色彩王国短編集

加月ゆずみち

  1. 影の魔女と白き牙狼
  2. 明の才媛と彩の賢者
  3. 才媛と賢者と兄妹
  4. 継承
  5. 無題

キャラクターに焦点を当てた短編集。
ゆるゆる設定、ご都合主義の産物です。
軽く読んでください。
さりげなく、追加していきます。

影の魔女と白き牙狼

 色彩王国≪ファルベ≫。
 歴代の聡明な≪虹の女王≫の統治により、その平和は千年以上になる。
 大地を支えるのは、天まで届かんばかりの巨大な大樹であり、そこに宿る精霊夫婦は、信仰の対象になっているほどだ。
 その王国に漆黒の帳が落ち、月上がりだけが皓々と降り注ぐ。風もなく雲もない静かなある日。
 王国の外れに位置する黒き森と白き山で、小さな再会があった。

 ◇◇◇

 黒き森――そこは恐ろしき≪影の魔女≫の棲家。決して近づいてはならない。
 白き山――そこは誇り高き≪白き牙狼≫の棲家。決して近づいてはならない。

 王国の人々は、その二つの場所には決して近寄らない。それこそ、赤子の頃から怖い言いつけとして、聞かされる話だからだ。
 実際、森には偏屈で嫉妬深い≪影の魔女≫が住まい、白き山には、冷厳たる誇り高き≪白き牙狼≫の狼たちが住んでいた。
 その白き山から、一匹の狼が魔女の家にやってきて、歩みを止める。白狼族の長だ。
 大きな身体は純白の毛に覆われ、瞳は銀色。赤子であれば丸のみできそうな鋭い牙。

「久しぶりだな、影の魔女」

 狼は響く心地よい低声で挨拶をした。
 だが、答えたのはつれないひどくしゃがれた声。

「あいさつなんぞいらないよ。さっさとおし。あたしは待ちくたびれてんだい」

 ≪黒き森≫の奥にある、さびれた一軒家。その入り口の前に、小柄で醜く皺だらけの老婆が佇んでいた。腰は曲り、薄汚れた外套を羽織っている。
 狼は老婆の間近に歩み寄ると、鼻先で足元に触れた。そのまま横たわり、老婆が乗りやすいように背を下げる。
 狼が一つ鳴くと、どこからともなく風が吹き、老婆の身体を持ち上げた。そのまま白狼の背に乗せると、老婆は容赦なく純白の毛を引っ掴んだ。
 白狼は音もなく立ち上がると、ゆっくりと走り出す。行く場所はすでに知っているようだ。老婆の偏屈顔も、この時は真剣さを帯びていた。
 二人が目指すのは森のさらに奥、山脈のふもとに近いある場所だった。黒い木々を抜け、黒岩を越えていくと、そこに通じる。
 黒き森と白き山の境にある秘密の泉。そこは、二人とって大切な場所であり、彼らだけが知る特別な場所だった。
 ≪満月の泉≫と呼ぶ、清澄な水溜り。
 山脈から流れる雪解け水が、岩のさけ目から吹き出し、水溜りとなって流れているのだ。
 着くと同時に、老婆は勢いよく狼の背から降り立った。とっさに転びそうになるのを、狼の頭が支えてもらい立ち止まる。
 老婆はいきなり服を脱ぎ捨てると、一糸まとわぬ姿で、泉の中へと入っていく。その手にはいつの間にか何かが握られていた。
 白狼はそれを見守るように、その場で体躯を伏せる。
 二人が見上げるのは夜空――空に浮かぶ真円を描く銀月。今夜の月は満月だ。
 老婆はその時が来るのを、待ちきれないかのように、必死の形相で月を見上げる。
 そして月が天上に迎えるその時、待ち望んでいた変化が訪れた。
 月影を湛えていた水面が、淡く輝き出し、幾重に波紋を打つ。月と水面が眩い光に満たされると、不思議な音が響く。

 リィン、リィィン、リィイン……――。

 不思議な余韻を残す鈴の音。それが周辺になり響き共鳴する。最高潮に鳴り響く時、老婆が握っていた『それ』を突き上げ鋭く叫んだ。

「初代虹の女王の祝福を。我に一時の自由を。呪い枷より解き放てっ!」

 彼女の手に握られていたそれが輝き、月明かりの揺らぎとともに、老婆の全身をつつみこんだ。

「ああ、うあああ……っ!」

 絶叫とともに陶器が割れるような音。幾度かの激しい明滅の後、唐突に静寂が訪れる。光の浸食が止まると、湖の波紋が消え、輝いていた『それ』も元に戻った。
 すべてが終わっていた。
 しかし――湖の中にいた老婆の姿は一変していた。
 漆黒の長髪に、黒瑪瑙(くろめのう)の瞳。白雪のごとき柔肌。華奢な身体つきに、豊かな双丘を持つ立ち姿。荘厳でありながら妖艶な黒の美。
 その容姿は、虹の女王とは瓜二つであり、真逆の相似形(そうじけい)。影の魔女の真の姿である。

