丑の刻ハニー

金曜の夕方

 九月の京都なんてロクなもんじゃない。
 真夏の暑さはまだ残ってるのに、五山の送り火だとか、鴨川の床だとか、夏らしいことはもう終わってしまって、気怠いばかり。
 日が暮れても大して涼しくなるわけでなし、秋の気配といえばせいぜい虫の声ぐらい。お彼岸を過ぎても、猛暑が残していった澱みたいなものが、盆地の底によどんでいる。
 なのにどうしてそんな時にわざわざ東京くんだりから京都に来るのか。ムギさんってやっぱり物好きな人だ。物好きな上にマメだから、夕食の場所まで予約してあるらしい。
 いつものように自転車に乗り、烏丸丸太町を下がったところだというその店を目指す。
待ち合わせに遅れる奴は死ねばいい、という姉の口癖が怖いのか、もって生まれた小心者の性格か、私は約束の十分前にはその場に着くのだけれど、本音を言えば一人でお店に入って待つのは死ぬほど嫌い。
 死ねと思われるのと、死ぬほど嫌いなのと、私はいつも天秤にかけてみる。
というか、その場にいない姉の口癖なんかどうでもいいんだけど、困ったことにムギさんは姉の友達で、下手をしたら情報筒抜け。だから私は死ぬほど嫌いなのを我慢して、店に入った。
 時間は六時四十五分。金曜の夕方だっていうのに客は誰もいなくて、私はもう舌打ちしたい気分で「予約していた麦谷ですが」と、ムギさんの名を告げた。シェフの奥さんらしい女性が、席に案内してくれる。
 四つある空いたテーブルの一つに、わざわざ「予約席」ってプレートが置いてあるのもなんだか空しい。私は腰を下ろすとまず出されたおしぼりを使い、それからグラスに注がれた冷たい水を飲んだ。
 一人で待つのは嫌いだけれど、外の暑さから解放されるのはやはり気持ちいい。テーブルに置かれたメニューにはふれず、私はポケットからスマホを取り出した。ムギさんからの連絡はなし。とりあえず「着きました」とだけ打って、あとはツイッターやなんかを見ておく。
 店の様子だとか、雰囲気だとか、そういうのを確認する余裕なんてのはない。だって居心地が悪いから。
一人で知らない店にいて誰かを待つなんて、罰ゲームみたいなものだ。でもムギさんと会うのは約束だから、我慢している。

 予定の七時になってもムギさんは現れず。でもまあ仕方ない。あの人は方向音痴だし、歩いてる途中で気になる店があると「五分だけ、ね」と言いながら軽く三十分は粘ってしまう性格だし。
 七時十分に店のドアが開いた。でも入ってきたのは熟年カップル。まあこれで、たった一人の重圧からは解放される。私はまたスマホに没頭して、外界を遮断する。
 ムギさん、せめて連絡ぐらいくれたっていいじゃない。
 じわっと怒りが湧いて来て、いやいや、私がムギさんに怒るなんて百年早いと思い直す。
 スケジュールは公私まとめて連日夜中まで満杯というムギさんが、私なんかに会いたいと思ってくれること自体がありがたいんだから。
 気を取り直そうとするつもりが、はあ、と溜息が出てしまい、暮れてきた窓の外を眺めて考える。もしこのままムギさんが来なかったとして、私は何分ぐらい待つんだろう。三十分?一時間?で、店を出る?
 この店でたった一人で夕食なんて有り得ないけれど、何も食べずに帰ってしまうのは予約のドタキャンと変わらない。お店の人に怒られたりしたら、どうすりゃいいのだ。
 という事は、一人で食事か。
 私はひどく暗い気持ちになってメニューを手に取った。京野菜をふんだんに使ったヘルシーかつカジュアルなビストロ、というのがムギさんのツボにきたらしいけど、加茂茄子のバルサミコ仕立てだとか、万願寺のフリットとか、一人でどう頼めばいいのだ。
 メニューを前菜からデザートまで行ったり来たり、何度もながめて、もう水菜のペペロンチーノだけにする!そう決心したところで、店のドアが開いた。
 反射的にそちらを見たけど、残念、三十代らしいショートカットの女の人で、ムギさんではない。私は視線を落とし、水菜のペペロンチーノの価格、千五百円を「たっけえな」と思いつつ目に焼き付けてメニューを閉じた。
 時間は七時と二十五分。入ってきた女の人は七時半の約束なんだろうか。彼女は待ち合わせの相手を探すような顔つきで店を見回すと、応対に出たマダムに「すみません、麦谷で予約している者ですが」と言った。
「お連れさまでしたら、こちらに」と、言われた私の身になってほしい。誰この人。
 たぶんそう顔に出てしまったのだろう。女の人はあからさまに、敵意はない、という笑顔になって「ハニーさん?」と言った。
 人前でその名前で呼ぶのやめて。
 もちろん心の叫びで、私は顔がひきつるのを感じながらも口角を上げ、「はい」とうなずいた。
 彼女はぱっと花が開いたような表情になり、その時はじめて私は、この人が並外れて美しいことに気がついた。
 ショートカットが似合うのはつまり、頭の形がよくて小顔でスレンダーってこと。しかもひと夏越した後だというのにまるっきり日焼けしてない。すっきりしたアーチを描く眉の下に、切れ長の大きな瞳。通った鼻筋と適度な頬骨、そしてその涼し気な顔立ちに、敢えてアクセントを添える、ふくよかな唇。
「いきなりでごめんなさいね。私、砂田桃子といいます。ムギさんと一緒に東京から来ました」
 いや、聞いてないしそんな話。ムギさん一人だと思ってた。なんて私の当惑は置きざりにして、彼女は向かいに腰を下ろす。
「実はね、ムギさん急に具合が悪くなって、救急車で病院に運ばれたの」
「え?き、救急車?」
「熱中症になっちゃって、そのまま入院。でも二、三日で出られますって」
 そして彼女はメニューを手にとると「とりあえずお夕食をいただいて、ムギさんのいる病院に行きましょ」と言った。
「ハニーさんは何を召し上がるかしら?ムギさんがここはおごるって言ってくれてるから、遠慮しなくていいわよ」
 私はもうなんだか判らないまま、「水菜のペペロンチーノ」と口走っていた。

 

金曜の夜

「だって無理じゃない、あたしみたいな乙女がおじさんたちと四人部屋なんてねえ。でも男性は女性のフロアには入れませんから、とか言われたらさ、もう個室しかないじゃない。しかしこれ、保険でカバーできるのかしらね」
 病院でレンタルされた、男物の寝間着に身を包み、ムギさんはこっちが拍子抜けするほど元気だった。
いつもの完璧なお化粧ではなく、どスッピン。それでもムギさんはムギさんだ。腕に点滴をつないだまま、ベッドの上であぐらをかいて、マシンガントーク炸裂。
「けさ五時まで飲んでたのよ。新幹線が八時って、そんな早い時間に起きられるわけないからね。で、うち帰ってシャワー浴びて、ちゃちゃっと荷造りして顔作って、コーヒーだけぶっこんで出発。で、新幹線乗ったら桃子ちゃんとずーっとおしゃべりしてて、京都なんか一瞬で着いたわよね」
 傍にいる桃子さんは、うんうん、と頷いた。もしかすると積もる話はムギさんだけにあって、桃子さんは相槌だけうちながら、京都まで来たのかもしれない。
「それでさ、いざ京都に着いたら何これ、ってくらい暑いじゃない。秋じゃなくて真夏よね。でもまあホテルに荷物預けて、平等院行ったのね。宇治の。もう京都市内なんか何度も行ってるから、ちょっと郊外まで足伸ばしましょって。でも歩くのやだから、結局ぱーっとすっとばしただけで、それから薬膳料理の店でお昼食べて、お茶屋さんのカフェで抹茶パフェ食べて、これで体内の酒も浄化されたと思ったわけ。でさ、桃子さんが伏見稲荷行ったことないって言うから、行ったのよ。まあ近いエリアだし。それで例の鳥居よ、あのずらーっと並んだ。あれの下を歩いてたらば、わたくし、すーっと意識が遠のきましたの。神のお告げが下りてきたのかと、一瞬思ったんだけどね。気がついたら救急隊に、聞こえますか?とか呼びかけられてて、大丈夫って返事しようと思うんだけど、声が出ないのよ」
 そこで一息つき、ムギさんは枕元に置いていたリンゴジュースのブリックパックを手にとった。
「ここの病院、小さいからコンビニもないのよ。ショボい自販機だけ。本当はスムージーが飲みたいんだけど」
 桃子さんはすかさず「じゃあ後で買ってきてあげる」と言った。
「いらない。この入院で三キロは落とすつもりだから、差し入れ不要」
 そう言いつつ、ムギさんはリンゴジュースを一気に飲み干すと、空のパックをゴミ箱に放り込んだ。私はようやく「それで、身体は大丈夫なんですか?」と口をはさむ。
「もうすっかり元気よ。ここに着いた時は二日酔いを二乗したようなグダグダ感だったけど、点滴打ちまくったら気分爽快になっちゃって。何かヤバいお薬でも入ってんじゃないかしら」
「要するに脱水でしょ?熱中症ってドクター言ってたわよ」
「らしいわ。振袖なんかこんだけタプタプしてるのに、干からびちゃってたの」
 ムギさんは点滴の入っている左腕を持ち上げると、二の腕のたるみをつまんでみせた。
「とにかく、ほんとに色々とお騒がせいたしました。それでなんだけど」と、ムギさんは改まった口調になる。
「ドクターによると、私、あと二、三日は出られないらしいのよ。なんか血液検査の数字が悪いだとかって。悪いのは根性だけよって言ったら、アハアハ笑ってたけど」
「あのドクター、けっこう可愛かったわよね」
「そうよ。まだ三十なってないらしいわ。あの先生じゃなかったら、私も無理やり退院してるとこなんだけど、まあもう少し彼の顔を拝んでいたいから、仰せに従う事にします」
「でも」と、私は話に入る。
「ムギさん今回は二泊の予定でしょ?そしたらずっと病院にいて、退院したらそのまま東京に戻らはるんですか?」
「そうよ。戻らはるのよ」
 私の口調をリピートして、ムギさんは意味ありげに笑った。
「もう今回はそういう事で、外をうろつくのは諦めました。どうせ馬鹿みたいに暑いし。でもね、そもそもこの京都旅行は桃子ちゃんのために企画したんだからさ、私としては責任感じてるのよね。だからさ、悪いけど私に代わってハニーに桃子ちゃんのアテンドをお願いしたいの」
「アテンド?」
 当然、私は面食らう。だってムギさんから聞いてた話では、昼間は予定がつまってるから、今日の夜と明日の夜だけ食事をしましょうって事だったし、何より、桃子さんが一緒だなんて知らなかったのだ。
 そんな気持ちが顔に出てしまったみたいで、桃子さんが「駄目よ、ハニーさんに悪いわ」と止めに入った。
「大丈夫よ、私ひとりでちゃんと行けるから。私、ムギさんが思ってるほどポンコツじゃないのよ」
 思いがけない言葉。だって桃子さんはどう見たって美しさと知性を兼ね備えた、ポンコツとは程遠いタイプだから。
「それは駄目よ。ひとりは絶対やめた方がいい」
 ムギさんは頑として桃子さんの意見を聞かず、そうなるとアテンド問題は私の考えひとつという事になる。でも、ムギさんのお願いを断るなんて、できる私じゃあないのだ。さっきの夕食代だって、ムギさんが持つって話だし。
「別に、お寺とか案内するぐらいやったら、かまへんけど」
 まあしょうがないよね、学校も行ってなくて、実質ヒマなんだから。
「そうそう!かまへんわよね!かまへんのよ、桃子ちゃん」
 ムギさんは微妙に違うイントネーションで「かまへん」を連呼しながら、私の手をとった。
「じゃあハニー、困難なミッションだけど、頑張るのよ」
 ムギさんのぶっとい指が、私の頼りない手首を締め上げる。
「困難って、アポなしで修学院離宮行きたいとか、そういうこと?」
「いやーね、紅葉なんてまだまだ先じゃない。私たちが京都に来たのは、丑の刻参りをするためなの」
「丑の刻参り?それって、あの、藁人形に釘打つ・・・」
「そう。丑の刻参りの本家本元は京都だもんね」
「本家本元て、どういう意味ですか?」
「あーら、灯台下暗しってこういう事かしら。ハニーは能の「鉄輪」って演目をご存知ない?」
「能?能狂言の?」
「そうよぉ」
 残念ながら、京都に生まれ育ったからといって、そんな雅なものを鑑賞する人間は多くない。
「すいません、わからないです」
「あやまんなくてもいいわよ。私だって今回のことがなければぜーんぜん知らなかったもんね」
「その、カナワ、って、どんな話ですか?」
「ズバリ、丑の刻参りよ。時は平安、自分を捨てて別の女と結婚した旦那を呪うために、夜な夜な神社に通う女がいて、怒りのあまり鬼と化す、って奴。その神社ってのが、鞍馬の方にある貴船神社なのよ」
「あ、小学校の遠足で行ったことある。あそこって、丑の刻参りするとこやったんですか?」
「昔はね。今はそんな事、オフィシャルにはやってないわよ。でも、やっぱり、やるなら貴船神社よ。パワーが違うもの」
 パワー、のところでムギさんは小鼻をふくらませた。
「それは、ムギさん、誰か呪いたい相手がいるって事?」
「私じゃないわよ」
「え?え?ムギさんと違うって?」
 まさか、と思いながら私は桃子さんの方を見る。彼女はちょっと困ったような微笑を浮かべているのだけれど、それがまた様になっていたりする。
「そ。桃子ちゃんよ」
 当たり前じゃないの、という口調でムギさんが言い放ったところへ、ドアをノックする音が聞こえて、「麦谷さーん」という声とともに看護師さんが入ってきた。
「もう消灯のお時間過ぎてますので、そろそろよろしいですか?」
 にこやかだけど、有無を言わさぬ口調。ムギさんは「あーら、ごめんなさいね!すぐお引き取りいただきますんで」と平謝りだったけれど、ドアが閉まった途端に「お昼の担当の人は、わがままきいてくれたんだけどね」と、低い声になった。
「消灯て、何時ですか?」
「八時だけど」
 言われて腕時計を確かめると、もう九時前だった。
「んなもん、個室だからいいじゃんねえ。消灯っていっても、みんなテレビとか見てるに決まってるし」
「とにかく、私たちはもう失礼するね。明日、何か買って来るものとかある?」
 帰り支度をはじめながら、桃子さんがたずねても、ムギさんは「いらないわ」と断った。
「さっき調べたらさ、この病院のすぐ近所に前から行きたかったカフェがあるのよ。だから明日はそこにモーニング食べに行くわ」
 入院患者の身でそんな事できるのか疑問だったけど、桃子さんは「そっかあ、どんなだったか、教えてね」と違和感ゼロの笑顔で、「じゃあまた来るから」と手を振った。
 つられて私も、桃子さんの後を追うように病室を出たのだけれど、エレベーターに乗った途端、さっきの会話が甦って来た。
「あの、あれホンマなんですか?」
「あれって?」
 病院特有の青ざめた照明。閉鎖空間に二人きり。
「丑の刻参り、しはるって」
「本当よ」
 そう答えた桃子さんの口元は、邪悪に限りなく近い可憐さで、私はこの人になら呪われても嫌いになれないと、膝の力が抜けるような気分になった。


 

金曜の夜おそく

 もやもやと蒸し暑い夜の中、ひたすら自転車をこぐ。
 中京にあるムギさんの入院先から、北区の我が家まではだらだらと上り坂。
 今出川を越え、北大路を渡ってもう少し上にあがったところ。閑静な、という表現でほぼ間違いのない住宅地に我が家はある。サラリーマンの父がおじいちゃんに頭金をがっつり出してもらって、それでもまだローンはあと五年程のこってる四十坪の一戸建て。
 この辺りは昭和な感じの古い家と、新しい家が入り混じって並んでる。年季の入った家は空き家が多くて、中には朽ち果てそうなヤバいのもある。大丈夫なのかな、と思ってると、いきなり更地になって、元は一軒だったところに三軒ぐらい並んで建ったりする。
 まさに新陳代謝進行中って感じなのかな。
 玄関脇に自転車を停めると、私はジーンズのポケットから鍵を出して引き戸を開けた。廊下は暗く、奥のリビングからテレビの音がうっすら聞こえてくる。
 でも私はリビングには行かず、階段を上がり、そのまま自分の部屋に入って明かりをつける。昼間の熱気が缶詰にされた空間。自転車をこいできた自身の熱とあいまって、一気に汗が吹き出す。
 慌ててエアコンのスイッチを入れ、クローゼットから着替えとタオルを取り出すと、私はシャワーを浴びに行った。

