土岐の鷹(終)
エピローグ
雲をつらぬく陽柱を、雄鷹はようと眺めていく。
みやこの変事から早十年。
信長を憧憬していた羽柴秀吉は、清須の会合で反目した柴田勝家の討滅後、織田の奔流として数多の勢力を併呑し、日ノ本の一統を果たしている。
威勢は津々浦々に止まらず、海を隔てた大陸を臨みはじめたものの、雄鷹はそれを知らない。
帰巣本能に従ったまま、淡路の島嶼を抜け出、荒ぶる播磨灘を越えていく。
堺湊の円楽を俯瞰しつつ、摂津大坂の大城を遊覧する。
濠のそばで売られる焼炭を量るあいだ、五徳で浮いた硝子皿に滴る水時計をのぞく女たち。
幟がはためく牛車に声をかけ、手笊を持ったまま、行商の示した荷台の山菜を子供に選ばせる男。
唐意匠の雑品が積み置かれた舟入のもと、とめどなく暖簾のうごく万屋上空を飛翔した雄鷹は、やがて大城の天守を止まり木とする。
「献上した長谷川等伯の仙龍図と狩野等顔の枯豆梅を、御贔屓になされたとのこと。御伽衆として、果報にございます」
金の鯱が輝きを増すなか、尾張弁の牧歌を諫めた声が響く。
「へいくわいものの古田織部が勧めたゆえ、納めただけじゃ。座興で呼んだのに畏まるとは、与一郎らしくないのう」
「そうおっしゃいますな。僭越ながら、本日はその御高配に甘んじた側者として、雅のひと振りを携えてまいりました」
しゅる、と帯封を解く音が聞こえてまもなく、おお、という耽美の嬌声がやってくる。
「ほう。当世にはない太刀拵えに、山吉兵をおもわせる厚鍔じゃ。刀身は……ふむ。古刀に相応しい沸匂の冴え、波打つ刀紋の締まり……まぎれもない秀品とみた。銘はあるか」
「切刃貞宗でございます」
男の泰語に沈黙が走る。
ややあってから、軛を断つかの嘆息が広がる。それでも金羅紗の直垂で着飾った初老の男は、「貰うぞ」と発する。
そのまま下がるようつたえ、ゆるやかな梯子段の軋みが消えたときには、声音を下げた建言が、さきの人物に取って代わっている。
「太閤殿下。織田さまを殺めた明智の所蔵刀を城蔵に収めるなど、不吉ではありませぬか」
「藻虫斎よ」
「は」
「戦場で狂い咲く漢どもと対峙したことはあるか」
「それは……」
藻虫斎とよばれた男は、いくらか思案したのち、力なく告げる。
「恥ずかしながら、一度もありません」
「ならば分からぬだろうな。味方の裏切りなど、戦では掃いて捨てるほどあった。……あの男は、わしらとともに織田さまの覇道を支え、最後に夢破れた。愚弄してよいのは、天下を治めたわしだけじゃ」
狼狽えた謝罪には見向きもせず、初老の男は天守閣の窓縁に片足を突く。
雲壌の光をみた黒瞳は、こちらに気づいたように枯声を漏らす。
「頑固者め」
視線を浴びた雄鷹は悠然と空を駆けはじめる。
海鳴りと重ねた風切そのまま、南へ、南へと滑空する。
大和川を越え、しなやかな針林の浮かぶ高原を過ぎ、反光のせせらぐ渓流に差し掛かったところで、まばらな葺き屋根を映す。
しばらくすると、羽を休めた河磯で蟹を啄んだ。
豁悟を終えた渚の平楽にこころを弾ませているのだろう。
土筆の伸び悩む時季ながら、雄々しく銛を携えた者たちは、舟唄まじりに息を吸いこむと、手際良く素潜りを行っていた。
激しく水流と格闘する者。
万感にはしゃぐ者。
それらを山彦に変えた霊峰は、一心精進に背後で構えていた。
雄鷹は衛視を外すと、身を翻した。
逆巻いた風を飛翼でいなし、高々とした紀伊の尾根を臨んだ。
いつから加わったのだろう。
数羽の同胞に追従させたまま、雄鷹は磨崖仏の刻まれた神石の台地を宙返り、そのまま惣村に舞い降りる。
