土岐の鷹⑧

雲心

   八


 藪葉(やぶは)の陰で、大津と堅田に挟まれた霧はうごいている。
 編み笠の隙間を映した男は、二人の僧に合図を送ると、比叡山の峠を急ぐ。
先達として前を()く僧の足取りは軽い。
その野々口西蔵坊と伴僧のもと、今道越(中山道)で近江坂本から京のみやこに向かうあいだ、いくつもの戦景(せんけい)が去来する。
織田軍が流入した第一次丹波侵攻戦。
カ年に及んだ多紀八上の陣。
福知山城を任された明智秀満に粘り強く抵抗する高見城。
播磨三木で起きた竹中重治の陣没から、丹波を離れる羽柴勢に合わせて裏切った丹波国人たち。
あの年の丹波夏陣は、想像を絶する激しさだった。
平定に漕ぎつけたのは、鈴虫の音がきこえた九月。
氷上国領の落城を見届け、正式な恩賞の沙汰を待つ身となったときである。
そのころに起きた家中騒ぎは鮮明に覚えている。
元美濃国主、斉藤道三の娘を妻女とした姉小路頼綱が、居城を飛騨松倉に移してまで、桜洞城ともども家督を相続させた嫡子の姉小路信綱を、上杉と通じた謀反の疑いで抹殺した。
 徳川家康の治める三河国では、家康の嫡子の岡崎城主、松平信康とその正室の築山御前が、信長の指示で処刑された。
「どうやら甲斐の武田勝頼は、謙信没後の跡目争いで手を貸した上杉景勝と甲越同盟を結ぶべく、亡き信玄の娘、菊姫を嫁がせるようです」
 黙々と野道をすすむ西蔵坊の伝えたところでは、前年に交わした起請文(きしょうもん)に兆候がみられたもので、輿入れの準備に際し、国主の武田勝頼自ら行うほどの入れ込みようであったという。
相次いで起きた織田軍将の嫡子殺害は、甲越同盟に絡んだ戦場工作ではないか。
そうした噂こそあれ、各地を任された将兵には、「織田信長の令達で大家が身内に手を掛けた」という事実は他人事ではなかった。
とはいえ明智軍が丹後の一部と丹波を平定し、以南の摂津に至っては、反旗を翻した荒木村重が、居城有岡の一族郎党を見捨てるように逃げている。
北から丹後、丹波、摂津と、縦断する兵站線を三国に走らせた西国攻めは、降伏間近となった長曾我部勢の四国を含め、攻勢そのものだ。
同時に西方に拘泥するあまり、均衡を保っていた東国の情勢は不穏をまとっていた。
ところが対応の是非はといえば、特別なことはしていない。
(日ノ本一統の途上にありながら、織田は精彩を欠いてしまった)
安土で丹波平定の功を称えられた行幸が(かす)みはじめたとき、先達の西蔵坊が背後にまわした片手で印を結ぶ。
 はるか前方には、こちらとおなじ諸国行脚(しょこくあんぎゃ)の僧侶が歩いている。
 黒色の鈴懸(すずかけ)は、修行中の身を示した法衣のひとつだ。
それも八葉蓮華(はちようれんげ)草鞋(わらじ)を履くあたり、不動威怒明王(ふどういぬみょうおう)法身(ほっしん)といったところか。
緩やかな勾配は、道幅の狭窄を予感させる。
抱合峠(だきあいとうげ)」とよばれた難所で、男はすれ違う僧らに道を譲った西蔵坊に倣う。
細路の手前で一行をやり過ごすかたわら、揃いの斑蓋(はんがい)(編笠)が無事抜けたのを確認すると、穏やかな会釈に応えた歩を勇める。
 まさにそのときだったか。
「お坊」
告げた男の制止を振り切り、西蔵坊は最後尾の僧侶に瞬打を見舞った。
当て身で近づいた右腕は二人目が抜刀しようとした()を抑えている。
その膠着(こうちゃく)で僧たちが一斉に木杖を振りかざしたため、男が打刀を抜こうとするも、背後にいた伴僧が躍り出た。
山路で交錯をはじめた二人をよそに、突き出された木杖の群れをいなした別の伴僧は、向かい来た足を払った。
相手は木杖を絡めとられるように滑落し、いきり立った別僧は下腹を打たれて落下していく。
そのすがたに恐れをなしたのか、残された者は、木杖を構えたまま距離をとった。
「まだ歯向かうか」
言わんばかりの形相で伴僧が奪った木杖を構えたときには、怯えた彼らは我先と逃げはじめる。
そのころになると、僧侶のひとりを封じた西蔵坊は、威迫を宿していた。
「近江長浜を通る際、お前とよく似た者をみかけた」
両膝を地面につかせた両腕は、伴僧と一本ずつ分けられている。
二人に背後から抑えられたせいだろう。
僧侶は僅かに口元を歪めていたが、西蔵坊は気にする風でもなく、冷ややかな視線を浴びせる。
「滑落した新客(先達=先頭の僧侶に続く修行中の末僧)以外は、そこらで雇った浪人だな。はるばる羽黒からやってきたのか」
「…………」
「お前の足取りは掴んでいる。出羽三山の羽黒から近江長浜の城下まで足を延ばしたのち、湖畔を巡るかたちで京都入りを果たした。いまは探索で得た如響(じょきょう)の帰途といったところか」
如響とは、己の歩数や目測で城砦および山河の地形を記録し、策謀に利用することだ。
細かな間取りや屋内設備の有無など、権謀の成否にかかわる踏査には正確な実数が求められるため、諸国を流浪する旅僧はうってつけである。
「僧門を経験した者であれば、僧名は本山に残るため、変装がばれても疑われる心配はなくなる。そのようすをみるかぎり、最上、あるいは伊達の兵か」
「……拙僧(せっそう)は修験の道を往く者。空腹ゆえ、つい魔が差して襲った次第にございます」
「ほう。訴えたその息は物語っているが」
片腕を捻り上げたまま、西蔵坊は僧侶の首に腕を巻きつけた。
 途端に彼は苦しみ始めた。
 袖からのぞく毛むくじゃらの剛腕で首を()められたのだから無理もない。
みるみる顔が紅潮した僧侶は、念入りに絞られたところで解放された。
「息も絶え絶えだな」
西蔵坊の卑笑(ひしょう)に僧侶は血走った眼を向けた。
もっとも、睨まれた西蔵坊の興味は、呼吸を荒げたまま(いきどお)る鬱血顔ではなく、封じた腕の手首に注がれている。
「だが苦しむふりをしても脈は正直だ。この落ち着きようは、反撃の機会を窺ってのもの。整息の術を知る者でなくては行えん」
「貴様……」
精神統一から空気を吸い込んだのち、吐息で鼻先の灯火や羽毛が微動もしない技は、足音を消す無足・体臭を消す無臭とならぶ三無忍の一条、無息とよばれる。
 その無息には、血中に酸素を溜めこむ技があり、修練で染みついた反射反応が、とっさの拍子に出たのだろう。
()えて主家は問わん」
放った西蔵坊は、共に封じていた伴僧を促すと、僧侶に自由を与えた。
 相手は処遇に驚いたようすだった。
もっとも、
「近江坂本に不動尊が安置されていると知り、入峰修験の黒法衣を選んだようだが、この界隈(かいわい)では白法衣の者しかいない」
発した西蔵坊が「行け」とばかりに貝の()で結ばれた法螺(ほら)を叩いたときには、(ただ)された編笠は(ひるがえ)っている。
御仏(みほとけ)往土(おうど)を血で汚すな」
その背に投げる構えをみせた伴僧を(いさ)めたところで、西蔵坊は何事もなかったように歩き出した。
難所の峡路を抜け、蛇の揺する(こずえ)をくぐり抜けると、湧き出た石清水で一服した。
小休止した男が口を開いたのは、残りの段丘を登りきったときだ。
「この比叡山では賊が増えている」
「それは放逐したことへの不満ですか」
西蔵坊の横顔がこちらに傾き、秘然とした歩が緩まる。
「お坊よ。明智の家は平定した丹波の復興に注力している。このような時期に慈悲を与えるなど、敵国をのさばらせるだけではないか」
「心配には及びません。我らの配下は、(あまね)く領内を監視している。放逐したあの僧侶にしても、的はつけました」
「的とは」
「判断指針となりうる事象と申しましょうか。さきに関していえば、衣の選色をなじったことです」
「比叡山の周辺に黒法衣を着る修験者はいないという指摘か」
「はい」
西蔵坊の背負った(おけ)が、いくらか上下する。
「近江に長らく住んだ者なら分かりますが、遍路(へんろ)を除く比叡の修験者は着ている衣が多様です。思想や出地の習わしなど、目的別に色を変えることもあるため、特定色に依拠(いきょ)するものではありません」
「ほう。するとあの僧に『白法衣』と告げたのは、焦点を定めるためか」
「ご明察の通り、あのようすでは、次から黒法衣と白法衣とを使い分けるでしょう。より味方の網に掛かりやすくなります」
種々の衣が飛び交う往来監視では、素材や染色法といった地域の特徴点があらわれやすい修験衣は、人定(じんてい)を照会するための手段となる。
西蔵坊は吐露とともに歩を戻した。
(ただ、それだけが理由ではない)
 笑みを消した彼の背は、男にとって頼もしい幇助(ほうじょ)であり、また不安要素でもあった。
 あの場で試したのは、同種の兵であることを悟らせるだけでなく、格の違いをみせつけるためでもあったのだ。
あっさりと仲間を倒されたあの僧も、拘束時点では逃げる隙を窺っていた。
 そこで西蔵坊は、言動から上下の地位を自覚させ、諦観(ていかん)を植えつけた。
「織田家はお前のような未熟者を見過ごさない」と暗に示したのだ。
そのうえで「この辺りの修験者は、黒法衣でなく白法衣だ」と(ささや)いて自由を与えたのは、まさに無法の騙し手といっていい。
男はそのことに気づいている。
寛大(かんだい)な措置に驚いたあの僧侶は、助かった安堵による興奮と常人を超える聴力から、逃走を阻害しようとした伴僧を「御仏の往土を血で汚すな」と制止した言葉を受けた瞬間、西蔵坊の慈悲を痛感し、「さきで受けた衣の指摘は真実かもしれない」といった誤解が刷り込まれる。
 あとは西蔵坊の示唆した通り、比叡山には多様な衣の修験者がいることを踏まえ、着ていた黒法衣に指摘された白法衣を加えた選択肢を採ってくれれば、しめたものだ。
 情報を共有した仲間・協力者がいればなおさら、あらゆる状況を想定して動く織田の工作部隊からすると、あの解放は今後に資する判断材料となったにちがいない。
(きょ)(じつ)を使い分ける者の為せる業だ)
男は改めて丹波国が彼らのような地侍で(ひし)めいていたことを認識する。
下り坂からすぐみえた粟田口(あわたぐち)にならぶ木柵中央、釘貫(くぎぬき)とよばれた番所の木戸を抜け、みやこに入る。
京都は足利政権の時代、御所や公卿(くぎょう)の屋敷が置かれた北側を上京とし、商工があつまる南側を下京として区別された。
もっとも、それ以前の景色は違っていた。
「唐土のように、右京(西部)は長安、左京(東部)は洛陽と名づけよう」
かの嵯峨天皇(さがてんのう)が発した勅書(ちょくしょ)から、四百年ほど(さかのぼ)った古国の市名が定着するほど、大陸文化は反映されている。
「お坊もこの架橋に加わっていたな」
(わらべ)の遊び場となっていた鴨川(かもがわ)を右手に迎え、南へ南へと折れていくあいだ、四条の大辻(おおつじ)に向かってのびた大橋を男は(そら)んじる。
 唐土由来(もろこしゆらい)の日傘、青羅傘蓋(せいらさんがい)を掲げた足利家の門閥(もんばつ)が行き交うこともあれば、将軍が家臣の館を来訪する御成(おな)りで、(きら)びやかな棟立輿(むねたてごし)が出入りしたこともあっただろう。
栄華はすでに去ったとはいえ、正親町天皇(まさぎまちてんのう)と皇太子の誠仁親王(さねひとしんのう)が住まう二条新御所を中心に、関白の一条内基(いちじょううちもと)太政大臣(だじょうだいじん)近衛前久(このえさきひさ)京都所司代(きょうとしょしだい)村井貞勝(むらいさだかつ)といった貴人の屋敷があつまる居相(いそう)は、鴨川を渡らず南下した男らの()びしい景観とは比ぶるべくもない。
ほどなくみえた建仁寺(けんにんじ)ちかくの木橋を渡った。
そのさなか、後ろ背とした六波羅探題(ろくはらたんだい)の跡地に()せる者をみた。
 出稼ぎにきた商人だろうか。
 荷駄を詰めた背負子(しょいこ)を丸め、合唱して般若心経(はんにゃしんぎょう)読誦(どくじゅ)するようすは、嵐山(あらしやま)の北にある化野(あだしの)船岡山北西(ふなおかやまほくせい)蓮台野(れんだいの)とならぶ風葬地(ふうそうち)鳥部野(とりべの)屍霊(しりょう)を慰める遺族とそっくりだった。
(織田さまの布陣した地だ)
男はそれを憶えている。
決定的な確執から、宇治槙島城(うじまきしまじょう)蜂起(ほうき)した足利義昭(あしかがよしあき)をみやこから追放したとき、信長は本陣をあの場所に据えていた。
 一時代が終われば枯野(かれの)に沈む。
盛者必衰(しょうじゃひっすい)を心得た氏族の末裔(まつえい)としての矜持(きょうじ)かもしれない。
かの応仁・文明の乱で細川勝元と山名宗全の東西軍を隔てたという、寺之内通(てらのうちどおり)の小川に架かっていた百々橋(どどばし)の焼失を受けたときも、惜しむように安土山のふもとの再建を命じていた。
あの頃の信長は、新旧問わず、気に入ったものを()れていた。
だからこそ織田家に取り入ろうとする者は増えつづけた。
当時の朝廷は腑抜(ふぬ)けていた。
それでも強欲な者はおり、上洛したての信長を「上方(かみがた)の理に|疎『うと》い尾張の田舎者」と見定め、戦乱で(すた)れた(みかど)の義心を植えつけようと画策したのは、近衛前久だった。
「信長の官職推任(かんしょくすいにん)は、もはや()れの一存だ」
朝廷の威信を餌とする。
向後(こうご)の算用をこちらに明かしたあの男の建言は、内宮(ないくう)でも受理されていたらしい。
知らず知らずのうちに、信長の戴官(たいかん)は、正親町天皇の譲位・誠仁親王の即位と同時に行われていた。
やがてそのことに気づいた信長は、太政大臣の近衛前久と関白の一条内基に匹敵する征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)授位(じゅい)の打診を保留している。
 先延ばしの理由として挙げたのが、後継者と目された嫡子の存在──低位に甘んじていた信忠の推任とはいえ、勅旨(ちょくし)に背く就任固辞は、あらぬ憶測を呼んでいる。
東山(ひがしやま)の名残が遠ざかっていく。
作道を西へと進む道すがら、万寿寺、猪熊御殿に併設された本圀寺(ほんこくじ)、戒光寺と、時代の壮者が(よみ)(たてまつ)った古刹(こさつ)を過ぎたところで、男は戦火で朽ちた羅城門の守護柱のひとつ、東寺(あずまでら)を眺めたところを呼び止められる。
「珍しいこともあるものだ」
男は邂逅(かいこう)した人物に朗笑(ろうしょう)する。
寡黙(かもく)な上に、あっさりと勇将を凌ぐ高身(こうしん)大音声(だいおんじょう)で返事をすれば、耳目が集まらないはずはない。
下鳥羽(しもとば)の外れに馬借がある。馬を借りるまで歩くか」
 ついと男がうながしたところ、織田家の御茶頭(おちゃがしら)千宗易(せんのそうえき)(利休)の大歩は、応じるように小股と変わる。
道端で茣蓙(ござ)をひろげた行商が客引く下京を離れ、ぽつぽつと石臼(いしうす)をあつかう石切や桶樽(おけだる)を販売する結桶師(ゆいおけし)といった商屋がみえはじめたとき、千宗易はこちらに呟いた。
「村井貞勝どのの茶会に呼ばれ、これから(さかい)の屋敷に戻るところでしたが、よければ点前(てんぜん)などは」
「ここで一服つけるのか」
「この辺りにみやこの景勝(けいしょう)はありません。書院や台子(だいす)の苦手なわれらには、またとない場所かと」
 男はしばし考えたのち、点前を承諾した。
 おそらく若い時分には、草筵(くさむしろ)引敷(ひっしき)とした野点(のだて)もしていたのだろう。
千宗易に勧められるまま、一行は無人の庶家に立ち入った。
「薄茶を()てます」
外で供を待たせたまま入った平屋に、千宗易の低声(ひくね)がひびいた。
網代(あじろ)の天井は手入れされていない。日向(ひなた)に変わった土間も、水瓶(みずがめ)の残骸が散らばっている。
この場所を知っていたのだろうか。
男は無言で茶を点てはじめた千宗易の相貌(かお)を見据えた。
魚屋(ととや)「千家」を営んでいた彼の父、田中与兵衛は魚介をあつかう納屋(なや)(倉庫)を保有していた豪商で、堺では自治組織の納屋十人衆に数えられるほどであったという。
長男だった千宗易は、親族に誘われるまま、物心ついたころには富商の(たしな)みとされた茶湯を学んでいた。
 そうした事情を差し引いても、転がった朽木(くちぎ)(まき)とし、永らく眠りについていたかまどを用いることなく、所持していたわずかな火具で点前を行うすがたは、流石(さすが)というほかない。
茶釜(ちゃがま)の葉を瀬戸焼碗(せとやきわん)に投入し、()かしたての湯を冷ましては、注いで混ぜる。
一介の茶人であれば、あの一連の所作は、さも典雅(てんが)なものとして行われるのが常だ。
ところが眼前の人物は、織田家の御茶頭となる以前から、そうした上流階級にありがちな芸事は好んでいない。
気配を断つほどの精緻(せいち)かつ迅速な流麗(りゅうれい)さ。
俗世(ぞくせ)を切り離した精神領域とすべく、一期一会(いちごいちえ)の客人を原初(げんしょ)に導く能事(てなみ)
それこそが、体面を飾り立てることに囚われた台子茶(だいすちゃ)からの独立を目指した村田珠光(むらたじゅこう)と、立場を越えた心前(しんぜん)(いこ)いを趣向(しゅこう)とする愛弟子(まなでし)武野紹鷗(たけのじょうおう)を生涯の師と仰いだ織田家の御茶頭、千宗易の勤仕(きんし)である。
「どうぞ」
 男は点てられたばかりの薄茶を口に含んだ。
 (ほの)かな苦みと温みが、歩き通した身体に馴染んでいく。
閉眼したさきには、桂籠(かつらかご)花入(はないれ)圜悟克勤(えんごこくごん)墨蹟(ぼくせき)を掛けた一室が浮かんでいた。
「美味い」
億尾(おくび)に出すことなく、ことりと置いた瀬戸焼碗の重みで男は開眼した。
座礼を合わせ、(おごそ)かに庶家を出ようとしたところ、謐静(ひっせい)を貫いていた千宗易の声があった。
「迷いが出ています」
戸板を抜けようとした男は足を止めた。
 そのまま立ち尽くした背に、千宗易の投げかけが降りてくる。
疾風(はやて)のごとき点前から、いつしか『手上手』と持て(はや)された私も、かつては思い悩んでいました。父から継承した魚屋を営み続けるのか。それとも別の道を歩むのか。千宗易と名を改める前の茶号『抛筌斎(ほうせんさい)』は、代々つづいた魚屋秘伝の漁具「笹筌(ささうけ)」を(なげう)つと決めた、私なりの覚悟です」
「…………」
「しかしどれだけ点前が上手かろうと、独自を生みだす気風がなくては、茶湯は極められない。茶事を工夫する作分は、すでに先達によって、数々の知啓(ちけい)が開かれている。上洛した織田さまに茶をふるまったのは、茶人としての生き方に()んでいたときでした」
男が振り向くと、言葉を切った千宗易は、真摯(しんし)にこちらを仰いでいる。
 言われもしない昔語りを初めて目の当たりとし、(いざな)われるように対座すると、千宗易は低頭する。
「越前の一向一揆を憶えていますか」
「ああ」
男は鎮圧部隊の将だった風月(ふうげつ)をよぎらせる。
「鎮圧戦で織田さまに求められた私は、堺をまもる豪商の一人として、他商人の反対を押し切るように鉄砲の玉を調達し、ほどなく織田家の御茶頭となりました。そのとき初めて、私にとっての『作分』は、侍たちの学んだ禅の思想と近いものであることに気づかされたのです」
「それでは『草の茶』とよばれた貴殿の点前は、禅の茶か」
「はい。運慶(うんけい)と|快慶『かいけい》はご存知でしょう」
「仏師(仏像の彫り師)として名高い古僧だな」
「彼らには揺るぎない精神がありました」
磁器(じき)の破片だろう。
床の裂け目に挟まっていたそれを拾い上げ、黒煤(くろすす)を布で払った千宗易は、
「どちらも卓抜した仏師でしたが、思想は相容れないものでした。彼らが生きていたのは、戦で荒廃した鎌倉幕府の時代です。源氏の棟梁(とうりょう)たる頼朝公(よりともこう)に仕えた運慶は、権力をまとった御仏の教えこそ、争乱の犠牲となった衆生(しゅじょう)を救えるものと考えた。弟子である快慶もまた、その教えに敬虔(けいけん)でしたが、ある時から疑問を持つようになる」
「…………」
「頼朝公に仕えた運慶の活動は、氏族の権威を高めるための偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)(おちい)っていた。繁栄の陰には、戦で何もかもが奪われ、忘れ去られた人びとが大勢いる。そんな彼らに目を(つむ)り、侍たちに諸手(もろて)を上げて御仏の威厳を高めるのは、あるべき救済のすがたではない。結論に達した快慶は、師である運慶のもとを離れ、庶民のための布教と仏像づくりに心身を捧げました」
「……本位貨幣(ほんいかへい)を任された後藤家のように、貴殿は運慶の生き方を選んだのか」
男は刮目(かつもく)して千宗易を仰ぐ。
「そのつもりで御茶頭の仕官を受けました。ただし、目的は織田の掲揚(けいよう)ではない」
「では茶湯の真髄(しんずい)を修めるためか」
「修練だけなら、場を選ばずとも出来ましょう」
素手によって磨かれ、輝きを取りもどした磁器片(じきへん)を置いた千宗易は、
「私が目指すのは、蔓延(はびこ)る因果のなかで、こころを戻せる時間。魂の()り所と置き換えてもいい」
「魂の拠り所だと」
「過去は戻せないが、こころは(かえ)れる。快慶が臨んだ往生(おうじょう)の思念です」
いうなり千宗易は、(ふところ)から木造りの座像を出してみせる。
「これは私が幼い時分に彫ったものです。不格好(ぶかっこう)なものですが、長くみつめていると、初めて(のみ)木槌(きづち)に触れた感情がよみがえる。参陣した越前一向一揆の鎮圧戦で、不動明王の木像を拾ったあなたなら、理解できるはずです」
男は沈思(ちんし)する。
越前の小合戦における指出記録(さしだしきろく)の一部は、織田信長の目に触れることなく、明智軍のあいだで留められていた。
それは不動明王の木像が坂本城に安置された以後も変わらず、特別な像であることも秘匿(ひとく)されている。
(この男はどこでそれを知ったのか)
男は無常をあらわした千宗易を推し量る。
あの不動尊には、越前朝倉家秘蔵の脇差が納められていた。
まもなく短命かつ腕利きだった刀工、越中新川の松倉郷に在住する、|江義弘『こうのよしひろ》の作刀と知らされた。
のちに「俱利伽羅江(くりからごう)」とよばれたそれは、加賀の長楽寺に奉納された御神刀の一振りである。
唐土で学んだ教えをひろめた弘法大師(空海)の彫った俱利伽羅の化身「不動威怒明王(ふどういぬみょうおう)」が本尊として(まつ)られる際、諸悪を断ち切る宝剣として片手には中太刀が持たされ、万物と向き合う右の対眼として、あらゆる慈悲を飲み込む苦心をあらわした左閉眼を内包すべく、体内に納められた脇差である。
その本尊を戦で朝倉勢が簒奪(さんだつ)し、発見後に家宝としたのが、江義弘の無銘の脇差「俱利伽羅江」だ。
かつて朝倉家の下士だった男は、人知れず存じていた。
織田に敗れた朝倉義景の馬廻衆が、主君自刃の介錯人として立ち会った際、不動尊に脇差を戻していたことを。
やがてそれが、名もなき寺に預けられたことを。
男が敗残兵の扇動する越前一向一揆の鎮圧部隊として遣わされたのは偶然だったにしろ、敵勢の逃げ込んだ古寺を囲んだとき、流れついた木像を目にした震撼(しんかん)は言葉に表せない。

