で話した時にも思ったんですが…、この中に告白を書いていた誰か分からぬ人物、まぁこの人物を仮にX氏としましょう。このⅩ氏ですが、彼は非常にどこか『愉快』を楽しむ趣向がある人物ではないかと思いましてね…」
「愉快…?」
「そうです」
 そこで彼は首を軽く揺らすと顎に手を遣って、少し考えるようにしてから話し出した。
「僕がこれを読み終えた直後の感想というのは、X氏は妻に不倫され、それも自分自身は癌に蝕まれ、もう余命も無いと言うのに、それでも自分の死も妻の事も、不倫相手の男の事も何もかも、彼はどこか悲観しているのではなく客観的に遠い空の上からまるで劇が行われている舞台を見て愉しんでいるように思いました。そう考えるとこの人物の性質は先天的にとても明るい人物じゃない、どこか暗くて、そしてイビル…まぁ邪悪を感じる、それもずるがしこさというか、卑屈さの極みというか…狡猾さというかね…」
 彼の話すことに魅入られるように僕は耳を傾けている。
 まるで平家物語の琵琶法師の語る口調のようにどこか怪しくも心の中に染み込んでくる。
「だからですよ…、X氏は自分が知り得る邪悪全てをこの『三四郎』に準備して自分は死後、それが露見すると困る人々のスリルを本当は愉しもうとしたのではないかと思ったのです」
 僕はグラスを置いて、彼の話に聞き入る。
「そこまで考えるとこの『三四郎』の存在する意味と言うのはX氏が仕掛けた自分の死と共に爆発する時限爆弾何でしょう、きっとね」
「時限爆弾…」
「ですよ」
 ロダンが首を縦に振る。
「これからを生きる者にとっては迷惑極まりない、全てを破壊させようとする爆弾です。どうです、田中さん?そう考えるとこかそれは意地の悪さを感じませんか?…でしょう?この愉しみ方は死後の世界でほくそ笑む地獄の亡者のように自分の恨み言葉で生者を操るかのような…そんな暗さですよね。まるで挑戦みたいですよ、X氏が書いていたように、「賭け」ですよね。時限爆弾を爆発させれるかどうかの…」
 そこで彼はビールをぐいと喉に押し込んだ。
(成程な)
 僕は彼と同じように顎に手を遣る。そう考えれば、そうなくもない。自分の死と共に残るものの醜聞をさらす、それも「犯罪」を予見させながら。もしそれが本当ならば全て「答え」を知っていて、生徒の回答を待っている先生みたいなものだ。
 確かに彼が言うように「愉快」なやつ、と言えるだろう。
 僕は顎に遣った手をグラスへと持って、それを手に取った。喉が渇く、そう思ってビールを一口飲んだ。
「そう思うと、じゃぁ僕もいっちょそんなⅩ氏の挑戦に乗ろうじゃないかと勢い込んで、まず今僕が話したことをプロットと仮定して謎を解決してみようと思ったのです」


(13)

 
 彼がビールを飲み干すのを待って僕は問いかけた。
「で…、まずは何を始めたの?」
 グラスを畳の上に置くと、彼は胡坐を崩してやや中腰になりズボンのポケットから何かを出した。
「こいつです」
 手にしたものを僕の前に置く。
 それは都市銀行のM社のカードだった。
「これかい?」
「ええ、そうです。まずはこいつの暗唱番号を探せないかなと考えたんです」
 彼はそこでふふふと笑みを浮かべた。それを見て僕がおかしそうだなと思って彼に言う。
「どうしたのさ、ふふふなんて笑ってさ」
 彼が首を撫でまわす。
「いやぁ、存外僕も中々頭が切れる類(たぐい)何だなぁと思いましてね」
 彼がニヤニヤして僕を見た。
「この番号、意外と早く分かったんですよ」
「何だって!!??」
 僕は驚いて身体を乗り出す。
「本当かい…?」
「ええ、そうです。だから田中さん言ったでしょう。僕も中々頭が切れる類(たぐい)何だなぁって」
「そ、それはじゃあ、どんな番号だったんだい??」
急くように彼に言葉をかける。そんな僕を少し落ち着かせるようにまぁまぁと言って、彼が僕のグラスにビールを注いだ。
時を同じく、曲が変わる。
どこの国の音楽だろう。
 そんな思いが急く心に挟む。
「こいつはいい曲ですねぇ。確かスペインの曲だと思いますが、月夜に僕らが話す内容にはおあつらえ向きですね」
 言って彼が再び『三四郎』に手を伸ばしてページを開く。それから開いたまま、僕の方に手渡した。
 それを受け取ると僕は彼に言った。
「これが…、どうかしたのかい?」
 うん、と彼が頷く。
「田中さん、そこ…、見て下さい。ページ番号の所…」
 僕は開いたページの番号を見る。
 そこを見て、おや?と言う。
「ページ番号が…、丸囲みされているね」
 僕が開いているのは20ページだった。
「田中さん、他にも囲まれているところがあるんです」
 言われて数ページ捲る。確かに丸囲みがされている。最初の方に戻してみるとそれは幾つかのページだった。それを言葉に出す。
「えっと…、ちょっと待てよ。最初は…、19ページ…、えっと次が20ページ…、それから少し飛んで46ページ…、あとは…、そうだね。特に無いようだ…ね」
 僕はそこまで言うと顔を上げる。上げるとロダンがにこにこしている。
「どうしたのさ?これ。別に不思議じゃない、読んだ人が何か気に入る場面とか…ひょっとしたらそんな言葉があって丸をしたんじゃないの?」
「成程ですねぇ…、それで田中さん、その該当ページは何か印象深いことが書いてありますか?」
(印象深い…?)
 言われてから該当のページに目を通す。
19と20は続きのページだ。

――ここは主人公の三四郎が汽車に乗り豊橋でむくりと起きた男と話す場面、それも腿の事を話している場面だ。
ページを捲るとダ・ヴィンチについて二人は話している。では46ページはというと、昌之助という若者と三四郎が話している内容だ。娘(むすめ)義太夫(ぎだゆう)とか、何とか…。

「どうです?」
 ロダンの声が僕の思索の世界に届く。
 僕は本から目を離して彼を見る。
「…まぁ…人によりけりだね。別にこの本で特に文学的にも感想的にも…、重要な場面ではないように思うよ」
 彼が目をぱちくりさせる。
「ご名答です。その通りですよ。僕も最初田中さんと同じ意見です。何度も読み込んでも何も湧かない。一応X氏以外の人が書き込んだかどうかも考えましたが、普通、本を売ろうとすればそんな落書きをすれば売れないでしょうからね。おそらくそれはX氏の手のものだろうと仮定できます、それで僕の出した結論は…つまり丸囲みはX氏が記入したが、本文ページその個所と恐らくX氏とは何も脈略も関係が無いと言うことになりました」
「…、うん」
 静かに答える。それは同意している意味もあるが混迷しているという僕の理解でもある。
 それに彼が答えてくれるのか?
 彼がアフロヘアを掻いた。
「それでではと思い。こいつはだからひょっとすると…誰かに向けた『誘導』つまり、或る考えに至った人ならわかると言うような暗号なんではないかなと…」
「暗号??」
 思わず、言ってから驚きの声を上げそうになったが、直ぐに彼が手で制す。
「それが銀行カードの暗証番号だと思った?違いますか、田中さん?」
 制した手が人差し指を指して僕を向く。
僕は頷く。
 しかし、その指はゆっくりと左右に振られる。
「そいつは早合点でさぁ。答えはノンノンですよ」
 彼は苦笑いを浮かべる。
「違ったのかい?」
「ええ、見事に違いました。僕もそう思ったので急ぎ銀行まで走り番号を画面に打ちこみましたが、結果は駄目でした」
「なぁんだ…、期待したのに」
 がっくりと肩を落とす。
それを見て彼が笑う。
「つまり19、46、20これらを組み合わせて暗唱番号になるかやってみたんですが、全然だめでね。おまけに銀行のATMの警備員に怪しまれる始末でした」
 はっはっはっと笑って彼が僕に言う。
「でもね、実は田中さん。暗唱番号、実は僕分かったんですよ」
 そこで先程黙った驚きが今度こそ声になった。
「どうやって?」
 僕の驚きに彼が大きく笑う。
「いえいえ、やはり世の中の成功というのは多くの失敗の上にできているということが良く自分にも身に染みて分かりました。それは凄く簡単だったんです」
「どう簡単だったのさ??」
 ええ、彼は言ってから本の表紙を叩く。
「つまり番号は『三四郎』数字で四桁『3460(さんしろう)』ちなみに『0346』も試してみたんですがこいつは違ってました」
 僕は驚きに目を丸くする。
「えっとですね。つまりさっき本のページ番号が丸囲みされていたでしょう?あれは『答え』を導くための何でしょう…思索へのアナグラムというのか、まぁ答えを探らせるために、感じさせるためのヒントなんですね。つまり『鍵』なんですよ。つまり…19、46、20これらを組み合わせて暗唱番号になるのではないかと考えに至った人に対する、まぁ言い換えればこの謎を解こうとするものに対しての『誘導』という役割を持っていたんですね」
「でも何故、それが『3460(さんしろう)』なんだろう。回答を聞けば意外と幼稚で、何も…暗証番号としては高度性もない。ぎゃくにああそうかと分かりやすくて失望だよ」
 僕は呟く。
 そこで彼は言った。
「おそらく、数字を分かりやすいものに「慕ったんじゃないですかね…」
「分かりやすいものに?」
 ロダンが銀行カードを手に取ると、まじまじと見ながら話しだす。
「だってこの銀行カードに振り込まれた回数と金額が確か『不倫相手の名前』だった筈ですよねぇ。つまりX氏は心の中でその人物を世間に公開したいと願っているのですから、そんなにハードルを高く設定をしては誰にも分からずじまいになる…それは本望ではない。しかしながらその反面、謎が解けて欲しくもない、そんな『賭け』もしている」
僕等の背にスペインの音楽が流れて行く。それが汗と混じり、僕等の背中を濡らしている。
「全く持ってここでこのX氏という存在がますますもって『愉快』な気分で悦に浸る性格を顕著に表している人物なのだと言えますよね」