 ほんの十分ばかりのシャワーの間では、部屋の温度はそう下がるものじゃない。でもまあ、私もエコには多少の関心を寄せているので、敢えてリモコンの温度設定は下げず、風力だけマックスにしてからベッドに腰を下ろす。
 そうすると右手は自然とリュックサックに入れたスマホへと伸びて、もしや青木センパイからメッセージなんか来てやしないかと、チェックしてしまうのだ。
 虚しい。
 そんなもの、来るわけないのに。
 その代わり、でもないだろうけど、姉からメッセージが来ている。
「ムギさん、京都きていきなり入院やて?」
 たぶんムギさん本人から聞いたんだろう。ホンマびっくりした、と打ちかけて、やめた。そんな一言じゃすまされない、私のモヤモヤ感。でも、このまま溜め込んでおくのも耐えがたい。
 しばらく考え、姉に電話する頃にはすっかり汗も引いていた。
「もしもし?今、大丈夫?」
「ああ、珍しいやん、電話かけてくるやなんて」
 大体この時間だと、姉は外で飲んでたりすることが多いのに、どうやら今日は家にいるらしくてノイズが少ない。
「いや、ムギさんのことで、ちょっと」
「入院な。熱中症やって?朝まで飲んでてそのまま来はったんやろ?あの人らしいわぁ」
 姉の口調は心配どころかちょっと面白がっている様子で、しかしそれはムギさん本人が最も望んでいる反応だった。
 あまのじゃくなのか負けず嫌いなのか、「疲れてんのよ!」と自己申告するのはオッケーで、人から「疲れてるんじゃない」?と心配されるのは却下、という人なのだから。
「まあ、あと二日ほど入院してたら大丈夫らしいよ」
「そんな風に言うてはったな。なんかイケメンのドクターいはるとかって、嬉しそうやったし」
 そのまま「ほな、おやすみ」と電話を切りそうな姉の様子に、私は急いで「ムギさん、友達と一緒に来てはるねん」と話をつないだ。
「へ?友達?あの、最近お気に入りの、鎌倉の盆栽屋さん?」
「たぶん違うと思う。桃子さんていう、きれいな女の人。歩美ちゃんと同じか、少し上ぐらいだと思う」
「私と同じか、少し上の、桃子さん?」
 姉は一瞬しずかになって、それから「ああわかった!ジェットコースターの桃子さんや!」と声を上げた。
「ジェットコースター?絶叫マシーン好きなん?あの人」
「ちゃうちゃう、人生がジェットコースターやねん」
「人生が?」
「そう。上がったり下がったり、カーブも半端ないし、遠心力で何遍もコースアウト寸前」
「何それ、すごいハードな人生なん?」
「聞いた限りではな。まあ、男運が悪い、いうのがそもそもの原因やろ」
「でも全然、そんな感じに見えへん、ものすご堅実ていうか、ちゃんとした人っぽかったよ」
「そうそう、外側はものすごちゃんとしてはるねん。ムギさんも彼女のそこが好き、いうか、なのになんで男の趣味だけぶっ壊れてんだろうねーって、よう言うてはるわ」
「ぶっ壊れてるって、具体的にどんな?」
「それは言わんとく。知りたかったら本人に直接聞いとぉみ」
「そんなん、できるわけないやん」
「でも私から色々言うのは、やっぱりルール違反やろ。まあ、悪い人ではないし、一緒にいたら絶対、この人ともっと仲良くなりたいって思わせる人やろな。向こうが同じくらい好いてくれはるかどうかは知らんけど」
 姉の声には少し冷たい響きがあって、これが彼女の辛辣というか、本音を語る時のトーンだった。
「つまり?桃子さんて、好き嫌い激しい、ていうか、難しい人?」
「知るかいな、直接おうたことないのに。ただ、私の経験として、めちゃくちゃ人あたりのええ人というのは、たいがいガードが堅いし、人間不信やったりするもんや。ムギさんかて、人づきあいは割り切ってはるとこあるし」
「そうなん?」
 結局何が言いたいんだか。まあ、とどのつまり、姉は私との会話が面倒になってきたのだろう。その証拠に「ほな、お風呂入るし」と、切り上げにかかった。
「あ、待って待って、一番大事なことまだ聞いてへん。なあ、丑の刻参りって知ってるやろ?」
「は?丑の刻参り?藁人形に釘うつやつ?」
「そう。それを、その、桃子さんがやりたいんやて。貴船神社で」
 しばし沈黙の後、姉は「アホちゃう?」と呟いた。
「やっぱり、変やんなあ」
「まあ、ムギさんの友達なんて変な人ばっかりやしな。私もあんたも、含めて」
「私は、ムギさんと友達とは違うよ」
 そう、私はそこまで身分は高くないのだ。
「いやいや、あの人と一度でも食事かお茶して、連絡先交換してたら友達認定やわ。しっかし、丑の刻参り、なあ」
「そもそも私は関係なかったんやけど、ムギさんが入院しはったから、代わりに一緒に行ってあげてって」
 私がまだ言い終わらないうち、姉は電話の向こうで爆笑した。
「ええやん!丑の刻参りなんて、そうそうできる経験ちゃうで。しかも本家本元の貴船神社やて」
「もう、こっちは困ってるんやで」
「そらそやろ、私かてそんなん言われたら困るわ。まあ、曲りなりにも男やし、あてにされたんやろ。しゃあない、頑張りや」
「ちょっと待ってえな、ホンマにあかんねん」
「嫌やったら断りぃな。それでムギさんから切られたところで、あんた別に困ることあらへんやろ?ほな、丑の刻参り、どんなんやったか、また教えてな」
 私が次の言葉を思いつく前に、電話はもう切られていた。

 エアコンが効きすぎて、部屋は寒いほどになっている。私はリモコンを手にして室温を上げると、ベッドに寝転がる。
 たしかに、嫌なら断ればいいのだ。丑の刻参りなんて付き合えない。顔の広いムギさんの事だから、私以外にも京都に住んでる知人友達、何人もいるはずだし。ただ、こんな無茶なことを頼めるような相手ではないのかもしれない。
 結局のところ、私に白羽の矢が立ったのは、ドロップアウト気味の学生で、実家に住んでて、友達関係希薄だからけっこうヒマにしてるって事と、男だから桃子さんの用心棒にもなると、そういう事なんだろう。
 曲がりなりにも、男やから。
 姉に悪気がないというか、むしろ彼女は私の一番の理解者と言ってもいいのに、この表現は胸にざっくりと刺さってくる。
 自分で自分のこと、女の子だといくら思ったところで、現実問題として身体は男であり、男としてこの世に登録して、その行動規範に則って世間に迷惑かけないように十九年も生きてきた。でも何をどうしたところで私は女子なのだ。
 女として考え、女として笑い、女としてお腹も空けば飯も食う。
 十歳ちがいの姉は、幼い頃から私の本性を見抜いていたようで、ミツヨシ、という親のつけた名前にひっかけて「ハニー」という呼び名と、女の子としての人格を与えてくれた。
 幸か不幸か、両親はこの「ハニー」の人格をたんなる姉と弟のお遊びと思っているが、私にとっては、男のふりという潜伏生活における、貴重な息継ぎの機会だったのだ。

 姉は大学も就職も京都だったが、OL三年目の秋に仕事を辞め、彼氏を追っかけて東京に行ってしまった。ところが彼氏が元カノと切れていなかったため、挙式目前で破局。彼氏は元カノと結婚すべく地元の富山へ戻り、難民化した姉は微妙な感じで横浜へと流れた。今はロシアから水産物を輸入する会社で働いている。
 身内が首都圏にいるのはなかなか便利で、私は東京に行くとなれば、彼女の部屋に泊めてもらう。去年の秋、姉弟揃ってとち狂っているバンド、ソーラー・エクリプス、略してソラエクの横浜アリーナ公演に参戦して、そこでムギさんに遭遇したのだ。
「なんか、このバンドは行っとけって、勧められちゃって」と、コアなファンからみるとなかなかに上から目線だったけれど、ムギさんはそんな風にあちこちアンテナを張って、先入観なしにまずは直接ふれてみよう、という人なのだ。
 だから飲み友達の一人にすぎない姉と、京都からやって来たその弟、なんて我々にも気さくに接してくれて、ライブがはけた後で一緒に食事をしたのだ。
 まだ高三だった私にとって、ムギさんはとにかく謎の人だった。
 まず男だか女だか判らない。いや、男なのに女のような身のこなしと話し方。世間一般に言われる「オネエ」というその存在は、私が初めて他者として接する「自分のような人」だった。もちろん、見た目も性格も全く違っていたけれど。
 ムギさんは三十代後半らしくて、けっこうなハイブランドっぽいファッションに身を包み、それは女装ではないにせよ、「ふつうの」男の人の趣味とも違っていて、奇抜、としか言いようのないデザインの指輪を、さも当たり前のように左右の指にはめていた。
 三人で食事、とはいっても、ムギさんも姉もマシンガントークで、おまけにお酒が入っているから、私の加わる隙などない。二人の会話をホワイトノイズのように聞き流して、私はただぼんやりとライブの余韻に浸って過ごした。
 その後も、ムギさんは姉の帰省に便乗して京都に遊びに来たりしていたのだけれど、気がつくと私のことをハニーと呼び、姉抜きでも会うようになったりしていた。
 ムギさんが何の仕事をしているのか、私はいまだに知らない。だいいち姉もよく判ってないらしくて、「コーディネーターみたいなもんちゃう?人脈めちゃくちゃ豊富やもんな。出張とかも多いけど、基本的に仕事の話はしはらへん。でもお金は持ってはる」という具合だった。
 私の知る限りでは、とても多忙で、アポは平均して午前二件でそのままランチ、午後は三件に夕食と飲み一件。その合間にメールだの何だの、細かいやり取りは数知れず。仕事とプライベートの境界は曖昧で、出張に行ったついでに遊び、遊びの途中で仕事をこなす、というスタイルみたいだった。
 もしかすると今も、病室のベッドに胡坐でもかいて、タブレットを覗き込んで仕事してるのかもしれない。ムギさんの敵はたぶん退屈とか、手持無沙汰とか、そんなとこだろう。
 かたや私はいくらだってぼんやりと過ごせる、時間の浪費家。いっぱい予定が詰まってると何だか憂鬱になるし、一日にこなせる予定は基本的に一件のみ。ムギさんはそんな私に「お若いのにねえ」と、呆れ顔だけけれど、私は小さい頃からそうだった。たぶん年齢じゃなくて、性格の問題なのだ。
 はあ、と溜息をついて、寝転がった私は天井を見上げる。
 嫌なら断ればいいのだ。
 でも微妙に、私の気持ちは「嫌」とは重ならない。
 頭じゃ判っているのだ、こんな風に、引きこもり一歩手前みたいな生活してちゃ駄目だって事。できる事なら、学校もちゃんと行って、世間も広げて、バイトだってこなして、せめてムギさんの百分の一でもいいから、メリハリのある生き方をする事。
 でもだからって、丑の刻参りすべきなんだろうか。

土曜の十一時

 ふだんの移動を自転車に頼っていると、久々に乗る市バスがなんともだるい。
 だいたいが時刻表通りに来ないし、週末なんか観光客らしき人でいっぱいな上に、道が混んでてなかなか前進しない。
 で、今日はその週末、土曜日で、私は早くもバスに乗ったことを後悔し始めていた。 
 やっぱり自転車にして、ホテルに停めさせてもらえばよかった。
 このままでは約束の十一時に遅れてしまう。スマホを取り出し、桃子さんに連絡すべきかどうか思案した。うまくいけば間に合うかもしれない。もう少し後、遅刻確定になるまで待つべきか、どうか。
 そうする間も、バスはじりじりとしか進まない。やっと停留所にきたと思ったら、そこでようやく小銭両替する人に、鞄の中何度もかき回してICカード取り出す人。もっと早く準備しといてよ!と見知らぬ人に怒りさえ覚える。
「なんや怖そうな顔してるやん」
 ふいに、そう声をかけられ、私は傍目におかしい程の勢いでそちらを向いた。
「あっ、おっ、はっ、どうも」
 情けないほど意味不明の挨拶は、おはようございます、と言いかけて、いやそんな早い時間でもないかと思い直したせいだ。
「久しぶりやな」
 そう言って笑う青木センパイの顔を私はまっすぐに見ることができない。一体いつの間にバスに乗ってたんだろう。
「は、お久しぶりです」
 そやし向こうは最初っから久しぶりて言うてるやん。自分で自分につっこみながらも、なぜかこういう台詞しか出てこない。青木センパイは「どこ行くん?」と、いつのも少し眩しそうな目元で問いかけてきて、私は「ちょっと、約束してて」とお茶を濁した。
「俺これからバイトやねん」
 バスが揺れて、青木センパイの肘が私の腕に触れる。もっと大きく揺れたらいいのに、と思いながら私はまた「バイトですか」と、芸のない返事。
「堀川御池にホテルモンドってあるんやけど。そこのレストランの洗い場」
「ホテルモンド?」
「そう。知ってる?」
「ていうか、今からそこ行くんです」
「何やお前、俺がバイトしに行くのに、自分は豪勢にホテルで飯食うんか」
「いや、たんに待ち合わせしてるだけで」
「待ち合わせて、あそこけっこう立派なホテルやで?誰と会うねんな」
「なんか、知り合い、ていうか」
 私はあたふたしながら、うっかり口を滑らせた事を後悔していた。
「なんか知り合い、て何やねん。俺もついてって挨拶だけしていい?」
 ダメです。とか、断っても全く大丈夫だろうに、私の中の邪な気持ちが、一分一秒でも青木センパイの傍にいたいという欲を優先させて「別に構いませんけど」とか、口走らせる。
 さっきまで遅い遅いと思っていたバスは何故だかもう堀川御池にさしかかっていて、私は慌てて降車ボタンを押した。
 韓国人らしいカップルに続いて、私と青木センパイはバスを降り、御池通りより少し下にあるホテルモンドへと歩き出す。なんか嘘みたい。このまま今日いちにち、二人でデートだったらと、一瞬の妄想を自分に許す。
「しかし九月になっても京都は暑いな」
「先輩は実家帰ってはったんですか?」
「お盆から先週までな。和歌山の方が南やけど、京都よりなんぼか涼しいで」
「海があるから?」
「そやなあ」
 青木センパイは和歌山の先っちょの方、帰省するには電車とバスで六時間というエリアの出身だ。でも私はその辺境さ具合にワイルドなものを感じてしまう。
「真野はずっと京都おったんか。自宅組やもんな」
「はい」
「バイトとかして?」
「たまには」
「何のバイトしててん」
「コンビニとかです」
 嘘、ではない。本当にコンビニで週三日。でもシフトに入ってたのは八月いっぱいで、九月は「ちょっと学校の関係で」という理由をつけて行ってない。
「ヒマやったらここのホテルの洗い場どや?」
「え?先輩と一緒に、ですか?」
 だったらもう何があってもやる!いきなり私の胸は高鳴り始める。
「ていうか、俺の代わり。そもそも俺が友達の穴埋めに入ってるんや。高校のツレやねんけど、フットサルでアキレス腱切りよってん」
「そうなんですか」
 一瞬の高揚が急降下。
「俺はずっとスーパーで品出しやってるし、ホテルと掛け持ちとなると、今はいいけど授業始まったらさすがにキツいしなあ」
 ここで引き受けて、恩を売るというのも一つの手、なんだろうか。でもホテルの洗い場なんて、けっこう大変そう。
「基本的に土日やけど、団体とか入ったら平日の夜とかも出動。時給はまあまあ」
「すいません、土日はコンビニとかぶるんで、無理です」
 嘘ばっか。速攻で断ってしまった。だって青木センパイと一緒に働けないんだったら、何やっても一緒だ。
「そやんなあ。ま、せっかくやし頑張って稼ぐわ」
 青木センパイは屈託なく笑い、私は小さな罪悪感を抱えながらも、じゃあ土日のこの時間に、この辺りをうろうろしていたら、偶然のふりしてセンパイに会えるだろうか、いやバイト上がりを狙った方がいいか、と考えるのだった。
 そんな煩悩まみれの足取りで、ホテルモンドのドアを抜ける。青木センパイは「ここ、表から入るの初めてや」などと言いながらついてきた。
 ロビーに入るとひんやりした空気に包まれて、外の暑さが一気に遠のく。とりあえず十一時三分という微妙な時間で到着したけれど、と周囲を見回す。週末なのでやはり人の行き来が多いけれど、その中でただ一人別世界、という感じでソファに腰かけている女性がいて、それが桃子さんだった。
 座ってスマホを見ている、というありきたりな行為なのに、すっきりと背筋を伸ばし、細身のサブリナパンツから伸びた足首を上品に揃えて、さあどうぞ写真にお撮り下さい、といった感じに隙がない。
 なんだか声をかけるのが勿体ないというか、自分が関わることで桃子さんの保っている均衡を乱してしまいそうな気さえする。でも私が口を開くよりも先に、桃子さんは顔を上げてこちらを見ると手を振った。
「ハニーさん!」
 その名前は駄目!と心の叫びが本気で漏れないよう、私は一瞬口を引き結び、それからざわめく気持ちを鎮めて「おはようございます」とあいさつした。
「本当に急なことでごめんなさいね」と言いながら立ち上がった桃子さんは、「あら、お友達もご一緒?」と青木センパイの方を見た。
「あ、いえ、この人は」
 どう説明したもんだか、と思っていると、青木センパイは「バスで一緒になったんですけど、僕はここでバイトしてるんで、ちょっとついて来てみました」と自ら説明した。
 この人の、こういう卒のなさというか、私みたいに口ごもらずに、まっすぐ相手に向かうところが、ああやっぱりセンパイ好き、と思わせてくれる。けれどよく見れば、まあ当然の事なんだけれど、青木センパイは満面の笑みで、要するに桃子さんの魅力にどハマりしているのだった。
「アルバイトは何時から?よければ一緒にお昼ごはん、どうかしら」
「すいません、今からすぐ入らないといけないんで。残念ですけど」
 青木センパイは笑顔のまんまで頭を下げると、私に向かって「ほなな」と声をかけ、軽く肩の辺りを叩いてから、足早に去っていった。
 私はもう、その手の感触を忘れまいと念じながら、センパイの後ろ姿を見送る。桃子さんは何か勘づいたかのように「ねえ、ハニーさんは彼と約束とかしていたんじゃないの?」と言った。
「いえ、本当に偶然会ったんですから、大丈夫です」
 私がそう答えると、桃子さんはふふっと声を出して笑った。何だろう、その思ったのが伝わったのか、彼女は「ごめんなさいね、ちょっとムギさんとの会話を思い出しちゃって」と謝った。
「ムギさんとの会話?」
「あの人、今時の若い子って、何を聞かれても大丈夫ですって言うけど、あれって要するに、あたしに構うんじゃないよ、バーカって事でしょ?って」
「え?いや、大丈夫って、そんなつもりで言ったんじゃ、全然ないです!」
 私は全力で否定した。
「大丈夫は大丈夫であって、ノープロブレムっていうか、それで全然大丈夫っていう・・・」
 なんか理屈が通ってないけど、言わんとする事は伝わったらしくて、桃子さんは「いいの、それってなんだか、勝手に口から出ちゃうって感じの言葉でしょ?私も社会人になりたての頃は、あなた何でもすみませんで通しちゃうのねって、先輩に嫌味を言われた事あるもの」と微笑んだ。
「でも便利な言葉よね、大丈夫です、って。この一言で、互いの圧力がリセットされて、一息つける感じがあるじゃない?よかった、もうこれ以上やりとりしなくていいんだ、みたいな」
「はあ」
 何と答えていいんだか、私はただぼんやり頷くしかなかった。ムギさんという人は、基本的に一人でしゃべり続けるから、こっちはただ相槌をうっていればいいんだけど、桃子さんとはそう簡単じゃなさそうだ。
「あらごめんなさい、そんな話してる場合じゃなかったわね。とりあえず、今日の予定なんだけど」と言いながら、桃子さんは再びソファに腰を下ろし、座らないの?という顔つきでこちらを見上げた。
 大丈夫です、なんて言える状況でもないので、私は「失礼します」と隣に座る。一瞬だけど、柑橘系のコロンらしい上品な香りが鼻孔をくすぐった。
「まずはランチを済ませて、それからお買い物がしたいんだけど、ハニーさんこのお店ってどう行けばいいのかしら。ついでにこっちも回りたいの」
 差し出されたスマホの地図を覗きこみながら、私は肝心な事が聞けずにいた。
 丑の刻参り、どうするんですか?
 もしかして、昨日のあれは何かの冗談だったのかもしれない。私が今日このホテルに来るよう言われたのは、ムギさんの代理として、桃子さんの街歩きのサポート要員に過ぎないのかも。
「そうそう、このランチのお店なんだけど、予約不可だから開店前に並ばないと駄目なの。今からバスで行って間に合うかしら」
「十二時開店でしょう?ここから銀閣寺の辺って、バスやと時間かかるし、間に合わないと思います」
「判った、じゃあタクシーにしましょう」
「え?タクシー?タクシーでランチですか?」
 私がそう聞き返した時には、桃子さんはもう立ち上がって歩き始めていた。
 なんかこう、時間をお金で買う感じ?わざわざタクシーでランチに出かけるという発想が、庶民の私にはちょっとクラクラくる。でもやっぱりムギさんの交友圏にいる人だし、東京の人だし、それもアリというか、桃子さんはそうすべき人なのだ。
 私はもうすっかり丑の刻参りの事なんか置き去りにして、桃子さんから魅力的な女性かくあるべし、という行動様式を学ぶべく頭を切り替え、ちゃっかりと彼女と並んでタクシーの後部座席に収まったのだった。

