電話十話

草也

電話十話 1️⃣~6️⃣

1️⃣ ウィスキー

 「…はい…」「今晩わ」「あら?…やっぱり、あなただったんだわ」
女の第一声は、先日の初めての夜もそうだったが、すこぶる艶やかなのである。男が初めて聞く声質だった。行方の知れない何処かに引き込まれそうな気分なのだ。だからかだろうか、あの時にも、救われた気分が過ったのだった。

「そんな気がしていたんだもの」この季節に森の深奥に迷い込んだという、あの懐かしい里山の小鳥の、北の国の伝承を祖母から聞いたが、その小鳥の啼き声は、きっと、こんな風なのに違いない。「どうして?」「わからないけど。何となく…」「そうか…」「そうよ」

「…仕事はどうだった?」「私の仕事なんて。いつもの日常ばかりだもの。取り立てての修辞などあるわけがないわ。あいも変わらずなんだもの」「ご苦労様」「…でも、そんな慰めは、嬉しい。あなたは?」「…色々とあるけれど。いつものことだからね」「…そうね。私もだわ」男は、女が意外と濃い息を吐いた気がしたが、問い返す気分でもない。

「暑いだろ?」「あの夜の、あの電話から八日でしょ?ずうっとこんな具合なんだもの。異様だわ。誰かが言っていたけど、何かの啓示なのかしら。そろそろ、気狂う人だって、出るんじゃないのかしら」すると、女の声が乱れていた。
「何をしていたの?」「そんな風だもの。飲んでいたのよ」「ん?」「ウィスキーだわ」「ウィスキーか。…好きなの?」「好きよ」「独り身の夜は、こればっかりだもの」どんな風に、と、聞こうとした男に競い勝って、「ロックよ」と、「本質と嘘の狭間の様で。一番おいしいんだわ」と、女が続けた。
「俺もだ。銘柄は?」「そうね……。今夜のは、『のろまな熊と淫らな女神の悲惨な歴程』、よ…」と、女の舌がつまずいたから、「…ん?…どうしたの?」「…どうもしてないわよ。どうして?」
「…酔ってる?」「…そうかしら?…そんな風に見える?」「…電話だから…」「…電話?…そうね。電話だものね…見えるわけはないわね…可笑しい…ああ。あなたったら。可笑しい人ね…」女が意味もなく、声をたてて笑った。
「あなた?…だって、酔いたいから飲むんでしょ?」「そうだね」「…あなた?」「女の独り身は…」「色々とあるんだもの」「こんな夜だって、たまには、あるのよ」「わかるかしら?」女が途切れ途切れに言葉を編んだ。端々に何かの深奥の欠片が滲んでいた。どんな風に何が壊れたのか。「わかるよ」「そうかしら?」

男がおずおずと、「…何があったの?」女は重い吐息で答えた。「聞かせて欲しいな?」再び、あからさまな吐息だ。「ねえ?」「…駄目よ」「どうして?」「…きっと、貴方などには、厭な話なんだもの」「今は…。こんな夜は愉快でいたいの」「「だって…。…あなたからの電話なんだもの…」「その間くらいの暫くは、愉快で過ごしたいわ」「そうか」「そうよ…」

 「だったら、あなたは何が好きなの?」「ウィスキー?」「そう」「…同じだ」「…そうなの?」「カムイウィスキーだろ?」「…そうよ」「…これは、北の国の、実に、希な傑作だからね」「…北の?…そうね…」「…人民の珠玉、財産だもの…」「まあ。素敵な修辞だこと」女の声が弾んで、「…人民か…」「そう」
「…私もその人民というものなのかしら?」「あの戦争の剣ヶ峯と、今を女一人で生きてきて…しっかりと働いているんだろ?」「そうよ」「立派な労働者じゃないか?」「そうなの?」「闘う階級だよ」「階級?」

「北の国が好きだろ?」「とっても、好きだわ。ここだから、生き抜けたようなものだもの」「いいね。あなたは逞しい民草なんだ」「民草?」「そう。あなたはこの地に咲いた艶やかな一輪なんだ。俺達、北の人民の、立派な仲間だよ」
「…嬉しいわ。だって、何だか…確信のようなものに認められたみたいで…」「…確信?」「そうよ。確信。だって、そんなことを言われたのは初めてだもの。何だか、嬉しいわ…」「…一人じゃないような…気がするわ」「…人民のね…民草のね…そうよ。このウィスキーはたぐいまれな、逸品なんだわ」「多分、そう。原始の香りなのよね…」