 

(14)


「ロダン君…、それで口座の残高を確認できたのかい?」 
言うと彼はまた中腰になってポケットから四つ折りにした紙を出した。
それを丁寧に畳の上で広げると僕に向かって言った。
「ええ…残金確認できたんですよ。金額は1,381円」
「1,381円?」
「ですね」
「何だいそれは…」
 僕はうーんと呟く。呟きに応えるように彼が言う。
「いやぁ本当に全くわかりませんよね。しかしながら、残金があると言うことはおそらく内縁の妻である『女』は、守銭奴らしからぬところがあっても、結局、通帳を再発行することもなく、そのまま残金を手につけなかったということだけははっきりしたわけです」
「と、いうことだよね…」
 ロダンが頷く。
「まぁ通帳を再発行して記帳でもすれば、X氏が言うように不倫相手の名前が分かると言うことなんですよねぇ」
「でもどういう風に振り込めば名前が分かるかなんて、そんなこと君さぁ、いくらなんでも直ぐに思いつくかい?」
 僕は彼を見ながら言う。
彼は僕の視線を避けるようにして手元にビールを引き寄せグラスになみなみと注ぐ。それからそれをぐいっと喉に流す。
喉が動いて、やがてそれが止ると彼はイカのあたりめを手に取り「そこです」と言った。
「そこなんです…田中さん。そこまで来ると僕はあの銀行のカード番号が『3460(さんしろう)』の宛て数字だった事と、この数字も何か関連して意味があるのではないかと思いましてね…」
 黙って彼の話を聞いている。月が窓辺に見える。
それは輝いている。
僕等の頭上で。
「つまり…この残高も何かそうした意味ありげということかい?」
 僕の質問に彼がイカのあたりめを口に加えてクチャと音を鳴らした。 
「そう仮定したとします。それで言いますが、じゃぁこの残高の数字は何の名前を仮定したということになりますよね」
「その通りだけど…」
 僕も手元にビールを引き寄せて缶を開ける。音がして泡がこぼれ出てくるのをグラスでこぼさないように注いでいく。
 彼は『三四郎』開く。
「ここでその謎を解くヒントがこの『三四郎』にありましたね。確か195ページです。あっ…あった、有った。こうですよ。
――預金通帳は焼き捨てました。
銀行のカード番号はこの本のどこかに分かるようにしてあります。
やはり妻に感づかれるのが恐ろしい。
あの女は預金通帳を再発行するかもしれないが、数回に分けられた入金額の意味を内縁の妻であるお前がわかるか、今の私では分からない。これは賭けでもある」
そこまで言うと彼は辺りを見回して何か床に転がっているものを見つけると手早くそれに手を伸ばして、先程の四つ折りの紙を丁寧に伸ばした。
「つまりですよ。通帳は足し算とか引き算できますよね。足し算は「振り込み」引き算は「引き出し」ですね、でもX氏は引き出しをなんかしちゃいない。それは書いてます。つまり振り込みを数回しただけですよね。そこでですが…もし田中さんが『三四郎』と言う名前をゲームのように分かりやすく相手に銀行の通帳機能を使って暗号のように伝えようとすればどうしますか?」
 話題の中で唐突に僕への質問がされて、口元に引き寄せたビールをそのままにして動くことができず、彼を見た。
「あ、これはすません。そいつを飲んでから答えてもらいましょう」
 彼が笑う。
 僕は一気にビールを飲み干すとグラスを畳の上に置き、腕を組んだ。
 それから数秒、何も言わず無言でいたが、やがて「そうだねぇ…」と呟くと彼に言った。
「まぁ、こうなのはどうだろう。僕なら一回で振り込むよ。3,460円。そうすれば通帳にその数字が印刷されるだろう。それで《《人の名前に当てるんだ》》…よ…」
 言いながら最後の方になると彼が真面目な表情で僕を見ているので、思わず言葉が途切れそうになった。
そう彼は凄く深い眼差しで僕を見ているのである。
 それから彼はゆっくりと深い眼差しをゆっくりと笑顔にして拍手をしながら言った。
「いやぁ、田中さん、ご名答。まるで事実を知っている犯人みたいな素晴らしい明快な回答です。まさしく、そうなんです。田中さん、それがこの数字の答えなんです」
 僕は眼を丸くして、彼に言う。
「えっ!じゃぁ君はこれも解いたって言いうのかい?」
 彼は鼻下を拭いて、「です」と短く言った。
 驚きで僕はのけぞった。
「何ちゅうこった…」
 感嘆する。
「それでどういう風に解いたの?」
 彼は僕の言葉を聞くなりアフロヘアを揺らし、畳の上で紙に鉛筆を走らせた。
 それは三桁の数字で上下二段に並べて、こう書かれていた。

――461

――920

それを見て僕は言う。
「何だい…これは」
 彼が顔を上げる。
「田中さん、ほら、『三四郎』に丸囲みされていた数字覚えていますか?」
「ああ、あの数字だね。あれは確か…19、46、20…」
 言いながら僕はぎょっとする。目だけをぎょろりと動かす。
 紙の上に書かれた三桁の数字を見る。
「じゃぁ…あの数字がここでも?」
 彼が頷く。
「そうなんですよ。でもこの謎が解けるまでま二日かかりました。何となくそこまでわかって1,381円を逆算しながらどんな数字を当てはめればその振り込みが何かの当て数字になるのかを、頭がキンキンに破裂しそうになるのを抑えながら幾通りも考えたのですからねぇ」
「すごいよ、君は。謎が分かったというのだから」
 彼は頷きながら、紙を引き寄せる。
 それからその三桁の数字を愛おしそうに指でなぞる。
「やっと水曜日の晩、悩み悩んだ末に『そうか!』と突然閃いたんです。あの『三四郎』のページの丸囲みはひょっとして銀行のカード番号だけへの誘導だけではなく、この銀行の振込の数字の謎、つまりX氏の妻の不倫相手の名前にも関係しているアナグラムなんではないかとね。それからは簡単でした。分かっているいくつかの数字を並べるだけですから」
「それがこの数字…『461』『920』…」
「そうです」
 言ってから彼は二つの数字の下に横線を引いて、1,381と書いた。
 僕は何も言わず彼を見た。そう彼が答えるべきなのである。何故ならこれは彼が解いたの答えなのだから…
「ですね。二回に分けて振り込まれたんですよ。一回目は『461円』、そして二回目は『920円』…その合計が…」
 彼はあたりめに手を伸ばし、珍しく歯で噛み切ると言った。

「1, 381円です」



(15)


 噛み切られたイカのあたりめ。
 それはまるでちぎられた過去のように見える。
 ロダンはそれをぽいと口の中に含むと、苦みのある表情をしながら、愛おしそうにその紙に書かれている数字を見つめる。
まるで長年愛してやまない愛しい人を手に入れた恋人のように。
「…『461』『920』…、この数字と考え方のロジックさえわかれば、これで人物の名前を考えることができます」
 言ってから紙を放り投げる。それはひらひらと木の葉のように弧を描きながら、音も立てず畳の上に落ちた。
「最初の『461』…、これから類推する苗字…田中さん、如何考えますか?」
「君は勿論正しい答えを知ってるわけだね?」
 彼は首を縦に振った。
 僕は思いつくことを述べた。
「…そうだね、例えば『461(よろい)』は?」
 彼が首を振る。
 どうやら違うようだ。
「じゃぁ…『(「)461(いしろ)』、ちょっと文字位置を変えて…反転させて」
 彼が笑う。
「捻りすぎ?」
 彼が頷く。
「じゃぁ、シンプルに『461(しろい)』これでどう?」
「ピンポーン!ご名答。では下の名は?」
 ははと僕は笑い、それもシンプルに思いつくまま答える。
「おそらく…『920(くにお)』だろうね。銀行カードで『3460(さんしろう)』で、『0』が『オ』だった。その法則でどうかな?」
 彼は眼を細めて笑う。
「正解です」
 言いながら彼は手にスマホを取ると何か文字を打ち込んだ。
「田中さん、そうです。この数字が示す人物の名は『461920(しろいくにお)』で間違いがありません」
 うん、と僕は頷く。
「それでここからスマホの検索エンジンの登場です。水曜日の夜にそこまで推量できた僕は、その人物の名前を検索エンジンで調べてみることにしたんです」
「どういう、キーワードで?」
 僕の問いかけに彼が答える。
「えっとですね。実はこの銀行カード。昭和63年から使用されているんです。ですので「昭和」「しろいくにお」「事件」と検索しました。すると…」
「すると?」
 彼の言葉に同音して呟く。
「出て来たんです」
「何が?」
 ロダンは手にしたスマホを僕に見せる。
「見てください」
 僕は外面を覗き込む。
 そこにはN新聞社の記事が出て来た。それを僕は彼のスマホを手に取って読む。読みながら僕は目を見開いた。
 そう、それは彼とここで飲み始めた時に彼が呟いた言葉の通りだったからである。
 そう、彼は言ったのだ。
――「いやねぇ…、だって一番大事なところなんですよ。あの『三四郎』の謎の一番の肝だったんですから…」