天に導かれた────

宝剣を(いただ)く右手こそ奪われたものの、本体は壊されずに残っている。
すぐさま接収をうながした頭は、戦後の論功行賞のことで一杯になり、後顧(こうこ)を部下に託した。
やがて戦利品の確認記帳が入る直前、納められた脇差を密かに取り出すことに成功している。
(あの事実を知る者は、屋外で待つ伴僧しかいない)
男は搔痒感(そうようかん)を抱いたまま、平静(へいせい)()いた。
「茶湯には、『祖師に習い、作分は新にせよ』という言葉がある。話を聞く限り、貴殿は庶民を()とした快慶のこころを受け継ぎながら、進んで運慶の立場をとっている。矛盾はないか」
「ありません」
「両方の利潤を得たわけではないと」
男が詰問(きつもん)すると、千宗易は不出来な木像を懐にしまう。
点茶の残り香が鼻を(かす)めている。
 こちらを眺める瞳が陰をまといはじめたことから、小さく咳を払った刹那(せつな)、男の前で乾いた音がする。
「これが答えです」
挑発的な諮問(しもん)から、気が(たかぶ)ったのか。
はげしい柏手(かしわで)の一打を受け、屋外で待たせた伴僧が覗き込んできたものの、男は意に介さず疑義を向ける。
が、いくら質そうと、柏手を響かせた千宗易は首を振る。
良薬(りょうやく)は過ぎれば毒となる。差し上げた点茶でさえ、(たま)れば濁るもの。私は織田の御茶頭として、御家の清浄に生涯を捧げています」
「茶人が御家の清浄とは、大それた精神だ」
「はたしてそうでしょうか。快慶は民に寄り添うあまり、支えていた氏族の庇護を良しとせず、道行く人びとを救うには力が足りなかった。一方、為政者(いせいしゃ)の後ろ楯を受けつづけた運慶はそれを有していた。日ノ本を統べるのが侍ならば、侍が秩序をもたらすよう、導くものを示せばいい」
「それが貴殿の見出した、禅の茶か」
「澄みきった清水では、魚はいずれ住めなくなる。かといって、(よど)みすぎても同じこと。対極に寄らないためには、(うち)から支える存在が必要です」
権を内より調(ととの)えてこそ、日ノ本は安寧(あんねい)に包まれる。
千宗易の覚悟を前に、蒲柳(ほりゅう)(たち)だった男は、久しい壮健を得た気がした。
「どうやら()きものは落ちたようですな」
微笑んだ千宗易に男は座礼を返す。
西蔵坊らと庶家をはなれてまもなく、伴僧から俱利伽羅江の脇差について見知っていた千宗易の処遇を示唆(しさ)されるも、相手にすることはない。
(あれは打ち明けられた秘密を漏らす軽口者(けいこうしゃ)ではない)
気骨を知っているからこそ、身上を語った千宗易に(こた)える気概(きがい)は満ちている。
(いたち)の走り去った馬借で馬を借り受け、巨涼池にながれる桂川(かつらがわ)をわたり、久我畷(くがなわて)畦道(あぜみち)を北上する。
てらてらと水田の照り返しが(まぶ)しい砂利道と変わったにもかかわらず、辺りは深々と冷えている。
土地神を(まつ)る惣村かもしれない。
茅葺(かやぶ)いた家屋の向こうには、途方もない山樹がそびえている。
「このあたりに知り合いでもいるの」
貸した馬が盗まれないよう、幼い馬曳きとして帯同した馬子(まご)にそう言われ、鞍上(あんじょう)の男は首を振る。
懐かしさがそうさせたのだろう。
生誕したはずの美濃も、戦火で移った越前も、のどかな田園風景がひろがっていた。
この村のように、大地を耕す百姓のおおくは、豊穣(ほうじょう)の神が宿るとされた土地神を信じ、田神を奉じている。
元旦の祈祷(きとう)。春の籾撒(もみま)き。苗代(なわしろ)からとった単苗の移植。
それらが水田につながるのは、沢から引いた水が張られたときである。
(かか)る節目には、(まい)御囃子(おはやし)をとりいれた田楽踊(でんがくおど)りが、行列として田圃(たんぼ)(すそ)を練り歩く。
近隣の寺の住持(すみもち)(住職)は先頭を預かり、つづく巫女らは詠歌(えいか)に舞い、つられた百姓は稲に降誕した神が豊作をもたらすと信じ、誰もが土唄を口ずさむのだ。
そうやって秋の刈入れがくるまでは、あの稲田を見守り続けるのかもしれない。
(くわ)と牛に曳かせた(すき)で地面を(なら)す百姓たちに混じり、鳥避けの鳴子(なるこ)とつながった案山子(かかし)の影は、ゆらゆらと山瀬に打たれている。
一行は竜骨車のすぐちかく、水路をただよう投げつるべを手繰り寄せた百姓女のもとで、草木灰を運び入れた童らの小屋を通りすぎる。
隣村を走る篠山道(しのやまどう)に差し掛かり、そのまま丹波につながる峠を越えたあたりで、西蔵坊の馬を曳いていた馬借人から、これ以上の同道は遠慮したいとの申し出があった。
「峠を越えたら馬針(ばしん)で血を抜いて休ませねえといけねえんです。お代をいただいてもよろしいですかね」
西蔵坊はこちらを仰いだのち、馬から降りた。
「いくらだ」
「三人ですから、下鳥羽(しもとば)から沓掛(くつかけ)の山道までが三十銭。峠越えは倍をいただくので、老ノ坂(おいのさか)を過ぎて六十銭。しめて九十銭となりやす」
「よかろう」
西蔵坊がすぐさま貫文銭(かんもんせん)を渡した。ところが快く受領するはずの馬借人は、みるみるうちに顔を(しか)めた。
「お坊さま、こいつは洪武銭(こうぶせん)ですかい」
「そうだ」
「あいにく明銭の受け取りは、永楽銭(えいらくせん)しか受けつけねえ決まりなんですが」
「不服と申すか」
 西蔵坊が苛立ちを上げた。
 男はそれを制するあいだ、困惑した馬借人の言い分を察した。
巷間(こうかん)で粗悪な鐚銭(びたせん)が出回っているせいか」
「へ、へえ。明の永楽銭か質のいい栄銭、あるいは切銀じゃなけりゃ受けとるなと、古女房にやかましく言われておりやして」
頭を掻いた馬借人に、西蔵坊はこちらを仰いだ。
使僧としての立場から、洪武・永楽・宣徳の明銭ほか、古銭である(そう)の銭はもちろん、金判や銀判の用意立てくらいはあるはずだが、京のみやこを往還した後なので、使用頻度の高い永楽銭の持ち合わせは少ないのだろう。
視線を受けた男は、伴僧に示してまもなく切銀(きりぎん)を放った。
「こ、こんなに貰ってもよろしいので」
「構わん」
 法外な拠出(きょしゅつ)に馬借人は動顛(どうてん)した。
それでも掲げた両手ごと頭を垂れるすがたは、水田で風雨に耐える青稲のように(みの)るかもしれない。
百姓一家と判じた馬借人に見送られるまま、男らは西へと向かう。
僧人ならずとも霊験(れいげん)は感じられる。
視界にひろがったのは、山城国と丹波国にまたがる神護の(やま)愛宕(あたご)だ。
庇護者によってつくられた入山道を上りはじめれば、華香(けこう)に使われる(しきみ)腐花(ふか)が鼻をくすぐり、白彩を散らす沢蓋木(さわふたぎ)の繁みが待っている。
日射のない山中に溶け入るなか、勝地院、数学院、大善院、成徳院、福寿院ら五坊の愛宕社は、ひっそりと(たたず)んでいる。
やがて男の瞳は、参詣路(さんけいじ)宝形(ほうぎょう)()ばした社殿の枢核(すいかく)紺碧(こんりょく)の台地に置かれた愛宕寺を臨む。
愛宕権現太郎坊(あたごごんげんたろうぼう)を祭神とし、勝軍地蔵を本地仏とした。
火伏せの神が(まつ)られた神社として、永らく庶人に崇められている名刹(めいさつ)に辿り着いてまもなく、一行は西蔵坊の先導に従う。
「あなた方が最後です」
別客の来訪から久しかったのか。
沓脱(くつぬぎ)を経、愛宕寺の社に上ると、歌会に参加した者たちは、到着を心待ちとしていた温和をみせる。
「少々待たせた。招いた者は全員揃っているようだな」
男が見渡すと、仏舎利(ぶつしゃり)の本堂で休んでいた七人の視線が飛ばされる。
五坊ある愛宕社のうちの西之坊、威徳院住持(いとくいんすみもち)(ぎょうゆう)
 おなじく愛宕社の上之坊、大善院住持(だいぜんいんすみもち)宥源(ゆうげん)
男が和歌の師と仰いだ、連歌師の里村紹巴(さとむらじょうは)
 里村紹巴の娘婿(むすめむこ)である昌叱(しょうしつ)
 里村紹巴一門の連歌師、心前
 同一門の猪苗代兼如(いなわしろけんにょ)
 明智の軍将、東六郎兵衛行澄(とうのろくろうべえゆきすみ)
 いずれも(うたげ)では、名首(めいしゅ)佳肴(かこう)とする歌人である。
彼らを師とみる男。
そして追従(ついしょう)する伴僧を加えた堂宇(どうう)はいま、清冽(せいれつ)に満ちている。
同席を遠慮した西蔵坊はすでになく、伴僧の記帳準備が整えられた円座は、始まりを告げる拓手礼(たくしゅれい)をもって、歌会の梵鐘(ぼんしょう)とする。
 主人となった男に向けた勧訴(かんそ)だろうか。
一同の視線が注がれるなか、みやこで千宗易の点茶を包含(ほうがん)した男は、疲労を忘れたまま、脳裏の奥に斉藤道三、朝倉義景、足利義昭など、かつての主君を映し出していく。
 やがてその憧憬(しょうけい)は、ひとりの人物を定める。
ふた月前におこなわれた甲斐武田(かいたけだ)の殲滅戦で発見され、旧臣である稲葉良通(いなばよしみち)の嘆願から助命を許された元美濃国主、土岐頼芸(ときよりなり)だった。
 斉藤道三に国を追われ、落ちのびた甲斐国では両目の光を奪われた。
「もはや美濃への転封はならぬか」
織田の囲いの鳥となった土岐頼芸の訴求は、いまなお叶えられていない。
男は深く息を吸いこむと、しなやかに発句を詠んだ。
「ときはいま あめが下(しも)なる さつきかな」
発した刹那、場は静まりかえった。
土岐(とき)の明智は、この皐月(さつき)で天子(天皇)の臣兵となる」
 そう唱えたつもりであったが、中句のあめがしもなるは、弾雨を浴びた土岐一族が苦劾(くがい)にさらされていて、天下を簒奪(さんだつ)するものとも受け取れる。
(覚悟を読み(たが)えられたか)
徳川家康の堺見物の饗応役(きょうおうやく)を外されたばかりか、平定した丹波を離れ、即刻、安芸毛利(あきもうり)の征伐に脇将として参陣するよう、土岐池田の庶流である明智は信長に命じられている。
粛然(しゅくぜん)としたこちらの面持ちから、誰もが脇句を出すことを躊躇(ためら)っていた。
 山翡翠(やまかわせみ)鳴離(めいり)が走るなか、遠慮がちに行祐が沈黙を破った。
水上(みなかみ)まさる 庭のなつ山」
 勢いはすべて上方──朝廷の権にあるとはいえ、天下人となった織田信長と、毛利輝元の後ろ楯で備後鞆(びんごとも)(うら)に御所を構え、征夷大将軍を自称した足利義昭は、日ノ本の二頭政治に等しい。
 今夏で勅書を賜った織田が毛利を倒すことは、分裂抗争の火種を不安視した朝廷も望んでいることでしょう。
 発句に歩調をあわせた脇句が吟じられたものの、集まった諸氏は静けさを帯びている。
草蔓(くさつる)()じられた杉原紙(すぎはらし)の記帳がなされてまもなく、
花落(はなおつ)る 池のなかれを (せき)とめて」
惟任光秀の好誼(こうぎ)であり、また師でもある里村紹巴から、「もしや貴殿は、凋落(ちょうらく)した土岐池田の命運を変えるおつもりか」と三句が読み継がれたときには、(もよお)した歌会の朗吟(ろうぎん)は、密事の相談にきこえていた。