「初代も酷なことをしたものよ」

 老婆の変貌ぶりに憂いを含んだ眼で、白狼は見つめた。
 湖から上がった魔女は、濡れた黒髪を軽くしぼり、脱ぎ捨てた衣服をタオル代わりに身体を拭く。
 魔女がずっと握っていたのは、初代≪虹の女王≫に与えられた、王国の秘宝の一つ≪無彩花≫。
 銀茎と白と黒、最後一つは空洞になっている色花弁。
 百年に一度、影の魔女の姿は呪いから解放される。
 初代虹の女王が残した魔女への赦しであった。そしてそれを成し得るのは、月と初代が創りし秘宝の力。すなわち無彩の色彩花である。

「美しいな、お前の姿は」
「あなただけよ。わたくしの真の姿を知るのは」

 寂しくも優しい魔女の笑顔。姿は二十歳前後の女性であるが、創世の初期から生きている。
 その精神は本質が現れたことにより、穏やかで優しく気弱な一面に戻っていた。ただ、孤独に震える娘がいるだけだ。
 一糸まとわぬ姿を見た、白狼の心臓が高鳴る。愛するがゆえの熱情とともに、たぎるような情欲が支配する。
 のそりと伏せていた体躯を上げると、大きな白狼の全身が眩く光を放ち、瞬く間に姿を変えていく。人の姿へと。
 純白の長髪、頭からは獣耳がつき、瞳は鋭い銀色。纏う衣服は白一色であり、唯一腰に差した黒晶剣が、異様さを醸し出している。
 雄々しい立ち姿。
 白狼も魔女も、どちらも百年ぶりに正体をさらした。
 人の姿をした狼に、たまりかねたように若き魔女が飛びつく。そのまま唇を貪り合うと、草地へお互いの身体を押し倒す。
 そのまま、再会の歓喜と悲哀と、様々な感情や魂のつながりを確認しながら、互いを貪り合う。
 百年一度の満月の夜。一晩にも満たぬ短い時間。それが二人に許された、再会の刻なのだ。
 それはお互いに愛し合うことであり、想いとつながりを確認し合う行為でもあった。
 つながっているのだと、決して独りではないのだと、魔女と狼に知らせるために。
 若き魔女は何度も咽び啼く。そのたびに白狼は愛と誓いを捧げる。
 白き人狼は何度も精を放つ。そのたびに魔女は快楽と彼の熱に打ち震える。

「わたくしはまた歪んでしまう。この姿も感情も醜くなってしまう……恐い」

 行為を終えても尚震える魔女の身体を、白狼の男が自らの脱ぎ捨てた白衣にまとわせる。

「眠れ。朝を迎えてもお前が歪んでも。私はそばにいよう。お前が目覚めるまでは」 

 白狼の言葉とともに、景色が揺らぎ、二人は魔女の古びた家に戻る。白狼は、魔女を古びた寝台へと横たわらせ、その手を強く握りしめた。
 男は朝を迎えれば、白き山へ帰らなければならない。牙の長として。厳しい雪山には数少ないものの、白狼の一族が暮らしているのだ。
 白狼に涙を拭われ、魔女もまた強く手を握り返した。そして瞼をつぶり、静かな時間が過ぎていく。やがて、魔女の全身から力が抜けていき、穏やかな安息が訪れた。
 ただ白狼はそれを見守り続け、動かないでいた。静寂だが狂おしいほどの時間。確実に別れは迫っているのだ。
 そのまま時が止まればいいのに、と思う。だが現実は無情で、空が徐々に白み始める。
 雪山が輝き、黒き森にも爽やかな朝が忍び寄る。やがて太陽が顔を出し、本格的な朝が訪れる。
 魔女の姿は、室内に入り込む朝日を受けると、全身に呪いを焼きつかせる。
 眠ったまま姿は束縛され、老いていき、身体も小さく歪んでいく。それでも白き狼は、彼女の手を放さない。
 ふと、魔女の身体が揺れて、しわだらけの瞼が開いた。それは濁った灰色。澄み渡った黒瑪瑙は消えていた。
 老婆は一瞬、警戒したように白狼を見つめ、すぐに力を抜く。だが警戒を解いたわけではない。

「なんだい、お前かい」
 
 しゃがれた声。あれほどの啼いた極上の美声は封じられている。すべては呪いによって元に戻ったのだ。

「起きたか。よく眠れたか?」

「うるさいね。さっさと帰りな、お前の見守りはあたしにはいらないよ。ほらっ!」

 老婆になった魔女はすっかり歪んだ口調で、白狼を追い立てた。

「邪魔をしたな」

「山へお帰り。二度と来るんじゃない!」

 白狼は気にした様子もなく、ゆっくりと玄関の方へ背を向けた。
 家を出るその瞬間、足を止めて振り返る。銀の瞳に鮮明な熱情を湛え一言。

「愛している、ノワン・ブラシュ・トルミア」

 老婆にそう言い残し、白狼は山へと帰っていく。玄関から外に出て、老婆は遠くなっていく姿をじっと見つめていた。
 歪んだ感情と思考を抑え込み、影の魔女はささやく。

「愛しているわ、シュネー・トライデン・キュール」

 しゃがれたささやきは、すぐに森にとけてしまう。
 狼の姿は完全に雪山の中に消えていき、老婆は背中に腕をまわして、ゆっくりした歩みで家に戻る。
 また始まるのだ、陰鬱な日々が。影の魔女として、孤独にありながらも虹の魔女を羨み、妬み憎む日々が。王国に住む人々の幸せを忌まわしく思う日々が。
 それでも、白狼は白き山中で見守ってくれている。影の魔女のことを、愛してくれている。