「あら?氷のはしゃぐ音?…あなたも?」「飲んでる」「そうだったの…」「何を飲んでいるの?」「今夜の獲物は『処女と童貞の晩餐』だ」「そんなのがあったの。随分とおどろおどろしいのね。ちっとも、知らなかったわ」「今日の発売だからね」「どう?」「名前の通りだ」「だから?」「未知の世界からのお迎えだよ」「それが味覚の感想なの?」「まあね」 女が笑った。
「あなたのって、楽しいお酒かしら?」「…そうだな…そうだと思うよ」「良かったわ」
「…と、いうより…」「何?」「…多分…」「何?」「しみじみと埋めてくれるんだ」「ん?」「戦争の予感が色濃くなったあの頃から、随分と、ぶつかったり、剥がれたり、切り取られたりして…。毎日を刹那の様に生きてると、思うんだ」「そうかもしれないわね」「その欠落の無情を埋めてくれるんじゃないか。そんな気がしている」
女の沈黙は男の独白に頷いている、そんな気がした。「空疎や虚無を再生するための、新らしい血肉の源のような…」「だから、このウィスキーは自然の恩恵の一部なんだと、思ってるんだ」「自然の?」「そう」「そうね。私たちも自然物なんだものね…」「そうなんだ。こうしていると、すっかり癒される。そんな気分になれるんだ」

 
2️⃣ ラベル

 「あなた?」「ん?」「グラスは?どんなグラスなのかしら?」 
 女の囁きは男の耳朶の感覚を妖艶に愛撫するのである。だから、女の声そのものが、確かにこの女の肉体の一部に違いないと、男は確信したのである。
 「ピリカ工芸の、北の国の妙技、イナワシロ切り子のダブルグラス、だよ」「…イナワシロ切り子。やっぱりね」「知ってたんだね?」「当然だわ。私達の、故郷の隠れた誇りだもの」「そうだね」「だったら、色は?」「…そうだな。『手負いの灰色熊の春の毛皮色』、というところ、かな」
 「まあ。勇壮で、叙事詩みたいだこと。深奥の森の香りがするわ。素敵な比喩ね。でも、凡庸な私などには不思議すぎて。あなた?それって、どんな色なのかしら?」
 「熊の寝息の様な切り子ガラスの中で、真裸の日差しを受けた琥珀のウィスキーに漂う、透明な氷。…そんな彩りかな?」
 
 「そんな魔法のような呟きを浴びせられると、とっても不可思議な気分だけど。でも、あなたって、きっと、優しい人なのね?」「どうかな」「何だか、そんな気が。何もかもが低迷したこんな夜の、微風の囁きの様に、たった今、したわ。こんな不浄な陽気なのに。不思議だわ」
 「だったら、あなたのは?どんなグラスなの?」「…そうね…『異国の熟れた女の緑の瞳。そして、世紀の煌めき』よ。どう?」「いいね」
 
 「あなた?氷は?」「女男別滝の聖水を幽閉した、大を三個」「知っているわ。ピリカとカムイの二人が離れ離れにされたあの滝ね?」「そう。敗北を悟ったカムイが人々を救うために、自らワ軍に投降したんだ」「ピリカが自分の涙ばかりを武器に、ワ軍に反撃しようとしたんだけど、遂に叶わなかったのね?」「そう。カムイはアブクマと共に、遥か西方のワの都に送られて、錆びた刀で残虐に首をはねられたんだ」「だから、今でも、あのピリカの涙があふれ出ているという、あの流麗な滝ね?」「そう。ピリカの姿に似ているんだ」「だったら、ピリカの涙の氷だわ。そんな古の悲痛を、あなたはどんな気分で飲んでいるの?」
 
 「あなたは?」「私のは、世情のただの氷だわ。残念だけど。でも、哀感と僅かばかりの希望は、それなりに感じるわよ。それに、私が浮かべるのは二個よ。ねえ?」「ん?」「あなた?」「ん?」「こんな話、好き?」「いいね。どう?」「大好きよ」「面白いな」「そうよ。可笑しい。こんなの、本当に久方ぶりなんだもの。でも、あなたは一人だって聞いたけど。嘘はないんでしょ?」「疑っていたの?」「だって、未だ一度しか話していないんだもの。私は鈍なほどに慎重な質なんだもの。そう、思うでしょ?」
 この前の電話の記憶が脳裏に鮮明な男は、女の宣告に、ふと、違和感があった。女は充分に大胆なのではないのか。
 「だったら、もっと、続けて欲しいわ?」「そうだね」
 
 「どうしたの?」「…美味しいわ…」「喉が鳴った…」「…聞こえた?」「恥ずかしいわ」「いや、艶かしいんだ」「…そうかしら?」「肉体が…」「喉?」「そう」「誰の?」
 
 「ねえ?」「何?」「…若い時は…『童貞と処女の狂った初夜』しか飲まなかったんだけど…」「それは全く知らないわ。…どんなボトルだったの?」「素敵な状況の女体のように。妙に艶かしい」「ん?」「真ん中辺が、怪しくくびれてるんだ」
 
