脳-透明人間譚

草片文庫(くさびらぶんこ)

脳-透明人間譚

2021年1月1日、おめでとうございます。透明人間第7小説です。今年もよろしくお願いします。


 これは先日亡くなった、いやいなくなった、感染症専門の医師が書き残したノートである。それが本当にあったことなのかどうか、今のところ調べるすべがない。
 その医師は、2020年新コロナウイルスが世界的に大流行した時に、東京の個人病院で活躍していた。その病院の院長は父親だったこともあり、本人は感染病棟を任せられていた。
 もうかれこれ四十年も前の話である。コビット19(COVITE19)と略されたウイルスは通称新コロナコロナウイルスと呼ばれ、電子顕微鏡で見ると、丸いウイルスの周りにコロナ状のものが飛び出していて、まるで太陽のコロナのよう形をしているのでそう名付けられたようだ。太陽が迷惑したことだろう。
 新コロナにかかると熱が続き呼吸困難に陥るが、まだ薬もなく抗体もなく、WHOの対応にもたつきもあり、瞬く間に世界に広がった。日本も例外ではない。
 新がつくのは、数年前中国から発したサーズ(SARS)と略されたコロナウイルスの仲間だったからである。サーズは中国、台湾を始めアジアで猛威をふるったが、日本では感染者がゼロであった。
 新コロナは中国の武漢で始まりも猛威をふるい、あっという間にヨーロッパに広がり、全世界で死者が四十万人となり、医師、看護師など医療関係社が何千人もなくなった。イタリア、フランスも、ドイツも多くの感染者を出した。ひどかったのはアメリカ、ニューヨークで、全米で5万人が亡くなった。さらにブラジルではその上を行く死者がでた。特効薬や抗体を作るのには一年かかったが、それでも何とかおさまった。どの国も、国をあげての外出禁止により、経済的な破綻は数年尾を引いた。
 ウイルスというのは、自分では増えることができず、動物の細胞の中に入り、細胞の中にある機能を利用して自分を増やす。細胞核内の遺伝子はDNAという化学物質でRNAという遺伝情報を運ぶ物質を作って、細胞内でタンパク質を合成する。コロナウイルスはRNAでできており、動物の細胞で自分を作らせ細胞をだめにしてしまう。特に肺の肺胞という空気の中から酸素を血液にとりいれる小さな袋状の構造の細胞につき、炎症をおこし、死に至らしめる。全く新しいウイルスが現われると、薬も、予防のための抗体もないため、世界中に広がり、死者を増やすことになってしまう。それぞれの国が人の出入を禁止し、国の中でも人々は必要なこと意外町にでることが禁止され、当然のこと食べるものと、生活必需品販売店以外は休業を余儀なくされた。そのためどの国も国民の生活を支えるため四苦八苦した。
 日本では、横浜に入港した3千人の乗客を抱えた豪華客船に感染者がでて、それを期に予防策が講じられたが、海外から帰る帰国者がもたらしたこともあり、感染者は一万になり、死者は千人近くになった。日本ではクラスターの押さえ込みと重症者のケアーに力をいれ、医療現場では担当者が死にもの狂いで働いた。医療従事者の不眠不休の努力もあって、どうやら沈静化に成功したが、しかし、物質面、人員数面の弱さから感染対策が弱くなり、医療従事者が多く感染したのである。
 そのようなかで、東京のはずれにある市のその個人病院は、早くから感染予防に必要なマスクや防御服を数年分ほど備蓄していた。市は感染者をその病院にうまく誘導し、病院には重症者に必要な機械類も完備していたことから、その市では全く死者を出すことはなかった。都区内のどの病院より優れた対応をしたことから、国中の医療関係者から注目を浴びた。それは、その病院の感染担当の院長の息子が、感染に確固たる信念の元に防御を固めていた結果である。
 病院の名前は高原医院。新コロナがあって十年目に院長が亡くなり、感染病棟の主任だった息子の透(とおる)が院長になった。彼が四十の時である。新しい病棟を建て、そこを感染症専門棟として独立させ、今まであった内科に脳神経科を加えた。自分は感染病棟で医師として働き、院長として高原病院を都内の大きな病院並みかそれ以上の総合的治療のできる施設に育て上げた。