――「田中さん、あるってもんじゃないですよ…。ありありも有りすぎる。ここがまさかのあれに書かれていた渦中の場所だったんですよ!!」

「渦中の場所…」
 僕は彼を見る。
「そうなんです。僕も驚きました。この長屋のあの大火災。それで亡くなった人物がいたんですよ。それがそこに書かれている『461920(しろいくにお)』、そう、本名「白井(しろい)邦夫(くにお)」だったんですから」


(16)


 僕は話を聞きながら五月だと言うのに背に総毛立つ寒さを感じた。
これは偶然の遊びだった筈だ。それも目の前に胡坐をかく青年、四天王寺ロダンのちょっとした僕に対する遊びだったのだ。
それが今では現実として僕達に迫って来て、遊びではなく過去からの長い年月を経た影のような手が伸びてきているのだ。それも謎を引き寄せて、答えを探らせようとしてる。
僕は得も言われぬ恐ろしさを感じた。
その謎はこのままにしておいてほしい。
そんな感情なのだ。
それがこの平穏な暮らしを続けていけるのではないかという、そんな思いだった。
人生の誰知らぬ秘密に他人は入りこんじゃいけない、違うかい?ロダン君。
「ここまで来ちゃ引き返せない」
 はっと僕は彼を見上げる。彼の眼差しが僕を見ている。
「そうでしょう?田中さん、ほんの偶然とはいえ僕が田中さんに仕組んだ悪戯…それがこうした事実を運んでくれた。僕は身震いしましたよ、人生にこんな奇妙な一致があるなんて。まさに事実は小説より奇なりです。なんてこったいです!!ここまできてこの『三四郎』がくれた謎をほっておいたりなんかしたら、きっと観客を魅了できる劇なんて僕にはできやしない。だから…」
「だから?」
「もっと調べてやらなくちゃって思ったんです」
「調べる?何を?」
 僕は身を乗り出して聞く。
「この長屋で起きた「火災事件」です。それとこの「白井邦夫」の事をです」
 僕は身を乗り出したまま、手探りでグラスを探す。
 喉が渇いてしょうがなかった。
 この人物が持ち込んでくれたなんというか辛味の効いたスパイスともいうべきこの事実が喉に絡むのだ。
 指がグラスに触れる。
僕は無意識にグラスを手にした。
「いやぁ…、確かに、確かに。ロダン君…君の言う通り、僕も聞きたくなった、そこから先に何があるのか…君はもうある程度まで調べているんだろう??すごいよ、すごいよ、君は…。僕は今さぁ、喉が渇いてしょうがない。なんだろう、本当に笑っちゃうよ、身体が寒くなったり、喉が渇いたり…」
 言うや彼がビールをグラスに注ぐ。
 それから笑顔になって僕に言う。
「さぁさぁ、田中さん、まぁ喉を潤しましょう」
 言われるままグラスを口に運び、注がれたビールを喉に流し込んだ。
 麦汁の何とも言えない苦さが染み渡る。
「さて、では続きを話しましょう」
 僕はグラスを置いてあたりめを手にとると一口噛んで、思いっきり噛み千切った。

 
(17)


「まずここで発生した火災事件ですがね。正確には昭和64年1月3日、正月の松も明けきらぬ時でした。まぁ平成と昭和が重なったときですね。その時、田名さんはいくつでした?」
「確か…中学生だった筈だから、十五、六ぐらいだろうか…」
「本当にもう近い時代なのに遠い過去の時代のように感じますね。僕はまだ生まれちゃいない。まだ言葉は悪いですが親父の金玉のなかでさぁ」
 はっはっはっと笑い、アフロヘアをもじゃもじゃと掻きなぐる。
「さて、ちょっと下品ないいかたでしたが、本題の続きです。その火災ですが実はですねぇ田中さん、ここって元々長屋が二棟並んでいて、こちら側はL字の長屋でも通りでもなかったみたいですよ」
「本当かい?」
「ええ、僕はね翌木曜日に図書館で働きながらこっそり過去の新聞図書を見ていたんです。勿論、その火事についてですよ。すると、その火災の記事がちゃんと残っていましてね…」
 言ってから彼がほらといってスマホを見せる。
「こいつがその当時の記事です」
 僕が覗き込むと新聞を映した写真があった。
「内容を読むとですねぇ…えっと、――昭和64年1月3日(火)早朝の火災は、並列した私道土間道を挟んだ二棟並びの建ての長屋の内、片側一棟を全焼させ、その火災による飛び火で片側の一棟の端にある長屋一軒を被災させる、とあります。おっとそこでですね…、こう書かれています。警察と消防が火事現場の検証を行ったところ、白井邦夫(無職、47歳)の焼死体を発見とあるんです。つまり白井邦夫はこの長屋、今では庭になっているところにあった長屋に住んでいたということですね…。それで長屋にはこの白井邦夫以外は住んでいなくて、えっとこう書いてあります。――元々、全焼した長屋は坂上の大宗派の寺門の所有であるが古く改装予定だった為、住人は故人だけだった、と」
 僕は彼の話を静かに傾聴している。この長屋で火災があったことはここに入居する時不動産会社から聞いていた。しかし、そこまで詳しい内容は知らなかった。
「そうか…、じゃぁこの長屋は元々L字型の通りじゃなくて、二棟の長屋が並列していたんだ」 
「ですね、それはね…、僕ねぇ、木曜日の仕事が終わってこの坂上の寺に急いで行って、確認したきたんです」
「えっ?そこまでしたの。君??」
「はい」
 彼が鼻下を指で撫でる。
「それで寺の人に聞くとですよ…、この火事でかなり迷惑をかけたみたいでね、その頃はまだお寺の信者さんやお手伝いさんが長屋には住んでいたそうです。だからそこで発生した火事でしょう、もう寺の方総出でめいめい方々に頭を下げて回ったそうです。でも一番幸いだったのは周辺に飛び火して迷惑を掛けなかったことだって言ってました」
 そこで彼がちびりとビールを飲む。
「それから以後ですが…、全焼した長屋は庭と花壇にして、それから被災して半焼した一軒はつぶして隣に新築を立て、あっそうそう…、そう当時の長屋に住んでいた誰かの提案で水かけ地蔵をそこに運び、以後火災が発生しないように願をかけて簡易の祠を立てたそうなんです。それでL字型になってそれが現代に至って僕らが今その場所に居座り、こうしてイカのあたりめをつまみに酒を飲んでるって始末です」
 僕は彼が話し終えるのを待って、息を吐いた。集中して聞いていたため、緊張をしていた。吐き終えて僕は「そうか…」と言って、格子窓から外を見た。月が幾分か雲に隠れている。
「成程、ロダン君。人の棲むところ歴史ありだねぇ」
 僕は雲隠れする月を見ながら呟いた。
「ですね。それでこれを頂きました」
 その声に振り返ると彼がどこから出したのかA4サイズの紙を持っている。それがひらひらと揺れ動いていた。
 眉間を寄せるようにそれをじっと見る。
「なんだい、そりゃ…??」
 揺れる紙の動きが止る。
「こいつですね。じつは当時の長屋の借入人名簿なんですよ」
「名簿?」
 僕は驚いて彼の方へ寄る。
彼はそれを先程の小さな四つ折りの紙片の横に並べると、指を指す。
それは長屋の見取り図になっていてそこに人物の名前が書かれている。恐らくそれが賃借人だと思った。
「さぁ田名さん、こいつを見てみましょうや。さて初めに全焼した方の長屋ですが…」
ごくりと唾を飲む。
「はっはっ、そう、緊張されなくても。さて…、うん、ありますね。ここに『白井邦夫』、えっと確かに他の部屋には誰も居ないですねぇ。さて反対ですが…」
 彼の指が反対の長屋に向かって動いて行く。
「どうやら、五軒のようですね、白井邦夫の長屋の向かいからですが『佐伯百合』…、『田畑健司』『蓮池純也』『木下純一』『藤堂光男』…、と書かれています」
 名前を呼びながら指が順に人名を指してゆく。
「この人たちが当時の住人なんだ」
 彼が頷く。
「この人たちは今も生きているのだろうか?」
 僕は呟く。恐らく生きては居まい。そう思った。
「実はですね。生きているですよ」
「えっ!!」
 僕は顔を上げて彼を見る。見上げると彼の指が指している。
「ほら、ここに『蓮池純也』ってあるでしょう?実はですね彼、この坂上の寺の現住職、法主さんらしくてね」
「本当かい?」
「本当も本当、あの火災の事をよく覚えていましたよ。まぁ元々寺の見習いで来ていたのに、あの火災以後、日々精進して寺の本部、本山に認められて今は大出世ってやつです」
 彼が言いながらアフロヘアを撫でる。
「それで、まぁその当時の事を知っているもんだから長々と話されるんですよ。僕は仕事帰りで疲れているのに…困りました…本当に」
 アフロヘアが揺れている。しかしそれが
不意に止まった。
「ですが、おかげで考えなければならない次の『答え』に簡単にたどり着きました」
「考えなければならない次の『答え』…?」
「ええそうです」
「そいつは…、何だい」
 アフロヘアから手を放して、彼は『三四郎』を手に取る。
「ええ、X氏の指し示す『女』つまり、それは『不倫相手』で『内縁の妻』であり、『蠱惑的な妻』で『守銭奴』である『女』の事です」
「あっ…そうか、そうだね。白井邦夫がX氏の妻の不倫相手であれば『女』が居るわけだよね…」
「そうです。それを探さなければならない」
 ロダンが呟いて、指を指す。
「それがここにいる『佐伯(さえき)百合(ゆり)』なんです」
 彼の指先がその人物の名前に触れた。その時、雲に隠れていた月が顔を出したのか部屋に月明かりが格子窓から差し込んできた。