 「ラベルは?」「これは凄いよ」「どうして?」「何せ、『…狂った初夜』だからね?」「…その名前、動悸がするほど赤裸裸なんだもの…」「あんなラベルは、もう創れないだろうな」「どんななの?」「立った女の背後に男が。胸と腰には霧がかかっているが、どう考えても、二人は全裸なんだ」「霧の隙間から、乳房を愛撫している男の手が、僅かに見え隠れしている」「…それで?」「腰の辺りの霧は薄くて、透けて見えるようなんだ」「何が?」「女の陰毛」「まあ」「…だという、噂なんだ」女の喉が発する妖しい音が電話機に貼り付いた。「薄い靄に霞んだ漆黒の森が、陽炎みたいに茫茫と漂っている」
 
 「女の表情は、到底、処女なんていう類いのものじゃない」「ん?」「飛びっきりに豊満な女が、あからさまに色香を発散させて。官能を存分に堪能している様なんだ」女の沈黙が催促している。
 「どう考えても、二人は交接しているに違いない」「まあ」「立って、背後から挿入しているんだよ」女の吐息が尖った。「女は、その刺激を楽しんでいるんだ」「膣が収縮しているかも知れない」
 「待って」「ん?」「あなたのそんな言いぶりって?」「嫌かな?」「随分と、そうね。端的なのかしら?わざと露悪なのかしら?」「だったら、嫌だったかな?」「どうかしら」「止めようか?」「あなたは?」「出来たら、素のままで話したいんだ」
 
 「あなたがそうしたいんなら。変に抗いはしないけど。私だって、虚飾の人となど話したくはないもの」女の拒絶と認可は、ある種の通過儀礼に過ぎないのではないか。女の艶やかな声色からは、男にはそうとしか思えないのである。「だったら?」「あなたの思いのままに表現すればいいんだわ」
 
  そうして、再び、隠微な物語が始まったのだが。 「その証しに、顔の表情は…」と、男が話始めると、「唇を半開きにして?…」と、思いがけなく、女が、自在に継ぐのであった。些か狼狽しながら、「そう」と、取り繕う男に、「…ぽってりしているんだわ?」と、囁いて、豹変した女は微塵も意に介さないのである。
 
 「そう」「あなたの好きな唇は、例えば、雪をかぶった寒椿視たいに深紅なんでしょ?」「そう」「きっと、濡れてるのね?」「何が?」「そんな表情だもの。きっと、だわ」「射精を受けている瞬間かも知れない」「まあ」
 
 「そんな処女がいるのかしら?」「だから…」「だったら?あら?年増なの?」「どう見ても、四〇だな?」
 「あなた?」すると、女の声音が変わった気がした。「ん?」「だから、彼女は処女じゃないって言うの?」「ん?」「ちょっと、偏見じゃないこと?」「ん?」「だって。年増だって、処女かもしれないわよ?」ようやく反撃に転じようと、男が思わず苦笑すると、「そうよ…私だって…」女は大真面目なのである。「…処女みたいなものだわ」「違うかしら?」と、女の優位は変わらない。
 
 「あの戦争の、敗戦のあの時から、もう、一〇年にもなるのよ」女の吐息が湿っていた。「ずうっと、一人だったんだもの」「そんな寡婦は私ばかりじゃない。この国には、年寄りと寡婦ばかりが取り残されたんだもの」「確かに、私達は処女ではないわね。でも…。そう…処女性?…そうよ…あなた?」「ん?」「処女性だわ」「ねえ?」「違うかしら?」
  
 「喘いでいる四〇女の処女性だって?」「そうよ」「俺には難しすぎるな」「そうね。難しい話だわね」
 「いずれにしても、その女は、きっと、喘いでいるんだ」「そうかも知れないわ」「交接している場面なんだもの。そんな風にしか見えない」
 「あなたって。あなた?大年増の処女なら、喘ぎ声だって出すわよ」「仕方ないでしょ?女の身体なんて自然に熟れてしまったんだもの。それって、本人の意思とは無関係な。生理の摂理なんだもの。希には不届きな怪物だっているけれど。大抵の女は隠し切れないかも知れないわよ?」女は一気に小論を書いてしまった。
 「そんなものかな?」「そうよ。あなたって、女の何にも知らないのね?」「そうかも知れない」「女なんて、まったく、本性は動物臭いいんだから…」「でも、大抵の大方は、殆どを隠し通しているんだわ」女の話は矛盾を右往左往しているから、大分酔ってしまったに違いないと、男は思ったりもした。
 
 「男は?若いのかしら?」「そう。六〇位だな」「まあ。そうなの?」「そう」「…童貞…、だったわよね?」「そうだよ」「あなたの話って、まるで真夜中の綺談の香りがするわ」「今は?」「もう、今日も断末魔だもの」「明日にさえ大した希望はないから、綺談もいいんじゃないのか」「つまらなくはないけど」
 