宥源「本気でそうするつもりなら、鞆公方(ともくぼう)(足利義昭)を頼ってはどうか。あの御方の御内書(ごないしょ)を各地に発給すれば、織田に匹敵する一大勢力を築けるかもしれん」
昌叱「出したところで、春までに情勢が変わらねば、大名どもがなびくことはあるまい」
心前「さよう。有明より南の国々(四国)などは、織田と敵対するか、それとも隷属するか、意見はまとまらぬようだ」
兼如「一致団結せねば、国難は払えまい。烏合の衆では、先細りの末に、野垂れ死ぬのがオチぞ」
行澄「たしかに小さな在将が吠えても無駄でしょうな」

自然なまでの連歌は、どこか戦評定を(てい)している。
 それは初裏に移っても変わることはなかったが、誤読された発句の支障はないと判断した男は、泣訴(きゅうそ)のながれに身を委ねた。

行祐「織田家と雌雄を決するのは、鞆公方(足利義昭)を(よう)した毛利家しかありません。しかしながら、昨今は丹羽長秀と羽柴秀吉の圧力から、東へ西へと、一進一退に(あえ)いでおります」
男「西の鞆幕府(ともばくふ)は、もはや沈みを待つのみということか」
宥源「松平の諸氏が起これば、わからなくなる」
紹巴「三河どの(徳川家康)か。しかし尾張織田は、その波濤(はとう)によって削られていくかのう」
心前「自領に兵を後退させる信長公のすがたをみれば、従っていた諸将は静観するかもしれん」
昌叱「そうなれば、丹羽や羽柴の軍勢で隔たれた鞆公方は、機に乗じて起つはずじゃ」
兼如「しばらくすれば乱は治まろう」
行祐「漂流した世人のこころは、またみやこに集まるでしょうな」
男「毛利にも勝ち目はあると。しかしながら、安芸(あき)の国は()に服したかのごとく、活気はない」
宥源「仇敵(きゅうてき)の信長を征伐すると知れば、そうした者たちはみな、勇ましく奮起しよう」
紹巴「うわさを聞きつけ、感涙をながした地侍が殺到する、か」
心前「そうなると、問題は誰が先陣を切るかじゃな」
昌叱「鞆幕府の西国勢にとって、明智は外縁に等しい。鞆公方にも意中の者はいるだろうから、そうした者らを立てねば、嫉妬を買う羽目になる」
兼如「どの御家を担ごうとも、違背の苦しみから逃れる術はない」

 二表

行祐「人の情は移り変わります。面従腹背(めんじゅうふくはい)に身を置くあいだ、そうしたものへの手立てはありますか」
紹巴「織田の遺臣どもは頼れまい」
心前「かの泊瀬王(はつせのおおきみ)の死後、嫡子は跡目を賭けて乱を引き起こした。信長公を倒したとて、思わぬところから後継者争いに巻き込まれることはある」
男「……わたしの幼い嫡子を含め、織田さまがかつて人質とした鞆公方の嫡子、大樹若君こと足利義尋(あしかがぎじん)さまを、興福寺から奥山に遠ざけようと思案している」
宥源「戦火の前に(かくま)おうというのか」
昌叱「それなら山陰の連峰がうってつけじゃ。薪木や水は豊富にあるし、毛利を後ろ楯とした鞆公方との交渉にも応じられる」
兼如「岩津松平庶家の口添えがあれば、紀州から伊勢の島嶼(とうしょ)を経由し、東に落ち延びることもできよう」
心前「源九郎義経を平泉で迎えた奥州藤原氏のように護るか」
紹巴「隠棲するなら石山本願寺であろう。亡き足利義輝公の乳母を務めた陽春院の夫、日野晴光の嫡子に頼むのもいい」
行祐「庶流広橋家の入り婿、日野輝資ですか。織田への恨みがつてならば、不満を持ったまま常陸国で(くす)ぶる、佐竹義重もなかなかのものですが」
男「織田軍に不満を持つ御家は数え切れん。戦に敗れ、在野に放り出された地侍は、近ごろ和泉国で再起を図ろうとしている」
紹巴「ならば石山本願寺しかあるまい。吉川元春の仲介で毛利に与した萩城主、吉見正親がそうであるように、条件次第では織田を離れる者も出てこよう」
昌叱「残念ながら、安芸の毛利にはそうした趨勢(すうせい)は伝わっておらん。まずは毛利家との連携を模索せねばならんが、丹羽長秀や羽柴秀吉の監視は行き届いている。荒木村重の征伐で摂津花隈城を拝領した池田恒興あたりなら、細やかな政情に疎く、守備を緩めるのは容易かもしれん」
兼如「まるで胡蝶(こちょう)の夢だな。昌叱よ。時勢に足る盟約は、義理堅く密やかに行わねばならんものだ」

  二裏

紹巴「四国の阿波(あわ)(淡路島)では、織田と結んだ三好(みよし)が破竹の勢いだそうな。大嘗祭(だいじょうさい)神饌(しんせん)で国郡を定めた悠紀国と主基国のように、長曾我部(ちょうそかべ)と領土を分かつ気であろうか」
昌叱「明智を介して織田と交渉していた長曾我部元親は、平定するはずだった阿波の侵攻を凍結されたようなもの。ところが手出しの出来なくなった氷塊は、水際に立った長曾我部の足元を、霏々(ひひ)(むしば)んでいる」
心前「鴛鴨(おしがも)をおさめる松平の庶家は、漁夫の利を得ようと羽柴に近づいている」
男「四国の領土を欲した神戸信孝(織田信孝)にしても、父である織田さまの威光を笠に、二月付で四国攻めを仰せつかった阿波の三好康長と結託し、唐突な侵攻準備に着手している。二、三カ月分の兵糧を用意しているところをみると、返答の有無にかかわらず、攻め滅ぼそうという魂胆だろう。いったん軍勢が入れば、四国は混沌に陥る。長曾我部元親は、大宰府に流された菅原道真のように、配流(はいる)となるかもしれん」
紹巴「そもそも阿波(淡路島)を得る前から、織田の軍勢は味方同士で争っている」
宥源「長曾我部と三好が収奪を繰り返し、城主が目まぐるしく変遷(へんせん)した阿波板野の勝瑞城館などは、瓦礫(がれき)の山と化すかもしれん」
兼如「いまは十河存保が護っておったか。織田の支援で気炎を吐いた三好康長に対し、降伏を唱える者が現れれば、賛同した者は一斉に長曾我部元親を見限るわ」
紹巴「たしかにあの男の統治を嫌い、降伏後も心酔していない国人は多い。御家の存続がため、織田と長曾我部とを(はかり)に掛けるであろうな」
昌叱「ことに氏族は時勢に(さと)い。(いた)む者や護る土地がなければ、なおさら淡い期待に(すが)ろうとする」
男「夜更けになると、阿波(淡路島)の遠景をのぞむ者の中には、明石に渡りたい衝動に駆られる者もいるはずだ」
宥源「迷うのも無理はない。これから興亡を賭けた戦が始まると自覚した心は、月光を頼りに暗い海を彷徨(さまよ)う小舟と重なっている」
心前「振り返れば苦楽を共にした盟友たちの面影がある」
男「この先、毛利はどうなるのか。来春までに織田を押し返せなければ優位はない」
昌叱「最大の潮目は、山城国国境(やましろのくにこっきょう)天王山西麓(てんのうざんせいろく)──天皇家の狩猟場とされた水無瀬川(みなせがわ)淀川(よどがわ)の合流地にある後鳥羽上皇の離宮で、鞆公方を自称した足利義昭が立脚できるかどうかだ。朝廷は今、織田にすり寄っている。源氏勢力に立ち向かうため、三種の神器なしに即位した後鳥羽上皇のように、正式な将軍即位と幕府開闢(ばくふかいびゃく)を宣下しなくては」

  三表

心前「それさえ叶えば、織田は解状(罪人捕縛の公文書)を突きつけられたようなもの。討伐の(ゆぎ)(弓矢)に追い立てられるのは明白か」
兼如「しかし北ノ庄を預かる柴田勝家の動きは怖い。老いてなお盛んなようすは、易々と屈するものではない」
紹巴「一族の柴田勝定を引き抜いたことで、明智は絶縁に近いからのう。権六勝家と反目した勝定を戻し、一切を水に流すというなら、話は別じゃが」
男「まるで切り裂かれた仲を成就した、兵部卿官と山里の姫君の婚姻譚だな。権六どのは織田さまの認めた仕儀に逆らう真似はしない」
行祐「それでも弓箭弾雨(きゅうせんだんう)をくぐり抜けてきた、浅からぬ縁はありましょう。柴田の喜びそうな武談を引き合いに、懇々(こんこん)と打ち解けてみては」
昌叱「畏敬(いけい)をもって接遇すれば、これまでの確執を赦免し、良く計ってくれよう」
兼如「はたしてそれは成しえるか。古の賢人には、隠棲して時機到来を待つ者がいる。それについての一考もあるのではないか」
男「千鈞(せんきん)となるかどうかは分からんが、その気持ちもないわけではない」
宥源「事を済ませ、ほとぼりが冷めるまで西国に身を隠す。さすれば道は開けるのではないか」
紹巴「毛利二川の小早川隆景か吉川元春の手を借りれば、月下の海で揺れる舟にも光明はあろう」
昌叱「待たれよ。龍田川を境に、生駒山よりさきは、鞆公方や毛利家の威勢が届かぬ土地じゃ。織田に与した国人の妨害は、必ずある」
心前「夜を待てばいい。大和の京極高次は、筒井順慶と不和であったな。信に値せぬ筒井順慶への報復。そして旧領回復を条件に(さと)せば、手筈(てはず)は整うはずじゃ」
紹巴「浮沈(ふちん)の遠吠えを利用するか。……故郷をはなれて幾星霜(いくせいそう)。このような企みを炯々(けいけい)と出すとは、われらも哀れなほどに住み()れてしまったな」
行祐「酔生夢死の憂き身から這い上がったのは、信念を貫いたからこそでしょう」


 三裏がはじまろうとしたとき、男は里村紹巴と目が合った。
師弟の念だろう。
 連歌に暮れた恩顧に触れようとしたのか、無意識に手が動いた。こちらを射抜く瞳と語らうように、座礼の動きをみせた。
もっともそれは、満たされない交錯でしかなかった。
 白い睫毛(まつげ)に隠された眼光は、明らかにこちらを避けていた。
塩梅入(あんばいい)りの白湯(さゆ)が配られようと、向かい合わせた老躯の存在が、いや周囲までもが、久遠(くおん)に浮いている。
それはどこか、満ち潮で消えた海道(かいどう)と似ていた。

  三裏

心前「嫡子もあれば、孫を持つ者もある。先立つ身であればこそ、行く末を案じてしまうのは、人の(さが)か」
昌叱「たとえ生き長らえぬと分かっていても」
宥源「生ある限り共にある。そういって(ちぎ)りの(さかずき)()み交わした」
紹巴「いつかは別れがやってくると知りながら」
男「旅路のさきは、八百万(やおよろず)の神々も知り得ない」
兼如「誰もが独りになる。浅茅(あさじ)の原野で月を仰ぐあいだ」
行祐「そこかしこで流される血は、悲壮を帯びている」
心前「安芸(あき)(ほたる)(足利義昭)は、乱れた国々の収束に奔走するだろう」
紹巴「村雨で(あふ)れた大河を前に、下々は受け入れようとする」
宥源「ながれに抗う者は、何処(いずこ)に運ばれたのか」
昌叱「残された山の狩宿は、泉花の散った木陰しかない」
紹巴「春をもたらす声は、そうした岳々を駆けめぐる」
男「衆生を照らす旭日(あけぼの)ように。そしてみやこの風が、草花を包む陽だまりとなるように」
心前「雷雲はすでに消え去った。しかし霧散してなお、空に(かえ)ろうとするものはある」