(18)


 時が滑るように動いてる。
見れば時計は夜の十時を少し過ぎただけだ。
都会の時間はそれほど早くは進まないのかもしれない。
この時刻で人は眠らない。外はネオンやら街灯がまだ明るい世界だ。
ひょっとすればそれは昼間より輝いてるかもしれない。
その輝きは人が持つ普段は見せることができない習性が解放されてしまう為に起きる幻覚だとしても、それが時間を言う感覚を狂わし、都会に住む人を時間という感覚から解放してるのかもしれない。
幻覚なら、この名前はどうだろう。
 
――佐伯(さえき)百合(ゆり)

 今の今まで僕はこの人物を知らない。
自分の人生には全く関わりの無い名前。それが今、爛爛と輝きを持って面前に広がって行く。
「彼女ですね。佐伯百合というのですが、当時は三十後半ごろで、寡婦だったようです」
「寡婦?ということは旦那が死別していた?ということ??」
 ロダンが首を縦に振る。
「ええ」
 それから首を撫でる。
「さっきも言いましたが、坂上の法主さんが言うには当時は中々の美貌らしくてね。だからよく覚えているそうです。なんでも九州は大分の竹田市の生まれで、あの『荒城の月』で有名な滝廉太郎と同じ郷里です。それで彼女はそこで成人してから佐伯市にある旅館『小松』ってところへ就職。そこで亡くなった旅館の跡取り佐伯一郎と結婚されたそうです。その佐伯一郎さんと言いうのが、この上の寺の檀家というか信者さんらしくて、亡くなった後、その縁をたどり、ここの大阪に住みこむことになったそうです」
「縁をたどって?…、どういうこと。つまりその佐伯百合さんてさ…いわば旅館の女将だろう?」
 彼がそこで小さく呟く。
「何でも旅館『小松」というのは旅館と看板掲げていますが民宿に毛が生えた感じの所らしくて、まぁ街自体も小さくて釣り人相手の所でしたから…亭主が亡くなったのと合わせて廃業したらしいんです。それで家財道具一切持って、大阪へ夜逃げ同然で…」
 僕は黙って彼の言葉を聞いている。
「まぁ…、大阪に出てからはお寺の手伝いをしながら、たまに郷里から身寄りが来るのがあったらしいそうですが、細々と暮らしていたそうです。彼女、檀家さんの中では中々の人気だったらしくて、やはり綺麗な方でしたから…それはつまり…」
「蠱惑的だったということだね?」
 彼が頷く。
「だから…、色んな男との噂もあって、その中にある人物がいた」
 畳の上に広がる紙の上に指を滑らす。
「それが、向かいに住む白井邦夫」
 彼が言って僕はうーんと唸る。
それは何故か?
「待ってよ、ロダン君。この白井邦夫ってやつと彼女がどこでいつ頃知り合ったんだい。大阪だとしたら、その時点で彼女は寡婦だったわけだろう?」
「そうです」
 彼が断定して言う。
「ちょっと、それじゃ、いつ??」
「彼女が居た大分ですよ。そう、彼女は佐伯一郎と結婚していながら、この白井邦夫と通じていたんです」

 

(19)


「断定的に言うね、ロダン君…」
 彼がその言葉に首を縦に振る。
「そりゃそうですぜぇ、田名さん。なんせ僕は翌日の金曜、そう昨日早朝に新幹線へ飛び乗り、小倉で日豊本線に乗り換えて、遥々大分県の佐伯まで行って来たんで調べて色々裏をとってきたんでさぁ」
 僕は飛び上がる様に驚いた。
「君ぃ!!そこまでしたっていうの??」
 ロダンが鼻下をふんと鳴らす。それから少し得意げに満面の笑顔になった。
「ですよ!!実は旅館『小松』の住所を法主から聞いたので、ここまで来たらとことこんまで足で調べてやろうって言うのが男の意地ってやつですかね。急遽職場には新幹線から大分の叔父が亡くなったと嘘をついて連絡して、昼過ぎには現地入りですよ」
 驚いて開いた口が塞がらない。まるで旅空の下を身軽にあるく、股旅者みたいだ。
「君は、本当に過ごいね。空の下を行く股旅みたいだよ」
はっはっはっと調子を上げて彼がアフロヘアを撫でつけながら笑う。笑い終わるのを僕は待って聞いた。
「それで、現地はどうだったんだい?」
 うん、と言って顎に手を遣る。
「海も山もあってとても風光明媚なところでした。駅から降りて少し歩くと海に浮かぶように大きな大入島が見えて海側はとても風もよく気持ち良かったです。僕はレンタルサイクルを借りて街に出たんですが、いいところでした」
 彼が瞼を閉じて訪れた景色を思い浮かべるようにしているのを見て、僕は言った。
「そうかい、それは良かったけどさ、別に君さぁ…観光に行ったわけじゃないからさ…、その調べに言ったんだろう」
「そう、そうでした!!」
 目が覚めるように慌てて言う。
「そこで僕は自転車で在る場所を目指したんです。それは少し行ったDというところなんで海岸が開いでいるところです。そこに僕は行ったんです。実はそこが旅館『小松』があったところで…、実は驚いたことに今でもそこで民宿をしているんです」
「そうなの?廃業したんじゃないの?」
「僕もそう思ってたんです。そしたらそこに堂々と『小松』ってあるじゃないですか?こっちこそ肝がよじれんばかりの驚きでしたよ!」
 ロダンが両手を広げる。まるでその驚きの大きさを僕に伝える為に。
「それで…、君、勿論そこで聞いたんだろう?」
「ええ、聞きましたよ。外から店を眺めていたら白髪の夫人が出てこられたのです。おそらくここの方だろうと思って声をかけたんです、勿論、開口一番ここって廃業されたんじゃ?ってね」
「そしたらどうだったの?」
「はい、こう言われました。僕が尋ねた旅館『小松』はその後、白井邦夫って内地にある竹田のさる料亭の主人が屋号をついで、それで現在もこの様に続いているそうです。なんでもその当人は大の釣り好きで、当時はその方だけでなく県の方や企業の方をお連れになって週末になると良くここに泊まられたそうです。今僕が言った廃業の事は確かにこの宿の主人である佐伯一郎さんが亡くなられた頃あった話で、既に御両人は亡くなられたのでそんな話は誰も知らないことだけど、それが今でも細々と営業をしている繋がりだと言うことでした」
「へーーー!!」
 僕は手を叩く。
「だから僕もそうですか?と言って目を丸くしたもんだから、店のご婦人が聞くんですよ、あなた佐伯さんのお知り合い?って」
「何て言ったの?」
「何も当て何てないから、あてずっぽうで大阪にある坂上の大宗派の寺門の蓮池法主の知り合いですと言いました。するとですね…、突然その後婦人顔色を変えられて…」
 彼がアフロヘアを掻きまくる。
何かあったのか、
それを思い出す様に何度も何度も頭を掻いている。
「どうしたの?」
「ええ…」
 彼が髪を掻くのやめた。
「あなたじゃぁ、佐伯さんと亡くなられた亭主の間にできた子供の事調べに来られたの?って言うんですよ」
「どういうこと?」
 ロダンが静かに押し黙る。その沈黙のうちに何かが居るのだと僕は感じた。
それが何者なのか。
「実はですね。当時二人の結婚生活はあまりうまくいかなかったらしく、亭主の佐伯一郎氏は大の道楽と女好きが高じて色んな所に借金とか女をこさえていたらしのです。それだけじゃない、彼等には一人息子が居たが、よくよく佐伯一郎の酒が入ると時折暴力を振るわれて顔を腫らせていた」
ロダンが淡々と語る。
「彼女は子供や夫のそうした暴力や日常の諍いに相当頭を悩ましていたみたいで…。」
 僕は眉間に皺を寄せる。
何か符牒が合わないのだ。
話の内容と僕の心の中の疑問が。
「ロダン君…それで、その話が何故、この坂上の法主さんとどんな関係があるの?」
「実はですね…、佐伯一郎と百合さんとの子供は白井邦夫氏との子供だった。つまり二人だけの間の公然の隠し子だったと蓮池法主はある時、考えられたらしいのです」
「ある時…?隠し子?」
「ええ、そうです。毎週末のように同じ郷里の竹田から来る白井邦夫氏と佐伯百合さんは同じ郷里人ということもあってか仲が良かったらしいのです。それに佐伯百合さんは旦那が羨むほどの蠱惑的な美貌です。それは法主がまだ長屋に住んでいた時に二人から直に聞いたそうです。きっと夫婦生活の相談なんかもしていたんでしょう。それでいつごろか懇ろになって…実は佐伯さんとの間の子はいつの間にか二人の間にできた子じゃないかということなんです…だから佐伯一郎氏があれほど子供の暴力をふるったのではないかと…まぁ今となっては氏が酒や女の為の自堕落な生活が原因で身体を壊し遂に死んでしまったので、そのことは謎のままですが…あくまで噂ですし…」
 僕は分からない。まだ符牒が合わない。その話とこの坂上の法主とのつながりが見えないのだ。
それに彼の話し方もどこか順序だてられていない。
ロダンが言った。
「しかし、法主が最近あるものを見つけたんです」
 
有るもの…?

