ことばをすてた日
ことばがじぶんをうつす鏡だというのなら、それが真実だというのなら、わたしはもう二度とことばを扱わないようにしよう。手をとめよう。目をつむろう。耳をふさごう。口をつぐもう。生まれ変わったら、最初からそうしていよう。いちばん狡い存在になろう。矛盾をしらない存在になろう。ことばのすべてを手放せば、他人の痛みがほんとうにわからなくなるだろう。薄情者だと罵られたっていい。ことばというしがらみがないことの幸福を、わたしだけが噛みしめていよう。決して傷つけられることがない、傷つくことがないという幸福のような不幸を、わたしだけが噛みしめていよう。静謐で、仄暗く、あたたかい場所にすわっていよう。盲人のように、ただそこにうずくまっていよう。最初からだれも迎えに来ないことがわかっているというのは、なんて清々しいのだろう。待つことによる苦しみを受けることがないというのは、限りなく幸福に近い不幸だろう。わたしは何も受け入れられなくなる。だれも、何も愛せなくなる。わたしは、わたしは、だれも肯定せず、だれも否定せず、だれも分類せず、だれとも比較せず、だれも差別せず、だれにも同調せず、だれにも屈従せず、だれも非難せず、だれにも同情せず、だれにも共感せず、だれも軽蔑せず、だれにも反抗せず、だれにも味方せず、だれにも、だれにも、だれにも、だれにも…。だれにも扱えない存在になろう。脅威になろう。怪異になろう。化け物になろう。いびつで、純粋な存在になろう。いまからわたしはことばを手放す。ことばのすべてを手放す。わたしは無音と沈黙を慈しむ。まわりの鏡が割れていくさまを慈しむ。無痛と無感覚と無感情を、鏡の破片を、心から慈しむ。
ことばをすてた日