 「だったら、もっと、驚かしてやろうか?」「ん?」「その男の顔が、ね?」「どうしたの?」「御門なんだ」「ミカド?」「そう」「ミカドって?あの頓狂な?御門なの?」「そう」「敗戦の玉音を金切り声で、おどろおどろしく読み上げた?」「あれには落胆したろ?」「あの日のことは例えようもない驚愕だったわ。そして、屈辱。現人神があまりにもポンチ絵だったんだもの。悔しさのあげくには、涙と一緒に笑ったわ。その御門なの?」「驚いた?」「あなた?そんなラベルが本当にあったら、国賊の類いだわ」「賛同するのか?」「そうじゃないわ。逆なの。私だって。敗戦の半年前だったわ。夫の遺骨の代わりに南の島の白い小石が入っていて。食ってかかったら、役所の男にそう言われたの」「国賊だって?」「そうよ。御門の為に国の礎になったんだから、喜べって。身体が寂しくなったら、国家の役人の俺が慰めてやる、って」
  
「…あなた?」「ん?」「そのラベルは写真なの?」「…そうだな。日本画だよ」「だったら、画家が描いたんでしょ?」「そうだな」
 「だったら、二人きりじゃないんだし。それなのに、なの?」「或いは、情欲が昂じてしまったのかも知れない」「そんなことって?」
 「或いは、画家が指示したのかも知れない」「そんな…」「浮世絵だってそうじゃないか?」「何が?」「春画だよ。見たことない?」女の沈黙は答に違いないのであろうか。「あれは、みんな、画家が指示して描いたんだよ」 

3️⃣ 春画

 「どうなの?」「見たんだね」暫く続いた沈黙に耐えられなくなったのか、「…見たわ」と、女が呟いた。「そうか」「でも、そんな話、聞きたいの?」「話したくないか?」「話させたいの?」「厭なのか?」

  観念したのか、自身の意思なのか、真夜中の綺談の不可思議に憑かれたのか、女が話し始めた。「嫁ぎ先の倉にあったんだわ」「空襲でみんな焼け落ちたんだけど、金庫の中のそれだけが残って…」「家の人は?」「義父が焼け死んだわ」「そうだったのか」「姑は先に病没していたし。夫は戦地でしょ。子供はなかったから。だから、それしか残らなかったんだもの」「そうか」「何となく不思議でしょ?」「そうだね」「だから、どうしても、捨てられなかったの」「でも、あんなものだもの。ひた隠しにしてきたんだわ」
 
 「だったら、教えてくれるんだね」「…仕方ないんでしょ?」「どんな?」「…そうだわ。確か、『枕絵若妻八十八手』とか…」「…『床上手浮世の快楽ケラク』というのも…」女が続けて、「『極意若妻の性戯』、そうね。『処女を装う奥義』というのもあったわ」
 「…今もあるの?」「あるわ」「そこにあるの?」「…押し入れの奥だわ」「でも、もう、見てないわよ」
 「…でも、衝撃だったんだもの。だから、色々と覚えていて…」「どんな?」「…そうね…浮世絵や写真もだけど。…戯れ歌があって…」
 
 「戯れ歌?」「そう。面白いのよ」「狂歌だな?」「そう。あなた?こんなの、知ってるかしら?」

🎆 以下、この小節は、題材の関係上、齢も省みずに恥ずかしながら、実に自由、自在な表現で性を描写しているので、ご不快な諸兄を配慮して、公なこの場では割愛する。

読者諸兄よ。ここまで書いてきて、私にある知恵が浮かんだのである。
 表現の自由とは、いざ挑戦を始めてみると、実に厄介な代物なのであった。とりわけ、性などは、私ごときの無精者の手には余るのである。自在になどは書ける筈もないし、書けたと自負したところで、発表の場にたじろぐ始末なのだ。或いは、書くばかりに書いたからといって、面白かったり、満足できるわけでもないのであった。それでも、僅か五年前は、大胆に書き表すことばかりに充足すら感じてもいたが、古稀を過ぎた今時となっては、その大方は陳腐ですらあるのだ。これが私の著述ばかりの作用なのかと、いわゆる性愛小説を幾つか聴いてみたが、実につまらない。大いに反省したのだ。
 そこで、全面的な推敲を試みているのだが、捨てがたい表現もある。だが、発表の場が適切ではなかろう、という、いわゆる自主規制をせざるを得ない場面に直面したのである。そこで、不意に浮かんだのがある思い付きであった。
 すなわち、上記の断り書きを入れて、全文を割愛したのである。我ながら、ある種の知恵であると、まんざらでもない。 
 だから、以下に書き進めるのは、公の比率が多い場面には決して公表されない、私流に言えば、『地下文学』なのである。
 