 ――だから、願うのならば。
 ――どうか、真の呪いから解かれる時が来ますように。

 心の奥底に眠る、魔女の真の願いは、いつか届く時が来るのだろうか。それは魔女自身にも、白狼にもわからない。
 変化の時が訪れるのは、まだ先の話であった。

明の才媛と彩の賢者


 色彩王国『ファルベ』。正式名はファルベ王国という。
 歴代の聡明な『虹の女王』の統治により、その平和は千年以上になる。大地を支えるのは、天まで届かんばかりの巨大な大樹。
 そこに宿る精霊夫婦は、信仰の対象になっているほどだ。王都にはにぎわいのある街が広がり、中心にあるのは、女王が住まう『白亜城』。
 その上には『虹の架橋』がかけられ、『空中庭園』へと通じていた。

 さて、王国には古くから魔法使いが存在する。王国にいる有名な魔法使いは何人か存在するが、最も有名な魔法使いは、忌み嫌われる『影の魔女』だ。
 しかし、彼女の存在は全く別次元のこと。まず、誰もが怖れて口を閉ざし、話に出てくることはない。
 だから一般的に知られている魔法使いといえば、『明の才媛』と『彩の賢者』のことである。この二人はとても有名だった。

 『明の才媛』は、歴代の女王の良き相談相手として、ずっとそばに在り続けている。
 その麗しい美貌は見る者を引き寄せるが、彼女は自分とある人物だけには、徹底して厳しいため、王城一の苦労人とされていた。

 一方で『彩の賢者』は、王国一の魔法使いであり知識者だ。実力は確かである。
 本来は王城に勤めているべきだが、ほとんど勤めたことはない。自由奔放、傍若無人。女王の前であろうと丁重な態度はとらず、友人のごとく接する。そして、彼の最大の悪癖は放浪癖であった。王国で知らない話ではない。

 『虹の女王』は彼を召喚するために、伝言を封じた鳥を飛ばしたが、その返答が送られてくることはなかった。
 これは不遜行為にあたるはずだが、女王は怒ることも慌てることもなく、一人の魔女を呼ぶことにした。『明の才媛』だ。
 女王にとって信頼を置く相談相手。そして、『彩の賢者』の正確な居場所を常に知ることが出来るのは、『明の才媛』だけなのである。

 今回、困ったことが起きた。王国の書庫から新しい古文書が出てきたのだが、古代文字で書かれており、誰も読むことが出来ない。
 これを読めるのは『彩の賢者』だけだったので、彼を王城へ呼ぶ必要があった。

「誠に申し訳ございません!」

 深々と謝罪したのは一人の女性。『明の才媛』その人だ。彼女は今回、王城に呼び出されてすぐに謁見の間へ参じた。
 そして女王と面会するなり、深く謝罪するのだった。とても怒りに満ちた顔で、

「強制的に呼び出しますので、お待ちくださいませ」

 才媛は杖を空高くかざして、高らかに怒鳴る。

「『元』我が半身に告げる! 火急の用にて王城へ来い! ごねるようなら娘には会せんぞ!」

 杖が輝き、魔法陣が現れる。それは強く光ると背の高い男が現れた。真っ直ぐな金髪に紫色の双眸。女を落としそうな優男風の美貌。黒い長衣をまとう姿。

「リュミエル! それは酷い!」

 男は途端に情けない顔で、『明の才媛』に飛びついた。

「黙れ」

 才媛は振り上げた杖で男を殴り飛ばした。ゴスッと鈍い音がして、男は吹っ飛ばされる。しかし彼はめげずに叫んだ。

「私たちは『元』半身じゃないだろう! 今もこの先も無二の半身なんだから!」

「馬鹿者。ここは陛下の御前だぞ!」

 女王の前であろうとも、男の慌てぶりは変わらない。才媛にしがみついてわめく。男を黙らせるため、才媛は杖を振り上げた。頭に打ち落とされて星がきらめく。
 ちなみに、才媛と賢者の間には子どもが二人いる。三歳になる娘は、未だに父親の存在を知らない。
もう一人の子どもは息子だ。こちらはすでに成人して、王城に勤めているのだが。

「痛いよ、リュミエル! それにしても、私を呼んだ理由は?」

 頭をさすりながら彼は才媛に尋ねてくる。彼女の顔が引きつった。

「忘れているのか貴様。女王陛下から直々に召喚があっただろうが! なぜ無視した!?」

「ああそれか。ちょうど昼寝していて気持ち良かったからね」

 ようやく思い出したのか、彼はぞんざいにのたまった。
 怒りが頂点に達した『明の才媛』は、瞬時に一枚の用紙を差し出した。達筆な字で『離婚届』と書いてある。

「離婚だ!」

「いやだよ」

 突き出された紙を賢者は細かく破り捨てた。ものすごい早業だ。

「陛下の用件は一体なんなのかな。私が本当に必要なのかい?」

「貴様でなければできんことだから、呼んでいるのだろうが!」

「リュミエル、ヘルクラー。夫婦漫才は後でやりなさいな」

 永遠と続きそうだった二人のやり取りを、おっとりとした口調で女王が諌めた。

「……申し訳ございません、陛下」

「久しぶりだね、陛下に騎士殿」

 途端に恥じ入るように謝罪する才媛。それに対して、賢者は手を上げて軽々しくあいさつした。
 玉座に腰掛ける女王の、下段に控えるのは勇気の騎士だ。虹の女王の夫であり護衛でもある。彼は今まで黙っていたが、かすかに不快そうな顔をみせ、
「まあな。賢者殿」
 と、ぞんざいに返した。二人とも最初からそういう呼び方だ。