土曜の昼

 財布の紐が緩い人のショッピングにつきあうのは楽しい。
 私は自他ともに認めるケチ、というか、散々迷ってから「やっぱりまた今度にする」と言ってしまうタイプ。だから桃子さんの「やっぱりこっちも買っちゃおう」という一言に胸がすくというか、同じ「やっぱり」でもこういう使い方があるのだと、ほぼ感動してしまうのだった。
「ごめんなさいね、私、お買い物に時間がかかり過ぎちゃって」
 漬物を満載したカゴを手に、ようやくレジに向かった桃子さんは、そう気遣ってくれるけれど、私は平気。むしろうっかり「大丈夫です」とか言わないように注意して、あいまいに会釈する。

 堀川御池のホテルをタクシーで出発し、吉田山の上にあるカフェでランチを楽しみ、再びタクシーに乗って街なかに戻り、丸太町から寺町通りを下りながら、色んなショップをめぐり、仕上げは錦市場。
 はっきり言って週末の錦なんて観光客でいっぱいだし、市場、というよりテーマパークみたいだ。私なんて大学に入ってから初めて、よそから来た友達と一緒に足を踏み入れたぐらいで、たぶん来てる回数はムギさんの方がずっと多いと思う。
 なのでどの店の何が有名だとか、ほぼ知らなくて、案内も無理な話。ただ桃子さんの後をくっついて歩き、お荷物だけは持たせていただく、という情けなさなのだった。
「これは姉に送るの。もう少し待ってね」
 あんなに買った漬物を、桃子さんは全部お姉さんにあげてしまうらしい。カウンターで宅配便の伝票に描き込む彼女の背中を見ながら、世の中には本当に気前のいい人っているんだな、と私はまた感心してしまった。
 何かの拍子でお金持ちになったとしても、私は姉に対してそこまで太っ腹になれないような気がする。まず、姉の方で、あんたにそういう真似されたくない、と拒絶しそうだし。
「どうも、お待たせしました」
 にこやかに戻ってきた桃子さんは「ねえ、一休みしない?この近くにムギさんお勧めのお店があるの。私、前に連れて行ってもらったんだけど、場所がうろ覚えで」とスマホを取り出す。もちろん私に異存などなくて、また彼女にくっついて行くのだった。

 ムギさんお勧めの店、という言葉は、いくつかの条件を満たしている。
 まずは店の雰囲気というか、趣味がよろしい事。そして知る人ぞ知る、という存在である事。誰もかれもが押し寄せるような店ではいけない。その結果として、混雑していない。そしてもちろん供されるものが美味であること。
 その店は錦から烏丸通を越え、少し上にあがった路地の中にあった。京都ではそう珍しくない、町屋をそのまま使ったカフェらしい。店の前に置かれた藍色の火鉢には水がはられていて、夜店で掬ってきたばかりのような和金が五、六匹泳いでいた。
 日差しが強いせいで、中の様子は薄暗くてよくわからないけれど、桃子さんはためらう事なくガラスの引き戸を開け、朗らかに「こんにちは」と挨拶しながら中に入るのだった。私はその後から、影みたいにくっついてゆく。
 店はカウンターと四人掛けのテーブル席二つというシンプルなつくりで、先客は初老の女性が一人。近所に住んでて散歩の途中です、といった感じで、コーヒー片手に文庫本を読んでいる。
 私たちは荷物があるのでテーブル席に座り、桃子さんは「私もう決めてるから」と言って、立ててあったメニューを私に向けて広げた。
「何に決めたんですか?ムギさんお勧め?」
「さあ何かしら」
 桃子さんが微笑んだところへ、店主が水を運んで来る。その姿を見て、もしかしてムギさんお勧めというのは、彼のことかもしれない、と私は思う。たぶん六十前後の、ほどよく白髪交じり。痩せてはいるけど骨太な感じで、白いシャツに臙脂のタブリエ姿がよく似合っている。
「私はもう断然、おじさまね。若い子はね、そりゃ綺麗よ。でも薄いのが耐えられないの。どんだけ可愛くても薄っぺらは嫌なの」
 ムギさんの言葉が、まるで本人がそこにいるかのように浮かんでくる。
「お決まりですか?」
 声をかけられて我に返り、私は「後でお願いします」と慌てて返事をした。たぶん、この低めの声もムギさんの好みだ。
 かるく微笑みを浮かべてカウンターの向こうに戻る店主を目で追って、桃子さんは「わかった?」と悪戯っぽく言った。
「ムギさんお勧め、の意味ですか?」
「そう。でもそれだけじゃあないのよ」
「あの、何がお勧めなんですか?」
 メニューの内容はいたってシンプル。飲み物はコーヒー、紅茶にカモミールティー。スイーツは本日のパウンドケーキ、ベイクドチーズケーキとブラウニー、それだけだ。しかもけっこうな値段がする。
「コーヒーはマストね」
 桃子さんはそれしか言わない。仕方ないので私は「じゃあ、それとブラウニーにします」と決めた。
「了解」とうなずいて、桃子さんは店主を呼んだ。
「コーヒー二つと、彼はブラウニー、あと、本日のパウンドケーキは何ですか?」
「バナナとダークチェリーの二種類です」
「半分ずつ二種類ってできますか?」
「大丈夫ですよ」
 店主はにこやかに頷いて去って行った。今の「大丈夫」は大丈夫な方の「大丈夫」だな。そう思いつつも、私は桃子さんの選択に驚いていた。
まず、本日のパウンドケーキって段階で、私はもうそれが何かを尋ねることができないのだ。うまく質問が伝わらなかったりして、気まずい感じになるのが嫌だから。
 そしてさらに、ちゃんと質問できたとしても、半分ずつ二種類なんてリクエストはできない。メニューに書いてあれば別だけれど、自分でオプションを提案してしまうなんて、それは私にとってはわがまま以外の何物でもないからだ。
 断っておくけど、私は別に桃子さんを非難しているわけじゃない。ただ、自分がそんな事を言い出せば、周囲にわがままだと思われるだろうと、そう恐れるのである。
 面倒くさい奴。
 そんなの百も承知だけれど、考えてしまうものは仕方ない。そしてそれはけっこう疲れる事だったりする。
「疲れちゃった?」
まるで心の中お見通し、といった桃子さんの言葉に、私は飛び上がりそうになりながら「だ・・・いいえ」と答えていた。
「よかった。若いもんね」
 にっこり笑ってグラスの水を飲む。そう言う桃子さんだって十分若いのに。
「やっぱり駄目ね。お買い物してる最中はすこぶる元気なんだけど、こうやって座ってしまうと、もうずーっと座ってたい、なんて思っちゃうの。私、あなたぐらいの頃は本当に疲れ知らずで、夜通し遊んでそのまま学校とか行けてたのよね」
 それは元気過ぎ。友達なら突っ込むところだけれど、ここは「そうなんですか」としか言えない。
「ハニーさんは夜遊びとかしないの?」
 だからその名前呼ぶのはやめてって。顔がひきつったところへ店主が来て、コーヒーとケーキを出してゆく。
「あら、生クリームついてるんだ」
 桃子さんのパウンドケーキと私のブラウニー、それぞれにホイップした生クリームとミントの葉が添えられている。でも私の目を惹いたのはコーヒーの方だった。なんかやけに黒いというか、濃厚?
「これね、トルココーヒーなんだって」
 私の当惑顔に気づいたのか、桃子さんが教えてくれた。
「普通のコーヒーとどう違うんですか?」
「フィルターで濾してないの。だから豆の粉がちゃんと沈んでから飲むのよ」
「そうなんですか」
 といいながらも、一口飲んでみる。思ったほど濃いというわけではなく、ブラウニーの甘さと生クリームにも助けられて、普通に飲むことができたけど、たしかに底の方に粉が沈殿している。
「飲み終わったらね、ソーサーにカップを伏せるのよ」
 ぱくぱくとパウンドケーキを口に運びながら、桃子さんはさらに説明する。
「え?伏せる、って、ひっくり返すってことですか?それがトルコの飲み方?」
「飲み方っていうか、占いのためにね」
「占い?」
「そう。底に溜まった粉がどう見えるかで、運勢を占うの」
 本気だろうか。半信半疑の私の反応は織り込み済み、といった感じで、桃子さんはパウンドケーキを平らげ、コーヒーを飲み干すと、慣れた手つきでカップをソーサーの上に伏せた。
「ハニーさんもやってみて」
 言われるがまま、私はブラウニーの最後の一切れをほおばると、コーヒーを飲み、桃子さんの手つきをまねてカップを伏せる。
「準備完了ね」
 桃子さんはにこりと笑うと、いきなりカウンターの方を向いて「すみません」と呼びかけた。店主はすぐに私たちのところまでやって来て、「どちら様から?」と尋ねる。
「どうしましょう。ハニーさん、先いく?
「え?占いって、もしかしてこの人が見てくれはるんですか?」
「そうよ。私は一度来たことあるけど、よく当たると思うわ」
 そう言って桃子さんが店主の方を見ると、彼はにこやかに「ありがとうございます」と頭を下げるのだった。
「あ、わ、た、後でいいです」
 いきなり占いだなんて、何を言われるかわからないし、どう反応していいかも困るし。とりあえず桃子さんのを見てからにしなくては。桃子さんは「そう?じゃあお先に」と言いながら、カップを伏せたソーサーを店主の方へと滑らせる。
 その間に、店主はカウンターの隅に置いてあった、踏み台のような木の椅子を引き寄せて腰を下ろした。
「失礼します」
うやうやしくカップを手に取ってひっくり返し、コーヒー豆の粉が描き出したマーブル模様をじっと見つめる。
「何についてお伝えしましょう。仕事、恋愛、金運、お好きなものを」
「恋愛」
 何の迷いもなく、桃子さんはそう言って身を乗り出した。店主は軽く眉を持ち上げ、「終わってますね」と告げた。
 恋愛、終わってる。
 なんかこれ、衝撃的なフレーズ?でも桃子さんはまるで他人事みたいに冷静で、了解したとばかりに頷いた。
「ただ、形としては続いているので、実際に終わらせるかどうかは、貴女しだいです」
「私しだい」
「そうですね。まあ、終わっているのはこれまでの関係で、貴女はすぐにでも新しい相手に出会うことができるでしょう。それが貴女にとって良いことかどうかは判りませんが」
 店主の言葉を聞きながら、私は「当然かもね」と考えていた。桃子さんの今の恋愛がどうなってるか知らないけど、こんなに魅力的な人なのだもの、新しい相手なんて行列つくるほど待ち受けてるに違いない。
「なんだかすごく納得しちゃった。ありがとうございます」
 思い当たるふしがあるみたいで、桃子さんはさらに何度か頷くと、「じゃ、次はハニーさんね」と、私のカップとソーサーを移動させた。店主はそれを引き取って「お客様は何になさいますか?」とこちらを見る。
「え、え?ええと」
 何?恋愛は絶対ダメ。でも金運ってのも夢がないし、仕事はしてないし勉強もしてないし、健康についても特に心配してない。いや待て、そもそもこの宙ぶらりんな生活じたいが問題なの?つまり人生全般?でもいきなり人前で占ってもらうなんてそんな。
 額から汗が滴りそうな勢いで、考えを巡らせている私のことなんか軽く流して、桃子さんは「もちろん恋愛よね」と断言した。
 嫌です!
 そう言いたいところだけど、なんか白けさせてしまうと悪いし、私は「え~」なんて声を出しながら、逃げ道が閉ざされたと観念した。いいや、どうせお遊びだもの。
「それでよろしいですか?」と店主は念を押し、私は仕方なくうなずく。
 カップの底に描かれた模様は、桃子さんのとは全く違っていて、店主は目の悪い人が遠くを見る時のように、眉間に軽くしわを寄せてそれを見た。
 何を言われるかどきどきしながら、私は彼の言葉を待つ。二人続けて「終わってる」はありえないとして、かなりネガティブな事もさらっと言われてしまいそうで恐ろしい。
「二つ、可能性があります」
 店主は淡々と言った。
「一つは、短くて困難だけれど後悔はしない。もう一つは長続きして穏やかだけれど悔いが残る」
「はあ」
 あんまりよく分からない。つまり何?
「二つの可能性って、それは自分が選ぶの?それとも勝手に決まってしまうの?」
 私より桃子さんの方がずっと前のめり。店主の回答は「自分で決める事です」だった。
「自分で決めるの?じゃあ、ハニーさんはどっちがいいの?」
「え?どっちって言われても」
 困る。どうせ気の利いた答えなんかできないんだし、私のことなんかスルーしてほしいのに、桃子さんはまっすぐ私の顔をのぞきこんで答えを待っている。
「あの、長続きする方がいいです」
「それはどうして?長続きって、悔いが残る方でしょ?」
「困難なのは嫌なんで」
 そう、私はとにかく苦しい思いをするのが嫌いなのだ。だから体育会系の部活は避けてきたし、大学だって推薦で入ったし、バイトだって時給より楽な仕事優先。
「でも、恋愛に困難はつきものっていうか、困難だからこそ楽しいんじゃないかしら」
 桃子さんのその言葉に、私は姉との電話を思い出していた。
 ジェットコースターの桃子さん。
 もしかして、ヤバい恋愛にのめりこむタイプ?
 とにかく何か返事しなきゃ、と考えていると、店主が「そこは人それぞれじゃないですかね」と、間をもたせてくれた。
「刺激の多い生活を好む人と、穏やかな生活を好む人。どちらも同じくらいいますからね」
「私、あえて困難を求める方だわ。ねえ、私初めてこに来たの、四年ほど前なんだけれど、その時に占ってもらって、ご自分のおっしゃった事、憶えてます?」
「いやあ、占いの結果は憶えてないというか、むしろ忘れるように心がけてますから」
 店主は困惑ぎみの笑顔でそう答えた。
「占いの結果はお客様のものであって、私はそれをお伝えするだけですし、それに」
 そこで彼はいったん黙った。言おうかどうしようか、考えてるみたいに。桃子さんは「それに?」と続きを促した。
「私にこの占いを教えてくれた師匠が言ったんですが、一度言葉にしたものには力がある。特に占いというものは日常の言葉とは強さが違うから、うまく流しておかないと溜まってゆくと」
「溜まるって、どういう風に?」
「気が滞る、みたいなものでしょうか。じっさい、師匠は胆石でお腹を切ってるんですけど、関係あるかと言われると、あるような、ないような」
「あると思う」
 桃子さんは妙に神妙な顔つきでそう言った。
「だってここの占い、本当によく当たるんだもの。四年前の言葉、いま思い出しても鳥肌ものよ」