 透が院長になり、三十年たったその年、また新たなウイルスが発生した。透は医師であると同時に、伝染病の研究を自分の研究室で続けていた。感染症の病棟を造ったときに、大きくはないが感染症研究棟を建て、コロナウイルスを研究していたのである。研究所は透研究棟と呼ばれている。
 今回の新ウイルスも日本では透と国の二つの研究施設ですぐに研究体制に入った。どの国も四十年前の新コロナウイルスのときを教訓に、さらにしっかりした体制を敷いた。今回のウイルスは黒点コロナウイルスと呼ばれた。電子顕微鏡で見ると、丸いウイルスの表面はコロナのように放射状の丸いものが飛び出していて、コロナウイルスの仲間であることは明らかであったが、大きな特長として、ウイルスの真ん中に黒い丸いものが必ず見られた。まるで太陽の黒点のようだと言うことで、黒点コロナと名付けられたのである。黒点そのものが何なのか全くわからなかった。少なくとも核酸すなわちDNAやRNAではないことは示されていた。
 このウイルスにかかると、新コロナウイルスと同じ症状を呈し、肺炎が重篤化して、死にいたる。特に呼吸器に疾患がある人や、免疫力の低下した人は危険だった。しかし、四十年前の経験から、人工呼吸補助機や血液に酸素を供給する人工肺の機械の用意はかなりなされていた。前のウイルスの時の死亡率は日本では7%であったのに、今回は0.1%にもならなかった。それは重症化する率がずいぶん低かったからである。おかげで、厳しい社会規制をすることなく収束したと言ってよかった。
 高原医院でも、前の経験を生かし、さらに感染病棟が独立していたこともあり、ほとんどの人を救うことができた。
 この感染は半年ほどで下火になった。かかった人は日本全国で約一万数千人だが死亡者は十人ちょっと、重症になった人は百人弱である。したがって、九十人は重症から回復したわけである。世界でも流行は起きたが、アメリカやアフリカの一部を除き、ひどい感染はおきなかった。
 ここで、不思議なことが起きた。感染が収束した宣言が出されて、一年ほどたった頃から、重症から回復した九十人の人たちが、忽然と姿を消していたのである。しかもそのことは警察も政府も誰も知らなかった。
 世界で理由もなくいなくなる人の数はかなりになる。誘拐されたり、人知れず自死したりと理由は様々である。日本でも一年間の行方不明者は二万人もいると言われている。そのようなこともあり黒点コロナの重篤者だった人が行方不明になっていることに気付かれなかったのである。
 なぜそれが分かったのか。それは高原医院の院長、高原透の死からである。
 透院長が亡くなったとき、息子たちはすでに高原病院で活躍しており、病院の機能は維持されていた。透の長男、透一は循環器内科医で39歳、次男の透二は37歳の外科医、一番下の娘、透子(すみこ)は小児科医である。
 透は透一家族と一緒に暮らしていた。大きな屋敷で病院の裏手にあり、二階は透一たち家族の住居になっている。一階には透の書斎と寝室、それに客間が二つあった。一階にも二階にも風呂とトイレがある。透の妻は三年前に亡くなっている。透二と透子はそれぞれ家族をもち、都内に家を構えていた。 
 それは黒点コロナパンデミックから一年少したった頃だった。夕食後、透一は自宅で父親に書斎に呼ばれてこう言われた。
 「わしは消えねばならない、死んだことにして、死亡届を出しておいてくれ」
 透一は「なんて馬鹿なことを言うんだ」とおやじに詰め寄ったが、
 「仕方ないんだ、透二や透子にも言っておくれ、机の一番下の引き出しに、その理由を書いておく、死んだ後にゆっくり読んでくれ」
 と言われた。早期の認知症、透一の頭にそんな言葉が浮かんだ。しかし、透はまだ七十はじめである。
 次の日、透は姿を消した。
