私の労働運動 全文
続・不可思議な国
私の労働運動
1️⃣~1️⃣1️⃣ 全文
1️⃣ 読者諸兄は驚くだろうか。古稀も超えて七一の私は、ある労働組合のたった一人の組合員なのである。現役だ。こんな者は全国にも稀ではないか。この小文を書くのは些か感慨も深い。
私は半生を労働運動に賭した。ある民間中小産別の専従役員だった。総評だ。
一九五五年に社会党の左右合同に呼応して結成された総評は、当初は『労働界の反共再編』と揶揄されたが、やがて、鶏がアヒルに脱皮したと評され、『昔陸軍今総評』『社会党政治部』などと、社会運動を牽引した。六〇年安保闘争の新左翼学生運動の台頭で首座が揺らいではいたが、私が参加した七〇代初頭、総評は未だ辛うじて元気だった。
第一次オイルショックに対応して、総評は『国民春闘』方針を決定して、広く国民に反インフレの闘いを訴えて共闘した。
ストライキを打ち、連日、地域集会を開いて連帯して、デモをした。その中心は国労などの公労協だ。この闘いが、七五年の『スト権奪還闘争』に連動したのである。
私はこの一連の闘いを今でも評価している。労働者の広範な実力行使を目の当たりにして、日経連や経団連は震え上がったのである。
この時、三万円のベースアップを勝ち取り、今日の賃金体型の原型を確立した。国民は一夜にして狂乱インフレを克服したのである。
当時の田中首相は陰に陽に総評にエールを送り、批判されもしたが、金権にも拘わらず私が評価する所以だ。彼は私たち以上に、この国のインフレ克服に腐心していたに違いないのである。
それにつけても、安倍と連合の関係はどうだったか。安倍はデフレ脱却の一手法として、経団連や連合に、あからさまに賃上げを働きかけた。異様な光景だが、連合は応えることができなかった。
何故か。旧同盟や中立労連を母体とし、今や彼らに引きずられてすっかり変質した旧総評系の、即ち連合総体の団体交渉は、『談合体質』に堕落しているからである。
実力行使を忘れたり否定する労働運動などは、唄わないカナリヤよりたちが悪い。カナリヤは未だ美しいが今の連合は醜い。とりわけ、原発をなりふり構わずに推進する電力総連などは、醜悪の極みである。
さて、筆が走ってしまった。肝心な私の現在の謎は次回に譲ろう。
2️⃣ facebookに以下の投稿があった。読者諸兄はどうだったろうか。私などは忘れもしない、茨城の燃料棒製造事故である。福島にまで放射能が降ってくると騒がれ、近隣の野菜の出荷が止まった。
事故は下請け工場の杜撰が原因とされようとしていた。私は怒った。確かに一義的な責務は下請け工場にある。だが、元請けの住友金属や東京電力の責任はないのか。
中小零細企業と働く者の悲惨な現実の改善と格闘して私は、どうしてもそうした視点で事故をとらえた。すると、ある会議で県連合会長(電力総連・東北電力)が下請け工場批判をぶったのである。怒りが爆発した私は発言を求めて散々に彼をこき下ろした。この中小の運動など皆目理解できない連合会長は、赤面するばかりだった。
会議が終わると、旧同盟の金属連合の書記長が寄ってきて、「親企業の組合でふんぞり返っているあんな奴らは、あれぐらいが薬なんだ」と、手を握ってきた。同盟にも猛者がいると感心して、以後親しくしたが早世してしまった。
当時から、福島原発の東京電力の杜撰な業務は有名だった。佐藤栄佐久知事は厳しく弾劾して、具体的な改善策を提言していたのである。彼は自民党だったが私は支援した。あの時から、福島の原発爆発は予見されていたのである。
投稿に思わず触発されて筆をとった。 瞑目
(投稿)
もう21年前になります。
1999年の12月21日
ほとんどの方は覚えては
おられないでしょうが。
私には忘れられない日です。
杜撰なマニュアルに従って作業をしていて、臨界事故が起こり東大病院に入院されていた、大内 久さん享年35歳が亡くなられた日なのです。