「真に。そなたの顔を見るのは久しぶりのこと」

 一方で女王は不敬など気にした様子もなく、優雅に微笑んだ。

「今回王城の書庫から、古文書が新たに出てきたのですが、誰も解読できません。そなたにしか頼めないことなのです」

「へえ、古文書ねえ」

 女王の目線で勇気の騎士が頷き、古文書を乗せた盆を賢者に持ってきた。
 賢者は古文書を受け取ると、用意された椅子に座る。隣には才媛がおり、腕で押して引き離そうとするが、彼は動かない。仕方なく自ら距離をとっても、今度は吸い付いてくるようにくっついてくるのだ。
 二人のやりとりを、全員は無視していた。というか、いつもの光景なのである。怒れる才媛と飄々とした賢者。この二人の関係は昔から変わっていない。彼らを見た誰もが思うのだ。明の才媛は王城一の苦労人であると。

 ふと、賢者の顔が真剣になり、古文書を読み始める。こうなると王国一の賢者といわれる風貌があらわになるのだ。周囲を圧迫するほどの緊張。この時ばかりは、彼の邪魔にならぬよう、明の才媛は何もしない。ただ、周囲の緊張を和らげるために、ほんの少し力を溶け込ませる。
 今の状態で声を掛けたら、真剣かつ神経質な賢者は、邪魔されたと不快になるのだ。
 だから、彼の緊張を和らげることが出来るのは、隣にいる彼女だけなのだ。
 しばらくは謁見の間に重い空気が漂っていたが、リュミエルがそっと顔を上げて、虹の女王に向かって頷いた。彼女が頷いたのは、ヘルクラーに対して声掛けをしても大丈夫だ、という合図だ。
 一見すると変わっていないように見えるが、彼の微細な変化をとれるのも、長年の付き合いがある才媛だからこそ。
 女王も鷹揚に頷き返し、賢者にそっと声をかける。

「ヘルクラー、解読できそうでしょうか」

 彼は我に返ったように顔を上げて、女王に頷いた。

「大丈夫だよ、陛下。その前に、紙と羽筆(ペン)を持ってきてほしい」

 賢者の要請で、後方に控えていた侍従が紙と羽筆を持ってきた。
 彼はぶつぶつと呟きながら素早く羽筆を動かしていく。
 隣にいる明の才媛はそっと覗き込んだ。書物には古代文字が書かれている。
 リュミエルであろうとも、王国初期に使用されていた、古代文字を翻訳することはできない。彼女には、ただ難しい羅列にしか見えない。むしろこれが、文字なのかと思えるほどだ。
 賢者に教えろ、とごねたことがあるが、彼は決して教えようとしない。そこは触れてはならない、彼と初代虹の女王との『約束』なのだという。

「間違いなく秘宝に関する記述だね。初代虹の女王の筆跡で間違いない。ざっと翻訳したものだけど、大体の意味はわかるだろう」

 賢者が翻訳した用紙を、女王も騎士も才媛も覗き込んだ。

『色を塗るには、木と毛、色を作る板、光る水を入れた黄色の入れ物、色づく花のすべてが必要』

『すべての道具がそろえても、色づく花は光らない。本当の姿を見せるのは、この空間にある、わたしの分けられた身が、呪いから解かれた時である』

「……色づく花とは、この『虹彩花』のことですね?」

 『虹の女王』が自らの手に持つ、美しい鮮やかな花の秘宝を示した。これこそ、王国の秘宝中の秘宝たる『虹彩花』だ。歴代の虹の女王しか持つことを許されず、他の者は触れることも許されない国の宝。

「そうだね。他の秘宝に関しては、もっと調査が必要だ。何しろざっと翻訳したものだから」

 賢者の言葉に女王は重く頷いた。
 なぜなら現在、秘宝の多くは紛失してしまっている。所在が判明しているのは3つ。
 虹の女王が持つ『虹彩花』、勇気の騎士が持つ『白水晶の剣』、ここにはいない『白き牙狼』が持つ『木黒晶の剣』だ。
 後は伝説にいわれる無彩花の存在。『影の魔女』が持つといわれているが、真意は不明である。
 影の魔女は忌み嫌われる存在だから、誰も知らない。知ろうともしない。

「これに関しては、今後息子に調査させてくれ。あいつなら、喜んで喰いつくだろうから」

「では、ノルト・リヒトに任せましょう。リュミエルもそれで良いですか?」

「はい、ノルトに任せて頂いた方が、よほど安心できます」

 女王の確認に、才媛は何度もうなずいた。隣に立つ半身より、息子の方がはるかに信頼できる。

「じゃあこれで、私の役目は終わりだね?」

 念を押すように女王に訊ねる賢者。

「ええ、助かりました。彩の賢者、明の才媛」

 虹の女王の丁重な一礼に、ヘルクラーはぞんざいに頷いた。それをすかさず、明の才媛が後頭部を引っ掴み、二人そろって深々と一礼するのだった。
 そのまま謁見の間を後にする、彩の賢者と明の才媛。才媛はすぐに賢者の服を掴んだ。

