海鳥の巫女カルミナグ

加月ゆずみち

 カルミナグの母が亡くなった。
 彼女の母は、海鳥(フィング)と呼ばれた海神の巫女であった。
 饗を開き、美しい歌と舞で海神を楽しませる。豊沃なる神への畏敬と慈愛を込めて。
 しかし病に倒れ、回復することはなかった。母は幼い娘に微笑むと、眠るように力尽きたのだ。
 フィングの村で長を含めた男たちが、巫女の葬儀を行うために話し合いを始めた。親戚の者たちは、カルミナグの家に集まり、彼女を慰めたり父を力づけたりと、そばにいた。

 フィングの民に墓はない。遺体は死化粧と白衣をまとい、鳥を模した棺へ納棺されて海へと流される。遺体は海に沈み、魂は海神と出会い、やがて万物にして命の神、産霊(むすひ)へと還る。それが、海鳥(フィング)の魂の果てだった。

 幼いカルミナグは父に抱かれ、葬儀の準備をしていく村の者たちを見つめていた。母の身体はカルミナグの家から、葬儀を行う前の静かな一室へ移された。

 そこには村の女たちがいた。母の姿を見るなり皆が顔を覆う。数人の女たちは、それぞれに、鮮やかな色粉の木椀を持っていた。母の顔や身体に死化粧を施すためだ。

 女たちは丁寧にその顔に、一つ一つ模様を描いていく。腹部から上もまた、独特の紋様が描かれる。

 それは生きた証を尊ぶものであり、魂が海神の元へ辿り着くまでの、守護と安全を願うもの。ひいては産霊へ還り、再び海神の眷属として生まれ変わる、生死と輪廻の象徴だ。

 一方で別の女たちが白布を用意し、縫いごとを始めた。彼女らは死を悼み、一つ一つ針を通して縫っていく。
 死化粧を用意するのは、女たちの役目なのだ。

 カルミナグは、死化粧を施されていく母の死に顔を見つめていた。母の顔は最期まで笑顔が絶えず、慈しみに溢れていたが、今は本当にただ眠っているようだ。
 起きないのかな、と思ったが、決してその瞼が開くことはなかった。
 やがて死化粧が終わり、白衣を縫い終えた女たちが、母の身体にそれをまとわせる。身支度が整うと、男たちが入ってきた。

 彼らは母の隣に棺を置いた。棺は鳥の形のみで装飾はない。しかし頑丈に重く作られていた。これは魂を海神へ届けるための翼なのだから。
 その日はみなが葬儀の準備を終えて出ていく。
カルミナグは母のそばで休んだ。食事は村の者たちが作ってくれたが、とても食べる気がしなかった。

 翌日──いよいよ、葬儀の日。母の魂が海神へ還るための旅立ちの日。
 朝から島中の海族の民が集まり、村長と長老たちの仕切りの元、葬儀は厳かに行われた。少女は泣くことも喚くこともなく、ただ母の棺が海に沈むところを見つめていた。

 父は娘の様子に、彼女が死を理解していないと思ったのだろうか。
むしろ彼のほうが悲嘆にくれ、娘の頬や髪を撫でる。しまいには頽れ、娘の身体にしがみついて咽び泣いていた。
 皆が一様に涙をぬぐう。これほどまでに母と歌と舞は、尊ばれ愛されていたのだ。

 さらに葬儀が済んだ翌日。暁の訪れる頃、少女はそっと寝台を抜け出し、家の中を見まわした。父も親戚の者もまだ寝入っているようだ。彼女は身なりを整えると家を出た。

 『そこ』は母がよく訪れた場所だ。不思議とそこには、父や村長ですら立ち入ることはなかった。
 少女も立ち入ることを許されず、境界を示す華やかな旗の下で、ずっと母が戻ってくるのを待っていたものだ。

 しかし、彼女は旗を越えて、母しか入らぬ場所へと足を踏み入れた。
 何か起きるのかと思ったが、何も起きない。
周囲は巌で足場も悪い上に、背の低いカルミナグにとって、見通しが悪かった。それでも彼女は慎重に足を進めた。やがて急に下り坂になると、階段になった岩が下へ続いている。
その先に何があるのだろうか?
カルミナグは答えを知りたい一心で、下へ降りていく。
 最後の一段を下りて、彼女はようやく到達した。