 透一が自宅に戻り、父親がまだ帰っていないと妻に言われた。いつも自分より早く帰っているのにと奇妙に思い、院長室に電話をいれた。誰もでない。それで感染病棟に電話をすると、当直の医師が先生は研究室に朝お入りになってからお会いしていないとの返事だった。医師は研究棟まで行って研究室を見てきてくれて、電話をくれたが、鍵が掛かっているのでお帰りになったのだと思うと言った。
 透一は昨日父親に言われたことを思い出し、書斎の机の引き出しを開けた。
 そこにはノートがあり、上に一枚の紙が乗っていた。紙には、「透一へ」、とマジックで書かれており、「ことを荒立てないように、私を捜さないように、すべて内密に進めるように」とあり、「ノートを読んで、透二と透子と相談して、言ったように死亡したことにしてくれ」とあった。
 透一はどうしたものかと悩んだが、まともな文を書いており、認知症ではなかろう、冷静な人だったから、深いわけがあるのだろうと思い、病院にはそれ以上電話などしなかった。
 妻には言わなければならないだろうと思い二階にあがった。妻は食事の用意をしていた。かいつまんで父親の話をすると、びっくりして、すぐにみなに電話をしたほうがいいと言った。妻は高原医院で看護師をしていたこともあり、父のことはよく知っている。
 透一は透二と透子に電話をした。二人ともこれから食事だった。二人に食事の後に、タクシーで我が家に来てほしいことを言った。大事なことだとも言った。透二の奥さんは他の病院だが看護師をしていた女性で、物わかりの良い人である。透子の主人は医者ではなく、銀行勤めの人で夜は遅い。お手伝いさんをやとって、子供の面倒や食事の用意をさせていた。二人とも素直に応じた。医師は患者に何かあるとすぐ駆けつけなければならない。突然のことには慣れている。
 夜中近く、透二と透子はタクシーでやってきた。妻は父親の書斎に軽食の用意をしてくれた。
 「おやじが消えた」
 「何その消えたって言うのは」
 透子が変な顔をした。
 「研究棟にいったまま、家に戻ってこない」
 「病院の人たちには探してもらっていない、もちろん病院に電話はした。感染棟の主任は研究棟のおやじの部屋の電気が消え、鍵かかっていると言っている、事務方も同じだ」
 「それでいなくなったといって探してもらったの」
 「いや、そうしていない」
 「なぜ」
 「昨日おやじに書斎に呼ばれたんだ、そして、俺は消える、死亡届を出してくれ、と言われたんだ、机の下の引き出しに書いたものがあるといっていたので、引き出しを開けた。お前達と一緒に読むように書いてある。それでお前たちを呼んだんだ」
 「それじゃ早く見よう」
 透子が引き出しから紙を取り出した。
 「透一、透二、透子へ、これは新しいウイルス、黒点コロナの研究結果だ、よく読んで状況を正確に理解してくれ」
 と書かれている。ノートが一冊その下にある。ノートには黒点コロナ結論とあった。
 「何が書かれているか、透子読みあげてくれ、一人ずつ読むより早い」
 透子読み始めた。
 『この一冊のノートには、黒点コロナウイルス患者の治療と、そのウイルスの正体を、半年の治療と研究結果からまとめたものである。実際のデーターは私のパソコンに入っている、必要ならばあけてみてくれ、パスワードはスキトウルだ、このノートに書いたものも打ち込んである』
 その次のページから、日記風に、かつ科学的に、黒点コロナについてまとめてあった。

 発生源不明のウイルス、sunspot corona virus、 scv。黒点コロナウイルス。
黒点コロナウイルスの患者が1月10日に病院に来た。日本で初めて確認されたのが2060年12月26日だから、十五日後である。三十三歳の男性だった、気管支喘息を持っているということだった。あらかじめ保健所から連絡があり、感染症病棟に直接患者を搬送してもった。
 四十年前に経験のある私が直接指揮をとった。昔と違って、改良されたPCRによる遺伝子検査はウイルス遺伝子にたいして万能になったのは知っているだろう。新しいウイルスでもそれで調べると陽性か陰性かほぼ99%即座に正確にわかる。その機械は既知のウイルスならば、ウイルス番号を入力しておけば陽性かすぐ結果が出る。病棟に来た患者もすぐ陽性とでた。黒点コロナが発生したときに国の研究機関の方からウイルスの遺伝子情報を送ってきていたのでPCRの機械は調整済みだったのだ。