  名残表

兼如「風は気まぐれなもの。櫓櫂(ろかい)を持った水主(かこ)たちは、仰ぎ見た天上に、次々と舟をとめる」
昌叱「荒れ狂う天候に、津々浦々は傷んでいく」
心前「浜辺に群生した草花は、はげしい入日が薄まるまで立ち(すく)んでいる」
男「暴風から(ひな)と卵を護ろうと、擬傷行為をはじめた(しぎ)のざわめきは大きくなる」
紹巴「やがて主の途絶えた廃土は、(おとな)う者もなくなった」
宥源「(しお)れた|花びらに、紊乱(ぶんらん)の水がつたいはじめる」
昌叱「四季折々を過ぎたみやこでは、英逝(えいせい)()()で語らう声があった」
行祐「安らぎが戻ってきたと。五風十雨(ごふうじゅうう)の世が訪れたのだと。そうした声は、夜を徹しても枯れることはなかった」
男「寝静まる夜更けに会う約束はしていた」
兼如「しかし数多の門閥(もんばつ)が拝謁を許されたせいなのか」
紹巴「みやこに殺到した人々のうごきは、旧領復位の呼び水とみなされた」
心前「当然ながら、全てに応じられるわけではない。穏便にやりすごそうとした朝廷の虚仮(こけ)は、どれほどあるのか」
行祐「その軋轢(あつれき)は千年の恋とばかりに」
昌叱「仰いだ天皇は老いて沈湎(ちんめん)し、親王は隔世の人である」

  名残裏

兼如「戦乱が終わるまで、厳乎(げんこ)詔勅(しょうちょく)は保たれることが決まった」
紹巴「それでも神輿(みこし)を担いだ者たちは、意中の相手に選ばれようと躍起になるだろう」
宥源「彩色豊かな奢侈品(しゃしひん)を献上し、(たまわ)った勅旨(ちょくし)を声高に標榜(ひょうぼう)する」
男「天子に従う者は、(なわて)から()せ参じろ」
昌叱「(いさ)める法はない。制止されようと、勇んだ(こま)は疾駆する」
行祐「斗争(とそう)の果てに光芒(こうぼう)がみえたとき、欲した者たちは一斉に手を伸ばす」
心前「掴みとった業身は、あらたな(あかつき)として、(すい)(まつり)を布していく」


九十九(つくも)の連歌が吟じられてまもなく、それまで口を(つぐ)んでいた伴僧が手を挙げた。
「国々は(なお) のどかなるとき(その頃には、さらなる泰平に日ノ本は包まれている)」
青雲の眼差しで発された句は、諸氏に()みわたった。
受けとった男までもが、その清澄(せいとう)に揺さぶられた。
()み継いだ連歌は奉納する」
男が諸氏にそのことをつたえると、印を揮毫(きごう)した杉原紙を愛宕寺の者に預け、御神酒(おみき)とともに、名刀の太郎坊兼光を供物とした。
載せられた折敷(おしき)が運ばれ、僧侶がこちらに一礼すると、本堂で円座を組む者らは、一様に本尊に向き直り、深々と平伏する。
「世話になった」
愛宕寺で一泊した男は、住持に残したまま、伴僧と堂宇の外で待っていた西蔵坊のあとに続いた。
 (はかな)いものだった。
 足利義昭を見限り、織田家に仕官してから十年ほどの歳月と、それを見守った愛宕寺への謝念を抱くように下山すると、西方の丹波亀山に城入りした。
 昼下がりの雲は幽玄(ゆうげん)にながれていた。
見慣れた城下の町屋は静かなものだった。
荒縄で結ばれた金皿の()が浮かぶ濠川(ほりかわ)を眺めては、迎えの馬を待つあいだ、懸橋(かけはし)を通る貴人の行列を仰ぐ。
 早々と報せは届いていたのだろう。
 手練手管(しゅれんしゅかん)の侍医が手燭で招いた侍屋敷には、苦節を共にした顔触れがある。
「達者だったか」
低頭した明智秀満と斉藤利三に、男は相好(そうごう)を崩す。
 板間(いたのま)に腰を据えたときには、下座の明智秀満が面を上げて訴えている。
「御命じの通り、首尾は整えました」
「弥平次よ。万全は期したな」
「坂本に駐屯させた部隊には、京都東の粟田口(あわたぐち)に進軍するよう言い含めております。毛利征伐の先遣(せんけん)として、福知山と黒井に残した氷上の部隊には、曽根からの伝令を待てと命じました」
「大儀であった。内蔵助、兵馬の用意は」
「すぐにでも出陣できます」
「よし」
男は満足げに膝を打つ。
 決行は、明日夜(あすよる)とする。
 (おう)、と頷き返した二人を寝所に戻し、男は長い夜を過ごしはじめる。
そうやって翌午前を眠りにあてた三将は、六月一日の夕刻、毛利征伐の三草山越えと称して丹波亀山城を発った部隊を東に向かわせた。
「急令でも下ったのか」
 中には(いぶか)る者がいた。しかし、
「このまま京のみやこに入る」
斉藤利三の軍令が出されたときには、従順に駒を進めていた。
(これは三河松平の徳川家康を暗殺するためにちがいない)
丹波口からみやこ入りしたときには、兵らの覚悟は固まっていた。
一行は闇夜のひろがる作道を駆けつづけた。
「敵は西洞院本能寺、それに二条新御所の北にある妙覚寺だ」
手筈は桂川を渡る前に示している。
西洞院本能寺には、一行の部隊中枢を。
そしてもうひとつの標的である本能寺やや北東の妙覚寺には、近江坂本から派遣した東入りの部隊と挟撃させるため、西入りした自軍の一部をそちらに向かわせる。
男の眼前で、いままさに二条新御所の真南にある南蛮寺をめざす部隊が割かれていく。
少々目についたのか。
巡回していた夜番兵を(ほふ)った斉藤勢の行く手には、古池越しの妙満寺がある。その垣根を越えた奥道には、石造りの結界にまもられた本能寺が映し出されている。
「われらは北側に」
斉藤利三と子息ら、それに明智秀満の小勢が願い出たため、一時の離脱をゆるした男は、西蔵坊の配下、本城惣右衛門らと本道に出た。
夜気が肌を刺していた。
その木橋をうろつく夜番兵を仕留めた本城らの手並みを拝見するかたわら、馬上から正門を映したところ、本能寺の結界内から、こちらにやってくる者がいた。
「本堂周辺に(しのび)があらわれたというのは確かですか」
「この通り、付近を巡回していた夜番の者は、殺されておりました」
 あらわれた森成利に問われた西蔵坊は、木橋のたもとで本城らの討ち取った(むくろ)を示した。
 驚愕(きょうがく)と奮起が森成利に浮かんだ。
それがみられたときには、股立ちをとった夜番兵が正門前に集結していた。
「賊はまだ近くにいる。駆けつけたこの者らと協力して(あぶ)り出せ」
 襲われた夜番兵の状況から、二対合一に前後を警戒した巡視が望ましいと判断したのか。
男は本城惣右衛門ともども正門前を。それ以外の者は、森成利の手勢と組んだまま、方々に散りはじめる。
「私は堂宇(どうう)に戻り、殿の御辺を護る。蟻一匹通すな」
決した森成利がはなれていく。
ほどなくすると、はるか東の方角で火の手が上がったのか、黒煙が濛々(もうもう)と夜天に広がりはじめる。
気配を察した人々は、すでに家から飛び出していた。
声は激しさを増している。
 そこへ桔梗(ききょう)の軍勢があらわれようものなら、混迷は人為に負えないほどきわまる。
阿鼻叫喚(あびきょうかん)と変わったみやこを睨みつづけていたそのとき、伝令が足早に告げた。
「妙覚寺にいた城介(じょうのすけ)どの(織田信忠)は、近隣の二条新御所に籠りました」
 男の陰では、正門を守護する夜番兵の蒼白があった。
 真意を量ろうと詰問(きつもん)しかけたその(のど)に血筋が走った瞬間、男は背後から斬りつけた並河易家らに狼狽(うろた)えた夜番兵の首めがけて一閃する。
「これより堂宇(どうう)に向かう」
血刀を下げたまま発した男のもとへ、一人、また一人と、味方が集まってくる。
異変が(とどろ)いた刹那、二人一組の警戒で組まされた森成利の配下を急襲し、無事生還した配下の相貌(かお)は、おしなべて凶暴なもの。
それらを(とき)の合図で呑み込んだ男は、正門から一気に結界の張られた本堂をめざす。
神域として称えられた西洞院本能寺は広大だった。
封建の時代より、京のみやこは戦の攻防には不向きとされていた。
唯一の例外は二つ。
それこそが、織田信忠の寄宿する妙覚寺南の二条新御所と、織田家の総大将、信長のいる西洞院本能寺である。
(どちらも織田さまの直命で建立されたものだ)
法華宗から奪った社殿を増改築したとはいえ、寺院と呼ぶにはあまりに巨大すぎる。
規格外の枝社(えだやしろ)を探索するなか、北側から侵入した味方に遭遇する。
どうやら妙覚寺から火の手が上がったことで、一斉に結界を越えたらしい。
「首は捨ておけ」
本城惣右衛門らが腰に(くく)った首級(しるし)をたしなめる明智秀満に続き、斉藤利三は討ち取られた首が御堂の縁の下に投げ込まれるのも顧みず、先陣を切っていく。
男もまた、その雄姿に触発される。
異様な熱を帯びた探索は、微かに庫裏(くり)からきこえた悲鳴すら逃さない。
「どうか、どうかおゆるしをっ」
即座に絡めとられたのは寝衣すがたの女だ。
切っ先を向けた本城惣右衛門がそれを()くと、女は「御方様は白い召し物を着ております」と答え、そのまま戦慄(おのの)いている。
 用済みとなった女は斉藤利三に引き渡された。
その間、本城惣右衛門らは、堂宇の広縁にいた士を殺め、首を刎ねることなく眼を動かしている。
やがてそれは、白い衣をまとった貴人らしき人物を定めた。
曲者(くせもの)ぞッ」
 堂内に躍りかかった本城惣右衛門の一太刀は、浅手を負わせる程度であったのか。
吠えるやいなや、(かわ)した貴人は凄まじい健脚をみせ、忽然(こつぜん)と消えた。
灯火を倒して庫裏(くり)に飛び出すあたり、別の枝社に逃げ込むつもりだろう。
男は目端でとらえた背を追った。
が、入れ替わりに出てきた三士と相対するなか、飛ばした(げき)もむなしく、貴人を見失った。
しらみつぶしに堂内踏査を繰り返していると、八方から(とき)の声がした。
(ようやくきたか)
味方の手勢が、面前の作道から侵入した合図にほかならない。
またとない加勢は、蜂の巣を突いたように堂宇を混乱させた。
 その間、男は手綱を握りしめたまま、桔梗部隊の松明(たいまつ)に照らされた光景に、ふたたび目を凝らした。
一角には煌々(こうこう)としたゆらめきがあった。
そこに浅黄色の帷子(かたびら)を羽織った貴人の影を見出した瞬間、(かたわ)らの馬廻衆を疾駆させた。
おおむね先回りしていたのだろう。
前方では本城惣右衛門らが出会い頭の斬りつけから「御首級(みしるし)頂戴仕(ちょうだいつかまつ)る」と大刀を振り上げている。
(討てる──)
そう思ったのも束の間、彼らは躊躇(ちゅうちょ)している。
 明智が攻めたのは徳川家康ではない。
織田さまではないか──刃を向けたまま蒼白した彼らに憤るも、その脇をすり抜ける槍がある。
丹波でも有数の豪傑と(うた)われた並河家の士、並河金右衛門の石突(いしづき)は、見事に信長の肩を穿(うが)つ。
 しかしながら、やはり討つことは躊躇(ためら)っている。それも彼だけではない。
馬上にいた男はその瞬間をみていた。
 不意にあらわれた小姓の援護から、沓脱(くつぬぎ)(かまち)を越え、曲がり縁まで下がった双眸(そうぼう)が、はっきりとこちらを見定めていた。
 本能的に鉄砲を左腕にのせ、照準を合わせた。
そのまま崩れ落ちた胸部に弾丸を……いや、そうしようとした男の瞳は、こちらに背を向けた口元に笑みが浮かんでいることを知った。