「それが気になって何でもつい最近も坂上の蓮池法主さんが佐賀にある本山に行かれた時、こちらに立ち寄られてその子供についてのその後の噂とか話とかやらを知らないかと言われたそうです。でも時代も古いし、記憶も定かでないからその子供が今もどこにいるのか良く分からないと答えたそうです。まぁ無理もありませんね、そんな昔の話ですので。その民宿のご婦人は法主にその秘密の子とやらに聞くしか事実が分からないんじゃないですかと言ったそうですが…」
 僕は彼を見る。
彼の眼差しが水平に見えた。それは打ち寄せる波を見つめる旅人のようだ。どこか儚くて、悲しさに彩られている。
その水平の向こうに子供を見つけたのか、彼はぽつりと僕に言った。
「ねぇ田名さん、そのイカのあたりめ懐かしい味がしませんか?」
 僕はその瞬間ぎょっとした。
 彼の突然の一言に一瞬で心臓が手で絞めつけられるような苦しさがしたのだ。
彼は続ける。
「そのイカのあたりめ…、実は佐伯で買ってきたやつなんです。業務スーパーで買ってきたやつじゃありません」
 僕はガタガタと震え出す。
 心で声がする。
そうだ、そうだなんだ。
だからやめておけって言ったんだ!!
あのかっぱ横丁の本屋で『三四郎』を見た時、僕は入り口に貼ってある張り紙を見て『三四郎』を手に取ったんじゃない、そこに僕が仕掛けたあの『三四郎』が置いてあって真っ青になり驚いて手にしたんだ。一体誰がこんなことをしたんだ。叫びたくなるのを抑えて僕は今のようにガタガタと震えた。
一体誰が僕の作ったこの殺人の為の小道具をどうやって僕の目の届くところに置いていたんだ。
そう、燃えたと思ったんだ。この長屋が火事になった時に‼!灰となって塵となって消えたと思っていたのに!!
ああ、謎はこのままにしておいてほしい。
これは『賭け』だったんだ。この『賭け』を乗り越えてこそ、僕はそれがこの平穏な暮らしを続けていけるのではないかという、そんな思いだったんだ。
人生の誰知らぬ秘密に他人は入りこんじゃいけない!!
違うかい?
ロダン君!!

「田中さん…」
 影が揺れる。
「あなたは四国の山里の生まれなんかじゃない。あなたは大分の竹田のNで生まれた佐伯百合、いや旧姓田名百合と白井邦夫との間に生まれたお子さんなんですよ。そう、あなたはあの日、さも当然のようにここにやってきた。それだけじゃない、あなたは亡くなった佐伯一郎氏から毎晩毎晩酒で白井邦夫の事を愚痴られては殴られていたかもしれないが、しかし心中恐るべき犯罪を成そうと心に秘めていた」
 誰かが足音を立てて近づくと肩を叩いた。僕の瞳孔は見開いている。
「そう、『親殺し』を成す為に」
 
(20)



「田中さん、あなたは今幾分か気分が乱れて混乱されているかもしれませんが、それでも僕が九州の大分で知った全ての事実を帰りの新幹線で組み立てていた時のような混乱なんてもんじゃないでしょう。
あなたは、全ての謎をはじめから知っている『犯人』です。そうまるで劇を作り上げる脚本家のようにあなたは最初から全てを知っているのです。
しかしながら僕はこの事件の依頼を受けた依頼主である蓮池法主の為に、事件を整理立てて報告しなければなりません。
なに…田中さん、何もそんなに固くならないで下さい。さぁ胡坐をかいて、もしよければビールでもお注ぎしましょう。
そうです。そうやって楽にして下さい。
では今から僕が帰りの新幹線で組み立てたこの事件のいきさつや背景、そしてあなたが犯した犯罪を話します。
もし何か違う点があれば、その時申し出てください。二人で共に事件の事について知り尽くすことはあの『三四郎』の時と同じように大事です。
では、始めましょう」



(21)


「事件の起こりは佐伯百合と白井邦夫の不倫が全てです。勿論、その不倫原因を作ったのは佐伯一郎と佐伯百合の夫婦生活が破綻したことにあります。もう少し夫人である佐伯百合に注釈を加えるとしたら彼女は地元竹田にある小さな純喫茶「エデン」のひとり娘で白井邦夫とは高校の頃からの顔見知り、知り合いだったのです。
彼女達は高校で知り合い、それぞれ大人になると佐伯百合は一度、福岡に出てその後佐伯へ、白井邦夫は熊本で料理の勉強に出て地元竹田に戻りました。
佐伯一郎と百合は実は福岡にあるTというホテルの授業員として一緒に働いた後、郷里の佐伯へ戻ることになった一郎と連れ立ち、旅館『小松』へ戻りました。このころ既に子供が佐伯百合の御腹の中にはいたようです。まぁ地元竹田ではいきなり『小松』に働きに出たということらしいですが、もしかしたら博多での佐伯百合には何か都合の悪いことなどがあってそれを隠していたのかもしれません。
付け足すと佐伯に戻った頃の話ですが、実は一郎の母親と言うのが佐賀にあるこの坂上の寺院の本山へ足繁く通っていて、その頃から良く周囲に『一郎が連れて来た嫁と言うのが中々の奴で、佐伯家が持っていた漁業権やら、土地、山林や挙句には別府や至るとことにある温泉の権利だの、そう言った一切合切を徐々に夫の一郎をそそのかし自分名義に変え、それを知らぬうちに金銭に変えている』とこぼしていたそうです。
さてこの百合ですが、皆さんが証言するように中々器量もよく、また蠱惑的で男にも受けがいい。その内、郷里竹田に戻った白井邦夫に連絡するようになり、旅館『小松』に郷里の商工会議員とか農林公庫の行員だとかそんなところの釣り道楽仲間を週末になると引き受けるようにして、自分は働くことなく、夫を働かせて売上は自分の懐に入るようにして、私財を肥やしていったようです。
そのころでしょうね、白井邦夫と男女の仲になったのは。もしかしたら高校の頃に既に懇ろだったかもしれません。まぁ今となっては分かりませんが。
恐らく夫の佐伯一郎はその頃の二人の仲を疑い始めたのでしょう。それだけじゃない、二人の間に生まれた一人息子にも疑惑の目を向けるようになった。その息子が日々成長するにつれ、自分と似ていないところで見つけたのか、やがて暴力を振るうようになった。それだけじゃない、酒もあおる様に飲む様になり、遂に肝臓を悪くして癌になった。
そんな夫の変貌を見るにつけて、百合は義母が足繁く通った本山を通じて、自分を大阪へ行けるように、またそこで生活ができるように働きかけた。それはやがて夫には癌による死が迫っており、その保険金は自分のものにする段取りでいた。後は自分位は全くこの旅館の経営に興味がない。あるのは自分の増えて行く金銭のみ。
またその時には既に夫が死ねば旅館『小松』を白井邦夫に買ってもらうように話をつけていたようです。その金は勿論自分の懐に入る様にです。そのことは竹田に今も住んでいる白井邦夫の弟白井幸雄氏から聞いています。なんでも一時、この『小松』を買ったことで、兄は実家の金を持ち出すことになり、大阪へ勘当同然で出て行ったのです…とね。
さて、ここからです。
二人は時を少しずらす様に大阪へ出て来た。それがこの長屋なんです。この長屋で二人は他人のように振る舞っていましたが、或る時非常に仲良く談笑しているのをここで起居していた蓮池法主が見られた。その頃二人には何も警戒心が無くなっていたのか、蓮池法主に二人は同じ郷里人で互いに高校の頃からの顔見知りだと言ったそうです。それを歳経た今も蓮池法主は良く覚えておられて、それが、ついこの前、ここで発生した火災で亡くなった白井邦夫氏の弔いをする際になって遺品の有るものを見られたとき、不意に思い立つことがあり、心を掻きむしるような疑問が湧いたのです。
それは何か?
そう、あの二人の子供ではないかという疑念の子は今どうしているのか?
何故でしょう、そう何年も忘れていたような疑問が普通突然に湧き上がるでしょか?いかがですか?田中さん。人間、そんな簡単に便利に出来上がっちゃいません。そう思いだすには何かきっかけが無けりゃいけない。
そうです、あなたはここの入居するにあたり上の寺院へ挨拶をしましたね?
その時、蓮池法主があなたとお会いしたんですよ。蓮池法主はその時、何も思われなかったが、亡くなられた白井邦夫の法要をしようとして遺品である白井邦夫の日記の一月二日(月)に記述を見て思い出された。
そう、三十年も前に母親を訪ねて正月にこの長屋に現れた少年の事を。
そしてその少年の面差しが、あなたに似てはないかと。