20Svと言う年間許容範囲の二万倍の被ばくを、一瞬でさせれた大内さんは、83日間にわたる懸命の闘病の末に亡くなられました。
私は葬祭業者として、大内さんの葬送を担当させていただいたのです。
茨城県警・警視庁の立ち会いの元に行われた司法解剖を終えられたご遺体の様子は、今でも眼に浮かびます。
ご遺体を法医学研究室の解剖台へ載せた時にはしっかりとした重さがありましたが、検視解剖が済んでのちは脳幹、脊椎液、全血液、全内臓を標本として抜かれ、木屑のパッキンを詰められた亡骸、余りにも軽くなっていました。
霊安室で血の滲む包帯に巻かれたご遺体に仏衣をお着せし、両指を合掌させました。
ポロポロ、ガサガサと皮膚が剥がれ落ちました。
小さなお子さんが纏わりついていました。
あの子はあの後、どんな人生を送って生きているのだろう。
反核の意識はもっていましたが、被ばくの現実に触れることで、意識だけではと今に至っています。
それから4ヶ月後の4月27日、大内さんの半分以下の被ばく量であった同僚の篠原理人さんの葬送も担当させていただきました。
お二人とも死因は多臓器不全とされました。 合掌
鼻梁なく皮膚爛れたる人型に児は幾度も指這わせおり
軟骨でありたる肉叢みな溶けて生殖器すら形のあらず
臨界の蒼き光に包まれし屍を抱きて棺に納める
恐々の人棲む街をゆうるりと視線集めて霊柩車ゆく
『哀しみに無言の帰宅』と報じらるも惨たるこの身 視よと起きぬか
ニュース画面に映りおりしと電話ありて葬儀屋となるをしばし語りぬ
*
事故後、現場の巨大換気扇をまわしつづけ、近隣へと撒き散らしました。被ばくさせられた村民の方たち669人が訴訟を起こし、最高裁まで戦いましたが、健康被害の医学的証明が取れず(原賠法では被害の実態を被害者が立証しなければならない)に敗訴してしました。
3️⃣ 一九八七年に労働界が再編されて連合が結成された。同時に、全労連、全労協が誕生した。まさに、従来の総評、同盟、中立労連の枠組みが解体、再編されたのである。
この企みの目的は何だったのか。端的に言えば、社会党系産別と共産党系産別が同居していた総評の解体であった。つまり、反共主義、反日本共産党による、共産党系産別を追放しようという謀略である。そのカモフラージュとして、『労働界の再編』、即ち、旧労働三団体の統一が謳われたのである。だが、統一などとは名ばかりの、総評解体の策謀なのであった。
このたちの悪い反共主義の魔手は外からばかりではない。総評の内部にも鬱々と棲息していたのである。総評以前の労働運動の歴史に言及する機会も、いずれはあろうが、この国の反共主義は極めて悪辣なのだ。
また、総評の産別の殆どは社会党支持だったが、その社会党そのものが、『二本社会党』と揶揄されるほどに分立していたのである。最左派は共産党と共同行動や統一戦線を模索したが、右派は頑冥に忌避した。
この時の総評の事務局長は国労だったが、国労ですらそうだった。諸兄は国鉄が民営化された直後に、数百の労働組合が国鉄内に結成されたのをご記憶だろうか。私は驚愕したものだ。あれが鉄の団結を誇った国労の実態だったのだ。総評崩壊の萌芽は総評の胎内にもあったのだ。
しかし、言わずもがな、この謀略の主体は国鉄の民営化を豪語した中曽根内閣、日経連や経団連の経営者団体、そして、一部労働組合幹部とその産別であった。
その引き金を引いたのが七五年のスト権奪還闘争、いわゆる『スト権スト』であった。
スト権を剥奪されていた公労協などが、スト権の獲得を求めて全国的なストライキを打ったのである。
国労と動労が主体で、鉄道の大動脈が七日間に渡ってストップした。まさに、レールが錆びたのを私は目撃した。
他の産別も連帯し、呼応して何らかの争議行為に出たから、ほぼゼネスト状態だった。このような争議は戦後初めてで、この事態に自民党は震撼したのである。