 感染者の男性には四十年前に開発されたコロナウイルスの万能薬を投与した。それでまず大丈夫だろうとふんでいた。呼吸に若干苦しさを感じるということだったが、食欲もあり心配なさそうだった。その後数人の感染者が入院したが、その薬で三日後には陰性になり、一週間入院させても陰性のままであったので、みな自宅待機にした。ところが最初の三十三歳の男性は陰性にならず、入院二十日目に呼吸困難に陥り、人工呼吸装置をつけた。熱はでなかった。改めてあらゆる検査をしたところ、MRIで肺炎症状が確認された。他の器官、心臓、腎臓、肝臓など、みな正常だった。ところがおかしな画像があった。脳の画像である。大脳新皮質が全く写っていない。大脳の基底核と、それ以下の部分、間脳、中脳、橋、延髄、小脳は正常に映し出されていた。皮質の部分が欠如していたとしたら植物人間に近い状態を示すはずである。しかし意識はしっかりしている。
 彼は人工呼吸器をつけて一日経つと重篤状態から回復し、私が質問をするとまっとうな答えを返すようになった。そのときにも検査をしたが、脳の新皮質の部分が写っていなかった。これでは何も見えず、聞こえず、動けず、感じない。話もできない。歩けない。だが彼は立ち上がり、歩けるようになった。それから二週間後退院していった。脳の一部がないままだ。
 我々の結論では、脳の一部が映らなかったのは、機械の調子だったのだろうということになった。かなりの人数が入院したが、重篤になった患者は彼一人だけだった。回復後は全く問題がなかったので、その話はそのままになってしまった。
 軽症の患者の中で、少し気をつけた方がいい人たちにも、レントゲン、場合にはMRI検査をした。およそ百二十人である。なかでも八十三名には脳を含め全身検査をした。その時、はっきりと意識したわけではないのだが、脳の画像が全体的に少し薄い感じを受けた。しかし退院間近にもう一度検査をしたが、その人たちの脳はくっきりと写っていた。それらの画像はデスクの上のPCにはいっている。
 この黒点コロナの正体を突き止めてやろうと、流行が始まったときから考えていた。新コロナの時は世界中が研究を進め、コロナウイルスの性質が判明し、いい抗体や薬ばかりではなく、基礎研究がかなり進んだ。私もまだ若く、医療の方が中心だったので、そこでは地域にある程度貢献できたが、基礎研究をしたかったのだ。そのためにP4レベルという、毒性の強い菌やウイルスも扱える研究所を作ったわけだ。
 黒点コロナが始まったとき、すぐに基礎研究にとりかかった。遺伝子解析は国立の研究所が素早く着手していたので、私は黒点の中身を調べようと考えていた。電子顕微鏡による研究も必要だ。それは技師に調べてもらっていたが、黒点は今までのウイルスでは確認されたことのない物であることは確かだった。ウイルスのサイズの割には大きな物質である。金属の仲間ではないかと電子顕微鏡技師は言った。ウイルスは一万分の一ミリほどの大きさである。真ん中にある黒点は電子顕微鏡で調べるとウイルスの十分の一、ということは十万分の一ミリほどの大きさである。
 ウイルスを破壊するとその黒い点が残る。と言うことは、大変な数をしらべなければならないが、それをやった。研究補助員たちは良くやってくれた。たくさんのウイルスを破壊し、その金属と思われるものだけ取り出したのである。ラットに投与し、ウイルスを増殖させ、ウイルスから金属を取り出す作業はかなりの時間を要した。動物には迷惑な話だが、ともかくそれをやった。千分の一ミリグラムあつめるのにどのくらいかかったか。それを金属の専門家に出所を言わないで鑑定を頼んだ。
