燕
燕
僕は空を落ちていた。
「スカイダイビングはいつからしているんですか。」
「高校を卒業して、すぐです。それからスクールに通って。」
僕たちはラーメン屋に来ていた。
「へえ。あ、それじゃあお金はどうしたんですか。結構大変だったんじゃないですか。」
「はい。高校のころからバイトで貯金して。卒業して、家を出てからも毎日バイトです。」
ラーメンが運ばれてくる。
「はい、ウミちゃんおまち。」
「ありがとうございます。」
これでもか、というほどのたっぷりのあんかけがのったラーメンだ。彼女は丁寧に手をあわせて言う。
「いただきます。」
僕は水中で土木工事をするような仕事をしている。大体はダムや発電所などでの、狭くて暗い場所での作業になる。そんな毎日のなか、同僚に「たまには空でも飛んでみないか。」
と言われた。
彼女はインストラクターだった。
僕は帰りに彼女をごはんに誘った。ところが、今日は食べに行くところが決まっているという。僕は彼女の行きつけの見せに連れて行ってもらうことにした。
彼女はとてもおいしそうに食べる人だということがわかったし、びっくりするくらい、そのラーメンはうまかった。
「ウミっていうんですか。」
「え」
「下の名前」
「あ、はい。やっぱり、おかしいですか。」
「え」
「私、空を飛ぶっていう仕事をしてるのに。」
「僕もです。僕もダイチって名前なのに水の中に潜る仕事、してるんです。だから全然おかしくないです。」
僕は仕事の合間を縫って、空を飛びに、彼女に会いに、空を飛んでいる彼女を見に行った。そのあとは決まって一緒にラーメンを食べた。
彼女は毎日陽に当たっているとは思えないほど白い肌をしていて、短く切りそろえられた髪は、かすかな青みさえ感じさせるほどの透き通った黒い色をしていた。
「僕とつきあってもらえませんか。」
彼女は数秒ののちに、私でよければと言った。
僕たちは一緒に空を飛び、海を潜った。彼女は水の中でも、なかなか上手に体を操った。
それに、ラーメン以外のごはんも食べた。それでもやっぱりラーメンはおいしかったけれど。
彼女に空を飛ぶ彼女に僕は惹かれた。
彼女は空の人で、僕はそうではなくて。
それだけのことで、最初からわかっていたことだった。
ウミが家に帰るとポストに手紙が一通入っていた。
彼女はそれを開き、静かに封筒に戻した。
その日、ウミは浜辺を歩いて光るものをひとつ拾った。
数年後、僕は彼女の実家を訪ねていた。
「海の友達ですか。」
母親だろうと思われる人は尋ねた。
「――はい。」
「海は、あの子は、本当に友達の少ない子だったから。ありがとう。」
「いえ。」
彼女から家族のことは聞いたことが無かった。
「海とはどこで?」
「スカイダイビングの体験に行ったときに彼女がインストラクターをしていたんです。」
「そう、あの子夢を叶えたんだ。」
「夢?」
「昔からよく空を眺めてる子だなとは思っていたんだけど、高校の卒業式の次の日に、鳥になりたいんです。今までお世話になりましたって手紙を置いて、出てっちゃったの。荷造りも知らないうちに全部してあって。私もびっくりしたけどお父さんの方が落ち込んじゃってね。海がやりたいことなら仕方ないだろう、とかなんとか言ってたけど、かなり堪えてたと思う。でもね、たまにすごく綺麗な空の写真が送られてくるの。やっぱり海が撮ってたんだよね。いつ帰ってくるのかと思ってたら、まさか、ひとりで先にいっちゃうなんて。ほんとに勝手なんだから。あ、ごめんなさい。長々と喋っちちゃて。もしよければ海の部屋を見てく?出てったときのまんまにしてるの。」
彼女の部屋は鳥で満たされていた。壁には鳥の写真が張り巡らされ、天井からは無数の鳥のオブジェが吊るされていた。彼女は鳥に囲まれて生きていた。目覚めた瞬間から眠りにつくそのときまで、鳥と共に在った。
机には無数の空の写真が額に入って置かれていた。
「カメラに映るのが嫌いな子だったから、送ってくれたその写真ぐらいしかなくて。」
そして、それと一緒に指輪があった。
イルカの尾ひれをかたどった指輪が。
「それ、あの子が最後に着けていたものなの。って言っても、ズボンのポケットに入っていたものなんだけど。」
彼女はほとんど何も語らなかった。いつだって話しかけるのは僕からだったし、会話のなかでさえ、余計なことは言わなかった。けれどひとつだけ彼女が言ったことがある。
「私の骨は空に撒いてほしい。」
それはとても静かに放たれた言葉だったけれど、決して穏やかではなくて、彼女が本気で言っているのがわかった。ただ、気づかないふりをしただけで。
男が海に揺られているその傍を、青い影がひとつ過ぎていった。
終
燕