人間五十年 下天(げてん)のうちをくらぶれば ゆめまぼろしの(ごと)くなり

ひとたび生を()け 滅せぬ者のあるべきか

 天界の神々とくらべれば、地を這うひとの生涯は無に等しい。
齢四十九(よわいしじゅうく)を過ぎ、天命を悟った主君の目指したもの──天道とよばれた世界を掲げ、天下布武を唱えた夢が(つい)えたと察した表情には、畏敬の念を抱く土岐頼芸の面影が宿っていた。
「目的は果たされた……」
男の眼前で、堂宇は烈しい炎を噴き出している。
一番槍の功を得た本城惣右衛門と討ち損じた並河金右衛門のもとには、信長の後退を(たす)けた遺骸が転がっている。
そこに向けた追令を飛ばす直前、急に庫裏がざわめいた。
「みな怯むなッ」
振り返ると味方の旗指物(はたさしもの)は折られ、次々と長柄(ながえ)の槍は減らされている。
 敵の新手か。
察する前に屈強な士の振るう斬突をかいくぐっては、急所に迅打を叩きこんでいる。
(あれはまさか……)
 男が旋風(つむじかぜ)の正体に気づき、制止を呼び掛けたときには、風嵐と化した人物は、こちらに突進している。
「よせっ」
味方だと発したものの、男を護ろうと馬廻衆が応戦する。
容赦なく突き出した刀槍を楯とし、男を囲んだ動きを察してのものなのか。
 まもなく風威を消した人物は、閃走で二士と交錯したのち、自ら(とりこ)となった。
「誰の下知(げち)だ」
槍衾(やりぶすま)の中央に置かれてなお、人物の渇いた慟哭(どうこく)は、集結した者すべてを凍らせた。
 馬から降りた男は、兜布を外して近づいた。
「ここで会うとは思わなかった」
男が発すると、怒れる人物は徐々に|《どうもく》瞠目した。
 四年前の中秋、土牢で斉藤利三に首を()ねられた惟任日向守が、目の前に立っている。
 尖槍(せんそう)(たなごころ)にいることすら忘れたのか、暗刀を手放した十兵衛は、その場で膝を折った。
「わたしを騙していたのですか」
「是非もない。お前のことは光慶に見張らせていた」
男は(かたわ)らの伴僧をうながす。
 顔の大部分を覆っていた面頬(めんぼお)を外したのは、伝馬役の佐々川箕六である。
「お前が藤吉郎の陣小姓となる前から、わたしはこの光慶を弥平次に預けていた」
嫡子について明かした男──惟任日向守は十兵衛の目に触れないよう、明智秀満と図った由を告げた。
「わたしの鏡面を持つお前の存在は、明智にとって好都合だった。丹波平定を仰せつかってからというもの、膨大な地侍の統御は、常に叛意(はんい)との闘いだった。ただの影武者に大将の行使権限はない。他将が役目を分掌化(ぶんしょうか)するのとおなじく、わたしはもうひとつの〝身体〟を手に入れることで、数多の障害を乗り越えた」
「…………」
「知っての通り、織田の臣兵は入れ替わりが激しい。治政を任された丹波を離れ、毛利を攻める羽柴の後塵(こうじん)を拝せと命じられた明智は、闕所扱(けっしょあつか)いとなった重臣たちとおなじ末路を辿るかもしれん」
惟任日向守の言葉を十兵衛は噛み締めている。
 織田の総大将を、西洞院本能寺で討った。
 たった四年足らずの惟任日向守就任とはいえ、明智の置かれた立場を熟知したからこそ、この場で起きた変事の持つ意味は、理解したにちがいない。
「この炎では、あの御方の御首をとることは叶わぬ」
伽藍(がらん)はすでに紅蓮に包まれている。
諸氏の掲げていた刀槍は、交戦と炎で歪んでいる。信長の自刃を護るべく、こちらに抵抗していた者を(ほふ)っては、無為の雄叫びを上げている。
そうした殺戮が響こうと、惟任日向守は顧みない。
弾けた火の粉。炎羽の広がる座敷。(ひさし)ごと落ちていく(かわら)
時代の栄花に愛された堂宇の朽ちるさまを、はっきりと見届ける。
「お前の役目は終わった」
惟任日向守は現実に耐えていた十兵衛を見下ろす。
「おしょうといったか。坂本入りした侍女を連れ、根来(ねごろ)(さと)に帰れ」
凄絶な怒りで仰がれたものの、無下に払う。
「お前は比叡山を焼き討ちした『惟任光秀』として、短いながらも生きた。あの女から目を背けるな。戦の恨みを受けとめるのは、つくりだした者の責務だ」
 惟任日向守はきびすを返して散開部隊の収束に努める。
 馬蹄(ばてい)をかき鳴らし、(ほむら)の渦巻く(その)を駆け抜けるあいだ、死にゆく者の分別なしに厳令する。
 ただ、(しっ)した感は否めなかった。
「あの御方の首なくして勝鬨(かちどき)はない」
「すでに謀反は成りました。残る二条新御所の嫡子信忠を討てば、問題ありませぬ」
悪逆父子の討滅は果たされたも同然と奮起する斉藤利三にほだされたまま、つぶやいた惟任日向守は馬首をめぐらせる。
西洞院本能寺と妙覚寺の同時襲撃は、異変に気づいた嫡子信忠が妙覚寺を出、真南の二条新御所で籠城(ろうじょう)した時点で予定を外れている。
軌道の修正を図ろうにも、ここで剛毅(ごうき)戦鞭(せんべん)を振るった場合、桔梗旗(ききょうばた)を掲げた味方から、「織田さまの無念を晴らせ」と豪語する造反者が出るかもしれない。
(この状況が精一杯なのだ)
千里を走る悪行は、人手があればこそ。
かの戦神を浮かべた惟任日向守の駒は、弑逆以上(しいぎゃくいじょう)の戦果を得られないもどかしさから、緩慢(かんまん)に遂げ始める。
それでも御堂の大部分は焼失させている。
食い入るように眺めていた瞳は、ふいに届いた喧噪(けんそう)に吸い寄せられる。
(とうとう離反者があらわれたか)
即座に確認したところ、どうやら西洞院本能寺に隠れていた人物が、強引に町屋へ飛び出したものらしい。
追いかける兵声はといえば、仏閣の僧侶、町民らの逃散した辻道で紛糾している。
信長は生きているかもしれない。
 よぎらせるあいだにも、小柄な人物は小袖を振り乱してまで作道を疾駆しているのか。
兵のひしめく二条新御所を避けようと、目についた家垣に飛び込むようすがみてとれる。
一見すれば、明智の軍前にあらわれては背を向ける無鉄砲だった。
ところが桔梗の兵たちは、垣根を飛び越えるあいだも武器だけは手放すまいとするため、どうしても余分な動作が入ってしまい、捕らえるまでには至らない。
向こうもそれには気づいているらしく、果敢に家屋に侵入するのは、遮二無二追いかける者たちを()く気でいるからだろう。
地主の縄張りに立ち入った錯覚をおぼえたまま、惟任日向守はようやく相貌(かお)を拝んだ。
(やはり信長ではない)
すがたを消した十兵衛と仮定しても、翻弄(ほんろう)には弱さがみえた。こちらに対する「足止め工作」とみるには、荒々しさが感じられなかった。
 しかしどこか憶えのある者だ──惟任日向守の眺めるさきで、剃髪(ていはつ)の男はみえなくなった。
 まもなく妙満寺から西へと向かったあたりで足取りは途絶えたという報せを受けた。
僧形(そうぎょう)の者は逃がしたか」
惟任日向守は委縮した足軽兵を放免するや、陣采を預けた明智秀満に(はか)った。
「逃げた(やから)に心当たりはないか」
「おいおい確かめねばなりませんが、顔のよく似た者であれば」
掃討の見通しが立った西洞院本能寺は、すでに斉藤利三や御牧景重らに任せてある。
手勢を率い、南蛮寺の置かれた東側に馬を走らせるあいだ、鞍上(あんじょう)で槍を水平に保った明智秀満は、浮かべた人物を述べた。
「清玉上人です」
「清玉上人……聞き覚えのない者だ」
甲冑師(かっちゅうし)の山坂吉兵衛を(した)っていた織田さまの兄、信広さまの庶子です」
言葉を切るように明智秀満は脇振った右手の辻を折れていく。
前方では(いばら)の幹に巻きついた螺旋(らせん)の葉果が、軒道を邪魔していた。
隙間から漏れた声は、白濁とした(さいかち)の花がひろがる猪垣(ししがき)の向こうだろうか。
「城介(織田信忠)の首はまだか」
「二条新御所には誠仁親王がおられるため、中には踏み込めませぬ」
戦況を耳とした瞬間、惟任日向守は暗鬱(あんうつ)とした。
このまま嫡子信忠の籠城が長引けば、味方の兵は織田と明智のはざまで葛藤しはじめ、昏迷(こんめい)に置かれてしまう。
(それだけは何としても避けねば……)
困難と向き合ってきた強躯(きょうく)は、ほどなく桔梗の兵によって囲まれた二条新御所の接近を拒んだ。
作道を隔てて対峙した坂本発の増援を見定め、明智秀満の先導に沿うかたちで合流すると、すぐさま使者を立てた。
「この乱に誠仁親王の御口辺はない。御身の無事は保証するゆえ、安心して二条新御所から出られるよう、つたえてまいれ」
使者が()ってまもなく、()い返答がこちらに届く。
敵味方両軍の同意のもと、徒歩(かち)であらわれた誠仁親王らを護衛の一団に送らせると、惟任日向守は戦闘再開を通達する。
それからほどなく、攻囲を解かずにいた砲兵頭をつかまえ、北面からの攻撃を指示した。
「半数は射撃体勢を維持し、残る兵には焙烙火矢(ほうろくびや)を射掛けさせろ。こちらへの応戦があったときのみ、斉射(せいしゃ)を許可する」
西洞院本能寺ほどではないものの、さすがは朝廷の象徴だけあって、二条新御所の構えは荘厳この上ない。
 わけても黒金(くろがね)づくりの石門は、織田に降伏した石山本願寺の堅牢さを秘めていて、生半可な銃撃では太刀打ちできない。
(射手の働き次第か)
下知した四王天政孝の砲兵部隊は、二条新御所より北の近衛前久邸の屋根で弓陣を張りつつ、毛利との海戦で使用された焙烙玉の設置準備に入っている。
やがて二条新御所の一角が衝音に見舞われ、風穴の開いた擁壁(ようへき)に桔梗の白兵部隊がなだれ込むのをみた惟任日向守は、小さく安堵した。
信長の御首こそ得られなかった。
それでも信長以下、寵愛された森成利ら小姓衆は、ことごとく西洞院本能寺で討ちとっている。
 そして嫡子信忠は、本能寺から異変を報せた信長の近臣──元黒人奴隷の弥助の伝令で、明智の攻囲が成る前に宿泊先の妙覚寺を抜け出、二条新御所に立て籠もったものの、京都所司代の村井貞勝・福富秀勝・菅谷長頼などが華々しい討ち死を遂げるなか、とうとう観念して自刃した。
(これで終わった)
英傑の最期をみとったのち、早々と軍をまとめあげると、東の粟田口から京のみやこを脱した。
寸前では、親交ある公卿の吉田兼見が馬を飛ばして来参していた。
地領の安堵を願い出たため、それは後日と断ったものの、口惜しげに離れるすがたには、浅からぬ鬼気が漏れていた。
見慣れたはずの小栗栖(おぐるす)は、泥濘(ぬかるみ)を進む意気を(くじ)いていた。
あれほどあった涼気はどこにもない。
鼻を覆うほどの腐葉。
そして土気を帯びた風だけが、謀反を終えた軍勢を包んでいた。
横風に(あお)られた明智の軍勢は、そのまま逢坂を越えた。
大津まで進軍した惟任日向守は、怒濤(どとう)に琵琶湖東畔の安土を目指した。
「主なき安土城は裸同然。一気に攻め落とすぞ」
己に鞭打つ令達で直参衆を鼓舞し、草津につながる瀬田の橋を。その奥で朝霧を残した城砦の狼煙台(のろしだい)をようやく映す。
その刹那、惟任日向守は急停止した軍勢をかき分けた。
「みやこの急報が届けられたか」
 忸怩(じくじ)たる眼前には、中央付近の橋桁(はしげた)を大きく損傷した瀬田橋があった。
礎石(そせき)とつながる橋脚の残骸は、焼き払われた事実を物語っていた。
(あれは山岡の兵にちがいない)
 向こう岸に目をやると、撤廃された関所跡を利用した要害をまもる母屋が置かれていて、瀬田城の外縁を厚く覆っている。
被覆土塁(ひふくどるい)の武者走りで往還するさまは、こちらへの敵対姿勢に満ちている。
惟任日向守はたたらを踏んだ。
遠巻きながら、瀬田の城主、山岡景隆の部隊を視認すると、体制立て直しに移った。
 壊された橋を修繕する工作部隊の編成は急務だった。
とはいえ敵の妨害活動を遮断するには、信を置いた橋頭堡(きょうとうほ)を選ぶ必要があった。
比叡山から東にながれる湖風を利用した、舟による奇襲。ならびに瀬田橋付近の渡河で、湖畔沿いに攻める陸戦部隊を揃えると、惟任日向守は陣頭指揮を明智秀満に託した。
ほどなく瀬田の攻城がはじまった。
そのあいだにも、やや西の大津まで後退した惟任日向守は、瀬田の架橋を任せた工作部隊の支援として、駐屯を命じた中隊に母屋解体を指示。家々の板材を橋桁(はしげた)として利用すべく、運搬を急がせた。
「部材が足りなければ余った漁舟を解体しろ」
 架橋の難しい急河には、礎石代わりに舟を連結し、即席の橋とする戦術があるとはいえ、この状況で舟橋をつくるとなると、漁舟の数は足りない。
瑕疵(かし)なく命じ終えた惟任日向守が、残る部隊中枢を率いた北上から坂本入りを果たしたのは、湖面に降り注ぐ陽が、西山の比叡に傾きはじめた頃だった。
「紙と硯箱(すずりばこ)をここへ」
旗本部隊を比叡山付近の宇佐山攻城に配し、寡兵(かへい)で天守まで登ると、休む間もなく祐筆役と筆を走らせる。
悪逆父子(信長・信忠)を討ち果たし、天下の妨げを払底した「御馳走(ごちそう)」を、反織田の諸侯に捧げる所存であること。
 ついては織田の遺臣を掃討すべく、明智に呼応して出馬すること。
 また目下の敵である西国攻めの劈頭(へきとう)、羽柴秀吉の軍勢は抜かりなく討滅するので、足利義昭の上洛を促してほしいといった念言など、所々の要請を必要最小限にまとめたところで、即座の発給をうながした。
(一刻も早く安土に入らねばならない)
 激動の一日が明けた翌三日は雨だった。
書状の返書を待ちながら、惟任日向守は家臣の一部を近江平定の先鞭(せんべん)とした。
 昨日出した諸侯宛ての出陣要請で示した通り、明智の軍勢だけでは織田の遺臣すべては防ぎきれないとの思惑からだった。
それでも信長の馬廻衆・阿閉父子と孫の孫五郎らをはじめ、佐久間信盛・信栄らの所領没収後に信長の直参として参与した池田秀雄、刀工の後藤貞豊、信長に朱旄(しゅやく)をゆるされた卅六飛将の多賀常則、浅井・朝倉殲滅戦以降に織田の門閥となり、安土の築城では瓦奉行をつとめた小川祐忠など、いちはやく明智に与した近江の国人衆には、頼もしさを感じた。
彼らの存在は、信長の消えた近江を掌握する上でも欠かせないものだ。
しかしそれ以上に重要視したのは、国盗りの大家とされた上杉・北条・毛利・長曾我部ら大名と、長年織田を苦しめた一向宗の石山本願寺、隣国へ逃れた甲斐武田の地侍、紀州の雑賀五郷を統べる土橋重治らとの連携である。
なかでも特別な存在は、上杉家と長曾我部家だった。
本能寺の変事を起こす以前から、上杉家とは越中の須田満親を通じ、不定期ながらも密書を交わしていた。
 そして四国の長曾我部家とは、「阿波の三好一派の討滅」という共通利害のもと、信頼関係を醸成(じょうせい)していた。
 もっとも当主の長曾我部元親は、締結した約定を一方的に破棄した織田信長への不信を募らせていた。
そのことは彼と敵対していた阿波の国主、三好康長と信長が結託し、四国平定に乗り出したことが関係している。
「国家に(ひさ)約款(やっかん)は、口約束ではない」
昨年十一月に出された羽柴秀吉の進言から、織田の軍勢が阿波(淡路島)に乱入すると、長曾我部の交渉人だった香宗我部親泰の音信は途絶えてしまった。
今春には、明智の与力衆である斉藤利三の実兄で、足利政権時には幕府の奉公衆として仕えていた石谷家の養子、頼辰を通じた長曾我部元親との直接交渉を持ちかけるも、実りある互譲とはならず、早々と決裂の意を示されている。
「焼かれた瀬田橋はまだ治らぬか」
 夜更けまで持ち越した雨によるものなのか。
人馬の行軍に障りない程度の復旧を急かすかたわら、中立を保つ筒井順慶を味方につけようと、大和の郡山城(こおりやまじょう)に向かわせた藤田伝五の消息不明をまぎらわせるべく、惟任日向守は湖上のさきをみつめる。
 城外戦で泥土の飛散した瀬田城は、深々と(もや)いでいる。
明智秀満の主軍に護られたまま、運ばれてきた板材を組んでは、宇治川の護岸を渡す橋桁をこしらえた工作部隊から目を外すも、焦燥は消えない。
焼け落ちた瀬田橋の通行が可能となったのは、二日後の明朝だった。
「待ちわびたぞ」
坂本から大津に兵を移した惟任日向守は、安土進撃の号令を掛けた。
陥落したばかりの瀬田城を素通りすると、欄干のない板橋を越え、草津を経るように下街道を北進した。
甲賀につながる東海道の間口に物見の小隊を残したところで、軍勢は赴くまま、安土のほうへ。
 その間にも警戒は緩めず駒を進めたが、入城した安土の城山では、さしたる交戦はなかった。
「諸氏に告ぐ。今日一日は(ぜい)(むさぼ)れ」
惟任日向守は安土城天守に辿りつくなり、地下の土蔵に蓄えられた金品を兵らに分け与えた。
間断なく続く行軍で疲弊した兵心の慰撫(いぶ)とはいえ、若い将兵らの反応は素早いものだ。
国内外からあつめられた貴品を前に、我先と豪奢(しゃし)な報奨を得、安土山下の町屋に繰り出していた。
(遺された織田軍将との決戦を前に、一過の財は必要ない)
(おおむ)ね軍備は取り揃えてあった。武器弾薬。備蓄兵糧。それらを加えた自戦力に柴田・羽柴・滝川・森ら主将の動きを重ねるなか、急使がやってきた。
「留守を預かっていた安土城番の蒲生賢秀の行方がつかめました」
どうやら安土城の留守を預かっていた蒲生賢秀は、明智の軍勢が大挙して押し寄せるとの伝聞から、織田の一族を連れて近江日野城に逃げ込んだらしい。
ここで倒しておくか。
消耗なく安土城天守にのぼることができただけに、早期の討滅がちらついたものの、軍令は出さずにおいた。
そこには明智に好意的だった阿閉貞大・その父の阿閉貞征らが馳せ参じた際、「不要な派遣はお控えあるように」と忠告されていたことが影響していた。
丹後国から使者が戻った昨日には、頼りにしていた長岡藤孝の協力は仰げないと知った。
明智の中核を担っていた長岡勢が参陣しない。
そんな衝撃のさなかにあろうと、協力姿勢を示した阿閉たちにしてみれば、喫緊(きっきん)はむしろ京極高次を加えた手勢による、近江長浜の制圧にあったのだろう。
「惟任日向守どのに代わり、堺で徳川家康の饗応役をつとめた堀秀政は、長浜に戻ることなく備中の羽柴秀吉のもとに向かっております。この安土がもぬけの殻であったように、城主不在の長浜など、すぐに落としてみせましょう」