ある産別の専従で、ある地域共闘に属していた私は、連日の集会やデモの企画、激励などで走り回っていた、七日間、ほぼ不眠不休だったのだと思うが、さしたる記憶がない。
明瞭なのはある事件で、怒った右翼が国労の組合事務所に押しかける情報があったから、防衛戦を張った。深夜だった。そこには機動隊もいて、私達の眼前で彼らが右翼の諸君と大乱闘を始めたのである。以前にも何かの因縁があったのか、凄まじかった。
この時、私が属した産別は、新たな選択を巡って、連合、全労連、全労協の三つに分裂したのである。端的に言えば、全労連は共産党系、全労協は、まあ、『社会党系最左派』(そう名乗る者達もいた)、新左翼、諸党派というところか。
さて、また、紙面が尽きた。私の現在の労働組合の謎は、再び、次回に譲ろう。
4️⃣ 経営者団体や自民党は『国民春闘』や『スト権スト』に、いかに驚愕し、震撼しただろうか。
私は専従であったが、出身職場の春闘交渉も指導していた。ろくな交渉もせずに、会社は三万なにがしの回答をしたのであった。全国がこんな状況だった。これはストライキを背景にした実力行使の結果で、マルクスの論をまざまざと体験する思いがした。
ストで、一瞬にして社会の営みが止まり、経営者が哀願するのであった。労働力しか持たない労働者が、その労働力が搾取されていることに気づき、労働力の提供を拒否した時にこそ初めて、私達は自分の労働力の値段を決められるのであった。
だが、直ちに、日経連や自民党の反撃が始まった。国労などに対しての損害賠償請求訴訟であり、労働実態の告発キャンペーンである。
その一つが、国鉄の『時間内入浴』だった。これは他の労働組合にも論議をよんだ。中小民間の汚れる現場には風呂すらなかったからだ。
こうした情勢を背景に、行財政改革を金看板に登場した中曽根内閣は、赤字や働き方を理由に、国鉄の分割民営化をぶちあげたのである。
中曽根は臨調を設置して経団連会長の土光を起用した。この人は剛胆論理、実に簡素な生活ぶりで、マスコミは質素なメザシ膳やあばら家風の住まいなどを話題にしたから、なかなかの強敵だったのである。私などは密かに舌を巻いた。
私は地域の労働組合にもオルグで行っていたから、その職場の実態を見聞きしていた。その一つが、ある国立病院労組幹部や農林関係の公務員労組の『昼休みマージャン』だった。これには驚いた。延べ11時から14時頃までするのである。案ずるかな、その内にこの醜聞もマスコミの餌食になり、遂には、この職場は統廃合されて消滅してしまった。
この様に、74、5年の闘いの高揚は夢うたかたの如くに、総評は守勢一方に回ってしまったのだった。
さて、今回も饒舌に過ぎたが、この背景を書かなければ、古稀を過ぎた私の現在の労働運動の謎は語れない。ご容赦を願い、紙面が尽きたので次回に譲ろう。
5️⃣ さて、年末年始を挟んで大分間が空いてしまったが、私が属した産別の分裂の話を続けよう。
中曽根の土光民間臨調による行政改革は三公社五現業の民営化、とりわけ、国鉄と電電公社の分割民営化となって表れた。この労働組合、公労協は総評の屋台骨だ。その核は国労と動労、全逓だ。
私が体験した現場感覚で言えば、日教組や自治労は図体はでかいが、社会党系と共産党系に分裂してして、組織力、戦闘力はまるでなかった。亡父などは共産党系と役員選挙でしのぎを削る極度の反日共主義者で、いわゆる右派社会党だったから、幼少からつぶさにその出鱈目に触れていた。張り子の虎なのだ。
その上、自治労の中で、唯一闘っていた社会保険庁の組合が、後日の年金問題で、労使癒着が暴露された時などはひっくり返ってしまった。
この国労に「職場規律の乱れ」の攻撃がかけられたのである。その象徴が「時間内入浴」だった。敵もさるもの。衝撃だった。「時間内入浴」などの設備も慣習もない中小民間労働者が、いとも容易く分断させられたのである。
