片山郁巴

  1. 〇、蛹
  2. 一、合格
  3. 二、家族
  4. 三、通学路
  5. 四、思量
  6. 五、いい子
  7. 六、露光
  8. 七、決壊
  9. 八、徒夢
  10. 九、哀訴
  11. 一〇、スクールカウンセリング
  12. 一一、クリニック
  13. 一二、遮断
  14. 一三、真夏の走馬灯
  15. 一四、分裂
  16. 一五、逆夢
  17. 一六、Aの所在
  18. 一七、視線
  19. 一八、亡羊
  20. 一九、一人娘
  21. 二〇、審判
  22. 二一、邂逅
  23. 二二、現在地
  24. 二三、萌芽   (完)

〇、蛹

二つの裂け目から移ろう季節を覗く
蝉の死骸のそばで眠る曼殊沙華
漆黒の帳を遮る飴硝子の青天井
未熟な羽は、生えたそばから溶けてゆくから
雄飛するのは連想ばかり

盛りを過ぎた蝉時雨の向こうから覗く緒をたよりに
破ることのできぬ幾重もの蛹の最奥で、帰還の途を捜し歩く
日付の線引きができないままに、覗き穴から覗く日々
彼女の琴線を掻き鳴らす光景に
ワタシはあるはずのない腕を伸ばす


――明転――

一、合格

「A、◎◎高校合格おめでとう」
「Aちゃん、◎◎高校合格したんやね。すごいわぁ。Aちゃんのおばあちゃん、嬉しそうにご近所さんに話してはったわ。ほんま自慢のお孫さんやね」
「A、向かいの一四号棟の奥さんが、受験勉強に使ったノートと問題集をゆずってほしいねんて。塾に通わんと◎◎に受かった子がおるって、ここらへんで有名になっとおみたい。春休み中、捨てんと置いとって」
 県立◎◎高校の合格発表から数日間、Aは両親、祖父母、幼少のころから彼女を見守ってきた団地の人たちから、たくさんのお祝いの言葉をもらいました。
 内申点稼ぎと受験勉強からの解放、そして小学生からの憧れ、◎◎高校合格という最高の結果を勝ち得たことで、桜色の笑みが始終こぼれていました。
 輝かしい春の光景は、Aの瞳に焼きついて離れませんでした。これは本人も手放せない思い出の一幕でした。
 近所の人から「高校でも頑張ってね」と前向きな言葉をかけられると、彼女は真っ直ぐ相手を見て「はい、頑張ります」と明るく元気に、模範的に答えました。
 ただ一人、一二号棟に住む元高校教師のおじいさんは違いました。Aから学校名を聞くと、ゆっくり頷いて「◎◎高校か……。大変やで、頑張ってね」とだけ言い残しました。笑いじわを寄せた彼の目尻と口元とは対照的に、目は冷たい石のようでした。

この春の光景は、Aに覆い被さる幾重もの蛹の一幕にすぎませんでした。

二、家族

 合格発表から一年と二ヶ月が経ちました。
 起床時刻になっても、Aは起き上がることができません。布団の上に横たわっているはずなのに、奈落の底へ落ちてゆく感覚に耐えていました。
 最終警告のように、三回目の電子音が鳴り響きました。
 背中にガムがくっついているような鈍い寝返りをうちました。やおら腕を高く上げ、重さにまかせて目覚まし時計のスイッチめがけて振り下ろしました。
 体勢をうつ伏せに変えても、彼女は落ち続けていました。
 葉桜が目にしみるこのごろ、このような目覚めが続いていました。
 追い打ちをかけるように、Aの父親が敷居を踏んで部屋に入って来ました。Aの枕元にしゃがむと、彼女の肩甲骨を鷲掴みました。その瞬間、悪寒が走りました。寝起きの鈍く響く声で「おい、朝やぞ。もう起きい」と迫りました。
 顔を見なくても不機嫌な彼の表情が目に浮かび、抵抗と逃避の意を込めて枕に顔を沈めました。返事代わりに呻き声を漏らすのが精一杯で、結局起き上がれませんでした。父親は溜息をつき、娘の部屋から出て行きました。
 五分後。
「お願いやからはよ起きて。今日お母さんいつもより早く出勤せなアカンねんから」
 母親の、尖った哀願と雑音が混じった甲高い声がAの頭上から降ってきました。
やっとの思いで体を腕で支え、動作が再び止まってしまわないよう重力に抗いながら布団から這い出ました。眠気と倦怠感を堪えて立ち上がりました。これだけのことなのに、Aはすでに疲労困憊でした。
 娘が布団から出る機会を待っていたといわんばかりに、母親は慌ただしく布団をベランダに干し始めました。
 洗面所に向かおうと、Aが自室から一歩踏み出した直後です。
「うああああああああああああああああああああっ。アンタを見てるとイライラするううううううううううっ。うああああああああああ」
 母親が目と口を大きく開き、頬を引きつらせて泣き叫びました。彼女は両手を顔のあたりで何度も激しく振りました。力み強ばった指が鉤のように曲がっていました。
 父親が慌てて母親のもとに駆け寄り、肩を優しくさすり、なだめすかしました。
「大丈夫、落ち着いて。な、ほらA起きたから。な、深呼吸して……」
 二人を背にして、Aは自分の部屋から立ち去りました。
 両親の隙間に一人娘の居場所は空いていませんでした。二人の間から弾き出された疎外感は、塩酸をかけたかのようにAの胸を焼き溶かし大きな穴を開けました。
 部屋を出て廊下をゆらゆら数歩、薄っぺらい金属製の新聞受けを一瞥して、仕切りカーテンもない脱衣所兼洗面所に着きました。白くて冷たい洗面台を手すり代わりにして体を支えました。乱れた風が抜ける胸中から目を背け、Aは鏡を見つめました。
 洗面所の右側にある、小さな青竹色のタイルで埋め尽くされた狭い風呂場が、鏡に映りこんでいました。奥には閉まりの悪いアルミ製の扉がありました。扉の上部には、磨りガラスの嵌め殺し窓がついています。その向こうは洗濯場用のベランダで、磨りガラスの窓と網戸越しに外の光を注ぎ続けていました。
 朝日は磨りガラスを透りタイルに反射して、Aの右頬を滑りました。加えて洗面所の白いライトが降り注ぎ、血が巡りきらない彼女の顔色をいっそう際立たせました。
 同じ四〇九号室で朝を迎えている家族なのに、Aは寂寞とした砂漠に取り残されているようでした。

三、通学路

 小型ラジオは朝から、パーソナリティの元気な声を拡散していました。微かにノイズが混ざっていましたが、両親は気にならないようでした。ラジオの音はAの晴れない頭に砂嵐を巻き起こしました。
 父親が若いときから、つまりAが物心ついたときからの日課でこの番組を聴き続けているため、当たり前のように彼女は受け容れていました。しかし、ここ数日はラジオの音がいつもより耳障りに感じられました。自分のせいですでに不機嫌な父親の手前、ラジオを止めてほしいと言い出せませんでした。
 Aは遅れて朝食の席に着きました。あまり食べたくありませんでしたが、健康志向の両親に逆らえず、口にお味噌汁を流し込み、白米を少量運ぶことを繰り返しました。箸の進み具合が遅いと父親が「食べなアカンで」「食欲ないんか」と心配するので、器を早く空にするよう努めました。
「ごちそうさま」
 母親は彼女の空いたお皿を集め、手早く洗い始めました。
 Aが歯を磨くために洗面所に行くと父親が顔を洗おうとしていました。「俺は急いどんねん」と低い声で言われ、身を引きました。これ以上苛つかせまいと歯ブラシに歯磨き粉をつけ、自分の部屋で椅子に座って歯を磨きました。父親が洗面所から離れたタイミングで口をゆすぎました。
 服選びは数ヶ月前のAにとって、女子高生らしい楽しみの一つでした。私服着用可の自由な校風だったので、好きな色や柄のブラウス、リボンタイ、カーディガン、ベスト、パーカーなどを、制服のロングプリーツスカートにどう組み合わせようか、その日の気分で決めるのが朝の日課でした。
 しかし最近は、式典時のみ着用が義務づけられている白いセーラー服を選ぶようになりました。
 Aが着替え終わったのを母親が廊下から確認すると、忙しい口調で「下に降りとくからね」と声をかけて、バタバタと出て行きました。
 Aは教科書や問題集の詰まったリュックを玄関に運びました。
 ローファーを履いた途端、しゃがみ込んでしまいました。何度も膝に力を入れて立ち上がろうとしましたが、上手くいきません。深呼吸をして、込み上げる不快感を落ち着かせようとしました。
「大丈夫、立ち上がれる。大丈夫やから。お願い……」
 幾度か呟いて、ようやく体と立ち上がろうとする意志の両歯車が噛み合い、立ち上がれましたが、すでにどっと疲れてしまいました。
 玄関を出て鍵をかけた後も動けなくなりました。今度は深海のように果てしなく続く深い青が胸を侵し、呼吸が苦しくなりました。駐車場からは唸るようなエンジンの音が聞こえます。彼女は堪えて階段を降りました。
 重たいリュックを抱えて車に乗り込みました。ドアを閉めた直後に車は急発進し、大きく曲がって道路へ出ました。
「早く出てきなさいよ。お母さんの時間奪わんとって」
 業を煮やした母親から発せられる怒号に気圧され、込み上げてくる感情をAは必死に押し殺しました。駅に着くまでバックミラーに映る母親の表情を、ちらちらとうかがいました。
 通勤通学ラッシュの電車に体を投げ入れるように乗り込みました。ドア付近から離れ通路に入り込み、場所を確保しました。そして、リュックから図書館で借りた詩集を取り出し、一音一音一行一行に視線を走らせました。
 人混みに酔わないために。吐き気と速まる鼓動を忘れるために。ひしめく他人の存在に押し潰されないために。
 Aはふとした拍子に怖くなるのでした。
 あれだけ他人の顔が目に入るのに、自分の顔だけがどこにも見当たらない心細さに――。
 意地でも何でもいい。何かを高く掲げ押し通していなければ、呑み込まれてしまいそうになる自己の脆さに――。
 もう女子高生らしく華やかに笑えなくても、自分を見つけてくれる存在を欲しました。しかし、顔をあげた彼女の眼差しは彷徨うばかりで、やがて足下に積もりました。柔らかくて吐息一つで破れてしまいそうな膜のなかで、Aは懸命に立っていました。

 ◎駅に到着しました。各扉から人が勢いよく放出され、あっという間に改札口に繋がる階段に吸い込まれて行きました。空気を奪い合うのとは別の息苦しさを感じました。
 大人や学生といった数多の他人は、各々が見えない硬い殻で守られているように映りました。Aは、生身でいるのは自分だけのような疎外感を抱きました。
 殻と殻の間にできるわずかな隙間をくぐり抜け、地下鉄に乗り換えました。ごく短い時間とはいえ、昼夜問わず変わらない灯りと閉塞感に満ちた車両のなかは、息が詰まりました。
 吐き出された学生たちに乗じて、地下鉄の改札を抜けました。日差しを頭上に浴しながら、階段を一段一段ゆっくり昇りました。地上に出たAは目を細めて、一度立ち止まりました。さらに道路沿いを十分ほど歩きました。年季の入った一軒家で埋まった小高い丘の頂上に、◎◎高校が見えました。

四、思量

 高校二年生、初夏の教室。
 Aは、自ら希望し選択した理系医学部進学クラスに所属していました。
 肥大化し続ける理想の自分像と現実のAは、この時点で大きく乖離していました。実際、理想を叶えるクラスはこの理系クラスなのに、彼女の得意科目は現代文でした。
 昨年の晩秋、進路選択用紙を提出した数日後に現代文の教師から、さらりと文学部を勧められましたが、将来の想像がつきませんでした。そこは作家か文系科目の教師、文学研究者などを目指す人が進学するための学部で、Aは自分に関係ないところだと決め込んでいました。また、彼女は文芸部に所属しているものの、膨大な知識と物語を完成させる集中力と忍耐力を要する作家は、自分には到底なれない職業だと考えていました。そして何より、彼女は将来が不透明な仕事や進学先は選ばないようにしていました。
 あのとき無理を言ってでもクラスを変更してもらうか、理系に在籍しながら文学部を目指すかしていれば、もっと違う結末になっていたかもしれません。「変更できないから慎重に選ぶように」と注意した、当時の担任の言葉にAは囚われ過ぎていました。
 生徒たちがみな黒板と向かい合い、碁盤のように着席している教室は、どの授業を受けていようと窮屈でした。座した彼らの頭上を満たすがらんどうには、空気や光、緊張感のほかに不気味な何かがのしかかっていました。
 Aは教師の説明がわかるかわからないかの、ぼんやりした頭で前を向いていました。板書ですら億劫になっていました。集中力が欠け落ち、野放しになった感受性が描き出した空想に、ついに神経までが反応したのか、これ以上この空間にいることが苦痛になりました。
授業の終わりを告げるチャイムで少し緩んだ空気のなか、保健室へ向かいました。
「おはようございます。しんどいんで休ませてください」
「おはよう。どうぞ」
 ここ数週間でAは保健室の常連となっていました。保健室の先生との会話は淡白でしたが、それは冷めているという意味ではありません。Aと適切な距離を保ちながらも、先生の声からは柔らかな陽光をAは感じていました。教室では沈みがちな気分も、ここで過ごすと晴れていきました。彼女はここの光を気に入っていました。
 入り口の真向かいに窓があり、若葉をくぐり抜けた光が小波のように打ち寄せています。屋内を照らす蛍光灯と自然光が織り成す、限りなく透明に近い白のグラデーションは、彼女の雨を忘れた曇り空にまで差し込みました。
 しばらく入り口左手のソファに腰かけて光を眺めました。満たされるとお気に入りの本を読んだり、音楽を聴いたりして過ごしました。
 昼時を指すころには娯楽に飽いて、お弁当を食べるためにベッドが並ぶ仄暗い部屋に移りました。誰のためにかわかりませんが、窓際にはガラス製の低いテーブルとソファ、視聴覚室からあぶれた長テーブルが二、三脚積んでありました。Aは窓と向かい合う位置のソファに座りました。
 頭よりやや高い位置に窓があり、空と雲、木々の華奢な枝先と新緑が目に入りました。この部屋は常に電気を消しているため、自然光が暗がりのなかに、しっとり溶けていました。Aを包む光の肌触りと透明感は、教会のステンドグラスから流れ込むそれとよく似ていました。これだけでも、今の彼女には十分涙を呼び起こしました。
 運動部の生徒の多くは昼休みの練習で教室にはいませんでした。主に文化部の生徒が教室に残っていました。ただ、彼女たちの声と会話が、耳に流れ込んでくるのが不快でした。Aには清潔で静謐な静寂が必要でした。
 彼女はこの部屋で透明になって、緑の風のままに染まっていました。
手だけがオートマティックにお弁当の包みをほどきました。母親の手作り弁当は残さず食べることを幼いときから守ってきたので、習慣になっていました。義務感すら根付いていました。白米やメンチカツが喉につかえましたが、鼻に抜ける香辛料で、血が濃く鮮やかな色に染まってゆくのを感じました。母親の料理は美味しいのに、胃に残る異物感が不快でした。毎朝作ってもらえることに感謝して、それを消化しました。

 昼休みが終わる一〇分前。
 ここにまだいたいという気持ちが、何もしないことへの罪悪感に変わり始めて居心地の悪さが芽生えました。気は進みませんが、五限目から出席するために教室に戻りました。
ほとんどの生徒が席について予習していました。昼練習終わりの生徒も席に着くやいなや、英文法の教科書とノートを開き、ペンを走らせました。
 Aも前から二番目、廊下から二列目の自席に座り、教科書に目を通しました。ノートに例文を写したり、穴埋め問題の解答を書くのには骨が折れました。書くことは諦めて、一文でも一問でも多く読み進めましたが、全く頭に入りませんでした。
 教師が到着し、教室の空気が張りつめました。チャイムがAの耳に嫌に大きく響きましたが、号令の最中に耳を塞ぐのは、はばかられました。礼が済むと教師はランダムに生徒を五人指名し起立させました。名前を呼ばれなかったAは、ほっとしました。
 窓側の生徒から順に解答義務に従って答えていきます。例文を一文朗読、教科書の応用問題または教師からの問題に対して解答しなければいけません。
 一人目の彼は発音を指摘されて読み直しました。問題も間違えてしまいました。続いて教師は黒板に、教科書のどこにも載っていない英文を書き、訳すよう促しました。彼の訳は的を外れ立ちっぱなしのまま、次の生徒に解答権が移りました。
 Aはその様子を見て身につまされる思いでした。二人目、三人目が答え、教師の解説が耳に入ってきます。筆記体がさらさら流れる板書を追うのに精一杯でした。わからなかった問題の説明は全くノートに書き記せませんでした。書き漏ればかりに気を取られ、焦燥と不安に心臓が弾けそうでした。英語に限らず、もう取り返しがつかないほど、わからない問題が積み上がっていました。
 指名された五人のうち、正解して座れたのは一人でした。立っている生徒は解答義務から解放され着席しました。
 新たに五人の名前が呼ばれました。彼女は指名されないことを祈りましたが、四人目で呼ばれてしまいました。悟られないように溜息をつき、立ち上がりました。
 一人目が淀みなく解答し、着席しました。二人目、三人目が解答する間、Aは自分がどう振る舞っているのが良いのかわからなくなりました。自分が解答するであろう英文を何度も目でグルグル追い、小声でブツブツ唱えました。埋まらない穴埋め問題の空白を凝視しました。手指を握ったり緩めたりを繰り返しました。それでもまだ落ち着かず、指先でアンダーラインをひくように英文と空欄を何度もなぞりました。
背中から後頭部に、石壁が迫っているような圧迫感を抱き振り返りました。誰一人、目が合いませんでした。見晴らしの良い教室は、Aを絶海に追い遣りました。
「違う。そこはWhatやなくてHowや。一年のときに習った感嘆詞の使い分けに注意して。はい、次の問題読んで」
 Aの番です。彼女は声が震えるのを抑えながら、教師に聞こえる声量に調整しました。一音一音舌と喉、唇を意識して動かし、読み上げました。
「問九の解答は?」
 空白です。英単語一つ浮かびませんでした。
「わかりません」
 降伏するように答えました。続いての教師の問題も無論わかりませんでした。
 心拍や呼吸数がいたずらに速まり、胃が痛みを訴えました。体ばかり空回り、肝心のA自身が置き去りになっていました。あまつさえ授業スピードが速く、張りつめた集中力の糸がとっくにぷつりと切れてしまった彼女にとって、再び追いつくことは不可能でした。
 せめて板書だけ食らいついて写せたとしても、読み返せば基本の段階で置いていかれた彼女にはほとんど理解できず、復習すら困難でした。
 Aが中学生のとき、英語は彼女の好きな科目でテストの得点源だっただけに、授業についていけず、出席を避けようとする自分に対しての苛立ちは募る一方でした。今はもう、できない自分に怒りを抱くたびにひどく疲れて、結局何もできないまま時間が過ぎていくのでした。
 逃げたいという本音に従い、ここ数週間に遅刻や欠席、早退を繰り返すものの、罪悪感がつきまとっていました。
 今日も早退すれば、両親はまた怪訝な顔をするでしょう。以前、登校するのがどうしようもなくつらくて、Aは両親に「もう、授業に出たくない。学校に行きたくない」と本懐を打ち明けたことがありました。このままでは自分たちの娘がダメになると心配するあまり、是が非でも立ち直らせたかったのでしょう。布団にへばりつく娘を両親は二人がかりで叩き起こしました。
「逃げると余計つらくなるで。それに、自分で◎◎高校に進学して頑張るって決めたんやろ。一年の生のときに学級便りに抱負を投稿しとったやん。ほら、はよ起きて学校行って勉強頑張らな」
「ほら、A。自分をしっかり持って。頑張って起きて学校行って」
 娘自身もこのままだと自分がダメになると感じ助けを求めていたのに――。
 それ以来、Aの顔色は悪くなる一方でした。
 解答義務が移り、幸い教師の指示で全員席に着きました。糸の切れた操り人形のように彼女は座っていました。
 緊張と葛藤が心身を蝕んでいました。もう、何も考えたくありませんでした。窓の外をぼんやり眺めました。
 小さな二つの瞳孔に、なみなみと注がれる初夏の色彩。
 澄みわたる空色が頭蓋骨に詰まった黒雲を払いました。
 新鮮な白い雲が流れ込み、浸透を続けていた青が飽和した瞬間
(私、かえりたい)
 双眸から溢れ出した色彩は、誰よりも透き通っていました。

五、いい子

 一人娘であるAが将来の夢を話せば、家族は喜んで応援しました。彼女の両親を含め、周囲に自分の夢を実現するために挑戦し努力した人はいませんでした。家族は一人娘に期待していました。
 幸い、彼女は好奇心旺盛で努力を厭わない子供でした。勉強が楽しくて中学生までは授業と通信教育だけで、優等生でいられました。自力で考えて〇を獲ることが、彼女にとって快感でした。〇が多ければ多いほど×が目につき嫌悪するようになりました。
 Aに対する周囲の大人たちの期待は、年々膨れ上がりました。それはいつしか一人娘の存在価値になっていきました。
 Aは今まで積み上げてきた自分の価値をさらに盤石なものにすべく、中学時代は勉強と内申点獲得に注力しました。なるべくほかのものは目に入らないようにしました。そうしなければ、自分というものが揺らぎ崩れてしまいそうでした。これは彼女が無意識に恐れていたことでした。
 しかし、高校入学後成績は下がり続け、優等生を維持できなくなった一人娘に、家族はひどく困惑しました。彼女も、自分自身に絶望しました。自分の唯一の価値を失ったら存在価値がわからなくなりました。それでも、高い志は持ち続けていたかったのです。
(せめて上だけは向いていないと、だれも自分を見てくれなくなる)
 Aはそれを暗に恐れていました。
 進路指導のレクリエーションで、担当の教師が開口一番「自分がどうなりたいか、どうしたいのか、君たち自身から聞かせてくれないとアドバイスできません」と淡々とした口調で話しました。わからないから相談したいのに、その一歩を踏み出すのにAは躊躇しました。自分は進路指導室の扉を叩く資格がない気がしました。閉ざされた扉は真っ白な憂鬱で塗り固められていました。
「アタシ、大学行ったら遊びまくる」
「正直、いい大学に行くのは、いい男を捕まえるためやねん」
 去年の秋ごろ教室で聞こえた会話の断片がAの頭から離れませんでした。
 学問を究めるために、就職するために、夢を叶えるために、高い志と目的意識を持って大学に進学すべきだとAは考えていたからです。この斬新な進学理由は理解に苦しみ、今でも彼女は受け容れられませんでした。発言した女生徒たちはAより成績が良く、文系国公立大学に進学を希望していました。生真面目な考え方は同時に目標を失ったA自身を追い詰め悩ませていました。志やプライドなんて早いうちに捨てていれば、Aはもっと自由になれていたのかもしれません。
 五時限目が終わると俯きながら進路指導室を横切り、職員室にいる担任の教師に早退の旨を伝えました。Aを咎めることも引き止めることもありませんでした。頼りなく「わかった、気をつけて」と言いました。しばし彼女を見つめたあと仕事に戻りました。
 正門へ行くには授業中の廊下や開けた中庭を通らなければなりません。それは気が引けるので、裏門に繋がる人気のない冷たい階段を静かに降りて帰りました。
 「いい子」を続けられなくなったらどんな子になれば良いのか、どんな子になれば見直してもらえるのか、Aにはわかりませんでした。