「明智からも兵を出そう。脇将の希望はあるか」
「いえ、われらは織田の馬廻衆であった身。腑抜けの城を手勢で落とせぬとあっては、(いただ)いた武名が泣きましょう」
「そうか」
長浜城主の堀秀政といえば、信長に寵愛されるほどの才智を備えていた。
それだけに、従う軍勢は陣頭指揮を標榜(ひょうぼう)するあまり、頼りすぎるきらいがあった。
(阿閉たちに任せれば、半日ほどで陥落するはずだ)
承諾した惟任日向守の読み通り、攻城は奏功した。
同日午後には、明智勢は一兵も損ずることなく、安土北東の長浜城を手に入れた。
「長浜東の支城、佐和山は明日までに決着します」
狼煙(のろし)で陥落の兆候を受けとったときには、斉藤利三を城番として長浜に遣わし、疲弊した阿閉たちの兵馬を休ませろと命じている。
ようやく一息つける。
ほぼ無傷の長浜を手に入れた明智勢のなかには、夏の(みぎり)を仰ぎつつ、心身を休めた者がいたようだが、惟任日向守にしてみれば、京のみやこで引き起こした謀反の収束は予断を許さない。
事実、その日の夜にも、明智の外姻(がいいん)である津田信澄の首が、堺の町で(さら)された報を受けている。
「津田信澄どのが、神戸信孝(織田信孝)と丹羽長秀に討たれたか」
大溝城主(おおみぞじょうしゅ)の彼とは、惟任日向守の四女を(めと)ったときからの付き合いである。
長曾我部との講和を一方的に破棄した織田軍の四国攻めに参じる直前には、
義父上(おちちうえ)。行って参ります」
 蹇蹇匪躬(けんけんひきゅう)を糧に、信長三男の神戸信孝の脇将として、丹羽長秀とその義弟、蜂谷頼隆らと出征していた。
惟任日向守が義息の雄姿をみたのは、それが最後である。
遠征途上で家康の堺見物の饗応役(きょうおうやく)だった惟任日向守が任を解かれ、急遽(きゅうきょ)、安芸の毛利攻めを命じられたことから、津田信澄は丹羽長秀らとともに役を引き継ぎ、家康を歓待した。
その後に起きた本能寺の変事で裏切りを疑われたのは想像に易い。
大坂城で丹羽長秀と上田重安の配下に襲われた非運は、饗応役で入れ違いとなった惟任日向守が誘発したものだった。
(すまない)
おもえば疑り深い自身に対し、正面からぶつかってきたのは、織田家中でもあの男だけだった。
骨肉の争いは絶えず、嫡子であろうと距離を置いて接する風潮にありながら、向こう見ずなまでの博愛をみせるすがたに、いつしか本当の息子のような気がしていた。
いまはただ、冥福を祈ることしかできない。
甘酸とした翌七日の夕刻、安土城で朝廷の使者としてやってきた吉田兼見と会見し、上洛の勅旨を承諾した。
渡舟から坂本経由で京入りした惟任日向守は、正親町天皇と誠仁親王との謁見を果たすと、銀判五百枚を献呈するかたわら、五山および大徳寺には百枚、勅使の吉田兼見には五十枚を献じた。
「屋敷で酌み交わそう」
勅使を担っただけにもかかわらず、自身への手厚い配慮から、機嫌を良くしたのだろう。
拝謁後に誘ってきた吉田兼見の宴席に甘んじるも、惟任日向守のこころはざわめいている。
(朝廷がみやこの執政と認めたところで、織田の遺臣は明智を(ゆる)さぬ)
天子の機嫌を損ねまいとした宴夜(えんや)、吉田邸での宿泊を固辞するかたちで下鳥羽に布陣した。
気掛かりなものがあった。
さすがに吉田兼見ら公卿に話すことはなかったが、はるか西で毛利と合戦していた羽柴の軍勢が、京都をめざしているとの報せが入っていた。
加えて支援要請を撥ねた丹後の長岡藤孝と、使者の途絶えた大和郡山の筒井順慶の不気味な中立姿勢は、畿内平定を左右する懸念だった。
(彼等はおそらく明智に与しない)
惟任日向守が感じた不安は、すぐに表面化している。
毛利と同盟を結んだ荒木村重討伐で織田に降った摂津の国人、高山右近が高槻城に到着後、明智への抵抗をみせたのだ。
対するこちらは下鳥羽に布陣したばかりである。
西の桂川対岸に置かれた勝竜寺城をようやく占拠したとはいえ、まさか昨日の今日で「西から羽柴秀吉の軍勢が山崎の惣村を目指している」といった急報を受けるとは思わない。
「羽柴軍のなかには筒井家の御旗が含まれておりました。いち早く本拠の高槻に戻った高山右近はすでに山崎の盆地に駐屯し、追うように中川清秀は山手から、池田恒興は淀川沿いに大山崎をめざしています」
「毛利と交戦していた藤吉郎が、摂津の国人衆を飲み込むように向かってきているのか……」
中川清秀といえば、高山右近と地領を巡り、争っていた者だ。
しかし信長が気に入っていたことから、摂津の国人衆に対する影響力はつよく、それが羽柴軍に与した時点で、近隣の地侍は羽柴秀吉に迎合したことを示している。
「こちらの協力要請を無視し、摂津の国人 部隊が天王山で陣を張ったということは、明智と雌雄を決するつもりか」
 川向こうの勝竜寺城ともども、かつて信長に破城された淀城を修築する惟任日向守は(ほぞ)を噛んだ。
ようすをみる限り、摂津の国人部隊は、羽柴の本軍が到着する前に、味方優位の陣を()こうとしていた。
決戦に周到な臨応(りんのう)を持ち出すのは、軍師の小寺孝隆しかいない。
「ふもとを抑えた敵部隊は少数だ。勝竜寺城の警戒部隊を差し向けろ」
惟任日向守の下知で、川を挟んだ軍勢が動きだす。
呼応した羽柴の軍勢に長岡父子は未参であると安堵したものの、後手に回った感は否めない。
そもそも摂津国では、城主のほとんどが西の毛利征伐に駆り出されていた。
たった数百の兵で妻子をまもる城はおおく、攻撃してそれらを人質にすれば、摂津の国人たちは明智に従ったはずなのだ。
にもかかわらず、惟任日向守はそれを怠った。
 近江平定を優先させた軍況もさることながら、織田家中で中位の明智の号令に、はたしてどれだけの国人が呼応するのか。
 不器用なまでの慎重さ──徹頭徹尾の惟任日向守の臆病さは、狷介(けんかい)に未知の推量を忌避(きひ)するあまり、本能寺の異変に気づいた摂津衆が本拠に戻るだけの猶予と、羽柴勢に(くみ)する機会を与えてしまった。
(戦力差がありすぎる……)
物見台で遠望した惟任日向守の嘆息は、遣わした使者や出陣要請の返書の数を憂慮した兵たちも察していた。
 が、事態はすでに惟任日向守の理解を越えていた。
 すでに早馬の一報が届けられた通り、羽柴秀吉は信長を弑逆(しいぎゃく)した大罪人として、明智征伐に赴いた。
それは本能寺の変事以前より、羽柴秀吉の注視するものだった。
いまの惟任日向守は知る由もないが、備中に駐屯していた秀吉は、愛宕寺で催された歌会の句について、長岡藤孝からつたえられていた。
藤孝が本能寺の変事を知ったのは、偶然といっていい。
丹後宮津にいた折、たまたま同伴していた重臣の米田求政から報じられたのがきっかけだった。
そのときに使いとして書状を運んだ米田家臣の早田道鬼斎は、かつて長岡藤孝の二男である藤十郎の就学に付き添った者で、愛宕山下坊「福寿院」を訪れた際、京のみやこで起きた変事を聞いている。
彼は福寿院の住持である幸朝に相談した末、藤孝と近い米田求政に火急の報せを届けたのだ。
三カ月前には、藤孝の三男である幸隆が、十二歳で福寿院に入門していた。
この幸隆は、のちに幸朝の後を継いで福寿院の住持となり、還俗後には丹後国の一色家の幸能、次いで卜部家の幸賢が住持として名を連ねるほど、幼い頃から一色家と交流している。
ようするに、丹後の在留統治を任された長岡藤孝にしてみれば、共同統治者として半国を治める一色家は門閥に等しく、発言を無下にはできなかった。
「明智はいずれ滅ぶ。いまは御家を固めるのがよろしい」
 不意の書簡を受けた長岡藤孝は、下手をすれば家中総出で明智の敵に回りかねないと危惧し、惟任日向守との浅からぬ縁から、乱が治まるまでの中立を羽柴に訴えた。
 結果的に、その選択は北面に対して無防備だった明智軍を首の皮一枚でつなぎとめ、羽柴軍を(たす)けるかたちとなった。
 しかし羽柴の総大将、秀吉は惟任日向守を超える猜疑(さいぎ)を有している。
それでも長岡藤孝の書状を信用したのはなぜなのか。
(こたえ)は京のみやこを脱した、長谷川宗仁の報にある。
「織田さまと城介(織田信忠)さまが、明智の謀反で害されました」
 その日、毛利征伐で備中国にいた秀吉は、事実と認識するまでに僅かな刻を要した。
(誤報かもしれん)
攻城中の備中高松は、足守河川の流入による水攻めと兵糧の欠乏から、陥落寸前だった。
孤立した城内を救うべく、毛利の別動隊が偽の情報を流布しているのではないかと疑った。
 ところがそれを裏付ける出来事があった。
 明知軍が毛利軍に向けて発した密使が、はるか東に置いた自軍の警戒網に掛かったのだ。
「この花押……明智日向守どのの書状で間違いない」
盲目のふりをしていた浪人が隠し持っていた密書の宛人は、毛利の二川、小早川隆景だった。
そこには毛利が織田と対決姿勢を示したことへの賛辞に加え、庇護された足利義昭の早期上洛、織田の遺臣を殲滅するための出馬要請を匂わせる文言が含まれていた。
「すぐに急報を発出しろ」
委細は山から山に伝達する狼煙によって、同日中に秀吉に報じられた。
翌日には、参謀である小寺孝隆の一計から、備中高松の城主、清水宗治の切腹を条件に、毛利の使僧としてやってきた恵瓊(えけい)との交渉で、休戦を約した和睦(わぼく)に漕ぎつけた。
「鞆公方(足利義昭)さまは、みやこの郷愁に耽っておられます。鞆の浦に御所を構えてからというもの、寂寥(せきりょう)の面持ちで仙酔島の水景を眺めるお姿は、痛ましいかぎりかと」
「さようでございますか」
 恵瓊と交渉していた羽柴の使者は、野に下向した辛さを経験していただけに、揃って悲涙を浮かべた。
が、陰ながらみていた秀吉にしてみれば、そうした同情は、和議を有利に進めるための建前にすぎないと分かっていた。
くしくも摂津の大坂、和泉の堺、筑前の博多とならぶ大湊(おおみなと)、備後鞆の浦を足利義昭に献呈した毛利輝元は、かの大内氏の権益を引き継いでまで、失った交易の要衝を探し求め、赤間関を我がものとした。
(足利義昭は、毛利家に過度の負担を強いてまで、鞆の浦のほか、常国寺、津之郷、蔀山などに妾宅(しょうたく)を建立したではないか)
郷愁の根がみやこの酒池肉林とは、還俗前の法名が聞いて呆れるわ──秀吉は使者を介した足利義昭の悲嘆を流しつつ、摂津茨木城主の中川清秀に使者を出した。
「織田さまと城介さまは、京のみやこを脱出し、近江の膳所(大津)に逃げおおせた」
飄々(ひょうひょう)と偽の情報で騙した中川清秀は、おそらく謀反を起こした明智の討伐を受託する。
その証左とばかりに、惟任日向守が陣没した小畠永明と心血を注いで築いた丹波亀山城は、留守を預かる木村吉清の変心によって、自城と変わっている。
動線が確保されれば、秀吉の疑義はもはや存在しない。
密使には「隣国へ触手を伸ばせ」と命じてあるし、過程で明智の外姻たる津田信澄が神戸信孝・丹羽長秀らに大坂城で謀殺されたと知ったときなどは、彼らに「信長の弔い合戦」という大義名分の書状を出している。
そうやって備中高松の城をすみやかに引き払い、備前沼城を経、大雨に遭いながらも小寺孝隆の居城、播磨姫路に入城した。
 そこで正式に長岡藤孝の書状を拝見したとなれば、秀吉の歓喜は言辞に尽くせない。
夜襲を好む軍師、小寺孝隆の性情もさることながら、日没が迫ると似た鳴き声を発する(からす)よろしく、「白鷺(しろさぎ)の城」こと播磨姫路には、毛利征伐のために用意した戦備が置かれている。
 秀吉は何をしたかといえば、兵糧弾薬の充填どころか、部隊の軽装化だ。
「余計な武具は捨てていけ」
 秀吉の厳令から、身軽な出で立ちとなった羽柴軍は、姫路城を発った日の正午、播磨明石に到着。
摂津国人衆の伝令で明智の動向を把握し、摂津尼崎で明智を裏切った筒井順慶と合流している。
「さすがは筒井どのじゃ。良きものが揃っている」
「追加の物資は、遅らせるかたちで戦陣に運び入れる予定だ」
 単に馳せ参じた摂津衆とくらべると、筒井順慶は後方支援で織田に尽力していた分、円滑な部隊進捗に長けている。
信長が殺された直後、協力姿勢を打ち出す密書があったとはいえ、返書で筒井勢に用意させた戦場物資は潤沢そのもの。
急ぎ装備を強化しはじめた自兵に混じり、頑強な板梯子(いたばしご)を掛けられる天悌(てんてい)ほか、城壁を破壊する破城槌(はじょうつい)など、野戦後の籠城戦を想定した攻城兵器の数々に満足した秀吉は、ここにきてようやく兵馬に休息を与えている。
 勝竜寺城と淀城を砦化していただけの明智軍にしてみれば、そうした水面下の手筈を知らない分、山陽道から一気に舞い戻った羽柴の行軍は、「神業」としか映らない。
 が、なによりの衝撃は、羽柴本陣に津田信澄を謀殺した神戸信孝、丹羽長秀らの将旗がはためいていたことだろう。
「羽柴の使者が拝謁を申し出ております」
(あかね)雲霞(うんか)はすでに去っている。
前哨戦となった急襲に失敗し、西方の天王山に布陣した羽柴の軍旗に惟任日向守が憂慮を募らせた早夜、物見頭の足軽が会談を届けた。
「会うまでもありませぬ。(うそぶ)くサルの使いなど、即刻、斬り捨てるべきです」
 興奮からか、陪臣(ばいしん)たちの反応は冷めていた。
それでも惟任日向守は、使いの者が羽柴秀吉の侍医、施薬院全宗であると聞き、本陣に招くようつたえた。
 下鳥羽の本陣は、摂末社の御堂を利用したものだった。
僧侶の使用していた曲彔(きょくろく)で座待つこと僅か。
馬廻衆の仁王立つ入り口から、それらしい人物が顔をのぞかせた。
「まさかこのようなかたちでお会いすることになろうとは、夢にも思いませんでした」
生まれ故郷の甲賀をはなれ、比叡山で出家して徳運軒の法名を授かってまもなく、山内の薬樹院で「本草和名」「康頼本草」「万安方」「福田方」「太平恵民和剤局方」「民方発揮」「経史証類備急本草」など、数多くの医書を修めた功績から、薬樹院の住持に任じられた。
織田軍の比叡山焼き討ちで還俗し、下山後に京のみやこで高名だった曲直瀬正盛に弟子入りした施薬院全宗を迎えた惟任日向守は、村井貞勝との二頭時代をよぎらせ、みやこで屋敷を借りたときの才槌頭を懐かしみ、無言で書状に目を通した。
「京のみやこで信長公を(たお)した謀反人として、羽柴は明智を成敗する、か」
決戦の申し入れと知った惟任日向守は、にべもなく応じた。
天空海闊(てんくうかいかつ)に施薬院全宗の見送りを立てると、自身は物見櫓(ものみやぐら)に上り、供をつけた一行が道中で討たれないよう見届けた。
「織田軍の叡山焼き討ちで医道を開眼するとは、不思議なものです」
 京のみやこで糟糠(そうこう)の妻、煕子(ひろこ)を診てもらった際、彼はそう述べていた。
学問に拘泥(こうでい)し、ほどなく田代三喜から李朱医術──当時の日本における最先端の臨床医学を尊び、文献を元に処方を決めていた投薬傾斜の民方医学に敵視された曲直瀬正盛との出会いは、輪廻(りんね)の転生を経た心地である。
学舎啓迪院で学んだ知見を、いつかは下人から医人として育んでくれた比叡山薬樹院に還元したい。
 恩顧の念から、比叡山の復興支援、ならびに永続的な山内の暴挙を禁じた制札の発行と引き換えに、織田軍の侍医となった。
その覚悟を知ったとき、惟任日向守は彼への信頼を深めている。
(いまを豊かにできるのは、己を信じた者だけだ)
 百姓は日照りや戦火と戦いながら稲をまもり、商人は客や賊人と戦いながら荷を(さば)き、僧侶は布教と学舎普及のために各地を練り歩いている。
氏族はそうした行いを認める存在として、また在地を肥やす存在として、あらゆる蛮夷(ばんい)を払う。
 ただ、自家の織りなす戦いは、どこか殺戮(さつりく)を軽視していた。
(誰かが終止符を打たねばならない)
 惟任日向守は物見台を降りた。
 焚守(たきもり)に煌々と篝火(かがりび)を焚かせると、そのまま母屋に入った。
 大山崎を向いた夜天には、峻崖明媚(しゅんがいめいび)幽谷(ゆうこく)がそびえていた。
 中州に守勢をひろげた淀城を見下ろす天王山の陣灯を西睨(せいげい)していたところ、唾を飲みこんだ喉仏に風が触れた。
「みな下がれ」
 喉に刃をあてられたまま、惟任日向守は応援を呼ぼうとした馬廻衆を「案ずるな」と遠ざけた。
 入り口の幔幕が下ろされてまもなく、首に冷刀を帯びた惟任日向守は、しずかに語りかけた。
「根来に戻れと言ったはずだ。侍女は坂本に置き捨てたか」
「おしょうなら、わたしの故郷に移しました」
「ならば達者に暮らせばいい。なぜ戻った」
「心残りがありました」
黒装束に身を包んだ十兵衛は、惟任日向守の首に刃筋を立てる。
「この脇差は俱利伽羅江(くりからごう)だな」
「…………」
「織田さまに奪われたあと、安土の城に収蔵されたと人づてに聞いた。しかし七日前に天守入りした際には、地下の土蔵をくまなく探させたものの、発見には至っていない。半ば諦めていたが、お前が密かに持ち出していたとは思わなかった」
「……持ち出したわけではありません」
顧みようとした惟任日向守を十兵衛は(ぎょ)する。
「丹波を平定した折に、晴れて下賜されました。代刀としていただいた無銘の太刀は、そのまま()くよう命じられています」
「ほう。するとこの刃は織田さまへの誄詞(るいじ)か。いや、織田に恨みを抱いたあの侍女の頼みかもしれんな」
「おしょうは『御家に仇なす者を討ってほしい』と告げました」
「どちらでもよい」
惟任日向守は笑みを浮かべ、闇野(やみの)を仰ぐ。
「やれ」
 促すように無言で背後の刺客に身を委ねる。
蠢動(しゅんどう)こそあれ、隠遁とした十兵衛の鼓動(いき)に変化はない。
しばらくそうしているうちに、辞世として見納めた夜気が動き出す。
(ただ)したい儀があります」
惟任日向守が納刀した十兵衛を見据えると、まもなくそれが飛んでくる。
「あなたは(まこと)の惟任日向守さまですか」
惟任日向守は答えない。
やがて小さく頷くと、尖視にさらされた身体をくつろがせて発する。
「お前には話しておかねばならんな」


 あれは羽柴の陣小姓であったお前が、土牢で斉藤利三に首を刎ねられた惟任日向守に替わる半年ほど前のこと。
 天正六年(一五七八)四月、丹波多紀の籾井城から北西に位置する細工所砦にいたわたしは、東に鉄砲砦を構えた明智の軍勢に屈した。
 幸いにも細工所砦の被害は軽微で済んだ。
しかしわたしの父、荒木氏綱のまもる荒木城は深刻だった。
過度に防塁を重ねたせいで、外部との距離は遠い。
命をつなぐ水の手曲輪を奪われた時点で、あの山城に勝機はなかったのだ。
抵抗どころか飢え死にしかねない状況とあって、わたしの父は籠城を諦めると、織田に降伏の使者を遣わした。
「丹波の荒木鬼」とよばれた父は、織田の首魁に一目置かれていたのだろう。
交渉の末、城主切腹による無血開城ではなく、赦免(しゃめん)と引き換えの仕官話が先方から示されたことで、仔細(しさい)をまとめた父は、誰にも相談することなく内承していた。
 ただ、父は織田に軍属するための条件を出していた。
あろうことか、「恐れながら、この身は病膏肓(やまいこうこう)老躯(ろうく)でございます。それに織田との戦では、一族郎党が殺されました」と使者に向かって吐いたのだ。
 割り切れぬ勘気(かんき)があるゆえ、どうか織田の仕官は嫡男(むすこ)を選んでいただきたい。
 わたしを推した父の訴えは、どう結んでも敗者の弁ではない。
ところが明智の総大将、惟任日向守さまは寛容(かんよう)な御方だった。
こちらの求めをすべて容認してくれたおかげで、荒木の家は無事、織田の丹波衆となれたのだ。
 それからのことはいうまでもない。
 明智の与力衆となった小畠勢のもと、織田に与した丹波の国人として、高城山に座した波多野兄弟の八上攻伐まで、われらは西進しつづけた。
同年十月には、以南の摂津有岡で遠縁(とおえん)の荒木村重が毛利方についてしまったが、織田への返り忠を貫くわれらには関係ない。
 波々伯部(ははかべ)らの築いた城砦群を突破すると、それらを支城に堂山砦を基とした東破網を形成し、曽地の集落に砦を構えるあいだ、対峙した高城山東麓の安明寺砦・弓月砦を襲撃した。
 この東陣と連携したのが、お前もよく知る高城山北麓の駐屯部隊だ。
詳しくは般若寺城と籠山砦(ろうざんとりで)を景勝とした明智の前線部隊だが、着々と囲繞工作(いにょうこうさく)を進めていた反動からだろう。
 わたしは惟任日向守さまの危篤(きとく)に気づけなかった。
 丹波攻めのほか、丹後(たんご)若狭(わかさ)摂津(せっつ)播磨(はりま)ら隣国に加え、大和や越前にまで派兵していた身体は、政務に障るほどの転戦に陥ったことで、限界を超えていたのだ。
 あの御方はその少し前にも倒れていた。
当時、敵だったわたしの部隊には、丹波氷上の第一次黒井征伐で潰走(かいそう)し、直後に摂津の石山本願寺攻めに駆り出されたこと。また陣中で病臥(びょうが)したとの軍況が届いていた。
 以前から兆候があったとはいえ、陣を離れて京で滋養(じよう)に専念するとは、よほどの異状(いじょう)だ。
 病み上がりで近江坂本に移ってまもなく、京のみやこに残した奥方を亡くされた心痛は、察するに余りある。
 話が逸れてしまったな。
 第一次黒井征伐で裏切られた蹉跌(さてつ)を踏まえ、多紀八上と氷上黒井との分断工作をしている最中、惟任日向守さまの心身は耗弱(こうじゃく)の一途を辿った。
 あれは確か、荷駄隊に偽装した部隊を放ち、(おとり)に吸い寄せられた敵の細作(さいさく)(忍兵)を絡めとろうとしたときだったか。
 夜盗に扮した敵兵の工作範囲を絞り、(くつわ)を噛ませた鞍上(あんじょう)で、虎視眈々(こしたんたん)と待っていたわたしに召令が舞い込んだのは。
 滅多にない夜番の緊急招集とあって、すぐさま陣屋に赴いたところ、めっきりやせ細った惟任日向守さまが下座におられた。
誰も近づけるな。
惟任日向守さまが見張りの馬廻衆(
うままわりしゅう
)
に命じた威迫(いはく)は、病に侵されたとは思えない将光をまとっていた。
 これは密命を下されるのではないか。
 畏敬(いけい)そのまま、惟任日向守さまの(たもと)で伏すると、御簾越(みすご)しに声がした。
この者がそうか、と。
 次の瞬間、意外なほど素早くあらわれた人物は、無言でわたしの(まげ)を掴みとった。
普段の元結(もとゆい)ながら、戦向けに編み込まれた荒髷(あらまげ)(くせ)が珍しかったのかもしれない。
いやそれよりも、強引に仰がされたわたしは、目を()いて委縮(いしゅく)した。
 そこにいたのは織田さまだった。
 お忍びでやってきた目的は、病倒した惟任日向守さまの影として勤仕(きんし)させるべく、敷衍(ふえん)の役儀に適うかどうかを見定めるためだった。
なるほど。確かに瓜二(うりふた)つだ。
 そういって可笑(おか)しげにこちらを吟味(ぎんみ)した織田さまは、明朗に返した惟任日向守さまの同意を受けるや、そのまま密事を持ち掛けている。
それは「余を(たばか)れ」との仰せだった。
 聞いたわたしは耳を疑った。
 夜時の召集であるからには、重任を求められると覚悟していた。
 だが、まさか雲上の織田さまを「(だま)せ」と命じられるとは、(つゆ)にも思うまい。
 小姓と消えた余韻(よいん)に当惑したわたしに対し、残された惟任日向守さまは「わたしの影として動いてほしい」と述べた。
すでに振る舞うための手筈(てはず)が整えてあることは、そのときに明かされた。
 もっとも懸念はあったらしい。
 丹波の荒木鬼とうたわれた父は、誰もが認める武官であったが、嫡子のわたしは文官だったのだ。
 森樹肥々(しんじゅひひ)の丹波で生まれ育っただけに、城砦普請(じょうさいふしん)についての知見は備えていた。
 問題は、惟任日向守さまの諸芸でも随一と目された砲術だ。
 向後(こうご)をみれば、早々(はやばや)違算(いさん)にあたるのは必定。
 そこで惟任日向守さまは、わたしに一計を授けてくださった。
羽柴の陣小姓に同貌(どうぼう)の者がいる。明智の緊要(きんよう)は丹波の平定ゆえ、その者を〝表士〟とすれば危難は払えよう、とな。
 そう。
 選ばれたのは十兵衛、お前だった。
 御家のため、没した親兄弟の冠名(かんめい)継嗣(けいし)が名乗ることに比べれば、荒木山城守の重責を一族の者に任せるなど、造作もない。
 わたしはお前の〝裏士〟として、織田と明智とを結ぶ間接の大黒柱となることを承服した。
 播磨から友軍として着陣する羽柴秀吉の陣小姓として、お前がやってくるのを把握すると、行商や百姓の意見を網羅した高城山八上城の縄張図を祐筆役に筆写させ、それを携帯して陣を発った。
これより荒木は惟任日向守の軍となる。
近臣にそう放つと、わたしは縄張図に記された敵砦を見定めている。
内蔵助に命じた「惟任日向守が敵勢に囚われた」との流言から、別の小合戦で一番槍を与えた影役を、御家安堵の条件で配した。
 そして陣小姓の手提げた龕灯(がんとう)で印を結ばせ、陥落砦の土牢を見分するわれらに合図を送らせた。
 目的はただひとつ。
お前の遷移(せんい)を見届けるためだ。