かつては豊福寺とよばれた古寺を眺め、来襲したこちらに驚く人びとに動じないでいると、やがて塔頭の守人があらわれる。
「あの者は家におる」
慎ましい案内を申し付けられた人びとは、こちらにそれを促している。
なかには鉄砲を備えた者までいたが、撃つ気配はない。
むしろ彼らに続いたこちらを見守る面には、同郷の優しさが滲んでいる。
石段を抜けた彼らが止まったのを受け、雄鷹は羽ばたきをやめた。
視線の先には民家があった。
屋根から漏れた炊煙は、上空の霧に溶けていた。
それとなく雄鷹が近づいたとき、雨戸越しの活声がきこえた。
「ねえ。たまにはお父の分も食べていい」
「駄目よ」
「だっておっ母、きょうもお父は帰らないよ」
「帰るかもしれません。そのときにお腹が空いていたら、何も食べられなくてかわいそうでしょう」
囲炉裏を囲んだ三畳一間の板床には、三人分の木椀と木箸が用意されていた。
山菜を煮込んだとみられる鍋から、たっぷりと稗粥が木椀に注がれるも、藁敷の前に置かれた木椀の香りは気になるらしい。
箸を握りしめたまま、ちらちらとそちらを見ていた童は、よそられた自分の粥が眼前に置かれてまもなく、ふうふうと粗熱を冷まし、ぐいとお椀を傾ける。
あっという間に雑炊を平らげたかとおもうと、名残惜しい面持ちで木椀の粒をつまんでいる。
それをしずかに眺めていたところ、風が戸板を動かし、気を奪われた二視がこちらに気づいた。
「おっ母、タカ、タカ」
無邪気によろこぶ童の前で、女の手から木椀がこぼれ落ちた。
案内役の男が見守るなか、嗚咽する女を雄鷹は仰いだ。
ゆっくりと、ながい時を埋めるように瞳を合わせたのち、高らかに啼いた雄鷹は天翔した。
了
土岐の鷹(終)
あとがき
たまたまNHKで大河ドラマの紹介をみた。
それは土岐一族の名士であり、本能寺の変の首謀者として挙げられる明智光秀だった。この光秀という人物は、前半生が謎に包まれているのか、学術検証でもさまざまな見解が示されているという。
秀抜な理才を惜しんだ清和源氏の傍流が、百姓の庶子を家系図に添えるかたちで系譜に加えた。
美濃国主の土岐頼芸が斉藤道三に座を奪われる直前、領内にある妻木城で生誕していた。
あるいは足利室町幕府に仕える一門の誰かが、足利義輝の暗殺時に明智と姓を改めたとする異説など、話題に事欠かない。
私は史蹟に触れていくにつれ、明智光秀という人物に興味を持った。
それはある方との約束でもあった。とはいえ、これまで氏族の家譚には縁もない。
そもそも光秀という人物について、知っていたのは「本能寺の変で織田信長を討った謀叛人」という俗説程度である。学生時代の授業、画像・映像作品をはじめ、漫画・アニメ・ゲームといった新訳を除けば、観光で訪れた現地のトレイルランニングほか、郷土資料館などで学芸員の見解を聴講しつつ、それらしい文献を拝見した程度のものだった。
そもそも戦国末期とよばれた安土・桃山時代とは、どういう世界であったのか。
調べを進めていくと、どうやら風俗は江戸初期と似ていたらしい。
大きく異なるのは、士農工商といった身分制度が確立していない点だ。
実際、各地の大名たちは、商人でありながら侍となった者や僧職に就いた職人など、本業を掛け持つ者を士分に取り立てていた。
そこに国政が影響しない例はほとんどない。
なんせ侵略と防衛に明け暮れた国々は、早期の国力増強をもとめている。戦をすれば人と財貨は費消される。それを回避しようと、共闘したり、他勢力に与したり、同盟を結んだりと、外交面はもとより、死没者の後任確保は喫緊だったのだ。
