茸の亡魂(ぼうこん)-茸書店物語1
茸の不思議な物語 縦書きでお読みください。
神田の古本屋は私の遊び場だ。昔から本が好きで、好みの作家のものをずい分集めたものだ。後がさほどないこの齢になると、買い集めるようなことはしなくなった。古本の匂いを嗅いで、ちょっと手にとって本の気持ちに浸る。そして棚に戻す、そんな楽しみで古本屋を歩いている。古本屋にとって迷惑な話だろう。
今日も玉英堂の二階で高価な限定版をながめ、田村書店で室生犀星の蜜の哀れの初版がないか見た。もう本を買わないと決めているのだが、映画になった蜜の哀れを見て、是非この本は手元におきたいと思っているのだが、なかなか見つからない。
そうこうしているうちにお昼になり、ランチョンにはいった。老舗のビアレストランである。古本屋回りのときは必ずランチョンで昼を食べる。その日はハンバーグにサーモンフライのランチにした。昔だったら必ずビールを飲むのだが、最近、昼に飲むとその後何もする気がなくなるので、避けるようにしている。しかし、その日は十月というのに、気温が三十度近くまで上昇し、長袖のワイシャツだと汗が浸てくるほどで、ビールをたのんでしまった。
ビールが運ばれてくる。一口ぐーっと飲む。やっぱり旨い。食事が運ばれてきて、ハンバーグを口に運び、ビールを飲む。今日は食事が終わったら帰ることにしよう。昼寝だ。そう思いながら昼食を楽しんで、ランチョンをでた。
やっぱり暑い。地下鉄神保町の駅に向かって歩いていくと、ランチョンからすぐのところに間口が一軒ほどしかない小さな古本屋があった。確かこのあたりには山田書店があったと思ったのだが。そう思いもう少し先を見ると、山田書店の看板が見える。
ランチョンと山田書店の間に古本屋があるとは思っていなかったので、頭の中に涼しい風が吹くように新鮮である。新しく出来た古本屋だろうか。そう思って店の入口を見ると、草片書店と手彫りの草色に着色された木の看板が掲げられている。
草片は茸の古語である。茸の本の専門店かもしれない。茸は昔から好きな生きもので、図鑑や茸にまつわる本もいくつか持っているし、山に行ったときには、生えていれば必ず茸の写真を撮る。
店の扉は上が半円状になっている西洋風の木作りのもので、大きな赤い紅天狗茸が真ん中に画かれている。オランダの人が見るとコーヒーショップだと思うかもしれない。オランダでコーヒーショップというとマジックマッシュルームなど危険ドラッグが入った飲み物を出すところである。十数年前にアムステルダムでとても綺麗な茸の絵が入口の扉に描かれたコーヒーショップに出会った。しかし、中には入らなかった。今では入って内装だけでも見ておくべきだったと思っている。ちょっと怖かったのだ。海外ではかなり用心深く歩いてきた。
草片書店の木の扉には窓がない。中の様子が全く分からない。戸をちょっとばかり引いてみた。意外と重さを感じることなく開いた。柔らかな光が漏れてきた。
店の中は、左右の壁に大きな木製の本棚がしつらえてあり、きれいな傘のかかった電灯がいくつも吊るされていて、整然と並べられている本の背を浮き上がらせていた。踏み込んだ床も黒くしっとりとした木が張ってあり、歩くとこつこつと靴音がしてそうだ。入ってみた。やはり靴音が響く。イギリスの古い図書館の中を歩いているようだ。
部屋の真ん中に大きな樫か胡桃でできたテーブルが置いてあり、椅子が数客用意されている。棚から本を取り出してそこでゆっくりと見てから買ってくれというのであろう。
奥には立派な書斎机があり、西洋アンティークの卓上ライトが点燈されている。机の後ろの木の壁に大きな茸が書かれた油絵がかかっている。それなのに人がいない。そう思っていると、油絵が動いて、黒装束の女性が出てきた。扉に絵が掛かっていたのだ。
女性は品よくカールした金髪をかきあげ、
「失礼しました、いらっしゃいませ、どうぞごゆっくりご覧ください」
と明るい声をあげ、大きな目で私を見た。元気な人だ。私も軽く会釈を返した。
店の内装ばかりに気をとられていた私もやっと本棚の本に目をやった。やはり茸の本がならべられている。片側の棚の中央にボックス状の棚があり、一冊の綺麗な茸の本が飾ってあった。非売品とある。