 闇の奥で落水がきこえる。
「ここまで話せば、経緯(あらまし)は掴んだはずだ」
 惟任日向守の裏士──荒木氏清は十兵衛を見据えて淡笑する。
「白羽の矢が立ったお前は、才気を集める秀吉のお気に入りだった。知啓(ちけい)明晰(めいせき)に富み、秀抜に光り輝く。『明智光秀』という傑人(けつじん)の半身として、申し分ない素養を秘めていた」
「……八上攻城の戦評定を開いたあの日、土牢で内蔵助に斬られたのは、惟任日向守さまではなかったのですね」
「そうだ。真の惟任日向守さまは、去年の師走(しわす)、堺の屋敷でひっそりと息を引き取った」
荒木氏清が頷くと、十兵衛は(うめ)きがちに愁訴(しゅうそ)を漏らす。
 羽柴秀吉は存念なしに左眼を奪われた自身を介抱していたが、秘事についても察していた。
 そして秀吉の地位向上を(うらや)む斉藤利三は、我執(がしゅう)に身を焦がしたまま、惟任日向守の表士となった「十兵衛」を利用する立身出世を餌に、外姻(がいいん)の土佐国主、長曾我部元親の処遇にかこつけて動いたことを告げると、
「内蔵助は己の躍進に固執するあまり、織田との約定を欠いていた。結果、筒井順慶どのや長岡藤孝どのなど、明智と距離を置いて接していた諸侯は、織田を軽んじた内蔵助の連座を警戒し、藤吉郎どのに(くみ)している」
「それは表士に就きながら御しきれなかった悔念(かいねん)か」
「いえ。さきほど荒木どのは、織田さまに違背(いはい)を命じられたといわれた。この刃を向けるはずだった者が分からなくなった。その私淑(ししゅく)です」
 いうなり十兵衛は荒木に突きつけていた江の脇差を下げた。
「わたしはこれまで羽柴との連携を重んじてきた。多紀八上と氷上黒井の分断工作では、但馬の羽柴秀長どのが遠坂越えで芦田・足立・江田ら丹波国衆を蹴散らす見返りとして、摂津三田の付城普請と物資の搬入を担った。本年の甲斐武田攻めにおいても、同様の支援を果たしています」
「存じている」
「織田さまの命で、荒木どのがわたしを表士に仕立て上げたのは分かりました。しかし影の儀であれば、ほかにも方法はあったはず。ひょっとすると、藤吉郎どのを警戒してのものではありませんか」
「そこまで察したか」
荒木はわらう。
詳報こそないが、本能寺の変事に気づいた羽柴秀吉は、水攻めで無血開城に持ち込んだ高松攻城に際し、手薄な北西の宮路山城と冠山城を先に攻略することで、鬼之城や経山城との連絡を断ったとみている。
 ひとえにそれは、栗柄峠・鏡峠・佐仲峠・瓶割峠・鐘ケ坂峠といった、行軍経路の山道を封鎖すべく、栗柄砦から譲葉山城までの東西にわたる兵站線を構築した、明智の八上攻城に係る分断工作を踏襲するものだ。
 一方、明智の丹波平定についても、八上城と黒井城の攻囲では、播磨・但馬平定で兵糧攻めや水攻めを行っていた羽柴の功業を反映させている。
 羽柴と明智。
しずかなる刎頸(ふんけい)の交わりは、いつしか天樹の楼門(ろうもん)を成している。
「羽柴との蜜月(みつげつ)は、今に始まったことではない」
 荒木は無人の床几(しょうぎ)に残された軍鞭(ぐんべん)をみやる。
「毛利の地に下向した足利義昭をみやこで敬奉(けいほう)したときからの間柄だ。こうして敵対したとはいえ、御家に対する忠義は明智も変わらん」
「ならばなぜ京のみやこにいた織田さまを討たれました。命じられた裏切りは、殺害とは異なる意を含んだものでしょう」
「無論だ」
 荒木は生前の惟任日向守と示し合わせた密議の核心に触れはじめる。
近江国蒲生(おうみのくにがもう)に安土の城が建立される以前から、信長は城内外に諸侯の屋敷を集積させる着想を立てていた。
表向きは妻子を人質にとるためとされたが、裏では諸侯の継嗣となるべき子息の扶育(ふいく)を推し進めていた。
「あの織田さまが、家臣団の嫡子を……」
「子はなくとも知っていよう。分別を得た大人の制御は至難だが、右も左もわからぬ(わらべ)の扇動は容易い。元服前の諸侯の嫡子を安土城内に住まわせ、わざわざ身辺の世話を焼いたのは、情操段階で思想を植えつけるためだ」
 (まばた)きひとつみせない十兵衛を荒木は見据える。
「逆らえば私刑に処される──織田家の繁栄にとって、諸侯の子々が織田さまに心酔することは、後代(こうだい)の布石となる。加えて妻女をあつめることは、織田家中における『家格』を意識させ、女の妬心を煽り立てる。上位とみなされた閨閥(けいばつ)が抗争激化すれば、夫である諸侯は出処進退(しゅっしょしんたい)につながりかねないとの脅迫観念にかられ、妻子の殿中沙汰(でんちゅうざた)と軍政とで忙殺される。どれも織田への叛力(はんりょく)を削ぐ上では効果的だ」
「家臣の一部がいがみ合うのは、どの家も大差ありません。少なくとも諸侯の雑念を排するのは、国家の安寧(あんねい)につながるものではありませんか」
「許した織田の将はない」
 荒木氏清は反論を切って捨てる。
「織田家に貢献していた重臣たちの凋落(ちょうらく)はみていよう。嫡子共々、織田一族の牛馬として扱われ、不要とみられた瞬間、御家ごと潰される。栄華を成すのは織田の一族のみ。従う万骨は枯れていく。われらが織田に与したのは、そのような未来のためではない」
 荒木の言に十兵衛は押し黙った。
 惟任日向守の表士に就いたことで、信長を排斥しようとする機運の高まりは感じとっていたのかもしれない。
 陣灯に浮かぶ表情は沈んでいる。
 荒木は破光を浴びたまま、冷ややかに発する。
「かつて織田さまから受けた秘命は、それを防ぐためのものだった。信用する者を各所に配し、不穏の芽を摘み取っていく。わたしはその一翼として、織田の根が腐らぬよう、あるべきかたちに戻していた」
「それは……織田さまあってのものです」
「わたしが本能寺で討ったのは、織田さまではない。畿内五国(いくないごこく)を手中とし、『天下どの』と呼ばれる名声に耽溺(たんでき)した、戦国の亡霊だ」
 刹那(せつな)に十兵衛の脇差が刃を剥くも、荒木は「聞け」と(かっ)する。
「さる宣教師には、織田さまと惟任日向守さまは同一視されていた。どちらも策謀に長け、特有の残虐性を備えていたためだが、もっとも覇権に飢えていたのは、しがない百姓から成り上がった男。藤吉郎だ」
「…………」
「第一子として生まれた石松丸が夭折(ようせつ)し、織田さまの四男である於次丸を養子としてもらい受けたとき、あの男は継嗣の傅役(もりやく)としてお市の方を救出した藤掛永勝を付け、長浜城主に据えることで、停滞していた毛利征伐の(とが)(まぬが)れている。その頃からすでに織田さまを出し抜く算段はあったようだが、それには柴田、徳川、滝川、森といった、歴将の発言力を抑えることが肝要だった」
荒木は秀吉が家中で台頭する惟任日向守に着目した由を述べる。
浪人出の明智は信長の寵愛(ちょうあい)あっての御家だけに、正室の煕子(ひろこ)と死に別れ、昨夏に安土城で橋渡しをしていた妹御の御妻木が息を引きとったときから、惟任日向守は立場を危めていた。
しかしこれまで忠勤ぶりは、賛否を問わず、誰もが認めるところである。
同時に「親族の人質」という、安土の呪縛から解放された唯一の家臣となったことで、諸侯は注視していた。
「誰よりもはやく動いたのは藤吉郎だ」
 荒木は十兵衛に事実を突きつける。
「内蔵助は四国平定で長曾我部と交渉していたが、それを破談に追い込んだのはあの男だ。好戦的な織田さまの性情を熟知し、本来なら領地の差し出しで済むところを、神戸信孝さまを焚きつけ、征伐に舵を回している」
「……あろうはずもない」
 (うつむ)いていた十兵衛が口を開く。
「藤吉郎どのは、誰にも分け隔てなく接していた。情を知る御方です」
「その男が長子の城介(信忠)さまを(たぶら)かし、織田さまを亡き者にすべく暗躍したと聞いても、心証は変わらぬか」
 言葉に詰まる十兵衛に、陣羽織を外した荒木はつづける。
「表士のお前には、あの男の心底はみえるはずもない。いや、みまいとしているだけかもしれん。わたしが京のみやこで討った城介さまは、藤吉郎の術中に(はま)っていた。京都入りで織田さまが妙覚寺から離れた本能寺に寄宿なされたのは、不審があったからだ」
「まさか……いや、織田さまは信忠さまを『織田家の新当主』として帝に推していた。それに信忠さまは、藤吉郎どのを賤視(せんし)しておられたはずだ」
「丹羽長秀が仲介している。毛利征伐もそうだったが、藤吉郎は陥落寸前の敵城をひと目見てもらおうと、幾度も織田さまに本陣で迎える旨を上申し、断られている。おなじ暗殺なら、嫡子の信忠さまを騙したほうが悧巧(りこう)と判断したのだ」
「……しかし、現実には荒木どのはみやこで織田さまと信忠さまを討滅している」
 十兵衛の脇差がこちらを仰ぐ。
「それに他の諸侯も黙っておりません。外参の羽柴に御家の主導権を奪われてはと、隙は窺っていたはずです」
「滝川一益と森長可に二心はなく、柴田勝家は越前北ノ庄を離れられん。座を狙っていたのは、羽柴と徳川の二将だ」
「秀吉どのだけでなく、三河どのまで……」
茫然自失となった十兵衛に、荒木は行状を物語る。
 西国攻めの諸将のおおくは、信長三男の神戸信孝を矢面に引きずり込んだ羽柴秀吉を静観していた。
 対する東国攻め──上杉征伐の柴田と森・滝川勢は進退を制限されていたが、徳川家康は相模の北条と手を結び、かつての伊賀攻めの科料で後継者としての器を喪失した信長二男の北畠信意(織田信雄)を抱き込むと、甲斐武田征伐後には、残党を大量に召し抱えていた。
 それは徳川一門が信長二男を擁し、織田をわがものとするための準備だった。
急先鋒である徳川家康は、明智に対しても結託を促していた。
「敵方に通じたとして、正室の築山御前と長兄信康の斬首を命じられた三河どのは、織田さまへの報復機会を探していた。十兵衛よ。お前が堺の饗応役を解任されたとき、(おもんぱか)るような素振りはなかったか」
「……直命が下され、丹羽どのに引き継ぎを済ませた際、涙を|湛(たた》えていました」
「それこそ三河どのの政情だ。明智が急遽(きゅうきょ)、毛利攻めを命じられたのは、不穏なうごきをみせた羽柴に(くさび)を打ち込むためのもの。堺見物の饗応で、初日の昼膳に出した坂本名物の(ふな)熟鮨(なれずし)を家康は好まず、お前は織田さまの勘気を(こうむ)ったが、織田さまは本心から赫怒(かくど)したわけではなかった」
「なぜ生成(なまなり)のものにしなかったと叱責(しっせき)されたが、あれも演技であったと」
「ああ。織田さまなら、駿河産の江川酒や相模産の(たい)を用意したはずだ」
「駿河や相模の……では、あの饗応は『今川の残領と北条を平らげよ』と暗に示すためのものであったと」
「相手は織田さまの盟友だからな。角を立てずに接遇で示す。それが外事の饗応というものだ」
 和睦から進展のない徳川家康の怠慢を戒める。
 それへの無理解を悟り、軍務のほうが功も上がると踏んだからこそ、信長は十兵衛を毛利攻めに駆り出したと荒木はつたえ、
「織田さまの意に反し、三河どのは北条を滅ぼすのではなく、門閥に加えようとしていた。四国の長曾我部を不戦で済ませようと奔走(ほんそう)していた内蔵助は、そうした三河どの気概を知っていたため、城介(織田信忠)さまを利用した織田さまの暗殺計画をすすめる藤吉郎のうごきをわたしに報じている。その動きを把握したのだろう。藤吉郎は明智に接触してきた」
「馬鹿な……そのような報は届いておりません」
「お前が伝馬役とした佐々川箕六──光慶どのの預かりとなるよう、わたしから言い含めていた。いずれにしても、藤吉郎は朋輩である明智との連携を望んでいた。陣小姓のお前がこのまま当主として君臨しつづければ、羽柴にとって外姻に等しい続柄となる。是が非でも暗殺計画に参加させようと目論んだのは、お前の仁義を買っていたからだ」
「わたしは……」
虚空に箒星(ほうきぼし)がながれている。
荒木は脇差を濡らした十兵衛に告げる。
「覇を望んだわけではない。織田家のため、滅私に奉公したお前は、まぎれもない忠臣だった。お前を含めた諸侯のため。なにより土岐一族と、付き従う国人たちのため、わたしは藤吉郎の策に乗じ、織田さまと城介(信忠)さまを成敗した」
 ここで協力を強いるためではない。
「明智と羽柴。どちらに与しようと、お前を責めはしない」
荒木氏清は、忠義への感謝として、摂理に打ちのめされた十兵衛を見守る。
 まもなく眼前で旋風(つむじ)が舞い始める。
 閉眼して見送った荒木氏清は、脇置いていた陣羽織に袖を通し、平金をあてた兜布をまとう。
 その瞬間、気配に気づいた。
「羽柴に戻るには、『惟任日向守』として長く生きすぎました」
 十兵衛は懐中から書状を取り出すと、こちらに差し出してくる。
「内蔵助。弥平次。入っていいぞ」
 目を通しはじめた荒木が発するや、陣幕の外で待機していた斉藤利三、明智秀満らが、抜き身を提げてやってくる。
 十兵衛はその裂帛(れっぱく)をものともせず、書状は斉藤利三の探していた蒔絵(まきえ)聖餅箱(せいへいばこ)に納められていたものであることを明かす。
「そこにいる内蔵助は、『手にした者は巨万の富を得る』という噂を信じ、根来の女に蒔絵の箱を探索させていました。それは人知れず織田さまの収蔵品となっていましたが、御妻木どのの存命時、濃御前さまより、わたし宛てに贈られています」
「濃御前さまが、お前に与えただと……」
 驚嘆した斉藤利三の前で、|蛇腹(じゃばら》に封された書状を荒木は確かめていく。
 (つづ)りを追った瞳孔が、そのまま狭窄(きょうさく)した夜目をひらいた矢先、十兵衛の声が耳に届く。
近江坂本に異動となった侍女のおしょうは、死期を悟った御妻木から蒔絵の聖餅箱を託されていた。
その差出人が織田信長であることなど、一様には理解しがたい話であったものの、書状に戦慄(せんりつ)した荒木には、()に落ちるものがある。
「そうか。そういうことだったか……」
荒木はつぶやくと、動顚(どうてん)していた斉藤利三に書状を渡し、十兵衛に唾棄(だき)した。
「お前はすべて知っていたのだな。織田さまの身体のことまで」
「はい」
「ここで俱利伽羅江(くりからごう)の脇差をわたしに向けたとき、お前は侍女から御家の敵を討つよう頼まれたと言っていた。おもえば奇妙なものだ。御妻木どのの死で、仕えていた明智の者が続々と坂本城に移されるなか、織田を憎んでいたおしょうだけは、濃御前さまから『安土に残ってはどうか』と求められていた」
「彼女の忌み嫌っていたものは、織田ではありません。いたずらに版図(はんと)を拡げようと他を(むさぼ)る、賊徒のごとき氏族。それらの割拠(かっきょ)した国々です」
「さきで理解した」
荒木は書状をみつめたまま何かを惹起(じゃっき)する斉藤利三を一瞥(いちべつ)する。
「織田さまは伴天連(ばてれん)明人(みんじん)のもたらす知見を集めていた。茶器と鉄砲は最たるものだが、築城にも興味を持たれていた」
「見聞を岡部又右衛門らに凝集させたのが安土の城です」
「そうだ。しかし壮麗な城構えとは裏腹に、派手好みの織田さまを(おだ)てた奸臣(かんしん)のせいで、催事(さいじ)に傾斜した城内は、かつての威を失った。安土山内の屋敷保有をゆるされた三河どのと藤吉郎が進言したにしろ、宣教師らのつたえた事例を踏襲し、城の一部を一般開放してからというもの、誇飾を重ねた内情は民らの知るところとなってしまった。遊山客(ゆさんきゃく)が殺到しすぎたために、やむなく受け入れを停止したというお触れは、あくまで口実にすぎん」
「安土城内に奇病が蔓延(まんえん)したのはその頃です」
「書状にはそうあった。健啖(けんたん)な織田さまの身体が、虚弱に見舞われはじめたと」
「原因はおそらく中毒です」
十兵衛の手から蜥蜴(とかげ)が走り去る。
明智秀満の峻捌(しゅんべつ)に応えたそれは、陣幕を支えた影柱に溶けていく。
「矢玉は体内に残れば死を招きます。鉄砲の玉や磁器茶碗の釉薬(ゆうやく)などがそうですが、舶来品(はくらいひん)には鉛を使うものが少なくない。後年の織田さまが好まれた品々は、含有(がんゆう)したものが多くそろえられていた。そこへ安土城内の水の手が絡み、症状を悪化させたものとみられます」
「水の手というと、地下水を引いた井戸曲輪(いどくるわ)か」
「宣教師の話では、ロウマという国が反映していた時代、城に大量の水を供給するための水管が重用されたとありました。やがて使われなくなったそうですが、堺の出入り商人が、それは鉛製のものであったためと教えてくれました」
「筒状の鉛を」
「はい。その商人は、使用されなくなった理由として、鉛が溶けだした悪水を摂取しつづけた中毒症状の広まりを挙げています。(むしば)まれた身体は虚弱し、その死を早める──変調を隠していた織田さまは、家中で最も信用していた臣将に、自身亡きあとの御家を支える構想を伝えていました」
「…………」
「ほんとうの密議を打ち明けられた惟任日向守さまは他界なされた。そしてあなたは御家の将来を悲観するあまり、織田さまを嫡子の信忠さま諸共、京のみやこで討ってしまわれた。その書状はもはや、織田さまの遺訓とみなされることはないでしょう」
 荒木は膝を折るように地に伏した。
 京のみやこで討たずとも、死期は近づいていた。
 それどころか、信長没後、明智の厚遇を約す文言が、書状には盛り込まれていた。
「わたしは何も知らず踊っていたのか……」
 荒木の言葉をかき消すように、騒がしい気配が漂う。
 こちらに決戦の使者を遣わして油断を誘うのは、東西で睨み合う軍勢しかない。
羽柴秀吉らしい夜襲と戦勘は働くも、真実に打ちのめされた荒木氏清は、陣幕を出ていく斉藤利三と明智秀満を御することはできない。
「本能寺で御首をとろうとした際、織田さまはこちらに微笑んでいた」
 荒木は小さくつぶやく。
「己の積み上げてきた業績が泡となる。『死ぬは一定』と公言していた織田さまだけに、そう悟ったのだと感じていたが、そもそも本能寺に兵らしい兵は置かれていなかった。あの御方は来期で数え五十となる。人間五十年という敦盛(あつもり)の一節を好んで舞われるあたり、誰かに殺させて神の化身となることを望まれたのではないか。そうした憶測も、あの書状で消し飛んだ」
「荒木どの……」
「いまにしてその御心を察した。本能寺でわたしと瞳を合わせた織田さまは、惟任日向守さまの影が二人であることに気づいた。すがたを消して堂内に火を放ったのは、反旗を翻した惟任日向守が、お前ではなかったと安堵したからだ」
 病躯(びょうく)を押してまで京都に出向いたのは、表士として惟任日向守を継いだ十兵衛を見守るためだった。
 堺の饗応役を解任し、毛利攻伐に向かわせたのも、織田家を脅かす羽柴秀吉と肩を並べるだけの将器があるかを見定めるため。
 そこには根来の生き残りとして織田に仕えた、不屈の信義に対する期待があったにちがいない。
畿内五国で己の限界を悟った信長は、煩悩を払って軍務を全うする十兵衛と出会い、日ノ本一統を目指すかつての自身を呼び覚ました。
自身はもちろん、没した惟任日向守も、信長自身も失っていた。
その桑弧(そうこ)の志を、眼前の男は宿している。
 荒木は書状を二等すると、酒杯にそれを一枚ずつ入れる。
一碗は己の手に。
もうひとつは十兵衛に渡す。
「織田さまの遺訓はわれらが墓場まで持っていく。ここで羽柴を討ちとり、日ノ本を正道に導く。異論はないな」
 無言で頷いた十兵衛に、荒木は陣酒を注ぎ、呼吸を合わせて飲み干す。
 銃声がとどろいたときには、一味神水を終えた十兵衛の左眼がうごき、斉藤利三の手心で致命傷を避けていた瞳があらわとなる。
明智の誰もが認めていた。
だが、たとえそうだとしても、認めるわけにはいかない。
(われ)は荒木山城守氏清。ふたたび惟任日向守の影とならん」
荒木は雄心を奮い立たせる。
そのさなか、闇に隠した瞳を戻す孤影に、不動仏の炎身をみる。

土岐の鷹⑧

土岐の鷹⑧

陰陽

  • 小説
  • 中編
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-12-28

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