「おい、逃げるなよ?」

「なぜ? 私の役目は終わっただろう」

 意外、というように彼は才媛を見た。途端に彼女は怒り出す。

「貴様はこの国の『一応』守護者だろうが。どうして一か所に留まっていられないんだ!」

「外から監視するのが私の役目だろう? 何より王城にはリュミエルもノルトもいるし」

 最もな理由をつけて言う賢者だが、真意はただ早く、この堅苦しい王城から逃れたいだけだと、才媛はよく解っていた。

「たまには、賢者らしく王城に勤めてみろ。そうすれば私も見直すかもしれんぞ」

「ふむ……。それなら条件があるよ、リュミィ」

 考え込むように彼は提案した。

「……なんだ?」

 愛称で呼ばれた瞬間に、嫌な予感を覚えつつも尋ねる。

「せっかく会えたんだから、しばらく籠ろうじゃないか。二人きりで」

 笑顔を向けるヘルクラー。
 リュミエルは三度、無言で杖を振りかぶった。彼女の一撃は、見事にヘルクラーの顎にぶちあたる。メゴッと音がして彼は吹っ飛んだ。

「ひどいよ、リュミィ!」

 顎を押さえつつ叫ぶ賢者。

「私には貴様なんぞより、ポラルも仕事も待っているんだ。子育てと務めで忙しい」

「娘は私も大切だよ! だけど私と仕事、どっちが大切なんだ!?」

「仕事に決まっている。王城の務めだ。陛下にもしものことがあってみろ」

 才媛は突き放した瞳を向ける。だが、怖れることもなく笑みを深める賢者。

「陛下は騎士殿がいるから大丈夫だって。それに娘も……、レリットにあの子を頼んでいるんだろう?」

 レリットとは、リュミエルに付き従うメイドだ。万能メイドは、子どもの扱いも類稀なるもの。
 確かに信頼できるし、しばらくの間は娘も大丈夫だろう。彼女に懐いているようだから。
 実際、彼女に預けがちで、娘にあまり会っていない。しかし、そういう問題ではない。

 だが、ヘルクラーの顔を見た瞬間、彼女の口は何も言えなくなった。
 彼はいつも微笑んで飄々としているが、今、彼女の前で見せる顔は、明らかに異なるもの。笑みは消え去り、真剣そのものだった。
 とにかく放浪癖のある賢者だが、決して浮気はしない。それは才媛も同じ。どれほど愛想が尽きようとも、彼を憎むことも嫌うこともできないのだ。
 それを拒否できない自分が哀しかった。もし、新たに半身を得られるのなら、仲睦まじい大樹の精霊のように、お互いを尊重し絆を忘れない、そういった半身が欲しいものだ。
 しかし――。

「リュミィ、久しぶりなんだから。だめ?」

 紫色の妖しい輝きと、優しいが熱を帯びた顔。そっと頬に手を当てられ、撫で上げられていく。
 ぞくりと背筋が粟立ち、力が抜けていく。思わず彼の胸に顔を引き寄せた。感じる温もりと、馴染みある彼の持つ強大な力。悔しいことだが、それに包まれると安心する。
 しばらく、お互いに触れ合っていないのは事実だ。そう思ってしまえば、胸の裡に寂しさと恋しさが浮かぶ。半身は半身なのだと突きつけられる。
 ヘルクラーはやさしく彼女を引き寄せた。

「……今回だけ、だからな!」

 彼の顔を見ることなく、リュミエルは小声で叫んだ。途端に破顔するヘルクラー。軽々と彼女を抱きかかえる。

「ああ、なんでこんなのが、私の半身なんだ!?」

 大きな熱を浴びながら、リュミエルは心から絶叫した。

 その後、王城内でとても珍しい光景が見られたという。なんと彩の賢者が、王城内で仕事をしている姿を、たくさんの人間が見かけたのだ。お化けでも出たんじゃないかと噂されたが、彼の隣にはうんざりした様子の、明の才媛がいたとかいないとか。
 とりあえず二人を見た人間は、やはり同じ思いを抱いたという。明の才媛は、城一番の苦労人であると。

 【おわり】

才媛と賢者と兄妹


「やあ、久しぶりだ、我が息子」

「出て行ってください」

 平凡な顔立ちの青年がそっけなく言い放った。しかし父親によって、己にかけていた変装魔法が強制解除された。
 父によく似た顔立ちだが、髪と瞳の色は母親譲りの容姿があらわになる。
 虹の女王とその側近以外は、賢者の息子たるノルト・リヒトの真の姿を知らない。厄介ごとを避けるために、彼があえてそうしているのだ。本来の姿だと女が言い寄ってきてうるさいし、父親と比べられるから、心底嫌だったのだ。
 放浪癖でなよなよしくて、ふざけており父親とも思えない存在。最大の敬意を払うべき、女王や騎士に対してもあの口調に態度。何よりも許せなかったのは、母に散々たる苦労を掛けているところだった。幼少のころから賢者とは疎遠だったので、未だに他人という感覚がぬぐえない。
 彼を唯一認めるのならば、魔法の腕と知識の豊富さだろう。そこだけは認めざるおえない。
 ノルトに魔法を教え、王国に関わる古き知識や技術を伝えたのは父親だ。賢者から直々だった。まだ幼いノルトに教えると、厳しい口調で言い放った。あの母が止めるほどそれこそ厳しかったのだが。でもそのおかげで、ノルトは王城に勤める魔法使いであり、文官の一人として働いている。
 己の息子に呆れた視線を向ける賢者。