棚の本は種別になっているようで、奥に向かって左側の棚には、入口近くには茸の絵本が集められている。次に茸の小説など文学系のものがある。続いて茸の料理の本があり、一番奥、書斎机のレジに近いところには地方で出版された茸に関わる小冊子や自費出版されたものがあった。
反対側、右側の棚には入口に近いところに図鑑類、茸の専門書籍がこれも外国のものを含めたくさん陳列されている。最後のコーナーには日本の茸の古い本があった。和綴じのものである。
一通り見たあと、もとに戻って、地方出版コーナーに平置きしてあった薄い冊子を手に取った。表紙に橙色の綺麗な茸のスケッチがある。タイトルは「茸の亡魂」。面白いタイトルである。奥付に書いた人の略歴がある。岐阜の人のようで、特に執筆家ではなさそうだ。内容は茸の伝説が書かれているようである。値をみると三百円と安い。寝る前にちょっと読むのにはうってつけの厚さである。買っていこう。店主らしい女性のところに持っていった。
「はい、ありがとうございます、三百円いただきます」
女性は愛想よく、私から本を受け取ると袋に入れた。網笠茸の絵のある綺麗な紙の袋である。
「この本はこれが最後の一冊です。この方は岐阜の中津川で古くからの宿をなさっていらっしゃいます、茸がお好きな方です、語草片(かたらいくさびら)という私どもがだしている叢書の第一号です。茸に詳しい方や茸が好きな方に依頼して書いていただいてます。楽しい本ですわ、これからもいろいろな地方の方にお願いしていきますので、よろしくお願いします」
この草片書店が発行している本だ。面白い企画である。
私はありがとうと、受け取って、「またいらしてください」と言う声を背に受けて草片書店を出た。
地下鉄神保町駅から京王線直通の電車に乗った。袋から取り出してみると、やはり発行元は草片書房になっている。面白そうだ。ちょっと読もうかと思ったのだが、ビールを飲んだせいかかなり眠い。もう一度袋に入れた。
うつらうつらしていると、終点の笹塚に着き、反対側にきた八王子行き各駅停車に乗り換えた。住んでいる芦花公園は落ち着いた静かな住宅地で、我家のマンションの近くには芦花公園や世田谷文学館がある。
その日は家に着いてもまだ眠かったので、一時間ばかり昼寝をした。目が覚めたのは四時をまわっていた。一人暮らしなので、夕食はほとんど外食である。この町にはちょっとしゃれた、しかも安い食事処がいくつもある。あれこれしていると、五時近くになり、その日は定食屋でアジのから揚げ定食を食べて家に帰った。
いつものようにテレビを見ながら、つまみにビールをまた飲む。寝るのは早く、八時か九時。それで夜中の一時ころに目が覚めるのが常である。
起きてしまうと、六時ごろまで自分の好きなことをしている。時として、前務めていた雑誌社から校正の依頼がくることがあり、その仕事をしたり、本を読んだり、誰も読むこともない文章をPCに向かって書いてみたりしている。
その日は、よく寝て二時に目が覚めた。マンションの三階の部屋から見えるのは寝静まった町の家々の屋根である。このあたりはあまり高い建物がなく、広い商店街などもないため、夜になってもさほど明かりが目に入らない。
夜中に起きるとまず風呂に浸かる。その後、しばらくが自分の時間である。今日は本を読もうと決め、買ってきた「茸の亡魂」を手に取った。いつもは本棚にある、昔買っただけで開いたことのない本を取り出して読むのだが、今日は新しい本でなんとなく新鮮である。
五十ページほどの薄い冊子であるが、大きめの活字で、中に手書きの茸のスケッチの挿絵がいくつもあり、風情がある。表紙の茸は「臼茸」とある。ラッパのような形をした橙色の茸で、なかなか綺麗だ。書いた方は長年茸に親しんできた方のようである。
「茸の亡魂」
ここのところ毎日茸採りに行っている。雨上がりに森の中に入ったら、臼茸が集まって生えていた。土から伸びたラッパのようだ。中にはいくつか固まって融合したような複雑怪奇な形をしたものもある。ラッパの内側は橙色で、外側はクリーム色、大きな襞がよっている。これは茹でれば食べられるが、生だと下痢をしたりするので、我々は特に食べようとは思わない。しかし、森の中で見かけると、魅入ってしまうなかなか綺麗な茸である。