こうした情勢に呼応して、旧中立労連と旧同盟から、「労働界再編」の声が上がった。団結と統一の再結集の美辞麗句を掲げてはいたが、その内実は総評の解体であった。
しからば、この議論の急先鋒は誰だったのか。個人名も明らかになってはいるが、ここでは触れない。ただ、連合発足時の事務局の役員体制を見れば、自ずと明らかだ。即ち、電機連合、電力総連、ゼンセン同盟などである。
総評は、当初は反対したが、やがて、総評の役員も個別撃破されてしまった。全逓は分割民営化を阻止するために内通し、電電も労使で容認に転じた。何よりショックだったのは、国労出身の総評事務局長が急転、変節したことであった。この男は福島県の出だったから恥辱のおまけまでついたのだ。総評も虎の玩具だったのか。
さて、今回も紙数が尽きた。なぜ、七二にならんとする私がたった一人の現役の組合員なのかは、またまた、次回に譲ろう。
6️⃣ さて、労働界再編の議論が、いよいよ、総評を構成する各産別にまで及んできた。
共産党系は当然、反対の立場だ。真っ先に賛意を示したのは鉄鋼労連だった。巨大基幹企業のここは、従来から総評の異端といわれていたのである。次いで、交運、交通関係の産別が「陸海空統合構想」なる大合併をぶちあげた。事務所に同居していた全自交のある役員などは、「軍隊は統一してこそだ。理屈などいらない」などと連合への期待を公言した。彼は後に連合地域組織の会長になって得意満面だった。或いは、あの戦闘性を誇って、私などは幾多の教訓を得た全国金属が、同盟系の金属同盟と統一するという。または、繊維労連がゼンセン同盟に吸収されるとも聞いた。この件では私の産別と合併する秘策を画策したが、寸前までいって横やりが入り頓挫してしまった。実に無念だった。
国労は表向きは反対の姿勢を保っていたが、動労からの組織統一攻勢が凄まじいとも聞いた。呻吟したのは社会党系と共産党系が共存していた大産別の自治労と日教組だったが、自治労は共産党系と袂を分かつといい始め、日教組は中央一括加盟方式なるものを発明して辛うじて統一を保った。こうして、各産別が次々と再編の結論に辿り着き始めていたのである。
さて私の属していた産別である。組織構成の状況が自治労や日教組以上に複雑だったのである。この産別は総評結成を受けて、全国に散在する民間中小零細労働者の統合を目指して、総評の全面的な支援と援助で結成されたのである。云わば、総評が産み落とした貴重な財産だった。だから、当初から社会系と共産党系が混在していたが、統一して行動する歴史や実績、気風があった。とりわけ、結成時の指導者が共産党系で、伝説になるほどの人望もあった。そして、最も重要だったのは中小零細労働者、労働組合の運動の真髄にあった。
私達は労働組合といえども、民間中小零細労働者で、辛うじて労働組合は結成したものの、経営者の妨害や切り崩し攻撃も激烈で、明日は未組織に転落する身なのであった。組織化は「賽の河原の石積み」であり、私などは生涯で、約150分会、15000 人を組織化したが、その殆どは壊滅したのであった。必定、組織の団結と統一が最大の課題であり、政治心情で対立をする余力などはないのであった。だから、分裂の様相を孕んだ連合加盟論議に、とりわけ私などは極めて慎重で、強く主張したのである。さて、紙面も尽きたから続きは続編で。
7️⃣ 先に述べたように極めて複雑な実態なあった私の属した産別は、議論を重ねた末に、当時の委員長の裁定で「総評の一番最後に議論して決定する」こととなった。この人は共産党系だったが、人望が厚かったから、概ねは納得したのである。
だが、おおよその産別で方向性が定まりつつある状況であったから、弥縫策だとか、単なる先送り、との批判もあり、左右両端の党派は結論を急いだ。