「やれやれ、相変わらずだな。せっかくこの父が、顔を見に来てやったのに」

「さっさと帰ってください」

 ノルトは再度、自分の姿に変装魔法をかけようとしたが、父に邪魔された。
 苛立ちから、父を思わずにらみつけた時、彼のいる後ろの扉から、助っ人が現れた。

「ここにいたのか、ヘル」

 母親のリュミエルが呆れた顔で入ってきたのだ。

「やあ、リュミエル」

 のほほんと父があいさつする。

「息子の邪魔をするな。それとふらふら歩き回るな」

 慣れた様子で、母に襟首を捕まえられる彩の賢者。

「じゃあね~」

 ずるずると引きずられていく父。
 ばたんと扉が閉められて訪れる静寂。思わず息を吐いて、そこで彼は気づく。机の上に書かれた用紙に。
 それは一見するとなんてことのない、よくある決裁書類。だがそれは賢者が使用する暗号だ。

『秘宝に関わる文書を狙う者が複数あり。すべての書類に関し、お前と女王だけが見られるように閲覧制限をかけた。気づいた限りの内通者に関してはこちらで処分済み。今後も注意されたし。というかもっと周りに注意を向けろ、馬鹿息子』

 いつの間に。
 父がいると聞いたのは四日前。王城内をうろついているとも聞いていたが。まさか内通者を探っていたのか、割り出していたのか。
 その前から怪しい者がいることには気づいていた。だからノルトはここにいて、書物の閲覧者を直に確認できるようこもっていたのだが。
 王城にある書類の管理はノルトの仕事であるが、本来は父親の役目なのだ。その最高閲覧権は女王にあるが、全ての書類を把握しているわけではない。把握しているのは彩の賢者でありノルトなのだ。
 賢者には独自の処罰権が与えられている。その彼が処分済みとした。つまり、賢者によって内通者は罰せられたのか、始末されたのかは不明だが。
 賢者は王城のそれを把握して、女王に報告したのだろう。
 ふらふらしているが、決して抜けているわけではないのだ。城勤めの人間はそれこそ数多いる。その中で誰が怪しいのか疑うべきか、ノルトには判断が難しい。
 むしろ短期間で把握できる、父がずば抜けているのか。あるいは何かあるのだろう。
 父と母はずっと昔から、虹の女王のそばにいて、王国を守護している≪礎≫たる存在だから。

 ◇◇◇

 三歳になる娘――ポラル・リヒト。
 彼女は抱き上げられるなり盛大に泣いた。母を求めて。

「うわあ、ほら泣かない泣かない」

 抱き上げたヘルクラーはなだめようとするが、

「泣くに決まってる」

 彼から娘を奪うように抱きかかえた。ポラルはしがみつく。

「よしよし。レリット、すまなかった。ありがとう」

 リュミエルは娘を抱き直し、今まで面倒をみてくれたメイドをねぎらう。

「私の仕事ですから。それにポラル様は利口です。手がかからなくて」

「そうか。無理をさせているのもあるかもしれん」

 ポラルはしばらくくずついていたが、しきりに周囲を見回した。

「……おにいたんは? どこ?」

 舌たらずな口調でたずねる。

「お兄たん!?」

 ヘルクラーが眼を見開いて硬直した。お兄たんとは、あの頭が固くて融通のきかない自分の息子のことだ。

「ノルトもよく来てくれるからな」

「はい、とてもかわいがっていらっしゃいますよ」

「私だけ、仲間外れなのか」

「少しは父親らしくしてみろ」

「今してるんだけど」

「まあな……」

 娘の態度にヘルクラーは肩を落とした。
 その日は、後からノルトもやって来て、久しぶりに家族がそろう。レリットに手伝ってもらいながら、リュミエル自身が手料理を振る舞った。

「たまにはいいものだね。帰ってくるのも」

「僕は貴方を父とは思ってませんので」

「反抗期だなあ、ノルトは」

「とっくに過ぎてます」

「ほら、おいしいよ、ポラル~?」

 しきりに娘に構いたがるヘルクラー。しかし彼女は徹底して拒否し、その眼は全く見知らぬ他人を見るものだった。

「どうしよう、さすがに娘に拒否されるのは、堪えるな。しばらく家にいようかな。父親らしく」

「家ではなく城にいろ」

「まあしばらくはいるよ……」

 ――きな臭いこともあるからね。

 ノルトだけが、父親の最後のつぶやきを感じ取った。才媛は女王の相談役が多く、直に王城の仕事に関わるのは少ない。書物やそういったことには疎いのだ。
 だからいざという時は、この外見はなよなよしい父親が出張るのだろう。
 真に不気味なのは、影の魔女ではなく、この古の魔法使いなのかもしれない。ノルトはそう思った。