この地方、岐阜の中津川にはこの茸にまつわる話が伝わっている。
昔から中津川の周りには温泉宿がたくさんあった。その中の老舗である白木楼はとてもきらびやかで、食べるものも湯もよくて、京の方からもわざわざ出かけてくるという料亭宿であった。そこの若旦那は働き者で、周りの者達にも分け隔てなく気遣うとても優しい男であった。その若旦那が女中の一人と恋仲になった。その女中は良く働くやはり気持ちの優しい女子(おなご)であった。若旦那は両親にその女中を娶りたいと申し出た。ただ何分にも外から見ると身分的に不釣合いだった。案にたがわず、若旦那の両親、すなわち白木楼の主人に猛反対されたのである。白木楼の主人もその女中が良い娘であることは認めてはいたが、その当時のこと、周りの目を気にしたのである。まあ、よくある話ではある。
女中の方は致し方がないものと身を引くつもりであったのだが、若旦那の方が強い思いに駆られ、両親にそれなら出て行くと言い切ってしまった。両親は勘当すると息巻き、それでもあきらめようとしない若旦那は、その女中に二人で死のうと、森の中を彷徨うことになった。
宿を出た二人は森の中で睦み合い、若旦那は女中の首を絞め、もってきた切り出しで自分の咽をついた。血しぶきは森の中に生えていた真っ白な茸に降りかかったのである。
そこには真っ白なラッパのような形をした茸が一本生えていた。その当時、その茸には名前がなかった。若旦那の首から飛んだ血がラッパの中に入ると、その茸は内側が赤くなった。
その白い若い茸は、以前より紅天狗茸に恋心を抱いていた。少しばかり離れたところの大きな羊歯の根元に、立派な紅天狗茸が生えている。この紅天狗茸は茸の王女様、茸界きっての美女である。名無しの白い茸とは身分が違いすぎた。紅天狗茸の周りには茶色の天狗茸が取り囲み、紅天狗茸を守っている。
「紅天狗茸のお姫さん、なにとぞ、私の思いをお聞きください」
名無し茸は気持ちを風にのせて紅天狗茸に届けるのだが、周りの天狗茸がその風を蹴散らし、紅天狗茸に名無し茸の気持ちは伝わらなかった。
名無し茸はあきらめなかった。茸の命は一週間、その間に思いを遂げなければと、何とか気持ちを伝えようと考えた。
ちょっと強い風に乗せて、白い胞子を飛ばし、紅天狗茸に振りかけた。
「おや、白い胞子が、なんでござんしょう」
紅天狗茸は落ちてくる白い胞子を好ましく見た。ところが、
「お姫さま、あっちの、白い若造茸が汚らしい胞子を撒き散らしおるんでございます、防ぎきれませんで、申し訳ございません。汚れてしまわれるといけない、すぐ振り払って差し上げます」
天狗茸の爺が首を折り曲げて紅天狗茸を揺すると、白い胞子が土に落ちていった。
「ありがとうござんした、でもあの白い胞子、少し暖かい」
「いやいや気をつけるに越したことはありませんぞ、茸腐れ病でもうつされますと大変ですからな」
そんなやり取りをしているところに、人間の心中騒ぎ、名無し茸は若旦那の血をかぶってしまったというわけである。
名無し茸はびっくりして、首を絞められて死んだ女中の死骸と、血を流して死んだ若旦那の死体見た。
人間たちの死体はすぐに腐り始め、虫たちが寄ってきた。名無し茸が聞く。
「お前ら、人間の死体は旨いのかい」
「森の生きものの死体と比べると、そんなに旨いことはないが、我々が食わないで放っておくと森が臭くなる」
埋葬(しで)虫(むし)の親方がそういうのなら間違いがなかろう。しで虫は埋葬虫と書く通り、森に棲む動物の死体を処理してくれる大事な役割をもつ虫たちである。
「わしらの後はお前さん方の出番だよ」
「それはどういうことだい」
血で赤くなった名無し茸はそこのところを知らなかった。
「黴や菌が我々の食べ残した死体を目に見えないようにして、それを草木が吸い取るのさ、黴や菌はお前さんがた茸の仲間だろう」
「そうなのか」
若い名無し茸は道理が見えてきた。
「だがな、動物には骨がある」
「なんだい、その骨とは」
「見てれば分かるさ、森の動物は最後は骨になって、晒され、それもお天当さんの熱と、冷たい風、土から染み出る水で長い長い年月の末に壊れていくのさ」
そう言われても、名無し茸には想像がつかなかった。