4️⃣ 『性畜』

  あることを確かめるつもりで、「…『性畜』って映画があったよね?」と、男が試すと、一つ息を含んだ女が、「…観たわ」と、思いがけずに、応えたのであった。だから、男をある疑念が襲って、澱んだ沈黙を創ったのだ。
 女は男の呼吸を計っていたが、耐えきれないのか、「どうしたの?」「ねえ?」と、重ねて督促する。
 「…この前は、知らないって…」と、重い声音で男が怪訝に呟いた。「…この前って?」「一番最初の電話の時…」「…間違い電話の?」「そう。女優の声…」「…紅蜜子ね?」「…そう。その助演女優の紅蜜子。肉感的な…。濃厚なシーンで話題になった…。その女優とあなたの声を間違えてしまったんだ」「…そうだったわね。すっかり、驚いたわ」「…あの時には、知らないって…」「当たり前でしょ?」と、戸惑いが簡単に晴れた女は、にべもないのである。
 
 「だって、そうでしょ?真夜中の、突然の間違い電話に、まともな応対なんかしないわよ」「まして、独り身の女なんだもの。自然な防衛本能だわ。それに、私は、人一倍、慎重なんだもの」「あなた?違うかしら?」「ねえ?」男に、再び、軽い疑惑が湧いた。言うように、そんな女なんだろうか。初めてのあの夜から、女の応対は実に大胆だったのではないか。だが、「…その通りだよ。俺の早とちりだったんだ」と、男は話を握ってしまった。
 
 「あなた?」「ん?」「そんなに、あの女優がお気に入りなの?」と、女が電話機に吐息をかけた。その息は、きっと、大分生温かいに違いないと、思いながら、「真に迫った演技が良かったからね。素人の体当たりとか、華族のなれの果てとか、酷評はされたけど。それでも、到底、演技とは思えない。現実と勘違いするような迫力だったじゃないか?」「そうね。あんなのが上映されるなんて、信じられなかったもの」
 
 「あの映画は、戦争で不全になった男と、夫に先立たれた女の性愛の格闘の秘密を扱ったんだ。あの戦争の悲喜劇と、もちろん、御門の戦争責任。そして、女の隠され性。どちらも、この国の禁断のテーマだな」
 
  女が後を追って、「戦後間もない頃、ある復興団地に住む人妻の紅蜜子が、夫の死後の、日もたたないのに。隣の棟の男の、あざとい罠にはめられるんだったわね?」と、継いだ。「そう。実に巧妙な手口でね」「男は半島からの帰還兵で。直に、蜜子に横恋慕しているんだわ」
 「そう。男は、あの戦争で不全になってしまったんだ。だから、帰還して再会した妻との、初めての夜のシーン…」「…凄惨だったわね。妻の役のあの女優…」「大和桜子だろ?」「そうだったわね」「植民地の大陸映画の出で。戦時中は清純派だったんだが…」「あの映画で、劇的に宗旨変えをしたんだわ」「そう」「三年振りに会う夫に、全身をくまなく舐められながら、たった今しがたに抱かれてきたばかりの男を思い浮かべて、喘ぐんだもの…」「同じくらいの年回りだし。新人の蜜子への対抗心もあったんだろうな」
 二人の映画評論は、異様に蒸す深夜に果つことを知らない。
  
 「東宮史奇子は?」「ああ。それもある。何せ元華族だからね。あの横柄には対抗心はあったろうね?」「史奇子は、小料理屋の智都という、女将役の濡れ場が凄まじかったんだもの」「あんな演技を見せてつけられたら、桜子だって発奮する筈だよ」
 「それに、あの場面は、相手役の男優が御門に瓜二つで。大騒ぎになったんでしょ?」「でも、特殊メイクだからね。影武者みたいなのを捜しだしたわけじゃない。念のいったことに、御門に似せたメークに、眼鏡と髭を着けたんだ。だから、スクリーンでは御門とは別人だよ」
 「だったら、どうして?」「特殊メイクだけの写真をマスコミに配布したんだ。それで大騒ぎになった」「どうしてそんなことをしたのかしら?」「挑発だよ」「…挑発?」「そう」「解らないわ?」
 
 「戦争責任も何一つとらずに、御門を神と偽ったのは側近の誤りだ、御門は人間である、などと言っている、国家に対する挑戦なんだ」「まあ」
 「しかし、国は何一つ手
出しが出来ない。彼らの挑発は真実だからね」「でも、右翼が抗議して事件も起きたわ」「それくらいだろ?映画機構も騒然となったが、規定にはないんだ」
「それに、桜子は北の国の貧農の出だった。幼くして、遊郭に売られたという説もある」「そうだったの?」「女優に発掘されるまでにも苦難だったから。貧困の現実が身に染みていた」「だから、売れない清純派女優のままでいるわけにはいかなかったんだろ」
 
