サナギと蝶
サナギと蝶
エレベーターが三階をすぎると、いつもヒナタは深くうなずく。大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせて。
ヒナタが実家のドアを開けると、愛用の仮面ライダーマグカップから湯気が立っていた。湯のみぐらい買えばいいのに、ほんとうに貧乏性。ほんとうに貧乏なシングルマザーなんだから、仕方がないか。
「ゆう君用に濃い目に淹れといたから」
お母さんから差し出された緑茶をすするヒナタの口元に、もはや髭はない。顎まで伸びた髪をヘアゴムで縛ったり、膨らみすぎた胸をサラシで抑えたりしているけれど、お母さんにはこの姿でさえ自慢のエリートサラリーマンに見えているのだから、不思議だ。もうお母さんの知ってる雄介でもないのに、お母さんだけ時間が止まっている。
ヒナタはお土産のようかんと、現金の入った茶封筒をテーブルに置いた。そして、ごくりと唾をのみこんだ。
「あのさ、僕」
いつもここまでは言える。でも、ゆうに二百回は一人で予行演習したのに、今日もその努力は実を結びそうにない。
「いつもありがとうね。ゆう君のようかん、スーパーのとは全然違うのよ。ちょっと待っててね。お湯を沸かしてくるから」
ヒナタのつぶやきやテーブルの茶封筒がまるでこの部屋に存在していないかのように、お母さんはようかんの包み紙をびりびりと破きながら、キッチンに消えていった。やかんとコンロがガッチャっと接触する音がしたかと思ったが、すたすたとこちらに向かってくる足音がする。
「ほら、新しいのいれてあげるから飲んじゃいなさい」と、おぼろげな仮面ライダーがライダーキックをする先で、お母さんの手がせわしなく羽ばたいている。偽物の雄介は、目の前のあかぎれだらけの蝶に微笑んだ。ヒナタの頭頂部をポンポンと叩いて、マグカップを抱えたままキッチンへと飛び立つ、か細い蝶。
もう私、サナギじゃないのに。でも、まだここではサナギになっておこう。予行演習をあと三百回するまでは。
サナギと蝶