「しかしな、若い茸のお兄さん、人間はたいがい、他の人間が来て死体を持っていって、供養するってものなのだ」
「もし持っていかれないとどうなるんだ」
「今言ったように,しまいには壊れちまう。しかしな、死体が自分で考えることでもあるのだよ」
埋葬虫たちは二人の心中死体を懸命に喰ったが、なかなか喰いきれない。それにしても、人間たちは二人を探しに来る様子もない。若旦那の両親は二人を追いかけなかったのだ。どうせ死ねやしない、どこかで細々と生きるだろう、そのうちすみませんでしたと戻ってくるに違いないと、高をくくっていたのだ。
さて、三日たっても死体はそのまま、せいぜい、虫に食われ腐っていくだけ。
真夜中、血に染まった名無し茸が変な声で目を覚ました。
調度新月。月明かりの無い空の上では星が綺麗に瞬いているが、森の中にまでその光は入り込まない。それで真っ暗である。
暗闇の中で、二人の死体がむっくりと起き上がるように見えた。いや、死体はそのままだが、人の形をしたものが、すーっと暗闇に浮かんだのである。
紅天狗茸を守っていた天狗茸たちも目を覚まし。その様子を見ていた。
「あれは、人間にしかなれないものなのですぞ」
やはり目を覚ました紅天狗茸に天狗茸が説明している。
「なんでござんすか」
「亡魂、亡霊、幽霊と申すものですぞ」
「亡魂とはなんでしょう」
「生きていたときの恨みや思いを晴らす人間の仕組みでございますよ」
「あの二人はどこにいくのです」
「恨んでいる人間のところに出て行って、恨みつらみをなげかけるのですぞ、すると相手はとても怖がります」
「怖がらせてどうする」
「胸をすーっとさせるのです」
「人間はくだらないことをするものですね」
「紅天狗茸のお姫様は賢い、だけど、世の中くだらないことばかりですからな」
その話が聞こえていた名無し茸は独り言を言った。
「うむ、亡魂の気持ち俺はわかるぞ」
若旦那の血を浴びて赤くなり、少しばかり興奮していた名無し茸から、大きな胞子が飛び出した。それは暗闇の中を漂い、紅天狗茸の上に落ちて来た。
「おお、いい香りのする胞子が飛んで参った、誰じゃろうの、この胞子を撒いたのは」
「またあやつか、先だって白い胞子を撒きおった名無し茸ですな」
「じゃが、ずい分大きくなって、香りもよい」
その話を聞いていた名無し茸は、ますます立派な胞子を飛ばした。
「あの名無し茸とちと話をしたいと思うが、どうじゃ」
「人間の血を浴びたようで、少しばかり赤くなりましたが、やっぱり名無し茸、そのようなものを相手になさいますな、お嬢様は茸の王の家系」
「じゃが、この胞子、なかなか良い匂いじゃ」
「深入りをしてはだめですぞ」
「もし、そちらの赤く染まった茸殿」
紅天狗茸に話しかけられて、名無しの茸は、天にも登らん気持ちになった。
「王女さま、私はまだ名前がありません、しかし、必ず名前を茸の王からもらいます」
「そうじゃのう、そうしたら、もっと近くで話せるかも知れぬのう」
「どうしたら名前をもらえますでしょうか」
「その良い匂いの胞子を、もっとかぐわしく、もっと大きくしなされ、そうなれば、私が茸の王、私の父に進言して差し上げましょうぞ」
「ああ、紅天狗茸のお姫さま、そうすれば、もっとお近づきになれますか」
「そうだのう、天狗茸の爺たちが言いといえばの」
それを聞いた名無しの茸はラッパの形のからだを膨らめて、土の中から思いっきり栄養を吸い上げた。
その間に心中した二人の亡魂は白木楼に飛んだ。
寝ている両親の顔を冷たい手でなでると宙に浮かんだ。両親は大声を上げて目を覚ますと、震えながら血だらけの若旦那と、首が細くなり真っ青になった女中の亡魂に、ひれ伏して詫びた。
「まさか、本当に死んでしまうとは思わなかった、許しておくれ、許しておくれ」
朝まで両親は亡魂に詫びた。
朝日がさしてくると、亡魂は元に戻らなければならない。
森の中にも朝日が差して来た。
血染めの名無し茸と紅天狗茸たちは、森の中に心中した二人の亡魂が戻ってきたのを見た。亡魂たちは木々の間を飛んでくると、半分腐った死体のなかに入り込んだ。
名無し茸は腐った体に戻るとはよく平気なものだと、ちょっとあきれた。
紅天狗茸も、「おお汚い、人間は汚いの平気ですね」と独り言を言った。それを聞いた天狗茸も「ほんとに、人間とは矛盾だらけですな」と頷いた。