 「…それにしても、あのシーンは…」と、女が呟いた。「ん?」「…何て言うのかしら…。仰天したわ」「…画面一杯に、陰茎が映し出されるんだもの」「作り物、のね」「でも、それが桜子のに、挿入されたのよ?」「絶妙な撮影技量だった。あれでは、本当の性交と思うのも無理はない」「後で知ったけど。萎えているのや、中途までのや、完全に勃起したのや、あんなに変化させて。みんな事実だと思い込んでいたわ」「全部で五〇本くらいを作ったらしい」「そんなに?」「映画全体で、だよ」「外にも男優がいたろ?」「そうだったわね」「現実感を出すために、それぞれの男優のを模倣したらしいんだ」
 
「生々しい筈だわね」「自分のより、大きめに指示をした男優もいたそうだ」「まあ」「これは、ある芋茎ズイキ職人の伝説の技なんだ」「随喜?」「まあ、その通りだけど」「何か、可笑しいのかしら?」「知ってるだろ?昔からの性具だよ。芋茎で随喜するんだ」「そう言うことだったのね。厭だわ」「材料は戦勝国から輸入した最先端の物質だが、あの加工はその職人にしかできないんだよ」
 
 「それって、自主検閲を、ますます、強化している映画機構への挑戦なのね?」「あんなものは、いわば玩具だからね。法律には触れないから、映画機構も手出しは出来ないだろうと、監督は踏んだんだな」「でも、すぐに上映禁止になったわ」「外にも、御門や国家、性の禁忌への挑戦が満載だったからね」
 
 「男が蜜子に、試作品だといって送り付けた性具も、そうだろ?」「そう。本物にそっくりだったわ」「蜜子は、男が書いた添付の手紙を読まずに、不用意に、それを試してしまうんだ」「それが罠だったんだわ」「そう」「後で、訪れた男に脅されて。散々に蹂躙されて。性の家畜にされてしまうだわ」「そう」
 「夫が死んだのだって。その男が関わったのを匂わしていたでしょ?」「そうだね」「きっと、あの男が犯人だと思うわ」女は断罪的だ。「どう?」「そうだな。…でも」「ん?」「断定はしてないだろ?」「そうだけど…」
 「妻の犯意も仄めかして、撮っていたろ?」「それは知らなかったわ」「半年ぶりに同衾しながら、妻が涙を流すシーンがあったじゃないか?」「…あのシーンね。…そうね。思い出してしまったわ」「半年ぶりなのに。…半年ぶりだからなのかしら。…凄惨な場面なんだもの…」 

5️⃣ 声
  
 「私が言うの?」「そう」「厭だわ」「だって…」女の曖昧な拒絶に隣接して、許容が潜んでいる空気がしたから、「紅蜜子の声で、紅蜜子のあのシーンを聞きたいだけなんだ」と、男は念を押してみた。だが、女は、「あなた?例えそっくりだって言ったって、その声の持ち主は私なのよ。声はあなたに向けて放たれてしまっても、未だ、私の身体の一部なんだもの。そんな風に観賞されるなんて。あなた?こんな摂理を知ってて、無理を言っているの?」と、存外に頑ななのである。
 
 「あなたったら?」「ん?」「思った以上に、露悪な趣味なのね?」「そうかな。むしろ、あなたの好きな趣向じゃないかな?」「私の趣向?」「ふと、そんな気がしたんだ」「そんな感覚ばかりで、見知らぬ世界に誘い込むのは。ひょっとしたら、あなたは物書きなの?」「書かないこともない」
 「何だか、そんな気がしたわ」「どうして?」「傲慢で。無礼で。感傷に酔ったり。だって、可笑しいわ。ただウィスキーに耽溺しているばかりなのに、文学や哲学だと勘違いしたり。今だって、そうなんでしょ?」
女の指摘は存外に端的だったから、「違いない。あなたの分析には脱帽だ。だって、こんな夜だもの。酔いはまわるばかりだよ。耳許には、妖艶なニョショウ(女性)が貼り付いているしね」「それって、私のことなのかしら?」
  
 「ここまで生きてきたんだもの。趣向だって。あなたは鍛えられたんじゃないのかな?」「あなたのそんなのって、亡霊のような問いかけなんだもの、意味が不明だわ。私が何を鍛えられたの?」
 
 「失礼。だったら、俺のこんな趣向は、気に入らないかな?」「あなたのでしょ?」「そう」「だったら、どうかしら?」「もちろん、無理強いなどはしている筈もないが。始めても、馴染まなかったら、止めればいいんだよ?」女のグラスの氷が崩れる音色がした。「そんな言い方もあるのね」
 