それから蓮池法主は眠れぬ夜を過ごされた。実はこの長屋の火災事故では不思議なことが一つだけあったのです。それは何かというと佐伯百合の姿がこの火災以後、分からなくなったのです。
あの火災で確かに白井邦夫は焼死体として発見されたのですが、佐伯百合の姿は一向に分からなかった。
警察もそれ以上の捜索はしなかったのです。一つは捜索願が出なかったこと、もうひとつは檀家さんのなかで佐伯百合が別に男が居て、今度はそこに行くことになると本人が数人に打ち明けていたと事実があったからです。
檀家の中では蠱惑的で男好きのする佐伯百合は特に女性の中では評判が良くない、だから世話になった寺院に尻を向けるように、夜逃げ同然でここから火事を幸いとして姿をくらましたのだとなり、以後、寺院でも彼女については関知することは無く、現在まで来ているのです。
不思議です。
一体、ここまでで誰が一番得をしたでしょうか?
もしや…
そう思うと蓮池法主は僕の所へ来られたのです。実は僕の劇団のパトロンはこの蓮池法主なのです。笑うかもしれませんが、今寺院では歌だのピアノ演奏だの、自分達の講堂を利用してこうした活動を良くしているんですよ。そう、蓮池法主の講堂では僕の属する劇団がそこで良く劇をやるのです。僕はそうした縁もあり、実はこの長屋にも住んでるわけで、蓮池法主とは膝をつけ合わして話ができる間柄なのです。
つまりそんな蓮池法主が私に自身の秘匿する悩みを打ち合明けられ、僕に依頼してこの長屋で起きた火災事件の調査を依頼された訳です。
そう…つまりこの僕、四天王寺ロダンは蓮池法主から依頼を受けた探偵だった言う訳です。
勿論、必要経費も、そうあなたの前に出て来た『三四郎』も蓮池法主からお借りしたものです。
それだけではない。
あのあなたが良くいくかっぱ横丁の古本屋Aの主人、名前を木下純一と言いましてね、当時あの長屋に住んでいた役者志望の青年だったんですよ。だから私が少し話を持ちかけた時、大いに喜んで協力してくれて張り紙まで貼る始末。まぁそいつはひやひやもんでしたがね、そんなにされちゃあんまりにも出来すぎですからね。しかしあなたには感ずかれることなく、ここまで何とか話を持ってこれたという訳です。
さて事件の背景はあらかた大阪へ戻る新幹線の中でこのように組み立てました。いかがでしたか?間違いはないでしょう?
そうですか。
頷かれましたね。
後はどのようにあなたが両親を殺害したか、それをこれからお話ししましょう。
さぁそのイカのあたりめ、良くお食べ下さい。
奇妙ですね、人生は。
まるでそのイカのあたりめのように舐めれば渋く、しかし噛めば噛むほど味が出てきて広がって行く。
まるで田中さん、あなたの人生のように。
それじゃ、少し失礼します。
え…?どこに行くのかですか?
安心して下さい、警察には行きませんよ。
上の蓮池法主を呼んできます。だってお約束したのです。事件についてのあらかたのあらましが分かれば呼んでくれと。
それじゃ、田中さん。ちょっと失礼します」


四天王寺ロダンはそう言って僕の前から姿を消した。
その時僕は唯、空から見える月を眺めながらロダンが歩いて行く下駄の音を聞いていた。
そう、ただ、ただ茫然としていたのだ。



(22)


季節は五月から六月に変わり、一層梅雨時期の独特の湿気が法衣の下で蒸れる時期になった。
蓮池法主は朝の御勤めを終えると、茶を喫して、自分あてに届けられた便箋に目を通した。
先月の夜、四天王寺ロダンの訪問を受けた蓮池法主は着衣もそのままに軽装の法衣姿のまま坂下の長屋へと向かった。
今その時の事を思い出している。


つるりとした頭を撫でるように吹く風の中に坂下の石造りの階段を下りる二人の下駄音が良く響いていたのを今も覚えている。
それから前を行く、縮れ毛のアフロヘアの若者の背に何度も何度も念を押す様に言った。
「大丈夫なんでしょうな?それは本当に」
 その度に背が振り返り、言うのである。
「勿論、大丈夫でさぁ、蓮池法主」
 それを何度も繰り返すうちに門を潜り、長屋に着いた。
「さぁ、法主」
 若者の声に下駄を脱ごうとすると「あっ!!」と声がした。
「どうしたんです?ロダンさん」
 その声がどこか急を告げるような声音だったので、蓮池法主は不安を駆り立てられた。
 目の前にいる若者は下駄を急ぎ脱ぐと脱兎のごとく走り出した。しかし直ぐに降りて来ると法主の側を抜け、隣長屋へ向かうと玄関を叩く。
「田中さん!!田中さん!!」
返事は無かった。首を回すが明かりは点いていなかった。
「ど、どうされたのです」
法主が不安げに声をかける。
「いやぁ…、まさか…、逃げるようなお人ではないとは思っていましたが…」
「逃げる??」
 法主は声を荒げた。それが一番恐れていたことなのである。
「ロ、ロダンさん!!まさか逃げたとでも???」
 若者の襟首を掴まんばかりの勢いで詰め寄る。
 若者は縮れ毛のアフロヘアを勢いよく掻きまわしたが、突然先程と同じように「あっ!!」と声を上げると、突然長屋の奥へと走り出した。その声を追うように法主も法衣の裾を捲り後に続く。狭い路地の道に互いの下駄音が響く。
 走り出すや、二人は路地のL字の角を曲がると、水かけ地蔵の前で立ち止まった。
薄暗い蝋燭の火の中で影が揺らいているのが二人には見える。
 若者は影に声をかけた。
「田中さん…」
 それはそこにいる男の心を乱さない様、静かに落ち着いた声音だった。
 その声にゆっくりと影が振り返るのが分かった。蝋燭の揺れる炎の明かりが影に当たり、そこに男の表情を浮かべた。
「田中さん…」
 一歩、若者が足を進めると、田中の側に腰をかがめた。
「拝んでらっしゃったんですね」
 小さく縦に顔が動く。それを見てロダンが言う。
「お母様ですね。この地蔵の下で眠る」
 蝋燭で揺れる炎が、男の顎が縦に惹かれるのを照らし出す。
 それを聞いて、ロダンが蓮池法主の方を振り返った。
「法主、ここにいらっしゃるのがあの隠し子、いや疑念の子と言った方がいいですかね、その良二君です。それからこの水かけ地蔵の下で眠るのが…、この良二君の母親、佐伯百合です」
 



(23)


 あの日の事をあらかた思い出すと、蓮池法主は便箋を広げた。それに目を通してゆく。
 それは肉筆で書かれたものではなく、パソコンで書かれていた。だから感情の起伏などを読み取ることは出来ないが、その代わり事件の報告を冷静に伝えるのには非常に適していた。
法主は数枚の便箋を広げると古びたノートを便箋と並べるように置いた。
そのノートを開く。
それは誰かが書いた日記だった。
日記の端が少し焦げて焼けているが、法主はそれを丁寧に一枚一枚捲って行くとやがてある日付の所で手を止めた。
そこで息を小さく吐くと、日記に書かれた文字にそうように指をそっと置いた。
それを目で追うようにゆっくりと心の中で読んだ。


――一月二日(月)
本日、息子郷里より来る。久々に親子三人で水入らずの食事を道頓堀のかに道楽でした。久々に会った息子は母に似て、涼やかな眼差しをしていた。
ちなみに妻も日ごろは財布の紐が固いのだが、この日ばかりは奮発したようである。
食事をしながら漱石の『三四郎』を持って自分達に講釈を垂れる、また持参した野球のバットなどを見せて贔屓球団の選手の話などするところを見れば、少し大人になったようである。
息子は妻の所で眠っている。
いつか、三人で暮らしたいものである。


蓮池法主はそこまで読み上げると次に便箋を手に取った。


蓮池法主様


 この事件についての背景は五月のあの夜に既にお話しした通りです。
 あの日、田名さんは疲労困憊ならぬ心労困憊であったので、後日、僕が田中さんよりお聞きした殺人事件のことをまとめたものを送ります。
彼が犯した犯罪は三つです。

・一つは父親(いや養父と言うべきでしょうか)の佐伯一郎殺し
・二つ目は実父の白井邦夫殺し
・三つ目は母親の佐伯百合殺し

 彼はこれらをあの少年の頃に犯していたのです。

 それでは順にお話します。



(24)