土曜の午後

「四年前でしたら、私がここで占いをするようになって、すぐの頃ですね」
 店主はおだやかにそう言うと、手にしていた私のカップをソーサーに置いた。
「そう。私のお友達が、ってムギさんね」と、桃子さんはこちらを向いて念を押す。
「京都にすごくよく当たる占い師さんがいるって教えてくれたの。それで、すぐに一泊二日で京都ツアー決行」
「それはまた、光栄です」
「その頃わたし、今の夫と結婚秒読みだったのね。もう新居も決めて、退職に向けて引き継ぎもして、ブライダルエステも通い始めて。でも何だろう。一種のマリッジブルーだと思うけど、このままで大丈夫なのかしらという気持ちが拭えなくて、占ってもらう事にしたの」
「で、私は何と申し上げたんですか?」
「選ぶべき相手じゃない人と結婚しようとしている。でも貴女はそうしないと満足しない人だ」
 私がムギさんなら「や~だ~!」と声を張り上げてるところだけれど、そういうキャラでもないので、「それで?」と質問する。
「結婚しちゃった」
 そう答えた桃子さんの笑顔は最高に爽やかで、透き通るように美しい。じゃあ結局、うまくいったって事?
「私、いつも反対されると却って燃えちゃうのね。実は他の人からも、あの男だけはやめなさいって、言われたりもして」
「何か、理由があったんですか?」
「まあね。あの人、風俗が趣味なの」
「ふ、うぞく?」
 一瞬、漢字変換できなくて何のスポーツだっけ?みたいな事を考えて、それからようやく「風俗」だと理解する。しかし、風俗が趣味って、つまり?
「いい大学出てて、経営コンサルタントで、年収もよくて、三十九歳で、見た目もそう悪くなくて、ケチでもないし、食事のマナーも服のセンスも問題なくて、まあ健康で、両親はお兄さん夫婦と同居してて、いい条件は十分にそろってるんだけど、風俗が趣味なの」
 桃子さんが口にすると、風俗、という言葉も何か、厳しい家元制度に守られた、古式ゆかしい芸術のように聞こえるのだけれど、そうじゃない。いわゆる、男の欲望をお金で処理するって業界、だったはず。
 しかし、桃子さんみたいに素敵な女性を妻にした男性が、それでも風俗なんて行くもんなんだろうか?私の頭の中は真っ白だった。
「それは、なかなか辛いですね」
 店主の言葉で私は我に返った。
 ここはもう、大人たちに会話を任せてしまおう。私は目を伏せ、ヤドカリのように自分の殻に引き上げて口をつぐむと、グラスの水を飲むことに集中した。
「そう、なかなか、というか、すごく、というか、辛い事だわ。何より、本人に全く悪気がないの。だってこれは浮気じゃないからね、あくまで趣味、遊びだよ。君がホストクラブに通ったとしても、僕は浮気だとは思わない。それと同じ事だから、なんて説明されちゃって。
 夫はね、すこぶる頭が良いの。だから理路整然と言われると、反論できなくなってしまうのよね」
 頭が良くても悪くても、駄目なものは駄目じゃないかと思うんだけど、まあ私も桃子さんと同じように、いや、それ以上に、言いくるめられる事には自信がある。
「では、お客様はその、ご主人と今も一緒におられるんですか?」
「そういう事ね。まあ何ていうか、その一点さえ目をつぶっていれば、あとの事はかなり上手に回っていくの。夫の仕事は安定しているし、私も今の仕事において特に不満はない。子供はいないけれど、だから経済的には余裕があって、自分の時間も持てるわけだし」
 桃子さんはそう言って、ふう、と一息ついた。束の間の沈黙。
 私は殻の中から様子をうかがう。もうそろそろ別の話題に移ってくれないだろうか。頼みの綱の店主は何も言わない。もちろん私が発言する空気じゃない。
「四年」
 再び口を開いたのは桃子さんだった。
「四年って長いのかしら短いのかしら。ねえ、ハニーさんどう思う?」
 いきなり私?でも無視ってわけにもいかない。
「な、長い、と思います」
「そう?でも結婚生活四年、って短くない?」
 結婚生活?確かに、うちの両親なんてほぼ三十年結婚してる。それに比べれば短い、か?
「オリンピックは四年ごとですね」と店主。
「やっぱり短いかな」
「第二次世界大戦は四年間続きました」
「それは・・・長いわね」
 桃子さんは汗をかいたグラスを手にとって揺する。小さくなった氷がかすかな音をたてた。
「実際のところ、長いと感じる日もあれば短いと感じる時もあるの。でもね、最近は、というかここ何か月かは、長い、というか、もう充分だという気がして。ね、ハニーさん、あなたが私だったら、どうする?」
「え?わた、え、僕?」
「そう、あなたがもし私の立場だったら」
 なんでまた私。背中に火がついたように暑くなる。
「僕が桃子さんだったら」
 どうするだろう。とりあえず安定した結婚生活、たぶん、人から見れば理想的。たった一つの事を除けば、あとは問題ない。でもそれって、桃子さんの夫は彼女を愛してることになるんだろうか。いやいや、結婚に愛なんて存在しない、そう言ったの誰だっけ。
「結婚、してないと思います」
 考えがまとまる前に口が答えていた。そして思う、アホちゃう?
 時間を遡ってどうするのだ。桃子さんの問いかけは今、この時なのに。
「なるほど。やっぱりハニーさんて慎重派なのね」
 私の的外れな答えに気を悪くした様子もなく、桃子さんは大きく頷いた。
「ていうか、やっぱり占いが怖いから・・・」
「あらそうなの?占いなんて怖くないわよ、ねえ」
 同意を求められた店主は「怖く、はないですかね」と言った。
「でも、選ぶべき相手じゃない人と結婚とか言われたら、ビビりませんか?」
「やだあ、ビビったりしないわ。ただ参考にするだけ」
「参考、ですか」
 私には何だかよく分からない。わざわざ京都まで占ってもらいに来たっていうのに、その程度?
「ハニーさんの周りって、占い好きな人あんまりいないんじゃない?私やムギさんみたいな占いマニアってね、そんな深刻に信じてるわけじゃないのよ。だからいくらでも見てもらうし、自分に都合のいい答えだけ信じるの」
「占いとのうまい付き合い方ですね」と店主が合いの手を入れる。
「四年の間、考えないようにしていたけれど、やっぱり私はあの人と結婚すべきじゃなかった。でも、あの人と結婚しないと気がすまなかった、っていうのも本当」
「それは、満足したっていう意味ですか?」
 わあ、何を質問してるんだろう、私は。
 桃子さんはこころもち首を傾げて「そうねえ」と、どこかで鳴ってる音楽に耳を澄ませているような顔つきになった。
「やり遂げた、って意味では満足なのかもね。ほら、ゲームなんて、一つステージをクリアしたところで、現実生活に影響なんてしないでしょう?でも達成感はあったりして。別に結婚をゲームだって言う気はないけど、そこに至る道のりは私の場合少し似ていたかも。で、やったあ、全面クリア!の後は、ああやっぱり結婚すべき相手じゃなかったな、ってことを認識する日々だったの」
 なんかすごい事を言ってるんだけど、桃子さんに愚痴っぽさだとか苦悩の色だとか、そういうものは見事に無くて、明るく笑顔なのだった。

 私はふと、姉のことを思い出していた。
 学生時代から付き合ってた彼氏と結婚するつもりで、仕事やめて東京まで追っかけていって、式場やら新居やら探し回って、カウントダウンに入ったところで、前カノと切れてなかった事が判明して。
 すったもんだして、いったん家に帰ってきた時は、やけ食いで一回り大きくなってて、なんか目つきが死んでて、やけに濃いチークのせてると思ったら、肌が荒れて真っ赤になっていたのだった。
 私はずっと姉の事を鋼のメンタルだと思っていたので、そんな風に外見が変わって、さらに心ここにあらずというか、受け答えの速度が三割がた落ちて、たいがいの事を「めんどくさ」で終わらせるようになったのには戸惑った。
 泣くだとか愚痴るだとか、判りやすいアウトプットだとこちらも対応のしようがあるんだけど、そういうわけでもない。というか、人間は本当に衝撃をうけると、動かすべき感情すらなくなってしまうんだと、私はあの時初めて知った。
 三か月、は余裕で超えて、でも半年はかからず、姉はある日とつぜん「帰るわ」と言って家を出た。
 実家に帰ってきてるのに「帰るわ」って何?とは思ったけど、そのまま引きこもりも怖いな、と思っていたし、両親も同じようなこと考えてたみたいなので、姉が去った後の我が家には奇妙な安堵の空気が漂っていた。
 後でわかったのだけれど、姉が出ていったのは彼氏と元カノが式を挙げた三日後だったらしい。その後都内から横浜に引っ越して、年末に帰ってきた時、幼馴染に電話しているのが聞こえてきたのだ。
「インスタに上がってた写真見たら、ものすごい不細工な嫁やってん」
 こういうの、負け犬の遠吠えって言うんじゃないかと思う。
「なんか、こんなアホみたいな演出する人いまだにいるんや、みたいな、ザ・地方なケバケバの披露宴。お色直しのドレスとか、おばあちゃんの社交ダンスかと思たわ。ほんで、来てはるお客さんもなんか野暮ったいていうか、もう会場全体が昭和。なんかセピア色じゃなくて黄ばんでるねん。あんなとこで呑気に笑ってられるようなアホと別れられて、ホンマよかった。間一髪やったわ」
 京都の人間は腹黒い、というのは偏見だが、京女であるうちの姉が腹黒いのは事実だ。彼女は自らのダークサイドに力を得て復活した。ファンタジーの世界なら完全にアウトキャラだ。
 あの時の姉が放っていた、夜叉だか修羅だかわからないような、粘度をまとった気配。それが桃子さんからは全く出ていない。悩み事ってのは人の心も体も蝕むものかと思ってたけど、美しいままで深く悩める人もいるのだ。
 もしかすると、うちの姉と桃子さんじゃ、人格的なステージが全く違うのかもしれない。桃子さんはお釈迦様レベルで、うちの姉は畜生道。なんせダークサイドに落ちた女だから。

「本当に、私の恋愛終わってる、って言葉は当たってる」
 桃子さんは背筋を伸ばし、軽くため息をついた。
「私もできればそんな事は言いたくなかったんですけど」と、店主は今更なフォローを入れる。
「どんな結果が出ても占い師を責めないのが、占いマニアの掟よ。それにね、これで本当に決心がついたわ」
「決心、とは、何をなさる決心ですか?」
「丑の刻参り」
「えっ?!」
 声をあげたのは店主だけではない。私もほぼ同時に叫んでいた。
「京都ってほら、丑の刻参り発祥の地でしょ?まずここでお参りして、夫への未練というか、そういうものを断ち切れたら、きっと具体的な行動を始められると思うの」
「それじゃ、わざわざ貴船神社まで夜中に行かれるんですか?」
「そうよ。でも一人じゃ怖いから、彼についてきてもらうの」
 桃子さんは、私の肩に手をおいた。
「ほ、本気だったんですか?」
 いったん「なかったこと」にした丑の刻参り復活で、私はうろたえていた。
「なに言ってるのよ、昨日の夜お願いしたじゃない」
「いや、あれ、何ていうか、冗談かと思ってました」
「たしかに急にお願いしたのは申し訳ないと思ってるわ。本当ならムギさんにつきあってもらってたんだから。でもこれ、冗談どころか、すごく真剣なの。私のこれからの人生がかかってるんだから、お願い。ね、ハニーさんの事、頼りにしてるわ」
 駄目。でも断るのも無理。桃子さんにこんな風に見つめられてお願いされて、嫌ですって言える人間は男だろうが女だろうが存在しない。顔を上げると、店主と目が合ったけれど、彼は何とも言えない気の毒そうな顔で私を見ているのだった。
「けっこう大変だと思いますけどね」
 せめて思いとどまらせようとしてくれたのか、店主の言葉はしかし、桃子さんには大して響かなかったみたいだ。彼女は「でも、このために京都まで来たんだから」と言いながら、ショルダーバッグから何やら取り出した。
「あはははは」
 店主の乾いた笑い声が、しんとした店の中で薄れてゆく。まあ確かに笑うしかないかも、と思いながら、私は桃子さんが手にした藁人形を眺めていた。
「本当に、本気なんですね。五寸釘とかもお持ちなんですか?」
「ええ、でも釘と金槌は重いからホテルに置いてあるの。これだけは大事だからずっと持ってるのよ」
 藁人形は手作り、と呼ぶにはしっかりした感じで、もしかするとこういう物を受注生産する人がいるのかもしれない。胴の部分には白い布が巻かれていて、筆で何か字が書いてある。旦那さんの名前だろうか。
 さっきまでにこやかに会話していた店主だけれど、藁人形が出てきた途端に、なんだかぎこちないというか、急に笑顔が二割増しぐらいになった。明らかに桃子さんのこと、ヤバいと思ってる。
 でも私が気づくぐらいだから、桃子さんにもそれはちゃんと伝わっていて、彼女はコンパクトをしまうようなさりげなさで藁人形をバッグに戻すと、「そろそろ行きましょうか」と微笑んだ。
 

 
 

土曜の夕方

「ほらね、ちゃんと準備したのよ」
 桃子さんキャリーバッグをかき回し、ピンクの花柄、たぶん本来はランジェリー用と思しきポーチを手にすると、そこから何か取り出して放ってよこした。
 鈍い金属音をたて、ベッドカバーの上に転がったのは、ボールペンほどもある、いわゆる五寸釘という奴が三本。
「あと、これも」の声とともに続いたのは金槌で、こちらにはホームセンターの値札がついたままだった。
「私が十分本気だって、わかったでしょ?」
 言いながら、桃子さんは五寸釘と金槌の隣に藁人形を並べた。丑の刻参り三点セット。
 私は「はい」と素直に頷いて、さらに身体を縮めた。
 
 コーヒー占いの店を出て、桃子さんはさらにあちこち、目についた店で買い物をした。
 草木染のスカーフ、大吟醸酒粕入りのフィナンシェ、草花を漉き込んだ和紙のはがき。そういった趣味の良いものを選び取る彼女が、本気で丑の刻参りを決行しようとしている。
 もしかして、こういうのが本当の女性で、私が自分を女子だと思ってるのは単なる現実逃避なんだろうか。
 美しくて優しくて上品で、そして恐ろしい。この振れ幅の間は断層ではなく、グラデーションでつながっている。相反するようで、どっちもありで、その理由は「だって女ですもの」なのだ。
 暑さも加わって、私は脳内とっちらかった状態で桃子さんの泊っているホテルへと戻り、荷物を運んでいるから、という理由でこの部屋までついて来てしまった。
 ゆったりしたツインルームで、窓からはレースのカーテンを透かして、夕刻へと翳り始めた九月の青空が見えた。その手前に置かれたテーブルセットの椅子が、私の避難場所だ。
「ねえ、本当に遠慮なんかしなくていいから、シャワー浴びればいいじゃない。暑いのにあちこちつきあわせちゃって、汗かいたでしょ?タオルやなんかはムギさんの分を使えばいいから」
 桃子さんはそう言いながら、冷蔵庫からペットボトルの緑茶を二本取り出し、一本を私のいるテーブルに置いた。そして自分はベッドに腰掛けると、残りの一本を開けて少し飲んだ。
「準備してきたの、これだけじゃないのよ。虫よけもあるし、スニーカーも持ってきたし、長袖のシャツも。あと、頭につけるライトも買った。ちゃんと二人分あるわ」
「そうなんですか」
「知ってる?丑の刻参りって、本当は白装束でないといけないの。それで、頭に五徳、っていうの?理科の実験で、アルコールランプの外側に置く金具があるじゃない。丸い輪っかの下に足が三本ついてる奴。あれを逆さまに頭にのせて、三本の足にそれぞれ蝋燭を立てるんだって。さすがに無理よね」
 よかった。桃子さんがそこまで思い詰めてなくて。
「でね、七日の間、通い続けるの。そうしたら七日目の夜に、大きな黒い牛が通せんぼするみたいに座ってるんだって。それを怖がらずにまたぐことができたら、願いが叶うらしいわ」
「七日間、やるんですか?」
「それも無理。私のは結局、なんちゃって丑の刻参りで、今夜一晩だけ。でも、もしかしたら、黒い牛がいるかもしれないわね」
「いたら、またいで下さい」
 私の言葉に、桃子さんは声をあげて笑った。そしてペットボトルの緑茶を少し飲む。
「ねえ、本当にシャワー浴びないの?だったら私、軽く汗を流してくるから、しばらく待ってもらっていい?お菓子とかあるから、食べてて」
そう言って彼女は、キャリーバッグからマカロンだのチーズおかきだの、色んなものを取り出し、五寸釘のそばに並べた。
「あ、いえ、結構です。下で、ロビーで待ってますから」
 何たる失態。
 桃子さんはずっとシャワーを浴びたかったに違いない。私は運んできた荷物を置いて、すぐに立ち去るべきだったのに、図々しく居座ってしまったのだ。
 桃子さんは「ここにいればいいじゃない。テレビでも見てれば?」なんて言ってくれたけど、私はもう、いたたまれなくて、逃げるように部屋を後にした。