さて、その日、大勢の人間が、森の中に入ってきた。
宿屋の番頭らしき男が心中した二人のそばにくると、
「ここにいらっしゃいました、こちらです」
と大声を上げた。両親が心中した二人の捜索隊をだしたのだ。
「お亡くなりになって五日ほどか、早く葬儀をしないとな」
布団の上に腐った死体がのせられ、くるまれて、持ち上げられた。
「あれはなにをするのだえ」
紅天狗茸が天狗茸に聞いている。
「これから、焼かれて供養されるのです」
「そうするとどうなるの」
「亡魂が出なくなります」
「焼くとでないのかえ」
「焼かれても出ますが、この亡魂は恨みがなくなりました」
「だが焼かれると、亡魂が帰るところがなくなるのではないのかえ」
天狗茸は答えることが出来なかったのだが、そばに生えていた一夜茸が代わりに答えた。
「茸のお姫さま、亡魂は死体に住んでいるのではありません」
「それはどこじゃ」
「結界が張られて、亡魂はその中にすんでいて、結界の切れ目である死骸から出入りします、あの亡魂は死体に戻ったのではなく、死骸から結界に戻ったのです。死体が荼毘に付されれば、死体は亡魂のすむところから出なくなります。時には、どこかに結界の隙間ができ、死体が焼かれた後も出てくることがあるのです」
「一夜茸は物知りですね」
そんな話を、血染めの名無し茸が聞いていてやはり感心していた。
「一夜茸は大した御仁だ、一夜の命だが凝縮した一生をもっているのだろう」
名無し茸もそこまで考えられるようになったとは老成したものである。
人間たちが布団に包まれた死体を担ぎ上げ、退散し始めた。その中の一人が、
「毒茸がこんなに生えてやがる」と、紅天狗茸と天狗茸を踏み潰した。
それを見ていた血を浴びて赤くなった名無し茸は、真っ赤になった上、朝日が当たって輝いた。怒っているのだ。
「俺の紅天狗茸の王女様を殺しやがった、復讐してやる」とどなった。
しかし、人間に聞こえるわけはなく、白木楼の連中は死体を担いで乱暴に森の中の草たちを踏み潰して行ってしまった。
内側を赤くして、名無しの茸は悲しんだ。
「亡魂、亡魂になって、たたってやる」
そう言終わると、その茸は自分の体を半分に割って死んでしまった。一夜茸のように黒くなってとろけて消滅したのである。茸が始めて自殺をしたのである。
溶けた黒い塊が土の上に残ったが、そこから、白い霧が立ち上ると、ボーっと、ラッパ型の茸が浮かび上がった。茸の世界で亡魂になった茸は今までいなかった。名無し茸が初めて亡魂になったのだ。名無し茸の亡魂は炎のように真っ赤になって夜空に舞いあがった。
茸の亡魂は森を抜けると、中津川の畔にやってきて、白木楼の真上の星空の中で揺れた。
真っ赤な名無しの茸が逆さまになると、茸から燃えた胞子が噴出した。
「おらは、茸の亡魂だ、この宿を荼毘に付してやる、紅天狗茸のお嬢さんを殺した恨みだ」
そう言うと、白木楼に火の粉がふりそそぎ、燃え上がった。
火の勢いは激しかった。建物はあっという間に焼け落ちた。
しかし、泊り客ばかりでなく、宿の者達もみな助かったという話である。だが白木楼は再び建てられることはなかった。建て直そうとすると必ず火事になったのである。
茸の亡魂は中津川の上に出来た結界の隙間から亡魂の棲家に入っていった。亡魂の世界では、初めて茸が亡魂になったということで、そのラッパ形をした茸は歓迎され、茸の亡魂の元祖になったということである。
森の中では、茸が自殺をするのは始めてである。自分の体を半分に割って死んだ白い茸ということで、白と言う字を半分に割るとできる臼という字をあてはめて、臼茸と呼ばれるようになったということである。名無し茸は臼茸という名前を死んでからもらったのである。
しかし、臼茸は亡魂になる前に大きな胞子をたくさん飛ばしていたことから、森の中には新たにラッパの中が朱に染まった臼茸がたくさん生えた。
それより後、臼茸は紅天狗茸と一緒に仲良く森の中で、繁栄したのである。
茸が自殺をして幽霊になるという面白い話しであった。私は目をしょぼしょぼさせながら本を閉じた。すると、閉じた冊子の隙間から橙色の霧がのぼってきた。それは形を変え、臼茸になった。
私は臼茸を見つめた。