  そして、再び、男があの映画を復元し始めたのである。「ある役所の贈収賄事件の捜査が核心に迫ってきて。夫の周辺も慌ただしかったんだ」「そうだったわね」「ある上司が、責任を、部下のこの夫に被せようと画策している」「武津聞多ムツモンタでしょ?いぶし銀のようなんだもの。とっても、好きだわ」「俺も好きだったんだ。虚無の雰囲気を漂わせていて。演技にも力があったし。インテリやくざの役が、実に良かったな」「あなた?」「ん?」「あなたもそんな感じがするわよ?」「そうなの?」「ふっと、ね」「電話の先から伝わってくるんだもの…」
  
 「夫も、身辺の変化に敏感なんだ」男が氷を鳴らしてウィスキーを含んだから、共鳴した喉の音が女に届いて、「翌日に、男は、業務で大金を扱うことになっていた。すると、自分の置かれている立場を悟った男は、その金を横領する誘惑に取り付かれてしまうんだ」「夫には女がいたんだわ」「そう」「場末の呑み屋のふしだらな女なのに。すっかり手玉にとられてしまって。その金の一部を渡そうとするんだわ」

「そして、煩悶しながら家に帰る」「それから、妻との最後の夜なのね?」「そう。夫は妻との交接の記録を残そうとして、写真を撮るんだ」「帰ると、すぐに、妻を裸にさせたんだわ」「妻はいぶかったが、押し倒されて、抱ききすくめられて、撫でられている内に…」鈍い沈黙が訪れて、男が何かを待つ空気が伝播してきたから、女が、「…私?」「そう」
 
  ようやく、女の声が、「…厭だったんだけど、青いワンピースを捲られて、薄紫のパンティの上から撫でられ続けている内に…」と、男に届いた。「そう」「そのシーンが全部映っていて。パンティの脇から、陰毛がはみ出ていたんだわ」「そう」「…妻の、紅蜜子の身体は、熟れ過ぎているくらいに爛熟していて。そうだったわね?しかも、半年も放り出されていて。飢えた身体なんだもの。すぐに反応して、濡れてしまって…。そしたら、滲みたパンティも映し出されるの。あそこが極端に盛り上がっていて。涌き出た液が滲みてるから、割れ目まで判明しそうなのよ」「…あなた?」「ん?」「…どうかしら?」「まるで、紅蜜子そのものだよ」「そうなの?」「絶賛だ」「まあ」

6️⃣ 映画
 
 「性具を使いたいって、夫が言うんだ」「未だ、日があるのよって。妻が拒むのね?」
  すると、「俺のより、好きじゃないか?」と、囁いた切りの男が、ウィスキーを飲み始めた。そして、「ん?」と、怪訝な女に、「だから?」と、促すのであった。「ん?私が言うの?」「そう」
 
  ややあって、女が女優に憑依して、「…随分と無責任ないいぶりなのね。半年も無沙汰だったのは何なのかしら?」と、噂の声で、脚本のない台詞を囁いたのである。
 「役所が非常事態なのは知ってるだろ?」「あれは幹部の収賄なんでしょ?あなたに何の関わりがあるのかしら?」「だから、お前は脳天気なんだ」「そんな罵詈を受ける謂れはないわ。だったら、何かあるなら、話して下さいな」「お前に相談して、どうなるものじゃない」
 「それより、バイブはどうなんだ?」「日が気になるなら、目隠しをしてやろうか?」「…目隠し?」「何年か前に、やったろ?」「…覚えてるわ」「異常に身悶えしたじゃないか?」「…そうかしら」

  演技ともつかない戯れ言の果てに、二人は暗黙に同意して、乱舞した言葉を沈殿させた。
 やがて、息を乱した女がウィスキーを口にして、「どうだったかしら?」と、囁いた。「思った通りだ」「どうしたの?」「あなたこそが天性の女優かも知れない」「まあ」「確信したよ」「初めてなんだもの」
 
  再び、男が話し始めた。「夫が妻に目隠しをするんだ」「妻は拒まないのね?」「目隠しをしてするのが好きなんだろ?」「ん?」「違うの?」「私が?」「したこと、ある?」「…ないわ」だが、女の声は肯定を否定したに過ぎなかったのである。。
 
  「…パンティを破かれて、性具を嵌められたでしょ?それが大写しになって。女優の地肌は見えていないんだけど。見えているよりも厭らしいんだもの。よくあんなのが撮れたわね?」「直接には、何も見せてはいないからね。映画機構の規則には反していないんだ。ワイセツ物陳列の法律にも違反はしていない。監督は盲点を突いたんだよ」
 