 ロビーはこれからチェックインらしい、荷物を持った人や、桃子さんのようにショッピングの戦利品を抱えて戻ってきた、タイかどこかの団体客でにぎわっていた。ソファはほとんど占領されていて、仕方ないから空きが出るまでうろついてみる。
 フロントの脇にはツアーバスやグルメガイドなんかのパンフを並べたコーナーがあって、その隣にはホテルのイベント関連のチラシもある。
 ソムリエと味わう、秋の味覚を楽しむワイン。名月と室内楽の夕べ。紅葉めぐり連泊プランにクリスマスのディナーショー。
 外はまだ残暑でぎらついているのに、見ているだけで頭の中の季節が進む。秋だとかクリスマスだとか、それすなわち恋人たちの季節で、私には望むべくもない楽しみが、夏に疲れた人たちを誘っているのだった。
 もしも、万が一、奇跡が起きて。どれでもいいけど、青木センパイと二人、たとえば秋の収穫祭ディナーなんてのを楽しむことになったとしたら。嬉しい。嬉しいんだけどその反面、一体どういう顔して何を話せばいいんだかわからない。
 いや、だから。冷静なもう一人の私が突っ込む。
 そんな事現実にはありえないから、あれこれ考えるだけ無駄。まあ、見方を変えれば、実現しようのない事だし、めいっぱい妄想繰り広げてたらどう?
 そして私は後者を選び、まずはどういうきっかけでセンパイが私を誘うか、という時点から妄想をスタートさせる。たとえば、バイトを代わってあげた友達からペアの食事券もらったんだけど、女の子誘うのもハードル高いから、なんて感じで。
「あれ?また戻って来たん?」
 青木センパイの声がする。
 まさか。妄想があふれ出して、ついに幻聴発生?ちゃんと現実に立ち戻ろうと、私は深呼吸して頭を振った。でも、目の前にいるのはやっぱり青木センパイだった。
「センパイ、ここで何してはるんですか?」
「何って、バイト上がりでチラシ見てるんやん。うちのオカンが来月、親戚と一緒に京都来るんやけど、あちこち案内させられても困るし、なんかええツアーとかないかなと思って」
「そうなんですか」
 言いながらも、私は心臓バクバク。まさか本当にここでまた会えるなんて。
「そんな驚かんでええやん。あの、一緒にいた綺麗な女の人は?」
「桃子さん?」
 私の心臓は、さっきまでの喜びとは別の力で暴れ始める。
「今、ちょっと部屋に荷物置きに行ってはるから、ここで待ってるんです」
 シャワー浴びてるなんて、センパイの煩悩に餌を与えるような事は絶対に言わない。私がここにいるのに、ここにはいない桃子さんのことを聞かれただけで、もう十分に傷ついた気分で、それをまたもう一人の私が冷ややかに眺めている。
「なあ、あの人お前のこと、ハニーさん、て呼んでるやん。あれなんで?」
 やっぱり聞かれてた!
 なんかもう死ぬほど恥ずかしいのだけれど、答えないわけにもいかない。私は最低のテンションで「うちの姉さんがつけた綽名なんです。名前のミツヨシにひっかけて」と説明した。
「ミツヨシ?ああ、蜜やからハニーか、おもろいやん!学校でもハニーって名乗っといたらええのに」
「そんなん、みんなドン引きですよ」
「そうかな、俺はけっこう違和感ないで、ハニー」
 うわあああ。身悶えしそうなくらい嬉しい。と同時にめちゃくちゃ気恥ずかしい。
 私はまともにセンパイの方を見られなくなって、何の興味もない「和菓子の名店で手作り体験」のチラシを手にとった。
「しっかしアレやな、姉さんのいる奴は慣れてるっちゅうか、女の人としゃべるのに緊張せえへんからええなあ」
「え、僕ですか?」
「そやんか」
「そんな事ないです。それに、うちは姉と年が離れてて、半分親みたいなもんやし」
 なんだか不思議な気がするんだけど、私から見るとセンパイは本当に人当りがいいというか、誰と話す時も自然体だし、最初にここで桃子さんと会った時も、緊張してるそぶりさえ見せなかったのに。
「センパイは、男きょうだいだけなんですか?」
「うん、兄貴がおるねんけど。五つ年上の」
 そこでセンパイは言葉を切り、取りかけていたチラシをラックに戻した。
「わけあって、というか、障碍があって、施設に入ってる」
 これは。私は何と言うべきかわからない。
「なんかそういう兄貴がいるて、学校の友達とかにもはっきり言えへんかってんな。でも、兄弟いません、と嘘つくのは兄貴のこと否定してるみたいやし。まあ、ちゃんと言うようになったんは大学入ってからやな。社福って、けっこう同じような奴が来てるし」
 社福、というのは社会福祉学科、の略称。
「それはつまり、自分の家族のために、福祉系の仕事をしようって事ですか?」
「別に直接、面倒見るわけちゃうけど。家族にそういう人間がいると、そっち関係の仕事もありや、って早いうちから思う奴が多いんやろな。実際、俺は親からはあてにされたりする事もあったし」
「あてにされる?」
「お兄ちゃんのこと、助けたげてや、って。親だけやないで。爺さん婆さんに親戚、近所のおばちゃんとか、面と向かって言われてなくても、言葉の端々には常にあるわけや。自分が生まれたのは兄貴のサポート要員なんやって、小さい頃からその自覚はあんのよ」
「なんか、すごいですね。尊敬するというか」
「尊敬」と、私の言葉を繰り返して、センパイは苦笑いした。
「それは完全に幻想や。障碍持ってる人間と関わってる奴は偉い、って。自分にはとても無理。そんな面倒なことできる人は、とりあえず尊敬しとこ。いや違うな。敬して遠ざける、やから敬遠や」
 センパイのその言葉に、私はしまった!と背筋が寒くなった。なんか、たぶん、一番ムカつく種類のことを言ってしまったのだ。安易に持ち上げようとして。
「すいません」
 一瞬前の浮足立った気持ちが、霧のように消えてゆく。さっきの桃子さんとのやりとりもそうだけど、結局のところ私は、相手の事なんて少しも真剣に思い遣ったりしてないのだ。
「なんで謝るねんな」
「いや、なんか軽々しく、尊敬するとか言ってしもたから」
「責めてるわけとちがうで。俺が言いたいのは、俺らは別に偉いわけじゃなくて、普通やいうこと。社福を選んだんは進路の選択肢として、わりと判ってる業界やからや。なんも崇高な使命感とか、そんなんあらへんねん」
 そうフォローされても、私の落ち込みはおさまらない。それはセンパイにもばっちり伝わったみたいだった。
「正直なところ、こういう空気になるのが嫌で、俺は兄貴のことを黙ってたんやろうな。なんか知らんけど、気まずくさせるネタやねん。兄ちゃん障碍あって施設入ってんの?へーえ。それだけで終わる相手の方が楽やねん。あれこれ気ぃ遣って、優しいこと言うてくれる相手の方がしんどいんや。ものすご変な話やけどな」
 淡々とした口調でそう言うと、センパイは「舞妓さん変身フォト&人力車ツアー」のチラシを手に取った。
「これ、年齢制限あらへんのかな。オカン、行きよるかもしれへん」
「センパイ」
 私は意を決して話しかけた。
「何?」
「さっきの発言撤回して、へーえ、に直していいですか?」
「直す?」
「あの、尊敬するって言うたん・・・」
 センパイは一瞬固まって、それから例の眩しそうな笑顔になった。
「そんな気にせんでええのに。でもまあ、そっちの方がええかもな」
「じゃあ、へーえ、で」
「呑気さが足りんわ、もっかい」
「へーえ」
「うん、そんなとこかな」
 私の渾身の「へーえ」に頷くと、センパイは「思てたよりずっと面白い奴やな、ハニーは」と言った。
「そんな面白いことないです」
「ていうか、隠してるねん。サークル来ても、いっつも隅の方におるやろ?ほんで、気ぃついたらもうおれへんし。サトリンとかタグッチに、後から晩飯食いにいく時はつかまえとけ、て言うてんのにな」
 なんかこう、頭がクラっとなるような感じ。
 ただセンパイの顔見たいだけで行ってるサークルのミーティングで、まさか私の存在が目に留まってたなんて。でも、気がついたらいないのは当然で、みんなで食事なんて、何を話したらいいか判らないから、サトリンたちが世間話で盛り上がってる隙をついて逃げてるのだ。
「今年も学祭で塩おでんの模擬店やるし、動画も作るし、ハニーにも色々やってほしいし」
「はい」と返事したつもりだけど、胸がつかえてろくすっぽ声が出ない。
 判ってるのだ、私なんかワンオブ後輩で、一回生の中心人物であるサトリンやタグッチに比べたらほぼ余剰人員だって事。それでもこうやって青木センパイは、同じように扱おうとしてくれる。そしてそこが、センパイの一番好きなとこ。いや、結局のところ、私はセンパイのこと、そういった表面的なところ以外は何も知らずにいる。
 ここからどうやって会話を展開させればいいんだろう。質問する?何を?好きなタイプってどんな子ですか?唐突すぎる。彼女いるんですか?もっと唐突。
 いっそのこと、相談とかしてみようか。好きな人いるんですけど、どうしたら振り向いてもらえると思いますか?センパイはどう答えるだろう。
 私は自分の体内にほぼ存在していない勇気をかき集め、センパイの顔を見た。でも、彼の視線は私じゃない相手に向けられていて、その表情の変化は私の心もとない勇気を一瞬で吹き飛ばしてしまった。
「お待たせしてごめんなさいね」
 そう言って、こちらへ歩いてきたのは桃子さんだった。
 シャワーの後の、なめらかな肌にまとった、洗いざらしの白いシャツ。開いた襟元からのぞく首筋に、さりげなく輝くダイヤのペンダント。細身のジーンズに足元は白のスニーカーだけれど、高級フレンチでのディナーにも行けるような品の良さがあって、うちの母親ふぜいが日ごろ着回している「洗いざらしのシャツ、ジーンズ、スニーカー」とは次元が違っている。
 そして桃子さんは自分に見とれている青木センパイに「アルバイト、終わったの?」と微笑みかけた。
「あっ、はい。ちょうどこいつがおったんで」
 センパイは一瞬だけ私を見て、また桃子さんに視線を戻した。その二つの視線には明らかな違いがあって、まあ何というか、私に向けられたのが銅の視線なら、桃子さんに向けられたのは金の視線。
「お二人は大学のお友達なの?」
「はい。おんなじサークルなんです。僕が四回生でハニーは一回生」
「ああ、先輩後輩なのね。でもサークルって、何のサークルなの?」
「すごい地味なんですけど、裏京都研究会って名前で、まあ、観光とかでは取り上げられへんような、京都の裏の顔を発見していこうという集まりです」
「それは面白そうね。京都の裏の顔って、すごくマニアックな感じ。ねえ、丑の刻参りって京都が発祥の地だって知ってる?」
「あの、藁人形に釘打つ奴ですか?なんか安倍晴明がどうとかいう」
「それそれ。私ね、今晩その、丑の刻参りをしようと思ってるんだけど、ご一緒にどうかしら」
 なんで?なんでいきなり桃子さんが青木センパイを誘うわけ?裏京都研究会だから?だとしても、初対面で丑の刻参りに誘われて参加するような人、いるの?
「いいんですか?なんか肝試しっぽくて面白そうやし、行きますわ」
 センパイのあられもなく弾けた笑顔を見て、私はようやく悟る。桃子さんに誘われたら誰だって、地獄の底でも喜んでついて行くのだ。男なら。

土曜の夜

 裏京都研究会、略してウラ京は総勢三十人たらずの弱小サークルで、その名の通り京都の裏側を研究するのが建前上の活動内容。
 どうして私がこんなサークルに入っているかといえば、入学二日目のオリエンテーションの帰りに、手あたり次第、という感じで勧誘されたのがきっかけだった。
 女子が多いから楽しいだとか、街歩きの勉強会でめっちゃ京都通になれるだとか。色々言われたけど、生まれてからずっと京都にいる者として、なんで今更京都なん?としか思えず、話を聞いてるふりをしながら、じわじわと距離をとり続けた。
 そして、いざ「すいません、用事あるんで」と逃げようとしたところに、現れたのが青木センパイだった。
 初対面でどストライク、というか、センパイは世にいうイケメンではないのだけれど、私の好きな顔立ちをしていた。どこがというと難しいのだけれど、しいて言えばやはり目元で、一重で表情が読み取り難いようでいて、何かこちらを安心させるような、暖かな光を宿している。その光は彼が笑いを浮かべるとさらに輝きを増した。
 ほぼ暗黒の中学高校時代を経て、大学生になったら何かが変わるかも、なんて淡い期待に浮かれていたのも事実で、私はその期待のすべてを青木センパイに投入して、裏京都研究会に入った。

 新生活への過剰な期待が消え失せるのに、そう時間はかからなかった。
 サークルにいるのはほぼ全員が他府県の出身者で、おまけに京都大好き。ネイティブ京都人の私など足元に及ばないほど、この古い街のあれこれに通じていて、話題もやたらとディープでついて行けない。
 なのにどこかでスイッチが入ると、こういうとこ、京都の人ってやだよねー、と下宿の大家さんや、バイト先の奥さんなどに言われた、された、「いけず」を披露しあっての京都人糾弾集会が始まったりして、これも肩身が狭い。
 別に、一緒になってワイワイやってればいいんだろうけれど、私にはそれができなかった。まるで大縄跳びに入り込めなくて、ずっとタイミングをはかってるような感じ。誰に意地悪されたわけでもないのに、誰からも「入れ」と言われてない気がして、後ずさりしていた。
 頼みの綱のセンパイが、就活で忙しいらしくて、あまり顔を出さないのも想定外だった。
 さらにサークルだけじゃなくて、ふだんの授業でも同じような感じで、まあ少し言葉を交わすような子はいても、昼ごはん食べに行こう、だとか、一歩踏み込むことができない。おまけに自宅生なもんだから、下宿を行き来するようなこともないし。
 そうやって、気がつくと私の生活はまた、暗黒時代に戻ろうとしていた。
 大学って縛りがきつくない分、中学や高校よりも人とかかわらずに過ごせてしまうのだ。授業は大して面白くもないというか、そもそも自分の頭で入れるところ、というのを基準にしているから、学科に対する思い入れも薄い。
 私、何しにこの大学に来てるんだろう。
 四年たって卒業して、それからどうするつもり?
 一生男のふりして暮らす覚悟あるの?
 結局のところ、大学に入った程度で私の抱えてる問題は解決しないというか、せいぜい先送り。いや、センパイと出会ってしまったために、事はさらに切羽詰まったともいえる。
 アホちゃう?
 出会ってしまった、などという表現は、両想いの恋人にのみ許されるものであって、私のくすぶりまくっている片思いが使えるはずもない。
 まあそんな事ばっかり頭の中を行き来していて、授業もさぼりがちで、両親共働きなのをいいことに、昼間っから家で寝転がってたりする。そして天井見上げて呟いたりするのだ。
「死にたい」
 もちろん今すぐ死ぬ勇気などないんだけど、自分の前に横たわってる、気が遠くなるような年月を生き続けることを考えると、そんな事も言ってみたくなるのだ。
 途上国の飢えた子供だとか、紛争地帯の難民だとか、そういう人に比べてどれだけ自分がぬるま湯の生活かというのは判ってる。判ってるんだけど、どうしようもなく苦しい。
 今日は昨日の続きで、また明日がやってくる、でもそれは私のほしい明日じゃない。