「中津川に来てくれ」
茸はそう言った。
私は一気に読んだこともあり、妄想を見ているのだろうと、まぶたを擦った。また眠気がおそってきた。そのまま、またベッドに入って朝日が高く上るまでぐっすり寝てしまった。こんなことはいままでにない。
起きた時、臼茸の言ったことが頭の中に聞こえてきた。岐阜に行かなければならない。何かがそうさせている。
その日、トラベルビューに行って、二日後の中津川までの切符と、名古屋までの新幹線の指定を買った。何せ65歳以上の男はJR三割引の特典を年会費を払えば得ることができる。女性は60からだ。経済社会は性差別を許されるのか。
岐阜に行った。名古屋からだ。中津川の、その冊子の作者を尋ねるつもりで、その宿を探したのだが、ジャランにも楽天にものっていなかった。違う宿であるが、夜烏宿の長多喜を予約した。
中津川のその宿にいくと、そこの主人の橋田さんも茸好きで、地元の保健所と茸の冊子を作ったりしている。尋ねると、「茸の亡魂」を書いた人は、その辺りにいないこと、それにそのような宿もないということである。ただ、そこに描かれている森は、きっと、地元の人の言う茸森ではないかという。今では茸もあまり採れないし、入る人はいないということだった。
その日、夕食まで間があるので、茸森に行ってみた。鬱蒼と茂った木が森の中を暗くしている。確かに日の光が少なくて、あまり茸は生えないかもしれない。かろうじて、道らしきものがあったので、ちょっと歩いてみた。
そう、五分ほど歩いただろうか、臼茸がたくさん生えていた。私は茸狩りなどしたことがなく、臼茸もはじめて見るものである。確かにきれいだ。
臼茸の生えていた場所は、「茸の亡魂」の場面によく似ていた。
私は話の内容を思い出しながら、そこに立ちつくした。
ふと臼茸の生えている草の間を見ると、灰色の丸いものが突き出しているのに気がついた。かがんで草をかき分けてみると、私は愕然として棒立ちになった。
枯れ枝を拾うと、灰色の物の周りをほじくった。土は枯れ葉が積もって出来たものでふかふかしている。腐葉土までにはいっていない。周りをどかしていくと、頭蓋骨が現われた。ちょっと離れたところにも同じように灰色の丸いものがあった。それも掘ると、もう一つ頭蓋骨が出て来た。
私は、そこをそのままにして、宿に戻るとそのことを伝えた。宿の主人が警察に電話をすると、すぐに警官がやってきたので、臼茸の生えている森に案内した。
警官は写真を撮り、頭蓋骨をビニール袋に入れると、
「古そうなものですね、からだの部分もあるかもしれません、事件性はなさそうですよ、調査官をよこします、宿のほうでお待ちください。」
と、私をパトカーで宿に送ってくれた。
私が部屋に戻ると夕食の用意がされていた。
そこへ主人が入ってきた。
「どうも気持ちの悪い思いをさせてしまい申し訳ありません」
主人の方から頭を下げた。
「いえ、それでどうなりました」
「今、警察の方で、周りを調べているようです、問題ないと思います、どうぞゆっくりお食事をお召し上がりください」
「なんだか、読んだ臼茸の話と場所が似ていたので驚きました」
宿の主人は頷いて笑った。
「今日は茸の料理を中心にしました、お飲み物は何でも好きなものを言いつけてください。サービスさせていただきます」
そう言って部屋を出て行った。
テーブルの上には様々な茸料理がのせられていた。
あくる朝、朝風呂から部屋に戻ると、女中さんが朝食の用意をしており、主人が顔をだしていた。
「おはようございます」
「おはようございます、昨日の茸料理とても美味しくいただきました」
「それはよございました、先ほど警察から電話がありまして、体の骨もすべて見つかったということです、大昔の骨のようで、もしかすると、三百年も前のものかもしれないそうです、事件ではないそうで、お客様にはもうご迷惑はかからないと警察が言っております」
「とすると、江戸時代ですか」
主人は頷くと、「どうぞ、お時間までゆっくりしていってください」
そう言ってもどっていった。
その日、夜遅くに家に戻った。
「茸の亡魂」を誰が描いたのか知りたくなった。次に草片書房に行ったときに聞いてみることにしよう。
茸の亡魂(ぼうこん)-茸書店物語1