 紺青の瞳に映るものは、見渡す限りの大海原。島の崖地が波で削られたのか、彼女の足場はくぼむようになっており、際には白砂と波が打ち寄せている。後ろを振り返れば、自分がいた場所から、崖伝いに降りてきたのだとわかった。

 まるで、その場所は隠されるようにある。
ここが、母しか入ることを許されなかった、神聖地だ。

 改めて見渡すと、一か所だけ岩が平らになった場所があった。ちょうど波際の境。まるで誰かが座るための台座に見える。

 もっと明るければ、海を見慣れたカルミナグであろうとも、絶景だと思える光景が広がっているのだろう。しかし今は、陽がのぼる前のため、空も海も暗い。でも彼女は知っている。打ち寄せる波の下は、青く深く果てしないのだと。

 母の魂は、もう海神様のところに辿り着いのだろうか。
まだ海を漂っているのだろうか。
 ふと、母の言葉がよみがえる。

「そうさね、たまには歌ってごらん。お前の歌なら海神様も、聞き惚れてしまうだろうよ。なにせあたしの子だ。海神様は、お前を見守っているのだから」

 海を見ながら家の縁側に腰かけ、母は彼女の頭を撫でながらよく言っていた。その瞳は常に遠くを見すえ、時に微笑んでいたものだ。母の瞳は何を見ていたのだろうか、何を映していたのだろう。
 それはもうわからない。

 カルミナグは結っていた青い髪を解くと、波際に立つ。
 胸に手を添えるとしっかりと足の感触を確かめた。
 幼くも華奢な身体は、どこか凛然とした気風すら漂っていた。
 彼女の頭の中に浮かぶのは、饗を奉納する母の歌と舞う姿。厚みのある唇が開かれ、彼女は歌いだす。
 それは、フィングに古くから伝わる歌。
母がよく歌ってくれたもの。

 我ら滄溟の友 海を空とし自在に舞う
 深き青は果てなく 天空を映す鏡色
 羽はなくとも 鰭はなくとも 
 ひとたび潜れば 我らは海鳥
 荒れる流れは風 輝く水面は恵みの欠片
 腕は空をかき 足は風をける 
 我ら海鳥 泡沫となり 水底へ消えゆく時も
 母なる海とともに在らん
 産霊よ 願うならば ふたたび我が輝きを
 母の水許へ還したまえ

 短い歌であるが海神を称え、眷属であることを誇るものだ。
 彼女は心の赴くままに、繰り返し歌う。
 やがて荒い息をついて歌い終え、カルミナグが一息ついたその時だった。

「……哀しい歌声よの」

 突然、声がしたので振り向けば、女がいた。あの平らになった岩に座っている。

 濡れたように艶めく髪は、限りなく黒に近い青。成熟した完璧なまでの肉体美。豊満な胸をゆったり包む衣は、波に溶け込み透けている。しかし、そこに淫靡さを感じることは一切ない。肌は薄褐色で耳は魚の鰭のよう。耳飾りとして淡い銀白の玉が煌めき、額には頭環を頂いている。
 瞳は蒼穹を映し出す深き青──この美しい海を象った宝石だ。

「……だれ?」

 少女は初めて出会う、恐ろしいまでの美貌の女に硬直していた。
 かろうじて問いかけるが、女はそれを気にした様子もなく、じっと彼女を見つめ何度も頷く。

「我が眷属の末裔、海鳥の幼子よ。我が許しなくとも、此処に立ち入ることができるとは、さすがはカリナの娘か」
 女の堅苦しい言葉はよく分からないが、カリナという母の名前に少女は反応した。