「何?あんた丑の刻参りしてるんちゃうん」
 電話の声から察するに、姉は酒が入ってるようだ。
「それはこれから。丑の刻って夜中の一時から三時の間やし、時間つぶしてるねん」
「暇やし電話してきたん?ほな切るで」
「待ってって、用事はちゃんとあるんやから。なあ、この前電話した時、桃子さんのこと、ジェットコースターの桃子さん、て言うたやろ?」
「そやな」
「人生ジェットコースターって」
「そうそう」
「あれ、どういう事なんか詳しく教えてほしいねん」
 姉の背後から、ハングルらしきものが聞こえてくる。土曜の夜、女ひとりでビール片手に韓流ドラマってところか。
「それは言わへんって、言うたよね。知りたかったら本人に聞いたらええやん。一緒にいるんやろ?」
「今は一緒ちゃう。ムギさんとこの病院に差し入れ持って行ってはる。叡電の最終に合わせて出町で集合やねん。歩美ちゃんが桃子さんの身の上話するのはルール違反って言うたんは憶えてるけど、緊急事態やねん」
「はあ?緊急事態て、どういう事?」
「どういう事って」
 これ、どう説明したらいいわけ?実のところ私にもよく分からないというか、どうして自分がここまで不安で焦ってるのかが理解できない。
「切るで」
「待って待って!あの、丑の刻参りに、参加者が増えてん」
「ほう、よかったやん、にぎやかなって」
「それがサークルの先輩やねん。たまたま、桃子さんが泊ってはるホテルでバイトしてはって、よかったら一緒にどうですか、みたいな話になって」
「そやし、よかったやん」
「よくないねん」
「なんで」
「なんでって、先輩がなんか、桃子さんに気があるみたいで」
「そんなん、男やったら当たり前やろ。ましてやお誘いを受けたとなったら」
「その、お誘いって、桃子さんも先輩のこと好きっていう意味?」
 姉が新しい缶ビールを開けたらしい、プシュっという音が聞こえる。
「あんたその先輩とやらが好きなん?」
「かもしれん」
「切るで」
「いや…好きなん」
 はーあ、というため息の後に「勝ち目ないやん」と続いた。
「そんなんわかってる」
「わかってるんやったら、大人しゅうしてたらええのに」
 ごもっとも。電話の向こうではビールを飲んでいるらしい姉の沈黙。わかった。もう切ろうかな、と思っていると「群馬の高校時代からモテまくりやったらしいわ」という声が聞こえた。
「学年の男子全員が告白した、いう伝説があるらしいよ」
「それ、誰にきいたん?」
「基本、ムギさん情報。ムギさんは桃子さんの幼馴染とも仲がええから、武勇伝を色々知ってはるねん」
「ホンマに顔ひろいんやなあ」
「でもな、本命の彼氏が一つ上の学年にいたから、告白した男子は全滅。ほんで、大学で東京きはって、さらにブレイクやな」
「本命の彼氏は?」
「浪人したのに東京の大学全部こけて、終了。桃子さんはF大の指定校推薦やって。格が違うねん」
「すごいね」
「大学では超人気ゼミ入って、指導教官に気に入られて、BSの経済番組のアシスタントしてはってん。サークルはテニスかな?高校からやってはったから、強いらしいで。ゴルフも大学デビュー。言い寄る男は山ほどいたけど、その中で一番あかん奴と付き合ってたって」
「あかん奴?」
「今で言うモラハラ?千葉かどっかの成金のぼんで、頭悪いのにやたら自分満々ていうタイプらしいよ。何べん別れても、またひっついてしまうという、傍から見たら完全に理解できひんカップル」
「なんでやねんろ」
「それがわかったら本人も苦労せえへんで。友達にはいっつも彼氏のことで相談してたらしいし。でもまあ、成績優秀やし美人やし、就職は一部上場、東邦興産で本社勤務。普通やったら五年はかかるところを、一年で花形のチームに抜擢や」
「さすがやね」
「でもそこ、三年で退職しはってん」
「なんで?」
「例のモラハラ彼氏と結婚。最初は仕事は続ける、いう話になってたのに、いつの間にか彼氏の家の仕事を手伝うように持ってかれて、言われるがままに退職」
「え、待って?それが今の旦那さん?」
「違います。いま話してんのは一人目の旦那」
「じゃあ、離婚しはったって事?」
「それをこれから話すんやん。結婚退職します、いう時は友達みんなで、早まるな!て止めたらしいし、本人もやっぱり違う、とか思い始めてたらしいけど、なんか式場も予約したし、指輪も買ったし、家具もそろえたし、みたいな感じで勢いにまかせて強硬突破。幸か不幸か、結婚したとたんに洗脳が解けて、半年で桃子さんから離婚を持ちかけはってん」
 どっかで聞いた話だな、と思う。ま、姉の場合は結婚秒読みで回避した方だから、こっちの方が傷は浅いはず。
「そやけど、いきなり離婚いうたかて、別に旦那に落ち度があったわけちゃうやんか。合意の上で結婚したのに、桃子さんが一方的に嫌になりました、ていう解釈になるわけ。それでも絶対に別れたい一心で、弁護士たてて、桃子さんが慰謝料払うかたちで離婚成立や」
「なんか、桃子さんて男前やね」
「ほんでや、また仕事探さなあかん、と思てたら、東邦興産の方から、フリーになったんやったら是非きて下さいって、お誘いがあったらしいよ。さすがに本社は無理やったけど、子会社の正社員で返り咲き。ところが好事魔多しっていうのかな」
 姉のしゃべりに時として、妙に古臭い言い回しが入るのは、西陣のじいちゃんの影響かもしれない。
「こんどはそこの上司と不倫しはってん。しかも難儀なことに、上司の前の不倫相手もおんなじ職場に残ってて、おまけに未練も残ってます。ザ・三角関係やね。ほんでまあ、桃子さん本人にもやっぱり悪い事してる、いう気持ちはある。いっそ退職して手を切りたい、そやけど生きるために仕事はせんならん。会社行ったら上司いる。前カノからは嫌がらせ受ける。そんな生活を二年ほど続けたら、完全にメンタルやられてドクターストップ。休職して療養生活」
「でも、治るのは治った?」
「そう。一年後になんとか復帰。休職してる間に上司は左遷されてて、前カノは辞めてたんやけど、新しい女の上司がなかなかのビッチや。絶対に第三者の前では尻尾出さへんタイプのいけずやねん。そやし、自分がやられた事、誰に言うても「まさかそんなぁ」みたいな感じで信じてもらえへん。「気にしすぎ」とか言われて完全アウェイ。ほんで、さすがの桃子さんも、もう無理!って退職や」
「はあ、なかなかに壮絶やね」
「ジェットコースターや、言うてるやんか」
「ほんで、どうしはったん?」
「まあ、とにかく食べるためには仕事せんとな。桃子さんの偉いとこは、自分の食い扶持は自分で稼ぐとこやな。男におんぶにだっこ、とはならへん。まあ、それが平気な人やったら、また違う人生かもしれんけど」
 姉はビールを飲んで一息いれる。韓流ドラマはどうも痴話喧嘩が持ち上がったようで、女同士の激しい言い争いが聞こえてくる。
「ほんで、次の仕事探しにあたって、やっぱり何か一生もんの資格を持とうと思わはって、バイトしながら専門学校でファイナンシャルプランナーの勉強や。元々優秀な人やから、勉強はさくさく進んだけど、問題はバイト先」
「何のバイトしてはったん?」
「時給がええから、水商売系。いうても会員制のバーらしいわ。お客さんはお金持ちばっかりで、しかもジジイが多いから、桃子さんはすごい人気やったらしいよ。でも何故か、そこのバーテンダーとつきあわはるんやな。そっちかい!みたいな」
「でも、バーテンダーやなんて、かっこいい人やったんちゃう?」
「あかんあかん。とにかく謎の人物で、まず絶対に自宅を教えへん。ほんで、その人と仕事上がりに近所の店とか行くやん、そしたら彼氏がトイレとか行ってる隙に、店の人から声をひそめて「あの人だけはやめろ」言われるんやって」
「何?犯罪者?」
「いうか、何人も泣かせてる、いう奴やろ」
「それで、桃子さんは怖くなかったんかな」
「さあねえ。でも子供できてしもたら、やっぱり結婚しよかなと思うわけやん」
「子供?バーテンダーさんの?」
「そう」
「桃子さんて、子供さんいはったんや」
「まだ話は終わってへんで」
 姉の声には不穏な響きがある。
「妊娠もしたし、これは本気で結婚の話をせんならんと思って、桃子さんは彼氏の家まで行かはった。住所は彼氏が寝てる間に免許証で調べてな。それで、行ってみたら家の前にどーんと三輪車とか砂場セットとか置いてあるわけよ。まさか、と思いながらも、遠巻きに見てたら、今度は中から女の人が出てきはって」
「奥さん?」
「普通に考えてそれしかないし。おまけにお腹大きいねん」
「ええ~?!」
「それで桃子さんも、これはもうあかん、となって引き上げはった。で、シングルマザーになるしかないと、覚悟を決めたんやけど、認知だけはしてもらおうかと思ったんやね。それも含めて彼氏と話をしようとしたんやけど、向こうから先制攻撃で、お前こないだ俺の家のあたりうろついてたやろ!いうてブチ切れられて」
「え?なんで怒られなあかんの?」
「嘘ついてんのばれたから、逆切れして暴れてるだけや。そこでかなりの暴力ふるわれて、ショックもあってか流産しはってん」
「なんか最悪やん」
「そやなあ。ま、不幸中の幸いは、そこでそいつと縁が切れたことやろな。まあ、それと前後して資格もとれて、保険代理店で働くことが決まって。人間万事塞翁が馬、言うんかな」
「何それ」
「まあ要するに、人生いいこともあれば悪いこともあるということ」
「でも、いいことは桃子さんの努力の結果やし、悪いことは彼氏とか上司とか、他の人のせいやんか」
「見方を変えれば、そういう人間関係を選んだ結果やもん、しゃーないわ。とにかく、心機一転、新しい職場で新しい生活が始まりました。そこで出会ったんが今の旦那さん」
「ようやく出てきた」
「業務提携先の税理士さんやねんて。それで、わりとすぐに結婚しはって、現在に至る。そやけど今の旦那、風俗通いが趣味やねんで」
「え!歩美ちゃん、そんな事まで知ってんの?ムギさんから聞いたん?」
「そう。あの人、だって秘密だったら、他の人には黙ってて、ってお願いするじゃない。でも桃子ちゃんはそんなの言わない人だからいいのよ、やって」
「そうかあ」
「あんたこそ、なんで旦那の趣味のこと知ってんの」
「いや、桃子さんから直接きいてん」
 言ったとたんに、耳が痛くなるほどの音量で姉が爆笑した。
「やっぱ桃子さんてすごいなあ!そういうえげつない事でも、初対面の相手に言わはるんや。ほんで、口止めされた?
「ううん。なんか普通に、さらっと言われて、聞き間違いかと思ったぐらい」
「そやろ?桃子さんはそういうとこが凄いねん。ムギさんは、あれだけ色々あったのに、美貌が全く損なわれてないのよ!って絶賛してはるし」
 確かにそうだ。誰であろうと、桃子さんの外見からそんな人生は想像できないだろう。
「ま、そういうとこやね。あんたなんか足元にも及ばへん相手やし、せいぜい男の落とし方でも勉強させてもらったら?」
「え?でも、桃子さんて、ヤバい男の人が好きなタイプなんちゃうの?年下は対象外やんな?」
「私がしゃべったんは、ムギさんからきいた話だけで、桃子さんの恋愛遍歴のすべてではありません。もしかしたら氷山の一角かもしれんな」
「何それ、どういう事?」
 焦る私に「ほなおやすみ~」と一声かけて、姉は通話を切った。
 氷山の一角。
 私は携帯を握りしめたまま、鴨川の三角州に座っている。そして桃子さんとの集合時間まであと十五分だった。
 

土曜の終電発車時刻

 叡山電鉄出町柳発鞍馬行き。こんなローカルな電車の終電なんてがらがらだろうと思っていたら、二両編成の車内はけっこうな混み具合だった。
 仕事帰りらしい人に、大学生。それに加えて、この人いったい何してる人?と思わせる風情の人がちらほら混じり、大手の私鉄八両分のバラエティが、まんま凝縮されている感じ。
「この電車、前にも乗ったことあるけど、江ノ電みたいな感じよね。家のすぐ近くを走ったりして。でも、夜はまた違うわね」
 桃子さんは少しはしゃいだ声で私の隣に腰を下ろした。江ノ電なんて、そんなおしゃれなものと比べていいのかと思いつつ、私は少し席をつめる。
「ね、青木くんって本当に自転車で大丈夫なのかしら。こんな夜遅くでおまけに山道じゃない?」
「たぶん大丈夫とは思いますけど」
 実のところ、桃子さんが心配する百倍も千倍も、私は心配していた。
センパイも丑の刻参りに参加するっていうから、てっきり一緒に叡電に乗ると思ってたら、まさかの自転車現地集合だなんて。
「俺、いっつも実家帰るの自転車やしな。こないだ京都戻ってきて、ちょっとギアの調子悪いし自転車屋に預けてた奴、バイト終わってから取りに行く予定してたんや。そやし、試し乗りもかねて貴船口の駅まで行くわ。晩は車も少ないし、終電の時間には余裕で間に合うで」
 それだけ言い残して、青木センパイはホテルのロビーからあっさりと姿を消してしまったのだ。
 自転車で夜道を貴船まで走る。なんか男らしすぎてうっとりしてしまう。でも、もしかして、桃子さんの前でいい格好したいのでは?と私の醒めた邪心が勘繰るのだった。
「本当に若い子って元気でいいわね。何だかこっちまで元気もらえそうだし、何より心強いわ」
「でも僕は、センパイみたいな元気ないです」
「ハニーさんも十分元気よ。あのね、若い時って自分が元気って判らないもんなの。で、私ぐらいの年になるとね、ああ、あの頃は元気だったなあ、って実感するのよ」
「そんな、桃子さんかって・・・」
 十分若いじゃないですか、という続きの言葉をかき消すように、アナウンスが流れ、電車がゆっくりと動きだす。
私はうつむき加減に、さっき姉から聞き出した桃子さんのジェットコースター的人生を思い出す一方で、やっぱりあんな掟破りな事、しなければよかったと後悔もしていた。
 いま、私の隣に座っている、この車内で一番美しいことほぼ確定の桃子さんと、モラハラ男とスピード離婚したり、上司と不倫したり、妻子持ちに騙されたりしてしまう桃子さん。私の頭の中でこの二人はどうしても一つに重ならない。
 桃子さんが誰かを好きになるポイントって、一体何なんだろう。
 あれこれ考えるうちにも、電車は走る。といっても自転車並みの速度で、しばらく走れば次の駅。そのたびに降りる人はいても、誰も乗ってはこない。
 桃子さんは時おり外に視線を向けたり、「宝ヶ池って、なんだか素敵な名前ね」なんて言いながら、この超ローカル列車を楽しんでいる様子だった。
 来るべき丑の刻参りのために、Tシャツの上に長袖のシャツを重ね、ジーンズにスニーカーと装備を整えている。無造作に膝にのせているキャンバス地のショルダーには、藁人形と五寸釘を忍ばせているはずだった。
「そうそう、病院に行ったら、ムギさんに鯖寿司食べたいって言われて」
 桃子さんはスマホを取り出すと、検索を始めた。
「だいたい有名なとこって、このあたりかしら」
 差し出された画面には、ほぼ円に近い断面の肉厚な鯖寿司が輝いていた。たしかこれ、けっこういいお値段のする老舗の奴。
「なんかね、一晩で退院できなかった理由が、血液検査で引っかかったかららしくて。先生に血液ドロドロって言われたんだけど、そういう表現って医療者としてどうかと思うのよ!って、ご立腹。彼はイケメンではあるけど、修行が足りないわね。ずっと入院しといて教育してやろうかしら、だって」
「それと、鯖寿司と、どういう関係があるんですか?」
「だから、鯖を食べて血液サラサラにするって意気込んでるのよ」
 たしかに鯖とかって身体にいいらしいけど、その下にみっちり詰まったお米に含まれるカロリーはどうなんだろう。でもそういう指摘はムギさんにはたぶん無意味。
「病院に持って行ってあげるんですか?」
「ううん、明日、帰りの新幹線で食べるの。仕事もあるし、明日は東京に帰るってことで、退院の許可は出たんだけど、熱中症って侮れないわね」
「ムギさんのお仕事って、僕はよく知らないんですけど、何してはるんですか?」
「仕事ね、私も全部知ってるわけじゃないけど、バーやレストランの経営コンサルタントとか、人材紹介とか。とにかくあの人、顔が広いから頼まれごとも多いらしくて、ボランティアでやるとストレスがたまるから、お金とって割り切れるように会社を作ったんだって」
「ほな、社長さん?」
「社長なら誰でもなれるわよ。書類の手続きさえすれば。ムギさんのすごいところは、自分が見込んだ人を世に出したいっていう、情熱よね。執念と言ってもいいかもしれない。とにかくいい仕事するから!とかって、若い料理人を飲食関係のオーナーに推薦したり。それで実際にお店がオープンして、予約がとれないほどの人気になったりしてるし」
「すごいですね」
「でも、実際はかなり大変っていつも言ってる。人づきあいが広いってことは、しがらみも多いってことだから。あの人、自分じゃ怠けものとか言ってるけど、こうして強制的に入院でもさせない限り、休んだりしないの。ワーカホリックね。今だって病院から電話だのメールだのやってるから」
「仕事する、って、そんなに楽しいもんですか?」
 思わず口にしてしまった質問に、桃子さんは一瞬きょとんとした顔になり、それから「まあ人それぞれじゃないかしら。それに、ワーカホリックって、仕事依存症のことだから、楽しいかどうかは疑問ね」と笑った。
「僕はなんて言うか、大学出て、ちゃんと社会人になって、仕事できるような気がしないんです」
「あら、ハニーさんは大丈夫よ。ムギさんが、京都行ったら面白い子紹介するからねって言ってたぐらいだから、お墨付き」
「僕、なんにも面白いとこないです」
 そう言いながら私は、ああ嫌だ、と思っていた。こういうことを口走れば、優しい桃子さんは絶対に「そんなことないわよ」なんてフォローしてくれるだろうと、頭の片隅で期待しているのだ。
 実験に使われるネズミがスイッチを連打して餌を求めるみたいに、ネガティブワードを連発して、優しい言葉を引っ張り出そうとする。一つもらえれば、もっともっと、熱を込めて自分の駄目さ加減を訴えてみせる。
「実を言うとね、私にはハニーさんの面白さって、まだよく分からないのよ。ごくごく普通の人に思えるの」
 桃子さんはそこにはいない誰かに語りかけるように呟いた。
 つまりそれ、私はつまらない人間だってこと?
 予想外の答え。でも私はそれより桃子さんの率直さに、やや感動していた。
「変なこと言ってごめんね。でも私は、ムギさんみたいに、人の本質がすぐにわかるような目利きじゃないから」
「人の本質、ですか」
「そう。もうね、呆れちゃうぐらい、駄目な人を好きになりがちなのよ。友達が口を揃えて、別れろって言うような男性を。でも自分では、私にはこの人しかいない!って思っちゃうのよね。お昼の占いの時にも、そんな話したわよね」
 そこまで言って、桃子さんは口をつぐんだ。気がつくと、乗客の数はずいぶんと減っていて、小声で、電車の走る音に紛れるとはいえ、車内で話しているのは私たちだけになっていた。
 窓の外は暗く、家の明かりもまばら。半時間足らずで街なかからすっかり山の中に分け入って、京都ってつくづく狭苦しい盆地だ。
「でもそれは、この人には私しかいない、という事の裏返しかもしれない」
 がたん、と電車が揺れて、桃子さんの細い首も揺れる。
「この人には私が必要だ、そう思うと、もう友達の忠告なんて耳に入らないの。ムギさんに言わせるとね、三人姉妹の真ん中だからだって」
「三人姉妹の真ん中?なんでですか?」
「家の中で一番注目されないから。長女は最初の子供だから、もちろん大事にされるでしょ?一番下は末っ子だからちやほやされるし。おまけにうちは、跡取りがほしかったから、姉妹そろって、男じゃなくってすみません、って感じ」
 その気持ちは私もわかる。まあ、うちの父親はまだ気づいてないだろうけど、息子には恵まれてないから。
「そのせいなのかしら、誰かに必要とされると、すぐにスイッチが入るの。自分ってもんがないのよあんたには、ってムギさんによく喝を入れられるんだけど、そもそも自分って、何なのかしらね」
「はあ」
「ハニーさんはどう?恋愛はうまくいく方?」
「はっ、僕ですか?」
「どんなタイプの子が好きなの?やっぱりちょっと、危なげな女の子って、気になったりしない?」
「いや、僕はなんていうか、安定志向なんで」
 しどろもどろで答えながらも、私は青木センパイのことを想う。そう、誰が見たってヤバくない、ごくごくまともな、真面目そうな、下手したらいい人すぎて退屈とか言われかねない、恋愛より結婚向き物件。
「安定志向って、優しそうな子、とか?なんかつまんない。私やっぱり、ハニーさんの面白さが判らないわ」
 少しも嫌味じゃない言い方で駄目出しして、桃子さんは微笑んだ。
「どういう答えしたら、面白いですか?」
「それはやっぱり、あなたみたいな人がタイプです、って答えね。そういう事言われると、あらそうなの?って、火がついちゃう」
「いやそんな」
 駄目、もうなんか色々通り越して怖い。私これ誘惑されてるんですか?それともからかってるだけ?
 女の私でもなんかドキドキしてくるのに、男でこれやられたら一発アウト。私はこっそり車内を見回し、今の話が聞こえるほどそばに人がいないのを確かめて安堵した。
 私が取りこぼした会話をつなごうとしてか、桃子さんは少し気軽な調子で「ねえ、あの青木君って男の子、彼女とかいるのかしら」と続ける。
「さあ、僕そこまでよく知らないんで」
 そう、情けないことに、私はセンパイのプライベートなんかほとんど知らないのだ。
 サークルに顔出してる時以外、一体どんな事してるのか、就活どうなってるのか、血液型はおろか、誕生日すら判らない。
 好きなタイプ、好きな映画、得意な科目、犬派か猫派か、お風呂は熱めかぬるめか、ラーメンは味噌か醤油か、長電話は嫌いか、可愛い子のわがままなら許すか、寝る時は仰向けか。知りたいことは山ほどあるけど、何も知らない。
「彼を見てると、大学時代の友達とか思い出すわ。テスト前にノート貸してあげたり、一緒にライブ行ったり、ゼミの旅行でずっと車運転してもらったり」
「いい人、って感じですよね」
「そうそう!優しいし、真面目だし、困った時には色々と助けてくれるし。でも、ずっと友達なのよね」
「ずっと友達、ですか?」
「うん。つきあって、って言われたこともあるけど、そういう男の子たちって、いい人過ぎてときめかないの」
 いま「男の子たち」って複数でしたよね?私は心の中で念を押す。でもまあ不思議じゃない。相手は桃子さんだ。みんな下心ありで近寄って、尽くして、撃沈したわけか。
「もちろん友達からは大ブーイングよ。あんたどうしてあんないい人断るのよ!って。でも私としてはときめかない。つまり見る目がないの」
「でも、恋愛って結局、自分がいいと思う相手を選ぶしかないんじゃないですか?」
「そう思ってくれる?」
 桃子さんは今夜いちばん、と言いたいほどの華やいだ笑顔になった。私はといえば、青木センパイが桃子さんには退屈物件だと確認して、安堵している。
「でも今になって思うのよね、ああいう真面目な、いい人とつきあうのって、本当はどんな感じかしらって。ときめかないって一言で片づけてたけど、実際につきあってみたら、意外な展開とか、あるかもしれないわよね」
「かも、しれないですね」
「それに、かなり年下っていうのは、十分にときめき要素だわ」
 何それ。
 ちょっと、桃子さんセンパイのこと狙ってきてる?
 どう言葉を返したものか、頭の中身がほぼクラッシュしたところで、電車がゆっくりと停まる。
「あ、この駅じゃない?」
 言われて外を見ると、確かにそこは貴船口。あたふたと立ち上がって電車を降りると、ホームのベンチに誰か座ってる。それは自転車で先回りしてきた青木センパイで、私たちを見つけると、口元に笑みを浮かべて軽く手を振った。
 これが二人だけのデートだったら、もうここで死んでいいレベル。でもたぶんセンパイの笑顔の99パーセントは桃子さんに捧げられている。
 