とりわけ、ある新左翼は社会党右派に連合積極早期加盟を働きかけていて、一定の広がりを見せていた。最後に加盟では相手にされなくなる、というのが理由であった。この理屈もトンマだったが、真相は組織延命を焦った某セクトの策謀だった。
彼らは、表向きは議論を封印した形を取りながら、役員選挙を画策したのである。そして、某地の定期大会で委員長選に立候補したから、現職は引退してしまった。共産党系とはいえ、戦前からの闘士で、私は心服していたから残念だったし、極左右派連合の陰謀に激怒した。彼らは左派の切り崩しも図っていて、ある県の責任者が連合加盟に変転した。
私の怒りに火がついた。こんな横暴は許せない。労働組合は団結と統一が唯一の宝なのである。いかなる局面でもこの原理を見失ってはならない。最後の最後まで最善を追求する。これが私の主張だ。
私はこれで自らの組織をまとめて、全国情勢に挑んだ。既に私が社会党最左派のグループに属しているのは公知の秘密で、「書生派」と揶揄され、罵倒、威圧、恫喝、様々あったが、一切引かない。同調を得た数県で、それこそ「書生派」を結成した。共産党系の幹部とも会談して意見を調整したりした。私は極左右派連合からは、獅子身中の虫となったのである。
望むところだ。私などはガキ大将だったが、弱い者を苛めたことは一度たりとてない。社会、共産などは万年野党で、協力しないでどうするんだ。私は統一対応を錦の御旗にしてはいたが、その本意は、右派よりも左派の共闘強化だったのである。
さて、紙面が尽きた。七二にならんとする、たった一人の現役組合員の真相は、後日に。
8️⃣ さて、以降も、連合加盟の論議は様々あったが、ここには書かない。私はあえて「書生派」の揶揄に甘んじて、団結と統一を説い続けていたが、私とて僕念人ではない。単なる理想主義者でもない。そればかりか、数えきれないほどの修羅場を潜り抜けてきた。
労働組合の専従役員などは経営陣と最前線で切り結ぶのである。とりわけて、私は現場を旨とした。当て職などは他に譲った。書記長一筋、闘う現場でこそ血が騒ぐのである。「会社の攻撃で俺達はまいっているのに書記長は水を得た魚の様だ」と、よく言われた。その通りなのだから仕方がない。性分なのだろう。
だが、密かに腹がある。組合員が呻吟する時が私の出番なのだ。本務だ。ここで力量を発揮出来なくてどうするのか。むしろ、組合員の信頼を勝ち取る絶好の機会ではないのか。消防士が火事を前にして怯んだらお笑い草だろう。
だが、「労働貴族」と罵倒されたりもするが、事務屋の様な役員が多く、争議を敬遠したり逃げたりしていた。そんな輩は専従などは体に悪いから、とっとと辞めれば良いのである。
余談だが、原発が爆発したあの時にこそ、菅カンは力量を見せるべきだったが、さて、充分だったか。安倍はコロナから敵前逃亡して、菅スガなどは意識にすらない。有事に対応できない指導者などはその器ではない。不幸に陥るのは国民ばかりなのである。
曖昧模糊が特質のこの国は非常時に直面すると、とりわけ訳がわからなくなる。肝心なことが何一つ語られなくなるのである。原発もコロナもそうだ。かつて、「平時の小渕乱の小沢大乱の梶山」と言われた。菅は梶山を政治の師にしていると聞いたが、直ちに返上した方がいい。高価な朝食や晩餐に明け暮れながら、国民に会食禁止を説く菅には、危機管理の片鱗すらないのである。
さて、私の相手は零細な企業だ。家族経営程度の者すらあった。番外は必ずある。トップ交渉もする。当然、情も通うし、工作や誘惑もある。「大道無門」を座右として、堂々と歩むを信条としたつもりだが、この国のピラミッド多重構造社会の最底辺は矛盾に満ち満ちているのである。そして、私は聖人君子でないばかりか、むしろ、闘いの汚泥にまみれていて、体験を積めば積むほど、私の闇は濃くなったのであろう。だからこそ、労働界再編の局面で理念を掲げ続けたのである。