「佐伯良一殺し」

 佐伯良一は生来大人しい人物だったようです。
そんな佐伯良一ですが、しかし佐伯百合と出会ったことで彼の人生は一変しました。本当の意味でのこの一連の殺人事件の純粋な被害者であると言えます。
 彼は小さな佐伯の町で続く旅館『小松』の跡取りで法華の熱心な信者な母親のもとで育てられたのです。幼いころは身体もあまりすぐれず、その為良く子供の頃は本を読み、特に探偵小説が好きだったとこの前、大分で僕が聞きこんだ旅館のおばさん、あの方は旅館が始まった昔から働いていたようで、良く色んな事を教えていただきました。
 それで長じて家業を継ぐために博多にでてホテル勤めをしていて事業を学んでいたところ、佐伯百合が現れたのです。蠱惑的な魅力を持った彼女の出現に良一は心動かされ、恋に落ち、恐らく初めて女を知ったかもしれません。そんな喜びもあったのでしょう、彼は彼女の顔の下に潜む生来の性質を分かることなく溺れて行き、やがて気が付けば佐伯家の殆どの財産を失うことになりました。その内、彼は彼女が自分を愛していたのではなく、財産があることを利用しただけに過ぎないことが分かると、白井邦夫と間に悩み、やがて酒で肝臓を悪くし、癌となり死にました。
 僕はこの事件を解明するにあたり田中さんと話しをしていた折、『三四郎』について問いかけをしたのです。
――19と20に何か印象深い所はありますかと?
その時、彼は言ったのです。
 特に見当たらない、と。
そんなことは無いのです。彼にとっては十分、心当たる部分があるのです。文中に三四郎と男が話しています。レオナルドダビンチが砒素を有する砒石を桃の幹に注射することが。
そうです。彼はそれを避けたのです。意識的に。
それは何故か?
確かに父、佐伯良一は病院で亡くなっていますが、彼は僕に言ったのです。
「父親の血管を繋いでいる点滴チューブに昆虫標本に使う薬物を含んだ注射針を指したら少量でも死ぬのではないか」と…。
 つまり彼は文中に殺害方法と似た事が明記されていることに気づき、それを避けたのです。
 殺害理由ですが、それは特なんでもありません、彼に対する暴力と暴言でした。
 物心つく頃から暴力に悩まされていた田中少年は、父親を疎ましく思っていました。酒を飲めば呪詛のように何かを吐き、自分を殴る。
そんな子であれば、誰でもいつか父親を排除したくなるのも当たり前です。
ちなみに母親は少年には優しかったようです。勿論、白井邦夫も。
 彼はこの殺害に関してこう述べています。
「単純に、父親の暴力が嫌だった。それだけだよ。母も白井さんも僕には優しい、しかしこの佐伯良一は鬼の様だった。意気地のない奴で酒におぼれて、ただただ暴力を振るう…僕にとっては屑だった。だから癌で死ぬのが分かったから、ちょっとその時期を早めてやったのさ。そう閻魔様の仕事がいくぶんか早く終わらせることが出来るようにね」

(25)
 

「白井邦夫殺し及び母親殺し」



 ここからはあの日の事にせまります。つまり一月三日に発生した大火事とそれに隠された殺害です。ここでは二人がともに殺害されていますので、一つの事件としていいと思います。
 時は佐伯良一が殺害されてから、数年過ぎた頃です。
この頃田中少年は竹田にある佐伯百合の実家に祖父母と一緒にいたのです。
その頃、母親の佐伯百合と白井邦夫は竹田を出て、大阪に出ていました。
佐伯百合の実家は地元で小さな純喫茶「エデン」というお店をしていました。そこは小さなお店で、ごく普通の喫茶店でした。夏頃でしょうか、そんな田中少年の所に小さな包みが届いたのです。それは大阪にあるNという銘菓でした。
 それは母親が息子の自分の為に送ったものでした。喜んだ田中少年はそれを一口食べると、突然口から泡を吹きだし始め、その場で卒倒しました。
 次に目は覚めた時は病院でした。
 一体何が起きたのか分からない少年は、病院の点滴チューブを見ながら考えたのです。
あれはもしや毒だったのではないかと?
 自分が父親にしたようなものではなかったかと。
 では誰がそんなことを?
 何の目的で?
 田中少年は考えました。
 それは、大阪に居る母親と白井邦夫のどちらかしかない。
 しかし、そんなことをして何になると言うのだろう。自分は父親については心中思おうことがあって、もしかしたら間接的に死の時期を早めるお手伝いをしたかもしれないが、自分が死ぬことでどんな得があると言うのだろうか?
 田中少年は、ふとその時、思い出したことがあるのです。
 父親の佐伯良一の葬儀の際、背を向けて隠れるように誰かに電話をする母親の声を。
「ええ…そうです。保険金ですね…はい、私の口座に振り込んでください、あと、お願いしていた息子の件も…お願いします」

「僕はその時、母親が僕も保険に入れたの、だと分かった。まぁ当時僕は子供だから保険の意味は良く分からなかったが、その時シンプルに思ったのは『人が死んだらお金になるんだ』ということだった。それだけだった。ただ、その母親の言葉を思いだすにつれ、実は殺した父親が毎晩、酒を飲むたび呪詛のように吐き出していた言葉を思いだすようになったんだ」

あの守銭奴め、
俺が死ぬのを待っているんだろう。
多額の保険金を手に入れたら誰と上手くやるつもりだ?
ああ、分かっているそれをあの子にやるつもりなのだろう!!

そうか…、
僕は思った。
母親は僕を殺害しようとした、
そう、あの子のために!!

僕はその時烈火のごとく憤怒した!!
母親はそういうつもりだったのかと。
僕はこの時、自分を守るために母親を殺さなければならないと思った。

これはその時からの田中さんの心境を僕が書き写したものです。
「それから日々、僕は色んな本を図書館で読んだんだ。親父が言っていた『不倫』という言葉もその時初めて意味を知った。なんと背徳な意味なんだとね。そう大人が読むようなものから、色んな殺害の記事なんかも…、でも特に自分にとって有益だったのはいくつもの探偵小説だった。ドイル、アガサクリスティ、江戸川乱歩…それらは素晴らしい犯罪が書かれていたからね。だから僕はそれらを読みながら明確な犯罪計画を立てたんだ。それはまさにロダン君、君が言う通り「愉快」で堪らなく悦に入る境地だった、そしてやがて僕は明確な殺害方法を考えたんだ。よくも自分を殺そうとしたな、そんなにあの子が大事かと心で僕は泣きながらも、一方ではこの殺人事件の完成に心から震えていたんだ。それがこの『三四郎』だったんだ」



(26)



 蓮池法主、正直に言うと僕はあの火災は田中少年がまず母親を殺害後、その死体に灯油を撒き着火、次に白井邦夫を殺害して同じように灯油を撒いて火を点けたというのは分かっていました。それは消防の報告を見ると発火元と言える白井邦夫宅より、被災した長屋の方が炎の焼かれ方が激しかったという報告を見つけるに至り、そう推理しました。あとは少年の心に残る恨みでしょうか?図らずとも母親を先に焼くことで白井邦夫より先に灰にしたいと言う…
おそらく凶器は木製のバットであろうというのも日記から推測されます。それは火事で焼失したことでしょう。
しかし『三四郎』と日記はあの火事の中で残りました。
それが結果として三十年を経て僕達に過去の扉を開けさせることになりました。
しかしこの火災はここである偶然が田中少年を大きく助けることになりました。これは元々殺害計画には無い物で、それがこの事件を少し特徴だて際立たされるものでした。
つまり佐伯百合の失踪となるのです。
蓮池法主、この辺りは昔大阪城の外堀にもなり、あの真田幸村の真田丸の出城があった古戦場でもあったのです。それは御存じかと思います。
あの日少年は紅蓮の炎が燃え盛る母親の邸宅の下から風が吹き込んで炎が巻き上がるのが分かったのです。
見れば床下から風が吹いています。炎がその風に沿うように逃げてゆくからです、少年はその時狂気に駆られていたのです。無我夢中で床下の板をはがすとそこに平たい石と隙間から見える空洞を見つけたのです。
そうです、これはこの辺りでは偶に見つかる洞穴道、つまり大阪城から落城の時の逃げ道だったという訳です。
少年は瞬時に、その洞穴道に焼けて行く母親の死体を放り込んだ。
それから石を元に戻すと、後は焼け落ちる母親宅から避難したんです。
しかし田中少年の頭脳はこれだけでは止まりませんでした。
火災検証が終わって暫くすると、やがて田中少年はこの場所にこうした道があることを役所などに調べられれば、投げ込んだ母親の焼死体が分かるのは時間の問題です。だから先手を打とうと決め、当時の坂上の寺院へ投書したのです。
被災した母親宅の石土間付近に、水かけ地蔵堂を建て、亡くなられた方の魂を慰め、また二度とこうした火災で人が無くならないように願をかけていただきたいと。
僕はそこまで幾つかの断片的なパーツを帰りの新幹線で組み立て、やがてその確証を掴む思いで戻り次第、あの水かけ地蔵を調べたところ、年月による隙間が見つかり、そこを覗くと何かしらの形があるのが分かりました。
その事については、あの日法主と二人で水かけ地蔵の前で田中氏の言葉として確認した通りです。



(27)


蓮池法主、ここに彼の「白井邦夫殺し及び母親殺し」についてのコメントの要点を口述したものを書き示します。
しかしながらここまでに措いて僕はもうひとつの謎にぶつかりました。
そうです、
彼が犯行に至るにあたり、その意を決ることになった人物、あの子のことです。
それを勿論聞かねばなりません。
あの子とはだれか。