そうした政情不安下において、食糧自給率の低下は顕著だった。
通常、領内の百姓たちの納めた年貢米でそれは保たれていた。
ところが有事となると、そうはいかない。
備蓄分は合戦の兵糧として使われてしまうし、略奪被害に遭いたくない百姓は逃散しているし、おまけに稲田は刈り取られるか焼き払われてしまう。
そうなれば商人たちの出番だが、現行の法人対応を見てもわかる通り、危機的状況には必ず〝利得〟が絡むため、交渉のみで事なきを得るのは難しい。
酷い時代だ。
それが戦国末期について調べはじめた私の第一印象だった。
ところが古文書や翻訳書、専門書・行政記録となる研究資料を中心に目を通すあいだ、別の感情も生まれた。
私の祖父が生きた時代もそうだったのではないか、と。
亡き祖父は戦争経験者だった。
五~十人の小隊に満たないグループの暫定指揮者で、ながらく派遣先の治安維持を務めていた。そして旧日本軍の無謀な侵攻作戦から、東南アジアの僻地まで進み、最後は捕虜となった。
帰国の途についたのは、終戦後の捕虜解放によるものだった。
そう聞かされたとき、小学生だった私は詳細をせがんだものだ。戦争のセの字も知らない孫相手とはいえ、父には語らなかった話までしてくれたのを憶えている。
もっとも、話らしい話は腰を抉った銃弾の痕と駐屯地の生活が大半だった。
歴史の文献が物語る残虐行為に関しては、さすがに閉口を貫いていた。
ふとそれを思い出したとき、私は調べていた戦国末期の氏族(侍)と帝国制を敷いていた旧日本軍を重ねた。
古人のなかには、自他を生かそうと考えた者たちが、少なからずいた。
たとえば豪雪地帯なら、厳冬期の前に食べ物を中心とした備蓄を増やさねばならない。
あえてその時期に出兵するのは、自国を雪害の天嶮に護らせたまま、雪解けの春に戦果を運ぶためともいわれている。
交易ばかりに頼れない北陸の国々は、時にそうした手段を辞さない。では気候の重ならない国々は違うのかといえば、そうともいえない。新型コロナウイルスで世界が揺れたいまと同じく、「万民に資する|公《おおやけ》の思惑」と「政権に資する|私《わたくし》の思惑」という、国家の両輪たる地保固めに腐心している。
少なくとも私にはそうみえたが、まだ「人権」という言葉がなかった中世において、国を富ませた国主は自領民から善政を崇められ、外征先の他領民には略奪者として恨まれていた。
ようするに、盗賊まがいの国々がひしめく乱世とは、公私に係る豊さをもとめた結実のひとつだった。
その中でもっとも先見の明があると感じたのは、尾張半国を手中に収めたときから海運による商業振興策を奨励していた、織田家の経済観念だった。
奇しくも私の生まれは織田信長の没した変事の四百年後だ。
妙縁といえるかどうかはわからないが、ともかくこの人物の功績を覗いてみよう。
ふとしたきっかけではじまった行跡確認は、当時において最側近の一人と目された惟任日向守光秀こと明智十兵衛光秀の御家を通じた視景につながった。
あの時代を生きた人びとは、何を見、何を思い、何と向き合っていたのか。
|退嬰化《たいえいか》した豪族を武で調伏しつつ、氏族は完全な兵商教農の分離には至らなかった。
無数の人傑が盛衰を繰り返すなか、新進気鋭の国家観を宿した織豊時代に、光明はあったのか。
私を含め、これを読了された方の一考につながることを願う。
なお、惟任光秀の居城、近江滋賀坂本の天守構造に関し、現地在住の方、ならびに戎光祥出版の方にはお世話になりました。
この場を借りて厚く御礼申し上げます。
令和三年初春
雲 心