 【おわり】

継承

 そこは、王城にある虹の女王の執務室。
 窓の外からは王都が眺望でき、とてもいい景色だ。しかし、女王は多忙を極めるため、眺めることはない。
 女王が膨大な書類の一枚に目を落とした時、
『内通者確認。こちらで処分してよいか?』
 ふっと別の洋紙が現れた。それは彩の賢者の暗号である。
 すぐに女王は花押を描き承認した。瞬時に紙は消えた。
 この瞬間に、王城から複数の人間が処罰されたことを知っている。
 やがて、彩の賢者が現れた。その姿に軽薄はなく、彼の本性が現れていた。
「ヘルクラー・リヒト。お勤めご苦労様でした」
 女王は、彼の『仕事』の遂行を労う。
 賢者は用意された椅子に腰かけ、愚痴のようにこぼした。
「全く。しばらく城にいない間に、随分と紛れ込んでいたものだよ。ノルトを鍛えなおさねばならんな。あれは私の代理であるのに」
 そこで賢者は、恐ろしいほどに詳細に語るのだ。秘宝を探ろうとする怪しき者、国に仕える者たちの不正行為に癒着、金の動きから人に対する非道な行為――。
 彼は監視者だ。同時に女王の代わりに、不正を処罰する断罪者。
 王城内にはびこる『負』に対処するのだが、どのようにしてそれを知るのか。
「ただ、さすがに秘宝に関する書類には、閲覧制限を掛けた。陛下と息子しか閲覧できない」
 半身たる明の才媛にさえ見せない、魔法使いが抱える役目。
 才媛の前では、馬鹿のように振る舞っているが、それは周囲を欺くためのものといえる。まあ、あれも実際には彼の一面だが。

 女王の脳裏によみがえる。彼女が『薔薇姫』から『虹の女王』へと継承された時のことを。夫の勇気の騎士に導かれ、彼女が訪れたのは継承の間。
 そこには、彼女の両親と王国の『礎』たる者たちがいた。滅多に姿を見せぬ白き牙狼も、この時だけは姿を見せていた。
 姿がないのは、王国の大地を支える、大樹の精霊と女王の影。すなわち影の魔女だ。
 彼らは永劫を生き続ける、王国の守護者たち。各々が秘密を抱え、初代に刻まれた宿命に縛られている。
「薔薇姫――貴女に覚悟はおありか?」
 彩の賢者が、冷然たる風貌で彼女に問いかけた。
「王国の礎たる我らを従え、そなたも≪礎≫として命のある限り在り続けること。縛られようとも≪色彩王国≫にふさわしき、輝きとなり続けることを」
「この地、この命の限り、尽くすことを誓う。我は虹の女王」
 薔薇姫たる自分は、彼の前で跪く。静寂が生まれ、
「今、継承することを認める。証として、≪虹彩花≫を新しき虹の女王へ。王国の存続と安寧のために」
 厳かに紡がれた。
 そして、彼女の前に佇んだ母から渡されたのは、国の秘宝たる≪虹彩花≫。母と父は、その場で消え去った。二人とも役目を終えると、笑って光の粒子となった。それは彼女の持つ≪虹彩花≫の輝きとなって、吸い込まれてしまったのだ。そこで初めて知った。≪虹彩花≫の輝きが失われないのは、王国の力もあるが、歴代の女王とその半身たる騎士の命によるものだと。

 美しき薔薇姫は、その瞬間から輝く虹の女王になった。
 輝きを維持するためには、その分の影が必要だ。
 その根底には呪われし影の魔女があり、本来は女王がしなければならない、血と闇の贖いを遂行する者たちがある。
 時として王城に紛れる影、あるいは数々の不正行為。
 女王は承認しても、直に手を下すことはない。決して目に届かぬところで行われる。
 虹の女王とは清廉潔白、王国一の穢れなき者であるのだから。
「ところで、薔薇姫は元気かい?」
 賢者の顔が和らいで、いつもの気さくな様子で尋ねてきた。
「ローサでしたら出会いませんでしたか? 恐らく騎士の訓練場で、エルンストと剣の練習をしているかと」
「確か六歳だったよね」
「ええ、今月なったばかりですが。いつもエルンストに懐いて、母たる私が寂しいほどですよ」
 娘の話題に女王の表情も柔らかくなる。
「今の薔薇姫は、陛下とはずいぶん違うものだよ、剣の練習だなんて」
「娘は生まれつきのお転婆のようで。注意はしているのですけれど」
 今の薔薇姫たる女王の娘は、やんちゃでお転婆だ。そして父親が大好き。自分専用の薔薇色の水晶の剣を持って、訓練の時間になると、勇気の騎士から剣術を学んでいる。
「いいよねえ、騎士殿は。ポラルは、私を父親と思ってないみたいだから……」
 心底羨ましそうに嘆く賢者に、虹の女王は苦笑いした。
 明の才媛から話は聞いていた。二人の娘、ポラルは父親を知らずに育ったため、初めて会って、見知らぬ他人を見る眼だったと。
「さて忙しい中お邪魔したね。私も戻るよ、リュミエルのところに」
 話が途切れると賢者は立ち上がり、丁重に虹の女王に一礼した。
 そのまま去っていくのかと思いきや、賢者が立ち止まって呟いた。
「──陛下、貴女はとてもよくやっているよ。歴代の女王の中でも、特に輝きが強い。だから恐れることも気負うこともない。背負うべきは、私たちなのだからね」
「ええ、わかっておりますよ。賢者殿」
 本当に、この魔法使いは恐ろしい。微細な自分の感情を悟るのだから。
 改めて王国の≪礎≫たるものを知り、女王は冷たく薄く笑った。