さて、筆が翔びすぎて紙面が尽きた。次回に譲ろう。
9️⃣ さて、私が属した産別の連合加盟の論議は、某党派と社会党右派のグループが委員長ポストに就いてからは一層加速したが、私達「書生派」は結束を保っていて同意せず、膠着状態が続いていた。
そうした状況での某定期大会であった。夜半に、加盟積極推進派の首謀者の一人、某が私の部屋を訪ねてきた。明朝の朝食後に別会場に行き別組織を旗揚げして、連合準備会に加盟申請をするから参加して欲しい、と言うのであった。全国組織の分裂策動だ。私は激怒した。大激論の果てに、説を曲げずに彼は引き上げた。
翌朝、彼は朝食会場にいた。だが、推進派の一部はいない。帰ったという。委員長自らが大会をボイコットして推進派は分裂したのだ。分派組織の旗揚げは阻止できたのである。以来、以前は評価してくれていた推進派の前委員長が、「あの男は東北の山賊だ」と、私を毛嫌いしたと聞いた。以来、まみえることはなかった。本懐だ。全国組織の分裂を阻止したのだから、これは私の闘いの数少ない勝利の一つなのである。
だが、この事件でこの産別は、積極推進派と推進派、私達の慎重派、共産党系の反対派、某党派系の反対派に、明確に色分けされた。即ち、連合、全労連、全労協を志向する勢力に、いよいよ、明確に色分けされたのである。
さらに、積極推進派が会費納入を凍結して、対立は決定的になった。新委員長の某は自称、穏健左派で調整が期待されたが、無策に尽きた。結局、この対立は連合結成直前まで続いて、終局、この産別は、いわゆる『流れ解散』をして、連合、全労連、全労協に無惨に三分裂したのであった。
不幸な結末だったが、「論議を尽くして最後に加盟する」という当初の課題は全う出来た。ささやかな抵抗だったが、意地だ。私はこんなつまらないことに拘ったのである。
また話が翔ぶが、ある和議倒産の組合が主導した再建闘争の途上で、会社側弁護士から提案された。「組合の協力で再建が進んでいるが前途は多難だ。今なら退職金を増額して払えるから、会社解散に同意してくれないか」と、言うのであった。私は断った。組合に期待して再建を待っている一般債権者がいるではないか。最も悲惨なのは零細な彼らなのだ。再び裏切ることなどできようか。毒は食ったのだ。そして、その毒はある意味で美味なのであった。金にはかえられない。私は断ったのであった。独断だ。組合員には言わなかった。こんな性分は、おそらく、ガキ大将の時分から身についたのであろうか。
さて、紙面が尽きた。いよいよの佳境は後日に譲ろう。
1️⃣0️⃣ こうして、私が属した産別の中央本部は分裂したのである。私は連合を選択するしかなかった。何故か。私の地方組織は、歴史的に総評主流の方針に添い、社会党を支持政党としてきたからである。必定、連合が総意であった。
だが、私の組織にも様々な意見があった。好んで連合ではないのである。連合が右より再編だというのが活動家の大方の意見であった。だからといって、全労連や全労協は選択できない。ジレンマなのだ。一方で大組織には連合容認派もある。私が最後の最後まで結論を出さないとしたのは、自分の組織のこうした気分や実情を踏まえていたからでもあった。
主要な組合の中には連合積極派もいた。最も難儀したのは、分裂した中央本部を見限って、地方組織の私の組合も脱退しようという動きがあったことだ。不満を募らせ脱退を臭わせたのは、加盟の歴史の浅い右派系の大組織だ。説得に実に苦慮した。
そもそも、私の組合は一産別を名のっていたとはいえ、中小組合の集合体である。業種も様々、産業や業種的な統一性は希薄だったから、組織運営に最も腐心したのがこの点だったのである。その上、福島は広い。風土も様々なのだ。何で団結させるのか、統一行動を強化するのか、これが常に私の最大の課題だった。見いだしたのは、「産業の多重構造下の中小労働者の闘いによって産み出される連帯感」だったが、「寄せ集めのお前の組織などはいずれは空中分解する。そんなところで何故、専従などしているのか」などと揶揄されるのはしばしばだった。