 その専門家は「モノリス」のようだと言った。私ははじめその意味がわからなかった。意味を聞くとその鑑定をしてくれた学者が言うには、昔、1968年だそうだが、そのころのSF映画で2001年宇宙の旅というのがあり、地球のまだ人の生まれる前、猿の時代に、「モノリス」と呼ばれる金属のような大きな棒が宇宙から現われて、類人猿に知恵を与えた。そういう象徴的な物質だそうだ。神を物質化したところがすごいところなのかもしれない。アーサーCクラークという作家の作品をキューブリックというイギリスの監督が映画化してずいぶん話題になったらしい。だが、それが意味するのはなんてことはない、わからないとう結論なわけだ。モノリスは長四角形で大きいものだが、黒点は球状の粒でごくごく小さいものだ。だがまてよと思った。地球を一つの生き物と考えれば、「モノリス」はコロナウイルスの黒点よりもっと小さいものになる。ということは、コロナウイルスの黒点はウイルスに大きな変革をもたらしたのではないかと思ったのだ。
 普通の人なら、これであきらめるかもしれないが、地球の物理化学でわからない金属、なんだかわからないモノを持ったウイルスと聞いたら、私はますます興味が沸いてきたものだ。
 ウイルスそのものの増殖に必要な金属とすると、ウイルスの遺伝子に大きな影響を与えたに違いない。それは黒点ウイルスの遺伝子が感染した人間の細胞におかしなことを引き起こす可能性があるわけである。そこで、まず黒点ウイルスを実験用マウスに投与してみた。
 私の研究施設は感染性の細菌、ウイルスを生きた動物に投与して影響を見ることができる、特殊な許可をえている研究所である。そういった実験ができる。
 マウスに黒点ウイルスを腹腔投与すると、ほぼ人と同じような症状を呈する。肺に炎症を生じるが、ほとんどが薬を投与しなくても回復する。ほんのわずかだが、重症化して呼吸が荒くなり苦しそうだが、そうなった後に薬を投与すると、やはり回復する。
 重症化したときに、肺の中の細胞のウイルスの黒点について調べたが、全く形態的には変わりがなかった。ほかの臓器に入ったものも調べたが同様に影響がなさそうだ。ところが、とんでもないことがわかったのだ。
 脳の神経細胞に入ったウイルスを電子顕微鏡写真で見るために、マウスの頭蓋骨を開け、脳を取り出そうとした。すると大脳新皮質がない。いや、ピンセットで触れると、存在していることが分かるが、見えない。頭蓋底から脳をそうっと取り出すと、とりあえず、見える部分、間脳から下の部分、脊髄までの神経細胞を調べたのである。
 すると、そのマウスでは脳の一番下になる延髄の神経細胞には黒点ウイルスがはいっていたが脊髄にはなかった。しかも、神経細胞やそこからで神経線維に入っている黒点ウイルスの黒点は真ん中ではなく、ウイルスの縁の方に移動していた。
 それで、透明で見えない部分、大脳新皮質であるが、その一部を削り、電子顕微鏡作成溶液につけたところ、脳の部分が透明に浮いているのが分かった。それを処理し、電子顕微鏡でみたところ、神経細胞には黒点がなかった。ウイルスが消滅していたのである。
 調べたマウスは重症化して、薬を投与している時の個体だったが、重症化してそれが回復し五日たったマウスの脳も調べた。すると、頭の中は空っぽであった。さらに、回復し十日たったマウスのケージには顔のないマウスがいた。しかし、普通に動き、餌はなくなっていた。そのマウスたちを観測していたら、二十五日目に尾っぽしかみえなくなり、三十日で全く見えなくなった。手で触るとマウスは確かにいた。だが目に見えないのである。透明なマウスになってしまった。そのマウスは過麻酔で屠殺した。ホルマリンに漬けて三十日目、黒点コロナというラベルを貼った瓶が研究室においてある。死んでも透明のままで、ホルマリン液の中に鼠の脳の輪郭をしたものが浮いているのを見ることができるであろう。
 まず脳の神経細胞に黒点ウイルスが入ると、脳神経の神経線維を通って首より上の顔面に広がり、脊髄に降りる神経の中を通った黒点ウイルスは、脊髄で、脊髄神経に入り、からだ中に広がる。それにより透明になっていくようだ。透明になると黒点ウイルスはいなくなってしまう。