 「結局、僕は不安だったんだ。この三十年。ずっとね。白井邦夫と母親を殺して、僕はあの時、母親をあの洞穴道にとっさに放り込んだ。しかしいつか…、いつか見つかるんじゃないか思っていた。だから僕は現場に戻ることにしたんだ。あそこに居を構え、日々誰か来ないか、水かけ地蔵に詣でる素振りであの場所が誰にも分からないか確認していたんだよ
 それがあの『三四郎』を古本屋で見つける偶然に遭遇した。その時は驚きだったが瞬時に閃いたんだ。これを持ち帰り誰かに話したと仮定しよう、自分は犯人でありながら、もしこれが誰にも分からないものであるのならば、僕は犯罪者でない人生を送ることができる。そう、これは君が言うように『賭け』だったんだ。僕がこれから平和に生きて行けるかどうかのね…、
トリックは本当に子供じみていたね。そりゃそうさ、子供の頃のものだからね。でも少しばかり自信はあったけど。だから君がこれに取り組みだした時、解けるもんかという『愉快』さと悦に入ってしまった。君のなぞ解きを助けるつもりなんかこれっぽっちもなかったけど、君が解いてゆくのを見る度、何度も何度も叫びたくなった。
でも結局、僕は『賭け』に負けてしまった。ロダン君、僕は君の話を聞きながら君の活動力は僕の常に急所を歩き回った、そう、本当に君の足音が聞こえるようだったよ。
さて君が今知りたいのは自分が解いたことではなく、
あの子のことだろうね。

 そう、あの子とは誰か。
 最初に言っておくよ。
 僕は間違いなく、佐伯良一の子供さ。間違いない。あの二人の隠し子なんかじゃない。
 そう、あの子こそが母親と白井邦夫が高校卒業後、福岡で隠れて生んだ子供なのさ。
 僕は一度だけ会ったんだ。
 昔、福岡で。
 目のぱっちりとした母親に似た美しい少年だった。
 彼の名はもう忘れた。
 しかし、
 あの守銭奴のような女である母にも、愛情を注ぎたくなるものがいたなんてね。父親も僕も結局そんな彼の為の『銭』でしかなかったことが、僕の母親への殺意を促したんだよ。白井邦夫は僕には正直どうでもよかったけど、幾分かこんな僕にも正義の心があるようなんだ。そうさ、亡き父親の仇を討ってやろうと言う、変な正義感がね。
 結局、僕は得をしたのか損をしたのか分からない。
 母親の得た財産は全てその子が持っていたのだから。
 それじゃ、最後だね、ロダン君。
いや小林君。
 君があの晩、蓮池法主の横で僕に言ったこの台詞僕は生涯忘れないよ。
 なんせ、法主でさえ驚いたんだからね。
君は言ったんだ、アフロヘアを掻きながら。
――そう、田名さん、ちなみに僕の名前ですが、四天王寺ロダンと言うのは正しい名前ではありません。
僕の名前は正しくは小林古聞(こばやしふるぶみ)。
あの江戸川乱歩の小説に出て来る名探偵、明智小五郎の助手を務めた小林少年の遠縁にあたるものです。
何せ、四天王寺ロダン何て偽名ですからね。もしこの辺りで本当に四天王寺って人が出てこられて、もし僕の事を知らないなんてあなたの前で言う様なものなら、僕はたちまち疑われる。
だからあなたにお願いしたんです、田中さん。僕を下の名前の『ロダン』と言ってくださいとね。


『ありがとう』と言わせてくれないか。
 僕は自分が隠した三十年を君が全て白日の下にさらしてくれたことに対して、犯罪者だというのにすごく感動しているんだ。
 そう、本当になんとも愉快でたまらないんだよ。
 本当にありがとう、君。
僕は刑務所に行くだろうが、いつかまた君とあの銭湯の湯船に浸かり、互いに再会できるのを楽しみにしているよ
ではそれまで、
さようなら、
名探偵殿  」



蓮池法主への報告となる便箋はここで終っていた。
法主は読み終えると便箋を静かに机の上に置き、茶碗を口に運んだ。
茶の渋い苦みが喉を濡らすと茶碗を置き、やがて手を合わせて、小さく経文を唱えた。
それは低く声音で散華した魂への手向けだった。

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

 南無妙法蓮華経








(28)



 あとがき


M社新聞記者:佐竹亮
私がこの事件の事をはじめて勤めの新聞社で聞いたのは田中良二が自宅の長屋で自ら首縊り(くびり)自殺して、一月(ひとつき)が過ぎた頃である。
同僚のMより、三十年前起の正月に起きた或る長屋の火災事故に親子殺人が隠されていると聞き、私は大いに興味を持った。もし内容が面白ければ新聞に記事として載せたいと思った。
おりしりも大阪では天神祭りの日であり、浮き立つ街の群衆を抜け、空堀付近の坂上にある寺院へと赴いた。
そこには大きな寺院にふさわしい品格のある蓮池法主がおられ、私がこの件で取材をした時は、ちょうど亡くなった田中良二の為の供養の四十九日法要を営んでおられた。
私は小一時間程、茶を喫して部屋で待ち、やがてそこに蓮池法主が現れになった。
法主は私に「この件について記事にされるつもりか?」と聞いたので職業上そうしたことは止む得ないことであるから正直に「記事にします」と答えた。
法主はそれを聞くと「故人の名誉があるとは言え…」とおっしゃり「しかしながら全ては全て亡くなられたので分かることはお話します…」ということで伏せることは伏せながらも事件のあらましと、その解決に至った道筋を簡潔に教えてくれた。
私はそれらを書き写しながら、時に不明不都合な点や、要領を得ないところはその時々で聞いた。
 あらかたそうしたことを聞き終えると私は「結局のところ一体誰が得をしたのか?」と伺った。
 話を聞けば家庭で起きた不和であり、男女の睦ごとの不一致や個性の強さが引き起こした、別段猟奇的ともいえない普通の金銭目当ての殺人であると思えた。
「その通りです」蓮池法主はそういうと茶を一服して、私に言った。
「しかしながら平凡であるということが何よりも怪奇的なのです。それもこれらが年端も行かぬ少年の頭脳で描かれ、組み立てられたという点が少年犯罪としての立派な大人の猟奇殺人として仕上がっているではありませんか。またこうしたことが未解決であったということはいかに世の中の隙間が深いと言うこと、それらはこれからインターネットなど作り出す未来においてもこうした殺人は未解決で存在できる可能性があると言うことの証なのです」と言った。
「だってほんの三十年前ですよ。人間がそれ程進化していると思いますか?あなただって平成に変わる瞬間をテレビで見ていたその時代の事ですから、それからどれほど経っているか」
 

 私は蓮池法主が言われた「あの子」について先程ようやく調べ終えたところだが、彼自身は特別小説のように話題をさらう様な話は殆ど無く、博多から神戸の方に大学に出た年、不運にも阪神大震災に見舞われ命を失った。
 彼は成長につれて自分に足して足長おじさんがいることを周囲に漏らしていたらしい。生後、博多の或る家庭に養子縁組された彼は里親の元で、金銭に不自由の無い生活をしていたそうだ。
 しかしながら彼が佐伯百合から受け継いだ財産は手にすることは無かった。その財産は結局里親に管理され、里親によって散々させられた。せめてもの佐伯百合に対しての慰めとしては、彼の大学の入学費用の一部に当たられたこと事かもしれない。


最後になるが私は寺院を後にする際、玄関口で蓮池法主に聞いた。
「これらの事は全て良く調べられていますが、それは法主様の方でお調べになられたのですか?もしかして誰かプロの方に?」
 法主は首を横に振られ、私に言った。
「私の友人に頼みました」
「友人に…そうでしたか。蓮池法主、是非ですね、そのご友人にお話を伺いたいものです。すいませんが…ご友人の御名前は?」
 法主はそこで不思議そうに頭を捻られた。捻りながら私に言うのである。
「実はその御仁…、名前を『四天王寺ロダン』と言われましてな。しかしながら、あの日以来…ぷつりと私の前から姿を消されました。以前まではちょくちょくこの講堂で劇をやられて良く来られていたのに、あれ以来とんと来やせん…それに彼のその名は役者名で本当の名があるんですが…」
「本当の名があるのですか?」
「ええ…、そうなんです、何といったかな…変な髪形をしてますが何でも高名な探偵の方の助手の遠縁とかで…」
 そう言って数秒、立つすくんでおられたが、結局「忘れてしもうた」と言って笑われた。
 その時の法主の何とも言えない笑顔が、私の取材の中で凄く印象に残った。


 私はそのまま寺院を出て長屋に向かって坂下の石畳の階段を下った。するとその時階段の石畳を鳴らす音が後ろから聞こえるので振り返ってみたが、しかしそこには誰もいなかった。
なんとも不思議なことがあるのだなと思うと代わりに空からぽつぽつと空から雨が降って来た。
 私は雨に濡れるのを避けるため、急いで坂下を下りてゆきながら、途中、風呂桶を担いだ若者とすれ違うと、頭を抱え込む様に一目散に群衆の中に駆け込んで行った。

 今思えば…、
その時すれ違った人物が彼であったのではなかったかと思った。
話を聞ける機会を失った、まさに臍を噛む思いである。

法主は私に言ったのである。
『彼は変な髪形をしてます』と。

そう、すれ違った彼は縮れ毛の大きなアフロヘア。
まさに法主の言う『四天王寺ロダン』その者の姿だったからである。

四天王寺ロダンの足音がする / 『嗤う田中』シリーズ 

四天王寺ロダンの足音がする / 『嗤う田中』シリーズ 

  • 小説
  • 中編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-11

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