一方、最左派系の一部には、連合には絶対反対だが全労連などには行けないとして、第三の選択を編み出した者がいた。私の組織と他の組合を糾合して、いわゆる『中小組合連合』を作る構想である。いわば、私が属するグループから出た動きだったが、これは絶対に容認することができなかった。私が最も嫌う分裂の策動だったからだ。そこで、私は彼らが合併すると目した組合に働きかけた。私が合併してしまうという工作だ。取り合いである。まあ、様々あって、合併には失敗はしたが、相手方にも行かないという一筆を取った。中小労連構想を阻止し粉砕したのである。だが、この激しく陰湿な内部抗争で、私は多くの仲間を失った。状況がなした矛盾とはいえ、痛恨だった。
さて、紙面が尽きた。七二歳を目前にした、たった一人の労働組合の存在の謎、いよいよの終結は後日に譲ろう。
1️⃣1️⃣ 総評の県組織は県評だが、福島は県労協と称した。この組織部長の某が言った。「県労協に直加盟している組合が随分とある。連合になれば県労協は解散だ。お前の組合に加盟させたらどうか」私鉄総連出身の彼とは、幾つかの争議の現場で寝食を共にしていた。他の産別の手前もあるが黙認する、と言うのである。彼が私の苦闘を伝え知っていたのかはわからないが、願ってもない提言だった。
それから、私は三〇余りの組合の勧誘に没頭して、広い県内を奔走した。そして、数ヵ月で、その殆どを加盟させることが出来た。総数は約五〇〇名。これは大きかった。
そして、県連合が発足した。
それから、十余年、私が属する産別の中央本部が、「解散してある産別に加盟する」方針を打ち出した。連合加盟を巡って三分裂して人員を減らしていたが、その後も組織化は進まず、運動も低迷していたのである。
この方針は衝撃だった。相手が自治労だったからである。私の組織にも混迷が生じた。あの県労協直加盟だった組合が脱退をし始めたのである。説得しようにも論理が立たない。私には為す術もなかった。そして、ついには、委員長を出していた組合が脱退したのであった。
やがて、残った半数が合併に賛成するという。半分は最も歴史のある数組合で、これまでも運動を牽引してきた。
これで私は腹を固めた。私が先達から引き継ぎ、半生を賭して育ててきた組織だ。この運動は継承しなければならない。合併ではそれは出来ない。ここに至って、私は中央方針を決然と否定したのである。組織内に激震が走っただろうが、決めたら走るばかりだ。
それからの中央との攻防は、一切、書かない。実に不快だったからだ。最終的に、彼らは新組織への再登録という奇策にうって出た。私達は登録しなかった。こうして、私達は彼らと決別したのである。
私達は福島県だけのある組合を結成した。それから、十数年を経た今日、組合員は私一人になったのである。
思えば、五〇年前、今で言う、あるブラック企業に労働組合を結成したが、切り崩されて一人になったところに転勤命令。拒否したら解雇されたが、闘って職場復帰し、やがて、専従に。私の労働運動は、限りない連帯を求めながらも、一人で始めて一人で終えるのか。社会党の残滓が終焉を迎え、連合労働運動が厳しい批判に晒されている今日、私は昔びとの如くに、一本の松明を手離せずにいるのである。
さて、紙面が尽きた。七二歳を目前にした、たった一人の労働組合の存在の謎を明らかにしたつもりだが。敢えて、書かない箇所も多々ある。明日をも知れない齢だが、或いは、機会があれば書くかも知れない。人生の先などはわからないのである。
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