六、露光

光は陰から眺めるに限るのがAの持論
外に出れば紫外線の雨霰
真っ黒な日傘で感覚器官を守りながら坂道を下りました
照り返した日差しに満ちた空気のなかを、黒い海月が傾斜のままに、そして規定の通学路に従って流れてゆきました
地下鉄に続く階段に吸い込まれ、ほんの数分揺られて乗り換え、地上のホームに浮上しました
この街の主要な鉄道とはいえ、昼下がりの車内はかなり空いていました
Aの向かいの座席は白昼の光で埋まり、車窓は大きな額縁のように景色を切り取っていました
電車は市街地から民家、街路樹のなかを加速と減速を繰り返しながら通り抜けてゆきました
そして待ちに待った光景に、Aは息を吹き返しました
今にも溶けて消えてしまいそうな雲が微かに浮いている空と、反射する無数の白い欠片を弄ぶ波
その真中を貫く静かに閉じた水平線と目が合いました
群青色の柔らかい座席に深く腰掛けるAを始点として、水平線上の任意の一点に向かって、彼女は進んでゆきました
進みゆくうちに浸透、落下
眼前に広がっていたはずの空と海がAの眼下に広がっていました

落下するほど空と海は膨らみ彼女を圧し潰さんばかりに迫りくるのに、水平線は永久に重ならない二つの狭間として存在し続ける
それすなわちAは、二つの狭間で永久に落下し続けるということです
空を空たらしめる薄い陶器に、光となった少女の影が駆ける
海を海たらしめる薄い膜のその奥に、無いはずの少女の影が泳ぐ

景色が電信柱や背の低い建物、木々や神社に変わりました
車窓から家屋の窓がちらちら見えますが、窓の奥はよく見えませんでした
(窓に人あり、体に誰あり?
 目に映る生の残影に私はいない)
――窓に息づく彼らを想い、ワタシはまた一歩、亡霊に近づく――
「次は――」
桟橋や突堤、海岸が目に入り、鼻に掛かった声が降車駅を告げました
ドアが開き、潮の香りを含んだ空気が鼻腔を抜けてAの体を起こしました
頭はまだ少しぼうっとしましたが、自転車をこいでいるような感覚で歩き続けました
改札を抜けると家路とは真逆の道を進み、海浜公園へと向かいました
日傘を差したまま木陰のベンチに腰掛けました
頭上の若葉がそよぎ、木漏れ日が小魚の群れのように足元できらめきました
光がAの瞳の奥をくすぐりました
顔を上げると太陽に照らし出された渺々たる海原に、胸がほどけてゆくのを感じました
Aは白い光の底に沈んでいました
緑陰の保護のもとで彼女の瞳は光をとらえました
陰から見つめる光景が少しずつ遠のき、薄い硝子に現像された写真を眺めているようでした

写真の向こう
特に空と海は、現実世界に生きるAには触れられないものを堰き止めているふうに映りました
彼女はありったけの力にまかせて、それを割ってしまいたい衝動に駆られました
割れた視界から溢れこぼれる液体に溺れ溶けてゆく自己を夢想しました

否定され忘れ去られた物質を運ぶ潮風
深みを増す呼吸と加速する血流
呼応する動脈は紫に、静脈は藍色に変じ
彼女の長い黒髪は、徐々に上へ上へと伸びてゆきました
高度が上がるほど髪の色素が抜け、透明な触手に変化し虚空に広がりました
青空を青くたらしめている、あるはずのない媒質に触れた瞬間、触手はチリリと弾け、太陽光線とともに地上に降り注ぎました
髪の一本一本が折り重なり合いながら堆積し、Aを覆い尽くしました
これは本来、彼女を守るはずの存在なのに、わずかな衝撃でも傷つき変形してしまいます
Aは美しい紡錘形をした光の紗のなかから、現実を静観しました
真っ白な砂浜を歩く人影は点
海原を這う船は粒
希釈され消えゆく飛行機雲の下で、ぷつりと途切れた桟橋は黙りこくっていました

ベンチの後ろには、本葉を広げたばかりの若すぎる向日葵が燦々たる太陽を欲していました
その様子は、じきに訪れる梅雨を拒んでいるようにも見えました
Aは向日葵が大嫌いでした

七、決壊

 家族がそろう夕食は、父親の声がよく響いていました。
 二〇時三〇分。
 Aが幼稚園から小学校高学年くらいの間に比べ、父親は早く帰って来るようになりました。
 両親の手元には背の高い空き缶が一本ずつ置いてありました。父親が母親にチューハイを持ってくるよう大きな声で頼むと、陽気な赤ら顔で空き缶を彼女にわたしました。母親は無言で一瞥して受け取ると、新しいお酒を持って来ました。Aも空いた自分のお皿を片付けるついでに、お茶を取りに行こうとすると「A、氷入れて来て」と父親から注文を受けました。
 とりあえず、食器を流しに置いて、マグカップにお茶を注ぎました。ダイニング兼リビングに引き返し、グラスを受け取りました。氷をたっぷり入れて、左手にグラスを右手にマグを持って戻りました。先にグラスを父親にわたしました。
「おう、ありがとう」
「うん」
 四人掛けのテーブルで、Aの右隣が父の席、彼の正面が母親と決まっていました。Aの正面には誰もいませんが、いつも新聞や週刊誌、チラシが積まれていました。テレビは昔から彼女の席の左斜め前に置かれていました。そしてそれは、家族団欒には欠かせないものでした。夕食時にテレビが点いていない日は、ほとんどありませんでした。父親とテレビを結べば、線分はちょうどAの鼻先をかすめる位置関係にありました。
「アイツなんなん? 品もクソもあらへんやん。俺はああいう女、大嫌いやわ」
 家族で毎週観ているバラエティ番組にゲスト出演していた女性タレントが、かしましく大仰に話す様子が映っていました。その女性の様子が父親の気に障ったようでした。ほどなくしてコマーシャルに切り替わると、すかさず父親は手元のリモコンを操作しました。
 野球中継に切り替わりました。バッター渾身のフルスイングも球をとらえ損ないストライク判定になりました。見逃せばボールになりそうな球でした。
「ああ、振ってもうたあ。何しとんねん、アホやなあ」
「あーあ、今日はアカンのちゃう」
 母親も今のスイングに期待が失せたようでした。彼女も父親ほど熱狂することはありませんが、スポーツ観戦が好きでした。
 その後も選手たちが一生懸命投げても振っても、チャンスや得点に繋がらなければ、父親は遠慮なく罵りました。反対に得点が入れば近所に聞こえるくらい大きな声で「よっしゃあああ! やったあああ!」と喜び、パンパンパンとクラッカーのごとく手を叩いてはしゃぎました。
 父親がテレビに向かって放った感情だったとしても、Aは無視できませんでした。彼から同心円状に広がった言葉と感情は彼女の眼前はもちろんのこと、家庭を満たす雰囲気を激しく揺らしました。さらに壁や窓から溢れ出し、外の世界へ溶け混ざってゆきました。
 再びチャンネルを変えると、母親と同世代らしい女優がバラエティ番組に出演していました。
「えっ、この人いくつなん? ……うそっ、全然見えへんわ! きれいやなあ」
 父親が驚嘆しました。母親は画面越しの女性を鋭く観察しました。身につけているアクセサリーのブランドを特定し、白くて細い指とネイルを施した爪を発見しました。
「結婚もせんと好きなことばっかりしとおからや。
 ええよなあ。お金あったら誰でもキレイにしてもらえるわ。それに家事なんかほとんどしてへんのちゃう?」
「なに対抗しとん。負けず嫌いやなあ」
「べつに、そんなん思ってへんよ」
 少し妙な沈黙が差したので、Aは食器を片付けて自分の部屋に戻りました。
 彼女は先日、ネットで調べて資料請求した塾のパンフレットに目を通しました。
 母親には塾に通おうか考えている旨は伝えていましたが、具体的にはまだ決めていませんでした。また、家庭教師を勧める父親を納得させるために、自分で情報を集めなければと考えていました。
高校二年生とはいえ、国公立大学受験まで時間を無駄にできません。無気力に陥っていましたが、内心はとても焦っていました。日々の課題や予習復習に追われて手が回らないうえ、授業スピードに合わない通信教育は、一年生の夏に解約しました。
 放課後、学習塾に通うことはAにとって大きな決断でした。
 Aは自分なりに学校の授業になんとか食らいつく方法を模索していました。
 塾の条件は、同じ学校の生徒があまりいないこと。少人数制であること。難関国公立大学医学部への合格率が高いこと。わからないときにじっくり考えて質問できる環境が整っていることでした。
 特に最後の質問できる環境は重要でした。
 数週間前までAは、生徒思いの物理教師に昼休みを割いて授業でわからなかったところを質問していました。物理は面白くて好奇心を刺激する科目でしたが、授業は数学と同じくらい、ついていけませんでした。だからこそ「物理準備室におるから、いつでも遠慮なく質問しにおいで」と教師から言われたときは、嬉しくて熱心に質問し理解しようとしていました。しかし、丁寧に解説してくださっているにもかかわらず、疑問は簡単には解消しませんでした。
 Aは「やっぱり、ここがわかりません」と伝えるたびに、二人の間に流れる沈黙や教師の少し悩んだ表情を感じ取りました。わからないところを考えなければならないのに、頭が真っ白になり体が固まってしまいました。
 自分の馬鹿さ加減と教師の貴重な時間を無駄にしていることに、嫌気と申し訳なさ、情けなさを抱きました。呆れられているのではないかという不安が膨らみ集中できなくなりました。それから徐々に物理準備室へ質問に行かなくなりました。
 わからない箇所をわかるまで気兼ねなく考えられそうなシステムを、資料のなかに見つけました。質問を個別で対応してくれるうえ、わからなければいったん席へ戻って一人で考えられる、質問専用の部屋がありました。人と距離を置いて、じっくり考えることに没頭できそうでした。一旦席に戻っても、すぐにまた質問できる距離間も魅力でした。
 パンフレットを読み進めるうちに、●●大学合格への道筋がみるみる見えてきました。
両親に相談しようとリビングを覗くと、潰れたチューハイの缶が、テーブルの上にありました。テレビには何本ものマイクに囲まれ説明する国会議員が映っていました。
「はあ。何ぬかしとんねん。金がないのにどないすんねん。税金上げる前に国会議員が率先して身切れよ。そんなようけ要らんねん」
「ほんま医療費まかなわれへんで。もう治療できひんのに診察に来る老人ようけおるわ」
 父親の顔は、さっきよりもかなり赤くなっていました。離れていても語気荒く話せば、お酒の臭いがしました。母親も一日の疲れが顔に表れていましたが、目はしっかりと画面の国会議員をとらえていました。
 昼間抑えこんでいた愚痴や不満が、酔いの力もあって次々と母親の口から流れ出しました。
「うちの職場、正社員が頼りないから困るわ。パートはみんな不満抱えとお。長年勤めとっても時給上がらへんし、有休ないし。
 正社員やのにまとめ役は見て見ぬふりで、何度言うても聞いてくれへん。結局、パートの私が言わなアカン」
「もう、しゃあないんちゃう。けど、国も正規と非正規の格差埋めようと動き出すみたいやから無視でけへんよ」
「せやけど、だいぶ前から上司には言うとおことやで。これはおかしいんやないですかって。なのにあの人は……」
「うん、アナタの言いたい気持ちはわかる。でも、それはしゃあないわ。うちにもおる。現状を見んと事勿れ主義でなんも考えへんやつ。代わりにこっちが提案したら、ああいえばこういうで有り得へん理屈こねんねん。早急に決めなアカンことやのに。挙げ句果てに……」
 母親の眉間にしわが寄っていました。父親は身振り手振りが大きくなり、一方的に熱弁を振るい始めました。とても進路を相談できる雰囲気ではありませんでした。
(今日は止めておこう。明日は休日やから、そのときに自分のこと話そう)
 気配を消して立ち去り、塾に通い高校受験のとき以上に勉強を頑張る自分を想像しました。
 これが、青春の夜に何度も焼き増しされた、Aにとっての「家族」の光景でした。


 翌日、母親はいつも通りパートに出て行きました。昼までの仕事なので、食事のときに塾について話すことにしました。
 父親は昨夜の様子が嘘のように、機嫌良くゴルフに行く支度を進めながら、朝の情報番組を観ていました。たまにテレビのコメンテーターや司会者に対して、彼の見解を論理的に熱のこもった口調で述べました。その様子にAは、一対一で話し合うのに躊躇しました。目は合わせず、様子をうかがっていました。比較的穏やかな今の父親の雰囲気を、娘自ら壊したくありませんでした。
 自室に戻り、できる範囲で英語の予習を試みました。教科書とノートを開いたものの何一つ頭に入らず、スペルすら書けませんでした。せめて読むだけでもと目を通すのですが、抽象絵画を眺めているようでした。そんな自分に嫌気が差しました。
 父親も出発し、家にはA一人が残りました。
 Aはリビングのとなりにある、両親の寝室としても使われる洋間に入りました。一〇年近く使用している家族用のノートパソコンを開きました。彼女は家族のなかで唯一スマートフォンを持っているものの、じっくり調べ物をするときや好きなバンドのMVを鑑賞したりするときは、大抵パソコンを使用していました。
早退した日や、どうしても起きられず学校を休んでしまった日は、家で独り、体調不良の原因究明に躍起になっていました。
 『勉強 やる気が出ない』『学校 つらい 行きたくない』『生きる しんどい』『死にたい』
 自身の頭に次々と浮かぶワードを、手当たり次第入力し検索しては記事に目を通しました。そして拾った新たなワードを検索し、彼女のなかで芋づる式に知識を広げていきました。
 自分と同じ悩みを抱え、掲示板やサイトで相談している人に対して、厳しい意見を見つけました。知らず知らずのうちに相談者の気持ちになって、我がことのように傷つきました。
 『うつ病かもしれません。一度病院に行かれてみてはいかがでしょうか』という意見を見つけ『うつ病 チェック』と検索しました。チェック項目が一〇問ほどの簡単なものから、二〇問以上で選択肢が五つほどあるものまで、様々なセルフチェックを行いました。
 どれも『うつ病の疑いあり』『重度のストレス』という結果が表示されました。そして、どれも最後は『専門医に相談する必要があります』と結ばれていました。なかには初めて知った病名もありました。
 ようやく活路を見出せそうなキーワードをいくつか見つけて、一先ず安堵しました。もっと詳しく知りたいと思い、後日、繁華街の本屋に行くことにしました。
 再び勉強机に戻りましたが、先程と変わりませんでした。
 勉強は何から始めればいいのかわかりません。英語の予習の続きをしようとしましたが、やっぱり頭が働かないので諦めました。
 ただ、ネットでかき集めた知識によって、自責の念から幾ばくかAは救われました。
 リビングからクッションを持って戻り、机の上で突っ伏すと、そのまま眠ってしまいました。
 一二時四〇分ごろ、両親がそろって帰宅しました。パート終わりとゴルフ帰りに合流し、昼食と夕食の買い出しに行っていました。
 二人で買い物袋を玄関に運び入れました。
 Aは玄関で袋を受け取り台所に運びました。
 父親は帰って来るなりテレビを点けゴルフバックを片付け始めました。
 母親は買った物を冷蔵庫や棚に振り分け、速やかに昼食の焼きそばとそばめしを作り始めました。
「A、みんなのお茶いれて」
「はあい」
「お父さんもお茶飲む?」
「ええわ、俺は昼から酒飲む。ありがとう」
「ええ、昼からとか早すぎやろ」
 笑いながら話す両親の絵面は微笑ましいものの、娘は目を伏せてグラスを並べました。冷蔵庫からコップ一杯分の緑茶が残っているピッチャーを取り出しました。力加減と角度間違え勢いよく緑茶が注がれ、少し飛び出てこぼしてしまいました。
「ああ、もっとそうっといれえな」
「うん、ごめん」
「あと、お父さんに氷とお酒持って行って」
「はあい」
 気は進みませんでしたが、仕方なく昼飲みの準備を手伝いました。
 ほかほかの料理を食べながら、塾の話をいつ切り出そうか悩みました。背の高いハイボール缶が空く前にと思っていましたが、父親はすでに少し赤くなっていました。テレビを観る目つきからも気分の高まりを感じ、Aは思わず父親から目を逸らしました。
(早く相談したい。明日も話を聴いてもらえるかわからへんし。早く結論を出して受験に向かって邁進したい)
 Aは気ばかり焦り、食事も早々に箸を置いてしまいました。
「ごちそうさま」
 食器をさげた足取りで自室から塾のパンフレットを持って、父の後ろの席にあるドアからダイニングを覗きました。母親の表情はうかがえても、父親はテレビのほうを向いていて、背中しか見えませんでした。Aが少し横にずれると、日焼けした肌の下に緋色が差した額が見えました。自分の席で面と向かって話を切り出すのは気が引けましたが、同時に急いてもいました。
「なあなあ、この少人数制の塾に通いたいねん。今のままやったらアカンと思うから」
 母親と目が合いました。父親は頭を後ろに傾け、的外れな視線を投げかけました。その姿勢のまま答えました。
「前からお父さんが言うてる家庭教師やったらアカンの?
 個別でゆっくり自分のペースで数学教えてもらうほうが、オマエにとってはええんちゃうんか?」
「家庭教師は嫌や……。なんか、恥ずかしい……。ここのシステムのほうが質問しやすいし……」
 娘の語尾は力なく消え入りそうでした。この場から逃げないように、怯まないように立って、父親の背中に向かって反駁しました。
 説明するより資料を見せたほうが早いと思い、詳細内容のページを開いたパンフレットをわたしました。体はテレビに向けたまま、肩越しに受け取りました。番組司会者の笑い声が読んでいる間の沈黙を壊してくれるものの、漂う緊張感は拭えませんでした。
 母親は不安そうな目で二人を見ていました。
 Aは壁にもたれかかり待っていました。
「CMでもよう見かける塾やけど、繁華街にあるやん。家と反対方向の電車に乗らなアカンやん。帰り道の途中にある、同級生がようけおる大手塾のほうがええんちゃうん? でないと通い続けるんしんどいで」
「知り合いがおらへんところがええねん。それに、ほかの塾にはその個別の質問教室と小ステップ式の問題演習のシステムはないねん」
「それはええんかもしれへんけど、Aは塾行ってどうなりたいんや」
「どうって……」
「数学の成績上げたいとか。わざわざ遠い塾行く目的はなんなん」
「……●大の医学部か工学部行きたい」
「目標はええけど、先ずは学校の授業に追いつくことやろ。家庭教師のほうがええんちゃうか。心配せんでもお金はあるし」
 Aはもう、何も言葉が見つかりませんでした。
「で、どうなん?」
「……」
「まずはそこからやろ。塾か家庭教師かはそれからや」
 父親は、体はテレビと対峙しながら首を後ろに傾けて、肩越しにパンフレットを返しました。受け取ったAの手に徐々に力が入りました。
「なんやこれ。こんなとこあったんか」と話題のスポット特集に興味津々でした。
 Aは放水途中のダムが強制的に閉ざされたように苦しくなりました。自分から何かを伝えなければいけないのに、頭に浮かぶ明確な言葉は塾の宣伝文句と大学、学部名ばかりでした。毒々しい色彩を放つシアン・マゼンタ・イエローが混じり合い、複雑怪奇に極まりない極彩色のうねりが生まれました。それは理性も言葉も呑み込んで、Aのなかで激しく巻き上がりました。
「う、うっ……、うああああああああああああああああああああっ。うるさいうるさい、もううるさいっ。勉強嫌やああああっ」
 Aは自室に駆け込みました。涙が決壊したように止まりませんでした。床にへたり込み、泣き喚きました。
 父親が慌てて立ち上がり部屋に入ろうとしました。
「来んなあああ。アタシの部屋に勝手に入って来んなあああ。
殺してやるっ。絶対殺してやるっ。殺してやるからあ。出てけえええっ」
 呆然とする彼を避けて母親が駆け寄り、娘を抱き締めました。しかし、母親の生温かさにAは寒気がしました。触れた皮膚の感触が気持ち悪くて拒絶しようとしましたが、一人娘としての理性が制しました。
 父親は何もできず、困惑した表情のまま「な、何言うとんねん……」と呟いてリビングに戻りました。
「ハイハイ、大丈夫。大丈夫やから、ね」
 母親の幼子をなだめすかす声がAの神経を逆撫でしましたが、ぐっと堪えました。
娘は「もう大丈夫やから」と肩で息をしながら伝えました。母親に落ち着きを取り戻しつつある素振りを見せ、自分にまとわりつく腕をほどきました。
 母親も部屋を出て、A独りになりました。
 テレビの音が汽笛のように遠く感じられます。両親の声も聞こえません。
 部屋に残した彼らの沈黙は、漠然と広がる大海原のようでした。その場にAは、綻びだらけの青一色の地図を片手に取り残されていました。一七歳の未来予想図は大人たちの記録済みの海路図とは全く異なります。規則正しくやって来る明日を、Aは何度も拒んでは追い詰められていました。やがて未来から希望の色は失せ、彼女の目の前には真っ青な無辺が広がっていました。
 彼女は、何も気づいていませんでした。
 優等生以外の進路を見出せていたら。綻びを縫い塞ぐのではなく、破ることができたら。自分が何者なのか、何になりたいのかわからなくなったと、先生や両親に声を大にして言えていたら。もう、誰の期待にも応えられない一人娘を許し、受け容れられていたら。Aはどろどろとした自己が揺れる蛹から、早期に社会の一員としての誰かに、何かに、なることができていたのかもしれません。

八、徒夢

 Aは崖の上に立っていました。崖は荒波に抉られ湾曲し、途絶えた橋のように沖に細く突き出していました。何かの拍子に崩れてしまいそうな先端に、彼女は立っていました。
 眼前には空色、眼下には紺碧のパノラマが広がっていました。戻ることも進むこともできず、崩れ落ちるその瞬間に怯えていました。
 ピシッ、ミシッ。
 彼女の足元に亀裂が入り、瞬く間に崩壊しました。体がぐらりと傾き、身を引き裂かんばかりの落下感が襲いました。
 恐怖のあまり叫ぶこともできませんでした。
 突然、崖の上から人影が現れ、Aに向かって何の躊躇いもなく飛びこんで来ました。人影の正体は、慈悲深い眼差しを湛えた美しい青年でした。
 彼は、助けを求めて伸ばしたAの手を取り肩を抱きすくめました。己が腕と胸に彼女をしっかり抱き収め、そのまま二人は真っ逆さまに落下しました。
 着水の手前、ひきつけを起こしそうなAを強く胸に抱いて、額にくちづけをしました。
「大丈夫。目を閉じて。すぐに怖くなくなるから」
 彼の優しい言葉に縋り目を閉じると、全身を支配していた落下感は消え、泡に包まれました。
「もう大丈夫。目を開けて、ゆっくり息を吸って」
 Aは言われた通りにしました。たった二人しかいない水中は、静寂に満ちていました。見上げると光を溶かした天色の水面が揺れ、彼の輪郭をなぞりました。彼女は心安らかな気持ちになり、眠りにつくように再び目を閉じました。
 二人の影は一つに重なり、さらに瑠璃色の底へと沈んでゆきました。
 徐々に視界は濃藍、花紫、桔梗色へと移ろいでゆきました。

 台所からの騒がしい音が、二人の間を引き裂きました。
 Aは音を遮るために布団を被り頭を枕に押しつけました。夢から覚めると、忘れたはずの胸の痛みと落下感が蘇り苦しくなりました。
 ドア越しに、食器が当たりカチャカチャと固く不快な音がしました。Aはこの音を聞くと、氷を丸囓りしたように歯が痛むので、口を開けて痛みを逃がしました。
 掃除が始まりました。お風呂場に慌ただしくバケツを置いたようで、空っぽの音が響きわたりました。水を勢いよく噴出するあまり蛇口が鳴いていました。ホイッスルのような音が、Aの耳にまで届きました。洗剤を混ぜ、バシャバシャと雑巾を洗う音。床を拭く微かな摩擦音。壁際を拭く際に雑巾が当たる音。母親の足音。伝わってくる様々な音に呑まれ、速まる呼吸を落ち着かせようとしました。
 Aが中学三年生の夏休み、母親は大病を患い手術を受けました。
 退院後も回復しきらない体に鞭打って家事を全て担いました。頭にバンダナを巻いてパートにも復帰しました。食事や清潔な環境作りで娘の受験勉強を支えました。夏休みの宿題に必要な買い物なども手伝ってもらいました。母親の献身的な努力がなければ合格できなかったと言っても過言ではありませんでした。
 罪悪感からAは手伝おうしたこともありました。
「お母さんのことはかまへんから、勉強頑張って」
 娘は、母親の断りから発生した侘しさを問題集の正答率で埋めました。家事手伝いを免除される代わりに成績で貢献していましたが、今ではその方法は通用しません。
 襲いくる無力感と外界の不協和音から逃れるために自身の奥に耳を澄ませ、今度は自ら夢幻の底へ行こうとしました。
 けれども忙しない音たちは、容赦なく塞いだ耳に雪崩れ込み、いっそう彼女の神経を震わせました。
 Aはどこか遠くにある平静な空間を求めました。思い浮かべた場所は、生きている者には誰もたどり着けない場所でした。
 外界の刺激と制御できなくなった体に為す術もない自分自身に失望しました。体内を空っぽにしてゆく無力感に抗えず、死が真っ暗な頭に明滅しました。
 ドアの向こうで、バタバタと外出する支度を終えた母親が、尖った砂利のようなノイズ混じりの声で尋ねました。
「今日はどうするん? 遅れて行くん?」
「遅れて行く」
 不安定な身体感覚に負けないように声を絞り出しました。
 母親は慌ただしく受話器を手に取り学校に電話をかけはじめました。トーンは明るくなり滑らかな声になったものの、若干角が残っていました。ガチャン、カチャカチャと受話器を戻しました。
「おじいちゃんのお見舞いと、実家の片付けの手伝いに行ってくるわ」
 彼女は鍵をかけて駆け足で階段を降りて行きました。足音が遠ざかり、車のエンジン音が聞こえましたが、すぐにその音も聞こえなくなりました。やがて、家のなか全体が静かになりました。
 Aはゆっくり体を起こし、関節や筋肉に力を注いで立ち上がりました。急激に巡りはじめた血潮が落ち着くのを待ちました。頭が直立した高さになれるまで少々時間を要しました。気怠さを吐き出すように溜息をつきました。ドアを開けて洗面所への一歩を踏み出しました。
 鏡を見て笑えませんでした。重い瞼と力ない口元、目の色も黒く沈んで生気がありませんでした。それなのに頬や顎まわりは少しふっくらしていて、幼さが妙に目立っていました。そこには、両親の期待と自身の理想が剥がれ落ちた、出来損ないの娘が独り映っていました。全身から消えた青年の温もりは、Aをいっそう孤独にしました。
 無邪気に難関大学合格を目標に掲げていたころは、こんな自分を想像していませんでした。
 高校一年生のとき、現代文の授業中の雑談で当時の教師が、全国模試で数学の偏差値が五〇に届かなかった生徒が二人もいたことを話しました。個人名は挙げなかったものの、当時は自分だとばれないように、つくり笑いでその場をしのぎました。
 数学ができないという烙印は消えず、Aと両親の悩みの種となりました。教師から作文を褒められる機会もありましたが、彼女自身は受け容れられませんでした。頑なに理数科目が得意な女子高生像を追いかけていました。
 記憶と共に込み上げてきた、鉛が喉の奥に詰まったような苦しさに耐えかね、洗面所で座り込んでしまいました。
「ねえ、苦しい。もう、助けて」
 応えるように、優しい吐息が耳元をくすぐりました。
「A、大丈夫だよ」
 青年の声色や肌触り、雰囲気や容姿をAは明瞭に感じとらえました。彼女は華奢な白い腕で自身の肩を抱きすくめ、彼の言葉を呟くと涙が溢れました。

 Aは通勤通学ラッシュのとうに過ぎた、がらがらの各駅停車の電車に揺られていました。
 頭を満たす透明な髄液が体の揺れに一足遅れで揺らぎ、彼女は浪々とした心地のまま放心していました。

速度に合わせて変化する現実の彩度
降車駅に近づくにつれ落ちてゆく明度
眩しすぎるがゆえに儚く失われてゆく色相
あるがままに色づいているはずの視界が薄れ心象のままに霞む世界
目に映る色は正しいはずなのに、そう見える、そう感じる
この不安定な感覚に呑まれてゆく
重い体は視界の底に沈んでいる
ワタシだけが瞳孔から溶け出して、青と光と影と漂い戯るエーテルになる
(このままでは、かえれなくなる)
――どこに――
帰る家も、通う学校もあるのに
目的地はいつだって明確に実在しているはずなのに
(せめて、これに名前があれば……)

「次は◎駅、◎駅です。出口は左側です。お降りの際は、お忘れ物ないようご注意ください。◎駅、◎駅です」
 車内アナウンスが鮮明に聞こえました。
 実感のない体に力を注ぎました。特に足腰に意識を集中して一息に立ち上がりました。転ばない程度に脱力し、自転車でこぎ出すように均衡をとりました。
 歩く様子はまるで、見えない力に引き寄せられているようでした。
 何も意識に入らない、蜃気楼の遙か向こうを見つめる目をして、地下鉄のホームへ降りて行きました。階段や曲がり角、エスカレーターを体が動くままにまかせて進みました。
(ああ、ちゃんと治さなアカンなあ。あのころの私に戻りたい。
 今の私、大嫌いや)
 Aが歩けば歩くほど半身が浮かび上がり、中途半端に分離しました。ワタシは、幽霊のように生身の体に引っ掛かっていました。

九、哀訴

 空欄を埋めたくても埋められませんでした。考えても答えが出ませんでした。もう、考えることすらできなくなりました。Aは中間テスト期間中に、頭が空っぽであることの証明を突きつけられ続ける苦痛に耐えていました。
 昨夜、辛うじて開いた単語帳や問題集から頭に入れた答えを、自信を持って書き込んでも、目を離して解答用紙全体を見れば、より空白を目立たせるばかりでした。
 ようやく終了のチャイムが鳴りました。背もたれに身を委ねてぐったりした彼女を余所に、解答用紙の回収が始まりました。ひらりと翻りながら光に透ける白い紙が、自分より成績の良い子の手によって教師のもとへ運ばれました。
 全身の倦怠と胸を締めつける窮屈さ、喉の奥がつかえる閉塞感で、すぐには動けませんでした。
 テスト期間中はこの繰り返しでした。いつもより早く帰れることが唯一の利点でした。
 門を出ると坂道の傾斜のままに重心を委ね、転ぶ前に一歩踏み出して下りました。体を支える一歩の衝撃が土踏まず、足首、膝に響く一瞬は、ふと意識が明瞭になりました。平地まであと半分になるころにはこの振動が癖になり、ずんずん下って行きました。坂を下り終え振動の余韻も薄れると、もとのふわふわした心地に戻りました。このまま直帰せず繁華街の本屋を目指しました。


 本屋の最上階は学校と違って天井が高く、本棚が整然とそびえ立っていました。小さな空っぽの頭に入りきらない知識に囲まれ、ここで過ごす間だけは劣等感を薄めることが出来ました。授業だけじゃつまらない、知り得ない、教室のなかには収まりきらない知識に、自己が創造されてゆくときめきがありました。
 わからないけどわかりたい、という好奇心を刺激すると同時に、興味を示している自分に酔うことでプライドを満たしながら専門書の森をくぐり進みました。壁際の本棚の前で足を止めました。
 【精神疾患】【心の病】【メンタルヘルス】
 分類札の間を行きつ戻りつしながら、ピンとくるタイトルや、漫画などわかりやすく解説している本を手に取りました。目次を開いてはチェックリストや心当たりのあるページを読み漁りました。継ぎ接ぎだらけの知識が正しいかどうかはわかりませんでしたが、おぼろげで不安な状態の名称と症状、解説を見つけるたびに、Aは頭のなかが整理されていくのを感じました。
 漫画の多くは発症当時の様子や生活を描いたもので、今のAと重なるところが多々ありました。同じような思いをした人が存在することに安心しました。
 自分自身でもうまく言葉に出来ない、鬱蒼とした心と体を巣食うそれを、客観的にとらえられました。これなら両親に説明できるのではないか、話を聴いてもらえるのではないか、娘の現状を理解し適切な治療を受けるための手助けをしてくれるのではないか、と久しく希望の光が胸に差し込みました。
 Aは、うつ病患者のエッセイ漫画を一冊購入して家に帰りました。


 誰もいない家で、購入した漫画をじっくり読み進めました。「この状態に悩むのはあなただけじゃない」という慰めに浸りました。
 この漫画の作者は、元不登校で高校生のときに病を発症しました。現役時の偏差値は、どの科目も四〇ほどでしたが、一浪して難関国公立大学理学部に進学を果たしました。このストーリーは、Aにとって掴み所をなくした未来に対する一つの指針になりました。
(ネットの自己診断の結果を伝えて、この漫画をわたそう。今まで伝えられなかったつらさを理解してもらおう)
 やっとトンネルから抜け出せる気がしました。両親の帰りを待つAの表情が少し明るくなりました。
 夕刻、車で三〇分近くかかる総合病院から母親が帰って来ました。
「ただいま」
 声から、ひどく疲れている様子が伝わってきました。
「おかえり」
「アカンわ、おじいちゃんが入院してから実家は滅茶苦茶や。身辺整理も進まへん」
 母親は買い物袋とその他の荷物をおろすと、溜息をつき、力ない声で続けました。
「A、若いころ親孝行でけへんかった分、なるべくおじいちゃんの最期までおりたいねん。だから、お母さんのこと助けると思って朝起きてな」
 Aは喉元まで出かかっていた言葉を押し込め、胸の前に持っていた漫画を小脇に抱えなおしました。
 「うん、わかった」と一言残し、引き返しました。ほんの一瞬、ざらざらとした不快感が広がりました。自分の気持ちを丸め込み、再び自室で漫画を開きました。


 二〇時ごろに父親が帰宅しました。
 先にお風呂に入っていたAは、ドライヤーで長い黒髪を乾かしている最中でした。
 父親はさっさと手洗いうがい、着替えを済ませました。お酒をグラスに注ぎ、運ばれて来たばかりの料理を食べ始めました。Aが髪を乾かし終えて食卓に着くころには、ほんのり顔が赤く目つきも妙に鋭くなっていました。
 家族三人がそろいました。壊れやすい針水晶が頬をさするような空気を破って、Aは言葉を発しました。
「心療内科に行って、診てもらいたい」
 空気の破れ目から露呈したそれは両親が見て見ぬふりをして、時間か本人の力で解決することを望んでおり、まさか我が子がそうなるはずはないと決めてひた隠していたものでした。
「病院ってどこのや」
 手元のグラスを見ながら低い声で父親が問い返しました。
 勇気を出して今の自分の気持ちを伝えようとしました。視線を投げかけても誰とも目が合いませんでしたが、声だけは届けたくて答えました。
「どことまでは決まってへんけど、とにかく心療内科に行きたい。今のままやったらアカンから、ちゃんと治療受けて治したい」
「……Aは生理前に体調崩したり、情緒不安定になるのは前からよくあったやん。いきなりメンタルの病気やって決めつけないで、婦人科で診てもらってからにしよう。いきなり精神病のきつい薬出されて悪化したら困るから、な」
 震える声をひた隠し、極力理解を示した声色で母親が意見を述べました。暗に、親の意見を聞くことを強く求める色が含まれていました。
「でも、これは生理のせいちゃう気がする」
 証拠のない空しい反論でした。ただ、生理が原因のときとは感覚が違いました。中学生のときもこれに悩まされていましたが、頭痛薬と気力、食事と睡眠で乗り切れていましたし、何より学校が楽しかったのです。
 今は生理周期に関わらず頭と体が重く、いつどこにいても泣きたい気持ちがAにつきまとっていました。それを伝えようと訴えましたが、大人に意見を言うときに知らず知らずのうちにブレーキをかけ、主張する声は弱くなってしまうのでした。
(心療内科に行きたい。つらい。苦しい。治したい)
 それ以外に言葉が見つかりませんでしたが、それだけでは両親を納得させることはできませんでした。
 Aはそれ以上何も言わず、食事を続けました。美味しいのに、喉につかえました。喉から胸にかけてのつかえは彼女を悩ます症状の一つで、今に始まったことではありませんでした。けれども、いつもより静かな今日の食卓は、いっそう彼女の喉を絞めつけました。
 テレビに釘付けの両親の視線を抜け、食器を下げて自室に戻りました。
 購入した漫画を抱え、深く長く息を吐きました。両親に伝えられる限りの短いセリフを声に出さずに唱えました。来た廊下を再びなぞり、ダイニングの敷居をまたぎました。
「この漫画の人と同じ気持ちやねん……。だから私、病院に行って診てもらったほうがいい気がする」
 伝えたいのに、語尾は消えかかっていました。
 父親の視線はすぐにテレビに移りました。母親は漫画を手に取るとパラパラと中身に目を通し、テーブルの隅にある新聞や雑誌の上にポンと置きました。両親に何を求めても無駄なような気がしました。A自身も二人に対して具体的に何を求めているのか、わかりませんでした。
 つかえは融けて、まるでヘドロのようにぐちゃぐちゃになり、消えるどころかぐるぐると渦を巻き始めました。抱いていた希望、否、期待が後味をさらに悪くしました。輪郭のない期待をした分だけ重い心持で部屋に戻り、詩集を開きました。
 詩人の言葉は、ぐちゃぐちゃに融けた陰鬱なそれを掬い上げて青藍のインクに変えました。そして、張り裂けんばかりの透明な体液に満ちたAに、ぽたりぽたりと滲んで花のごとく広がってゆきました。一音一音に委ねていると涙が頬を濡らしました。詩を口ずさんでいるときの彼女の涙は、鮮やかに色づいていました。
 テレビの音に紛れて、母親の涙声と父親の低い相槌の声が壁伝いに漏れ聞こえました。


 母親は入浴中。父親は大きないびきをかいて眠っています。静寂とまでは言えませんが、穏やかな一人の時間です。
 Aはダイニングに戻りあの漫画を手に取りました。読めば読むほど自分と重なりました。そして、不安が和らぎ心強くなりました。
(もう一度、母親に直談判しよう。自分が早く元気になって、お父さんとお母さんに安心してもらうためにも)
 お風呂から上がり、着替えを済ませた母親のもとへ行きました。化粧で隠れていた表情がありありと際立ち、話を切り出すのに少し躊躇しました。
「ねぇ、やっぱりちゃんと心療内科で診てもらいたい」
「ええ。もう、何言うてんの? そんな焦らんで慎重に病院探した方がええよ。それに生理が原因かもしれへんから、先にそっち行こ。心療内科とかで変な薬ようけ出されて、親戚の××君みたいに治るもんも治らなくなったら終わりやから」
「でも……」
「大丈夫やって。勉強が上手くいけへんときと重なっただけやって。Aは何事も考え過ぎたり思い込みが激しいから。自分で自分を追い詰めんとき。
 それに、あんな本読むから『うつ』になるねんで。もうあんなんは読みなさんな」
「でも……。うん……」
「A、繊細で優しいところはAのええところやと思うで。でもな、自分で自分を繊細やからとか決めつけて、自分の可能性を狭めたらアカン。アンタにはこの先、大きな未来があるねんから、な」
 Aが放った信号は屈折し、あてどない暗闇に吸い込まれてゆきました。
 母親とは目を合わせず、腑に落ちない表情で自室に戻りました。椅子に座り漫画に目を通しました。小さなコマいっぱいに涙を流すキャラクターが目に留まりました。
 何を言っても訴えても、期待を裏切る言葉ばかり返ってきました。それでもなお、Aは両親に期待してしまうのでした。

一〇、スクールカウンセリング

 五限目の化学の授業を公欠しました。担任の教師を通して、スクールカウンセリングを予約していたからです。
 保健室の隣に、壁と同じ白色のドアがありました。上には白紙の表札が掛かっていました。一見すると何かの準備室か倉庫のようで、多くの生徒や教師たちは素通りしていました。
 ドアを開けると、灯は点いていませんでした。外部から流入した光をほんのり照り返す冷たい床の先に、木製の式台と上がり框がありました。
 ローファーを脱いでそろえ、玄関に上がりました。少々色が落ち、ささくれが見受けられる木製の引き戸を、そっとノックしました。「はあい、どうぞ」と女性の返事が聞こえ、引き戸を開けました。古めかしく懐かしい香りが鼻腔を抜けました。
 日本家屋風の玄関とは打って変わって、カウンセリング室自体は洋間でした。置いてあるものはみなアンティークの調度品で、レースや刺繍を施したカバーが品よくテーブルやソファの背もたれにかけられていました。
 窓際の書き物机から立ち上がった女性が、指先をそろえた手でひらりとソファを指しました。
「こんにちは。どうぞ座って」
 五〇歳前後のおっとりした雰囲気のカウンセラーでした。陽だまりが似合う柔和な笑みと声に、Aは会って早々半分緊張を解きました。
 お互い自己紹介を済ませ、スクールカウンセリングについて軽く説明を受けました。「ここで話したことは全て、学校の先生方にも家族にも伝えたりしないから、安心してお話ししてください」ということでした。
 Aは訥々と、思いつくまま話し始めました。抑圧していた感情と言葉たちが、一気に溢れ出しました。緊張の姿勢が完全に崩れ、支離滅裂ながらも前のめりになって必死に吐き出しました。途中から涙がぼろぼろ止まらなくなったり、言葉を探すために話が途切れて沈黙が生まれるときもありました。相手はAの涙も沈黙も受け容れて、最後まで静かに傾聴しました。
「独りでとてもつらい思いをされていたんですね。大変やったね」
 この言葉に胸に溜まっていたわだかまりが決壊し、涙となって再び勢いよく溢れ出しました。
 ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻したころ、カウンセラーから「すっきりした?」と聞かれて、Aは頷きました。カウンセラーはにっこり笑って「では、Aさんの好きなこと教えてください」と言いました。少しはにかみながら彼女は答えました。
「表現するのが好きで、文芸部で詩を書いてます。絵や写真にも興味があるんです。スマホもカメラ機能がええやつ選んで買ってもらったんです。空や海、花もバシャバシャ撮ってます。
 近所が海でその風景が大好きなんです。特に夕方は『あっ、描きたいっ。表現したい』って景色が多いんです」
 Aは女子高生らしく、無邪気に溌剌と語りました。相手は遮ることなく最後まで彼女の話を微笑みながら頷き、聴いていました。
「私も散歩でよく海辺に行くの。Aさんの言うように本当に美しい景色でね。ぼんやり眺めているだけでも嫌なことを忘れられるわ」
「ほんまそれなんです! ときには美しくて泣きそうになるんです。なんか、こう、色合いとか光とか雲のたなびく様子とか見てると、涙が出るんです。
 ……あと、なんか私、ネガティブな性格もあってか、みんなみたいに楽しくはしゃげなくて。悲観的な音楽や文学に惹かれるんです」
 さっきまで笑顔だったのに、再び目に涙が浮かびました。その様子をからかったり、引いたりすることなく、カウンセラーは優しく言葉を返しました。
「Aさんは、繊細で豊かな感性の持ち主なのね。さっきからお話し聴いててそう感じるわ」
 両親から否定され続けてきた性質を受け容れられて、いっそう涙が溢れました。お礼を言うように目をハンカチで押さえながら頷きました。
 感情が再び落ち着いて、彼女はカウンセラーに対して姿勢を正しました。
 傾いた午後の光が差し込む隠れ家のような小部屋には、夏蜜柑色の時間が流れていました。
 Aは落ち着いた様子で最後の質問をしました。
「私は、心療内科で診てもらったほうがいいんでしょうか」
「そうやねえ……。お医者さんに一度相談したほうがいいと思いますね」
 はぐらかしたりお茶を濁すような態度は微塵もありませんでした。かといって真剣過ぎず、苦しむAを認め穏やかに肯定する様子でした。
「わかりました。母に相談して心療内科に行きます。今日は本当にありがとうございました」
「いえいえ。こちらこそたくさんお話ししてくださってありがとう。とても素敵な内容でした。また今度、予約して来てね」
「はい。ありがとうございます。失礼しました」
 Aは久しく晴れやかな心地で、教室へと帰って行きました。

一一、クリニック

 待合室の白い壁は、目を凝らすとざらついていました。掲示ボードには優しい色合いで統一された光沢のある紙が貼られていました。貼り紙のどの情報も、今のAには他人事でした。
 窓際で頑なに咲き続ける真っ赤なポリエステル繊維の花は、清潔第一の空間によく似合っていました。
 機械によって入れ替えられる空気に薄っすら混じる消毒液の香りが眠気を誘いました。居心地の悪さも鉛色の胸の奥も、眠ってしまえば一時的に忘れられます。目を閉じて翡翠色のソファに背中をあずけました。
「Aさん、診察室へどうぞ」
 Aは母親と産婦人科医が待つ部屋へ案内されました。
 医師の正面にAが、そのとなりに追加された丸椅子に母親が座りました。
 「どうされましたか?」と四〇歳くらいの丸顔の男性医師が穏やかに問いかけました。Aは少し警戒しながらも疲労に満ちた声色で正直に訥々と話しました。
「朝、だるくて起きられないんです。学校に行くのもしんどくて、授業に出席するのもつらいです……。あと、起きたとき、地面はあるのに落ちているような感覚もあります。胸が苦しいです。満員電車や人がたくさんいる教室は苦痛で……」
 一番言いたいことを親の前で医師に伝えてよいのか、ほんの少し迷いました。
「死にたいって気持ちが、ずっとあります」
 冷たい艶を放つ床に目を落としながら呟きました。
 医師はカルテに読めない文字を書き連ねました。
「お母さんから見て、娘さんの様子はいかがですか?」
 母親は真っ直ぐ医師を見て少々早口で話し始めました。
「勉強が大変でしんどそうな感じはするんですけどね。それより生理が原因なんじゃないかなあと。中学生のときから生理前や生理中に、眠気とか気持ちが不安定になってましたから」
 Aは彼女の横顔からでも圧迫感を抱きました。
 自分の主張が薄れていくのが怖くて、助けを求めるように医師を見ました。
 彼はカルテと二人を交互に見ながら質問しました。
「生理痛はありますか?」
「はい。下腹部が痛くて重くなります。あと、普段から頭がボーっとしたり重くなったり。生理中は特に頭痛がひどいです。市販の頭痛薬を飲んで対処しています」
 症状を話すほどAは泣きそうになりました。けれども、母親の前で泣きたくありませんでした。意地になって抵抗しました。医師と母親の狭間で両目に涙を溜め、こぼさないようにAは声を絞り出しました。
「もう、しんどいしつらいです。生きてても、楽しいって思えないんです」
 こぼれ落ちる前に、目にハンカチをあてて拭いました。
「その症状はいつから続いていますか?」
 待ち望んでいた質問に医師を見つめ、用意していた答えを、助けを求めるように言いました。
「前々から悩んでたけど、ここ一、二ヶ月くらいはとてもひどいです」
 横から投げかけられる母親の視線を、ちりちり感じました。
「生理前の症状がひどいから、その薬をもらってから様子見ようと思うんです」
 母親の要望を聞いたあと、医師は静かにカルテを読み返し、黙ってペンを走らせました。
 ほんの一瞬、医師が視線を上げてAと目が合いました。Aは医師からの心療内科へ促す言葉を期待しました。
「生理前の情緒不安を安定させる漢方を二週間分処方します」
 見えざる手が暗闇をさらに積み上げ、伸ばしたAの手から光が遠のいてゆきました。
「効果はあるのですが、副作用がとても強い薬です。腹痛や下痢を起こすので、根気よく飲み続けてください。
 ただ、あまりにつらいようでしたら、また来てください」
 血の気が引くのを感じました。不安と想定外の薬に混乱して、Aは言葉を失いました。
 母親はほっとした様子で返事をしました。
 医師がもう一度、難しげな表情で二人を見ました。そして、粘り気のある悩ましげな声で言いました。
「精神的なところもあるようですが、月経前症候群、通称『PMS』かもしれません。これで様子を見て治らなかったら心療内科を受診してください」
 Aは気の抜けた返事をしながらも、内心は熱が込み上げ、ぐらぐらと揺らいでいました。
 母親がお礼を言うのに続いて彼女もお礼の言葉を口にしました。二、三度軽く頭を下げましたが、医師の顔をあまり見たくありませんでした。
 待合室で母親は、安堵した様子で財布を準備していました。
 名前を呼ばれ、Aは彼女の後について行きました。会計が終わり、受付の人にあいさつを済ませるとAは足早に病院を出ました。
 薬局ではスムーズに受付が進み、ほどなくして漢方薬をどっさり受け取りました。
 駐車場まで歩く間、母親を少し待っては先に進み、微妙な距離を保っていました。車の鍵が開くと後部座席に座り、母親の頭を斜め後ろから見遣りました。発進の準備をしながら母親は清々しい声色で言いました。
「薬もらってよかったやん。原因も分かったし。これでしばらく様子見ましょ。きっと元気になれるわ」
 Aは腑に落ちない表情で返事をしました。バックミラー越しに相手の顔をうかがいました。
「でも、副作用きついんやろ。これでアカンかったら心療内科行くで」
 すっと母親から笑顔が消えました。
 二人きりの車内の空気に亀裂が入りました。そこから濁った苔色が流れ出し、滞留しました。
 ラジオから次々と流れるポップスの軽やかなメロディーは、帰りの車内で空回りしていました。

一二、遮断

 Aは毎朝、目覚めの落下感を青年とともに入水する夢想に描き変えて、恐怖心を誤魔化すようになりました。
 フル稼働する家電の音を裂いて部屋に届いた母親の声に、適当に返事をしました。眠ったはずなのに疲れている体を起こして、怠け者の速度で顔を洗いました。鏡にはA一人しか映っていません。
 テーブルに着くと用意されていた朝食を食べ、漢方薬を手に取りました。
 効果が表れると無理やり信じて今日まで飲み続けてきましたが、それより先に副作用で参ってしまいそうでした。飲み始めて四日目に音を上げて、産婦人科医に相談したいと母親に頼みましたが、まだ一週間も経ってないからもう少し辛抱するようにと言われました。
 心配しながらも、娘に対する苛立ちが混ざった表情を向けられると、それ以上何も言えませんでした。
 飲み始めたばかりのころは、何も変化がなく気分が晴れる兆しも全くありませんでした。けれども、母親から調子はどうかと聞かれると、正直に答えるのが申し訳なくて嘘をついたこともありました。
「そう、よかったね」
 嘘で得られた母親からの笑顔と言葉でも、ほんの一瞬、気が和らぎました。

 一時限目が終わるころに、学校に着きました。裏門から入り、保健室で一休みしました。お手洗いを済ませてから、教室に向かいました。
 現代文の授業が始まりました。題材は、昭和初期に発表された短編小説でした。
「主人公は『自分は、あのときに気づいていればよかった』と気が狂うくらい、激しく後悔したんですね。それから・・・・・・」
 教師の解説はAの頭上を素通りするばかりでした。現に彼女は、文学をじっくり鑑賞する余裕はありませんでした。彼女にとって身になるお話しも、心身に余裕がなければ他人事です。
 漢方薬の副作用がじわじわ効き始め、Aの脇腹と下腹部が活発に動き始めました。腸が不規則な収縮と膨張を繰り返し、硬い椅子に腰かけているのがつらくなってきました。しかし、皆が同じ方向を向いて集中することで成り立っている、教師の声がよく通る空気を破ってまで席を立つ勇気はありませんでした。
 プリーツスカートに包まれた腹のなかが、もったりした芥子色に塗り込められてゆきます。緩慢な振動が徐々に激しさを増し、渦巻き泡をたてます。出口を閉ざして耐えようとする意思に反して、肉体は捻じれ膨れあがる臓物に従い隙間をこじ開けました。
 蒸気が音もなくスカートの奥から立ち昇り、少女の真っ白なセーラー服を汚しました。
 Aは顔を上げられませんでした。今までにない体の変化。制御できない自分の体に戸惑いました。この現象に周囲の同級生が気づかないはずがありません。気づかないふりをしてくれている彼ら、特に真後ろの生徒に対して生じる羞恥と罪悪感で、潰れそうなくらい苦しくなりました。
(本当に私はよくなるんかな? これを乗り越えたら、また普通に授業に出られるんやろか? みんなの迷惑にならず、自分の目標に向かってまた努力できる日が来るんやろか? 早く教室から消えてしまいたい)
 自責の念が胸と頭を行きつ戻りつするなか、涙を堪えて授業が終わるのを待ちました。
 チャイムが鳴り、お手洗いに駆け込みました。声を殺して泣きながら、お腹を抱えて背中を丸めました。個室に五分ほどこもっていると、痛みが治まりお腹の動きも鎮まりました。しかし、まだ背中を丸めていないと吐き気がしました。
 俯いた姿勢で教室に戻ると、ほとんどの生徒が休み時間にもかかわらず席に着いていました。黙々と予習ノートや単語帳と向かい合っていました。先日からセンター対策が始まり、日々の英語の授業に英単語小テストが追加されたばかりでした。
 まだ腹の調子が回復していないAは机の上を片付け、貴重品、一冊の小説、音楽プレーヤーを手提げ鞄に詰めました。「いつもなら体調が悪い」と曖昧で簡潔な文句を残して出て行く彼女でしたが、友人に「お腹が痛いから保健室行ってくるわ」と伝え、逃げるように階段を下りて行きました。
 漢方を服用してから、Aの遅刻早退欠席日数がさらに増えていきました。緩んだ腹を抱えていては、まともに出席することもできません。保健室で過ごす時間も増えました。むしろ、ここで過ごすことに心地よさを覚えるようになりました。
 大好きな陰影と透明な時間に浸っていました。外気にしのぶ梔子の残り香に胸をすくわれました。色素を滴らせる実を結ぶ手前の、しおらしい花だけを摘むように微睡みました。
 義務感で服薬を続けていましたが、日に日に悪化し健康体から遠ざかっていました。漢方薬の苦甘さだけは、ちょっぴり癖になっていました。
 Aの表情は、以前よりいっそう懈怠と憂鬱を帯びていました。加えて感傷癖にもなっていました。しかし、危機感や不安が鳴らす警鐘が、ときおりAを責め立てました。彼女は我に返り、無為に過ごしたために周囲から置いて行かれたことを悔やみました。そうして泣きたくなるのでした。

 結局、この日も耐えきれずに早退して、一五時半ごろに帰宅しました。母親はいませんでした。
 手洗いうがいで、意思に反して熱り汚れた掌と喉を清めました。着替えも済ませて弁当箱の汚れをさっと流して水に浸しました。
 無表情のまま自室の椅子に腰掛け、抽斗からカッターナイフを取り出しました。密閉袋に空気穴を開けるように、前腕の外側に刃を押し当て小さな傷をつけました。思い通りの箇所につけた、思い通りの大きさの傷口から、鮮やかな紅色が蕾のようにふっくらと浮かび上がってきました。時間が経つと紅玉のような瘡蓋に変化しました。好きな箇所に好きなように傷をつけるAの顔に幾筋もの涙が流れ、顎周りの赤ニキビを撫でて落ちてゆきました。
 母親が帰宅する前にお風呂を済ませました。「クーラーで冷えるから」と言って薄手のカーディガンを羽織っていました。
 夕飯の準備の音に聞き耳を立てながら、自室で傷を確認すると一部出血していました。慌てて袖をまくり、洗面所に向かうと台所から出てきた母親と鉢合わせになりました。
「アンタ、血出とおやん。どないしたん」
 娘は母親の前で固まってしまいました。黙り込む娘の様子から彼女は直感すると「自分でやったんか」と問い質しました。
 観念して頷くと、母親の顔がみるみる赤く歪んでいきました。母親の空っぽの手の重みが、娘の頭に直撃しました。
 Aは涙を呑んで顔を上げると「なんでそんなことするんよお。大事に育ててきたのに、何が不満なんよお」と泣きながら再び右手を振り上げ、左手はAを捕らえようと伸びてきました。
 娘の涙はすぐに引いてしまいました。Aは自分の身を守るために、伸びて来た母親の腕を捕らえて押さえ、振り上げられた相手のもう一方の腕を掴み、固く握りました。
 母親が「いっ、痛い……」とか細い鳴き声をあげたので解放しました。母親の顔は歪なしわを走らせ、眼は爛々と鋭い光を娘に向けていました。少し肩で息をしているようでした。
 一人娘は沈黙と冷えきった眼差しを母親に返し、その場を離れました。
「もうやったらアカンで。お母さん悲しいから。ちゃんと消毒しいよ」
「うん。……お母さん、ゴメン」

 後日、Aは母親とともに産婦人科医のもとを訪れました。
 午後の授業を一つ受けて、あとは保健室で過ごした帰りでした。
 Aは前回よりも萎れた声で現状を話しました。
 医師は彼女の腕の傷を見て言いました。
「お母さん、娘さんは大変苦しんでいます。こちらではもう無理です。心療内科に連れて行ってあげてください」
 ようやく自身の判断が正しいと認められ、受け容れられた気がしました。けれども母親は納得できない、受け容れられないというような表情をしていました。
 娘が母親に対して積み重ねてきた不信と感謝の拮抗がようやく揺らぎ、清々しいくらい崩落してゆきました。
 その日の夜は、心も体も疲れているのに目だけは冴えていました。
 真っ暗な部屋で独り起きていると、瞬く間に悪い夢を描き出していきました。
 体の上に何者かが乗っているような息苦しさを感じました。
 外のわずかな光が織り成す陰影が、Aの瞳から生まれた残像と交わり、部屋を縦横無尽に動き回っていました。
「ねえ、ねえってば」
 Aは布団に包まり青年を呼ぶと、涙が溢れました。
 静かに瞼をおろすと温もりに包まれてゆくのを感じました。ゆっくり目を開けると胸元の白いシャツが目に入りました。顔を上げると青年が慈しみ深くAを見つめていました。
 うなじのあたりで整えられた、さらさらの黒い髪。柔和な笑みをたたえた桜色の唇。灰色の瞑想的な眼差し。
 青年の手は、形のいい彼女の頭を滑り撫でると、頬にとまり涙を拭いました。
 彼の腕のなかでAは、初めて自分の輪郭を感じられました。いっそう強く彼の体を抱き締めました。

 六月の雨の日、母親が見つけた思春期の子供専門の心療内科を親子で受診しました。Aと母親が一人ずつ診察室に入り、医師と話をしました。
 軽いうつとパニック障害と診断され、少量の薬を様子を見ながら試していくことになりました。
 その後はAだけが、スクールカウンセリングも受けながら定期的に通院し、その時々のつらい気持ちや出来事を吐露しました。
 初診以来、母親と一緒に訪れることはありませんでした。また医師も診察に保護者を呼ぶこともありませんでした。Aはクリニックから帰ると、医師とのやりとりを一、二言ほど家族に報告しました。

一三、真夏の走馬灯

 車窓から見える海と空に目を細めました。
 Aの頭を埋めていた期末考査の白紙に、清々しい青が染みわたりました。
 この景色は、はた目にはわからないほど微かに彼女の口角を動かしました。
 電車が少し揺れて傾いた頭を青年の肩にあずけました。彼は彼女の黒髪に白い頬を重ねました。
 ガラス窓からなだれこむ光に目を細め、ラムネのようなひと時に微睡みました。
 鼻に掛かった車内アナウンスが駅名を告げると、Aは重い頭を起こしました。減速する車体に少しふらつきながら歩き出しました。
 ドアが開くと、野菜やソーセージが焼け焦げ、肉の脂が滴る臭気が押し寄せてきました。線路の潮流に孤島のように浮かぶ簡素なプラットホームにまで、海岸からの煙が届いていました。視界は薄っすら白みがかっていました。
 改札周辺は若者たちで溢れていました。
 Aは無意識に身構えました。
 明るめの髪色やサークルのTシャツを着た人が多いことから大学生だと察しました。
 日焼けした肌と引き締まった若い体を誇示する半袖短パンの青年たち。笑えば白い歯が見えました。彼らと嬉々とした表情で喋り続ける女子大生たち。バーベキューの服装といえば安全に作業できるジャージ上下を思い浮かべるAには考えられないくらい、お化粧した彼女たちは垢抜けて大人っぽく見えました。また、お洒落を取り入れたアウトドアスタイルの彼女たちはキラキラしていました。
 母音の音がよく響いて、彼らが何の話題で盛りあがっているのかは不明でした。ただ、今が楽しくて、面白くて笑っていることはわかりました。笑い声笑い話、ちらつく白い歯のなかを足早に通り抜けて行きました。
 Aは子供のころから、毎年夏になると現れる大学生たちが苦手でした。
 高校生活すら満足に青春らしく送ることができない今の自分に、大学で上手くやっていける自信がありませんでした。
 大学生。Aは延長線上の自分の姿が想像できませんでした。黒髪を茶髪に染めることが。太陽の下ではしゃぐことが。広大なキャンパスに同世代ばかりが何百人も集い流動している空間にいることが。教室で講義を受けることが。
 今のAは何の講義を受けていいのかわかりませんでした。意志曖昧、自己不明確な状態で着席していいのか。好奇心はあるものの目の前の勉強から逃げ続けている自分に、大学で学ぶ価値はあるのか。「とりあえずみんながそうするから」はAを納得させる理由になりませんでした。
 駅構内の騒がしい日陰と海水浴場兼バーベキュー場と化した夏の海に背を向け、黒い日傘を広げました。
 蝉時雨降り注ぐ帰り道を、黒い海月のごとく影を揺らしながら無心で歩きました。
 自宅の鍵を開け、セーラー服のまま自室の椅子に脱力して腰掛けました。正面の姿見に映る顔は疲れやつれていました。
 蝉の声が頭のなかとそとから響いて頭痛がしました。

なかは記憶
そとは現在
押し寄せる疲労はそこはかとなく淫靡
ひとり
しびれてゆく
真夏の未来は痛いから
絡みあうまま
螺旋をくだる


 小学校の夏休みまで、あと数日の空高く晴れた日。外ではどこにいても、蝉時雨が降り注いでいました。
 幼女の殻を脱いだばかりの少女が、住宅棟の裏庭にやって来ました。邪魔なランドセルと通学鞄は、いったん家に置いて来たようです。大きな如雨露にいっぱい水を溜めると、小さな力瘤をつくって花壇の前まで運びました。修道女風の制服の裾が汚れないように気をつけながら、彼女の背丈より大きな薔薇に水をあげました。
 水やりが終わると静かに草むらに手を伸ばし、螳螂を背後から右手で摘まんで捕獲しました。少女の手のなかで両方の鎌を上げ、足をばたつかせて威嚇しました。その様子を彼女は嬉しそうに眺めました。小さくて硬い上半身とは対照的に、はらわたの詰まった太い腹部を左手の人差し指と親指でそっと挟みました。微かに力をいれると弾力を感じました。量感を確かめるように、そのまま指をお尻の先まで滑らせました。先端までくると親指を放し人差し指の腹をぴとりとのせて、優しくゆっくり撫で上げました。もがく螳螂の円らな翡翠色の眼をじっと見つめました。そして、ぽいっと草むらのなかへ放り投げました。
 少女は裏庭を出て住宅棟の正面へ抜ける小道を通りました。脇に生えた灌木から、かしましい蝉の声が響いていました。
 地面には仰向けに転がった蝉に、茶色い塵のような蟻が群がっていました。かつて噛まれて痒くなった経験から、触らないようにしていた蟻です。蝉は静かに、この蟻の網に包まれていました。蟻が何を運んでいるのかは目に見えませんでした。コンクリートの隙間の巣穴とそれの間を忙しなく行き来しているので、小さな小さな欠片を運んでいるのでしょう。
 気にしなければ何でもない、自然の営み。今までだって見てきたはずなのに、この光景に寒くて暗い穴を覗くような心細さを感じました。
 少女は耐えきれず目を逸らし、灌木にしがみついている蝉を捕まえました。いっそう大きな声で鳴き、振動する硬い体を逃がさないようにしっかりと指先で挟み持ちました。もう片方の人差し指を蝉の胸から腹に沿わせると、微力ながらもツメを引っかけながら、ひしと少女の指にしがみつきました。薄く透明な翅を摘まみ、指先から離すと必死で飛ばんと体ばかり激しく震わせます。シャリシャリと脆い音をたてるのに、その翅はしわ一筋つきません。放った水滴が付着しきらきらと輝いていました。パッと手を開いて解放すると、一瞬ゆらりと落下しすぐさま体勢を整え夏空へ吸い込まれてゆきました。
 蝉の影が見えなくなったあとも、少女は空を眺めていました。
 足元の蝉を交互に見つめ、先ほどの螳螂の瞳と重ねました。蝉の声を呑み込む空の深さ。少女の小さな掌に収まる虫たちをちっぽけだと呟けば、蝉時雨とともに同じ言葉が降りかかりました。
 俯いて長い睫毛を交わすと、脳裏には幼女だったころに何度も連れていかれたお葬式と火葬の記憶が過りました。

 たくさんの花とお菓子が壇上に供えられていました。
 澄んだオルゴールの音色にあわせて、雪洞が金平糖のような淡い光であたりをきらきら照らしながら回っていました。
 棺には、花に囲まれ静かに眠るご老体が横たわっていました。
 その周りで、生きている大人たちはいっそう口をつむぎ涙を流しました。
 誰かは思い出せない大人に抱きかかえられ、幼女は水に浸した小枝でお呪いをかけるように棺を撫でました。鉄の扉が開くと棺は機械仕掛けの冷たい音をたてて向こう側へ吸い込まれてゆきました。
 よく知らない親戚のおばさんに見守られながら、参列したほかの子供たちと火葬場の駐車場で遊んでいると、再び大人たちが扉の前に集まっていました。幼女は仲間外れにされたと思い、人だかりへ連れて行くようせがみました。おばさんに抱えられて、大人たちのところへ連れて行ってもらいました。
 みんな何やら長いお箸を持っています。お箸の使い方を覚えたばかりの幼女は自分にもくれとねだりました。「熱いから危ない」と制する人もいましたが、この世に生を受けた幼女が学ぶための貴重な機会であることを悟った一人のおじさんが、彼女にお箸をわたしました。
 大きな棺は魔法のように跡形もなく消えていました。普段は嗅いだことのない臭いを放っていました。誰の火葬に参列しても、現れた遺骨は同じように白く、ぼろぼろに崩れていました。図鑑で見た『ほね』とは違うことに驚きました。
 目の前の骨。さっきまで横たわっていた誰かの骨は係の人が箸でつつくと雪の塊のように崩れ白い粉が舞い上がりました。
 ただの焦げ臭さとは異なる焼け跡の香り。まだ難しい言葉を知らない幼女に侘しさや儚さを感じさせ、図鑑には載っていない感覚器官を刺激しました。幼女は不思議とその香りを嫌いになれませんでした。真夏の草いきれの裏側は、きっとこんな薫りがするのでしょう。まだ小さくて熱い体は本能的にこの空気を拒み、浅く静かな呼吸を繰り返しました。
 喉仏はのっぺらぼうにしか見えず、ほかの部分の遺骨もいたずらに作った紙粘土細工のようで、係員の解説はよくわかりませんでした。
 初めて足の小指の骨を拾いました。周りの大人たちが穏やかに褒める様子はいつもと違いました。幼女のなかで「あしのこゆびのおこつをひろうことが、あたしのおしごとなんだ」と小っちゃな責任感と使命感が芽生えました。
 それからは、たまたま人の死が重なったのでしょう。幼い子供たちが家族で遊園地へ行く頻度で、祖母に親戚の葬儀へ連れて行かれました。
 両親が共働きだったため、近くに住む父方の祖父母によく預けられていました。ほかに幼女を預かってくれる人はいなかったので、そのたびに祖母に手を引かれて参列し、小さな骨を拾いました。
 仕事から帰ってきた両親に幼女は「お葬式って楽しい」と笑顔で話したことがありました。
 寂しい、悲しいというよりも、普段会えない薄く血の繋がった親戚に会えるのが嬉しかったのです。そして何より、葬儀場と火葬場の光景は幼稚園にはない静かな非日常でした。
 けれども、卒園するころになると今度は、幼女自身が火で体を焼かれて骨になることを怖いと思うようになりました。棺に閉じ込められて、さらにあの分厚い鉄の扉へたった独りで吸い込まれてゆく。そして自分の声は届かず誰の助けも来ないまま炎に包まれる。想像すると涙が止まらなくなりました。
 歯止めが利かなくなった想像力は幼女本人のみならず、大好きな母親にまで及びました。自分を残して天国へ逝く夢をみて眠れなくなったほどです。翌日、夢を思い出して泣き出してしまった幼い娘に母親は「大丈夫、Aがええ子にしとったら、お母さんはアンタを置いて死んだりせえへんから」と言って慰めました。
 また、生きている幼女にとって火は熱くて耐えられない危険な存在でした。だから何度も父親に死んだ人は焼かれて熱くないのかと尋ねました。彼は「死んでいるから熱くないし何も感じひんよ」と娘に説明しました。一瞬納得するものの、すぐにわからなくなりました。何も感じないということが理解できず、信じられなかったからです。
 葬儀に参列する機会がなくなってから、毎年夏の盛りになると目立つ蝉の死体を、じっと見つめては急に怖くなりました。蟻に群がられ、顎で少しずつ解体されようが動きません。枝でつついても、思いっきり蹴飛ばしても同じでした。それは、何度踏みつけてもパリパリと乾いた音をたてるだけで、幼女の蛮行を黙殺しました。蟻がいなくても、頭が取れていたり腹や胸が欠けて空洞になったそれらは黒ずみ、乾いていました。
 なるほど、父親の言うように何も感じないらしい。けれども自分も死んだらそうなるのかと素直に受け容れられるほど、まだ生も死もわからず、その薫りを嗅いだことがある程度でした。幼女の血潮は迸り、汗ばんだ肌は太陽の下で小麦色に輝いていました。
 幼女はある日、女の子が花嫁に憧れて真っ白なドレスを着たいとせがむように両親に泣き縋って「Aがしんだらまいそうして。おねがい。かそうはいやや。やかれたくない」と訴えました。あまりの真剣さに困った両親は、「わかった、わかった。Aが死んだら特別に埋葬にするから大丈夫」となだめました。


 あれから、死に乱された幼女の情操は戻ることはありませんでした。蝉時雨が聞こえると、昆虫の生体死体がいやに視界に映えるようになりました。
 そして一〇歳を迎えた少女の夏はなんだか様子が違いました。
 目を開けて、顔を上げました。眩しさに再び強く目を閉ざしました。それでも視界は赤く透けていました。
 顔を背けて、少しでも暗い空を探して目開けると、雲一つない澄みわたった青が高い松の枝先とコンクリートの壁の狭間に見えました。
 扉の隙間から、底なしの青空が覗いているようでした。ぼんやりと見つめていると天に吸い込まれてゆく心地がしました。

――少女の形を成し、AをAたらしめていた皮膚、肉、骨がどろどろに融解し、暗い小部屋のような蛹に変態しました。二つで一つの光景を映し出していた眼球だけが残り、蛹のなかでちぐはぐな方向を向いて転がっていました。突然、片方の眼球がゴム毬のごとく跳ね上がりました。その勢いは凄まじく天井を突き破ると、自ら光を放ちながら上昇してゆきました。残った片割れは、開いたばかりの穴の真下へころりと移動しました。そして瞳孔を目いっぱい開きました。水晶体で屈折した光は……――

 少女は目が痛くなり、天から視線を逸らしました。その先にはさっきと同じ光景が存在していました。が、言いようのない不気味な違和感が全身に満ちていました。
 我に返った少女はこの場から逃げ去るように駆け出しました。ポケットから鍵を取り出して、大慌てでドアを開けました。
 真っ青な天空も、焼けつく陽射しも届かない家のなかに転がり込み、鍵を掛けました。
 ドアの下部に接合された、角の丸い直方体の新聞受けを視界の隅に置きながら、靴をそろえて脱ぎました。
 これは中央部のつまみを引くと、ギギイっと音をたてて蓋が開き、滑り台のようになって新聞や広告を取り出すことができました。閉めるときはブフォンと、まるで太めの金管楽器に大きな溜息を一気に吹き込んだような音が、ドアの内と外に響きました。また、その蓋には規則正しく整列した穴が開いており、幾通りもの表情を想像させる無表情に見え、物心ついたときから、少女にとって不気味な存在でした。夜になると外の光が新聞受けのなかに入り込み、白目をむいているように見えました。新聞などが入っているときは目を怪我しているように見えました。
 洗面所やお風呂場、台所に行くには、必ずその前を通らなくてはいけません。通るたびに、視界に入るたびに、彼女はそれを見張っていないと不安でした。
 突然動き出して噛みついて来るのではないか。私の知らないところで笑っているのではないか。ドアから剥がれ、不気味な笑みを浮かべながら、ぴょんぴょんと追いかけて来るのではないか。そんな想像が、小さな頭のなかで破裂せんばかりに膨らむのでした。
 急き立てられるように手洗いうがいを済ませ、自室に放置していた通学鞄から体操服と弁当箱を取り出しました。体操服を洗濯籠に適当に投げ入れました。包みをほどいて弁当箱を流しに置きました。
 ランドセルから返ってきたテストを取り出しました。点数が低いものから順番に、ダイニングテーブルの隅に並べました。八八点、九〇点、九五点、一〇〇点。
 ケアレスミスに対しての両親の小言は少女自身、毎回耳が痛いと感じていました。計算ミスで点を落としたテストを並べる際「オマエは何のためにそろばん行っとおねん」と厳しく言い放つ父親の顔が浮かびました。昇順に並べたのは両親からの評価を上げるため、少しでも多く喜んでもらうための、彼女なりの工夫でした。
 小学校の制服から私服に着替えました。どの部屋もすりガラスや遮光カーテン、厚手の生地のカーテンのおかげで光だけを取り込んでいました。ほどよい仄暗さに安らぎ、落ち着きを取り戻しました。
 少女の部屋には物がたくさんありましたが、几帳面な母親の手によって驚くほどきれいに整理収納されていました。ゲーム、おもちゃ、ロザリオ、少女漫画、児童向け小説、昆虫・植物・宇宙・星座図鑑、百科事典、過去の通信教育の教材、少女が自ら望んで始めた習い事の鞄(そろばん、フルート、習字、水泳)などなど。
 手短に宿題と通信教育のドリルを片付け、今日の習い事の準備を始めました。
 ふと目に入った姿見に自分の疲れた顔が映っていました。じっくり見れば見るほど他人のような気がしてきました。さらに別の他人がどこかに映り込み、自分を凝視しているような気がしました。
 この空想は自室にとどまりませんでした。自分がいないリビングや台所、近所に住む祖母が設営した神棚や、数珠やお守りがしまってある和室に誰かがいるような気がして、恐怖と不安が込み上げてきました。特に神棚に祀られている神様の名前が、しかつめらしい字体で書かれた霊験あらたかな数々のお札に対し、少女は幼いころから得体のしれない威圧を感じていました。自分が机に向かっていると、背後から彼らの不気味な影が現れて、自分を監視したり、バチを当てようと画策している気がしました。恐ろしくなった少女は部屋のすべてをこの目で確認し、すべてのドアを閉めて空間を遮断しました。
 自室のドアを閉めて溜息をついたとき、姿見に映る自分と目が合いました。ほかの人は誰も映り込まない空間が、今度は目の前の自分をありありと浮き彫りにしました。一個の人格を有し、訴えかける表情を見つめていると涙が込み上げてきました。
 さっきとは異なる恐怖を感じました。狭い部屋に独りでいることに。自分がここに独りで存在していることに――。
「おかあさん……、おかあさん……」
 泣きながら呼んでも、誰も来るわけありません。今日は母親も夜まで仕事です。
 これからフルート教室に行かなければなりません。譜面台から楽譜を取ると、引っ掛けていたロザリオが揺れました。バスの時刻が迫るのに、なかなか立ち上がれませんでした。
「おかあさん、行きたくないよう。休みたいよう。許してよ」
 鏡のなかの少女は幼女のように泣きじゃくっていました。

 しばらくして徐々に落ち着きを取り戻しました。時計の針が現実味を帯びてきました。瞼の腫れた真っ赤な顔を見て我に返りました。慌てて顔を洗い、鞄をと楽器ケースを引っ掴み、鍵を掛けて走り出しました。
 無人の家のことなど忘れるくらい走って、なんとか時間通りのバスに乗ることができました。

 はた目に映る少女は、手のかからない優等生の一人っ子でした。けれども、両親も本人も知らない出口のない小部屋のなかで、姉妹のいない長女、兄弟のいない末っ子が泣いていました。

一四、分裂

 期末テスト期間のおかげで学校が早く終わった帰り道、Aは車窓から育ち盛りの入道雲を眺めていました。ただ、育ち過ぎた入道雲が崩れ、ゆっくりと嵐に近づくにつれて、彼女の憂鬱と倦怠、不安定感も増してゆきました。
 午後二時過ぎ、雨に遭う前に帰宅しました。
 蒸し暑さに耐えきれず、窓を閉めてクーラーを点けました。水で濡らしたタオルで汗を拭って、セーラー服から部屋着に着替えました。
 明日のテストのために数学の問題集を開きましたが、解答解説を数ページめくっただけですぐに閉じてしまいました。熱った体が冷めてきたのに、目の奥がじんわり痛み始めました。ポーチから頭痛薬を取り出して服用しました。今は何もできそうにありません。Aは自室で昼寝をすることにしました。
 一六時前に目が覚めました。
 のろのろと起き上がると、リビングのとなりにある和室に向かいました。敷居をまたいで隅にある簡素な木製のデスクに腰掛けました。家族共用のノートパソコンを起動しました。
 期末テスト明けに、文芸部から発表する詩の制作に取り掛かりました。
 雨粒が激しく窓を叩き、風と雷鳴が黒雲で捻じれた空で轟いていました。けれども周囲の音は、分厚い水槽の外から聞こえてくるようでした。
 二一時三〇分を過ぎても、納得できる詩は完成しませんでした。
 途中で入浴や食事を挟みましたが、なかなか当てはまる言葉が見つかりませんでした。
 父親がお風呂から上がり、パジャマ姿で寝室に入ってきました。
「もう寝るから切り上げや」
「うん」
 キーボードを叩くAの指先は止まりませんでした。
 昔から彼女は、気持ちや頭をすぐに切り替えるのが苦手でした。優等生だったときは勉強に打ち込むあまり、夕食に遅れることもしばしばありました。
 集中しているときに家族から「御飯できたからおいで」と呼ばれても、手を止められませんでした。反射的に答えるものの、それはノイズを遠ざけ作業を続けるための生返事でした。大抵の場合、母親が定期的に声をかけ「ごはんが冷める」などを理由に呼び戻そうとしました。それでも戻らないときは黙認しました。
「はよ寝な明日起きられへんぞ」
 父親は低く響く声で退去を促しました。
「うん。これ終わったら。電気消してもええから、先に寝とって」
 画面を見ながら独り言のように答えました。
 彼は夕食時から赤かった顔をさらに真っ赤にして声を荒げました。
「何言うとんねん。先寝とってちゃうわ。俺はもう寝たいねん。やるんやったら自分の部屋へパソコン持てってやれや。
 オマエは朝遅くまで寝とってもええかもしれへんけど、俺は明日仕事行かなアカンねん。家族のために。俺が働かなオマエは生活でけへんねんぞ。なあ。誰のおかげで飯食えるんかわかっとんか?」
 突然の激昂に、Aは首と胸を締めつけられているような圧迫感に加え、全身の血が頭に上り目頭が熱くなりました。つかえた喉から降伏するような声で謝りました。
「ゴメンナサイ」
「続けるんやったら自分の部屋にパソコン持って行ってやれや。せやけどオマエ明日、朝はよう起きれるんか?」
「起きるよ」
「ほんまにオマエ、明日ちゃんと起きろよ。オマエが起きひんから、オマエのせいでお母さんはしんどい思いしとぉねんぞ。これ以上お母さんに迷惑かけんなや。もっとお母さんのこと労われや」
「ゴメンナサイ」
「原稿書いてもええけど、俺は起こさへんからな。明日ちゃんと起きろよ」
 そう言い残すと、のそのそと布団に入りました。
 Aはデータを保存し、分厚くて重いノートパソコン、マウス、電源コードを抱えて自室に運びました。
酔っぱらうと人が変わる父親は、幼いときから彼女にとって不可解で、知らず知らずのうちに神経を遣う存在でした。
 沸点で頭打ちした怒りが急激にマイナス方向に転換しました。
 諦めと失望。罪悪感。「私のせいで――」
 胸の痛みは広がっているのに、どこが痛いのかわからなくなりました。先ほどの映像と母親のようすが血液のように巡り、苛み、痛みを増長させました。
 自分の存在が迷惑以外の何物でもない――。
 胸中で煮えくり返る苦痛は、出口を探していました。失敗作同然の娘、不出来な自分の存在を罰したくて、消してしまいたくて仕方ありませんでした。
 抽斗の奥からカッターナイフを取り出し手首にあてました。
 気持ち悪くなりました。赤紫と青紫と筋が詰まったそこは、硬くもあり柔らかくもあり、どっちつかずの感触で敬遠しました。それに万が一、動かなくなってしまったときのことを考えると別の不安が過りました。
 前腕の内側にあてました。白くてさらさらとした肌触り。この肌は例外で好ましく感じられ、傷つけるのは気が引けました。
 前腕の外側は内側に比べ血色が良く、毛穴も目立っていました。先日の傷もケロイド化している最中で、だいぶ塞がっていました。
 Aは力なく握ったカッターナイフの刃を、左前腕外側、肘の少し下にあてました。冷たくてちくりとした刺激をきっかけに、涙がとめどなく溢れ出しました。
 最初は力を込めるというよりも、手首の重みに任せ、中指に向かって振り抜きました。動かした割には短くて浅い傷が浮かびました。彼女は何度も何度も刃を走らせました。方向や力加減も出鱈目で、傷つければ傷つけるほど泣きじゃくり、胸の痛みが鎮まってゆくのを感じました。傷口は涙で溶いた艶やかな紅色を滲ませました。
手を止め、ティッシュでこぼれそうな血を拭き取りました。表面が乾くまで放置しました。疲れやつれて、すぐに立ち上がれそうにありませんでした。
 すると、裂いた箇所から小さな硝子の翅がきらきらと清水のごとく湧き出しました。澄明で細やかな音を奏でながら、蜻蛉のごとく傷口から舞い上がり、Aの焦点を失った視線の先に集合しました。それらは一定時間、空気に触れると液状化して、水飴のようになりながら何者かを形成し始めました。
 枯れて虚ろなAの視界に無色透明な等身大のシルエットが佇んでいました。それは目鼻口のないつるりとした顔をしていました。抜け殻のAを見据えると、承知したと言わんばかりに頷きました。そしてガラス戸を透過して四階のベランダから嵐のなかへ飛び出しました。
 着地の際に破裂するも、すぐに再形成して走り出しました。顔の口あたりがぱっくりと開いて声なき声を叫び散らしながら、駅前の海岸公園に向かって坂を駆け降りて行きました。
 海岸に着いても走り続けました。海岸のはずれにある桟橋に向かいました。荒れ狂う黒い波のなか、黒々と沖まで伸びた桟橋は雨と海水で水浸しでした。透明な彼女は直線上を最高速度で駆け抜けました。
 桟橋先端の柵の手前一メートル。
 ピシャリと軽快に跳ね上がり、柵の上に足を掛けるや再び踏みしめ高く、高く飛びました。

いたずらに鳴り阻む風
前途を埋め尽くす暗雲
海を穿ち続ける雨滴
稲光の亀裂
つかの間の終末

 ほんの一瞬、透明な少女は重力から解き放たれました。そして真っ逆さまに黒い波の手中に吸い込まれ、静かで冷ややかな深海へと消えてゆきました。

 Aは原稿を投げ出し、目を瞑っていました。浅く見える傷も、重なれば深く刻まれてしまいます。
 紅々と乱れ走る傷口の反射光は、流れ落ちる幾筋もの星に似ていました。

一五、逆夢

 起きると宣言しながらも泣き腫らした瞼は重く、なかなか目を開けられませんでした。今日こそは起きなければならないことは、本人が一番よくわかっていましたが体が動きません。力を込めて動かそうとしても、中学生のときには考えられないくらいののろさに自己嫌悪感が募りました。その結果、さらに思考と動きが遅くなるという悪循環に陥りました。
 父親は娘の部屋を素通りして、顔を洗い始めました。
 部屋の前から母親が「A、はよ起きよ」と呼びかけました。
 肘で体を支えながらむっくりと上体を起こしましたが、頭が重くてしばらく立ち上がれませんでした
 七時四〇分。
 セーラー服で玄関に立った時刻は、逆算してぎりぎり一時間目に間に合うかどうかの瀬戸際でした。
 同時に母親は、出勤前に掃除を始めなければならない時刻でした。
 先に降りた母親は、車のエンジンを吹かせながら待っていました。
 Aは目の前の見えざる抵抗と闘いながら靴を履きドアを押し開け、一歩一歩流れに逆らうように車の横まで進みました。
 重いドアを引くと「何しとん。はよ降りてきいな。もう行かなアカン時間やろ」と苛立ちの言葉とぶつかりました。
 車を走らせても彼女の怒りは収まりません。運転しながらまくし立てました。
「お母さんアンタのせいで時間ないねん。考えたらわかるやろ。アンタが降りてこおへんからお母さんの時間が減るねん」
 急加速して揺れる車体に、Aの鼓動が早まるのに加え、罪悪感が膨れ上がり息が詰まりました。
「あぁ、信号引っ掛かったわ。ここで降りて走り。そのほうが早いわ」
 早く母親から離れたいが、学校にも行きたくない狭間で動けずにいました。
「何しとん。はよ降りい」
 バックミラーからはね返った剣幕が直接Aに刺さりました。思わずひるみ、脱兎のごとく車から飛び出しました。さっきまで全身に抵抗を感じ、深海の水圧を背負っているような重さが嘘のように、駆け出しました。母親から逃げ出すように加速するうちに、学校や勉強、うるさい言葉が剥がれ落ちてゆきました。

改札の電子音はゴーサイン
止まらなければ、このまま逃げ切れる
体が軽くなった今がチャンス!
『二番線を電車が通過します。危険ですので、黄色い線の内側までお下がりください』
階段を駆け降りて、サイレンと迫る轟音をかき分ける
黄色い線を踏みしめ、跳んだ
 (昨夜の傷口から生まれた彼女のように)
硝子のなかの顔と目が合った
紅く弾けた
白く砕けた
その刹那、透明な沈黙
呼吸、嚥下、消化、吸収、生命維持のためにとり込まれていた栄養素が、蓄えられては消費してきた育ち盛りの臓物
 ――薄皮や粘膜が破れ露呈した赤黒い細胞の綿から、
   青玉の断片が覗いていた
硬い骨
 ――何かを成し遂げるまで少女を支え、
   人たらしめていたはずの骨も、車輪の下で木端微塵
 ――太陽の下で白々とあぶられている骨片の先端は水晶

 破れたセーラー服はAの色に見事に染まり、風に揺れていました。
 線路に現れたAの水溜りは雨上がりのごとく、てらてらと夏の陽射しを反射していました。

「――どれがAの涙だろう」
 果てしなく広がる桔梗の大海原に青年は座っていました。側面と蓋の縁にゴシック様式の草花や幾何学模様の浅浮き彫りを施した、黒々と艶を放つ棺に背中をあずけていました。彼は耳を澄ませ目を瞑って、待ち続けていました。瞼の奥の視線の先には小高い丘がありました。大きな白銀の満月がこれ以上昇ることも沈むこともなく、丘陵の頂点に接し静止していました。
 棺のなかはすでに彼が掻き集めた白い桔梗で満たされていました。
 なかから瑞々しい花々が無抵抗にへしゃげる音が聞こえました。
 亡骸を納めて重くなったあとも、青年はむやみに空気に触れることをいとい、蓋を開けませんでした。
 彼は立ち上がると眼差しを棺へと落とし、鏡のようにつるりとした蓋に添えた左掌を滑らせました。
 桔梗色に染まった空気を深く吸い込むと、なかの亡骸に語りかけました。
「被害者は誰なのだろうか。きっと今は誰もが被害者なんだよ。受け容れられなかった理解者さえ被害者になってしまうのだから。
 君は被害者の最果ての一歩手前まで来ていたんだよ。その前に追いついて良かった。君自身が君の被害者になるところだったから。
 加害者は同時に何かしらの被害者だ。真犯人を探したって、円環のなか終着点を求めて走り続けるようなものだよ。
 真犯人。法を犯したものや外道のことで済む話ならよかったけれど、君は別の道に外れたものをとらえているね。目には映らなくても透明な神経が震えている。僕もその副産物だ。
 もう少しの辛抱だよって言っても『少し』は『いつか』に限りなく近いから、意味が移り変わるまでさらに時間が必要だ。
 その日まで大切な君が、不快な空気に焼かれぬように。
 傷が癒えぬうちに傷つくあまり、君が再生を拒む日を遠ざけるために――。

すでに、その目に映る世界は永遠の世紀末
花が枯れないのは、すでに死んでいるから
空が静かなのは、はじめから生きていないから
星が闇を埋め尽くしているのは、みんな死んでいるから
生きているのは、死んだあとだから
九十九折りの夢路をひとつひとつ目覚めてゆけば
ひとつ解けてひと雫
ふたつ解けてふた雫
みっつ、よっつと解くたびに水晶体が磨かれてゆく
おびえていた神経が蕾を宿す
開花とともに殻は破られ、流星が君を貫く
絶筆の白紙のごとく取り残された僕は、銀色の輪舞に鋏をいれるときを待つ

 重なる痛みと降り積もる恐怖から逃れられないなら――」
 青年は棺の蓋を持ち上げました。純白のセーラー服と濃紺のプリーツスカートが似つかわしい、無傷のAが白い桔梗に包まれて眠っていました。
 眠る彼女の両腕を痛めてしまわぬように、そっと脈の色が透けた手首を掴み、彼女の頭の上に置きました。襟元のボタンを外し、リボンをほどきました。脇腹のファスナーを上げ、丁寧にセーラー服をめくりました。
 白い胸が露わになりました。彼は指先で彼女の鎖骨の中央に触れると、上から下、左から右に這わせ、胸元に十字を切りました。
 四分割された肌がめくれ開くと、青い心臓が収まっていました。少女の胸のなかは、星の潰えた宇宙のように真っ暗でした。心臓は唯一の惑星のように浮かび、深海に佇む珊瑚のごとく無数の血管を広げていました。今にも停止してしまいそうなほど、か弱い鼓動を打つたびに、この世のすべての青を閉じ込めた万華鏡のごとく濃淡が小波立ち、青玉色の血をそこここから噴き出していました。
 青年は眉を顰めました。手近に咲いていた桔梗を一輪手折ると、心臓に供えました。そして、指先を先程とは逆の方向に這わせ、少女の胸を閉ざしました。
 脇腹のファスナーを下ろし、胸のボタンも留めました。襟や裾を丁寧に整えました。最後にリボンも綺麗に結びました。両腕を胸に重ね戻すと、彼はAの頬を優しく撫でました。
 そして、Aを抱きかかえて桔梗の野に横たえました。
 彼女の胸より少し高いところで花は揺れていました。離れたところから見れば、誰も彼女を見つけられないでしょう。
 安らかな眠りについたばかりのAを起こすのは気が引けるのか、彼は形のいい彼女の頭を優しく撫でました。

血の色に青が浸透してゆく日々は
希望の意味を裏返した
絶望の意味が覆った
風景はそのままに
死に対して、憧憬と畏敬の混在を抱え神経だけが爛々と冴えわたり、麻痺してようやく安息することを繰り返していた
こぼれんばかりの純白の桔梗
手首に浮かびあがる静脈色の花畑
花で埋め尽くされた箱で死者と生者を分け隔てるのだとしたら、桔梗が際限なく広がるここは、どこまでも死の幻想が広がっている

 青年に応えるように、Aの頬と唇は瑞々しい桜色を取り戻しました。
 そして固く交わした睫毛がほどけ、ゆっくりと瞼が開きました。
 瞳に映した青年の微笑みに、言いようのない熱と和やかさがAの胸を満たしました。
 青年は目覚めたばかりのAを、強く抱き締めました。
 出口を求めながらも閉ざし燻っていた数々の見えない傷口が、弾け溢れて情緒の収拾がつかなくなりました。
 Aは左手で黒髪の先を握り締めました。唇が震え、右手の親指の爪を噛みました(この癖が見つかると、母親からよく『せっかく矯正したったのに、噛んだらアカン』とよく注意されていました)。
 青年は軽々と彼女を抱きかかえると、棺の縁に腰を下ろしました。
 右手でAの肩を抱き寄せました。左手で彼女の、口元で丸めた手指を包み、自身の胸元へ引き寄せました。髪の毛を握り締めていた手から力が抜けて、Aは熟した微睡みに身を委ねました。
 そして、青年は爪よりも硬い歯を包んだ、指先よりもずっと柔らかくて温かな唇を重ねました――。

 生気の欠けた瞳は、色彩が反転した朝の海原を、網膜に映写していました。
 一番線に到着した電車に駆け込んだAは、吊り輪に手を引っ掛けて揺られていました。
 一時限目にはもう、間に合いそうにありませんでした。

一六、Aの所在

 家と保健室、たまに授業を行き来する日々は、体をすり抜けてゆくように過ぎてゆきました。
 A自身も、日増しに自分の境界線が希釈してゆくのを感じていました。所在なさ気に視界を映す瞳には、過去と幻想が混在していました。現実に戻ると自己不要感に苛まれました。
 毎日夜は明けているはずなのに、Aの朝は決まって陰鬱でした。
 今朝目が覚めたときには両親はすでに家を出たようで、部屋の外からは物音一つしませんでした。
 高く昇りつつある太陽の光は、塞ぎ込んだ彼女にとって眩し過ぎました。ハレーションめいた視界が、Aのなかに差し込みました。眼球の奥が痛みました。
(今日はもう学校を休んでしまおう)
 これ以上何も考えられませんでした。過ぎゆく時間に沈殿することしかできませんでした。寝返り一つすら、思い通りにいかない遠隔操作のようでした。
 横になっているのがつらくなってきたので、ようやく起きようという気になりました。深い呼吸を意識しながら洗顔、朝食、歯磨き、着替え、布団干しを、一つ一つゆっくり片付けました。
 重い頭と体をリビングの椅子にあずけて一息つきました。
 ダイニングテーブルに放置された朝刊の見出しが、視界の隅に入りました。Aはやおら手を伸ばして、それを畳み直しました。天気予報が視界に入るようにして、元の位置に戻しました。ほとんどの地域が、お日様マークで埋まっていました。
 Aはリビングの掛け時計を見遣りました。
 音もなく滑るように周回する金色の秒針は、刻むというよりは流れてゆくようでした。
 こうしている間にも授業はどんどん進み、教師とクラスメイトとの距離はどんどん離れていきます。
 強い焦りと不安から目を背けて思考が止まったAの瞳には、リビングの白い壁が映っていました。
 ぼんやり眺めていると、壁が徐々に透けてゆきました。
 透けた壁の向こう側で、セーラー服の少女が為す術なく負の方向へ流されてゆくのが見えました。流れに逆らうように、前方だけを必死に捉えようとする少女の眼光に引きずり込まれそうになったので、Aは正の方向へ振り返りました。
 荒野が広がっていました。
 高い青空には太陽の代わりに、巨大な掛け時計が宙に貼り付いていました。
 遠くに天井のない箱庭のような教室が、ぽつねんとありました。なかには、狭い教室に整然と詰め込まれたクラスメイトの姿が目に入りました。
 さらにその向こうに目を遣ると、坂道が続いていました。それは成長を続ける一体の生き物のように、勾配を少しずつ強めていました。道の両側は、根腐れした木々や草花で埋め尽くされていました。
 坂の頂上に、またしてもセーラー服の少女が立っていました。立っているといっても、酷く不自然な格好をしていました。降参するように、両手を肩の高さまで上げていました。風もないのに黒髪は上へと捻じれ伸びていました。坂の上の少女は自力で立っているのではありませんでした。根なし草が背後で複雑に絡み合い、彼女を磔にするように巻きついていました。彼女の瞼が開き、平地に立っているAと目が合いました。また磁石のように引き寄せられそうになりました。
 正と負の両端にいる少女に引っ張られ、中間点にいるAは張りつめたピアノ線のごとく静止していました。
 息が苦しくなってきました。
 灼熱の時計に照らされ、空っぽの頭が溶けるように歪んだ瞬間、はっと目が覚めました。視界がリビングに切り替わっても動けませんでした。自宅にいるのに自分が誰なのか、なぜここににいるのか、よくわからない心境になりました。
 現在時刻を確認しようと、掛け時計を見遣りました。
 時間はAに流れ込んでは満たし、流れ出てゆきます。ただ流れるだけの時間に部屋の時計は存在意義を失いました。
 木製の円環のなか、すっきりしたデザインの数字が描かれているクリーム色の文字盤が、熱せられたチーズのように融け出しました。螺子が抜け落ち、黒く尖った短長針もろとも呑み込みました。金色の秒針だけは残り、回り続けていました。壁に穴が開いているのか、時計のなかに異空間が広がっているのか、融けた部分は減少してゆきました。ついにカバーガラスで隔てられた掛け時計のなかに、暗闇が現れました。眼球が落ちた眼窩のようで不気味でしたが、それよりも電池まで融けてなくなった状態で、金の針は何を原動力に回り続けているのか不思議でした。
 それはかつて、理科の授業で顕微鏡越しに感じた、微生物たちの脈拍や蠕動運動に似た小波を醸し出していました。
 かつて、保健室から眺めた陽光を透かしながら風に泡立つ若葉の音と重なりました。
 金の針の向こうに広がる色はAの瞳と同じ色でした。

静寂のなかで回る回る=Aのなかで廻る廻る
細胞がささやき、神経が芽吹く
透明な歯車が噛み合い熱を生む
霧は晴れ、光は潮のごとく身を引き、ありのままの世界が浮かび上がる

 過度な色彩を滅し、あとは少女の瞳が慣れて深奥をとらえるのを待つだけでした。

 ガチャガチャ、ガチャン。
 鍵が回る音がしました。玄関のドアが開いて、近所に住む父方の祖母が入って来ました。
「よいしょっと。ん?
 A、あんた家おるんかいな?」
 母親が午前中出勤の日は、父方の祖母が我が家へ掃除をしに訪れていました。そのため、母親はシフト表のコピーを、毎月義母にわたしていました。
 高齢者でも開閉できる金属性のドアの中身は空洞で、開閉するたびに音がよく響きました。祖母の腕力とそよ風だけで、ドアは勢いよく閉まりました。重く歪んだシンバルをかち合わせたような音が、Aの鼓膜を震わせました。我に返り、思わず目をぎゅっと瞑ってしまいました。
 再び開けたときには、壁時計は規則正しく時間を刻んでいました。時刻は一〇時一〇分を少し回ったところで、長針と短針のバランスが崩れ始めていました。
 祖母は和室に直行すると、持って来た菓子袋と林檎二つを神棚に供えました。榊を新しいものに替えました。続いて両手に水玉を持って台所と和室を往復しました。最後に蝋燭を灯しました。礼をして柏手を打ち、古代の日本語でお決まりの文章を唱えました。
 和室から戻るとガタガタと騒がしい音をたて、はたきと掃除機を納戸から運び出して、掃除を始めました。機械のように手を動かしながら、蛇口が壊れ溢れた水のように喋り出しました。
「あんたあ、ちゃんと学校行きよんの? ええ? 今日も休んどん? なんでや? しんどいんか? ちゃんとどっか病院行きよん?」
 始めの一音と後半にかけて語気が強くなる、祖母特有の話し方が、Aは大の苦手でした。語尾を叩きつけるような喋り方は、思春期真っ只中の彼女の癇に障りました。
「しんどい、学校帰りにお母さんが探してくれた心療内科に行ってる」と目の奥の鈍痛を堪えながら詰問に答えました。
 目を上げ、祖母の顔色をうかがいました。エゴを覆い隠した心配そうな表情と大きな目で、孫娘をじっと見つめていました。
 小学生のときに、写真で見た若かりし日の祖母をAは思い出しました。花々に囲まれて、柵に手を添えて寄りかかり微笑む様子は可憐な乙女そのものでした。昨年の夏に亡くなった祖父は当時の祖母に一目惚れして結婚したとか。
 今、Aの目の前にいる祖母の色素の薄い目だけは、やけに光って見えました。目線を逸らしましたが、しわのはいった顔やへの字の口角、しぼんだ唇の隙間が目に付きました。
 祖母は黙っているものの、思っていることは言外の気となり漂っていました。
 Aは大人たちから発せられる、この気を恐れていました。実態のない、たかが気のはずなのに、彼女の神経は反応し強ばってしまうのでした。
 大人をを困らせてはいけない、手を煩わせてはいけないと思うことに疲れた結果が今のAなのに、いざ「助けて」と声にできない声で叫んでも、彼らとの距離は縮まりませんした。言葉より先に涙が出そうになり、A自ら押し黙ってしまうのでした。
(頑張らなアカンのに、頑張られへん私がアカンのや。
 努力でけへん私が弱いんや。
 私が、私が頑張らなアカンのに、なんででけへんの?)
 結果、彼女を前にした大人はどうすればよいのか見当がつかず、当人だけが傷つく答えにいき着くのでした。
 祖母が喋りながら掃除機のスイッチを入れました。いくつかの話が掃除機の騒音をくぐり、Aの耳に入りました。
 白みがかった脳内が、轟音のかすれた黒と灰色でふつふつと塗り潰されてゆきました。
 さっきから聞こえてくる祖母の世間話は、以前から何度も聞いた覚えのある話でした。
「Bさんとこの息子さん、○○大学合格してんて。○○大学って国立やろ? すごい賢いわ……。
 Cちゃんは、あれやん。障害があるから、小学校でもじっとできへんし、家でもソファの上乗って跳ねたりしとおわ……。
 ▲▲に住んどおDは娘のEちゃんが私立の大学行くからお金かかるって嘆いてはったわ……。
 ●●町のF、あれは勉強嫌いやから、わけわからん専門学校行くらしいわ……」
 Aのよく知らない祖母の隣人たちの子供や孫の名前。幼いころに遊んだ記憶のある同い年くらいの親戚たち。それぞれの私生活、学校生活、進学先。聞こえてきた話の人物は自分よりも遠くにいて存在があやふやでした。けれども、各々の進学先とそれに対する祖母の反応は、毎回はっきりとAの頭に刻まれました。
 掃除機の音が止んでも、頭のなかは渦巻いていました。
 Aのぐったりとした様子を見た祖母は、自分の孫娘が、これ以上理想の孫から遠ざかるのを防ぐために喝を入れました。
「あんたあ、しっかりしいや。お母さんに苦労かけてまた癌が再発したらどないすんの? 
 G君とこの子の××みたいに『うつ』になってもたら、人生どないしょうもあらへんで。
 おばあさんはな、子供のころは足が速いから駆けっこはいつも後ろのほうから走らされとったわ。それでも何クソの気持ちで走って一番取っとったわ。あんたも何クソの気持ちで頑張らなアカンで」
 Aは返事代わりに口を開けず「うう」と声を漏らしました。祖母はテーブルに両手をつき下唇を噛みながら孫娘を見下ろしました。Aは彼女に相槌を打つ気力すら残っていませんでした。苛立たしげに光る目を囲む、しわだらけの顔と、丸くなった肩から発せられるピリピリとした沈黙。これだけで十分、Aの神経は参ってしまいました。
 エゴで粘っこくなった口調に加え、哀切の殻を被った高慢が、祖母の声を高く掠れさせました。溜息も混ぜ合わせながら言葉を続けました。
「せやから、おばあさんは受験生のとき言うたんやで。高校は無理せんと一つ下のとこ受けって。
 向かいの棟に住んではるおじさん、知っとおやろ。元々◎◎高校の先生やった人で、昔教え子が大学受験失敗して発狂してもたんや。ここまで押し掛けて来て、ドアを何度も叩いて『お前のせいで落ちたんやあ』って喚き散らして怖かったわ。
 あのとき、おばあさんは思たんや。上の学校は頭ええ子ばっかりで競争が激しい。そこで最下位になるより、下の学校でトップ取るほうがええって。
 A、世のなかな、上のほう見たらきりないねんから下見て生きな。
 それに女の子やねんから、そんな必死こいて勉強せんでええって」
 頭が重く痺れてきました。
 祖母は神棚への参拝と掃除をしにAの家にやって来るたびに、このような話をしました。
 掃除機を片付けた祖母は、Aがテーブルの隅に置いた朝刊を広げました。
「あんたあ、学校行かへんのやったら新聞読んで賢うしとき。新聞読んだらぼけへんさかい」
 新聞の一面に大きく書かれた表題が、Aの目に飛び込こんできました。

『「誰でもよかった、死刑になりたかった」
 死者四人、重傷一人、犯人とは面識なし』

 Aはこの記事に対して無感情を保つよう努めました。
「殺された人ら、ほんま可哀相やし家族は気の毒やわ。こんな奴に殺されて……。
死にたいんやったら一人で勝手に死んだらええねん。人に迷惑掛けるんが一番アカンわ。こんな奴、とっとと死刑にしてまえ」
 祖母が吐き出した感想に閉口しました。
 ぺら、ぺら、ぺらとゆっくり紙面をめくりながら、大きな独り言をこぼしました。
「ほんま、世の中狂てもとお。あたしらはもう死んでいく身やさかい別にええけど、今の若い人らは大変やわ」
 読者投稿欄には優等生らしい文章が掲載されていました。祖母はAの目の前に新聞を置くと、指でつつきました。「ここ読んでみい。あんたくらいの子がええこと書いとおで」と勧めました。「うん、あとで読む」と俯いて返事をしました。
 新聞を読み終えた祖母は「ほな、あんた。しっかりしいよ」と言い残して、Aの家を出て行きました。

 日の光がリビングの床に差していましたが、Aのもとには届きません。陰が勝る陰影は彼女の白い肌をいっそう青白く際立たせました。
 色白は嬉しい反面、外に出ればひ弱さが表立ってしまいます。この肌が役に立つことなどごく限られているし、すぐに使い物にならなくなることをAは理解していました。しかし彼女はこの肌にしがみついていました。今の自分の取り柄とアイデンティティはこれしかないと思い込んでいました。
 時計を見ると、時刻以外変化はありません。
 一一時一三分。学校では物理の授業が始まったばかりです。
 高校一年生のとき、物理の教師から「学生時代にベクトルを知ってから身の回りに矢印がたくさん見えるようになった」という話を聞いて、興味を持つようになりました。問題を解くのに苦労しましたが、現象を図に書き表したり、矢印を書き加えていく過程が好きでした。テストや過去問はわからないけどなんだか好き。時間はかかるけどわかりたい、という気持ちは数学と同じでした。
しかし今年の春に、数学の授業中にノートをとる手が動かなくなると、続いて物理の授業でも同じようなことが起こり、やがて出席できなくなりました。
 思うように授業についていけないので、友人のノートを借りて持ち帰ってはコピーさせてもらっていました。友人のノートはとてもきれいにまとめられていました。結局コピーを読み返すこともなくなりました。
 テストも眠る時間のほうが多く、授業もほとんど出席しないAにノートを貸すことは、決していい気がしないでしょう。友人から「テスト中、目の前で寝るんやめて」と言われたこともありました。
 甘えている――。
 誰も言葉にしませんでしたが、そう捉えられて当然でした。Aは教師や両親、同級生の優しさに隠れた、自身を見る目の妙な冷たさを勝手に感じては、勝手に傷ついていました。腫物は自ら知らぬうちに腫れ上がるくせに、誰も触れなくなると瘡蓋のように黙り孤立してゆきました。

 独りきりになった家のなかでは、時間が長く感じられました。瞼も支えきれなくなり目を閉じました。体も思うように支えられず、背もたれに寄りかかりながらも、左右どちらかに傾いては振り子のように元に戻しました。
 そんなAを青年は背後から優しく包み込みました。彼女と同じ白い腕。温もりよりも抱き締められて明瞭になる輪郭に、二人は互いの存在を強め合いました。
 彼は腫れた傷口から膿を吸い出すように、彼女の耳、頬、首筋にくちづけをしました。
 瞼の裏一面に、桔梗の丘が現れました。
 Aは、丘陵のてっぺんに静止する白銀の満月と対峙していました。
 青紫色の地平線と薄紫色の空が混ざり合い、満月の中央で渦を巻き始めました。中心の黒点が徐々に大きくなり、点から穴に、穴から混沌に、混沌が広がりAの目の前は無になりました。もう、目を開けているのか閉じているのかもわかりません。
 呑み込まれて消えてゆく恐怖を感じました。消失願望はあるはずなのに、目の前の無を拒絶しました。全神経が逆毛立ち恐怖に耐えきれなくなりました。
「ねえ、私、怖い……」
 今にも砕け散りそうな体を青年がひしと抱きとめました。
 これ以上もう何も感じたくないのに、この恐怖は消えません。それどころか、幼いころ芽生えた感受性に拍車をかけました。
 視界に流星のような一筋の光が走りました。必死に目を凝らすと、光の筋がぱっくり開きました。宇宙に浮かぶ太陽ほどの大きさの眼が現れ、Aをぎろぎろと見つめ続けていました――。

 はっと目が覚めました。
 Aは上映終了後のスクリーンのように、余韻だけ残した白い頭で時計を見遣ると昼時を指していました。
 秒針を目で追っても何も起こりません。ただぼんやりと見つめていると、文字盤の裏に目のない視線を感じ寒気がしました。
 Aは自分自身を抱き締めるように、両手で両方の二の腕を抱きました。頭にふと言葉が浮かび、唱えました。同時に胸がすうっと凪いでゆきました。それは、あの視線から自分を守るための呪文でした。
「大丈夫。Aはもう死んでいるから……」
 RRRRRRR。
 突然電話が鳴ったので、体がびくりと跳ねました。椅子から立ち上がり、固定電話に近づいて、受話器を取りました。
「もしもし」
「お母さんに言うといたって。テレビの一〇チャン見いって。癌に効くレシピやっとぉわ」
 祖母の声でした。
「うん、わかった」と適当に返事をすると、ガチャンと切られてしまいました。
 それから二〇分ほど経ったころです。
 RRRRRRR。
「はい」
「四チャンで家事のことやっとぉやろ。勉強せぇへんのやったら家のことしてお母さんのことらくにしたりぃ」
 ガチャン。
 返事をする間もなく切られてしまいました。
Aはリビングに置いてあるクッションを一つ持って自室に戻り、勉強机の上で突っ伏しました。うつらうつらし始めたころです。
 RRRRRRR。
 彼女は電話を取るために、重い体を起こして立ち上がりました。

一七、視線

『……●●県▲▲市のビルの解体作業中、壁の一部が歩道に倒れ、通りかかった女子中学生が下敷きになり、死亡しました。警察は解体業者の作業方法に問題がなかったか調査するとともに……。
 ……◆◆県■■町の道路でトラックが乗用車に衝突する事故が発生しました。五〇代のトラック運転手は重傷、乗用車に乗っていた親子のうち三〇歳の母親と六歳の長男が死亡、一一歳の長女が病院に搬送されましたが……。
 ……続いて、関西の交通情報です。
 今朝六時三〇分ごろ、JW×××線▼▼駅を快速電車が通過しようとしたところ、ホームから線路内に男性が侵入しました。運転手が急ブレーキをかけましたが、間に合わず男性は死亡しました。このため……』

 ラジオから淡々と発信される情報が、いちどきにAの空っぽの胸に流れ込み張り裂けんばかりに満たしました。鼓動が妙に早打ち、浅い呼吸を繰り返しました。
 昨日、丸一日学校を休んでしまった罪悪感から早く布団から出られたものの、体調は優れませんでした。
 父親がまだ家を出る前だったため、祖父が生前愛用していたラジオがニュースを発信し続けていました。
「はあ? 勘弁してくれよ。なんで朝に飛び込むねん。バス乗ってH線まで行かなアカンやん。
 ほんま、死ぬんやったら一人で死ねよ。ほかの人間巻き込むな。しかも通勤と被ったから賠償金えらい金額なるんちゃう? 家族が払わされるねんで。ほんま家族が可哀相やわ」
 父親の発言はいつも、娘にとって我がことのように聞こえました。この話題にもラジオのノイズにも、耳を塞ぎたくなりました。しかし、彼は交通情報を確認するために耳を傾けているようで、止めていいかと尋ねるのもはばかられました。
「はよ準備して学校行きよ。行ってきます」
 玄関から聞こえた父親の声が、重い影が伸びるようにAの耳に残りました。ガチャリとドアが閉まり、それを雑に断ち切りました。
 ラジオは天気予報に変わっていましたが、不快な音に変わりはありませんでした。
 空いた皿を母親が忙しなく片付けました。テーブルにAのお皿がぽつぽつ並んでいました。
 お味噌汁から飲むのが通例なのに、白ご飯から先に食べてしまいました。数回噛むとお米は口のなかで唾液と混ざり、べちゃべちゃになりました。不快感を消したくて、温め直したお味噌汁を流し込みました。

 S線の◇駅まで母親に車で送ってもらい、振替運行を利用して地下鉄に乗り換えました。学校の最寄り駅に着くころには、日は高く昇っていました。地上に出て外の空気に触れると、Aは水のなかに生きているような心地がしました。
 生きとし生けるものは皆、水底に沈むビー玉なのに、自分だけがソーダ味の飴玉になって、しゅわしゅわと溶け続けている心地でした。
 水が水槽を満たすように、光と大気のほかにAの視界を満たすものがありました。
 ――視線です。
 物陰、緑陰、ネガにちらちらと光が走りました。夏なのに背中に冷たい汗が流れました。
 Aは視線の源泉を曝かんと、空を見上げてじっと目を凝らしました。

 亡くなった女子中学生と親子、男性を、あの日、あの時、あの場所に誘った張本人を
 そしてこれからも順番に死に場所、死に時に呼び寄せ、仕留めようとする真犯人を
 メディアで取り上げられる事件や事故だけではありません
 病気も、寿命も、死につながるものみなすべて
 あの存在は視線の網を張り巡らせ青空の裏に広がる彼方から淡々と銛を突く
 目をつけられたら逃げられない――
(あっ、今光った。こっち見た)

 Aは急に生きていることが、この空の下に存在していることが怖くなりました。
 晴天下に研ぎ澄まされた神経が、微かな透明な波動を感知しました。
 いよいよ怖ろしくなりました。天を仰ぎ青を見つめ続けていると、姿なき大きな大きな眼球と目が合いました。視線どころか、天からなみなみと注がれ続ける存在感に息が詰まりそうでした。
(今度は私が、殺される)
 根拠を示せと言われれば、できませんでした。ただ、予感が全身を支配していました。
 日傘を差して早足で坂の上の校舎を目指しました。頭のなかは、あの存在からいかに身を守るか。この恐怖をいかに自分のなかから追い出すかを考えることでいっぱいでした。
(生きているから死ぬ……生きているから怖くなる……生きていなければ……死んでいれば? ……そう、死んでいれば……私は死んでいる……すでに死んでいる……大丈夫、死んでいるから怖くない……殺されたとしても、最初から死んでいる……なぜ? ……私はとおに殺された? ……もう、順番は終わった……ううん、端から要らないんだよ……たとえ不規則な不運が回って来たとしても死んでいれば怖くない……死んでいれば感じない……ほら、死んでいれば説明がつく……ううん、端から要らないんだよ……何の……ワタシ自身の? ……漠然とした……曖昧な……茫洋な……とにかく、私は死んでいるから大丈夫……何言ってんの、さっさと死ねよ……大丈夫……私、生きてるの? ……もっぺん死ねよ、要らねえんだよ……Aはもう死んでいるんだ……だから、おやすみ……私は死んだ? ……殺された? ……いつの間にか、殺されていたの? ……殺されてるのに、どうして生きているの? ……)

 学校に着くころには、Aの神経は摩り減り瞳は焦点を失っていました。
 滅裂な思考は譫言となって、彼女自身の口からぶつぶつと漏れていました。
「Aはとっくに死んでるんだよ……Aは要らないんだよ……もう死んでいるんだ……とっとと死ねよ……死に損ない……殺された? ……大丈夫……ちゃんと殺されたから……私の番は終わったから……大丈夫……死んで……A、さっさと死ねよ……」

一八、亡羊

 期末考査の結果が出てから数日が経過しました。そして今度は保護者と担任の先生の二者面談週間が始まりました。
 以前にも増してAは、席に着いて授業を受けることが苦痛になりました。箱のような教室に押し込まれ授業に出席すると、閉じ込められているような不安と恐怖が込み上げてきました。
 また、そんな一人の女子高生を見つめる大人たちの生温かく濁った眼差しも不快でした。
 図書室にいたAは、面談が終わるころを見計らって、母親との待ち合わせ場所である北校舎入口の小さなロビーに向かいました。
 外から差し込む夕暮れの光と屋内の陰が混ざり合い、ロビーは紅朽葉の色味を帯びていました。ぼんやり立っていると、自分の輪郭がぼやけているのか燃えているのか、わからなくなりました。椅子に腰かけ背もたれに体をあずけました。引くことのない眠気に吸い込まれそうになりましたが、人の足音が聞こえてきたので、我慢して沈んだばかりの体を起こし、立ち上がりました。
 担任の教師と母親は談笑しながら廊下の角を曲がってやって来ました。Aに気づくと話を切り上げました。薄闇のなかでとらえた大人二人の表情は、どんな感情であれ晴れない雲のように重く見えました。目と口元の笑みは、繊細な神経を逆撫ですることなく、大人に対する信頼を回復させるための手段のように映りました。Aは内心また一つ、二人から遠ざかりました。
「では先生、今日はありがとうございました。娘をよろしくお願いします」
「いえいえ。こちらこそ来てくださって、ありがとうございました」
 去り際に教師はAに言葉をかけました。
「xxx大学くらいならいけるからね」
 この言葉で安心できる女子高生なら、今頃みんなと同じように青春と冠するにふさわしいくらいの笑顔で、学校生活を送れていたことでしょう。
 教師からの助言に、彼女は尻込みしてしまいました。大学と名前のつくところすべてに抵抗がありました。入試のことを考えた途端、酢の物を丸呑みしたような不快感が喉の奥に広がりました。
「センターは受けたくないです。勉強も、もう……」
 Aは少し顔を歪めて首を横に振りました。
「xxx大学くらい」の響きがどうしても耳から離れませんでした。さらにそれは、脳内を黒々と塗りつぶしてゆきました。神経を伝って滴る言葉は胸に届くと刺すような痛みに変わり、真っ赤な繊維で編みあげられた彼女の心臓を締めつけました。
「そう……。ご両親と話し合って、じっくり考えてね」
「……はい」
「では、今日はお忙しいところありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそありがとうございました。先生、娘をどうぞよろしくお願いします」
 教師も母親も、最後は明るい雰囲気で締めるように、晴れやかな声と笑顔でお辞儀をしました。つられてAも頭を下げました。

 学校近くの駐車場から乗車したので、人混みに紛れることはありませんでした。
 親が運転する車の乗り心地がよいのは、責任を負わずに遠くまで前進できるからなのでしょう。
 車のラジオからマイナーキーを含んだ悲し気なロックが流れ始めました。それはAの琴線に触れ、パーソナリティの楽曲紹介を聞き逃すまいと耳を傾けていました。歌声は孤独な歌詞に乗って悲しい響きを増してゆきました。転調して激しさが加わると悲しみは衝動を帯び、彼女は少し泣きたい気持ちに駆られました。
 バックミラー越しに運転する母親の顔は、黄昏時の道に注意深く目を凝らしていました。
 再び音楽に耳を傾けると、最後の歌詞を歌い終え、終盤のメロディを奏でていました。潮が引くように静かになりましたが、潮の香りが漂うように理由のないもの悲しさが広がりました。余韻に浸りつつも次の話題に興味が向くほんの数秒の間をおいて、紹介された楽曲とバンドの名前を、Aはスマートフォンのメモに打ち込みました。
 次に流れた音楽には全くそそられなかったので、彼女は目を瞑りました。
 シートに身をあずけ、考えたくないことは道路に置き去りにしました。けれども、不透明で混濁した未来図はいくら切り離しても、音楽が響かなくなった頭のなかに広がりました。
 高速道路ではシートベルトと物理で習ったような気がする、ある力のせいで、胸を押しピンで貫かれたように動けませんでした。虚脱感と胸を詰まらせる不安の混在を無言で受け容れることしかできませんでした。心療内科から処方された薬も、診察も、カウンセリングも、彼女を刺し貫くそれを抜き取ることはできませんでした。
 等間隔に直立する電灯や、すれ違う車は瞬く間に後方へと過ぎ去り、視界から追い出されてゆきました。焦点をほどくようにぼんやりと目を開けてとらえなおすと、薄紫色に蜂蜜を溶いた夏の夕焼けが映りました。
 運転席から話し掛ける母親の声までも消散し、Aの鼓膜に届くころには、蜻蛉の羽音になっていました。
 目を開けたまま夕闇に溺れるうちに自宅に到着しました。車のドアを開けると、夜の空気を先取りしたような、仄かに冷めた水蒸気が流れ込んできました。日はさらに沈み、夕闇の濃さを増していました。
 母親は夕食の支度をするために、足早に階段へと歩き出しました。目覚めきれないAはあっという間に外気に包み込まれて影法師と化してしまいました。
 剥がれ落ちた青空が残照と反応し、家路につく人々が醸す哀愁に似つかわしい色で空を染めあげていました。
 空の底に佇むAは自身もその色に染まりたくて、大きく深く息を吸いました。そして、一つ二つ泡を吐き出すと、足を与えられて間もないような違和感を押し殺して、母親の影を追いかけました。

 夕食の最中、母娘の間に流れる重い空気を、テレビの音が無遠慮に蹴散らしていました。
 父親は二本目の缶チューハイを開けて、真剣な表情で野球中継を観ていました。突然声をあげて喜んだり、手を叩いたり、選手を罵倒したりしました。そのたびにAの鼓膜は波打ち、体が縮こまりました。
 酔っ払った父親の様子は、Aが幼いころから変わりありません。
 素面のときの父親は、ひょうきんながらも厳格な一面を併せ持つ人でした。そして何より、責任感が強く仕事熱心でした。ただ、父親の「俺が家族を養っている」という意識の強さは、家族に対して裏目に表れることもありました。
 Aは父親に対し疑問と反感を抱き、反発したこともありました。けれども、いつも同じ一言でねじ伏せられてしまうのでした。また、ニートやひきこもりのニュースを目にするたびに「働かざる者、食うべからずやろ」と言い切る父親を見てきたAは、最近特に、親に対する反抗心と居候させてもらっている意識の板挟みになりました。
 現在も学校に通わせてもらっているし、小学生のころはたくさん習い事をさせてもらったAは、何も生産できない守られた身だと感じていました。本分である勉強や習い事で成果を出し優等生でいることは、この家庭においての免罪符でした。
 まだ学校に通えていたものの、もう優等生ではなかった高一の冬、戸外の冷気と夜の静けさが心地よくてベランダでぼんやり星座を結んでいると、眉間にしわを寄せた母親が「風邪ひくから入りなさい」と声を荒げたことがありました。その剣幕に気圧されてすぐに部屋に戻りました。続けて「アンタが風邪ひいたらお母さんが面倒みなアカンねんで。パートも家のこともあるのに。これ以上、仕事増やさんとって」と言い放ちました。このときAは「ここでは安心して病気になれないな」と思いました。
(自分がいなければ、母親に面倒をかけなくて済んだのに)
 自分にかけられてきた時間と労力、費用があまりにも不釣り合いで、両親に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
(私なんか、生まれてこなければよかった)
 ちらちらと舞う羽虫のように、幼いころからAの内的視界を遮っていた消失願望や存在意義に対する疑問は、神経がいっそう細やかに外へと伸びてゆく年頃になると、古いモノクロ映画によく見られる白黒の傷や欠片ようにこびりつきました。そして、外的世界と内的世界を隔てる被膜はすでに綻び、破られようとしていました。
 Aはふとした拍子に、訳もなく自分を咎めました。そのたびに「免罪符をなくしても家に置いてくださる両親に感謝しなければ」と言い聞かせました。
 虐待で命を落とす子供。貧困を理由に進学を諦める子供。学費を稼ぐためにアルバイトに明け暮れながらも勉強に励む子供。家に居場所がなくて道を外れる子供。夜の街に足を踏み入れる子供たちがいるなかで、この両親のもとに生まれた幸せを痛いくらい噛みしめました。
 陽光の下で芽生えればその根元に濃い影が伸びるように、反抗心や嫌悪感を抱けば幸福な家族像が差し込み、Aの繊細な良心を搔き乱すのでした。
「先生いわく、この調子やと出席日数が足りなくなるって」
 母親が口火を切りましたが、Aは「うん」と唸りに近い返事をしました。
「もう勉強はええから。進学先もAの好きにしたらええから。とにかく学校行って進級して」
 娘はぶっきらぼうに「うん、行くよ」と返事をしました。
 父親は相変わらず食い入るようにテレビを観ていました。箸の動きも、お酒を飲むペースも変わりませんでした。少し神妙な顔つきをしていたようですが、Aの目にはもう入りませんでした。それきり進路の話は終わってしまいました。
 その後は両親の不満話が始まりました。
 実家、病気、身辺整理、葬儀、兄弟関係、老人の医療費、社会保障の負担、ハラスメント、解決策を考えられない上司と部下、職場の人間関係、残業、仕事に対する価値観の相違。
 話を聞いて……。いや違うねん……。私はそう思わへん……。俺はこう思う……。なんでそれができひんねん……。お前ら何考えとんねん、生きている間に……。
 ありがたいことに、口に運ぶ料理は温かく美味しかったので、お茶碗の白いご飯がなくなるまで食べ続けました。食欲が満たされる幸せとありがたみに意識を向けました。そして逃げるように食器を片付け、流しに置くと万遍なく水をかけて簡単に洗い流しました。どの皿もある程度白くなると自室に入りドアを閉めました。
 帰り際の教師の言葉を思い出すと、腹が立ちました。xxx大学は名門私立大学で、全国から受験生が集まるほどです。「くらい」なんてつけられないほど、彼女にとっては大きな存在でした。同時に、一浪してでも国公立大学を目指す生徒が多い進学校ゆえに、Aには現役で私立大学へ進むのは、望む結果を勝ち取れなかった生徒の進路にも映りました。進学校内に漂うそのような空気を敏感に察していたのか、単なるプライドだけは人一倍のAの妄想なのか、どちらにしろ狭い視野から生まれた、非常につまらない葛藤でした。
 両親の感情的な声は遮られることなく、彼女の部屋にまで聞こえてきました。
 夕食中にしばしば起こる両親の口論の主な原因は、別にAのことではありません。実家や職場の人間関係、仕事、政治についてです。しかし、輪郭と境界線が薄れ剥き出しになった神経を抱えるAは、知らず知らずのうちに傷ついていました。
 カッターナイフを手に取り、デッサン用の鉛筆を削り始めました。描きたい情景が浮かび、小さなノートにラフを描き残しました。それは、他人には何が描いてあるのかさっぱりわかりませんでした。
(どっちにしろ大学やんな。今から勉強しても、画塾行ってもアカン気いしかせえへん。美術系の高校に行っとお子とは、もう差がついとおし。
 学校の授業も課題もいっぱいいっぱいやのにデッサン対策とか、もうどないしたらええの?)
 溜息をついて、彼女はスケッチブックをぱらぱらめくりました。
「こっちがいくら一生懸命、改善策を提案しても突き返してくる。『なんでアカンのか具体的に教えてください』って食い下がったら『アホか。そんなん自分で考えろ。それが仕事やろ』って怒鳴り散らす。ほんまあんな上司やってられへんわ」
 父親のがなり声が壁越し、ドア越しに聞こえてきました。
 Aは再びカッターナイフへ手を伸ばしました。
 手が届く前に、青年がそっと彼女の手を握りました。そして、胸に彼女の頭を寄せて額にキスをしました。
 この世界を満たし、Aに浸透する水溶液から守るように、彼女を抱いて包み込みました。大粒の雫が、Aの頬をはらりはらりと伝いました。

一九、一人娘

(外の世界で輪郭線を失うくらいなら、生温かい蛹のなかで、このままずっと彼と溶けていたい――)
 Aの願いを黙殺して、今日も太陽は昇りました。
 枕に頭を押しつけて、深く寝床に沈み込み抵抗しました。
 父親は彼女の部屋の敷居の前で「朝やぞ、もう起きよ」と言うと、そのままトイレに向かいました。以前のように、部屋に入って触って起こすことはなくなりましたが、Aの様子は変わりません。
 父親がトイレのドアを閉める音が聞こえたあと、ゆっくりと時間をかけて布団から起き上がり、椅子で体を支えながら立ち上がりました。
 少なめの朝食を食べ終え、処方されたドグマチール錠を飲んだところで、電池が切れたように動けなくなりました。寝間着姿のまま座ってぼんやりしていました。
 支度を終えた父親が家を出ました。
 母親がバタバタと後片付けをしながら「ほら、着替えて学校行ってよ」と急かしました。
 Aは目の前にいる母親が、だんだんと面識の全くない赤の他人のような気がしてきました。
 前々から、自分以外の他人の存在を硝子一枚通して眺めているような違和感はありました。血のつながった家族にも、違和感を抱く瞬間が幼いころからありました。
 生きている体に内包している願望が、彼女の目に映る世界を大きく歪めていました。Aと世界を隔てる硝子の原料の一部はきっと、数多の普通に生活している人に対する嫉妬なのでしょう。
 今なら、親の庇護のもとで抱えていた本音を相手にぶつけることで、それを割れるような気がしました。
「お母さん、私、死にたい」
 母親の目が大きく見開かれ、頬や口元が強ばりました。声には雑音と甲高さの両方が混じっていました。
「そんなこと言わんといて。そんなこと言われたら、お母さんとても悲しい……。なんでそんな死にたいとか言うんよ」
「……死んだらすべて許される」
「許されへん」
 間髪入れずに言い切られました。跳ね返すような母親の対応にまた一つ信頼が欠け落ちました。
 Aは、罪悪感と希死念慮の詳細を今すぐ言葉で説明することができませんでした。
 目の前に存在する女性に彼女は問いました。
「お母さんは、死にたいって思ったことある?」
 母親は目に涙を浮かべ声を震わせながら、がなりました。
「あるよ。お母さんやって……。お母さんやって……。子供のとき何遍も思たわ。死にたかったわ」
 自身の過去のトラウマから手塩にかけて育てた実の娘がこのような願望を抱くことが、実の母親として許せなかったのでしょう。母親の決壊した過去と怒りが一人娘に雪崩れ込みました。
 自ら硝子を叩き割っておきながら、抵抗できず全感覚器官が母親の感情を受信し、すぐにAはフリーズしてしまいした。目を母親から背け、顔は俯き、口を閉ざしました。手足の力は抜けて動けません。
 母親は話を続けました。
「お母さんはきっと職場で嫌われとお。誰も間違ってるって言われへんことを私が代わりに言うから、うるさいなあって煙たがれとおわ。それでも仕事行かなアカンねん。働かなアカンねん。Aもお母さんのこと嫌いなんやろ。嫌いやってわかっとおから」
 実の親の哀訴によって娘の涙腺は塞がれてしまいした。出口を失くした感情を腹の底へ沈めました。娘は押し黙ったままでした。答えられませんでした。どちらの答えも嘘になってしまうからです。
 母親は椅子にもたれ掛かったAに歩み寄り膝を立てて床に座りました。力なく垂れた娘の両腕をぐっと掴みました。娘は払いのけたくなるのを堪えました。Aの目線より低い位置に、悲愴を滲ませた顔がありました。涙を浮かべ声も震えているのに、視線を娘ではなく左下あたりに落として、途切れ途切れに漏らしました。
「お母さんはただな、前みたいに元気に学校行ってほしいねん。前みたいに笑顔のAに戻ってほしい。それだけやねん。
普通に学校行って、普通に勉強して、普通に彼氏つくって……。そんな普通の高校生活を送ってほしいだけやねん。でも、お母さん、これ以上どうしたらええかわからへん……。
 お母さんの気持ち、わかってくれる?」
 腕にしがみつく熱に耐えられず、傷つけないようにゆっくり母親の手を払いました。
「私やってわからへんよ」
 母親は娘と目を合わせましたが、今度は娘が右下あたりに視線を落としました。沈黙のなか母親は娘の手を握りました。逃げるように娘はその手をほどきました。
「Aはお母さんに、自分の苦しみをわかってほしいから、自分で自分を傷つけるん?」
 娘は母親の問いに答えませんでした。エゴ的憐憫を孕んだ甲高い声が汚らわしくて、これ以上聞きたくありませんでした。
「もうええから。勝手に学校行くから。お母さんもはよ準備して仕事行って」
 Aは母親を無表情でねめつけましたが、腹の底が湧き上がりそうになったので、ふいと顔を背けました。
 母親は言われるままに立ち上がり、後ろ髪を引かれながら支度を始めました。ほどなくして家を出ました。
 一度、娘の様子をリビングと台所を仕切る薄い暖簾越しに伺いましたが、表情はわかりませんでした。
家にAだけが残りました。泣きたい気持ちが泣きたくない意地に覆われ、人形のような表情をしていました。
(あの女の同類にだけは絶対になりたくない)
 二の腕に残る熱が気色悪くて、自分で二の腕を抱き揉みほぐしました。思いのほか冷めていて、自分の掌のほうが熱く感じられました。
 独りなのに居心地が悪く、立ち去りたいのに立ち上がれませんでした。
 時計を見れば、二時間後に祖母が来ます。
 背もたれに寄り掛かっていた上体を支えなおすために腕を前に伸ばしました。青年が両手を取り引き寄せると、Aは軽々と立ち上がれました。
「着替えよっか。セーラー服に」
 彼に促されるままAはセーラー服に袖を通しました。
 大人へと近づきつつある少女にこそ、セーラー服はよく似合います。破れる寸前の青さを包む白い生地。これは蛹を守る最後の鎧でもありました。まだ未熟にも関わらず、あと一年半もすれば剥ぎとられてしまう少女の鎧。
 剥き出しの蛹のなかには、彼女が拾い集めた透き通った欠片――誰もいない午後の坂道、祈りを捧げる歌、聖母像、白百合の横顔、瑠璃色のステンドグラス、深海の映像、幼いころに溺れかけた浅瀬、浜辺、陽射しに透ける貝殻、鮮やかな緑色の水草、打ち上げられた海月の死骸、打ち捨てられた魚の腹、散らばる鱗、水槽、翻る金魚の鰭、銀色の折り紙、図鑑のなかで輝く鉱物、瑞々しい木々草花々、水飴のごとき露、雨、蛞蝓の軌跡、頭上に張り巡らされた蜘蛛の巣、足元の石粒に含まれる硝石、しおれゆく一輪のバラ、一滴の水に潜む繊細な小宇宙、空を割らんばかりの蝉時雨と雷(毎年殻をつき破るのです。生まれたての季節だから、露光のあまり焦点がもっとも揺らめいているのです)、夏空を昇るシルエット、舞い上がる灰、骨の欠片、白煙、指先に抗う昆虫たちの鈎針のような手足、太陽に照り映える翅、蝶が描く不規則な軌道、黄昏にはためく蝙蝠、蛾の目指す方向、月光、一等星、曝け出した咆哮、夜色の瞳、刹那に色めき吹き抜ける風(色の名を思い出す前にかえってゆく。本物の少年の瞳なら、鮮明にとらえられたであろうに)、そして腐った林檎(果実そのものではないのです。大切なのは、現象の真犯人の存在、そいつが何よりも透明で恐ろしい)――が溶け、貴腐していました。
 Aの内奥で融化し満ち満ちる情想を再び言葉にしようとすればするほど、涙となり瞳から溢れこぼれ落ちました。
 彼女はまだ、蛹のなかで何者でもありませんでした。

二〇、審判

 Aはうら悲しさの陰で、理由なくセーラー服姿が似つかわしい今を玩味していました。
 しかし、教室に入ると、制服は彼女を繋ぎとめる拘束衣の一面を強めました。
 クラスメイトは、ネーム入りジャージ、パーカー、Tシャツ、セーラー、カッターシャツと個々に好きな格好で、黒板の数式をカリカリと写していました。
 授業は黙々と進みます。教師は黒板の端から端を何度も行き来しました。Aはすでに、教師のチョークを走らせるスピードと理解が追いついていませんでした。彼女の手は教室に入ったときから力尽きていました。シャープペンすら握れませんでした。我慢して出席してもこの調子でした。
 やがて、体を支えていた腕が、徐々に折りたたまれていきました。倒れないように重心を後ろに移動させました。上半身は背もたれなしでは支えきれなくなりました。せめて目だけでも黒板をとらえ続けようとする努力のおかげで、後ろに倒れることはありませんでした。しかし頭は重く前に傾き、首を支えきれなくなりました。「せめて起きていなければ」と粘りましたが、徐々に上体から全身へと脱力し、ゆっくり、ゆっくり机に倒れていきました。
 教師の手は加速度的に速くなっていきました。分速xメートルを超えたころ、わかるようなわからないようなというほんの微かな希望が途絶え、黒板の文字やら数式やらは錬金術の呪文と化しました。
 教師が呪文を唱える一方、シャープペンシルの芯が磨り減る音が徐々に大きくなりました。前途を知ってか知らずか、青虫が一心不乱に葉を齧る音と重なりました。
 この二重奏に加われないAは、疎外感と罪の意識に苛みながら、俎板の鯉のごとく机に上体を横たえました。突っ伏した彼女の体は完全に黙殺され授業は先へ先へ、クラスメイトは未来へ未来へ進んでいきました。
 各座席から黒板へと、生徒の意識が流れる教室の空気に変化が起こりました。
 Aの首を左右から挟むように、不穏な空気が二手に分かれて流れ込み、渦をつくり始めました。それぞれの中心に瞳孔のような穴が開き、二本の冷たい鉄製の柱が現れました。天井の高さまで伸びると、内側に一本ずつレールのような溝が入りました。天井から斜め四五度にカットされた大きな刃が、つうっと生えきて柱の隙間に収まりました。
 同じように天井から二枚の銀色の掲示板が現れ、柱の高いところで止まりました。
 『罪状Ⅰ』と書かれた掲示板には、Aの成績表が転載してありました。
 『罪状Ⅱ』の掲示板は、一面銀色で教室の様子を反射していました。
 ――刃が落下しました。Aの頭が机から落下しました。
 さらに教室に充満していた二重奏が二重螺旋を紡ぎ、丈夫な銀糸に変化するとプリーツロングスカートのなかの血の気のない両太腿、腰、両二の腕に巻きつきました。頭を失くした躰は簡単に糸で吊り上げられてしまいました。両端の見つからない、どこから伸びているのか、誰が手繰っているのかもわからない糸がピンと張りつめました。ほんの一瞬、不味そうなハムをこしらえ、粘土遊びのようにバラバラになりました。 麻痺を通り越して無感覚になった神経のせいで、気持ち悪いくらい痛みはありませんでした。遅れて鮮血が弾けました。そして、頭のあとを追うようにバラバラと落下しました。
 蟻地獄から空が見えるように、教室は落下するAの真上に存在していました。
 ぺたんこのスカート、くの字に曲がった両腕、血に染まった白いセーラー服。散ってゆく躰を、はぐれた頭から他人事のように眺めていました。もう手を伸ばしても届かない、伸ばす腕すらないなかで、不気味な心地よさをどこかで感じていました。
 光へと生い茂る若葉のように伸びる生きた感受性は、Aの内側から窮屈な肉体を破らんばかりでした。外側からは肉体を通って浸透するありとあらゆる毒が、彼女を生殺しにしていました。
 ずれが生じた心と体を繋ぎ留めるものはありませんでした。
 加速する自己の分離を止めることは、ついにできませんでした。

 もし、ワタシがここにいなければ――。
 Aが自ら問わなければ――。
 繋ぎ留めることができる誰かが近くにいれば――。
 AはAのままで、卒業できていたのかもしれません。

二一、邂逅

 チャイムが鳴りました。
 はっと目を覚ましたAは、号令に従って立ち上がりました。付け焼刃に継ぎ接いだような不気味な体感がつきまとっていました。ぎこちない礼のあと、落下と浮遊の混在する心地に気が触れてしまいそうでした。到底、次の授業を受けられる気分ではありませんでした。
 自分自身の気味悪さをどうにかしたくて、教室でじっと座っていられませんでした。Aの焦点の合わない瞳に、奇妙な光が宿っていました。
(外へ、早く外へ行かな)
 机の上に一言メモを残して教室を出ました。
 よろける体を手すりで支えながら、外階段を一段一段上りました。
『お前、何で生きてんの?』
「お前、何で生きてんの?」
『とっとと死ねよ。要らねえんだよ』
「とっとと死ねよ。要らねえんだよ」
 Aは何者かに体を乗っ取られたかのように、意図しない言葉が頭に浮かぶと同時に小声で唱えていました。
 踏みしめるたびに足に掛かる体の重さが、ひどく煩わしく感じられました。
『殺したのに、どうして生きてんの?』
「殺したのに、どうして生きてんの?」
 最上階から中庭を一望できました。曇り空のおかげで日傘は必要ありませんでした。
『なあ、早く死ねよ。死に損ないが』
「なあ、早く死ねよ。死に損ないが」
 Aは階段の手すりに足を掛けました。
「うん。わかっとおから――」
 残った力を全て込めて跳び越えました。

宙を駆け、刹那の静止
分裂
一人は曇天へ逆自由落下
雲を突き抜け青空へ放たれました
眩しさに耐えきれず目を閉じました
赤い瞼の裏が夕闇から暗闇に変わるころ、再び目を開けました
藍色の大気圏
それでもまだ止まりません
星が見える
見えるのに、近づいているのにどれも届かない
掴めない光ばかり
――希望も所詮、ただの光
振り返れば、どの星が太陽なのかもわかりません
星屑のなかに、ただ一つ手が届きそうな物体を見つけました
ほのかに発光するそれは、赤子でした
へその緒が首に絡みついた状態で浮かんでいました
いのちの管は宇宙の墓場まで繋がっているようです
全身に悪寒が走りました
少女は消失願望を抱きながらも、体は拒絶していました
赤子が、差し出すように片足を伸ばしました
掴むと少女の体は静止しました
強く握れば、ぷにぷにたぷたぷたらしめる体液が弾け散ってしまいそうでした
顔を覗くと、天使のように笑っていました
突然、気味の悪いあのふわりとした感覚に襲われました
へその緒がピンと張るやいなや赤子の首に食い込んで、小さな頭はあっけなく千切れてしまいました
――二人共々自由落下
星屑との距離感は変わらないまま、宇宙から遠のいてゆきました
大気圏に突入すると赤子だけは炎に包まれ、あっという間に燃え尽きてしまいました
少女だけは重力から逃れられず、加速度的に落ちてゆきます
――流星の墜落
体の表面は空気抵抗を一心に受けているのに、心臓だけが上昇しているような、惨たらしい浮遊感
この感じはよく知っているはずなのに、耐えきれず気を失いそうでした
地平線が見える
地上が見える
校舎が見える
中庭が見える
Aが見える
刹那の永劫
双子は一人っ子に戻った
少女が落下する
少女が砕ける
鮮鋭なる思色
少女散華
『こんなに綺麗に咲けたのだもの、みんな赦してくれるよね』

 Aは手すりを握ったまま、踊り場に座り込んでいました。
 眩暈を堪え、呼吸が落ち着くのを待ちました。
 外階段の最上階から校舎内に入りました。階段を降りて保健室のある二階に辿り着きました。アルコール消毒液の香りに包まれて、少しばかり頭が冴えました。
 迷わず彼女は灯の消えたベッド室のソファに腰かけました。
 正面の窓からは灰色と黒色が波打ち、遮られながらも漂着した陽光が、銀色に立ち込めていました。風がそよ吹けば瞑想的な緑色を放つ木々の葉が、深閑と騒ぐ空気の底を泡立てました。
 彼女は脳裏で静かに発狂していました。
 ――広がる視界の裏側
 ――掻き鳴らす視線
 ――葉が揺れるたびに隙間でちらついている
 風が強くなってきました。
 西の空は黒ずみ、音の届かぬ雷鳴が頭蓋骨に浸透してきました。
 頭痛の予感です。
 目を抉る片頭痛の予感です。


 Aは昼休みまで保健室で過ごしたあと、早退しました。
 保健室を出る前に、リュックから小さな薬入れを取り出し、鎮痛薬を飲みました。
 裏門から出て急な坂道を下っているのに、地に足を着けて歩いている心地がしませんでした。酩酊感を帯び、五感が研ぎ澄まされながらも間延びしているようでした。足の裏で地面を踏んでいるはずなのに、倍以上の反発を受けながら歩いているように、おぼつかない足取りでした。ちぐはぐな体の重篤な違和感にAは、ますます自分自身に対する嫌悪を強めました。
 人気のない地下鉄のホームは、大きな生き物の体内のようでした。電車がやって来ると、深呼吸のように静かに満ちていた空気をたわませ押し流しました。扉が開いて次の駅で降りるまで五分もないのに、巨大な迷路をぐるりと駆け抜けているように感じました。
 ふらつくのを堪えて地上の駅を目指しました。ホームから覗いた空は明度も彩度も低く、沈鬱な色合いを滲ませていました。湿り気を帯びた風はいっそう濃度と粘度を増し、いたずらにAの黒髪を乱しました。汗で背中はじっとり濡れていました。
 電車のなかは、ほどよく冷えていました。汗ばんだ体が急速に冷えてゆきました。
 車内では海が見えるまで本を読むことが多いAですが、目の奥が痛くて活字に目を通すことができませんでした。
 まるで頭のなかに小さな心臓を飼っているようでした。目をつむれば黒い心臓、目を開ければ灰色の心臓が鳴いていました。ただ何も考えず瞼が下がれば闇を、上がれば空を眺めていました。灰と黒が交互に切り替わり、色のある景色までモノクロ映画を観ているかのようでした。
 電車のスピードも関係しているのか、緩急をつけながら揺れ進み、ほぼ一定の間隔で停止するうちに、現実感も同様のペースで遠のいてゆきました。
 扉が開き、曇り空の太陽熱では乾ききれなかった重い潮風が足元から立ち昇りました。饐えた磯の臭いが鼻腔を浸食しました。
 扉が閉まり、潮風を閉じ込めた車体は、ガタゴト海沿いの町を進みます。鈍色の海は水平線に近づくほど濃さを増していました。海は燻した銀色のグラデーションを呈していましたが、空は崩れたモザイクのように、五色ほどの濃淡のある灰色の雲が重なり合っていました。
 どの駅にも潮を含んだ空気が漂っていました。Aの降車駅では、さらに湿気を孕んでいました。
 それは空気の流れを遮る柱や自動販売機、人や鳥、すべてに絡みついていました。
 少し頭が重いだけ――。
 少し意識が遠いだけ――。
 少し力が入らないだけ――。
 少し疲れているだけ――。
 色のない、おざなりの「少し」がAのなかに堆積しました。
 下校前に呑んだ鎮痛剤の効き目は、もう間に合いませんでした。
 夢遊病患者の足取りでAは海岸公園のベンチを目指しました。駅から浜辺へ真っ直ぐ伸びる連絡橋を渡るときの距離感は気分次第で変わります。正直、今回はよほど短く感じたのでしょう。わたった記憶が欠落してしまうほどでした。
 追い風、向かい風、上昇気流、下降気流とベクトルの乱れた風のなかを進みました。風と暗黙の均衡を保っているような足取りで、目的地点に到達しました。
 膝の力が抜け、だらんと腰を落とし、ベンチに寄りかかりました。
 眼差しも海と空が平面的な抽象画に映るほどにあてどなく、濁り固まった琥珀色をしていました。
 黒雲と黒い海面のせいで、水平線に幅が生じていました。それは徐々に黒い津波となって視界のなかで存在感を増してゆきました。
 津波は空高く聳えながら陸に向かって近づいて来ました。防波堤を呑み込み、桟橋を呑み込み、白い砂浜を呑み込み、公園と砂浜を繋ぐ一段三〇センチもある大きな石階段も軽く呑み込み、Aのほうへ迫って来ました。
 彼女の瞳孔はぴくりとも反応しません。
 ――明晰夢が破れるときまで、あと少し。
 波の壁に影がちらつきました。それは魚のように縦横無尽に津波のなかを泳いでいました。海中では、光は吸収され表面上は光っても内部は深海のごとく真っ暗でした。しかし影が動くたびに反射と屈折が起こり、やがて透明で量感のある人型が浮かび上がりました。
 津波はAのつま先から三、四歩先でぴたりと静止しました。
 なかの人影も底で直立しAと対峙しました。そして、やおら伸ばした腕が水面を破り、外気に触れたところから白い肌で覆われてゆきました。肘上からはブラウス地のセーラー服の袖も現れ、踏み出した足はローファーを履いていました。黒い靴下に包まれた華奢な足首と脛が、ちらと長いプリーツスカートから覗きました。

――【`A】――

 ぬっと現れた顔はAそのものでしたが、死後硬直したかのごとく口はきっと結ばれ、肌も蝋人形のように不気味な張りと艶を帯びていました。底なし沼の瞳からは不気味なほど感情が読み取れませんでした。
 Aは息を吐き、体の力を抜きました。
 【`A】は両手で躊躇なくAの首を鷲掴みました。
 Aは足をばたつかせ、両拳で何度も何度も激しくベンチを叩きました。顔は歪み頬や額に、深いしわが波打ちました。圧迫され塞がれた喉から、小鳥を捻り千切ったような声が漏れました。
 【`A】はびくともしません。冷酷にありったけの憎悪を込めて絞め続けました。
 徐々にAの拳も腕も足も動かなくなりました。それでもまだ、彼女の首から手を放しません。
 そのときです。
『――っ』
 刃渡り三〇センチほどの包丁が【`A】の背中から胸を貫きました。
 冴えた刀身に似紅色の血が伝いました。
地面に滴り落ちる前に犯人――青年は【`A】の襟首を引っ掴むと、包丁もろとも津波のなかへ押し戻しました。
 少女の死体は沈むように深い闇へと遠のきながら、少しずつ海の泡となり、やがて消えてしまいました。
 彼は少女の様子を、最後まで慈しみ深い眼差しで見届けました。
 泡の影すら見えなくなると、青年はAに向き直り、気を失った彼女を優しく抱きかかえました。
 そして、半開きのうっすら血の滲んだ唇を塞ぎました。
 再び動き出した津波が、二人を呑み込みました。

二二、現在地

「君、落ちたらアカンよ」
 海岸公園をパトロール中の警察官が、Aに声をかけました。
 彼女は桟橋の突端から頭を突き出し、吸い込まれるように深い緑青の歪みうねる海面を覗いていました。
 寝ぼけ眼で警察官に「あ、はい。大丈夫です」と答え、軽く会釈しました。
「今日は、学校はもう終わったんですか?」
「気分が悪くて早退したんです。電車に揺られると吐き気がしてきて。それで海を眺めて落ち着いてから帰ろうと思ってたんです」
「そ、そう。よう見たら、顔が青白いからはよ帰って休んだほうがええみたいですね」
 Aは無言で頷き愛想笑いを返すと、足元に置いてあったリュックを背負い、手提げ鞄を腕に掛けました。日傘がないことに気がつきました。あたりを見回しましたが、見当たりません。
「ん、どうしたん?」
「日傘がなくて。黒くて少し長めのやつなんですけど」
「ちょっとそれは見かけてないですね。向こうの海岸公園内を回って、あのベンチが並んどおとこ横切って来たけど、傘はなかったと思いますよ」
「あ、ならいいです。家に予備があるので」
「見つけたら連絡しましょか?」
「いえ、結構です。ありがとうございます」
 会話を片付け、警察官とは目を合わさないようにその場を立ち去りました。
 埋め固めたコンクリートの道は傾きかけた日差しを照り返していました。
 初夏の終わりに青々と葉を茂らせていた向日葵畑のなかには、早々に花盛りを過ぎ乾いた音をたてて揺れる花もありました。
 桟橋も公園と駅を結ぶ歩道橋も、真っ直ぐ伸びた一本道ゆえに、とても長く感じられました。
 駅を通り過ぎて、無事に横断歩道をわたり終えると、街路樹の青葉が生い茂る坂道に入りました。ここを上れば、Aの住む棟はすぐ近くです。
 木陰で立ち止まり、汗を拭いました。
 水筒を取り出し、ぬるくなったお茶を飲み干しました。
 俯くと頭痛が酷くなるので、強ばった首をほぐすように空を見上げました。
 青空には、亡霊めいた入道雲が崩れかかっていました。しかし、決して崩れ切ることなく、永遠の速さで進みながら静止していました。
 最果てへと近づけば、時は薄められてゆくのでしょうか。時計の針は、ただの直線となって飛行機雲と平行線を競っています。
 いつもと変わらぬ帰り道。空と海の風景は何百、何千、記憶を超えて何億回も見ているような気がしました。

――昨日の景色が膨大な過去の景色に埋もれ、結局思い出せないまま、跡形もなく更新される――
漠としたワタシそのもの
何もなければ、ワタシの現在地点は覚束ない
現在時刻は永遠に不明
時計は羅針盤ではないのだ
楽園はみな、砂上の楼閣のごとく砂時計のなかで崩れた
残された者たちは、日常風景の殻を被った砂漠を彷徨っていた
現在地の感覚は、すでにAから流出しているようだ
いつから?
きっと、――から
過去と未来をつなぐ線上にいるのに、今の座標が見つからない
くしゃくしゃの紙に無理やり引いた線に点を打った途端
紙が広がり、線は途切れ、書き残したすべてを見失ってしまう

緑陰の茂る坂道が歪曲した
――音が聞こえる――
薄れつつある蝉時雨に、少しずつ罅が入る
剥がれ落ち、快晴に穴が開く
日常を映じる硝子に閉じ込められていた砂は、放たれて空へ舞い上がり、洞穴に向かって逆自由落下を始めた
一粒一粒の残映が空を覆う……

Aは木漏れ日に目を細め、頭から蝉時雨を浴していました
秋へと傾きかけているのに、鳴き止む気配はありません
耳を塞いでも、目の奥から聞こえてきます
道端ではひっくり返った蝉たちが、足先で力なく宙をひと掻きして、順番に動かなくなりました
けれども、容赦なくそれは降り注いでいます
透明な波が乱れ打ちつけ、溺れ倒れる寸前

「A、A――」

名前を呼ぶ優しい声が聞こえ、彼女は息を吹き返しました
目覚めてもまだ、他人の夢を見ているようでした
あたりを見回しても、Aを知っている人は誰もいませんでした
諦めた彼女は坂を見上げました
そして、蛹から生えた義足で家路を急ぎました

二三、萌芽   (完)

――暗転――


足元に広がる砂漠から
砂はちろちろ立ち昇り続け
幾度目かの飽和をむかえた
季節の変わり目から析出された水晶体を
表から覗きなおせば反転
蘇っては過る原風景を
思い出しても言葉にできず
言葉にできることはみな仮初くさい
裂くに裂けぬ空と彼女と
連なる光景の最奥で
言葉にできぬ懐かしさは
蛹のなかでこだまして、痛い

任意の点Aを選んだ時点で
羽化の途は絶えていた
幾筋もの白い傷跡から萌芽したワタシは
時計で塞がれた穴をすり抜け
透明な視線を辿る
眼差しを湛え続ける
真っ暗な瞳孔に向かって


   完

進学校に合格するも勉強についていけなくなった主人公Aは、朝早くに起きれなくなり、授業に出席するのも苦痛になる。 学校も家庭も人より恵まれているはずなのに、笑えない生き苦しい日々が続くなかで、彼女は現実感を失い空想上の世界をみる。 やがて彼女は、夏空の下で正体不明の視線にとらわれてしまう。 ――ある女子高生の鋭敏な感受性がとらえた視線の正体は、いったい何だったのだろうか? ※2021年7月から8月ごろに、加筆修正し表紙挿絵あとがき付きの『蛹』をAmazon Kindle Unlimitedで販売する予定です。独占販売を考えているので、星空文庫とpixivに掲載している作品はすべて削除する予定です。 ※販売時期はあくまで目安です。予告なく予定を変更したり、削除することもありますので、ご理解のほどよろしくお願いいたします。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-12-29

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著作権法内での利用のみを許可します。

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