 

土曜の深夜

「本当に自転車でここまで来たの?すごいわね、大変だったんじゃない?」
 貴船口の駅からバス道へと続く細い坂道を降りたところに、青木センパイのロードバイクが停めてあった。あたりに人気はないけれど、ちゃんと傍の木にチェーンロックでつないであるところが、先輩の自転車愛をひしひしと感じさせる。
「そんな大したことないです。ふだんはもっと長い距離を走るし」なんて謙遜してるけど、センパイのドヤ感は隠しようもなくて、桃子さんはそれを微笑ましく思ってるらしく、「でもやっぱりすごいわ」なんて、さらに持ち上げるのだった。
 私はといえば、そうやって桃子さんにおだてられてるセンパイを見るのが辛い一方、その可愛さというか、いじらしさに胸が熱くなるのだった。
 ただひたすら、素敵な女性の前で自分のいいとこ見せようと張り切ってしまう、男の人生なんてこれに集約されるといっても過言ではないその姿。私がどれだけ頑張っても、自分では見ることのできない景色。
 とはいえ、我々がなぜここに来たのか、桃子さんは忘れたわけじゃない。ひとしきり青木センパイを褒めたたえると、「で、ここから貴船神社まで、かなりあるのかしら」と本来の目的に立ち戻った。
「まあ、歩いて三十分ぐらいかな。昼間やったらバスもありますけど、丑の刻参りやし」
「バスだなんて、最初から考えてないわよ」と、桃子さんは笑う。
「歩く言うても、山道じゃなくて車道やから楽ですよ。車さえ注意したら」
「でも、本当は丑の刻参りって、姿を見られちゃ駄目なのよね。ていうか、こうして一緒に来てもらってるのもルール違反なんだけど」
 そう言いながら、桃子さんはショルダーバッグからヘッドライトを二つ取り出し、一つを私に差し出した。
「はい、これ使ってね。青木くんもどうぞ」
「あ、俺は自分のありますから」
 見ればセンパイは、すでに自前のヘッドライトを装着してる。それどころか、ウインドブレーカーで首にタオル巻いての山奥仕様で、背中のリュックにも色々と持ってそうだった。桃子さんも目ざとくそれに気づいたらしい。
「あら、準備いいのね」
「実家が和歌山の山奥なんで、日常生活は半分アウトドア感覚なんですよ。ライトと電池は必需品。虫よけとかもありますけど、使いますか?」
「いいの?」と答えた桃子さんに、虫よけスプレーを差し出すセンパイ。ライトまだつけてないからよく判らないけれど、たぶんドヤ顔してると思う。
「ねえ、ハニーさんも使わせてもらったら?」
「はい、ありがとうございます」
 センパイのものなら、クマよけスプレーでも噴霧してしまいそうな私。嬉しくなって首筋やら腕に吹き付けていたら、「お前そんな薄着で大丈夫なん?」ときかれた。
「まあ、大丈夫です」と答えたものの、本当はそんなに大丈夫じゃない。昼間の暑さが嘘のように空気がひんやりしているのは、さすがに九月だから、というか、ここは山あいなので街なかよりもずっと気温が低いのだ。
 よそから来ている桃子さんですら、それなりに着込んでいるのに、私は昼間のつづきで半袖シャツのまま。はっきりいって鳥肌立ちそうで、指先なんか冷えきっていた。なんで貴船で丑の刻参りするのに、こんな格好なのかと問われたら、ずばり何も考えてなかったと、それしか言いようがない。
「とりあえず、これ使えや。首に巻いとくだけでかなり違うし」
 そう言ってセンパイは首に巻いていたタオルをほどいて差し出した。
 何?これ巻けって事ですか?ちょっと、センパイが身に着けていたものを!
「心配せんでも、自転車乗ってた時に汗拭いた奴とは違うで。まだきれいやし」
 そういう理由でためらっていたわけではないのだけれど、私は「ありがとうございます」と、素直にタオルを受け取った。
「ホテルの備品で古くなった奴、ただでもらってん」
「なんかやっぱりホテルのは上等っぽいですね」
 違う。センパイの持ち物だから上等なのだ。正直にそう言えば?私は自分に呼びかけるけれど、返事はない。たしかに家で使ってる、銀行の粗品よりも分厚くてパイルも長い。でもそんな事よりも、センパイの体温が残ってるという現実。
 タオルを首に巻きながら、今これで絞殺されても本望だとすら思ってしまう。テンションが上がって、さっきまでの寒さが吹っ飛ぶどころか、顔が熱い。暗闇で本当によかった。

 それから私たち三人は、貴船神社へと続く二車線の道路を歩き始めた。
 道の右手は川が流れていて、こちらに落ちてはまずいので左手の山側を一列になって歩く。先頭はセンパイで桃子さんが続き、最後に私。行き交う車は無くもないけど、忘れた頃に一台通る、という程度だろうか。
 本音を言えば三人の真ん中を歩きたいけれど、桃子さんがいるのにその選択はない。彼女は青木センパイにあれやこれや、身上調査めいた質問をしていて、センパイは律儀にそれに答えてる。
 あたりに聞こえる物音といえば、今を盛りと鳴く虫たちと、せせらぎ、と呼ぶにはすこし荒々しい川の流れだけ。だから二人の会話はまる聞こえで、私はそれに耳をそばだてていた。
「ねえ、休みの日も自転車であちこち行ったりするの?」
「そうですね、こっち方面から抜けて、もっと山奥に行ったこともあるし、琵琶湖の方とかも」
「琵琶湖、よさそうね。それで、行った先でおいしいもの食べたりするの?滋賀だったら近江牛とか」
「いや、お金ないんで、どこ行っても安いもんしか食べてません」
「あら残念。いいお店があったら紹介してもらおうと思ってたのに」
「いいお店、か。それやったら、この先にも旅館とか料亭とかありますけど」
「そう!貴船ってずいぶん山奥なのに、ちゃんと旅館もあるのよね。私さいしょ、このあたりに泊まろうかと思っていたの。でも、夜中に抜け出すのは却って不自然というか、見とがめられそうだから、街なかのホテルにしたのよ」
「うちのサークルでも貴船神社に来たことありますけど、昼間はほんまにすごい人でにぎわってますよ。新京極みたいや、言うた奴もいたなあ」
「実を言うとね、私、ずっと昔、大学生の時に来たことあるの。でもその時って、お店もそんなになくて、人もあんまりいなくて、怖いぐらいに静かだったわ。年月を感じるわよね」
「その時も、丑の刻参りやったんですか?」
 んなわけないでしょ!心の中でセンパイに突っ込みながらも、そういうボケっぷりがいいなあ、と嬉しくなってしまう私。
 桃子さんは「やだあ、私、一生に何度も丑の刻参りするような女じゃないわよ」とはしゃいだ声をあげ、センパイの肩のあたりを軽くたたいた。
 もてる女はボディタッチが多い、という噂は本当かもしれない。私は急に背中がざわざわしてきた。
「その時はね、彼氏と二泊三日での京都旅行の初日。お互いに修学旅行で清水寺や金閣寺は行ったことがあるから、少し通な場所ってことで、まず鞍馬寺に行ったの。あそこって電車の駅の方からお寺のある山に登って、反対側に降りたらこっちの、貴船神社でしょ?」
「そうですね、この道の先に降り口があります」
「でもその時、けっこうなヒールのサンダルをはいていたのよね。ガイドブックにケーブルカーがあるから山道でも大丈夫って書いてあったから」
「たしかに、行きも帰りもケーブル乗るんやったら、ハイヒールでも大丈夫やろうけど、貴船に降りる方にはケーブルないですよね」
「そうよ。山の上に着いてから、彼が急に、こっちから降りてみようよ、なんて言い出して、私も深く考えずに賛成したんだけど」
「けっこう急な下り坂やったでしょ?」
「そう。だからすぐに足が痛くなっちゃって、もう無理、おんぶして!って言ったの」
 センパイは笑っただけで、桃子さんの言葉を待った。
「ね、青木くんだったらその場合どうする?私のことおんぶしてくれる?」
「は、そりゃまあ。俺は山道、慣れてるから」
 ちょっとうわずった声。だけどセンパイ、その答えは違うと思う。
 桃子さんだったら、俺はおんぶどころか肩車しますよ、ぐらい言ってもいいはず。いや、お姫様抱っこか。でもそういう舞い上がった事を言わないところが、センパイの魅力なのだ。少なくとも私にとっては。
「彼が青木くんならよかったのにね。残念ながら私の彼は、他の観光客もいるのに、そんな恥ずかしいこと絶対無理!だいたいなんでそんな折れそうなサンダルで来たんだよ、なんてご機嫌斜めになっちゃって」
「そりゃひどいですね」
「でしょ?それに私がサンダルを履いていたのは、その方が足がキレイに見えるからなのよ。彼はいつも私に、女らしい服の方が似合うよって言っていたし、スニーカーでデートなんてありえない感じだったの」
「ほんで、結局どうしたんですか?」
「引き返せるわけないから、もう必死で自力で降りたわよ。まあ、彼も腕ぐらいは貸してくれたし」
「その後で、喧嘩とかにならなかったんですか?」
「喧嘩にはならないわ。彼がご機嫌斜めになったら、気を遣うのはいつも私だから」
「へえ、なんか意外ですね。そんな彼氏なんか見捨てて帰りそうな感じやのに」
「よく言われるけど、そうじゃないのよ。それにあの時は、あたりが本当に静かだったから、なんだか怒りも鎮まっちゃった」
「じゃあ、貴船神社の神様のおかげで仲直りできたんかな」
「そういう事にしておきましょ」
 二人の会話はとても自然に流れてゆく。今日初めて会ったなんて信じられないほどに、お互いが楽しそうで、打ち解けていて、こういうのを相性がいいって言うんだろうか。
 私がこんな風にやりとりできる相手なんて、悲しいことに姉ぐらいしかいなくって、他は誰としゃべっても、言葉の裏の意味を考えたり、予想外のところで笑われて固まったり、ひどく消耗するだけで盛り上がりもしないのに。
「ハニー、起きてるか?」
「はっ!」
 いきなりセンパイから声をかけられて、うろたえてしまう。
「ずっと黙ってるし、歩きながら寝てんのかと心配になってきた」
「お、起きてます」
 心配だなんて。センパイに心配してもらえるなら、路肩から川に転落してもいい。それで、ハニー、大丈夫か!とか言われて抱き起されてみたい。でもって意識が戻らないまま、背負って救出されてみたい。センパイの首筋がちょうど私の頬にあたるぐらいな感じでお願いします。
「ハニーさんって、物静かなのよね」
 違います。妄想に陥りやすいだけなんです。
 私は意識を現実に引き戻すと、襟元のタオルを巻きなおす。
「あら、ここよね?貴船神社って」
 桃子さんが立ち止まったので顔を上げると、そこは確かに貴船神社の表参道への入り口だった。とはいえ、こんな夜中だから明かりは消えてるし、何より門が閉まっている。
「これ、どっか抜けてこっそり入るつもりですか?」
 センパイがそう質問すると、桃子さんは当然のように「まさか」と否定した。
「ここの境内に入ろうだなんて、そんな迷惑なこと考えてないわ。ただ、この近くでどこかいい場所があればと思って」
 丑の刻参りにいい場所ってどういうんだろう。センパイはすこし考えてたみたいだけれど「この先に行ったら神社の奥宮なんですけど、そこの近くに山に入っていける道があるし、どうですか?」と言った。
「理想的。あとどのくらい歩くの?」
「十分ちょいぐらいですかね」
「楽勝じゃない。行きましょ。ハニーさん、起きてる?」
「は、大丈夫です」
 慌てて返事するけど、もう私なんか完全におまけというか、下手すりゃお荷物状態だった。ともあれ、私たちはまた歩き始める。
「ねえ青木くん、山に入る道だとか、この辺のことそんなに詳しいのは、裏京都なんとかっていうサークルのおかげなの?」
「いや、それはバイトのおかげで」
「バイト?どういうアルバイト?」
「正確にはバイトと違うかな?友達が、クワガタつかまえたら売れる、言うから去年の夏に来たんです」
「クワガタ?カブトムシじゃなくて?」
「カブトでもいいんですけど、クワガタの方が高いんですよ」
「そうなんだ。で、採れたの?」
「いや全然。それどころか、他にも採りに来てる奴がいて、それがまた友達のツーリング仲間で、なんでこんな山奥で会うねん!いうてびっくりしたぐらいで」
「おかしい!そんな偶然ってあるのね」
「たぶんあの辺の奴らがみんな採ってたから、クワガタおらんようになったんちゃうかな。乱獲ですよね」
「そんなに採っちゃ駄目よね」
 そっか、センパイも金に目がくらんでクワガタ採ったりするんだ。私はその情景を思い描いて、なんだか微笑ましくなってしまう。採れ高ゼロってところも、らしくていい。
「あ、ここかな、この道から山の中入れます」
 センパイが立ち止まったのは奥宮の少し手前で、ヘッドライトに照らされた先は人ひとりがようやく通れるほどの、細い坂道だった。
「たぶん下枝切りとか、そういう作業するための道やと思うけど」
 そう言いながら、ためらう様子もなく登って行くけど、辺りは本当に真っ暗で、足元の茂みからは何が出てくるか判らない。正直、全く行きたくないんだけれど、一人で待っているという選択肢はない。おまけに桃子さんは「そうそう、こういう場所がいいと思ってたの」と、センパイの後をいそいそとついて行くし。
 私一体、何のためにここにいるんだろう。本来はムギさんの代わりに桃子さんをエスコートするはずだったのが、青木センパイが来てくれたおかげで完全に丸投げ状態。ただ後ろにくっついてるだけ。
 情けない、と思った瞬間、木の根につまずいた。
「あら、ハニーさん、大丈夫?」
 気遣ってくれる桃子さんに「大丈夫です」と答えて体勢を立て直す。先を行くセンパイは「あんまり奥まで行っても戻るの大変やし、この辺にしましょか」と立ち止まった。
「そうね。どの木がいいかな」
 桃子さんはショップでワンピースでも選ぶような口調で、周りの木を品定めしていたけれど、「これがいいかな」と、ひときわ太い一本を選ぶと歩み寄った。
「目立たない場所がいいわね」と言いながら枯葉を踏み分けて裏側に回り、ショルダーバッグから藁人形を取り出す。センパイは少し離れた場所にいたけれど、背中を向けてしまった。
 そうか、こういう事、見るべきではないのだ。そう思って私もその場を離れようとしたら、桃子さんが「ハニーさん、ちょっと手伝ってくれる?」と言った。
「私が五寸釘を打つ間、これを押さえててほしいの」
 これ、とは藁人形の事だった。
 なんでそんな事!と思ったけど、桃子さんはいたって真剣で、「五寸釘と藁人形、まとめて押さえるの難しいのよね」と言いながら藁人形を木の幹に押し当てている。その右手には五寸釘と金槌が握られていた。
 マジじゃないとはいえ、丑の刻参りは人を呪う行為。ここまで一緒に来るのと、藁人形押さえてるのと、どう違うと言われたら、もう一緒かもしれない。それに、一秒でも早く終わってくれた方がいいし。
 私は観念して手を伸ばし、藁人形を押さえた。まるで南米あたりの民芸品みたいによくできた藁人形、その胴体には白い布が巻かれていて、呪われるべき人の名前が書いてある。いったい誰がここで血祭にあげられるんだろう。うっかりした好奇心が手伝って、私は思わずその名前を読んでしまう。
 桃子。
「え~?!!!」
 暗闇に私の絶叫が響く。
「なんでこれ、桃子さん、自分の名前書いてるんですか!」
「だって私、自分を殺すっていうか、生まれ変わりたいから」
「だからって、こんな事、こんな事したら駄目です」
「いいの。これくらいしないと、私は変われないのよ。一回死んで、新しい自分になって、旦那と別れて、新しい生活を始めたいの」
「でもでもでも」
 やっぱり駄目、私は藁人形を取り上げようとしたけれど、桃子さんはすごい勢いで右手に持っていた五寸釘を「桃」と「子」の真ん中にあてがうと、金槌を振り下ろした。
 一人で、できてるやん。
 甲高い金属音が弾け、夜の空気に吸い込まれてゆく。再び桃子さんが金槌を振り下ろそうとしたとき、ありえない音が鳴り響いた。
 スマホ。ショルダーの中の、桃子さんのスマホが鳴っている。