無題

 無題

 ○月×日

 ××さんは変わってるね、と言われた。
 変わってる自覚はあった。

 △月□日

 授業で描いた絵が、うまいねといわれる。
 らくがきノートに見せた絵を見せて、色々と話をした。
 ちょっと熱中しすぎちゃったかもしれない。

 △月×日

 何か悪いことしたのかな。絵を見せた後から、みんなの態度が変わったんだ。
 クラスのみんなが、妙にくすくすと笑う。影でいわれるこそこそ話。
 でも私には分かるように、わざとらしく聞こえてくる。
 あからさまにおかしい、浮いてるよね、とか、頭がメルヘンで、飛んでんじゃないの、とか言われた。

 自分だけが取り残される強い感覚。
 私は別におかしいと思ってないのに。
 そもそも、みんなに迷惑をかけているつもりも、ないんだけどな。
  
 △月○日

 いじめられるようになった。
 クラスの女子のほとんどから。男子は露骨な無視。
 女子のいじめは、ほんとに陰湿だ。物を隠したりとかしない。
 ただ本人だけはわかるように露骨に悪口を言う。もちろん誰とは言わずにね。
 無視したいけれど、私には、そこまで強い心はないから。
 悲しかった。苦しかった。つらかった。

 だけど、担任もお母さんもお父さんも、信頼できない。
 相談したのに、勉強しろって、変な絵ばかり描いてるな、って叱られた。
 思わず怒鳴って部屋に逃げ込んだ。

 どうしよう、だれも相手にしてくれない。
 ねえ、だれか――助けてよ。

 ×月◇日

 ここに、逃げたいな。行きたいな。
 すべて、ほしいものがあるのに。きっと楽しいんだろうな。
 私の手は動く。逃げ込めるのは『そこ』だけだし。

 ×月○日

 絵を描くことに夢中だった。
 そうしていればいやなことが忘れていく。
 でも、戻ってくると思い出しちゃう。
 本当にいやだな、この感覚。

 ×月×日

 ああ、できた。
 これだけは、描ききったんだ。
 もういいや。気分が軽かった。最近はね、とてもふわふわしてるの。
 ここへ行けるといいなあ。

 ×月△日

 ふとね、部屋を見てみたんだ。絵を描く道具がたくさんある。

 机に置かれたスケッチブック。
 無造作に転がった鉛筆、消しゴム。
 チューブのセットである水彩絵具。
 水の入った黄色いバケツ。
 茶色い筆が何本か。
 色を混ぜすぎて、多彩に変化したパレット。
 後は、メモ用紙に書いた、数々の設定や宝物に関する資料。

 これはすべて自分の宝物であり、描く世界のすべてだ。

 □月○日

 今日の天気はとても不思議だった。学校帰りに見た光景。
 どんよりした雲間に蒼い空が映え、遠くに見える山が少し霞んで見えた。
 そこにかかっていたのは、虹の輪。大きな多彩な輪が、空にかかっている。
 本当にきれいだった。思わず、笑った。

 だってあの絵を描ききって、次の日に虹を見るんだよ。
 逃げるのにちょうどいい日だと思った。
 ああ、誘われてるって感じた。あそこへ、行けるんだ。

 ほんとは、絵の道具、すべてを持っていけたらいいのにな。
 だけどこれは持っていけないから、ここに置いていくしかない。
 ふわふわした気分は、気持ち良くて変な風に嬉しいの。
 まあいいや。ここの私はいなくなるから。
 向こうへいけるから。じゃあね。


 紙切れに書かれたメモ
 
 絶対に、ゆるさない。
 お父さんお母さんもみんな。
 特に××は死ね。クラスの全員も。
 生きてるの、いやだ。
 これは、呪いだ。

 ◇◇◇

 絵を描くことが好きだった。
 何かを想像することが楽しかった。
 空想は自由であり奔放だった。そこに、解放を求めて没頭した。

 真っ白な空間に、ひたすら線を描いていく。
 何度も描き直して、大まかな形が出来上がった。
 これが描く創造の始まり。

 初めて色をつくり、塗ったのは虹だった。
 色づきはじめた時、世界は産声を上げていく。
 そこから世界がさらに広がっていく。空や大地に、大きな樹に、白亜の城。
 そこに住まう人々のあらゆる存在。
 そこを支える人たちの礎。
 この地を形づくり色なした、数々の宝。

 すべてが、私の力で生まれたのだ。

 私はすべての創り手。あらゆるものを創り出し、誕生を描く想像の魔法。
 楽しいばかりでは飽きるけど、苦しいばかりではつまらない。

 私はそこへ逃げた。
 つらいこと、悲しいことがあれば描くことに集中した。
 そうしていれば、負のことは忘れられるから。執拗なほどに私の手や頭は動いた。
 自然と生まれたのは漆黒の影。これは私の分かたれた身だ。
 影の存在は大きく、今まで作っていた世界に、呪いとして闇を生ませた。
 闇はいつか解かれほしいと、一つだけ解放を残した。救われない私の願望だ。

 ずっと嫌なことが続いたが、筆を握る手は止まらない。それが描く糧になっていた。
 そして、ついにすべてが、完成したのだ。

 もう、私のもとを離れて進んでいく。
 もう、私はいらない。必要ない。達成感さえあった。
 だから私が消えても、この色彩の世界は在りつづけるだろう。
 最後の、私の全部の想いを押し込んで描いたから。
 私も、この世界の住人になれるといいなあ。

 楽しませてくれてありがとう。
 バイバイ、色彩王国。

色彩王国短編集

色彩王国短編集

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日 2021-01-11

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