 「あなた?」「ん?」「それにしても、性器を猥褻扱いにするって、どうなのかしら?」「そうだな」「だって、生殖にも、排泄にも。私は知らないけど、出産にも不可欠な器官でしょ?」「権力は、その器官がやる性交ばかりは、禁忌にしておきたいんだ」「どうしてなの?」「性の自由を容認したら、世の中が乱れるからだよ」「治世のため?」「そう」「でも、禁止されるから、ますます過激になるのかしら?」「それに、人間は性の快楽を習得してしまったからね。本能なんだ。権力ごときに支配されるものではないよ。そうだろ?」「…どうかしら」

「真裸にエプロンだけを着けた紅蜜子の妻が、背後から夫に挿入されるシーンがあったでしょ?」「ん」「あれが演技なのか、或いは、本当に挿入されているのかと思わせるほどに悶絶する蜜子が、カメラの前で、わざと、エプロンを捲ったんだわ」「そう」「そしたら、股間が真っ黒で」「ゆっくりと、カメラが寄ると、黒い前貼りで…」
 「あれも、あからさまに映画機構への挑戦だな。でも、こんな話があるんだ」「何かしら?」「実際には、挿入していたというんだ」「…知ってるわ」「ん?」「前貼りの下の方を細工して、交合を隠したんでしょ?」「そう。どうして?」「雑誌で読んだわ。偽造かもしれないけど写真まで載っていたのよ?」
 「でも、どうしてそんなことをしたのかしら?」「夫役の男優が、秘密裡に監督にごり押ししたらしい」「女優は知らなかったんでしょ??」「蚊帳の外だ」「凄まじい話ね」「夫役の男優は貧相な役作りをしていて、あそこも短小で粗末だという設定だが、実は希に見る巨根で
 千人斬りの猛者だという噂もある」「知ってた?」「雑誌で…」「射精したという説もある」

 「あの夫婦は不和だったんだけれど。あの映画は、殆どの男女などはそうしたものだ、という視線で見ているね?」「そうね。あの戦争を潜った者は、何らかの傷は負ったんだもの」「あの夫婦に限らずに、男と女なら尚更なんだわ」「子供もいないしね」「私もだわ。やっぱり、不和だったのかしら?」
 「たった二人きりの暮らしなのに、互いに、寄る辺のない現実の片隅に佇んでいたんだ」「そうね」「夫は定年間際の小役人で。人生そのものに憔悴しきっている。とりわけ、近年は、夫婦生活もままならないんだ」「そうだわ」「その上に、ある大がかりな贈収賄事件に、預かり知らぬ間に関与させられていて」「そう」「ところが、妻は夫の事情などは露にもおもんばからずに…」「そう」「あげくに、四〇を回ったばかりの女盛り…」「それが、紅蜜子なんだものね」「誰が考えたんだろうな?」「何が?」「まさに、絶妙な配役だよ」「まるで、退廃に咲く、熟れた肉の花みたいで。実話のような起用だわね」
 
 「敗戦記念日に、蜜子が自慰をするシーンがあったろ?」「現実のあの日みたいな、酷く蒸し暑い昼下がりでしょ?」「そう」「ぼんやりと性具を眺めているうちに、股間を押さえるんだわ」「スカートを捲ったら、豊かな太股が輝いて…」「パンティを脱ぎ落とすのね?」「指で確認するんだ」「濡れているかどうかだわ」「その指がアップになったら…」「桃色の太股が濡れて、光っていた」「汗まみれで?」「そう。盛夏の団地の一室で。すっかり締め切っているから。女優の全身の汗をカメラが舐めるように撮っていくんだ」「そうだったわね」「顔や首、乳房。乳首の汗には仰天したな。あれは作り込みじゃないのかな?」「どうなのかしら
?」「乳首にも汗をかくの?」男が煙草に火を点けた。「そんなの、知らないわ」「そんな場面にあったことなんて、ないんだもの…」紫煙が彼方の女にも漂流する。「でも、余程だったら、どうなのかしら?」「余程って?」「知るわけがないでしょ?」「陰毛の汗も衝撃だったな」「そうね」「あれは、実写なのかな?それとも、あの監督の得意の手妻かな?」「どうなのかしら」

 「性交のシーンがあったろ?」「刺激だったわ」「あの音は凄かった」女の喉が鳴って、「覚えてるわ」「あれから暫く耳について。離れなかったもの」「…女優の喘ぎ声も…」「そうね」「あなたの声はそっくりなんだ」「最初の電話でも、そう、言ったわね」「外ホカでも言われるだろ?」「時折ね」「やっぱり、そうだろ」「でも、今では、蜜子のことを覚えている人なんて、殆ど、いなくなったもの」男が答えない。「どうしたの?」「…聞かせてくれないかな?」「何を?」「声」「声?」「そう」「聞いてるでしょ?」「違うんだよ」「何が?」「喘ぎ声だよ」「…私の?」「そう」

(続く)

電話十話

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更新日
登録日 2020-12-31

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