 そこで、思い出したのが重症化した人間の脳のMRIである。大脳新皮質が写らなかった。黒点ウイルスに感染すると、ひどくなった場合、ネズミのようにだんだんと透明になるのではないだろうかと推測できた。
 私は、その唯一重症化して、MRIに新皮質が映らなかった三十三歳の患者の家をたずねることにした。その男性は両親姉妹と住んでいた。両親には本人が退院するときに会ったことがある。回復したことをとても喜んでいて、ずいぶん感謝された。退院して一月になる。
 回復の様子を知りたいと思って訪ねたことを言うと、両親が私に訴えた。よく働く子で、会社でも有望覗されていたのに、いきなりいなくなったということだった。親はこう言った「体も心も当時すごく健康でした。ある朝、突然いなくなりました。いなくなる理由は全くわかりません。警察には届けました。会社でも何も問題はみつかりませんでした。仲のいい女の子もいませんでしたし、よくいく店や遊ぶところなども思い当たりません」
 私はウイルスが神経に残っていて、全身に回ると、いっぺんに透明になってしまうのではないかと思った。ネズミではだんだんと透明になったが、人では急になるのかもしれない。
 本人はまだ家にいるのではないかと思い、こんなことを聞いた。
 「最近家の中で変わったことがおきませんか」
 すると、母親が、「そうなんです、なんだかあの子がまだいるようで、いろいろなものが移動しているように思えるのです」
 そこのところも細かく聞いた。やはり彼は家にいるのだと強く思うようになった。彼の部屋を見せてほしいと頼んだ。彼の部屋はそのままになっていた、よくかたづいている。几帳面な人だったのだろう。
 私はその部屋からでるとき、小さな声で、病院にいらっしゃいと声をかけた。
その効果はあった。つぎの日の朝、院長室で事務処理を終え、感染病棟の仕事を終え、研究棟に行こうと外に出たとき、「先生」と声がした。あ、あの患者だとすぐわかった。周りには誰もいない。
 「どなたです」と尋ねた。
 「潮田裕介です」と返事があった。
 「付いてきてください」と声をかけ、研究棟に入った。透研究棟では十五人の研究者や補助者が働いている。5階にP4施設があるが、必要なとき以外は4階のP2施設、1階から3階までのP1実験室で実験を行っている。通常の動物舎と電子顕微鏡は地階にある。一階に私のオフィス、図書室、休憩室がある。
 潮田祐介をオフィスの椅子に座らせた。
 「コーヒーを入れるからちょっと待ってくれたまえ」
 「ありがとうございます」
 透明人間と話をするのは奇妙なものだよ。コーヒーカップをテーブルの上に置くと、カップが宙に浮きコーヒーが減っていく。ただコーヒーが食道から胃に行くのがわかるかと思ったら口の中に入ったら見えなくなった。
 「潮田さん、裸で寒くないかね」
 「いえ、洋服を着ると暑いので脱ぎました」
 透明人間は代謝が激しく、相当体温が高いようだ。後でいろいろ調査させてもらった。体の具合はとてもよく、免疫力は相当強い。体温が高いだけ、エネルギーの摂取を必要とするかと思ったが、普通の人と同じ程度でいいようだ。
 「透明になった時のことを話してくださらんか」
 彼は話し出した。「いつものように会社から帰り、食後いつもの時間に床につきました。朝早くからだが暑くて目覚め、水を飲もうと階下の洗面所に行って前の鏡をみたら首がなかったのです。水を飲むためにコップをもったら手がない、パジャマの前をはずしたら体がない。がつーんときました。水を飲んで自分の部屋で鏡を見るとやっぱり顔がない。手で触ればある。
 夢かと思いましたが、朝になり、日が射しても同じ状態でした。自分を見たら家族は驚くどころじゃない。それで、パジャマを脱ぎ畳んでベッドの上に置き、パンツは一階の洗濯機の中にいれ、部屋にいたのです。母親や妹が部屋に入ってきて俺がいない、いないと探し回り大騒ぎしていました。ともかく家の中や近くにいて、食べ物などは適当にいただいて、暮らしているところへ、先生がきたわけです、とても心強かったかったです、一時はどうしたらいか悩みました」