「お母さんを知ってるの?」

「知っておるとも」

 女は一つ頷く。まるで当たり前だというように。

「お母さん死んじゃったの。歌えば海神様が見守ってくれるって」

 カルミナグはあっさりとそう言った。そうでもしないと、自分がつぶされてしまいそうだったから。

「呼ばれてここへ来た」

「誰に?」

「哀しき歌に。込められた悲痛に。凍えた心に」

「じゃあ……海神様なの?」

 女は何も言わない。ただ不思議な笑みを浮かべ手招いた。
 カルミナグは逆らえないものを感じ、女のそばにおそるおそる歩み寄る。

「幼き心が凍てついたままでは、そなたの母は、安心して我が元へ来られぬよ」

 女は彼女にそっと近づき、指が額に触れた。その瞬間、どうして頭の中に浮かぶのかわからない。カルミナグの脳裏に鮮やかな光景が浮かんだ。

 それは母だった。まだ若いものの、すでに巫女であった母が、海神の許しを得て父と結ばれること。そして母に新しい命が宿り、父とともに喜ぶ姿。お腹が膨れ、苦しみながらもどこか期待に溢れる顔。生み落とした命を抱き、嬉し涙を流す母。
 それは少女の知り得ぬ、母の在りし頃の姿だった。

「……お母さん……、お母さん……!」

 カルミナグの胸の中に熱いものが貫く。冷たくて痛い塊にひびをいれる。あふれんばかりの激情が幼い胸に噴出する。暗い瞳から静かに、一筋の雫がこぼれ落ちる。少女の悲痛な声が溢れ出し、日が昇り始めた明けの空と、赤く燃え立つ海原に響く。

 女は立ち上がると、ゆっくりと幼い身体を抱き上げた。豊満な胸に顔をうずめさせ、青い髪をやさしく梳く。母の死から凍ってしまった心は、融けながら本来の心を取り戻していく。

 女は髪を撫でながら、つと揺らぐ海面へ眼を下ろした。そこに何かがあるように柔らかく微笑む。女には映っていた。──よく見知った、彼女の愛しき娘が。揺らぐ女は一度、カルミナグを見つめてから、深く頭を下げて泡となって消えていった。

 それから、どれくらい泣いていただろうか。少女はひくつく胸を押さえてゆっくりと顔を上げた。泣き果てた瞳はすっきりとしていた。

「名はなんと言う?」

 落ち着いたのを見計らってか、女がカルミナグに問うた。

「カルミナグ」

「では、カルミナグよ。そなたに我が名を授けよう」

 薄い唇が耳許へ寄せられ、小さき声でささやいた。カルミナグはゆっくりと繰り返す。
 その途端に、目の前にいる女が何者で、どういう役目をおっており、少女に何をすべきなのか悟らせた。
 カルミナグはその場で深く拝礼するが、女神は「立て」と命じた。
 おそるおそる立ち上がり、カルミナグは呟いた。

「海神様」

「我はそう名乗ったか?」

「ソウメイシラギさま」

「違うであろう」

「……ソウメイさま」

 緩やかな喜悦を滲ませ、女神はようやく頷いた。緊張がほどけ、柔らかい空気に包まれる。風に香る潮騒。海神からの慈しみを感じる。

「そなたの母の御霊は、我がしかと産霊へ還そう」

 カルミナグは改めて女を見やる。この目の前の女が、海神にして自分たちの偉大なる母。そして、カルミナグの母が仕えた女神──ソウメイシラギなのだ。

 どうやら正式な名で呼ばれるのを嫌うようで、ソウメイさまと呼ばれることが気に入っているらしい。

 自分はその女神の胸で、散々泣き果てた。おそろしいやら喜ばしいやら。半ば怖気づく少女を見やり、女神の瞳がいたずらげに細まった。

「カリナの歌は我を歓びへと誘った。さて、そなたの歌はどうかのう?」

 まるで、彼女の母には及ばぬ、とでも言うかのように。
 カルミナグはムッとする。自分は母の娘だ。母がくれたものがちゃんとここにある。

「歌います。舞いも練習してソウメイさまのために、踊ります。そして母に負けぬ、立派な巫女になります」

 カルミナグは、海神の巫女として選ばれたのだ。次代、女神に仕える者として。
 女神は軽やかに笑い、少女への期待を膨らませるのだった。
 やがて、成長した少女の歌声と舞は、大陸の外民にまで噂され『海鳥の歌姫』と呼ばれるようになる。

海鳥の巫女カルミナグ

海鳥の巫女カルミナグ

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-01-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted