土岐の鷹⑦

雲心

   七


涼やかな瞳がこちらを射抜いている。
贖罪(しょくざい)を背負った顔は、あのときから少しも変わっていない。
おしょうは湖幻(こげん)の城をみている。
美濃国(みののくに)の争いに巻きこまれた父、長井道利(ながいみちとし)が手に入れられなかったものを。
すべてを奪われた故郷(さと)で、情けをかけられた百姓の母が死の(きわ)につたえた咎人(とがびと)を。
行きずりながらもさる氏族に拾われ、まもなく別の御家に捨てられた。
そこで出会った御妻木の兄が、まさかあの男であったとは──。
遠のく湖畔(こはん)には、竹編みの(うけ)を引き揚げる漁舟(ぎょせん)がならんでいる。
粗野な丸木舟よりはじまった琵琶湖の岸漁(もんどり)は、同業ならではの慣習があると聞く。
「他の水域を侵さない」
「氏族の争いには介入しない」
二条を(かて)とするのが、湖魚をとる荒くれたちの流儀らしい。
それでも平然と海賊行為に走る者はいて、暴れまわる迷惑者をことごとく倒し、味方の水軍としてととのえたのが、織田軍だった。
(織田は他国を滅ぼしても、領内の悪事を見過ごしはしない。こうして女だけの舟旅(ふなたび)ができることには、感謝しなくてはならない)
引き結んだ(くちびる)の痛みから、おしょうは(うつつ)の舟景に立ちかえる。
かつては恐ろしい(とも)の躍る軍舟だらけだった。
その水平線も、いまでは侍たちを刺激しない魚屋(ととや)の小舟で活気づいている。
口惜しさに息を(ゆが)めたまま、坂本城内でおきた現実を確かめようと、おしょうは雨を心配する御妻木の横顔に問いかける。
「安土の織田さまは、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)さまをどうみておられるのでしょう」
「急にどうしました」
「いえ。惟任日向守さまとの拝謁(はいえつ)に、侍女(じじょ)のわたしを連れていくのは、初めてだと思ったもので」
おしょうがこたえたとき、おおきく舟が(かたむ)く。
比叡山(ひえいやま)のふもとから運ばれた、気まぐれな(にお)の浦風が吹いたのだ。
おしょうは倒れそうになった荷物を(つか)まえる。
隣の御妻木はといえば、落ち着き払ったようすで、垂髪(すいはつ)(かもじ)を抑えている。
 そしていつものように(つぶや)いている。
「お腹が空きましたね」と。
転覆だけは免れようと水主(かこ)が必死で櫓櫂(ろかい)を立てるなか、艶めいた肩と胸は、けらけらと揺れている。
荷物を片手、残りの手足を張り出すように舟底(ふなぞこ)でこらえたこちらが、さも可笑しいと告げるかのように。
(この御方(おかた)(きも)には、ほとほと感心するしかない)
 風であおられた舟がようやく静かになったときには、坂本で「道中の(なぐ)みに」といただいた、味噌焼(みそや)きの御飯を(ささ)の葉から取りだす御妻木がいる。
「あなたも食べなさい」
そういって笹巻のひとつをよこしている。
船酔いのせいか、あまり食欲はなかった。
しかし断れるはずもなく、受けとったばかりのそれを(つつ)ましくほどいては、程よい歯ごたえと梅の風香を味わううちに、生唾(なまつば)はやってくる。
ささやかな舟上のうたげを(たの)しんだおしょうは、やがて安土山の(みなと)(のぞ)んだ。
大舟入(おおふないり)小路(しょうじ)に差し掛かると、迎えの輿(こし)が待っていた。
「お早い到着ですな」
紺糸縅(こんいとおどし)甲冑(かっちゅう)をまとい、金覆輪(きんぷくりん)(くら)にまたがる侍が、きりりと()った茶筅髷(ちゃせんまげ)を誇っている。
まるで神事の行列かとおもえる派手さは、平時(へいじ)であろうと威光(いこう)を示す、主君の差し金にちがいない。
精悍(せいかん)にわらったのは、岐阜(ぎふ)からの本拠地移転に絡み、築城にまつわる普請(ふしん)(建設)を任された、安土奉行(あづちぶぎょう)木村高重(きむらたかしげ)だった。
「おやまあ。木村どのではありませんか」
さっそく御妻木が笑みをこぼすと、木村高重は会釈(えしゃく)がてら、首をまわしてみせた。
「御妻木どのも達者(たっしゃ)でなによりです。主命から迎えに参上(さんじょう)しました」
「お手数をかけますね」
「何を申されます。安土奉行のなかには、城下の治安のみならず、軍議に呼ばれる者がおります」
木村高重は、おなじ安土奉行の福富秀勝(ふくずみひでかつ)を引き合いとするや、一見だけで織田の正規軍とわかる家紋入りの輿(こし)示唆(しさ)した。
先に乗り込んだ御妻木のあとに続いてまもなく、輿は西に折れた。
駿馬(しゅんめ)をとりそろえた博労(ばくろう)(馬の斡旋所)。
はぎとった獣皮をなめす切革師(きりかわし)
鳥居の建立(こんりゅう)修繕(しゅうぜん)をおこなう笠木師(かさぎし)
その隣であざやかな貝殻を螺鈿(らでん)におこした青貝師(あおがいし)など、多様な商屋がならぶ四町を過ぎたあたりから、瞳は安土山に(おお)われた。
かるく仰いでみても、御殿(ごてん)は乱立していた。
石亭に例えられた屋敷のあるじは、いずれも頑陋(がんろう)な重臣たちだ。
なかでも徳川家康と羽柴秀吉の御殿は、南の下街道を警戒している。
織田信長の後継者とみられた長子の信忠ほか、信長の祐筆(ゆうひつ)(代筆も行う広報》で芸事に明るい武井夕庵(たけいせきあん)の屋敷などは、ふもとの城下とつながる西道を守護している。
すらりとのびた百々橋(どどばし)を越えた輿は、臨済宗の傯見寺(そうけんじ)を映したまま、(けやき)の門を抜ける。
その先にみえた庫裏(くり)の奥道に差し掛かった瞬間、おしょうは(まゆ)をひそめる。
側女(そばめ)にならぬか」
そういって一夜を共にしてから音沙汰のなくなった、織田信忠の屋敷である。
(あのとき逆らっていれば、この身はなかった)
おしょうの身体に慟哭(どうこく)が刻まれたのは、庭の巣瓶(すびん)で育てる幼鷹(ようおう)の消えた、一昨年の暮れ。
あの日、信長は従三位左近衛権中将(じゅさんみさこのえごんちゅうじょう)を拝官した嫡子、信忠を岐阜城から安土に召喚した。
織田家の客将だった丹羽長秀の住まいが奪われ、あらたな家主となった信忠が屋敷入りした十二月二十八日には、使者の寺田善右衛門(てらだぜんうえもん)を通じ、秘蔵の茶道具が譲渡されている。
茶入れ「初花(はつはな)
茶壷(ちゃつぼ)「松花」
絵画「平沙落雁図(へいさらくがんず)
花入れ「竹ノ子」
釣り茶釜用(ちゃがまよう)釜鎖(かまくさり)
藤波某旧蔵(ふじなみなにがしきゅうぞう)無銘茶釜(むめいちゃがま)
曲直瀬道三旧蔵(まなせどうさんきゅうぞう)「無銘茶碗」
手盆(てぼん)内赤(うちあか)
計八種が信忠に与えられた翌日には、堺奉行の松井有閑(まついゆうかん)を通じ、珠徳作(しゅとくさく)茶杓(ちゃしゃく)武野紹鷗(たけのじょうおう)が旧蔵していた瓢箪(ひょうたん)の炭入れ、古市澄胤旧蔵(ふるいちすみたねきゅうぞう)高麗箸(こうらいばし)(火箸)を授け、祝意を込めた正式な寄贈と代えている。
それらは翌年春、万見重元(まんみしげもと)の館で茶会が催されたときに、招待客の前で披露(ひろう)された。
惟任光秀(これとうみつひで)妹御(いもうとご)である御妻木の侍女として、安土の城内で奉仕しはじめたおしょうが信忠の寝所に呼ばれたのは、宴声(えんせい)の消えた晩霞(ばんか)を仰いだときだ。
ながれゆく窓景(そうけい)に、安土城下の黒金門(くろがねもん)がみえてくる。
「あの庭は安土の一輪ですよ」
舶来(はくらい)硝子鏡(がらすかがみ)(たずさ)えたまま、のんびりと化粧(けわい)を確認していた御妻木のうなじが乗り出していく。
侵入者に余計な足場を与えないよう、草木一本にいたるまで、徹頭徹尾、伐採された総石垣の安土城内に花樹(かじゅ)はない。
ただ一人、例外とされた人物──花紅柳緑(かこうりゅうりょく)枯山水(かれさんすい)を理由に植樹をゆるされた長谷川秀一の邸外(ていがい)で咲きほこる山躑躅(ヤマツツジ)をおしょうはとらえる。
紫赤(しせき)花弁(はなびら)には、毒があると申される殿御(とのご)もおります」
 (みき)の交差から、妖しい(かげ)をまとう斜樹(しゃじゅ)を映す瞳には、あの高飛車な哄笑(わらい)が響いている。
石段の蛇行を経、天守西の御殿に達したところで、輿(こし)は役目を終える。
おしょうは位置をずらすように揃えられた草鞋(わらじ)前坪(まえつぼ)にあしゆびをかけると、包みをかかえて御妻木に続く。
独立二層の母屋(おもや)には、座敷は二つしかなかった。
というのは、山岳傾斜にあわせた懸造(かけづくり)楼閣(ろうかく)であるためだった。
なぜ二層なのかといえば、奥の(きざはし)を下りた先に、土蔵(どぞう)とも納戸(なんど)とも言い難い空間が(しつら)えてあるからだ。
「坂本でいただいたものを収めておきます」
おしょうは御妻木と別れ、すぐさまそちらに降りた。
いったん息を止め、綾絹(あやきぬ)風呂敷(ふろしき)にくるまれた老酒(らおしゅ)と高麗酒、それに希少な砂糖と胡椒(こしょう)の瓶を置くと、ひるがえした袖を口に当てたまま、呼吸とともに一階の土間に向かった。
安土山の屋敷では、どこも人手は足りていなかった。
「おしょうさま、はしたないですよ」
屈託(くったく)のないえくぼをみせた下女(しもおんな)吉津(きつ)の指摘はいつものことだ。
勝手に慣れた女であれば、意に介さない。
おしょうは侍女であることを忘れたかのように、その場でいつもの小袖に着替えはじめる。
水桶をとり、井戸端で御妻木と自身の着ていた小袖、わずかに汗ばんだ襦袢(じゅばん)脚絆(きゃはん)といった旅装を洗っていく。
その途中、大胆に炉端で着替えようとしたこちらを気遣う几帳(きちょう)が目に入る。
「洗い物を運ぶのに邪魔だから、あの目隠しをどうにかして」
おしょうが萌黄軟錦(もえぎなんきん)幅筋(のすじ)が垂れた几帳をどかすよう発すれば、そこは年季の入った奉公人といえようか。
「それを外せば、おしょうさまのはだけた胸をさらすことになります」
洗濯に夢中になるあまり、着ていた小袖が大きさの違う他人の持ち物であることに気づかなかった。
そんなおしょうはといえば、水桶に浸けた両手を引きぬき、赤面したまま胸元をおさえ、そそくさと吉津の用意した葛籠入(つづらい)りの自服に袖を通している。
二度目の着替えが済んだあと、吉津に預けた水桶を受けとった。
こちらの意気を削がないように、との配慮だろうか。
「干すのはお任せします」
丸みを帯びた吉津の背は、そう告げるかのようだ。
(御妻木さまの侍女として、これまで下女は何人もみてきたが、これほど甲斐甲斐(かいがい)しい献身者(けんしんしゃ)はいなかった)
おしょうは屋外の|物干し竿に洗濯物をひろげる。
おおくが仕えた家の下士と|懇「ねんごろ》ろになり、玉の輿をねらっている。
そこにいる吉津もまた、かつては織田信長の近臣と恋仲になった一人だが、その後は時世に翻弄(ほんろう)されている。
「一族郎党を守るのは、(おとこ)のなすべき道だ」
さらなる繁栄を図ろうと、国主は他領と示し合わせ、互いの嫡子による祝言(しゅうげん)外姻関係(がいいんかんけい)を結んでいる。
だから上昇志向をもとめられた嫡子のあいだでは、家格と同等もしくはそれ以上の相手を選ぶ政略結婚が、氏族に生まれついた運命(さだめ)とされている。
そうした閨閥(けいばつ)とは迂遠(うえん)のおしょうにとって、穏やかに過ごせるのはこの御殿にいるときだけだ。
自由をうたった楽市楽座の安土も、一皮むけば権力者の集まりでしかない。
飛び交う縁談に寂寞(せきばく)すらみせない信長の膝元で、隠忍自重(いんにんじちょう)(うら)みを忘れられるのは、おなじ心傷をかかえた彼女の存在が、いつもそばにあるからではないか。
身籠っていた身体のまま、意中の士から引き剥がされた。
生活のため、高額な薬をのんで堕胎するか、野山に嬰児(えいじ)を放置する、あるいは商人に売り飛ばしてまで奉公する下女も少なくないなか、数少ない俸給から捻出し、古寺に里子として預かってもらえるよう手配していた。
その我が子が元服して羽柴秀吉の足軽となったのを誇らしく語っていた吉津を思いだしたおしょうは、
「準備が整い次第、みなで粗茶をいただきましょう」
残りの小袖を干し終えると、乾いた襦袢(じゅばん)のしわを焼き炭入りの火熨斗(ひのし)で丁寧に伸ばし、彼女の仕事場を出た。
奥座敷に向かう御殿の裏縁(うらえん)には、面取角柱(めんとりすみばしら)(ひさし)がのびていた。
分厚い塗籠(ぬりごめ)の納戸が目についたため、鼻を押さえて面前を抜けようとしたとき、急にあらわれた御妻木と目が合った。
あたらしい折敷(おしき)をおろそうとしたのだろうか。
数段に重ねられた食卓膳を抱え上げる御妻木のすがたから、おしょうはすぐに駆け寄った。
「このようなことは、わたしに申しつけください」
運び出すまではよかったが、普段から身の回りの世話を任せる彼女にしてみれば、数人分の食卓膳であろうと、やはり重いのだ。
尻餅をつくように納戸の入り口でしゃがみこんだ身体を介抱しつつ、おしょうは尖り口調で投げた。
そのときふと、納戸の奥にしまわれた蒔絵の小箱が目についた。
いつ収蔵したものだろう。
珍しい品に見惚れたところ、御妻木の大らかな声がした。
「ごめんなさいね。先ほど使いの方がやってきて、織田さまの来訪を報せてくれたものですから」
「お、織田さまが参られるのですか……」
なんと間の悪い。
坂本からの渡舟(わたしぶね)で疲れ、旅の垢でも落としてひと息つこうと考えていただけに、来賓準備(らいひんじゅんび)など、あるはずもない。
「御妻木さま。お召し物を替えにまいりましょう」
まずは一刻も早く奥座敷を整えなくてはならない。
なぜ普段使いのものではなく、来客用にあつらえた高足のものであったのか──いつものように間違えて出したのではといった早合点を納戸に捨て去ったおしょうは数段重ねの食卓膳を持ち上げる。
御妻木を導くかたわら、廊下の掛け障子を伸ばした片足で閉じてまもなく、用意した几帳の中央で彼女の着替えを済ませる。
「よくお似合いです」
雨上がりの干天に合わせ、涼しげな遠州織の腰巻(こしまき)打掛(うちかけ)をまとった御妻木の満悦を奥座敷に留めたところで、ふたたび折敷を抱えて土間へ。
やや息を荒げたこちらにおどろく吉津らを見、
「織田さまの御成(おな)りです」
伝えとともに、ぐいと高足の食卓膳を突き出す。
一瞬で目の色を変えた下女たちは料理をつくりはじめた。
この西之御殿に男の炊事番はいないため、炊き出しはすべて下女の仕事である。
「これあんたが(さば)いといて」
「|香「こう》の物は任せるから」
吉津は買い付けたばかりの山女魚(ヤマメ)に串を打ち、手早く塩を振ったそれを火鉢で(あぶ)っている。
隣のお福がつくろうとしているのは、(たこ)塩竈焼(しおがまやき)だ。
触発されたようすの寿々(すず)はといえば、かまどで信長の好む終旬の味噌蛤(みそはまぐり)を用意し、空いた手で高野豆腐の添えものを拾おうと、漬物石に手を伸ばしている。
鉄瓶(ちろり)をみるよう頼まれたおしょうは、もはや中座で諸氏をながめる家老も同然だった。
もっとも、侍女として為すべきことはある。
(うたげ)となることに備え、肴以外(さかないがい)のものを用意しておかなくては)
ちょうどいい熱さの白湯(さゆ)を出せるよう、沸騰寸前で火鉢から鉄瓶を外したおしょうは、吉津たちの引き継ぎに甘んじる。
御殿を離れ、別邸の慰安部隊(いあんぶたい)こと御囃子衆(おはやししゅう)を招く申し入れを取次(とりつぎ)の侍につたえてまもなく、その足で石段の掃き掃除を命じた下男(しもおとこ)のひとりをつかまえる。
「織田さまがお見えになられる前に明かりを灯しておいて」
花道を彩る石灯籠(いしどうろう)を|示唆『しさ》したときには、信長付(のぶながつき)の小姓のすがたが沿路にある。
まずい。
そう思う暇もなく、ひとまず時間を稼がなくてはと漸次(ぜんじ)、引き止めていく。
御妻木の待つ一之間から南。入殿してすぐの二之間で彼らを応接したおしょうが、信長の身辺を世話する森成利(蘭丸)を迎え入れたのは、雲上の陽がもやいだときだ。
「御妻木どのは、奥に控えておられるのですね」
匂いたつ花の如しという言葉は、この男にこそふさわしい。
石路に舞い降りた清廉(せいれん)なまなざしが動くと、雪下で年越えした冬瓜(とうがん)のお浸しと白湯を運んできた下女は、頬を染めて下がっている。
「質素な館ではありますが、なにとぞ織田さまが着到(ちゃくとう)されるまでお待ちください」
「みやこの(はな)もいいが、翠陵(すいりょう)をのぞめる華は、何物にも代えがたい。飛鳥川を詠んだ春道列樹のように、安土山の御殿で風光を味わうのは悪くありません」
奢侈(しゃし)な飾りなどなくとも、室礼(しつらい)(ふけ)るこころがあれば満ち足りる。
こちらが遠慮をおぼえるほどの誠心なたたずまいは、ふとした恥じらいすら包むかのようだ。
(この男に見つめ返されると、たとえ興味はなくとも、その気になるのではないか)
考えているうちに、おしょうはやや上気した。
懸想(けそう)をしたわけではなかったものの、御妻木の侍女であることを理由に場を辞した。
(この妙な火照(ほて)りを冷ましたい)
御殿奥の土間で水瓶(みずがめ)のふたを開け、柄杓(ひしゃく)でそれを飲むあいだ、吉津たちの恋々とした夢見心地を横目とする。
しばらくそのままでいたところ、別の侍女がやってくる。
「森成利どのの色気に酔ったのかしら」
その放言に下女でもっとも若い寿々が意地悪な視線をよこしたものの、相手にするつもりはないらしい。
おしょうより二つ年下の侍女、志摩(しま)はいつになく淡朗(たんろう)な小鼻をうごかして、
「織田さまが天守を発たれました」
冷めきった瞳をこちらに向けた。
「では、わたしがお迎えに上がります」
御殿の応接は能面の彼女に任せればいいだろう。
白けた場の空気で色酔いから醒めたおしょうは、一之間の御妻木と二之間の森成利らの歓待を志摩に預けた。
御殿の裏路から本路に出、法貨をおもわせる塔頭(たっちゅう)址石(あといし)と向かいの側道で待っていたところ、唐織(からおり)鞍敷(くらじ)きを上下させ、銀羅紗(ぎんらしゃ)馬簾(ばれん)が見事な巨馬を迎えた。
鬼芦毛(おにあしげ)白鹿毛(しろかげ)小雲雀(こひばり)河原毛(かわらげ)など、選りすぐりの馬のなかでも、最上格に位置する駿馬である。
しなやかに肥えた愛馬「大黒(おおぐろ)」に(またが)る織田信長の雄姿を遠目に映した瞬間、おしょうは沿道にすがたをあらわし、低頭したまま声を張り上げた。
「御妻木の侍女、おしょうと申します。不束(ふつつか)ながら、西之御殿までお供いたします」
寵童(ちょうどう)(はべ)らせる信長は、男女を問わず、老成前の気風と威勢が好きである。
それはやりとりにも表れるのか、
「長井道利の庶娘(むすめ)か」や、
「志摩という女のすがたがない」など、
参列していた小姓に短く(はか)ったのち、馬曳きではない侍のひとりをこちらによこした。
「おしょうとやら。織田さまは預けた幼鷹をみたいと仰せじゃ」
「かしこまりました」
竹箒(たけぼうき)を片付けた下男がそばに控えていたため、おしょうは手配を言い含めて下がらせた。
そのまま西之御殿まで同道し、二之間で待機していた森成利と合流するや、志摩の歓待に甘んじるようつたえた。
「奥へどうぞ」
入れ替わりに志摩があらわれたところで、おしょうは一之間に消えた森成利の後続、安土奉行の福富秀勝に投げた。
大舟入から安土山まで輿のまわりを警邏(けいら)した木村高重とくらべると、福富は格式を重んじる傾向は強い。
事実、泣く子も黙る双眼を八方にいからせたかとおもえば、付き従っていた部下を()めつけ、
「織田さま。参りましょうぞ」
いにしえの氏族をほうふつとした隷従(れいじゅう)そのまま、仰々(ぎょうぎょう)しい臣顔で主君を導いている。
あの(いか)めしさには、おしょうも辟易(へきえき)としていた。
一方、うわべや建前だらけの安土では、木村高重に次いで信頼できる、数少ない硬骨漢(こうこつかん)である。
それだけに、堅苦しい武家の束縛をきらう信長に罷免(ひめん)されはしないかと、親類のような心配を抱かずにはいられない。
といって、信長には「新しい華美を愛でる」嗜好(しこう)ともうひとつ、「歪みを持ったものを大事とする」奇癖がある。
()いやつよ」
奥座の一之間で、御妻木を立てるように森成利らが平伏するなか、信長は運ばれてきた竹組みの巣瓶を開き、かるく羽ばたいたそれを手のひらにのせた。
幼鷹は離れようとしたが、いくら翼をうごかそうと、翔ぶことはない。
生まれたときから片方の翼は折れ曲がっていた。
御妻木と談笑しつつ、畳をあるく幼鷹を見守る信長にしてみれば、そうした外見は少なからず琴線(きんせん)と関係しているのかもしれない。
たとえば羽柴秀吉や荒木村重のように、世間で嘲弄(ちょうろう)されるほどの珍奇な面貌(かお)人物譚(じんぶつたん)もあれば、性格的なものもある。
信長の好む〝歪み〟とは、欠遺(けつい)を持つもの。
最初から備えた者には分からない。
無いことの苦しみを覚えた瞬間、向き合わざるをえなくなる。
その逆境を踏み越えた輝きを秘める人傑同様、飛翔は叶わずとも地を歩こうとする幼鷹を愛でるのは、ただの憐憫(れんびん)ではない。
「こいつめ。(そら)を欲しておる」
(あかね)を見据えた幼鷹を見守る信長が、おしょうには氏族の御面(おめん)をまとう別の存在に思えてならない。
そういえば四年前にもあった。
先祖が源九郎義経の母、常盤御前(ときわごぜん)を殺めた報いを受けたのか、子孫すべてが障害を抱えて生まれる業を背負った乞食「山中の猿」という者がいた。
常盤御前の御霊(みたま)を慰めようと、いかに辛くとも土地にしがみついたまま祈りを捧げるすがたに心打たれた信長は、付近の百姓に木綿二十反(もめんにじゅったん)を与え、雨露(あまつゆ)をしのげる小屋をつくらせていた。
足掻く者に手を差しのべるのは、高貴なる者の宿命なのか。
福富秀勝が気を配るなか、膝元で遊ばせた幼鷹を巣瓶に戻した信長は、ようやくこちらを向いた。
「坂本の城はどうだ」
「はい。いつもと変わらぬようすでございました」
「健在か」
(うなず)いたおしょうを吟味したのち、信長は森成利を仰いだ。
その自然なまでの動作から、空気の変化は感じとれなかった。
「御妻木」
 低い(うな)りだった。
豹変(ひょうへん)した信長の威を受けてのものだろう。
御妻木は座談に加わるや、惟任光秀の動静を報じたものの、八上の攻城中、不覚にも片眼を喪失したことは、おしょうも坂本の城で確認している。
信長があえてその経緯(いきさつ)に触れたのは、意図するものを計るためらしかった。
「では、十兵衛は以前と変わらぬ忠勤ぶりであったのだな」
「それはもう、丹波平定に息巻いておりました」
「怪我の功名か。サルの言うとおりだ」
「おや、羽柴筑前どのが兄上について何か申されましたか」
「大したことではない」
さりげない御妻木の問いを()ねた信長は、おしょう、志摩と眺めてまもなく、森成利の耳打ちに意識を傾けた。
(もしや舟旅で世話になった渡舟(わたしぶね)水主(かこ)は、織田さまの手の者では……)
湖上であろうと信長の耳朶(じだ)は届いている。
改めてそれを感じたこちらの疑心暗鬼さえ、見透かしているのではないか。
恐縮するおしょうの前で、信長は森成利に淡麗な仕草をみせている。
まもなく福富秀勝が動き出し、従者に持たせた一振りを掲げたかとおもうと、御妻木の前に置いている。
それは飾り気のない黒刀だった。
地金の黒さによるものではない。
一礼した福富秀勝によって明かされた刀身は、肉厚な直刃(すぐは)とわからぬほどの()びをまとっていた。
ちらちらと揺れる燈火(とうか)のせいだろうか。
一之間の闇を吸い込んだ波紋が裏返された途端、ゆるやかな彫金の(おこり)は、夕光であらわとなった。
「無銘の太刀だ」
福富秀勝の退いた御妻木の対座に、信長は(はかま)を寄せた。
「これを光秀に下賜(かし)する。返礼として、(こうの)の脇差を余に差し出すよう、つたえろ」
「お待ちくださいっ」
きびすを返した信長に、御妻木が戦慄(わなな)いた。
「あの脇差は……越前の一向一揆鎮圧の折、織田さまから帯刀をゆるされたものにございます」
(おぼ)えている」
「兄上は織田さまの期待に応えようと、拝領した日から肌身離さず身に着けておりました。いちど下げ渡されたものを召し上げたのでは、誓いを立てた者が哀れでございます」
「哀れだと」
突然振り向いた信長は御妻木に脚を振り上げた。
肩を蹴られた身体は仰向けに転がり、「妻木さまッ」とおしょうは駆け寄るも、いち早く上体を支えた志摩は(こうべ)を垂れている。
「すでに十兵衛には出仕(しゅっし)をつたえてある。二度目はないぞ」
逆らえば厳科に処す。
言わんばかりの形相で、信長は引き連れた諸氏と一之間から消えた。
「あの脇差は、兄上の、魂そのもの……」
御妻木は愛惜(あいせき)にふるえていた。
無体(むてい)に扱われてなお、身体を支えていたおしょうと志摩の手を弾いた表情は、大粒の悲涙に覆われている。
その日から御妻木は霞友(かゆう)を追うように消沈した。
嘆きは一向に晴れないまま、三夜がすぎた。
「惟任日向守どのが参られます」
御成りの際、二之間で着到準備を差配した森成利の風書が舞い込んだのは、冷え切った昼餉(ひるげ)をとろうとしたときだった。

「日向亀山出、可安土罷出来参致候(惟任日向守どのが、出仕のため、丹波亀山から安土にやってまいりました)」

柳眉の筆印で(くく)られた一書に御妻木は恐懼(きょうく)したとはいえ、おしょうと志摩が安土天守のようすをつたえると、察するものはあったらしい。
書状は本楼の出仕ではなく、安土山下の(みなと)凱旋(がいせん)した惟任光秀に関するものだった。
「ありゃあ紙小袖(かみこそで)じゃねえか。おまけに京染めの陣羽織たあ、陣所でお呼びがかかったにちげえねえ」
「織田さまのお呼びといえば、褒美か処罰のどちらかじゃろう」
「お前ら知らねえのか。一度与えた刀を召し上げて、代わりになまくらを下げ渡すと、木曾(きそ)大鋸引(おがびき)(林業従事者)が話してたぜ」
城内のうわさが広まったのか、安土の人びとは口々に惟任光秀の罷免(ひめん)()っていた。
ところが出仕した惟任光秀は、ことのほか落ち着いていた。
閥々(ばつばつ)たる臣気は誰もが放てるものではない。
自性輪身の不動居そのまま、颯然(さつぜん)と拝謁の途についたころには、町屋の醜聞は和らいでいた。
(ひそみ)(なら)う者が多いのは、いつの世も変わりません」
よほど軍務が差し迫っているのだろう。
夜を前に安土天守をはなれた惟任光秀は、立ち寄った西之御殿で待っていた御妻木に告げた。
「せめて一晩は世話になろうと思いましたが、丹波の陣を投げ出すわけにはいきません。近江坂本に続く無礼の段、ひらに御容赦ください」
「いいのですよ」
惟任光秀が頭を下げると、御妻木の貴音(たかね)がひびいた。
「兄上は江の脇差を献上したことを悔やんでいないのでしょう。この年になれば、他人の噂など、すぐに忘れてしまいます」
「かたじけない」
「まあ、明智の当主がそのような顔をしてはなりません。言いつけを守らずに罰を受けた、(わらし)のようです」
御妻木にそう言われ、ふたたび惟任光秀が低頭した。
隔たりのみられた坂本城のときと比べれば、はるかに距離は縮まっている──別人同士と見紛うほどの琴瑟相和(きんしつそうわ)に周囲は取り残された。
おしょうは急に視線をよこした御妻木に相槌(あいづち)を打ったとはいえ、億劫(おっくう)聴聞(ちょうもん)していたせいかもしれない。
突拍子のない提案が惟任光秀に示されたと気づいたのは、取り巻く者たちの驚嘆からだった。
「この()を坂本に置いてもらえないかしら」
御妻木が訴えると、惟任光秀はこちらを向いた。
(そなたがもとめたのか)
まるで譴責(けんせき)のような瞳だった。
(そのようなことはありません)
おしょうは愁訴(しゅうそ)に見返した。
郷里を滅ぼされた恨みこそあれ、求められれば応じる覚悟はあった。
しかしそれは、本心ではない。
こちらの坦懐(たんかい)を知ってのものなのか、惟任光秀は視線を外した。
「坂本城では、手は足りております」
すでに城勤めの侍女がいること。また御妻木の身辺を世話する者が減ってしまうことを理由に固辞した。
それでも御妻木の決意は揺るぎないものであったのか。
執拗に迫る彼女に(さと)された惟任光秀は、おしょうを坂本城に置くことを認めた。
もっとも、無条件ではない。
「織田さまに下賜された刀は、世間でうわさされた通り、無銘のなまくらでございました」
惟任光秀は押し殺していた憤慨(ふんがい)をさらけだした。
「越中新川の松倉にその人ありと謳われた刀工、江義弘(こうのよしひろ)の作刀を召し上げ、代刀としてそのようなものを下げ渡したのは、いまのわたしはその程度の価値しかないということをつたえるためでしょう。御妻木どのの大事な従者を預かるには、しばし猶予をいただかねばなりません」
「このまま坂本に連れ帰るには、不満が残るといいたいのですか」
「恥ずかしながら、わたしは丹波の陣で満足な戦果を上げておりません。いまは八上の城をまもる不倶戴天(ふぐたいてん)の将、波多野秀治の征伐に乾坤(けんこん)を注いでいます。そのようなときに新たな侍女を召し抱えたとあっては、よからぬ風聞につながります」
「そうですか」
この場でおしょうを連れ帰れば、臣下への示しはつかないばかりか、なまくら刀を下げ渡した織田信長の譴責(けんせき)を、敵勢に計略の糸口を与えかねない。
明敏な御妻木は、なにも言わずに惟任光秀を快く送り出した。
志摩や吉津たちもそうしていた。
その陰でただひとり、おしょうは放心していた。
花残にこころを寄せるなか、五月雨(さみだれ)が走りはじめた。
折しも京のみやこでは、二条晴良、烏丸光康、三条西実枝、山科言継、嵯峨天龍寺の策彦周良ら名家の公卿が急逝(きゅうせい)していた。
五月初旬に京入りした織田信長は、亡くなる前に訪れていたのか、二日後に山中越えで移った坂本城では、所縁(ゆかり)のある明智の旧幕臣に忌服(きふく)を命じていた。
「兄上の八上攻城は順調なようですね」
そのあいだにも明智軍の丹波平定は進んだ。
確認したかぎりでは、書状に安堵した御妻木のいる安土を含め、方面各所に戦況は伝わっていた。
詳報を届けたのは、信長の戻った安土天守を往還する志摩だった。
「多紀郡八上と氷上郡黒井に遠征中の、小畠常好ら丹波の国人衆」
「但馬国平定の合間に丹波国天田の封鎖を買って出た、羽柴秀長」
「織田に与した播磨上月の城代である、尼子勝久と山中幸隆」
「昨冬からつづく摂津有岡の陣で、荒木方から織田方についた高槻城主、高山友照・右近ら父子ともども、織田に降伏した茨木の城代、中川清秀」
惟任光秀が発給した書状の宛人は、いずれも昨年からの付き合いとなった将兵だった。
(明智の臣下や丹波国衆以外は付き合いもなかった御方が、ずいぶんと社交的になられたものだ)
おしょうは意外な気がした。とはいえ「鬼祐筆(おにゆうひつ)」と陰でよばれた秀吉との関係を踏まえると、まめまめしさがうつったとしても不思議はない。
幸か不幸か、そのことは信長の耳に()く入った。
「謹厳に八上の波多野勢を攻めたてる兄上を、織田さまは褒めていました」
そのころになると、安土の山廊でほころんだ御妻木の(くま)はなくなった。
軍務に疎いおしょうには、なによりの実りだった。
ほどなく出陣式として、床間に飾られた重藤(しげどう)の弓・甲冑にさらなる祈願をかけようと、菖蒲(しょうぶ)を解いた湯で厄を払っている。
そうした端午の節句すら遠のいた皐月中旬(さつきちゅうじゅん)、安土城下で騒動が起きた。
「おしょうさま。あまり急いでは草鞋(わらじ)が脱げますよ」
御妻木に頼まれ、安土城下の鎌屋の辻沿い、飛騨乗鞍(ひだのりくら)沢上(そうれ)にまつわる「味噌買橋」の末裔を自負した味噌売りと直接交渉したおしょうは、伴っていた下女の寿々に言われて振り向く。
早朝であるにもかかわらず、大湊(おおみなと)には威勢のいい声が響いていた。
それもそのはず、湖漁から戻った漁師たちが、獲れたての魚介を仕分けていた。
編笊(あみざる)にのせられた魚は、次々と天秤棒(てんびんぼう)でどこかに運ばれていく。
暖簾(のれん)(のぼり)をみているだけでも、朝漁後の(いこ)いはみてとれる。
「ほら寿々、のんびりしていると聞きそびれてしまうわよ」
「分かってます……うっ」
砂利につまづいたのか、寿々が派手に転倒した。
足を止めたおしょうが気遣うも、恨めしい顔で拒まれる。
寿々は生まれてこのかた走ったことはないという、安穏の箱入り娘だった。
ところが性格はというと、とても清楚なものではない。
御妻木やおしょうら侍女の目を盗んでは、土間に残された食べ物をほおばっている。
それも小柄な見た目からは想像もつかない大食漢であり、天守に登上したときなどは、丁重に下がるふりをして炊事場に直行するのが常だった。
「毒見と称し、主君の昼膳を黙っていただくとは、不届き千万である」
間引き行為が白日下にさらされるのは時間の問題だった。
盗食は斬首となる。
しかしながら、織田家の棟梁(とうりょう)は変癖に明るく、おまけに寛容(かんよう)さも桁外(けたはず)れときている。
「そこまで食を好むのであれば、(うたげ)に呼んでやる」
虚実を確かめようとした者らの前で、望外というべき恩赦(おんしゃ)をうけた寿々は、よろこんで同日夜に天守へ再登した。
(おそ)れ知らずの若気とは、まさにこのことだ。
殺々とした重臣たちの集う宴席に通されてまもなく、彼女は培った食意の披露を命じられた。
「この娘と勝負すればよろしいのですね」
相手は信長お気に入りの旗本、阿閉貞大(あつじさだひろ)である。
浅井家の重臣であった父、阿閉貞征の嫡子で、姉川の合戦後に織田へ降ると、つづく浅井・朝倉連合を殲滅した一乗谷の陣では、ひとかどの手柄をたてた猛将だった。
その猛者も、昨年八月に安土山でおこなわれた相撲の御前試合では、木瀬蔵春庵、木瀬太郎大夫ら行司が取り仕切るなか、信長の所望した永田正貞との一戦で土をつけられていた。
体格、技量ともに勝っていたにもかかわらず敗れてしまった。
その雪辱機会を与えられたと知った阿閉貞大は、(かっ)と酔眼を見開くや、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の亡者を(ほふ)る、牛の化け物さながらの飽食をみせたという。
対する寿々はといえば、食べるどころか(はし)を持とうとしない。
「なぜ食わぬ。織田さまの御前であろう」
同席していた蒲生氏郷が紛糾するも、彼女は「へえ」と答えるばかりである。
いささか乱酔した堀秀政などは、凝視そのまま、ちらちらと信長を仰いでいる。
用意された米櫃(こめびつ)の半分は平らげただろうか。
「どうやら怖気(おじけ)づいたようですな」
誇らしげに阿閉貞大が信長に決着をうながした。
異変があったのはその直後である。
「な……なんという……」
唖然(あぜん)としたみなを尻目、これまで動かなかった寿々は大皿を手元に引き寄せている。
怒涛の追い上げをみせた彼女の覇気に、阿閉貞大は箸を止めたが、すぐに勢いを取り戻した。
とはいえ彼女の本領は、数多の盗み食いで習得した、迅速無比の胃の流し込みにある。
やがて軍配は、緘黙(かんもく)していた女の意地に上がった。
「そこまで」
 寿々が最後の一粒を飲み込んだ刹那、決着の合図が響いた。
 もっとも、動顛(どうてん)した周囲をよそに、信長は彼女を質している。
「お前はこの場で阿閉貞大の実力を見抜いたな」
「へえ」
「ならば開始早々、勝敗を決することは出来たはず。なぜそうしなかった。この男が格下ゆえ、合わせるように手を抜いたのか」
 大事な臣下を愚弄されたと感じたのだろう。
鋭視を向けた信長を前に、寿々はそうではないと前置き、おずおずと理由を述べた。
 そのときの釈明ほど、彼女を印象付けたものはない。
 普段は同輩の下女たちと慎ましく食べているせいか、高位の衆目にさらされたまま食事をとることに緊張したこと。
 その緊張も、とうとう食欲には勝てなかったことを寿々が吐露すると、信長は勘気から一転、大笑した。
「お前こそ安土一の食傑だ」
歓喜した信長は、裛衣香(えいこう)と舶来の麝香(じゃこう)を詰めた匂袋(においぶくろ)を、褒美として寿々に与えている。
怒涛の終局に感じ入ったのだろう。
完敗した阿閉貞大はといえば、信長の|叱責》を忘れたようすで、その日から西之御殿に旬の食材を届けている。
「おしょうさまは健啖(けんたん)なのに太りませんね」
あれから半年経った寿々は、いまや大男を凌ぐ向こう(ずね)土埃(つちぼこり)を払っている。
白々しいよそおいで近づき、さらりと毒づく底意地は変わらないとはいえ、そうした勝気な一面は、えてして愛情の深さとなりやすい。
 おしょうは阿閉貞大と円満に遂げた寿々を顧みた。
不摂生(ふせっせい)をしていないだけです」
若いだけに、暴食さえ我慢できれば、彼女は以前のすがたに戻ると知っている。
もっとも、それが難しいから現状に甘んじている──禍福(かふく)(あざな)える縄の如しとばかり、ささやかな期待をもって寿々を急がせるなか、松原きっての問丸(といまる)がみえてくる。
「この野郎、勘定をごまかしやがったなっ」
派手な罵声と平謝りの声が、路地を行く人びとの関心を引いている。
荘園時代からつづいた荷運びの「馬借(ばしゃく)」は、安土では「問丸」として商人が管理している。
農閑期の百姓ほか、地侍が駄賃を稼ぐためにおこなう馬借とくらべると、問丸は領主の許可を得ているため、民から徴収した年貢米や地子銭(税金)を運ぶこともある。
それだけに記帳は正確でなくてはならないのだろう。
おしょうと寿々は番頭たちの喧噪(けんそう)を避ける。
西町の貞安に入ったところで息をつくと、そのまま辺りを見渡す。
織田家の侍屋敷をあつめた通りには、屋敷とつながる舟入が走っていた。
田楽師が(さい)をころがす一座とすれ違ったまま、間道から常楽寺を目指し歩くと、ようやく目当ての人物が見受けられた。
「この世のすべては『空』から生まれる。しかし目に入るもの、あるいは入らぬものがあることを我らは知っているため、それらは空の化身として『仮名(かりな)』をよぶが、そもそも空とは無であり、それが生きとし生けるものをつくりだすことは、言葉に代えがたい。ゆえに空と仮名はどちらも真実であって真実ではない。それをつたえるのが『中道』である」
空、仮、中は、三諦偈(さんだいげ)とよばれている。
それとない路地で遊説していたのは、浄土宗の鎮西義覚蓮社、霊誉玉念だ。
よほど高名な僧なのか、連日、安土城下で行われる彼の説法は人気を博している。
「所用で訪れている間のみ」と触れ回る伴僧がいるとはいえ、こうして町ゆく人々が足を止めるのは、おだやかな人柄も関係しているのだろう。
物珍しさでやってきたおしょうが聴衆に加わったところ、同伴していた寿々がこちらの袖を引いた。
「おしょうさま。塩屋さまです」
視線のさきには何度か顔を合わせた侍が男と相談していた。
男のほうは初見であったものの、侍は岐阜時代から信長の馬廻衆をつとめる塩屋大脇傳内(しおやおおわきでんない)だった。
こちら同様、説法を聞きにきたのだろうか。
瞳を向けたのも束の間、二人は集まった客を弾き飛ばして霊誉玉念に詰め寄った。
「浄土宗の上人どのとお見受けした」
大脇傳内は隣の男、建部紹智(たけべしょうち)ともども名乗りを上げた。
その時点で彼は信長の馬廻衆をつとめる「大脇傳内」ではなく、背格好のよく似た親族の「大脇傳介」と気づかされるも、おしょうの意識は間断なく発された強訴(ごうそ)のほうに引きずられている。
「我ら法華宗では、さきの説法にある三諦偈は教義の三諦とある。しかし天台から分宗した山王神道では、諸法の有無を『三諦』とも述べている。それについて説示を賜りたい」
「山王神道……」
話の腰を折られた霊誉玉念は、いくらか眉を(ひそ)めた。
本地垂迹(ほんじすいじゃく)から外れた狭義に山王の名がある。その神道に相違ないか」
「いかにも。しかし正教を外れたとはいえ、最澄上人の興した天台思想の一端であることに変わりはない」
大脇傳介が吠えると、霊誉玉念は「そうであった」と受けた。
彼らいわく、本地垂迹とは神に対する解釈のひとつらしい。
仏教が日ノ本に伝来してまもなく、「神と仏は同義である」という神仏習合の思想が生まれた。
やがてそれは「神は仏の化身である」という本地垂迹の思想となり、仏閣勢力が国情を揺るがすほどの規模となった。
その頃には危険視した朝廷の意向から、神仏と国家を分けようという政教分離の考えが広まり、武士たちの鎮護国家の思想に変遷(へんせん)した。
いまはそれが覆され、特定宗派が堂々と国政介入するほど、僧門は侍と密接な関わりを持つようになっている。
「山王神道の三諦とは如何(いかん)と申されたが、その前に貴殿らに話さねばならぬものがある」
説法の中止を余儀なくされた霊誉玉念は、人影がまばらとなったところで、大脇傳介と建部紹智を見据えた。
「貴殿らの指摘した三諦偈は、本来の教えではない。唐土の経典を解読した明国(中国)の古人が、四つの思想を昇華し、人々に伝えやすくなるよう集約したのが、われらや貴殿らの説く三諦である。それについては存じておるか」
「よ、四つの思想だと」
「さよう。空、仮名、中道と、もうひとつある」
大脇傳介と建部紹智は顔を見合わせた。
そのような教えは、寺の経典には載っていない。
思いがけない問いを返された二人は狼狽(うろた)えた。
「これは出直したほうがよさそうだ」
「うむ」
二人が頷き合ったそこへ、霊誉玉念は畳みかけるように告げた。
「年若い貴殿らには、いささか難儀な|法句『ほっく》であった。よければ師と仰ぐ僧侶を連れてくるといい。それならば、わしも喜んで宗論に応じよう」
老獪(ろうかい)な雰囲気に気圧されたのだろうか。
まもなく二人が「これは見世物ではない」とばかりに北方へと走り出すと、霊誉玉念は右掌を立て、左の木杖を鳴らした。
「最後まで説法に耳を澄ませたみなには、その解を教えて進ぜよう。すべての起こりといわれた『縁起』である」
伝えた霊誉玉念は市井の陰に消えた。
「あれは、喧嘩だったのかしら」
おしょうは寿々を顧みたものの、すぐに目を逸らした。
彼女の顔に説法の余韻はなかった。
買い出しの荷物を抱えたまま、路地で待たされた。
それへの不満で一杯だった。
ここで謝るのもやぶさかではなかったが、ひいき目の商屋は近いからと、おしょうは視線を受け流した。
ほどなく訪れた鎌屋の辻沿いにある一軒で、仲買交渉のさなか、食材や物品を安土の城内まで運ぶ手配をした。
そのついでとばかりに寿々の荷物を預けたのは正解だったかもしれない。
「さあ、戻りましょう」
ようやく荷物番の役を解かれた寿々は、いつになく軽やかな足どりとなっている。
機嫌が悪くならないうちに、おしょうは安土への帰城を促す。
いつもの登城口から安土山の西之御殿にたどり着き、御妻木に商談成立の報告をすませる一方、雑務を任せきりだった志摩には、帰りがけに舟入ちかくの市場で購入した土産(みやげ)ものをわたした。
「ちょうどあなたの好物が売っていたから、人数分を買ってきたけど、どうも御妻木さまはお腹の具合が良くないみたい。わたしたちで全部いただいていいそうだから、遠慮なくどうぞ」
言いつつ近江滋賀の特産物、熟鮓(なれずし)を差し出したところ、やはり出身者はちがう。
(ふな)を塩で乳酸発酵させた坂本城下の一品には遠い代物だが、独特の甘酸は食べる者を選ぶ。
それを緩和させようと、苦手な者でも食べやすく火で炙った切り身を飯と合わせた「安土式の熟鮓」は、幼いころから本場の味に慣れ親しんだ志摩にとって、物足りないらしい。
「そういえば、おしょうは説法を聞くために常楽寺のほうへ行ったのよね」
苦手な寿々などは、顔をしかめて部屋隅で控えている。
その背後から、熟鮓を食べたばかりの息をふうっと吹きかけ、ひとしきり悶絶を楽しんだ志摩が、こちらに視線を移す。
「ええ。残念ながら、最後まで聞くことはできなかったわ」
おしょうは寿々を伴うかたちで浄土宗の霊誉玉念の話を聞いていたこと。また、そこにあらわれた信長の馬廻衆をつとめる大脇傳内の親族の大脇傳介と、同宗の建部紹智ら二人組が、説法を中断させたことを明かした。
「大脇傳介どのは、岐阜からつづく一族の塩商に加え、安土で旅籠(はたご)を営んだことで有名な御方よ。法華の信徒と名乗っていたけど、山王神道の教義にある三諦がどうのと話していたから、よく分からなかったわ」
「山王神道なら、法華とおなじ天台の分宗だけど」
「知ってるの」
「知るも何も、わたしの曾祖父(そうそふ)は天台の信徒だから」
告げた志摩は、平安期以降に勃興した山王神道が、明国にある天台山国清寺の山王祠と関わりを持つものと教えてくれた。
天台の祖とされた最澄は、古刹の日吉(ひえ)神社になぞらえた比叡山延暦寺の守護としていたが、後世ではすべて山王祠と結び付けられている。
やがて「三諦の三=山王の山」と読んだ日ノ本の僧侶が、山王神道の発起人であるらしかった。
「大脇傳介どのが山王神道かどうかはわからないけど、法華と名乗るからには日蓮宗ね。だから教理のどれかは修めているとみていいわよ」
「他宗なのに、別の思想を修めたりするものなの」
「根っこが天台なら、教えも言い回しを変えただけで重複したりするから。厄介なのは、市井で浄土の上人に絡んだことかしら」
「厄介って」
「浄土の教えは弘法大師さまの真言の教えを色濃く受け継いでいるのよ。その教えから派生した両部神道ってのがあるんだけど、こちらも山王神道と負けず劣らずの分宗でね。広義では仏と神の存在を別のものと解釈するのに、内実は御仏の教えに神を見出した自己啓発で終始しているだけ。二つは犬猿の仲よ」
「両部神道と、山王神道が、犬猿の仲」
「ええそう。加えて織田さまは、父祖代から伊勢神宮に貢物を届けているでしょう。あの辺りは両部神道と馬の合う伊勢神道の領域だから、何事もなければいいけどね」
志摩は「口を(すす)いでくる」と残して消えた。
また熟鮓の悪臭でからかわれてはと、無言で息を止めた寿々が深呼吸をはじめたときには、おしょうは茫然(ぼうぜん)とした。
神道の起源もさることながら、安土の町中で起きた係争が、これ以上大きく発展することはないと感じていた。
(ただの口論ではないか)
そう高を括っていたおしょうにとって、日を待たずに浄土宗から法華宗に宗論の申し入れが出されたことは、信じがたいものだった。
志摩の予感は現実となった。
それも申し入れの使者をよこしたのは、常楽寺ちかくの路地で説法を行っていた霊誉玉念その人であり、滞在期間を七日から十一日に延長した執念は、信じ難いものだった。
法華信徒の折伏(しゃくぶく)に端を発した(いさか)いは、宗派の名誉をかけて教えの優劣を競う、宗論の幕開けとみなされた。
抹香臭(まっこうくさ)い浄土の奴らを安土からどう追い出そうかと思案していたが、まさか向こうから果たし状がやってくるとはな」
事情を知った法華宗側は、にべもなく応じると、さっそく準備に取り掛かったらしい。
堺の妙国寺を開山した、京都頂妙寺の日珖
 おなじく京都妙満寺久遠院の日淵
 美濃を二代で制した斉藤道三の帰依僧と呼び声高い、常光院の日諦
 九州からはるばる京都妙国寺にやってきた普傳
 歴々たる高僧を安土に召還するや、域内の絶対権限を持つ信長へ、宗論の許可を申請している。
再三に(わた)る請願手続きの合間には、京都妙顕寺法音院の者で、身を寄せた日淵の妙満寺久遠院では「大蔵坊」とよばれた下僧を祐筆役とし、教相判釈の経典と記録用の筆具を携帯させる周到さである。
一方、浄土宗側もそうした機微は察していたのだろう。
「他宗の説法を妨害するような者どもには、鉄槌を下さねばならぬ」
数日前に常楽寺付近の遊説を邪魔されたことへの報復なのか。
法華宗の承諾した宗論申し入れの返書を護摩の焚火に放り込んだ霊誉玉念は、聞きしに勝る名僧を集めよと命じている。
 安土西光寺の教蓮社、聖誉貞安
 近江正福寺を開山した想蓮社、信誉洞庫
 西の聖誉貞安と二傑に並び称された坂東の覚蓮社・霊誉玉念は、彼らの到着を待つあいだ、京都知恩寺の一心院から呼びつけた助念を祐筆役に指名。
宗論に向けて万端の構えをみせる熱の入れようだった。
「安土で上人さまが対決するそうだ」
各地で御仏への帰依をうながしていた僧侶たちが一堂に会する。
人づてに広まった風聞は、行商で安土に出入りしていた商人たちによって、さらなる反響を呼んだらしい。
安土城下は、足利大学の学侶や五山で学ぶ信徒のほか、物見遊山でおとずれた旅人で溢れかえった。
 昼夜を問わず祭りのような雰囲気に包まれ、騒ぎは頻出した。
そうなれば、いかに自由市場の安土であろうと、治安対策は厳戒に変えざるを得ない。
事実、在住する領民から苦情が殺到したことに眉をひそめた信長は、風紀の乱れを断つべく主命を下している。
「宗論を行うのであれば、決戦にふさわしい場を用意してやる」
説法に疑義を呈した法華信徒の折伏が発端であったことから、場所は問題の起きた常楽寺界隈から南西に歩いた寺院、浄土宗の慈恩寺浄厳院と定められた。
勝敗を判定する実況者には、南禅寺の景秀鉄叟、その伴僧である南禅寺帰雲院の華渓正稷、法隆寺の仙覚坊、それに所用で安土を訪れていた因果居士が指名され、野次馬が寺院に立ち入らないようにとの配慮から、津田信澄、菅谷長頼、矢部家定、堀秀政、長谷川秀一ら将兵が、常厳院の警戒に遣わされた。
かくして花菖蒲の薄らいだ五月下旬、浄土宗と法華宗の宗論は開かれた。
御妻木付の侍女にすぎないおしょうは、当然ながら呼ばれることはなかった。
しかし安土でも稀な戦いであっただけに、多士済々の会話の種となった興味から、信長の馬廻衆である阿閉貞大と恋仲の下女、寿々に伝播した話を聞いた。
そこで出された彼女の又聞きでは、おおきな争点は二つあったらしい。
ひとつは「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」の解釈。
 もうひとつは決め手となった「方座四妙」の応答だ。
「捨閉閣抛とは、浄土の開祖である源空(法然)さまが、阿弥陀さまへの帰依心を説いたものだそうです」
阿弥陀を除いた御仏に対する功徳を〝捨〟て、耳目を〝閉〟じ、自力を〝(さしお)〟くように、あるいは〝(なげう)〟って念仏を唱えねばならない。
 門前小僧の寿々いわく、法華宗側はそれが自宗以外の排斥につながっていると糾弾していた。
 反論した浄土宗側は、指摘された「善立方便顕示三乗」──教えに耳を澄ませる「声聞」・独力で悟りを開く「縁覚」・他を活かすために修行する求道の「菩薩」を説法のあるべきかたちであると弁証し、迷える衆生を欣求浄土へとみちびくのが、雑念を払って集中する捨閉閣抛の姿勢と判じていた。
ちなみに宗論の決め手とされた「方座四妙」については、寿々もうろ覚えであったのか、たどたどしい説明は理解に苦しむ言動でしかなかった。
そちらは自身とおなじ侍女の志摩が詳しいものと見、後日、暇をみて聞いたところ、法華宗の真理であるとの返事があった。
「お釈迦さまはね。生涯に『華厳時』『鹿苑時』『方等時』『般若時』『法華涅槃時』の五つの期間を設け、八つの教えを説いたのよ」
「五つの期間に八つの教えを」
「そう。宗論にあった方座四妙の方座とは、いま言った方等時のこと。そこまではいい」
仰がれたおしょうは「ええ、なんとか」と口元をひくつかせる。
すると志摩は、お釈迦さまが方等時において「蔵」「通」「別」「円」の四思をつたえていたこと。そして宗論の決め手とされた方座四妙は、「円」を指すものと明かした。
「『円』は方等時の第四妙とされていて、円融といわれているものなの」
「円融の意味は」
「日輪と月輪のような()よ。たしか法華経では、独立性を保ちながら他とつながるための真理と教えていたかしら」
「へえ。それほど大事なものなら、よく分からなかった寿々の話と合致するかもしれないわ」
おしょうは宗論の結審とつながる一幕を持ち出す。
お釈迦さまは四十余年も求道者として生活したが、悟りの境地を見出すことはできなかったと残している。
もしも自らの教えの誤りを感じたのなら、あなたはそれを手放すのか。
浄土宗側の上人がそう質したところ、法華宗側の僧は答えられなかった。
そもそも法華宗は、鎌倉幕府五代目執権の北条頼時に提出した、法華思想を統治の要諦とする「立正安国論」で伊豆に流された日蓮上人を筆頭に、帰依心のつよい教えだった。
日蓮上人の高弟として、伊豆配流やその後の佐渡配流のときですら、傍で師事した「伯耆房(ほうきぼう)」こと日興上人。
あるいは日蓮の提唱した「立正安国論」を再検討するよう、時の権力者である足利義教へ「立正治国論」を提起したものの、怒りを買ってしまい、灼熱の鍋を被る罰を与えられた「鍋かぶり」の日親上人など、狂信者も少なくなかったが、それ以上に一向宗とならぶ民衆の教えとして、法華宗は浸透していた。
ただし、教えの根源にある草木国土悉皆成仏──万物はすべて御仏の一部であるとした八百万(やおよろず)の教理には、善き教えもあれば、悪しき教えも含まれている。
(幾多の師僧によって読み継がれた信仰に、まったく誤りがなかったとはいえない)
それはどの宗派であろうと変わらない。
僧とは人なのだ。教えはすべて、人が生みだした法輪である。誤りがあったからといって、帰依心を捨てられるのか。むしろ信心を抱いたまま、新たな開眼の兆しと捉えればいいのではないか。
法華宗側の僧侶は、宗論で改めて自身の足跡を見つめ直したのかもしれない。
そうした長考は「回答なし」とみなされ、安土の宗論は幕引きとされたのではないか。
おしょうが推察を述べたところ、志摩にも思い当たる節はあったようだ。
「織田さまの裁定は公正だったみたい」
彼女は平易(へいえき)に頷くかたわら、決着を耳とした信長が、袖なしの美濃織に袴を短くした軽袗(かるさん)を合わせる軽装で安土山を降り、諸侯から顛末(てんまつ)を受けてまもなく、褒美を与えたことにも触れている。
勝者の浄土僧らには、華美な扇と団扇(うちわ)が下賜され、判者の筆頭である景秀鉄叟には、先年に堺から献上された東波の杖が贈呈された。
 敗けた法華僧らには、今回のような騒動につながりかねない他宗弾圧の折伏を控えるとした起請文を提出させ、正当な布教活動の履行を誓約させた。
奉行衆の長谷川秀一が進言した「連座による処刑回避の金判二百枚を献上」という条件はあったにしろ、安土の慈恩寺浄厳院で行われた宗論は、明確な区切りをつけられていたのだ。
狙いはむしろ、別のところにあったのかもしれない。
「これより裁定をはじめる」
鬼気迫る表情で志摩が信長の真似をはじめたのには理由(わけ)がある。
宗論は早期に決着したが、浄厳院を後にしようと身支度を始めた両宗の僧は、その場を離れることを禁じられた。
突然の仕儀に困惑した彼らの前で、信長は肩衣の代わりに羽織っていた天鵞絨(ビロード)からのぞく腕を伸ばすと、こう言い放ったという。
「あの僧をここへ」
御前に召し出されたのは、法華宗の普傳だった。
信長の俎上に立たされた彼の隣には、緊縛された大脇傳介が引っ張られていた。
この安土において、定められた安土山下町中掟書は、絶対批准の分国法だ。
その第十条では、市井での喧嘩・口論は処罰の対象とされている。
親族すべてが「塩屋」とよばれるほどの塩商人であり、近江界隈では有数の旅籠(はたご)を営んでいた大脇傳介は、自身の旅籠の宿泊客に有名な浄土上人の霊誉玉念がいることを知り、法華信徒として、説法の妨害と今回の宗論を引き起こした。
なにより「旅籠の主人」という立場を悪用し、歓待するはずの霊誉玉念の名誉を毀損(きそん)している。
「人にあるまじき行為だ」
信長は大脇傳介に向けた睥睨(へいげい)を、名指しした法華上人の普傳にも浴びせている。
「あらゆる法典を網羅した一切経を範唱するのは、稀有な相だ」
神童として崇められたその偉才は称えつつ、
「しかし『今回の宗論に勝てば生涯を保証する』との約定から、本山の申告なしに、法華の上人として、宗論に参加した事実は許しがたい。そして信じられぬ話だが、他の僧侶が論議を交わすあいだ、お前は無言を貫いていたという」
助成を頼まれた身でありながら、勝機が来るまで胡坐(あぐら)を掻くとは、僧侶の風上にも置けぬ輩とみられたのだろう。
その行跡で、昨秋より移り住んだ京のみやこでの生活費として、着ていた襤褸衣(ぼろぎぬ)を安土の町民に高値で売りつけた所業が影響したのかもしれない。
人心を惑わす奸賊と叱責された普傳は、大脇傳介ともども、斬首を命じられた。
「大脇傳介の首が刎ねられたと知った建部紹智は、逃げ込んだ堺の町で追補されたわ」
おしょうの前で、ようやく信長の清冽さを消した志摩が、おもねるように言った。
「騒動の元凶はなくなり、安土は平穏を取り戻したけど、法華宗の提出した起請文のせいで、法華信徒は迫害されるようになった。後味の悪いものね」
「先に手を出したのが法華宗なら、仕方がないじゃない」
「そうかもしれないけど、おしょうもみているでしょ。あの一件のせいで、織田家中の法華信徒の侍は、中枢から遠ざけられた」
おしょうは俯いた。
確かに法華信徒の不手際はあったかもしれない。
 信長は公正な審理のもと、彼らに相応しい処分を下したにすぎない。
 ところが世情をみると、決してそうではない。
「法華の教えなど、金輪際説(こんりんざいと)くな」
唯我独尊(ゆいがどくそん)の弾圧者など、この安土に必要ない」
勝鬨(かちどき)を上げた浄土宗の寺院は、こぞって法華信徒を追い出しにかかっている。
わけても浄土宗の下級僧侶たち──処断された大脇傳介のように、本業を営みつつ、信徒としても活動する行人には、奥寺で敬虔(けいけん)な修行を積む学侶に「半端な俗物」と蔑まれた日々の()さを晴らせる、格好の機会に等しい。
宗論が明けてから、まだ二日と経っていなかった。
にもかかわらず、石山本願寺の一向宗に匹敵する法華宗の弱体化から、付け入った浄土の信徒は増上慢に変わっている。
個々の思想には介入しないのが信条であった織田家中も、同輩間の主従は以前からみられていたにしろ、一件は露骨なまでの格差を生んでいる。
(その矛先はわたしも含まれている)
志摩の去った座敷で、おしょうは膝に爪を立てる。
織田信長との決別で滅ぼされた浅井家の旧臣、長井道利の庶子として生まれ育ち、巻き込まれた戦火で浮浪に堕ちたところを、明智の総大将である惟任光秀の妹御、御妻木に拾われた。
この身体がそうであるように、戦で敗れた国人たちには、過酷な現実が待っている。
誰かに拾われては扱き使われ、不要となった時点で捨てられる。
それが嫌で路頭に迷い、物乞いや盗みを繰り返し、やがては殺人まで犯す山賊行為に身を(やつ)す者もいる。
織田家はそうした場所から這い上がる「立身出世」の機会に恵まれた、数少ない氏族だった。
古参の将であろうと、御役にそぐわなければ、外因の庶子に立場を奪われることがあるほど、家格の序列は変動している。
その例外として扱われたのが、離反した家柄の者たちだった。
主君を裏切った一族郎党は、ことごとく始末されるのが氏族の慣習だが、(かなえ)の軽重次第では、減刑に処されることがある。
信長の実妹、お市の方の輿入れで外姻関係を結んでいた浅井家の降伏者は、そうした数少ない者たちだった。
主家から離れた遠縁の存在なればこそ、浅井家の遺臣の落胤(らくいん)だったおしょうは、彼らと同等に扱われた。
ただ、人らしい生活を送れるようになったのは、信長の信頼を得た御妻木に奉公してからである。
男であれば、槍働きや諸役の功績で昇進は可能だった。
しかし女はちがう。
下人であれば、食事から身支度まで、さまざまな雑務を行うのはもちろん、夜伽(よとぎ)を命じられることもある。
厚遇された大名の一族でさえ、「外交の道具」として育てられ、やがては政略結婚を強いられる時代の因果というべきか。
嫁ぎ先で元気な男児を生めなければ「生まず()」として正室を外され、場合によっては〝後難〟を理由に処分される。
(人生の岐路までもが御家に握られている)
 おしょうは(ふすま)を開けて広縁に出る。
傍に仕える下人は、主君のあらゆる捌け口となることを求められる。
それは男女を問わず、感情を殺さねばならないほどの苦しみにほかならない。それでも仕えた織田家は、他家より奔放さに満ちていた。
だからこそおしょうは留まった。
平等とまではいかなくとも、他を()いてまでのさばろうとする者は杭打たれるため、他国ほどの冷遇は受けなかったからだ。
それが今、壊れはじめている。
 数多の戦を経るうちに、在野の将を味方につけた織田家の多様性は増している。
 同時にそれは、「兵の数だけ言い分がある」と揶揄された膨大な人材を抱える組織体制を特徴付けたものであり、踏み誤れば烏合の衆に遂げる。
「結束が脆くなっているといいたいのですか」
指摘にむっとした御妻木も、それは感じていたはずだ。
ふとしたきっかけで衝突した今回の宗論は、水面下に潜んでいた家中の閨閥(けいばつ)を改めて意識させ、修復不可能な軋轢(あつれき)を随所にもたらしている。
身近な御妻木ですら、織田家の求心力について、危うさを孕んだ家中の懸念は示しつつ、明確な答えは避けている。それが実情なのだ。
 すべては宗論の残火なのか。
「足軽として織田に奉公する職人衆は、排外主義的な雰囲気にうんざりしたのでしょう。夜逃げ同然で他国に移り住む者が出ています」
人前で怒りをさらけ出すことは、これまで一度もなかった。
あれほど寿々に優しかった阿閉貞大も、西之御殿に通うあいだ、我が物顔で誹謗中傷をつづける家士への苛立ちを隠さない。
おしょうは石を受けた(ひさし)の残骸を拾うあいだ、暗く沈んだ。
あらたな屋根板を充てようにも、信長の目の届かない場所でおこなう者たちの破壊行動は鳴りやまない。
執拗なまでの衝突は、謹厳実直と評判だった織田家の信用を乏しめている。
それに拍車をかけたのが、法華宗と会話をしただけで弾圧する浄土信徒の嫌がらせに対し、正当防衛を掲げた禁止行為の折伏で応酬する法華信徒なのだから、もはや国家の安寧はどこにもないのかもしれない。
(こうした排撃はいつまでつづくのか)
おしょうはその日から寝られなくなった。
目を閉じれば夜陰が浮かび、ゆらめきに迫られる悪夢に(さいな)まれた。
何かの遠吠えで、ふと目を覚ます。
そんな夜が明けようと、夢の続きを歩いているような錯覚に陥った。
滅多にない主命が下されたのは、修繕していた下男の訴えから、追加の板材を城下の商人に買い求めた帰りだったか。
「謀反人の波多野秀治らを罪科に処すため、刑場に参れとの仰せにございます」
丹波平定に向かった惟任光秀は、天引峠から東の本梅城に八上城主らを誘い出し、ようやく首謀者を捕らえたらしい。
梟首の身柄は安土に送致されるため、処断の際は、縛した明智家の者が同席しなくてはならないという通達である。
「織田さまは『磔刑(たっけい)がいい』と仰せになられましたので、おそらくはそのような仕儀となるでしょう。相手は城持ちの将ゆえ、首化粧の準備をなされたほうがよろしいかと存じます」
「く、首化粧の支度を……」
勧めを受けた御妻木は、かるい眩暈(めまい)を起こした。
通常であれば、咎人は処刑時も衆目にさらされるが、将級はそのような扱いを受けることはない。
ましてや相手は一国一城の主である。
織田に謀反を起こした罪科こそあれ、投降で生きたまま捕らえられた以上、貴人として裁く。
それが織田を含めた氏族の流儀と心得る御妻木にとって、戦後処理の過程で行われる首実検の(なら)いとされた首化粧は、勝者の侍が敗者の魂を(おく)ってやるための死化粧という約款(やっかん)より、過去の戦と向き合う恐怖のほうが大きいらしい。
「首化粧だけは御免被ります」
布団に横たわる御妻木の意思表示も、普段であれば素直に見過ごしていたが、とてもそうした気持ちにはなれない。
「首化粧はわたしと志摩が行いますから、ご安心ください」
おしょうは主命には逆らえないと説得をつづけた。
御妻木の出席にこぎつけたのは、向夏にふさわしい犬蓼(いぬたで)の赤穂が並びはじめた、水無月の初旬。
坂本から送致された八上城主らが、安土山をのぼることなく寺院に移された日の朝だった。
折しもそれは、宗論の決戦地として示された、浄土宗の慈恩寺浄厳院だった。
「明智の者は、幔幕(まんまく)の外で待つようにとの仰せでございます」
おしょう達を乗せた輿が、勧請縄(かんじょうなわ)で囲まれた結界内に入ろうとしたところ、番兵の制止を受けた。
手柄を立てた惟任光秀の代理人である御妻木と、従者のおしょう・志摩は、婦女ゆえに刑場の立ち入りを禁じられている。
案内された日傘付きの板輿を御妻木に譲り、侍女らしく茣蓙(ござ)で待っていると、厚布越しの開始が伝えられた。
「両名の罪状を検める」
信長の「五郎左」という声が轟き、織田奉行衆の丹羽長秀とみられる声が取り次いだ。
「丹波多岐の八上城主、波多野秀治は天正四年(一五七六)の第一次黒井合戦において、恭順した織田家に謀反を起こしたばかりか、亡き丹波氷上の猛将、萩野直正と|合従連衡『がっしょうれんこう》し、味方であった明智軍の背後を()いて潰走させた。隣に控えた弟、波多野秀尚は兄秀治を補佐する腹心であり、反旗を翻した軍勢指揮を任され、今日(こんにち)に至る抵抗および丹波の国人衆を扇動した罪は、首謀者たる兄秀治と同義である」
丹羽長秀は罪状を読み上げたのち、「よって両名は、織田の家中軍法に則し、磔刑に処す」と言い放った。
瞬間、咎人とみられる波多野弟の怨嗟がきこえた。
「丹波多紀に良政を布いていたわれらが、奸計を用いた悪徒に滅されるとは……」
その声をかき消すように、磔柱を用意した下人の足摺(あしずり)は激しくなり、すぐに鎮静する。
遺す辞世はあるか。
丹羽長秀に告げられた波多野兄弟は、それぞれ一首を詠み上げた。

 よわりける こころの闇に 迷はねば

   いで物見せん のちの世にこそ
                                 秀治


おほけなき そらの恵みも 尽きしかど

   いかで忘れん  仇しひとをば
                                 秀尚


 二句が高らかとなった刑場は、因果に満ちていた。
波多野兄弟の身体を括りつけた磔柱が掘穴で起こされたのか、土を固める音がなくなった矢先、号令共々、見せ槍を披露する下人の叫びがこだました。
(しばら)く無音となったのち、人とはおもえない絶声がはじまった。
前方から貫かれる串刺の刑罰以上に、腋下(わきした)から心臓目掛けて素槍を突き刺す磔刑の苦しみは長い。
石突きが左右から肋骨の隙間を喰い破り、深々と入れたそれを引き抜かれては、再び抉り込まれる。
咆哮した誰かに屠られたとき、人は断末魔を上げるというが、そんなことはない。
反射の恐怖は上がろうと、徐々に、しかし確実に活気は殺がれていく。
声が消え入る寸前まで断罪の刺突は繰り返された。
御妻木はすでに恐懼(きょうく)していた。
布越しにそれを聞くおしょうもまた、震えは止まらなかった。
 かつてみた父の旧家──惨劇に遭った浅井の将兵たちがよみがえる。
雑兵に狩られた耳鼻の山積みされた荷車。
首桶一杯に溜まる土気色の顔。
血泥に塗れた目を見開く者たちの、凄烈な彼らの幻影に苛まれたおしょうは、恐怖のあまり、隣で悲鳴をあげたばかりの志摩から、番兵の応対を任されたことにも気づかない。
心を閉ざしたまま、投げられた委細に低頭してまもなく、首桶が二つ運ばれてくる。
「織田さまのはからいで、刑執行後に刎ねた首は、八上の城に届けることになった。明智の女衆は、即刻、首化粧にとりかかれとの仰せである」
番兵の置いた首桶の傍らには、防腐用の塩水を張った水桶が用意されている。
御妻木はすでに放心したのか、無言で首肯するばかりである。
「承知しました」
おしょうは憔悴した志摩をうながすと、御妻木に代わる者として、首桶に手を掛ける。
湿った風が吹き、母衣巻きの温みが鼻をつく。
おもわず御妻木は顔を背けるも、おしょうは端然と包みを折敷に載せていく。
丁寧に解いたところで結髷(ゆいまげ)をざんばらとし、毛髪と後頭を手で支え、首を塩水に漬けはじめる。
(これが明智を苦しめた八上の城主か)
肌髪の汚れを濯ぐなか、目を閉じた顔を眺める。
総大将と呼ばれた者は硬骨の徒が多かった。
おしょう自身、そうしたものとして教わってきたせいか、将たる人相は、威を備えたものと感じていた。
それだけに、眼前の顔には、奇妙な心地がする。
(一年余期にわたる籠城は、ここまで人を変えてしまうのか)
力強かった肉を失った輪郭は、骨筋ばかりを強調している。
(すす)げば濯ぐほど細髪は抜け落ち、水が黒くなるほど皮脂焼けた肌は、突き出した鼻はもとより、窪みから浮いた眼球を隠す(まぶた)憔念(しょうねん)を宿している。
時折、おぼつかない手際の志摩を助けつつ、おしょうは塩水から首を引き揚げる。
血を落としたそれを新たな母衣で清拭し、きりりと水を絞った髪を結い直しては、強張りを抑えるかたちで面を合わせる。
いにしえからの風習は、すでに朽ちている。
氏族の男児ともなれば、元服前に鉄漿始(かねはじめ)とよばれる儀式で、筆親に選ばれた者から鉄漿水で歯を黒く染められるのが定められている。
「首を洗って待っていろ」
いつからそれが侍たちのやりとりに表れたのか。
どこで首を討たれてもいいようにと、戦に駆り出されることが増えた将兵は、出陣前にはかならず薄化粧をする。鉄漿水で染めた歯黒は士分の身だしなみとして扱われ、長持ちするための工夫を凝らしていた。
 死出の戦を重ねたおしょうは、確かめた波多野の歯がみすぼらしい鉄漿染めとなっていたことに愕然とした。
純粋な衝撃だった。
それでも無言で首化粧用の鉄漿筆を手にとり、用意していた鉄漿壺の黒水をめくりあげた唇奥に走らせた。
しかしながら、揺れうごいた筆勢は戻らなかった。
ひと塗り、ひと塗りと、無常に腕を震わせるおしょうと志摩の脇で、念仏を唱えつづける御妻木の嗚咽もまた、変わることはない。
首桶で戦地から運ばれた遺首には感じられなかった。
処刑後の刎首がもつ非業は、鉄漿水を付けたこちらの腕を引いている。
やがてそれは、けたたましい蝉の声によって運ばれた。
「替えの母衣はございますか」
番兵に声をかけたとき、庫裏に植えられていた白銀草の穂が踊っている。
「何者だっ」
次の瞬間、番兵が誰何(すいか)するほどの(はや)さで刑場に立ち入る人影があった。
(惟任日向守さまだ──)
「お待ちください」という制止が出されたときには、その影はするりと幔幕を抜けている。
あまりの豪胆さに驚いたおしょうたちは勿論、張られた幔幕の四方を固めていた別の番兵までもが、行方を追ったさきで轟いた信長の立腹に蒼白する。
「無粋だな」
幔幕の隙間から覗いた刑場の中央には、織田信長と(かしず)く惟任光秀の二人がある。
突然の乱入者に「殿を御守りしろ」と騒いだ諸侯が慌てて平伏するなか、信長は惟任光秀を(ただ)しはじめる。
「波多野らの処分は安土で行うと伝えたはずだ。出仕の命は出しておらんぞ」
「その儀について、いささか手違いがございました」
「申せ」
頷いた惟任光秀は、丹波で捕らえた波多野兄弟を近江坂本に移送した際、坂本城代の伊勢貞興に死罪は待つよう言い含めたこと。また安土の移送を担った柴田勝定が、取次で聞き漏らした由を述べた。
「八上の城には、義弟の二階堂秀香が残っております。計略で捕らえた波多野兄弟の命と引き換えに開城をうながす手筈でしたが、処刑されたと知れば、ふたたび籠城策を採るでしょう。外では明智の女が首化粧をしておりましたが、御首を届けるつもりであれば、どうかお控えください」
「そのことか」
信長は床几を蹴って惟任光秀に近づいた。
「処断を決めたのは余だ。刎ねた御首は八上に送る」
いうなり「丹波平定は遠のくかもしれません」と(すが)る惟任光秀の肩を打った。
「思い上がるなよ。貴様が丹波攻めをしているあいだ、余は浅井・朝倉の遺臣どもを狩りつつ、甲斐の武田を抑えていた。権六は越後の上杉と干戈(かんか)を交え、三河どのは駿河の今川と相模の北条と対峙し、サルに至っては安芸の毛利を押し返している」
それらは全て、昨年秋に摂津で寝返った、荒木村重征伐の合間を縫ってのものだ。
冷然と撥ねたのち、信長は安土への護送で取次の不手際をとった柴田家定についても、越前の北ノ庄に居城を据えた権六こと柴田勝家との確執から、城代を辞して明智入りした経緯について、荊棘(けいきょく)に戒めた。
「済んだことは仕方あるまい。柴田は武門の家。一族を迎えたのなら、兵糧攻めで疲弊した八上を攻め落とせ」
「……吉報を届けに参ります」
激情を(こら)えた惟任光秀は刑場を離れはじめた。
その影が庫裏から消えようかという刹那、瞳だけがこちらを向いた。
哀憐であろうか。
滲んだ視線にさらされたおしょうは、逸らした目を折敷の首に落とした。
(八上の合戦が終われば、わたしは安土から坂本に移される)
預かりを申し出た御妻木に応じたとき、惟任光秀は迷っていた。
そのことを脇置いて生活していたとはいえ、安土に住む明智の一族郎党は少なく、御妻木自ら行わなくてはならない事情を鑑みたからこそ、おしょうは首化粧の役目を志願したのだ。
侍女として責務を全うした。
その姿を哀れむとは、どういう料簡(りょうけん)なのか。
引き()った志摩の表情がこちらに向けられようと、おしょうの怒りは収まらない。
浅井の臣だった父の面影は憶えていない。
それでも苦しみは痛感しているし、情けをかけられた百姓の娘である母が遺した真実も、忘れはしない。
(織田に降った明智十兵衛光秀という男は、父を死に追いやり、出家した母と姉の住んでいた尼寺を焼いたのだ)
御妻木と訪れた近江坂本の城で、おしょうは惟任光秀の秘密に気づいている。
仇敵の明智十兵衛光秀は、別の人物に変わっていた。
しかし織田信長は、影の者と知りながら、以前と変わらぬ体で重用している。
 織田にとって、〝惟任光秀〟はそれほど大事なのか。
偽善の瞳を向けるような男が。
「五郎左」
「は」
「光秀の書状が届いたのは昨夕だったな」
丹羽長秀に諮る信長が、書状の往還と現れた惟任光秀の行状を重ね、「供も待たず、丹波亀山から飛んで来おったわ」と放笑を上げたことにも虫唾(むしず)が走る。
(いや)しくも惟任光秀となったあの男は、近江坂本に迎えた自身をどう扱うのか。
情けに等しい優しさを向けようものなら、逆刃を立ててやる──織田に人生を狂わされたあげく、これから近江坂本で織田に媚び(へつら)う者の侍女となる。
それは明智家のためではない。
どん底から救い出してくれた御妻木に、わたしは仕えているのだ。
おしょうは物言わぬ波多野の当主と向き合う。
その日のうちに首桶は丹波に送られる。
数日後には、刑場の見聞にあった八上の籠城再開という報せを受ける。
「織田さまへの上申は不要です」
安土山の西之御殿で書状を示した御妻木は、信長に命じられた攻城を最小限に抑えた囲饒継続(いにょうけいぞく)を決した惟任光秀の葛藤を(おもんぱか)っていた。
「安土で磔刑に処された義兄らの首を届けられたことに最も憤慨したのは、懸念にあった二階堂秀香でした」
「波多野宗家に養子入りした三男ですね」
「ええ。非情に徹しきれなかった兄上の失態です」
御妻木はやりきれない表情だった。
波多野兄弟と二階堂秀香との絆は、想像を超える深さだった。
人質とした城主の切腹と引き換えに開城させようとした惟任光秀の願いはむなしく、首桶を届けた織田軍の降伏勧告に対する返答として、八上城内に留まっていた明智の使者数名──惟任光秀の生母らはすぐに捕らえられ、籠城する高城山中腹の滝池ちかくの松樹に括りつけられてまもなく、義兄らの受けた地獄を与えられた。
 波多野の遺臣によって執行された磔刑は、和睦と称した策謀で城主を殺害した織田への意趣返しだった。
殺された惟任光秀の生母にしても、本物ではなかった。
「兄上は母君を使者に出していません。それらしく仕立て上げられた下女の老女でしょう」
惟任光秀の生母はすでに他界していた。
勘のいい御妻木は、八上に籠城する敵の偽計と見抜いていた。
それでも「生母を犠牲としてまで武功をもとめた冷徹な将」との風説は、日を待たずに安土まで届くほど流布された。
「一生拭えぬ汚名を背負いました」
御妻木に宛てた惟任光秀の慚愧(ざんき)の念は、勝利を目前とした明智の気勢を挫いたことへの悔悟なのか。
やがて落日はおとずれた。
磔刑が行われてから二カ月が経過した八月某日。籠城の飢餓に耐えていた二階堂秀香ら遺臣は、昏迷からとうとう天守に火をかけて自刃した。
波多野兄弟の妹で、美貌と謳われた朝地姫が天守ちかくの溜め池に入水したのは、全軍突撃を敢行した明智の軍勢が主郭に迫り、高城山頂が炎に包まれたときだった。
「すぐにお助けしろッ」
織田に降った丹波の地侍のなかには、妻の兄だった荒木山城守の説得で八上の城を出た波々伯部光吉のように、かつての庇護から朝地姫を慕う者は少なくなかった。
攻城に向かった部隊の一部に乱れがあったのは、そのせいだろう。
明智が全軍につたえた令達でも、恣意行動は厳科に処すと明示したとはいえ、このときばかりは諸将も黙殺している。
のちに「朝地池」とよばれたその場所では、波状に結んだ攻囲の網を越えてまで突出した丹波の地侍が殺到し、死に物狂いで張りついては坂を転げ落ちると、儚すぎる姫君の短命に涙していた。
「いよいよですね」
形而的なやりとりに変化がみられた信長を思い返したのか、出仕の帰途で御妻木はそう投げている。
「陥落した八上の城は、丹波国衆の並河易家の家臣、明智掃部が城代として修築することが決まりました」
安土天守の本楼から西之御殿につながる土壇に差し掛かったときには、ようやく不倶戴天の敵城がなくなったと安堵している。
もっとも明智勢に息つく暇はない。
八上よりひと月早く陥落した宇津城主が若狭の方面に逃走したことから、追討令を受けた丹羽長秀の参陣が決まると、丹波国内における残存勢力の掃討作戦が展開されたからだ。
その先鞭をつけたのは、八上落城を受け、幼主の赤井直義と赤井忠家のまもる氷上黒井の城を落とした明智の与力衆、斉藤利三である。
「長年の苦労がようやく報われた」
高揚そのまま、氷上黒井の城代に任じられた斎藤家の啓達は、羨望をよこした丹波の地侍たちを鼓舞したのか。
御妻木から聞かされたおしょうは、喜びを分かち合う一方、複雑な胸中を明かすことはなかった。
それは六月末に播磨三木でおこった竹中重治の陣没影響から、丹波天田によこした兵を隣国の但馬に戻した羽柴秀長が戦線に復帰したことや、先月に行われた鬼箇城攻めの残党狩りでもなく、ましてや丹波天田の最要とみなされた丹波横山の城をまもる塩見氏の撃破でもない。
こころにあるのは、近江坂本への出仕の儀。
奪った天田横山の城が、羽柴軍から明智軍に譲渡され、福知山城と名を改められたことなど、おしょうにはどうでもよかった。
「明日から坂本で奉公することになりました」
西之御殿の者すべてに通達した日の夜、おしょうは下女を呼び出した。
目をこするように寝所から出てきたのは吉津だった。
朝倉家の滅亡で織田家の下人として雇われた彼女には、御妻木の奉公で初めて安土入りしたときから、何かと世話を焼いてもらっていた。
 いつからだろうか。
戦で親族を奪われ、身寄りのなくなった自身を陰で支えてくれた吉津に、本心をさらけだすようになったのは。
「ほんとうはこわいのです」
あくびをこらえた吉津が、無言でこちらを見た。伏し目となったおしょうは、|《とうとう》滔々と発する。
「この安土に侍女としてやってくる前、わたしは坂本で下女として働いていました。……たった数カ月なのに、とても長かった。侍も、女たちも、仕える誰もがわたしを『織田に歯向かった浅井の者』として蔑んでいた」
「…………」
「あの城にはなにもなかった。それにわたしのこころは、家族を奪ったあの御方を(ゆる)していない。それでも行くべきでしょうか」
 問い詰めた頬に涙が走る。
 織田家に対する憎悪のなかでも、郷里を焼き払った羽柴・明智への私怨は格別なもの。
しかし戦災孤児のあつまる小屋にいたところを御妻木に拾われた恩から、込み上げる怒りの処方に苦しんだ。
 坂本で気丈に振る舞えたのは、御妻木に対する信頼と、いずれは安土で侍女として仕えるとの約定が示されていたからだ。
(これから戻る坂本に安息はない)
図らずも「安らぎの地」の(いみな)をもつ安土は、荒んでいたおしょうを変えた。
刑場で覚えた怒りにしても、あのときほどではなかった。
それが坂本に戻ればどうなるのか。
おしょうは悲嘆の身を寄せる。
 嗚咽する童のように飛び込まれた吉津は、驚きをみせない。
何も言わず、黙って受けとめている。その温もりからはなされたときには、泣き腫らしたこちらに発している。
「城の外にも人はいる。侍女として胸を張れなくなったとき、彼らはあなたの支えになります」

土岐の鷹⑦

土岐の鷹⑦

侍女

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-12-28

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