人称
•彼
用いられた具象が形となり、綺麗に咲いた赤い花となっている。物体としての絵の具の表現は、塗り重ねられた三次元だ。その意図は小さな花弁を見失わない慎重さで、画面を満たす。植物図鑑にも載っていないらしい、解説にある空想の存在には不安なんてない。だから、かえって目立っていた。不安、は彼の良さだと言われているようだから。
他の絵に見られるシャープな人物のフォルムは簡単に折れそうで、場面、場面も悲しみを誘う。色も暗いし、何かが漂っている。生き物も解体され、物として描かれる。原因不明のひび割れが無数、壁にも床にも走っている。引っ掻いた主は勿論、彼。ひび割れていない完成品は、確かにその良さを損なうだろう。写実でない、表現主義。落ち着かないのは確かだと思う。
その技術がしっかりとしているのは、その受賞歴に加え、後年の画風の変化から分かる。アカデミックな画風と解説された風景画は、同一人物が描いたとは到底思えない程に対象に忠実である。人家と周囲の森、その間に流れる穏やか川の流れにある一体感は、陽の当たらない緑陰から飛び立つ鳴き声を追いかけたくなる光景となっている。辺りを見回しても、彼の姿は見えない。
その隣、『ペロス=ギレック』は彼の表現に彩られてはいる。不安を象徴するように、灰色の雲が上空を覆っているし、動いている。しかし、解説文を見てから「ああ、そうだな」と後から気付いたのは、その天候の様子より地上の風景に目を奪われていたからだ。青い屋根を乗っけた白一色で立ち並ぶ家屋は、エメラルドグリーンの海面とマッチし、弧を描く道と向こうの海岸線とは形の違いを見せる。その食い違いが全体で見て心地よく、家々を反射させる海面の揺らぎにも目を奪われた。住人と思える人物が一人も居ないが、その風景には必要ない、と見ていて思った。だから、上空の様子はかえって地上の景色を映えさせるもののように捉えていた。向こうに不安な彼がいるとは思いもしなかった。
心理テストによくある、コップの中に半分だけ容れられた飲み物のような違いだろうし、どちらとも取れるという解釈の幅を好むため、その一枚がとてもお気に入りになったのも、ただの個人的な趣向だ。そんな我が儘次いでに、彼にはこんな絵を描き続けて欲しかったと思った。綺麗に揺らぐ心の反映のような画風は、とても素敵だったから。
人の骨と肉を完璧に分離し、肉の部分を攪拌して強調された色と成し、それを背景にどこまでも尖らせ、上へ、上へと伸ばした骨組みによって描かれた人物や建物を置き、きちんと固める。衣装や装飾品で無表情を滑稽に表す。中期以降、色彩豊かになっても鋭いフォルムは失われなかった。グロテスクにも足を踏み入れていた。そういう強調が内側に隠されるとき、彼の表現は自由になって画面いっぱいに広がる。確かな骨組みがそれを可能とする。生意気な素人として、そう感じた。
何をもって良しとするか、は彼が決めるのが当然だ。画風の変遷も、常に新たな表現方法を彼が探究し続けていたことを示す。自分が良ければいいとするか、万人受けするものを目指すか。この迷いは模索を続け、真摯に表現しようと意識すればする程、その身を引き裂く力として両端に君臨するだろう。自分が良いと思い、見る人もそれぞれに良いと思う感想を抱く。理想的な関係性は、しかし表現する側がたった一人で最終的に下す「完成した」表現であるという判断によって始まる。アトリエに篭り、描き続けたという逸話の彼に、「こうして欲しい」と声をかけるのは躊躇われる。私は待って、こうして見るしかない。一度でも発表された、彼の決断に対する言葉を続けて、これからもその形が残っていく何かしらの推進力になればいいな、と。
各時代にインパクトを与えた思想などは、後世においてその良さがピンとこない場合がある。そこで主張される見方、考え方が人々の間で十分に浸透し、すでに当たり前になっているとき、その良さは見えない。その良さを知ろうと思うとき、必要になるのは各思想などがインパクトを与えた時代にまで遡り、その当時に通用していた見方、考え方に立ってその内容を吟味することである。
そのビジョンをクリアにするためには、もっと勉強する必要があるだろう。けれど、これまでの歴史と社会に人はいた。単純な感情を重ねるだけでも、分かり合えたと思えることは少なくない。
不安を描いたと評される彼。
小さなミミズク、皿洗い機。
私が持ち帰った可愛らしい、味のある二枚の物。
•美人
上村松園が描いた美人画、そして河鍋暁斎が描いた美人画に感じたバランスは、曲線美なんだろうなと思っている。
立ち姿である。
その構成、ユーモアとあらゆる面で完璧すぎて書くことがない河鍋暁斎の描いた美人は、捕まえてみろとばかりに翔ぶ蝶も含めた美人であった。ありきたりな構図という意地の悪い感想に対して、それは美味な握り飯に添えられた沢庵でしかない、という一人ツッコミを内心で行う時間も微笑ましく過ぎる。
俳句や短歌にある字句の制限のように働く掛け軸の中で座る女性と、その周りで遊ぶ子供の小さな姿。一ミリたりとも動かせない構成美は、一枚目から度肝を抜かれた上村松園の手による一枚。
黒の着物に覆われた舞子の一人は、足の先も見えない、必要最小限の肌の露出で手鏡を手に取り、せっせと綺麗に化粧をする。対して、向かい合う水色の着物で着飾った舞子は、胸に手を当て、緊張した面持ち。足袋の白が赤い敷物の上で目立つが今にも引っ込みそうな様子を見せる。その様子の違いをもって、着物の主役ともいえる柄を見ると、一方は孔雀と見間違う程の派手さで黒地を埋め、もう一方は可憐な花を何輪と咲かせて水色を浮かべる。ここに来て、真反対の性格を思わせる二人の様子が愛らしく、白い帯と赤い帯の役割も違ってくる。前に向かう勢いに付き従う従順さと、怖気付く背中を押す勢いを散らすことなく垂らす帯。青山亘幹が描く。
ただ立っている二人の舞子の仕草に衣装は、このようにして綺麗になり、美人になる。
皺のより方、袖の垂れ方一つとっても美しさを損ねない、乱れない。
そうして最後に見る顔を、見事に忘れる罪には問われたくない。
•スティーブン•ミルハウザー
社会現象のエッセンスを取り出し、肌理が細かい筆致で生み出す幻想に乗って語られる短編の不気味なリアルが見事な短編集、『ホーム•ラン』。
『三つの小さな王国』に収録されている「展覧会のカタログ」が架空の画家、エドマンド•ムーラッシュに関する短編であり、カタログとして紹介されていく各作品の描写と画家、その友人や恋人、想い人を巻き込む悲劇は異常な魅力を内包する。私の中の怪作となっている。
言葉を重ねて作る嘘、と小説は喩えられる。これを娯楽として人は楽しめる。小さい頃に聞いた童話も、英雄譚も、歴史の出来事も、語り継がれて来た。そこにあるワクワク感や教訓、哀しみなどはこの流れを絶やさないための乗り物として、人を動かして来たように思える。面白くない話も、面白くない話として楽しめるから語り継がれる候補に上がる。人を介して伝わる。
目で追う文字を読んでいる、という感覚がある。短歌を読む歌人は音楽が好き、と『桜前線開架宣言』に記されていたと思う。だから、と無理矢理に接続して、読んだ文字に踊らされたい。
俳句。
短歌。
小説。
詩。
舌に乗せたり、手で記したり、打ち込んだり。
リピートだって悪くない。
人称