北御門の儚 総集編

北帝の儚 総集編
 

異聞ピリカの儚

精神科医の玲子が高校生の草哉に言った。
 「この病棟の患者達はその様様な禁忌に抗い挑戦し格闘して。葛藤のあげくに破れて。神経を病んでしまった。そんな風に思えてならないの」「そんな心象風景を克明に記録したり、物語を創作するのが作家でしょ?ここにも作家が何人かいるのよ。投稿もしていて。覆面作家なんだけど。ひょっとしたら、『儚』の作者もいるんじゃないかしら?」
 「一人は『北帝』というペンネームなんだけど。あの戦争で徴兵拒否をして。ある有力者のの口添えで入所したらしいんだけど」「振り返るほどいい男。四〇前かしら?」「やはり、院長の指示で、様子を見ながらだけど、まるで自分の家にいるみたいに娑婆を自由に出入りしているのよ。今頃はどんなものを書いているのかしら?あの人だって『儚』の著者の一人かも知れないんだわ」


 敗戦の色濃い一九四×年の盛夏の満月。狂おしい程に蒸す異様な夜である。二二歳の三文作家と登場人物の女達が織り成す奇想天外な性の戯れ、痴戯の数々。これは顕ウツツなのか幻なのか。筆者の男にも判然とはし難い綺談なのである。

 男のいう北帝キタミカドはペンネームである。本名北川辺帝也という。
 一九四二年、二十の北帝は徴兵検査で徴兵そのものを拒否したが、担当した医師の計らいで精神病の診断が下されて咎めは受けなかった。 この医師は誰なのか。未だに北帝は知らないのである。
 爾来、継ぐ筈だった家を離れた男は放浪して様々な仕事をしながら、執筆を続けているのであった。


儚一篇


-木の葉-

 あの戦争最中の盛夏。府心の出版社からの帰途であった。
 北帝は原稿の入ったボストンバックを自転車の錆びた荷台にくくりつけた。訳もなく、古びた皮のバックに目が釘付けになる。それは、ある事情があって手にいれた愛着のバックなのだ。ある女のすこぶる妖艶な面影がありありと立ち上るのである。 そして、気が付いた。妙に手元が明るいのだ。ふと、見上げると満月だった。黄金の光を厳かに惜しみなく放射している。世事にさいなまわれ続けてきた男などには、今までに見た事もない天空の光景だ。何事か、神々しい祈りの言葉が降ってくるごときの感覚に襲われるのである。何者かが、世界の闇の隅々までを照らし出して、その不条理の謎をつまびらかに解明して、男に示そうとするかの様な景色なのだ。

 何気なく視線を返すと大きな赤提灯が目に入った。居酒屋らしいのだが、男にはこの様な店にはとんと覚えがないのである。
 この付近の呑み屋はかつて知る男の居場所で、一週間程前にも近辺の路地で酔い痴れていたのであった。しかし、この場所に以前に何があったかすら、今では男には判然としないのである。
 散々にたぎった夏の陽が落ちたばかりで、異様な湿気はまだまだ失せてはいない。丹念に水が放たれた居酒屋の入り口は引き戸が取り払われていて、極太の縄のれんが下がっている。風はない。
 北帝がそれを分け様とした途端に呼び止められた。

 「いけません。先生。開店祝いの祝儀を配り忘れたら、親方からえらく叱られてしまうのは、私なんですよ」と、一五、六の、下働きなのだろうが妙に艶っぽくて馴れ馴れしい女だ。
 「今日の会計はこれでなすって下さいまし。私共の親方の心尽しだそうでございます」と、柏葉の束を差し出した。
 「これは何だ?」「ご覧の通りにお金です」「こんなものが金のわけはないだろ?ただの葉っぱじゃないか?」大人ほどに豊かな乳房を揺らして娘が笑う。「厭だわ。先生ったら?」「朴念仁の素人みたいな事を言うんだもの」「だって、あなたは粋を極めた偉い小説家の先生なんでしょ?」「女を書かせたら天下に比類なしって、親方が誉めちぎっていますもの」「当たり前じゃありませんか。葉っぱがお金だなんて。洒落に違いないわ」男は困惑を噛み潰して、威厳を保とうと憮然とした。「嫌だわ、先生ったら。ご冗談だったんだわね?」「当たり前だろ?」「やっぱりだわ。こんな浅知恵なんかはとうにお見通しなんでしょ?」 「これは店の中だけで使えるお金なんです。今夕、大本営発表が御座いましたでしょ?」北帝は聞いていなかったし、実はさしたる興味もない。「あら?所用でご府内にお出掛けで聞いてない?それは残念でございました。南洋の大海戦で奇跡の大勝利で。御門様も呵呵大笑されて杯をあげられたとか」「そんな吉報と私共の開店記念が重なりましての、親方からの特段の振る舞いなんでございますのよ」
 「今日が店開きなのか?」女が頷くので、成程初めて見る店だった筈だと、北帝は納得したが、「これで飲めるのか?」「嘘じゃありませんよ。一夜限りの大出血感謝なんです」「それは嬉しい」
 すると、娘がいかにも声を潜めて、「先生。お酒だけではありませんのよ」「そんなんじゃ、この戦勝景気にはいかにも無粋じゃありませんか?」「何だと言うんだ?」「他にも勝手気ままに使えるんですのよ」「私だって、こんな扮装はさせられてはいるけど…」
 確かに、娘の身なりは奇抜なのだった。桃色の半襦袢は股の付け根ぐらいの丈だから、豊かな太股が剥き出しだ。下穿きを着けているとは到底思えない。「小説家なんだもの。真相は、どうしても知りたいんでしょ?」頷くと、「私も先生の秘密を探りたいわ」と、素早く身体を寄せて男の臭いを嗅ぎ始めた。
 「先生?街に出かけてオイタをなさいましたね?」北帝が少しばかり狼狽えた。「図星なんだわ」「相も変わらず、音に聞こえし浮気の帝王なんだもの。まあ、独身なんだから勝手気ままなんでしょうけど」「先生?辺り構わずはいけませんよ」  「こんなご時世なんだから」「権力の怖さは骨身に染みてらっしゃるでしょ?」「どこに目があり耳があり、でしょ?」「でも、こんなにいい男なんだもの。いつだって、女が放っておかないんだわ」「無理もないんだわね」娘が擦り寄る。


-温泉-

 「ところで、先生?温泉風呂があるんですよ」「きっと、お好きでしょ?」「勿論、天然、かけ流しですわ」「湯浴みしながらの一献などは極上の愉楽でしょ?」「勿論、私が酌をしますの」「その身体に染み付いた街の性悪女の淫靡な臭いも、汗も埃も。先生?すっかり、洗い流しましょうかしら?」
 「浴衣も用意してありますし。湯上がりの着流しで開店ホヤホヤの居酒屋にも行けますから」「勿論、お帰りまでには、先生の洋服は綺麗に洗濯しておきますわ」「お代はみんなあのお金から頂くんですもの」「素敵でございましょ?」