 「どうして透明になったと思ったのかね」
 「どう考えても、黒点コロナにかかったからだと思いました」
 「それは正しいね」
 それから、彼は私のオフィスで暮らすようになった。ある時私は実験中にへまをやらかした。後で気が付いたことだったが、P4施設で黒点コロナウイルスを投与して半分透明になったマウスに、開発途上のウイルス増殖抑制剤を投与したときに、噛まれてしまった。それから数日後、胸が苦しくなり、自分も薬を飲まなければならなくなった。PCRで陽性だった。薬が効いてやがて陰性にはなった。
 透明になった祐介にその話をすると、陰性になって一月ほどで透明になったが、体が熱くなるのが透明になる前兆だと言った。体が急に熱くなった夜、透一に書斎で話したわけだ。みなに知らせようと考えたわけだ。
 そして私は透明になった。
 付け加えておく。
 透明になった私は、透明な潮田祐介の輪郭を見ることができる。透明人間同士は見ることができる。その上、普通の人間と同じように何でもできる。
 MRIで脳が透明になったように、レントゲン、電磁波すべてのもので我々透明人間の存在を確認できない。みんな医者だから、からだからでる熱を調べればわかると思うだろう。ところが、熱感知機でも反応しない。からだは熱いが、自分で感じるだけで外には出ていないようだ。いや、外気温と同じになっているのかもしれない。
 研究室のオフィスで私がまだ透明ではないときに祐介君と握手をした。と言うことは、普通の人間にとって、我々透明人間を触覚で関知できるわけだ。棒でたたかれれば我々も痛いし、そこにいることがわかる。袋をかぶせられれば、捕まえることもできる。
 それでお願いは、我々の居場所を作ってほしい。誰にもじゃまされずに暮らせる環境だ。こうなった人間が全国には百人ほどいるだろう。いずれ、我々種族の生きる組織を作りたい。普通の人間と共存のために、普通の人間に役に立つ生き方を模索するつもりだ。さし当たり、私と祐介君は高原病院のセキュリテイー部署で働く。病院内の置き引き、盗み、など姿の見えない我々はうってつけの仕事だろう。
 ともかく、どこかの部屋をいくつか我々のために欲しい。

 そこでノートは終わっていた。
 「おやじぼけたんじゃないか」
 透二が首を傾げた。
 「確かに透明人間なんて、ウエルズのSFでしかない」
 透一も「最初俺もそう思った」とうなずいた。だが透子はそう思わなかったらしい。
 「透明人間になるなら、何もこんな書き置きをしなくてもいいんじゃない、ましてぼけていたら、こんなノート残さないわよ」
 「どうやったら信じられる」
 透一が言った。そのとき、用意されていた、テーブルの上のチョコレートが空に浮き、用意されていたポットのコーヒーがカップに注がれ、カップが宙に浮き、コーヒーが消えていった。
 三人は声がでなかった。透子がやっと「お父さん」
と言った。
 「そうだ、祐介君にもチョコレートもらうぞ」
 小さな声が聞こえ、チョコレートの注がれたカップが宙に浮いた。
 「裕介です、いただきます」
 小さな声が聞こえた。
 「わし等の声は小さく聞こえるだろう、これがわしらの声だ」
 「お父さんそこにいるのですか」
 そう言った透一の肩に手がおかれるのがわかった。
 「わかるだろ」
 透二と透子の肩にも手がおかれた。
 「これから、病院の中のどこかの部屋で暮らすことになる、どうだろう、透一と透二それに透子専用の宿直室を用意してくれ、その三つの部屋を仕事の根城にしたい」
 「それはわかりました、死亡届を書かなければなりませんか」
 「いや、それは間違えだった、捜索願だけでいい、しばらくニュースになるだろうが、何年か経てば、死亡が認められるだろう、お前達が思ったとおりにおやじは早期の認知症でしたとでもいっておけよ」
 それから皆しばらく黙っていた。
 透一が思いきったように言った。