丑の刻

 金槌を地面に置き、ショルダーからスマホを取り出した桃子さんは、未知の生物を捕まえたような顔でディスプレイを見てから「もしもし」と通話に出た。
 途切れがちに繰り返す、はい、はい、という声に含まれた不安。いつの間にか青木センパイも傍に来ていた。
「わかりました。できるだけ早くうかがいます」
 闇夜にヘッドライトという照明のせいかもしれないけど、通話を終えた桃子さんは、わずか一分ほどの間にやつれてしまったように見えた。
「病院から、ムギさんの容体が急変したって」
「え?ムギさん?なんでそんな急に?」
「わかんないけど、とにかく行かなくちゃ」
 そう言う間にも、桃子さんは来た道を引き返そうと歩き始めていた。私は慌てて金槌を拾い、五寸釘もろとも藁人形を木の幹から引きはがして後に続く。青木センパイもその後からついてきた。
 山道から車道に戻ると、桃子さんはさらに歩調を速め、振り向くと「青木くん、自転車貸してくれる?」と言った。
「それは大丈夫ですけど、街なか戻るんやったら、タクシーの方が早いですよ」
「そうか、そうよね。でも、タクシーなんてこんな山奥、通らないじゃない」
「いや、呼べますよ。上賀茂にタクシー会社あるし、あそこやったらそんなに時間かからへんはずです」
「じゃあそうする。電話教えて、ていうか、呼んでくれていい?さっきの駅のところまで来てもらって」
 桃子さんはもう容量オーバー、という感じで自分のスマホをセンパイに手渡した。

 さっきまでの饒舌さが嘘みたいに、桃子さんは黙って先を急ぐ。
 私とセンパイも言葉を交わすことなく、ただその後について行く。本当は男二人の方が足は速いんだけれど、桃子さんを追い抜く理由が見つからない。
 私はひたすら、胸のざわつきをなだめながら、一体何が起きたのかと考え続けていた。
 桃子さんが言葉少なに語ったところによれば、ムギさんはかなり危険な状態らしくて、病院は家族の人も呼んでほしいと言ってるらしい。
 いきなりそんな話をされても、私の記憶にあるのは、入院したとはいえ、ベッドの上で相変わらずのマシンガントークを全開にしている、エネルギッシュなムギさんの姿だけ。
 何を言っても自信満々で、好き嫌いがはっきりしてて、好奇心旺盛で、いい大人なのに妙に子供っぽい我儘なところがあって、いつも陽気で。
 そんなムギさんが、死ぬかもしれない?
 私は慌ててその考えを頭から消し去ろうとした。
 駄目。そんな縁起でもない事を想像しちゃいけない。
 でも、と、もう一人の私が反論する。
 これは夢じゃない。いま起きている事。人は誰だっていつか死ぬ。ムギさんがいくら強い人だといっても、死から逃れられるわけじゃない。ただ、その瞬間が今かどうかってだけの話。
 うつむいている私のヘッドライトが照らす足元。その小さな円の中だけが明るくて、あとは闇ばかり。生きてるってことはもしかすると、これに似ているのかもしれない。見えているのはほんのわずかな範囲だけで、それ以外は何があるんだか判りもしない。
 なのに私たちは前へ、前に向かって進むしかない。その道がどこで途切れているのか、知ることもできないのに。
 私の道はどこまで続いてるんだろう。いきなり断崖絶壁にたどり着いたとして、そこで何を想うだろう。
「あ、あれじゃない?」
 桃子さんの声に顔を上げると、まだ少し距離はあるけれど、タクシーが停まっているのが見えた。桃子さんはもう駆け出していて、私とセンパイもその後を追う。

 少しも速度を落とすことなくタクシーまで走り切った桃子さんは、まだ息をはずませたまま「何だかごめんなさいね。また落ち着いたら連絡するわ」とだけ言ってタクシーに乗り込んだ。私はただ頷いただけで、センパイは「気をつけて」と軽く頭を下げた。
 遠ざかるタクシーを見送ってから、センパイはようやく、という感じで「ムギさんて、誰やねん」と言った。
「桃子さんの友達です。東京から一緒に来てはったんですけど、熱中症になって救急車で運ばれて、そのまま入院してはって。でも、昨日病院で会った時は、すごい元気やったのに」
「やっぱり熱中症て、怖いもんやな」
「なんかでも、いきなりこんな事になって、現実という気がしないです」
 そう、なぜだかセンパイと二人きりで真夜中の山奥にぼんやり突っ立ってるって、完全に夢の世界。
「ほんで、ハニーはこれからどうすんねん。桃子さんとタクシー乗らへんかったら、帰る足あらへんやんか」
「しょうがないし、電車始発まで待ちます。たぶん六時ごろかな」
「六時、いうたかて、まだかなり時間あるで?一緒に待ってよか?」
 嘘!そんな嬉しい事言われるなんて、マジで夢?ところがセンパイはそう言った尻から大きな欠伸をして、私は一気に現実に引き戻された。
 よく考えたらセンパイとバスの中で出会ったのは昨日の朝で、それからセンパイはホテルの洗い場で夕方までバイト。その後、自転車でここまで来たのだ。疲れてないわけがない。
「僕は大丈夫です。センパイは先、帰って下さい。ここで朝まで待ってたら車も増えてくるし、今の方が走りやすいと思うし」
「そんな言うけど、ホンマに大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
 思い切り空元気だして大丈夫を繰り返すと、センパイも納得してくれたみたいで、「そうかあ」と言いながら、停めてあった自転車の方へと歩き始めた。
 本当のことを言えば、自転車に二人乗りして帰りたいけど、ロードバイクというのはそんなロマンチックな仕様ではない。
ロックを外し、ヘッドライトをハンドルにかけて、ヘルメットを手にしたセンパイは「実はな、俺、ハニーはかなりの怖がりちゃうかと思てたんや」と言った。
「怖がり?」
「そう。こんな真っ暗で誰もおらんとこで一人で始発まで時間つぶすて、怖いから嫌やとか言うかと思たんやけどな。余計な心配やったわ」
「まあ、全く怖くないかというとそうでもないですけど」
 本音を言えば相当、いや、死ぬほど怖い。その辺の藪の中に誰か潜んでるかもしれないし、人間じゃなくても、マムシとかムカデとか、そういう奴も十分あり得るし、クマという可能性も捨てられない。いや昆虫や動物ならまだしも、幽霊とか妖怪とか、そっち系だったら?
 ちょっと考えただけで頭の中がぐるぐるしてきて、私は下を向くとこっそり深呼吸した。
 駄目だ、ここでセンパイに迷惑かけるわけにはいかない。大丈夫、とにかく大丈夫。
 二度、三度と息を吸い込みながら、足元を照らすヘッドライトの輪を見つめる。
 私は今、自分の道のどこまで来てるんだろう。もしかして、今夜ここで始発電車を一人で待ってる間に、なんか恐ろしい目にあって死ぬんじゃないだろうか。朝まで生きてるかどうかなんて、誰にも判らない。
「センパイ」
「何?」
「ホンマのこと言っていいですか?」
「うん」
「僕、センパイのことが好きなんです。こんなん言うたらドン引きやとわかってるんですけど、ちっさい頃からずっと、自分のこと女やと思ってて、そやし、女としてセンパイのことが好きなんです」
 ああ言ってしまった。なんか判らない爽快感みたいなものと、どうすんのこれ、という焦りと不安。私はセンパイの顔を見る勇気がなくて、まだ地面を見下ろしている。
 センパイ、何か言って下さい。でもやっぱり何を言われるのか怖い。
 裁判にかけられて判決受ける前ってこんな感じだろうか。さっきまで虫の声ばっかり聞こえてたのに、今は自分の心臓の音だけが頭の中に響いている。
「あの、何ていうか」
 ずいぶんと間があって、ようやくセンパイが口を開いた。私はその言葉よりも、声に全神経を集中した。そこに少しでも自分に対する嫌悪感があったら、もう何もかも終わりだ。でも、センパイの声は多少うわずってはいたものの、いつもの穏やかさだった。
「ほんまに申し訳ないんやけど、俺はハニーの気持ちにこたえられへん。なぜかというと、地元に彼女がいるからや。高校の同級生で、専門学校出て新宮のペットショップでトリマーしてる。そやし俺も地元の施設で就職決めて、このままいったら結婚する事になると思う」
 何この落差。私のふわふわした憧れと片思いに比べて、センパイと彼女の安定感と圧倒的な現実味。
「こんな答えで、ほんまにごめん」
「いえ、謝るのは僕の方です」
 そう言ってはみたものの、情けなくて声が震えてくる。
「なあ、俺から頼みがあるんやけど」
 何だろう。もう二度と俺の前に姿見せんといてとか、そういう事?
「しばらくは落ち込むかもしれんけど、ハニーには自分を嫌いにならんといてほしいねん。それよりもっと自分出して、サークルにもどんどん顔出して、皆にもハニーと呼ばせたらええやん」
「なんでですか」
 秒殺で失恋してるのに、自分のこと嫌いにならないなんて、そんなの無理。だいたい、私は元から自分なんか好きじゃないのに。
「なんでって、そっちの方がホンマのハニーやし。今、サークルの奴らとなんか距離があるのは、みんなハニーがどういう奴か判らへんし、どう近づいていいか判らへんからや。なんもいきなり女子全開で行けとは言わんけど、ちょっとずつ、自分出していったらええんちゃうかな」
 自分を出すって、そんな事したら誰に何言われるか判らない。
「さっき、桃子さんが藁人形に釘打とうとした時、俺は正直、えげつない事する人やなって、ちょっと引いてたんや。綺麗やけど、何ていうか理解できんところがある。そやけどハニーは全力であの人のこと止めたやろ?そんな事したらあかんって」
「・・・はい」
「あれ見て、すごい優しい奴やなと思ったんや。俺にはできん事や。そういうところ、もっと皆に知ってもらった方がええやん」
 そうなんだろうか。
「あとな」
「はい」
「それ、どうするつもり?」
 そう言ってセンパイが指さしたのは、私が胸に抱えた藁人形だった。胴体には「桃子」と書かれた布が巻かれ、そこには五寸釘がささったままだ。
「・・・どうしましょ」
 こんなもの家に持って帰るわけにもいかない。でもとりあえず、五寸釘はどうにかしようと引き抜いた。するとセンパイが「そや」と呟いた。
「藁人形やからあかんねん」
 そう言いながら、背負っていたリュックを下ろして中をかき回したかと思うと、スイスのアーミーナイフを取り出した。
「センパイ、色んなもん持ってはるんですね」
「田舎の生活は半分アウトドアや、言うてるやん。貸してみ」
 言われるままに藁人形を渡すと、センパイはその頭だとか首だとか胴体だとか足だとか、あちこちを縛っている太い糸にナイフの刃先をあてると、次々に切断していった。
 それは見る間に人の形を失い、ただの藁束となって地面に積もってゆく。最後にセンパイの手の中に残ったのは「桃子」と書かれた白い布の輪で、「桃」の右下には五寸釘に打たれた穴があいていた。
「それ、もらいます」
 なぜだか私はそう言って、その布切れを受け取った。センパイはナイフをリュックに戻すと、しゃがみこんで地面に落ちた藁をかき集め、近くの木の根元にまいた。
「こうしといたら、そのうち判らんようになるわ」
「これも、一緒に置いてっていいですか?」
 五寸釘と金槌を見せると、センパイは「そやな」としばらく考えてから「それは預かっとくわ」と、金槌を手に取った。
「演劇部のツレにやるわ。南座の大道具でバイトしてるし」
「じゃあ、こっちは置いてきます」
 私は五寸釘を地面に置くと、見えないように上から藁をかぶせた。なんか二人で証拠隠滅してるみたいなんだけど、これが最初で最後の共同作業かと思うと、今更のように胸が苦しくなり、一刻も早くセンパイから離れるべきだという気がした。
「ほな、これで全部OKなんで、センパイもう行って下さい」
「うん。けどホンマに大丈夫?」
「大丈夫です。ホンマに」
 人生最大のやせ我慢。センパイはそれを信じてくれて「わかった」と言って、手にしていた金槌をリュックに入れてから背負いなおした。そして自転車にまたがると「朝のニュースで金槌持った通り魔の話してたら、俺のことやで」と言った。
 私は少しだけ笑って、「ありがとうございました」と頭を下げた。
 センパイは「気ぃつけてな」とペダルに足をかけ、「サークル、ぜったい顔出せよ」と言ってから、ゆっくりと走り出した。
 見るまに遠ざかるその後ろ姿を見送りながら、私はどうして涙の一滴も流れないのかと考えていた。
 失恋ってもっと号泣したりするものかと思っていたけれど、そんな風にこみあげてくるものなんて何もなくて、ただただ自分のど真ん中に穴が空いたような、立ってるのもやっとという脱力感だけで、頭の中もからっぽだった。
 そして私は地面から足を引き抜くようにして歩きだすと、貴船口の駅へと戻り、月面みたいに冷え切ったホームのベンチに腰を下ろした。

ある水曜日

 ムギさんがあの夜、朝を待たずに亡くなったと知ったのは三日後だった。
 といっても連絡してきたのは桃子さんではなく姉。ムギさんの友人ルートからの伝言ゲームのようにして情報が伝わったらしく、色んな話が入り乱れていて、本当のことはよく分からない。
 はっきりしているのは、お葬式は身近な人だけで済ませたという事だけ。あとは、以前から悪いことは必ず九月に起きてたとか、実家は元華族のすごい資産家だとか、養子縁組したパートナーがいるけど、喧嘩して三年前から音信不通だとか、自分は人の業を引き寄せるから長生きしないと言ってたとか、いかにもムギさんならありそう、と思わせる話がいっぱい。
 でも、姉に言わせると、その辺の話は周囲が勝手に盛り上げた噂に過ぎないし、結局のところムギさんは誰にもそれほど心を許してはいなかったらしい。
 そして桃子さんは、連絡するわね、と言っていたのに何の音沙汰もないまま。
 まあ、それも当然かと思う。
 たぶん桃子さんにとって私は、南の島で魚釣りを手伝ってくれた現地の子供、ぐらいで、旅が終われば顔も名前もぼやけてしまうような存在なのだ。でも私は桃子さんのような女の人を忘れることなんてできない。
 だからあの夜、藁人形の胴体に巻かれていた、「桃子」と書かれた布切れを持ち帰って、五寸釘に穿たれた穴をわざわざ繕って、センパイからもらったタオルと一緒に、押し入れにしまっている。そんな事して何になる、という保証は一切ないけれど、東京に戻った彼女が風俗通いの夫と別れて、自分にふさわしいはずの凛々しい生き方を選んで欲しいと、一方的に期待しているのだ。

 で、大失恋した私自身はどうしてるのか。
 後期の授業が始まって、サークルの裏京都研究会からはミーティングや現地勉強会の予定が送られてきた。青木センパイは「顔出せよ」と言ってくれたけど、とてもそんな気分じゃない。サークルどころか学校も辞めたいほどなのに。
 でも、さぼりがちだったせいで三か月も部費を滞納していて、踏み倒すほどの度胸もない。だから、お金だけ払いに行って、「バイトが忙しくなった」などと適当な理由をつけてフェードアウトしようと考えた。
 水曜日、必修の仏教概論が終わって、三時半からがミーティング。歯医者に行くような気分でいつもの場所、三号棟の四A教室に向かう。はあ、とため息ついてドアを開け、「失礼します」と顔を出す。
 一番話しかけやすいのは副部長の三島センパイで、彼女の姿を確認すると、私は三か月分の部費を入れた封筒を握りしめて近づいた。
「ハニーだ!ハニー、ようやく来たじゃん!ずっと待ってたよ」
 そう声をかけてきたのは、一回生のサトリンだった。
「あ、どうも」
 向こうのテンションの高さもあるけど、いきなりハニーと呼ばれて、私は軽くパニックに陥ってしまった。
「今日ちょうど学祭の担当決めるところだったの。ハニー、うちらと同じ動画制作の班でいいよね?タグッチも一緒だしさ、一回生トリオで」
 何だかわからないうちに、サトリンの横に座らされ、裏京都ミステリーツアーの動画についてネタを考えることになり、退部について切り出すタイミングは完全喪失。
「あの、なんで僕のこと、ハニーって呼ぶん?」
 恐る恐るきいてみたら、サトリンは「青木センパイが教えてくれたの。真野くんの正しい呼び方はハニーやでって。確かに、なんかぴったりじゃんねえ」と、何度もうなずいた。
「センパイ、いつも来てはる?」
「来ない来ない。卒論全然書けてないんだってよ。俺はもう修行僧になる、とか言ってさ、追い込み入ってる」
「そんな大変なんや」

 もちろん私はサトリンから聞いた話をまるごと信じたわけではない。
 センパイは私の気まずさを考えて、サークルから距離をおいてるんじゃないだろうか。でもまあ、これは過剰な思い入れって奴で、本当に卒論がヤバいのかもしれない。
 私の胸のど真ん中は風穴が空いたままだけど、ハニー、と呼ばれることにだんだん慣れて、こんなのでいいのかな、と考えたりしながら、何となく授業に出て、前よりは熱心にサークルに顔を出して、帰りに時々お茶したり、晩ごはん食べて帰ったり。
 皆にさよならを言う頃にはもう暗くなっていて、冷たいぐらいの夜風に金木犀の香りが混じっていたりする。
 そして私は自転車をこぎながら思うのだ、京都の秋ってやっぱりそう悪くない。

丑の刻ハニー

丑の刻ハニー

ハニー、こと私。心は女子ですが、世間一般には男子とされてます。 学業、バイト、サークル、ともにドロップアウト寸前の京都に住む大学生ですが、東京から来た素敵な女性、桃子さんに無茶振りのお願いをされました。 貴船で丑の刻参り。 なんか本気みたいです。行くしかないんでしょうか。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-11

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  1. 金曜の夕方
  2. 金曜の夜
  3. 金曜の夜おそく
  4. 土曜の十一時
  5. 土曜の昼
  6. 土曜の午後
  7. 土曜の夕方
  8. 土曜の夜
  9. 土曜の終電発車時刻
  10. 土曜の深夜
  11. 丑の刻
  12. ある水曜日