 月明かりに照らし出された路地に入り、松の大木の傍らで引き戸を引くと、そこは大浴場の洗い場なのである。
 たち騒ぐ湯気の中で、女はかいがいしく男の衣服を脱がせる。真裸にさせると剥き出しの陰茎に顔を寄せて、改めて臭いを嗅いだ。
 「先生?これって?」「最前までここに挟まっていたのは…」と、更にかぎ分けたあげくに、「女医のだわね?」と断定した。「私にはすっかりお見通しなんだもの」「何故だ?」「消毒液ですよ」「きっと丹念に殺菌している女なんだわ」「そうでございましょ?」

 娘は古代桧の大浴槽に男を浸らせると姿を消したが、直に戻ってきた。浴槽の縁から徳利を載せた盆を男に勧める。
 「湯加減は如何ですか?」と、女の桃色の半襦袢の立て膝の奥には、案の定、漆黒の股間が息づいているのである。
 「お前は幾つなんだ?」「どうして?」「どうしても子供には思えない」「一七はもう充分に女ですよ」「それにしても奇っ怪だ」「どうして?」「そこだよ」と、男が指鉄砲を作り湯を発射した。すると、軌道は娘の股間に突き刺さって、飛沫をあげる。「先生ったら。悪戯っ子みたい」「どうしてそんなに濃いんだ?」「何が?」「その陰毛だよ」「大胆な物言いなんだもの。乙女心は驚きますよ?」「白々しい。それが乙女の様か?」「どうだって言うんでしょう?」「まるで、交接直後の肉の喘ぎの態じゃないか?」「先生ったら。余りに赤裸々だわ」 
 「処女なのか?」「この歳だもの、当たり前ですわ」「その色といい、熟し具合といい、信じられないな」「そんな事を言われても困ります」
 「だから、本当は幾つなんだ?」「だったら、先生のご所望は?」「若いのは好きじゃない」「どうして?」「話が噛み合わないんだ」「そうかしら」
 「それに…」「なに?」「処女は嫌いなんだ」「どうしてかしら?大抵の殿方は喜ぶでしょ?」「臭そうで厭なんだ」「何処が?」「そこ」「ここ?」「毎日、きちんと洗ってるか?」「どうかしら?」「だから、消毒女となさるのね」「だったら、ご自身で納得なさればいいわ」「そうよ。ご随意に…」「だったら、よく見せてみろよ」「もっと広げて」「こうかしら?」
 「先生?もっと、ふしだらをなさりたいんでしょ?」

 女は半襦袢のままで湯に入ってきた。「ここ?」「ここがどうかしたんですか?」「濃い」「何が?」すると、みるみる内に乳房が膨れてきた。「どうしたんだ?」「何か不可思議でしょうか?女体はこのようなものでしょう?」男が怪訝気だ。「だったら、確かめて?」と、襦袢の襟元を緩めた。男が胸元を探ると豊かな乳房なのである。「どう?」「まるで、七変化だな?」「女なんてものは、皆、そうでしょ?」「違いない」

 その裸体を男の眼前に沈めたのである。髪を解いた女は、到底、今ほどまでの童女ではない。慣れた手付きで酌をする。やがて、陰茎を水面に出させると、しゃぶり始める。

 「さて、本番はどんな女が宜しいでしょ?」と、言いながら壁を押すと、その壁がゆるゆると開いた。覗き窓の向こうには別な大浴場が広がっているのであった。
 一〇人程の女が様々な姿態で湯浴みをしている。
 四〇位の豊満な桃色の女と二十ほどの浅黒い女がじゃれあっている。何とした事だ。若い方の股間に陰茎が付いているのだ。陰嚢までぶら下がって揺れている。
 座った浅黒が自分の陰茎をしごき始めた。寝そべった桃色が、いとおしそうに陰嚢を揉む。


-羽後-

 居酒屋に入った途端に、威勢よく甲高い声が飛んできた。カウンターの中には狸顔の中年の男がねじり鉢巻に太鼓腹をつきだして、手を揉んでいる。

 どれくらい呑んだのだろう。北帝は昼間や先程の湯の疲れもあったのか、朦朧としてきた。

 「幾らだ?」「おや?今日はお早いお帰りで?」「今日?俺は前にも来た事があるのか?」「ご冗談を。いつもたっぷりとお楽しみで…」「今日が開店じゃないのか?」「新装して心構えも新たに致しました」「この店はいつからあるんだ?」「もう、かれこれ一〇年にはなります」「俺は?」「あの時以来のご贔屓で…」「あの時?」「二年前に瀕死のあの女を助けて頂きました」
 この胡散臭い主人が投げた視線の先には奇妙な情景があった。
 隅のテーブルの脇に佇んだ女が、いかにも所在なげにしていたが、北帝の視線を受けると、女はテーブルの角に股間を擦り付け始めたのだ。人間には極めて不自然な動物的なしぐさだと、男はふと思った。男の視線に女が絡み付く。紅い舌を出して、これ見よがしに唇を舐め始めるのである。すると、浴衣の裾を尻までまくり上げて、袂に手を忍ばせるや乳房を取り出したのだ。北帝はその豊かすぎる乳房に見覚えがあると、茫茫と思ったが、しばらく先の過去なのか、ついさっきに出会ったばかりのあの娘のものなのか、混沌とするばかりなのである。

 「あなた様はあの女の命の恩人なんでございます」「寝ても覚めてもあなた様の話ばかり」
 いささか酔いすぎたかと、北帝は、「もう勘定にしてくれ」と告げると、「先生?珍しい鞄ですね?中身は何です?」「原稿だ」「ゲンコウとは?」「小説の原稿だ」「見せてもらってもいいですか?」男が原稿を渡すと、暫く目を落としていた主人が、「これは凄い代物だ」と、隅の女を手招きをして、「お前も拝ませてもらいなさい。女の器量を磨くには滅多にない指南書の様なもんだ」と、誉めちぎる。
 「さすがに北帝先生。あの羽後大先生がベタ誉めなさっていた、たぐいまれな才能ですな?」「羽後?」「何でしょう?湯中たりでもなさいましたか?羽後大先生ですよ?」「それは何者なんだ?」「嫌ですね。お友達。いや、飲み仲間。或いは師弟。いずれにしろ、切っても切れないお仲間じゃありませんか?」「だから、そいつは何者だというんだ?」
 「内科医にして高名な精神科学の権威、御門の御医、海軍顧問の羽後大先生じゃありませんか?」「とんと覚えがないな」「何とも不義理なお方だ」「何故だ?貴様ごときに避難される覚えはないぞ?」「これは笑止千万。あなた様の徴兵拒否を承知の上で見逃したのは羽後大先生じゃありませんか?」「徴兵拒否?」「はい」「俺がそんな不心得をしたというのか?」「まあ。ヌケヌケと。それとも陽当たり、湯当たり、女当たり。いずれにしてもご恩は忘れちゃなりませんぜ」 「無礼な奴だな。俺はな、徴兵などは半島でとうに務めあげて。お上から才能を買われて従軍記者の内示を受けて、今度は大陸に羽ばたかんと、今や遅しと待つ身なんだぜ」北帝の剣幕に主人は縮身上がったとみえて、「それはそれは。ご事情等も知らずに失礼三昧。ご容赦ください」と、深々と腰を折った。「解ればいいんだ」

 「今日のお代はこの原稿、一束で充分です」北帝が、「木の葉銭で払うんだろ?」「大先生?その木の葉銭は今日限りのもの。この原稿一束には木の葉銭一〇日分をつけさせて頂きますよ」
 北帝は酩酊した脳裏で素早く計算したが、幾つかの概念が交錯した。「五〇枚もないぞ。そんなものでいいのか?」「充分すぎるほどで」「それをどうするんだ?」「私の知り合いに地下出版の元締めがおりますので」「そこで出版するというのか?」「それは先方の専門家の評価次第かと」「出版の暁の印税は?」「お説の通りにいたしますです」いずれにしても悪い話ではないと、北帝は酔った頭で納得したのである。

 店を出ると女が追いかけてきたのだ。「先生?お一人でお帰りなどと殺生な。私などはこれでは生殺しではありませんか?」



儚二編菅原

-楓子-

 随分とやつれた面持ちの、神経質そうな編集者と向かい合っていると、突然にドアが開いて、「その人をこっちに呼んで」と、甲高い女の声が苛立って響いた。
 編集者の妻で常務だという女と向き合った。四〇初めか、豊満に熟成した女だ。夫とは真逆に活発な風だ。創業者の娘で、経営全般、編集の実質的な権限者で、楓子という名だとも聞いてはいた。
 この時勢にスカートなどを穿いている。浴衣を仕立て直したであろう事は、こうした世事に疎い北帝にも解った。だからこそ、その由縁が寝間から抜け出してきたばかりの怪しさを醸し出しているのである。紫や赤、青の朝顔が女の豊かな尻や下腹から、股間にも絡み付いている。取り分けて、脂肪で膨れた下腹に咲く紫の大輪は絶景だ。まるで、胎内の油分をすっかり吸収して咲き揃った如くに妖艶ではないか。
 足を組んだ女が、事も無げに紫煙を燻クユらしながら、「今日の出来も今一つ物足りないんだけど…」と、吐息もあからさまに北帝に視線を絡める。「大家タイカ先生の我儘で思いがけなく穴が空いたから、今回は採用できるんですよ」と、にべもない。北帝は恐縮した風に頭を下げながら、口ごもった。
 「以前から、あなたには言おうと思っていたんだけど…」「私たちの地下文学には、あなたの作風は根元的に不向きなんじゃないのかしら?」厚くて赤い唇が特異な生き物の様で動いている。「確かに構成が奇抜だし。猟奇性もそれなりにあるわ」「私は気に入っているのよ」「だから、渋る主人にも強く命じて…」「時々は採用はしているんだけど…」女の言い分は夫の編集長の愚痴とは真反対なのではないのか。
 「まあ。私風に言えば、あなたの表現は硬質なんだわ」「或いは的外れの饒舌なのか…」「…そうなんだわ」「あなたのは散文の臭いが強すぎるのよ」「時には哲学や倫理学徒の雰囲気まで漂うんだもの」


-『花一匁』-

、「若さのせいなのかしら?」「あなた?お幾つ?」男が歳を告げると、赤い唇を湿らせながら、「でも、私にだってそんな時節はあったんだもの。分からない訳じゃないのよ」
 「先の御門が崩御した頃に、純粋文学運動が勃興したでしょう?」「花一匁ハナイチモンメという覆面の女流作家が現れて。女学生だった私は夢中になったわ」  「あなたも世間には覆面なんだわね?」「北帝という名前にはどんな意味があるのかしら?」「…特段に意味はない」
 簡単に追求を諦めた女が煙草に火を点けて、「開戦が確定的になった時に、彼女は転向宣言をしたんだわ」「今のこの情況を予測して決断したのよ」紫煙を燻らしながら、「『国家の横暴は、やがては純粋文学を抑圧するだろう。その時に筆を折る思想は私にはない。それならば大衆に帰依して書き続けよう。如何なる国家権力といえ、御門の赤子の大衆を根絶やしに弾圧はできまい』…彼女はそう言い切ったんだわ」
 「そうだわ。そして、地下文学宣言をしたんだわ」「性の古代回帰よ」
 「古代の『御門国興りミカドノクニオコリ』は性の神話で彩られているんだもの」「取り分けて、国産みの段は、始祖の御門とクニウミヒメの性交が露骨に記述されているんだわ」 「手始めに、花一匁は『御門国興り』の現代語訳を発表して、反響を巻き起こしたんだ」「あら?お読みになったのね?そうよ。今までにはなかった大胆な表現で。でも、国家は統制できなかった」「当たり前よね。御門家の本を忠実に訳しただけなんだもの」「花一匁は次々と作品を発表したわ」「業を煮やした政府が、遂に弾圧を開始したけど…」「後の祭りね」「私達はこうして地下の奥深くに身を潜めてしまったんだもの」「この王国では性の禁忌はすっかり解放されてしまったのよ」


-地下文学-

 「戦争も五年を越えたわ。最近は敗色が漂っているでしょ?」「こんな時勢で、すっかり退廃してしまった大衆は何を欲しているのかしら?」「開戦当初に湧き立った世論も、今では蜃気楼だわ」「希望も理想も根こそぎに打ち砕かれているのよ」「そうでしょ?」
 「花一匁が予言した通りなのよ」「終いに大衆に残った欲望は本能だわ」「本能は直載なのよ。理屈や理念じゃないの」「そうでしょ?」「本能は生存の基本に根差しているんだもの…」「食べなきゃ死んでしまうんだわ」「眠らなくたって…」「排泄だって思うがままにはいかないでしょ?」
 「私たちが追求している地下文学の主題の性だってそうよ」「生殖に関わるんだもの、本能の根元なんだわ」「人間は、というより男は性を、女を自在に制御しようとしているけど、そんなのは幻想なんだわ」「女の美徳は貞淑だなんて言うけど、男が作った願望に過ぎないの」 「女は雌よ」「孕んで種を残すのが使命の生き物なんだわ」「だから、孕める時期になればしたくなるのよ」「その男を愛しているからするんじゃないのよ」「自然の摂理に過ぎないんだわ」「わかる?」「ただ、したくなるからするのよ」「本能だからなのよ」
 「だから、あなたの尖った矜持は、エログロの地下文学には、全然、要らないのよ」「あなたにはその本能をそのままに、いいえ、大胆に言葉にして欲しいんだわ」「解るかしら?」

 女が足を組み替えた。下穿きが見えない。男が目を凝らす。
 「その眼よ」「私のを見てるんでしょ?」「大抵なら視線を逸らすものだわ」
 「そうなのよ」「あなたは挑戦的なんだわ」「それだけが、あなたに備わった唯一の取り柄に違いないわ」
 「聞いたわよ」「狂気を装って徴兵を拒否したんでしょ?」「それって、並大抵の胆力じゃないわ」「あなたは戦争を拒んだ意気地無しじゃないわ」「死にたくないのは本能だもの」「あなたは本能の根元で生きているんだわ」「だから、あなたには、未だ、見込みがあるのよ」
 「私たちが求めるのは即物の欲望よ」「性欲ってそういうものでしょ?」「情欲が湧き出すのに理屈はないんだもの…」「解るでしょ?」

 「そんなにここに興味があるの?」男が頷くと、「もっと、見たい?」と、股を開きぎみにするのである。


-競演-

 「地下文学の極意を指南してあげようかしら?」と、女がスカートをずり上げて太股を僅かに開いた。その奥は漆黒の闇だ。「さあ。この場面を描写してみなさい」「あなたなら出来る筈よ」

 『狂気の陽気に犯されたてしまったのか。盛夏の昼下がりの事務室で、女は熟れた太股をじりじりと開くのである。若い作家の視線が絡み付いて離れない。女は爛熟した快感が込み上げてくる。その根源は漆黒の闇に覆われていて判然とはしない。女だけが支配する闇黒の蜃気楼なのだ。ただ、女の厚く赤い唇が妖しく暗示するばかりなのだ。隣の部屋には女の夫と入ったばかりの若い事務員がいる。女はその関係を疑っているのだ。昨夜も遅くまで諍イサカいを続けた。潔白を貫くために、初老の夫は久方ぶりに、円熟した妻の身体に痛々しく奉仕した。女は狂乱して暫しの悦楽に耽溺した。だが、我に帰れば、そればかりの痴戯で、この女の盛りの情欲と疑念が消失する筈もないのである』

 北帝が書き上げた原稿を一瞥した楓子が、「流石に素晴らしい着想だわ」「それがあなたの天賦の才能なのよ」「続けて…」

 『女の菊門は昨夜のなごりで未だ疼いているのだ…』

 背後から楓子が、「ちょっと待って?菊門って?」「お尻?あなたの造語なのね。いいわ。菊は御門家の家紋だものね。最大の侮辱だわ」「それがあなたの真骨頂なんでしょ?」「そうだ」「でも、読者はどこまで理解できるかしら?」「だって、実態は私と夫のアナルセックスに過ぎないんだもの。御門を引き合いに出したところで、大衆は納得するのかしら」「それって、あなたの、相変わらずの思い込みなのよ」

 「…そうね」と、楓子が唇を舐めながら、「「…私だったら…」

 『…狂ったような陽気のせいばかりじゃないわ。向かい合った若い作家がすこぶる精悍なんだもの。きっと、二〇を過ぎたばかり。生まれたての情欲なんだもの。今しがたに女との同衾から抜け出してきたみたいな香りを発している。男と女の汗が散々に交わった肉の香りだわ。だから、妖しく盛り上がった股間に、ついつい目がいってしまうの。すると、否応なく、夫とした昨夜の秘め事が去来してしまうんだわ。こんな私はふしだらなのかしら。いいえ。女が貞淑だなんていうのは、呑気な男達が捏造した陳腐な神話に過ぎないんだもの。その夫は今も隣の部屋にいて、あの豊満な若い事務員と何をしているのかしら?きっと、これ幸いに淫らな振る舞いに及んでいるに違いないわ。でも、仮に、昨夜に夫が釈明した通りに夫に不実はなかったにしても、あの性悪女のことだもの。今頃は私と同じこんな姿態で夫を誘惑しているに違いないんだわ。でも、これって、私のいつもの妄想なのかしら?』

 「どうかしら?率直な感想を聞きたいわ」「…子宮が産み出した文章だ」「まあ。素敵な修辞だこと」「俺には到底書けない」「最大の誉め言葉だわ」
 「今度はあなたの番よ」

 『女の脳裏は忽ちの内に情欲で占領されてしまうのである。深夜の夫の交わり。隣室の夫と若い愛人の息づかい。眼前の青年の股間が混然となって、女の身体を貫くのである。……』

 「どうなっているかしら?」「何がですか?」「私の秘密よ?ねぇ?」「濡れているんですか?」「どうかしら?確かめたい?怖いの?だって、ドアの向こうには主人がいるんだものね?でも、障害があるほど執筆意欲が湧くんでしょ?私との事を書きたくない?」「主人?あの編集長よ。どこかの隙間から覗いているわよ」「ねえ。見せてやりたいとは思わない?」「あなたの原稿を世に出す方途があるのよ。当然、聞きたいでしょ?」男が頷くと、「そうだわね。当たり前だわ。でも、無条件で教えるわけにもいかないわ」


 
儚三篇
 

-不全-
 
 首府の盛夏、噎ムせ返る満員電車である。『皇国婦人隊』『稲荷大明神』『金魂教教団本部』『皇宮奉仕隊』などという幟旗を掲げる、奇妙な女の集団に北帝は乗り合わせてしまったのである。異様な肉の塊が電車の大半を占めているのだ。

 北帝はいつの間にか、ひときわけばけばしい幟旗を持つ女の背後についていまった。次々と客が続いて、男は豊満な女の身体と密着してしまう。辛うじて鞄を足元に置いて挟むと、最早、身動きのひとつも出来はしないのである。
 女の豊かな髪から妖しい椿油の香りがする。四〇初めか。熟れた耳朶がわずかに震え首筋に汗が浮いて淫靡な情景だ。
 その時に、集団の前方から声が起こった。「皆さん。とうとう来ましたよ。ご覧なさい。あそこに皇宮が見えましたよ」呼応して歓声が上がった。もう一人が、「皇后陛下のいやさかを祈念して、神国婦人の歌を歌いましょう」アコーディオンが奏で出す。

 こうした喧騒に隠れるように、最前から女の豊かな尻に北帝の陰茎が密着しているのである。女の拒絶は感じない。それどころか、むしろ、擦り付けている気配ではないかと錯覚しそうな佇まいなのだ。北帝の肉に痺れる様な快感が走る。この女は下穿きを着けていないのではないか。その時に、伸びた女の手が男の隆起を握った。
 「こんな時勢に随分と不謹慎なことだわ」と、圧し殺した囁きで掴んだ指に力をこめた。咄嗟に、「あなたの尻のお陰です」と北帝。「大陸の戦闘で負傷して…」と、繋いだ。すると、「ご苦労様でした。位は?」と、女がひそやかに応えるのである。「中佐」と、女の耳許で囁く。「まあ。ご立派だこと」
 「これまで勃起不全だったんです」「まあ。これが?」「そう」「どれくらい?」「丸々二年」「まあ。でも、今は?」「元気でしょ?たった今、直ったようだ。自分でも信じられない」「大御門大明神?いいえ、私の神通力かしら?」
 女の手が男の手を握った。もんぺの亀裂に誘う。手を差し込むと、いきなり、女の肌に触れたのだ。下穿きを着けていない。男は驚いて手を止めた。「怖いの?」「触っていいのよ」男の指が陰毛に触れた。激しく繁茂して湿っている。「指を入れて頂戴」すると、電車が到着駅に止まり始めた。「このままじゃ嫌だわ」「最後までしたいわ」「どこで?」「私達は皇宮に行くのよ。ついてらっしゃい」


儚四編
 
-玄子シズコ-

 女医の玄子は、『ピリカの儚』の女医の玲子の前任者である。後に理事長になる男の女だから、この病院の事情の全てを知り尽くしていると考えて間違いないであろう。あの倫宗の信徒でもある。
 その女医が、「街を歩いていて女の人とすれ違うでしょ?」と、訊ね、「時には、いいなと思う人もいるわよね?」と、北帝を観察する。「…いる」「その人の裸を想像したりするのかしら?」「裸?」「そう。裸体よ」「女の?」「そう」「一糸まとわぬ?」「そう。陰毛もこんな盛夏の風に晒しているのよ」北帝は憮然として窓の彼方に視線を放った。ブナの巨木が林立している。「その女が性交している場面とか?」「性交?」「そうよ」「どうなの?」「どうかな?」「恥ずかしい?」「そうよね。若いんだもの」「幾つだったかしら?」と、カルテを見て、「一七か…」
 北帝が気色ばんだ。「俺が精神科医の診察を受けたのは、徴兵検査の二〇の時だ。なぜ、三つも若返って。しかも、あんたの様な見も知らぬ女に診察されているんだ?」「そんな、つまらない事に拘っていたの?」「当たり前だろ?今の俺は二二の筈だ。なぜ、一七なんだ?」「あなた?人の歳なんて大した意味はないのよ」
 「徴兵検査であなたの診断書を書いたのは私の恩師なの」「彼からあなたの精密な診断を依頼されたのよ」「だから、思春期の過去に遡って問診しているんだわ。一七は精神に一番敏感な歳なんだもの。わかった?」 「だったら、今の俺の本当の歳は幾つなんだ?」「意識の往来と年齢の連関に気が付いたあなたは、そうね、二二よ」「二二?」「そうよ」「それが俺の真実の歳なのか?」「どうかしら?だって、意識は時間を翻って流動するんだもの。だから、年齢を固定するなんて無意味なんだもの」
 「だったら、あなたの本当の歳は幾つなんだ?」「今の私なら三四だわ」「道理で…」「どうしたの?」「爛熟した身体だと思っていたんだ」「厭だわ。そんな事を考えていたの?」「そんな俺は、やっぱり、気違いなのかな?」「私の裸を想像したの?」「会った時からそればっかりだ」「そうだと思ってたわ」


-徴兵-

 「実に陳腐な質問だ。こんな問診をあなたが考えたのか?」「精神医学の定理よ」「あなたも想像するのか?」「何を?」「街を歩いていて、すれ違う男の裸を妄想するのか?」「しないわ」「汗ばんだ股間に陰茎が潜んでいるのを?」「厭だわ」「俺だってそうだ」「そんな事をしていたら歩いていられない」「そういう答えができるあなたは、正常って事だわ」「気が狂うと裸を妄想して歩いているのか?」「そうよ」「女の裸を妄想すれば気違いなのか?」「そういうわけじゃないわ。時と場所の問題を言っているんだわ」

 「本当の事を教えてやろうか?」「聞きたいわ」「女の裸を想像はする」「誰の?」「言っていいのか?」「どうぞ」「皇后」「えっ?あなた?今、何て言ったの?」「皇后だ」女医が、「あなた?ちょっと待って」と、二人に背を向けて聞き耳を立てている、中年の兎顔の看護婦に用事を言い付けて、退室させた。

 「どうして見たいの?」「見たいんじゃない」「だったら?」「ひんむいて犯してやりたいんだ」「まあ。勇ましいのね」
 「あなたは徴兵を拒否したんでしょ?」「どうしてかしら?」「御門が嫌いだからだ」「あんな奴のためには絶対に死にたくないんだ」「ちょっと待って。もうこんな時間なんだわ」

 女医が戻ってきて、「すっかり定時を過ぎてしまったんだもの。看護婦を帰したのよ」「この病院には労働組合があるの」「前は進歩的だったんだけど。翼賛会に加盟してから一変してしまって。戦争や御門の批判なんてご法度なのよ」「みんなが特務の通報者に思えてしまうんだもの」「あの看護婦はいい人よ。ご主人を大陸の戦火で亡くしているし。でも、念のためにね」
 「あなたったら、突然に言い出すんだもの。驚いたわ」「何が?」「御門の事よ」「大した事じゃない」「随分と危険な事を豪胆に言うのね。御門制に反対なのかしら?」「当たり前だ。あんなものには、決して、同意できるわけがない。あんたは認めるのか?」「どうかしら?」

 「この街の人なんだろ?」「そうよ」「だったら?」「アブクマの事ね?」北帝が深く頷く。「勿論、知ってるし。そればかりか…。私はアブクマばかりじゃない、あのアテルイの子孫なの」男が目を見張る。「そうよ。アブクマはあの乱に敗れて、恋人とも別れてアテルイの元に走って戦いを続けたでしょ?その最中にアテルイの妹と結婚したのよ。私はその末裔なの」「だったら?」「そうよ。アブクマもアテルイもカンム御門に惨殺されたんだもの。御門家は私の家系にとっては敵だわ」
 「あなたが徴兵を拒否したのも?」「当たり前だ。あんな奴に徴兵されて、戦場に送られるなんて真っ平だ」「でも、この北の国を守るためだったら命は惜しくない。アブクマやアテルイの様に先陣で戦うだろう。死も怖くはない。だが、あんな奴のせいでは絶対に死にたくない」 


-逸子イチコ-

 「最近、空襲で爆撃されたんだ」「まあ。どこで?」「S市の外れだ」「新聞で見てはいたけど。とうとう、あんな所まで爆撃するんだものね」「郊外に化学工場があるんだ」
 「その付近の田んぼ道を歩いていたんだ」「爆音がした。見上げると一欠片の雲もない群青ばかりの空で。すると、南の方にキラキラとする紫の光が見えた」「驚くほど綺麗だった。やがて、爆音が聞こえて。その光の中から爆撃機の編隊が現れたんだ。一旦は北に向かって山脈の上で方向を変えて戻ってきたんだ」「二〇機はいた」「工場の上に来ると爆弾を落とし始めて。あちこちから火の手が上がった」
 「その時に、田んぼの中に女がいるのに気付いたんだ。豊満な。三〇位に見えた」「爆撃機の軍団は執拗に工場に爆弾を落としている」「その内の一機が急降下してきたと見るや、女に機銃掃射を始めたんだ」
 「すると、女が何かを叫び続けながら、野良着の上っ張りを脱いたんだ。豊かな乳房を揺らして爆撃機に鎌を突き上げている」
 「やがて、肌色のシャツも脱ぎ払って。終いにはモンペも下穿きも脱ぎ落として…」「真裸になってしまったんだ」
 「引き返してきた爆撃機が、再び、機銃掃射を始めた。操縦席の若い男の顔が見えた。桃色で。笑っているんだ」「全速力で駆け寄って女を押し倒した。溝に落ちた」

 「何をするの?」「あんたを助けるんだ」「余計な事をしないで」「死にたいのか?」「そうよ。死にたいのよ」「どうしてだ?」「夫が、南洋であいつらに殺されたのよ」「いつ?」「一年前に戦死広報が来て…」「だから。生きていても何の甲斐もないのよ」「子供は?」「いないわ。解ったら余計な事をしないで」「死なせない」「どうして?」「抱きたい」「何て言ったの?」「あんたとしたい」「何を言ってるの?」「これに嵌めたいんだ」「どうして?」「理由などない」「本能だ」「亭主は誰に殺されたんだ?」「あいつらよ」「なぜ、南洋に行ったんだ?」「召集されたからだわ」「誰に?」「誰に?」「召集したのは誰だ?」「御門よ」「南洋に送ったのは誰だ?」「御門だわ」「殺させたのは誰だ?」「御門よ」「俺は徴兵を拒否した男だ」「御門の徴兵だ」「気違いだと言われた」「家も追い出されて…」

 飛行機が南に飛び去った。「終わったの?」「戻ってくる」「どうして?」「あの工場を全滅させる気なんだ。未だ三分の一にも当たっていないだろ?」
すると、編隊から離れた一機だけが西の山脈の方角に旋回を始めた。「あれはさっきの奴だ。あんたを犯そうとしているんだ」「犯す?」「あいつの顔を見たか?」女が頷いた。「若かったろ?」また、女が頷いた。「あんたは?」「三一」「あいつにとって機銃掃射は射精なんだ。だから、あんなに執拗なんだ。戦争の若気の狂気が咄嗟に思い付いたゲームなんだ。あんたはあいつの餌食にされたんだ」「嫌」女が叫んだ。「敵に犯されるのは嫌」「絶対にさせない」女がしがみついた。
 「あなた?今、やるの?」「そうだ」「あいつに見せつけるの?」「度肝を抜いてやるんだよ」「面白そう」「いいのか?」「いいけど。あなた?出来るの?」「あんたは?」「あなた次第よ」

 「素っ裸の俺達は鎮守の森を目掛けて走り出したんだ」「途中で名前を聞いたら、女はイチコと叫んだ」「」「朽ちかけた鳥居をくぐると杉の大木が立ち並んでいた」「一機だけが追いかけてきた爆撃機は、最後の掃射で鳥居を砕き散らすと、羽根を揺らして引き返していった」「裸の女と俺だけが残されたんだ」「いい女だった」「俺の子宮だと思ったんだ」

 「町の警報だわ。こんな時間に何事があったのかしら?」「空襲だ」北帝が立ち上がり、「空襲?」女医も椅子を蹴った。「ここにも来たの?」「間違いない」「どうして断言できるの?」
 「でも、こんな所まで来るなんて」と、女医が窓を開けて、南の空を見上げる。真夏の灼光は未だ山脈に沈んではいない。爆音がした。「あの爆音だ。あの時の爆撃機だ」「どうすればいいの?」「頑丈な場所はないか?」「地下室があるわ」その時に、破裂音がしてガラス窓が吹き飛んだ。女医の身体が飛び込んできて、倒れ込んだ二人は机の下に潜り込んだ。絶え間なく爆発音がする。



儚五編

-小屋掛け-

 満月の黄金色の夜なのである。三叉路に佇んだ北帝は、たいした思案もせずに真ん中の道を選んだ。やや歩いて、ふと、気が付いて、戸惑って立ち止まった。その視線の先は、やがて、だらだらと緩やかな上り坂になっている。そして、四折八折に曲がりくねった果ての彼方のその頂上は、果ても知れない満天の星空に飲み込まれているのだった。その先はどんな世界なのか。男に悪寒が走る。こんな道は、到底、辿れるものではない、俺の選択というものは、こんな具合に、いつの局面も陳腐だったのだと、疎ましい過去の記憶を瞬時に反芻しながら、引き返そうときびすを回した。

 と、その時に、男の眼前には橙の灯明がともされた、大きな無数の提灯で形取られた見せもの小屋が、忽然と建ち現れたのである。

 大看板が横に張り付いて、『愈々開演!驚愕、空前の妖艶!神秘の豪華共演!』の鮮やかな太文字を踊らせている。さらに、やたらに垂れ幕が下がり、立て看板が林立してあるのだ。
 いわく、『古今東西希なる尻見せショー 』『本能露に終まで…』『淫奔な女体の秘密』『爛熟した蜂蜜子の性欲-発情した子宮まで見せます』『身を持ち崩した淫乱皇女のなれの果て』『秘器初公開!』などなど。

 その看板に描かれた女に老人がまとわりついている。すると、女が動き出した。他の看板もよくよく見ると、みんな生きた女達が張り付いているのであった。

 『女の真実』という看板を背負って、腰巻きばかりの女か見下ろしている。その桃色の腰巻きをまくりあげて、無遠慮に覗き込んだ七〇ばかりの男が、「随分と毛深い女だ」と嘆く。「豪気ななさりようだこと」と、女は、至極、平座の風で、「着流しのご隠居さん。粋な佇まいだこと。お達者ですね?」「こんな時勢だ。末を案じりゃまだまだ老け込んじゃいられないんだよ」
 「高邁なお説はごもっとも。お名前ばかりでもお教え下さいな?」「北帝だ」「まあ。気品なお名前だこと」「名前なんざ、ただの符号だよ」「あら?やっぱり、どこかで聞いた覚えが…」「あの高名な作家先生じゃございませんか?」「名前以外は一切明かさず。幻の覆面の反逆児と噂の高い?」「やっぱりね。納得しました」「何を納得したんだい?」「沈黙されたのが何よりの証しだわ」
 「俺としたことが。うっかり口をついてしまったが。いかにも北帝に違いない」「ひょっとしたら私の風情に惑わされたのかしら?」「何とでも言うがいいや」


-立位-

 「私ったら。飛びっきりの幸運なんでしょう?こんな野卑な夢の中で、先生にお会いできるなんて…」「何となく異変は感じてはいたが。やっぱり、これは夢なんだな?」「そうには違いはありませんが…」「何だ?」「夢も現も、そう、大した違いはございませんでしょう?」「それもそうだ。とりもなおさず、この時勢などは本当の悪夢だからな」「お説の通りだわ。先生などは、時節に逆らって真実を述べられる数少ない烈士ですもの」
 「大胆に禁忌に挑戦なすって…」「性交の真髄は立位後背位だと書かれたでしょう?」「そうだったかな?」「私達の習性が認められたんですもの。心が救われる思いが致しました」

 「先生?この時節の真実はどこにあるんでしょう?」「荒れ狂う風前の灯火だ」「今時の若い者は信用なりませんか?」「すべての幻想はとうの昔に消え失せたよ」「その心は?」「歳や民族の問題じゃないんだ」「もっと平易に教えてくださいませ」「簡単だ。どこまでも真実を追求して生き続けるんだよ」 「この俺が七〇手前だなんて、未だに信じられないんだ」「そんな風には、到底見えませんもの」「そうだろうとも。気分はずうっとあの頃のままだよ」「あの頃とは?」「二十歳だよ」「つい最近じゃございませんか?」「そうなのか?」「私たちの世界ではそうなっております」「俺も同感だ」「もしかすると私達と同族ではありませんか?」「御門制を拒絶して平和を求める者は皆同志だよ」「まあ。嬉しい。私などは根っからの平和主義者ですもの」「いい心掛けだ。弱い人間を蹂躙して戦争に血道をあげるなんざあ、人道の風上にもおけねえんだ」 「大陸では、またまた非道をやってのけたらしいですね」「口にするのも汚らわしい」「大虐殺だと聞いております。女は犯したあげくに子供もろとも皆殺しにしたとか?」「狂気の沙汰だぜ」「それもこれも、あの御門が直々に指図したとか?」「鬼畜にも劣る奴だ」
 「生き神などと、盛んに語っていますよ?」「そんな愚弄で大衆を騙すなんざ、狸だって考えまいよ」「当たり前ですわ。狸だって怒りますわよ」「あんなトンチキの所業は、昔からとうにお見通しだよ」「青筋がたっております。随分とお怒りで?」「平和を憂える公憤だ。私情じゃない」「ごもっとも。こんな卑賤な私などでも気の休まる暇もございません」「そりゃあ殊勝な心掛けだ」「痛み入ります」

 「それにしても、まるで獣の化け損ないだ」「私をご指摘ですか?」「他も似たり寄ったりだ」「流石に、人生の真実の様なお言葉ね」「好き者で通したあなただもの。私如きの為りなどは、とうに悟られているでしょう?」「持って回った言いなりだな。いったい、何だと言うんだ?」「女なんてものはね、所詮は化け物なんでしょう?」 「違いない。試しに尻を見せてみろ」「嫌なのか?」「そうではありませんが…」「だったら?」「さっきは陰部を覗かれました。今度はお尻…」「それがどうかしたか?」「これでも女の端くれなんですもの。せめて、お気持ちばかりでもお聞かせくださいな?」「これだけの看板からお前さんに話しかけたんだ。判るだろうよ?」「まあ。喜んでいいんですね?」「気のままに」「私だって。遠目に入った折から、胸が高鳴っておりました」「お前は幾つなんだ?」「幾つに見えます?」
 女が素直に背中を向けて、「こうかしら?」と、腰巻きをまくりあげた。「何だな。震えるぐらいに大きくて、熟れた風情の桃色は好みのうちだが、まるで毛だらけじゃないか。これじゃ山出しの小女にも劣るわい。いったい、どうなっているんだ?」「どうだって言うの?」「奇獣の化け損ないにしても随分と無粋が過ぎるじゃないか?」「そうかしら?」「当たり前だろ?」「だったら、好き者のご隠居さんはどんな女がご所望なのかしら?」「当たり前だ。雪に埋もれた絹に蝋を引いたような柔肌だ」
 「そんなの簡単だわ」女が回転すると、女の化身は、忽ち、言われた如くに変化してしまうのである。「こんな具合でいかがでしょう?」「たいしたもんだ。こんな詐欺には会ったがご利益。極楽大万歳さまさまだ」「まだまだ現役なんでしょう?」「聞くが野暮のテンテンよ」「だったら、中で、存分に遊んでくださいな?」「当たり気コンコンだ」「コンコンは、私の仲間じゃ御座いませんよ」



儚六編


-口上-

 番台に座った些か白髪まじりの、だが三〇から四〇ともつかぬ豊満な女が、意外な程の艶やかな声を張り上げている。
 「世間では、女の身体なんかは見せても減るもんじゃないって言うだろ?ごもっとも。私なんぞも、ほら、見てごらんな。殿方に散々に品定めはされたけど、ほら、この通り。自分で言うのも何だけど、未だ未だ潤沢だとは思わないかい?」「賛同の余りに声を詰まらせているんだね?」
 「真実は俗世の格言通りなんだよ。女なんて生き物は情欲の視線に晒れれば晒されるほどに磨かれるものなんだ。原石が珠玉になる道理なのさ」「さあさあ。だから、この小屋は見るだけはタダなんだよ」「正真正銘だよ」
 「そうだよ。入場限りではお代はいただかない」「目で犯すのは色の道の極みと言うじゃないか。飽きるまで見ておくれ」
 よくよく確かめると、女は肉感的な面立ちで生気溢れる風情なのだ。「今年は、今夕ただ今限りの、これから僅かばかり、たったの一時間の公演だよ」


-革命家-

 「夢精したてのそこのお兄さん。ただし、勘違いしちゃいけないよ。見れば触りたくもなるのが情念の道理だろ?触られれば女だって感応するのが肉欲の定めだもの。煩悩も燃え盛ろうってもんだろう?」「さあて、こうなったら、ただというわけにはいかない。地獄の一丁目だ。ここから先ははお足がかかるよ。詳しくはそこの品書きを見ておくれ」
 「尻の指入れは?」無政府主義者風の若者が無造作に尋ねると、「あら?お前さん?去年も来たね?去年と変わらないよ」「ははあ。去年は何をする間もなしに、何したんだね?」「図星だね。革命家にしてはまだまだ修行が足りないんだわ」「気に病まなくてもいいんだよ。豪傑にはよくある話だもの」「代金は?」「あらあら。そうだったね。そこの品書きに書いてないかい?」「ない」「そうかい。そうだね。だったら、一〇〇円でいいわよ。寿命で払うなら命一〇〇日、恋人や女房の命で支払うなら一年」

 「さあさあ。とっととお入りよ。当たり前だろ?口上に偽りなしなんだ。年増女は色の惜しみなんかするもんか。ここには不幸な生い立ちで売られた女なんてはいないんだよ。由緒正しい名だたる桃源郷なんだもの。みんな精神も肉体も解き放たれた自由人なんだ状況の先駆の知識人なんだ。おまけに稀にみる床上手なんだもの。そうだよ。料金は公明正大。人民奉仕の哲学を徹底して、値上げは一切しておりません」

 「さあさあ。前の秘穴は、二〇〇円。寿命で引き替えなら二〇〇日。恋人や女房の寿命を差し出すならなら二年分だよ。互いに惚れあったあげくの身請け話には相談に乗るが、不要になった女房との引き換えはご法度だからね。ごめんこうむります」


-桃源郷-

 「触りたい?私のを?随分と物好きだわね?熟した女が趣向なの?母親から聞いたの?私の盛りの噂?それで、初めての女は私と決めてしまったの?二山も越えて?それで、衣服も傷ばかりなのかい?殊勝だね。嬉しいわ。あなた?歳を聞かせてくれない?」北帝は思わず、「一七」と、口走ってしまった。あの女医が脳裏を過ったのだ。「随分とひねた一七だね?それにしても稀に見るいい男じゃないか?女難を一身に背負っているんだね?いいわよ。触らせてあげるわ。お金?さあて、どうしようかしらね。あなたの口説き文句で、すっかり、女を取り戻してしまったんだもの。ほら、幾つに見える?あなたの好みを考えてみたんだけど。三〇?そうでしょう?
満足なの?だったら、純情の契約は成立したんだもの。…触りっこにしようかしら?あなたのを触らせてくれる?どう?」

 狸顔の腹をせり出したあの居酒屋の主人が、「本番は出来るのか?」「金と寿命があるなら思いのままだわさ。女の寿命を叩き売れる性悪男だって、そら?お前さんのことだよ?ここは罪罰問わずの桃源郷なのさ」

 中に入ると、一〇席程の桟敷のすぐ前に舞台があって、月明かり中に、赤い布団に伏せた女の裸体が浮かび上がっているのである。屋根がないのだ。
 横たわっている女が片足を、高々と上げた。股間が何の恥じらいも示さずに黒々と容貌を現す。
 つきたての餅の様な乳房を揺らして、女が身体を起こした。
 北帝が仰天してのけ反った。その女は、あの居酒屋で北帝の相手をしたあの小娘ともう一人の熟女を演じた、得体の知れないあの女だったのである。



儚七編

-向日葵-

 北国山脈から流れ来る北の国の名だたる大川に沿って、異様なほどに蒸し暑い陽気にでもあたったのか、腑抜けのような北帝がだらだら坂を歩いて行くと、向日葵の大輪に並んで、まるでその向日葵が化身した様な女が佇んでいた。やっぱり誰かの面影があると北帝は再び思うが、つい先程、あの通りの書店で本を読んでいた、三〇辺りの豊満な女なのである。
 男と視線が合ったかと思うと、半袖の青いワンピースの裾を翻しながら妖しげに歩み寄って来て、「さっきはしたかっんでしょ?」と、耳朶の辺りで囁いた。「どうしてわかるんだ?」「わかるわよ」「私も同じだったんだもの」「そればかりじゃないのよ。遂には挿入されてしまったんだもの」「誰に?」「出会い頭にそんな理不尽に及ぶのは、無頼な精神のあなただけに決まっているでしょ?違うかしら?」「確かに妄想はしたが、理不尽な行為などはしていない」
 「嘘おっしゃい」「…だったら、確かめたいんだ」「ご随意に…」「何故、俺の本があの本屋にあったんだ?」「可笑しいかしら?」「俺は地下文学専属のの作家なんだ。あんなところに並ぶわけがないんだ」「そうよね。こんな時流だもの。即座に逮捕されて…」話を折った男が、「何より、著者の名は俺になっていたが。『偽御門の儚』なんて、あんなものを俺は書いた覚えがないんだ」「特務機関の謀略なのかしら?」男も納得する。


-脳裏-

 「ましてや、あなたには徴兵拒絶の前科があるんだし…。或いは、この戦時下で、有閑夫人達との不純交遊も甚だしいし…」「不純交遊?」「隠しても無駄なことよ。あなた達の異様な欲望の事なら、私には何もかもお見通しなんだから…」
 「誰の事を言っているんだ?」「…例えば、皇女典子だわ」「馬鹿馬鹿しい。あれは小説だ。それも、未だ、構想を練り始めたばかりで。俺は一行も書いてもいないんだ」
 「何の一つもお分かりじゃないのね?今時の国家権力にとっては、不埒な着想そのものが罪なのよ。思想の弾圧とはそういうことじゃないの?ましてや、御門家の不浄の話でしょ?真っ先に摘発されるのは道理でしょ?」「そんなことで、あなたは散々苦しんできたんでしょう?」
 「皇女典子の構想は誰にも話していないんだ。何故、俺の考えていることがわかったんだ?」「そんなの簡単だわ」「あなたと私は、真髄で身体を許し合っているのよ」「真髄?」「功利や損得抜きの純粋な性愛よ」「どこでしたんだ?」「勿論、あの夢の中でしょ?」「…それって、夢の中の出来事なんだろ?」女が乳房を揺らして頷いた。「夢なんだから幻じゃないのか。証拠能力などないだろ?」 「そんなのは関係ないわ」「どうして?」「意識は何事をも超越するのよ」「時間にも空間にも呪縛などされないわ」「それって、夢の話じゃないのか?」「そうよ」
 「すると、さっきのあの本屋も夢なのか?」「夢には違いないけど。夢の中で実在しているのよ」「実在?」「そうよ。あの本棚の裏で私達は交接をしたでしょう?」確かに、その記憶は男の脳裏に生々しいのである。「ほうら。実感の記憶が蘇ってきたんだわ」「愉悦を体感したんでしょ?私と一緒にあなたは確かに存在した。そうでしょ?」

 「あなたの脳裏の真相を、私が望んだからだわ」「あなたの危険な噂ばかりを聞いて心配が募るのに、入手の方法がなかったんだもの」「だから?」「いつもの夢で祈願したのよ」「夢?」「そうよ」「どんな夢?」「あなただって、私と一緒に見てるでしょう?」北帝が頭を振る。「性夢だわ」「性夢?」「そう。あなたに挿入されながら名前を呼んだのよ」「誰の?」「あなたのに決まっているわ」

 「確かに妄想はした」「だから、それが伝わってしまったの」「僅か一〇秒ばかりだけど、私達は共通の性夢を堪能してしまったんだわ」「だって、あなたと私とは同類なのよ」

 「あの精神科の待合室にいたでしょ?」「あの日だわ」「空雷カラカミナリが凄まじく鳴り響いていた、あの昼下がりよ」北帝には覚えがあったのである。「納得した?」
 「あなたの後にあの女医の診察を受けたんだわ」
 「街を歩いていてすれ違った男の裸体を妄想するでしょ?って、聞かれたのよ」「待合室に精悍な青年がいたろうって、言うの」「あなたのことだわ」「あなたのことを妄想しなかったかって、聞かれたわ」「したって、答えたわ」「だって、本当のことなんだもの」
 「詳しく話しなさい、って言うから…」「みんな教えてしまった…」「あなたと私っ切りの秘密の筈だったのに…」「本当にごめんなさい」「何て言ったんだ?」
 「こんな正々堂々の吹きさらしじゃ、恥ずかしくて告白などできるわけがないでしょ?」「もう少し上流まで行けば、向日葵の畑があるの」「丈のある花花が満開よ。そこなら、すっかり姿を隠せるもの。心は解放されるから、なにもかもが自白できるわよ」「もっともっと、私のことを知りたくないの?」


-再会-

 「そこでは、もう一人、あなたの思い通りの女とも会えるのよ」「誰なんだ?」「その向日葵畑を耕した人だわ。そして…」「あなたが書きたくて仕方がないのに書けない女?わかるでしょ?」「あの典子なのか?」
 「決まってるでしょ?」「何故、典子がいるんだ?」「『党派の儚』の最終章を、未だ読んでいないのかしら?」「馬鹿な。あれは俺が書いているんだ。未だ最終章を書く予定はない」「未だ解らないのかしら?」「私はあなたの潜在の意識にだって潜伏できるのよ?」「だから?」「あなたが書けるように、今、仕向けてあげるのよ」「そんなことができるのか?」「ある時間と異なるある時間が混沌する瞬間に私たちはいるんだもの」「どうするんだ?」「典子がどうしているか知りたくない?」

 「初恋のあの人が忘れられないのね?」「何て純情なんでしょう」「そんな気質なんだもの、こんな時流に気がふれるのも当たり前だわ」
 「私だって、そんなあなたの思われ人になりたいわ」「でも、あの女医などもどうかしら?」「大人になってしまったあなた好みの身体なんでしょう?」
 「あらあら。おしゃべりばっかり。さあさあ。急ぎましょうね?」「その女も待っているんだもの」「いったい、誰なんだ」「初恋の典子?それともあの女医?或いは新しい女医?よりどりみどりだわ」


(続く)

北御門の儚 総集編

北御門の儚 総集編

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-12-29

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