 「飲み物食べ物も持ってきておきます、裕介さんは一階の客間使えます、お父さんはご自分の部屋にお休みください、裕介さんパジャマはいりますか」
 「いえ、体が熱くて、服を着るのがつらいほどです」
 祐介が答えた。
 「みな、ありがとう、遅くにすまなかった、これからよろしく頼む、これからわし等は風呂に入って寝る」
 「朝食は下に持ってきます、子供には言いません、香にはすでに話してあります」
 香は透一の奥さんである。
 「香さんならわかってくれるさ」
 透二は香りを呼び、ことの次第を話して、父親と裕介の寝室の準備を頼んだ。
 「香さんすまんね」
 透が言うと、香はちょっと驚いたが、「すぐに、お風呂と、寝る支度します、必要なものがあったらなんでも行ってください」と部屋を出て行った。
その後、兄弟三人はその後の段取りをつけ、タクシーで帰った。
 一月後、予想されたとおり、新聞をにぎわし、透一たちは忙しい思いをした。
 透明人間になった透と潮田祐介は黒点ウイルスで重症になって退院した人たちの調査をした。すると、やはりみな行方不明になっていた、
 「何とかしなければな」
 透が祐介に言った。
 「前、私が勤めていたのは、調査会社でした、頼まれた会社の経営状態や、間違いがないかなど調べていました」
 「会社の信用調査みたいのだね」
 「ええ、透明になれば、どんなことも調べられます、探偵社みたいなことや、警備会社ならできます」
 「そうだな、だが、普通の人間で協力してくれるのがいないとね」
 「今、先生のお子さん三人と透一さんの奥さんが知ってらっしゃいます、お嬢さんのご主人は何なさっているのでしょう」
 「銀行員だがね」
 「経営にはどうでしょう」
 「祐介さんはマネージできるね、頼んでみよう、時間かけて組織を作ろう、透明人間は謎の調査員になるわけだね」
 こうしてそれから五年たった今、透人社という探偵会社は、経済、政治、あらゆる分野の調査のエキスパートになったのである。外国のスパイ活動もやっていることまでは外に知られていなかった。
 さて、透はその組織の長として透明人間たちをとりまとめていた。しかも七十をすぎていたのに子供ができた。相手は北海道で透明人間になった六十の女性である。潮田祐介も名古屋で透明人間になった五十の女性と結婚して子供がいる。黒点コロナで透明人間になると、生殖年齢と寿命は一致するようで、年をとっても男も女も子供を作ることができた。
 透明人間は普通の人間の異性には全く興味が無くなり、体の輪郭に恋に陥るようである。秋田で透明人間になった五十の男性は、沖縄で透明人間になった二十の娘と結ばれ双子の父親である。透明人間の寿命はまだ分からない。どうも、透明人間になった時が一歳のようで、果たしていくつまで生きるのであろうか。
 透明人間の増え方は、一般の人間より多い。何年後になるか判らないが、透明人間の存在を、人間たちに知らせなければならないだろう。
 今、探偵会社しか作っていないが、いずれ、透明化の仕組みを解明する研究所をたちあげ、科学的な調査をしたい。
 透明人間になって思うことは、食べることと、子供を増やすという、本能は失われておらず、むしろ強くなる。それではやたらと異性を求めるかというと、まったくそれがない。本当に自分に会ったと思われる異性にめぐり合った時のみ、その本能が現われる。頭の中に性にかかわるモラルが自然とそなわっている。もちろん人間に特有な性の快楽を生じさせる脳の仕組みももっと強く存在している。しかし、それを目的にするような行動は全く生じないのである。
 透明人間は人間が進化した存在といってもいいのである。

脳-透明人間譚

脳-透明人間譚

新コロナが流行してから四十年後、黒点コロナがはやった。それにかかった人の脳はどうなったか。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-01-01

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted